縁結び
泉鏡花



一


 襖ふすまを開けて、旅館の女中が、

「旦那だんな、」

 と上調子うわっちょうしの尻上しりあがりに云いって、坐すわりもやらず莞爾にっこりと笑いかける。

「用かい。」

 とこの八畳じょうで応じたのは三十ばかりの品のいい男で、紺こんの勝った糸織いとおりの大名縞だいみょうじまの袷あわせに、浴衣ゆかたを襲かさねたは、今しがた湯から上ったので、それなりではちと薄うすら寒し、着換きかえるも面倒めんどうなりで、乱箱みだればこに畳たたんであった着物を無造作に引摺出ひきずりだして、上着だけ引剥ひっぱいで着込きこんだ証拠しょうこに、襦袢じゅばんも羽織も床とこの間まを辷すべって、坐蒲団すわりぶとんの傍わきまで散々ちりぢりのしだらなさ。帯もぐるぐる巻き、胡坐あぐらで火鉢ひばちに頬杖ほおづえして、当日の東雲御覧しののめごらんという、ちょっと変った題の、土地の新聞を読んでいた。

 その二の面の二段目から三段へかけて出ている、清川謙造氏きよかわけんぞうし講演、とあるのがこの人物である。

 たとい地方でも何でも、新聞は早朝に出る。その東雲御覧を、今やこれ午後二時。さるにても朝寝あさねのほど、昨日きのうのその講演会の帰途かえりのほども量はかられる。

「お客様でございますよう。」

 と女中は思入おもいいれたっぷりの取次を、ちっとも先方気が着かずで、つい通りの返事をされたもどかしさに、声で威おどして甲走かんばしる。

 吃驚びっくりして、ひょいと顔を上げると、横合から硝子窓がらすまどへ照々てらてらと当る日が、片頬かたほおへかっと射したので、ぱちぱちと瞬またたいた。

「そんなに吃驚なさいませんでもようございます。」

 となおさら可笑おかしがる。

 謙造は一向真面目まじめで、

「何という人だ。名札はあるかい。」

「いいえ、名札なんか用いりません。誰だれも知らないもののない方でございます。ほほほ、」

「そりゃ知らないもののない人かも知れんがね、よそから来た私にゃ、名を聞かなくっちゃ分らんじゃないか、どなただよ。」

 と眉まゆを顰ひそめる。

「そんな顔をなすったってようございます。ちっとも恐こわくはありませんわ。今にすぐにニヤニヤとお笑いなさろうと思って。昨夜ゆうべあんなに晩おそうくお帰りなさいました癖くせに、」

「いや、」

 と謙造は片頬かたほを撫なでて、

「まあ、いいから。誰だというに、取次がお前、そんなに待たしておいちゃ失礼だろう。」

 ちと躾たしなめるように言うと、一層頬辺ほっぺたの色を濃こくして、ますます気勢込きおいこんで、

「何、あなた、ちっと待たして置きます方がかえっていいんでございますよ。昼間ッからあなた、何ですわ。」

 と厭いやな目つきでまたニヤリで、

「ほんとは夜来る方がいいんだのに。フン、フン、フン、」

 突然いきなり川柳せんりゅうで折紙おりがみつきの、(あり)という鼻をひこつかせて、

「旦那、まあ、あら、まあ、あら良いい香におい、何て香水こうすいを召めしたんでございます。フン、」

 といい方が仰山ぎょうさんなのに、こっちもつい釣込つりこまれて、

「どこにも香水なんぞありはしないよ。」

「じゃ、あの床の間の花かしら、」

 と一際ひときわ首を突込つッこみながら、

「花といえば、あなたおあい遊ばすのでございましょうね、お通し申しましてもいいんですね。」

「串戯じょうだんじゃない。何という人だというに、」

「あれ、名なんぞどうでもよろしいじゃありませんか。お逢あいなされば分るんですもの。」

「どんな人だよ、じれったい。」

「先方さきもじれったがっておりましょうよ。」

「婦人おんなか。」

 と唐突だしぬけに尋たずねた。

「ほら、ほら、」

 と袂たもとをその、ほらほらと煽あおってかかって、

「ご存じの癖に、」

「どんな婦人だ。」

 と尋ねた時、謙造の顔がさっと暗くなった。新聞を窓まどへ翳かざしたのである。

「お気の毒様。」


二


「何だ、もう帰ったのか。」

「ええ、」

「だってお気の毒様だと云いうじゃないか。」

「ほんとに性急せっかちでいらっしゃるよ。誰も帰ったとも何とも申上げはしませんのに。いいえ、そうじゃないんですよ。お気の毒様だと申しましたのは、あなたはきっと美しい姊ねえさんだと思っておいでなさいましょう。でしょう、でしょう。

 ところが、どうして、跛びっこで、めっかちで、出尻でっちりで、おまけに、」

 といいかけて、またフンと嗅かいで、

「ほんとにどうしたら、こんな良いい匂においが、」

 とひょいと横を向いて顔を廊下ろうかへ出したと思うと、ぎょッとしたように戸口を開いて、斜はすッかけに、

「あら、まあ!」

「お伺うかがい下すって?」

 と内端うちわながら判然はっきりとした清すずしい声が、壁かべに附ついて廊下で聞える。

 女中はぼッとした顔色かおつきで、

「まあ!」

「お帳場にお待ち申しておりましたんですけれども、おかみさんが二階へ行っていいから、とそうおっしゃって下さいましたもんですから……」

 と優容しとやかな物腰ものごし。大概たいがい、莟つぼみから咲さきかかったまで、花の香かを伝えたから、跛も、めっかちも聞いたであろうに、仂はしたなく笑いもせなんだ、つつましやかな人柄ひとがらである。

「お目にかかられますでしょうか。」

「ご勝手になさいまし。」

 くるりと入口へ仕切られた背中になると、襖の桟さんが外はずれたように、その縦縞たてじまが消えるが疾はやいか、廊下を、ばた、ばた、ばた、どたんなり。

「お入ンなさい、」

「は、」

 と幽かすかに聞いて、火鉢に手をかけ、入口をぐっと仰あおいで、優やさしい顔で、

「ご遠慮えんりょなく……私は清川謙造です。」

 と念のために一ツ名乗る。

「ご免めん下さいまし、」

 はらりと沈しずんだ衣きぬの音で、早はや入口へちゃんと両手を。肩がしなやかに袂の尖さき、揺ゆれつつ畳たたみに敷いたのは、藤ふじの房ふさの丈長たけながく末濃すえごに靡なびいた装よそおいである。

