旧藩情
福沢諭吉



   旧藩情緒言しょげん


一、人の世を渡るはなお舟に乗のって海を渡るがごとし。舟中の人もとより舟と共に運動を與ともにすといえども、動ややもすれば自みずから運動の遅速ちそく方向に心付こころづかざること多し。ただ岸上がんじょうより望観ぼうかんする者にして始はじめてその精密せいみつなる趣おもむきを知るべし。中津なかつの旧藩士も藩と共に運動する者なれども、或は藩中に居いてかえって自みずからその動くところの趣おもむきに心付かず、不知不識しらずしらず以て今日に至りし者も多し。独ひとり余輩よはいは所謂いわゆる藩の岸上に立つ者なれば、望観ぼうかんするところ、或は藩中の士族よりも精密ならんと思い、聊いささかその望観のままを記しるしたるのみ。

一、本書はもっぱら中津旧藩士の情態じょうたいを記しるしたるものなれども、諸藩共に必ず大同小異に過ぎず。或は上士じょうしと下士かしとの軋轢あつれきあらざれば、士族と平民との間に敵意ありて、いかなる旧藩地にても、士民共に利害栄辱えいじょくを與ともにして、公共のためを謀はかる者あるを聞かず。故に世上有志ゆうしの士君子しくんしが、その郷里の事態を憂うれえてこれが処置を工夫くふうするときに当り、この小冊子もまた、或は考案の一助たるべし。

一、旧藩地に私立の学校を設もうくるは余輩よはいの多年企望きぼうするところにして、すでに中津にも旧知事の分禄ぶんろくと旧官員の周旋しゅうせんとによりて一校を立て、その仕組、もとより貧小なれども、今日までの成跡せいせきを以て見れば未いまだ失望の箇条もなく、先ず費ついやしたる財と労とに報むくいる丈だけの功をば奏そうしたるものというべし。蓋けだし廃藩以来、士民が適てきとして帰きするところを失い、或はこれがためその品行を破やぶって自暴自棄じぼうじきの境界きょうがいにも陥おちいるべきところへ、いやしくも肉体以上の心を養い、不覊独立ふきどくりつの景影けいえいだにも論ずべき場所として学校の設もうけあれば、その状、恰あたかも暗黒の夜に一点の星を見るがごとく、たとい明めいを取るに足たらざるも、やや以て方向の大概を知るべし。故に今の旧藩地の私立学校は、啻ただに読書のみならず、別に一種の功能あるものというべし。

 余輩よはい常に思うに、今の諸華族が様々の仕組を設もうけて様々のことに財を費し、様々の憂うれいを憂うれえて様々の奇策きさく妙計みょうけいを運めぐらさんよりも、むしろその財の未いまだ空むなしく消散しょうさんせざるに当あたりて、早く銘々の旧藩地に学校を立てなば、数年の後は間接の功を奏して、華族の私わたくしのためにも藩地の公共のためにも大なる利益あるべしと。これを企望きぼうすること切せつなれども、誰に向むかってその利害りがいを説くべき路みちを知らず。故に今この冊子を記しるして、幸さいわいに華族その他有志者の目に触ふれ、為ために或は学校設立の念を起すことあらば幸甚こうじんというべきのみ。

一、維新いしんの頃より今日に至るまで、諸藩の有様は現に今人こんじんの目撃もくげきするところにして、これを記しるすはほとんど無益むえきなるに似にたれども、光陰こういん矢のごとく、今より五十年を過ぎ、顧かえりみて明治前後日本の藩情如何いかんを詮索せんさくせんと欲するも、茫乎ぼうことしてこれを求もとむるに難かたきものあるべし。故にこの冊子そうし、たとい今日に陳腐ちんぷなるも、五十年の後には却かえって珍奇にして、歴史家の一助たることもあるべし。

  明治十年五月三十日

福沢諭吉 記


   旧藩情きゅうはんじょう


 旧中津なかつ奥平おくだいら藩士はんしの数、上かみ大臣たいしんより下しも帯刀たいとうの者と唱となうるものに至るまで、凡およそ、千五百名。その身分役名を精細に分わかてば百余級の多きに至れども、これを大別たいべつして二等に分つべし。すなわち上等は儒者、医師、小姓組こしょうぐみより大臣たいしんに至り、下等は祐筆ゆうひつ、中小姓なかごしょう旧厩
格
供小姓ともごしょう、小役人こやくにん格より足軽あしがる、帯刀たいとうの者に至り、その数の割合、上等は凡およそ下等の三分一なり。

 上等の内にて大臣と小姓組とを比較し、下等の内にて祐筆ゆうひつと足軽とを比較すれば、その身分の相違もとより大なれども、明あきらかに上下両等の間に分界を画かくすべき事実あり。すなわちその事実とは、

 第一、下等士族は何等なんらの功績こうせきあるも何等の才力を抱いだくも、決して上等の席に昇進しょうしんするを許さず。稀まれに祐筆などより立身して小姓組に入いりたる例もなきに非ざれども、治世ちせい二百五十年の間、三、五名に過ぎず。故に下等士族は、その下等中の黜陟ちゅっちょくに心を関して昇進を求もとむれども、上等に入るの念は、もとよりこれを断絶して、その趣おもむきは走獣そうじゅうあえて飛鳥ひちょうの便利を企望きぼうせざる者のごとし。また前にいえるごとく、大臣と小姓組との身分は大おおいに異ことなるがごとくなれども、小姓組が立身りっしんして用人ようにんとなりし例は珍めずらしからず。大臣の二、三男が家を分わかてば必ず小姓組たるの法なれば、必竟ひっきょう大臣も小姓組も同一種の士族しぞくといわざるを得ず。

