南地心中
泉鏡花



       一


「今のは、」

 初阪はつざかものの赤毛布あかげっと、という処ところを、十月の半ば過ぎ、小春凪こはるなぎで、ちと逆上のぼせるほどな暖かさに、下着さえ襲かさねて重し、野暮な縞しまも隠されず、頬被ほおかぶりがわりの鳥打帽で、朝から見物に出掛けた……この初阪とは、伝え聞く、富士、浅間、大山、筑波つくば、はじめて、出立いでたつを初山と称となうるに傚ならって、大阪の地へ初見参ういけんざんという意味である。

 その男が、天満橋てんまばしを北へ渡越した処で、同伴つれのものに聞いた。

「今のは?」

「大阪城でございますさ。」

 と片頬かたほ笑みでわざと云う。結城ゆうきの藍微塵あいみじんの一枚着、唐桟柄とうざんがらの袷羽織あわせばおり、茶献上博多けんじょうはかたの帯をぐいと緊しめ、白柔皮しろなめしの緒の雪駄穿せったばきで、髪をすっきりと刈った、気の利いた若いもの、風俗は一目で知れる……俳優やくしゃ部屋の男衆おとこしゅで、初阪ものには不似合な伝法。

「まさか、天満の橋の上から、淀川よどがわを控えて、城を見て──当人寝が足りない処へ、こう照てりつけられて、道頓堀どうとんぼりから千日前、この辺の沸にえくり返る町の中を見物だから、茫ぼうとなって、夢を見たようだけれど、それだって、大阪に居る事は確たしかに承知の上です──言わなくっても大阪城だけは分ろうじゃないか。」

「御道理ごもっともで、ふふふ、」

 男衆はまた笑いながら、

「ですがね、欄干へ立って、淀川堤を御覧なさると、貴方あなた、恍惚うっとりとおなんなさいましたぜ。熟じっと考え込んでおしまいなすって、何かお話しするのもお気の毒なような御様子ですから、私も黙だんまりでね。ええ、……時間の都合で、そちらへは廻らないまでも、網島の見当は御案内をしろって、親方に吩咐いいつかって参ったんで、あすこで一ツ、桜宮から網島を口上で申し上げようと思っていたのに、あんまり腕組をなすったんで、いや、案内者、大きに水を見て涼みました。

 それから、ずっと黙りで、橋を渡った処で、(今のは、)とお尋ねなさるんでさ、義理にも大阪城、と申さないじゃ、第一日本一の名城に対して、ははは、」とものありげにちょっと顔を見る。

 初阪は鳥打の庇ひさしに手を当て、

「分りましたよ。真田幸村さなだゆきむらに対しても、決して粗略には存じません。萌黄色もえぎいろの海のような、音に聞いた淀川が、大阪を真二まっぷたつに分けたように悠揚ゆっくり流れる。

 電車の塵ちりも冬空です……澄透すみとおった空に晃々きらきらと太陽ひが照って、五月頃の潮うしおが押寄せるかと思う人通りの激しい中を、薄い霧一筋、岸から離れて、さながら、東海道で富士を視ながめるように、あの、城が見えたっけ。

 川蒸汽の、ばらばらと川浪を蹴けるのなんぞは、高櫓たかやぐらの瓦かわら一枚浮かしたほどにも思われず、……船に掛けた白帆くらいは、城の壁の映るのから見れば、些細ささいな塵です。

 その、空に浮出したような、水に沈んだような、そして幻のような、そうかと思うと、歴然ありありと、ああ、あれが、嬰児あかんぼの時から桃太郎と一所にお馴染なじみの城か、と思って見ていると、城のその屋根の上へ、山も見えぬのに、鵺ぬえが乗って来そうな雲が、真黒まっくろな壁で上から圧附おしつけるばかり、鉛を熔とかして、むらむらと湧懸わきかかって来たろうではないか。」

 初阪は意気を込めて、杖ステッキをわきに挟んで云った。


       二


 七筋ばかり、工場の呼吸いきであろう、黒煙くろけむりが、こう、風がないから、真直まっすぐに立騰たちのぼって、城の櫓やぐらの棟を巻いて、その蔽被おおいかぶさった暗い雲の中で、末が乱れて、むらむらと崩立くずれたって、倒さかさまに高く淀川の空へ靡なびく。……

 なびくに脈を打って、七筋ながら、処々ところどころ、斜めに太陽の光を浴びつつ、白泡立てて渦うずまいた、その凄すごかった事と云ったら。

 天守の千畳敷へ打込んだ、関東勢の大砲おおづつが炎を吐いて転がる中に、淀君をはじめ、夥多あまたの美人の、練衣ねりぎぬ、紅くれないの袴はかまが寸断々々ずたずたに、城と一所に滅ぶる景色が、目に見える。……雲を貫く、工場の太い煙は、丈に余る黒髪が、縺もつれて乱れるよう、そして、倒さかさまに立ったのは、長とこしえに消えぬ人々の怨恨うらみと見えた。

 大河おおかわの両岸りょうぎしは、細い樹の枝に、薄紫の靄もやが、すらすら。蒼空あおぞらの下を、矢輻やぼねの晃々きらきらと光る車が、駈かけてもいたのに、……水には帆の影も澄んだのに、……どうしてその時、大阪城の空ばかり暗澹あんたんとして曇ったろう。

「ああ、あの雲だ。」

 と初阪は橋の北詰に、ひしひしと並んだ商人家あきんどやの、軒の看板に隠れた城の櫓やぐらの、今は雲ばかりを、フト仰いだ。

 が、俯向うつむいて、足許あしもとに、二人連立つ影を見た。

「大丈夫だろうかね。」

「雷様ですか。」

 男衆は逸早いちはやく心得て、

「串戯じょうだんじゃありませんぜ。何の今時……」

「そんなら可いいが、」

 歩行あるき出す、と暗くなり掛けた影法師も、烈はげしい人脚の塵に消えて、天満てんま筋の真昼間まっぴるま。

 初阪は晴はれやかな顔をした。

「凄すごかったよ、私は。……その癖、この陽気だから、自然と淀川の水気が立つ、陽炎かげろうのようなものが、ひらひらと、それが櫓の面おもてへかかると、何となく、𤏋ぱっと美しい幻が添って、城の名を天下に彩っているように思われたっけ。その花やかな中にも、しかし、長い、濃い、黒髪が潜ひそんで、滝のように動いていた。」

 城を語る時、初阪の色酔えるがごとく、土地馴なれぬ足許は、ふらつくばかり危あやぶまれたが、対手あいてが、しゃんと来いの男衆だけ、確たしかに引受けられた酔漢よっぱらいに似て、擦合い、行違う人の中を、傍目わきめも触ふらず饒舌しゃべるのであった。

「時に、それについて、」

「あの、別嬪べっぴんの事でしょう。私たちが立停たちどまって、お城を見ていました。四五間さきの所に、美しく立って、同じ方を視ながめていた、あれでしょう。……貴方あなたが(今のは!)ッて一件は。それ、奴やっこを一人、お供に連れて、」

「奴を……十五六の小間使だぜ。」

「当地じゃ、奴ッてそう言います。島田髷まげに白丈長しろたけながをピンと刎はねた、小凜々こりりしい。お約束でね、御寮人には附きものの小女こおんなですよ。あれで御寮人の髷が、元禄だった日にゃ、菱川師宣ひしかわもろのぶえがく、というんですね。

 何だろう、とお尋ねなさるのは承知の上でさ、……また、今のを御覧なすって、お聞きなさらないじゃ、大阪が怨うらみます。」

「人が悪いな、この人は。それまで心得ていて、はぐらかすんだから。(大阪城でございます、)はちと癪しゃくだろうじゃないか。」

「はははは。」

「しかし縁のない事はない。そうして、熟じっとあの、煙の中の凄すごい櫓を視ながめていると、どうだろう。

 四五間前さきに、上品な絵の具の薄彩色うすさいしきで、彳たたずんでいた、今の、その美人の姿だがね、……淀川の流れに引かれた、私の目のせいなんだろう。すッと向うに浮いて行って、遠くの、あの、城の壁の、矢狭間やざまとも思う窓から、顔を出して、こっちを覗のぞいた。そう見えた。いつの間にか、城の中へ入って、向直って。……

 黒雲の下、煙の中で、凄いの、美しいの、と云ッて、そりゃなかった。」


       三


「だから、何だか容易ならん事が起った、と思って、……口惜くやしいが聞くんです。

 実はね、昨夜ゆうべ、中座を見物した時、すぐ隣りの桟敷さじきに居たんだよ、今の婦人おんなは……」と頷うなずくようにして初阪は云う。

 男衆はまた笑った。

「ですとも。それを知らん顔で、しらばっくれて、唯今ただいま一見いちげんという顔をなさるから、はぐらかして上げましたんでさ。」

「だって、住吉すみよし、天王寺も見ない前さきから、大阪へ着いて早々、あの婦おんなは? でもあるまいと思う。それじゃ慌て過ぎて、振袖に躓けつまずいて転ぶようだから、痩我慢やせがまんで黙然だんまりでいたんだ。」

「ところが、辛抱が仕切れなくなったでしょう、ごもっともですとも。親方もね、実は、お景物にお目に掛ける、ちょうど可いいからッて、わざと昨夜ゆうべも、貴方あなたを隣桟敷へ御案内申したんです。

 附込つけこみでね、旦那と来ていました。取巻きに六七人芸妓げいこが附いて。」

 男衆の顔を見て、

「はあ、すると堅気かい、……以前はとにかく、」

 また男衆は、こう聞かれるのを合点がってんしたらしく頷うなずくのであった。

「貴方、当時また南新地から出ているんです。……いいえ、旦那が変ったんでも、手が切れたのでもありません。やっぱり昨夜ゆうべ御覧なすった、あれが元からの旦那でね。ええ、しかも、ついこの四五日前まで、久しく引かされて、桜の宮の片辺かたほとりというのに、それこそ一枚絵になりそうな御寮人で居たんですがね。あの旦那の飛んだもの好ずきから、洒落しゃれにまた鑑札を請けて、以前のままの、お珊さんという名で、新しく披露ひろめをしました。」と質実じみに話す。

「阪地かみがたは風流だね、洒落に芸者に出すなんざ、悟ったもんですぜ、根こぎで手活ていけにした花を、人助けのため拝ませる、という寸法だろう。私なんぞも、お庇かげで土産にありついたという訳だ。」

「いいえ、隣桟敷の緋ひの毛氈もうせんに頬杖ほおづえや、橋の欄干袖振掛けて、という姿ぐらいではありません。貴方、もっと立派なお土産を御覧なさいましょうよ。御覧なさいまし、明日、翌々日あさっての晩は、唯今のお珊の方が、千日前から道頓堀、新地をかけて宝市の練ねりに出て、下げ髪、緋の袴はかまという扮装なりで、八年ぶりで練りますから。」

 一言ひとこと、下げ髪、緋の袴、と云ったのが、目のあたり城の上の雲を見た、初阪の耳を穿うがって響いた。

「何、下げ髪で、緋の袴?……」

「勿論一人じゃありません──確か十二人、同じ姿で揃って練ります。が、自分の髪を入髪いれげなしに解ときほぐして、その緋の袴と擦れ擦れに丈に余るってのは、あの婦おんなばかりだと云ったもんです。一度引いて、もうそんなに経たちますけれども、私わっしあ今日も、つい近間で見て驚きました。

 苦労も道楽もしたろうのに、雁金額かりがねびたいの生際はえぎわが、一厘だって抜上がっていませんやね、ねえ。

 やっぱり入髪なしを水で解いて、宝市は屋台ぐるみ、象を繋つないで曳ひきましょうよ。

 旦那もね、市に出して、お珊さんのその姿を、見たり、見せたりしたいばかりに、素晴らしく派手を遣やって、披露ひろめをしたんだって評判です。

 その市女いちめは、芸妓げいこに限るんです。それも芸なり、容色きりょうなり、選抜えりぬきでないと、世話人の方で出しませんから……まず選ばれた婦おんなは、一年中の外聞といったわけです。

 その中のお職だ、貴方。何しろ大阪じゃ、浜寺の魚市には、活いきた竜宮が顕あらわれる、この住吉の宝市には、天人の素足が見えるって言います。一年中の紋日もんびですから、まあ、是非お目に掛けましょう。

 貴方、一目見て立たちすくんで、」

「立すくみは大袈裟おおげさだね、人聞きが悪いじゃないか。」

「だって、今でさえ、悚然ぞっとなすったじゃありませんかね。」


       四


 男衆の浮かせ調子を、初阪はなぜか沈んで聞く。……

「まったくそりゃ悚然ぞっとしたよ。ひとりでに、あの姿が、城の中へふいと入って、向直って、こっちを見るらしい気がした時は。

 黒い煙も、お珊さんか、……その人のために空に被かぶさったように思って。

 天満の鉄橋は、瀬多の長橋ではないけれども、美濃みのへ帰る旅人に、怪しい手箱を託ことづけたり、俵藤太たわらとうだに加勢を頼んだりする人に似たように思ったのだね。

 由来、橋の上で出会う綺麗な婦おんなは、すべて凄すごいとしてある。──

 が、場所によるね……昨夜ゆうべ、隣桟敷で見た時は、同じその人だけれど、今思うと、まるで、違った婦おんなさ。……君も関東ものだから遠慮なく云うが、阪地かみがたの婦おんなはなぜだろう、生きてるのか、死んでるのか、血というものがあるのか知らん、と近所に居るのも可厭いやなくらい、酷ひどく、さました事があったんだから……」

「へい、何がございました。やたらに何か食べたんですかい。」

「何、詰つまらんことを……そうじゃない。余りと言えば見苦しいほど、大入芝居の桟敷だというのに、旦那かね、その連つれの男に、好三昧すきざんまいにされてたからさ。」

「そこは妾てかけものの悲しさですかね。どうして……当人そんなぐうたらじゃない筈はずです。意地張いじッぱりもちっと可恐こわいような婦おんなでね。以前、芸妓げいしゃで居ました時、北新地きたのしんち、新町しんまち、堀江が、一つ舞台で、芸較べを遣やった事があります。その時、南から舞で出ました。もっとも評判な踊手なんですが、それでも他ほか場所の姉さんに、ひけを取るまい。……その頃北に一人、向うへ廻わして、ちと目に余る、家元随一と云う名取りがあったもんですから、生命いのちがけに気を入れて、舞ったのは道成寺どうじょうじ。貴方、そりゃ近頃の見ものだったと評判しました。

 能がかりか、何か、白の鱗うろこの膚脱はだぬぎで、あの髪を颯さっと乱して、ト撞木しゅもくを被かぶって、供養の鐘を出た時は、何となく舞台が暗くなって、それで振袖の襦袢じゅばんを透いて、お珊さんの真白まっしろな胸が、銀色に蒼味あおみがかって光ったって騒ぎです。

 そのかわり、火のように舞い澄まして楽屋へ入ると、気を取詰めて、ばったり倒れた。後見が、回生剤きつけを呑まそうと首を抱く。一人が、装束の襟を寛くつろげようと、あの人の胸を開けたかと思うと、キャッと云って尻持をついたはどうです。

 鳩尾みずおちを緊しめた白羽二重しろはぶたえの腹巻の中へ、生々なまなまとした、長いのが一尾ぴき、蛇ですよ。畝々うねうねと巻込めてあった、そいつが、のッそり、」と慌あわただしい懐手、黒八丈を襲かさねた襟から、拇指おやゆびを出して、ぎっくり、と蝮まむしを拵こさえて、肩をぶるぶると遣って引込ひっこませて、

