歌の話
折口信夫



歌うたの話はなしについて


 この度たび、高濱虚子たかはまきよしさん・柳田國男先生やなぎだくにをせんせいと御一ごいつしょに、この一部いちぶの書物しよもつを作つくることになりました。その高濱たかはまさんの御領分ごりようぶんの俳句はいくと同樣どうように、短歌たんかといふものは、ほんとうに、日本國民につぽんこくみん自身じしんが生うみ出だしたもので、とりわけ、きはめて古ふるい時代じだいに、出來上できあがつてゐたものであります。さうして、それが偶然ぐうぜん、私わたしの先生せんせいでもあり、またあなた方がたのこの文庫ぶんこにおけるおなじみでもある、柳田國男先生やなぎだくにをせんせいがお書かきの諺ことわざの成なり立たちとも、原因げんいんが竝行へいかうしてゐるのは、不思議ふしぎな御縁ごえんだとおもひます。


一、短歌たんかの起おこり


 短歌たんかは、唯今たゞいまでは一般いつぱんに、うたといつてゐます。けれども大昔おほむかしには、うたと名なづくべきものが多おほかつたので、そのうち、一番いちばん後あとに出來できて、一番いちばん完全かんぜんになつたものが、うたといふ名なを專もつぱらにしたのであります。

 かういふと、不思議ふしぎに思おもふ方かたがあるかも知しれません。あなた方がたの御覽ごらんの書物しよもつには、たいてい短歌たんかの起おこりを、神代かみよのすさのをの尊みことのお作さくからとしてゐるでせう。もちろんこれは、古ふるくからのいひ傳つたへで、あなた方がたが、古代こだいと考かんがへてゐられる奈良朝ならちようよりも、もつと〳〵以前いぜんから、さう信しんじてゐたのです。だからその點てんにおいて、そのお歌うたが、第一番だいゝちばんのものでなくとも、何なにも失望しつぼうする必要ひつようはありません。

 短歌たんかの出來できるまでには、いろんな形かたちをとほつて來きてゐます。第一だいゝちに、世間せけんの人ひとは、短みじかい單純たんじゆんなものが初はじめで、それが擴ひろがつて、長ながい複雜ふくざつなものとなるといふ考かんがへ方かたの、癖くせを持もつてゐます。ところが、物質ぶつしつの進化しんかの方面ほうめんと、精神上せいしんじようのことゝは反對はんたいで、複雜ふくざつなものをだんだん整頓せいとんして、簡單かんたんにして行ゆく能力のうりよくの出來できて來くることが、文明ぶんめいの進すゝんでゆくありさまであります。短歌たんかなどもそれで、日本につぽんの初はじめの歌うたから、非常ひじような整頓せいとんが行おこなはれ〳〵して、かういふ簡單かんたんで、思おもひの深ふかい詩しの形かたちが、出來できて來きたのであります。


二、諺ことわざと、歌うたと


 今いまの人ひとの、考かんがへることの出來できないほど古ふるい、遠とほい祖先そせんの時代じだいには、稱となへ言ごとといふものがありました。それが、も少すこし進すゝむと、ものがたりといふものになつて來きました。さうして、この二ふたつながら、竝ならんで行おこなはれてゐました。その稱となへ言ごとが、今日こんにちでも、社々やしろ〳〵の神主かんぬしさんたちの稱となへる、祝詞のりとなのであります。この二ふたつの言葉ことばは、元もと、日本につぽん古代こだいの神樣かみさまのおつしやつた言葉ことばとして、信しんじられてゐたのですが、そのうち、だん〳〵その言葉ことばのうちにもつと、押おしつめた短みじかい部分ぶぶんを、神樣かみさまの言葉ことばと考かんがへ、その外ほかの言葉ことばを、輕かるく考かんがへて來くる傾かたむきが出來できて來きました。だから稱となへ言ごとのうちにも、神かみのお言葉ことばがあり、ものがたりのうちにも、神かみのお言葉ことばが挿はさまれてゐるもの、と考かんがへ出だしたのであります。この稱となへ言ごとのうちのある部分ぶぶんが、諺ことわざとなり、ものがたりの肝腎かんじんな部分ぶぶんが、歌うたとなつたのであります。神樣かみさまと申まをし上あげる方かたは、尊たふとくもありまた、恐おそろしくもある方かたで、われ〳〵の祖先そせんにおつしやつた言葉ことばは、祖先そせんの人ひとたちが恐おそれ愼つゝしんで承うけたまはり、實行じつこうしなければならない命令めいれいでありました。ですから、稱となへ言ごと全體ぜんたいが、元もとは命令めいれいの意味いみを持もつてゐました。その長ながい命令めいれいの言葉ことばのうちに、それを押おしつめたものが出來できて來きたことは、既すでに申まをしました。これが、たいてい古ふるくは、大體だいたい二ふたつの句くに、纏まとまるものだつたようです。ところが、その稱となへ言ごとから變かはつた、ものがたりのうちのうたも、その理りくつをいへば、意味いみがはつきりして來きるとおもひます。つまり、神樣かみさまの仰おほせに對たいする、お答こたへであります。いひ換かへて見みると自分じぶんの心こゝろがわかつて頂いたゞくように、説明せつめいをし、お願ねがひをし、お詑わびをするもので、根本こんぽんの精神せいしんにおいては、このとほり、私わたしどもは服從ふくじゆう申まをしてをります、といふ誓ちかひの意味いみになります。

 ですから諺ことわざは、命令めいれいの意義いぎから、だん〳〵變化へんかして、社會的しやかいてきの訓戒くんかいあるひは、人間にんげんとしての心こゝろがけを説とくといふ方面ほうめんに、意味いみが變化へんかして來きました。それと共ともに、時代じだいが移うつると、言葉ことばの意味いみや、昔むかしにいひ習ならはしたわけが、わからなくなるために、後世こうせいでは、なんの理りくつもわからない『いひ習ならはし』となつてしまつたのであります。このことは長ながく申まをさずとも、柳田先生やなぎだせんせいのお話はなしでゝも、おわかりになることゝおもひますから、私わたしの分擔ぶんたんに、關係かんけいの深ふかいところばかりでやめておきます。

 さて歌うたは、どこまでも、自分じぶんの心こゝろを詳くはしく、相手あひての心こゝろを牽ひくようにいひ出だすものであります。そして、低ひくい神樣かみさま、或あるひは位置いちの高たかい人間にんげんから、神樣かみさまに申まをし上あげる言葉ことばが、次第しだいに、人間にんげんどうしのいひかけいひあはせる、かけあひの言葉ことばに、利用りようせられて來きました。さうして、神樣かみさまの言葉ことばすらも、やはり、歌うたで現あらはされることになりました。それは大方おほかた、三みつつの句くの形かたちになつたものらしく考かんがへられます。


三、歌うたのいろ〳〵


 この三みつつの句くの形かたちの歌うたを、後のちには、片歌かたうたといつてゐます。これは、歌うたの半分はんぶんといふことでなく、完全かんぜんでない歌うたといふことであります。中なかには片歌かたうたを、短歌たんかの半分はんぶんといふように思おもつてゐる人ひともあるが、これが完全かんぜんになると、旋頭歌せどうか(せんとうかとは讀よみません。習慣しゆうかんで、せどうかといふのです)といふ形かたちが出來できます。

 片歌かたうたは、三句さんくから出來できてゐて、一番いちばんめの句くが五音ごおん、二番にばんめの句くが七音しちおん、第三だいさんの句くがまた七音しちおん、といふふうになつてゐるのが普通ふつうで、その音數おんすうには、多少たしようの變化へんかがあります。これは、歌うたひ延のばしたり、縮ちゞめたりしたからでせう。

 神武天皇じんむてんのうが、大和やまとの國くにのたかさじ野のといふところで、後のちに皇后樣こう〴〵さまになられた、いすけより媛ひめといふお方かたに、初はじめてお會あひなされた時とき、お伴とものおほくめの命みことが、天皇樣てんのうさまの代理だいりで、お媛ひめさまのところへ歩あゆみ寄よつて、ものをいひに行ゆくと、いすけより媛ひめは、おほくめの命みことの目めのさいてあるのに氣きがつかれて、歌うたをうたひかけられました。目めをさくとは、眦めじりを、刺とげのようなもので割さいて、墨すみを入いれて、黥いれずみをすることをいふ、古ふるい言葉ことばであります。その文句もんくは、昔むかしの大學者だいがくしやたちも、わからないと申まをしてゐる、むつかしいもので、これから先さき、あなた方がたのうちから、説明せつめいして下くださる人ひとが、出でて來くるかも知しれません。

あめつゝちとりましとゝ 何故など 黥さける 利目とめ

お前まへの目めは、なぜそんなに黥いれずみがしてあるのか、といふ以上いじように、確たしかな説明せつめいの出來できた人ひとがないのです。

 これに對たいして、おほくめの命みことは答こたへました。

をとめに たゞにあはむと わが黥さける 利目とめ

あなたのような美うつくしい、若わかいお媛ひめさまに會あふために、私わたしが黥いれずみをしておいた、この眦めじりの黥いれずみです。

 なんのために、黥いれずみすることが、さうした目的もくてきに適かなふのかわからないが、歌うたの意味いみはともかく、さうに違ちがひありません。御覽ごらんのとほり、初はじめの句くが、四音しおんになつてゐるが、ともかく、5・7・5といふ三みつつの句くの形かたちを、基礎きそとしてゐます。これが、われ〳〵で知しれる限かぎりの、歌うたの古ふるい形かたちで、このように五音ごおんでなく、四音しおんであるのと反對はんたいに、五音ごおん・七音しちおんであるところを、音數おんすう多おほくしたものもあります。現げんに、この歌うたと同樣どうように、おほくめの命みことと神武天皇じんむてんのうとのかけあひに謠うたはれたといふ歌うたが、それであります。

やまとの たかさじ野ぬを、なゝ行ゆく をとめども。たれをしまかむ(おほくめの命みこと)

     ×

かつ〴〵も、いやさき立だてる 長えをしまかむ(神武天皇じんむてんのう)

