妖怪年代記
泉鏡花



     一


 予が寄宿生となりて松川まつかは私塾に入いりたりしは、英語を学ばむためにあらず、数学を修めむためにあらず、なほ漢籍を学ばむことにもあらで、他たに密ひそかに期することのありけるなり。

 加州かしう金沢市古寺町ふるでらまちに両隣りやうどなり無なき一宇いちうの大廈たいかは、松山某なにがしが、英、漢、数学の塾舎となれり。旧もとは旗野はたのと謂いへりし千石取せんごくどりの館やかたにして、邸内に三件の不思議あり、血天井ちてんじよう、不開室あかずのま、庭の竹藪是これなり。

 事の原由よしを尋ぬるに、旗野の先住に、何某なにがしとかや謂いひし武士ものゝふのありけるが、過あやまてることありて改易となり、邸やしきを追はれて国境くにざかひよりぞ放たれし。其その室しつは当時家中かちうに聞きこえし美人なりしが、女心をんなごころの思詰おもひつめて一途に家を明渡すが口惜くちをしく、我われは永世えいせい此処このところに留とゞまりて、外へは出いでじと、其その居間に閉籠とぢこもり、内より鎖ぢやうを下おろせし後のちは、如何いかにかしけむ、影も形も見えずなりき。

 其後そののち旗野は此家このやに住すまひつ。先住の室しつが自ら其身そのみを封じたる一室は、不開室と称となへて、開くことを許さず、はた覗くことをも禁じたりけり。

 然さるからに執念の留まれるゆゑにや、常には然させる怪くわい無きも、後住こうぢうなる旗野の家に吉事きつじある毎ごとに、啾々しう〳〵たる婦人をんなの泣声なきごゑ、不開室の内に聞えて、不祥ふしやうある時は、さも心地好こゝちよげに笑ひしとかや。

 旗野に一人いちにんの妾せふあり。名を村むらといひて寵愛限無かぎりなかりき。一年あるとし夏の半なかば、驟雨後ゆふだちあとの月影冴さやかに照てらして、北向きたむきの庭なる竹藪に名残なごりの雫しづく、白玉しらたまのそよ吹く風に溢こぼるゝ風情ふぜい、またあるまじき観ながめなりければ、旗野は村に酌を取らして、夜更よふくるを覚えざりき。

 お村も少すこしくなる口なるに、其夜そのよは心爽さわやぎ、興きようも亦また深かりければ、飲過のみすごして太いたく酔ゑひぬ。人ひと静まりて月の色の物凄ものすごくなりける頃、漸やうやく盃さかづきを納めしが、臥戸ふしどに入いるに先立ちて、お村は厠かはやに上のぼらむとて、腰元に扶たすけられて廊下伝ひに彼かの不開室の前を過ぎけるが、酔心地の胆きも太ふとく、ほと〳〵と板戸を敲たゝき、「この執念深き奥方、何とて今宵こよひに泣きたまはざる」と打笑うちわらひけるほどこそあれ、生温なまぬるき風一陣吹出で、腰元の携たづさへたる手燭てしよくを消したり。何物にか驚かされけむ、お村は一声きやつと叫びて、右側なる部屋の障子を外して僵たふれ入ると共に、気を失ひてぞ伏したりける。腰元は驚き恐れつゝ件くだんの部屋を覗けば、内には暗く行灯あんどう点ともりて、お村は脛はぎも露あらはに横よこたはれる傍かたはらに、一人いちにんの男ありて正体も無く眠れるは、蓋けだし此家このやの用人なるが、先刻さきに酒席に一座して、酔過ゑひすごして寝いねたるなれば、今お村が僵れ込みて、己おのが傍かたへに気を失ひ枕をならべて伏したりとも、心着こゝろづかざる状さまになむ。此この腰元は春はるといひて、もとお村とは朋輩なりしに、お村は寵ちようを得てお部屋と成済なりすまし、常に頤あご以もて召使はるゝを口惜くちをしくてありけるにぞ、今斯かく偶然に枕を並べたる二人ににんが態すがたを見るより、悪心むらむらと起おこり、介抱もせず、呼びも活いけで、故わざと灯火ともしびを微ほのかにし、「かくては誰たが眼にも……」と北叟笑ほくそゑみつゝ、忍しのびやかに立出たちいで、主人あるじの閨ねやに走行はしりゆきて、酔臥ゑひふしたるを揺覚ゆりさまし、「お村殿には御用人何某と人目を忍ばれ候さふらふ」と欺あざむきければ、短慮無謀の平素ひごろを、酒に弥暴いやあらく、怒気烈火の如ごとく心頭に発して、岸破がばと蹶起はねおき、枕刀まくらがたな押取おつとりて、一文字に馳出はせいで、障子を蹴放けはなして驀地まつしぐらに躍込おどりこめば、人畜にんちく相戯あひたはむれて形かたの如き不体裁。前後の分別に遑無いとまなく、用人の素頭すかうべ、抜手ぬくても見せず、ころりと落おとしぬ。