「鎌首を出したはどうです、いや聞いても恐れる。」とばたばたと袖を払はたく。

 初阪もそれはしかねない婦おんなと見た。

「執念の深いもんだから、あやかる気で、生命いのちがけの膚はだに絡まとったというわけだ。」

「それもあります。ですがね、心願も懸けたんですとさ。何でも願が叶かなうと云います……咒詛のろいも、恋も、情なさけも、慾よくも、意地張も同じ事。……その時鳩尾みずおちに巻いていたのは、高津こうづ辺の蛇屋で売ります……大瓶おおがめの中にぞろぞろ、という一件もので、貴方御存じですか。」

 初阪は出所を聞くと悚然ぞっとした。我知らず声を潜ひそめて、

「知ッてる……生紙きがみの紙袋かんぶくろの口を結えて、中に筋張った動脈のようにのたくる奴やつを買って帰って、一晩内に寝かしてそれから高津の宮裏の穴へ放すんだってね。」


       五


「ええ、そうですよ。その時、願事ねがいごとを、思込んで言聞かせます。そして袋の口を解ほどくと、にょろにょろと這出はいだすのが、きっと一度、目の前でとぐろを巻いて、首を擡もたげて、その人間の顔を熟じっと視みて、それから横穴へ入って隠れるって言います。

 そのくらい念の入いった長虫ですから、買手が来て、蛇屋が貯えたその大瓶おおがめの圧蓋おしぶたを外すと、何ですとさ。黒焼の註文の時だと、うじゃうじゃ我一われいちに下へ潜って、瓶の口がぐっと透く。……放される客の時だと、ぬらぬら争って頭を上げて、瓶から煙が立つようですって、……もし、不気味ですねえ。」

 初阪は背後うしろざまに仰向あおむいて空を見た。時に、城の雲は、賑にぎやかな町に立つ埃ほこりよりも薄かった。

 思懸おもいがけず、何の広告か、屋根一杯に大きな布袋ほていの絵があって、下から見上げたものの、さながら唐子からこめくのに、思わず苦笑したが、

「昨日きのうもその話を聞きながら、兵庫の港、淡路島、煙突の煙でない処は残らず屋根ばかりの、大阪を一目に見渡す、高津の宮の高台から……湯島の女坂に似た石の段壇を下りて、それから黒焼屋の前を通った時は、軒から真黒まっくろな氷柱つららが下ってるように見えて冷ひやりとしたよ。一時いっときに寒くなって──たださえ沸上にえあがり湧立わきたってる大阪が、あのまた境内に、おでん屋、てんぷら屋、煎豆屋いりまめや、とかっかっぐらぐらと、煮立て、蒸立て、焼立てて、それが天火に曝さらされているんだからね──びっしょり汗になったのが、お庇かげですっかり冷くなった。但し余り結構なお庇ではないのさ。

 大阪へ来てから、お天気続きだし、夜は万燈の中に居る気持だし、何しろ暗いと思ったのは、町を歩行あるく時でも、寝る時でも、黒焼屋の前を通った時と、今しがた城の雲を見たばかりさ。」

 男衆は偶ふと言ことばを挟んで、

「何を御覧なさる。」

「いいえね、今擦違った、それ、」

 とちょっと振向きながら、

「それ、あの、忠兵衛の養母おふくろといった隠居さんが、紙袋かんぶくろを提げているから、」

「串戯じょうだんじゃありません。」

「私は例のかと思った、……」

「ありゃ天満の亀かめの子煎餅こせんべい、……成程亀屋の隠居でしょう。誰が、貴方、あんな婆さんが禁厭まじないの蛇なんぞを、」

「ははあ、少わかいものでなくっちゃ、利かないかね。」

「そりゃ……色恋の方ですけれど……慾よくの方となると、無差別ですから、老年としよりはなお烈しいかも知れません。

 分けてこの二三日は、黒焼屋の蛇が売れ盛るって言います……誓文払せいもんばらいで、大阪中の呉服屋が、年に一度の大見切売をしますんでね、市中もこの通りまた別して賑にぎわいまさ。

 心斎橋筋の大丸なんかでは、景物の福引に十両二十両という品ものを発奮はずんで出しますんで、一番引当てよう了簡りょうけんで、禁厭まじないに蛇の袋をぶら下げて、杖を支ついて、お十夜という形で、夜中に霜を踏んで、白髪しらがで橋を渡る婆さんもあるにゃあるんで。」


       六


 男衆もちょっと町中まちなかを眗みまわした。

「まったくかも知れません、何しろ、この誓文払の前後に、何千条すじですかね、黒焼屋の瓶かめが空虚からになった事があるって言いますから。慾は可恐おそろしい。悪くすると、ぶら提げてるのに打撞ぶつからないとも限りませんよ。」

「それ! だから云わない事じゃない。」

 内端うちわながら二ツ三ツ杖ステッキを掉ふって、

「それでなくッてさえ、こう見渡した大阪の町は、通とおりも路地も、どの家も、かッと陽気に明あかるい中に、どこか一個所、陰気な暗い処が潜ひそんで、礼儀作法も、由緒因縁も、先祖の位牌いはいも、色も恋も罪も報むくいも、三世相一冊と、今の蛇一疋ずつは、主ぬしになって隠れていそうな気がする処へ、蛇瓶の話を昨日きのう聞いて、まざまざと爪立足つまだちあしで、黒焼屋の前を通ってからというものは、うっかりすると、新造しんぞも年増も、何か下掻したがいの褄つまあたりに、一条ひとすじ心得ていそうでならない。

 昨夜ゆうべも、芝居で……」

 男衆は思出したように、如才なく一ツ手を拍うった。

「時に、どうしたと云うんですえ、お珊さんが、その旦那と?……」

「まあ、お聞き──隣合った私の桟敷に、髪を桃割ももわれに結って、緋の半襟で、黒繻子くろじゅすの襟を掛けた、黄の勝った八丈といった柄の着もの、紬つむぎか何か、絣かすりの羽織をふっくりと着た。ふさふさの簪かんざしを前のめりに挿して、それは人柄な、目の涼しい、眉の優しい、口許くちもとの柔順すなおな、まだ肩揚げをした、十六七の娘が、一人入っていたろう。……出来るだけおつくりをしたろうが、着ものも帯も、余りいい家うちの娘じゃないらしいのが、」

「居ました。へい、親方が、貴方に差上げた桟敷ですから、人の入る訳はないが、と云って、私が伺いましたっけ。貴方が、(構いやしない。)と仰有おっしゃるし、そこはね、大したお目触りのものではなし……あの通りの大入で、ちょっと退どけようッて空場あなも見つからないものですから、それなりでお邪魔を願ッておきました。

 後で聞きますと、出方が、しんせつに、まあ、喜ばせてやろうッて、内々で入れたんだそうで。ありゃ何ですッて、逢阪下おうざかしもの辻──ええ、天王寺に行ゆく道です。公園寄の辻に、屋台にちょっと毛の生えたくらいの小さな店で、あんころ餅を売っている娘だそうです。いい娘こですね。」

 それは初阪がはじめて聞く。

「そう、餅屋の姉さんかい……そして何だぜ、あの芝居の厠べんじょに番をしている、爺じいさんね、大どんつくを着た逞たくましい親仁おやじだが、影法師のように見える、太ひどく、よぼけた、」

「ええ、駕籠伝かごでん、駕籠屋の伝五郎ッて、新地の駕籠屋で、ありゃその昔鳴らした男です。もう年紀としの上に、身体からだを投げた無理が出て、便所の番をしています。その伝が?」

「娘の、爺さんか父親おやじなんだ。」

 これは男衆が知らなかった。

「へい、」

「知らないのかい。」

「そうかも知れません、私わっしあ御存じの土地児とちっこじゃないんですから、見たり、聞いたり、透切すきぎれだらけで。へい、どうして、貴方?」

「ところが分った事がある。……何しろ、私が、昨夜ゆうべ、あの桟敷へ入った時、空いていた場所は、その私の処と、隣りに一間ひとま、」

「そうですよ。」

「その二間しかなかったんだ。二丁がカチと入った時さ。娘を連れて、年配の出方が一人、横手の通とおりの、竹格子だね、中座のは。……扉ひらきをツイと押して、出て来て、小さくなって、背後うしろの廊下、お極きまりだ、この処へ立つ事無用。あすこへ顔だけ出して踞しゃがんだもんです。(旦那、この娘こを一人願われませんでござりましょうか。内々うちうちのもので、客ではござりません。お部屋へ知れますと悪うござりますが、貴下様あなたさま思召おぼしめしで、)と至って慇懃いんぎんです。

 資本もとでは懸かからず、こういう時、おのぼりの気前を見せるんだ、と思ったから、さあさあ御遠慮なく、で、まず引受けたんだね。」


       七


「ずっと前へお出なさい、と云って勧めても、隅の口に遠慮して、膝に両袖を重ねて、溢こぼれる八ツ口の、綺麗な友染ゆうぜんを、袂たもとへ、手と一所に推込おしこんで、肩を落して坐っていたがね、……可愛らしいじゃないか。赤い紐ひもを緊しめて、雪輪に紅梅模様の前垂まえだれがけです。

 それでも、幕が開いて芝居に身が入いって来ると、身体からだをもじもじ、膝を立てて伸上って──背後うしろに引込ひっこんでいるんだから見辛いさね──そうしちゃ、舞台を覗込のぞきこむようにしていたっけ。つい、知らず知らず乗出して、仕切にひったりと胸を附けると、人いきれに、ほんのりと瞼まぶたを染めて、ほっとなったのが、景気提灯けいきぢょうちんの下で、こう、私とまず顔を並べた。おのぼり心の中うちに惟おもえらく、光栄なるかな。

 まあ、お聞きったら。

 そりゃ可よかったが、一件だ。」

「一件と……おっしゃると?」

「長いの、長いの。」

「その娘こが、蛇を……嘘でしょう。」

「間違ったに違いない。けれども高津で聞いて、平家の水鳥で居たんだからね。幕間まくあいにちょいと楽屋へ立違って、またもとの所へ入ろうとすると、その娘の袂たもとの傍わきに、紙袋かんぶくろが一つ出ています。

 並んで坐ると、それがちょうど膝になろうというんだから、大おおいに怯ひるんだ。どうやら気のせいか、むくむく動きそうに見えるじゃないか。

 で、私は後へ引退ひききがった。ト娘の挿した簪かんざしのひらひらする、美しい総ふさ越しに舞台の見えるのが、花輪で額縁を取ったようで、それも可よしさ。

 所へ、さらさらどかどかです。荒いのと柔やわらかなのと、急ぐのと、入乱れた跫音あしあとを立てて、七八人。小袖幕で囲ったような婦おんなの中から、赫かっと真赤まっかな顔をして、痩やせた酒顛童子しゅてんどうじという、三分刈りの頭で、頬骨の張った、目のぎょろりとした、なぜか額の暗い、殺気立った男が、詰襟の紺の洋服で、靴足袋を長く露あらわした服筒ずぼんを膝頭ひざがしらにたくし上げた、という妙な扮装なりで、その婦おんなたち、鈍太郎殿の手車から転がり出したように、ぬっと発奮はずんで出て、どしんと、音を立てて躍込おどりこんだのが、隣の桟敷で……

 唐突いきなり、横のめりに両足を投出すと、痛いほど、前の仕切にがんと支ついた肱ひじへ、頭を乗せて、自分で頸くびを掴つかんでも、そのまま仰向あおむけにぐたりとなる、可いいかね。

 顔へ花火のように提灯の色がぶツかります。天井と舞台を等分に睨にらみ着けて、(何じゃい!)と一つ怒鳴どなる、と思うと、かっと云う大酒の息を吐きながら、(こら、入らんか、)と喚わめいたんだ。

 背後うしろに、島田やら、銀杏返いちょうがえしやら、累かさなって立った徒てあいは、右の旦那よりか、その騒ぎだから、皆みんなが見返る、見物の方へ気を兼ねたらしく、顔を見合わせていたっけが。

 この一喝を啖くらうと、べたべたと、蹴出けだしも袖も崩れて坐った。

 大切な客と見えて、若衆わかいしゅが一人、女中が二人、前茶屋のだろう、附いて来た。人数にんずは六人だったがね。旦那が一杯にのしてるから、どうして入り切れるもんじゃない。随分肥ふとったのも、一人ならずさ。

 茶屋のがしきりに、小声で詫わびを云って叩頭おじぎをしたのは、御威勢でもこの外に場所は取れません、と詫びたんだろう。(構いまへんで、お入りなされ。)

 まずい口真似だ、」

 初阪は男衆の顔を見て微笑ほほえんだが、

「そう云って、茶屋の男が、私に言ことばも掛けないで、その中でも、なかんずく臀しりの大きな大年増を一人、こっちの場所へ送込んだ。するとまたその婦おんなが、や、どッこいしょ、と掛声して、澄まして、ぬっと入って、ふわりと裾埃すそごみで前へ出て、正面充満いっぱいに陣取ったろう。」


       八


「娘はこの肥満女ふとっちょに、のしのし隅っこへ推着おッつけられて、可恐おそろしく見勝手が悪くなった。ああ、可哀そうにと思う。ちょうど、その身体からだが、舞台と私との中垣になったもんだからね。可憐いじらしいじゃないか……

 密そっと横顔で振向いて、俯目ふしめになって、(貴下あんたはん、見憎うおますやろ、)と云って、極きまりの悪そうに目をぱちぱちと瞬いたんです。何事も思いません。大阪中の詫言わびごとを一人でされた気がしたぜ。」

 男衆は頭つむりを下げた。

「御道理ごもっともで。」

「いや、まったく。心配しないで楽に居て、御覧々々と重ねて云うと、芝居で泣いたなりのしっとりした眉まみえを、嬉しそうに莞爾にっこりして、向うを向いたが、ちょっと白い指で圧おさえながら、その花簪はなかんざしを抜いたはどうだい。染分そめわけの総ふさだけも、目障りになるまいという、しおらしいんだね。

(酒だ、酒だ。疾はやくせい、のろま!)とぎっくり、と胸を張反はりそらして、目を剥むく。こいつが、どろんと濁って血走ってら。ぐしゃぐしゃ見上げ皺しわが揉上もみあがって筋だらけ。その癖、すぺりと髯ひげのない、まだ三十くらい、若いんです。

(はいはい、たった今、直じきに、)とひょこひょこと敷居に擦附ける、若衆は叩頭おじぎをしいしい、(御寮人様、行届きまへん処は、何分、)と、こう内証で云った。

 その御寮人と云われた、……旦那の背後うしろに、……髪はやっぱり銀杏返しだっけ……お召の半コオトを着たなりで控えたのが、」

「へい、成程、背後うしろに居ました。」

「お珊の方かたかね、天満橋で見た先刻さっきのだ。もっとも東の雛壇ひなだんをずらりと通して、柳桜が、色と姿を競った中にも、ちょっとはあるまいと思う、容色きりょうは容色と見たけれども、歯痒はがゆいほど意気地いくじのない、何て腑ふの抜けた、と今日より十段も見劣りがしたって訳は。……

 いずれ妾めかけだろう。慰まれものには違いないが、若い衆も、(御寮人、)と奉って、何分、旦那を頼む、と云う。

 取巻きの芸妓げいしゃたち、三人五人の手前もある。やけに土砂を振掛けても、突張つッぱり返った洋服の亡者一個ひとり、掌てのひらに引丸ひんまろげて、捌さばきを附けなけりゃ立ちますまい。

 ところが不可いけない。その騒ぐ事、暴れる事、桟敷へ狼を飼ったようです。(泣くな、わい等、)と喚わめく──君の親方が立女形たておやまで満場水を打ったよう、千百の見物が、目も口も頭も肩も、幅の広いただ一人にんの形になって、啜泣すすりなきの声ばかり、誰が持った手巾ハンケチも、夜会草の花を昼間見るように、ぐっしょり萎しぼんで、火影の映るのが血を絞るような処だっけ──(芝居を見て泣く奴があるものかい、や、怪体けたいな!