 文金ぶんきんの高髷たかまげふっくりした前髪まえがみで、白茶地しらちゃじに秋の野を織出した繻珍しゅちんの丸帯、薄手にしめた帯腰柔やわらかに、膝ひざを入口に支ついて会釈えしゃくした。背負上しょいあげの緋縮緬ひぢりめんこそ脇わきあけを漏もる雪の膚はだに稲妻いなづまのごとく閃ひらめいたれ、愛嬌あいきょうの露つゆもしっとりと、ものあわれに俯向うつむいたその姿、片手に文箱ふばこを捧ささげぬばかり、天晴あっぱれ、風采ふうさい、池田の宿しゅくより朝顔あさがおが参って候そうろう。

 謙造は、一目見て、紛まごうべくもあらず、それと知った。

 この芸妓げいしゃは、昨夜ゆうべの宴会えんかいの余興よきょうにとて、催もよおしのあった熊野ゆやの踊おどりに、朝顔に扮ふんした美人である。

 女主人公じょしゅじんこうの熊野を勤つとめた婦人は、このお腰元に較くらべていたく品形しなかたちが劣おとっていたので、なぜあの瓢箪ひょうたんのようなのがシテをする。根占ねじめの花に蹴落けおされて色の無さよ、と怪あやしんで聞くと、芸も容色きりょうも立優たちまさった朝顔だけれど、──名はお君という──その妓こは熊野を踊おどると、後できっと煩わずらうとの事。仔細しさいを聞くと、させる境遇きょうぐうであるために、親の死目に合わなかったからであろう、と云った。

 不幸で沈んだと名乗る淵ふちはないけれども、孝心なと聞けば懐なつかしい流れの花の、旅の衣ころもの俤おもかげに立ったのが、しがらみかかる部屋の入口。

 謙造はいそいそと、

「どうして。さあ、こちらへ。」

 と行儀ぎょうぎわるく、火鉢を斜ななめに押出おしだしながら、

「ずっとお入んなさい、構やしません。」

「はい。」

「まあ、どうしてね、お前さん、驚おどろいた。」と思わず云って、心着くと、お君はげっそりとまた姿が痩やせて、極きまりの悪そうに小さくなって、

「済みませんこと。」

「いやいや、驚いたって、何に、その驚いたんじゃない。はははは、吃驚びっくりしたんじゃないよ。まあ、よく来たねえ。」


三


「その事で。ああ、なるほど言いましたよ。」

 と火鉢の縁ふちに軽く肱ひじを凭もたせて、謙造は微笑ほほえみながら、

「本来なら、こりゃお前さんがたが、客へお世辞せじに云う事だったね。誰かに肖にていらっしゃるなぞと思わせぶりを……ちと反対あちこちだったね。言いました。ああ、肖ている、肖ているッて。

 そうです、確たしかにそう云った事を覚えているよ。」

 お君は敷しけと云って差出された座蒲団ざぶとんより膝薄ひざうすう、その傍かたわらへ片手をついたなりでいたのである。が、薄化粧うすげしょうに、口紅くちべに濃こく、目のぱっちりした顔を上げて、

「よその方が、誰かに肖ているとお尋ねなさいましたから、あなたがどうお返事を遊ばすかと存じまして、私は極きまりが悪うございましたけれども、そっと気をつけましたんですが、こういう処で話をする事ではない。まあまあ、とおっしゃって、それ切りになりましたのでございます。」

 謙造は親しげに打頷うちうなずき、

「そうそうそう云いました。それが耳に入って気になったかね、そうかい。」

「いいえ、」とまた俯向いて、清らかな手巾ハンケチを、袂の中で引靡ひきなびけて、

「気にいたしますの、なんのって、そういうわけではございません。あの……伺うかがいました上で、それにつきまして少々お尋たずねしたいと存じまして。」と俯目ふしめになった、睫毛まつげが濃い。

「聞きましょうとも。その肖たという事の次第わけを話すがね、まあ、もっとお寄んなさい。大分だいぶ眩まぶしそうだ。どうも、まともに日が射すからね。さあ、遠慮をしないで、お敷きなさい。こうして尋ねて来なすった時はお客様じゃないか。威張いばって、威張って。」

「いいえ、どういたしまして、それでは……」

 しかし眩まばゆかったろう、下掻したがいを引いて座ざをずらした、壁かべの中央なかばに柱が許もと、肩に浴あびた日を避よけて、朝顔はらりと咲きかわりぬ。

「実はもうちっと間まがあると、お前さんが望みとあれば、今夜にもまた昨夜ゆうべの家へ出向いて行って、陽気に一つ話をするんだがね、もう東京へ発程たつんだからそうしてはいられない。」

「はい、あの、私もそれを承りましたので、お帰りになりません前さきと存じまして、お宿へ、飛とんだお邪魔じゃまをいたしましてございますの。」

「宿へお出いでは構わんが、こんな処で話してはちと真面目になるから、事が面倒になりはしないかと思うんだが。

 そうかと云って昨夜ゆうべのような、杯盤狼藉はいばんろうぜきという場所も困るんだよ。

 実は墓参詣はかまいりの事だから、」

 と云いかけて、だんだん火鉢を手許てもとへ引いたのに心着いて、一膝下って向うへ圧おして、

「お前さん、煙草たばこは?」

 黙だまって莞爾にっこりする。

「喫のむだろう。」

「生意気なまいきでございますわ。」

「遠慮なしにお喫あがり、お喫り。上げようか、巻いたんでよけりゃ。」

「いいえ、持っておりますよ。」

 と帯の処へ手を当てる。

「そこでと、湯も沸わいてるから、茶を飲みたければ飲むと……羊羹ようかんがある。一本五銭ぐらいなんだが、よければお撮つまみと……今に何ぞご馳走ちそうしようが、まあ、お尋たずねの件を済ましてからの事にしよう、それがいい。」

 独ひとりで云って、独りで極きめて、

「さて、その事だが、」

「はあ、」

 とまた片手をついた。胸へ気が籠こもったか、乳のあたりがふっくりとなる。

「余り気を入れると他愛たわいがないよ。ちっとこう更あらたまっては取留めのない事なんだから。いいかい、」

 ともの優しく念を入れて、

「私は小児こどもの時だったから、唾つばきをつけて、こう引返すと、台なしに汚よごすと云って厭いやがったっけ。死んだ阿母おふくろが大事にしていた、絵も、歌の文字も、対ついの歌留多かるたが別にあってね、極彩色ごくさいしきの口絵の八九枚入った、綺麗きれいな本の小倉百人一首おぐらひゃくにんいっしゅというのが一冊あった。

