伊勢之巻
泉鏡花



 昔男と聞く時は、今も床ゆかしき道中姿。その物語に題は通えど、これは東あずまの銭なしが、一年ひととせ思いたつよしして、参宮を志し、霞かすみとともに立出でて、いそじあまりを三河国みかわのくに、そのから衣、ささおりの、安弁当の鰯いわしの名に、紫はありながら、杜若かきつばたには似もつかぬ、三等の赤切符。さればお紺の婀娜あだも見ず、弥次郎兵衛やじろべえが洒落しゃれもなき、初詣ういもうでの思い出草。宿屋の硯すずりを仮寝の床に、路みちの記の端に書き入れて、一寸ちょいと御見ごけんに入れたりしを、正綴ほんとじにした今度の新版、さあさあかわりました双六すごろくと、だませば小児衆こどもしゅも合点せず。伊勢は七度ななたびよいところ、いざ御案内者で客を招けば、おらあ熊野へも三度目みたびめじゃと、いわれてお供に早がわり、いそがしかりける世渡りなり。

  明治三十八乙巳年十月吉日

鏡花


一


「はい、貴客あなたもしお熱いのを、お一つ召上りませぬか、何ぞお食あがりなされて下さりまし。」

 伊勢国古市ふるいちから内宮ないぐうへ、ここぞ相あいの山の此方こなたに、灯ともしびの淋しい茶店。名物赤福餅あかふくもちの旗、如月きさらぎのはじめ三日の夜嵐に、はたはたと軒を揺ゆすり、じりじりと油が減って、早や十二時に垂なんなんとするのに、客はまだ帰りそうにもしないから、その年紀頃としごろといい、容子ようすといい、今時の品の可いい学生風、しかも口数を利かぬ青年なり、とても話対手はなしあいてにはなるまい、またしないであろうと、断念あきらめていた婆ば々ばが、堪たまり兼ねてまず物優しく言葉をかけた。

 宵から、灯も人声も、往来ゆききの脚も、この前あたりがちょうど切目で、後へ一町、前へ三町、そこにもかしこにも両側の商家軒を並べ、半襟と前垂まえだれの美しい、姐ねえさんが袂たもとを連ねて、式かたのごとく、お茶あがりまし、お休みなさりまし、お飯まんま上りまし、お饂飩うどんもござりますと、媚なまめかしく呼ぶ中を、頬冠ほっかむりやら、高帽やら、菅笠すげがさを被かぶったのもあり、脚絆きゃはんがけに借下駄かりげたで、革鞄かばんを提げたものもあり、五人づれやら、手を曳ひいたの、一人で大手を振るもあり、笑い興ずるぞめきに交まじって、トンカチリと楊弓ようきゅう聞え、諸白もろはくを燗かんする家やごとの煙、両側の廂ひさしを籠こめて、処柄ところがらとて春霞はるがすみ、神風に靉靆たなびく風情、灯ひの影も深く、浅く、奥に、表に、千鳥がけに、ちらちらちらちら、吸殻も三ツ四ツ、地つちに溢こぼれて真赤まっかな夜道を、人脚繁しげき賑にぎやかさ。

 花の中なる枯木こぼくと観じて、独り寂寞じゃくまくとして茶を煮る媼おうな、特にこの店に立寄る者は、伊勢平氏の後胤こういんか、北畠きたばたけ殿の落武者か、お杉お玉の親類の筈はずを、思いもかけぬ上客じょうかく一人にん、引手夥多ひくてあまたの彼処かしこを抜けて、目の寄る前途さきへ行ゆき抜けもせず、立寄ってくれたので、国主こくしゅに見出みいだされたほど、はじめ大喜びであったのが、灯あかりが消え、犬が吠ほえ、こうまた寒い風を、欠伸あくびで吸うようになっても、まだ出掛けそうな様子も見えぬので。

「いかがでございます、お酌しゃくをいたしましょうか。」

「いや、構わんでも可いい、大層お邪魔をするね。」

 ともの優しい、客は年の頃二十八九、眉目秀麗びもくしゅうれい、瀟洒しょうしゃな風采ふうさい、鼠ねずの背広に、同一おなじ色の濃い外套がいとうをひしと絡まとうて、茶の中折なかおれを真深う、顔を粛つつましげに、脱がずにいた。もしこの冠物かむりものが黒かったら、余り頬ほおが白くって、病人らしく見えたであろう。

 こっくりした色に配してさえ、寒さのせいか、屈託でもあるか、顔の色が好よくないのである。銚子ちょうしは二本ばかり、早くから並んでいるのに。

 赤福の餅もちの盆、煮染にしめの皿も差置いたが、猪口ちょくも数を累かさねず、食べるものも、かの神路山かみじやまの杉箸すぎばしを割ったばかり。

 客は丁字形ていじけいに二つ並べた、奥の方の縁台に腰をかけて、掌てのひらで項うなじを圧おさえて、俯向うつむいたり、腕を拱こまぬいて考えたり、足を投げて横ざまに長くなったり、小さなしかも古びた茶店の、薄暗い隅なる方かたに、その挙動ふるまいも朦朧もうろうとして、身動みうごきをするのが、余所目よそめにはまるで寝返ねがえりをするようであった。

 また寝られてなろうか!

「あれ、お客様まだこっちのお銚子もまるでお手が着きませぬ。」

 と婆々は片づけにかかる気で、前の銚子を傍かたえへ除のけようとして心付く、まだずッしりと手に応こたえて重い。

「お燗を直しましょうでござりますか。」

 顔を覗のぞき込むがごとくに土間に立った、物腰のしとやかな、婆々は、客の胸のあたりへその白髪頭しらがあたまを差出したので、面おもてを背けるようにして、客は外との方かたを視ながめると、店頭みせさきの釜かまに突込んで諸白の燗をする、大きな白丁はくちょうの、中が少くなったが斜めに浮いて見える、上なる天井から、むッくりと垂れて、一つ、くるりと巻いたのは、蛸たこの脚、夜の色濃こまやかに、寒さに凍いてたか、いぼが蒼あおい。


二


 涼しい瞳ひとみを動かしたが、中折なかおれの帽の庇ひさしの下から透すかして見た趣で、

「あれをちっとばかりくれないか。」と言ってまた面おもてを背けた。

 深切な婆ば々ばは、膝ひざのあたりに手を組んで、客の前に屈かがめていた腰を伸のして、指ゆびさされた章魚たこを見上げ、

「旦那様だんなさま、召上りますのでござりますか。」

「ああ、そして、もう酒は沢山だから、お飯まんまにしよう。」

「はいはい、……」

 身を起して背向うしろむきになったが、庖丁ほうちょうを取出すでもなく、縁台の彼方あなたの三畳ばかりの住居すまいへ戻って、薄い座蒲団ざぶとんの傍かたわらに、散ちらばったように差置いた、煙草たばこの箱と長煙管ながぎせる。