 また下等の中小姓なかごしょうと足軽あしがるとの間にも甚はなはだしき区別あれども、足軽が小役人こやくにんに立身してまた中小姓と為なるは甚だ易やすし。しかのみならず百姓が中間ちゅうげんと為なり、中間が小頭こがしらとなり、小頭の子が小役人と為れば、すなわち下等士族中に恥はずかしからぬ地位を占しむべし。また足軽は一般に上等士族に対して、下座げざとて、雨中うちゅう、往来に行逢ゆきあうとき下駄げたを脱ぬいで路傍ろぼうに平伏へいふくするの法あり。足軽以上小役人格の者にても、大臣に逢あえば下座げざ平伏へいふくを法とす。啻ただに大臣のみならず、上士じょうしの用人役ようにんやくたる者に対しても、同様の礼をなさざるを得ず。また下士かしが上士の家に行けば、次の間より挨拶あいさつして後に同間どうまに入り、上士が下士の家に行けば、座敷まで刀を持ち込むを法とす。

 また文通に竪様たてざま、美様びざま、平様ひらざま、殿付とのづけ等の区別ありて、決してこれを変ずべからず。また言葉の称呼しょうこに、長少の別なく子供までも、上士の者が下士に対して貴様きさまといえば、下士は上士に向むかってあなたといい、来きやれといえば御おいでなさいといい、足軽が平士ひらざむらいに対し、徒士かちが大臣たいしんに対しては、直ただちにその名をいうを許さず、一様に旦那様だんなさまと呼よびて、その交際は正まさしく主僕の間のごとし。また上士の家には玄関敷台を構えて、下士にはこれを許さず。上士は騎馬きばし、下士は徒歩とほし、上士には猪狩ししがり川狩かわがりの権を与えて、下士にはこれを許さず。しかのみならず文学は下士の分にあらずとて、表向おもてむきの願を以て他国に遊学ゆうがくするを許さざりしこともあり。

 これ等らの件々は逐一ちくいち計かぞうるに暇いとまあらず。到底とうてい上下両等の士族は各おのおのその等類の内に些少さしょうの分別ぶんべつありといえども、動かすべからざるものに非ず。独ひとり上等と下等との大分界だいぶんかいに至いたりては、ほとんど人為じんいのものとは思われず、天然の定則のごとくにして、これを怪あやしむ者あることなし。(権利を異にす)

 第二、上等士族を給人きゅうにんと称し、下等士族を徒士かちまたは小役人こやくにんといい、給人以上と徒士以下とは何等なんらの事情あるも縁組えんぐみしたることなし。この縁組は藩法においても風俗においても共に許さざるところなり。啻ただに表向の縁組のみならず、古来士族中にて和姦わかんの醜聞しゅうぶんありし者を尋たずぬるに、上下の士族各おのおのその等類中に限り、各等の男女が互に通じたる者ははなはだ稀まれなり。(ただし日本士族の風俗は最も美にして、和姦などの沙汰は極めて稀まれに聞くところなり。中津藩士ももとより同様なれども、ここにはただ事実の例を示さんがために、その稀に有る者の数を比較したるのみ。)

 かつ限かぎりある士族の内にて互に縁組えんぐみすることなれば、縁に縁を重ねて、二、三百年以来今日に至いたりては、士族はただ同藩の好よしみあるのみならず、現に骨肉の親族にして、その好情の篤あつきはもとより論を俟またず。然しかるに今日、試こころみに士族の系図を開ひらきてこれを見れば、古来上下の両等が父祖を共にしたる者なし、祖先の口碑こうひを共にしたる者なし。恰あたかも一藩中に人種の異ことなる者というも可かなり。故にこの両等は藩を同おなじゅうし君を共にするの交誼こうぎありて骨肉の親情なき者なり。(骨肉の縁を異にす)

 第三、上等士族の内にも家禄にはもとより大なる差ありて、大臣たいしんは千石、二千石、なおこれより以上なる者もあり。上等の最下さいか、小姓組、医師のごときは、十人扶持じゅうにんぶちより少なき者もあれども、これを概がいするに百石二百石或は二百五十石と唱となえて、正味しょうみ二十二、三石より四十石乃至ないし五、六十石の者最も多し。藩にて要路に立つ役人は、多くはこの百石名目
のみ
以上の家に限るを例とす。藩にて正味二、三十石以上の米あれば、尋常じんじょうの家族にて衣食に差支さしつかえあることなく、子弟にも相当の教育を施ほどこすべし。

 これに反して下等士族は十五石三人扶持さんにんぶち、十三石二人扶持ににんぶち、或は十石一人扶持いちにんぶちもあり、なお下くだって金給の者もあり。中以上のところにて正味七、八石乃至ないし十餘石に上のぼらず。夫婦暮ぐらしなれば格別かくべつ、もしも三、五人の子供または老親あれば、歳入さいにゅうを以て衣食を給するに足たらず。故に家内かない力役りきえきに堪たうる者は男女を問わず、或は手細工てざいく或は紡績ぼうせき等の稼かせぎを以て辛かろうじて生計せいけいを為なすのみ。名は内職なれどもその実じつは内職を本業として、かえって藩の公務を内職にする者なれば、純然たる士族に非ず、或はこれを一種の職人というも可かなり。生計を求むるに忙いそがわしく、子弟の教育を顧かえりみるに遑いとまあらず。故に下等士族は文学その他高尚こうしょうの教に乏とぼしくして自おのずから賤いやしき商工の風あり。(貧富を異にす)

 第四、上等の士族は衣食に乏とぼしからざるを以て文武の芸を学ぶに余暇よかあり。或は経史けいしを読み或は兵書を講じ、騎馬きば槍剣そうけん、いずれもその時代に高尚こうしょうと名なづくる学芸に従事するが故に、自おのずから品行も高尚にして賤いやしからず、士君子しくんしとして風致ふうちの観みるべきもの多し。下等士族は則すなわち然しからず。役前やくまえの外ほか、馬に乗る者とては一人ひとりもなく、内職の傍かたわらに少しく武芸ぶげいを勉つとめ、文学は四書五経ししょごきょう歟か、なお進すすみて蒙求もうぎゅう、左伝さでんの一、二巻に終る者多し。特にその勉強するところのものは算筆に在ありて、この技芸に至いたっては上等の企くわだて及ぶところに非ず。蓋けだしその由縁ゆえんは、下等士族が、やや家産かさんの豊ゆたかなるを得て、仲間なかまの栄誉を取るべき路はただ小吏たるの一事にして、この吏人りじんたらんには必ず算筆の技芸を要するが故に、恰あたかも毎家まいか教育の風を成し、いかなる貧小士族にてもこの技芸を勉つとめざる者なし。

