沼夫人
泉鏡花



一


「ああ、奥さん、」

 と言った自分の声に、ふと目が覚めると……室内まのうちは真暗まっくらで黒白あやめが分らぬ。寝てから大分の時が経たったらしくもあるし、つい今しがた現々うとうとしたかとも思われる。

 その現々たるや、意味のごとく曖昧あいまいで、虚気うっかりとしていたのか、ぼうとなっていたのか、それともちょいと寝たのか、我ながら覚束おぼつかないが、

「ああ、奥さん、」

 と返事をした声は、確たしかに耳に入いって、判然はっきり聞こえて、はッと一ツ胸を突かれて、身体からだのどっかが、がっくりと窪くぼんだ気がする。

 そこで、この返事をしたのは、よくは覚えぬけれども、何でも、誰かに呼ばれたのに違いない。──呼んだのは、室の扉ひらきの外からだった──すなわち、閨ねやの戸を音訪おとずれられたのである。

 但し閨の戸では、この室には相応そぐわぬ。寝ているのは、およそ十五畳ばかりの西洋室ま……と云うが、この部落における、ある国手いしゃの診察室で。

 小松原は、旅行中、夏の一夜ひとよを、知己ちかづきの医学士の家に宿ったのであった。

 隙間漏る夜半よわの風に、ひたひたと裙すその靡なびく、薄黒い、ものある影を、臆病おくびょうのために嫌うでもなく、さればとて、群むらがり集たかる蚊の嘴くちばしを忍んでまで厭いとうほどこじれたのでもないが、鬱陶うっとうしさに、余り蚊帳を釣るのを好まず。

 ちとやそっとの、ぶんぶんなら、夜具の襟を被かぶっても、成るべくは、蛍、萱草かやくさ、行抜けに見たい了簡りょうけん。それには持って来いの診察室。装飾かざりの整ったものではないが、張詰めた板敷に、どうにか足袋跣足はだしで歩行あるかれる絨氈じゅうたんが敷いてあり、窓も西洋がかりで、一雨欲しそうな、色のやや褪あせた、緑の窓帷カアテンが絞ってある。これさえ引いておけば、田圃たんぼは近くっても虫の飛込む悩みもないので、窓も一つ開けたまま、小松原は、昼間はその上へ患者を仰臥あおむかせて、内の国手せんせいが聴診器を当てようという、寝台ねだいの上。ますます妙なのは蚤のみの憂うれい更になし。

 地方いなかと言っても、さまで辺鄙へんぴな処ではないから、望めばある、寝台の真上の天井には、瓦斯がすが窓越の森に映って、薄ら蒼あおくぱっと点ついていたっけが、寝しなに寝台の上へひょいと突立つッたって、捻ねじって、ふっと消した。

「何、この方が勝手です、燧火マッチを一つ置いといて頂けば沢山で。」

 この家やの細君は、まだその時、宵に使った行水の後の薄化粧に、汗ばみもしないで、若々しい紅あかい扱帯しごき、浴衣にきちんとしたお太鼓の帯のままで、寝床の世話をして、洋燈ランプをそこへ、……

「いいえ、お馴なれなさらないと、偶ふとお目覚めの時、不可いけないもんですよ。夫やどでもついこの間、窓を開けて寝られるから涼しくって可いいてって、此こ室こへ臥ふせりましてね、夜中に戸迷とまどいをして、それは貴下あなた、方々へ打附ぶつかりなんかして、飛んだ可笑おかしかったことがござんすの。

 可笑おかしいより、貴下、ひょんな処へ顔を入れて、でもまあ、男でしたから宜よろしかったようなものの、私わたくしどもだったらどうしましょう。そこにございます、それですわ。同じような切きれを掛けて蔽おおいにしておくもんですから、暗さは暗し、扉の処が分りませんので、何しろ、どこか一つ窓へ顔を出して方角を極きめようとしましてね、窓掛だ、と思って引揚げましたのが、その蔽だったんでしょう。箱の中に飾っておきます骸骨がいこつに、ぴったり打撞ぶつかったんでございますとさ、厭いやではござんせんかねえ。」

 ……と寝台の横手、窓際に卓子テエブルがあるのに、その洋燈ランプを載のせながら話したが、中頃に腰を掛けた、その椅子は、患者が医師せんせいと対向さしむかいになる一脚で、

「何ぼ、男でもヒヤリとしましたそうですよ。」

 と愛嬌あいきょうよく莞爾にっこりした。

「や、そりゃ、酒田さん驚いたでしょう。幾ら商売道具でも暗やみで打撞っちゃ大変だ。」

「ですから、お気を注つけなさいまし。夫やどとは違って、貴下はお人柄でいらっしゃるから、またそうでもない、骸骨さんの方から夜中に出掛けますとなりません。……婦おんなのだって、言いますから。」


二


 主人あるじの医学士は、実は健康を損ねたため、保養かたがた暢気のんきを専一に、ここに業を開いているのであるが、久しぶりのこの都の客と、対談はなしが発奮はずんで、晩酌の量を過したので、もう奥座敷で、ごろりと横の、そのまま夢になりそうな様子だった折から、細君もただそれだけにして、

「どうぞ御緩ごゆっくり。」

 と洋燈ランプを差置き、ちらちらと──足袋じゃない、爪先つまさきが白く、絨氈じゅうたんの上を斜めに切って、扉ひらきを出た。

 しばらくして、女中が入って来て、

「ここへ、冷水おひやをお置き申します。」

 声を聞いたばかり。昼間歩行あるき廻った疲労つかれと、四五杯の麦酒ビイルの酔に、小松原はもう現々うとうとで、どこへ水差を置いたやら、それは見ず。いつまた女中が出て去いったか、それさえ知らず。ただ洋燈の心を細めた事は、一緊ひとしめ胸を緊しめたほど、顔の上へ暗さが乗懸のしかかったので心着くと、やがて、すうすう汐しおが退ひく塩梅あんばいに、灯あかりが小さく遠くなり、遥はるかに見え、何だか自分が寝た診察台の、枕の下へ滅入込めいりこんで、ずっと谷底の古御堂ふるみどうの狐格子きつねごうしの奥深く点ともれたもののごとく、思われた……か思ったのか、それとも夢路を辿たどる峠から覗のぞく景色か、つい他愛たわいがなくなる。

 処を、前に言った、(奥さん)──で目が覚めたが、真暗まっくら、洋燈はその時消えていた。

 枕を擡もたげて、

「唯今ただいま!」

 威勢よく、(開けます)とやろうとする、その扉ひらきの見当が附かぬから、臥床ねどこに片手支ついたなり、熟じっと室まの内を眗みまわしながら、耳を傾けると、それ切り物の気勢けはいがせぬ。

「はてな、」

 自分で、奥さん、と言ったのに、驚いて覚めたには覚めたが、誰に呼ばれたのか、よくは分らぬ。もっとも、小松原とも立二りゅうじとも、我が姓、我が名めいを呼ばれたのでもなければ、聞馴ききなれた声で、貴郎あなた、と言われた次第でもない。

 とは言え、呼んだのは確たしかに婦おんなで……しかも目のぱっちりした──

「待て、待て、」

 当人寝惚ねぼけている癖に、他ひとの目色めつきの穿鑿せんさくどころか。けれども、その……ぱっちりと瞳の清すずしい、色の白い、髪の濃い、で、何に結ったか前髪のふっくりとある、俯向うつむき加減の、就中なかんずく、歴然ありありと目に残るのは、すっと鼻筋の通った……

 ここまで来ると、この家やの細君の顔ではない。それはもっと愛嬌あいきょうがあって、これはそれよりも品が優る。

 勿論、女中などに似ようはないと、夢か、現うつつか、朦朧もうろうと認めた顔の容かたちが、どうやらこう、目前めさきに、やっぱりその俯向うつむき加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。

 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性にょしょうが、

「開けて下さい。」

 と言ったのに応じて、唯今、と直ぐに答えたのであるが、扉ひらきの事だろう? その外廊下に、何の沙汰さたも聞えないは、待て、そこではなさそう。

「他ほかに開ける処と言っては、窓だが、」

 さてはまさしく魘うなされた? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗込のぞきこんで、窓を開けて、と言う婦おんなはあるまい。

 いや、無いとも限らん──有れば急病人の許とこから駈着かけつけて、門を敲たたいても、内で寝入込んで、車夫をはじめ、玄関でも起さない処から、等閑なおざりな田舎の構かまえ、どこか垣の隙間から自由に入って来て、直ぐに脊伸せいのびで覗のぞいた奴やつ。

 かとも思ったが、どちらを視ながめても、何も居おらず、どこに窓らしい薄明りも射ささなければ、一間開放した筈はずの、帷カアテンの戦そよぎも見えぬ。

 カタリとも言わず……あまつさえ西洋室まの、ひしとあり、寂しんとして、芬ぷんと、脳ここへ染くる、強い、湿っぽい、重くるしい薬の匂においが、形ある箔はくのように颯さっと来て、時にヒイヤリと寝台を包む。


三


 渠かれは、今更ながら、しとど冷汗になったのを知った。

 窓を開けたままで寝ると、夜気に襲われ、胸苦しいは間々ある習ならいで。どうかすると、青い顔が幾つも重かさなって、隙間から差覗さしのぞいて、ベソを掻かいたり、ニタニタと笑ったり、キキと鳴声を立てたり、その中には鼠も居る。──希代なのは、その隙間形すきまなりに、怪しい顔が、細くもなれば、長くもなり、菱形ひしがたにも円くもなる。夕顔に目鼻が着いたり、摺木すりこぎに足が生えたり、破やぶれ障子が口を開けたり、時ならぬ月が出いでなどするが、例えば雪の一片ひとひらごとに不思議の形があるようなもので、いずれも睡眠に世を隔つ、夜の形の断片かけららしい。

 すると、今見た女の顔は……何に憑ついて露あらわれたろう。

「何だか美しかった。」

 と思出して、今度は悚然ぞっとした。

「そして、奥さんだ?……奥さんとはどこの奥さんだ。」

 確たしかに此こ家この細君の顔ではない、あれでなし、それでもなし、目がぱっちりして、色が白く、前髪がふっくりと、鼻筋通り……

 と胸の裡うちで繰返して、その目と、髪と、色艶いろつやと、一つ一つ絡まとまり掛けると……覚おぼえがある!

 トンと寝台ねだいに音を立てて、小松原は真暗まっくらな中に、むっくと起きた。

「馬鹿な。」

 と思わず呟つぶやいた。

「何、そんな奴やつがあるものか。」

 いや、いや、もしその人だとすれば──三年以前に別れてから、片時も想わずにはおらぬ、寝た間も忘れはしないのであるから、幻も、その俤おもかげは当然あたりまえで、かえって不審いぶかしくも凄すごくもない筈はず。

「開けて下さい、」

 と云った……それそれ、扉ひらきを開けるつもりで、目を覚さましたに違いはない。

 且つ現うつつから我に返った、咄嗟とっさには、内の細君で……返事をしたが、かくの通り、続いてちっとも音沙汰のないのを思え。対手さきは何でも、小松原自分の目には、皆みんな胸にある、その人の俤おもかげに見えるのかも知れぬ。

「どこを、何を開けて、と云ったんだろう。」

 一体──と渠はまた熟じっと考えた。

 既に夢だと承知しながら、なお何か現在に、事を連絡させようとしている内が、その実、現うつつだったものらしいが。

 窓は開いているし、扉ひらきの外は音信おとずれは絶えたり、外に開けるものは、卓子テエブルの抽斗ひきだしか、水差の蓋ふた……

 いや、有るぞ、有るぞ、棚の上に瓶がある。瓶も……四つ五つ並んでいたろう。内の医師せんせいが手にかけたという、嬰児あかんぼの酒精アルコオルに浸つけたのが、茶色に紫がかって、黄色い膚はだに褐斑かばまだらの汚点しみが着いて、ぐたりとなって、狗いぬの児こか鼠の児かちょいとは分らぬ、天窓あたまのひしゃげた、鼻と口と一所に突き出た不状ぶざまなのが、前のめりにぶくりと浮いて、膝を抱いて、呀や! と一つ声を掛けると、でんぐりかえしを打ちそうな、彼これ大小もあったけれども、どれが七月児ななつきごか、六月児むつきごか、昼間見た時、医師せんせいの説明をよくは心にも留めて聞かなかったが、海鼠なまこのような、またその岩のふやけたような、厭いやな膚合はだあい、ぷつりと切った胞衣えなのあとの大きな疣いぼに似たのさえ、今見るごとく目に残る、しかも三個みッつ。

 と考え出すと、南無三宝なむさんぽう、も一つの瓶には蝮まむしが居たぞ、ぐるぐると蜷局とぐろを巻いた、胴腹が白くよじれて、ぶるッと力を入れたような横筋の青隈あおぐまが凹くぼんで、逆鱗さかうろこの立ったるが、瓶の口へ、ト達とどく処に、鎌首を擡もたげた一件、封じ目を突出る勢いきおい。

「一口どうかね。」

 と串戯じょうだんに瓶の底を傾けて、一つ医師せんせいが振った時、底の沈澱よどみがむらむらと立って、煙けむのように蛇身を捲まいたわ。

 場所が場所で、扱う人が扱う人だけ、その時は今思うほどでもなかったが、さてこう枕許まくらもとにずらりと並べて、穏かな夢の結ばれそうな連中は、御一方もお在いでなさらぬ。

 ああ、悪い処へ寝たぞ。

 中にも件くだんの長物ながものなどは、かかる夜更よふけに、ともすると、人の眠ねむりを驚かして、

「開けて下さい。」

 を遣やりかねまい、と独りで拵こしらえて、独りで苦笑した。


四


 寝覚ねざめの思いの取留め無さも、酒精浸アルコオルづけの蝮まむしが、瓶の口をば開けて給たべ、と夢枕に立った、とまでになる、と結句可笑おかしく、幻に見た婦おんなの顔が、寝た間も忘れぬその人を、いつもの通り現うつつに見た、と合点が行ゆくと、いずれ一まず安心が出来たので、そのまま仰向あおむけに、どたりと寝た。

 急に起上ったのであるけれども、さまで慌あわただしくもなかったらしく、枕は思った処にちゃんとある。ここで、枕の位置が極きまると、寝台ねだいの向むきも、室まの工合ぐあいも、方角も定まったので、どの道暗がりの中を、盲目覗めくらのぞきではあるが、扉ひらき、窓、卓子テエブル、戸棚の在所ありどころなどがしっかり知れる。

 上に、その六月目、七月目の腹籠はらごもり、蝮が据置かれた硝子がらす戸棚は、蒼筋あおすじの勝ったのと、赤い線の多いのと、二枚解剖かいぼうの図を提げて、隙間一面、晃々きらきらと医療器械の入れてあるのがちょうど掻巻かいまきの裾すその所、二間の壁に押着おッつけて、直ぐ扉ひらきの横手に当る。そこには明あかり取りも何にもないから、仄ほのかな星明ほしあかりも辿たどれないが、昼の見覚みおぼえは違うまい。同じ戸棚が左右に二個ふたつ、別に真中まんなかにずっと高いのを挟んで、それには真白まっしろな切きれが懸かかっていた、と寝乱れた浴衣の、胸越に伺う……と白い。茫ぼうと天井から一幅ひとはば落ちたが、四辺あたりが暗くて、その何にも分らぬ……両方の棚に、ひしひしと並べた明晃々こうこうたる器械のありとも見えず、寂しんとなって隠れた処は、雪に埋もれた関らしく、霜夜の刑場しおきばとも思われる。