 その中のね、女用文章の処を開けると……」と畳の上で、謙造は何にもないのを折返した。


四


「トそこに高髷に結った、瓜核顔うりざねがおで品のいい、何とも云えないほど口許くちもとの優やさしい、目の清すずしい、眉の美しい、十八九の振袖ふりそでが、裾すそを曳ひいて、嫋娜すらりと中腰に立って、左の手を膝の処へ置いて、右の手で、筆を持った小児こどもの手を持添えて、その小児こどもの顔を、上から俯目ふしめに覗込のぞきこむようにして、莞爾にっこりしていると、小児こどもは行儀よく机つくえに向って、草紙に手習のところなんだがね。

 今でも、その絵が目に着いている。衣服きものの縞柄しまがらも真まことにしなやかに、よくその膚合はだあいに叶かなったという工合で。小児こどもの背中に、その膝についた手の仕切がなかったら、膚へさぞ移香うつりがもするだろうと思うように、ふっくりとなだらかに褄つまを捌さばいて、こう引廻ひきまわした裾が、小児こどもを庇かばったように、しんせつに情じょうが籠こもっていたんだよ。

 大袈裟おおげさに聞えようけれども。

 私は、その絵が大好きで、開けちゃ、見い見いしたもんだから、百人一首を持出して、さっと開あけると、またいつでもそこが出る。

 この姊ねえさんは誰だい?と聞くと阿母おふくろが、それはお向うの姊ねえさんだよ、と言い言いしたんだ。

 そのお向うの姊ねえさんというのに、……お前さんが肖にているんだがね──まあ、お聞きよ。」

「はあ、」

 と睜みはった目がうつくしく、その俤おもかげが映りそう。

「お向うというのは、前に土蔵どぞうが二戸前ふたとまえ。格子戸こうしどに並ならんでいた大家たいけでね。私の家なんぞとは、すっかり暮向きが違ちがう上に、金貸だそうだったよ。何となく近所との隔へだてがあったし、余り人づきあいをしないといった風で。出入も余計なし、なおさら奥行が深くって、裏はどこの国まで続いているんだか、小児心こどもごころには知れないほどだったから、ついぞ遊びに行った事もなければ、時々、門口じゃ、その姊ねえさんというのの母親に口を利かれる事があっても、こっちは含羞はにかんで遁にげ出したように覚えている。

 だから、そのお嬢じょうさんなんざ、年紀としも違うし、一所に遊んだ事はもちろんなし、また内気な人だったとみえて、余り戸外そとへなんか出た事のない人でね、堅かたく言えば深閨しんけいに何とかだ。秘蔵娘ひぞっこさね。

 そこで、軽々しく顔が見られないだけに、二度なり、三度なり見た事のあるのが、余計に心に残っているんで。その女用文章の中の挿画さしえが真物ほんものだか、真物が絵なんだか分らないくらいだった。

 しかしどっちにしろ、顔容かおかたちは判然はっきり今も覚えている。一日あるひ、その母親の手から、娘むすめが、お前さんに、と云って、縮緬ちりめんの寄切よせぎれで拵こしらえた、迷子札まいごふだにつける腰巾着こしぎんちゃくを一個ひとつくれたんです。そのとき格子戸の傍わきの、出窓の簾すだれの中に、ほの白いものが見えたよ。紅べにの色も。

 蝙蝠こうもりを引払ひっぱたいていた棹さおを抛ほうり出して、内うちへ飛込んだ、その嬉うれしさッたらなかった。夜も抱いて寝て、あけるとその百人一首の絵の机の上へのっけたり、立っている娘の胸の処へ置いたり、胸へのせると裾までかくれたよ。

 惜おしい事をした。その巾着は、私が東京へ行っていた時分に、故郷こきょうの家が近火きんかに焼けた時、その百人一首も一所に焼けたよ。」

「まあ……」

 とはかなそうに、お君の顔色が寂さびしかった。

「迷子札は、金かねだから残ったがね、その火事で、向うの家うちも焼けたんだ。今度通ってみたが、町はもう昔の俤もない。煉瓦造れんがづくりなんぞ建って開けたようだけれど、大きな樹がなくなって、山がすぐ露出むきだしに見えるから、かえって田舎いなかになった気がする、富士の裾野すそのに煙突えんとつがあるように。

 向うの家も、どこへ行きなすったかね、」

 と調子が沈んで、少し、しめやかになって、

「もちろんその娘さんは、私がまだ十とウにならない内に亡なくなったんだ。──

 産後だと言います……」

「お産をなすって?」

 と俯目でいた目を睜みひらいたが、それがどうやらうるんでいたので。

 謙造はじっと見て、傾かたむきながら、

「一人娘ひとりむすめで養子をしたんだね、いや、その時は賑にぎやかだッけ。」

 と陽気な声。


五


「土蔵がずッしりとあるだけに、いつも火の気のないような、しんとした、大きな音じゃ釜かまも洗わないといった家が、夜になると、何となく灯あかりがさして、三味線しゃみせん太鼓たいこの音がする。時々どっと山颪やまおろしに誘われて、物凄ものすごいような多人数たにんずの笑声わらいごえがするね。

 何ッて、母親おふくろの懐ふところで寝ながら聞くと、これは笑っているばかり。父親おやじが店から声をかけて、魔物が騒ぐんだ、恐こわいぞ、と云うから、乳へ顔を押着おッつけて息を殺して寝たっけが。

 三晩みばんばかり続いたよ。田地田畠でんじでんばた持込もちこみで養子が来たんです。

 その養子というのは、日にやけた色の赤黒い、巌乗がんじょうづくりの小造こづくりな男だっけ。何だか目の光る、ちときょときょとする、性急せっかちな人さ。

 性急せっかちなことをよく覚えている訳は、桃ももを上げるから一所においで。姊ねえさんが、そう云った、坊ぼうを連れて行けというからと、私を誘ってくれたんだ。

 例の巾着をつけて、いそいそ手を曳ひかれて連れられたんだが、髪を綺麗きれいに分けて、帽子ぼうしを冠かぶらないで、確かその頃流行はやったらしい。手甲てっこう見たような、腕へだけ嵌はまる毛糸で編んだ、萌黄もえぎの手袋を嵌めて、赤い襯衣しゃつを着て、例の目を光らしていたのさ。私はその娘さんが、あとから来るのだろう、来るのだろうと、見返り見返りしながら手を曳かれて行ったが、なかなか路みちは遠かった。

 途中で負おぶってくれたりなんぞして、何でも町尽まちはずれへ出て、寂さびしい処を通って、しばらくすると、大きな榎えのきの下に、清水しみずが湧わいていて、そこで冷い水を飲んだ気がする。清水には柵さくが結ゆってあってね、昼間だったから、点つけちゃなかったが、床几しょうぎの上に、何とか書いた行燈あんどんの出ていたのを覚えている。

