海異記
泉鏡花



       一


 砂山を細く開いた、両方の裾すそが向いあって、あたかも二頭の恐しき獣の踞うずくまったような、もうちっとで荒海へ出ようとする、路みちの傍かたえに、崖がけに添うて、一軒漁師の小家こいえがある。

 崖はそもそも波というものの世を打ちはじめた昔から、がッきと鉄くろがねの楯たてを支ついて、幾億尋ひろとも限り知られぬ、潮うしおの陣を防ぎ止めて、崩れかかる雪のごとく鎬しのぎを削る頼母たのもしさ。砂山に生え交まじる、茅かや、芒すすきはやがて散り、はた年ごとに枯れ果てても、千代ちよ万代よろずよの末かけて、巌いわおは松の緑にして、霜にも色は変えないのである。

 さればこそ、松五郎。我が勇いさましき船頭は、波打際の崖をたよりに、お浪という、その美しき恋女房と、愛らしき乳児ちのみを残して、日ごとに、件くだんの門かどの前なる細路へ、衝つとその後姿、相対あいむかえる猛獣の間に突立つったつよと見れば、直ちに海原うなばらに潜くぐるよう、砂山を下りて浜に出て、たちまち荒海を漕こぎ分けて、飛ぶ鴎かもめよりなお高く、見果てぬ雲に隠るるので。

 留守はただ磯いそ吹く風に藻屑もくずの匂においの、襷たすきかけたる腕かいなに染むが、浜百合の薫かおりより、空燻そらだきより、女房には一際ひときわ床ゆかしく、小児こどもを抱いたり、頬摺ほおずりしたり、子守唄うとうたり、つづれさしたり、はりものしたり、松葉で乾物ひものをあぶりもして、寂しく今日を送る習い。

 浪の音には馴なれた身も、鶏とりの音ねに驚きて、児こと添臥そいぶしの夢を破り、門かど引ひきあけて隈くまなき月に虫の音の集すだくにつけ、夫恋しき夜半よわの頃、寝衣ねまきに露を置く事あり。もみじのような手を胸に、弥生やよいの花も見ずに過ぎ、若葉の風のたよりにも艪ろの声にのみ耳を澄ませば、生憎あやにく待たぬ時鳥ほととぎす。鯨の冬の凄すさまじさは、逆巻き寄する海の牙きばに、涙に氷る枕まくらを砕いて、泣く児を揺ゆするは暴風雨あらしならずや。

 母は腕かいなのなゆる時、父は沖なる暗夜の船に、雨と、波と、風と、艪と、雲と、魚と渦巻く活計なりわい。

 津々浦々到る処、同じ漁師の世渡りしながら、南は暖あたたかに、北は寒く、一条路ひとすじみちにも蔭日向かげひなたで、房州も西向にしむきの、館山たてやま北条とは事かわり、その裏側なる前原、鴨川かもがわ、古川、白子しらこ、忽戸ごっとなど、就中なかんずく、船幽霊ふなゆうれいの千倉が沖、江見和田などの海岸は、風に向いたる白帆の外には一重ひとえの遮るものもない、太平洋の吹通し、人も知ったる荒磯海ありそうみ。

 この一軒屋は、その江見の浜の波打際に、城の壁とも、石垣とも、岸を頼んだ若木の家造やづくり、近ごろ別家をしたばかりで、葺ふいた茅かやさえ浅みどり、新藁しんわらかけた島田が似合おう、女房は子持ちながら、年紀としはまだ二十二三。

 去年ちょうど今時分、秋のはじめが初産ういざんで、お浜といえば砂いさごさえ、敷妙しきたえの一粒種ひとつぶだね。日あたりの納戸に据えた枕蚊帳まくらがやの蒼あおき中に、昼の蛍の光なく、すやすやと寐入ねいっているが、可愛らしさは四辺あたりにこぼれた、畳も、縁も、手遊おもちゃ、玩弄物おもちゃ。

 犬張子いぬはりこが横に寝て、起上り小法師こぼしのころりと坐すわった、縁台に、はりもの板を斜めにして、添乳そえぢの衣紋えもんも繕わず、姉あねさんかぶりを軽かろくして、襷たすきがけの二の腕あたり、日ざしに惜気おしげなけれども、都育ちの白やかに、紅絹もみの切きれをぴたぴたと、指を反らした手の捌さばき、波の音のしらべに連れて、琴の糸を辿たどるよう、世帯染みたがなお優しい。

 秋日和の三時ごろ、人の影より、黍きびの影、一つ赤蜻蛉あかとんぼの飛ぶ向うの畝あぜを、威勢の可いい声。

「号外、号外。」


       二


「三ちゃん、何の号外だね、」

 と女房は、毎日のように顔を見る同じ漁場りょうばの馴染なじみの奴やっこ、張はりものにうつむいたまま、徒然つれづれらしい声を懸ける。

 片手を懐中ふところへ突込つっこんで、どう、してこました買喰かいぐいやら、一番蛇を呑のんだ袋を懐中ふところ。微塵棒みじんぼうを縦にして、前歯でへし折って噛かじりながら、縁台の前へにょっきりと、吹矢が当って出たような福助頭に向う顱巻はちまき。少兀すこはげの紺の筒袖つつそで、どこの媽々衆かかあしゅうに貰もらったやら、浅黄あさぎの扱帯しごきの裂けたのを、縄に捩よった一重ひとえまわし、小生意気に尻下しりさがり。

 これが親仁おやじは念仏爺ねんぶつじじいで、網の破れを繕ううちも、数珠じゅずを放さず手にかけながら、葎むぐらの中の小窓の穴から、隣の柿の木、裏の屋根、烏をじろりと横目に覗のぞくと、いつも前はだけの胡坐あぐらの膝ひざへ、台尻重く引つけ置く、三代相伝の火縄銃、のッそりと取上げて、フッと吹くと、ぱッと立つ、障子のほこりが目に入って、涙は出ても、狙ねらいは違えず、真黒まっくろな羽をばさりと落して、奴やっこ、おさえろ、と見向みむきもせず、また南無阿弥陀なむあみだで手内職。

 晩のお菜かずに、煮たわ、喰ったわ、その数三万三千三百さるほどに爺じいの因果が孫に報むくって、渾名あだなを小烏こがらすの三之助、数え年十三の大柄な童わっぱでござる。

 掻垂かきたれ眉を上と下、大きな口で莞爾にっこりした。

「姉様あねさん、己おらの号外だよ。今朝、号外に腹が痛んだで、稲葉丸さ号外になまけただが、直きまた号外に治っただよ。」

「それは困ったねえ、それでもすっかり治ったの。」と紅絹切もみぎれの小耳を細かく、ちょいちょいちょいと伸のばしていう。

「ああ号外だ。もう何ともありやしねえや。」

「だって、お前さん、そんなことをしちゃまたお腹が悪くなるよ。」

「何をよ、そんな事ッて。なあ、姉様あねさん、」

「甘いものを食べてさ、がりがり噛かじって、乱暴じゃないかねえ。」

「うむ、これかい。」

 と目を上うわざまに細うして、下唇をぺろりと嘗なめた。肩も脛すねも懐も、がさがさと袋を揺ゆすって、

「こりゃ、何よ、何だぜ、あのう、己おらが嫁さんに遣やろうと思って、姥おんばが店で買って来たんで、旨うまそうだから、しょこなめたい。たった一ツだな。みんな嫁さんに遣るんだぜ。」