     二


 旗野の主人あるじは血刀ちがたな提ひつさげ、「やをれ婦人をんな、疾とく覚めよ」とお村の肋あばらを蹴返けかへせしが、活くわつの法はふにや合かなひけむ、うむと一声ひとこゑ呼吸いき出いでて、あれと驚き起返おきかへる。

 主人はハツタと睨附ねめつけ、「畜生よ、男は一刀に斬棄きりすてたれど、汝おのれには未まだ為せむやうあり」と罵のゝしり狂ひ、呆あきれ惑ふお村の黒髪を把とりて、廊下を引摺ひきずり縁側に連行つれゆきて、有無を謂はせず衣服を剥取はぎとり、腰に纏まとへる布ばかりを許して、手足を堅く縛いましめけり。

 お村は夢の心地ながら、痛さ、苦しさ、恥はづかしさに、涙に咽むせび、声を震はせ、「こは殿にはものに狂はせ給たまふか、何故なにゆゑありての御折檻ごせつかんぞ」と繰返しては聞きこゆれども、此方こなたは憤恚いかりに逆上して、お村の言ことばも耳にも入らず、無二無三に哮立たけりたち、お春を召して酒を取寄せ、己おのが両手に滴したゝらしては、お村の腹に塗り、背に塗り、全身余さず酒漬さけびたしにして、其まゝ庭に突出つきいだし、竹藪の中に投入れて、虫責むしぜめにこそしたりけれ。

 深夜の出来事なりしかば、内の者ども皆眠りて知れるは絶えてあらざりき。「かまへて人に語るべからず。執成立とりなしだてせば面倒なり」と主人はお春を警いましめぬ。お村が苦痛はいかばかりなりけむ、「あら苦し、堪難たへがたや、あれよ〳〵」と叫びたりしが、次第にものも得え謂はずなりて、夜も明方に到りては、唯ただ泣く声の聞えしのみ、されば家内の誰彼たれかれは藪の中とは心着こゝろづかで、彼かの不開室あかずのまの怪異とばかり想ひなし、且かつ恐れ且怪あやしみながら、元来泣声ある時は、目出度めでたきことの兆候きざしなり、と言伝いひつたへたりければ、「いづれも吉兆に候さふらひなむ」と主人を祝せしぞ愚おろかなりける。午前ひる少しく前のほど、用人の死骸を発見みいだしたる者ありて、上を下へとかへせしが、主人は少しも騒ぐ色なく、「手討てうちにしたり」とばかりにて、手続てつゞきを経てこと果てぬ。お村は昨夜ゆうべの夜半より、藪の真中まなかに打込うちこまれ、身動きだにもならざるに、酒の香かを慕したひて寄来よりくる蚊かの群は謂ふも更さらなり、何十年を経たりけむ、天日てんじつを蔽隠おおひかくして昼猶なほ闇くらき大藪なれば、湿地に生ずる虫どもの、幾万とも知れず群むらがり出でて、手足に取着き、這懸はいかゝり、顔とも謂はず、胸とも謂はず、むず〳〵と往来しつ、肌を嘗なめられ、血を吸はるゝ苦痛は云ふべくもあらざれば、悶もだえ苦くるしみ、泣き叫びて、死なれぬ業ごふを歎なげきけるが、漸次しだいに精せい尽つき、根こん疲れて、気の遠くなり行くにぞ、渠かれが最も忌嫌いみきらへる蛇へびの蜿蜒のたるも知らざりしは、せめてもの僥倖げうかうなり、されば玉たまの緒をの絶えしにあらねば、現うつゝに号泣がうきふする糸より細き婦人をんなの声は、終日ひねもす休やむ間ひまなかりしとぞ。