 そこでひとしきり、人通りがあって、もうちと行くと、またひっそりして、やがて大きな桑畠くわばたけへ入って、あの熟じゅくした桑の実を取って食べながら通ると、二三人葉を摘つんでいた、田舎いなかの婦人があって、養子を見ると、慌あわてて襷たすきをはずして、お辞儀じぎをしたがね、そこが養子の実家だった。

 地続きの桃畠ももばたけへ入ると、さあ、たくさん取れ、今じゃ、姊ねえさんのものになったんだから、いつでも来るがいい。まだ、瓜うりもある、西瓜すいかも出来る、と嬉しがらせて、どうだ。坊は家の児こにならんか、姊ねえさんがいい児にするぜ。

 厭いやか、爺婆じじばばが居いるから。……そうだろう。あんな奴は、今におれがたたき殺してやろう、と恐ろしく意気込んで、飛上って、高い枝えだの桃の実を引ひんもぎって一個ひとつくれたんだ。

 帰途かえりは、その清水の処あたりで、もう日が暮くれた。婆ばばあがやかましいから急ごう、と云うと、髪をばらりと振ふって、私の手をむずと取って駆出かけだしたんだが、引立ひったてた腕うでが捥もげるように痛む、足も宙ちゅうで息が詰つまった。養子は、と見ると、目が血走っていようじゃないか。

 泣出したもんだから、横抱よこだきにして飛んで帰ったがね。私は何だか顔はあかし、天狗てんぐにさらわれて行ったような気がした。袂に入れた桃の実は途中で振落ふりおとして一つもない。

 そりゃいいが、半年経たたない内にその男は離縁りえんになった。

 だんだん気が荒あらくなって、姊ねえさんのたぶさを掴つかんで打った、とかで、田地でんじは取上げ、という評判ひょうばんでね、風の便りに聞くと、その養子は気が違ってしまったそうだよ。

 その後のち、晩方ばんがたの事だった。私はまた例の百人一首を持出して、おなじ処を開けて腹這はらばいで見ていた。その絵を見る時は、きっと、この姊ねえさんは誰? と云って聞くのがお極きまりのようだったがね。また尋たずねようと思って、阿母おふくろは、と見ると、秋の暮方くれがたの事だっけ。ずっと病気で寝ていたのが、ちと心持がよかったか、床とこを出て、二階の臂ひじかけ窓まどに袖そでをかけて、じっと戸外そとを見てうっとり見惚みとれたような様子だから、遠慮えんりょをして、黙って見ていると、どうしたか、ぐッと肩を落して、はらはらと涙なみだを落した。

 どうしたの? と飛ついて、鬢びんの毛のほつれた処へ、私の頬ほおがくっついた時、と見ると向うの軒下のきしたに、薄く青い袖をかさねて、しょんぼりと立って、暗くなった山の方を見ていたのがその人で、」

 と謙造は面おもてを背そむけて、硝子窓がらすまど。そのおなじ山が透すかして見える。日は傾かたむいたのである。


六


「その時は、艶々つやつやした丸髷まげに、浅葱絞あさぎしぼりの手柄てがらをかけていなすった。ト私が覗のぞいた時、くるりと向うむきになって、格子戸へ顔をつけて、両袖でその白い顔を包んで、消えそうな後姿で、ふるえながら泣なきなすったっけ。

 桑の実の小母おばさん許とこへ、姊ねえさんを連れて行ってお上げ、坊ぼうやは知ってるね、と云って、阿母おふくろは横抱に、しっかり私を胸へ抱いて、

 こんな、お腹をして、可哀相かわいそうに……と云うと、熱い珠たまが、はらはらと私の頸くびへ落ちた。」

 と見ると手巾ハンケチの尖さきを引啣ひきくわえて、お君きみの肩はぶるぶると動いた。白歯しらはの色も涙の露つゆ、音するばかり戦おののいて。

 言ことばを折られて、謙造は溜息ためいきした。

「あなた、もし、」

 と涙声で、つと、腰こしを浮うかして寄って、火鉢にかけた指の尖が、真白に震ふるえながら、

「その百人一首も焼けてなくなったんでございますか。私わ、私わたしは、お墓もどこだか存じません。」

 と引出して目に当てた襦袢じゅばんの袖の燃ゆる色も、紅くれない寒き血に見える。

 謙造は太息といきついて、

「ああ、そうですか、じゃあ里に遣やられなすったお娘こなんですね。音信不通いんしんふつうという風説だったが、そうですか。──いや、」

 と言ことばを改めて、

「二十年前の事が、今目の前に見えるようだ。お察し申します。

 私も、その頃阿母おふくろに別れました。今じゃ父親おやじも居おらんのですが、しかしまあ、墓所はかしょを知っているだけでも、あなたより増ましかも知れん。

 そうですか。」

 また歎息して、

「お墓所もご存じない。」

「はい、何にも知りません。あなたは、よく私の両親の事をご存じでいらっしゃいます、せめて、その、その百人一首でも見とうござんすのにね。……」

 と言ことばも乱れて、

「墓おはかの所をご存じではござんすまいか。」

「……困ったねえ。門徒宗もんとしゅうでおあんなすったっけが、トばかりじゃ……」

 と云い淀よどむと、堪たまりかねたか、蒲団ふとんの上へ、はっと突俯つッぷして泣くのであった。

 謙造は目を瞑ねむって腕組したが、おお、と小さく膝ひざを叩たたいて、

「余りの事のお気の毒さ。肝心かんじんの事を忘れました。あなた、あなた、」

 と二声ふたこえに、引起された涙の顔。

「こっちへ来てご覧なさい。」

 謙造は座を譲って、

「こっちへ来て、ここへ、」

 と指さされた窓の許もとへ、お君は、夢中むちゅうのように、つかつか出て、硝子窓の敷居しきいに縋すがる。

 謙造はひしと背後うしろに附添つきそい、

「松葉越まつばごしに見えましょう。あの山は、それ茸狩たけがりだ、彼岸ひがんだ、二十六夜待やまちだ、月見だ、と云って土地の人が遊山ゆさんに行く。あなたも朝夕見ていましょう。あすこにね、私の親たちの墓があるんだが、その居いまわりの回向堂えこうどうに、あなたの阿母おっかさんの記念かたみがある。」

「ええ。」

「確たしかにあります、一昨日おとといも私が行って見て来たんだ。そこへこれからお伴ともをしよう、連れて行って上げましょう、すぐに、」

 と云って勇いさんだ声で、

「お身体からだの都合つごうは、」

 その花やかな、寂さみしい姿をふと見つけた。

「しかし、それはどうとも都合つごうが出来よう。」

「まあ、ほんとうでございますか。」

 といそいそ裳もすそを靡なびかしながら、なおその窓を見入ったまま、敷居の手を離さなかったが、謙造が、脱ぬぎ棄すてた衣服きものにハヤ手をかけた時であった。

「あれえ」と云うと畳にばったり、膝を乱して真蒼まっさおになった。

 窓を切った松の樹の横枝へ、お君の顔と正面に、山を背負しょって、むずと掴つかまった、大きな鳥の翼つばさがあった。狸たぬきのごとき眼まなこの光、灰色の胸毛の逆立さかだったのさえ数えられる。