 舞台でも何を泣ほえくさるんじゃい。かッと喧嘩けんかを遣れ、面白うないぞ! 打殺たたきころして見せてくれ。やい、腸はらわたを掴出つかみだせ、へん、馬鹿な、)とニヤリと笑う。いや、そのね、ニヤリと北叟笑ほくそえみをする凄すごさと云ったら。……待てよ、この御寮人が内証ないしょで情人いろをこしらえる。嫉妬しっとでその妾の腸はらわたを引摺ひきずり出す時、きっと、そんな笑い方をする男に相違ないと思った。

 可哀あわれを留とどめたのは取巻連さ。

 夢中になって、芝居を見ながら、旦那が喚わめくたびに、はっとするそうで、皆みんなが申合わせた形で、ふらりと手を挙げる。……片手をだよ。……こりゃ、私の前を塞ふさいだ肥満女ふとっちょも同じく遣った。

 その癖、黙然だんまりでね、チトもしお静しずかに、とも言い得ない。

 すると、旦那です……(馬鹿め、止やめちまえ、)と言いながら、片手づきの反身そりみの肩を、御寮人さ、そのお珊の方の胸の処へ突つきつけて、ぐたりとなった。……右の片手を逆に伸して、引合せたコオトの襟を引掴ひッつかんで、何か、自分の胸が窮屈そうに、こう踠もがいて、引開ひっぱだけようとしたんだがね、思う通りにならなかったもんだから、(ええ)と云うと、かと開はだけた、細い黄金鎖きんぐさりが晃然きらりと光る。帯を掴んで、ぐい、と引いて、婦おんなの膝を、洋服の尻へ掻込かいこんだりと思うと、もろに凭懸もたれかかった奴が、ずるずると辷すべって、それなり真仰向まあおむけさ。傍若無人だ。」


       九


「膝枕をしたもんです。その野分のわきに、衣紋えもんが崩れて、褄つまが乱れた。旦那の頭は下掻したがいの褄を裂いた体ていに、紅入友染べにいりゆうぜんの、膝の長襦袢ながじゅばんにのめずって、靴足袋をぬいと二ツ、仕切を空へ突出したと思え。

 大蛇のような鼾いびきを掻かく。……妾めかけはいいなぶりものにされたじゃないか。私は浅ましいと思った。大入の芝居の桟敷で。

 江戸児えどっこだと、見たが可い! 野郎がそんな不状ぶざまをすると、それが情人いろなら簪かんざしでも刺殺す……金子かねで売った身体からだだったら、思切って、衝つっと立って、袖を払って帰るんだ。

 処を、どうです。それなりに身を任せて、静じっとして、しかも入身いれみに娜々なよなよとしているじゃないか。

 掴寄つかみよせられた帯も弛ゆるんで、結び目のずるりと下った、扱帯しごきの浅葱あさぎは冷たそうに、提灯の明あかりを引いて、寂しく婦おんなの姿を庇かばう。それがせめてもの思遣おもいやりに見えたけれども、それさえ、そうした度の過ぎた酒と色に血の荒びた、神経のとげとげした、狼の手で掴出された、青光あおびかりのする腸はらわたのように見えて、あわれに無慚むざんな光景ようすだっけ。」

「……へい、そうですかね、」と云った男衆の声は、なぜか腑ふに落ちぬらしく聞えたのである。

「聞きゃ、道成寺を舞った時、腹巻の下へ蛇を緊しめた姉さんだと云うじゃないか。……その扱帯しごきが鎌首を擡もたげりゃ可よかったのにさ。」

「まったくですよ。それがために、貴方ね、舞の師匠から、その道成寺、葵あおいの上などという執着しゅうぢゃくの深いものは、立方たちかた禁制と言渡されて、破門だけは免れたッて、奥行きのある婦おんなですが……金子かねの力で、旦那にゃ自由にならないじゃなりますまいよ。」

「気の毒だね。」

「とおっしゃると、筋も骨も抜けたように聞えますけれど、その癖、随分、したい三昧ざんまい、我儘わがままを、するのを、旦那の方で制し切れないッて、評判をしますがね。」

「金子でその我ままをさせてもらうだけに、また旦那にも桟敷で帯を解かれるような我儘をされるんです。身体からだを売って栄耀えよう栄華さ、それが浅ましいと云うんじゃないか。」

「ですがね、」

 と男衆は、雪駄せったちゃらちゃら、で、日南ひなたの横顔、小首を捻ひねって、

「我儘も品しなによりまさ。金剛石ダイヤモンドや黄金鎖きんぐさりなら妾めかけの身じゃ、我儘という申立てにもなりませんがね。

 自動車のプウプウも血の道に触さわるか何かで、ある時なんざ、奴やっこの日傘で、青葉時に、それ女大名の信長公でさ。鳴かずんば鳴かして見しょう、日中ひなかに時鳥ほととぎすを聞くんだ、という触込ふれこみで、天王寺へ練込みましたさ、貴方。

 幇間たいこもちが先へ廻って、あの五重の塔の天辺てっぺんへ上って、わなわな震えながら雲雀笛ひばりぶえをピイ、はどうです。

 そんな我儘より、もっと偉いのは、しかもその日だって云うんですがね。

 御堂みどう横から蓮はすの池へ廻る広場ひろっぱ、大銀杏おおいちょうの根方に筵むしろを敷いて、すととん、すととん、と太鼓を敲たたいて、猿を踊らしていた小僧を、御寮人お珊の方、扇子を半開はんびらきか何かで、こう反身で見ると、(可愛らしいぼんちやな。)で、俳優やくしゃの誰とかに肖にてるッて御意の上……(私は人の妾やよって、えらい相違もないやろけれど、畜生に世話になるより、ちっとは優ましや。旦那に頼んで出世させて上げる、来なはれ、)と直ぐに貴方。

 その場から連れて戻って、否応いやおうなしに、旦だんを説付ときつけて、たちまち大店おおだなの手代分。大道稼ぎの猿廻しを、縞しまもの揃いにきちんと取立てたなんぞはいかがで。私は膝を突つッつく腕に、ちっとは実があると思うんですが。」

 初阪はこれを聞くと、様子が違って、

「さあ、事だよ! すると、昨夜ゆうべのはその猿廻しだ。」


       十


「いや、黒服の狂犬やまいぬは、まだ妾めかけの膝枕で、ふんぞり返って高鼾たかいびき。それさえ見てはいられないのに、……その手代に違いない。……当時の久松といったのが、前垂まえだれがけで、何か急用と見えて、逢いに来てからの狼藉ろうぜきが、まったく目に余ったんだ。

 悪口あっこう吐つくのに、(猿曳さるひきめ、)と云ったが、それで分った。けずり廻しとか、摺古木すりこぎとか、獣けだものめとかいう事だろう。大阪では(猿曳)と怒鳴るのかと思ったが。じゃ、そのお珊の方が取立てた、銀杏いちょうの下の芸人に疑いない。

 となると!……あの、婦おんなはなお済まないぜ。

 自分の世話をした若手代が、目の前で、額を煙管きせるで打ぶたれるのを、もじもじと見ていたろうじゃないか。」

「煙管で、へい?……」

「ああ、垂々たらたらと血が出た。それをどうにもし得ないんだ。じゃ、天王寺の境内で、猿曳を拾上げたって何の功にもなりゃしない。

 まあね、……旦那は寝たろう。取巻きの芸妓げいこ一統、互たがいにほっとしたらしい。が、私に言わせりゃその徒てあいだって働きがないじゃないか。何のための取巻なんです。ここは腕があると、取仕切って、御寮人に楽をさせる処さね。その柔かい膝に、友染も露出あらわになるまで、石頭の拷問ごうもんに掛けて、芝居で泣いていては済みそうもないんだが。

 可よしさ、それも。

 と、そこへ、酒肴さかな、水菓子を添えて運んで来た。するとね、円髷まげに結いった仲居らしいのが、世話をして、御連中、いずれもお一ツずつは、いい気なもんです。

 さすがに、御寮人は、頭かぶりをちょっと振って受けなかった。

 それにも構わず……(さあ一ツ。)か何かで、美濃みのから近江おうみ、こちらの桟敷に溢あふれてる大きなお臀しりを、隣から手を伸のばして猪口ちょくの縁ふちでコトコトと音信おとづれると、片手で簪かんざしを撮つまんで、ごしごしと鬢びんの毛を突掻つッかき突掻き、ぐしゃりと挫ひしゃげたように仕切に凭もたれて、乗出して舞台を見い見い、片手を背後うしろへ伸ばして、猪口を引傾ひっかたむけたまま受ける、注つぐ、それ、溢こぼす。(わややな、)と云う。

 そいつが、私の胸の前で、手と手を千鳥がけに始はじまったんだから驚くだろう。御免も失礼も、会釈一つするんじゃない。

 しかし憎くはなかったぜ。君の親方が舞台に出ていて、皆みんなが夢中で遣る事なんだ。

 憎いのは一人狂犬やまいぬさ。

 やっと静まったと思う間もない。

(酒か、)と喚わめくと、むくむくと起おきかかって、引担ひっかつぐような肱ひじの上へ、妾の膝で頭を載せた。

(注げ! 馬鹿めが、)と猪口を叱って、茶碗で、苦い顔して、がぶがぶと掻喫かっくらう処へ、……色の白い、ちと纎弱ひよわい、と云った柄さ。中脊の若いのが、縞しまの羽織で、廊下をちょこちょこと来て、ト手をちゃんと支ついた。

(何や、)と一ツ突慳貪つッけんどんに云って睨にらみつけたが、低声こごえで、若いのが何か口上を云うのを、フーフーと鼻で呼吸いきをしながら、目を瞑ねむって、真仰向けに聞いたもんです。

(旦那の、)旦那と云うんだ。(旦那のここに居るのがどないして知れた、何や、)とまた怒鳴って、(判然はっきりぬかしおれ。何や? 番頭が……ふ、ふ、ふ、ふん、)と嘲あざけるような、あの、凄すごい笑顔わらいがお。やがて、苦々しそうに、そして切なそうに、眉を顰しかめて、唇を引結ひんむすぶと、グウグウとまた鼾いびきを掻出す。

 いや、しばらく起きない。

 若手代は、膝へ手を支ついたなり、中腰でね、こう困ったらしく俯向うつむいたッきり。女連は、芝居に身が入いって言ことばも掛けず。

 その中うちに幕が閉しまった。

 満場わッと鳴って、ぎっしり詰つまったのが、真黒まっくろに両方の廊下へ溢れる。

 しばらくして、大分鎮しずまった時だった。幕あきに間もなさそうで、急足いそぎあしになる往来ゆききの中を、また竹の扉ひらきからひょいと出たのは、娘を世話した男衆でね。手に弁当を一つ持っていました。

(はいよ、お弁当、)と云って、娘に差出して、渡そうとしたっけが……」


       十一


「そこに私も居る、……知らぬ間に肥満女ふとっちょの込入ったのと、振向いた娘の顔とを等分に見較べて(和女あんた、極きまりが悪いやろ。そしたら私わしが方へ来て食あがりなはるか。ああ、そうしなはれ、)と莞爾々々にこにこ笑う、気の可いい男さ。(太えらいお邪魔にござります。)と、屈かがんで私に挨拶して、一人で合点して弁当を持ったまま、ずいと引退ひきさがった。

 娘がね、仕切に手を支つくと、向直って、抜いた花簪はなかんざしを載せている、涙に濡れた、細ほっそり畳んだ手拭てぬぐいを置いた、友染の前垂れの膝を浮かして、ちょっと考えるようにしたっけ。その手拭を軽く持って、上気した襟のあたりを二つ三つ煽あおぎながら、可愛い足袋で、腰を据えて、すっと出て行く。……

 私は煙草たばこがなくなったから、背後うしろの運動場うんどうばへ買いに出た。

 余り見かねたから、背後うしろ向きになっていたがね、出しなに見ると、狂犬やまいぬはそのまま膝枕で、例の鼾で、若い手代はどこへ立ったか居なかった。

 西の運動場には、店が一つしかない。もう幕が開く処、見物は残らず場所へ坐直すわりなおしている、ここらは大阪は行儀が可いよ。それに、大人で、身の入いった芝居ほど、運動場は寂しいもんです。

 風は冷つめたし、呼吸いきぬきかたがた、買った敷島をそこで吸附けて、喫ふかしながら、堅い薄縁うすべりの板の上を、足袋の裏冷々ひやひやと、快いい心持で辷すべらして、懐手で、一人で桟敷へ帰って来ると、斜違はすかいに薄暗い便所が見えます。

 そのね、手水鉢ちょうずばちの前に、大おおきな影法師見るように、脚榻きゃたつに腰を掛けて、綿の厚い寝ねン寝子ねこで踞うずくまってるのが、何だっけ、君が云った、その伝五郎。」

「ぼけましたよ、ええ、裟婆気しゃばっけな駕籠屋でした。」

「まったくだね、股引ももひきの裾をぐい、と端折はしょった処は豪勢だが、下腹がこけて、どんつくの圧おしに打たれて、猫背にへたへたと滅入込めいりこんで、臍へそから頤おとがいが生えたようです。

 十四五枚も、堆うずたかく懐に畳んで持った手拭は、汚れてはおらないが、その風だから手拭てふきに出してくれるのが、鼻紙の配分をするようさね、潰つぶれた古無尽ふるむじんの帳面の亡者にそっくり。

 一度、前幕のはじめに行って、手を洗った時、そう思った。

 小さな銀貨を一個ひとつ握にぎらせると、両手で、頭の上へ押頂いて、(沢山に難有ありがと、難有、難有、)と懐中ふところへ頤あごを突込つッこんで礼をするのが、何となく、ものの可哀あわれが身に染みた。

 その爺さんがね、見ると……その時、角兵衛という風で、頭を動かす……坐睡いねむりか、と思うと悶もがいたんだ。仰向あおむけに反そって、両手の握拳にぎりこぶしで、肩を敲たたこうとするが、ひッつるばかりで手が動かぬ。

 うん、と云う。

 や、老人としよりの早打肩。危いと思った時、幕あきの鳴ものが、チャンと入って、下座げざの三味線さみせんが、ト手首を口へ取って、湿しめりをくれたのが、ちらりと見える。

 どこか、もの蔭から、はらはらと走って出たのはその娘で。

 突然いきなり、爺様じいさんの背中へ掴つかまると、手水鉢の傍わきに、南天の実の撓々たわたわと、霜に伏さった冷い緋鹿子ひがのこ、真白まっしろな小腕こがいなで、どんつくの肩をたたくじゃないか。

 青苔あおごけの緑青ろくしょうがぶくぶく禿はげた、湿った貼のりの香のぷんとする、山の書割の立て掛けてある暗い処へ凭懸よっかかって、ああ、さすがにここも都だ、としきりに可懐なつかしく熟じっと視みた。