この大和やまとのたかさじ野のを、七人しちにん通とほるをとめたち。そのうちの誰たれを、お后きさきになさいますか。

ちっとばかり先さきになつてゐる、あの年長者ねんちようしやを、后きさきにしよう。

 この二ふたつの歌うたについて見みると、片方かたほうは、4・6・4・5・7といふへんな形かたちになつてゐるが、大體だいたい、短歌たんかの5・7・5・7・7といふのと、句くの數かずも似にてゐます。それでは、これが短歌たんかかといふと、第一だいゝち、片歌かたうたの約束やくそくに叛そむきます。片歌かたうたは、片歌かたうたどうし合あはせるもので、けっして、短歌たんかと一組ひとくみにはなりません。さうすると、おほくめの命みことの歌うたも、片歌かたうたの音數おんすうを増まして、早はやく謠うたはれたものとおもふ外ほかはありません。最初さいしよの一句いつくは、『やまとのたかさじ野ぬ』の十音じゆうおんから出來できてゐます。二番にばんめの句くは、『なゝ行ゆくをとめども』の九音くおんが、七音しちおんの句くの長ながさで謠うたはれた、といふことが考かんがへられます。さうして見みると、この時とき、二對についの片歌かたうたの、かけあひがあつたのです。けれども、うっかり見みると、そのうちに、短歌たんかの古ふるい形かたちのようなものが、混まじつてゐるようにも見みえます。もちろん、かういふ音數おんすうの多おほい片歌かたうたも、三句さんくから出來できてゐるのだといふことを忘わすれて、五句ごくになつたところからも、短歌たんかは、出來できて來くるのであります。だから、この長ながい片歌かたうたは、短歌たんかの歴史れきしの上うへから、疎おろそかに出來できない材料ざいりようであります。


四、やまとたけるの尊みことのこと。竝ならびに旋頭歌せどうか


 おなじような片歌かたうたの話はなしが、やまとたけるの尊みことにもあります。この尊みこと東國とうごく平定へいていの時とき、甲斐かひの國くに酒折さかをりの宮みやに宿やどられて、火ひを燃もやしてゐた翁おきなに、いひかけられました。

にひばり つくばを過すぎて、いく夜よか 寢ねつる

あの新治にひばりの近邊きんぺんの筑波つくばをとほり過すぎて、今夜こんやで幾晩いくばん寢ねて來きたとおもふ、といはれたのです。

かゝなへて、夜よには こゝの夜よ。晝ひには とをかを

指折ゆびをり屈かゞめて勘定かんじようして、今晩こんばんは、夜よるで申まをせば、九晩こゝのばん。晝ひるで申まをせば、十日とをかを經過けいかいたしましたことよ。かういふお答こたへをしたのです。

 これは、前まへの神武天皇樣方じんむてんのうさまがたの御歌おうたよりも、もっと名高なだかく、傳つたはつてゐます。それは、この二ふたつの片歌かたうたを連歌れんが(れんが)といふものゝ初はじめだ、と信しんじてゐるからであります。ところが、さういふふうに考かんがへるのなら、もっと時代じだいの古ふるい、神武天皇頃じんむてんのうころの片歌問答かたうたもんどうの方ほうが、連歌れんがの初はじまりだ、といつてよいわけではありませんか。まづ、日本につぽんの歌うたにおいては、長ながい形かたちのものがたりから、次第しだいに變化へんかして、長歌ながうた(ながうた)といふものが出來できて來きた一方いつぽうに、そのうちえきすとも、えっせんすともいつてよい片歌かたうたが、二ふたつ合あはさつて、旋頭歌せどうかといふものに發達はつたつして行ゆくと同時どうじに、片歌かたうた自身じしんが、短歌たんかを作つくり上あげるように、次第しだいに、音おんの數かずを増まし、内容ないようが複雜ふくざつになつてゐました。私わたしの話はなしは、短歌たんかのみならず、日本につぽんの歌うたの大凡おほよそに亙わたつて、知識ちしきをお附つけしたいと思おもふのですから、こんなことから、初はじめたわけです。それで一口ひとくちだけ、旋頭歌せどうかについて申まをしませう。この歌うたの形かたちは、つまり、前まへの問答もんどうの歌うたを一ひとつとすれば、それなのです。萬葉集まんにようしゆうから例れいをひいて見みると、

新室にひむろを蹈ふみ鎭しづめ子こが 手玉ただま鳴ならすも。

玉たまの如ごと 照てりたる君きみを、内うちにと まをせ

新築しんちくの家いへを蹈ふんで、屋敷やしきのわるい魂たましひを鎭しづめ舞まふ女をんなの子こが、手てに捲まきつけた玉たまを、今いま鳴ならしてゐることよ。その玉たまのように、輝かゞやいていらつしやる美うつくしいお客樣きやくさまを、どうぞ内うちらへ、と御案内ごあんない申まをし上あげてくれ。

 このとほり、三番さんばんめの句くで、かっきりと切きれて、四番よばんめの句くから、新あたらしく、同おなじ形かたちをくり返かへしてゐます。それで、頭はじめの句くに旋かへる歌うたといふ意味いみで、旋頭歌せどうかと名なづけられたのでありました。中なかには旋頭歌せどうかが、まだ片歌かたうたの一組ひとくみであつた時ときの姿すがたを、殘のこしてゐるものすらあります。やはり萬葉集まんにようしゆうの、

水門みなとの葦あしの末葉うれはを 誰たれか た折をりし。

わが夫せこが振ふる手てを見みむと われぞ たをりし

川口かはぐちの、葦あしのたくさん生はえてゐる、その葦あしの先さきの葉はが、みんなとれてゐる。これは、誰たれが折をつたのかと申まをしますと、それは、私わたしです。私わたしの夫をつとなるあなたの、私わたしを見みつけてあひずに振ふつていらつしやるお袖そでを、よく見みようと考かんがへて、私わたしが折をつたのです。

 これなどは、一首いつしゆのうちに、自問自答じもんじとうのように、歌うたつてあります。


五、すさのをの尊みことの短歌たんか


やくもたつ いづもやへがき。つまごめに 八重垣やへがきつくる。その八重垣やへがきを

 この名高なだかい、すさのをの尊みことのお歌うたは、實じつは、よく意味いみがわからないのです。でも普通ふつうはかう説明せつめいしてゐます。

幾いくすぢもの雲くもが、どん〳〵と騰のぼつてゐる。その現あらはれてゐる雲くもの廻めぐつて作つくつた、幾重いくへの垣かきのような雲くも。私わたしの妻つまを中なかに入いれるために、幾重いくへもの垣かきを作つくつてゐる、その幾重いくへもの垣かきよ。これがわれ〳〵の結婚けつこんを祝いはふ自然しぜんのしるしである。

 細こまかいところになると、昔むかしから多少たしよう、別々べつ〳〵の意見いけんはあつても、大體だいたいかういふふうに、意見いけんが一致いつちしてゐます。ところが、私わたしにいはせると、意味いみが大だいぶん違ちがつて來きます。

出雲人いづもびとの作つくつた、幾重いくへにも取とり廻まはす、屏風びようぶ・張とばりの類るいよ。われ〳〵、新あたらしく結婚けつこんしたものを包つゝむために、幾重いくへの圍かこひを作つくつてあることよ。あゝ、その幾重いくへの屏風びようぶ・張とばりよ。

 このやくもたつといふ言葉ことばが、歌うたの上うへでいふ枕詞まくらことばなのです。すなはちこの場合ばあひは、いづもといふ言葉ことばを起おこすための、据すゑことばなのです。枕詞まくらことばは、元もとの意味いみのわかるのもあり、わからないのもありますが、わかるのは、大體だいたいに、新あたらしいものゝようです。このやくもたつなども、古ふるい書物しよもつの説明せつめいにさへ、幾いくすぢもの雲くもが立たち圍かこんだところから、いはれたものとしてゐます。けれども、それはいけないので、ほかに、いづもといふ言葉ことばと、特別とくべつの關係かんけいがあつたに違ちがひありません。

 これは結婚けつこんに先立さきだつて、新あたらしい家いへを建たてる、その新築しんちくの室むろの讃ほめ言葉ことばで、同時どうじに、新婚者しんこんしやの幸福こうふくを祈いのる意味いみの言葉ことばなのです。それはともかくとして、この歌うたは、あなた方がたがお讀よみになつても、大體だいたいわかるほど、意味いみがよく通つうじます。ところが、このお歌うたよりも、遙はるかに新あたらしい時代じだいのたくさんな歌うたが、けっしてあなた方がたばかりでなく、大人おとなの、しかも專門せんもんの學者がくしやたちにさへも、わからないものが多おほいのです。ちょっと考かんがへても、時代じだいが新あたらしくなるほど、歌うたがわからなくなるといふような、不自然ふしぜんな事實じじつを、あなた方がたはまともに、うけ入いれますか。だからこの歌うたは、遙はるかに後世こうせい、短歌たんかが盛さかんになつて後のち、行おこなはれ出だして、その作つくつた人ひともわからなくなり、また、非常ひじように重々おも〳〵しい力ちからのあるものと信しんじられた時代じだいに、こんな歌うただから神代かみよの神樣かみさまで、ことに出雲いづもに關係かんけい深ふかい、名高なだかい方かたのお作さくだ、と信しんじられたものに違ちがひはなからう、と考かんがへてゐます。

 大昔おほむかしの歌うたには、この歌うたに限かぎらず、歴史れきしでは傳つたへてゐても、作つくつた人ひとは別べつであり、時代じだいも違ちがつてゐると見みねばならないものが、だん〳〵あるのです。

 私わたしはこのお歌うたが、神武天皇じんむてんのうのお歌うただといふ片歌かたうたよりも、古ふるいものだとは、あるひはもったいないかも知しれないが、信しんじるわけにはまゐりません。短歌たんかの形かたちといふものは、もっともっと、遲おくれて出來できたもので、すさのをの尊みことはもちろん、神武天皇じんむてんのうも、やまとたけるの尊みことも、御存ごぞんじにならなかつたに違ちがひない、と考かんがへてゐるのです。


六、景色けしきを詠よんだ歌うた


狹葦川さゐかはよ 雲立くもたちわたり、うねびやま 木この葉はさやぎぬ。風かぜ吹ふかむとす

さゐ川かはから、雲くもがずっと立たち續つゞいて、この畝傍山うねびやま、その山やまの木この葉はが、騷さわいでゐる。今いま、風かぜが吹ふかうとしてゐるのだ。

畝傍山うねびやま 晝ひるは雲くもと居ゐ、ゆふされば、風かぜ吹ふかむとぞ 木この葉はさやげる

畝傍山うねびやま。それには、山やまの木この葉はが、晝ひるは、雲くもがかゝつてゐるように、ぢっと靜しづまつてゐて、日暮ひぐれが來くると、風かぜが吹ふき出だすといふので、その木この葉はが騷さわいでゐる。