 片手でちょっと衣紋えもんを直して、さて立ちながら一服吸いつけ、

「旦那え。」

「何だ。」

「もう、お無駄でござりまするからお止よしなさりまし、第一あれは余り新しゅうないのでござります。それにお見受け申しました処、そうやって御酒ごしゅもお食あがりなさりませず、滅多に箸はしをお着けなさりません。何ぞ御都合がおありなさりまして、私わしどもにお休み遊ばします。時刻ときが経たちまするので、ただ居てはと思召おぼしめして、婆々に御馳走ごちそうにあなた様、いろいろなものをお取り下さりますように存じます、ほほほほほ。」

 笑わらいとともに煙を吹き、

「いいえ、お一人のお客様には難有過ありがたすぎましたほど儲もうかりましてございまする。大抵のお宿銭ぐらい頂戴をいたします勘定でござりますから、私わたくしどもにもう一室ひとま、別座敷でもござりますなら、お宿を差上げたい位に、はい、もし、存じまするが、旦那様。」

 婆々は框かまちに腰を下して、前垂まえだれに煙草の箱、煙管を長く膝にしながら、今こう謂いわれて、急に思い出したように、箸の尖さきを動かして、赤福の赤きを顧みず、煮染にしめの皿の黒い蒲鉾かまぼこを挟んだ、客と差向いに、背屈せこごみして、

「旦那様、決してあなた、勿体もったいない、お急立せきたて申しますわけではないのでござりますが、もし、お宿はお極きまり遊ばしていらっしゃいますかい。」

 客はものいわず。

「一旦いったんどこぞにお宿をお取りの上に、お遊びにお出掛けなさりましたのでござりますか。」

「何、山田の停車場ステエションから、直ぐに、右内宮道ないぐうみちとある方へ入って来たんだ。」

「それでは、当伊勢はお馴なれ遊ばしたもので、この辺には御親類でもおありなさりますという。──」と、婆々は客の言尻ことばじりについて見たが、その実、土地馴れぬことは一目見ても分るのであった。

「どうして、親類どころか、定宿じょうやどもない、やはり田舎ものの参宮さ。」

「おや!」

 と大きく、

「それでもよく乗越しておいでなさりましたよ。この辺までいらっしゃいます前には、あの、まあ、伊勢へおいで遊ばすお方に、山田が玄関なら、それをお通り遊ばして、どうぞこちらへと、お待受けの別嬪べっぴんが、お袖そでを取るばかりにして、御案内申します、お客座敷と申しますような、お褥しとねを敷いて、花を活いけました、古市があるではござりませぬか。」

 客は薄ら寒そうに、これでもと思う状さま、燗かんの出来立できたてのを注ついで、猪口ちょくを唇に齎もたらしたが、匂においを嗅かいだばかりでしばらくそのまま、持つ内に冷つめたくなるのを、飲む真似まねして、重そうにとんと置き、

「そりゃ何だろう、山田からずッと入ると、遠くに二階家を見たり、目の前に茅葺かやぶきが顕あらわれたり、そうかと思うと、足許あしもとに田の水が光ったりする、その田圃たんぼも何となく、大おおきな庭の中にわざと拵こしらえた景色のような、なだらかな道を通り越すと、坂があって、急に両側が真赤まっかになる。あすこだろう、店頭みせさきの雪洞ぼんぼりやら、軒提灯のきぢょうちんやら、そこは通った。」


三


「はい、あの軒ごと、家やごと、向むこう三軒両隣と申しました工合ぐあいに、玉転たまころがし、射的だの、あなた、賭的かけまとがござりまして、山のように積んだ景物の数ほど、灯あかりが沢山点つきまして、いつも花盛りのような、賑にぎやかな処でござります。」

 客は火鉢に手を翳かざし、

「どの店にも大きな人形を飾ってあるじゃないか、赤い裲襠しかけを着た姐様ねえさんもあれば、向う顱巻はちまきをした道化もあるし、牛若もあれば、弥次郎兵衛やじろべえもある。屋根へ手をかけそうな大蛸おおだこが居るかと思うと、腰蓑こしみので村雨むらさめが隣の店に立っているか、下駄屋にまで飾ったな。皆みんな極彩色だね。中にあの三間間口げんまぐち一杯の布袋ほていが小山のような腹を据えて、仕掛けだろう、福相な柔和な目も、人形が大きいからこの皿ぐらいあるのを、ぱくりと遣やっちゃ、手に持った団扇うちわをばさりばさり、往来を煽あおいで招くが、道幅の狭い処へ、道中双六どうちゅうすごろくで見覚えの旅の人の姿が小さいから、吹飛ばされそうです。それに、墨の法衣ころもの絵具が破れて、肌の斑兀まだらはげの様子なんざ、余程凄すごい。」

「招まねきも善悪よしあしでござりまして、姫方や小児衆こどもしゅうは恐こわいとおっしゃって、旅籠屋はたごやで魘うなされるお方もござりますそうでござりまする。それではお気味が悪くって、さっさと通り抜けておしまいなされましたか。」

「詰つまらないことを。」

 客は引緊ひきしまった口許くちもとに微笑した。

「しかし、土地にも因るだろうが、奥州の原か、飛騨ひだの山で見た日には、気絶をしないじゃ済むまいけれど、伊勢というだけに、何しろ、電信柱に附着くッつけた、ペンキ塗ぬりの広告まで、土佐絵を見るような心持のする国だから、赤い唐縮緬とうちりめんを着た姐さんでも、京人形ぐらいには美しく見える。こっちへ来るというので道中も余所よそとは違って、あの、長良川、揖斐川いびがわ、木曾川の、どんよりと三条みすじ並んだ上を、晩方通ったが、水が油のようだから、汽車の音もしないまでに、鵲かささぎの橋を辷すべって銀河あまのがわを渡ったと思った、それからというものは、夜に入いってこの伊勢路へかかるのが、何か、雲の上の国へでも入るようだったもの、どうして、あの人形に、心持を悪くしてなるものか。」

「これは、旦那様だんなさまお世辞の可いい、土地を賞ほめられまして何より嬉しゅうござります。で何でござりまするか、一刻も早く御参詣ごさんけいを遊ばそう思召おぼしめしで、ここらまで乗切っていらっしゃいました?」

「そういうわけでもないが、伊勢音頭を見物するつもりもなく、古市より相の山、第一名が好いいではないか、あいの山。」

 客は何思いけん手を頬ほおにあてて、片手で弱々と胸を抱いだいたが、

「お婆ばあさん、昔から聞馴染ききなじみの、お杉お玉というのは今でもあるのか。」

「それはござりますよ。ついこの前途さきをたらたらと上りました、道で申せばまず峠のような処に観世物みせものの小屋がけになって、やっぱり紅白粉べにおしろいをつけましたのが、三味線さみせんでお鳥目ちょうもくを受けるのでござります、それよりは旦那様、前方さきに行って御覧じゃりまし、川原に立っておりますが、三十人、五十人、橋を通行ゆききのお方から、お銭あしの礫つぶてを投げて頂いて、手ン手に長棹ながざおの尖さきへ網を張りましたので、宙で受け留めまするが、秋口蜻蛉とんぼの飛びますようでござります。橋の袂たもとには、女房達が、ずらりと大地に並びまして、一文二文に両換りょうがえをいたします。さあ、この橋が宇治橋と申しまして、内宮様ないぐうさまへ入口でござりまする。川は御存じの五十鈴川いすずがわ、山は神路山かみじやま。その姿の優しいこと、気高いこと、尊いこと、清いこと、この水に向うて立ちますと、人膚ひとはだが背後うしろから皮を透とおして透いて見えます位、急にも流れず、淀よどみもしませず、浪なみの立つ、瀬というものもござりませぬから、色も、蒼あおくも見えず、白くも見えず、緑の淵ふちにもなりませず、一様に、真ほんの水色というのでござりましょ。