 旅行の袂たもとに携えた、誰かの句集の中にでもありそうなのを、偶然ふと目に浮べたは可よかったが、たちまち、小松原は胸を打った。

 本尊! 本尊! 夢を驚かした本尊は、やあやあその中に鎮座まします──しかも婦おんなの骸骨がいこつで、その真白まっしろな蔽おおいの中に、襟脚を釣るようにして、ぶら下げた、足をすっと垂れて、がっくりと俯向うつむいたのが、腰、肩、蒼白あおじろく繋つながって、こればかり冷たそうに、夕陽を受けた庭の紫陽花あじさいの影を浴びて、怪しい色を染めたのを見た。

 もうこの上には、仇あだ、情なさけ、貴下あなた、私も無さそうな形ながら、婦おんなというだけ、骨の細りと、胸の辺あたりも慎ましやかに、頤おとがいを掻込かいこんだ姿を、仔細しさいらしく視ながめたが、さして心した、というでもなかったに、余程目に染みたものらしく、晩飯の折から、どうかした拍子だった、一風ひとかぜ颯さっと──田舎はこれが馳走ちそうという、青田の風が簾すだれを吹いて、水の薫かおりが芬ぷんとした時、──膳ぜんの上の冷奴豆腐ひややっこの鉢の中へ、その骨のどの辺あたりかが、薄うっすりと浮いて出た。

 それから前さきは、……寝しなに細君が串戯じょうだんに、

「夜中に出掛けますかも知れません、婦おんなだって言いますから。」

 と笑ったが、話が陽気で、別に気にもならずに寝た。処を、今のその婦おんなが来て……

「ほい、蝮まむしより、この方が開けてくれに縁がある。」

 いや、南無阿弥陀仏なむあみだぶつ、縁なんぞないのが可いい、と枕を横に目を外そらすと、この切きれがまた白い。襟許えりもとの浴衣が白い。同一おなじ色なのが、何となく、戸棚の蔽おおいに、ふわりと中だるみがしつつも続いて、峠の雪路ゆきみちのように、天井裏まで見上げさせる。

 小松原はまた肩のあたりに、冷い汗を垂々たらたらと流したが、大分夜も更けた様子で、冷々ひやひやと、声もない、音もせぬ風が、そよりと来ては咽喉のどを掠かすめる。

 ごほんと、乾咳からぜきを咳せいて、掻巻かいまきの襟を引張ひっぱると、暗がりの中に、その袖が一波ひとなみ打って煽あおるに連れて、白い蔽おおいに、襞襀ひだが入って、何だか、呼吸いきをするように、ぶるぶると動き出す。

 目を塞ふさいでも、こんな時は詮せんがないから、一層また起直って、確しかと、その実は蔽が見えるのでもなく、勿論揺れるのでもない、臆病眼おくびょうまなこが震えるのを、見定めようと思ったが、頭が重いのに、瞼まぶたがだるく、耳が鳴る。手足もぐったりで、その元気が出ぬ。

 ままよ、寝っちまえ! ぐッと引被ひっかぶると、開いたのか、塞いだのか、分別が着かぬほど、見えるものはやっぱり見えて、おまけに、その白いものが、段々拡がって、前へ出て、押立おったって、まざまざと屏風びょうぶを立てたように寄って来る。


五


 さあ、その、ふわふわと縦に動く白いものが、次第低びくに、耐力たわいなく根を抜いて、すっと掻巻かいまきの上へ倒れたらしい心地がすると、ひしひしと重量おもみが掛かかって、うむ、と圧おされた同然に、息苦しくなったので、急いで、刎退はねのけに懸かかると、胸に抱合わせている手が直ぐに解けず、緊着しめつけられているような。

 腕を引っこ抜く勢いきおいで、捥もがいて、掻巻をぱっと剥はぐ、と戸棚の蔽おおいは、旧もとの処にぼうと下さがって、何事も別条はない。が、風がまたどこからか吹いて来て、湿っぽい、蒼臭あおくさい、汗蒸いきれた匂においが、薬の香に交って、むらむらとそこらへ泳ぎ出す。

 疲れ切った脳の中に、その臭気ばかりが一つ一つ別々に描かれて、ああ、湿っぽいのは腹籠はらごもりで、蒼臭いのは蝮まむしの骸むくろ、汗蒸れたのは自分であろう。

 そのにおいを見附けたそうに、投出している我が手をはじめ、きょろきょろと眗みまわす内に、何となくほんのりと、誰だか、婦おんなの、冷い黒髪の香がしはじめる。

 香のする方を、熟じっと見ると、ただやっぱり白い……が、思いなしか、その中に、どうやら薄墨で影がさして、乱しもやらず、ふっくり鬢びんが纏まとまって、濃い前髪の形らしく見分みわけがつく、と下から捲まき上がるごとく、白い切きれが、くるくると小さくなり、左右から、きりりと緊しまって、細くなって、その前髪を富士形に分けるほど、鼻筋がすっと通る。

「奥さん!」

 と思わず言って、小松原はまた目を覚した。

 トもまだ心着かないで、

「今、開けます。」

 と言って、愕然がくぜんとして我に返った。

「また、夢か。」

 今度は目が覚めつつも、まだ、その俤おもかげが室まの中うちに朦朧もうろうとして残ったが、吻ほと吐つく呼吸いきにでも吹遣ふきやられるように、棚の隅へ、すっと引いて、はっと留まって、衝つと失なくなる。

 後がたちまち真暗まっくらになるのが、白の一重芥子ひとえげしがぱらりと散って、一片ひとひら葉の上に留とまりながら、ほろほろと落ちる風情。

「こりゃ、どうかしているな。」

 現うつつと幻との見境みさかいさえ附きかねた。その上、寒気はする、頭かしらは重し、いや、耐たまらぬほど体が怠だるい。夜が明けたら、主人の一診を煩わそうまでは心着いたが、先刻さっきより、今は起直る力がない。

 特に我慢のならぬのは、呼吸苦いきぐるしいので、はあはあ耳に響いて、気の怯ひけるほど心臓の鼓動が烈はげしくなった。

 手を伸ばすか、どうにかすれば、水差に水はある筈はず、と思いながら、枕を乗出すさえ億劫おっくうで、我ながら随ま意まにならぬ。

 ちょうど、この折だったが、びしょびしょ、と水の滴るような音がし出した。遠くで蚊の鳴くのかとも聞えるし、鼠が溢こぼしたかとも疑われて、渇いた時でも飲みたいと思うような、快い水の音信おとずれではない。

 陰気な、鈍い、濁った──厭果あきはてた五月雨の、宵の内に星が見えて、寝覚にまた糠雨ぬかあめの、その点滴したたりが黴かびた畳に浸込しみこむ時の──心細い、陰気でうんざりとなる気勢けはいである。

「水差が漏るのかな……」

 亀裂ひびでも入いっていたろう。

「洋燈ランプから滲出しみだすのか……」

 可厭いやな音だ。がそれにしては、石油の臭においがするでもなし……こう精神が濛もうとしては、ものの香は分るまい。

 断念あきらめるつもりにしたけれども、その癖やっぱり、頻しきりに臭う。湿っぽい、蒼あおくさい、汗蒸いきれたのが跳廻はねまわる。

「ソレまた……」

 気にすると、直ぐに、得ならず、時めく、黒髪の薫かおりが颯さっと来た。

「また夢か。」

 いつまで続く、ともうげんなりして、思慮かんがえが、ドドドと地じの底へ滅入めいり込む、と今度は、戸棚の蔽おおいが纏まとまって、白い顔にはならない替りに、窓の外か、それとも内か、扉ひらきの方角ではなしに、何だか一つ、変な物音……沈んだ跫音あしおと。


六


 その音は──今しがた聞え出した、何かを漏れて、雫しずくの落ちる不快な響ひびきが、次第に量を増して、それの大きくなったもののようでもあるし、新たに横合から加わったもののようでもある。

 何しろ、同一おなじ方角に違いない。……開けて寝た窓から掛けて、洋燈ランプがそこで消えた卓子テエブルの脚を伝つたわって床に浸出す見当で、段々判然はっきりして、ほたりと、耳許みみもとで響くかとするとまた幽かすかになる。幽になって外おもての木この葉を、夜露が伝うように遠ざかる。──が、絶えたり続いたりと云うよりは、出つ入いりつ、見えつ隠れつするかに聞えて、浸出にじみだすか、零こぼれるか、水か、油か、濡れたものが身繕いをするらしい。

 しばらく経たつと、重さに半ば枕に埋うずんで、がっくりとした我が頭髪かみのけが、その潵しぶき……ともつかぬ水分を受けるにや、じとりと濡れて、粘々ねんばりとするように思われた。もう、手で払う元気が無いので、ぶるぶると振ると、これは! 男の天窓あたまにあるべくもないが、カランと、櫛くしの落ちた音……

 例のほたほた零れる水と、やがてまた縁が離れて、直ぐに新あたらしい音がはじまり、寝台ねだいの脚から掻巻かいまきの裾すそへかけて、こう、一つ持上げては、踏落す……それも、爪先つまさきで擦こするでなしに、宙を伝う裙すそから出て、踵かかとが摺すれ摺れに床へ触るらしく、小股こまたに歩行あるくほどの間あわいを措おいて、しと、しと、しと。

 まさかこれぎりに殺されもしまい、と小松原は投なげに出て、身動きもしないでいれば、次第に寝台の周囲まわりを廻って、ぐるりと一周りして枕許まくらもとを通る、と思うと、ぐらぐらと頭を取って仰向あおむけに引落される──はっとすると、もう横手へ退のく。

 その内に、窓下の点滴したたりが、ますます床へ浸出しみだすそうで、初手は、件くだんの跫音あしおととは、彼これ間あわいを隔てたのが、いつの間にか、一所になって、一条ひとすじ濡れた路が繋つながったらしくなると、歩行あるく方が、びしょびしょ陰気に、湿っぽくなって来た。

 これでは目が覚めて見ると、血の足跡が、飛々とびとびに残っていようも知れぬ。

 飛々どころか、何として、一面の血か、水であろう、と思われたのは、間も無くであった。

 しとしという尋常らしい跫音あしおとが、今はびちゃびちゃと聞えて来た。水なら踵かかとまで浴かかろう深さ、そうして小刻こきざみに疾はやくなったが、水田みずたへ蹈込ふみこんで渡るのを畔あぜから聞く位の響き。

 と卓子テエブルの上で、ざざっと鳴出す。窓から、どんどと流込む。──さてもさても夥多おびただしい水らしいが、滝の勢いきおいもなく、瀬の力があるでもない。落ちても逆捲さかまかず、走っても迸ほとばしらぬ。たとえば用水が畔へ開き、田が一面の湖となる、雨上あまあがりの広田圃ひろたんぼを見るような、鮒ふなと鰌どじょうの洪水めいたが、そのじめじめとして、陰気な、湿っぽい、ぬるぬるした、不気味さは、大河おおかわの出水でみずの凄すごいに増まさる。

 そんな水がどこへ出た、と言われたら、この部屋一面、と答えようと思いながら、小松原は但し身動きも出来ないのである。

 やがて短夜みじかよが……嬉しや、もう明けそうに、窓から白濁りの色が注さして、どんよりと光って、卓子テエブルの上へ飜った、と見ると、跫音あしおとが、激しくなって、ばたばたばた、とそこいらを駈かけたが、風か、水か、ざっと鳴る時、婦おんなの悲鳴が、

「あッ」

 と云う……

「奥さん。」

 と刎起はねおきる、と、起きた正面に、白い姿が、髴ふつとある!

「ああ、夢か。」

 と気が着いたが、まざまざ垂れたその切きれが、ふっくりした乳にも見えるし、すっとした手にも見える。その辺あたりが、と思うと、円い肩になり、なぞえに白く胸になって、くびって腰になって、すらりと裾のようになる。

 あの、雪に、糸一条ひとすじも懸かからぬか、と疑えば、非ず、ひたひたと身に着いた霞のような衣きぬをぞ絡まとう。

 と見ると、乳ちの辺あたり、胸へ掛けて、無慚むざんや、颯さっと赤くなって、垂々たらたらと血に染まった。


七


 枕に響いた点滴したたりの音も、今さらこの胸からか、と悚然ぞっとするまで、その血が、ほたほたと落ちて、汐しおが引くばかりに、見る間に、びしゃびしゃと肉が萎しぼむ、と手と足に蒼味あおみが注さして、腰、肩、胸の隅々くまぐまに、まだその白い膚はだが消々きえぎえに、薄うっすらと雪を被かついで残りながら、細々と枝を組んで、肋骨あばらぼねが透いて見えた。

「ああ、これだな。」

 と合点が行ゆく。

 途端に、がたがたと戸棚が鳴った。

 自分で正気づいたと、心が確たしかになった時だけ、現うつつの婦おんなの跫音あしおとより、このがたがたにもう堪たまらず、やにわに寝台ねだいからずるずると落ちた。

 小松原は暗がりを手探りながら、鋭くなった神経に、先刻さっきから電燈でんきで照らしたほど、室内の見当はよく着けていたので、猶予ためらいもせず、ズシンと身体からだごと扉ひらきの引手に持って行ゆくと、もとより錠を下ろしたのではない。

 ドンと開あく。

 扉に身体からだが附着くッついて、発奮はずんで出たが、跨またいだ足が、そう苦なしには大穴から離りょうとはせぬので、地獄から娑婆しゃばへ踏掛けた体ていで、独ひとりで踠もがいて、どたんばたん、扉の面おもてと、や、組んだりける。

 この物音に、驚破すわやと奥で起直って、早や身構みがまえをしたと見える──慌あわただしい耳にも、なおがったりと戸棚の前の怪しげな響ひびきがまた聞えたのに、堪たまりかねて主人あるじを呼ぶと──向うへ、突当りの縁が折曲った処に、ぼうと射さしていた灯あかりが動いて、直ぐに台附の洋燈ランプを手にした、浴衣の胸のはだかった、扱帯しごきのずるずるとある医師せんせいが、右を曲って、正面へ。

 開放した障子を洩もれて、だらりと裾すそを引いた萌黄もえぎの蚊帳を横にして、廊下の八分目ぐらいな処で、

「便所か。」

 と云う、髯ひげ、口許くちもとが明々あかあかとして、洋燈ランプを翳かざす。

 この明あかりで、小松原は水浸しになったほど、汗びっしょりの、我ながら萎垂しょぼたれた、腰の据すわらぬ、へとへとになった形を認めたが、医学士はかつて一年志願兵でもあったから、武備も且つある、こんな時の頼母たのもしさ。顔を見ると、蘇生よみがえった心地で、

「やあ。」と掛けた声が勢いきおいなく中途で掠かすれて、

「夜更けに恐縮、」

 とやっと根こそぎに室へやを離れた。……扉ひらきを後うしろざまに突放せば、ここが当館やかたの関門、来診者の出入口で、建附に気を注つけてあるそうで、刎返はねかえって、ズーンと閉る。

