貴婦人
泉鏡花



        一


 番茶を焙ほうじるらしい、いゝ香気においが、真夜中とも思ふ頃芬ぷんとしたので、うと〳〵としたやうだつた沢さわは、はつきりと目が覚めた。

 随分ずいぶん遙々はるばるの旅だつたけれども、時計と云ふものを持たないので、何時頃か、其それは分らぬ。尤もっとも村里むらざとを遠く離れた峠とうげの宿で、鐘の声など聞えやうが無い。こつ〳〵と石を載せた、板葺屋根いたぶきやねも、松高き裏の峰も、今は、渓河たにがわの流れの音も寂しんとして、何も聞えず、時々颯さっと音を立てて、枕に響くのは山颪やまおろしである。

 蕭殺しょうさつたる此この秋の風は、宵よいは一際ひときわ鋭かつた。藍縞あいじまの袷あわせを着て、黒の兵子帯へこおびを締めて、羽織も無い、沢の少わかいが痩やせた身体からだを、背後うしろから絞つて、長くもない額髪ひたいがみを冷つめたく払つた。……其その余波なごりが、カラカラと乾からびた木この葉はを捲まきながら、旅籠屋はたごやの框かまちへ吹込ふきこんで、大おおきな炉ろに、一簇ひとむらの黒雲くろくもの濃く舞下まいさがつたやうに漾ただよふ、松を焼く煙を弗ふっと吹くと、煙は筵むしろの上を階子段はしごだんの下へ潜ひそんで、向うに真暗まっくらな納戸なんどへ逃げて、而そして炉べりに居る二人ばかりの人の顔が、はじめて真赤に現れると一所いっしょに、自在に掛かかつた大鍋おおなべの底へ、ひら〳〵と炎が搦からんで、真白な湯気のむく〳〵と立つのが見えた。

 其の湯気の頼母たのもしいほど、山気さんきは寒く薄い膚はだを透とおしたのであつた。午下ひるさがりに麓ふもとから攀上よじのぼつた時は、其の癖汗あせばんだくらゐだに……

 表二階おもてにかいの、狭い三畳じょうばかりの座敷に通されたが、案内したものの顔も、漸やつと仄ほのめくばかり、目口めくちも見えず、最もう暗い。

 色の黒い小女こおんなが、やがて漆うるしの禿はげたやうな装なりで、金盥かなだらいに柄えを附けたらうと思ふ、大おおきな十能じゅうのうに、焚落たきおとしを、ぐわん、と装もつたのと、片手に煤すすけた行燈あんどうに点灯ともしたのを提げて、みし〳〵と段階子だんばしごを上あがつて来るのが、底の知れない天井の下を、穴倉あなぐらから迫上せりあがつて来るやうで、ぱつぱつと呼吸いきを吹く状さまに、十能の火が真赤な脈を打つた……冷ひややかな風が舞込まいこむので。

 座敷へ入つて、惜気おしげなく真鍮しんちゅうの火鉢へ打撒ぶちまけると、横に肱掛窓ひじかけまどめいた低い障子が二枚、……其の紙の破やぶれから一文字いちもんじに吹いた風に、又𤏋ぱっとしたのが鮮麗あざやかな朱鷺色ときいろを染そめた、あゝ、秋が深いと、火の気勢けはいも霜しもに染そむ。

 行燈あんどうの灯ひは薄もみぢ。

 小女こおんなは尚なほ黒い。

 沢は其のまゝにじり寄つて、手を翳かざして俯向うつむいた。一人旅の姿は悄然しょんぼりとする。

 がさ〳〵、がさ〳〵と、近いが行燈あんどうの灯は届かぬ座敷の入口、板廊下の隅に、芭蕉ばしょうの葉を引摺ひきずるやうな音がすると、蝙蝠こうもりが覗のぞく風情ふぜいに、人の肩がのそりと出て、

「如何様いかがさまで、」

 とぼやりとした声。

「え?」と沢は振向ふりむいて、些ちと怯おびえたらしく聞返ききかえす、……

「按摩あんまでな。」

 と大分横柄おうへい……中に居るものの髯ひげのありなしは、よく其の勘かんで分ると見える。ものを云ふ顔が、反返そりかえるほど仰向あおむいて、沢の目には咽喉のどばかり。