 そこへ、手水鉢へ来て、手を洗ったのが、若い手代──君が云う、その美少年の猿廻さるまわし。」


       十二


「急いで手拭を懐中ふところへ突込むと、若手代はそこいらしきりに前後あとさきを眗みまわした、……私は書割の山の陰に潜ひそんでいたろう。

 誰も居ないと見定めると、直ぐに、娘をわきへ推遣おしやって、手代が自分で、爺様じいさんの肩を敲たたき出した。

 二人はいい中で居るらしい、一目見て様子で知れる、」

「ほう、」

 と唐突だしぬけに声を揚げて、男衆は小溝を一つ向うへ跳んだ。初阪は小さな石橋を渡った時。

「私は旅行たびをした効かいがあると思った。

 声は届かないけれども、趣でよく分る。……両手を働かせながら、若手代は、顔で教えて、ここは可い、自分が介抱するから、あっちへ行って芝居を見るように、と勧めるんです。娘が肯きかないのを、優しく叱るらしく見えると、あいあいと頷うなずく風でね、老年としよりを勦いたわる男の深切を、嬉しそうに、二三度見返りながら、娘はいそいそと桟敷へ帰る。その竹の扉ひらきを出る時、ちょっと襟を合せましたよ。

 私も帰った。

 間もなく、何、さしたる事でもなかったろう。すぐに肩癖けんぺきは解ほぐれた、と見えて、若い人は、隣の桟敷際へ戻って来て、廊下へ支膝つきひざ、以前もとのごとし。……

 真中まんなかへ挟はさまった私を御覧。美しい絹糸で、身体からだ中かがられる、何だか擽くすぐったい気持に胸が緊しまって、妙に窮屈な事といったらない。

 狂犬やまいぬがむっくり、鼻息を吹直した。

(柿があるか、剥むけやい、)と涎よだれで滑々ぬらぬらした口を切って、絹も膚はだにくい込もう、長い間枕した、妾の膝で、真赤まっかな目を睜みひらくと、手代をじろり、さも軽蔑したように見て、(何なんしとる? 汝わりゃ!)と口汚く、まず怒鳴った。

(何じゃ、返事を待った、間抜け。勘定欲ほしい、と取りに来た金子かねなら、払うてやるは知れた事や。何吐ぬかす。……三百や五百の金。うんも、すんもあるものかい、鼻かんで敲たたきつけろ、と番頭にそう吐ぬかせ。)

(はい、)と、手を支つく。

(さっさと去いね、こない場所へのこのこと面出しおって、何なんさらす、去ねやい。)

(はい、)とそれでも用ずみ。前垂の下で手を揉もみながら、手代が立って、五足ばかり行ゆきかかると、

(多一、多一、)と呼んだ。若い人は、多一と云うんだ。

(待てい、)と云う。はっと引返して、また手を支つくと、婦おんなの膝をはらばいに乗出して、(何じゃな、向うから金子かねくれい、と使が来て店で待つじゃな。人寄越よこいたら催促やい。誰や思う、丸官、)と云ったように覚えている。……」

「ええ、丸田官蔵、船場の大金持です。」

「そうかね、(丸官は催促されて金子かね出いた覚えはない。へへん、)と云って、取巻の芸妓徒げいこてあいの顔をずらりと見渡すと、例の凄すごいので嘲笑あざわらって、軍鶏しゃもが蹴けつけるように、ポンと起きたが、(寄越せ、)で、一人剥むいていた柿を引手繰ひったくる、と仕切に肱ひじを立てて、頤あごを、新高しんたかに居るどこかの島田髷まげの上に突出して、丸噛まるかじりに、ぼりぼりと喰くいかきながら、(留やめちまえ、)と舞台へ喚わめく。

 御寮人は、ぞろりと褄つまを引合せる。多一は、その袖の蔭に、踞うずくまっていたんだね。

 するとね、くいほじった柿の核たねを、ぴょいぴょいと桟敷中へ吐散らして、あはは、あはは、と面相の崩れるばかり、大口を開いて笑ったっけ。

(鉄砲打ぶて、戦争押始おっぱじめろ。大砲でも放さんかい、陰気な芝居や、馬鹿、)と云うと、また急に、険しい、苦い、尖とがった顔をして、じろりと多一を睨にらみつけた。

(何しとる、うむ、)と押潰おしつぶすように云います。

(それでは、番頭さんに、その通り申聞けますでございます、)とまた立って、多一が歩行あるき出すと(こら!)と呼んで呼び留めた。

(丁稚々々でっちでっち、)と今度は云うのさ。」

 聞く男衆は歎息した。

「難物ですなあ。」


       十三


「それからの狂犬やまいぬが、条理すじ違いの難題といっちゃ、聞いていられなかったぜ。

(汝わりゃ、はいはいで、用を済まいた顔色がんしょくで、人間並に桟敷裏を足ばかりで立って行くが、帰ったら番頭に何と言うて返事さらすんや。何や! 払うな、と俺が吩咐いいつけたからその通り申します、と申しますが、呆れるわい、これ、払うべき金子かねを払わいで、主人の一分が立つと思うか。(五百円や三百円、)と大おおきな声して、(端金子はしたがね、)で、底力を入れて塗なすりつけるように声を密ひそめて……(な、端金子を、ああもこうもあるものかい。俺が払うな、と言うたかて払え。さっさと一束にして突付けろ。帰れ! 大白痴おおたわけ、その位な事が分らんか。)

 で、また追立おったてて、立掛ける、とまたしても、(待ちおれ。)だ。

(分ったか、何、分った、偉い! 出来でかす、)と云ってね、ふふん、と例の厭いやな笑方わらいかたをして、それ、直ぐに芸妓連げいこれんの顔をぎょろり。

(分ったら言うてみい、帰って何と返事をする、饒舌しゃべれ。一応は聞いておく。丸官後学のために承りたい、ふん、)と鼻を仰向あおむけに耳を多一に突附けて、そこにありあわせた、御寮人の黄金煙管きんぎせるを握って、立続けに、ふかふか吹かす。

(判然はっきり言え、判然、ちゃんと口上をもって吐ぬかせ。うん、番頭に、番頭に、番頭に、何だ、金子かねを払え?……黙れ! 沙汰過ぎた青二才、)と可恐おそろしい顔になった。(誰が?)と吠ほえるような声で、(誰が払えと言った。誰が、これ、五百円は大金だぞ!

 丸官、たかを聞いてさえぶるぶるする。これ、この通り震えるわい。)で、胴肩を一つに揺ゆすり上げて、(大胆ものめが、土性骨の太い奴やちや。主人のものだとたかを括くくって、大金を何の糟かすとも思いくさらん、乞食を忘れたか。)

 と言う。

 目に涙を一杯ためて、(御免下さいまし、)と、退すさって廊下へ手を支つくと、(あやまるに及ばん、よく、考えて、何と計らうべきか、そこへくい附いて分別して返答せい。……石になるまで、汝わりゃ動くな。)とまた柿を引手繰ひったくって、かツかツと喰いかきながら、(止やめちまえ、馬鹿、)と舞台へ怒鳴る。

(旦那様、旦那様、)多一が震声ふるえごえで呼んだと思え。

(早いな、汝われがような下根げこんな奴には、三年かかろうと思うた分別が、立処たちどころは偉い。俺おれを呼ぶからには工夫が着いたな。まず、褒美ほうびを遣る。そりゃ頂け、)と柿の蔕へたを、色白な多一の頬へたたきつけた。

(もし、御寮人様、)と熟じっと顔を見て、(どうしましたら宜よろしいのでございましょう、)と縋すがるようにして言ったか言わぬに、(猿曳さるひきめ、汝われゃ、婦おんなに、……畜生、)と喚わめくが疾はやいか、伸掛のしかかって、ピシリと雁首がんくびで額を打ぶったよ。羅宇らうが真中まんなかから折れた。

 こちらの桟敷に居た娘が、誰より先に、ハッと仕切へ顔を伏せる、と気を打たれたか、驚いた顔をして、新高の、ちょうど下に居た一人商人風の男が、中腰に立って上を見た。

 芸妓達も一時いっときに振向いて目を合せた、が、それだけさ。多一が圧おさえた手の指から、たらたらと糸すじのように血の流れるのを見たばかり、どうにも手のつけようがなさそうな容子ようすには弱ったね。おまけに知らない振ふりをして、そのまま芝居を見る姉さんがあるじゃないか。

 私は、ふいと立って、部屋へ帰った。

 傍そばに居ちゃ、もうこっちが撮出つまみだされるまでも、横面よこつら一ツ打挫うちひしゃがなくッては、新橋へ帰られまい。が、私が取組合とっくみあった、となると、随分舞台から飛んで来かねない友だちが一人居るんだからね。

 頭痛がする、と楽屋へ横になったッきり、あとの事は知りません。道頓堀で、別に半鐘を打たなかったから、あれなり、ぐしゃぐしゃと消えたんだろう。

 その婦おんなだ、呆れたぐうたらだと思ったが、」

「もし、もし、」

 と男衆が、初阪の袖を、ぐい、と引いた。


       十四


 歩行あるくともなく話しながらも、男の足は早かった。と見ると、二人から十四五間、真直まっすぐに見渡す。──狭いが、群集ぐんじゅの夥おびただしい町筋を、斜めに奴やっこを連れて帰る──二個ふたつ、前後あとさきにすっと並んだ薄色の洋傘こうもりは、大輪の芙蓉ふようの太陽ひを浴びて、冷たく輝くがごとくに見えた。

 水打った地つちに、裳もすその綾あやの影も射さす、色は四辺あたりを払ったのである。

「やあ、居る……」

 と、思わず初阪が声を立てる、ト両側を詰めた屋ごとの店、累かさなり合って露店もあり。軒にも、路にも、透間すきまのない人立ひとだちしたが、いずれも言合せたように、その後姿を見送っていたらしいから、一見赤毛布あかげっとのその風采ふうで、慌あわただしく(居る、)と云えば、件くだんの婦おんなに吃驚びっくりした事は、往来ゆききの人の、近間なのには残らず分った。

 意気な案内者大おおいに弱って、

「驚いては不可いけません。天満の青物市です。……それ、真正面まっしょうめんに、御鳥居を御覧なさい。」

 はじめて心付くと、先刻さっき視ながめた城に対して、稜威みいずは高し、宮居みやいの屋根。雲に連なる甍いらかの棟は、玉を刻んだ峰である。

 向って鳥居から町一筋、朝市の済んだあと、日蔽ひおおいの葭簀よしずを払った、両側の組柱は、鉄橋の木賃に似て、男も婦おんなも、折から市人いちびとの服装なりは皆黒いのに、一ツ鮮麗あざやかに行ゆく美人の姿のために、さながら、市松障子の屋台した、菊の花壇のごとくに見えた。

「音に聞いた天満の市へ、突然いきなり入ったから驚いたんです。」

「そうでしょう。」

 擦違すれちがった人は、初阪ものの顔を見て皆笑わらいを含む。

 両人ふたりは苦笑した。

「ほっこり、暖あったかい、暖い。」

 蒸芋ふかしいもの湯気の中に、紺の鯉口こいぐちした女房が、ぬっくりと立って呼ぶ。

「おでんや、おでん!」

「饂飩うどんあがんなはらんか、饂飩。」

「煎餅せんべい買いなはれ、買いなはれ。」

 鮨すしの香気かおりが芬ぷんとして、あるが中に、硝子戸越ガラスどごしの紅くれないは、住吉の浦の鯛、淡路島の蝦えびであろう。市場の人の紺足袋に、はらはらと散った青い菜は、皆天王寺の蕪かぶらと見た。……頬被ほおかむりしたお百姓、空籠からかご荷にのうて行違ゆきちがう。

 軒より高い競売せりもある。

 傘からかささした飴屋あめやの前で、奥深い白木の階きざはしに、二人まず、帽子を手に取った時であった。──前途ゆくてへ、今大鳥居を潜くぐるよと見た、見る目も彩あやな、お珊の姿が、それまでは、よわよわと気病きやみの床を小春日和こはるびよりに、庭下駄がけで、我が別荘の背戸へ出たよう、扱帯しごきで褄つま取らぬばかりに、日の本の東西にただ二つの市の中を、徐々しずしずと拾ったのが、たちまち電いなずまのごとく、颯さっと、照々てらてらとある円柱まるばしらに影を残して、鳥居際から衝つと左へ切れた。

 が、目にも留まらぬばかり、掻消かきけすがごとくに見えなくなった。

 高く競売屋せりうりやが居る、古いが、黒くがっしりした屋根越ごしの其方そなたの空、一点の雲もなく、冴さえた水色の隈くまなき中に、浅葱あさぎや、樺かばや、朱や、青や、色づき初そめた銀杏の梢こずえに、風の戦そよぐ、と視ながめたのは、皆見世ものの立幟たてのぼり。

 太鼓に、鉦かねに、ひしひしと、打寄する跫音あしおとの、遠巻きめいて、遥はるかに淀川にも響くと聞きしは、誓文払いに出盛る人数にんず。お珊も暮るれば練るという、宝の市の夜よをかけた、大阪中の賑にぎわいである。


       十五


「御覧なさい、これが亀の池です。」

 と云う、男衆の目は、──ここに人を渡すために架かけたと云うより、築山つきやまの景色に刻んだような、天満宮てんまんぐうの境内を左へ入って、池を渡る橋の上で──池は視みないで、向う岸へ外それた。

 階きざはしを昇って跪ひざまずいた時、言い知らぬ神霊に、引緊ひきしまった身の、拍手かしわでも堅く附着くッついたのが、このところまで退出まかんでて、やっと掌たなそこの開くを覚えながら、岸に、そのお珊の彳たたずんだのを見たのであった。

 麩ふでも投げたか、奴やっこと二人で、同じ状さまに洋傘こうもりを傾けて、熟じっと池の面おもを見入っている。

 初阪は、不思議な物語に伝える類たぐいの、同じ百里の旅人である。天満の橋を渡る時、ふとどこともなく立顕たちあらわれた、世にも凄すごいまで美しい婦おんなの手から、一通玉章たまずさを秘めた文箱ふばこを託ことずかって来て、ここなる池で、かつて暗示された、別な美人たおやめが受取りに出たような気がしてならぬ。

 しかもそれは、途中互たがいにもの言うにさえ、声の疲れた……激しい人の波を泳いで来た、殷賑いんしん、心斎橋しんさいばし、高麗橋こうらいばしと相並ぶ、天満の町筋を徹とおしてであるにもかかわらず、説き難き一種寂寞せきばくの感が身に迫った。参詣群集さんけいぐんじゅ、隙間のない、宮、社やしろの、フトした空地は、こうした水ある処に、思いかけぬ寂しさを、日中ひなかは分けて見る事がおりおりある。

 ちょうど池の辺ほとりには、この時、他に人影も見えなかった。……

 橋の上に小児こどもを連れた乳母が居たが、此方こなたから連立って、二人が行掛ゆきかかった機会しおに、

「さあ、のの様の方へ行こか。」と云って、手を引いて、宮の方かたへ徐々そろそろ帰った。その状さまが、人間界へ立帰るごとくに見えた。

 池は小さくて、武蔵野の埴生はにゅうの小屋が今あらば、その潦にわたずみばかりだけれども、深翠ふかみどりに萌黄もえぎを累かさねた、水の古さに藻が暗く、取廻わした石垣も、草は枯れつつ苔こけ滑なめらか。牡丹ぼたんを彫らぬ欄干も、巌いわおを削った趣おもむきがある。あまつさえ、水底みなぞこに主ぬしが棲すむ……その逸するのを封ずるために、雲に結ゆわえて鉄くろがねの網を張り詰めたように、百千の細こまかな影が、漣ささなみ立たって、ふらふらと数知れず、薄黒く池の中に浮いたのは、亀の池の名に負える、水に充満みちみちた亀なのであった。