 其日も暮れ、夜よに入りて四辺あたりの静しづかになるにつれ、お村が悲喚ひくわんの声冴さえて眠り難がたきに、旗野の主人も堪兼たまりかね、「あら煩悩うるさし、いで息の根を止めむず」と藪の中に走入はしりいり、半死半生の婦人をんなを引出ひきいだせば、総身そうしん赤く腫はれたるに、紫斑々しはん〳〵の痕あとを印し、眼も中あてられぬ惨状ありさまなり。

 かくても未いまだ怒いかりは解けず、お村の後手うしろでに縛くゝりたる縄の端はしを承塵なげしに潜くぐらせ、天井より釣下つりさげて、一太刀斬附きりつくれば、お村ははツと我に返りて、「殿、覚えておはせ、御身おんみが命を取らむまで、妾わらはは死なじ」と謂はせも果てず、はたと首かうべを討落うちおとせば、骸むくろは中心を失ひて、真逆様まつさかさまになりけるにぞ、踵かゝとを天井に着けたりしが、血汐ちしほは先刻さきに脛はぎを伝ひて足の裏を染めたれば、其そが天井に着くとともに、怨恨うらみの血判けつぱん二つをぞ捺おしたりける。此この一念の遺物かたみ拭ぬぐふに消えず、今に伝へて血天井と謂ふ。

 人を殺すにも法こそあれ、旗野がお村を屠ほふりし如きは、実に惨中の惨なるものなり。家に仕つかふる者ども、其物音に駈附かけつけしも、主人が血相に恐おそれをなして、留とゞめむとする者無く、遠巻とほまきにして打騒ぎしのみ。殺尽ころしつくせしお村の死骸は、竹藪の中に埋棄うづみすてて、跡弔あととむらひもせざりけり。


     三


 はじめお村を讒ざんししお春は、素知らぬ顔にもてなしつゝ此家このやに勤め続けたり。人には奇癖のあるものにて、此この婦人をんな太いたく蜘蛛くもを恐れ、蜘蛛といふ名を聞きてだに、絶叫するほどなりければ、況まして其物そのものを見る時は、顔の色さへ蒼あをざめて死せるが如ごとくなりしとかや。

 お村が虐殺なぶりごろしに遭ひしより、七々日なゝなぬかにあたる夜半よはなりき。お春は厠かはやに起出おきいでつ、帰かへりには寝惚ねぼけたる眼の戸惑とまどひして、彼かの血天井の部屋へ入いりにき。それと遽にはかに心着こゝろづけば、天窓あたまより爪先まで氷を浴ぶる心地して、歯の根も合はず戦わなゝきつゝ、不気味に堪たへぬ顔を擡あげて、手燭ぼんぼりの影幽かすかに血の足痕あしあとを仰見あふぎみる時しも、天井より糸を引きて一疋いつぴきの蜘蛛垂下たれさがり、お春の頬に取着とりつくにぞ、あと叫びて立竦たちすくめる、咽喉のんどを伝ひ胸に入り、腹より背せなに這廻はひまはれば、声をも得え立てず身を悶もだえ虚空こくうを掴つかみて苦くるしみしが、はたと僵たふれて前後を失ひけり。夜更よふけの事とて誰たれも知らず、朝あしたになりて見着みつけたる、お春の身体からだは冷たかりき、蜘蛛の這はへりし跡やらむ、縄にて縊くびりし如く青き条すぢをぞ画ゑがきし。