「お療治は如何様で。」

「まあ、可よござんした。」

 と旅なれぬ少わかものは慇懃いんぎんに云つた。

「はい、お休み。」

 と其でも頭こうべを下げたのを見ると、抜群なる大坊主おおぼうず。

 で、行燈あんどうに伸掛のしかかるかと、ぬつくりと起たつたが、障子を閉める、と沙汰さたが無い。

 前途ゆくてに金色こんじきの日の輝く思ひの、都をさしての旅ながら、恁かかる山家やまがは初旅はつたびで、旅籠屋はたごやへあらはれる按摩の事は、古い物語で読んだばかりの沢は、つく〴〵とものの哀あわれを感じた。


        二


 沢は薄汚うすよごれた、唯ただそれ一個ひとつの荷物の、小さな提革鞄さげかばんを熟じっと視みながら、蒼あおい形なりで、さし俯向うつむいたのである。

 爾時そのとき、さつと云ひ、さつと鳴り、さら〳〵と響いて、小窓の外を宙を通る……冷つめたい裳もすその、すら〳〵と木この葉はに触つて……高嶺たかねをかけて星の空へ軽く飛ぶやうな音を聞いた。

 吹頻ふきしきつた秋の風が、夜よるは姿をあらはして、人に言葉を掛けるらしい。

 宵よいには其の声さへ、寂さびしい中にも可懐なつかしかつた。

 さて、今聞くも同じ声。

 けれども、深更しんこうに聞く秋の声は、夜中にひそ〳〵と門かどを行ゆく跫音あしおとと殆ほとんど斉ひとしい。宵の人通りは、内に居るものに取つて誰たれかは知らず知己ちかづきである。が、更ふけての跫音は、敵かたきかと思ふ隔へだてがある。分けて恋のない──人を待つ思おもいの絶えた──一人旅の奥山家おくやまが、枕に音おとづるゝ風は我を襲おそはむとする殺気を含む。

 処ところで……沢が此こ処こに寝て居る座敷は──其の家も──宵に宿つた旅籠屋はたごやではない。

 あの、小女こおんなが来て、それから按摩の顕あらわれたのは、蔵屋くらやと言ふので……今宿つて居る……此方こなたは、鍵屋かぎやと云ふ……此の峠とうげに向合むかいあつた二軒旅籠の、峰を背後うしろにして、崖がけの樹立こだちの蔭かげに埋うまつた寂さみしい家で。前ぜんのは背戸せどがずつと展ひらけて、向うの谷で劃くぎられるが、其の間あいだ、僅少わずかばかりでも畠はたけがあつた。

 峠には此の二軒の他ほかに、別な納戸なんども廏うまやも無い、これは昔から然そうだと云ふ。

「峠、お泊りでごいせうな。」

 麓ふもとへ十四五町ちょう隔へだたつた、崖の上にある、古い、薄暗い茶店ちゃみせに憩いこつた時、裏に鬱金木綿うこんもめんを着けた縞しまの胴服ちゃんちゃんこを、肩衣かたぎぬのやうに着た、白髪しらがの爺じいの、霜しもげた耳に輪数珠わじゅずを掛けたのが、店前みせさきに畏かしこまつて居て聞いたので。其処そこの敷しきものには熊の皮を拡げて、目の処ところを二つゑぐり取つたまゝの、而そして木の根のくり抜ぬきの大火鉢おおひばちが置いてあつた。

 背戸口せどぐちは、早はや充満みちみちた山霧やまぎりで、岫しゅうの雲を吐はく如く、幹みきの半なかばを其の霧で蔽おおはれた、三抱みかかえ四抱よかかえの栃とちの樹きが、すく〳〵と並んで居た。

 名にし負おふ栃木峠とちのきとうげよ! 麓ふもとから一日がかり、上のぼるに従ひ、はじめは谷に其の梢こずえ、やがては崖に枝組違くみちがへ、次第に峠に近づくほど、左右から空を包むで、一時ひとしきり路みちは真暗まっくらな夜よると成つた。……梢の風は、雨の如く下闇したやみの草の径こみちを、清水が音を立てて蜘蛛手くもでに走る。