 枯蓮かれはすもばらばらと、折れた茎に、トただ一つ留ったのは、硫黄いおうヶ島の赤蜻蛉あかとんぼ。

 鯡鯉ひごいの背は飜々ひらひらと、お珊の裳もすその影に靡なびく。

 居たのは、つい、橋の其方そなたであった。

 半襟は、黒に、蘆あしの穂が幽かすかに白い、紺地こんのじによりがらみの細い格子、お召縮緬めしちりめんの一枚小袖、ついわざとらしいまで、不断着で出たらしい。コオトも着ない、羽織の色が、派手に、渋く、そして際立って、ぱっと目についた。

 髪の艶つやも、色の白さも、そのために一際目立つ、──糸織か、一楽いちらくらしいくすんだ中に、晃々きらきらと冴さえがある、きっぱりした地の藍鼠あいねずみに、小豆色あずきいろと茶と紺と、すらすらと色の通った縞しまの乱立らんたつ。

 蒼空あおぞらの澄んだのに、水の色が袖に迫って、藍は青に、小豆は紅くれないに、茶は萌黄もえぎに、紺は紫の隈くまを染めて、明あかるい中に影さすばかり。帯も長襦袢もこれに消えて、山深き処、年古ふる池に、ただその、すらりと雪を束つかねたのに、霧ながら木この葉に綾あやなす、虹にじを取って、細く滑なめらかに美しく、肩に掛けて背に捌さばき、腰に流したようである。汀みぎわは水を取廻わして、冷い若木の薄もみじ。

 光線は白かった。


       十六


 その艶えんなのが、女めの童わらわを従えた風で、奴やっこと彳たたずむ。……汀に寄って……流木ながれぎめいた板が一枚、ぶくぶくと浮いて、苔塗こけまみれに生簀いけすの蓋ふたのように見えるのがあった。日は水を劃くぎって、その板の上ばかり、たとえば温かさを積重ねた心持にふわふわ当る。

 それへ、ほかほかと甲こうらを干した、木この葉に交って青銭の散った状さまして、大小の亀は十とウ二十、磧かわらの石の数々居た。中には軽石のごときが交って。──

 いずれ一度は擒とりことなって、供養にとて放された、が狭い池で、昔売買うりかいをされたという黒奴くろんぼの男女なんにょを思出させる。島、海、沢、藪やぶをかけた集り勢、これほどの数が込合ったら、月には波立ち、暗夜やみには潜ひそんで、ひそひそと身の上話がはじまろう。

 故郷ふるさとなる、何を見るやら、向むきは違っても一つ一つ、首を据えて目を睜みはる。が、人も、もの言わず、活いきものがこれだけ居て余りの静かさ。どれかが幽かすかに、えへん、と咳払せきばらいをしそうで寂さみしい。

 一頭ひとつ、ぬっと、ざらざらな首を伸ばして、長く反そって、汀を仰いだのがあった。心は、初阪等二人と斉ひとしく、絹糸の虹を視ながめたに違いない。

「気味の悪いもんですね、よく見るといかにも頭つきが似ていますぜ。」

 男衆は両手を池の上へ出しながら、橋の欄干に凭もたれて低声こごえで云う。あえて忍音しのびねには及ばぬ事を。けれども、……ここで云うのは、直じかに話すほど、間近な人に皆聞える。

「まったく、魚うおじゃ鯔ぼらの面色かおつきが瓜二つだよ。」

 その何に似ているかは言わずとも知れよう。

「ああああ、板の下から潜出もぐりだして、一つ水の中から顕あらわれたのがあります。大分大きゅうがすせ。」

 成程、たらたらと漆うるしのような腹を正的まともに、甲こうらに濡色の薄紅うすべにをさしたのが、仰向あおむけに鰓あぎとを此方こなたへ、むっくりとして、そして頭の尖さきに黄色く輪取った、その目が凸なかだかにくるりと見えて、鱗うろこのざらめく蒼味あおみがかった手を、ト板の縁ふちへ突張つッぱって、水から半分ぬい、と出た。

「大将、甲羅こうら干しに板へ出る気だ。それ乗ります。」

 と男衆の云った時、爪が外れて、ストンと落ちた。

 が、直ぐにすぼりと胸を浮かす。

「今度は乗るぜ。」

 やがて、甲羅を、残らず藻の上へ水から離して踏張ふんばった。が、力足らず、乗出した勢いきおいが余って、取外ずすと、ずんと沈む。

「や、不可いけない。」

 たちまち猛然としてまた浮いた。

 で、のしり、のしりと板へ手をかけ、見るも不器用に、堅い体を伸上のしあげる。

「しっかりしっかり、今度は大丈夫。あ、また辷すべった。大事な処で。」と男衆は胸を乗出す。

 汀のお珊は、褄つまをすらりと足をちょいと踏替えた。奴島田やっこしまだは、洋傘こうもりを畳んで支ついて、直ぐ目の下を、前髪に手庇てびさしして覗込のぞきこむ。

 この度は、場処を替えようとするらしい。

 斜ななめに甲羅を、板に添って、手を掛けながら、するすると泳ぐ。これが、棹さおで操るがごとくになって、夥多あまたの可いい心持に乾いた亀の子を、カラカラと載のせたままで、水をゆらゆらと流れて辷った。が、熟じっとして嚔くしゃみしたもの一つない。

 板の一方は細いのである。

 そこへ、手を伸ばすと、腹へ抱込かかえこめそうに見えた。

 いや、困った事は、重量おもみに圧おされて、板が引傾ひっかたむいたために、だふん、と潜る。

「ほい、しまった。いや、串戯じょうだんじゃない。しっかり頼むぜ。」

 と、男衆は欄干をトントン叩く。

 あせる、と見えて、むらむらと紋が騒ぐ、と月影ばかり藻が分れて、端を探り探り手が掛かかった。と思うと、ずぼりと出る。

「蛙かわずだと青柳硯あおやぎすずりと云うんです。」

「まったくさ。」


       十七


 けれども、その時もし遂げなかった。

「ああ、惜おしい。」

 男衆も共に、ただ一息と思う処で、亀の、どぶりと沈むごとに、思わず声を掛けて、手のものを落す心地で。

「執念深いもんですね。」

「あれ迄にしたんだ、揚げてやりたい。が、もう弱ったかな。」

 と言う間もなかった。

 この時は、手の鱗も逆立つまで、しゃっきりと、爪を大きく開ける、と甲の揺ゆらぐばかり力が入って、その手を扁平ひらたく板について、白く乾いた小さな亀の背に掛けた。

「ははあ、考えた。」

「あいつを力に取って伸上のしあがるんです、や、や、どッこい。やれ情なさけない。」

 ざぶりと他愛たわいなく、またもや沈む。

 男衆が時計を視みた。

「もう二時半です、これから中の島を廻るんですから、徐々そろそろ帰りましょう。」

「しかし、何だか、揚るのを見ないじゃ気が残るようだね。」

「え、私も気になりますがね、だって、日が暮れるまで掛かかるかも知れませんから。」

「妙に残惜のこりおしいようだよ。」

 男衆は、汀みぎわの婦おんなにちょいと目を遣って、密そっと片頬笑かたほおえみして声を潜ひそめた。

「串戯じょうだんじゃありませんぜ。ね、それ、何だか薄うっすりと美しい五色の霧が、冷々ひやひやと掛かかるようです。……変に凄すごいようですぜ。亀が昇天するのかも知れません。板に上ると、その機会はずみに、黒雲を捲起まきおこして、震動雷電……」

「さあ、出掛けよう。」

 二人は肩を寒くして、コトコトと橋の中央なかばから取って返す。

 やがて、渡果わたりはてようとした時である。

「ちょっと、ちょっと。」

 と背後うしろから、優やさしいが張はりのある、朗かな、そして幅のある声して呼んだ。何等の仔細しさいなしには済むまいと思った半日。それそれ、言わぬ事か、それ言わぬ事か。

 袖を合せて、前後あとさきに、ト斉ひとしく振返ると、洋傘こうもりは畳んで、それは奴やっこに持たした。縺毛もつれげ一条ひとすじもない黒髪は、取って捌さばいたかと思うばかり、痩やせぎすな、透通るような頬を包んで、正面まともに顔を合せた、襟はさぞ、雪なす咽喉のどが細かった。

「手前どもで、」と男衆は如才ない会釈をする。

 奴は黙って、片手をその膝のあたりへ下げた。

「そうどす。」と判然はっきり云って莞爾にっこりする、瞼まぶたに薄く色が染まって、類たぐいなき紅葉もみじの中の俤おもかげである。

「一遍お待ちやす……思おもいを遂げんと気がかりなよって、見ていておくれやす。私あてが手伝うさかいな。」

 猶予ためらいあえず、バチンと蓮はすの果みの飛ぶ音が響いた。お珊は帯留おびどめの黄金きん金具、緑の照々きらきらと輝く玉を、烏羽玉うばたまの夜の帯から星を手に取るよ、と自魚の指に外ずして、見得もなく、友染ゆうぜんを柔やわらかな膝なりに、腰をなよなよと汀に低く居て──あたかも腹を空に突張つッぱってにょいと上げた、藻を押分けた──亀の手に、縋すがれよ、引かむ、とすらりと投げた。

 帯留は、銀しろがねの曇ったような打紐うちひもと見えた。

 その尖さきは水に潜くぐって、亀の子は、ばくりと紐を噛かむ、ト袖口を軽く袂たもとを絞った、小腕こかいな白く雪を伸べた。が、重量おもみがかかるか、引く手に幽かすかに脈を打つ。その二の腕、顔、襟、頸うなじ、膚はだに白い処は云うまでもない、袖、褄つまの、艶えんに色めく姿、爪尖つまさきまで、──さながら、細い黒髪の毛筋をもって、線を引いて、描き取った姿絵のようであった。


       十八


 池の面おもは、蒼あおく、お珊の唇のあたりに影を籠こめた。

 風少し吹添って、城ある乾いぬいの天そら暗く、天満宮の屋の棟が淀どんより曇った。いずこともなく、はたはたと帆を打つ響きは、幟のぼりの声、町には黄なる煙が走ろう、数万人の形を掠かすめて。……この水のある空ばかり、雲に硝子がらすを嵌はめたるごとく、美女たおやめの虹にじの姿は、姿見の中に映るかと、五色の絹を透通して、色を染めた木この葉は淡く、松の影が颯さっと濃い。

 打紐にまた脈を打って、紫の血が通うばかり、時に、腕かいなの色ながら、しろじろと鱗うろこが光って、その友染に搦からんだなりに懐中ふところから一条ひとすじの蛇くちなわの蜿うねり出た、思いかけず、ものの凄すさまじい形になった。

「あ、」

 と云う声して、手を放すと、蛇の目輝く緑の玉は、光を消して、亀の口に銜くわえたまま、するするする、と水脚を引いてそのまま底に沈んだのである。

 奴やっこはじりじりと後に退すさった。

 お珊は汀みぎわにすっくと立った。が、血が留って、俤おもかげは瑪瑙めのうの白さを削ったのであった。

 この婦おんなが、一念懸けて、すると云うに、誰が何を妨げ得よう。

 日も待たず、その翌あけの日の夕暮時、宝の市へ練出す前に、──丸官が昨夜ゆうべ芝居で振舞った、酒の上の暴虐ぼうぎゃくの負債おいめを果させるため、とあって、──南新地の浪屋の奥二階。金屏風きんびょうぶを引繞ひきめぐらした、四海しかい波なみ静しずかに青畳の八畳で、お珊自分に、雌蝶雄蝶めちょうおちょうの長柄ながえを取って、橘たちばな活いけた床の間の正面に、美少年の多一と、さて、名はお美津と云う、逢阪の辻、餅屋の娘を、二人並べて据えたのである。

 晴の装束は、お珊が金子かねに飽あかして間に合わせた、宝の市の衣裳であった。

 まず上席のお美津を謂いおう。髪は結いたての水の垂るるような、十六七が潰つぶし島田。前髪をふっくり取って、両端へはらりと分けた、遠山の眉にかかる柳の糸の振分は、大阪に呼んで(いたずら)とか。緋縮緬ひぢりめんのかけおろし。橘に実を抱かせた笄こうがいを両方に、雲井の薫かおりをたきしめた、烏帽子えぼし、狩衣かりぎぬ。朱総しゅぶさの紐は、お珊が手にこそ引結うたれ。着つけは桃に薄霞うすがすみ、朱鷺色絹ときいろぎぬに白い裏、膚はだえの雪の紅くれないの襲かさねに透くよう媚なまめかしく、白の紗しゃの、その狩衣を装い澄まして、黒繻子くろじゅすの帯、箱文庫。

 含羞はなじろむ瞼まぶたを染めて、玉の項うなじを差俯向さしうつむく、ト見ると、雛鶴ひなづる一羽、松の羽衣掻取かいとって、曙あけぼのの雲の上なる、宴うたげに召さるる風情がある。

 同じ烏帽子、紫の紐を深く、袖を並べて面伏おもぶせそうな、多一は浅葱紗あさぎしゃの素袍すおう着て、白衣びゃくえの袖を粛つつましやかに、膝に両手を差置いた。

 前なるお美津は、小鼓に八雲琴やくもごと、六人ずつが両側に、ハオ、イヤ、と拍子を取って、金蒔絵きんまきえに銀鋲ぎんびょう打った欄干づき、輻やぼねも漆の車屋台に、前囃子まえばやしとて楽を奏する、その十二人と同じ風俗。

 後囃子あとばやしが、また幕打った高い屋台に、これは男の稚児ちごばかり、すり鉦がねに太鼓を合わせて、同じく揃う十二人と、多一は同じ装束である。

 二人を前に、銚子ちょうしを控えて、人交ぜもしなかった……その時お珊の装よそおいは、また立勝たちまさって目覚しや。


       十九


 宝の市の屋台に付いて、市女いちめまた姫とも称となうる十二人の美女が練る。……

 練衣ねりぎぬ小袿こうちぎの紅くれないの袴はかま、とばかりでは言足らぬ。ただその上下うえしたを装束そうぞくにも、支度の夜は丑満うしみつ頃より、女紅場じょこうばに顔を揃えて一人々々沐浴ゆあみをするが、雪の膚はだえも、白脛しろはぎも、その湯は一人ずつ紅べにを流し、白粉おしろいを汲替くみかえる。髪を洗い、櫛くしを入れ、丈より長く解捌ときさばいて、緑の雫しずくすらすらと、香枕こうまくらの香に霞むを待てば、鶏の声しばしば聞えて、元結もとゆいに染む霜の鐘の音。血る潔く清き身に、唐衣からごろもを着け、袴を穿はくと、しらしらと早や旭あさひの影が、霧を破って色を映す。

 さて住吉の朝ぼらけ、白妙しろたえの松の樹この間を、静々と詣もうで進む、路の裳もすそを、皐月御殿さつきごてん、市いちの式殿にはじめて解いて、市の姫は十二人。袴を十二長く引く。……

 その市の姫十二人、御殿の正面に揖ゆうして出いづれば、神官、威儀正しく彼処かしこにあり。土器かわらけの神酒みき、結び昆布。やがて檜扇ひおうぎを授けらる。これを受けて、席に帰って、緋や、萌黄もえぎや、金銀の縫箔ぬいはく光を放って、板戸も松の絵の影に、雲白く梢こずえを繞めぐる松林しょうりんに日の射さす中に、一列に並居なみいる時、巫子みこするすると立出たちいでて、美女の面おもて一いち人ごとに、式の白粉を施し、紅をさし、墨もて黛まゆずみを描く、と聞く。