「梟ふくろうだ。」

 とからからと笑って、帯をぐるぐると巻きながら、

「山へ行くのに、そんなものに驚いちゃいかんよ。そう極きまったら、急がないとまた客が来る。あなた支度したくをして。山の下まで車だ。」と口でも云えば、手も叩く、謙造の忙いそがしさ。その足許あしもとにも鳥が立とう。


七


「さっきの、さっきの、」

 と微笑ほほえみながら、謙造は四辺あたりを睜みまわし、

「さっきのが……声だよ。お前さん、そう恐こわがっちゃいかん。一生懸命いっしょうけんめいのところじゃないか。」

「あの、梟が鳴くんですかねえ。私はまた何でしょうと吃驚びっくりしましたわ。」

 と、寄添よりそいながら、お君も莞爾にっこり。

 二人は麓ふもとから坂を一ツ、曲ってもう一ツ、それからここの天神の宮を、梢こずえに仰あおぐ、石段を三段、次第に上って来て、これから隧道トンネルのように薄暗い、山の狭間はざまの森の中なる、額堂がくどうを抜けて、見晴しへ出て、もう一坂越して、草原を通ると頂上の広場になる。かしこの回向堂を志して、ここまで来ると、あんなに日当りで、車は母衣ほろさえおろすほどだったのが、梅雨期つゆどきのならい、石段の下の、太鼓橋たいこばしが掛かかった、乾かわいた池の、葉ばかりの菖蒲あやめがざっと鳴ると、上の森へ、雲がかかったと見るや、こらえずさっと降出したのに、ざっと一濡ひとぬれ。石段を駆かけて上のぼって、境内けいだいにちらほらとある、青梅あおうめの中を、裳もすそはらはらでお君が潜くぐって。

 さてこの額堂へ入って、一息ついたのである。

「暮れるには間まがあるだろうが、暗くなったもんだから、ここを一番と威おどすんだ。悪い梟さ。この森にゃ昔からたくさん居る。良いい月夜なんぞに来ると、身体からだが蒼あおい後光がさすように薄ぼんやりした態なりで、樹の間にむらむら居る。

 それをまた、腕白わんぱくの強がりが、よく賭博かけなんぞして、わざとここまで来たもんだからね。梟は仔細しさいないが、弱るのはこの額堂にゃ、古ふるくから評判の、鬼おに、」

「ええ、」

 とまた擦寄すりよった。謙造は昔懐むかしなつかしさと、お伽話とぎばなしでもする気とで、うっかり言ったが、なるほどこれは、と心着いて、急いで言い続けて、

「鬼の額だよ、額が上あがっているんだよ。」

「どこにでございます。」

 と何なんにか押向おしむけられたように顔を向ける。

「何、何でもない、ただ絵なんだけれど、小児こどもの時は恐かったよ、見ない方がよかろう。はははは、そうか、見ないとなお恐おそろしい、気が済まない、とあとへ残るか、それその額さ。」

 と指ゆびさしたのは、蜘蛛くもの囲いの間にかかって、一面漆うるしを塗ったように古い額の、胡粉ごふんが白くくっきりと残った、目隈めぐまの蒼ずんだ中に、一双虎いっそうとらのごとき眼まなこの光、凸なかだかに爛々らんらんたる、一体の般若はんにゃ、被かずきの外へ躍出おどりいでて、虚空こくうへさっと撞木しゅもくを楫かじ、渦うずまいた風に乗って、緋ひの袴はかまの狂くるいが火焔ほのおのように飜ひるがえったのを、よくも見ないで、

「ああ。」と云うと、ひしと謙造の胸につけた、遠慮えんりょの眉は間あわいをおいたが、前髪は衣紋えもんについて、襟えりの雪がほんのり薫かおると、袖に縋った手にばかり、言い知らず力が籠こもった。

 謙造は、その時はまださまでにも思わずに、

「母様おっかさんの記念かたみを見に行くんじゃないか、そんなに弱くっては仕方がない。」

 と半ば励はげます気で云った。

「いいえ、母様おっかさんが活いきていて下されば、なおこんな時は甘あまえますわ。」

 と取縋とりすがっているだけに、思い切って、おさないものいい。

 何となく身に染みて、

「私が居いるから恐くはないよ。」

「ですから、こうやって、こうやって居れば恐くはないのでございます。」

 思わず背せなに手をかけながら、謙造は仰いで額を見た。

 雨の滴々したたりしとしとと屋根を打って、森の暗さが廂ひさしを通し、翠みどりが黒く染込しみこむ絵の、鬼女きじょが投げたる被かずきを背せにかけ、わずかに烏帽子えぼしの頭かしらを払はらって、太刀たちに手をかけ、腹巻したる体たいを斜ななめに、ハタと睨にらんだ勇士の面おもて。

 と顔を合わせて、フトその腕かいなを解いた時。

 小松に触さわる雨の音、ざらざらと騒がしく、番傘ばんがさを低く翳かざし、高下駄たかげたに、濡地ぬれつちをしゃきしゃきと蹈ふんで、からずね二本、痩せたのを裾端折すそはしょりで、大股おおまたに歩行あるいて来て額堂へ、頂いただきの方の入口から、のさりと入ったものがある。


八


「やあ、これからまたお出いでかい。」

 と腹の底から出るような、奥底のない声をかけて、番傘を横に開いて、出した顔は見知越みしりごし。一昨日おとといもちょっと顔を合わせた、峰みねの回向堂の堂守で、耳には数珠じゅずをかけていた。仁右衛門にえもんといって、いつもおんなじ年の爺おやじである。

 その回向堂は、また庚申堂こうしんどうとも呼ぶが、別に庚申を祭ったのではない。さんぬる天保てんぽう庚申年に、山を開いて、共同墓地にした時に、居まわりに寺がないから、この御堂みどうを建立こんりゅうして、家々の位牌いはいを預ける事にした、そこで回向堂とも称となうるので、この堂守ばかり、別に住職じゅうしょくの居室いまもなければ、山法師やまぼうしも宿らぬのである。