 とくるりと、はり板に並んで向むきをかえ、縁側に手を支ついて、納戸の方を覗のぞきながら、

「やあ、寝てやがら、姉様あねさん、己おらが嫁さんは寝ねんねかな。」

「ああ、今しがた昼寝をしたの。」

「人情がないぜ、なあ、己おらが旨いものを持って来るのに。

 ええ、おい、起きねえか、お浜ッ児こ。へ、」

 とのめずるように頸うなじを窘すくめ、腰を引いて、

「何にもいわねえや、蠅はえばかり、ぶんぶんいってまわってら。」

「ほんとに酷ひどい蠅ねえ、蚊が居なくッても昼間だって、ああして蚊帳へ入れて置かないとね、可哀かわいそうなように集たかるんだよ。それにこうやって糊のりがあるもんだからね、うるさいッちゃないんだもの。三ちゃん、お前さんの許とこなんぞも、やっぱりこうかねえ、浜へはちっとでも放れているから、それでも幾干いくらか少なかろうねえ。」

「やっぱり居ら、居るどころか、もっと居ら、どしこと居るぜ。一つかみ打捕ふんづかめえて、岡田螺おかだにしとか何とかいって、お汁つけの実にしたいようだ。」

 とけろりとして真顔にいう。


       三


 こんな年していうことの、世帯じみたも暮向くらしむき、塩焼く煙も一列ひとつらに、おなじ霞かすみの藁屋わらや同士と、女房は打微笑うちほほえみ、

「どうも、三ちゃん、感心に所帯じみたことをおいいだねえ。」

 奴やっこは心づいて笑い出し、

「ははは、所帯じみねえでよ、姉あねさん。こんのお浜ッ子が出来てから、己おらなりたけ小遣こづかいはつかわねえ。吉や、七と、一銭いちもんこを遣やってもな、大事に気をつけてら。玩弄物おもちゃだのな、飴あめだのな、いろんなものを買って来るんだ。」

 女房は何となく、手拭てぬぐいの中うちに伏目ふしめになって、声の調子も沈みながら、

「三ちゃんは、どうしてそんなだろうねえ。お前さんぐらいな年紀恰好としかっこうじゃ、小児こどもの持っているものなんか、引奪ひったくっても自分が欲ほしい時だのに、そうやってちっとずつ皆みんなから貰もらうお小遣で、あの児こに何か買ってくれてさ。姉ねえさん、しみじみ嬉しいけれど、ほんとに三ちゃん、お前さん、お食あがりなら可いい、気の毒でならないもの。」

 奴やっこは嬉しそうに目を下げて、

「へへ、何、ねえだよ、気の毒な事はちっともねえだよ。嫁さんが食べる方が、己おらが自分で食べるより旨うまいんだからな。」

「あんなことをいうんだよ。」

 と女房は顔を上げて莞爾にっこりと、

「何て情があるんだろう。」

 熟じっと見られて独ひとりで頷うなずき、

「だって、男は誰でもそうだぜ。兄哥あにやだってそういわあ。船で暴風雨あらしに濡れてもな、屋根代の要らねえ内で、姉あねさんやお浜ッ児こが雨露に濡れねえと思や、自分が寒い気はしねえとよ。」

「嘘ばッかり。」

 と対手あいてが小児こどもでも女房は、思わずはっと赧あからむ顔。

「嘘じゃねえだよ、その代かわりにゃ、姉さんもそうやって働いてるだ。

 なあ姉さん、己おらが嫁さんだって何だぜ、己が漁に出掛けたあとじゃ、やっぱり、張はりものをしてくんねえじゃ己厭いやだぜ。」

「ああ、しましょうとも、しなくってさ、おほほ、三ちゃん、何を張るの。」

「え、そりゃ、何だ、またその時だ、今は着たッきりで何にもねえ。」

 と面くらった身のまわり、はだかった懐中ふところから、ずり落ちそうな菓子袋を、その時縁へ差置くと、鉄砲玉が、からからから。

「号外、号外ッ、」と慌あわただしく這身はいみで追掛けて平手で横ざまにポンと払はたくと、ころりとかえるのを、こっちからも一ツ払いて、くるりとまわして、ちょいとすくい、

「は、」

 とかけ声でポンと口。

「おや、御馳走様ごちそうさまねえ。」

 三之助はぐッと呑のんで、

「ああ号外、」と、きょとりとする。

 女房は濡れた手をふらりとさして、すッと立った。

「三ちゃん。」

「うむ、」

「お前さん、その三尺は、大層色気があるけれど、余りよれよれになったじゃないか、ついでだからちょいとこの端へはっておいて上げましょう。」

「何こんなものを。」

 とあとへ退すさり、

「いまに解きます繻子しゅすの帯……」

 奴やっこは聞き覚えの節になり、中音でそそりながら、くるりと向うむきになったが早いか、ドウとしたたかな足踏あしぶみして、

「わい!」

 日向ひなたへのッそりと来た、茶の斑犬ぶちが、びくりと退すさって、ぱっと砂、いや、その遁にげ状ざまの慌あわただしさ。


       四


「状ざまを見ろ、弱虫め、誰だと思うえ、小烏の三之助だ。」

 と呵々からからと笑って大得意。

「吃驚びっくりするわね、唐突だしぬけに怒鳴ってさ、ああ、まだ胸がどきどきする。」

 はッと縁側に腰をかけた、女房は草履の踵かかとを、清くこぼれた褄つまにかけ、片手を背後うしろに、あらぬ空を視ながめながら、俯向うつむき通しの疲れもあった、頻しきりに胸を撫擦なでさする。

「姉あねさんも弱虫だなあ。東京から来て大尽のお邸やしきに、褄を引摺ひきずっていたんだから駄目だ、意気地はねえや。」

 女房は手拭を掻かい取ったが、目まぶちのあたりほんのりと、逆上のぼせた耳にもつれかかる、おくれ毛を撫でながら、

「厭いやな児こだよ、また裾すそを、裾をッて、お引摺りのようで人聞きが悪いわね。」

「錦絵にしきえの姉様あねさまだあよ、見ねえな、皆みんな引摺ってら。」

「そりゃ昔のお姫様さ。お邸は大尽の、稲葉様の内だって、お小間づかいなんだもの、引摺ってなんぞいるものかね。」

「いまに解きます繻子しゅすの帯とけつかるだ。お姫様だって、お小間使だって、そんなことは構わねえけれど、船頭のおかみさんが、そんな弱虫じゃ不可いけねえや、ああ、お浜ッ児こはこうは育てたくないもんだ。」と、機械があって人形の腹の中で聞えるような、顔には似ない高慢さ。

 女房は打笑みつつ、向直って顔を見た。

「ほほほ、いうことだけ聞いていると、三ちゃんは、大層強そうだけれど、その実意気地なしッたらないんだもの、何よ、あれは?」

「あれはッて?」と目をぐるぐる。

「だって、源次さん千太さん、理右衛門爺りえもんじいさんなんかが来ると……お前さん、この五月ごろから、粋いきな小烏といわれないで、ベソを掻いた三之助だ、ベソ三だ、ベソ三だ。ついでに鯔ぼらと改名しろなんて、何か高慢な口をきく度に、番ごと籠こめられておいでじゃないか。何でも、恐こわいか、辛いかしてきっと沖で泣いたんだよ。この人は、」とおかしそうに正向まむきに見られて、奴やっこは、口をむぐむぐと、顱巻はちまきをふらりと下げて、