 今を以て考うれば、算筆の芸もとより賤いやしむべきに非ざれども、当時封建士族の世界にこれを賤しむの風なれば、これに従事する者は自おのずからその品行も賤しくして、士君子の仲間に歯よわいせられざる者のごとし。譬たとえば上等士族は習字にも唐様からようを学び、下等士族は御家流おいえりゅうを書き、世上一般の気風にてこれを評すれば、字の巧拙こうせつを問わずして御家流をば俗様ぞくようとして賤いやしみ、これを書く者をも俗吏ぞくり俗物ぞくぶつとして賤しむの勢いきおいを成せり。(教育を異にす)

 第五、上士族の内にも小禄の貧者なきに非ざれども、概がいしてこれを見れば、その活計は入いるに心配なくして、ただ出いずるの一部に心を用もちうるのみ。下士族は出入しゅつにゅう共に心に関して身を労する者なれば、その理財の精細せいさいなること上士の夢にも知らざるもの多し。二人扶持ににんぶちとは一箇月かげつに玄米げんまい三斗となり。夫婦に三人の子供あれば一日に少なくも白米一升五合より二升は入用なるゆえ、現に一月二、三斗の不足なれども、内職の所得しょとくを以て麦むぎを買い粟あわを買い、或あるいは粥かゆ或は団子だんご、様々さまざまの趣向しゅこうにて食しょくを足たす。これを通語にて足たし扶持ぶちという。食物すでに足たるも衣服なかるべからず。すなわち家婦かふの任にんにして、昼夜の別べつなく糸を紡つむぎ木綿もめんを織り、およそ一婦人、世帯せたいの傍かたわらに、十日の労ろうを以て百五十目の綿を一反の木綿に織上おりあぐれば、三百目の綿に交易こうえきすべし。これを方言ほうげんにて替引かえびきという。

 一度いちどは綿と交易してつぎの替引の材料となし、一度は銭と交易して世帯の一分いちぶを助け、非常の勉強に非ざれば、この際に一反を余あまして私家しかの用に供するを得ず。娘の嫁入前よめいりまえに母子ぼしともに忙いそがわしきは、仕度の品を買かってこれを製するがために非ず、その品を造るがためなり。或あるいはこれを買うときは、そのこれを買うの銭ぜにを作るがためなり。かかる理財の味あじは、上士族の得て知るところに非ず。この点より論ずれば上士も一種の小華族というて可かなり。廃藩の後、士族の所得は大おおいに減じて一般の困迫こんはくというといえども、もしも今の上士の家禄を以てこれを下士に附与ふよして下士従来の活計を立てしめなば、三、五年の間に必ず富有ふゆうを致すことあるべし。(理財活計の趣を異にす)

 廃藩の後、藩士の所得大おおいに減ずるとは、常禄じょうろくの高を減じたるをいうに非ず。中津藩にして古来度々たびたびの改革にて藩士の禄を削けずり、その割合を古いにしえに比すればすでに大おおいに減禄げんろくしたるがごとくなるを以て、維新の後にも諸藩同様に更に減少の説を唱となえがたき意味もあり、かつ当時流行の有志者が藩政を専もっぱらにすることなくして、その内実は禄を重んずるの種族が禄制を適宜てきぎにしたるが故ゆえに、諸藩に普通なる家禄平均の災わざわいを免まぬがれたるなり。然しかりといえども常禄の外に所得の減じたるものもまた甚はなはだ大なり。中津藩歳入の正味しょうみはおよそ米にして五万石余、このうち藩士の常禄として渡すものは二万石余に過ぎずして、残のこりおよそ三万石は藩主家族の私用と藩の公用に供するものなり。

 この公用とは所謂いわゆる公儀こうぎ(幕府のことなり)の御勤おつとめ、江戸藩邸はんていの諸入費、藩債はんさいの利子、国邑こくゆうにては武備ぶび城普請しろぶしん、在方ざいかたの橋梁きょうりょう、堤防ていぼう、貧民ひんみんの救済手当、藩士文武の引立ひきたて等、これなり。名は藩士の所得に関係なきがごとくなれどもその実じつは然らず。譬たとえば江戸汐留しおどめの藩邸を上屋舗やしきと唱となえ、広さ一万坪余、周囲およそ五百間けんもあらん。類焼るいしょうの跡にてその灰を掻かき、仮かりに松板を以て高さ二間許ばかりに五百間の外囲そとがこいをなすに、天保てんぽう時代の金にておよそ三千両なりという。この他、平日にても普請ふしんといい買物といい、また払物はらいものといい、経済の不始末ふしまつは諸藩同様、枚挙まいきょに遑いとまあらず。もとより江戸の町人職人の金儲かねもうけなれども、その一部分は間接に藩中一般の賑にぎわいたらざるを得ず。また国邑こくゆうにて文武の引立ひきたてといえば、藩士の面々めんめんは書籍しょじゃくも拝借はいしゃく、馬も鉄砲も拝借なり。借用の品を用いて無月謝の教師に就つく、これまた大なる便利なり。なかんずく役人の旅費ならびに藩士一般に無利足むりそく拝借金歟か、または下くだされ切りのごときは、現に常禄の外に直接の所得というべし。また藩の諸役所にて公然たる賄賂わいろの沙汰さたは稀まれなれども、自おのずから役徳やくとくなるものあり。江戸大阪の勤番より携たずさえ帰かえる土産みやげの品は、旅費の残のこりにあらざれば所謂いわゆる役徳を積つみたるものより外ならず。