 この二首にしゆの歌うたは、疑うたがひもなく、景色けしきを詠よんだ歌うたであります。畝傍山うねびやま附近ふきんの、小ちひさな範圍はんいの自然しぜんを歌うたつた、いはゆる敍景詩じよけいしといふものであります。ところが、この歌うたを讀よんだゞけで、別べつの氣持きもちが浮うかびませんか。それはなんだか、この歌うたのうちに、違ちがつた氣持きもちが隱かくされてゐる、といふ氣分きぶんの起おこることであります。歌うたの表面ひようめんは一種いつしゆの譬たとへで、何なにか別べつのことがいつてあるのだらうといふ心持こゝろもちが、起おこりませんか。きっと起おこるとおもひます。それで昔むかしの人ひとも、このたゞ敍景じよけいの歌うたに過すぎない、二種にしゆの歌うたに對たいし、かういふ傳つたへを語かたつてゐました。

 神武天皇じんむてんのうがおかくれになつて後のち、先さきに申まをしたいすけより媛ひめが、自分じぶんのお生うみになつた三人さんにんの皇子みこたちを、殺ころさうとするものゝあることを、むきだしにいふことは出來できないから、かういふふうに仄ほのめかして諭さとされたのだ、と古事記こじきといふ書物しよもつにさへ傳つたへてゐます。日本につぽんの古代こだいの人々ひと〴〵は、かういふふうに、一首いつしゆの歌うたについても、何なにか神かみの心こゝろあるひは、諭さとしが含ふくまれてゐるのだ、といふ考かんがへ癖くせを持もつてゐました。その習慣しゆうかんが、久ひさしく續つゞいて來きて、ごく近代きんだいに及およんでゐます。だから偶然ぐうぜん起おこつて來きた、一ひとつゞきの歌うたの文句もんくにも、たゞ歌うたの表面ひようめんの意味いみ以外いがいに、何なにか變かはつた内容ないようがありそうな感かんじを持もつたのであります。

 この歌うたは別べつですが、多おほくさうしたふうにどこからともなく、風かぜの吹ふき起おこるようにはやつて來くる歌うたを、不思議ふしぎな氣持きもちで、びく〳〵しながら、耳みゝを立たてゝ聞きいてゐました。さうしてさういふ種類しゆるいの歌うたを、一般いつぱんに、わざうたと申まをしました。字じでは、童謠どうようとあて字じをします。が、ほんとうの意味いみは、神かみの意志いしの現あらはれた歌うた、といふことらしいのです。たゞ多おほく子こどもたちが、さういふ歌うたを、無心むしんで謠うたひ擴ひろげて行ゆくところから、あて字じをしたのでありませう。この二首にしゆの歌うたも、恐おそらく、いすけより媛ひめのお歌うたでも、お作さくでもなく、またさうした惡人あくにんが、騷動そうどうを起おこさうとしてゐる、注意ちゆういをなさい、といつた意味いみのものでもありますまい。それにしても、こんなに古ふるい時代じだいに、このような敍景じよけいの歌うたが、歌うたはれるわけはないのです。その證據しようこは、これから以後いご、ずっと遙はるかな後のちまで、ほんとうに景色けしきを詠よんだ歌うたといふものが、出でて來こないのであります。いくらか、さうしたものゝ見みえるのは、或時あるとき仁徳天皇にんとくてんのうが、吉備きびのくろ媛ひめといふ人ひとを訪問ほうもんせられたところが、青菜あをなを摘つんでゐたのを見みて作つくられたといふお歌うたであります。

山縣やまがたに蒔まける青菜あをなも、吉備きびびとゝ 共ともにし摘つめば、たぬしくもあるか

天子てんしの御料ごりようの、畑はたけのある山里やまざとに蒔まいた青菜あをなも、そこの吉備きびの國人くにびとと、二人ふたりで摘つんでゐると、氣きがはれ〴〵とすることよ、といふ意味いみのことをいはれたのです。

 これなどは、まづ自然しぜんのものに對たいして、緻密ちみつに觀察かんさつをしたものゝ、書物しよもつに出でたはじめといつてよからうとおもひます。山やまがたといひ出だして、土地とちの樣子ようすからその性質せいしつを述のべて、そこに青々あを〳〵と芽めを出だした野菜やさいの色いろを、印象深いんしようぶかくつかんで、示しめしてゐます。それ以前いぜんの歌うたは、皆みな表面ひようめんは景色けしきを詠よんだように見みえても、ほんとうに味あぢはつて見みると、たゞのうはっつらだけのところで、實際じつさい景色けしきを見据みすゑたものだ、といふことが出來できません。

 かういふふうに、ごくわづかづゝ、自然しぜんに對たいする見方みかたが据すわつて來きました。そして、ほんとうの敍景詩じよけいしといふものが出來上できあがるのは、奈良朝ならちように近ちかくなつてからのことであります。或あるひは、もっと精確せいかくにいふと、奈良朝ならちようになつてからといはなければならないかも知しれません。それにも拘かゝはらず、神武天皇じんむてんのうの時分じぶんに、ちゃんとあゝいふ調とゝのつた、景色けしきの歌うたがあるといふことは、どうしても、不自然ふしぜんなように考かんがへられます。だからこの二首にしゆのお歌うたも、實じつは後世こうせいのもので、なんだか、へんな暗示あんじを感かんじさせるところからして、しぜん、畝傍山うねびやま・さゐ川かは──さゐ川かはは、いすけより媛ひめのお屋敷やしきのあつた所ところ──などいふ地名ちめいから、歴史上れきしじようの事實じじつに結むすびつけて、考かんがへられたものだとおもひます。


七、旅行りよこうの歌うた


 それではどうして、景色けしきを詠よむ歌うたが生うまれて來きたかといふと、それはわれ〳〵の祖先そせんが、よく旅行りよこうをしたからです。或あるひは、旅行りよこうをした時ときと同おなじ心持こゝろもちで、歌うたを作つくる場合ばあひがあつたからです。旅行りよこうをした先さきで、いつも新あたらしく小屋こやがけをして、それに宿やどりました。さうしてかならず、その小屋こやをほめ讃たゝへる歌うたを詠よんで、宴會えんかいを開ひらきました。これを、新室にひむろの宴うたげといひます。その習慣しゆうかんは、旅行りよこうをしないでも、一年いちねんのうちに、かならず一回以上いつかいゝじようは、自然しぜんの村むらにゐて行おこなうたものでした。毎年まいねん、田たの穫とり入いれがすむと、やはり家いへを作つくりかへ、或あるひは屋根やねを葺ふき替かへたりして、おなじく、新室にひむろのうたげを行おこなひました。かういふ場合ばあひにはかならず、建たて物ものの内外ないがいにある物ものを、目めに觸ふれるに從したがつて詠よみ出だして、それが最後さいごに、一ひとつの喜よろこびの氣持きもちに纏まとまる、といふふうな作つくり方かたになつてゐました。

 譬たとへば、萬葉集まんようしゆうにある皇極天皇こうぎよくてんのうのお歌うたとして、傳つたはつてゐるものがそれです。

我わが夫子せこは假廬かりほ作つくらす。かやなくば、小松こまつが下したのかやを刈からさね

私わたしの大事だいじの方かたは、假かり小屋こやを作つくつていらつしやる。がどうも、葺ふき草くさがないので、困こまつてゐられるようだ。そんなにかやがないならば、向むかうに見みえる、あの小松こまつの茂しげつてゐる、その下したのかやをば、お刈かりなさいな。

 これなどはいかにも、旅行中りよこうちゆうの新室にひむろの宴えんらしく、明あかるくてゆったりとした、よいお歌うたであります。現在げんざいかやが、向むかうに生はえてゐる、と教をしへてゐられるのではありません。尠すくなくとも、さうして落おちついて宴會えんかいを開ひらく數時間すうじかん前ぜんまでは、皆みんなで苦勞くろうして、かやを刈かり集あつめてゐたのです。その勞力ろうりよくを思おもひ出だしてのお歌うたなのですが、その席上せきじようにゐる人ひとは、皆みなこの經驗けいけんをつい今いまの先さきにしたのですから、このお歌うたを、きっと、自分自身じぶんじしんの氣持きもちを詠よんで貰もらつたように、愉快ゆかいな氣きがしたに違ちがひありません。家いへのうちにゐて、その内外ないがいの樣子ようすを詠よむといふところから、景色けしきの歌うたが生うまれて來くるのであります。それが次第しだいに進すゝんで、旅行中りよこうちゆうの歌うたにはほんとうに自然しぜんを詠よみこなした立派りつぱなものが、萬葉集まんようしゆうになると、だん〳〵出でて來きてゐます。

いそのさき漕こぎ廻たみ行ゆけば、あふみの海うみ 八十やそのみなとにたづさはに鳴なく

岩いははなをば、漕こぎ廻まはつて行ゆくごとに、そこに一ひとつづゝ展ひらけて來くる、近江あふみの湖水こすいのうちのたくさんの川口かはぐち。そこに鶴つるが多おほく鳴なき立たてゝゐる。

 八十やその湊みなとといふのは、ひょっとすると、土地とちの名前なまへで、今いまの野洲川やすかはの川口かはぐちをいつたのかも知しれません。さうすると、歌うたの意味いみが、しぜん變かはつて來きます。がどちらにしても、いかにも鶴つるの啼ないてゐることが、生いき〳〵と寫うつされてゐます。これがまだ、奈良朝ならちようになつたかならない前まへの歌うたなのです。高市黒人たけちのくろひとといふ人ひとの作つくつたものであります。この人ひとは、日本につぽんの敍景じよけいの歌うたの、まづはじめての名人めいじんといつてもさし支つかへのない人ひとで、この後のちは次第しだいに、かうした方面ほうめんにすぐれた人ひとが出でて來きます。山部赤人やまべのあかひとなども、この黒人くろひとに、似にせて作つくつたと思おもはれるものがあります。譬たとへば、

和歌わかの浦うらに潮しほみち來くれば、潟かたをなみ、葦あしべをさして鶴たづ鳴なきわたる

和歌わかの浦うらに潮しほがさして來くると、遠淺とほあさの海うみの干潟ひがたがなくなるために、ずっと海岸かいがん近ちかくに葦あしの生はえてゐるところをめがけて、鶴つるが鳴ないて渡わたつて來くる。