 前途ゆくてを遙はるかに、ちら〳〵と燃え行く炎が、煙けぶりならず白い沫しぶきを飛ばしたのは、駕籠屋かごやが打振うちふる昼中ひるなかの松明たいまつであつた。

 漸やっと茶店ちゃやに辿着たどりつくと、其の駕籠は軒下のきしたに建つて居たが、沢の腰を掛けた時、白い毛布けっとに包まつた病人らしい漢おとこを乗せたが、ゆらりと上あがつて、すた〳〵行く……

 峠越とうげごえの此の山路やまみちや、以前も旧道ふるみちで、余り道中の無かつた処ところを、汽車が通じてからは、殆ほとんど廃駅はいえきに成つて、猪いのししも狼おおかみも又戻つたと言はれる。其の年、烈はげしい暴風雨あらしがあつて、鉄道が不通に成り、新道しんどうとても薬研やげんに刻んで崩れたため、旅客りょかくは皆こゝを辿たどつたのであるが、其も当時だけで、又中絶なかだえして、今は最もう、後おくれた雁かりばかりが雲を越す思ひで急ぐ。……

 上端あがりばなに客を迎顔むかえがおの爺様じいさまの、トやつた風采ふうさいは、建場たてばらしくなく、墓所はかしょの茶店ちゃみせの趣おもむきがあつた。

「旅籠はたごはの、大昔から、蔵屋と鍵屋と二軒ばかりでござんすがの。」

「何方どちらへ泊らうね。」

「やあ、」

 と皺手しわでを膝ひざへ組んで、俯向うつむいて口をむぐ〳〵さして、

「鍵屋へは一人も泊るものがごいせぬ。何なんや知らん怪しい事がある言うての。」


        三


 沢は蔵屋へ泊つた。

 が、焼麩やきぶと小菜こなの汁で膳ぜんが済むと、最もう行燈あんどうを片寄かたよせて、小女こおんなが、堅い、冷つめたい寝床を取つて了しまつたので、此これからの長夜ながよを、いとゞ侘わびしい。

 座敷は其方此方そちこち、人声ひとごえして、台所には賑にぎやかなものの音、炉辺ろべりには寂さびた笑わらいも時々聞える。

 寂さびしい一室ひとまに、ひとり革鞄かばんと睨にらめくらをした沢は、頻しきりに音訪おとなふ、颯さっ……颯と云ふ秋風あきかぜの漫そぞろ可懐なつかしさに、窓を開あける、と冷ひややかな峰が額ひたいを圧した。向う側の其の深い樹立こだちの中に、小さく穴の蓋ふたを外はづしたやうに、あか〳〵と灯影ひかげの映さすのは、聞及ききおよんだ鍵屋であらう、二軒の他ほかは無い峠とうげ。

 一郭、中が窪くぼんで、石碓いしうすを拡げた……右左みぎひだりは一面の霧きり。さしむかひに、其でも戸の開あいた前あたり、何処どこともなしに其の色が薄かつた。

 で、つと小窓を開ひらくと、其処そこに袖そで摺すれた秋風は、ふと向うへ遁にげて、鍵屋の屋根をさら〳〵と渡る。……颯さっ、颯と鳴る。而そして、白い霧はそよとも動かないで、墨色すみいろをした峰が揺ゆすぶれた。

 夜よるの樹立の森々しんしんとしたのは、山颪やまおろしに、皆……散果ちりはてた柳の枝の撓しなふやうに見えて、鍵屋の軒のきを吹くのである。

 透かすと……鍵屋の其の寂さびしい軒下のきしたに、赤いものが並んで見えた。見る内に、霧が薄らいで、其が雫しずくに成るのか、赤いものは艶つやを帯びて、濡色ぬれいろに立つたのは、紅玉こうぎょくの如き柿の実を売るさうな。