 俗官ぞっかん汚吏おりはしばらく擱さしおき、品行正雅の士といえども、この徳沢とくたくの範囲はんいを脱せんとするも、実際においてほとんど能よくすべからざることなり。藩にて廉潔れんけつの役人と称し、賄賂わいろ役徳をば一切取らずとて、人もこれを信じ自みずからこれを許す者あれども、町人がこの役人へ安利やすりにて金を貸し、または態わざと高利こうりにてその金を預り、または元値もとねを損して安物を売る等、様々さまざまの手段を用いてこれに近づくときは、役人は知らず識しらずして賄賂わいろの甘き穽わなに陥おちいらざるを得ず。蓋けだし人として理財商売の考あらざれば、到底とうていその品行を全まっとうすること能わざるものなり。以上枚挙まいきょの件々はいずれも皆みな藩士常禄の他ほかに得るところのものなれども、今日こんにちに至いたりてはかかる無名間接の利益あることなし。藩士の困迫こんぱくする一の原因なり。

 第六、上士族は大抵たいてい婢僕ひぼくを使用す。たといこれなきも、主人は勿論もちろん、子弟たりとも、自みずから町に行ゆきて物を買う者なし。町の銭湯せんとうに入いる者なし。戸外に出いずれば袴はかまを着つけて双刀を帯たいす。夜行は必ず提灯ちょうちんを携たずさえ、甚はなはだしきは月夜にもこれを携たずさうる者あり。なお古風なるは、婦女子ふじょしの夜行に重大なる箱提灯はこちょうちんを僕ぼくに持たする者もあり。外に出いでて物を買うを賤いやしむがごとく、物を持つもまた不外聞ふがいぶんと思い、剣術道具釣竿の外は、些細ささいの風呂敷包ふろしきづつみにても手に携うることなし。

 下士はよき役を勤つとめて兼かねて家族の多勢たぜいなる家に非ざれば、婢僕ひぼくを使わず。昼間ひるまは町に出いでて物を買う者少なけれども、夜は男女の別べつなく町に出いずるを常とす。男子は手拭てぬぐいを以て頬冠ほおかむりし、双刀を帯たいする者あり、或は一刀なる者あり。或は昼にても、近処きんじょの歩行なれば双刀は帯たいすれども袴はかまを着つけず、隣家の往来などには丸腰まるごし無刀の
こと
なるもあり。また宴席、酒酣たけなわなるときなどにも、上士が拳けんを打ち歌舞かぶするは極て稀まれなれども、下士は各おのおの隠し芸なるものを奏して興きょうを助たすくる者多し。これを概がいするに、上士の風は正雅せいがにして迂闊うかつ、下士の風は俚賤りせんにして活溌かっぱつなる者というべし。その風俗を異ことにするの証は、言語のなまりまでも相同じからざるものあり。今、旧中津藩地士農商の言語なまりの一、二を示すこと左のごとし。

        上士     下士      商       農

見て呉れよと みちくれい  みちくりい  みてくりい   みちぇくりい

いうことを

行けよという いきなさい  いきなはい  下士に同じ   下士に同じ

ことを           又いきない          又いきなはりい

如何いかがせんかと どをしよをか どをしゆうか どげいしゆうか 商に同じ

いうことを                又どをしゆうか

 この外ほか、筆にも記しるしがたき語風の異同は枚挙まいきょに遑いとまあらず。故に隔壁かくへきにても人の対話を聞けば、その上士たり、下士たり、商たり、農たるの区別は明あきらかに知るべし。(風俗を異にす)

 右条々のごとく、上下両等の士族は、権利を異ことにし、骨肉の縁を異にし、貧富ひんぷを異にし、教育を異にし、理財りざい活計かっけいの趣おもむきを異にし、風俗ふうぞく習慣しゅうかんを異にする者なれば、自おのずからまたその栄誉の所在しょざいも異なり、利害の所関しょかんも異ならざるを得ず。栄誉えいよ利害りがいを異にすれば、また従したがって同情相憐あいあわれむの念ねんも互たがいに厚薄こうはくなきを得ず。譬たとえば、上等の士族が偶然会話の語次ごじにも、以下の者共には言われぬことなれどもこの事ことは云々しかじか、ということあり。下等士族もまた給人分きゅうにんぶんの輩はいは知らぬことなれども彼かの一条は云々、とて、互に竊ひそかに疑うこともあり憤いきどおることもありて、多年苦々にがにがしき有様なりしかども、天下一般、分ぶんを守るの教おしえを重んじ、事々物々秩序ちつじょを存して動かすべからざるの時勢じせいなれば、ただその時勢に制せられて平生へいぜいの疑念ぎねん憤怒ふんどを外形に発すること能あたわず、或は忘るるがごとくにしてこれを発することを知らざりしのみ。

 中津の藩政も他藩のごとく専もっぱら分ぶんを守らしむるの趣意しゅいにして、圧制あっせいを旨とし、その精密なることほとんど至らざるところなし。而しこうしてその政権はもとより上士に帰きすることなれば、上士と下士と対するときは、藩法、常に上士に便にして下士に不便ならざるを得ずといえども、金穀きんこく会計のことに至いたりては上士の短所なるを以て、名は役頭やくがしらまたは奉行ぶぎょうなどと称すれども、下役したやくなる下士かしのために籠絡ろうらくせらるる者多し。故に上士の常に心を関するところは、尊卑そんぴ階級のことに在り。この一事においては、往々おうおう事情に適せずして有害ゆうがい無益むえきなるものあり。誓たとえば藩政の改革とて、藩士一般に倹約けんやくを命ずることあり。この時、衣服の制限を立たつるに、何の身分は綿服めんぷく、何は紬つむぎまで、何は羽二重はぶたえを許すなどと命めいを出いだすゆえ、その命令は一藩経済のため歟か、衣冠制度いかんせいどのため歟、両様混雑して分明ならず。恰あたかも倹約の幸便こうびんに格式かくしきりきみをするがごとくにして、綿服の者は常に不平を抱いだき、到底とうてい倹約の永久したることなし。