 渡りますと、それから三千年の杉の森、神代かみよから昼も薄暗い中を、ちらちらと流れまする五十鈴川を真中まんなかに、神路山が裹つつみまして、いつも静しずかに、神風がここから吹きます、ここに白木造しろきづくりの尊いお宮がござりまする。」


四


「内宮ないぐうでいらっしゃいます。」

 婆ば々ばは掌てを挙げて白髪の額に頂き、

「何事のおわしますかは知らねども、忝かたじけなさに涙こぼるる、自然ひとりでに頭つむりが下りまする。お帰りには二見ふたみヶ浦、これは申上げるまでもござりませぬ、五十鈴川の末、向うの岸、こっちの岸、枝の垂れた根上り松に纜もやいまして、そこへ参る船もござります。船頭たちがなぜ素袍すおうを着て、立烏帽子たてえぼしを被かぶっていないと思うような、尊い川もござりまする、女の曳ひきます俥くるまもござります、ちょうど明日は旧の元日。初日の出、」

 いいかけて急に膝ひざを。

「おお、そういえば旦那様だんなさま、お宿はどうなさります思召おぼしめし。

 成程、おっしゃりました名の通とおり、あなた相の山までいらっしゃいましたが、この前方さきへおいでなさりましても、佳いい宿はござりません。後方あとの古市ふるいちでござりませんと、旦那様方がお泊りになりまする旅籠はござりませんが、何にいたしました処で、もし、ここのことでござりまする、必ず必ずお急せき立て申しますではないのでござりまするけれども、お早く遊ばしませぬと、お泊とまりが難しゅうござりますので。

 はい、いつもまあこうやって、大神宮様のお庇かげで、繁昌はんじょうをいたしまするが、旧の大晦日おおみそかと申しますと、諸国の講中こうじゅう、道者どうじゃ、行者ぎょうじゃの衆しゅ、京、大阪は申すに及びませぬ、夜一夜、古市でお籠こもりをいたしまして、元朝、宇治橋を渡りまして、貴客あなた、五十鈴川で嗽手水うがいちょうず、神路山を右に見て、杉の樹立こだちの中を出て、御廟おたまやの前でほのぼのと白しらみますという、それから二見ヶ浦へ初日の出を拝みに廻られまする、大層な人数。

 旦那様お通りの時分には、玉ころがしの店、女郎屋の門かどなどは軒並のきなみ戸が開あいておりましてございましょうけれども、旅籠屋は大抵戸を閉めておりましたことと存じまする。

 どの家も一杯で、客が受け切れませんのでござります。」

 婆々はひしひし、大手の木戸に責め寄せたが、

「しかし貴客あなた、三人、五人こぼれますのは、旅籠はたごやでも承知のこと、相宿でも間に合いませぬから、廊下のはずれの囲かこいだの、数寄すきな四阿あずまやだの、主人あるじの住居すまいなどで受けるでござりますよ。」

 と搦手からめてを明けて落ちよというなり。

 けれども何の張合もなかった、客は別に騒ぎもせず、さればって聞棄ききずてにもせず、何なんの機会きっかけもないのに、小形の銀の懐中時計をぱちりと開けて見て、無雑作に突込つッこんで、

「お婆さん、勘定だ。」

「はい、あなた、もし御飯おまんまはいかがでござります。」

 客は仰向あおむいて、新あらたに婆々の顔を見て莞爾かんじとした。

「いや、実は余り欲しくない。」

「まあ、ソレ御覧ごろうじまし、それだのに、いかなこッても、酢蛸すだこを食あがりたいなぞとおっしゃって、夜遊びをなすって、とんだ若様でござります。どうして婆々が家の一膳飯いちぜんめしがお口に合いますものでござります。ほほほほ。」

「時に、三由屋みよしやという旅籠はあるね。」

「ええ、古市一番の旧家で、第一等の宿屋でござります。それでも、今夜あたりは大層なお客ひとでござりましょ。あれこれとおっしゃっても、まず古市では三由屋で、その上に講元こうもとのことでござりまするから、お客は上中下とも一杯でござります。」

「それは構わん。」といって客は細く組違えていた膝を割って、二ツばかり靴の爪尖つまさきを踏んで居直った。

「まあ、何ということでござります、それでは気を揉もむではなかったに、先へ誰方どなたぞお美しいのがいらしって、三由屋でお待受けなのでござりますね。わざと迷児まいごになんぞおなり遊ばして、可ようござります、翌日あすは暗い内から婆々が店頭みせさきに張番をして、芸妓げいこさんとでも腕車くるまで通って御覧じゃい、お望のぞみの蛸の足を放りつけて上げますに。」と煙草きせるを下へ、手で掬すくって、土間から戸外そとへ、……や……ちょっと投げた。トタンに相の山から戻腕車もどりぐるま、店さきを通りかかって、軒にはたはたと鳴る旗に、フト楫かじを持ったまま仰いで留とまる。

「車夫くるまや。」

「はい。」と媚なまめかしい声、婦人おんなが、看板をつけたのであった、古市組合。


五


「はッ。」

 古市ふるいちに名代なだいの旅店、三由屋みよしやの老番頭、次の室まの敷居際にぴたりと手をつき、

「はッ申上げまするでございまする。」

 上段の十畳、一点の汚よごれもない、月夜のような青畳、紫縮緬むらさきちりめんふッくりとある蒲団ふとんに、あたかもその雲に乗ったるがごとく、菫すみれの中から抜けたような、装よそおいを凝こらした貴夫人一人。さも旅疲たびづかれの状さま見えて、鼠地ねずみじの縮緬に、麻の葉鹿かの子の下着の端、媚なまめかしきまで膝ひざを斜ななめに、三枚襲さんまいがさねで着痩きやせのした、撫肩なでがたの右を落して、前なる桐火桶きりひおけの縁に、引ひきつけた火箸ひばしに手をかけ、片手を細ほっそりと懐にした姿。衣紋えもんの正しく、顔の気高きに似ず、見好みよげに過ぎて婀娜あだめくばかり。眉の鮮かさ、色の白さに、美しき血あり、清き肌ある女性にょしょうとこそ見ゆれ、もしその黒髪の柳濃く、生際はえぎわの颯さっと霞かすんだばかりであったら、画えがける幻と誤るであろう。袖口そでくち、八口やつくち、裳もすそを溢こぼれて、ちらちらと燃ゆる友染ゆうぜんの花の紅くれないにも、絶えず、一叢ひとむらの薄雲がかかって、淑つつましげに、その美を擁護するかのごとくである。