 これは、赤人あかひとの名高なだかい和歌わかの浦うらですが、黒人くろひとに、既すでにそのお手本てほんがあります。

さくら田たへ鶴たづ鳴なき渡わたるあゆち潟がた。潮干しほひにけらし。たづ鳴なき渡わたる

さくらといふところに、田たの作つくつてあるところへ、鶴つるが鳴ないて渡わたつて行ゆく。その手前てまへにあるあゆち潟がた。そこは潮しほが退ひいてゐるに違ちがひない。それであゝいふふうに、鶴つるが鳴なき渡わたつて行ゆくのだ。

 どちらも今日こんにちから見みると、少すこしおもしろみが勝かち過すぎました。趣向しゆこうを凝こらしてゐるところが露骨ろこつに見みえるが、赤人あかひとの方ほうは、よく讀よみ返かへして見みると、いかにもごた〳〵してゐるでせう。殊ことに、二番にばんめの句く、三番さんばんめの句くに、注意ちゆういなさい。おなじく趣向しゆこうを凝こらしたところはあつても、さくら田たへの方ほうは、いかにもすっきりと、頭あたまに響ひゞくように出來できてゐます。これはやはり、親おやと子こと、師匠ししようと弟子でしと、先輩せんぱいと後輩こうはいといふほどの違ちがひが現あらはれてゐるのであります。でも、この赤人あかひとといふ人ひとは、かういふ傾向けいこうの景色けしきを詠よむ歌うたひてを亡なくして、だん〳〵自分じぶんの進すゝむべき領分りようぶんを見出みいだして行ゆきました。そしてつひには、日本につぽんの歌うたが、赤人あかひとの風ふうのものになる時機じきを、待まち屆とゞけたのでありました。そのことをお話はなしするのには、今いま一人ひとり、赤人あかひとの先輩せんぱいとも、先生せんせいともいはなければならない、柿本人麿かきのもとのひとまろのことを申まをさねばなりません。


八、日本につぽん短歌たんかの第一人者だいいちにんしや、柿本人麿かきのもとのひとまろ


 今度こんどのお話はなしでは、短歌たんかと竝ならべ稱しようせられてゐる長歌ちようかのことは、省はぶきたいとおもひます。がこれは、大體だいたい第一章だいいつしようのところで述のべてある物語ものがたりの歌うたから、變化へんかして來きたものと見みてさし支つかへありません。

 柿本人麿かきのもとのひとまろは、平安朝へいあんちようの末すゑになると、神樣かみさまとして祀まつられる程ほどの尊敬そんけいをうけるようになりました。それは、短歌たんかの上うへの成績せいせきによつてゞありますが、人麿ひとまろが生いきてゐた時分じぶん、或あるひはその後ご、久ひさしく人麿ひとまろの評判ひようばんの高たかかつたのは、この長歌ちようかを作つくる力ちからが非常ひじようにあつた點てんでありました。だがそれと共ともに、人麿ひとまろが短歌たんかにすぐれてゐたといふことも、誰たれも疑うたがふものもなく、更さらに私わたしなどからいふと、長歌ちようかよりは寧むしろ、短歌たんかの方ほうで、立派りつぱなものをたくさん殘のこしてゐます。がこの人ひとの功勞こうろうは、それには限かぎりません。實じつのところは、人麿ひとまろが出でて、短歌たんかといふものが、非常ひじように盛さかんになつたのであります。人麿ひとまろの歌うたを見みると、なるほど天才てんさいといふものはえらいものだといふ心持こゝろもちが、つく〴〵します。あなた方がたにも、たゞ昔むかしからのいひ傳つたへだからといふ以上いじように、ほんとうに、人麿ひとまろのねうちを知しつてほしいと思おもふのです。

 實じつのところ人麿ひとまろが出でるまでは、短歌たんかは、まだ海うみのものとも山やまのものともきまらないありさまでありました。この人ひとが短歌たんかといふ形かたちを、はじめて獨立どくりつさしたものと見みて、まづさし支つかへはないと考かんがへます。あんまりえらい人ひとだつたので、人麿ひとまろが死しぬとまもなく、いゝ歌うたであれば人麿ひとまろの歌うただ、と考かんがへるようにさへなつて、今日こんにち殘のこつてゐる萬葉集まんにようしゆうの人麿ひとまろの歌うたといはれてゐるものにも、どこまで、ほんとうに當人とうにんの作物さくぶつか、判斷はんだんのつかぬところがあります。それと共ともに、人麿ひとまろの歌うただと傳つたへられてゐないもので、人ひとのために代かはつて作つくつた、この人ひとの歌うたも非常ひじようにたくさんあるようにおもひます。こゝには大體だいたい、まづ人麿ひとまろに違ちがひないと信しんじられてゐる歌うたについて、少すこし申まをしませう。

あらたへの ふぢえが浦うらに鱸すゝき釣つる海人あまとか見みらむ。旅たび行ゆくわれを

あまさかる 鄙ひなの長道ながぢゆ 戀こひ來くれば、明石あかしの門とより、大和やまとしま見みゆ

外ほかにも、とほつてゐる舟ふねがある。自分じぶんも舟ふねに乘のつて、旅たびをしてゐる。あゝして、向むかうとほつてゐる舟ふねから見みれば、われ〳〵をばこの藤江ふぢえの浦うらで、鱸すゝき釣つりをしてゐる海人あまの村人むらびとと見みてゐるだらうよ。この旅行りよこうをしてゐる私わたしであるのに。

 こゝのあらたへのといふのは、やはり枕詞まくらことばです。たへは着物きものといふことで、手觸てざはりの粗あらいものが、あらたへなのです。さうした着物きものは、山やまの藤ふぢの纎維せんいで織おつたものが多おほかつたので、藤江ふぢえのふぢを起おこすために、あらたへのといふ言葉ことばを、据すゑたのであります。次つぎの歌うた、

われ〳〵は、遠とほい都みやこを離はなれた地方ちほうの長ながい距離きよりをば、焦こがれてやつて來きた。そして、今いまこの時ときに氣きがつくと、この明石あかしの海峽かいきようから内うちらに、畿内きないの山々やま〳〵が見みえてゐる。

 あまさかるは、やはり枕詞まくらことばで、ひなのひといふ語ごを起おこしてゐます。意味いみは、天てんに遠とほくかゝつてゐる日ひといふことなんです。それから、ひなといふ言葉ことばには、意味いみの上うへでは無關係むかんけいで、たゞ音おんの上うへに、續つゞけて來きたのであります。

 やまとしまといふのは、天皇てんのうの御領地ごりようち或あるひは、自分じぶんの親したしい國くにのことを、しまといつた時代じだいに、やまとの國くに或あるひは、畿内きないの國くにをさして、やまとしまといつたのです。けっして、海中かいちゆうの島しまをさしたのではありません。

 かういつて來くると、歌うたが非常ひじように、おもしろくなく聞きこえるかも知しれませんが、一度いちどこの意味いみを頭あたまに入いれて、その後のち度々たび〳〵、讀よみ返かへして見みて下ください。さうすると、自然しぜんにわかつて來くるでせう。譬たとへば、こんな歌うたになると、さうしなければ、けっして味あぢはひを知しることが出來できません。

印南野いなびぬも 行ゆき過すぎがてにおもへれば、心こゝろ戀こほしき加古かこの島しま見みゆ

 なんだかはじめての方かたには、外國語がいこくごでも聞きいてゐる感かんじがするかも知しれません。印南野いなびぬといふのは、播州ばんしゆうの海岸かいがんに廣ひろく亙わたつた地名ちめいで、加古川かこがはを中心ちゆうしんとして、印南郡いなぐん、加古郡かこぐんに擴ひろがつてゐます。そして、歴史上れきしじよう名高なだかいところとなつてゐます。この歌うたでは、人麿ひとまろが都みやこから西にしへ下くだつたのか、それとも遠とほい國くにから都みやこへ戻もどつて來きたのか、その事情じじようがわかりませんが、この歌うたを考かんがへる上うへには、別べつにさし支つかへはありません。私わたしはまづ、遠とほい國くにへ行ゆく時ときのものとして見みておきませう。

だん〳〵とほり過すぎて行ゆく。どこも皆みななごり惜をしいが、今いまとほつてゐる播州ばんしゆうの海岸かいがんの印南野いなびぬも、とほりすぎきれないほどになつかしく思おもつてゐると、ちょうど向むかうの方ほうに、なんだか、近ちかよつて行ゆきたい心こゝろを起おこさせる、加古川かこかはの口くちの、加古かこの島しまが見みえてゐるといふ意味いみです。


九、人麿ひとまろの歌うたの傳つたへにいろ〳〵あること


 この人ひとの歌うたは名高なだかかつたので、歌うたによつて、いろ〳〵に文句もんくが變かはつて傳つたはつてゐます。この歌うたにも、五番ごばんめの句くが、『かこのみなと見みゆ』といふふうに書かいた本ほんもありました。そしてその方ほうが、歌うたとしては遙はるかに勝すぐれてゐると考かんがへます。

沖おきを通とほつてゐて、印南野いなびぬの草原くさはらを、遙はるかに見みてゐる。そのうちに、遠とほく加古川かこかはの川口かはぐちが見みえて來きた。あの川口かはぐちは、知しつてゐるんだ。なつかしい舟泊ふなどまりのあるところだ。

 心細こゝろぼそい氣持きもちで眺ながめてゐるのです。さぁこれで、も一度いちど、讀よみ返かへして下ください。

 こんな歌うたをあげて來くると、人麿ひとまろといふ人ひとは、かなしい歌うたばかり詠よんでゐた人ひとのようですが、なか〳〵どうして、どっしりとした強つよい歌うたを、たくさん殘のこしてゐます。寧むしろこの方ほうが得意とくいであつたのかも知しれません。

おほきみは神かみにしませば、あまぐもの 雷いかづちが上うへにいほりせるかも

 この歌うたは、持統天皇じとうてんのうのお伴ともをして、雷いかづちの岳をか──また、神岳かみをかともいふ──へ行幸ぎようこうなされた時ときに、人麿ひとまろが奉たてまつつたものなのです。

天皇てんのうは、神樣かみさまでいらつしやる。それでこの普通ふつうならば、空そらの雲くもの中なかで鳴なつてゐる雷かみなり、その雷かみなりであるところの山やまの上うへに、小屋こやがけをして、お泊とまりになつてゐることよ。えらい御威勢ごいせいだ。