 また今を去ること三十余年、固かため番ばんとて非役ひやくの徒士かちに城門の番を命じたることあり。この門番は旧来足軽あしがるの職分たりしを、要路の者の考に、足軽は煩務はんむにして徒士は無事なるゆえ、これを代用すべしといい、この考と、また一方には上士じょうしと下士かしとの分界をなお明あきらかにして下士の首を押おさえんとの考を交え、その実じつはこれがため費用を省くにもあらず、武備を盛さかんにするにもあらず、ただ一事無益の好事こうずを企くわだてたるのみ。この一条については下士の議論沸騰ふっとうしたれども、その首魁しゅかいたる者二、三名の家禄かろくを没入し、これを藩地外に放逐ほうちくして鎮静ちんせいを致したり。

 これ等らの事情を以て、下士の輩はいは満腹まんぷく、常に不平なれども、かつてこの不平を洩もらすべき機会を得ず。その仲間なかまの中にも往々おうおう才力に富み品行賤いやしからざる者なきに非ざれども、かかる人物は、必ず会計書記等の俗役に採用せらるるが故に、一身の利害に忙いそがわしくして、同類一般の事を顧かえりみるに遑いとまあらず。非役ひやくの輩はいは固もとより智力もなく、かつ生計の内職に役えきせられて、衣食以上のことに心を関するを得ずして日一日ひいちにちを送りしことなるが、二、三十年以来、下士の内職なるもの漸ようやく繁盛はんじょうを致し、最前さいぜんはただ杉すぎ檜ひのきの指物さしもの膳箱ぜんばこなどを製し、元結もとゆいの紙糸かみいとを捻よる等に過ぎざりしもの、次第にその仕事の種類を増し、下駄げた傘からかさを作る者あり、提灯ちょうちんを張る者あり、或は白木しらきの指物細工さしものざいくに漆うるしを塗ぬりてその品位を増す者あり、或は戸と障子しょうじ等を作つくって本職の大工だいくと巧拙こうせつを争う者あり、しかのみならず、近年に至いたりては手業てわざの外に商売を兼ね、船を造り荷物を仕入れて大阪に渡海とかいせしむる者あり、或は自みずからその船に乗る者あり。

 もとより下士の輩はい、悉皆しっかい商工に従事するには非ざれども、その一部分に行わるれば仲間中なかまうちの資本は間接に働はたらきをなして、些細ささいの余財もいたずらに嚢底のうていに隠るることなく、金の流通忙いそがわしくして利潤りじゅんもまた少なからず。藩中に商業行わるれば上士もこれを傍観ぼうかんするに非ず、往々おうおう竊ひそかに資本を卸おろす者ありといえども、如何いかんせん生来の教育、算筆さんひつに疎うとくして理財の真情を知らざるが故に、下士に依頼いらいして商法を行うも、空むなしく資本を失うか、しからざればわずかに利潤の糟粕そうはくを嘗なむるのみ。

 下士の輩はいは漸ようやく産を立てて衣食の患うれいを免まぬかるる者多し。すでに衣食を得て寸暇すんかあれば、上士の教育を羨うらやまざるを得ず。ここにおいてか、剣術の道場を開ひらいて少年を教おしうる者あり(旧来、徒士以下の者は、居合いあい、柔術じゅうじゅつ、足軽あしがるは、弓、鉄砲、棒の芸を勉つとむるのみにて、槍術そうじゅつ、剣術を学ぶ者、甚はなはだ稀まれなりき)。子弟を学塾に入れ或は他国に遊学せしむる者ありて、文武の風儀ふうぎにわかに面目めんもくを改め、また先きの算筆のみに安やすんぜざる者多し。ただしその品行の厳げんと風致ふうちの正雅せいがとに至いたりては、未いまだ昔日せきじつの上士に及ばざるもの尠すくなからずといえども、概してこれを見れば品行の上進といわざるを得ず。

 これに反して上士は古いにしえより藩中無敵の好地位を占しむるが為に、漸次ぜんじに惰弱だじゃくに陥おちいるは必然の勢いきおい、二、三十年以来、酒を飲み宴を開くの風を生じ(元来飲酒いんしゅ会宴かいえんの事は下士に多くして、上士は都すべて質朴しつぼくなりき)、殊ことに徳川の末年、諸侯の妻子を放解ほうかいして国邑こくゆうに帰かえすの令を出いだしたるとき、江戸定府えどじょうふとて古来江戸の中津なかつ藩邸はんていに住居じゅうきょする藩士も中津に移住し、かつこの時には天下多事にして、藩地の士族も頻しきりに都会の地に往来してその風俗に慣なれ、その物品を携たずさえて帰り、中津へ移住する江戸の定府藩士は妻子と共に大都会の軽便流を田舎藩地の中心に排列はいれつするの勢いきおいなれば、すでに惰弱だじゃくなる田舎いなかの士族は、あたかもこれに眩惑げんわくして、ますます華美かび軽薄けいはくの風に移り、およそ中津にて酒宴しゅえん遊興ゆうきょうの盛さかんなる、古来特にこの時を以て最さいとす。故に中津の上等士族は、天下多事のために士気を興奮するには非ずして、かえってこれがためにその懶惰らんだ不行儀ふぎょうぎの風を進めたる者というべし。