「一つ食べよう。」

 迚とても寝られぬ……次手ついでに、宿の前だけも歩行あるいて見よう、──

「遠くへ行ゆかつせるな、天狗様てんぐさまが居ますぜえ。」

 あり合はせた草履ぞうりを穿はいて出る時、亭主が声を掛けて笑つた。其の炉辺ろべりには、先刻さっきの按摩あんまの大入道おおにゅうどうが、やがて自在の中途ちゅうとを頭で、神妙らしく正整しゃんと坐つて。……胡坐あぐら掻かいて駕籠舁かごかきも二人居た。

 沢は此方こなたの側伝かわづたひ、鍵屋の店を謎なぞを見る心持ここちで差覗さしのぞきながら、一度素通すどおりに、霧の中を、翌日あす行く方へ歩行あるいて見た。

 少し行くと橋があつた。

 驚いたのは、其の土橋どばしが、危あぶなつかしく壊こわれ壊ごわれに成つて居た事では無い。

 渡掛わたりかけた橋の下は、深さ千仭せんじんの渓河たにがわで、畳たたまり畳まり、犇々ひしひしと蔽累おおいかさなつた濃い霧を、深く貫つらぬいて、……峰裏みねうらの樹立を射いる月の光が、真蒼まっさおに、一条ひとすじ霧に映つて、底から逆さかさに銀鱗ぎんりんの竜の、一畝ひとうねり畝うねつて閃ひらめき上のぼるが如く見えた其の凄すごさであつた。

 流ながれの音は、ぐわうと云ふ。

 沢は目まのあたり、深山しんざんの秘密を感じて、其処そこから後あとへ引返ひっかえした。

 帰りは、幹みきを並べた栃とちの木の、星を指す偉大なる円柱まるばしらに似たのを廻り廻つて、山際やまぎわに添つて、反対の側かわを鍵屋の前に戻つたのである。

「此の柿を一つ……」

「まあ、お掛けなさいましな。」

 框かまちを納涼台すずみだいのやうにして、端近はしぢかに、小造こづくりで二十二三の婦おんなが、しつとりと夜露よつゆに重さうな縞縮緬しまちりめんの褄つまを投げつゝ、軒下のきしたを這はふ霧を軽く踏んで、すらりと、くの字に腰を掛け、戸外おもてを視ながめて居たのを、沢は一目見て悚然ぞっとした。月の明あかるい美人であつた。

 が、櫛巻くしまきの髪に柔かな艶つやを見せて、背せなに、ごつ〳〵した矢張やっぱり鬱金うこんの裏のついた、古い胴服ちゃんちゃんこを着て、身に染しむ夜寒よさむを凌しのいで居たが、其の美人の身に着ついたれば、宝蔵千年ほうぞうせんねんの鎧よろいを取つて投懸なげかけた風情ふぜいがある。

 声も乱れて、

「お代だいは?」

「私は内のものではないの。でも可ようござんす、めしあがれ。」

 と爽さわやかな、清すずしいものいひ。


        四


 沢は、駕籠かごに乗つて蔵屋に宿つた病人らしい其と言ひ、鍵屋に此の思ひがけない都人みやこびとを見て、つい聞知ききしらずに居た、此の山には温泉いでゆなどあつて、それで逗留をして居るのであらう。

 と先まづ思つた。

 処ところが、聞いて見ると、然そうで無い。唯ただ此こ処この浮世離うきよばなれがして寂さみしいのが気に入つたので、何処どこにも行かないで居るのだと云ふ。

 寂さみしいにも、第一此この家には、旅人の来て宿るものは一人にんも無い、と茶店ちゃみせで聞いた──泊とまりがさて無いばかりか、眗みまわして見ても、がらんとした古家ふるいえの中に、其の婦おんなばかり。一寸ちょっと鼠ねずみも騒がねば、家族らしいものの影も見えぬ。

 男たちは、疾とうから人里ひとざとへ稼かせぎに下おりて少時しばらく帰らぬ。内には女房と小娘が残つて居るが、皆向うの賑にぎやかな蔵屋の方へ手伝ひに行く。……商売敵しょうばいがたきも何も無い。只管ひたすら人懐ひとなつかしさに、進んで、喜んで朝から出掛ける……一頃ひところ皆無かいむだつた旅客りょかくが急に立籠たてこんだ時分は固もとより、今夜なども木この葉はの落溜おちたまつたやうに方々から吹寄ふきよせる客が十人の上もあらう。……其だと蔵屋の人数にんずばかりでは手が廻りかねる。時とすると、膳ぜん、家具、蒲団ふとんなどまで、此方こっちから持運もちはこぶのだ、と云ふのが、頃刻しばらくして美人たおやめの話で分つた。

