硯友社の沿革
尾崎紅葉



夙かねて硯友社けんいうしやの年代記ねんだいきを作つて見やうと云いふ考かんがへを有もつて居ゐるのでありますが、書いた物は散佚さんゐつして了しまふし、或あるひは記憶きおくから消え去つて了しまつた事実などが多い為ために、迚とても自分一人ひとりで筆ふでを執とるのでは、十分な事を書く訳わけには行かんのでありますから、其その当時たうじ往来わうらいして居をつた人達ひとたちに問合とひあはせて、各方面かくはうめんから事実を挙あげなければ、沿革えんかくと云いふべき者を書く事は出来できません、

其これに就ついて不便ふべんな事は、其昔そのむかし朝夕あさいふに往来わうらいして文章を見せ合つた仲間の大半は、始はじめから文章を以もつて身を立たてる志こゝろざしの人でなかつたから、今日こんにちでは実業家じつげふかに成なつて居をるのも有れば工学家こうがくかに成なつて居をるのも有る、其他そのた裁判官さいばんくわんも有る、会社員も有る、鉄道の駅長も有る、中なかには行方不明ゆくへふめいなのも有る、物故ぶつこしたのも有る、で、銘々めい〳〵業げふが違ちがふからして自おのづから疎遠そゑんに成なる、長い月日には四方はうに散さんじて了しまつて、此方こちらも会ふのが億劫おくゝふで、いつか〳〵と思ひながら、今だに着手ちやくしゆもせずに居をると云いふ始末しまつです、今日こんにちお話を為するのは些ほんの荒筋あらすぢで、年月ねんげつなどは別べつして記憶きおくして居をらんのですから、随分ずゐぶん私わたしの思違おもひちがひも多からうと思ひます、其それは他日たじつ善よく正たゞします、

抑そもそも硯友社けんいうしやの起おこつたに就ついては、私わたしが山田美妙やまだびめう君くん(其頃そのころ別号べつがうを樵耕蛙船せうかうあせんと云いひました)と懇意こんいに成なつたのが、其その動機どうきでありますから、一寸ちよつと其その交際かうさいの大要たいえうを申上まをしあげて置く必要が有る、明治十五年の頃ころでありましたか東京府の構内かうないに第二中学と云いふのが在ありました、一ひとツ橋ばし内うちの第一中学に対して第二と云いつたので、それが私わたしが入学した時に、私わたしより二級上に山田武太郎やまだたけたらうなる少年が居をつたのですが、此この少年は其その級中きふちうの年少者ねんせうしやで在ありながら、漢文かんぶんでも、国文こくぶんでも、和歌わかでも、詩しでも、戯作げさくでも、字も善よく書いたし、画ゑも少しは遣やると云いつたやうな多芸たげいの才子さいしで、学課がくくわも中以上ちういじやうの成績せいせきであつたのは、校中かうちう評判ひやうばんの少年でした、私わたしは十四五の時分じぶんはなか〳〵の暴あばれ者で、課業くわげふの時間を迯にげては運動場うんどうばへ出て、瓦廻かはらまわしを遣やる、鞦韆飛ぶらんことびを遣やる、石ぶつけでも、相撲すまふでも撃剣げきけんの真似まねでも、悪作劇わるいたずらは何なんでも好すきでした、(尤もつとも唯今たゞいまでも余あまり嫌きらひの方はうではない)然しかるに山田やまだは極ごく温厚おんこうで、運動場うんどうばへ出て来ても我々われ〳〵の仲間に入はいつた事などは無い、超然てうぜんとして独ひとり静しづかに散歩して居をると云いつたやうな風ふうで、今考へて見ると、成程なるほど年少詩人ねんせうしじんと云いつた態度たいどがありましたよ、其それが甚麼どんな機はずみで相近あひちかづく事に成なつたのであるか、どうも覚えませんけれど、いつかフレンドシツプが成立なりたつたのです、

尤もつとも段々だん〴〵話合はなしあつて見ると、五六才さいの時分じぶんには同おなじ長屋ながやの一軒いつけん置おいた隣同士となりどうしで、何なんでも一緒いつしよに遊んだ事も有つたらしいので、那様そんな事から一層いつそう親密しんみつに成なつて、帰路かへりみちも同じでありましたから連立つれだつても帰る、家うちへ尋たづねて行ゆく、他さきも来る、そこで学校外がくかうぐわいの交まじはりを結むすぶやうに成なつたのです、