 右のごとく上士の気風は少しく退却たいきゃくの痕あとを顕あらわし、下士の力は漸ようやく進歩の路に在り。一方に釁きんの乗じょうずべきものあれば、他の一方においてこれを黙もくせざるもまた自然の勢いきおい、これを如何いかんともすべからず。この時に下士の壮年にして非役ひやくなる者(全く非役には非ざれども、藩政の要路に関かかわらざる者なり)数十名、ひそかに相議あいぎして、当時執権の家老を害せんとの事を企くわだてたることあり。中津藩においては古来未曾有みぞうの大事件、もしこの事をして三十年の前にあらしめなば、即日にその党与を捕縛ほばくして遺類いるいなきは疑を容いれざるところなれども、如何いかんせん、この時の事勢においてこれを抑制よくせいすること能あたわず、ついに姑息こそくの策さくに出いで、その執政を黜しりぞけて一時の人心を慰なぐさめたり。二百五十余年、一定不変と名なづけたる権力に平均を失い、その事実に顕あらわれたるものは、この度の事件をもって始とす。(事は文久三癸亥きがいの年に在り)

 この事情に従したがって維新いしんの際に至り、ますます下士族の権力を逞たくましうすることあらば、或は人物を黜陟ちゅっちょくし或は禄制ろくせいを変革し、なお甚はなはだしきは所謂いわゆる要路の因循吏いんじゅんりを殺して、当時流行の青面書生せいめんしょせいが家老参事の地位を占めて得々たるがごとき奇談をも出現すべきはずなるに、中津藩に限りてこの変を見ざりしは、蓋けだし、また謂いわれなきに非ず。下等士族の輩はいが、数年以来教育に心を用もちうるといえども、その教育は悉皆しっかい上等士族の風を真似まねたるものなれば、もとよりその範囲はんいを脱だっすること能あたわず。剣術の巧拙こうせつを争わん歟か、上士の内に剣客甚はなはだ多くして毫ごうも下士の侮あなどりを取らず。漢学の深浅しんせんを論ぜん歟か、下士の勤学きんがくは日ひ浅あさくして、もとより上士の文雅に及ぶべからず。

 また下士の内に少しく和学を研究し水戸みとの学流を悦よろこぶ者あれども、田舎いなかの和学、田舎の水戸流にして、日本活世界の有様を知らず。すべて中津の士族は他国に出いずること少なく他藩人に交まじわること稀まれなるを以て、藩外の事情を知るの便なし。故に下等士族が教育を得てその気力を増し、心の底には常に上士を蔑視べっしして憚はばかるところなしといえども、その気力なるものはただ一藩内に養成したる気力にして、所謂いわゆる世間見ずの田舎者なれば、他藩の例に傚ならってこれを実地に活用すること能あたわず。かつその仲間の教育なり年齢なり、また門閥もんばつなり、おおよそ一様同等にして抜群ばつぐんの巨魁きょかいなきがために、衆力を中心に集めて方向を一にするを得ず。ついに維新の前後より廃藩置県はいはんちけんの時に際し今日に至るまで、中津藩に限りて無事静穏せいおんなりし由縁ゆえんなり。もしもこの際に流行の洋学者か、または有力なる勤王家が、藩政を攪擾かくじょうすることあらば、とても今日の旧中津藩は見るべからざるなり。今その然しからざるは、これを偶然の幸福、因循いんじゅんの賜たまものというべし。

 中津藩はすでにこの偶然の僥倖ぎょうこうに由よりて維新の際に諸藩普通の禍わざわいを免まぬかれ、爾後じごまた重ねてこの僥倖を固くしたるものあり。けだしそのこれを固くしたるものとは市学校の設立、すなわちこれなり。明治四年廃藩のころ、中津の旧官員と東京の慶応義塾と商議の上、旧知事の家禄を分わかち旧藩の積金つみきんと合がっして洋学の資本となして、中津の旧城下に学校を立ててこれを市学校と名なづけたり。学校の規則もとより門閥もんばつ貴賤きせんを問わずと、表向おもてむきの名に唱となうるのみならず事実にこの趣意を貫つらねき、設立のその日より釐毫りごうも仮かすところなくして、あたかも封建門閥の残夢中ざんむちゅうに純然たる四民同権の一新世界を開きたるがごとし。

 けだし慶応義塾の社員は中津の旧藩士族に出いずる者多しといえども、従来少しもその藩政に嘴くちばしを入れず、旧藩地に何等なんらの事変あるも恬てんとして呉越ごえつの観かんをなしたる者なれば、往々おうおう誤あやまって薄情はくじょうの譏そしりは受うくるも、藩の事務を妨さまたげその何いずれの種族に党とうするなどと評せられたることなし。故にこの市学校を設立するにも、真に旧藩地一般のためにするの事実明白にして、何等の陋眼ろうがんをもってこれを視みるも、上士を先さきにするというべからず、下士を後のちにするというべからず、その目的とするところは正まさしく中津旧藩の格式りきみを制し、これを制了して共ともに与ともに日本社会の虚威きょいを圧倒せんとするもののごとくにして、藩士のこの学校に帰きすると否いなとはその自然に任まかしたりしに、士族の上下に別なく漸ようやく学に就つく者多く、なかんずく上等士族の有力なる人物にて、その子弟を学校に入るる者も少なからず。

 すでに学校に心を帰きすれば、門閥もんばつの念も同時に断絶してその痕跡こんせきを見るべからず。市学校は、あたかも門閥の念慮ねんりょを測量そくりょうする試験器というも可かなり。(余輩よはいもとより市学校に入らざる者を見て悉皆しっかいこれを門閥守旧の人というに非ず。近来は市校の他に学校も多ければ、子弟のために適当の場所を選ぶは全く父母の心に存することにして、これがため、敢あえてその人物を軽重けいちょうするにはあらざれども、真に市校に心を帰して疑わざる者は、果して門閥の念を断絶する人物なるが故に、本文のごとくこれを証するのみ。)下等士族の輩はいが上士に対して不平を抱いだく由縁ゆえんは、専もっぱら門閥虚威きょいの一事に在ありて、然しかもその門閥家の内にて有力者と称する人物に向むかって敵対の意を抱いだくことなれども、その好敵手こうてきしゅと思う者が首しゅとして自みずから門閥の陋習ろうしゅうを脱したるが故に、下士は恰あたかも戦わんと欲して忽たちまち敵の所在を失うしなうたる者のごとし。敵のためにも、味方のためにも、双方共に無上の幸さいわいというべし。故にいわく、市学校は旧中津藩の僥倖ぎょうこうを重ねて固くして真の幸福となしたるものなり。