「また、東京へ行きますから、もう一度と思って来ました。」

 と早、離れてはいたが、謙造は傍かたわらなる、手向たむけにあらぬ花の姿に、心置かるる風情ふぜいで云った。

「よく、参らっしゃる、ちとまた休んでござれ。」

「ちょっと休まして頂くかも知れません。爺じいさんは、」

「私わしかい。講中にちっと折込おれこみがあって、これから通夜つやじゃ、南無妙なむみょう、」

 と口をむぐむぐさしたが、

「はははは、私わしぐらいの年の婆ばあさまじゃ、お目出たい事いの。位牌になって嫁入よめいりにござらっしゃる、南無妙。戸は閉めてきたがの、開けさっしゃりませ、掛金かけがねも何にもない、南無妙、」

 と二人を見て、

「ははあ、傘かさなしじゃの、いや生憎あいにくの雨、これを進ぜましょ。持ってござらっしゃい。」

 とばッさり窄すぼめる。

「何、構やしないよ。」

「うんにゃよ、お前さまは構わっしゃらいでも、はははは、それ、そちらの姊ねえさんが濡れるわ、さあさあ、ささっしゃい。」

「済みませんねえ、」

 と顔を赤らめながら、

「でも、お爺さん、あなたお濡れなさいましょう。」

「私は濡れても天日てんぴで干すわさ。いや、またまこと困れば、天神様の神官殿別懇かんぬしどのべっこんじゃ、宿坊しゅくぼうで借りて行く……南無妙、」

 と押おっつけるように出してくれる。

 捧ささげるように両手で取って、

「大助おおだすかりです、ここに雨やみをしているもいいが、この人が、」

 と見返って、莞爾にっこりして、

「どうも、嬰児ねんねのように恐がって、取って食われそうに騒ぐんで、」

 と今の姿を見られたろう、と極きまりの悪さにいいわけする。

 お君は俯向うつむいて、紫むらさきの半襟はんえりの、縫ぬいの梅うめを指でちょいと。

 仁右衛門にえもん、はッはと笑い、

「おお、名物の梟かい。」

「いいえ、それよりか、そのもみじ狩がりの額の鬼が、」

「ふむ、」

 と振仰いで、

「これかい、南無妙。これは似たような絵じゃが、余吾将軍維茂よごしょうぐんこれもちではない。見さっしゃい。烏帽子素袍大紋えぼしすおうだいもんじゃ。手には小手こて、脚あしにはすねあてをしているわ……大森彦七おおもりひこしちじゃ。南無妙、」

 と豊かに目を瞑つぶって、鼻の下を長くしたが、

「山頬やまぎわの細道を、直様すぐさまに通るに、年の程十七八計ばかりなる女房にょうぼうの、赤き袴に、柳裏やなぎうらの五衣いつつぎぬ着て、鬢びん深ふかく鍛そぎたるが、南無妙。

 山の端はの月に映えいじて、ただ独り彳たたずみたり。……これからよ、南無妙。

 女ちと打笑うて、嬉うれしや候。さらば御桟敷おんさじきへ参り候そうらわんと云いて、跡あとに付きてぞ歩みける。羅綺らきにだも不勝姿たえざるすがた、誠まことに物痛ものいたわしく、まだ一足も土をば不蹈人ふまざるひとよと覚えて、南無妙。

 彦七不怺こらえず、余あまりに露つゆも深く候えば、あれまで負進おいまいらせ候わんとて、前に跪ひざまずきたれば、女房すこしも不辞じせず、便びんのう、いかにかと云いながら、やがて後うしろにぞ靠よりかかりける、南無妙。

 白玉か何ぞと問いし古いにしえも、かくやと思知おもいしられつつ、嵐あらしのつてに散花ちるはなの、袖に懸かかるよりも軽やかに、梅花ばいかの匂においなつかしく、蹈足ふむあしもたどたどしく、心も空に浮うかれつつ、半町はんちょうばかり歩みけるが、南無妙。

 月すこし暗かりける処にて、南無妙、さしも厳いつくしかりけるこの女房、南無妙。」

 といいいい額堂を出ると、雨に濡らすまいと思ったか、数珠を取って。頂いて懐ふところへ入れたが、身体からだは平気で、石段、てく、てく。


九


 二フタツノ眼マナコハ朱シュヲ解トイテ。鏡ノ面オモテニ洒ソソゲルガゴトク。上下ウエシタ歯クイ違チゴウテ。口脇クチワキ耳ノ根マデ広ク割サケ。眉マユハ漆ウルシニテ百入塗モモシオヌリタルゴトクニシテ。額ヲ隠シ。振分髪フリワケガミノ中ヨリ。五寸計ゴスンバカリナル犢コウシノ角。鱗ウロコヲカズイテ生出おいいでた、長たけ八尺しゃくの鬼が出ようかと、汗あせを流して聞いている内、月チト暗カリケル処ニテ、仁右衛門が出て行った。まず、よし。お君は怯おびえずに済んだが、ひとえに梟の声に耳を澄まして、あわれに物寂ものさびしい顔である。

「さ、出かけよう。」

 と謙造はもうここから傘からかさばッさり。

「はい、あなた飛んだご迷惑めいわくでございます。」

「私はちっとも迷惑な事はないが、あなた、それじゃいかん。路みちはまだそんなでもないから、跣足はだしには及およぶまいが、裾をぐいとお上あげ、構わず、」

「それでも、」

「うむ、構うもんか、いまの石段なんぞ、ちらちら引絡ひっからまって歩行悪あるきにくそうだった。

 極きまりの悪いことも何にもない。誰も見やしないから、これから先は、人ッ子一人居やしない、よ、そうおし、」

「でも、余あんまり、」

 片褄かたづま取って、その紅くれないのはしのこぼれたのに、猶予ためらって恥はずかしそう。

「だらしがないから、よ。」

 と叱しかるように云って、

「母様おっかさんに逢いに行くんだ。一体、私の背せなかに負おんぶをして、目を塞ふさいで飛ぶところだ。構うもんか。さ、手を曳ひこう、辷すべるぞ。」

 と言った。暮れかかった山の色は、その滑なめらかな土に、お君の白脛しらはぎとかつ、緋ひの裳もすそを映した。二人は額堂を出たのである。

「ご覧、目の下に遠く樹立こだちが見える、あの中の瓦屋根かわらやねが、私の居る旅籠はたごだよ。」

 崕がけのふちで危あぶなっかしそうに伸上のびあがって、

「まあ、直じきそこでございますね。」

「一飛ひとッとびだから、梟が迎いに来たんだろう。」

「あれ。」

「おっと……番毎ばんごと怯おびえるな、しっかりと掴つかまったり……」

「あなた、邪慳じゃけんにお引張ひッぱりなさいますな。綺麗きれいな草を、もうちっとで蹈ふもうといたしました。可愛かわいらしい菖蒲あやめですこと。」

「紫羅傘いちはつだよ、この山にはたくさん吹さく。それ、一面に。」

 星の数ほど、はらはらと咲き乱れたが、森が暗く山が薄鼠うすねずみになって濡れたから、しきりなく梟の声につけても、その紫の俤おもかげが、燐火おにびのようで凄すごかった。