私わたしは程無ほどなく右の中学を出て、芝しばの愛宕下町あたごしたまちに在あつた、大学予備門だいがくよびもんの受験科じゆけんくわ専門せんもんの三田英学校みたえいがつこうと云いふのに転学てんがくしました、それから大学予備門だいがくよびもんに入つて二年ねん経たつ迄まで、山田やまだとは音信不通いんしんふつうの状かたちで居ゐたのです、其それには別べつに理由りいうも何なにも無い、究竟つまり学校が違つて了しまつた所から、お互たがひに今日こんにちあつて昨日さくじつも明日みやうにちも無い子供心こどもごゝろに、漠然ぼうつと忘わすれて了しまつたのです、すると、私わたしが二級きふに成なつた時とき、山田やまだが四級きふに入つて来たのです、実に這麼こんな意外な想おもひをした事が無い、第二中学に居ゐた時は私わたしより二級きふ上うへの山田やまだが、予備門よびもんでは二級きふ下したの組くみに入つて来たのでせう、私わたしは何為どうした事かと思ひました、然しかし、実に可懐なつかしかつたのです、顔を見ると手を把とつて、直たゞちに旧交きふこうが尋あたゝめられると云いふ訳わけで、其頃そのころ山田やまだも私わたしも猶且やはり第二中学時代と易かはらず芝しばに住すんで居ゐましたから、往復わうふくともに手を携たづさへて、議論ぎろんを上下じやうげするも大きいが、お互たがひの談はなしも数年前すうねんまえよりは真面目まじめに成なつた、さて話をして見ると、山田やまだは文章を以もつて立たうと云いふ精神せいしん、私わたしも同断どうだんだ、私わたしの此この志こゝろざしを抱いだいたのは、予備門よびもんに入学して一年いちねん許ばかり過すぎての事であるが、山田やまだは彼かの第二中学に居ゐる時分から早く業すでに那様こんな了見りやうけんが有つたらしいのです、一年いちねん前ぜんに其志そのこゝろざしを抱いだいた私わたしは未まだ小説の筆ふでは仇とつて見なかつたのであるが、恐おそる可べき哉かな、己おのれより三歳みつ弱わかい山田やまだが既すでに竪琴草子たてごとざうしなる一篇いつぺんを綴つゞつて、疾とうから価あたへを待まつ者であつたのは奈何どうです、然さう云いふ物を書いたから、是非ぜひ一読いちどくして批評ひゝやうをしてくれと言つて百五六中枚まいも有る一冊いつさつの草稿そうかうを私わたしに見せたのでありました、其その小説はアルフレツド大王だいわうの事蹟じせきを仕組しくんだもので文章ぶんしやうは馬琴ばきんを学まなんで、実に好よく出来て居ゐて、私わたしは舌したを巻まきました、なか〳〵批評ひゝやうどころではない、敬服けいふくして了しまつたのです、因そこで考へた、彼かれが二年ねん晩おくれて予備門よびもんに入つて来たのは、意味いみ無くして遅々ぐづ〳〵して居ゐたのではない、其間そのあひだに余程よほど文章を修行しゆぎやうしたものらしい、増上寺ぞうじやうじの行誡上人ぎやうかいしやうにんや石川鴻斎翁いしかはこうさいおうの所へ行つたのは総すべて此間このあひだの事で、而そして専もつぱら独修どくしうをした者と見える、何なんでも西郷隆盛論さいごうたかもりろんであつたか、遊二松島一記まつしまにあそぶきであつたか鴻斎翁こうさいおうが始はじめて彼かれの文章を見た時、年の若いに似合にあはぬ筆ふでつきを怪あやしんで、剽窃へうせつしたのであらうと尤とがめたと云いふ話を聞きましたが、漢文かんぶんも善よく書いたのです、

次つぎに硯友社けんいうしやの興なるに就ついて、第二の動機だうきとなつたのは、思案外史しあんがいしと予備門よびもんの同時どうじの入学生にふがくせいで相識あいしつたのです、其頃そのころは石橋雨香いしばしうかうと云いつて居ゐました、是これは私わたしの竹馬ちくばの友ともの久我くが某ぼうが石橋いしばしとはお茶ちやの水みづの師範学校しはんがくかうで同窓どうそうであつた為ために私わたしに紹介せうかいしたのでしたが、其その理由は第一私わたしと好このみを同おなじうするし、且かつ面白おもしろい人物じんぶつであるから交際かうさいして見給みたまへと云いふのでありました、是これから私わたしが又また山田やまだと石橋いしばしとを引合ひきあはせて、先まづ桃園とうゑんに義ぎを結むすんだ状かたちです、

其内そのうちに山田やまだは芝しばから一ひとツ橋ばしまで通学つうがくするのは余あまり遠とほいと云いふので、駿河台するがだい鈴木町すずきちやうの坊城ばうじやうの邸内ていないに引越ひつこした、石橋いしばしは九段坂上くだんさかうへの今の暁星学校ぎやうせいがくかうの在ある処ところに居ゐたのですが、私わたしは不相変あひかはらず芝しばから通かよつて居ゐた、山田やまだと益ます〳〵親密しんみつになるに就つけて、遠方ゑんぱうから通ふのは不都合ふつがふであるから、僕ぼくの家うちに寄宿きしゆくしては奈何どうです、と山田やまだが云いつてくれるから、願ねがうても無き幸さいわひと、直すぐに笈きふを負をつて、郷関きやうくわんを出た、山田やまだの書斎しよさいは八畳ぢやうの間までしたが、其それに机つくゑを相対さしむかひに据すゑて、北向きたむきの寒さむい武者窓むしやまどの薄暗うすぐらい間まに立籠たてこもつて、毎日まいにち文学の話です、此こゝに二人ふたりが鼻はなを並ならべて居ゐるから石橋いしばしも繁しげく訪ねて来る、山田やまだは出嫌でぎらひであつたが、私わたしは飛行自由ひぎやうじざいの方はうであるから、四方しはうに交まじはりを結むすびました、処ところが予備門よびもん内ないを普あまねく尋たづねて見ると、なか〳〵斯道しだうの好者すきしやが潜伏せんぷくして居ゐるので、それを石橋いしばしと私わたしとで頻しきりに掘出ほりだしに掛かゝつた、すると群雄ぐんいう四方しはうより起おこつて、響ひゞきの声に応おうずるが如ごとしです、是これが硯友社けんいうしや創立さうりつの導火線だうくわせんと成なつたので、

さて其頃そのころの三人さんにんの有様ありさまは如何いかにと云いふに、山田やまだは勉強家べんきやうかであつたが、学科がくくわの方はうはお役目やくめに遣やつて居ゐて、雑書ざつしよのみを見て居ゐた、石橋いしばしは躰育たいいく熱心ねつしんの遊ぶ方はうで、競争きやうそうは遣やる、器械躰操きかいたいさうは遣やる、ボートは善よく漕こぐ、水練すゐれんは遣やる、自転車で乗廻のりまはす、馬うまも遣やる、学科には平生へいぜい苦心くしんせんのであつたが、善よく出来ました、試験しけんの成績せいせきも相応さうおうに宜よろしかつた、私わたしと来ると、山田やまだとも付つかず石橋いしばしとも付かずでお茶を濁にごして居ゐたのです、其頃そのころ世間せけんに持囃もてはやされた読物よみものは、春はるのや君くんの書生気質しよせいかたぎ、南翠なんすゐ君くんの何なんで有つたか、社会小説しやくわいせうせつでした、それから、篁村翁くわうそんおうが読売新聞よみうりしんぶんで軽妙けいめうな短編たんぺんを盛さかんに書いて居ゐました、其等それらを見て山田やまだは能よく話をした事ですが、此分このぶんなら一二年内ねんないには此方こつちも打つて出て一合戦ひとかつせんして見やう、而さうして末すゑには天下てんかを…………などゝ云いふ大気焔だいきえんも有つたのです、