「家も此方こっちが立派ですね。」

「えゝ、暴風雨あらしの時に、蔵屋は散々に壊れたんですつて……此方こちらは裏に峰があつたお庇かげで、旧もとのまゝだつて言ひますから……」

「其だに何故なぜ客が来ないんでせう。」

「貴下あなた、何もお聞きなさいませんか。」

「はあ。」

 沢は実は其段そのだん心得こころえて居た、為に口籠くちごもつた。

「お化ばけが出ますとさ。」

 痩やせぎすな顔に、清きよい目を睜みはつて、沢を見て微笑ほほえんで云つた。

「嘘でせう。」

「まあ、泊つて御覧なさいませんか。」

 はじめは串戯じょうだんらしかつたが、後のちは真個まったく誘いざなつた。

「是非ぜひ、然そうなさいまし、お化が出ると云つて……而そして婦おんなが一人で居るのを見て、お泊んなさらないでは卑怯ひきょうだわ。人身御供ひとみごくうに出会でっくわせば、屹きっと男が助けると極きまつたものなの……又、助けられる事に成つて居るんですもの。ね、然そうなさい。」

 で、退引のっぴきあらせず。

「蔵屋の方は構ひません。一寸ちょいと、私が行つて断つて来て上げます。」

 と気軽に、すつと出る、留南奇とめきの薫かおりが颯さっと散つた、霧に月つき射さす裳もすその影かげは、絵で見るやうな友染ゆうぜんである。

 沢は笊ざるに並んだ其の柿を鵜呑うのみにしたやうに、ポンと成つた──実は……旅店りょてんの注意で、暴風雨あらしで変果かわりはてた此の前さきの山路やまみちを、朝がけの旅は、不案内のものに危険けんのんであるから、一同のするやうに、路案内みちあんないを雇やとへ、と云つた。……成程なるほど、途中の覚束おぼつかなさは、今見た橋の霧の中に穴の深いのでもよく知れる……寝るまでに必ず雇やとはう、と思つて居た、其の事を言ひ出す隙ひまも無かつたのである。

「お荷物は此これだけですつてね、然そう?……」

 と革鞄かばんを袖そでで抱いて帰つて来たのが、打傾うちかたむいて優しく聞く。

「恐縮です、恐縮です。」

 沢は恐入おそれいらずには居られなかつた。鳶とびの羽はねには託ことづけても、此の人の両袖に、──恁かく、なよなよと、抱取だきとらるべき革鞄ではなかつたから。

「宿で、道案内の事を心配して居ましたよ。其は可いいの、貴下あなた、頼まないでお置きなさいまし。途中の分らない処ところは僅少わずかの間あいだですから、私がお見立て申すわ。逗留とうりゅうしてよく知つて居ます。」

 と入替いれかわりに、軒のきに立つて、中に居る沢に恁こう言ひながら、其の安からぬ顔を見て莞爾にっこりした。

「大丈夫よ。何が出たつて、私が無事で居るんですもの。さあ、お入んなさいまし。あゝ、寒いわね。」

 と肩を細ほっそり……廂ひさしはづれに空を仰いで、山の端はの月と顔かんばせを合せた。

「最もう霜しもが下りるのよ、炉の処ところで焚火たきびをしませうね。」


        五


 美女たおやめは炉を囲んで、少く語つて多く聞いた。而そして、沢が其の故郷ふるさとの話をするのを、もの珍らしく喜んだのである。

 沢は、隔てなく身の上さへ話したが、しかし、十有余年じゅうゆうよねん崇拝する、都の文学者某君なにがしぎみの許もとへ、宿望しゅくぼうの入門が叶かなつて、其のために急いで上京する次第は、何故なぜか、天機てんきを洩もらすと云ふやうにも思はれるし、又余り縁遠えんどおい、そんな事は分るまいと思つて言はなかつた。