 と突出された体ていにしょんぼり立って、

「どうも、何だ、夜夜中よるよなか、」

 医師せんせいは亭主関白といった足取、深更に及んでも、夜中でも、その段は一切頓着とんじゃくなく、どしどしと廊下を踏んで、やがて対向さしむかいになる時、傍かたわらの玄関の壁越に凄すさまじい鼾いびきを聞いて、

「壮さかんだ、壮だ。」

 と莞爾にっこりする。

 顔色かおつきが、ぐっすり寝込んだ処を、今ので呼覚よびさまされて、眠いに迷惑らしい様子もないので、

「どうも気の毒です。酷ひどい目に逢ってね。」

 といささか落着く。

 医師せんせいは立たちはだかりつつ、

「どうした、蚊軍ぶんぐんの襲来かい。」

 なかなか、こんな事を解釈する余裕はなくって、

「ええ、」

 といかにも気が利かない。

「蚊に城を破られたかよ。」

「そこどころか。」

 対手あいての余り暢気のんきなのが、この際怨うらめしく思われた。

「この中は大変だ。」

「大変だ?」

「何か来たんだ。」

「何、入って来たか、」

 と洋燈ランプを上げて、扉ひらきの上を、ぐいと仰ぐ。

「がたがた遣やってる。」

 小松原は、ずうっと医師せんせいに身を寄せる、と目を返して、今度はその体ていをじろじろ視ながめて、

「震えてるね、君は。」


八


「どうだい、心持は。もう爽快さっぱりしたろう。」

 主人あるじの医師せんせいは、奥座敷の蚊帳の中に、胡坐あぐらして、枕許まくらもとの煙草たばこ盆を引寄せた。

「こういう時は、医師いしゃの友達は頼母たのもしかろう。ちと処方外の療治だがね、同じ葡萄酒ぶどうしゅでも薬局で喇叭らっぱを極きめると、何となく難有味ありがたみが違って、自おのずから精神が爽快そうかいになります。しかし怯おびえたっけ、ははは。」

 と髯ひげを捻ひねって、冴々さえざえしい。

 蚊がぶうんと唸うなって、歯切はぎしりもどこかでする。灯あかりの暗い、鬱陶うっとうしかるべき蚊帳の内も、主人あるじがこれであるから、あえて蒸暑くもないのであった。

 小松原は、裾すそを細う、横に手枕で気を休めていた。

「怯えたどころか、一時はそのままになるかと思った。起きるには起きられず、遁にげるには遁げられず、寝返りさえ容易じゃない、実際息が留まりそうだったものね。」

 咽喉のどを斜ななめに手を入れて、痩やせた胸を圧おさえながら、

「見たまえ、いまだにこの動悸どうきを、」

「色は白くっても、野郎の癪しゃくを圧おさえたってはじまらない。は、はは、いや、しかし弱い男だ。」

「ふ、ふ、」

 と力抜けた声で笑って、

「奥さんは?」と俯向うつむけに額を圧える。

「御心配に及びません。君が侵入に及んだために他室へ遠慮したというんじゃない。小児こどもの奴がまた生意気に、私がちと飲過すと、酒臭い、と云って一つ蚊帳を嫌います。いや、大おおきに台所の内諭ないゆなきにしもあらずだろうが。

 そこで、先刻さっき、君と飲倒れたまま遠島申附かった訳だ。──空鉄砲からでっぽうの機会きっかけもなしに、五斗兵衛むっくと起きて、思入おもいいれがあったがね。それっきり目が冴えて寝られないで、いささか蚊帳の広さかなの感あった処です。

 君もちょっとは寝られまい、朝までここで話したまえ。」

 折から陽気にという積りか、医師せんせいの言は、大おおいに諧謔かいぎゃくの調を帯びたが、小松原はただ生真面目きまじめで、

「どうかそうしてくれたまえ。ここを追出されたればといって、二度とあすこへ行って寝る気はしない。どうも驚いた。」

「はじめから奇を好むからです。あすこへ行って寝るなんざ、どの道好よくない。いずれ病人でなくっては乗っからない寝台ねだいだもの。もっとも、私にゃ大切な商売道具だがね。

 しかしそれにしてもあんまりな怯おびえ方だ。夢を見て遁出にげだすなんざ、いやしくも男子たるべきものが……と云って罵倒ばとうするわけじゃないが、ちとしっかりしないかい。串戯じょうだんじゃない、病気になる。

 そんなのが嵩こうじると、何も餅もち屋がって、ここで病名は申さんがね、起きている真昼間まっぴるまでも目に見えるようになる。それ、現在目に見えて、そこに居るから、口も利くだろう、声も懸けようではないか。傍はたから見ると、直ぐにもうキの字だぜ、恐るべし、恐るべし。

 何も、朦朧もうろうと露あらわれたって、歴々ありありと映ったって、高が婦おんなじゃないか。婦の姿が見えたんだって言うじゃないか。何が、そんなに恐いものか。」

「別に見えたって訳じゃない。何だか寝台の周囲まわりを歩行あるいたんだが、そう、どっちにしても婦おんならしく思われた──それがすぐに、息の詰るほど厭いやな心地こころもちだったんではないけれども、こう、じとじとして、湿っぽくッて、陰気で、そこらに鯰なまずでも湧出わきだしそうな、泥水の中へ引摺込ひきずりこまれそうな気がしたんで、骨まで浸透しみとおるほど慄然々々ぞくぞくするんだ。」

 と肩を細うして、背せなで呼吸いきをする。

「男らしくもない、そんな事を言って梅雨期つゆどきはどうします、まさか蓑笠みのかさを着て坐ってやしまい。」

「うむ、何、それがただのじとじとなら可いいけれど、今云う泥水の一件だ、轟ごうと来た洪水か何かで、一思ひとおもいに流されるならまだしもです──灯あかりの消えた、あの診察処じょのような真暗まっくらな夜、降るともつかず、降らないでもない、糠雨ぬかあめの中に、ぐしゃりと水のついた畔道あぜみちに打坐ぶっすわって、足の裏を水田みずたのじょろじょろ流ながれに擽くすぐられて、裙すそからじめじめ濡通って、それで動くことも出来ないような思いを一度して見たまえ。」

 と力強く云って、また小松原は溜息ためいきで居る。


九


 医師せんせいは徐おもむろに、煙草盆を引寄せて、

「それ、そこが苦労性だと言うのです。窓を開けたまんまで寝たから、夜風が入って湿っぽかったらただ湿っぽかったで可よかろう。何も真暗まっくらな夜、田圃たんぼの中に、ぐしゃりと坐って、足の裏を擽くすぐられて、腰から冷通ひえとおるとまで、こじつけずともの事だ。その気でお膳ぜんに向った日にゃ、お汁つけの湯気が濛々もうもうと立騰たちのぼると、これが毒のある霧になる、そこで咽死むせじにに死にかねませんな。」

「そう一概に言ってくれる事はない。どうせ現在お目に懸けた臆病おくびょうです。それを弁解するんじゃないが、田圃だの、水浸しだの、と誇大に妄想もうぞうした訳ではありません。

 実際、そんな目に逢って、一生忘れられん思おもいをした事があるからだよ。いや、考えても身の毛が弥立よだつ。」

 フイと起返って、蚊帳の中を眗みまわしたが、妙に、この男にばかり麻目が蒼あおい。

 医師せんせいは落着いて、煙を吹かして、

「どこで野宿をした時だ、今度の旅でか。」

「ううむ。」

 と深く頭かぶりを振って、

「いつかの時さ、あの一件の……」

 と言懸けて、頬のこけた横顔になって打背うちそむいた。──小松原の肩のあたりから片面かたおもの耳朶みみたぶかけて、天井の暗さが倒さかさまに襲ったのを、熟じっと見ながら、これがある婦人と心中しようとした男だと頷うなずいた。

 当時その風説は、友達の間に誰も知らぬものはなかったが、医学士は、折から処を隔てていたので、その場合何事にも携わらなんだ。もう三年か四年かと、指を折るほど前さきに、七十五日も通越したから、更あらためて思出すほどでもなし、おいそれと言ことばに従ついて、極きまりの悪い思おもいをさせるでもなかろう。で、一向無頓着むとんじゃくに、

「何だい、いつかの一件とは?」

「面目次第も無い件ことさ。三年前ぜんだ、やっぱりこの土地で、鉄道往生をし損そくなった、その時なんです。」

「ああ、そんな事があったってな、危いじゃないか。」

 と云う内に自おのずから真心が籠こもって、

「一思いに好男子、粉にする処だっけ。勿論、私がこうして御近所に陣取っていれば、胴切どうぎりにされたって承合うけあい助かる。洒落しゃれにちょいと轢ひかれてみるなんぞも異おつだがね、一人の時は危険だよ。」

 わざと話に、一人なる語ことばを交えて、小松原が慚愧ざんきの念を打消そうとするつもりだった。

 ところが案外! この情なさけに、太いたく動かされた色が見えたが、面おもてを正しゅう向直った。

「何とも──感謝する。古疵ふるきずの悩なやみを覚えさせまい、とそうやって知らん顔をしてくれるのは真まことに嬉しい、難有ありがたいが……それでは怨うらみだ。

 ねえ。

 あれほどの騒ぎだもの。ことに自惚うぬぼれらしいが、私の事を忘れないでいてくれる君が、しかもこの土地へ来ていて、知らないという法はない。承知の上で、何にも知らん振ふりをしてくれるのは、やっぱりあの時の事を、世間並に、私が余処よその夫人を誘って、心中を仕損しそくなった、とそう思っているからです。

 勝手な事を言うものには、言わしておいて構わんけれども、君のような人に対しては、何とももって恥入るんだ。」

 と俯向うつむいて腕を拱こまぬき、

「その君の情なさけある心で、どうか訳を聞いて欲しい。くどい事は言わん。何しろ、少なくとも君だけには言訳をする責任があると思う。」

 医師せんせいは潔く、

「承わろう。今更その条道すじみちを話して聞かせる……惚気のろけなら受賃を出してからにしてもらおうし、愚痴ぐちなら男らしくもない、止よしたまえ──だが、私たちが誤解をしているんなら、大おおいに弁じて聞かせてくれ、今まで疑っていたから私にも責任がある。」

「そう、きっぱりとなられては、どうもまた言出しにくい。」

「可いいじゃないか、その容体を聞かせたまえ、医師いしゃには秘密を打開うちあけて可いいもんだ。」

「…………」

 言淀いいよどんで見えたので、ここへ来い、と構かまえを崩して、透すきを見せた頬杖ほおづえし、ごろりと横になって、小松原の顔を覗込のぞきこみつつ、

「で、何か、その晩、田圃たんぼに坐ったのか。」

 と軽く扱あしらって誘さそいを入れた。


十


「まあ、坐ったんだ。」

 小松原は苦笑して頬を撫なでたが、寂しそうに打傾き、

「土下坐どげざをしたというわけでもないが、やっぱり坐っていたんだよ。」

「またどうしてだい。」

 と医師せんせいは寛くつろいだ身の動作こなしで、掻巻かいまきの上へ足を投げて、綴糸つづりいとを手で引張ひっぱる。

「それがね、」

と熟じっと灰吹を見詰めてから、静かに巻莨まきたばこを突込つッこみながら、

「はじめは何でもない事だった。──何の気なしに、あの人を、そこいらへ散歩に誘ったんです。」

「あの人ッて?」

「…………」

「ははあ、対手あいての貴婦人だね。」

「そんな事を言わないで、」

 と吸口をもっと突込つッこむ。

「可いいじゃないか、何も貴婦人と云ったって、直ぐに浮気だ、という意味ではないから。」

「何、貴婦人に違いはないが、その対手あいてが悪い。」

「可よし、可し、黙って聞こう。そうまた一々気にしないでお話しなさい。そこで。」

「御存じの通り、あの前の年から、私は体が悪くって二年越この田舎へ来ていたんだ。あの人は、私が世話になってる叔父が媒酌人なこうどで結婚をしたんだろう。大して懇意ではないが見知越みしりごしでいたのだった。

 ちょうど戦争のあった年でね。

 主人は戦地へ行って留守中。その時分、三才みッつだった健坊と云うのが、梅雨あけ頃から咳せきが出て、塩梅あんばいが悪いんで、大した容体でもないが、海岸へ転地が可いい、場所は、と云って此こ地こを、その主治医が指定したというもんです。

 小児こどもの病気とはいいながら、旅館と来ると湯治とうじらしく、時節柄人目に立つ。新あらたに別荘を一軒借りるのも億劫おっくうだし、部屋借がりが出ず入らず、しかるべき空座敷あきざしきがあるまいか、と私が此地こっちに居た処から、叔父へ相談があったというので、世話をするように言って来た。

 そちこち聞合せると、私が借りていた家から、田圃たんぼの方へ一町ばかり行った処に、村じゃ古店で商あきないも大きく遣やっている、家主の人柄も可よし、入口が別に附いて、ちょっと式台もあって、座敷が二間、この頃に普請をしたという湯殿も新しいし、畳も入替えたのがある。

 直ぐに極きめて、そこへ世話をして、東京から来る時も、私が停車場ステエションへ迎いに行って、案内をしたんだっけが、七月盆過ぎから来ていて、九月の末の事だったよ。

 五日ばかり降続いて、めっきり寂しくなる。朝晩は、単衣ひとえに羽織を被きて、ちとまだぞくぞくして、悪い陽気だとばかり、言合って閉籠とじこもっていた処……その日は朝から雨が上あがって、昼頃には雲切くもぎれがして、どうやら晴れそうな空模様。でもまだ、蒼空あおぞらは見えなかったが、多日しばらくぶりで、出歩行であるくに傘は要らない。

 小児こどもを歩行かせるには路みちが悪いから、見得張らない人だ、またおんぶをして、宿の植込の中から、斜はすっかいに私の前二階を覗のぞいて、背中の小児に言わせるように、前髪を横向けにして、

(お出掛けなさいませんか。)

 と浜を誘いに見えるだろう。

(小松……君。)

 と原抜きにして、高慢に仇気あどけなく高声で呼ぶ、小児の声が、もうその辺から聞えそうだ、と思ったが、出て来ない。

 その内、湯に入ると、薄うっすりと湯槽ゆぶねの縁へ西日がさす。覗のぞくと、空の真白まっしろな底に、高くから蒼空が団扇うちわをどけたような顔を見せて、からりと晴れそうに思うと、囲かこいの外を、

(水が出たぞ。)

(田圃一面。)

 と饒舌しゃべって通った。

 これを聞くと、何か面白い興行でもはじまったような気がして、勇んで、そわそわして、早く行って見たくって、碌ろくに手拭てぬぐいも絞らないで、ふらんねるを引ひっかけたなり、帽子も被かぶらずに、下駄を突掛つッかけて出たんだがね。」──


十一


「汎水でみずだ、と云ったって、この通り、川らしい川のない処だから、駈出かけだして見物に行くほどの事もなさそうなもんだけれど、私は何だ。……

 董すみれ、茅花つばなの時分から、苗代、青田、豆の花、蜻蛉とんぼ、蛍、何でも田圃が好すきで、殊に二百十日前後は、稲穂の波に、案山子かかしの船頭。芋莄ずいきの靡なびく様子から、枝豆の実る処、ちと稗蒔ひえまき染みた考えで、深山大沢しんざんだいたくでない処は卑怯ひきょうだけれど、鯨くじらより小鮒こぶなです、白鷺しらさぎ、鶉うずら、鷭ばん、鶺鴒せきれい、皆みんな我々と知己ちかづきのようで、閑古鳥よりは可懐なつかしい。

