鎮西八郎
楠山正雄



     一


 八幡太郎義家はちまんたろうよしいえから三代だいめの源氏げんじの大将たいしょうを六条判官為義ろくじょうほうがんためよしといいました。為義ためよしはたいそうな子福者こぶくしゃで、男おとこの子供こどもだけでも十四五人にんもありました。そのうちで一番ばん上のにいさんの義朝よしともは、頼朝よりともや義経よしつねのおとうさんに当あたる人で、なかなか強つよい大将たいしょうでしたけれど、それよりももっと強つよい、それこそ先祖せんぞの八幡太郎はちまんたろうに負まけないほどの強つよい大将たいしょうというのは、八男なんの鎮西八郎為朝ちんぜいはちろうためともでした。

 なぜ為朝ためともを鎮西八郎ちんぜいはちろうというかといいますと、それはこういうわけです。いったいこの為朝ためともは子供こどものうちからほかの兄弟きょうだいたちとは一人ひとりちがって、体からだもずっと大きいし、力ちからが強つよくって、勇気ゆうきがあって、世よの中に何なに一つこわいというもののない少年しょうねんでした。それに生うまれつき弓ゆみを射いることがたいそう上手じょうずで、それこそ八幡太郎はちまんたろうの生うまれかわりだといわれるほどでした。それどころか、八幡太郎はちまんたろうは弓ゆみの名人めいじんでしたけれど、人並ひとなみとちがった強つよい弓ゆみを引ひくということはなかったのですが、為朝ためともは背せいの高たかさが七尺しゃくもあって、力ちからの強つよい上に、腕うでが人並ひとなみより長ながく、とりわけ左ひだりの手が右みぎの手より四寸すんも長ながかったものですから、並なみの二倍ばいもある強つよい弓ゆみに、二倍ばいもある長ながい矢やをつがえては引ひいたのです。ですから為朝ためともの射いる矢やは、並なみの人の矢やがやっと一町ちょうか二町ちょう走はしるところを五町ちょうも六町ちょうの先さきまで飛とんで行いき、ただ一矢やで敵てきの三人にんや四人にん手負ておわせないことはないくらいでした。

 こんなふうですから、子供こどもの時ときから強つよくって、けんかをしても、ほかの兄弟きょうだいたちはみんな負まかされてしまいました。兄弟きょうだいたちは為朝ためともが半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはにくらしがって、何なにかにつけてはおとうさんの為義ためよしの所ところへ行っては、八郎はちろうがいけない、いけないというものですから、為義ためよしもうるさがって、度々たびたび為朝ためともをしかりました。いくらしかられても為朝ためともは平気へいきで、あいかわらず、いたずらばかりするものですから、為義ためよしも困こまりきって、ある時とき、

「お前まえのような乱暴者らんぼうものを都みやこへ置おくと、今いまにどんなことをしでかすかわからない。今日きょうからどこへでも好すきな所ところへ行ってしまえ。」

 といって、うちから追おい出だしてしまいました。その時とき為朝ためともはやっと十三になったばかりでした。

 うちから追おい出だされても、為朝ためともはいっこう困こまった顔かおもしないで、

「いじのわるいにいさんたちや、小言こごとばかりいうおとうさんなんか、そばにいない方ほうがいい。ああ、これでのうのうした。」

 と心こころの中で思おもって、家来けらいもつれずたった一人ひとり、どこというあてもなく運うんだめしに出かけました。


     二


 国々くにぐにを方々ほうぼうめぐりあるいて、為朝ためともはとうとう九州きゅうしゅうに渡わたりました。その時分じぶん九州きゅうしゅうのうちには、たくさんの大名だいみょうがあって、めいめい国くにを分わけ取どりにしていました。そしてそのてんでんの国くににいかめしいお城しろをかまえて、少すこしでも領分りょうぶんをひろめようというので、お隣同士となりどうし始終しじゅう戦争せんそうばかりしあっていました。

 為朝ためともは九州きゅうしゅうに下くだると、さっそく肥後ひごの国くにに根城ねじろを定さだめ、阿蘇忠国あそのただくにという大名だいみょうを家来けらいにして、自分勝手じぶんがってに九州きゅうしゅうの総追捕使そうついほしという役やくになって、九州きゅうしゅうの大名だいみょうを残のこらず打うち従したがえようとしました。九州きゅうしゅうの総追捕使そうついほしというのは、九州きゅうしゅうの総督そうとくという意味いみなのです。すると外ほかの大名だいみょうたちは、これも半分はんぶんはこわいし、半分はんぶんはいまいましがって、