処ところへ或日あるひ石橋いしばしが来て、唯たゞ恁かうして居ゐるのも充つまらんから、練習の為ために雑誌を拵こしらへては奈何どうかと云いふのです、いづれも下地したぢは好すきなりで同意どういをした、就ついては会員組織くわいゝんそしきにして同志どうしの文章を募つのらうと議決ぎけつして、三人さんにんが各自てんでに手分てわけをして、会員くわいゝんを募集ぼしうする事に成なつた、学校に居をる者、並ならびに其以外それいぐわいの者をも語合かたらつて、惣勢そうぜい二十五人にんも得えましたらうか、其内そのうち過半くわはんは予備門よびもんの学生でした、

今日こんにちになつて見ると、右の会員の変遷へんせんは驚おどろく可べき者もので、其内そのうち死亡しばうした者もの、行方不明ゆくへふめいの者もの、音信不通いんしんふつうの者もの等などが有るが、知れて居ゐる分ぶんでは、諸機械しよきかいの輸入ゆにふの商会しやうくわいに居ゐる者ものが一人ひとり、地方ちはうの判事はんじが一人ひとり、法学士はふがくしが一人ひとり、工学士こうがくしが二人ふたり、地方ちはうの病院長びやうゐんちやうが一人ひとり、生命保険せいめいほけん会社員くわいしやいんが一人ひとり、日本鉄道にほんてつだうの駅長えきちやうが一人ひとり、商館番頭しやうくわんばんたうが築地つきぢ(諸機械しよきかい)と横浜よこはま(生糸きいと)とで二人ふたり、漁業者ぎよげふしやと建築家けんちくかとで阿米利加あめりかに居をる者ものが二人ふたり、地方ちはうの中学教員ちうがくけういんが一人ひとり、某省ぼうせうの属官ぞくくわんが二人ふたり、大阪おほさかと横浜よこはまとで銀行員ぎんかういんが二人ふたり、三州さんしうの在ざいに隠かくれて樹きを種うゑて居ゐるのが一人ひとり、石炭せきたんの売込屋うりこみやが一人ひとり、未まだ〳〵有るが些ちよつと胸に浮うかばない、先まづ這麼こんな風ふうに業躰げふていが違つて居ゐるのです、而さうして、後〻のち〳〵硯友社員けんいうしやいんとして文壇ぶんだんに立つた川上眉山かはかみびさん、巌谷小波いはやせうは、江見水蔭えみすゐいん、中村花痩なかむらくわさう、広津柳浪ひろつりうらう、渡部乙羽わたなべおとは、などゝ云いふ面々めん〳〵は、此この創立さうりつの際さいには尽こと〴〵く未見みけんの人であつたのも亦また一奇いつきと謂いふべきであります、

因そこで其その雑誌と云いふのは、半紙はんし両截ふたつぎりを廿枚にぢうまいか卅枚さんぢうまい綴合とぢあはせて、之これを我楽多文庫がらくたぶんこと名なづけ、右の社員中から和歌わか、狂歌きやうか、発句ほつく、端唄はうた、漢詩かんし、狂詩きやうし、漢文かんぶん、国文こくぶん、俳文はいぶん、戯文げぶん、新躰詩しんたいし、謎なぞも有れば画探ゑさがしも有る、首はじめの方はうには小説を掲かゝげて、口画くちゑも挿画さしゑも有る、是これが総すべて社員の手から成なるので、其その筆耕ひつこうは山田やまだと私わたしとで分担ぶんたんしたのです、山田やまだは細字さいじを上手じやうづに書きました、私わたしのは甚はなはだ醜きたない、で、小説の類るいは余あまり寄稿者きかうしやが無かつたので、主おもに山田やまだと石橋いしばしと私わたしとのを載のせたのです、此この三人さんにん以外いぐわいに丸岡九華まるおかきうくわと云いふ人がありました、此この人は小説も書けば新躰詩しんたいしも作る、当時たうじ既すでに素人芸しろうとげいでないと云いふ評判ひやうばんの腕利うできゝで、新躰詩しんたいしは殊ことに其力そのちからを極きはめて研究けんきふする所で、百枚ひやくまいほどの叙事詩じよじしをも其頃そのころ早く作つて、二三の劇詩げきしなどさへ有りました、依様やはり我々われ〳〵と同級どうきふでありましたが、後のちに商業学校せうげふがくかうに転てんじて、中途ちうとから全然すつかり筆ふでを投たうじて、今いまでは高田商会たかだせうくわいに出て居をりますが、硯友社けんいうしやの為ためには惜をしい人を殺ころして了しまつたのです、尤もつとも本人の御為おためには其方そのはうが結搆けつかうであつたのでせう、

それで、右の写本しやほんを一名いちめいに付つき三日間みつかかん留置とめおきの掟おきてで社員へ廻まわしたのです、すると、見た者は鉛筆えんぴつや朱書しゆがきで欄外らんぐわいに評ひやうなどを入れる、其評そのひやうを又また反駁はんばくする者が有るなどで、なか〳〵面白おもしろかつたのであります、此この第壱号を出したのが明治十八年の五月二日です、毎月まいげつ壱回いつくわいの発行はつかうで九号くがうまで続きました、すると、社員は続々ぞく〴〵殖ふゑる、川上かはかみは同級どうきふに居をりましたので、此際このさい入社したのです、此この人は本郷ほんごう春木町はるきちやうに居ゐて、石橋いしばしとは進文学舎しんぶんがくしやの同窓どうそうで、予備門よびもんにも同時どうじに入学したのでありましたが、同好どうこうの士ひとであることは知らなかつたと見えて、是これまで勧誘くわんいうもしなかつたのでありました、眉山人びさんじんと云いふのは遥はるか後のちに改あらためた名で、其頃そのころは煙波散人えんばさんじんと云いつて居ゐました、