 山、海、湖などがもし天然の庭だったら、田圃はその小座敷だろう。が、何しろ好きでね、……そのせいか、私には妙な事がある。

 いつ頃からかはよく分らんが、床に入って、可いい心持に、すっと足を伸のばす、背せなかが浮いて、他愛たわいなくこう、その華胥かしょの国とか云う、そこへだ──引入れられそうになると、何の樹か知らないが、萌黄色もえぎいろの葉の茂ったのが、上へかかって、その樺色かばいろの根を静しずかに洗う。藍あいがかった水の流ながれが、緩く畝うねって、前後あとさきの霞んだ処が、枕からかけて、睫まつげの上へ、自分と何かの境目さかいめへ露あらわれる。……

 トその樹の下に、笊ざるか何か手に持って、まあ、膝ぐらいな処まで、その水へ入って、そっと、目高か鮒か、掬すくってる小児こどもがある。其奴そいつが自分で。──ああ、面白そうだと思うと、我ながら、引き入れられて、身節みふしがなえて、嬉しくなる。その内に波立ちもしないで、水の色が濃くなって、小濁ささにごりに濁ると思うと、ずっと深さが増して、ふうわり草の生えた土手へ溢あふれるんだがね、その土手が、城趾しろあとの濠ほりの石垣らしくも見えれば、田の畔あぜのようでもあるし、沼か、池の一角のようでもある。その辺は判然しないが、何でも、すっと陽炎かげろうが絡まつわる形に、その水の増す内が、何とも言えない可いい心地で、自分の背中か、その小児の脚か、それに連れて雲を踏むらしく糶上せりあがると、土手の上で、──ここが可訝おかしい──足の白い、綺麗きれいな褄つまをしっとりと、水とすれすれに内端うちわに掻込かいこんで、一人美人が彳たたずむ、とそれと自分が並ぶんで……ここまで来るともう恍惚うっとり……

 すやすや寝ます。

 枕に就いて、この見える時は、実際子守唄で賺すかされるように寝られる。またまったく心持の可い時でないと見えんから、見えない時でも見るように、見るようにと心掛ける──それでも、散らかって、絡まとまらないで、更に目に宿らん事が多い。そういう時は、きっと寝そびれて悩むんだ。

 そこで、大好きな田圃の中でも、選分えりわけて、あの、ちょろちょろ川が嬉しい。雨上あまあがりにちっと水が殖ふえて、畔へかかった処が無類で。

 取留めのない事だが、我慢して聞きたまえ。──本人にも一向掴つかまえ処はない。いつも見る景色だけれども、朝だか、晩方だか、薄曇った日中ひなかだか、それさえ曖昧あいまいで、ただ見える。

 さあ、模様が誂向あつらえむきとなったろう──ところで、一番近い田圃へ出るには、是非、あの人が借りていた、その商家あきんどやの前を通るんだったよ。

 店をはずれて、ひょろひょろとした柳で仕切った、その門かどを見ると、小児こどもが遊んでいたらしく、めんこが四五枚、散ばらに靴脱ぎのたたきの上へ散ちらかって、喇叭らっぱが一ツ、式台に横飛び。……で、投出して駈出かけだしたか、格子戸が開放あけっぱなし、框かまちの障子も半分開いて、奥の長火鉢の端が見えた。

 その格子戸の潜くぐりの上へ手を掛けて、

(健ちゃん、)

 と呼んでみたが、黙っていた。

(居ないの。お留守、)

 と遣やると、……そこもやっぱり開いたままの、障子の陰の、湯殿へ通う向うの廊下へ、しとしとと跫音あしおとがして、でも、黙然だんまりで、ちょいと顔だけ見せて覗のぞいたが、直ぐに莞爾にっこりして、縁側を奥座敷へ上あがった姿は……

 帯なし、掻取かいどり気味に褄つまを合せて、胸で引抱えた手に、濡手拭ぬれてぬぐいを提げていた。二間を仕切った敷居際に来て、また莞爾にっこりすると、……」

「謹聴、」

 と医学士せんせいが唐突だしぬけに云った。

「真面目だよ、真面目だよ。」


十二


「湯上りの、ぱっと白い、派手な、品の可いい顔を、ほんのり薄紅うすべにの注さした美しい耳許みみもとの見えるまで、人可懐ひとなつッこく斜めにして、

(失礼、今ね、お返事の出来ない処だったの……裸体美人、)

 と云って花やかな笑顔になる。いかにも伸々のびのびと寛容ゆったりして、串戯じょうだんの一つも言えそうな、何の隔てもない様子だったが、私は何だか、悪い処へ来合せでもしたように、急込せきこんで、

(田圃へ行って見ませんか、)

 と何のあしらいもなく装附もりつけた。

(は、参りましょう、)

 と頷うなずいて、台所の方を振返りながら、

(ちょいと、御免なさいよ。)

 支度を、と断るまでもなく、平常着ふだんぎのままで出は出たが、──その時、横向きになって、壁に向うと、手を離した。裙すそが落ちて、畳に颯さっと捌さばけると、薄色の壁に美しく濡蔦ぬれづたが搦からんで絵模様、水の垂りそうな濡毛ぬれげを、くっきりと肱ひじで劃くぎって、透通るように櫛くしを入れる。ちょうどそこの柱に懸けて、いかがな姿見が一面あった──勿論、東京から御持参の品じゃない。これと、床の間の怪しい山水は、家主のお愛想なんです──あの人がまた旅へ姿見を持って出るような心掛けなら、なに、こんな処で、平気でお化粧つくりをする事もなかろう。

 熟じっと見てもいられますまい。この際、どこへ持って行こうか、と背ける目を掠かすめて、月の中を雪が散った……姿見に映った胸で、……膚はだの白い人だっけ。

 直ぐにそれは消えたけれど、今のその褄つまはずれの色合は、どうやら水際に足を白く、すらりと立った姿に見えたが……

 ああ、その晩方、幻のような形で、二人して、水の上に立つようになったんだ。

 何に誘われて出たんだか、──とうとうあんな酷ひどい目に逢う原因もとだったがね。別に怪しいものじゃない、自分が時々見る美しい、嬉しい夢、──いや、夢じゃない、我が心に、誘出さそいだされたものかと思う。」

 小松原は、現うつつのように目を睜みはって、今向直って気を入れた、医師せんせいの顔を瞻みまもりながら、

「また愚痴だ、と言うだろうが、後で考えれば、私は今までの経験に因ると、いつでも、湯の中でフイと気が立って、何だか頻しきりにそわついて、よくも洗わないで飛出した時に限って、余りめでたい事がない。一度も小児こどもの時だった、やっぱりそういう折に大怪我をしたのを覚えている。

 それにね、そんな風で停車場ステエションへ迎いに行って、連れて来て、家うちも案内する、近所で間に合せの買物まで、一所に歩行あるいて、台所の俎まないた、摺鉢あたりばちの恰好かっこうまで心得てるような関係になっていたから、夏の中うちも随分毎日のように連立って海岸へ行ったんで──また小児のために、それが何よりの目的なんでね。

 来たてには、手荷物の始末、掃除の手伝いかたがた、馬丁べっとうと、小間使と女中と、三人が附いて来たが、煮炊にたきが間に合うようになると、一度、新世帯のお手料理を御馳走ごちそうになった切り、その二人は帰った、年上の女中だけ残って。それも戦時の遠慮からです。

 一人になったが、女中には大した用があるんじゃない。どうせ旅の事で、何を極きまって、きちょうめんにしなければならんというでもなし、一向気取らない女主人で、夜も坊ちゃんを真中まんなかへ、一ツ蚊帳に寝るほどだから、お茶漬をさらさらで、じゃかじゃかと洗ってしまえば埒らちは明く。女中も物珍らしく遊びたいから、手廻しよく、留守は板戸の開閉あけたて一つで往来ゆききの出来る、家主の店へ頼んで、一足後おくれ馳ばせにでも、

(坊ちゃん)……か何かで、直ぐに追着おッつく。

 だから、いつでも女中が一所で、その健坊と四人連れ立たないのは珍らしい、まあ、ほとんど無かったろう。

 浜に人影がなくなって、海松みるばかり打上げられる、寂しい秋の晩方なんざ、誰の発議だったか、小児が、あの手遊おもちゃのバケツを振提ぶらさげると、近所の八百屋へ交渉して、豌豆豆えんどうまめを二三合……お三どんが風呂敷で提げたもんです。磯いそへ出ると、砂を穿ほって小さく囲って、そこいらの燃料もえくさで焚附たきつける。バケツへ汐汲しおくみという振事があって、一件ものをうでるんだが、波の上へ薄うっすりと煙が靡なびくと、富士を真正面まっしょうめんに、奥方もちっと参る。が、落日に対して真まことに気高い、蓬莱ほうらいの島にでも居るような心持のする時も、いつも女中が随ついていたのに。」


十三


「それが、その時に限って二人きりだった。もっともね、

(健ちゃんは?)ッて聞いたんだ。

(そこいらに居ましょう。)

 と藤色の緒の表附おもてつきの駒下駄こまげたを、紅べにの潮さした爪先つまさきに引掛ひっかけながら、私が退のいた後へ手を掛けて、格子から外を覗のぞいた、門かどを出てからで可よさそうなものを、やっぱり雨に閉籠とじこもった処を、四五日振りの湯上りで晴々せいせいして、戸外おもてへ出るのが嬉しくって、気が急せいたものらしかった。

 帯もざっとした引掛ひっかけ結びで、

(おや、居ませんか?)

 ッて蓮葉はすはに出て、直ぐ垣隣りの百姓屋の背戸を覗込のぞきこんで、

(健ちゃん、健ちゃんや。)

 と呼ぶと、急に、わやわやと四五人小児こどもの声がして、向うの梅の樹の蔭で、片手に棒千切ぼうちぎれを持って健坊が顔を出した。田圃たんぼへお出いで、と云うと、

(厭いやだべい。)

 で突掛つッかかるように刎附はねつける、同じ腕白夥間なかまに大勢馴染なじみが出来たから、新仕込のだんべいか何かで、色も真黒まっくろになった。母様かあさんがまたこれを大層喜んでいたもんです。

(じゃ遊んでるかい。母様は運動に行って来るよ。)

(うん、)

 と云うと、わっと吶喊ときを上げて、垣根の陰へ隠れたが、直ぐにむらむらと出て、鶏小屋とりごやの前で、健ちゃんは素飛すっとぶ。

(お庇様かげさまで、この頃の悪い陽気にも障らなくなりましたよ。)

 と嬉しそうに見えて、

(どちらへ?)と聞く。

(踏切の方へ行って見ましょう。水が出たそうですから。)

 百姓家二三軒でもう畷なわてだが、あすこは一方畑だから、じとじと濡れてるばかり。片方かたっぽに田はあっても線路へ掛けて路が高い。ために別に水らしい様子も見えん。踏切を越して土手を畦伝あぜづたいに海岸の方へ下りると、なぞえに低くなるから、そこへ行けばちょろちょろ見えよう──もっとも汎水でみずと云うほどの事はどの道ないのだから、畷を帰る百姓も、私たちのぶらぶら歩行あるきを通越す大八車の連中も、水とも、川とも言うものはなく、がったり通る。

 路は悪かった。所々の水溜みずたまりでは、夫人おくさんの足がちらちら映る。真中まんなかは泥濘ぬかるみが甚ひどいので、裙すその濡れるのは我慢しても、路傍みちばたの草を行ゆかねばならない。

 停車場ステエションは、それあすこだからね。柵の中に積んだ石炭が見える、妙に白光しろびかりに光って、夜になると蒼あおく燃えそう。またあの町の空を、山へ一面に真黒な、その雲の端が、白く流れ出して、踏切の上を水田みずたの方へ、むらむらと斑まだらに飛ぶ。が海を抱いだいた出崎の隅だけ朗かな青空……でも、何だか、もう一拭ぬぐい拭ぬぐいを掛けたいように底が澄まず、ちょうど海の果はてと思う処に、あるかなし墨を引いた曇くもりが亘わたって、驚破すわと云うとずんずん押出して、山の雲と一絡まとめにまた空を暗闇くらやみにしそうに見える。もっともそれなり夜になろうが、それだけに、なお陰気で、星は出そうにもなし、雨になると戸を閉めるから、遠い灯ともしびの影も見られなそうな夕暮だった。

(もう、お天気になりましょうね。)

(さあ、)

 とは云ったがどうも請合いかねる。……明白あからさまに云うと、この上降続いちゃ、秋風は立って来たし、さぞ厭あき厭きして、もう引上げやしまいか、と何だかそれが寂しかったよ。

 風はなかった。稲葉がそよりともせぬ。けれども何となく、ざわついて海の波が響くようなは、溢あふれた水が田へ被かぶるそれらしかった。

 踏切を渡ると、鴉からすが一羽……その飛んだ事ったら──吃驚びっくりしたほど、頭の上を矢を射るように、目を遮って、低い雲か、山の端はか、暗い処へ消えたっけ……早や秋だったねえ。雨気あまけが深く包みはしたが、どの峰も姿が薄い。

 もう少し隧道トンネルの方へ行ゆくと、あすこに、路の真中まんなかに、縦に掛けたちょっとした橋がある。棒杭ぼうぐいのように欄干がついて、──あれを横切って、山の方から浜田へ流れて出る小川を見ると、これはまた案外で、瓦色かわらいろに濁ったのが、どうどうとただ一幅ひとはばだけれども畝うねりを立てて、橋の底へすれすれに凄すさまじいほど流れている。いつもは俯向うつむいて、底を見るのが、立って、伸上って見送るほど、嵩かさ増して、薄すすきの葉が瀬を造って、もうこれで充満いっぱいと云うように、川柳が枝を上げて、あぶあぶ遣やってた。」


十四


「この水が、路端みちばたの芋大根の畑を隔てた、線路の下を抜ける処は、物凄ものすごい渦を巻いて、下田圃へ落ちかかる……線路の上には、ばらばらと人立ひとだちがして、明あかるい雲の下に、海の方へ後向うしろむきに、一筆画ひとふでがきの墨絵で突立つッたつ。蓑みのを脱いで手に提げて鍬くわを支ついた百姓だの、小児こどもを負おぶった古女房だの、いかにも水見物をしているらしい。

 見ると、堪たまらなく嬉しくなった。

(さあ、こうしておいでなさい。)

 と畦あぜを踏分けて跡をつけては、先へ立って、畠はたけを切れて、夜は虫が鳴く土手を上あがったが、ここらはまだ褄つまを取るほどの雫しずくじゃなかった。

 線路へ出て、ずっと見ると、一面の浜田がどことなく、ゆさゆさ動いて、稲穂いなぼの分れ伏した処は幾ヶ所ともなしに細流せせらぎが蜘蛛手くもでに走る。二三枚空が映って、田の白いのは被かぶったらしい。松があって雑樹が一叢ひとむら、一里塚の跡かとも思われるのは、妙に低くなって、沈んで島のように見えた、そこいらも水が溢あふれていよう。

(もうこれだけかね、)

 甚だ怪けしからん次第だったけれども、稲の上を筏いかだででも漕こいでくれたら、と思って、傍そばに居た親仁おやじに聞くと、

(汐しおが上あがったら、まっと溢かかるべい。)