 蔵屋の門かどの戸が閉しまつて、山が月ばかり、真蒼まっさおに成つた時、此の鍵屋の母娘おやこが帰つた。例の小女こおんなは其の娘で。

 二人が帰つてから、寝床は二階の十畳の広間へ、母親が設けてくれて、其処そこへ寝た──丁ちょうど真夜中過ぎである。……

 枕を削る山颪やまおろしは、激しく板戸いたどを挫ひしぐばかり、髪を蓬おどろに、藍色あいいろの面めんが、斧おのを取つて襲ふかともの凄すごい。……心細さは鼠ねずみも鳴かぬ。

 其処そこへ、茶を焙ほうじる、夜よが明けたやうな薫かおりで、沢は蘇生よみがえつた気がしたのである。

 けれども、寝られぬ苦しさは、ものの可恐おそろしさにも増して堪へられない。余りの人の恋しさに、起きて、身繕みづくろひして、行燈あんどうを提げて、便たよりのないほど堂々広だだっぴろい廊下を伝つた。

 持つて下りた行燈あんどうは階子段はしごだんの下に差置さしおいた。下の縁えんの、ずつと奥の一室ひとまから、ほのかに灯ひの影がさしたのである。

 邪よこしまな心があつて、ために憚はばかられたのではないが、一足ひとあしづゝ、みし〳〵ぎち〳〵と響く……嵐あらし吹ふき添ふ縁えんの音は、恁かかる山家やまがに、おのれ魅みと成つて、歯を剥むいて、人を威おどすが如く思はれたので、忍んで密そっと抜足ぬきあしで渡つた。

 傍そばへ寄るまでもなく、大おおきな其の障子の破目やれめから、立ちながら裡うちの光景ようすは、衣桁いこうに掛けた羽衣はごろもの手に取るばかりによく見える。

 ト荒果あれはてたが、書院づくりの、床とこの傍わきに、あり〳〵と彩色さいしきの残つた絵の袋戸ふくろどの入つた棚の上に、呀やあ! 壁を突通つきとおして紺青こんじょうの浪なみあつて月の輝く如き、表紙の揃そろつた、背皮に黄金おうごんの文字を刷おした洋綴ようとじの書籍ほんが、ぎしりと並んで、燦さんとして蒼あおき光を放つ。

 美人たおやめは其の横に、机を控へて、行燈あんどうを傍かたわらに、背せなを細く、裳もすそをすらりと、なよやかに薄い絹の掻巻かいまきを肩から羽織はおつて、両袖りょうそでを下へ忘れた、双そうの手を包んだ友染ゆうぜんで、清らかな頸うなじから頬杖ほおづえ支ついて、繰拡くりひろげたペイジを凝じっと読入よみいつたのが、態度ようすで経文きょうもんを誦じゅするとは思へぬけれども、神々こうごうしく、媚なまめかしく、然しかも婀娜あだめいて見えたのである。

「お客様ですか。」

 沢が、声を掛けようとして、思はず行詰ゆきづまつた時、向うから先んじて振向ふりむいた。

「私です。」

「お入んなさいましな、待つて居たの。屹きっと寝られなくつて在いらつしやるだらうと思つて、」

 障子の破れに、顔が艶麗あでやかに口の綻ほころびた時に、さすがに凄すごかつた。が、寂さみしいとも、夜半よなかにとも、何とも言訳いいわけなどするには及ばぬ。

「御勉強でございますか。」

 我ながら相応そぐはない事を云つて、火桶ひおけの此方こなたへ坐つた時、違棚ちがいだなの背皮の文字が、稲妻いなずまの如く沢の瞳ひとみを射いた、他ほかには何もない、机の上なるも其の中の一冊である。