「為朝ためともは総追捕使そうついほしだなんぞといって、いばっているが、いったいだれからゆるされたのだ。生意気なまいきな小僧こぞうじゃないか。」

 といいいい、てんでんのお城しろに立たてこもって、為朝ためともが攻せめて来きたら、あべこべにたたき伏ふせてやろうと待まちかまえていました。

 為朝ためともは聞きくと笑わらって、

「はッは。たかが九州きゅうしゅうの小大名こだいみょうのくせに、ばかなやつらだ。いったいおれを何なんだと思おもっているのだろう。子供こどもだって、りっぱな源氏げんじの本家ほんけの八男なんじゃないか。」

 こういって、すぐ阿蘇忠国あそのただくにを案内者あんないしゃにして、わずかな味方みかたの兵へいを連つれたなり、九州きゅうしゅうの城しろという城しろを片かたっぱしからめぐり歩あるいて、十三の年としの春はるから十五の年としの秋あきまで、大戦おおいくさだけでも二十何度なんど、その外ほか小ちいさな戦いくさは数かずのしれないほどやって、攻せめ落おとした城しろの数かずだけでも何なん十箇所かしょというくらいでした。それで三年ねんめの末すえにはとうとう九州きゅうしゅう残のこらず打うち従したがえて、こんどこそほんとうに総追捕使そうついほしになってしまいました。

 すると為朝ためともに打うち従したがえられた大名だいみょうたちは、うわべは降参こうさんした体ていに見みせかけながら、腹はらの中ではくやしくってくやしくってなりませんでした。そこでそっと都みやこに使つかいを立たてて、為朝ためともが九州きゅうしゅうに来きてさんざん乱暴らんぼうを働はたらいたこと、天子てんしさまのお許ゆるしも受うけないで、自分勝手じぶんかってに九州きゅうしゅうの総追捕使そうついほしになったことなどをくわしく手紙てがみに書かき、その上に為朝ためともの悪口わるくちを有あること無ないことたくさんにならべて、どうか一日にちも早はやく為朝ためともをつかまえて、九州きゅうしゅうの人民じんみんの難儀なんぎをお救すくい下くださいと申もうし上あげました。

 天子てんしさまはたいそうお驚おどろきになって、さっそく役人やくにんをやって為朝ためともをお呼よび返かえしになりました。けれども為朝ためともは、

「きっとこれはだれかが天子てんしさまに讒言ざんげんしたにちがいない。天子てんしさまには、間違まちがいだからといって、よく申もうし上あげてくれ。」

 といって、役人やくにんを追おい返かえしてしまいました。

 為朝ためともがいうことをきかないので、天子てんしさまはお怒おこりになって、子供こどもの悪わるいのは親おやのせいだからというので、おとうさんの為義ためよしを免職めんしょくして、隠居いんきょさせておしまいになりました。

 為朝ためともは、おとうさんが自分じぶんの代かわりに罰ばつを受うけたということを聞ききますと、はじめてびっくりしました。

「おれは天子てんしさまのお罰ばつをうけることをこわがって、都みやこへ行かないのではない。それを自分じぶんが行かないために、年としを取とられたおとうさんがおとがめをうけるというのはお気きの毒どくなことだ。そういうわけなら一日にちも早はやく都みやこに上のぼって、おとうさんの代かわりにどんなおしおきでも受うけることにしよう。」

 こういって為朝ためともはさっそく今いまの楽たのしい身分みぶんをぽんと棄すてて、前まえに下くだって来きた時ときと同様どうよう、家来けらいも連つれずたった一人ひとりでひょっこり都みやこへ帰かえって行こうとしました。ところが長ながい間あいだ為朝ためともになついて、影身かげみにそうように片時かたときもそばをはなれない二十八騎きの武士ぶしが、どうしてもお供ともについて行きたいといってききませんので、為朝ためともも困こまって、これだけはいっしょに連つれて都みやこに上のぼることにしました。