「へ、へ、へ。」と俯向いて苦笑い。

「見たが可いい、ベソちゃんや。」

 と思わず軽く手をたたく。

「だって、だって、何だ、」

 と奴やっこは口惜くやしそうな顔色で、

「己おらぐらいな年紀としで、鮪船まぐろぶねの漕こげる奴やつは沢山たんとねえぜ。

 ここいらの鼻垂はなったらしは、よう磯いそだって泳げようか。たかだか堰せきでめだかを極きめるか、古川の浅い処で、ばちゃばちゃと鮒ふなを遣やるだ。

 浪打際といったって、一畝ひとうねり乗って見ねえな、のたりと天上まで高くなって、嶽たけの堂は目の下だ。大風呂敷の山じゃねえが、一波越すと、谷底よ。浜も日本も見えやしねえで、お星様が映りそうで、お太陽様てんとうさまは真蒼まっさおだ。姉あねさん、凪なぎの可いい日でそうなんだぜ。

 処を沖へ出て一つ暴風雨しけと来るか、がちゃめちゃの真暗まっくらやみで、浪だか滝だか分らねえ、真水と塩水をちゃんぽんにがぶりと遣っちゃ、あみの塩からをぺろぺろとお茶の子で、鼻唄を唄うんだい、誰が沖へ出てベソなんか。」

 と肩を怒らして大手を振った、奴やっこ、おまわりの真似まねして力む。

「じゃ、何なんだって、何だってお前、ベソ三なの。」

「うん、」

 たちまち妙な顔、けろけろと擬勢の抜けた、顱巻はちまきをいじくりながら、

「ありゃね、ありゃね、へへへ、号外だ、号外だ。」


       五


「あれさ、ちょいと、用がある、」

 と女房は呼止める。

 奴やっこは遁にげ足を向うのめりに、うしろへ引かれた腰附こしつきで、

「だって、号外が忙しいや。あ、号外ッ、」

「ちょいと、あれさ、何だよ、お前、お待まちッてばねえ。」

 衝つと身を起こして追おうとすると、奴やっこは駈出かけだした五足いつあしばかりを、一飛びに跳ね返って、ひょいと踞しゃがみ、立った女房の前垂まえだれのあたりへ、円い頤あご、出額おでこで仰いで、

「おい、」という。

 出足へ唐突だしぬけに突屈つッかがまれて、女房の身は、前へしないそうになって蹌踉よろめいた。

「何だねえ、また、吃驚びっくりするわね。」

「へへへ、番ごとだぜ、弱虫やい。」

「ああ、可いいよ、三ちゃんは強うございますよ、強いからね、お前は強いからそのベソを掻いたわけをお話しよ。」

「お前は強いからベソを掻いたわけ、」と念のためいってみて、瞬またたきした、目が渋そう。

「不可いけねえや、強いからベソをなんて、誰が強くってベソなんか掻くもんだ。」

「じゃ、やっぱり弱虫じゃないか。」

「だって姉あねさん、ベソも掻かざらに。夜一夜よっぴて亡念の火が船について離れねえだもの。理右衛門りえむなんざ、己おらがベソをなんていう口で、ああ見えてその時はお念仏唱えただ。」と強がりたさに目を睜みはる。

 女房はそれかあらぬか、内々危あやぶんだ胸へひしと、色変るまで聞咎ききとがめ、

「ええ、亡念の火が憑ついたって、」

「おっと、……」

 とばかり三之助は口をおさえ、

「黙ろう、黙ろう、」と傍わきを向いた、片頬かたほに笑えみを含みながら吃驚びっくりしたような色である。

 秘かくすほどなお聞きたさに、女房はわざとすねて見せ、

「可いいとも、沢山たんとそうやってお秘しな。どうせ、三ちゃんは他人だから、お浜の婿さんじゃないんだから、」

 と肩を引いて、身を斜め、捩ねじり切りそうに袖そでを合わせて、女房は背向そがいになンぬ。

 奴やっこは出る杭くいを打つ手つき、ポンポンと天窓あたまをたたいて、

「しまった! 姉あねさん、何も秘すというわけじゃねえだよ。

 こんの兄哥あにきもそういうし、乗組んだ理右衛門徒でええも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖こわがるッていうからよ。」

「だから、皆みんなで秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可いじゃないかね。」

「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌しゃべったって、皆みんなにいっちゃ不可いけねえだぜ。」

「誰が、そんなことをいうもんですか。」

「お浜ッ児こにも内証だよ。」

 と密そっと伸上ってまた縁側から納戸の母衣蚊帳ほろがやを差覗さしのぞく。

「嬰児あかんぼが、何を知ってさ。」

「それでも夢に見て魘うなされら。」

「ちょいと、そんなに恐怖こわい事なのかい。」と女房は縁の柱につかまった。

「え、何、おらがベソを掻いて、理右衛門が念仏を唱えたくらいな事だけんども。そら、姉あねさん、この五月、三日流しの鰹船かつおぶねで二晩沖で泊ったっけよ。中の晩の夜中の事だね。

 野だも山だも分ンねえ、ぼっとした海の中で、晩おそめに夕飯を食ったあとでよ。

 昼間ッからの霧雨がしとしと降りになって来たで、皆みんな胴の間まへもぐってな、そん時に千太どんが漕こがしっけえ。

 急に、おお寒い、おお寒い、風邪かぜ揚句あげくだ不精しょう。誰ぞかわんなはらねえかって、艫ともからドンと飛下りただ。

 船はぐらぐらとしただがね、それで止まるような波じゃねえだ。どんぶりこッこ、すっこッこ、陸おかへ百里やら五十里やら、方角も何も分らねえ。」

 女房は打頷うちうなずいた襟さみしく、乳ちの張る胸をおさえたのである。


       六


「晩飯の菜に、塩からさ嘗なめ過ぎた。どれ、糠雨ぬかあめでも飲むべい、とってな、理右衛門りえむどんが入交いれかわって漕こがしつけえ。

 や、おぞいな千太、われ、えてものを見て逃げたな。と艫ともで爺じッさまがいわっしゃるとの、馬鹿いわっしゃい、ほんとうに寒気がするだッて、千太は天窓あたまから褞袍どてら被かぶってころげた達磨だるまよ。

 ホイ、ア、ホイ、と浪の中で、幽かすかに呼ばる声がするだね。

 どこからだか分ンねえ、近いようにも聞えれば、遠いようにも聞えるだ。

 来やがった、来やがった、陽気が悪いとおもったい! おらもどうも疝気せんきがきざした。さあ、誰ぞ来てやってくれ、ちっと踞しゃがまねえじゃ、筋張ってしょ事がない、と小半時こはんときでまた理右衛門爺じいさまが潜っただよ。

 われ漕こげ、頭痛だ、汝きさま漕げ、脚気かっけだ、と皆みんな苦い顔をして、出人でてがねえだね。

 平胡坐ひらあぐらでちょっと磁石さ見さしつけえ、此こ家この兄哥あにやが、奴やっこ、汝てめえ漕げ、といわしったから、何の気もつかねえで、船で達者なのは、おらばかりだ、おっとまかせ。」と、奴やっこは顱巻はちまきの輪を大きく腕いっぱいに占める真似して、