 沢は思はず、跪ひざまずいて両手を支ついた。やがて門生もんせいたらむとする師なる君の著述を続刊する、皆名作の集なのであつた。

 時に、見返つた美女たおやめの風采とりなりは、蓮葉はすはに見えて且かつ気高く、

「何どうなすつたの。」

 沢は仔細を語つたのである……

 聞きつゝ、世にも嬉しげに見えて、

「頼母たのもしいのねえ、貴下あなたは……えゝ、知つて居ますとも、多日ひさしく御一所ごいっしょに居たんですもの。」

「では、あの、奥様。」

 と、片手を支つきつゝ、夢を見るやうな顔して云ふ。

「まあ、嬉しい!」

 と派手な声の、あとが消えて、じり〳〵と身を緊しめた、と思ふと、ほろりとした。

「奥様と云つて下すつたお礼に、いゝものを御馳走ごちそうしませう……めしあがれ。」

 と云ふ。最もう晴はれやかに成つて、差寄さしよせる盆に折敷おりしいた白紙しらかみの上に乗つたのは、たとへば親指の尖さきばかり、名も知れぬ鳥の卵かと思ふもの……

「栃とちの実の餅もちよ。」

 同じものを、来る途みちの爺じじいが茶店ちゃみせでも売つて居た。が、其の形は宛然まるで違ふ。

「貴下あなた、気味が悪いんでせう……」

 と顔を見て又微笑ほほえみつゝ、

「真個ほんとうの事を言ひませうか、私は人間ではないの。」

「えゝ!」

「鸚鵡おうむなの、」

「…………」

「真白な鸚鵡の鳥なの。此の御本ごほんの先生を、最もう其は……贔屓ひいきな夫人があつて、其の方かたが私を飼つて、口移くちうつしに餌えを飼つたんです。私は接吻キッスをする鳥でせう。而そしてね、先生の許とこへ贈りものになつて、私は行つたんです。

 先生は私に口移しが出来ないの……然そうすると、其の夫人を恋するやうに成るからつて。

 私は中に立つて、其の夫人と、先生とに接吻キッスをさせるために生れました。而そして、遙々はるばる東印度ひがしインドから渡つて来たのに……口惜くやしいわね。

 其で居て、傍そばに置いては、つい口をつけないでは居られないやうな気に成るからつて、私を放したんです。

 雀すずめや燕つばめでないのだもの、鸚鵡が町家まちやの屋根にでも居て御覧なさい、其こそ世間騒がせだから、こゝへ来て引籠ひきこもつて、先生の小説ばかり読んで居ます。

 貴下あなた、嘘だと思ふんなら、其の証拠を見せませう。」

 と不思議な美しい其の餅もちを、ト唇に受けたと思ふと、沢の手は取られたのである。

 で、ぐいと引寄せられた。

「恁こうして、さ。」

 と、櫛巻くしまきの其の水々みずみずとあるのを、がつくりと額ひたいの消きゆるばかり、仰いで黒目勝くろめがちな涼すずしい瞳ひとみで凝じっと、凝視みつめた。白い頬ほおが、滑々すべすべと寄つた時、嘴くちばしが触れたのであらう、……沢は見る〳〵鼻のあたりから、あの女の乳房を開ひらく、鍵のやうな、鸚鵡の嘴に変つて行く美女たおやめの顔を見ながら、甘さ、得えも言はれぬ其の餅を含んだ、心こころ消々きえぎえと成る。山颪やまおろしに弗ふっと灯ひが消えた。

 と婦おんなの全身、廂ひさしを漏もる月影に、たら〳〵と人の姿の溶ける風情ふぜいに、輝く雪のやうな翼に成るのを見つゝ、沢は自分の胸の血潮が、同じ其の月の光に、真紅しんくに透通すきとおるのを覚えたのである。


「それでは、……よく先生にお習ひなさいよ。」

 東雲しののめの気き爽さわやかに、送つて来て別れる時、つと高く通みちしるべの松明たいまつを挙げて、前途ゆくてを示して云つた。其の火は朝露あさつゆに晃々きらきらと、霧を払つて、満山まんざんの木この葉はに映つた、松明は竜田姫たつたひめが、恁かくて錦にしきを染そむる、燃ゆるが如き絵の具であらう。

 ……白い鸚鵡おうむを、今も信ずる。

底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会

   1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行

   1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行

底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店

   1940(昭和15)年発行

初出:「三越」

   1911(明治44)年10月

※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。

入力:門田裕志

校正:川山隆

2009年5月10日作成

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