 辿たどる姿は、松にかくれ、草にあらわれ、坂に沈しずみ、峰に浮んで、その峰つづきを畝々うねうねと、漆のようなのと、真蒼まさおなると、赭しゃのごときと、中にも雪を頂いた、雲いろいろの遠山とおやまに添うて、ここに射返いかえされたようなお君きみの色。やがて傘かさ一つ、山の端はに大おおきな蕈くさびらのようになった時、二人はその、さす方の、庚申堂こうしんどうへ着いたのである。

 と不思議な事には、堂の正面へ向った時、仁右衛門は掛金はないが開けて入るように、と心着けたのに、雨戸は両方へ開いていた。お君は後のちに、御母様おっかさんがそうしておいたのだ、と言ったが、知らず堂守の思違おもいちがいであったろう。

 框かまちがすぐに縁えんで、取附とッつきがその位牌堂。これには天井てんじょうから大きな白の戸帳とばりが垂たれている。その色だけ仄ほのかに明くって、板敷いたじきは暗かった。

 左に六畳じょうばかりの休息所がある。向うが破襖やれぶすまで、その中が、何畳か、仁右衛門堂守の居いる処。勝手口は裏にあって、台所もついて、井戸いどもある。

 が謙造の用は、ちっともそこいらにはなかったので。

 前へ入って、その休息所の真暗な中を、板戸漏もる明あかりを見当に、がたびしと立働いて、町に向いた方の雨戸をあけた。

 横手にも窓があって、そこをあけると今の、その雪をいただいた山が氷こおりを削けずったような裾を、紅、緑、紫の山でつつまれた根まで見える、見晴の絶景ながら、窓の下がすぐ、ばらばらと墓であるから、また怯おびえようと、それは閉めたままでおいたのである。


十


 その間に、お君は縁側に腰をかけて、裾を捻ねじるようにして懐ふところがみで足を拭ぬぐって、下駄げたを、謙造のも一所に拭ふいて、それから穿直はきなおして、外へ出て、広々とした山の上の、小さな手水鉢ちょうずばちで手を洗って、これは手巾ハンケチで拭ぬぐって、裾をおろして、一つ揺直ゆすりなおして、下褄したづまを掻込かいこんで、本堂へ立向って、ト頭つむりを下げたところ。

「こちらへお入り、」

 と、謙造が休息所で声をかける。

 お君がそっと歩行あるいて行くと、六畳の真中に腕組うでぐみをして坐すわっていたが、

「まあお坐んなさい。」

 と傍かたわらへ坐らせて、お君が、ちゃんと膝をついた拍子ひょうしに、何と思ったか、ずいと立ってそこらを見廻したが、横手よこってのその窓に並ならんだ二段に釣つった棚たながあって、火鉢ひばち燭台しょくだいの類、新しい卒堵婆そとばが二本ばかり。下へ突込んで、鼠の噛かじった穴から、白い切きれのはみ出した、中には白骨でもありそうな、薄気味の悪い古葛籠ふるつづらが一折。その中の棚に斜はすっかけに乗せてあった経机きょうづくえではない小机の、脚を抉えぐって満月を透すかしたはいいが、雲のかかったように虫蝕むしくいのあとのある、塗ぬったか、古びか、真黒な、引出しのないのに目を着けると……

「有った、有った。」

 と嬉しそうにつと寄って、両手でがさがさと引き出して、立直って持って出て、縁側を背後うしろに、端然きちんと坐った、お君のふっくりした衣紋えもんつきの帯の処へ、中腰になって舁据かきすえて置直すと、正面を避さけて、お君と互違たがいちがいに肩を並べたように、どっかと坐って、

「これだ。これがなかろうもんなら、わざわざ足弱を、暮方くれがたにはなるし、雨は降るし、こんな山の中へ連れて来て、申訳のない次第だ。

 薄暗くってさっきからちょっと見つからないもんだから、これも見た目の幻まぼろしだったのか、と大抵たいてい気を揉もんだ事じゃない。

 お君さん、」

 と云って、無言ながら、懐なつかしげなその美い、そして恍惚うっとりとなっている顔を見て、

「その机だ。お君さん、あなたの母様おっかさんの記念かたみというのは、……

 こういうわけだ。また恐こわがっちゃいけないよ。母様おっかさんの事なんだから。

 いいかい。

 一昨日おとといね。私の両親ふたおやの墓は、ついこの右の方の丘おかの松蔭まつかげにあるんだが、そこへ参詣おまいりをして、墳墓はかの土に、薫かおりの良いい、菫すみれの花が咲いていたから、東京へ持って帰ろうと思って、三本みもとばかり摘つんで、こぼれ松葉と一所に紙入の中へ入れて。それから、父親おやじの居いる時分、連立って阿母おふくろの墓参はかまいりをすると、いつでも帰りがけには、この仁右衛門の堂へ寄って、世間話、お祖師様そしさまの一代記、時によると、軍談講釈、太平記を拾いよみに諳記そらでやるくらい話がおもしろい爺様じいさまだから、日が暮れるまで坐り込んで、提灯ちょうちんを借りて帰ることなんぞあった馴染なじみだから、ここへ寄った。

 いいお天気で、からりと日が照っていたから、この間中あいだじゅうの湿気払しっけばらいだと見えて、本堂も廊下ろうかも明っ放し……で誰だれも居ない。

 座敷ざしきのここにこの机が出ていた。

 机の向うに薄くこう婦人おんなが一人、」

 お君はさっと蒼くなる。

「一生懸命にお聞きよ。それが、あなたの母様おっかさんだったんだから。

 高髷たかまげを俯向うつむけにして、雪のような頸脚えりあしが見えた。手をこうやって、何か書ものをしていたろう。紙はあったが、筆は持っていたか、そこまでは気がつかないが、現に、そこに、あなたとちょうど向い合せの処、」

 正面の襖ふすまは暗くなった、破れた引手ひきてに、襖紙の裂さけたのが、ばさりと動いた。お君は堅かたくなって真直に、そなたを見向いて、瞬またたきもせぬのである。

「しっかりして、お聞き、恐くはないから、私が居るから、」と謙造は、自分もちょいと本堂の今は煙けむりのように見える、白き戸帳とばりを見かえりながら、

「私がそれを見て、ああ、肖にたようなとぞっとした時、そっと顔を上げて、莞爾にっこりしたのが、お向うのその姊ねえさんだ、百人一首の挿画さしえにそッくり。

 はッと気がつくと、もう影も姿もなかった。

 私は、思わず飛込んで、その襖を開けたよ。

 がらん堂にして仁右衛門も居らず。懐しい人だけれども、そこに、と思うと、私もちと居なすった幻のあとへは、第一なまぐさを食う身体からだだし、もったいなくッて憚はばかったから、今、お君さん、お前が坐っているそこへ坐ってね、机に凭もたれて、」