 素顔の雪に化粧して、皓歯しらはに紅を濃く含み、神々しく気高いまで、お珊はここに、黛さえほんのりと描いている。が、女紅場の沐浴もくよくに、美しき膚はだを衆に抽ぬき、解き揃えた黒髪は、夥間なかまの丈を圧おさえたけれども、一人渠かれは、住吉の式に連つらなる事をしなかった。

 間際に人が欠けては事が済まぬ。

 世話人一同、袴腰を捻返ねじかえして狼狽うろたえたが、お珊が思うままな金子かねの力で、身代りの婦おんなが急に立った。

 で、これのみ巫女みこの手を借りぬ、容色きりょうも南地なんち第一人。袴の色の緋よりも冴えた、笹紅ささべにの口許くちもとに美しく微笑ほほえんだ。

「多一さん、美津みいさん、ちょっと、どないな気がおしやす。」

 唐織衣からおりごろもに思いもよらぬ、生地きじの芸妓げいこで、心易げに、島台を前に、声を掛ける。

 素袍の紗しゃに透通る、燈ともしの影に浅葱あさぎとて、月夜に色の白いよう、多一は照らされた面色おももちだった。

「なあ?」とお珊が聞返す、胸を薄く数を襲かさねた、雪の深い襲ねの襟に、檜扇を取って挿していた。

「御寮人様。」

 と手を下げて、

「何も、何も、私わたくしは申されませぬ。あの、ただ夢のようにござります。」とやっと云って、烏帽子を正しく、はじめて上げた、女のような優しい眉の、右を残して斜めに巻いたは、笞しもとの疵きずに、無慚むざんな繃帯ほうたい。

 お珊は黒目がちに、熟じっと睜みはって、

「ほんに、そう云うたら夢やな。」

 と清らかな襖ふすまのあたり、座敷を衝つと眗みまわした。

 ト柱、襖ふすま、その金屏風に、人の影が残らず映った。

 映って、そして、緋に、紫に、朱鷺色ときいろに、二人の烏帽子、素袍、狩衣、彩あやあるままに色の影。ことにお珊の黒髪が、一条ひとすじ長く、横雲掛けて見えたのである。


       二十


 時に、間まを隔てた、同じ浪屋の表二階に並んだ座敷は、残らず丸官が借り占めて、同じ宗右衛門町に軒を揃えた、両側の揚屋と斉ひとしく、毛氈もうせんを聯つらねた中に、やがて時刻に、ここを出て、一まず女紅場で列を整え、先立ちの露払い、十人の稚児ちごが通り、前囃子まえばやしの屋台を挟さしはさんで、そこに、十二人の姫が続く。第五番に、檜扇ひおうぎ取って練る約束の、我おのがお珊の、市随一の曠はれの姿を見ようため、芸妓げいこ、幇間たいこもちをずらりと並べて、宵からここに座を構えた。

 が、その座敷もまだ寂寞ひっそりして、時々、階子段はしごだん、廊下などに、遠い跫音あしおと、近く床しき衣摺きぬずれの音のみ聞ゆる。

 お珊は袖を開き、居直って、

「まあな、ほんに夢のようにあろな。私かて、夢かと思う。」

 と、﨟丈ろうたけた黛まゆずみ、恍惚うっとりと、多一の顔を瞻みまもりながら、

「けど、何の、何の夢やおへん。たとい夢やかて。……丸官はんの方もな、私が身に替えて、承知させた……三々九度さかずきやさかい、ああした我わがままな、好勝手な、朝云うた事は晩に変えやはる人やけど、こればかりは、私が附いているよって、承合うけおうて、どないしたかて夢にはせぬ。……あんじょう思うておくんなはれや。

 美津みいさん、」

 と娘の前髪に、瞳を返して、

「不思議な御縁やな。ほほ、」

 手を口許に翳かざしたが、

「こう云うたかて、多一さんと貴女あんたとは、前世から約束したほど、深い交情なかでおいでる様子。今更ではあるまいけれど、私とは不思議な御縁やな。

 思うてみれば、一昨日おとといの夜よさり、中の芝居で見たまでは天王寺の常楽会じょうらくえにも、天神様の御縁日にも、ついぞ出会うた事もなかったな。

 一見いちげんでこうなった。

 貴女あんたな、ようこそ、芝居の裏で、お爺じいはんの肩摺さすって上げなはった。多一さんも人目忍んで、貴女の孝行手伝わはった。……自分介抱するよって、一条ひとくさりなと、可愛い可愛い女房おかみはんに、沢山たんと芝居を見せたい心や。またな、その心を汲取くみとって、鶉うずらへ嬉々いそいそお帰りやした、貴女の優しい、仇気あどけない、可愛らしさも身に染みて。……

 私はな、丸官はんに、軋々ぎしぎしと……四角な天窓あたま乗せられて、鶉の仕切も拷問ごうもんの柱とやら、膝も骨も砕けるほど、辛い苦しい堪え難い、石を抱く責苦に逢うような中でも、身節みふしも弛ゆるんで、恍惚うっとりするまで視ながめていた。あの………扉ひらきの、お仕置場らしい青竹の矢来やらいの向うに……貴女等あんたたちの光景ようすをば。──

 悪事は虎の千里走る、好いい事は、花の香ほども外へは漏れぬ言うけれど、貴女あんた二人は孝行の徳、恋の功てがら、恩愛の報むくいだすせ。誰も知るまい、私一人、よう知った。

 逢阪に店がある、餅屋の評判のお娘こさん、御両親おふたおやは、どちらも行方ゆきがた知れずなった、その借銭やら何やらで、苦労しなはる、あのお爺さんの孫や事まで、人に聞いて知ったよって、ふとな、彼やこれや談合しよう気になったも、私ばかりの心やない。

 天満の天神様へ行た、その帰途かえりに、つい虚気々々うかうかと、もう黄昏たそがれやいう時を、寄ってみたい気になって、貴女の餅屋へ土産買う振りで入ったら、」

 と微笑みながら、二人を前に。

「多一さんが、使の間まをちょっと逢いに寄って、町並灯あかりの点ともされた中に、その店だけは灯ひもつけぬ、暗いに島田が黒かったえ。そのな、繃帯が白う見えた。」


       二十一


 小指を外そらして指の輪を、我目の前さきへ、……お珊はそれが縁を結ぶ禁厭まじないであるようにした。

「密々ひそひそ、話していやはったな。……そこへ、私が行合ゆきあわせたも、この杯の瑞祥ずいしょうだすぜ。

 ここで夫婦にならはったら、直ぐにな、別に店を出してもらうなり、世帯しょたい持ってそこから本店ほんだなへ通うなり、あの、お爺はんと、三人、あんじょ暮らして行ゆかはるように、私がちゃと引受けた。弟、妹の分にして、丸官はんに否いやは言わせぬ。よって、安心おしやすや。え、嬉しいやろ。美津みいさんが、あの、嬉しそうなえ。

 どうや、九太夫くだゆうはん。」

 と云った、お珊は、密そっと声を立てて、打解けた笑顔になった。

 多一は素袍の浅葱あさぎを濃く、袖を緊しめて、またその顔を、はッと伏せる。

「ほほほほ多一さん、貴下あんた、そうむつかしゅうせずと、胡坐じょうら組む気で、杯しなはれ。私かて、丸官はんの傍そばに居るのやない、この一月は籍のある、富田屋とんだやの以前の芸妓げいこ、そのつもりで酌をするのえ。

 仮祝言や、儀式も作法も預かるよってな。後のちにまたあらためて、歴然れっきとした媒妁人なこうど立てる。その媒妁人やったら、この席でこないな串戯わやくは言えやへん。

 そない極きまらずといておくれやす。なあ、九太夫はん。」

「御寮人様。」

 と片手を畳へ、

「私はもう何も存じません、胸一杯で、ものも申されぬようにござります。が、その九太夫は情なさけのうござります。」

 と、術なき中にも、ものの嬉しそうな笑えみを含んだ。

「そうやかて、貴方あんた、一昨日おとといの暮方、餅屋の土間に、……そないして、話していなはった処へ、私が、ト行た……姿を見ると、腰掛框かまちの縁の下へ、慌てもうて、潜って隠れやはったやないかいな。」

 言う──それは事実であった。──

「はい、唯今でこそ申します、御寮人様がまたお意地の悪い。その框かまちへ腰をお掛けなされまして、盆にあんころ餅寄越せ、茶を持てと、この美津に御意ござります。

 その上、入る穴はなし、貴女様の召しものの薫かおりが、魔薬とやらを嗅かぎますようで、気が遠くなりました。

 その辛さより、犬になってのこのこと、下屋を這出しました時が、なお術のうござりましてござります。」

「ほほほ可厭いやな、この人は。……最初はな、内証で情婦いろに逢やはるより何の余所よその人でないものを、私の姿を見て隠れやはった心の裡うちが、水臭いようにあって、口惜くやしいと思うたけれど、な、……手を支ついて詫わび言いやはる……その時に、門かどのとまりに、ちょんと乗って、むぐむぐ柿を頬張っていた、あの、大おおきな猿が、土間へ跳下とびおりて、貴下あんたと一所に、頭を土へ附けたのには、つい、おろおろと涙が出たえ。

 柿は、貴下の土産やったそうに聞くな。

 天王寺の境内で、以前舞わしてやった、あの猿。どないなった問うた時、ちと知縁のものがあって、その方へ、とばかり言うて、預けた先方さきを話しなはらん、住吉辺の田舎へなと思うたら、大切だいじな許とこに居るやもの。

 おお、それなりで、貴方あんたたちを、私が方へ、無理に連れもうて来てしもうたが、うっかりしたな、お爺はんは、今夜は私の市女笠持って附いてもらうよって、それも留守。あの、猿はどうしたやろな。」

「はい、」

 と娘が引取った、我が身の姿と、この場の光景ようす、踊のさらいに台辞せりふを云うよう、細く透とおる、が声震えて、

「お爺さんが留守の時も、あの、戸を閉めた中に居て、ような、いつも留守してくれますのえ。」


       二十二


「飼主とは申しましても、かえって私の方が養われました、あの、猿でさえ、……」

 多一は片手に胸を圧おさえて、

「御寮人様は申すまでもござりません、大道からお拾い下さりました。……また旦那様の目を盗みまして、私は実に、畜生にも劣りました、……」

「何や……怪我けがに貴方あんたは何やかて、美津みいさんは天人や、その人の夫やもの。まあ、二人して装束をお見やす、雛ひなを並べたようやないか。

 けどな、多一さん、貴下あんたな、九太夫やったり、そのな、額の疵きずで、床下から出やはった処は仁木にっきどすせ。沢山たんと忠義な家来ではどちらやかてなさそうな。」

 と軽口に、奥もなく云うて退のけたが、ほんのりと潤うるみのある、瞼まぶたに淡く影が映さした。

「ああ、わやく云う事やない。……貴方あんた、その疵、ほんとにもう疼痛いたみはないか。こないした嬉しさに、ずきずきしたかて忘らりょう。けど、疵は刻んで消えまいな。私が傍そばに居たものを。美津みいさんの大事な男に、怪我させて済まなんだな。

 そやけど、美津さん、怨うらみにばかり、思いやすな。何百人か人目の前で、打擲ちょうちゃくされて、熟じっと堪こらえていやはったも、辛抱しとげて、貴女あんたと一所に、添遂げたいばかりなんえ。そしたら、男の心中しんじゅうの極印ごくいん打ったも同じ事、喜んだかて可いいのどす。」

 お美津は堪こらえず、目に袖を当てようとした。が、朱鷺色ときいろ衣に裏白きは、神の前なる薄紅梅、涙に濡らすは勿体ない。緋縮緬を手に搦からむ、襦袢は席の乱れとて、強いて堪えた頬の靨えくぼに、前髪の艶しとしとと。

 お珊は眦まなじりを多一に返して、

「な、多一さんもそうだすやろな。」

「はい!」と聞返すようにする。

「丸官はんに、柿の核たね吹かけられたり、口車に綱つけて廊下を引摺廻されたり、羅宇らうのポッキリ折れたまで、そないに打擲されやして、死身しにみになって堪えなはったも、誰にした辛抱でもない、皆、美津さんのためやろな。」

「…………」

「なあ、貴方、」

「…………」

「ええ、多一さん、新枕にいまくらの初言葉ういことばと、私もここでちゃんと聞く。……女子おなごは女子同士やよって、美津さんの味方して、私が聞きたい。貴方はそうはなかろうけど、男は浮気な……」

 と見る、月がぱっちりと輝いた。多一は俯向うつむいて見なかった。

「……ものやさかい、美津さんの後の手券てがたに、貴方の心を取っておく。ああまで堪えやした辛抱は、皆女子へ、」

「ええ、」

「あの、美津さんへの心中だてかえ。」

 多一はハッと畳に手を……その素袍、指貫さしぬきに、刀なき腰は寂しいものであった。

「御寮人様、御推量を願いとうござります。誓文それに相違ござりません。」

 お美津の両手も、鶴の白羽の狩衣に、玉を揃えて、前髪摺れに支ついていた、簪かんざしの橘たちばな薫りもする。

「おお……嬉し……」

 と胸を張って、思わず、つい云う。声の綾あやに、我を忘れて、道成寺の一条ひとくだりの真紅の糸が、鮮麗あざやかに織込まれた。

 それは禁制の錦にしきであった。

 ふと心付いた状さまして、動悸どうきを鎮めるげに、襟なる檜扇ひおうぎの端をしっかと圧おさえて、ト後うしろを見て、襖ふすまにすらり靡なびいた、その下げ髪の丈を視ながめた。

 お珊の姿は陰々とした。


       二十三


 夫婦が二人、その若い顔を上げた時、お珊は何気なき面色おももちした。

「ほんになあ、くどいようなが多一さん、よう辛抱しやはった。中の芝居で、あの事がなかったら、幾ら私が無理云うたかて、丸官はんにこの祝言を承知さす事はようせんもの。……そりゃな、夫婦にはならはったかて、立行くように世帯が出来んとならんやないか。

 通い勤めなり、別に資本出すなりと、丸官はんに、応、言わせたも、皆、貴方あんたが、美津みいさんのために堪こらえなはった、心中立しんじゅうだて一つやな。十年七年の奉公を一度に済ましなはったも同じ事。

 額の疵きずは、その烏帽子に、金剛石ダイヤモンドを飾ったような光が映さす……おお、天晴あっぱれなお婿はん。

 さあ、お嫁はん、お酌しょうな。」

 と軽く云ったが、艶麗あでやかに、しかも威儀ある座を正して、

「お盞さかずき。」

 で、長柄の銚子ちょうしに手を添えた。

 朱塗の蒔絵まきえの三組みつぐみは、浪に夕日の影を重ねて、蓬莱ほうらいの島の松の葉越に、いかにせし、鶴は狩衣の袖をすくめて、その盞を取ろうとせぬ。

「さ、お受けや。」

 と、お珊が二度ばかり勧めたけれども、騒立さわぎたつらしい胸の響きに、烏帽子の総ふさの揺るるのみ。美津は遣瀬やるせなげに手を控える。

 ト熟じっと視みて、

「おお、まだ年の行ゆかぬ、嬰ね児ねはんや。多一はんと、酒事ささごとしやはった覚えがないな。貴女あんた盞を先へ取るのを遠慮やないか。三々九度は、嫁はんが初手に受けるが法やけれど、別に儀式だった祝言やないよって、どうなと構わん。