 かういふふうに、天皇てんのうを讃美さんびしてゐます。この人ひとの歌うたは、自然物しぜんぶつを寫うつす場合ばあひにも、自分じぶんの感情かんじようを述のべる敍情詩じよじようしといふものゝ場合ばあひにも、實じつに見事みごとに出來できてゐるので、どちらがよいといひ切きることは出來できませんが、世間せけんでは、人麿ひとまろは感情かんじようをうたふのに達たつしてゐた人ひとだ、といふことにしてゐます。私わたしはさうも思おもはないが、先さきに申まをした黒人くろひとと較くらべて話はなすのに便利べんりなため、まづ普通ふつうの考かんがへを採用さいようしておきませう。


一〇、山部赤人やまべのあかひと


 この二人ふたりの先輩せんぱいの歌うたを手本てほんにして、だん〳〵自分じぶんの本領ほんりようを出だして來きたのが、先さきに述のべた山部赤人やまべのあかひとなのです。この人ひとの歌うたでは、特別とくべつに名高なだかいものとして、

み吉野よしのの象山きさやまの際まの木こぬれには、こゝだも さわぐ鳥とりのこゑかも

ぬばたまの 夜よのふけ行ゆけば、楸生ひさぎおふる清きよき川原かははらに、千鳥ちどり頻鳴しばなく

 これなどは、人ひとも認みとめまた實際じつさいにねうちもあるものです。

 一體いつたい文學ぶんがくなどいふものは、一人ひとりがよいといひだすと、いつまでもその批評ひひようが續つゞくもので誰たれも彼かれも、前まへの人ひとの言葉ことばから離はなれて考かんがへることの出來できないものであつて、存外ぞんがいつまらないものでも、昔むかしの人ひとが讃ほめたのだからといふので、安心あんしんしてよいものだと思おもつてゐることがたび〳〵あります。赤人あかひとで例れいを取とつて見みると、先さきの、

和歌わかの浦うらに潮しほみち來くれば、潟かたをなみ、葦あしべをさして鶴たづ鳴なきわたる

 のようなもので、これがよいと思おもふようでは、あなた方がたの文學ぶんがくを味あぢはふ力ちからが足たりないのだと反省はんせいして貰もらはねばなりません。他人たにんがよいからよいと思おもふのは、正直しようじきでよいことですが、さういふのを支那しなの人ひとはうまくいひました。それは、耳食じしよくといふ言葉ことばで、人ひとがおいしいといふのを聞きくとおいしいと思おもふのは、口くちで食たべるのではなくて、耳みゝで食たべるのだ。見識けんしきがないといふ意味いみに使つかつてゐます。書物しよもつはたくさん讀よまなくても、耳食じしよくの人ひとにならない用心ようじんが必要ひつようです。歌うたを解釋かいしやくして見みると、

吉野川よしのがはの傍そばにある象山きさやまの山やまのま、すなはち空そらに接せつしてゐるところの梢こずゑを見上みあげると、そこには、ひどくたくさん集あつまつて鳴ないてゐる鳥とりの聲こゑ、それが聞きこえる。

 これなどは、高たかい山やまの上うへを見みつめて歌うたつてゐるので、口くちから出放題でほうだいに作つくつたものでは、けっして、かうはうまくゆきません。つぎのは、

ぬばたまのは、黒くろいものゝ枕詞まくらことば。それで、夜よるにも關係かんけいがあります。

 夜よるがだん〳〵更ふけて來くると、晝ひる見みておいたあのきさゝげの木きのたくさん生はえてゐる、そして、景色けしきのさっぱりしてゐたあの川原かはらに、今いまこの深夜しんやに、千鳥ちどりがしっきりなく鳴ないてゐる。

 これも夜よる靜しづかに室むろのうちに籠こもつて、耳みゝを澄すまし、眼めには、その鳥とりの鳴ないてゐる場所ばしよの光景こうけいを、明あきらかに浮うかべてゐるのであります。こんな歌うたになると、赤人あかひとは、人麿ひとまろにも黒人くろひとにも負まけることはありません。ところが、だん〳〵變化へんかして行いつたと見みえて、世間せけんから騷さわがれてゐるかういふ歌うたを作つくつてゐます。

春はるの野のに すみれ摘つみにと來こし我われぞ、野のをなつかしみ、一夜ひとよ寢ねにける

あすよりは 春菜はるな摘つまむと標しめし野ぬに、きのふも 今日けふも 雪ゆきは降ふりつゝ

 かういふ歌うたが、先さきにいつたとほり、後世こうせい持もてはやされて、これを學まなぶ人ひとが多おほかつたのであります。後あとの歌うたからいひませう。

二三日にさんにち前まへに、私わたしはかういふ計畫けいかくをした。あしたからは、こゝで春はるの若菜わかなを摘つまうと繩張なはばりをしておいたこの野のに、いよ〳〵摘つまうと思おもつて、朝あさ出でて見みると、雪ゆきが降ふつてゐる。きのふも、降ふり〳〵してゐた。今日けふも、降ふり〳〵してゐる。

 ちょっとおもしろいとおもふでせう。そのおもしろいと思おもふ心こゝろが、文學ぶんがくから縁遠えんどほいものなのです。この歌うたの興味きようみは、ごく際きはどい工夫くふうにあるので、若菜わかなを摘つまうとしてゐた心こゝろに、自然しぜんが適かなつてくれないといふことを、自分勝手じぶんかつてに、つごうよく作つくり直なほしたものであります。或あるひはさういふふうな趣向しゆこうで作つくれば、人ひとがおもしるがると考かんがへて作つくつてゐる痕あとが、ありありと見みえてゐます。でもこの歌うたなどは、まだよろしい。はじめの歌うたなどになると、とてもいけません。

ゆふべ、實じつはこの春はるの野のへ、れんげ草そうを摘つみにと思おもつて來きた、その自分じぶんが、あんまり野ののなつかしさに、家いへへも歸かへらないで、つひ〳〵、そこで一晩ひとばん寢ねて暮くらしたといふ意味いみです。

 この頃ころのすみれは、今いまのれんげ草そう、もっと普通ふつうに、げんげといつてゐる花はなで、あの紫むらさきのすみれではありません。


一一、文學ぶんがくのねらひどころ


 そんなことはさておいて、この歌うたの考かんがへてゐるところは、ほんとうのことではありません。あなた方がたのうちには、すでに風流ふうりゆうといふ言葉ことばを御存ごぞんじな方かたがありませう。かういふのが、風流ふうりゆうな歌うたといふのであります。

 けれども實際じつさい、われ〳〵の生活せいかつとは關係かんけいのないことを歌うたつてゐるので、文學者ぶんがくしやだから、普通ふつうの人ひととは違ちがつた考かんがへをしなければならないと思おもつて作つくつたものです。ほんとうにげんげを摘つみに來きて、野のに寢ねる人ひとがありませうか。狐きつねにでもつまゝれなければ、さういふことをするはずがありません。かういふのがよいと考かんがへるのは、實際じつさいの生活せいかつから離はなれたところに、文學ぶんがくがあるのだとする考かんがへで、もう今いまの人ひととは關係かんけいのない、優美ゆうびといふ趣味しゆみであります。だからこの歌うたは、全然ぜん〳〵嘘うその歌うただといはねばなりません。かうした嘘うそを重かさね〳〵して來きた日本につぽんの歌うたが、だん〳〵惡わるくなつて來くるのは、もちろんのことであります。で先さきにいつた平安朝へいあんちようの古今集こきんしゆうの一番いちばんお手本てほんになつたのは、赤人あかひとのかういふふうのもので、そのために歌うたは、次第しだいに空想的くうそうてきになり、實際じつさいを離はなれ、それとゝもに惡わるくなつて來きました。文學ぶんがくといふものは、われ〳〵の實際じつさいの生活せいかつから離はなれたものが、よいのではありません。

 萬葉集まんにようしゆうには、まだ〳〵上手じようずな人ひとが、たくさんにゐます。だが日本につぽんの歌うたの歴史れきしは、とても私わたしのために與あたへられた紙數しすうでは書かき盡つくすことは出來できないので、このへんで切きり上あげて、つぎの時代じだいに移うつります。


一二、古今集頃こきんしゆうごろの歌うた


 つぎに名高なだかい歌うたの書物しよもつは、萬葉集まんにようしゆうが書物しよもつになつて後のち、百年ひやくねん以上いじよう經たつてから出でた、古今集こきんしゆうといふ歌集かしゆうであります。これは御存ごぞんじの醍醐天皇だいごてんのうの御代みよに出來できたもので、普通ふつう、天子てんしの仰おほせでつくつた歌集かしゆうの第一番だいゝちばんのものだといふことになつてゐます。かうした歌集かしゆうを敕撰集ちよくせんしゆうといひます。敕撰集ちよくせんしゆうの第一だいゝちのものであるために、古今集こきんしゆうの歌うたが、それ以後いごの歌うたの動うごかすべからざる手本てほんとなつてしまひました。

 この古今集こきんしゆうを見みると、不思議ふしぎなことには、古今集こきんしゆうの出來できた當時とうじに生いきてゐた人ひとの歌うたは、たいていよくなくて、死しんで久ひさしくなつて、名なさへ傳つたはらない人ひとの歌うた、或あるひは宮中きゆうちゆうでのお祭まつりに傳つたへられてゐた歌うたなどが、とびぬけて勝すぐれてゐます。それは一いつたいどういふわけでせうか。つまり古今集こきんしゆうの時分じぶんには、歌うたはかういふものだと小ちひさな標準ひようじゆんをきめてかゝつて、それにあてはまるものを集あつめたから、規模きぼの小ちひさい、方向ほうこうを誤あやまつたものが、多おほく出でたわけであります。

 古今集こきんしゆうを撰えらんだ人ひとは四人よにんあるが、そのうちもっとも名高なだかいのは、あの紀貫之きのつらゆきといふ人ひとであります。この人ひとは、さういふ歌うたを詠よむことが上手じようずだつたけれども、本式ほんしきの文學ぶんがくらしいものを作つくることは、ほとんど出來できませんでした。さうして見みると、やはり下手へたといふより爲方しかたがありません。

一、近江あふみより朝あさたち來くれば、うねの野のにたづぞ鳴なくなる。明あけぬ。この夜よは

二、まがねふく吉備きびの中山なかやま。おびにせる、細谷川ほそたにがはの音おとのさやけさ

三、みさぶらひ。み笠かさと申まをせ。宮城野みやぎのの木この下露したつゆは、雨あめにまされり


(一)朝あさ(只今たゞいまの朝あさの意味いみとは少すこし違ちがつてゐます。まだ夜よのあけない時分じぶんをいふのです)立たつて、近江あふみの國くにをばやつて來くると、このうねの野のに、鶴つるが鳴ないてゐることだ。あゝ明あけた。この夜よは。