 眼前まのあたりお春が最期さいごを見てしより、旗野の神経狂出くるひだし、あらぬことのみ口走りて、一月余ひとつきあまりも悩みけるが、一夜あるよ月の明あきらかなりしに、外方とのかたに何やらむ姿ありて、旗野をおびき出いだすが如く、主人あるじは居室ゐまを迷出まよひいでて、漫そゞろに庭を徜徉さまよひしが、恐しき声を発して、おのれ! といひさま刀を抜き、竹藪に躍蒐をどりかゝりて、えいと殺そぎたる竹の切口きりくち、斜なゝめに尖とがれる切先きつさきに転まろべる胸を貫きて、其場に命を落せしとぞ。仏家ぶつけの因果は是これならむかし。

 旗野の主人果てて後のち、代よを襲つぐ子とても無かりければ、やがて其その家いへは断絶たえにけり。

 数歳すさいの星霜を経て、今松川の塾となれるまで、種々さま〴〵人の住替すみかはりしが、一月ひとつき居ゐしは皆無にて、多きも半月を過ぐるは無し。甚はなはだしきに到りては、一夜ひとよを超えて引越せしもあり。松川彼処かしこに住すまひてより、別に変かはりしこともなく、二月ふたつき余も落着おちつけるは、いと珍しきことなりと、近隣きんりんの人は噂うはさせり。さりながらはじめの内は十幾人じふいくたりの塾生ありて、教場けうぢやう太いたく賑ひしも、二人ふたり三人みたりと去りて、果はては一人いちにんもあらずなりて、後のちにはたゞ昼ひるの間うち通学生の来るのみにて、塾生は我われ一人いちにんなりき。

 前段既すでに説けるが如く、予が此塾に入りたりしは、学問すべきためにはあらで、いかなる不思議のあらむかを窺見うかゞひみむと思ひしなり。我には許せ。性せいとして奇怪なる事とし謂へば、見たさ、聞きたさに堪たへざれども、固もとより頼む腕力ありて、妖怪えうくわいを退治せむとにはあらず、胸に蓄たくはふる学識ありて、怪異を研究せむとにもあらず。俗に恐いもの見たさといふ好事心ものずきのみなり。

 さて松川に入塾して、直たゞちに不開室あかずのまを探検せんとせしが、不開室は密閉したるが上に板戸を釘付くぎづけにしたれば開くこと無し。僅わづかに板戸の隙間より内の模様を窺ふに、畳二三十も敷かるべく、柱は参差しんしと立たちならべり。日中なれども暗澹あんたんとして日の光幽かすかに、陰々たる中うちに異形いぎやうなる雨漏あまもりの壁に染みたるが仄見ほのみえて、鬼気人に逼せまるの感あり。即すなはち隙見すきみしたる眼の無事なるを取柄にして、何等なんらの発見せし事なく、踵きびすを返して血天井を見る。こゝも用無き部屋なれば、掃除せしこともあらずと見えて、塵埃ちりほこり床を埋め、鼠ねずみの糞ふん梁うつばりに堆うづたかく、障子襖ふすまも煤果すゝけはてたり。そこぞと思ふ天井も、一面に黒み渡りて、年経としふる血の痕の何処いづこか弁じがたし、更科さらしなの月四角でもなかりけり、名所多くは失望の種となる。されどなほ余すところの竹藪あり、蓋けだし土地の人は八幡やはたに比し、恐れて奥を探る者無く、見るから物凄ものすごき白日闇はくじつあんの別天地、お村の死骸も其処そこに埋うづめつと聞くほどに、うかとは足を入難いれがたし、予は先まづ支度したくに取懸とりかゝれり。

 誰たれにか棄てられけむ、一頭いつとう流浪るらうの犬の、予が入塾の初より、数々しば〳〵庭前ていぜんに入来いりきたり、そこはかと餌ゑを𩛰あさるあり。予は少しく思ふよしあれば、其頭かうべを撫なで、背せなを摩さすりなどして馴近なれちかづけ、賄まかなひの幾分を割さきて与ふること両三日りやうさんじつ、早くも我に臣事しんじして、犬は命令を聞くべくなれり。