 そやったら多一さん、貴方あんた先へお受けやす。」

「はい、」と斉ひとしく逡巡しりごみする。

「どうしやはったえ。」

「御寮人様、一生に一度の事でござります。とてもの事に、ものが逆になりませんよう、やっぱり美津から……」

 とちょっと目を合せた。

「女から、お盞を頂かして下さりまし。」

「そやかて、含羞はにかんでいて取んなはらん。……何や、貴方あんたがた、おかしなえ。」

 ふと気色ばんだお珊の状さまに、座が寂しんとして白けた時、表座敷に、テンテン、と二ツ三ツ、音ねじめの音が響いたのである。

 二人は黙って差俯向さしうつむく。……

 お珊は、するりと膝を寄せた。屹きっとして、

「早うおしや! 邪魔が入るとならんよって、私も直じきに女紅場へ行かんとならんえ。……な、あの、酌人が不足なかい。」

 二人は、せわしげに瞳を合して、しきりに目でものを云っていた。

「もし、」

 と多一が急せいた声で、

「御寮人様、この上になお罰が当ります。不足やなんの、さような事がありまして可いいものでござりますか。御免下さりまし、申しましょう。貴女様、その召しました、両方のお袂たもとの中が動きます。……美津は、あの、それが可恐こわいのでござります。」と判然はっきり云った。

 と、頤おとがいを檜扇ひおうぎに、白小袖の底を透すかして、

「これか、」

 と投げたように言いながら、衝つと、両手を中へ、袂を探って、肩をふらりと、なよなよとその唐織の袖を垂れたが、品ひんを崩して、お手玉持つよ、と若々しい、仇気あどけない風があった。

「何や、この二条ふたすじの蛇が可恐い云うて?……両方とも、言合わせたように、貴方あんた二人が、自分たちで、心願掛けたものどっせ。

 餅屋の店で逢うた時、多一さん、貴方あんたはこの袋一つ持っていた。な、買うて来るついではあって、一夜ひとよさ祈いのりはあげたけれど、用の間が忙しゅうて、夜さり高津の蛇穴へ放しに行ゆく隙ひまがない、頼まれて欲ほしい──云うて、美津さんに託ことづきょう、とそれが用で顔見に行ゆかはった云うたやないか。」


       二十四


「美津さんもまた、日が暮れたら、高津へ行て放す心やった云うて、自分でも一筋。同じ袋に入ったのが、二ツ、ちょんと、あの、猿の留木とまりぎの下に揃えてあって、──その時、私に打明けて二人して言やはったは、つい一昨日おとといの晩方や。

 それもこれも、貴方あんたがた、芝居の事があってから、あんな奉公早う罷やめて、すぐにも夫婦になれるようにと、身体からだは両方別れていて、言合せはせぬけれど、同じ日、同じ時に、同じ祈いのりを掛けやはる。……

 蛇も二筋落合うた。

 案の定、その場から、思いが叶かのうた、お二人さん。

 あすこのな、蛇屋に蛇は多けれど、貴方がたのこの二条ふたすじほど、験げんのあったは外にはないやろ。私かて、親はなし、稚ちいさい時から勤つとめをした、辛い事、悲しい事、口惜くやしい事、恋しい事、」

 と懐手のまま、目を睜みはって、

「死にたいほどの事もある。……何々の思おもいが遂げたいよって、貴方あんた二人に類似あやかりたさに、同じ蛇を預った。今少し、身に附けていたいよって、こうしておいておくれやす。

 貴方、結ぶの神やないか。

 けどな、思い詰めては、自分の手でも持ったもの。一度、願ねがいが叶うた上では、人の袂にあるのさえ、美津さん、婦おんなは、蛇は、可厭いやらしな!

 よう貴女あんた、これを持つまで、多一さんを思やはった、婦おんな同士や、察せいでか。──袂にあったら、粗相して落すとならん。憂慮きづかいなやろさかい、私がこうするよって、大事ないえ。」

 と袖の中にて手を引けば、内懐うちぶところの乳ちのあたり、浪打つように膨らみたり。

「婦おんなの急所で圧おさえておく。……乳銜くわえられて、私が死のうと、盞の影も覗のぞかせぬ。さ、美津さん、まず、お前に。」

 お珊は長柄をちょうと取る。

 美津は盞を震えて受けた。

 手の震えで滴々たらたらと露散たまちるごとき酒の雫しずく、蛇くちなわの色ならずや、酌参るお珊の手を掛けて燈ともしびの影ながら、青白き艶つやが映ったのである。

 はたはたとお珊が手を拍たたくと、かねて心得さしてあったろう。廊下の障子の開く音して、すらすらと足袋摺たびずれに、一間を過ぎて、また静しずかにこの襖ふすまを開けて、

「お召し、」

 とそこへ手を支ついた、裾すそ模様の振袖は、島田の丈長たけなが、舞妓まいこにあらず、家うちから斉眉かしずいて来ている奴やっこであった。

「可よいかい。」

「はい。」と言いさま、はらはらと小走りに、もとの廊下へ一度出て、その中庭を角にした、向うの襖をすらりと開けると、閨ねや紅くれないに、翠みどりの夜具。枕頭まくらもとにまた一人、同じ姿の奴が居る。

 お珊が黙って、此方こなたから差覗さしのぞいて立ったのは、竜田姫たつたひめの彳たたずんで、霜葉もみじの錦の谿たに深く、夕映えたるを望める光景ありさま。居たのが立って、入ったのと、奴二人の、同じ八尺対扮装ついでたち。紫の袖、白襟が、紫の袖、白襟が。

 袖口燃ゆる緋縮緬ひぢりめん、ひらりと折目に手を掛けて、きりきりと左右へ廻して、枕を蔽おおう六枚屏風びょうぶ、表に描かいたも、錦葉にしきばなるべし、裏に白銀しろがねの水が走る。

「あちらへ。」

 お珊が二人を導いた時、とかくして座を立った、美津が狩衣の袴の裾は、膝を露顕あらわな素足なるに、恐ろしい深山路みやまじの霜を踏んで、あやしき神の犠牲にえに行ゆく……なぜか畳は辿々たどたどしく、ものあわれに見えたのである。奴二人は姿を隠した。


       二十五


 屏風を隔てて、この紅くれないの袴した媒人なこうどは、花やかに笑ったのである。

 一人を褥しとねの上に据えて、お珊がやがて、一人を、そのあとから閨ねやへ送ると、前のが、屏風の片端から、烏帽子のなりで、するりと抜ける。

 下髪さげがみであとを追って、手を取って、枕頭まくらもとから送込むと、そこに据えたのが、すっと立って、裾から屏風を抜けて出る。トすぐに続いて、縋すがって抱くばかりにして、送込むと、おさえておいたのが、はらはら出る。

 素袍すおう、狩衣、唐衣、綾あやと錦の影を交えて、風ある状さまに、裾袂、追いつ追われつ、ひらひらと立舞う風情に閨を繞めぐった。巫山ふざんの雲に桟かけはし懸かかれば、名もなき恋の淵ふちあらむ。左、橘たちばな、右、桜、衣きぬの模様の色香を浮かして、水は巴ともえに渦を巻く。

「おほほほほ、」

 呼吸いきも絶ゆげな、なえたような美津の背せなを、屏風の外で抱えた時、お珊は、その花やかな笑わらいを聞かしたのである。

 好よき機会しおとや思いけん。

 廊下に跫音あしおと、ばたばたと早く刻んで、羽織袴の、宝の市の世話人一人、真先まっさきに、すっすっすっと来る、当浪屋の女房かみさん、仲居まじりに、奴が続いて、迎いの人数にんず。

 口々に、

「御寮人様。」

「お珊様。」

「女紅場では、屋台の組も乗込みました。」

「貴女ばかりを待兼ねてござります。」

 襖の中から、

「車は?」

 と静しずかに云う。

「綱も申し着けました、」と世話人が答えたのである。

「待たせはせぬえ、大事な処へ、何や!」

 と声が凜りんとした。

 黙って、すたすた、一同は廊下を引く。

 とばかりあって、襖をあけた時、今度は美津が閨に隠れて、枕も、袖も見えなんだ。

 多一が屏風の外に居て、床の柱の、釣籠つりかごの、白玉椿しらたまつばきの葉の艶より、ぼんやりとした素袍で立った。

 襖がくれの半身で、廊下の後前あとさきを熟じっと視みて、人の影もなかった途端に、振返ると、引寄せた。お珊の腕かいなが頸うなじにかかると、倒れるように、ハタと膝を支ついた、多一の唇に、俯向うつむきざまに、衝つと。──

 丸官の座敷を、表に視ながめて、左右に開いたに立寄りもせず、階子段はしごだんを颯さっと下りる、とたちまち門かどへ姿が出た。

 軒を離れて、俥くるまに乗る時、欄干に立った、丸官、と顔を上下うえしたに合すや否や、矢を射るような二人曳ににんびき。あれよ、あれよと云うばかり、廓くるわの灯ともしに影を散らした、群集ぐんじゅはぱっと道を分けた。

 宝の市の見物は、これよりして早や宗右衛門町の両側に、人垣を築いて見送ったのである。

 その年十月十九日、宝の市の最後の夜よは、稚児ちご、市女いちめ、順々に、後圧あとおさえの消防夫しごとしが、篝火かがりび赤き女紅場の庭を離れる時から、屋台の囃子、姫たちなど、傍目わきめも触ふらぬ婦おんなたちは、さもないが、真先まっさきに神輿みこしを荷にのうた白丁はくちょうはじめ、立傘たてがさ、市女笠いちめがさ持ちの人足など、頻しきりに気にしては空を視ながめた。

 通り筋の、屋根に、廂ひさしに、しばしば鴉からすが鳴いたのである。

 次第に数が増すと、まざまざと、薄月うすづきの曇った空に、嘴くちばしも翼も見えて、やがては、練ねりものの上を飛交わす。

 列が道頓堀に小休みをした時は、立並ぶ芝居の中の見物さえ、頻りに鴉鳴からすなきを聞いた、と後で云う。……


       二十六


「宗八そっぱ、宗八そっぱ。」

 浪屋の表座敷、床の間の正面に、丸田官蔵、この成金、何の好みか、例なる詰襟つめえりの紺の洋服、高胡坐たかあぐら、座にある幇間ほうかんを大音に呼ぶ。

「はッ、」

「き様、逢阪のあんころ餅へ、使者に、後押あとおしで駈着かけつけて、今帰った処じゃな。」

「御意にござります、へい。」

「何か、直ぐに連れてここへ来る手筈てはずじゃった、猿は、留木とまりぎから落ちて縁の下へ半分身体からだを突込つッこんで、斃死くたばっていたげに云う……嘘でないな。」

「実説正銘にござりまして、へい。餅屋店みせでは、爺じじいの伝五めに、今夜、貴方様あなたさま、お珊の方様、」

 と額を敲たたいて、

「すなわち、御寮人様、市へお練出しのお供を、お好このみとあって承ります。……さてまた、名代娘のお美津さんは、御夫婦これに──ええ、すなわち逢阪の辻店は、戸を寄せ掛けた明巣あきすにござります。

 処へ宗八、丸官閣下お使者といたし、車を一散に乗着けまして、隣家の豆屋の女房立会い、戸を押開いて見ましたれば、いや、はや、何とも悪食あくじきがないたいた様子、お望みの猿は血を吐いて斃おち果てておりましたに毛頭相違ござりません。」

「うむ。」

 と苦切にがりきって頷うなずきながら、

「多一、あれを聞いたかい、その通りや。」と、ぐっと見下ろす。

 一座の末に、うら若い新夫婦は、平伏ひれふしていたのである。

 これより先、余り御無体、お待ちや、などと、慌あわただしい婦おんなまじりの声の中に、丸官の形、猛然と躍上おどりあがって、廊下を鳴らして魔のごとく、二人の閏ねやへ押寄せた。

 襖をどんと突明けると、床の間の白玉椿、怪しき明星のごとき別天地に、こは思いも掛けず、二人の姿は、綾の帳とばりにも蔽おおわれず、指貫さしぬきやなど、烏帽子の紐ひもも解かないで、屏風びょうぶの外に、美津は多一の膝に俯ふし、多一は美津の背せなに額を附けて、五人囃子の雛ひな二個ふたつ、袖を合せたようであった。

 揃って、胸先がキヤキヤと痛むと云う。

「酒啖くらえ、意気地なし!」

 で、有無を言わせず、表二階へ引出された。

 欄干の緋ひの毛氈もうせんは似たりしが、今夜は額を破るのでない。

「練ものを待つ内、退屈じゃ。多一やい、皆への馳走ちそうに猿を舞わいて見せてくれ。恥辱はじではない。汝わりゃ、丁稚でっちから飛上って、今夜から、大阪の旦那の一人にん。旧むかしを忘れぬためという……取立てた主人の訓戒いましめと思え。

 呼べ、と言えば、婦おんなどもが愚図ぐず々々吐ぬかす。新枕にいまくらは長鳴鶏ながなきどりの夜よがあけるまでは待かねる。

 主従は三世の中じゃ、遠慮なしに閨へ推参に及んだ、悪く思うまいな。汝わりゃ、天王寺境内に太鼓たたいていて、ちょこんと猿負背おんぶで、小屋へ帰りがけに、太夫どのに餅買うて、汝われも食いおった、行帰りから、その娘は馴染なじみじゃげな。足洗うて、丁稚になるとて、右の猿は餅屋へ預けて、現に猿ヶ餅と云うこと、ここに居る婦おんなどもが知った中。

 田畝たんぼの鼠が、蝙蝠こうもりになった、その素袍すおうひらつかいたかて、今更隠すには当らぬやて。

 かえって卑怯ひきょうじゃ。

 遣やってくれい。

 が、聞く通り、ちゃと早手廻しに使者を立てた、宗八が帰っての口上、あの通り。

 残念な、猿太夫は斃おちたとあるわい。

 唄なと歌え、形なと見せおれ。

 何吐ぬかす、」

 と、とりなしを云った二三人の年増の芸妓げいこを睨廻ねめまわいて、

「やい、多一!」


       二十七


「致します、致します。」

 と呼吸いきを切って、

「皆さん御免なさりまし。」

 多一はすっと衣紋えもんを扱しごいた。

 浅葱あさぎの素袍、侍烏帽子が、丸官と向う正面。芸妓、舞妓は左右に開く。

 その時、膝に手を支ついて、

「……ま猿めでとうのう仕つかまつる、踊るが手許てもと立廻り、肩に小腰をゆすり合せ、静やかに舞うたりけり……」

 声を張った、扇拍子、畳を軽く拍うちながら、「筑紫下りの西国船、艫ともに八挺ちょう、舳へに八挺、十六挺の櫓櫂ろかいを立てて……」

「やんややんや。ああ惜おしい、太夫が居おらぬ。千代鶴やい、猿になれ。一若、立たぬか、立たぬか、此奴こいつ。ええ! 婆ばばどもでまけてやろう、古猿こけざるになれ、此奴等こいつら……立たぬな、おのれ。」