「いきなり艫ともへ飛んで出ると、船が波の上へ橋にかかって、雨で辷すべるというもんだ。

 どッこいな、と腰を極きめたが、ずッしりと手答えして、槻けやきの大木根こそぎにしたほどな大おおきい艪ろの奴やつ、のッしりと掻いただがね。雨がしょぼしょぼと顱巻に染みるばかりで、空だか水だか分らねえ。はあ、昼間見る遠い処の山の上を、ふわふわと歩行あるくようで、底が轟々ごうごうと沸にえくり返るだ。

 ア、ホイ、ホイ、アホイと変な声が、真暗まっくらな海にも隅があってその隅の方から響いて来ただよ。

 西さ向けば、西の方、南さ向けば南の方、何でもおらがの向いた方で聞えるだね。浪の畝うねると同一おんなじに声が浮いたり沈んだり、遠くなったりな、近くなったり。

 その内ぼやぼやと火が燃えた。船から、沖へ、ものの十四五町と真黒まっくろな中へ、ぶくぶくと大きな泡が立つように、ぼッと光らあ。

 やあ、火が点ともれたいッて、おらあ、吃驚びっくりして喚わめくとな、……姉あねさん。」

「おお、」と女房は変った声音こわね。

「黙って、黙って、と理右衛門爺さまが胴の間まで、苫とまの下でいわっしゃる。

 また、千太がね、あれもよ、陸おかの人魂ひとだまで、十五の年まで見ねえけりゃ、一生逢あわねえというんだが、十三で出っくわした、奴やつは幸福しあわせよ、と吐こくだあね。

 おらあ、それを聞くと、艪ろづかを握った手首から、寒くなったあ。」

「……まあ、厭いやじゃないかね、それでベソを掻いたんだね、無理はないよ、恐怖こわいわねえ。」

 とおくれ毛を風に吹かせて、女房も悚然ぞっとする。奴やっこの顔色、赤蜻蛉あかとんぼ、黍きびの穂も夕づく日。

「そ、そんなくれえで、お浜ッ児この婿さんだ、そんなくれえでベソなんか掻くべいか。

 炎というだが、変な火が、燃え燃え、こっちへ来そうだで、漕ぎ放すべいと艪をおしただ。

 姉さん、そうすると、その火がよ、大方浪の形かただんべい、おらが天窓あたまより高くなったり、船底へ崖がけが出来るように沈んだり、ぶよぶよと転げやあがって、船脚へついて、海蛇ののたくるようについて来るだ。」

「………………」

「そして何よ、ア、ホイ、ホイ、アホイと厭な懸声がよ、火の浮く時は下へ沈んで、火の沈む時は上へ浮いて、上下うえしたに底澄そこずんで、遠いのが耳について聞えるだ。」


       七


「何でも、はあ、おらと同じように、誰かその、炎さ漕こいで来るだがね。

 傍そばへ来られてはなんねえだ、と艪ろづかを刻んで、急いでしゃくると、はあ、不可いけねえ。

 向うも、ふわふわと疾はやくなるだ。

 こりゃ、なんねえ、しょことがない、ともう打うっちゃらかして、おさえて突立つったってびくびくして見ていたらな。やっぱりそれでも、来やあがって、ふわりとやって、鳥のように、舳へさきの上へ、水際さ離れて、たかったがね。一あたり風を食って、向うへ、ぶくぶくとのびたっけよ。またいびつ形なりに円くなって、ぼやりと黄色い、薄濁りの影がさした。大きな船は舳から胴の間へかけて、半分ばかり、黄色くなった。婦人おんながな、裾すそを拡げて、膝ひざを立てて、飛乗った形だっけ。一ぱし大きさも大きいで、艪が上って、向うへ重くなりそうだに、はや他愛もねえ軽いのよ。

 おらあ、わい、というて、艪を放した。

 そん時だ、われの、顔は真蒼まっさおだ、そういう汝おめえの面つらは黄色いぜ、と苫とまの間で、てんでんがいったあ。──あやかし火が通ったよ。

 奴やっこ、黙って漕げ、何ともするもんじゃねえッて、此家こんの兄哥あにやが、いわっしゃるで、どうするもんか。おら屈かがんでな、密そっとその火を見てやった。

 ぼやりと黄色な、底の方に、うようよと何か動いてけつから。」

「えッ、何さ、何さ、三ちゃん、」と忙せわしく聞いて、女房は庇ひさしの陰。

 日向ひなたの奴やっこも、暮れかかる秋の日の黄ばんだ中に、薄黒くもなんぬるよ。

「何だかちっとも分らねえが、赤目鰒あかめふぐの腸はらわたさ、引ずり出して、たたきつけたような、うようよとしたものよ。

 どす赤いんだの、うす蒼あおいんだの、にちにち舳みよしの板にくッついているようだっけ。

 すぽりと離れて、海へ落ちた、ぐるぐると廻っただがな、大のしに颯さっとのして、一浪ひとなみで遠くまで持って行った、どこかで魚うおの目が光るようによ。

 おらが肩も軽くなって、船はすらすらと辷すべり出した。胴の間じゃ寂ひっそりして、幽かに鼾いびきも聞えるだ。夜は恐ろしく更けただが、浪も平たいらになっただから、おらも息を吐ついたがね。

 えてものめ、何が息を吐かせべい。

 アホイ、アホイ、とおらが耳の傍はたでまた呼ばる。

 黙って漕げ、といわっしゃるで、おらは、スウとも泣かねえだが、腹の中で懸声さするかと思っただよ。

 厭いやだからな、聞くまいとして頭あ掉ふって、耳を紛らかしていたっけが、畜生、船に憑ついて火を呼ぶだとよ。

 波が平たいらだで、なおと不可いけねえ。火の奴やつめ、苦なしでふわふわとのしおった、その時は、おらが漕いでいる艪の方へさ、ぶくぶくと泳いで来たが、急にぼやっと拡がった、狸の睾丸きんたま八畳敷はちじょうじきよ。

 そこら一面、波が黄色に光っただね。

 その中に、はあ、細長い、ぬめらとした、黒い島が浮いたっけ。

 あやかし火について、そんな晩は、鮫さめの奴が化けるだと……あとで爺じいさまがいわしった。

 そういや、目だっぺい。真赤まっかな火が二つ空を向いて、その背中の突先とっさきに睨にらんでいたが、しばらくするとな。いまの化鮫ばけざめめが、微塵みじんになったように、大きい形はすぽりと消えて、百とも千とも数を知れねえ、いろんな魚うおが、すらすらすらすら、黄色な浪の上を渡りおったが、化鮫めな、さまざまにして見せる。唐からの海だか、天竺てんじくだか、和蘭陀オランダだか、分ンねえ夜中だったけが、おらあそんな事で泣きやしねえ。」と奴やっこは一息に勇んでいったが、言ことばを途切らし四辺あたりを視ながめた。

 目の前なる砂山の根の、その向き合える猛獣は、薄すすきの葉とともに黒く、海の空は浪の末に黄をぼかしてぞ紅くれないなる。


       八


「そうする内に、またお猿をやって、ころりと屈かがんだ人間ぐれえに縮かまって、そこら一面に、さっと暗くなったと思うと、あやし火の奴やつめ、ぶらぶらと裾すそに泡を立てて、いきをついて畝うねって来て、今度はおらが足の舵かじに搦からんで、ひらひらと燃えただよ。