 岐阜ぎふ県××町、──里見稲子さとみいなこ、二十七、と宿帳に控えたが、あえて誌しるすまでもない、岐阜の病院の里見といえば、家族雇人やからうから一同神のごとくに崇拝する、かつて当家の主人あるじが、難病を治した名医、且つ近頃三由屋が、株式で伊勢の津つに設立した、銀行の株主であるから。

 晩景、留守を預るこの老番頭にあてて、津に出張中の主人あるじから、里見氏の令夫人参宮あり、丁寧に宿を参らすべき由、電信があったので、いかに多数の客があっても、必ず、一室ひとまを明けておく、内証の珍客のために控えの席へ迎え入れて、滞とどこおりなく既に夕餉ゆうげを進めた。

 されば夫人が座の傍かたわら、肩掛、頭巾ずきんなどを引掛ひっかけた、衣桁いこうの際きわには、萌黄もえぎの緞子どんすの夏衾なつぶすま、高く、柔かに敷設けて、総附ふさつきの塗枕ぬりまくら、枕頭まくらもとには蒔絵まきえものの煙草盆たばこぼん、鼻紙台も差置いた、上に香炉を飾って、呼鈴よびりんまで行届ゆきとどき、次の間の片隅には棚を飾って、略式ながら、薄茶の道具一通。火鉢には釜かまの声、遥はるかに神路山の松に通い、五十鈴川の流ながれに応じて、初夜も早や過ぎたる折から、ここの行燈あんどうとかしこのランプと、ただもう取交とりかえるばかりの処。

「ええ、奥方様、あなた様にお客にござりまして。」

 優しい声で、

「私に、」と品よく応じた。

「はッ、あなた様にお客来きゃくらいにござりまする。」

 夫人はしとやかに、

「誰方どなただね、お名札なふだは。」

「その儀にござりまする。お名札をと申しますと、生憎あいにく所持せぬ、とかようにおっしゃいまする、もっともな、あなた様お着つきが晩おそうござりましたで、かれこれ十二時。もう遅うござりますに因って、御一人旅の事ではありまするし、さようなお方は手前どもにおいでがないと申して断りましょうかとも存じましたなれども、たいせつなお客様、またどのような手落になりましても相成らぬ儀と、お伺いに罷出まかりでましてござりまする。」

 番頭は一大事のごとく、固くなって、御意を得ると、夫人は何事もない風情、

「まあ、何とおっしゃる方。」

「はッ立花様。」

「立花。」

「ええ、お少わかいお人柄な綺麗きれいな方でおあんなさいまする。」

「そう。」と軽かろくいって、莞爾にっこりして、ちょっと膝を動かして、少し火桶を前へ押して、

「ずんずんいらっしゃれば可いいのに、あの、お前さん、どうぞお通し下さい。」

「へい、宜よろしゅうござりますか。」

 頤おとがいの長い顔をぼんやりと上げた、余り夫人の無雑作なのに、ちと気抜けの体ていで、立揚たちあがる膝が、がッくり、ひょろりと手をつき、苦笑にがわらいをして、再び、

「はッ。」


六


 やがて入交いりかわって女中が一人いちにん、今夜の忙しさに親類の娘が臨時手伝という、娘柄こがらの好いい、爪つまはずれの尋常なのが、

「御免遊ばしまし、あの、御支度はいかがでございます。」

 夫人この時は、後毛おくれげのはらはらとかかった、江戸紫の襟に映る、雪のような項うなじを此方こなたに、背向うしろむきに火桶ひおけに凭掛よりかかっていたが、軽かろく振向き、

「ああ、もう出来てるよ。」

「へい。」と、その意を得ない様子で、三指みつゆびのまま頭つむりを上げた。

 事もなげに、

「床なんだろう。」

「いいえ、お支度でございますが。」

「御飯かい。」

「はい。」

「そりゃお前まい疾とうに済んだよ。」と此方こなたも案外な風情、余あまりの取込とりこみにもの忘れした、旅籠屋はたごやの混雑が、おかしそうに、莞爾にっこりする。

 女中はまた遊ばれると思ったか、同じく笑い、

「奥様、あの唯今ただいまのお客様のでございます。」

「お客だい、誰も来やしないよ、お前まい。」と斜めに肩ごしに見遣みやったまま打棄うっちゃったようにもののすッきり。かえす言ことばもなく、

「おや、おや。」と口の中うち、女中は極きまりの悪そうに顔を赤らめながら、変な顔をして座中を眗みまわすと、誰も居ないで寂しんとして、釜かまの湯がチンチン、途切れてはチンという。

 手持不沙汰てもちぶさたに、後退あとじさりにヒョイと立って、ぼんやりとして襖ふすまがくれ、

「御免なさいまし。」と女中、立消えの体ていになる。

 見送りもせず、夫人はちょいと根の高い円髷まるまげの鬢びんに手を障さわって、金蒔絵きんまきえの鼈甲べっこうの櫛くしを抜くと、指環ゆびわの宝玉きらりと動いて、後毛を掻撫かいなでた。

 廊下をばたばた、しとしとと畳ざわり。襖に半身を隠して老番頭、呆れ顔の長いのを、擡もたげるがごとく差出したが、急込せきこんだ調子で、

「はッ。」

 夫人は蒲団ふとんに居直り、薄い膝に両手をちゃんと、媚なまめかしいが威儀正しく、

「寝ますから、もうお構いでない、お取込の処を御厄介ねえ。」

「はッはッ。」

 遠くから長廊下を駈かけて来た呼吸いきづかい、番頭は口に手を当てて打咳うちしわぶき、

「ええ、混雑ごたごたいたしまして、どうも、その実に行届ゆきとどきません、平ひらに御勘弁下さいまして。」

「いいえ。」

「もし、あなた様、希有けうでござります。確かたった今、私わたくしが、こちらへお客人をお取次申しましてござりましてござりまするな。」

「そう、立花さんという方が見えたってお謂いいだったよ。どうかしたの。」

「へい、そこで女どもをもちまして、お支度の儀を伺わせました処、誰方どなたもお見えなさりませんそうでござりまして。」

「ああ、そう、誰もいらっしゃりやしませんよ。」

「はてな、もし。」

「何なの、お支度ッて、それじゃ、今着いた人なんですか、内に泊ってでもいて、宿帳で、私のいることを知ったというような訳ではなくッて?」

「何、もう御覧の通とおり、こちらは中庭を一ツ、橋懸はしがかりで隔てました、一室ひとま別段のお座敷でござりますから、さのみ騒々しゅうもございませんが、二百余りの客でござりますで、宵の内はまるで戦争いくさ、帳場の傍はたにも囲炉裡いろりの際きわにも我勝われがちで、なかなか足腰も伸びません位、野陣のじん見るようでござりまする。とてもどうもこの上お客の出来る次第ではござりませんので、早く大戸を閉めました。帳場はどうせ徹夜よあかしでござりますが、十二時という時、腕車くるまが留まって、門かどをお叩きなさいまする。」