 と、腕組をして熟じっと視ながめる。

 成程、漁師町を繞めぐったり、別荘の松原を廻ったり、七八ななや筋に分れて、また一ツになって海へ灌そそぐが、そこ行ゆくとこれでも幅が二十間ぐらい、山も賦になれば、船も歌える、この様子では汐が注さそう。

 と二人で見ているうち、夕日のなごりが、出崎の端はなから𤏋ぱっと雲を射たが、親仁の額も赫かっとなれば、線路も颯さっと赤く染まる。稲を潜くぐって隠れた水も、一面に俤立おもかげだって紫雲英げんげが咲満ちたように明るむ、と心持、天の端を、ちらちら白帆しらほも行ゆきそうだった。

 またこれに浮かれ立って、線路を田圃へ下りたんだが、やがて、稲の葉が黒くなって、田が溝染どぶぞめに暮れかかると、次第に褪あせて行ゆく茜色あかねいろを、さながら剥はぎたての牛の皮を拡げた上を、爪立つまだって歩行あるくような厭いやな心持がするようになっちまった。

 ちょうど、田圃道を、八分目ほどで、一本橋がある。それを危あぶなっかしく、一度渡って、二度目にまた引返してからだった……もう一跨ひとまたぎで、漁師町の裏へ上あがろうとする処で、思いがけなく行ゆきついたろうではないか。」

「ふん、どうしてだい。」

 と医師せんせいは枕を抱く。

 小松原は一息ついて、

「どうして?ッて、見たまえ、いつもは、手拭てぬぐいを当てても堰留せきとめられそうな、田の切目きれめが、薬研形やげんなりに崩込んで、二ツ三ツぐるぐると濁水にごりみずの渦を巻く。ここでは稲が藻屑もくずになって、どうどう流れる。もっとも線路から段々下さがりに低いからね。山の裾すそで取囲んだ浜田ありたけの溢あふれ水は、瀬になって落ちて来るんだ。但し大した幅じゃない、一間には足りないんだけれども、深さは、と云う日になると、何とどうです、崩れ口の畦あぜの処に、漁師の子が三人ばかり、素裸すっぱだかで浸っていたろう。

(どうだ深いか。)

 と一ツ当って見ると、己おれ達は裸で泳がい……聞くだけ野暮だ、と突懸つッかかり気味に、

(深え。)

(二丈ふたたけの上あるぜ。)

 と口を尖とんがらかしたも道理こそ。此方このほうづれの体ていは、と見ると、私が尻端折しりぱしょりで、下駄を持った。あの人もまた遣附やりつけない褄つまを取って、同じく駒下駄をぶら提げて、跣足はだしで、びしょびしょと立った所は、煤払すすはきの台所へ、手桶ておけが打覆ぶっかえった塩梅あんばいだろう。」

 この時一所に笑い出したが。

「ね、小児こどもだって、本場の苦労人くろうとが裸で出張ってる処へ、膝までも出さないんだ、馬鹿にするないで、もって、一本参ったもんです。

 が、まだ威おどかしではないか、と思う未練があった。──処へ、ひょっこりしばらく潜っていたのが、鼻の前さきへ、ぶっくり浮いた河童小僧かっぱこぞう。

 おやと思うと、ぶるぶると顔をやって、ふっと一条ひとすじ仰向あおむけに水を噴ふいた……深いんです。

 どうもこれにゃ逡巡たじろいで、二人で顔を見合せたんだ。」


十五


「そこさえ越せば、漁師町を一廻りして帰れるんで、ちょうど可いいくらいな散歩のつもりだったんだが、それだもの、どうして、渡るどころの騒ぎじゃない。

 さあ、引返すとなると、線路からここまでの難儀さが思出される。難儀だって程度問題、覚悟をしての草鞋掛わらじがけででもあれば格別、何しろ湯あがりのぶらぶら歩き。

 それ、今言った通り跣足はだしです。なるだけ水の上の高い処を、と拾って畦あぜを伝えば、雨続きで、がばがば崩れる、路を踏めば泥濘ぬかるみで辷すべる、乾いた処ちっともなし。……

(お危のうございますよ。)

(は、大丈夫、)

 と声を掛けて、やっと辿たどったのだった。また厄介なのは、縦横に幾ヶ処ともなく、畦の切目があって、ちょいと薪まきを倒したほどの足掛あしかけが架かかっているが、たださえ落す時分が、今日の出水でみずで、ざあざあ瀬になり、どっと溢あふれる、根を洗って稲の下から湧立わきたつ勢いきおい、飛べる事は飛べるから、先へ飛越えては、おもしろ半分、

(お手をお取り申しましょうかね。)

 と一畦離れていて云うと、

(是非、どうぞ。)

 なんて笑いながら、ま、どうにか通ったんだっけ。浅いと思った水溜みずたまりへ片足踏込んで、私が前さきへ下駄を脱いだんで、あの人も、それから跣足はだし、湯上りの足は泥だらけで──ああ、気の毒だと思う内に、どこかの流れで、歩行あるいてる内に綺麗に落ちる、その位皆みんな水です。

 で三町ぐらい、また引返さなけりゃならないんでね、それに段々暗くはなる、足許あしもとも悪かろう、うんざりしたが、自分は、まあ、どうなり、さぞ困った顔をして、と振返る……

 とこの時……

 薄うっすり路へ被かかった水を踏んで、その濡色ぬれいろへ真白まっしろに映って、蹴出けだし褄づまの搦からんだのが、私と並んで立った姿──そっくりいつも見る、座敷の額の画えに覚えのあるような有様だった──はてな、夢か知らん……と恍惚うっとりとなった。

 ざあざあ、地じの底を吹き荒れる風のような水の音。

 我に返って、密そっと顔を見ると、なに大して困ったらしくもなかった。

(ここは通れません。)

(引返しましょう。)

(飛んだ御案内をしてお気の毒です。)

(いいえ、おもしろうござんすよ。こんな奇うまい態なりをして。)

 と美しく微笑ほほえみながら、

(いっそ袂たもとを担ぎましょうか。)

 この元気だから。どうやら水嵩みずかさも大分増して、橋の中ほどを、蝦蟇がまが覗のぞくように水が越すが、両岸の杭くいに結えつけてあるだけが便りで、渡ると、ぐらぐらした、が、まあ、あの人も無事に越した。でも、私の帯へ背後うしろから片手をかけて。

 それから──前を見ると、こっちが低いせいか、ぐるぐる廻りに畝うねって流れる、小川の両方に生被おいかぶさった、雑樹のぞうぞう揺れるのが、累かさなり累り、所々煽あおって、高い所を泥水が走りかかって、田も畑はたも山も一色ひといろの、もう四辺あたりが朦朧もうろうとして来た、稲なんぞは、手で触るぐらいの処しか、早や見えない。

 人は一人も居おらず、……今渡った橋は、魚うおの腹のように仄白ほのじろく水の上へ出ているが、その先の小児こどもなどは、いつの間にか影も消えていた。

(小松原さん。)

 とあの人が、摺寄すりよって、

(もう一つの路はどうでしょうかしら。)

 と云った、様子には出さんでも、以前の難渋は、同然に困ったらしい。

 もう一つと云うのは、小川が分れて松原の裏を行ゆく、その川縁かわべりを蘆あしの根を伝い伝い、廻りにはなるが、踏切の処へ出る……支流で、川は細いが、汐しおはこの方が余計に注さすから、どうかとは思ったものの、見す見す厭な路を繰返すよりは、

(行って見ましょう。)

 と歩行あるき出して、向むきを代えて、もう構わず、落水おちみずの口を二三ヶ所、ざぶざぶ渡って、一段踏んで上あがると、片側が蘆の茂りで。」


十六


「透かした前途ゆくてに、蘆の葉に搦からんで、一条ひとすじ白い物がすっと懸かかった。──穂か、いやいや、変に仇光あだびかりのする様子が水らしい、水だと無駄です。

(ここにいらっしゃい。)

 と無駄足をさせまいため、立たせておいて、暗くならん内早くと急ぐ、跳越はねこえ、跳越え、倒れかかる蘆あしを薙立なぎたてて、近づくに従うて、一面の水だと知れて、落胆がっかりした。線路から眺めて水浸みずびたしの田は、ここだろう。……

 が、蘆の丈でも計られる、さまで深くはない、それに汐しおが上げているんだから流れはせん。薄い水溜みずたまりだ、と試みに遣やってみると、ほんの踵かかとまで、で、下は草です。結句、泥濘ぬかるみを辷すべるより楽だ。占めた、と引返しながら見ると、小高いからずっと見渡される、いや夥おびただしい、畦あぜが十文字に組違った処は残らず瀬になって水音を立てていた。

 早や暗くなって、この田圃たんぼにただ一人の筈はずの、あの人の影が見えない。

 浜で手鍋てなべの時なんかは、調子に乗って、

(お房さん。)

 と呼んだりしたが、もう真しんになって、

(夫人おくさん!)

 と慌てて呼んだ。

(はーい。)と云う、厭いやに寂しい。

 声を便りに駈戻かけもどって、蘆がくれなのを勇んで誘い、

(大丈夫行かれます。早くしましょう、暗くなりますから。)

 誰も落着いてはいないのを、汝うぬが周章あわてて捲立まくしたてて、それから、水にかかると、あの人が、また渡るのか、とも言わないで、踏込んでくれたんだ。

 路もどうやら広いから、なお力になる。押並んで急いだがね。浅くて一面だから、見た処は沼の真中まんなかへ立った姿で、何だか幻の中を行ゆく、天の川でも渡るようで、その時ふとまた美うつくしい色が、薄濁った水に映った──」

 小松原は歯を噛かんで言渋ったが、

(先方さきでも、手を出した……それを曳ひこうと思った時……

 私はぎょっとした。

 つい目の前を、足に絡からんだ水よりは色の濃い、重っくるしい底力そこぢからのあるのが、一筋、褐色かばいろの鱗うろこを立ててのたっているのが、向う岸の松原で、くっきりと際立って、橋の形が顕あらわれたんだ。

 ここに、ちょいとした橋があるんだが、その勢いきおいだからもう不可いけない。水の上で持上って、だぶりだぶりと煽あおりを打つと、蘆がまた根から穂を振って、光来々々おいでおいでを極きめてるなんざ、情なさけなかろうではないか。

 しかも幅一間とは無いんだよ。

(不可いけないのねえ。)

(駄目です、)

 と言ったきり。だって口惜くやしかろう。その川一条ひとすじの前途さきは、麗々と土が出て、薄うっすりと霧が這はって、虫の声がするんだもの。もう近いから、土手じゃ車の音はするし、……しばらく睨にらみ詰めて立っていた。」

 医師せんせいはむくむくと起きて、平胡坐ひらあぐらで、枕を頤おとがいに突支つッかって、

「いや、散々、散々、お察し申すな。」

「ところで、いつの間に来たか、ぱくぱく遣ってるその橋向はしむこうへ、犬が三疋と押寄せて、前脚を突立てたんだ。吠ほえる、吠える! うう、と唸うなる、びょうびょう歯向く。変に一面の水に響いて、心細くなるまで凄すごかった。

(あちらへ参りましょう、人が見ると悪いわ。)

 と低声こごえで、あの人が言う。

(なぜ。)

 と思わず口へ出たが、はっと気が付いて、直ぐびちゃびちゃと歩行あるき出した。

 現在犬に怪あやしまれているんです……漁師村を表おもてに、この松原を裏にして、別荘があって、時々ピアノが聞えたんで、聞きに来た事もある。……奥座敷とは余り離れないから、犬の声を変がって、人でも出て来ると成程悪い。

 が、何だか今の一言が妙に胸底へ響いて、時めいた、ために急に元気づいて、

(一奮発遣附やッつけましょう。)

 と勇いさみが出た。」


十七


「その努力で、蘆の中だけは潜くぐり抜けて、旧もとの方へ引返したが、もう、暗くなって、足許は分らないで、踏むほどの場所がざぶざぶする、じょろじょろ聞える、ざんざという。田だか畦あぜだか覚束おぼつかなく、目印ともなろうという、雑木や、川柳の生えた処は、川筋だから轟ごうと鳴る、心細さといったら。

 川筋さえ避よけて通れば、用水に落込む事はなかったのだが、そうこうする内、ただその飛々とびとびの黒い影も見えなくなって、後は水田みずたの暗夜やみになった。

 時に……急あせったせいか、私の方が真先まっさきに二度辷すべった、ドンと手を突いてね、はっと起上る、と一のめりに見事に這はった。

(あれ、お危い。)

 と云う人を、こっちが、

(お気を注つけなさらないと、)

 この通り、ト仕方で見せて、だらしなく起たつ拍子に、あの人もずるりと足を取られた音で、あとは黙然だんまり、そら解どけがしたと見える、ぐい、ぐい帯を上げてるが陰気に聞えた。

 気が付いて、

(穿物はきものを持って上げましょう、)

 と注意すると、

(はい、いいえ、可ようござんす。)

 と云ったが、しばらくして、

(流れてしまったようですよ。)

 成程、畦あぜの切口きれぐちらしい、どっと落ちるんだ。

(飛んだ事をなさいました。)

(いいえ、どうせ荷厄介なんですもの。さあ、参りましょう。)

 愚図々々ぐずぐずしていたので、

(可いいんですよ、構やしない。)

 とそれでも笑った。この方が私よりまだ元気が可いい。が、私が猶予ためらったのは、駒下駄に、未練なものか。自分のなんざいつの昔失なくなしている。──実はどちらへ踏出して可いか、方角が分らんのです。もっとも線路の見当は大概おはずに着いてたけれども、踏処ふみどころが悪いと水田へ陥はまる。

 果して遣った! 意地にも立ったきりじゃ居られなくなって、ままよ、と胆たんを据えて、つかつかと出ようとすると、見事に膝まで突込つッこんだ。

(あっ、)と抜こうとして、畦へ腰を突いたっけ、木曾殿落馬です。

 お察し下さい、今でこそ話すが、こりゃ冥土めいどへ来たのかと思った。あの広場ひろっぱを手探りでどうするもんかね。……

 背後うしろの足弱あしよわが段々呼吸いきづかいが荒くなってね、とうとう、

(ちっと休みましょう。)

 と言い出した。雪路以上、随分へとへとに揉抜もみぬいたから。

 私は凭懸よっかかるものもなく、ぼんやり暗やみの中に立ったがね、あの人は、と思うと、目の下に、黒髪が俤立おもかげだつ。

(腰を掛けたんですか。)

(ええ、)と云う。

(濡れていましょう。)

(ええ、何ですか、瀬戸物の欠かけがざくざくして、)

 私は肚胸とむねを突いたんだ。

(不可いけない! 貴女あなた、そりゃ塵塚はきだめだ。)

 と云う内にも、襤褸切ぼろぎれや、爪うりの皮、ボオル箱の壊れたのはまだしもで、いやどうも、言おうようのない芥あくたが目に浮ぶ。

(でも水の上よりは増ましですわ。)

 と断念あきらめたように、何の不足もないらしくさっぱりと言われたので、死なば諸もろともだ、と私もどっかり腰を落した。むっくり持上って、跡は冷たい。犬の死骸じゃなかろうかと、摺抜すりぬけようとしたけれども、頬擦ほおずるばかりの鬢びんの薫かおりに。……