此この写本しやほんの挿絵さしゑを担当たんたうした画家ぐわかは二人ふたりで、一人ひとりは積翠せきすゐ(工学士こうがくし大沢三之介おほさはさんのすけ君くん)一人ひとりは緑芽りよくが(法学士はうがくし松岡鉦吉まつをかしやうきち君くん)積翠せきすゐは鉛筆画えんぴつぐわが得意とくいで、水彩風すゐさいふうのも画かき、器用きようで日本画にほんぐわも遣やつた、緑芽りよくがは容斎風ようさいふうを善よく画かいたが、素人画しろうとゑでは無いのでありました、

さて我楽多文庫がらくたぶんこの名が漸やうやく書生間しよせいかんに知れ渡わたつて来たので、四方しはうから入会を申込まをしこむ、社運隆盛といふ語ことばを石橋いしばしが口癖くちぐせのやうに言つて喜よろこんで居ゐたのは此頃このころでした、一冊いつさつの本を三四十人して見るのでは一人ひとり一日いちにちとしても一月余ひとつきよかゝるので、これでは奈何どうもならぬと云いふので、機きも熟じゆくしたのであるから、印行いんかうして頒布はんぷする事に為したいと云いふ説せつが我々われ〳〵三名さんめいの間あひだに起おこつた、因そこで、今迄いまゝでは毎月まいげつ三銭さんせんかの会費くわいひであつたのが、俄にはかに十銭せんと引上ひきあげて、四六版ばん三十二頁ページ許ばかりの雑誌ざつしを拵こしらへる計画けいくわくで、猶なほ広ひろく社員を募集ぼしうしたところ、稍やゝ百名めい許ばかりを得えたのでした、此この時などは実に日夜にちや眠ねむらぬほどの経営けいえいで、又また石橋いしばしの奔走ほんそうは目覚めざましいものでした、出版の事は一切いつさい山田やまだが担任たんにんで、神田かんだ今川小路いまがはかうぢの金玉出版会社きんぎよくしゆつぱんくわいしやと云いふのに掛合かけあひました、是これは山田やまだが前年ぜんねん既すでに一二の新躰詩集しんたいししうを公おほやけにして、同会社どうくわいしやを識しつて居ゐる縁えんから此こゝへ持込もちこんだので、此この社は曩さきに稗史出版会社はいししゆつぱんくわいしや予約よやくの八犬伝はつけんでんを印刷いんさつした事が有あるのです、山田やまだは既すでに其作そのさくを版行はんかうした味あぢを知つて居ゐるが、石橋いしばしと私わたしとは今度こんどが皮切かはきりなので、尤もつとも石橋いしばしは前から団珍まるちんなどに内々ない〳〵投書とうしよして居ゐたのであつたが、隠かくして見せなかつた、山田やまだも読売新聞よみうりしんぶんへは大分だいぶ寄書きしよして居ゐました、私わたしは天にも地にも唯たゞ一度いちど頴才新誌えいさいしんしと云いふのに柳やなぎを咏えいじた七言絶句しちごんぜつくを出した事が有るが、其外そのほかには何なにも無い、

扨さて雑誌を出すに就ついては、前々ぜん〳〵から編輯へんしうの方はうは山田やまだと私わたしとが引受ひきうけて、石橋いしばしは専もつぱら庶務しよむを扱あつかつて居ゐたので、此この三人さんにんを署名人しよめいにんとして、明治十九年の春に改あらためて我楽多文庫がらくたぶんこ第壱号だいいちがうとして出版した、是これが写本しやほんの十号がうに当あたるので、表題ひやうだいは山田やまだが隷書れいしよで書きました、之これに載のせた山田やまだの小説が言文一致げんぶんいつちで、私わたしの見たのでは言文一致げんぶんいつちの小説は是これが嚆矢はじめでした、

此この雑誌も九号くがう迄までは続きましたが、依様やはり十号から慾よくが出て、会員に頒布はんぷする位くらゐでは面白おもしろくないから、価あたひを廉やすくして盛さかんに売出うりだして見やうと云いふので、今度こんどは四六倍ばいの大形おほがたにして、十二頁ページでしたか、十六頁ページでしたか、定価ていかが三銭せん、小説の挿絵さしゑを二面めん入れました、之これより先さき四六版ばん時代じだいに今いま一人ひとり画家ぐわかが加くはゝりました、横浜よこはまの商館番頭しやうくわんばんとうで夢ゆめのやうつゝと云いふ名、実名じつめいは忘わすれましたが、素人しろうとにしては善よく画かきました、其後そのご独逸どいつへ行つて、今では若松わかまつの製鉄所せいてつじよとやらに居ゐると聞いたが、消息せうそくを詳つまびらかにしません、