 こういうわけで九州きゅうしゅうから為朝ためともについて来きた家来けらいは二十八騎きだけでしたが、どうしてもお供ともができなければ、せめて途中とちゅうまでお見送みおくりがしたいといって、いくら断ことわっても、断ことわっても、どこまでも、どこまでも、ぞろぞろついてくる家来けらいたちの数かずはそれはそれはおびただしいものでした。為朝ためともは力ちからが強つよいばかりでなく、おとうさんに孝心こうしんぶかいと同様どうよう、だれに向むかっても情なさけぶかい、心こころのやさしい人でしたから、三年ねんいるうちにこんなに大勢おおぜいの人から慕したわれて、ほんとうに九州きゅうしゅうの王おうさま同様どうようだったのです。それでだれいうとなく、為朝ためとものことを鎮西八郎ちんぜいはちろうと呼よぶようになりました。鎮西ちんぜいというのは西にしの国くにということで、九州きゅうしゅうの異名いみょうでございます。


     三


 さて為朝ためともは一日にちも早はやくおとうさんを窮屈きゅうくつなおしこめから出だしてあげたいと思おもって、急いそいで都みやこに上のぼりました。ところが上のぼってみておどろいたことには、都みやこの中はざわざわ物騒ものさわがしくって、今いまに戦争せんそうがはじまるのだといって、人民じんみんたちはみんなうろたえて右みぎに左ひだりに逃にげ廻まわっていました。どうしたのだろうと思おもって聞きくと、なんでも今いまの天子てんしさまの後白河天皇ごしらかわてんのうさまと、とうにお位くらいをおすべりになって新院しんいんとおよばれになった先さきの天子てんしさまの崇徳院すとくいんさまとの間あいだに行きちがいができて、敵味方てきみかたに別わかれて戦争せんそうをなさろうというのでした。朝廷ちょうていが二派ふたはに分わかれたものですから、自然しぜんおそばの武士ぶしたちの仲間なかまも二派ふたはに分わかれました。そして、後白河天皇ごしらかわてんのうの方ほうへは源義朝みなもとのよしともだの平清盛たいらのきよもりだの、源三位頼政げんざんみのよりまさだのという、そのころ一ばん名高なだかい大将たいしょうたちが残のこらずお味方みかたに上あがりましたから、新院しんいんの方ほうでも負まけずに強つよい大将たいしょうたちをお集あつめになるつもりで、まずおとがめをうけて押おしこめられている六条判官為義ろくじょうほうがんためよしの罪つみをゆるして、味方みかたの大将軍たいしょうぐんになさいました。為義ためよしはもう七十の上を出た年寄としよりのことでもあり、天子てんしさま同士どうしのお争あらそいでは、どちらのお身方みかたをしてもぐあいが悪わるいと思おもって、

「わたくしはこのまま引ひき籠こもっていとうございます。」

 といって、はじめはお断ことわりを申もうし上あげたのですが、どうしてもお聞きき入いれにならないので、しかたなしに長男ちょうなんの義朝よしともをのけた外ほかの子供こどもたちを残のこらず連つれて、新院しんいんの御所ごしょに上あがることになりました。

 そういうさわぎの中に為朝ためともがひょっこり帰かえって来きたのです。為義ためよしももう昔むかしのように為朝ためともをしかっているひまはありません。大おおよろこびで、さっそく為朝ためともを味方みかたに加くわえて、みんなすぐと出陣しゅつじんの用意よういにとりかかりました。


     四


 為朝ためともはやがて二十八騎きの家来けらいをつれて新院しんいんの御所ごしょに上あがりました。新院しんいんは味方みかたの勢せいが少すくないので心配しんぱいしておいでになるところでしたから、為朝ためともが来きたとお聞ききになりますと、たいそうおよろこびになって、さっそくおそばに呼よんで、