 ここで、真まことに相済まない、余計な処へ誘ったばかりで、何とも飛んだ目にお逢わせ申す、さぞ身体からだに触りましょう、汚させ、濡れさせ、跣足はだしにさせ、夜露に打たせて……羅綾らりょうにも堪えない身体からだを、と言おうとして、言いようがないから、

(荒い風にもお当りなさらない。)

 とヘマを言って、ああ厭味いやみだと思って、冷汗を掻かいた処を、

(お人が悪いよ、子持だと思って、)

 これにまたヒヤリとしたように覚えている。」


十八


「それと同時に小児こどもの事が気になって……言い出すと、女中ともう寝たろう。で、大して心配もしない様子、成程寝る時刻、九時ちと過ぎたかも知れない。汽車が二三度上下のぼりくだりした。

 この汽車だが……果はてしの知れない暗闇くらやみの広野ひろの──とてもその時の心持が、隅々まで人間の手の行届いた田圃とは思われない、野原か、底知れぬ穴の中途──その頼りなさも、汽車の通るのが、人里に近くって嬉しかった。それが──後には可悪おそろしい偉大おおきな獣けものが、焔ほのおを吹いて唸うなって来るか、と身震みぶるいをするまでに、なってしまった。

 第一、足の出しようがない。それに……

 もうこう夜よも遅くなっては、何事もなく無事に家に帰るとして、ただ二人で今までなんだから、女中はじめ変に思おう。特に出征中の軍人の夫人だ。そうでもない、世間じゃ余計な風説うわさをしている折からだから憂慮きづかわしい。

(どうでしょう。)

 と甚だ言兼ねた事ではあったが、既に──人が見ては悪いわ──と言ってくれた人だから、こう聞いた。が、その実、いいえ、人は何とも思うまい、とこの人だけに、心配をせずに居ようと期したんだ。するとちと案外で、

(さあ、私もそれが気になります。)

 返事がこれで。何とも言いようがなくって溜息ためいきが出た。あの人もほっと言う。話だけは色めかしい中に、何ともお話にならん事は、腹が、ぐうと鳴る、ああ、情なさけない何事だろう、と気にするほど、ぐうぐういう。

 あの人にも聞えたか。

(お腹が空いたでしょうね。)

 と来たのにゃ、赫かっとしたよ、但しそういう方も晩飯前です。……

 詮方しかたがない、大声を揚げて見ようかとも言い出したが、こりゃ直ぐに差留められた。勿論、お怒鳴どなんなさいと命令をされたって、こいつばかりは、死んでもあやまる。早い話が、何と云って救すくいを呼びます、助船でもないだろう、人殺し……串戯じょうだんじゃない。」

 医師せんせいは聞く中うちにも笑出した。

 言うものも釣込まれたが、

「今こそ苦笑いも出るけれど、……実際だ、腹のぐうぐう鳴った時は、我ながら人間が求める糧は、なぜこう浅間しい物だろうと熟々つくづく思った。

 ところで……

 じゃ、何を便りに塵塚に腰を抜いていたか、と言うに、ここも娑婆しゃばだから、その内には、月が出ようと空頼み、あの人も恐らくそうででもあったろう、もっとも何かの拍子に、

(戦争に行っている方の事を思えば、こうやって一晩ぐらい、)

 とは言ったがね。まさか夜よの明けるまでそうして居られるものとは思うまい。

 糠雨ぬかあめが降って来たもの。その天窓あたまから顔へかかるのが、塵塚から何か出て、冷い舌の先で嘗なめるようです。

 水の音は次第々々に、あるいは嘲あざけり、あるいは罵ののしり、中にゃ独言ひとりごとを云うのも交って、人を憤り世を呪詛のろった声で、見ろ、見ろ、汝なんじ等、水源みなもとの秘密を解せず、灌漑かんがいの恩を謝せず、名を知らず、水らしい水とも思わぬこの細流せせらぎの威力ちからを見よと、流れ廻り、駈かけ繞めぐって、黒白あやめも分わかぬ真の闇夜やみよを縦ほしいままに蹂躪ふみにじる。と時々どどどと勝誇って、躍上おどりあがる気勢けはいがする。

 その流れるに従うて、我が血を絞り出されるようで、堪え難い。

 次第に雨が溜たまるのか、水が殖ふえたか、投出してる足許あしもとへ、縮めて見ても流ながれが出来て、ちょろちょろと搦からみつくと、袖が板のように重くなって、塵塚に、ばしゃばしゃと沫しぶきが掛かかる、雫しずくが落ちる。

 地鳴じなりが轟ごうとして、ぱっと一条ひとすじの焔ほのおを吐くと、峰の松が、颯さっとその中に映って、三丈ばかりの真黒まっくろな面つらが出た、真正面まっしょうめんへ、はた、と留まったように見えて、ふっと尾が消える。

 下りの終しまい汽車らしい、と思った時、

(あ痛いつ、痛つ。)

 はっと擦寄ると、あの人がぶるぶる震えて、

(胸が。)と云う、歯の根が合わない。

(冷えたんです。)

 と言いながら、私もわなわなし出した。」


十九


「一生懸命の声をして、

(さ、お掴つかまんなさい。)

 とずっと出すと、びったり額を伏せて、しっかりと膝を掴つかんだが、苦痛を堪える恐おそろしい力が入って、痺しびれるばかり。

(しっかり……しっかりして下さいよ。)

 背中を擦さすろうとした手が辷すべって、ひやひやと後毛おくれげを潜くぐって、柔かな襟脚に障さわったが、やがて水晶のように冷たいのを感じた。

 その時ふっとまた、褄つまの水に映るのが、薄彩色うすさいしきして目に見えたが、それならば、夢になろう、夢ならば、ここで覚める!

 膝に倒れたのは、あの人だ。

 私は猛然として、思わず抱きながら、引立てながら起上った。

(我慢なさい。こんな事をしていちゃ、生命いのちにも障りましょう。血の池でも針の山でも構わず駈出かけだして行って支度して迎むかえに来ます。)

 と声も震えながら云うと、

(一人で、どうして居られましょう、一所に。)

 ッて、ぐいと袂たもとに掴つかまったが、絞ると見えて水が垂った。

(田も畦あぜも構わない、一文字に駈け抜けるんです、怪我けががあると不可いけません。)

(可いいの、貴下あなた、婦おんなは最期まで、殿方が頼りです、さ、連れて行って!)

 と縋すがった手を、しっかりと取合った。

(じゃ、悪魔に攫さらわれたと、断念あきらめて、目を瞑ねむって、覚悟をして……)

(は、瞑りました。)

 と言われたのにゃ、ほろりと熱い涙が出た。」

 と、小松原は拳こぶしを握った手首をかえして、目を圧おさえて、火入とも言わず、片手を煙草盆にはたと落した。

「考えて見れば怪しい。

 はじめからその覚悟をすれば、何も冷え通るまで畦に踞しゃがんでるにも当らず。不断見れば掌てのひらほどの、あの踏切田圃を、何に血迷ってたんだか、正気では分りません。いつもの幻と言い、おかしなものに弄もてあそばれてでもいたかと思う……もっともその堪えられない水の中でも、時々変に恍惚うっとりとなると、なぜか雲にでも乗せられたような気がする、その時は、あの人とそうしているのが嬉しかった。

 畢竟ひっきょうずるに、言訳沢山の恋かも知れん。

 その罰です。

 後は御存じの通り、空を飛ぶような心持で、足も地につかず、夢中で手を曳合ひきあって駈出かけだした処を、あっと云う間もなく、終しまい汽車で刎飛はねとばされた。

 気が付いた時は、真蒼まっさおな何かの灯あかりで、がっくりとなって、人に抱えられてる、あの人の姿を一目見たんだがね、衣きものを脱がしてあった。ただ一束ひとつかねの滑なめらかな雪で、前髪と思うのが、乱れかかって、ただその鼻筋の通った横顔を見たばかり……乳の辺あたりに血が染にじんだ、──この方とても、御多分には漏れぬ、応挙が描いた七難の図にある通り。まだ口も利けない処を、別々に運ばれた、それが見納め。

 君も知ってる、生命いのちは、あの人も助かったんだが、その後のち影を隠してしまって、いまだに杳ようとして消息がない。

 これが風説うわさの心中仕損しそこない。言訳をして、世間が信ずるくらいなら、黙っていても自然おのずから明りは立つ。面と向って汝きさまが、と云うものがないのは、君が何にも言わないと同一おんなじなんだ。

 お房さんも、大方同じ考えだったものだろう。が、これは夫に顔の合わされないのは、道理です。……何も私ばかりが澄まして活いきているのじゃない、今ここに、君とこうやっている時を、行方知れず、と思っているものもあろう。あの人もまた、同じように、どこかで心合いの友に、述懐をしていようも知れない。──ただもう一度逢いたいよ。」

 と団扇うちわを膝につくと、額を暗うした。

 医師せんせいは黙っている。

「しかし、」

 と、小松原が額を上げた。


二十


「未練だね。世間じゃ、誰もあの人が活いきているとは思わない。私だって、実際生存ながらえていようとは考えないが、随分その当時、表向きに騒いで、捜索さがしもしたもんだけれども、それらしい死骸も見附からないで、今まで過去すぎさったんだ。だから、もしやが頼まれる……

 それかって、今ここに、君の内にその人が居るから逢え、と云われたって逢われるわけでもないんだが。」

「しかし逢いたいんだ?」

 と医師せんせいは笑いながら口を入れた。

「…………」

「成程、そこで魘うなされたんだ。その令夫人に魘されたのは、かえって望む処かも知れんが、あとの泥水は厭いやだったろう、全く気の精だな。遁出にげだしたも道理もっともだ。よく、あの板廊下が鉄道の線路に化けなかった。」

「時に、」

 小松原は、気が着いたらしく更あらたまって、

「あの、白骨だがね、」

 と皆まで言わせず、手を掉ふって、

「大丈夫、その令夫人の骨じゃない。」

「骨じゃない、」

 と鸚鵡返おうむがえしで、

「けれども、婦おんなのだと言うじゃないか。何年経たったんだか、幾十年過ぎたんだか、知れないが、婦には変りはなかろう。骨になっても小町は小町だ。

 婦が、あの姿を人目に曝さらされたら、どんな心持だと思います──君にこんな事を云うのは、解剖室で命乞いのちごいをするようなものだが、たとい骨でも、一室ひとまに泊り合わせたのは、免れない縁だと思う。見えん処へ隠してくれんか。──私はもう、あの人が田圃で濡れた時の事を思っても、悚然ぞっとする。どうだね、可哀想かわいそうだとは思わないかね。」

「そうさな。まさか私だって、縁日の売薬みたいに、あれを看板に懸けちゃ置かん、骨を拾った気なんだから、何も品物を惜おしみはせんが、打棄うっちゃっておきたまえ。そんな事を気にするのは宜よくないから止よしたが可よかろう。」

「貴郎あなた、」

 と優しい声がしたので、小松原は身を縮めて、次の室まの暗い中を透かした。暑いので襖ふすまは無いが、蚊帳が重ねて釣ってある。その中うちに、浴衣の模様が、蝶々のように掠かすれて見えたは細君で、しかも坐って、紅麻こうあさに裳もすそを寄せ、端近う坐っていた。

「何だ、起きていたのか。」

「はい、つい、あのお話しに聞惚ききとれまして、」

 と云うのに、しんみりと涙が籠こもる。

「どうも、」

 とばかりで、小松原は額を圧おさえた。医師せんせいは事も無げに、

「聞いたのは構わんよ、沢山泣いて上げろ。だが、そこらへ溢こぼしちゃ不可いかんぜ、水が出ると大変だ。」

「あれ、可厭いやな。」

「馬鹿だな、臆病。」

「だって、」

 と蚊帳の裾を引被ひっかつぐ、腕かいなが白く、扱帯しごきの紅くれないが透いた時、わっと小児こどもが泣いたので、

「おお。」

 と云って添臥そいぶしたが、二人も黙る内、すやすやとまた寝入った。

「ねえ、貴郎あなた、そうして、小松原さんのおっしゃる通りになさいよ。何だか可恐こわいんですもの。」

 と弄からかうごとく、団扇を膝でくるりと遣やる。

「いいえ、ですがね、あの御骨おこつ……」

「ちょっと待て、御骨は気になる。はははは。」

「御免なさいましよ。」

 と客に云って、細君は、小児こどもに添乳そいぢの胸白く、掻巻かいまき長う、半ば起きて、

「串戯じょうだんではなくってよ。貴郎あなたが持って来て、あそこへ据えてから、玄関の方かたなんぞも、この間中種々いろんな事を言ってるんですよ。

 話声がするの、跫音あしおとが聞えるのって──大方女中なんかを徒いたずらに威おどすんだろうと思って、気にもしないでいましたけれども、今のお話の様子だと、何だか、どうとも言えませんわ。」


二十一


「ねえ、小松原さん、」

 とぼかしたような顔が、蚊帳の中で朧おぼろに動いて、

「あの御骨おこつだって、水に縁があるんですもの。」

「婦女子の言です。」

 と医師せんせいは横を向く。小松原は、片手を敷布の上、隣室となりへ摺寄すりよる身構えで、

「水に縁と……仰有おっしゃると?」

「あれは貴下あなた、何ですわ、つい近い頃、夫やどが拾って来て、あすこへ飾ったんですがね。その何ですよ、旧もとあった処は沼なんですって。」

「沼!」

「おっと直ぐに、そう目の色を変えるから困る。鯰なまずに網を打ちはしまいし、誰が沼の中から、掬上すくいあげるもんか。」

「だって、そりゃ沼からじゃありますまいけれど、梅雨あけに水が殖ふえたので、底から流出ながれだしたんだろうッて、貴郎あなたがそう言っていらしったではありませんか。──小松原さん、この梅雨あけにも田圃へ水が出ましてね、先刻さっきおっしゃいました、踏切の前の橋も落ちたんですよ。蒼沼あおぬまが溢あふれたんですって、田圃の用水は、皆みんなそこから来るんだって申します……

 その近処の病家へ行ゆきました時に、其家そこの作男が、沼を通りがかりに見て来たって、話したもんですから、夫やどが貴下あなた、好事ものずきにその男を連れて帰りがけに、廻道まわりみちをして、内の車夫わかいしゅに手伝わして、拾って来たんですわ。

 御骨は、沼の縁に柔やわらかな泥の中にありましたって、どこも不足しないで、手足も頭も繋つながって、膝を屈かがめるようにしていたんだそうです。」

「妄誕臆説ぼうたんおくせつ!」

 と称となえて、肩を一つ団扇で敲たたく。

「臆説って、貴下あなたがお話しなすった癖に。そうしてこう骨になってから、全体具そなわっているのは、何でも非常な別嬪べっぴんに違いない。何骨とか言って、仏家では菩薩ぼさつの化身とさえしてある。……第一膝を折った身躾みだしなみの可いい処を見ろッて、さんざん効能を言ったではありませんか。」