 おらあ、目を塞いだが、鼻の尖さきだ。艫ともへ這上はいあがりそうな形よ、それで片っぺら燃えのびて、おらが持っている艪ろをつかまえそうにした時、おらが手は爪の色まで黄色くなって、目の玉もやっぱりその色に染まるだがね。だぶりだぶり舷ふなべりさ打つ波も船も、黄色だよ。それでな、姉あねさん、金色になって光るなら、金かねの船で大丈夫というもんだが、あやかしだからそうは行かねえ。

 時々煙けむのようになって船の形が消えるだね。浪が真黒まっくろに畝ってよ、そのたびに化物め、いきをついてまた燃えるだ。

 おら一生懸命に、艪で掻かきのめしてくれたけれど、火の奴は舵にからまりくさって、はあ、婦人おんなの裾が巻きついたようにも見えれば、爺じじいの腰がしがみついたようでもありよ。大きい鮟鱇あんこうが、腹の中へ、白張提灯しらはりぢょうちん鵜呑うのみにしたようにもあった。

 こん畜生、こん畜生と、おら、じだんだを蹈ふんだもんだで、舵へついたかよ、と理右衛門爺りえむじいさまがいわっしゃる。ええ、引ひっからまって点ともれくさるだ、というたらな。よくねえな、一あれ、あれようぜ、と滅入めいった声で松公がそういっけえ。

 奴やっこや。

 ひゃあ。

 そのあやし火の中を覗のぞいて見ろい、いかいこと亡者もうじゃが居らあ、地獄の状さまは一見えだ、と千太どんがいうだあね。

 小児こどもだ、馬鹿をいうない、と此こ家この兄哥あにやがいわしっけ。

 おら堪たまんなくなって、ベソを掻き掻き、おいおい恐怖こわくって泣き出したあだよ。」

 いわれはかくと聞えたが、女房は何にもいわず、唇の色が褪あせていた。

「苫とまを上げて、ぼやりと光って、こんの兄哥の形がな、暗中くらやみへ出さしった。

 おれに貸せ、奴やっこ寝ろい。なるほどうっとうしく憑つきやあがるッて、ハッと掌てのひらへ呼吸いきを吹かしったわ。

 一しけ来るぞ、騒ぐな、といって艪づかさ取って、真直まっすぐに空を見さしったで、おらも、ひとりでにすッこむ天窓あたまを上げて視ながめるとな、一面にどす赤く濁って来ただ。波は、そこらに真黒まっくろな小山のような海坊主が、かさなり合って寝てるようだ。

 おら胴の間へ転げ込んだよ。ここにもごろごろと八九人さ、小さくなってすくんでいるだね。

 どこだも知んねえ海の中に、船さただ一艘そうで、目の前さ、化物に取巻かれてよ、やがて暴風雨あらしが来ようというだに、活いきて働くのはこんの兄哥、ただ一人だと思や心細いけんどもな、兄哥は船頭、こんな時のお船頭だ。」

 女房は引入れられて、

「まあ、ねえ、」とばかり深い息。

 奴やっこは高慢に打傾き、耳に小さな手を翳かざして、

「轟ごう──とただ鳴るばかりよ、長延寺様さ大釣鐘を半日天窓あたまから被かぶったようだね。

 うとうととこう眠ったっぺ。相撲を取って、ころり投げ出されたと思って目さあけると、船の中は大水だあ。あかを汲くみ出せ、大変だ、と船も人もくるくる舞うだよ。

 苫とまも何も吹飛ばされた、恐しい音ばかりで雨が降るとも思わねえ、天窓あたまから水びたり、真黒な海坊主め、船の前へも後へも、右へも左へも五十三十。ぬくぬくと肩さ並べて、手を組んで突立つったったわ、手を上げると袖の中から、口い開あくと咽喉のどから湧わいて、真白まっしろな水柱みずばしらが、から、倒さかさまにざあざあと船さ目がけて突蒐つっかかる。

 アホイ、ホイとどこだやら呼ばる声さ、あちらにもこちらにも耳について聞えるだね。」


       九


「その時さ、船は八丁艪はっちょうろになったがな、おららが呼ばる声じゃねえだ。

 やっぱりおなじ処に、舵かじについた、あやし火のあかりでな、影のような船の形が、薄ぼんやり、鼠色して煙けむが吹いて消える工合ぐあいよ、すッ飛んじゃするすると浮いて行ゆく。

 難有ありがてえ、島が見える、着けろ着けろ、と千太が喚わめく。やあ、どこのか船も漕こぎつけた、島がそこに、と理右衛門爺りえむじいさま。直じきさそこに、すくすくと山の形さあらわれて、暗やみの中突貫つきぬいて大幅な樹の枝が、潵のあいだに揺ゆすぶれてな、帆柱さ突立つったって、波の上を泳いでるだ。

 血迷ったかこいつら、爺様までが何をいうよ、島も山も、海の上へ出たものは石塊いしころ一ツある処じゃねえ。暗礁かくれいわへ誘い寄せる、連つれを呼ぶ幽霊船ゆうれいぶねだ。気を確たしかに持たっせえ、弱い音ねを出しやあがるなッて、此家こんの兄哥あにやが怒鳴るだけんど、見す見す天竺てんじくへ吹き流されるだ、地獄の土でも構わねえ、陸おかへ上あがって呼吸いきが吐つきたい、助け船──なんのって弱い音さ出すのもあって、七転八倒するだでな、兄哥真直まっすぐに突立って、ぶるッと身震みぶるいをさしっけえよ、突然いきなり素裸すっぱだかになっただね。」

「内の人が、」と声を出して、女房は唾つを呑のんだ。

「兄哥あにやがよ。おい。

 あやかし火さ、まだ舵に憑ついて放れねえだ、天窓あたまから黄色に光った下腹へな、鮪縄まぐろなわさ、ぐるぐると巻きつけて、その片端かたはじを、胴の間の横木へ結ゆわえつけると、さあ、念ばらしだ、娑婆しゃばか、地獄か見届けて来るッてな、ここさ、はあ、こんの兄哥あにやが、渾名あだなに呼ばれた海雀うみすずめよ。鳥のようにびらりと刎はねたわ、海の中へ、飛込むでねえ──真白まっしろな波のかさなりかさなり崩れて来る、大きな山へ──駈上かけあがるだ。

 百尋ひゃくひろばかり束つかね上げた鮪縄の、舷ふなべりより高かったのがよ、一掬ひとすくいにずッと伸のした! その、十丈、十五丈、弓なりに上から覗のぞくのやら、反りかえって、睨にらむのやら、口さあげて威おどすのやら、蔽おおわりかかって取り囲んだ、黒坊主の立たちはだかっている中へ浪に揉もまれて行かしっけえ、船の中ではその綱を手ン手に取って、理右衛門爺さま、その時にお念仏だ。

 やっと時が立って戻ってござった。舷へ手をかけて、神様のような顔を出して、何にもねえ、八方から波を打ぶッつける暗礁かくれいわがあるばかりだ、迷うな、ッていわしった。