     四


 水曜日は諸学校に授業あるに関かゝはらず、私塾大抵たいていは休暇なり。予は閑かんに乗じ、庭に出いでて彼かの竹藪に赴けり。然しかるに予かねてより斥候せきこうの用に充あてむため馴ならし置おきたる犬の此時このとき折をりよく来きたりければ、彼かれを真先に立たしめて予は大胆だいたんにも藪に入いれり。行ゆくこと未いまだ幾干いくばくならず、予に先むじて駈込かけこみたる犬は奥深く進みて見えずなりしが、哬呀あなや何事なにごとの起おこりしぞ、乳虎にうこ一声いつせい高く吠えて藪中さうちう俄にはかに物騒ものさわがし、其その響ひゞきに動揺せる満藪まんさうの竹葉ちくえふ相触あひふれてざわ〳〵〳〵と音おとしたり。予はひやりとして立停たちどまりぬ。稍やゝありて犬は奥より駈来かけきたり、予が立てる前を閃過せんくわして藪の外おもてへ飛出とびいだせり。其剣幕けんまくに驚きまどひて予も慌あわたゞしく逃出にげいだし、只と見みれば犬は何やらむ口に銜くはへて躍り狂ふ、こは怪し口に銜へたるは一尾いちびの魚うをなり、そも何ぞと見むと欲して近寄れば、獲物えものを奪ふとや思ひけむ、犬は逸散いつさんに逃去にげさりぬ。予は茫然ばうぜんとして立ちたりけるが、想ふに藪の中に住居すまへるは、狐か狸か其類るゐならむ。渠奴かやつ犬の為に劫おびやかされ、近鄰きんりんより盗来ぬすみきたれる午飯おひるを奪はれしに極きはまりたり、然さらば何ほどのことやある、と爰こゝに勇気を回復して再び藪に侵入せり。

 畳翠でふすゐ滋蔓じまん繁茂せる、竹と竹との隙間を行くは、篠突しのつく雨の間を潜くゞりて濡れまじとするの難かたきに肖にたり。進退頗すこぶる困難なるに、払ふ物無き蜘蛛くもの巣は、前途を羅らして煙の如ごとし。蛇くちなはも閃きらめきぬ、蜥蜴とかげも見えぬ、其他の湿虫しつちう群ぐんをなして、縦横じうわう交馳かうちし奔走せる状さま、一眼ひとめ見るだに胸悪きに、手足を縛ばくされ衣服を剥はがれ若き婦人をんなの肥肉ふとりじしを酒塩さかしほに味付けられて、虫の膳部に佳肴かかうとなりしお村が当時を憶遣おもひやりて、予は思はずも慄然りつぜんたり。

 こゝはや藪の中央ならむと旧もと来きし方かたを振返ふりかへれば、真昼は藪に寸断されて点々星に髣さも髴にたり。なほ何程なにほどの奥やあると、及び腰に前途ゆくてを視ながむ。時とき其時そのとき、玄々げん〳〵不可思議奇絶怪絶、紅あかきものちらりと見えて、背向うしろむきの婦人一人いちにん、我を去る十歩の内に、立ちしは夢か、幻か、我はた現心うつゝごころになりて思はず一歩ひとあし引退ひつさがれる、とたんに此方こなたを振返りし、眼め口くち鼻はな眉まゆ如何いかで見分けむ、唯たゞ、丸顔の真白ましろき輪郭ぬつと出いでしと覚えしまで、予が絶叫せる声は聞きこえで婦人が言ことばは耳に入りぬ、「こや人に説いふ勿なかれ、妾わらはが此処こゝにあることを」一種異様の語気音調、耳朶みゝたぶにぶんと響き、脳にぐわら〳〵と浸しみ渡わたれば、眼まなこ眩くらみ、心こゝろ消きえ、気も空そらになり足漾ただよひ、魂ふら〳〵と抜出でて藻脱もぬけとなりし五尺の殻からの縁側まで逃げたるは、一秒を経ざる瞬間なりき。腋下えきかに颯さつと冷汗流れて、襦袢じゆばんの背せなはしとゞ濡れたり。馳はせて書斎に引籠ひきこもり机に身をば投懸なげかけてほつと吐つく息太く長く、多時しばらく観念の眼まなこを閉ぢしが、「さても見まじきものを見たり」と声を発いだして呟つぶやきける。「忍ぶれど色に出でにけり我恋は」と謂ひしは粋すゐなる物思ものおもひ、予はまた野暮なる物思ものおもひに臆病の色頬ほに出でて蒼あをくなりつゝ結むすぼれ返かへるを、物や思ふと松川はじめ通学生等に問はるゝ度たびに、口の端はたむず〳〵するまで言出いひいだしたさに堪たへざれども、怪しき婦人が予を戒いましめ、人に勿な謂いひそと謂へりしが耳許みゝもとに残り居をりて、語出かたりいでむと欲する都度つど、おのれ忘れしか、秘密を漏らさば、活いけては置かじと囁ささやく様やうにて、心済まねば謂ひも出でず、もしそれ胸中の疑磈ぎくわいを吐きて智識の教をしへを請うけむには、胸襟きようきん乃すなはち春はる開ひらけて臆病疾とみに癒いえむと思へど、無形の猿轡さるぐつわを食はまされて腹のふくるゝ苦しさよ、斯かくて幽玄の裡うちに数日すじつを閲けみせり。