 と、もう小児こどもも寝たので、掻巻からするりと出て褄を合わせる。

 医師せんせい喟然きぜんとして、

「宜よろしく頼む。あとは君にまかせるから、二人して、あの骨をその人だとでも何とでも御意ぎょいなさい、こちらへ来て講中にならんか。」

 と笑いながら、むずと蚊帳を出て、廊下へ寝衣ねまきで突立つッたった。

 が横向に隣を見て、

「何だ、お前も手水ちょうずか。馬鹿な、今の話しで不気味だからって。お客様の居る処を、連立って便所へ行く奴があるかい。」

 と言う。

 小松原が、ト透すかすと、二重ふたえ遮って仄ほのかではあるが、細君は蚊帳の中を動かずにいたのである。

「貴郎あなた、」

 とこの時、細君の声は、果せる哉かな、太いたく震えて、

「貴郎……」

「うむ、」

 小松原も蚊帳の中に悚然ぞっとして、

「酒田。」

 と変な声をする。

「誰か居ますか。」

「おお……」

 と医師せんせいは、蹌踉よろけたように、雨戸を背うしろに、此方こなたを向き替え、斜めに隣室となりの蚊帳を覗のぞいた。

「私はここに居ますんですよ。」

「誰だ、今のは?」

 うっかり医師せんせいが言うや否や……

「厭いや……」

 と立って、ふらふらと、浅黄に白地で蚊帳を潜くぐると、裙すそと裙とにばっと挟まる、と蜘蛛くもの巣に掛かかったように見えたが、一つ煽あおって、すッと痩やせたようになって、此方こなたの蚊帳へ──廊下に事はあるものを、夫を力にそこへは出られぬ──腰を細く、乗るばかり、胸に縋すがった手が白く、小松原の膝にしがみついた。

 ──この状さまを……後に、医学士が人に語る。──

「蒼沼あおぬまの水は可恐おそろしい、人をして不倫の恋をなさしむるかと、私は嫉ねたもうとした。」


二十二


 その時医師せんせいは肩を昂あげて、

「雨かな。」

 と仰向あおむけになったが、また、俯向うつむいて胸を払った。

「何だ、廊下は水だらけだ。」

 細君は何にも言わぬ。小松原も居窘いすくまって、忙せわしく息をするばかり。

 鶏とりが鳴いたので、やっと細君が顔を上げたが、廊下に突立つッたった夫を見た時、聞耳を立てて、

「何です……がたがた、がたがた言って、」

 小松原が、

「あ、」

「あれか、」

 と医師せんせいもそこで聞取った。

「酒田……先刻さっきのも、」

「むむ、診察処だ。」

「あれえ。」

「開けて見ると何にも居ないのだ。が、待てよ。」

 と言って、蚊帳の周囲まわりをぐるりと半分、床の間をがたりと遣やると、何か提ひっさげた、その一腰、片手に洋燈ランプを翳かざしたので、黒塗くろぬりの鞘さやが、袖をせめて、つらりと光った。

「危い、貴郎あなた、」

「大丈夫だ。」

「いいえ、」

 細君は一声、誰かを呼んで、

「玄関の方を起して下さい、正吉──」

 もう医師せんせいの姿はなかった。

 ばたん、と扉ひらきの開あいた音。

 二人が揃って、蚊帳の中を廊下際で、並んで雨宿りをする姿で立った処へ、今度は静しずかに悠々と取って返す。

「どうした。」

「鼈すっぽんだ。」

「え。」

「鼈が三個みッつよ。」

「どこに、ですえ。」

 と細君は歯の音も合わぬ。

 医師せんせいは真面目な顔して、

「場所はちと悪い、白いものの前だ。」

「あれ。」

「さぞまた蒼沼から、迎むかえに来たと言うだろうなあ。」

 と雨戸を一枚、颯さっと風が入って、押伏おっぷせて、そこに置いた洋燈ランプが消えた。

 が、鶏がまた鳴いて、台所で誰か起きた。

 白骨が旧もとの沼へと立返ることになって、この使者は、言うまでもなく小松原が望んで出た。一夜ひとよの縁えにしのみならず、そこは、自分とあの人とがために浮名を流した、浜田の水の源みなもとぞと聞くからに、顔を知らぬ許婚いいなずけに初めて逢いに行ゆく気もすれば、神仙の園へ招待されたようでもあって、いざ、立出たちいづる門口から、早や天の一方に、蒼沼の名にし負う、緑の池の水の色、峰続きの松の梢こずえに、髣髴ほうふつとして瑠璃るりを湛たたえる。

 その心は色に出て、医師せんせいは小松原一人は遣らなかった。道しるべかたがた、介添かいぞえに附いたのは、正吉と云う壮わかい車夫。

 国手お抱えの車夫とあると、ちょいと聞きには侠勇きおいらしいが、いや、山育ちの自然生じねんじょう、大の浄土宗。

 お萩が好すきの酒嫌いで、地震の歌の、六ツ八ツならば大風おおかぜから、七ツ金かねぞと五水りょうあれ、を心得て口癖にする。豪えらいのは、旅の修行者しゅぎょうじゃの直伝じきでんとあって、『姑蘇啄麻耶啄こそたくまやたく』と呪じゅして疣黒子いぼほくろを抜くという、使いがらもって来いの人物。

 これが、例の戸棚掛の白布しろぬのを、直ぐに使って一包み、昨夜の一刀を上に載のせて、も一つ白布で本包みにしたのを、薄々沙汰は知っていながら、信心堅固で、怯気びくともしないで、一件を小脇に抱える。

 この腰の物は、魔除まよけに、と云う細君の心添こころぞえで。細君は、白骨も戻すと極きまり、夜が明けると、ぱっと朝露に開いた風情に元気になって、洗面の世話をしながら、縁側で、向うの峰を見て顔を洗う小松原に、

「昨晩はお楽たのしみ……なぜって。まあ、憎らしい。奥さんが逢いにいらっしゃったではありませんか。」

 など遣ったものだが、あえてこれは冷評ひやかしたのではない。その証拠には、小松原と一足違ちがいに内を出て、女子おんな扇と御経料を帯に挟んで、じりじりと蝉の鳴く路を、某寺なにがしじへ。供養のため──


二十三


「沼さ行ぐ道はこれを入るだよ。」

 と正吉が言う処を、立直って見れば、村の故道ふるみちを横へ切れる細い路。次第高だかの棚田に架かかって、峰からなぞえに此方こなたへ低い。田の青さと、茂った樹立こだちの間を透いて、六月みなづきの空は藍あいよりも蒼あおく、日は海の方へ廻って、背後うしろから赫かっと当るが、ここからは早や冷い水へ入るよう。

 三方、山の尾が迫った、一方は大おおいなる楓かえでの梢こずえへ、青田の波が越すばかり。それから青芒あおすすきの線を延のばして、左へ離れた一方に、一叢立ひとむらだちの藪やぶがあって、夏中日も当てまい陰暗く、涼しさは緑の風を雲の峰のごとく、さと揺出ゆりだし、揺出す。その上に、萱かやで包んだ山が見えたが、遠いと覚しく、峰の松が、鹿の彳たたずんだ姿に小さい。藪に続いた一方は雑木林で、颯さっと黒髪を捌さばいたごとく、梢うらが乱れ、根が茂る。

 路はその雑木の中に出つ入いりつ、糸を引いて枝折しおりにした形に入る……赤土の隙間すきまなく、凹くぼみに蔭ある、樹の下闇したやみの鰭爪ひづめの跡、馬は節々通うらしいが、処がら、竜たつの鱗うろこを踏むと思えば、鼈すっぽんの足痕あしあとを辿たどるよとも疑われた。

 次第に山の裾を分け上ると、件くだんの楓を左の方に低く視ながめて、右へ折曲おりまがってもう一谷戸ひとやと、雑木の中を奥へ入ろうとする処の、山懐やまふところの土が崩れて、目の下の田までは落ちず、径こみちの端に、抜けた岩ごと泥が堆うずたかかった。

「沼はこの先でがんす。」

 と正吉は前さきへ立った。……山崩れで、ここに路の切れたのも、何となく浮世を隔てた、意味ありげにぞ頷うなずかるる。

「梅雨あけに、医師せんせいと、この骨さ拾いに来っけ。そんころの雨に緩んだだね。腕車くるまもはい、持立もったてるようにしてここまでは曳ひいて来ただが、前さきあ挺てこでも動きましねえでね。」

 と言う。

 このあたり……どこかで何の鳥か一つ鳴出した。何なあに、正体を見れば、閑古鳥にしろ、直じきそこいらの樹の枝か葉隠れに、翼を掻込かいこんだのが、けろりとした目で、閑ひまに任まかして、退屈まぎれに独言ひとりごとを言っているのであろうけれども、心あって聞く者が、その境に臨むと、山から谷、穴の中の蟻ありまでが耳を澄ます、微妙な天楽であるごとく、喨々りょうりょうとして調べ奏かなでる。

 ……きょ、きょら、くらら、くららっ!

 と転がして、発奮はずみかかって、ちょいと留めて、一つ撓ためておいて、ゆらりと振って放す時、得も言われず銀鈴が谺こだまに響く。

 小松原は、魂を取って扱しごかれるほど、ひしひしと身に堪こたえ、

「……京から、今日ら……来るか、来るか!」

 と言われるようで、

「来ました、東京から今日来ましたよ。」

 と胸の裡うちで言った。

 その蒼沼は……

 小高い丘に、谷から築き上げた位置になって、対岸むこうへ山の青簾あおすだれ、青葉若葉の緑の中に、この細路を通した処に、冷い風が面おもてを打って、爪先つまさき寒う湛たたえたのである。

 水の面おもは秋の空、汀みぎわに蘆の根が透く辺りは、薄濁りに濁って、二葉ふたは三葉みは折れながら葉ばかりの菖蒲あやめの伸びた蔭は、どんよりと白い。木この葉も、ぱらぱらと散り浮いて、ぬらぬらと蓴菜ぬなわの蔓つるが、水筋を這はい廻る──空は、と見ると、覆おおいかかるほどの樹立はないが、峰が、三方から寄合うて、遠方おちかたは遠方なりに遮って、池の周囲まわりと同じ程より、多くは天そらを余さぬから、押包おッつつんだ山の緑に藍あいを累かさねて、日なく月なく星もなく、倒さかさに沼の中心に影が澄んで、そこにこそ、蒼沼の名に聞ゆる威厳をこそ備えたれ。何となく涸かれて荒すさびて、主ぬしやあらん、その、主の留守の物寂しい。


二十四


 濃い緑の雑樹の中へも、枝なりにひらひらと日の光が折込おれこんで、縁ふちを浅黄に、木この葉を照らす。この影に、人は蒼白あおじろく一息した。

 なぜか、葬礼とむらいの式に列つらなったようで、二人とも多く口数も利かなかったが、やがて煙草たばこも喫のまないで、小松原は踞つくばった正吉を顧みて、

「どこで拾ったね。」

「やあ、それだがね……先刻さっきから気い付けるだか、どうも勝手が違ったぞよ。たしか、そこだっけと勘考します、それ、その隅っこの、こんもり高だかな処とこさ、見さっせいまし、己おらあ押魂消おったまげただ。その節あんな芭蕉ばしょうはなかっけ。」

 と言う。

 目覚しいのは、そこに生えた、森を欺あざむくような水芭蕉で、沼の片隅から真蒼まっさおな柱を立てて、峰を割り空を裂いて、ばさばさと影を落す。ものの十丈もあろうと見えて、あたかもこの蒼沼に颯さっと萌黄もえぎの窓帷カアテンを掛けて、倒さかさに裾すそを開いたような、沼の名は、あるいはこれあるがためかとも思われた。

 正吉が知らずと云う、梅雨あけの頃は、まだ丈伸びぬ時節であるから、今日見付けたのを、訝いぶかしむ仔細しさいは無い。

 さて、家を出る時から、拾った場所へ旧もとの通り差置こうというではなく、ともあれ、沼の底へ葬り返そうとしたのであるが、いざ、となると汀みぎわが浅い、ト白骨は肋あばらの数も隠されず、蝶々蜻蛉とんぼの影はよし、鳥の糞ふんにも汚けがされよう。勢い諸手高く差翳さしかざして、えい! と中心へ投込まねばならぬとなった。

「そんな事が出来るものか。」

 と小松原が猶予ためらうと、

「成程、へい、手荒だね。」

 と正吉さえ頷うなずくのである。

 ここで、小松原が心着いたのは、その芭蕉で……

「まあ、それを解け。」

 と手伝って、上包の結目むすびめを解くと、ずしりと圧おしにある刀を取ったが、そのまま、するりと抜きかける。──虹にじのごとく、葉を漏る日の光に輝くや否や、

「わッ!」

 と正吉が飛退とびしさった。途端に白布しろぬのの包は、草に乗って一つ動く。

「旦那だんな、気イ確たしかに持たっせえ。」

 昨夜からの小松原の容子ようすは、まったく人目には変だった。これは気が違った、と慌てたらしい。

 やがて孫呉空そんごくうが雲の上を曳々声えいえいごえで引背負ひっしょったほどな芭蕉を一枚、ずるずると切出すと、芬ぷんと真蒼まっさおな香においが樹の中に籠こもって、草の上を引いて来たが──全身引ひっくるまって乗っかった程に大おおきいのである。

 小松原は莞爾々々にこにこしながら、

「さあ、これへ乗せよう。」

 まざまざと見るには堪えぬから、その布で包んだまま、ただ結目を解いただけで、密そっと取って、骨を広葉の只中ただなかへ。

 葉先を汀みぎわへ、蘆摺あしずれに水へ離せば、ざわざわと音がして、ずるりと辷すべる、柄を向うへ……

「南無阿弥陀なんまいだ 南無阿弥陀。」

 と殊勝に正吉が、せめ念仏で畳掛けるに連れて、裂目が鰭ひれのように水を捌さばいて行ゆく、と小波ささなみが立って、後を送って、やがて沼の中ばに、静じっと留まる。

 そのまま葉が垂れると、縋すがりつく状さまに、きらきらと水が乗る、と解けるともなしに柔かに、ほろほろと布が弛ゆるんで、細長い包みの裾が、ふッくりと胸になり、婦おんなが臥ふした姿になる。

 思出して、はっと目を塞ふさいだが、やがて見れば、もう沈んだ。

 途端に、ざらざらと樹が鳴って、風が走る。そよ風が小波立てて、沼の上を千条ちすじ百条ももすじ網の目を絞って掛寄せ掛寄せ、沈んだ跡へ揺ゆりかけると、水鳥が衝つと蹴けたごとく、芭蕉の広葉は向うの汀みぎわへ、するすると小さく片寄る。


二十五


 ……きょ、きょら、きょきょら、くららっ!……

 と、しばらくはただ鳥の声。

 熟じっと沼の面おもを見ていると、どこかに、その人の顔がある。が、水の皺しわが揺ゆっては消し揺ゆすっては消す──そうかと思うと、その水紋の揺ゆらめく綾が、ちらちらと目になって、瞳が流るるようでもある。ソレ鼻、ソレ口、と思う処が、ふらふらと浮いて来ては、仰向あおむけに沈んで消える。もうちっとで、もうちっとで……と乗出すけれども、もうちっとで絡まとまらない。

 急あせって、踠もがいて、立ったり居たり、汀みぎわもそちこち、場所を変えてうろついて見込んだが、ふと心づいて眗みまわせば、早や何が染そまるでもなく、緑は緑、青は青で、樹の間は薄暮合うすくれあい。