 お船頭、御苦労じゃ、御苦労じゃ、お船頭と、皆みんな握拳にぎりこぶしで拝んだだがね。

 坊主も島も船の影も、さらりと消えてよ。そこら山のような波ばかり。

 急に、あれだ、またそこらじゅう、空も、船も、人の顔も波も大きい大きい海の上さ半分仕切って薄黄色になったでねえか。

 ええ、何をするだ、あやかしめ、また拡がったなッて、皆みんなくそ焼けに怒鳴ったっけえ。そうじゃねえ、東の空さお太陽てんとうさまが上あがらっしたが、そこでも、姉あねさん、天と波と、上下うえしたへ放れただ。昨夜ゆうべ、化鮫ばけざめの背中出したように、一面の黄色な中に薄ぼんやり黒いものがかかったのは、嶽たけの堂が目の果はてへ出て来ただよ。」

 女房はほっとしたような顔色かおつきで、

「まあ、可よかったねえ、それじゃ浜へも近かったんだね。」

「思ったよりは流されていねえだよ、それでも沖へ三十里ばかり出ていたっぺい。」

「三十里、」

 とまた驚いた状さまである。

「何だなあ、姉あねさん、三十里ぐれえ何でもねえや。

 それで、はあ夜が明けると、黄色く環わどって透通ったような水と天との間さ、薄あかりの中をいろいろな、片手で片身の奴やつだの、首のねえのだの、蝦蟇がまが呼吸いき吹くようなのだの、犬の背中へ炎さ絡からまっているようなのだの、牛だの、馬だの、異形いぎょうなものが、影燈籠かげどうろう見るようにふわふわまよって、さっさと駈け抜けてどこかへ行ゆくだね。」


       十


「あとで、はい、理右衛門爺りえむじいさまもそういっけえ、この年になるまで、昨夜ゆうべぐれえ執念深しゅうねんぶけえあやかしの憑ついた事はねえだって。

 姉あねさん。

 何だって、あれだよ、そんなに夜があけて海のばけものどもさ、するする駈かけ出して失うせるだに、手許てもとが明あかるくなって、皆みんなの顔が土気色つちけいろになって見えてよ、艪ろが白うなったのに、舵かじにくいついた、えてものめ、まだ退のかねえだ。

 お太陽てんとうさまお庇かげだね。その色が段々蒼あおくなってな、ちっとずつ固まって掻いすくまったようだっけや、ぶくぶくと裾すその方が水際で膨れたあ、蛭ひるめが、吸い肥ふとったようになって、ほとりの波の上へ落ちたがね、からからと明くなって、蒼黒い海さ、日の下で突張つっぱって、刎はねてるだ。

 まあ、めでてえ、と皆みんなで顔を見たっけや、めでてえはそればかりじゃねえだ、姉さんも、新しい衣物きものが一枚出来たっぺい、あん時の鰹かつおさ、今年中での大漁だ。

 舳みよしに立って釣らしった兄哥あにやの身からだのまわりへさ、銀の鰹が降ったっけ、やあ、姉さん。」

 と暮れかかる蜘蛛くもの囲いの檐のきを仰いだ、奴やっこの出額おでこは暗かった。

 女房もそれなりに咽喉のどほの白う仰向あおむいて、目を閉じて見る、胸の中うらの覚え書。

「じゃ何だね、五月雨時分さみだれじぶん、夜中からあれた時だね。

 まあ、お前さんは泣き出すし、爺さまもお念仏をお唱えだって。内の人はその恐しい浪の中で、生命いのちがけで飛込んでさ。

 私はただ、波の音が恐しいので、宵から門かどへ鎖じょうをおろして、奥でお浜と寝たっけ、ねえ。

 どんな烈はげしい浪が来ても裏の崖がけは崩れない、鉄の壁だ安心しろッて、内の人がおいいだから、そればかりをたよりにして、それでもドンと打ぶつかるごとに、崖と浪とで戦いくさをする、今打った大砲で、岩が破れやしまいかと、坊やをしっかり抱くばかり。夜中に乳のかれるのと、寂しいばかりを慾よくにして、冷つめたいとも寒いとも思わないで寝ていたのに、そうだったのか、ねえ、三ちゃん。

 そんな、荒浪だの、恐しいあやかし火とやらだの、黒坊主だの、船幽霊ふなゆうれいだのの中で、内の人は海から見りゃ木この葉のような板一枚に乗っていてさ、」と女房は首垂うなだれつつ、

「私にゃ何にもいわないんだもの……」と思わず襟に一雫ひとしずく、ほろりとして、

「済まないねえ。」

 奴やっこは何の仔細しさいも知らず、慰め顔に威勢の可いい声、

「何も済まねえッて事こたアありやしねえだ。よう、姉あねさん、お前に寒かったり冷たかったり、辛い思いさ、さらせめえと思うだから、兄哥あにやがそうして働くだ。おらも何だぜ、もう、そんな時さあったってベソなんか掻きやしねえ、お浜ッ子の婿さんだ、一所に海へ飛込むぜ。

 そのかわり今もいっけえよ。兄哥あにやのために姉さんが、お膳立ぜんだてしたり、お酒買ったりよ。

 おら、酒は飲まねえだ、お芋で可いいや。

 よッしょい、と鰹さ積んで波に乗込んで戻って来ると、……浜に煙が靡なびきます、あれは何ぞと問うたれば」

 と、いたいけに手をたたき、

「石々いしいし合わせて、塩汲くんで、玩弄おもちゃのバケツでお芋煮て、かじめをちょろちょろ焚たくわいのだ。……よう姉あねさん、」

 奴やっこは急にぬいと立ち、はだかった胸を手で仕切って、

「おらがここまで大きくなって、お浜ッ子が浜へ出て、まま事するはいつだろうなあ。」

 女房は夕露の濡れた目許の笑顔優しく、

「ああ、そりゃもう今日明日という内に、直きに娘になるけれど、あの、三ちゃん、」

 と調子をかえて、心ありげに呼びかける。


       十一


「ああ、」

「あのね、私は何も新しい衣物きものなんか欲ほしいとは思わないし、坊やも、お菓子も用いらないから、お前さん、どうぞ、お婿さんになってくれる気なら、船頭はよして、何ぞ他ほかの商売にしておくれな、姉ねえさん、お願いだがどうだろうね。」

 と思い入ったか言ことばもあらため、縁に居ずまいもなおしたのである。

 奴やっこは遊び過ぎた黄昏たそがれの、鴉からすの鳴くのをきょろきょろ聞いて、浮足に目も上うわつき、

「姉あねさん、稲葉丸は今日さ日帰りだっぺいか。」

「ああ、内でもね。今日は晩方までに帰るって出かけたがね、お聞きよ、三ちゃん、」

 とそわそわするのを圧おさえていったが、奴やっこはよくも聞かないで、

「姉あねさんこそ聞きねえな、あらよ、堂の嶽たけから、烏が出て来た、カオ、カオもねえもんだ、盗賊どろぼうをする癖にしやあがって、漁さえ当ると旅をかけて寄って来やがら。