 一夕いつせき、松川の誕辰たんしんなりとて奥座敷に予を招き、杯盤はいばんを排し酒肴しゆかうを薦すゝむ、献酬けんしう数回すくわい予は酒といふ大胆者だいたんものに、幾分の力を得て積日せきじつの屈託稍やゝ散じぬ。談話だんわの次手ついでに松川が塾の荒涼たるを歎かこちしより、予は前日藪を検けんせし一切いつさいを物語らむと、「実は……」と僅わづかに言懸いひかけける、正まさに其時、啾々しう〳〵たる女の泣声なきごえ、針の穴をも通らむず糸より細く聞えにき。予は其それを聞くと整ひとしく口をつぐみて悄気返しよげかへれば、春雨しゆんう恰あたかも窓外に囁き至る、瀟々せう〳〵の音に和し、長吁ちようう短歎たんたん絶えてまた続く、婦人の泣音きふおん怪あやしむに堪へたり。


     五


「あれは何が泣くのでせう」と松川に問へば苦い顔して、談話はなしを傍わきへそらしたるにぞ推おしては問はで黙して休やめり。ために折角せつかくの酔ゑひは醒さめたれども、酔うて席に堪たへずといひなし、予は寝室に退しりぞきつ。思へば好事よきことには泣くとぞ謂いふなる密閉室あかずのまの一件が、今宵誕辰たんしんの祝宴に悠々いう〳〵歓くわんを尽つくすを嫉ねたみ、不快なる声を発して其その快楽を乱せるならむか、あはれ忌いむべしと夜着よぎを被かぶりぬ。眼は眠れども神しんは覚めたり。

 寝られぬまゝに夜よは更けぬ。時計一点を聞きて後のち、漸やうやく少しく眠気ねむけざし、精神朦々もう〳〵として我我われわれを弁べんぜず、所謂いはゆる無現むげんの境きやうにあり。時ときに予が寝いねたる室しつの襖ふすまの、スツとばかりに開く音せり。否いな唯たゞ音のしたりと思へるのみ、別に誰たそやと問ひもせず、はた起直おきなほりて見むともせず、うつら〳〵となし居をれり。然さるにまた畳を摺来すりくる跫音あしおと聞きこえて、物あり、予が枕頭ちんとうに近寄る気勢けはひす、はてなと思ふ内に引返ひつかへせり。少時しばらくしてまた来きたる、再び引返せり、三たびせり。

 此こゝに於て予は猛然と心覚めて、寝返りしつゝ眼まなこを睜みひらき、不図ふと一見いつけんして蒼あをくなりぬ。予は殆ほとんど絶ぜつせむとせり、そも何者の見えしとするぞ、雪もて築ける裸体らたいの婦人をんな、あるが如ごとく無きが如き灯ともしびの蔭に朦朧もうろうと乳房のあたりほの見えて描ける如く彳たゝずめり。

 予は叫ばむとするに声出いでず、蹶起はねおきて逃げむと急あせるに、磐石一座ばんじやくいちざ夜着を圧して、身動きさへも得えならねば、我あることを気取らるまじと、愚おろかや一縷いちるの鼻息びそくだもせず、心中に仏の御名みなを唱となへながら、戦わなゝく手足は夜着を煽あふりて、波の如くに揺らめいたり。