四六版ばんから四六倍ばいの雑誌に移うつる迄までには大分だいぶ沿革えんかくが有るのですが、今は能よく覚えません、印刷所いんさつじよも飯田町いひだまちの中坂なかさかに在ある同益社どうえきしやと云いふのに易かへて、其頃そのころ私わたしは山田やまだの家うちを出て四番町よんばんちやうの親戚しんせきに寄寓きぐうして居ゐましたから、石橋いしばしと計はかつて、同益社どうえきしやの真向まむかうに一軒いつけんの家いへを借かりて、之これに我楽多文庫がらくたぶんこ発行所はつかうしよ硯友社けんいうしやなる看板かんばんを上げたのでした、雑誌も既すでに売品ばいひんと成なつた以上いじやうは、売捌うりさばきの都合つがふや何なにや彼かやで店らしい者が無ければならぬ、因そこで酷算段ひどさんだんをして一軒いつけん借かりて、二階にかいを編輯室へんしうしつ、下を応接所おうせつしよ兼けん売捌場うりさばきぢやうに充あてゝ、石橋いしばしと私わたしとが交かはる〴〵詰つめる事にして、別べつに会計掛くわいけいがゝりを置き、留守居るすゐを置き、市内しないを卸売おろしうりに行あるく者を傭やとひ其その勢いきほひ旭あさひの昇のぼるが如ごとしでした、外ほかに類るゐが無かつたのか雑誌も能よく売れました、毎号まいがう三千さんぜんづゝも刷するやうな訳わけで、未いまだ勉つとめて拡張かくちやうすれば非常ひじやうなものであつたのを、無勘定むかんじやうの面白半分おもしろはんぶんで遣やつて居ゐた為ために、竟つひに大事だいじを去さらせたとは後のちにぞ思合おもひあはされたのです、今だに一ひとつ話ばなしに残のこつて居ゐるのは、此際このさいの事です、何なんでも雑誌を売らなければ可いかんと云いふので、発行日はつかうびには石橋いしばしも私わたしも鞄かばんの中へ何十部なんじふぶと詰つめ込こんで、而さうして学校へ出る、休憩時間きふけいじかんには控所ひかえじよの大勢おほぜいの中を奔走ほんそうして売付うりつけるのです、其頃そのころ学習院がくしうゐんが類焼るいしやうして当分たうぶん高等中学こうとうちうがくに合併がつぺいして居ゐましたから、此こゝへも持つて行つて推売おしうるのです、学生時代がくせいじだいの石橋いしばしと云いふ者は実に顔が広かつたし、且かつ前ぜんに学習院がくしうゐんに居ゐた事があるので、善よく売りました、第一だいいち其その形かたちと云いふものが余程よほど可笑をかしい、石橋いしばしが鼻目鏡はなめがねを掛かけて今こそ流行はやるけれど、其頃そのころは着手きての無いインパネスの最もう一倍いちばい袖そでの短みじかいのを被きて雑誌を持つて廻まわる、私わたしは又また紫むらさきヅボンと云いはれて、柳原やなぎはら仕入しいれの染返そめかへしの紺こんヘルだから、日常ひなたに出ると紫色むらさきいろに見える奴やつを穿はいて、外套ぐわいたうは日蔭町物ひかげちやうものの茶羅紗ちやらしやを黄きに返かへしたやうな、重おもいボテ〳〵したのを着て、現金げんきんでなくちや可いかんよとなどゝ絶叫ぜつけうする様さまは、得易えやすからざる奇観きくわんであつたらうと想おもはれる、這麼こんな風ふうで中坂なかさかに社しやを設まうけてからは、石橋いしばしと私わたしとが一切いつさいを処理しよりして、山田やまだは毎号まいごう一篇いつぺんの小説を書くばかりで、前のやうに社に対たいして密みつなる関係くわんけいを持たなかつた、と云いふのが、山田やまだは元来ぐわんらい閉戸主義へいこしゆぎであつたから、其その躯からだが恁かう云いふ雑務ざつむに鞅掌わうしやうするのを許ゆるさぬので、自おのづから遠とほざかるやうに成なつたのであります、

漣山人さゞなみさんじんは此頃このごろ入社したので、夙かねて一六翁いちろくおうの三男さんなんに其人そのひと有りとは聞いて居ゐたが、顔を見た事も無かつたのであつた所、社員の内うちに山人さんじんと善よく識しる者が有つて、此この人の紹介せうかいで社中しやちうに加はる事になつたのでした、其頃そのころ巌谷いはやは独逸協会学校どいつけふくわいがくかうに居ゐまして、お坊ばうさんの成人せいじんしたやうな少年で、始はじめて編輯室へんしうしつに来たのは学校の帰途かへりで、黒羅紗くろらしやの制服せいふくを着て居ゐました、此この人は何なんでも十三四の頃ころから読売新聞よみうりしんぶんに寄書きしよして居ゐたので、其その文章ぶんしやうを見た目で此この人を看みると、丸まるで虚うそのやうな想おもひがしました、後のちに巌谷いはやも此この初対面しよたいめんの時の事を言出いひだして、私わたしの人物じんぶつが全まつたく想像さうざうと反はんして居ゐたのに驚おどろいたと云いひます、甚麼どんなに反はんして居ゐたか聞きたいものですが、ちと遠方ゑんぱうで今問合とひあはせる訳わけにも行ゆきません、

巌谷いはやの紹介せうかいで入社したのが江見水蔭えみすゐいんです、此この人は杉浦氏すぎうらしの称好塾せうこうじゆくに於おける巌谷いはやの莫逆ばくぎやくで、其その素志そしと云いふのが、万巻ばんくわんの書を読まずんば、須すべからく千里せんりの道を行ゆくべしと、常つねに好このんで山川さんせんを跋渉ばつせふし、内うちに在あれば必かならず筆ふでを取つて書いて居ゐる好者すきものと、巌谷いはやから噂うはさの有つた其その人で、始はじめて社に訪とはれた時は紺羅紗こんらしやの古羽織ふるばおりに托鉢僧たくはつそうのやうな大笠おほがさを冠かぶつて、六歩ろつぱうを踏ふむやうな手付てつきをして振込ふりこんで来たのです、文章を書くと云いふよりは柔術やはらを取りさうな恰好かつかうで、其頃そのころは水蔭亭主人すゐいんていしゆじんと名宣なのつて居ゐました、