「いくさの駆かけ引ひきはどうしたものだろう。」

 とおたずねになりました。すると為朝ためともはおそれ気げもなく、はっきりと力ちからのこもった口調くちょうで、

「わたくしは久ひさしく九州きゅうしゅうに居おりまして、何なん十度どとなくいくさをいたしましたが、こちらから寄よせて敵てきを攻せめますにも、敵てきを引ひきうけて戦たたかいますにも、夜討ようちにまさるものはございません。今夜こんやこれからすぐ敵てきの本営ほんえいの高松殿たかまつどのにおしよせて、三方ぼうから火をつけて焼やき立たてた上、向むかってくる敵てきを一方ぽうに引ひき受うけてはげしく攻せめ立たてることにいたしましょう。そうすると、火に追おわれて逃にげてくるものは矢やで射いとります。矢やをおそれて逃にげて行いくものは火に焼やき立たてられて命いのちを失うしないます。いずれにしても敵てきは袋ふくろの中のねずみ同様どうよう手も足も出だせるものではございません。それにあちらへお味方みかたに上あがった武士ぶしの中で、いくらか手ごわいのはわたくしの兄あに義朝よしとも一人ひとりでございますが、これとてもわたくしが矢先やさきにかけて打うち倒たおしてしまいます。まして清盛きよもりなどが人なみにひょろひょろ矢やの一つ二つ射いかけましたところで、ついこの鎧よろいの袖そでではね返かえしてしまうまででございます。まあ、わたくしの考かんがえでは、夜よの明あけるまでもございません。まだくらいうちに勝負しょうぶはついてしまいましょう。御安心ごあんしん下くださいまし。」

 といいました。

 為朝ためともがこうりっぱに言いいきりますと、新院しんいんはじめおそばの人ひとたちは、「なるほど。」と思おもって、よけい為朝ためともをたのもしく思おもいました。するとその中で一人ひとり左大臣さだいじんの頼長よりなががあざ笑わらって、

「ばかなことをいえ。夜討ようちなどということは、お前まえなどの仲間なかまの二十騎きか三十騎きでやるけんか同様どうようの小こぜりあいならば知しらぬこと、恐おそれ多おおくも天皇てんのうと上皇じょうこうのお争あらそいから、源氏げんじと平家へいけが敵味方てきみかたに分わかれて力ちからくらべをしようという大おおいくさだ。そんな卑怯ひきょうな駆かけ引ひきはできぬ。やはり夜よの明あけるのを待まって、堂々どうどうと勝負しょうぶを争あらそう外ほかはない。」

 といって、せっかくの為朝ためとものはかりごとをとり上あげようともしませんでした。

 為朝ためともは、おもしろく思おもいませんでしたけれど、むりに争あらそってもむだだと思おもいましたから、そのままおじぎをして退しりぞきました。そして心こころの中では、

「何なにもしらない公卿くげのくせによけいな差さし出口でぐちをするはいいが、今いまにあべこべに敵てきから夜討ようちをしかけられて、その時ときにあわててもどうにもなるまい。こんなふうでは、この戦いくさにはとても勝かてる見込みこみはない。まあ、働はたらけるだけ働はたらいて、あとはいさぎよく討うち死じにをしよう。」

 と思おもいました。

 こう覚悟かくごをきめると、それからはもう為朝ためともはぴったり黙だまり込こんだまま、しずかに敵てきの寄よせてくるのを待まっていました。

 すると案あんの定じょう、その晩ばん夜中よなか近ちかくなって、敵てきは義朝よしともと清盛きよもりを大将たいしょうにして、どんどん夜討ようちをしかけて来きました。

 頼長よりながはまさかと思おもった夜討ようちがはじまったものですから、今更いまさらのようにあわてて、為朝ためとものいうことを聞きかなかったことを後悔こうかいしました。そして為朝ためともの御機嫌ごきげんをとるつもりで、急きゅうに新院しんいんに願ねがって為朝ためともを蔵人くらんどという重おもい役やくにとり立たてようといいました。すると為朝ためともはあざ笑わらって、

「敵てきが攻せめて来きたというのに、よけいなことをする手間てまで、なぜ早はやく敵てきを防ふせぐ用意よういをしないのです。蔵人くらんどでもなんでもかまいません。わたしはあくまで鎮西八郎ちんぜいはちろうです。」

 とこうりっぱにいいきって、すぐ戦場せんじょうに向むかって行きました。

 為朝ためともが例れいの二十八騎きをつれて西にしの門もんを守まもっておりますと、そこへ清盛きよもりと重盛しげもりを大将たいしょうにして平家へいけの軍勢ぐんぜいがおしよせて来きました。

 為朝ためともはそれを見みて、

「弱虫よわむしの平家へいけめ、おどかして追おいはらってやれ。」

 と思おもいまして、敵てきがろくろく近ちかづいて来こないうちに、弓ゆみに矢やをつがえて敵てきの先手さきてに向むかって射いかけますと、この矢やが前まえに立たって進すすんで来きた伊藤いとう六の胸板むないたをみごとに射いぬいて、つきぬけた矢やが後うしろにいた伊藤いとう五の鎧よろいの袖そでに立たちました。