七


「お気の毒ながらと申して、お宿を断らせました処、連つれが来て泊っている。ともかくも明けい、とおっしゃりますについて、あの、入口の、たいてい原ほどはござります、板の間が、あなた様、道者衆どうじゃしゅうで充満いっぱいで、足踏あしぶみも出来ません処から、框かまちへかけさせ申して、帳場の火鉢を差上げましたような次第で、それから貴女様あなたさまがお泊りの筈はず、立花が来たと伝えくれい、という事でござりまして。

 早速お通し申しましょうかと存じましたなれども、こちら様はお一方ひとかた、御婦人でいらっしゃいます事ゆえ念のために、私わたくしお伺いに出ました儀で、直ぐにという御意にござりましたで、引返ひっかえして、御案内。ええ、唯今ただいまの女が、廊下をお連れ申したでござります。

 女が、貴女様このお部屋へ、その立花様というのがお入り遊ばしたのを見て、取って返しましたで、折返して、お支度の程を伺わせに唯今差出しました処、何か、さような者は一向お見えがないと、こうおっしゃいます。またお座敷には、奥方様の他ほかに誰方どなたもおいでがないと、目を丸くして申しますので、何を寝惚ねぼけおるぞ、汝てまえが薄眠い顔をしておるで、お遊びなされたであろ、なぞと叱言こごとを申しましたが、女いいまするには、なかなか、洒落しゃれを遊ばす御様子ではないと、真顔でござりますについて、ええ、何より証拠、土間を見ましてございます。」

 いいかけて番頭、片手敷居越に乗出して、

「トその時、お上あがりになったばかりのお穿物はきものが見えませぬ、洋服でおあんなさいましたで、靴にござりますな。

 さあ、居合せましたもの総立そうだちになって、床下まで覗のぞきましたが、どれも札をつけて預りました穿物ばかり、それらしいのもござりませぬで、希有けうじゃと申出しますと、いや案内に立った唯今の女は、見す見す廊下をさきへ立って参ったというて、蒼あおくなって震えまするわ。

 太いこう恐こわがりましてこちらへよう伺えぬと申しますので、手前駈出かけだして参じましたが、いえ、もし全くこちら様へは誰方もおいでなさりませぬか。」と、穏おだやかならぬ気色である。

 夫人、するりと膝をずらして、後へ身を引き、座蒲団の外へ手の指を反そらして支つくと、膝を辷すべった桃色の絹のはんけちが、褄つまの折端おりはしへはらりと溢こぼれた。

「厭いやだよ、串戯じょうだんではないよ、穿物がないんだって。」

「御意にござりまする。」

「おかしいねえ。」と眉をひそめた。夫人の顔は、コオトをかけた衣裄いこうの中に眉暗く、洋燈ランプの光の隈くまあるあたりへ、魔のかげがさしたよう、円髷まげの高いのも艶々つやつやとして、そこに人が居そうな気勢けはいである。

 畳から、手をもぎ放すがごとくにして、身を開いて番頭、固くなって一呼吸ひといきつき、

「で、ござりまするなあ。」

「お前、そういえば先刻さっき、ああいって来たもんだから、今にその人が見えるだろうと、火鉢の火なんぞ、突つッついていると、何なの、しばらくすると、今の姐ねえさんが、ばたばた来たの。次の室まのそこへちらりと姿を見せたっけ、私はお客が来たと思って、言ことばをかけようとする内に、直ぐ忙せわしそうに出て行って、今度来た時には、突然いきなり、お支度はって、お聞きだから、変だと思って、誰も来やしないものを。」とさも訝いぶかしげに、番頭の顔を熟じっと見ていう。

 いよいよ、きょとつき、

「はてさて、いやどうも何でござりまして、ええ、廊下を急足いそぎあしにすたすたお通んなすったと申して、成程、跫音あしおとがしなかったなぞと、女は申しますが、それは早や、気のせいでござりましょう。なにしろ早足で廊下を通りなすったには相違ござりませぬ、さきへ立って参りました女が、せいせい呼吸いきを切って駈けまして、それでどうかすると、背後うしろから、そのお客の身体からだが、ぴったり附着くッつきそうになりまする。」

 番頭は気がさしたか、密そっと振返って背後うしろを見た、釜かまの湯は沸たぎっているが、塵ちり一つ見当らず、こういう折には、余りに広く、且つ余りに綺麗きれいであった。

「それがために二三度、足が留まりましたそうにござりまして。」


八


「中にはその立花様とおっしゃるのが、剽軽ひょうきんな方で、一番ひとつ三由屋をお担ぎなさるのではないかと、申すものもござりまするが、この寒いに、戸外おもてからお入りなさったきり、洒落しゃれにかくれんぼを遊ばす陽気ではござりません。殊に靴までお隠しなさりますなぞは、ちと手重ておも過ぎまするで、どうも変でござりまするが、お年紀頃としごろ、御容子ごようすは、先刻さっき申上げましたので、その方に相違ござりませぬか、お綺麗な、品の可いい、面長おもながな。」

「全く、そう。」

「では、その方は、さような御串戯ごじょうだんをなさる御人体ごじんていでござりますか、立花様とおっしゃるのは。」

「いいえ、大人おとなしい、沢山たんと口もきかない人、そして病人なの。」

 そりゃこそと番頭。

「ええ。」

「もう、大したことはないんだけれど、一時ひとしきりは大病でね、内の病院に入っていたんです。東京で私が姉妹きょうだいのようにした、さるお嬢さんの従兄子いとこでね、あの美術、何、彫刻師ほりものしなの。国々を修行に歩行あるいている内、養老の滝を見た帰りがけに煩って、宅で養生をしたんです。二月ばかり前から、大層、よくなったには、よくなったんだけれど、まだ十分でないッていうのに、肯きかないでまた旅へ出掛けたの。

 私が今日こちらへ泊って、翌朝あしたお参まいりをするッてことは、かねがね話をしていたから、大方旅行先たびさきから落合って来たことと思ったのに、まあ、お前、どうしたというのだろうね。」

「はッ。」

 というと肩をすぼめて首こうべを垂れ、

「これは、もし、旅で御病気かも知れませぬ。いえ、別に、貴女様あなたさまお身体からだに仔細しさいはござりませぬが、よくそうしたことがあるものにござります。はい、何、もうお見上げ申しましたばかりでも、奥方様、お身のまわりへは、寒い風だとて寄ることではござりませぬが、御帰宅の後はおこころにかけられて、さきざきお尋ね遊ばしてお上げなされまし、これはその立花様とおっしゃる方が、親御、御兄弟より貴女様を便りに遊ばしていらっしゃるに相違ござりませぬ。」