 いかにも、暗くらい夜よるの朝あさに代かはつた喜よろこびが、『あけぬこの夜よは』といふ簡單かんたんな句くのうちに、漲みなぎつてゐるではありませんか。そして暗くらがりから明あかるくなつて來きて、今いままで歩あるいてゐた道みちのほとりに、鶴つるの寢泊ねとまりしてゐた沼地ぬまちのようなものゝあつたことに、氣きのついた樣子ようすが、明あきらかに感かんぜられます。ほとんど、なんのやかましい思想しそうも強つよい感情かんじようもないが、明あかるい、にこにこした氣持きもちが、われ〳〵を心こゝろの底そこからゆすり立たてるように感かんじないでせうか。

(二)まがねふくは、枕詞まくらことば。

吉備きびの國くにの中山なかやま──美作みまさかにある──よ。それが腰こしのひきまはしにしてゐる、細谷川ほそたにがはの音おとの澄すんで聞きこえることよ。

 あなた方がたは、この歌うたを見みると、内容ないようがからっぽだと感かんじるかも知しれません。しかしさういふふうに早合點はやがつてんしてしまふようでは、日本につぽんの歌うたはわかりません。日本につぽんの歌うたには、意味いみや思想しそうから離はなれて、また特別とくべつのねうちを持もつたものさへあるのです。そしてその代表的だいひようてきなものがこの歌うたです。まづ第一だいゝちに、調子ちようしの高たかいことを感かんじるでせう。のびやかで、ひっぱり上あげるような調子ちようしが、ある點てんまで行いつて、ぴったりと落おちつきよく納をさまつてゐるではありませんか。

 かういつても、あなた方がたが考かんがへて見みてくれなければわからないことだが、幾度いくどもくり返かへして貰もらひたく思おもひます。意味いみからいへば、川かはの音おとがよいといふだけのことです。そして吉備きびの中山なかやまが帶おびにしてゐるといふようなことは、別べつに珍めづらしくもなんともないのであるにも拘かゝはらず、われ〳〵はそれに對たいして、朗ほがらかな氣持きもちを受うけずにゐられません。この歌うたは、萬葉集まんにようしゆうにも似にたものがあつて、

おほぎみの御笠みかさの山やまの帶おびにせる、細谷川ほそたにがはの音おとのさやけさ

 となつてゐます。だが私わたしは、前まへの方ほうが好よいとおもひます。なぜなれば、『おほぎみの御笠みかさの山やま』といふところに、人ひとの頭あたまが、もつれを感かんじます。純粹じゆんすいに單純たんじゆんにすっきりとはひつて來こないのです。

 まがねふくは、鐵てつを吹ふきわけるといふ元もとの意味いみを忘わすれてゐて、こゝでは、單たんに吉備きびを起おこすための枕詞まくらことばにすぎません。こんな單純たんじゆんなうちに、われ〳〵の心こゝろを豐ゆたかにする文學ぶんがくの味あぢはひが歌うたにはあるのです。かういふ味あぢはひは、祖先そせん以來いらい與あたへられてゐる大事だいじなものだから、それを失うしなはないようにするのが、われ〳〵の務つとめといふよりも、われ〳〵の喜よろこびと感かんじなくてはなりません。

 三番さんばんめになると大だいぶん複雜ふくざつで、


(三)お附つきの人ひとよ。お笠かさであると申まをし上あげい。この宮城野みやぎのの木きの上うへからふり落おちる露つゆは雨あめ以上いじようである。

 これは、自分じぶんの大事だいじに思おもつてゐる人ひとに對たいする篤あつい心こゝろの現あらはれで、何なにもわざ〳〵お附つきの人ひとを呼よんでいつてゐるのではなく、かりにさうしたありさまを、胸むねに浮うかべたゞけです。獵りように出でかけた人ひとが、露つゆに濡ぬれてお出いでになるだらう。お附つきの人ひとが、お笠かさをさし上あげてくれゝばよいのにと感かんじてゐるのを、直接ちよくせつにいひかけたように、詠よんだのであります。

 この歌うたになると、あなた方がたにもおもしろみはわかりませう。だがなほこの歌うたについて、注意ちゆういせねばならぬのは、みさぶらひのみ、みかさのみ、みやぎのゝみが重かさなつてゐる點てんであります。もっといふと、みの音おんと關係かんけいの深ふかいま行音ぎようおんの、まをせ、まされるのまがあります。これを頭韻とういんといつて、日本につぽんの歌うたでは、豫あらかじめ計畫けいかくしてかういふことをするのは尠すくないが、偶然ぐうぜんこんな形かたちの出來できることがあります。この歌うたの快こゝろよい調子ちようしも、似にた音おんの重かさなつてゐるところから來きてゐるのであります。けれどもこれは、始終しじゆうくり返かへされると、あき〳〵するものだといふことを考かんがへなければなりません。

 その外ほかに、まう二三首にさんしゆ、古今集こきんしゆうから勝すぐれた歌うたやら、變かはつた歌うたを附つけ加くはへておきませう。


一三、在原業平ありはらのなりひら


 平安朝へいあんちようのたくさんの歌人かじんのうち、ことに名高なだかく、また實際じつさいねうちもあつた人ひとの一人ひとりは、在原業平ありはらのなりひらといふ人ひとであります。この人ひとの歌うたは、大人おとなでなければわからない氣持きもちをあまり詠よみすぎてゐるので、今度こんどは説明せつめいをすることは出來できないが、一例いちれいをあげると、自分じぶんの親したしくつきあつてゐた人ひとが、行ゆくことも出來できぬところに隱かくれてしまつて後のち、その人ひとのゐた家いへを訪問ほうもんして一人ひとり悲かなしんだ名高なだかい歌うたがあります。

月つきやあらぬ。春はるや昔むかしの春はるならぬ。わが身みひとつは、もとの身みにして

 ちょっと見みたゞけでは、わかつたようでわからぬ歌うたです。同おなじような句くが重かさなつてゐると、自然しぜん片一方かたいつぽうの方ほうは、一部分いちぶぶん略りやくする習慣しゆうかんがあります。この一句いつく、二句にくは、『月つきや昔むかしの月つきにあらぬ。春はるや昔むかしの春はるならぬ』といふのがほんとうなのです。歌うたでなく普通ふつうの文章ぶんしようなら、さう書かかねばとほりません。それをかういふふうにして、意味いみを表あらはす間あひだに、外それ易やすい氣分きぶんを保存ほぞんしようとするのが、歌うたの上うへの工夫くふうであります。工夫くふうでなくとも、自然しぜんにその作者さくしやの心こゝろが燃もえ立たつてゐると、かういふふうにつごうのよい氣分風きぶんふうな現あらはし方かたが、口くちをついて出でて來くるのであります。

春はるは昔むかしの春はるではないか。月つきは昔むかしの月つきではないか。月つきも春はるも、昔むかしのまゝのものである。自然物しぜんぶつはさうして變かはらないでゐるに拘かゝはらず、自分じぶんの身みだけは元もとのまゝにして、さうして……

 と後あとは誰たれにも感かんぜられることだから、いひ盡つくさなかつたのです。これはわざといひ盡つくさなかつたといふより、いひ盡つくしたゞけでは滿足まんぞく出來できなかつたので、かういふ尻切しりきれとんぼのようになつてゐるのですが、かへって讀よむ人ひとの心こゝろに、深ふかい印象いんしようと聯想れんそうとを起おこさせるものなのです。つまりこの後あとへ來くる言葉ことばを補おぎなへば、私わたしの知しりあひの人ひとは元もとの身みではないといふ言葉ことばにすぎません。さうした言葉ことばを入いれるのと讀よむ人ひとの氣持きもちに任まかせるのと、どちらが好よいと思おもひますか。

 私わたしはこの歌うたが譬たとへば百點ひやくてんの歌うただといふ程ほどには、讃ほめる氣きにはなりません。が尠すくなくとも、平安朝へいあんちようの短歌たんかのうちでは勝すぐれたものであるといふことだけはいひたいとおもひます。いかにもねばり強づよい、あきらめにくい悲かなしみの心こゝろが、ものゝ纏まとひついたように、くね〳〵した調子ちようしの現あらはれてゐるのが感かんじられませう。かういふ歌うたが、この後のちまた一ひとつのお手本てほんとなつて來くるのであります。しかしながら、完全かんぜんにこの手本てほんをまねをうせ或あるひはのり越こしたといふものは、さうありませんでした。

 ついでに、秋あきの歌うたのうちから、二首にしゆぬいておきませう。


一四、作者さくしやのわからぬ歌うたに、よい物もののあること


蜩ひぐらしの鳴なきつるなべに、日ひは暮くれぬ。とおもふは、山やまのかげにぞありける

木このまより漏もり來くる月つきの かげ見みれば、心こゝろづくしの秋あきは 來きにけり

 これは二首にしゆながら、よみ人びと知しらずといつて、作つくつた人ひとのわからない歌うたとなつてゐます。ところが、先さきにもいつたとほり、古今集こきんしゆうのよみ人びと知しらずの歌うたのうち、勝すぐれたものが多おほいので、これなどはどこへ出だしても恥はづかしくない立派りつぱな歌うたであります。

蜩ひぐらしが鳴ないたと共ともに、日ひは暮くれてしまつた、と自分じぶんがふっとさう考かんがへたのは、山やまのかげが、家いへの方ほうへさして來きて、うす暗ぐらくなつたためだつたのだ。

 かういふ歌うたになると、先さきの話はなしの調子ちようしでいふと、或あるひは趣向しゆこうをもつていつた歌うただとおもふ方かたがあるかも知しれません。「日ひはくれぬとおもふは」などいふところがよくのみこめなければ、さういふふうな感かんじがしそうです。けれどもこの作者さくしやの中心ちゆうしんとして詠よんでゐるのは、そんなところでなく、何事なにごともないごく退たいくつな生活せいかつをしてゐる人ひとが、けふもまた暮くれて、蜩ひぐらしが鳴ないてゐるとかう思おもつてゐて、暫しばらく經たつて後のちよく〳〵見みると、それはほんとに、日ひが暮くれたのでなかつたといふことを、説明せつめいでいつてゐるのでなく、氣持きもちから讀よむ人ひとの心こゝろに觸ふれて行いつてゐるのであります。