 伊藤いとう五がおどろいて、その矢やをぬいて清盛きよもりの所ところへもって行って見みせますと、並なみの二倍ばいもある太ふとい箆のの先さきに大おおのみのようなやじりがついていました。清盛きよもりはそれを見みたばかりでふるえ上あがって、

「なんでもこの門もんを破やぶれという仰おおせをうけたわけでもないのだから、そんならんぼう者もののいない外ほかの門もんに向むかうことにしよう。」

 と勝手かってなことをいいながら、どんどん逃にげ出だして行きました。

 するとこんどはにいさんの義朝よしともが平家へいけの代かわりに向むかって来きました。にいさんはにいさんだけの威光いこうで、いきなりしかりつけて為朝ためともを恐おそれ入いらしてやろうと思おもったと見みえて、義朝よしともは為朝ためともの顔かおの見みえるところまで来きますと、大きな声こえで、

「そこにいるのは八郎はちろうだな。にいさんに向むかって弓ゆみをひくやつがあるか。はやく弓矢ゆみやを投なげ出だして降参こうさんしないか。」

 といいました。

 すると為朝ためともは笑わらって、

「にいさんに弓ゆみをひくのがわるければ、おとうさんに向むかって弓ゆみをひくあなたはもっとわるいでしょう。」

 とやり込こめました。

 これで義朝よしとももへいこうして、だまってしまいました。そしてくやしまぎれに、はげしく味方みかたにさしずをして、めちゃめちゃに矢やを射いかけさせました。

 為朝ためともはこの様子ようすをこちらから見みて、大将たいしょうの義朝よしともをさえ射落いおとせば、一度どに勝負しょうぶがついてしまうのだと考かんがえました。そこで弓ゆみに矢やをつがえて、義朝よしともの方ほうにねらいをつけました。

「あの仰あおむけている首筋くびすじを射いてやろうか。だいぶ厚あつい鎧よろいを着きているが、あの上から胸板むないたを射いとおすぐらいさしてむずかしくもなさそうだ。」

 こう為朝ためともは思おもいながら、すぐ矢やを放はなそうとしましたが、ふと、

「いや待まて。いくら敵てきでもにいさんはにいさんだ。それにこうして父子おやこわかれわかれになっていても、おとうさんとにいさんの間あいだに内ないしょの約束やくそくがあって、どちらが負まけてもお互たがいに助たすけ合あうことになっているのかもしれない。」

 と思おもい返かえして、わざとねらいをはずして、義朝よしともの兜かぶとに射いあてました。すると矢やは兜かぶとの星ほしを射いけずって、その後うしろの門もんの七八寸すんもあろうという扉とびらをぷすりと射いぬきました。これだけで義朝よしともは胆きもを冷ひやして、これも外ほかの門もんへ逃にげ出だして行きました。

 こうして為朝ためとも一人ひとりに射いすくめられて、その守まもっている門もんにはだれも近ちかづきませんでしたが、なんといっても向むこうは人数にんずうが多おおい上に、こちらの油断ゆだんにつけ込こんで夜討ようちをしかけて来きたのですから、はじめから元気げんきがちがいます。とうとう外ほかの門もんが一つ一つ片かたはしからうち破やぶられ、やがてどっと総そうくずれになりました。

 こうなると為朝ためとも一人ひとりいかに力りきんでもどうもなりません。例れいの二十八騎きもちりぢりになってしまったので、ただ一人ひとり近江おうみの方ほうへ落おちて行きました。

 その後のち、新院しんいんはおとらわれになって、讃岐さぬきの国くにに流ながされ、頼長よりながは逃にげて行いく途中とちゅうだれが射いたともしれない矢やに射いられて死しにました。

 おとうさんの為義ためよしはじめ兄弟きょうだいたちは残のこらずつかまって、首くびをきられてしまいました。

 その中で為朝ためともは一人ひとり、いつまでもつかまらずに、近江おうみの田舎いなかにかくれていましたが、戦いくさの時ときにうけたひじの矢やきずがはれて、ひどく痛いたみ出だしたものですから、ある時とき近所きんじょの温泉おんせんに入はいって矢やきずのりょうじをしていました。するとかねてから為朝ためとものゆくえをさがしていた平家へいけの討うっ手てが向むかって、為朝ためともの油断ゆだんをねらって、大勢おおぜい一度どにおそいかかってつかまえてしまいました。