 夫人はこれを聞くうちに、差俯向さしうつむいて、両方引合せた袖口そでくちの、襦袢じゅばんの花に見惚みとれるがごとく、打傾いて伏目ふしめでいた。しばらくして、さも身に染みたように、肩を震わすと、後毛おくれげがまたはらはら。

「寒くなった、私、もう寝るわ。」

「御寝ぎょしなります、へい、唯今ただいま女中おんなを寄越しまして、お枕頭まくらもともまた、」

「いいえ、煙草たばこは飲まない、お火なんか沢山。」

「でも、その、」

「あの、しかしね、間違えて外の座敷へでも行っていらっしゃりはしないか、気をつけておくれ。」

「それはもう、きっと、まだ、方々見させてさえござりまする。」

「そうかい、此家うちは広いから、また迷児まいごにでもなってると悪い、可愛い坊ちゃんなんだから。」とぴたりと帯に手を当てると、帯しめの金金具きんかなぐが、指の中でパチリと鳴る。

 先刻さっきから、ぞくぞくして、ちりけ元は水のような老番頭、思いの外、女客の恐れぬを見て、この分なら、お次へ四天王にも及ぶまいと、

「ええ、さようならばお静しずかに。」

「ああ、御苦労でした。」と、いってすッと立つ、汽車の中からそのままの下じめがゆるんだか、絹足袋の先へ長襦袢、右の褄つまがぞろりと落ちた。

「お手水ちょうず。」

「いいえ、寝るの。」

「はッ。」と、いうと、腰を上げざまに襖ふすまを一枚、直ぐに縁側へ辷すべって出ると、呼吸いきを凝こらして二人ばかり居た、恐こわいもの見たさの徒てあい、ばたり、ソッと退のく気勢けはい。

「や。」という番頭の声に連れて、足も裾すそも巴ともえに入乱るるかのごとく、廊下を彼方あなたへ、隔ってまた跫音あしおと、次第に跫音。この汐しおに、そこら中の人声を浚さらえて退のいて、果はては遥はるかな戸外おもて二階の突外とっぱずれの角あたりと覚しかった、三味線さみせんの音ねがハタと留やんだ。

 聞澄ききすまして、里見夫人、裳もすそを前へ捌さばこうとすると、うっかりした褄がかかって、引留められたようによろめいたが、衣裄いこうに手をかけ、四辺あたりを眗みまわし、向うの押入をじっと見る、瞼まぶたに颯さっと薄紅梅。


九


 煙草盆たばこぼん、枕まくら、火鉢、座蒲団ざぶとんも五六枚。

(これは物置だ。)と立花は心付いた。

 はじめは押入と、しかしそれにしては居周囲いまわりが広く、破れてはいるが、筵むしろか、畳か敷いてもあり、心持四畳半、五畳、六畳ばかりもありそうな。手入をしない囲かこいなぞの荒れたのを、そのまま押入に遣つかっているのであろう、身を忍ぶのは誂あつらえたようであるが。

(待て。)

 案内をして、やがて三由屋の女中が、見えなくなるが疾はやいか、ものをいうよりはまず唇の戦おののくまで、不義ではあるが思う同士。目を見交みかわしたばかりで、かねて算した通り、一先ひとまず姿を隠したが、心の闇やみより暗かった押入の中が、こう物色の出来得るは、さては目が馴なれたせいであろう。

 立花は、座敷を番頭の立去ったまで、半時ばかりを五六時間、待飽倦まちあぐんでいるのであった。

(まず、可よし。)

 と襖ふすまに密そっと身を寄せたが、うかつに出らるる数すうでなし、言ことばをかけらるる分でないから、そのまま呼吸いきを殺して彳たたずむと、ややあって、はらはらと衣きぬの音信おとない。

 目前めさきへ路みちがついたように、座敷をよぎる留南奇とめぎの薫かおり、ほの床ゆかしく身に染むと、彼方かなたも思う男の人香ひとかに寄る蝶ちょう、処を違たがえず二枚の襖を、左の外、立花が立った前に近づき、

「立花さん。」

「…………」

「立花さん。」

 襖の裏へ口をつけるばかりにして、

「可いいんですか。」

「まだよ、まだ女中が来るッていうから少々、あなた、靴まで隠して来たんですか。」

 表に夫人の打微笑うちほほえむ、目も眉も鮮麗あざやかに、人丈ひとたけに暗やみの中に描かれて、黒髪の輪郭が、細く円髷まげを劃くぎって明あかるい。

 立花も莞爾にっこりして、

「どうせ、騙だますくらいならと思って、外套がいとうの下へ隠して来ました。」

「旨うまく行ったのね。」

「旨く行ゆきましたね。」

「後で私を殺しても可いいから、もうちと辛抱なさいよ。」

「お稲いなさん。」

「ええ。」となつかしい低声こごえである。

「僕は大空腹。」

「どこかで食べて来た筈はずじゃないの。」

「どうして貴方あなたに逢あうまで、お飯まんまが咽喉のどへ入るもんですか。」

「まあ……」

 黙ってしばらくして、

「さあ。」

 手を中へ差入れた、紙包を密そっと取って、その指が搦からむ、手と手を二人。

 隔へだての襖は裏表、両方の肩で圧おされて、すらすらと三寸ばかり、暗き柳と、曇れる花、淋さみしく顔を見合せた、トタンに跫音あしおと、続いて跫音、夫人は衝つと退のいて小さな咳しわぶき。

 さそくに後を犇ひしと閉め、立花は掌たなそこに据えて、瞳ひとみを寄せると、軽く捻ひねった懐紙ふところがみ、二隅ふたすみへはたりと解けて、三ツ美うつくしく包んだのは、菓子である。

 と見ると、白と紅くれないなり。

「はてな。」

 立花は思わず、膝ひざをついて、天井を仰いだが、板か、壁か明かならず、低いか、高いか、定さだかでないが、何となく暗夜やみよの天まで、布一重ひとえ隔つるものがないように思われたので、やや急心せきごころになって引寄せて、袖そでを見ると、着たままで隠れている、外套がいとうの色が仄ほのかに鼠。

 菓子の色、紙の白きさえ、ソレかと見ゆるに、仰げば節穴かと思う明あかりもなく、その上、座敷から、射さし入るような、透間すきまは些すこしもないのであるから、驚いて、ハタと夫人の賜物たまものを落して、その手でじっと眼まなこを蔽おおうた。

 立花は目よりもまず気を判然はっきりと持とうと、両手で顔を蔽う内、まさに人道を破壊しようとする身であると心付いて、やにわに手を放して、その手で、胸を打って、がばと眼まなこを開いた。

 なぜなら、今そうやって跪ひざまずいた体なりは、神に対し、仏に対して、ものを打念うちねんずる時の姿勢であると思ったから。

 あわれ、覚悟の前ながら、最早もはや神仏を礼拝し得べき立花ではないのである。

 さて心がら鬼のごとき目を睜みひらくと、余り強く面おもてを圧していた、ためであろう、襖一重の座敷で、二人ばかりの女中と言葉を交わす夫人の声が、遠く聞えて、遥はるかに且つ幽かすかに、しかも細く、耳の端はたについて、震えるよう。