 余輩よはいの所見しょけんをもって、旧中津藩の沿革えんかくを求め、殊ことに三十年来、余が目撃と記憶に存する事情の変化を察すれば、その大略、前条のごとくにして、たとい僥倖にもせよ、または明あきらかに原因あるにもせよ、今日旧藩士族の間に苦情争論の痕跡こんせきを見ざるは事実において明白なり。(今年数十名の藩士が脱走だっそうして薩さつに入りたるは、全くその脱走人限りのことにして、爾余じよの藩士に関係あることなし。)然しかりといえども、今日の事実かくのごとくにして、果して明日の患うれいなきを期すべきや。これを察せざるべからず。今日の有様を以て事の本位と定め、これより進むものを積極となし、これより退しりぞくものを消極となし、余輩をしてその積極を望ましむれば期きするところ左さのごとし。

 すなわち今の事態を維持いじして、門閥の妄想もうそうを払い、上士は下士に対して恰あたかも格式りきみの長座ちょうざを為なさず、昔年のりきみは家を護り面目めんもくを保つの楯たてとなり、今日のりきみは身を損そんじ愚弄ぐろうを招まねくの媒なかだちたるを知り、早々にその座を切上げて不体裁ぶていさいの跡を収め、下士もまた上士に対して旧怨きゅうえんを思わず、執念しゅうねん深きは婦人の心なり、すでに和するの敵に向うは男子の恥はずるところ、執念しゅうねん深きに過ぎて進退しんたい窮きゅうするの愚ぐたるを悟さとり、興きょうに乗じて深入りの無益たるを知り、双方共にさらりと前世界の古証文ふるしょうもんに墨すみを引き、今後こんご期きするところは士族に固有こゆうする品行の美びなるものを存して益ますますこれを養い、物を費ついやすの古吾こごを変じて物を造るの今吾こんごとなし、恰あたかも商工の働はたらきを取とって士族の精神に配合し、心身共に独立して日本国中文明の魁さきがけたらんことを期望きぼうするなり。

 然しかりといえども、その消極を想像してこれを憂うれうれば、また憂うべきものなきに非ず。数百年の間、上士は圧制を行い、下士は圧制を受け、今日に至いたりてこれを見れば、甲は借主かりぬしのごとく乙は貸主かしぬしのごとくにして、未いまだ明々白々の差引さしひきをなさず。また上士の輩はいは昔日の門閥を本位に定めて今日の同権を事変と視做みなし、自おのずからまた下士に向むかって貸すところあるごとく思うものなれば、双方共に苟いやしくも封建の残夢を却掃きゃくそうして精神を高尚の地位に保つこと能あたわざる者より以下は、到底とうていこの貸借たいしゃくの念を絶つこと能わず。現に今日にても士族の仲間なかまが私わたくしに集会すれば、その会の席順は旧もとの禄高または身分に従うというも、他に席順を定むべき目安めやすなければ止やむを得ざることなれども、残夢ざんむの未いまだ醒覚せいかくせざる証拠なり。或は市中公会等の席にて旧套きゅうとうの門閥流もんばつりゅうを通用せしめざるは無論なれども、家に帰れば老人の口碑こうひも聞き細君さいくんの愚痴ぐちも喧かまびすしきがために、残夢ざんむまさに醒さめんとしてまた間眠かんみんするの状なきにあらず。これ等らの事情をもって考かんがうるに、今の成行きにて事変なければ格別なれども、万に一も世間に騒動そうどうを生じて、その余波近く旧藩地の隣傍に及ぶこともあらば、旧痾きゅうあたちまち再発して上士と下士とその方向を異ことにするのみならず、針小しんしょうの外因よりして棒大ぼうだいの内患を引起すべきやも図るべからず。

 しかのみならず、たといかかる急変なくして尋常じんじょうの業に従事するも、双方互に利害情感を別にし、工業には力をともにせず、商売には資本を合がっせず、却かえって互に相あい軋轢あつれきするの憂うれいなきを期すべからず。これすなわち余輩の所謂いわゆる消極の禍わざわいにして、今の事態の本位よりも一層の幸福を減ずるものなり。けだし人事の憂患ゆうかん、消極の域内に在るの間は、未いまだその積極を謀はかるに遑いとまあらざるなり。

 今消極の憂うれいを憂うれえてこれを防ぐにもせよ、積極の利を謀はかってこれを求もとむるにもせよ、旧藩地にて有力なる人物は必ずこれを心配することならん、またこれを心配して実地に従事するについては様々の方便もあらん、また様々の差支さしつかえもあらん、不如意ふにょいは人生の常にしてこれを如何いかんともすべからず。故に余輩の注意するところは、未いまだ積極に及ばずして先ずその消極の憂を除くの路みちに進まんと欲するなり。すなわちその路みちとは他たなし、今の学校を次第しだいに盛さかんにすることと、上下士族相互あいたがいに婚姻こんいんするの風を勧すすむることと、この二箇条のみ。

 そもそも海を観みる者は河を恐れず、大砲を聞く者は鐘声しょうせいに驚かず、感応かんのうの習慣によって然しかるものなり。人の心事とその喜憂きゆう栄辱えいじょくとの関係もまた斯かくのごとし。喜憂栄辱は常に心事に従したがって変化するものにして、その大おおいに変ずるに至いたっては、昨日の栄えいとして喜びしものも、今日は辱じょくとしてこれを憂うれうることあり。学校の教は人の心事を高尚こうしょう遠大えんだいにして事物の比較をなし、事変の原因と結果とを求めしむるものなれば、一聞一見も人の心事を動かさざるはなし。