 婦人は予を凝視みつむるやらむ、一種の電気を身体みうちに感じて一際ひときは毛穴の弥立よだてる時、彼は得もいはれぬ声を以もて「藪にて見しは此人このひとなり、テモ暖かに寝たる事よ」と呟つぶやけるが、まざ〳〵と聞きこゆるにぞ、気も魂も身に添はで、予は一竦ひとすくみに縮みたり。

 斯かくて婦人が無体にも予が寝し衾ふすまをかゝげつゝ、衝つと身を入るゝに絶叫して、護謨球ごむだまの如く飛上とびあがり、室しつの外おもてに転出まろびいでて畢生ひつせいの力を籠こめ、艶魔えんまを封ずるかの如く、襖を圧おさへて立ちけるまでは、自分みずからなせし業わざとは思はず、祈念きねんを凝こらせる神仏しんぶつがしかなさしめしを信ずるなり。

 寒さは寒し恐しさにがた〳〵震ぶるひ少しも止やまず、遂つひに東雲しのゝめまで立竦たちすくみつ、四辺あたりのしらむに心を安んじ、圧へたる戸を引開くれば、臥戸ふしどには藻脱もぬけの殻のみ残りて我も婦人も見えざりけり。其夜そのよの感情、よく筆に写すを得ず、いかむとなれば予は余りの恐しさに前後忘却したればなり。

 然さらでも前日の竹藪以来、怖気おぢけの附つきたる我なるに、昨夜さくやの怪異に胆きもを消し、もはや斯塾しじゆくに堪たまらずなりぬ。其日の中うちに逃帰にげかへらむかと已すでに心を決せしが、さりとては余り本意ほい無し、今夜こよひ一夜ひとよ辛抱しんばうして、もし再び昨夜ゆうべの如く婦人の来きたることもあらば度胸を据すゑて其その容貌と其その姿態したいとを観察せむ、あはよくば勇を震ひて言葉を交かはし試むべきなり。よしや執着の留とゞまりて怨うらみを後世こうせいに訴ふるとも、罪なき我を何かせむ、手にも立たざる幻影にさまで恐るゝことはあらじ、と白昼は何人なんぴとも爾しかく英雄になるぞかし。逢魔あふまが時ときの薄暗がりより漸次しだいに元気衰へつ、夜よに入りて雨の降り出づるに薄ら淋しくなり増まさりぬ。漫そゞろに昨夜さくやを憶起おもひおこして、転うたた恐怖の念に堪たへず、斯くと知らば日の中うちに辞して斯塾を去るべかりし、よしなき好奇心に駆られし身は臆病神の犠牲となれり。

 只管ひたすら洋灯ランプを明あかくする、これせめてもの附元気つけげんき、机の前に端坐して石の如くに身を固め、心細くも唯ただ一人ひとり更け行く鐘を数へつゝ「早はや一時か」と呟く時、陰々として響き来きたる、怨むが如き婦人の泣声、柱を回めぐり襖を潜くゞり、壁に浸入しみいる如くなり。

 南無三なむさん膝を立直たてなほし、立ちもやらず坐りも果てで、魂たましひ宙に浮く処ところに、沈んで聞こゆる婦人の声、「山田やまだ山田」と我が名を呼ぶ、哬呀あなやと頭かうべを掉傾ふりかたむけ、聞けば聞くほど判然と疑うたがひも無き我が名の山田「山田山田」と呼立つるが、囁く如く近くなり、叫ぶが如くまた遠くなる、南無阿弥陀仏コハ堪たまらじ。


     六


 今はハヤ須臾しゆゆの間まも忍び難がたし、臆病者と笑はば笑へ、恥も外聞も要いらばこそ、予は慌あわたゞしく書斎を出でて奥座敷の方かたに駈行かけゆきぬ。蓋けだし松川の臥戸ふしどに身を投じて、味方を得ばやと欲おもひしなり。