 為朝ためともはそれから京都きょうとへ引ひかれて、首くびをきられるはずでしたが、天子てんしさまは為朝ためともの武勇ぶゆうをお聞ききになって、

「そういう勇士ゆうしをむざむざと殺ころすのはもったいない。なんとかして助たすけてやったらどうか。」

 とおっしゃいました。そこで為朝ためともの死罪しざいを許ゆるして、その代かわり強つよい弓ゆみの引ひけないように、ひじの筋すじを抜ぬいて伊豆いずの大島おおしまに流ながしました。

 為朝ためともは筋すじを抜ぬかれて弓ゆみは少すこし弱よわくなりましたが、ひじがのびたので、前まえよりもかえって長ながい矢やを射いることができるようになりました。


     五


 為朝ためともは大島おおしまへ渡わたると、

「おれは八幡太郎はちまんたろうの孫まごだ。この島しまは天子てんしさまから頂いただいたものだ。」

 といって、島しまを討うち従したがえてしまいました。そのうち方々ほうぼうにかくれていた為朝ためともの家来けらいが、一人ひとり二人ふたりとだんだん集あつまって来きて為朝ためともにつきました。

「九州きゅうしゅうよりはずっと小ちいさいが、また為朝ためともの国くにができた。」

 こういって、為朝ためともはここでも王おうさまのような威勢いせいになりました。

 ある時とき為朝ためともは海うみばたに出て、はるか沖おきの方ほうをながめていますと、白しろいさぎと青あおいさぎが二羽わつれ立だって海うみの上を飛とんで行きます。為朝ためともはそれをながめて、

「わしかなんぞなら知しらないが、さぎのような羽はねの弱よわいものでは、せいぜい一里りか二里りぐらいしか飛とぶ力ちからはないはずだ。それがああして行くところを見みると、きっとここからそう遠とおくないところに島しまがあるにちがいない。」

 といって、そのまま小船こぶねにとび乗のって、さぎの飛とんで行った方角ほうがくに向むかってどこまでもこいで行きました。

 その日一日にちこいで、海うみの上で日がくれましたが、島しまらしいものは見みつかりません。夜よるはちょうど月のいいのを幸さいわいに、またどこまでもこいで行きますと、明あけ方がたになって、やっと島しまらしいものの形かたちが見みえました。

 為朝ためともはだんだんそばへよってみますと、岸きしは岩いわがけわしい上に波なみが高たかいので、船ふねが着つけられません。さんざん回まわりをこぎ回まわりますと、やっと平たいらな州すのようなところがあって、島しまの中から小ちいさな川がそこに流ながれ出だしていました。

 為朝ためともはそこから上あがって、ずんずん奥おくへ入はいって見みますと、一めん、岩いわでたたんだような土地とちで、田たもなければ畠はたもありません。ところどころに見みなれない草木くさきが生はえて、珍めずらしい匂においの花はなが咲さいていました。

 いくら歩あるいても家いえらしいものも見みえませんでしたが、そのうちいつどこから出て来きたか、一丈じょうも背せいの高たかさのある大男おおおとこがのそのそと出て来きました。まっくろな体からだに毛けがもじゃもじゃ生はえて、頭あたまの髪かみの毛けはまっ赤かで、針はりを植うえたようでした。

 為朝ためともは不思議ふしぎに思おもって、

「この島しまは何なんという島しまだ。」

 と大男おおおとこの一人ひとりに聞ききますと、

「鬼おにガ島しまといいます。」

 とこたえました。

 為朝ためともは、いよいよ珍めずらしく思おもって、

「じゃあお前まえたちは鬼おにか。それとも先祖せんぞが鬼おにだったのか。」

 とたずねました。

「そうです。わたくしどもは鬼おにの子孫しそんです。」

「鬼おにガ島しまなら、宝たからがあるだろう。」

「むかしほんとうの鬼おにだった時分じぶんには、かくれみのだの、かくれがさだの、水の上を浮うく靴くつだのというものがあったのですが、今いまでは半分はんぶん人間にんげんになってしまって、そういう宝たからもいつの間まにかなくなってしまいました。」

「よその島しまへ渡わたったことはないか。」

「むかしは船ふねがなくっても、ずんずん、よその島しまへ行って、人をとったりしたこともありましたが、今いまでは船ふねもないし、たまによそから風かぜにふきつけられてくる船ふねがあっても、波なみが荒あらいので、岸きしに上あがろうとすると岩いわにぶつかって砕くだけてしまうのです。」