扨さて雑誌は益〻ます〳〵売れるのであつたが、会計くわいけいの不取締ふとりしまりと一ひとつには卸売おろしうりに行あるかせた親仁おやじが篤実とくじつさうに見えて、実は甚はなはだ太ふとい奴やつであつたのを知らずに居ゐた為ために、此奴こいつに余程よほど好よいやうな事を為されたのです、畢竟つまり売捌うりさばきの方法が疎略そりやくであつた為ために、勘定かんじやう合つて銭ぜに足たらずで、毎号まいがう屹々きつ〳〵と印刷費いんさつひを払はらつて行つたのが、段々だん〳〵不如意ふによいと成なつて、二号にがうおくれ三号がうおくれと逐おはれる有様ありさま、それでも同益社どうえきしやでは石橋いしばしの身元みもとを知つて居ゐるから強い督促とくそくも為せず、続いて出版を引受ひきうけて居ゐたのです、此この雑誌は廿にぢう一年の五月廿にぢう五日の出版しゆつぱんで、月二回の発行で、是これも九号がう迄まで続いて、拾号じふがうからは又また大いに躰裁ていさいを改あらためて(十月廿にぢう五日出版しゆつぱん)頁数ページすうを倍ばいにして、別表紙べつびやうしを附つけて、別摺べつずりの挿画さしゑを二枚まい入れて、定価ていかを十銭せんに上げました、表紙は朱摺しゆずりの古作者印譜こさくしやいんぷの模様もやうで、形かたちは四六倍ばい、然さして紙数しすうは無かつたけれど、素人しろうとの手拵てごしらえにした物としては、頗すこぶる上出来じやうできで、好雑誌こうざつしと云いふ評ひやうが有つたので、是これが我楽多文庫がらくたぶんこの第四期です、

第三期に小説の筆を執とつた者は、美妙斎びめうさい、思案外史しあんぐわいし、丸岡九華まるをかきうくわ、漣山人さゞなみさんじん、私わたしと五人ごにんであつたが、右の大改良後だいかいりやうごは眉山人びさんじんと云いふ新手あらてが加くはゝつた、其迄それまでは川上かはかみは折〻をり〳〵俳文はいぶんなどを寄稿きかうするばかりで、とんと小説は見せなかつたのであります、所ところが十三号の発刊はつかんに臨のぞんで、硯友社けんいうしやの為ために永ながく忘わするべからざる一大変事いちだいへんじが起おこつた、其それは社の元老げんらうたる山田美妙やまだびめうが脱走だつそうしたのです、いや、石橋いしばしと私わたしとの此この時の憤慨ふんがいと云いふ者は非常ひじやうであつた、何故なにゆゑに山田やまだが鼎足ていそくの盟ちかひを背そむいたかと云いふに、之これより先さき山田やまだは金港堂きんこうどうから夏木立なつこだちと題だいする一冊いつさつを出版しました、是これが大喝采だいくわつさいで歓迎くわんげいされたのです、此頃このごろ軟文学なんぶんがくの好著こうちよと云いふ者は世間せけんに地を払はらつて無かつた、(書生気質しよせいかたぎの有つた外に)其処そこへ山田やまだの清新せいしんなる作物さくぶつが金港堂きんこうどうの高尚こうせうな製本せいほんで出たのだから、読書社会どくしよしやくわいが震ふるひ付ついたらうと云いふものです、因そこで、金港堂きんこうどうが始はじめて此この年少詩人ねんせうしじんの俊才しゆんさいを識しつて、重おもく用もちゐやうと云いふ志こゝろざしを起おこしたものと考へられる、此この時金港堂きんこうどうの編輯へんしうには中根淑氏なかねしゆくしが居ゐたので、則すなはち此この人が山田やまだの詞才しさいを識しつたのです、其それと与ともに一方いつぱうには小説雑誌の気運きうんが日増ひましに熟じゆくして来たので、此際このさい何なにか発行しやうと云いふ金港堂きんこうどうの計画けいくわくが有つたのですから、早速さつそく山田やまだへ密使みつしが向むかつたものと見える、

此方こちらは暢気のんきなものだから那様こんな事こととは些ちつとも知らない、山田やまだも亦また気振けぶりにも見せなかつた、けれども前さきにも言ふ如ごとく、中坂なかさかに社を設まうけてからは、山田やまだは全まつたく社務しやむに与あづからん姿であつたから、社の方でも山田やまだの平生へいぜいの消息せうそくを審つまびらかにせんと云いふ具合ぐあひで、此この隙すきが金港堂きんこうどうの計はかりごとを用もちゐる所で、山田やまだも亦また硯友社けんいうしやと疎そであつた為ために金港堂きんこうどうへ心が動いたのです、当時たうじは実じつに憤慨ふんがいしたけれど、考へて見れば無理むりの無い所で、而さうして此間このかんの事は硯友社けんいうしやのヒストリイから云いふと大いに味あぢはふ可べき一節いつせつですよ、