 あなた方がたがこの歌うたから受うける感かんじは、確たしかにさうした方面ほうめんが主おもなのだと考かんがへて貰もらはねばなりません。とおもふはなどいふ調子ちようしは、いかにも日ひを暮くらしかねてゐる退たいくつな人ひとのあくびでもしたいような氣持きもちが出でてゐるとおもひます。

 今いまの人ひとは、秋あきだつて春はるだつて、さう變かはつた心持こゝろもちを持もちません。それがほんとうはよろしいので、あなた方がたが特別とくべつに、秋あきは悲かなしいものだといふふうに感かんじてゐてはいけないのです。しかしながら昔むかしの歌人かじんは、秋あきは悲かなしいものだと感かんじることの出來できるのは、自分じぶんの歌人かじんとしての大事だいじの資格しかくだとおもつてゐました。秋あきのさびしさ悲かなしさのわからぬものは、文學者ぶんがくしやでないと恥はぢてゐたのです。それはかういふ歌うたがいくつも積つみ重かさなつた結果けつか、秋あきは悲かなしいものだといふ約束やくそくが出來できてしまつたのです。だがさういふ不自由ふじゆうな約束やくそくの出來できない前まへの歌うたを見みると、譬たとひ秋あきの悲かなしくさびしいものだと詠よんでゐても、それが各かく個人こじんの實際じつさいの感かんじとして人々ひと〴〵の胸むねに強つよく觸ふれるのであります。強制きようせいせられて爲方しかたなしやつてゐるのと、自みづから進すゝんでやつてゐるのと違ちがふわけであります。

いつも、秋あきになるといふと、心こゝろをめちゃくちゃにする、その秋あきはまたやつて來きたとおもふ。木立こだちの間あひだから、漏もれてさして來くる月つきの光かげが、色いろが變かはつて感かんじられる。それを見みると、あゝまた寂さびしい秋あきだ、とかうおもふといふ歌うたです。

 あなた方がたの若わかい心こゝろには、かういふ歌うたの興味きようみはわからないかも知しれませんが、日本につぽんの文學ぶんがくには、かういつた靜しづかなかすかな味あぢはひが、よい作物さくぶつにはずっととほつてゐます。それを物ものを單純たんじゆんに考かんがへる人ひとは、悲觀的ひかんてきだ涙脆なみだもろい氣持きもちだといつて、いけないものとしてゐるが、人間にんげんはいつもにこ〳〵笑わらつてゐるものばかりのものではありません。さびしく或あるひは悲かなしい氣持きもちになつた時ときに、はじめてほんとうの自分じぶんといふものを考かんがへて見みるものです。だからかういふ歌うたも、強あながちに排斥はいせきすることは出來できません。もちろんかういふ歌うたをまねたものが多おほいからといつて、日本につぽんの文學ぶんがくは悲觀的ひかんてきな文學ぶんがくだなどゝ、よくも道理どうりを知しらないで、一概いちがいにばかにしてかゝるのはいけない癖くせだとおもひます。外國がいこくの譬たとへにも、金持かねもちが天國てんごくへ行ゆくのは、大おほきな象ぞうに針はりの穴あなをとほらせるよりもむつかしいといつてゐますが、さういつた滿足まんぞくしきつた氣持きもちばかりでゐては、人間にんげんにはしみ〴〵と、自分じぶんを省かへりみる時ときが來こないのであります。


一五、歌うたの見方みかた


 今一いまひとつ、古今集こきんしゆうの名高なだかい歌うたをあげて、評判ひようばんと實際じつさいとはこれ程ほど違ちがふといふことを證明しようめいして見みたいとおもひます。

 勅撰集ちよくせんしゆう第一番だいゝちばんの古今集こきんしゆうの春はるのはじめにあるものといへば、そのうちでも第一番だいゝちばんの歌うたといふことになるから、自然しぜん人ひとは、それを重おもく見みます。在原元方ありはらのもとかたといふ人ひとの歌うたで、『舊年ふるとしに春立はるたちける日ひよめる』といふ題だいで、

年としのうちに、春はるは來きにけり。一年ひとゝせを、こぞとやいはむ。今年ことしとやいはむ

 この歌うた、偶然ぐうぜんよいものゝように考かんがへられてゐます。ところが明治めいじになつて、古ふるい歴史れきしのある日本につぽんの短歌たんかを改正かいせいして、新派和歌しんぱわかといふものを唱となへ出だした一人ひとりの正岡子規まさをかしきといふ人ひとは第一だいゝちにこの歌うたを笑わらひました。こんな歌うたがよいのならば、またかういふふうに詠よんでも歌うただといふことが出來できるといつて、

日本人につぽんじんと、西洋人せいようじんとのあひの子こを、日本人につぽんじんとやいはむ。西洋人せいようじんとやいはむ

といふのでした。

 これは子規しきが、説明せつめいのわかり易やすいように作つくつて見みたゞけで、固もとより譬たとへにすぎません。子規しきのは三十一字さんじゆういちじのたゞの文章ぶんしようで、歌うたではありません。いくらまづくともつまらなくとも、『年としのうちに』の方ほうには、多少たしよう意味いみ以外いがいに安やすらかな、そして子こどもらしい氣持きもちになつて起おこした氣分きぶんが出でてゐます。その點てんはもちろん考かんがへねばなりませんが、さうかといつて、この歌うたがよい歌うただとおもふのは、たいへんいけないことです。

 ふる年としといふのは、新年しんねんに對たいする舊年きゆうねんであつて、昔むかしの暦こよみでは年としの明あけないうちに、立春りつしゆんの節せつといふ暦こよみの上うへの時期じきがやつて來くることもあつたのです。普通ふつうの考かんがへでは、春はると正月しようがつとが一致いつちするものとしてあります。これは、習慣しゆうかんから出でて來くる心持こゝろもちであります。ところが時ときとすると、暦こよみの上うへにさういつた行ゆき違ちがひが出來できて來きます。年としの變かはらないうちにもう春はるが來きたといふ氣持きもちは、文學的ぶんがくてきではないけれども、確たしかに文學ぶんがくの生活せいかつの上うへでは、一種いつしゆ注意ちゆういをひくことであります。それでこの歌うたが出來できたのでありました。

まだ、年としの變かはらない舊年ふるとしの間あひだに、あゝ春はるがやつて來きたことだ。して見みると、この一年いちねんが二ふたつに分わかれて、きのふまでを去年きよねんといはうか。今日けふから後のちを、今年ことしといはうか。

 それも理りくつからはをかしいが、考かんがへればなんでもないところに、わづかな興味きようみを起おこしたにすぎません。だからけっしてよい歌うたではありませんが、子規しきのいふような、あひの子この歌うた見みたようなものでもありません。しかしながら、かういふ歌うたが後々のち〳〵、だん〳〵はやつてきて、數かぞへきれないほどたくさん、同種類どうしゆるいのものが出來できました。つまり一種いつしゆとぼけた歌うたといはなければなりません。


一六、西行法師さいぎようほうしと新古今集しんこきんしゆう


 古今集こきんしゆうの後のち、たくさん勅撰集ちよくせんしゆうやらいろんな歌人かじんのめい〳〵の家集かしゆうといふものが出でてゐるが、歌うたのほんとうの性質せいしつといふものは、だいたい、古今集こきんしゆうの讀よみ人びと知しらずの歌うたすなはち先さきに解釋かいしやくしたようなものにあるといふふうに考かんがへ出だされました。

 古今集こきんしゆうの歌うたは、全體ぜんたいとしてはいけない歌うたがありますが、短歌たんかはどんなものかと考かんがへると、古今集こきんしゆうの歌うたがまづ頭あたまに浮うかぶのであります。その後ご二百年にひやくねんあまりの間あひだに、だん〳〵歌うたといふものゝ、かういふものでなければならないといふ、漠然ばくぜんとした氣分きぶんが出來できて來きました。さうして皆みなさんも知しつてゐる鎌倉時代かまくらじだいに近ちかくなると、京都きようとの貴族きぞくたちの歌うたが、目めに立たつて變かはつて來きました。それは、新古今集しんこきんしゆうといふ歌集かしゆうを見みればよくわかることです。

 後鳥羽上皇ごとばじようこうは、非常ひじように御熱心ごねつしんでもあり、ごく稀まれなほどの名人めいじんでもいらつしやいました。いはゆる目めの寄よるところに玉たまで、この新古今集しんこきんしゆうの時ときほど、日本につぽんの歌うたの歴史れきしの上うへで、名人めいじん・上手じようずといふべき人ひとが、たくさん揃そろつて出でたことはありません。唯たゞ皆みなあまり仲間なかまづきあひが盛さかんに行おこなはれたゝめに、歌うたは、お互たがひによい影響えいきようばかりでなく、わるい流行りゆうこうを起おこすことになりました。文學ぶんがくの上うへによい人ひとがたくさん出でたから、かならずしもよい文學ぶんがくが出來できるといふわけのものではないといふ事實じじつを、この時ときほど、はっきりと見みせたことはありません。つまり上手じようずどうしが、皆みな肝腎かんじんの點てんよりもごく枝葉えだはにわたるところに苦勞くろうをして、それをお互たがひに誇ほこりあつたゝめに、それが重かさなり〳〵して、いけないことが起おこつて來きました。それでも中なかには、よいものがずいぶん出來できてゐます。なんといつてもすぐれた人ひとの作つくつた文學ぶんがくにはよいものが出でないではゐないわけなのです。

樗あふち咲さく外面そともの木こかげ 露つゆおちて、さみだれ霽はるゝ風かぜわたるなり(前大納言忠良さきのだいなごんたゞよし)

 樗あふちは、普通ふつう『せんだん』といつてゐる木きで、紫むらさきがゝつた花はなが夏頃なつごろに咲さきます。それが家いへの外側そとがはの木立こだちの中なかに、交まじつてゐるわけであります。それを作者さくしやがさみだれの頃ころに見みてゐる歌うたで、

樗あふちの咲さいてゐる家いへの外側そとがはの木立こだちの下蔭したかげに、ぽた〳〵と露つゆが落おちる程ほどに、風かぜが吹ふきとほる。それは、幾日いくにちか降ふり續つゞいてをつた梅雨ばいうが上あがる風かぜである、といふ意味いみです。