 地理書を見れば、中津の外に日本あり、日本の外に西洋諸国あるを知るべし。なお進すすみて、天文地質の論を聞けば、大空たいくうの茫々ぼうぼう、日月じつげつ星辰の運転に定則あるを知るべし。地皮の層々、幾千万年の天工に成りて、その物質の位置に順序の紊みだれざるを知るべし。歴史を読めば、中津藩もまたただ徳川時代三百藩の一のみ。徳川はただ日本一島の政権を執とりし者のみ。日本の外には亜細亜アジア諸国、西洋諸洲の歴史もほとんど無数にして、その間には古今ここん英雄豪傑ごうけつの事跡じせきを見るべし。歴山アレキサンダー王、ナポレオンの功業を察し、ニウトン、ワット、アダム・スミスの学識を想像すれば、海外に豊太閤ほうたいこうなきに非ず、物徂徠ぶつそらいも誠に東海の一小先生のみ。わずかに地理歴史の初歩を読むも、その心事はすでに旧套きゅうとうを脱却だっきゃくして高尚ならざるを得ず。いわんや彼かの西洋諸大家の理論書を窺うかがい、有形の物理より無形の人事に至るまで、逐一ちくいちこれを比較分解して、事々物々の原因と結果とを探索たんさくするにおいてをや。読よみてその奥に至れば、心事しんじ恍爾こうじとしてほとんど天外に在あるの思おもいをなすべし。この一段に至いたりて、かえりみて世上の事相を観みれば、政府も人事の一小区のみ、戦争も群児の戯たわむれに異ことならず、中津旧藩のごとき、何なんぞこれを歯牙しがに止とむるに足たらん。

 彼かの御広間おひろまの敷居しきいの内外を争い、御目付部屋おめつけべやの御記録ごきろくに思おもいを焦こがし、艴然ふつぜんとして怒り莞爾かんじとして笑いしその有様ありさまを回想すれば、正まさにこれ火打箱ひうちばこの隅すみに屈伸くっしんして一場の夢を見たるのみ。しかのみならず今日に至いたりては、その御広間もすでに湯屋ゆやの薪たきぎとなり、御記録も疾とく紙屑屋かみくずやの手に渡りたるその後において、なお何物に恋々れんれんすべきや。また今の旧下士族が旧上士族に向い、旧時の門閥もんばつ虚威きょいを咎とがめてその停滞ていたいを今日に洩もらさんとするは、空屋あきやの門に立たちて案内を乞こうがごとく、蛇へびの脱殻ぬけがらを見て捕とらえんとする者のごとし。いたずらに自みずから愚ぐを表あらわして他たの嘲あざけりを買うに過ぎず。すべて今の士族はその身分を落したりとて悲しむ者多けれども、落すにも揚あぐるにも結局物の本位を定めざるの論なり。平民と同格なるはすなわち下落ならんといえども、旧主人なる華族かぞくと同席して平伏へいふくせざるは昇進しょうしんなり。下落を嫌きらわば平民に遠ざかるべし、これを止とむる者なし。昇進を願わば華族に交まじわるべし、またこれを妨さまたぐる者なし。これに遠ざかるもこれに交まじわるも、果してその身に何の軽重けいちょうを致すべきや。これを是これ知らずして自みずから心を悩なやますは、誤謬ごびゅうの甚はなはだしき者というべし。故に有形なる身分の下落げらく昇進しょうしんに心を関せずして、無形なる士族固有の品行を維持いじせんこと、余輩の懇々こんこん企望きぼうするところなり。ただこの際において心事の機を転ずること緊要にして、そのこれを転ずるの器械は、特に学校をもって有力なるものとするが故に、ことさらに藩地徳望の士君子しくんしに求め、その共ともに尽力して学校を盛さかんにせんことを願うなり。

 中津の旧藩にて、上下の士族が互に婚姻こんいんの好よしみを通つうぜざりしは、藩士社会の一大欠典にして、その弊害へいがいはほとんど人心の底に根拠して動かすべからざるもののごとし。今日に至いたりては稀まれに上下相婚する者もなきに非ざれども、今後ますますこの路を開くべきの勢いきおいを見ず。上士の残夢未いまだ醒さめずして陰いんにこれを忌いむものあれば、下士は却かえってこれを懇望こんぼうせざるのみならず、士女の別べつなく、上等の家に育いくせられたる者は実用に適せず、これと婚姻を通ずるも後日ごじつ生計せいけいの見込なしとて、一概に擯斥ひんせきする者あり。一方は婚を以て恩徳おんとくのごとく心得、一方はその徳を徳とせずしてこれを賤いやしむの勢いきおいなれば、出入しゅつにゅうの差、甚はなはだ大にして、とても通婚つうこんの盛さかんなるべき見込あることなし。

 然しかりといえども、世の中の事物は悉皆しっかい先例に傚ならうものなれば、有力の士は勉つとめてその魁さきがけをなしたきことなり。婚姻はもとより当人の意に従したがって適不適もあり、また後日生計の見込もなき者と強しいて婚こんすべきには非ざれども、先入するところ、主となりて、良偶りょうぐうを失うの例も少なからず。親戚しんせき朋友ほうゆうの注意すべきことなり。一度ひとたび互に婚姻すればただ双方両家りょうけの好よしみのみならず、親戚の親戚に達して同時に幾家の歓よろこびを共にすべし。いわんや子を生み孫を生むに至ては、祖父を共にする者あり、曾祖父を共にする者あり、共に祖先の口碑こうひをともにして、旧藩社会、別に一種の好情帯を生じ、その功能こうのうは学校教育の成跡せいせきにも万々ばんばん劣おとることなかるべし。

底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社

   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行

   1998(平成10)年2月20日第10刷発行

※旧字の「與・餘・竊」は、底本のママとしました。

入力:kazuishi

校正:田中哲郎

2006年11月7日作成

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