 それも心細く、その言う処を確めよう、先刻さきに老番頭と語るのをこの隠れ家で聞いたるごとく、自分の居処いどころを安堵あんどせんと欲して、立花は手を伸べて、心覚えの隔ての襖に触れて試みた。

 人の妻と、かかる術すべして忍び合うには、疾とく我がためには、神なく、物なく、父なく、母なく、兄弟なく、名誉なく、生命いのちのないことを悟っていたけれども、ただ世に里見夫人のあるを知って、神仏より、父より、母より、兄弟より、名誉より、生命いのちよりは便たよりにしたのであるが。

 こはいかに掌たなそこは、徒いたずらに空くうを撫なでた。

 慌あわただしく丁ちょうと目の前へ、一杯に十指を並べて、左右に暗やみを掻探かいさぐったが、遮るものは何にもない。

 さては、暗やみの中に暗をかさねて目を塞ふさいだため、脳に方角を失ったのであろうと、まず慰めながら、居直って、今まで前にしたと反対の側を、衝つと今度は腕かいなを差出すようにしたが、それも手ばかり。

 はッと俯向うつむき、両方へ、前後に肩を分けたけれども、ざらりと外套の袖の揺れたるのみ。

 かっと逆上のぼせて、堪たまらずぬっくり突立つッたったが、南無三なむさん物音が、とぎょッとした。

 あッという声がして、女中が襖をと思うに似ず、寂莫せきばくとして、ただ夫人のものいうと響くのが、ぶるぶると耳について、一筋ずつ髪の毛を伝うて動いて、人事不省ふせいならんとする、瞬間に異ならず。

 同時に真直まっすぐに立った足許に、なめし皮の樺色かばいろの靴、宿を欺くため座敷を抜けて持って入ったのが、向うむきに揃っていたので、立花は頭から悚然ぞっとした。

 靴が左から……ト一ツ留とまって、右がその後から……ト前へ越すと、左がちょい、右がちょい。

 たとえば歩行の折から、爪尖つまさきを見た時と同じ状さまで、前途ゆくてへ進行をはじめたので、啊呀あなやと見る見る、二間けん三間げん。

 十間、十五間、一町、半、二町、三町、彼方かなたに隔るのが、どうして目に映るのかと、怪あやしむ、とあらず、歩を移すのは渠かれ自身、すなわち立花であった。

 茫然ぼうぜん。

 世に茫然という色があるなら、四辺あたりの光景は正しくそれ。月もなく、日もなく、樹もなく、草もなく、路みちもない、雲に似て踏みごたえがあって、雪に似て冷つめたからず、朧夜おぼろよかと思えば暗く、東雲しののめかと見れば陰々たる中に、煙草盆、枕、火鉢、炬燵櫓こたつやぐらの形など左右、二列ふたならびに、不揃ぶぞろいに、沢庵たくあんの樽たるもあり、石臼いしうすもあり、俎板まないたあり、灯のない行燈あんどうも三ツ四ツ、あたかも人のない道具市。

 しかもその火鉢といわず、臼といわず、枕といわず、行燈といわず、一斉に絶えず微かすかに揺ゆらいで、国が洪水に滅ぶる時、呼吸いきのあるは悉ことごとく死して、かかる者のみ漾ただよう風情、ただソヨとの風もないのである。


十


 その中うちに最も人間に近く、頼母たのもしく、且つ奇異に感じられたのは、唐櫃からびつの上に、一個八角時計の、仰向あおむけに乗っていた事であった。立花は夢心地にも、何等か意味ありげに見て取ったので、つかつかと靴を近ちかづけて差覗さしのぞいたが、ものの影を見るごとき、四辺あたりは、針の長短と位地を分ち得るまでではないのに、判然はっきりと時間が分った。しかも九時半の処を指して、時計は死んでいるのであるが、鮮明あざやかにその数字さえ算かぞえられたのは、一点、蛍火ほたるびの薄く、そして瞬またたきをせぬのがあって、胸のあたりから、斜ななめに影を宿したためで。

 手を当てると冷つめたかった、光が隠れて、掌たなそこに包まれたのは襟飾えりかざりの小さな宝石、時に別に手首を伝い、雪のカウスに、ちらちらと樹この間から射さす月の影、露の溢こぼれたかと輝いたのは、蓋けだし手釦てぼたんの玉である。不思議と左を見詰めると、この飾もまた、光を放って、腕かいなを開くと胸がまた晃きらめきはじめた。

 この光、ただに身に添うばかりでなく、土に砕け、宙に飛んで、翠みどりの蝶ちようの舞うばかり、目に遮るものは、臼うすも、桶おけも、皆これ青貝摺あおがいずりの器うつわに斉ひとしい。

 一足進むと、歩くに連れ、身の動くに従うて、颯さっと揺れ、溌ぱっと散って、星一ツ一ツ鳴るかとばかり、白銀しろがね黄金こがね、水晶、珊瑚珠さんごじゅ、透間すきまもなく鎧よろうたるが、月に照添うに露違たがわず、されば冥土よみじの色ならず、真珠の流ながれを渡ると覚えて、立花は目が覚めたようになって、姿を、判然はっきりと自分を視ながめた。

 我ながら死して栄はえある身の、こは玉となって砕けたか。待て、人の妻と逢曳あいびきを、と心付いて、首こうべを低たれると、再び真暗まっくらになった時、更に、しかし、身はまだ清らかであると、気を取直して改めて、青く燃ゆる服の飾を嬉しそうに見た。そして立花は伊勢は横幅の渾沌こんとんとして広い国だと思った。宵の内通った山田から相の山、茶店で聞いた五十鈴川、宇治橋も、神路山も、縦に長く、しかも心に透通るように覚えていたので。

 その時、もう、これをして、瞬間の以前、立花が徒いたずらに、黒白あやめも分かず焦り悶もだえた時にあらしめば、たちまち驚いて倒れたであろう、一間ばかり前途ゆくての路に、袂たもとを曳ひいて、厚い袘ふきを踵かかとにかさねた、二人、同一おなじ扮装いでたちの女めの童わらわ。

 竪矢たてやの字の帯の色の、沈んで紅あかきさえ認したためられたが、一度ひとたび胸を蔽おおい、手を拱こまぬけば、たちどころに消えて見えなくなるであろうと、立花は心に信じたので、騒ぐ状さまなくじっと見据えた。

「はい。」

「お迎むかいに参りました。」

 駭然がくぜんとして、

「私を。」

「内方うちかたでおっしゃいます。」

「お召ものの飾から、光の射さすお方を見たら、お連れ申して参りますように、お使つかいでございます。」と交かわる交がわるいって、向合って、いたいたけに袖そでをひたりと立つと、真中まんなかに両方から舁かき据えたのは、その面おもて銀のごとく、四方あたかも漆のごとき、一面の将棋盤。