 姉さん船が沖へ来たぜ、大漁だ大漁だ、」

 と烏の下で小さく躍る。

「じゃ、内の人も帰って来よう、三ちゃん、浜へ出て見ようか。」と良人おっとの帰る嬉しさに、何事も忘れた状さまで、女房は衣紋えもんを直した。

「まだ、見えるような処まで船は入りやしねえだよ。見さっせえ。そこらの柿の樹の枝なんか、ほら、ざわざわと烏めい、えんこをして待ってやがる。

 五六里の処、嗅かぎつけて来るだからね。ここらに待っていて、浜へ魚の上るのを狙ねらうだよ、浜へ出たって遠くの方で、船はやっとこの烏ぐれえにしか見えやしねえや。

 やあ、見さっせえ、また十五六羽遣やって来た、沖の船は当ったぜ。

 姉あねさん、また、着るものが出来らあ、チョッ、」

 舌打の高慢さ、

「おらも乗って行ゆきゃ小遣こづかいが貰もれえたに、号外を遣って儲もうけ損なった。お浜ッ児こに何にも玩弄物おもちゃが買えねえな。」

 と出額おでこをがッくり、爪尖つまさきに蠣殻かきがらを突ッかけて、赤蜻蛉あかとんぼの散ったあとへ、ぼたぼたと溢こぼれて映る、烏の影へ足礫あしつぶて。

「何をまたカオカオだ、おらも玩弄物を、買お、買おだ。」

 黙って見ている女房は、急にまたしめやかに、

「だからさ、三ちゃん、玩弄物も着物も要らないから、お前さん、漁師でなく、何ぞ他ほかの商売をするように心懸けておくんなさいよ。」という声もうるんでいた。

 奴やっこははじめて口を開け、けろりと真顔で向直って、

「何だって、漁師を止やめて、何だって、よ。」

「だっても、そんな様子じゃ、海にどんなものが居ようも知れない、ね、恐こわいじゃないか。

 内の人や三ちゃんが、そうやって私たちを留守にして海へ漁をしに行ってる間に、あらしが来たり浪が来たり、そりゃまだいいとして、もしか、あの海から上って私たちを漁しに来るものがあったらどうしよう。貝が殻へかくれるように、家うちへ入って窘すくんでいても、向うが強ければ捉つかまえられるよ。お浜は嬰児あかんぼだし、私はこうやって力がないし、それを思うとほんとに心細くってならないんだよ。」

 としみじみいうのを、呆あきれた顔して、聞き澄ました、奴やっこは上唇を舌で甞なめ、眦めじりを下げて哄々くっくっとふき出いだし。

「馬鹿あ、馬鹿あいわねえもんだ。へ、へ、へ、魚うおが、魚が人間を釣りに来てどうするだ。尾で立ってちょこちょこ歩行あるいて、鰭ひれで棹さおを持つのかよ、よう、姉あねさん。」

「そりゃ鰹かつおや、鯖さばが、棹を背負しょって、そこから浜を歩行あるいて来て、軒へ踞しゃがむとはいわないけれど、底の知れない海だもの、どんなものが棲すんでいて、陽気の悪い夜なんぞ、浪に乗って来ようも知れない。昼間だって、ここへ来たものは、──今日は、三ちゃんばかりじゃないか。」

 と女房は早や薄暗い納戸の方かたを顧みる。


       十二


「ああ、何だか陰気になって、穴の中を見るようだよ。」

 とうら寂しげな夕間暮ゆうまぐれ、生干なまびの紅絹もみも黒ずんで、四辺あたりはものの磯いその風。

 奴やっこは、旧もと来た黍きびがらの痩やせた地蔵の姿して、ずらりと立並ぶ径こみちを見返り、

「もっと町の方へ引越して、軒へ瓦斯燈がすとうでも点つけるだよ、兄哥あにやもそれだから稼ぐんだ。」

「いいえ、私ゃ、何も今のくらしにどうこうと不足をいうんじゃないんだわ。私は我慢をするけれどね、お浜が可哀かわいそうだから、号外屋でも何んでもいい、他ほかの商売にしておくれって、三ちゃん、お前に頼むんだよ。内の人が心配をすると悪いから、お前決して、何んにもいうんじゃないよ、可いいかい、解わかったの、三ちゃん。」

 と因果を含めるようにいわれて、枝の鴉からすも頷うなずき顔。

「むむ、じゃ何だ、腰に鈴をつけて駈かけまわるだ、帰ったら一番、爺様じいさまと相談すべいか、だって、お銭あしにゃならねえとよ。」

 と奴やっこは悄乎しょげて指を噛かむ。

「いいえさ、今が今というんじゃないんだよ。突然いきなりそんな事をいっちゃ不可いけないよ、まあ、話だわね。」

 と軽くいって、気をかえて身を起した、女房は張板はりいたをそっと撫なで、

「慾張ったから乾き切らない。」

「何、姉あねさんが泣くからだ、」

 と唐突だしぬけにいわれたので、急に胸がせまったらしい。

「ああ、」

 と片袖かたそでを目にあてたが、はッとした風で、また納戸を見た。

「がさがさするね、鴉が入りやしまいねえ。」

 三之助はまた笑い、

「海から魚が釣りに来ただよ。」

「あれ、厭いや、驚おどかしちゃ……」

 お浜がむずかって、蚊帳かやが動く。

「そら御覧な、目を覚ましたわね、人を驚おどかすもんだから、」

 と片頬かたほに莞爾にっこり、ちょいと睨にらんで、

「あいよ、あいよ、」

「やあ、目を覚さましたら密そっと見べい。おらが、いろッて泣かしちゃ、仕事の邪魔するだから、先刻さっきから辛抱してただ。」と、かごとがましく身を曲くねる。

「お逢あいなさいまし、ほほほ、ねえ、お浜、」

 と女房は暗い納戸で、母衣蚊帳ほろがやの前で身動みじろぎした。

「おっと、」

 奴やっこは縁に飛びついたが、

「ああ、跣足はだしだ姉あねさん。」

 と脛すねをもじもじ。

「可いいよ、お上りよ。」

「だって、姉あねさんは綺麗きれいずきだからな。」

「構わないよ、ねえ、」

 といって、抱き上げた児こに頬摺ほおずりしつつ、横に見向いた顔が白い。

「やあ、もう笑ってら、今泣いた烏からすが、」

 と縁端えんはしに遠慮して遠くで顔をふって、あやしたが、

「ほんとに騒々しい烏だ。」

 と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽たけの堂を流れて出た、一団の雲の正中ただなかに、颯さっと揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。

「三ちゃん、」

「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧おさえべい。」

「まあ、遊んでおいでよ。」

 と女房は、胸の雪を、児こに暖く解きながら、斜めに抱いて納戸口。


       十三


「ねえ、今に内の人が帰ったら、菜のものを分けてお貰もらい、そうすりゃ叱られはしないからね。何だか、今日は寂しくッて、心細くッてならないから、もうちっと、遊んで行っておくれ、ねえ、お浜、もうお父とっさんがお帰りだね。」