 と云う時、お君はその机にひたと顔をつけて、うつぶしになった。あらぬ俤おもかげとどめずや、机の上は煤すすだらけである。

「で、何となく、あの二階と軒のきとで、泣きなすった、その時の姿が、今さしむかいに見えるようで、私は自分の母親の事と一所に、しばらく人知れず泣いて、ようよう外へ出て、日を見て目を拭ふいた次第だった。翌晩あくるばん、朝顔を踊った、お前さんを見たんだよ。目前めさきを去らない娘むすめさんにそっくりじゃないか。そんな話だから、酒の席では言わなかったが、私はね、さっきお前さんがお出いでの時、女中が取次いで、女の方だと云った、それにさえ、ぞっとしたくらい、まざまざとここで見たんだよ。

 しかしその机は、昔からここにある見覚えのある、庚申堂はじまりからの附道具つきどうぐで、何もあなたの母様おっかさんの使っておいでなすったのを、堂へ納めたというんじゃない。

 それがまたどうして、ここで幻を見たろうと思うと……こうなんだ。

 私の母親の亡くなったのは、あなたの母親おっかさんより、二年ばかり前だったろう。

 新盆にいぼんに、切籠きりこを提さげて、父親おやじと連立って墓参はかまいりに来たが、その白張しらはりの切籠は、ここへ来て、仁右衛門爺様じいさまに、アノ威張いばった髯題目ひげだいもく、それから、志す仏の戒名かいみょう、進上しんじょうから、供養の主ぬし、先祖代々の精霊しょうりょうと、一個一個ひとつひとつに書いて貰もらうのが例でね。

 内うちばかりじゃない、今でも盆にはそうだろうが、よその爺様じいさま婆様ばあさま、切籠持参は皆そうするんだっけ。

 その年はついにない、どうしたのか急病で、仁右衛門が呻うめいていました。

 さあ、切籠が迷った、白張でうろうろする。

 ト同じ燈籠とうろうを手に提さげて、とき色の長襦袢ながじゅばんの透いて見える、羅うすものの涼すずしい形なりで、母娘連おやこづれ、あなたの祖母おばあさんと二人連で、ここへ来なすったのが、姊ねえさんだ。

 やあ、占しめた、と云うと、父親おやじが遠慮なしに、お絹きぬさん──あなた、母様おっかさんの名は知っているかい。」

 突俯つッぷしたまま、すねたように頭かぶりを振った。

「お願ねがいだ、お願だ。精霊大まごつきのところ、お馴染の私わしが媽々かかあの門札かどふだを願います、と燈籠を振廻ふりまわしたもんです。

 母様おっかさんは、町内評判の手かきだったからね、それに大勢居る処だし、祖母おばあさんがまた、ちっと見せたい気もあったかして、書いてお上げなさいよ、と云ってくれたもんだから、扇おうぎを畳たたんで、お坐んなすったのが──その机です。

 これは、祖父じいの何々院なになにいん、これは婆さまの何々信女なになにしんにょ、そこで、これへ、媽々かかあの戒名を、と父親おやじが燈籠を出した時。

(母様おっかさんのは、)と傍そばに畏かしこまった私を見て、

(謙ちゃんが書くんですよ、)

 とそう云っておくんなすってね、その机の前へ坐らせて、」

 と云う時、謙造は声が曇った。

「すらりと立って、背後うしろから私の手を柔やわらかく筆を持添えて……

 おっかさん、と仮名かなで書かして下さる時、この襟えりへ、」

 と、しっかりと腕を組んで、

「はらはらと涙なみだを落しておくんなすった。

 父親おやじは墨すみをすりながら、伸上のびあがって、とその仮名を読んで……

 おっかさん、」

 いいかけて謙造は、ハッと位牌堂の方を振向いてぞっとした。自分の胸か、君子の声か、幽かすかに、おっかさんと響いた。

 ヒイと、堪こらえかねてか、泣く声して、薄暗がりを一つあおって、白い手が膝の上へばたりと来た。

 突俯つッぷしたお君が、胸の苦しさに悶もだえたのである。

 その手を取って、

「それだもの、忘わ、忘わすれるもんか。その時の、幻が、ここに残って、私の目に見えたんだ。

 ね、だからそれが記念かたみなんだ。お君さん、母様おっかさんの顔が見えたでしょう、見えたでしょう。一心におなんなさい、私がきっと請合うけあう、きっと見える。可哀相かわいそうに、名、名も知らんのか。」

 と云って、ぶるぶると震ふるえる手を、しっかと取った。が、冷いので、あなやと驚おどろき、膝を突つッかけ、背せなを抱いだくと、答えがないので、慌あわてて、引起して、横抱きに膝へ抱いだいた。

 慌あわただしい声に力を籠こめつつ、

「しっかりおし、しっかりおし、」

 と涙ながら、そのまま、じっと抱だきしめて、

「母様おっかさんの顔は、姊ねえさんの姿は、私の、謙造の胸にある!」

 とじっと見詰みつめると、恍惚うっとりした雪のようなお君の顔の、美しく優しい眉まゆのあたりを、ちらちらと蝶ちょうのように、紫の影が行交ゆきかうと思うと、菫すみれの薫かおりがはっとして、やがて縋すがった手に力が入った。

 お君の寂しく莞爾にっこりした時、寂寞じゃくまくとした位牌堂の中で、カタリと音。

 目を上げて見ると、見渡す限り、山はその戸帳とばりのような色になった。が、やや艶つややかに見えたのは雨が晴れた薄月の影である。

 遠くで梟が啼ないた。

 謙造は、その声に、額堂の絵を思出した、けれども、自分で頭かぶりをふって、斉ひとしく莞爾にっこりした。

 その時何となく机の向が、かわった。

 襖がすらりとあいたようだから、振返えると、あらず、仁右衛門の居室いまは閉しまったままで、ただほのかに見える散こぼれ松葉のその模様が、懐なつかしい百人一首の表紙に見えた。

(明治四十年一月)

底本:「ちくま日本文学全集 泉鏡花」筑摩書房

   1991(平成3年)10月20日初版発行

   1995(平成7年)8月15日第2刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店

初出:「新小説」

   1907(昭和40)年1月

※底本の編者による語注は省略しました。

入力:牡蠣右衛門

校正:門田裕志

2001年10月19日公開

2018年3月7日修正

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