 白き牡丹ぼたんの大輪なるに、二ツ胡蝶こちょうの狂うよう、ちらちらと捧げて行ゆく。

 今はたとい足許が水になって、神路山の松ながら人肌を通す流ながれに変じて、胸の中に舟を纜もやう、烏帽子えぼし直垂ひたたれをつけた船頭なりとも、乗れとなら乗る気になった。立花は怯おめず、臆おくせず、驚破すわといわば、手釦てぼたん、襟飾を隠して、あらゆるものを見ないでおこうと、胸を据えて、静しずかに女童めのわらわに従うと、空はらはらと星になったは、雲の切れたのではない。霧の晴れたのではない、渠かれが飾れる宝玉の一叢ひとむらの樹立こだちの中へ、倒さかさまに同一おなじ光を敷くのであった。

 ここに枝折戸しおりど。

 戸は内へ、左右から、あらかじめ待設けた二人にんの腰元の手に開かれた、垣は低く、女どもの高髷たかまげは、一対に、地ずれの松の枝より高い。


十一


「どうぞこれへ。」

 椅子いすを差置かれた池の汀みぎわの四阿あずまやは、瑪瑙めのうの柱、水晶の廂ひさしであろう、ひたと席に着く、四辺あたりは昼よりも明あかるかった。

 その時打向うた卓子テエブルの上へ、女めの童わらわは、密そっと件くだんの将棋盤を据えて、そのまま、陽炎かげろうの縺もつるるよりも、身軽に前後して樹の蔭にかくれたが、枝折戸しおりどを開いた侍女こしもとは、二人とも立花の背後うしろに、しとやかに手を膝ひざに垂れて差控えた。

 立花は言葉をかけようと思ったけれども、我を敬うことかくのごときは、打ちつけにものをいうべき次第であるまい。

 そこで、卓子に肱ひじをつくと、青く鮮麗あざやかに燦然さんぜんとして、異彩を放つ手釦てぼたんの宝石を便たよりに、ともかくも駒こまを並べて見た。

 王将、金銀、桂けい、香きょう、飛車、角、九ツの歩ふ、数はかかる境にも異ちがいはなかった。

 やがて、自分のを並べ果てて、対手あいての陣も敷き終る折から、異香ほのぼのとして天上の梅一輪、遠くここに薫るかと、遥はるかに樹この間を洩もれ来る気勢けはい。

 円形の池を大廻りに、翠みどりの水面に小波ささなみ立って、二房ふたふさ三房みふさ、ゆらゆらと藤の浪なみ、倒さかしまに汀みぎわに映ると見たのが、次第に近ちかづくと三人の婦人であった。

 やがて四阿の向うに来ると、二人さっと両方に分れて、同一おなじさまに深く、お太鼓の帯の腰を扱帯しごきも広く屈かがむる中を、静しずかに衝つと抜けて、早や、しとやかに前なる椅子に衣摺きぬずれのしっとりする音。

 と見ると、藤紫に白茶の帯して、白綾しろあやの衣紋えもんを襲かさねた、黒髪の艶つややかなるに、鼈甲べっこうの中指なかざしばかり、ずぶりと通した気高き簾中れんじゅう。立花は品位に打たれて思わず頭かしらが下ったのである。

 ものの情深なさけぶかく優しき声して、

「待遠かったでしょうね。」

 一言いちげんあたかも百雷耳に轟とどろく心地。

「おお、もう駒を並べましたね、あいかわらず性急せっかちね、さあ、貴下あなたから。」

 立花はあたかも死せるがごとし。

「私からはじめますか、立花さん……立花さん……」

 正にこの声、確たしかにその人、我が年紀とし十四の時から今に到るまで一日も忘れたことのない年紀上としうえの女に初恋の、その人やがて都の華族に嫁して以来、十数年間一度ひとたびもその顔を見なかった、絶代ぜつだいの佳人かじんである。立花は涙も出ず、声も出ず、いうまでもないが、幾年月いくとしつき、寝ても覚さめても、夢に、現うつつに、くりかえしくりかえしいかに考えても、また逢う時にいい出づべき言ことばを未いまだ知らずにいたから。

 さりながら、さりながら、

「立花さん、これが貴下あなたの望のぞみじゃないの、天下晴れて私とこの四阿で、あの時分九時半から毎晩のように遊びましたね。その通りにこうやって将棊しょうぎを一度さそうというのが。

 そうじゃないんですか、あら、あれお聞きなさい。あの大勢の人声は、皆みんな、貴下の名誉を慕うて、この四阿へ見に来るのです。御覧なさい、あなたがお仕事が上手になると、望のぞみもかなうし、そうやってお身体からだも輝くのに、何が待遠くって、道ならぬ心を出すんです。

 こうして私と将棊をさすより、余所よその奥さんと不義をするのが望のぞみなの?」

 衝つと手を伸のばして、立花が握りしめた左の拳こぶしを解くがごとくに手を添えつつ、

「もしもの事がありますと、あの方もお可哀かわいそうに、もう活いきてはおられません。あなたを慕って下さるなら、私も御恩がある。そういうあなたが御料簡ごりょうけんなら、私が身を棄すててあげましょう。一所になってあげましょうから、他よその方に心得違こころえちがいをしてはなりません。」と強くいうのが優しくなって、果はては涙になるばかり、念被観音力ねんぴかんのんりき観音の柳の露より身にしみじみと、里見は取られた手が震えた。

 後うしろにも前にも左右にもすくすくと人の影。

「あッ。」とばかり戦わなないて、取去ろうとすると、自若じじゃくとして、

「今では誰が見ても可いいんです、お心が直りましたら、さあ、将棊をはじめましょう。」

 静しずかに放すと、取られていた手がげっそり痩やせて、着た服が広くなって、胸もぶわぶわと皺しわが見えるに、屹きっと目を睜みはる肩に垂れて、渦うずまいて、不思議や、己おのが身は白髪になった、時に燦然さんぜんとして身の内の宝玉は、四辺あたりを照てらして、星のごとく輝いたのである。

 驚いて白髪しらがを握ると、耳が暖く、襖ふすまが明いて、里見夫人、莞爾にっこりして覗込のぞきこんで、

「もう可いいんですよ。立花さん。」

 操は二人とも守り得た。彫刻師はその夜の中うちに、人知れず、暗やみながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現うつつの境の幻の道を行ゆくがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥はるかに美術家の前程を祝した、誰も知らない。

 ただ夫人は一夜ひとよの内に、太いたく面おもやつれがしたけれども、翌日あくるひ、伊勢を去る時、揉合もみあう旅籠屋はたごやの客にも、陸続たる道中にも、汽車にも、かばかりの美女はなかったのである。

明治三十六(一九〇三)年五月

底本:「泉鏡花集成4」ちくま文庫、筑摩書房

   1995(平成7)年10月24日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第七卷」岩波書店

   1942(昭和17)年7月22日発行

※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。

※底本編者による語注は省略しました。

入力:門田裕志

校正:土屋隆

2006年1月30日作成

2020年1月15日修正

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