「何なにを食たべて生いきている。」

「魚さかなと鳥とりを食たべます。魚さかなはひとりでに磯いそに上あがって来きます。穴あなを掘ほってその中にかくれて、鳥とりの声こえをまねていると、鳥とりはだまされて穴あなの中にとび込こんで来きます。それをとって食たべるのです。」

 こういっている時ときに、ひよどりのような鳥とりがたくさん空そらの上をかけって来きました。為朝ためともはもって来きた弓ゆみに矢やをつがえて、鳥とりに向むかって射いかけますと、すぐ五六羽ぱばたばたと重かさなり合あって落おちて来きました。

 島しまの大男おおおとこは弓矢ゆみやを見みたのは初はじめてなので、目をまるくして見みていましたが、空そらを飛とんでいるものが、射落いおとされたのを見みて、舌したをまいておじおそれました。そして為朝ためともを神かみさまのように敬うやまいました。

 為朝ためともは鬼おにガ島しまを平たいらげたついでに、ずんずん船ふねをこぎすすめて、やがて伊豆いずの島々しまじまを残のこらず自分じぶんの領分りょうぶんにしてしまいました。そして鬼おにガ島しまから大男おおおとこを一人ひとりつれて、大島おおしまへ帰かえって来きました。

 大島おおしまの者ものは、為朝ためともが小船こぶねに乗のって出たなり未いまだに帰かえって来こないので、どうしたのかと思おもっていますと、ある日ひ恐おそろしい鬼おにをつれてひょっこり帰かえって来きたので、みんなびっくりしてしまいました。


     六


 こうして為朝ためともは十年ねんたたないうちに、たくさんの島しまを討うち従したがえて、海うみの王おうさまのような勢いきおいになりました。すると為朝ためとものために大島おおしまを追おわれた役人やくにんがくやしがって、ある時とき都みやこに上のぼり、為朝ためともが伊豆いずの七島とうを勝手かってに奪うばった上に、鬼おにガ島しまから鬼おにをつれて来きて、らんぼうを働はたらかせている、捨すてて置おくと、今いまにまた謀反むほんの戦いくさをおこすかもしれませんといって訴うったえました。

 天子てんしさまはたいそうおおどろきになり、伊豆いずの国司こくしの狩野介茂光かののすけしげみつというものにたくさんの兵へいをつけて、二十余艘よそうの船ふねで大島おおしまをお攻せめさせになりました。

 為朝ためともは岸きしの上からはるかに敵てきの船の帆ほかげを見みると、あざ笑わらいながら、

「久ひさしぶりで腕うでだめしをするか。」

 といって、例れいの強つよい弓ゆみに長ながい矢やをつがえて、まっ先さきに進すすんだ大きな船ふねの胴腹どうばらをめがけて矢やを射込いこみました。すると船ふねはみごとに大穴おおあながあいて、たくさんの兵へいを乗のせたまま、ぶくぶくと海うみの中に沈しずんでしまいました。敵てきはあわてて海うみの中でしどろもどろに乱みだれて騒さわぎはじめました。

 為朝ためともはつづいて二の矢やをつがえようとしましたが、船ふねを沈しずめられた大おおぜいの敵兵てきへいが、おぼれまいとして水の中であっぷ、あっぷもがいている様子ようすを見みると、ふとかわいそうになって、

「かれらはいいつけられて為朝ためともを討うちに来きたというだけで、もとよりおれにはあだも恨うらみもない者ものどもだ。そんなものの命いのちをこの上むだにとるには忍しのびない。それにいったんこうして敵てきを退しりぞけたところで、朝敵ちょうてきになっていつまでも手向てむかいがしつづけられるものではない。考かんがえて見みると、おれもいろいろおもしろいことをして来きたから、もう死しんでも惜おしくはない。おれがここで一人ひとり死しんでやれば、大おおぜいの命いのちが助たすかるわけだ。」

 こういって、為朝ためともはそのままうちにかえって、自分じぶんの居間いまにはいると、しずかに切腹せっぷくして死しんでしまいました。

 そのあとで寄よせ手ては、こわごわ島しまに上あがって見みて、為朝ためともが一人ひとりでりっぱに死しんでいるのを見みてまたびっくりしました。

底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社

   1983(昭和58)年6月10日第1刷発行

※「鬼ガ島」の「ガ」は底本では小書きになっています。

入力:鈴木厚司

校正:今井忠夫

2004年1月6日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。