 と顔に顔、児こにいいながら縁へ出て来た。

 おくれ毛の、こぼれかかる耳に響いて、号外──号外──とうら寂しい。

「おや、もういってしまったんだよ。」

 女房は顔を上げて、

「小児こどもだねえ」

 と独りでいったが、檐のきの下なる戸外おもてを透かすと、薄黒いのが立っている。

「何だねえ、人をだましてさ、まだ、そこに居るのかい、此奴こいつ、」

 と小児こどもに打ぶたせたそうに、つかつかと寄ったが、ぎょっとして退すさった。

 檐下の黒いものは、身の丈三之助の約三倍、朦朧もうろうとして頭つむりの円い、袖の平たい、入道であった。

 女房は身をしめて、キと唇を結んだのである。

 時に身じろぎをしたと覚おぼしく、彳たたずんだ僧の姿は、張板はりいたの横へ揺れたが、ちょうど浜へ出るその二頭の猛獣に護まもられた砂山の横穴のごとき入口を、幅一杯に塞ふさいで立った。背高き形が、傍わきへ少し離れたので、もう、とっぷり暮れたと思う暗さだった、今日はまだ、一条ひとすじ海の空に残っていた。良人おっとが乗った稲葉丸は、その下あたりを幽かすかな横雲。

 それに透すかすと、背のあたりへぼんやりと、どこからか霧が迫って来て、身のまわりを包んだので、瘠やせたか、肥えたか知らぬけれども、窪くぼんだ目の赤味を帯びたのと、尖とがって黒い鼻の高いのが認められた。衣は潮垂れてはいないが、潮は足あとのように濡れて、砂浜を海方うみてへ続いて、且つその背のあたりが連しきりに息を吐つくと見えて、戦わなないているのである。

 心弱き女房も、直ちにこれを、怪しき海の神の、人を漁あさるべく海から顕あらわれたとは、余り目まのあたりゆえ考えず。女房は、ただ総毛立った。

 けれども、厭いやな、気味の悪い乞食坊主こじきぼうずが、村へ流れ込んだと思ったので、そう思うと同時に、ばたばたと納戸へ入って、箪笥たんすの傍そばなる暗い隅へ、横ざまに片膝かたひざつくと、忙せわしく、しかし、殆ほとんど無意識に、鳥目ちょうもくを。

 早く去いってもらいたさの、女房は自分も急いで、表の縁へするすると出て、此方こなたに控えながら、

「はい、」

 という、それでも声は優しい女。

 薄黒い入道は目を留めて、その挙動ふるまいを見るともなしに、此方こなたの起居たちいを知ったらしく、今、報謝をしようと嬰児あかごを片手に、掌てを差出したのを見も迎えないで、大儀らしく、かッたるそうに頭つむりを下に垂れたまま、緩ゆるく二ツばかり頭かぶりを掉ふったが、さも横柄おうへいに見えたのである。

 また泣き出したを揺ゆすりながら、女房は手持無沙汰てもちぶさたに清すずしい目を睜みはったが、

「何ですね、何が欲ほしいんですね。」

 となお物貰ものもらいという念は失うせぬ。

 ややあって、鼠ねずみの衣の、どこが袖ともなしに手首を出して、僧は重いもののように指を挙げて、その高い鼻の下を指した。

 指すとともに、ハッという息を吐つく。

 渠かれ飢えたり矣。

「三ちゃん、お起きよ。」

 ああ居てくれれば可よかった、と奴やっこの名を心ゆかし、女房は気転らしく呼びながら、また納戸へ。


       十四


 強盗ごうとうに出逢であったような、居もせぬ奴やっこを呼んだのも、我ながら、それにさへ、動悸どうきは一倍高うなる。

 女房は連しきりに心急こころせいて、納戸に並んだ台所口に片膝つきつつ、飯櫃めしびつを引寄せて、及腰およびごしに手桶ておけから水を結び、効々かいがいしゅう、嬰児ちのみを腕かいなに抱いたまま、手許も上うわの空で覚束おぼつかなく、三ツばかり握飯にぎりめし。

 潮風で漆の乾からびた、板昆布いたこぶを折ったような、折敷おしきにのせて、カタリと櫃を押遣おしやって、立てていた踵かかとを下へ、直ぐに出て来た。

「少人数の内ですから、沢山はないんです、私のを上げますからね、はやく持って行って下さいまし。」

 今度はやや近寄って、僧の前へ、片手、縁の外へ差出すと、先刻さっき口を指したまま、鱗うろこでもありそうな汚い胸のあたりへ、ふらりと釣っていた手が動いて、ハタと横を払うと、発奮はずみか、冴さえか、折敷ぐるみ、バッタリ落ちて、昔々、蟹かにを潰つぶした渋柿に似てころりと飛んだ。

 僧はハアと息が長い。

 余あまりの事に熟じっと視みて、我を忘れた女房、

「何をするんですよ。」

 一足退のきつつ、

「そんな、そんな意地の悪いことをするもんじゃありません、お前さん、何が、そう気に入らないんです。」

 と屹きっといったが、腹立つ下に心弱く、

「御坊おぼうさんに、おむすびなんか、差上げて、失礼だとおっしゃるの。

 それでは御膳おぜんにしてあげましょうか。

 そうしましょうかね。

 それでははじめから、そうしてあげるのだったんですが、手はなし、こうやって小児こどもに世話が焼けますのに、入相いりあいで忙せわしいもんですから。……あの、茄子なすのつき加減なのがありますから、それでお茶づけをあげましょう。」

 薄暗がりに頷うなずいたように見て取った、女房は何となく心が晴れて機嫌よく、

「じゃ、そうしましょう〳〵。お前さん、何にもありませんよ。」

 勝手へ後姿になるに連れて、僧はのッそり、夜が固かたまって入ったように、ぬいと縁側から上り込むと、表の六畳は一杯に暗くなった。

 これにギョッとして立淀たちよどんだけれども、さるにても婦人おんな一人。

 ただ、ちっとも早く無事に帰してしまおうと、灯をつける間まももどかしく、良人おっとの膳を、と思うにつけて、自分の気の弱いのが口惜くやしかったけれども、目を瞑ねむって、やがて嬰児ちのみを襟に包んだ胸を膨ふくらかに、膳を据えた。

「あの、なりたけ、早くなさいましよ、もう追ッつけ帰りましょう。内のはいっこくで、気が強いんでござんすから、知らない方をこうやって、また間違いにでもなると不可いけません、ようござんすか。」

 と茶碗に堆うずたかく装もったのである。

 その時、間まの四隅を籠こめて、真中処まんなかどころに、のッしりと大胡坐おおあぐらでいたが、足を向うざまに突き出すと、膳はひしゃげたように音もなく覆くつがえった。

「あれえ、」

 と驚いて女房は腰を浮かして遁にげさまに、裾すそを乱して、ハタと手を支つき、

「何ですねえ。」

 僧は大いなる口を開けて、また指した。その指で、かかる中うちにも袖で庇かばった、女房の胸をじりりとさしつつ、

(児こを呉くれい。)

 と聞いたと思うと、もう何にも知らなかった。

 我に返って、良人の姿を一目見た時、ひしと取縋とりすがって、わなわなと震えたが、余り力強く抱いたせいか、お浜は冷つめたくなっていた。

 こんな心弱いものに留守をさせて、良人が漁すなどる海の幸よ。

 その夜はやがて、砂白く、崖がけ蒼あおき、玲瓏れいろうたる江見の月に、奴やっこが号外、悲しげに浦を駈かけ廻って、蒼海わたつみの浪ぞ荒かりける。

明治三十九年(一九〇六)年一月

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房

   1995(平成7)年10月24日第1刷発行

   2004(平成16)年3月20日第2刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第九卷」岩波書店

   1942(昭和17)年3月30日発行

入力:土屋隆

校正:門田裕志

2006年6月26日作成

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