「旦那もう晩方だよ。」

 と云って、正吉が帰途を促がしたのは余程の前さきで、それを、無理遣りに一人帰してからさえ、早や久しい。

 独ひとりになって、思うさま、胸にたたんだ空想に耽ふけろうと、待構えたのはこれからと、まず、ゆっくり腰を卸おろして、衣紋えもんまで直して、それから横になって見たり、起返って見たり。

 とかくして沼の中を、身動きもしないで覗込のぞきこんだ……

 あわれ水よ、偉おおいなる宇宙を三分して、その一を有する汝なんじ、瀬となり、滝となり、淵ふちとなり、目まのあたり我が怪しき恋となりぬ。

 いで、霧となって虹にじを放ち、露と凝って珠ともなる。ここに白骨を包んでは、その雪のごとき膚はだえとならずや、あの濡れたような瞳とならずや。

 と思い思う、まさしく、そこに、水底みなぞこへ、意中の夫人が、黒髪長くかかって見ゆる。

 見ようとすると、水が動く。いや、いや、我が心の動くために、人の姿が散るのであろう。

 胸を打って、襟を掴つかんで、咽喉のどをせめて、思いを一処ひとところに凝らそうとすれば、なおぞ、千々ちぢに乱れる、砕ける。いっそ諸共に水底へ。

 が、確たしかにその人が居ようか怪しい。……いや、まさしく、そこに、いまし葬った骨がある。骨は確たしかに……確に骨は、夫人がここに身を投じて、朽ちず、消えず、砕けぬ──白き珊瑚さんごの玉なす枝を、我がために残したことは、人にこそ言わね、昨夜ゆうべより我は信じて疑わぬ。

 何が不足で一所に死ねぬ──

「その肉身か。」

 と己おのが頭髪ずはつを掴つかんで、宙に下がるばかり突立つッたった。

「卑怯ひきょうだ、此奴こいつ! 始はじめからそれは求めぬ誓ちかいであった。またそれを求むる位なら、なぜ、行方も知れず捉とらうる影なきその人を、かくまで慕う。忘れられぬはその霊こころであろう。……その霊は、そこにある、現在骨まである。何が、何が不足で飛込めない。

 肉身か、あるいはそれもある。沼の水は、すなわち骨を包む膚はだ、溺おぼれて水を吸うは、なおその人の唇に触れるに違たがわん!」

 入れ、入れ、入れ、さあさあさあさあ、と水が引き引き、ざわざわと蘆あしを誘って、沼の真中まんなかへ引寄せる。

 小松原は立ったまま地鞱ぢだんだを踏んだが、

「ええ! 腑効ふがいない。」

 どっかり草へ。

 蘆の葉末はずえに水を載のせて、昼の月の浮いて映るがごとく、沼のそこに、腕かいなか、肩か、胸か、乳か、白々と漾ただよい居る。

 ソレソレ手に取るばかり、その人が、と思いながら、投出して見ても足がまだ水へは達とどかぬ。

 何をか疑い、何をか猶予ためらう。

 余あまりの事に、ここへ来るは今日には限らないと思切って、はじめて悚然ぞっとして、帰ろうとして、骨を送った船の漾ただよう処を視ながむれば、四五本打った、杭くいの根に留とまったが、その杭から、友染ゆうぜんの切きれを流した風情で、黄昏たそがれを翡翠かわせみが一羽。


二十六


 それをこう視ながめた時、いつもとろとろと、眠りかけの、あの草の上、樹の下に、美うつくしい色の水を見る、描いたるごとき夢幻ゆめうつつの境、前世か、後世か、ある処の一面の絵の景色が、彩色さいしきした影のごとくに浮うかんだので、ああ、このままここへ寝るかも知れない。

 それも可よし、ままよ、なるようになれとなった。……

 その内に、翡翠かわせみの背らしいのが、向うで、ぼっと大きくなり、従って輪郭りんかくは朧おぼろになったが、大きくなったのは近づくので、朧になるのは、山から沼の上を暮増くれまさるのである。その暮れるのと、来かかるのとが、蘆あしの汀みぎわを段々伝いに、そよそよと風に、背後うしろを、吹かれ、送られ、近づいて、何の跫音あしおとも聞えなかったが、上かみからか下しもからか、小松原の目に、婦おんなの色ある衣きぬの裙すそが見えて、傍かたわらに来て、しっとり留とまる。……

「奥さん。」

 と、我知らず叫んだが、はっと気が附いても枕はしていず、この時は、診察室の寝台ねだいでなかった。そこで、

「…………」

 誰かが何か言う。ただ赫かっとして、初手のは分らなかった。瞳を凝らして、そのすっと通った鼻筋と、睫毛まつげが黒く下向にそこに彳たたずんだのを見出みいだした時、

「立二さん。」

 と胸を抱いた手が白く、よくは分らぬけれども、着たものの柄にも因るか、しばらくの間に、やや太肉ふとりじしだった人が、げっそりと痩やせて小さくなった。

「おお!」

 とばかりで、肩で呼吸いきして、草に胡坐あぐらしたまま、己おのが膝を引掴ひッつかんで、せいせい言って唇を震わす。

 上では、俯向うつむきさまに、髪が揺れたが、唇の色が燃え、得も言われぬ微笑ほほえみして、

「変った処で……あんまりだから、お化だと思うでしょう。」

 と相変らずしとやかなものの言いよう哉や。

 それどころか、お化……なら、お化で、またその人ならその人で、言いたいことが一切経、ありったけの本箱を引ひっくり返したのと、知っただけの言ことばを大絡おおまとめにしたのが、一斉いちどきに胸へ込上げて、咽喉のどで支つかえて、ぎゅうとも言えず、口は開あかずに、目は動く。

「それでも、」

 と鬢びんへちょいと手を遣やったが、櫛くし、笄こうがい、簪かんざし、リボン、一ツもそんなものは目に入らなかった。

「まさか、墓へは連れて行ゆかないから、私の許とこへ御一所に。」

 指ゆびさして、指の先で、男が只瞻ひたみはりに瞻った瞳を、沼の片隅に墨で築ついた芭蕉の蔭へ、触って瞬かせるまで、動かさせて、

「あすこを通って、岨伝そばづたいに出られる里。……立さん、そんなに吃驚びっくりなさらないでも、貴下あなたが昨日、お医師いしゃ様の許とこへおいでなすった事は、私もう知っています。

 いつかの時の怪我けがでねえ、まだ時々、時候の変り目に悩みますから、梅雨時分、あのお医師様にお世話になったの、……私のね、今隠れている百姓屋へ来て貰って……

 立さんが、先刻さっき葬式おとむらいにいらしった、この沼の白骨も、その時私の許で聞いて、あの方がここへ来て拾って行ったんです。

 この頃、また、ちっと塩梅あんばいが悪いので、医師いしゃへ通っていますから、今日こちらへお出でなさる事も、貴下がお出掛けの直ぐあとへ行って聞いて来ました。

 先刻さっきから、あちこちで、様子を見ていましたけれども、傍そばに人が居るから、見られるのが可厭いやで来ませんでしたよ。

 さあ、いらっしゃい。」

「……参ります!」

 とだけは決然として気競きおって云ったが、膝が萎なえて、がくついて、ついした事には行ゆかないで、

「貴女、貴女、」

 とばかり言う。

「まあ、何にもおっしゃらないで。何事も、あの、内へ行ってから、ゆっくりお話をしましょうね。」

 と軽く頷うなずく、頬がつくと、襟の処が薄く曇って、きらきらと露が落ちた。


二十七


 その涙を払う状さまに、四辺あたりを見つつ、

「御覧なさい、可厭いやな。どこより前さきに、沼の上が暗くなりました。これが、あの田の水の源もとなんですもの。またいつかの時のような事があっては悪い。」

 と調子はおっとり聞こえたが、これを耳にすると斉ひとしく、立二は焼火箸やけひばしを嚥のんだように突立つッたった。

 ト、佳いい薫かおりが、すっと横を抜けて通って、そのまま後姿で前へ立って、尋常に汀みぎわを行ゆく。……お太鼓の帯腰が、弱々と、空から釣ったように、軽く、且つ薄い。

 そこへ、はらはらとかかる白絽しろろの袂たもとに、魂を結びつけられたか、と思うと、筋骨すじぼねのこんがらかって、捌さばきのつかないほど、揉もみ立てられた身体からだが、自然に歩行あるく。……足はどこを踏んだか覚えなし。

 しばらく行ゆくと、その人が、偶ふと立停たちどまって、弱腰を捻ねじて、肩へ、横顔で見返って、

「気をつけて頂戴、沼の切れ目よ。」

 と案内する……処に……丸木橋が、斧おのの柄の朽ちた体ていに、ほろりと中絶えがして折込おれこんだ上を、水が糸のように浅く走って、おのれ、化ける水の癖に、ちょろちょろと可憐しおらしやか。ここには葉ばかりでなく、後おくれ咲ざきか、返り花が、月に咲いたる風情を見よ、と紫の霧を吐いて、杜若かきつばたが二三輪、ぱっと花弁はなびらを向けた。その山の端はに月が出た。

「今夜は私が、」

 すっと跨またぐ、色が、紫に奪われて、杜若に裙すそが消えたが、花から抜ける捌さばいた裳もすそが、橋の向うで納おさまると、直ぐに此方こなたへ向替えて、

「手を引いて上げましょう。」

 嫋娜なよやかに出されたので、ついその、伸のばせば達とどく、手を取られる。その手が消えたそうに我を忘れて、可懐なつかしい薫かおりに包まれた。

 まだ耳の底に絶えなかった、あの、きょ、きょら、くらら鳥の声が、この時急に変った。野太く、図抜けた、ぼやっとした、のろまな、しかも悪く底響きのするのに変って、

 ……おのれら! おのれら!……

 と鳴く。

 ぎょっとして、仰いで見る、月影に、森なす大芭蕉おおばしょうの葉の、沼の上へ擢ぬきんでたのが、峰から伸出のしだいて覗のぞくかと、頭かしらに高う、さながら馬の鬣たてがみのごとく、譬たとえば長髪を乱した体ていの、ばさとある附元つけもとは、どうやら痩やせこけた蒼黒あおぐろい、尖とがった頤おとがいらしくもある。

 あれあれ裂けた処が、そっくり口で、

 ……おのれら!……

 とまた鳴いた。その体ていは……薄汚れた青竹の太杖ふとづえを突いて、破目やぶれめの目立つ、蒼黒い道服を着ちゃくに及んで、丈せい高う跳のさばって、天上から瞰下みおろしながら、ひしゃげた腹から野良声を振絞って、道教うる仙人のように見えた。

 その葉が大きく上にかぶさる、下に彳たたずんで熟じっと見た、瞳が霑うるんで溜息ためいきして、

「立さん、立さん、」

 と手を取ったまま、励ますように呼掛けて、

「憎らしいではありませんか。あの芭蕉が伸拡がって、沼の上へ押覆おっかぶさるもんですから、御覧なさい。出汐でしおをこうして隠すんですもの。空へ上れば峰へ伸のびる、向うへかかれば海へ落ちて、いつ見ても、この水に、月の影が宿りません。

 可哀相に。いつかの、あの時、月の影さえ見えたらばと、どんなに二人で祈ったでしょう。身につまされて涙が出る。まあ、この沼の暗いこと! 外は、あんなに月夜だのに。……」

 翳かざせばその手に、山も峰も映りそう。遠い樹立は花かと散り、頬に影さす緑の葉は、一枚ごとに黄金きんの覆輪ふくりんをかけたる色して、草の露と相照らす。……沼は、と見れば、ここからは一面の琵琶びわを中空に据えたようで、蘆あしの葉摺はずれに、りんりんと鳴りそうながら、一条ひとすじ白銀しろがねの糸も掛かからず、暗々として漆して鼠が駈廻かけまわりそうである。

「先刻さっき、貴下あなたがなすったついでに、もうちっと切払って下されば可よかったのねえ。」

 ただ等閑なおざりに言い棄てたが、小松原は思わず拳こぶしを握った。生れて以来このかた、かよわきこの女性にょしょうに対して、男性の意気と力をいまだかつて一たびもために露あらわし得た覚おぼえがない。腑効ふがいなさもそのドン詰づまりに……

 しゃ! 要こそあれ。

 今も不思議に片手に持った、鞘さやを棄てて、提ひっさげて衝つと出たが、屹きっと見上げて、

「おのれ!」

 と横薙よこなぎ、刃やいばが抜けると、そのもの、長髪をざっと捌さばく。驚破すわ天窓あたまから押潰おしつぶすよと、思うに肖にず、二丈ふたたけばかりの仙人先生、ぐしゃと挫ひしげて、ぴしゃりとのめずる。

 これにぞ、気を得て、返す刀、列位の黒道人くろどうじんに切附きりつけると、がさりと葉尖はさきから崩れて来て、蚊帳を畳んだように落ちる。同時に前へ壁を築ついて、すっくと立つ青仙人を、腰車に斬きって落す。拝打おがみうち、輪切わぎり、袈裟掛けさがけ、はて、我ながら、気が冴さえ、手が冴え、白刃しらはとともに、抜けつ潜くぐりつ、刎越はねこえ、飛び交い、八面に渡って、薙立なぎたて薙立て、切伏せると、ばさばさと倒れるごとに、およそ一幅ひとはばの黒い影が、山の腹へひらひらと映って、煙が分れたように消える、とそこだけ、はっと月が射さして、芭蕉のあとを、明るくなる。

 果はては丘のごとく、葉を累かさねた芭蕉の上に、全身緑の露を浴び、白刃に青き雫しずくを流して、逆手さかてに支ついてほっと息する。

 褄取りながら、そこへ来て、その人が肩を並べた。

 白刃を落して、その時腕かいなをさすって憩う、小松原の手を取って、

「ああ、嬉しい。」

 と、山の端は出いでたる月に向って、心ゆくばかり打仰いだ。背せな撓たわみ、胸の反るまで、影を飲み光を吸うよう、二つ三つ息を引くと、見る見る衣きぬの上へ膚はだえが透き、真白な乳ちが膨らむは、輝く玉が入ると見えて、肩を伝い、腕かいなを繞めぐり、遍あまねく身内の血と一所に、月の光が行通れば、晃々きらきらと裳もすそが揺れて、両の足の爪先つまさきに、美うつくしい綾あやが立ち、月が小波ささなみを渡るように、滑なめらかに襞襀ひだを打った。

 啊呀あなやと思うと、自分の足は、草も土も踏んではおらず、沼の中なる水の上。

 今はこうと、まだ消え果てぬ夫人に縋すがると、靡なびくや黒髪、溌ぱっと薫って、冷つめたく、涼すずしく、たらたらと腕に掛かかる。


 …………小松原は、俯向うつむけに蒼沼に落ちた処を、帰宅かえりのほどが遅いので、医師せんせいが見せに寄越よこしした、正吉に救われた。

 車夫は沼の隅の物音に、提灯ちょうちんを差出したが、芭蕉の森に白刃が走る月影に恐おそれをなして、しばらく様子を見ていたと言う。


 小松原が恢復かいふくして、この話をした時、医学士は盃を挙げて言った。

「昔だと、仏門に入いる処だが、君は哲学を学やっとる人だから、それにも及ぶまい。しかし、蒼沼は可怪あやしいな。」

明治四十一(一九〇八)年六月

底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房

   1996(平成8)年2月22日第1刷発行

底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店

   1941(昭和16)年8月15日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

入力:門田裕志

校正:仙酔ゑびす

2011年3月10日作成

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