其内そのうちに金港堂きんこうどうに云々しか〴〵の計画が有ると云いふ事が耳に入いつた、其前そのぜんから達筆たつぴつの山田やまだが思ふやうに原稿げんかうを寄来よこさんと云いふ怪あやしむべき事実が有つたので、這こは捨置すておき難がたしと石橋いしばしと私わたしとで山田やまだに逢あひに行ゆきました、すると金港堂きんかうどう一件けんの話が有つて、硯友社けんいうしやとの関係を絶たちたいやうな口吻くちぶり、其それは宜よろしいけれど、文庫ぶんこに連載れんさいしてある小説の続稿ぞくかうだけは送つてもらひたいと頼たのんだ、承諾しようだくした、然しかるに一向いつかう寄来よこさん、石橋いしばしが逢あひに行つても逢あはん、私わたしから手紙を出しても返事が無い、もう是迄これまでと云いふので、私わたしが筆を取つて猛烈まうれつな絶交状ぜつかうじやうを送つて、山田やまだと硯友社けんいうしやとの縁えんは都みやこの花はなの発行と与ともに断たゝれて了しまつたのです、刮目くわつもくして待つて居をると、都みやこの花はななる者が出た、本も立派りつぱなれば、手揃てぞろひでもあつた、而さうして巻頭くわんたうが山田やまだの文章、憎にくむべき敵てきながらも天晴あつぱれ書きをつた、彼かれの文章は確たしかに二三段だん進んだと見た、さあ到いたる処ところ都みやこの花はなの評判で、然さしも全盛ぜんせいを極きはめたりし我楽多文庫がらくたぶんこも俄にはかに月夜げつやの提灯てうちんと成なつた、けれども火は消きえずに、十三、十四、十五、(翌よく二十二年の二月出版しゆつぱん)と持支もちこたへたが、それで到頭たう〳〵落城らくじやうして了しまつたのです、此この滅亡めつばうに就ついては三つの原因げんいんが有るので、(一)は印刷費いんさつひの負債ふさい、(二)は編輯へんしうと会計との事務じむが煩雑はんざつに成なつて来て、修学しうがくの片手業かたてまに余あまるのと、(三)は金港堂きんこうどうの優勢いうせいに圧おされたのです、それでも未まだ経済けいざいの立たんやうな事は無かつたのです、然しかし労らう多おほくして収をさむる所が極きはめて少いから可厭いやに成なつて了しまつたので、石橋いしばしと私わたしと連印れんいんで、同益社どうえきしやへは卅円さんぢうゑんの月賦げつぷかにした二百円ひやくゑん余よの借用証文しやくようしやうもんを入れて、それで中坂なかさかの店を閉ぢて退転たいてんしたのです、

此この前年ぜんねんの末すゑに私わたしを訪たづねて来たのが、神田かんだ南乗物町みなみのりものちやうの吉岡書籍店よしをかしよじやくてんの主人しゆじん、理学士りがくし吉岡哲太郎よしをかてつたらう君くんです、私わたしが文壇ぶんだんに立つに就ついては、前後ぜんご三人さんにんの紹介者せうかいしやを労わづらはしたので、其その第一が此この吉岡君よしをかくん、則すなはち新著百種しんちよひやくしゆの出版元しゆつぱんもとです、第二は文学士ぶんがくし高田早苗たかださなゑ君くん、私わたしが読売新聞よみうりしんぶんに薦すゝめられた、第三は春陽堂しゆんやうどうの主人故こ和田篤太郎わだとくたらう君くん、私わたしの新聞に出した小説を必かならず出版しゆつぱんした人、其その吉岡君よしをかくんが来て、毎号まいがう一篇いつぺんを載のせる小説雑誌を出したいと云いふ話、そこで新著百種しんちよひやくしゆと名なづけて、私わたしが初篇しよへんを書く事に成なつて、二十二年の二月に色懺悔いろざんげを出したのです、私わたしが春はるのや君くんに面会めんくわいしたのも、篁村君くわうそんくんを識しつたのも、此この新著百種しんちよひやくしゆの編輯上へんしうじやうの関係からです、それから又また此この編輯時代へんしうじだいに四人よにんの社中しやちうを得えた、武内桂舟たけのうちけいしう、広津柳浪ひろつりうらう、渡部乙羽わたなべおとは、外ほかに未まだ一人ひとり故人こじんに成なつた中村花痩なかむらくわさう、此この人は我楽多文庫がらくたぶんこの第だい二期きの頃ころ既すでに入社して居ゐたのであるが、文庫ぶんこには書いた物を出さなかつた、俳諧はいかいは社中しやちうの先輩せんぱいであつたから、戯たはむれに宗匠そうせうと呼よんで居ゐた、神田かんだの五十稲荷ごとふいなりの裏うらに住すんで、庭にはに古池ふるいけが在あつて、其その畔ほとりに大おほきな秋田蕗あきたふきが茂しげつて居ゐたので、皆みなが無理むりに蕗ふきの本宗匠もとそうせうにして了しまつたのです、前名ぜんめうは柳園りうゑんと云いつて、中央新聞ちうわうしんぶんが創立そうりつの頃ころに処女作しよぢよさくを出した事が有る、其それに継ついでは新著百種しんちよひやくしゆの末頃すゑごろに離鴛鴦はなれをしと云いふのを書いたが、那それが名を成なす端緒たんちよであつたかと思ふ、

武内たけのうちと識しつたのは、新著百種しんちよひやくしゆの挿絵さしゑを頼たのみに行つたのが縁ゑんで、酷ひどく懇意こんいに成なつて了しまつたが、其始そのはじめは画ゑより人物に惚ほれたので、其頃そのころ武内たけのうちは富士見町ふじみちやうの薄闇うすぐらい長屋ながやの鼠ねづみの巣す見たやうな中うちに燻くすぶつて居ゐながら太平楽たいへいらくを抒ならべる元気が凡ぼんでなかつた、

広津ひろつと知つたのは、廿にぢう一年の春であつたか、少年園せうねんゑんの宴会ゑんくわいが不忍池しのばずの長酡亭ちやうだていに在あつて、其その席上せきじやうで相識ちかづきに成なつたのでした、其頃そのころ博文館はくぶんくわんが大和錦やまとにしきと云いふ小説雑誌を出して居ゐて、広津ひろつが編輯主任へんしうしゆにんでありました、乙羽庵おとはあんは始め二橋散史にけうさんしと名なのつて石橋いしばしを便たよつて来たのです、其その時は累卵之東洋的るいらんのとうやうてき悲憤文字ひふんもんじを書いて居ゐたのを、石橋いしばしから硯友社けんいうしやへ紹介せうかいして、後のちに新著百種しんちよひやくしゆに露小袖つゆこそでと云いふのを載のせました、