 既すでにして、松川が閨ねやに到れば、こはそもいかに彼かの泣声なきごゑは正まさに此室このまの裡うちよりす、予は入はひるにも入はひられず愕然がくぜんとして襖ふすまの外に戦わななきながら突立つツたてり。

 然しかるに松川は未いまだ眠らでぞある。鬱うつし怒いかれる音調以もて、「愛想あいその尽つきた獣けだものだな、汝おのれ、苟いやしくも諸生を教へる松川の妹でありながら、十二にもなつて何の事だ、何どうしたらまたそんなに学校が嫌いやなのだ。これまで幾度いくたびと数知れず根競こんくらべと思つて意見をしても少しも料簡れうけんが直らない、道で遊んで居ては人眼に立つと思ふかして途方も無い学校へ行くてつちやあ家うちを出て、此頃このごろは庭の竹藪に隠れて居る。此間このあひだ見着みつけた時には、腹は立たないで涙が出たぞ」と切歯はがみをなして憤いきどほる。

 傍かたはらより老いたる婦人をんなの声として「これお長ちやう、母様おつかさんのいふ事も兄様にいさんのおつしやる事もお前は合点がてんが行ゆかないかい、狂気きちがひの様やうな娘を持つた私わたしや何なんといふ因果であらうね。其癖そのくせ、犬に吠えられた時、お弁当のお菜さいを遣やつて口塞くちふさぎをした気転なんぞ、満更まんざらの馬鹿でも無いに」と愚痴ぐちを零こぼすは母親ならむ。

 松川は腹立たしげに「其それが馬鹿智慧と謂ふもんだ、馬鹿に小才こさいのあるのはまるつきりの馬鹿よりなほ不可いけない。彼あの時藪の中から引摺出ひきずりだして押入の中へ入れて置くと、死ぬ様な声を出して泣くもんだから──何時いつだつけ、むゝ俺が誕生の晩だ──山田に何が泣いてるのだと問はれて冷汗を掻かいたぞ。貴様が法外な白痴たはけだから己おれに妹があると謂ふことは人に秘かくして居をる位くらゐ、山田の知らないのも道理もつともだが、これ〳〵で意見をするとは恥かしくつて言はれもしない。それでも親の慈悲や兄の情なさけで何どうかして学校へも行ゆく様に真人間にして遣やりたいと思へばこそ性懲しやうこりを附つけよう為に、昨夜ゆうべだつて左様さうだ、一晩裸にして夜着よぎも被きせずに打棄うつちやつて置いたのだ。すると何うだ、己おれにお謝罪わびをすれば未まだしも可愛気かはいげがあるけれど、いくら寒いたつて余あんまりな、山田の寝床へ潜込もぐりこみに行いきをつた。彼あれが妖怪ばけものと思違ひをして居るのも否いやとは謂はれぬ。妖怪より余程よつぽど怖い馬鹿だもの、今夜はもう意見をするんぢやあないから謝罪わびたつて承知はしない、撲殺なぐりころすのだから左様思へ」と笞しもとの音ひうと鳴りて肉を鞭むちうつ響ひゞきせり。女むすめはひい〳〵と泣きながら、「姉様謝罪おわびをして頂戴よう、あいたゝ、姉様よう」と、哀あはれなる声にて助たすけを呼ぶ。

 今姉さんと呼ばれしは松川の細君なり。「これまで幾度謝罪をして進あげましても、お前様の料簡が直らないから、もうもう何と謂つたつて御肯入おきゝいれなさらない、妾わたしが謂つたつて所詮しよせん駄目です、あゝ、余り酷ひどうございますよ。少し御手柔おてやはらかに遊ばせ、あれ〳〵それぢやあ真個ほんとに死んでしまひますわね、母様、もし旦那つてば、御二人で御折檻なさるから仕様しやうが無い、えゝ何どうせうね、一寸ちよつと来て下ください」と声震はし「山田さん、山田さん」我を呼びしは、さては是これか。

底本:「日本の名随筆 別巻64 怪談」作品社

   1996(平成8)年6月25日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第二十七卷」岩波書店

   1942(昭和17)年10月

※疑問点の確認、修正に当たっては、親本を参照しました。

入力:土屋隆

校正:門田裕志

2006年3月20日作成

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