 と立身上たちみあがりに、盞さかずきを取って投げると、杯洗はいせんの縁ふちにカチリと砕けて、颯さっと欠かけらが四辺あたりに散った。

 色めき白ける燈ともしびに、一重瞼ひとえまぶちの目を清すずしく、美津は伏せたる面おもてを上げた。

「ああ、皆さん、私が猿を舞いまっせ。旦那さん、男のためどす。畜生になってな、私が天王寺の銀杏いちょうの下で、トントン踊って、養うよってな。世帯せいでも大事ない、もう貴下あんた、多一さんを虐いじめんとおくれやす。

 ちゃと隙ひまもろうて去いぬよって、多一さん、さあ、唄いいな、続いて、」

 と、襟の扇子を衝つと抜いて、すらすらと座へ立った。江戸は紫、京は紅べに、雪の狩衣被かけながら、下萌したもゆる血の、うら若草、萌黄もえぎは難波なにわの色である。

 丸官は掌こぶしを握った。

 多一の声は凜々りんりんとして、

「しもにんにんの宝の中に──火取る玉、水取る玉……イヤア、」

 と一つ掛けた声が、たちまち切なそうに掠かすれた時よ。

(ハオ、イヤア、ハオ、イヤア、)霜夜を且つちる錦葉もみじの音かと、虚空に響いた鼓の掛声。

(コンコンチキチン、コンチキチン、コンチキチン、カラ、タッポッポ)摺鉦すりがね入れた後囃子あとばやしが、遥はるかに交って聞えたは、先駆すでに町を渡って、前囃子の間近な気勢けはい。

 が、座を乱すものは一人もなかった。

「船の中には何とお寝よるぞ、苫とまを敷寝に、苫を敷寝に楫枕かじまくら、楫枕。」

 玉を伸べたる脛はぎもめげず、ツト美津は、畳に投げて手枕たまくらした。

 その時は、別に変った様子もなかった。

 多一が次第に、歯も軋きしむか、と声を絞って、

「葉越しの葉越しの月の影、松の葉越の月見れば、しばし曇りてまた冴さゆる、しばし曇りてまた冴ゆる、しばし曇りてまた冴ゆる……」

 ト袖を捲いて、扇子おうぎを翳かざし、胸を反らして熟じっと仰いだ、美津の瞳は氷れるごとく、瞬またたさもせず睜みはると斉ひとしく、笑靨えくぼに颯さっと影がさして、爪立つまだつ足が震えたと思うと、唇をゆがめた皓歯しらはに、莟つぼみのような血を噛かんだが、烏帽子の紐の乱れかかって、胸に千条ちすじの鮮血からくれない。

「あ、」

 と一声して、ばったり倒れる。人目も振ふりも、しどろになって背せなに縋すがった。多一の片手の掌てのひらも、我が唇を圧おさえ余って、血汐ちしおは指を溢あふれ落ちた。

 一座わっと立騒ぐ。階子はしごへ遁にげて落ちたのさえある。

 引仰向ひきあおむけてしっかと抱き、

「美津みいさん!……二、二人は毒害された、お珊、お珊、御寮人、お珊め、婦おんな!」


       二十八


「床几しょうぎ、」

 と、前後まえうしろの屋台の間に、市女いちめの姫の第五人目で、お珊が朗かな声を掛けた。背後うしろに二人、朱の台傘を廂ひさしより高々と地摺じずれの黒髪にさしかけたのは、白丁扮装はくちょうでたちの駕寵かご人足。並んで、萌黄紗もえぎしゃに朱の総ふさ結んだ、市女笠を捧げて従ったのは、特にお珊が望んだという、お美津の爺じいの伝五郎。

 印半纏しるしばんてん、股引ももひき、腹掛けの若いものが、さし心得て、露じとりの地に据えた床几に、お珊は真先まっさきに腰を掛けた。が、これは我儘わがままではない。練ねりものは、揃って、宗右衛門町のここに休むのが習ならいであった。

 屋台の前なる稚児ちごをはじめ、間をものの二間けんばかりずつ、真直まっすぐに取って、十二人が十二の衣きぬ、色を勝すぐった南地の芸妓げいこが、揃って、一人ずつ皆床几に掛かる。

 台傘の朱は、総二階一面軒ごとの緋ひの毛氈もうせんに、色映交さしかわして、千本ちもと植えたる桜の梢こずえ、廊くるわの空に咲かかる。白の狩衣、紅梅小袖、灯ともしびの影にちらちらと、囃子の舞妓、芸妓など、霧に揺据ゆりすわって、小鼓、八雲琴やくもごとの調しらべを休むと、後囃子あとばやしなる素袍の稚児が、浅葱桜あさぎざくらを織交ぜて、すり鉦がね、太鼓の音ねも憩う。動揺どよめき渡る見物は、大河の水を堰せいたよう、見渡す限り列のある間、──一尺ごとに百目蝋燭ひゃくめろうそく、裸火を煽あおらし立てた、黒塗に台附の柵の堤を築いて、両方へ押分けたれば、練もののみが静まり返って、人形のように美しく且つ凄すごい。

 ただその中を、福草履ひたひたと地を刻んで、袴はかまの裾を忙せわしそう。二人三人、世話人が、列の柵摺ずれに往ゆきつ還かえりつ、時々顔を合わせて、二人囁ささやく、直ぐに別れてまた一人、別な世話人とちょっと出遇であう。中に一人落しものをしたように、うろうろと、市女たちの足許あしもとを覗のぞいて歩行あるくものもあって、大おおきな蟻の働振はたらきぶり、さも事ありげに見えるばかりか、傘さしかけた白丁どもも、三人ならず、五人ならず、眉を顰ひそめ口を開けて空を見た。

 その空は、暗く濁って、ところどころ朱の色を交えて曇った。中を一条ひとすじ、列を切って、どこからともなく白気はっきが渡って、細々と長く、遥はるかに城ある方かたに靡なびく。これを、あたりの湯屋の煙、また、遠い煙筒えんとつの煙が、風の死したる大阪の空を、あらん限り縫うとも言った。

 宵には風があった。それは冷たかったけれども、小春凪こはるなぎの日の余残なごりに、薄月さえ朧々おぼろおぼろと底の暖いと思ったが、道頓堀で小休みして、やがて太左衛門橋を練込む頃から、真暗まっくらになったのである。

 鴉は次第に数を増した。のみならず、白気の怪あやしみもあるせいか、誰云うとなく、今夜十二人の市女の中に、姫の数が一人多い。すべて十三人あると言交わす。

 世話人徒てあいが、妙に気にして、それとなく、一人々々数えてみると、なるほど一人姫が多い。誰も彼も多いと云う。

 念のために、他所見よそみながら顔を覗のぞいて、名を銘々に心に留めると、決して姫が殖ふえたのではない。定おきての通り十二人。で、また見渡すと十三人。

 ……式の最初、住吉詣もうでの東雲しののめに、女紅場で支度はしたが、急にお珊が気が変って、社やしろへ参らぬ、と言ったために一人俄拵にわかごしらえに数を殖ふやした。が、それは伊丹幸いたこうの政巳まさみと云って、お珊が稚わかい時から可愛がった妹分。その女は、と探ってみると、現に丸官に呼ばれて、浪屋の表座敷に居ると云うから、その身代りが交ったというのでもないのに。……

 それさえ尋常ただならず、とひしめく処に、搗かてて加えて易からぬは、世話人の一人が見附けた──屋台が道頓堀を越す頃から、橋へかけて、列の中に、たらたら、たらたらと一雫ひとしずくずつ、血が落ちていると云うのである。


       二十九


 一人多い、その姫の影は朧おぼろでも、血のしたたりは現に見て、誰が目にも正まさしく留った。

 灯の影に地を探って、穏おだやかならず、うそうそ捜さがしものをして歩行あるくのは、その血のあとを辿たどるのであろう。

 消防夫しごとしにも、駕籠屋にも、あえて怪我をしたらしいのはない。婦おんなたちにも様子は見えぬ。もっとも、南地第一の大事な市の列に立てば、些細ささいな疵きずなら、弱い舞妓も我慢して秘かくして退のけよう。

 が、市に取っては、上もなき可忌いまわしさで。

 世話人は皆激しく顰ひそんだ。

 知らずや人々。お珊は既に、襟に秘かくし持った縫針で、裏を透とおして、左の手首の動脈を刺し貫いていたのである。

 ただ、初はじめから不思議な血のあとを拾って、列を縫って検しらべて行ゆくと、静々しずしずと揃って練る時から、お珊の袴の影で留ったのを人を知った。

 ここに休んでから、それとなく、五人目の姫の顔を差覗さしのぞくものもあった。けれども端然としていた。黛まゆずみの他に玲瓏れいろうとして顔に一点の雲もなかった。が、右手めてに捧げた橘たちばなに見入るのであろう、寂さみしく目を閉じていたと云う。

 時に、途中ではさもなかった。ここに休む内に、怪しき気のこと、点滴したたる血の事、就中なかんずく、姫の数の幻に一人多い事が、いつとなく、伝えられて、烈はげしく女どもの気を打った。

 自然と、髪を垂れ、袖を合せて、床几なる姫は皆、斉ひとしくお珊が臨終の姿と同じ、肩のさみしい風情となった。

 血だらけだ、血だらけだ、血だらけの稚児だ──と叫ぶ──柵の外の群集ぐんじゅの波を、鯱しゃちに追われて泳ぐがごとく、多一の顔が真蒼まっさおに顕あらわれた。

「お呼びや、私をお知らせや。」

 とお珊が云った。

 伝五爺じじいは、懐を大きく、仰天した皺嗄声しわがれごえを振絞って、

「多一か、多一はん──御寮人様はここじゃ。」と喚わめく。

 早や柵の上を蹌踉よろめき越えて、虚空を掴つかんで探したのが、立直って、衝つと寄った。

 が、床几の前に、ぱったり倒れて、起直りざまの目の色は、口よりも血走った。

「ああ、待遠まちどおな、多一さん、」

 と黒髪揺ゆらぐ、吐息といきと共に、男の肩に手を掛けた。

「毒には加減をしたけれど、私が先へ死にそうでな、幾たび目をば瞑ねむったやろ。やっとここまで堪こらえたえ。も一度顔を、と思うよって……」

 丸官の握拳にぎりこぶしが、時に、瓦かわらの欠片かけらのごとく、群集を打ちのめして掻分かきわける。

「傘でかくしておくれやす。や、」と云う。

 台傘が颯さっと斜めになった。が、丸官の忿怒ふんぬは遮り果てない。

 靴足袋で青い足が、柵を踏んで乗ろうとするのを、一目見ると、懐中ふところへ衝つと手を入れて、両方へ振って、扱しごいて、投げた。既に袋を出ていた蛇は、二筋電いなずまのごとく光って飛んだ。

 わ、と立騒ぐ群集ぐんじゅの中へ、丸官の影は揉込もみこまれた。一人渠かれのみならず、もの見高く、推掛おしかかった両側の千人は、一斉に動揺どよみを立て、悲鳴を揚げて、泣く、叫ぶ。茶屋揚屋あげやの軒に余って、土足の泥波を店へ哄どっと……津波の余残なごりは太左衛門橋、戒橋えびすばし、相生橋あいおいばしに溢あふれかかり、畳屋町、笠屋町、玉屋町を横筋に渦巻き落ちる。

 見よ、見よ、鴉が蔽おおいかかって、人の目、頭かしらに、嘴はしを鳴らすを。

 お珊に詰寄る世話人は、また不思議にも、蛇が、蛇が、と遁惑にげまどうた。その数はただ二条ふたすじではない。

 屋台から舞妓が一人倒さかさまに落ちた。そこに、めらめらと鎌首を立て、這いかかったためである。

 それ、怪我人よ、人死ひとじによ、とそこもここも湧揚る。

 お珊は、心静しずかに多一を抱いた。

「よう、顔見せておくれやす。」

「口惜くちおしい。御寮人、」と、血を吐きながら頭かぶりを振る。

「貴方あんたばかり殺しはせん。これお見やす、」と忘れたように、血が涸かれて、蒼白あおじろんで、早や動かし得ぬ指を離すと、刻んだように。しっかと持った、その脈を刺した手の橘の、鮮血からくれないに染まったのが、重く多一の膝に落ちた。

 男はしばらく凝視みつめていた。

「口惜いは私こそ、……多一さん。女は世間に何にも出来ん。恋し、愛いとしい事だけには、立派に我ままして見しょう。

 宝市のこの服装なりで、大阪中の人の見る前で、貴方あんたの手を引いて……なあ、見事丸官を蹴けて見しょう、と命をかけて思うたに。……先刻さっき盞させる時も、押返して問うたもの、お珊、お前へ心中立や、と一言いうてくれはらぬ。

 一昨日おとといの芝居の難儀も、こうした内証があるよって、私のために、堪こらえやはった辛抱やったら、一生にたった一度の、嬉しい思いをしようもの、多一さん、貴下あんたは二十はたち。三つ上の姉で居て、何でこうまで迷うたやら、堪忍しておくれや。」

 とて、はじめて、はらはらと落涙した。

 絶入る耳に聞分けて、納得したか、一度ひとたびは頷うなずいたが、

「私は、私は、御寮人、生命いのちが惜おしいと申しません。可哀気かわいげに、何で、何で、お美津を……」

 と聞きも果さず……

「わあ、」と魂切たまぎる。

 伝五爺じじいの胸を圧おさえて、

「人が立騒いで邪魔したら、撒散まきちらかいて払い退のきょうと、お前に預けた、金貨銀貨が、その懐中ふところに沢山たんとある。不思議な事で、使わいで済んだよって、それもって、な、えらい不足なやろけれど、不足、不足なやろけれど、……ああ、術ない、もう身がなえて声も出ぬ。

 お聞きやす、多一さん、美津みいさんは、一所に連れずと、一人活いかいておきたかった。貴方あんたと二人、人は交ぜず、死ぬのが私は本望なが、まだこの上、貴方にも美津さんにも、済まん事や思うたによってな。

 違うたかえ、分ったかえ、冥土めいどへ行てかて、二人をば並べておく、……遣瀬やるせない、私の身にもなってお見や。」

 幽かすかながらに声は透とおる。

「多一さん、手を取って……手を取って……離さずと……──左のこの手の動く方は、義理やあの娘この手をば私が引く。……さあ、三人で行こうな。」

 と床几を離れて、すっくと立つ。身動みじろぎに乱るる黒髪。髻もとどりふつ、と真中まんなかから二岐ふたすじに颯さっとなる。半ばを多一に振掛けた、半ばを握って捌さばいたのを、翳かざすばかりに、浪屋の二階を指麾さしまねいた。

「おいでや、美津さんえ、……美津さんえ。」

 練ものの列は疾とく、ばらばらに糸が断きれた。が、十一の姫ばかりは、さすが各目てんでに名を恥じて、落ちたる市女笠、折れたる台傘、飛々とびとびに、背せなを潜ひそめ、顔おもてを蔽おおい、膝を折敷きなどしながらも、嵐のごとく、中の島籠こめた群集ぐんじゅが叫喚きょうかんの凄すさまじき中に、紅くれないの袴一人々々、点々として皆留とどまった。

 と見ると、雲の黒き下に、次第に不知火しらぬいの消え行く光景ありさま。行方も分かぬ三人に、遠く遠く前途ゆくてを示す、それが光なき十一の緋の炎と見えた。

 お珊は、幽かすかに、目も遥々はるばると、一人ずつ、その十一の燈ともしびを視みた。

明治四十五(一九一二)年一月

底本:「泉鏡花集成6」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年3月21日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第十四卷」岩波書店

   1942(昭和17)年3月10日発行

※誤植の確認には底本の親本を参照しました。

入力:門田裕志

校正:土屋隆

2006年11月2日作成

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