それから一時いちじ中絶ちうぜつした我楽多文庫がらくたぶんこです、吉岡書籍店よしをかしよじやくてんが引受ひきうけて見たいと云いふので、直ぢきに再興さいこうさせて、文庫ぶんこと改題かいだいして、形かたを菊版きくばんに直なほしました、是これは新著百種しんちよひやくしゆの壱号いちがうが出ると間まも無く発行はつかうしたので、我楽多文庫がらくたぶんこの第五期だいごきに成なる、表画ひやうぐわは故こ穂庵翁すゐあんおうの筆で文昌星ぶんしやうせいの図づでした、是これが前さきの廃刊はいかんした号を追つて、二十二号がう迄まで出して、二十二年の七月廿にぢう三号の表紙を替かへて(桂舟けいしう筆ひつ花鳥風月くわてうふうげつの図づ)大刷新だいさつしんと云いふ訳わけに成なつた、頻しきりに西鶴さいかくを鼓吹こすゐしたのは此この時代で、柳浪りうらう、乙羽おとは、眉山びさん、水蔭すゐいんなどが盛さかんに書き、寒月かんげつ露伴ろはんの二氏にしも寄稿きかうした、而さうして挿絵さしゑは桂舟けいしうが担当たんとうするなど、前々ぜん〳〵の紙上から見ると頗すこぶる異色いしよくを帯びて居ゐました、故ゆえに之これを第だい六期きと為する、我楽多文庫がらくたぶんこの生命せいめいは第だい六期きで又また姑しばらく絶滅ぜつめつしたのです、二十二年の十月発行の廿にぢう七号を終刊しうかんとして、一方いつぱうには都みやこの花はなが有り、一方いつぱうには大和錦やまとにしきが有つて、いづれも頗すこぶる強敵きやうてき、吾わが版元はんもとも苦戦くせんの後のちに斃たふれたのです、然しかし、十一月に又また吉岡書籍店よしをかしよじやくてんの催もよふしで、柳浪子りうらうしを主筆しゆひつにして小文学せうぶんがくと云いふ小冊子せうさつしを発行した、是これとても謂いはゞ硯友社機関けんいうしやきくわんでありました、抑そもそも九と云いふ数すうは硯友社けんいうしやに取つては如何いかなる悪数あくすうであるか此この小文学せうぶんがくも亦また九号にして廃刊はいかんする始末しまつ、(二十三年四月)廿にぢう二年の十二月でした、篁村翁くわうそんおうが読売新聞社よみうりしんぶんしやを退ひいたに就ついて、私わたしに入社せぬかと云いふ高田氏たかだしからの交渉かうしやうでしたから、直すぐに応おうじて、年内ねんないに短篇たんぺんを書きました、翌よく廿にぢう三年の七月になると、未まだ妄執まうしうが霽はれずして、又々また〳〵江戸紫えどむらさきと云いふのを出した、是これが九号の難関なんくわんを踰こへたかと思へば、憐あはれむべし、其その歳としの暮くれ十二号にして、又また没落ぼつらく、之これが為ために無けなしの懐裏ふところを百七十円ほど傷いためて、吽うんと参つた、仮かりに小文学せうぶんがくをも硯友社けんいうしやの機関きくわんに数かぞへると、其それが第七期、是これが第八期で、未まだ第九期なる者が有る、

余あまり人は知らぬが、千紫万紅せんしばんこうと云いつて、会員組織くわいゝんそしきにして出した者で、硯友社けんいうしやの機関きくわんと云いふのではなく、青年作家せいねんさくかの為ためであつたから、社名も別に盛春社せいしゆんしやとして、私わたしの楽半分たのしみはんぶんに発行した、是これは廿にぢう四年の六月が初刊しよかんであつたが、例の九号にも及およばずして又また罷やめて了しまつたのです、小栗風葉をぐりふうえふは此この会員の中うちから出たので、宅たくに来たのは泉鏡花いづみきやうくわが先さきですが、私わたしが文章を扱あつかつたのは風葉ふうえふ(其頃そのころ拈華坊ねんげぼう)の方が早い、

廿にぢう四年中に雑誌編輯ざつしへんしうの手を洗つてから、茲こゝに年としを経ふること九年になります、処ところが此この九の字が又また不思議ふしぎで、実は来春らいしゆんにも成なつたら、又々また〳〵手勢てぜいを率ひきゐて雑誌界ざつしかいに打つて出やうと云いふ計画も有るのです、第九期まで有つて十期の無いのは甚はなはだ勘定かんじやうが悪いから、是非ぜひ第十期を造つくりたいと云いふ考かんがへも有るので、

段々だん〳〵追想つひさうして見ると、此この九年間の硯友社けんいうしや及および其その社中しやちうの変遷へんせんは夥おびたゞしいもので、書く可べき事も沢山たくさん有れば書かれぬ事も沢山たくさんある、なか〳〵面白おもしろい事も有れば、面白おもしろくない事も有る、成効せいかうあり、失敗しつぱいあり、喜怒きど有り哀楽あいらくありで、一部の好小説こうせうせつが出来るのです、で又また今後の硯友社けんいうしやは如何いかにと云いふのも面白おもしろい問題で、九年の平波へいはに掉さをさして居ゐた私わたしの気運きうんも、来年以後は変動へんどうを生しやうずるであらうと念おもはれるのです、

硯友社けんいうしやの沿革えんかくに就ついては、他日たじつ頗すこぶる詳くはしく説とく心得こゝろえで茲こゝには纔わづかに機関雑誌きくわんざつしの変遷へんせんを略叙りやくじよしたので、それも一向いつかう要領えうりやうを得えませんが、お話を為する用意が無かつたのですから、這麼こんな事ことで御免ごめんを蒙かふむります、

(明治34年1月1日「新小説」第6年第1巻)

底本:「明治の文学 第6巻 尾崎紅葉」筑摩書房

   2001(平成13)年2月20日初版第1刷発行

底本の親本:「紅葉全集 第十巻」岩波書店

   1994(平成6)年11月

※佃速記事務所員筆記

※文字遣い・仮名遣いの誤用・不統一は底本のままとしました。

入力:門田裕志

校正:多羅尾伴内

2004年11月24日作成

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