 かういつたところで、味あぢはひは、あなた方がたがめい〳〵に、幾度いくどもくり返かへし讀よんで見みなければ起おこつて來こないとおもひます。

 この頃ころの先輩せんぱいに、名高なだかい西行法師さいぎようほうしといふ人ひとがあります。御存ごぞんじのとほり、世捨よすて人びととして一風いつぷう變かはつた、靜しづかな、さびしい歌うたを作つくつたといはれてゐます。そしてこの人ひとの歌うたが、新古今集しんこきんしゆうの歌うたの風ふうに、非常ひじような影響えいきようを與あたへたとも見みられてゐます。だがこの人ひとの歌うた全體ぜんたいに、かならずしも世間せけんでいふようなものばかりでなく、やはり當時とうじ流行りゆうこうの、はでなこせ〳〵したものもないではありません。だがこの人ひとのものでいゝのになると、かういふものがあります。

吉野山よしのやま。櫻さくらの枝えだに雪ゆき散ちりて、花はなおそげなる年としにもあるかな

雲くもかゝるとほやまばたの、秋あきされば、おもひやるだにかなしきものを

 吉野山よしのやまは、古ふるくからずいぶん長ながく、坊ぼうさんその外ほか修道者しゆどうしやといつて佛教ぶつきようの修行しゆぎようをする人ひとが籠こもつてゐたことは、明あきらかな事實じじつでした。その經驗けいけんから、はじめの歌うたが出來できたのであります。

吉野山よしのやまよ。その吉野山よしのやまの櫻さくらの木きの枝えだに、見みてゐると、雪ゆきがちら〳〵降ふりかゝつてゐて、これでは、花はながいつ咲さきさうにも思おもはれない。今年ことしは、花はなの咲さくことの晩おそくおもはれる年としよ、といふのです。

 さびしい修道者しゆどうしやの仲間なかまの尠すくない山家やまがの暮くらしのうちにも、何なにか待まち設まうける心こゝろがあつて、たのしみになつてゐるものです。もう春はるになつてゐながら、せめて樂たのしみにしてゐるその花はなさへも、とても咲さきそうに見みえない。さういふ靜しづかな人ひとの物足ものたりない心持こゝろもちを、さびしいとも悲かなしいともいはないで、それかといつて、雪ゆきのふりかゝつてゐるのを怨うらむでもなく、自然しぜんの景色けしきをそのまゝに眺ながめてゐる氣持きもちがよく出でてゐます。わりあひいゝ歌うたの多おほい西行さいぎようにも、これほどの歌うたは、さうたくさんにはありません。後あとの方ほうは、これに比くらべるといくらか露骨ろこつに、西行さいぎようの氣持きもちを出だしすぎてゐるが、こゝまでつっこんで歌うたつた人ひとがないものですから、一例いちれいとしてあげました。

雲くもかゝる遠山とほやまはたといふのは、雲くものかゝつてゐる景色けしきが、見みえてゐるのではありますまい。恐おそらく西行さいぎようの知しつた人ひとが、西行さいぎようと同おなじように、遠山とほやまにかすかな修道しゆどうの生活せいかつをしてゐる。それが、秋あきになつて來きた時分じぶんに思おもひ出だされる。その遠山とほやまばた──このはたは、山やまの傍そばといふことでなく、やはり、山やまの畠はたけでせう──その秋あきの雲くもが、絶たえずかゝつてゐるはずの、遠とほい山家やまがの畠はたけのあるところが、秋あきが來くるといふと、たゞ想像そうぞうして考かんがへて見みるだけでも、その生活せいかつが悲かなしく、胸むねに感かんじられる。まして、このさびしい秋あきを、山畠やまばたのあたりに住すんでゐる人ひとは、どんなに悲かなしからうといつたものらしいのです。

 この歌うたの特徴とくちようは、想像そう〴〵してゐる景色けしきが、實際じつさいにあり〳〵と目めに浮うかんで來くるようになつてゐるところにあります。これを文學ぶんがくの上うへで把持力はじりよくといつて、自分じぶんの經驗けいけんをいつまでも忘わすれずに、握にぎりしめる力ちからがあつて、機會きかいがあると、それを文章ぶんしように現あらはす能力のうりよくをいふのであります。一句いつく・二句にくの景色けしきは、西行さいぎようにその強つよい力ちからのあることが窺うかゞはれます。それによつて、その以下いかの思おもひやるだに悲かなしきものをといふような、むしろありふれた言葉ことばまで、いき〳〵と人ひとの胸むねに、なんだか堪たまらないように迫せまつて來くるのであります。


一七、ほんとうに優美ゆうびな歌うた


 同おなじ新古今集しんこきんしゆうに、藤原良經ふじはらよしつねといふ人ひとがあつて、攝政太政大臣せつしようだじようだいじんにまでなつた人ひとですが、よほどの歌うたよみでありました。

うちしめり、あやめぞかをる。ほとゝぎす鳴なくやさつきの雨あめの夕ゆふぐれ

 この歌うたなどは、そんなにたくさん類例るいれいのないほどよいものであります。ものゝ感かんじ方かたが非常ひじやうに鋭敏えいびんで、鼻はな・耳みゝ・肌はだなどに觸ふれるものを鋭するどく受うけ取とることの出來できた珍めづらしい文學者ぶんがくしやであつたことを見みせてゐます。

五月ごがつの雨あめの降ふつてゐる夕ゆふぐれのことです。どこからともなく、あやめの咲さいた花はなのかをりがして來きます。それが、かをりがするといふ程ほどでなく、なんとなく感かんじられるといふ程度ていどに匂にほつて來くるのです。それを雨あめのために、匂にほひが和やはらげられて、ほとんど、あるかないかのように、しんみりとしたふうに香かをつて來くる、と述のべてゐます。

 説明せつめいしたゞけではなんでもないことですが、この時代じだいに、これほど細こまかく捉とらへがたいことを現あらはした人ひとはないのです。

『ほとゝぎす鳴なくやさつき』といふのは、何なにもその時ときほとゝぎすが鳴ないてゐるのではありません。さつきといふために、習慣的しゆうかんてきにほとゝぎすが鳴なくところのといふ言葉ことばが附ついて來きたのであります。いはゞ一種いつしゆの枕詞まくらことばで、かういふ風ふうに靜しづかな歌うたでは、少すこしでもいひすぎたり内容ないようが殖ふえすぎると、全體ぜんたいの調和ちようわが破やぶれて來きます。むしろ、内容ないようのないものを入いれなければならないのです。それでかういふ言葉ことばが利用りようせられてゐるのです。けれどもどうしてもほとゝぎす鳴なくやといふと、ほとゝぎすが鳴ないてゐる實際じつさいの樣子ようすが浮うかびます。これがこの歌うたの少すこしの瑕きずであります。

 この歌うたを作つくりかへて、別べつに變かはつた領分りようぶんを開ひらいたものがあります。それは明治めいじになつて死しんだ京都きようとの蓮月れんげつといふ尼あまの作さくで、

朝風あさかぜにうばらかをりて、ほとゝぎす鳴なくや うづきの志賀しがの山越やまごえ

 これになると、ほとゝぎすは、實際じつさいに鳴ないてゐるように詠よんでゐます。けっして枕詞まくらことばでなく、四月しがつを意味いみするうづきの、自然しぜんの景色けしきの一部いちぶとしてゐます。が、こゝを中心ちゆうしんとして見みると、どうしても良經よしつねの歌うたから、暗示あんじを得えて作つくつたに違ちがひありません。そして良經よしつねの歌うたの氣分きぶんをすっかり取とつて、一種いつしゆの歌うたに纏まとめてゐます。更さらに今少いますこし、さっぱりとした感かんじが出でてゐるようです。

 四月頃しがつごろには、野茨のばらの花はなが咲さくものです。この匂にほひがまた非常ひじようによろしい。風かぜなどにつれて匂にほつて來くると、なんだか新鮮しんせんな氣きのするものです。志賀しがの山越やまごえといふのは、昔むかしから歌うたにたび〳〵詠よまれた、京都きようとから近江あふみへ越こえるところです。

 この歌うたは恐おそらく空想くうそうでせうが、この場所ばしよ或あるひはさうした景色けしきは、蓮月れんげつが始終しじゆう見みてゐたに違ちがひありません。だから空想くうそうであつても事實じじつと同おなじであり、むしろ事實じじつより力強ちからづよく人ひとの心こゝろに響ひゞくのです。野茨のばらの匂にほひがして來きて、自分じぶんの行ゆく道みちの傍そばに、ほとゝぎすの鳴なく聲こゑのするところの志賀しがの山越やまごえよ、といふのです。かういふ風ふうな作つくりかへが、また短歌たんかの上うへにたびたび行おこなはれました。けれども、わざ〳〵作つくりかへようといふ考かんがへを持もつた時ときには、たいてい失敗しつぱいして、元もとの歌うたから獨立どくりつしたねうちのない、文學的ぶんがくてきにはだめなものが多おほいのであります。蓮月尼れんげつにの歌うたなどは、作つくる時ときには恐おそらくうちしめりの歌うたのあることも忘わすれてゐながら、どこかに記憶きおくが殘のこつてゐて、その調子ちようし、その氣分きぶんが、現あらはれて來きたものでありませう。


一八、調子ちようしの立たつた歌うた


 後鳥羽上皇ごとばじようこうのお歌うたは、その現あらはし方かたが非常ひじように手てがこんでゐて、ちょうど腕うでのよく利きいた人ひとの作つくつた、工藝品こうげいひんを見みるようでありますから、あなた方がたに、そのおもしろみを感かんじて貰もらふのは、むつかしいと思おもひます。こゝにはごく平凡へいぼんなものをあげておきませう。

秋あきふけぬ。鳴なけや。霜夜しもよのきり〴〵す やゝかげさむし。蓬原よもぎふの月つき

秋あきが深ふかくなつてしまつた。この霜空しもぞらの晩ばんに鳴ないてゐる、聲こゑかれ〴〵のきり〴〵すよ。もっと出來できるだけ鳴なけ。空そらから照てらす光ひかりも、冷つめたく感かんじられる。その蓬原よもぎばらのようになつた家いへを照てらす月つきよ。その下したで、きり〴〵すが、ほのかに鳴ないてゐる。

 きり〴〵すといふのは、こほろぎだといつてゐます。

 かういふ風ふうにくろうとらしい歌うたをお作つくりになつたので、歴代れきだいの皇族方こうぞくがたの中うちでは、文學ぶんがくの才能さいのうから申まをして、第一流だいゝちりゆうにお据すわりになる方かたです。けれども、時代じだいが先さきに申まをしたようですから、そのお作さくも、自然しぜんおもしろさが片かたよつてゐて、完全かんぜんなものとは申まをし上あげることが出來できません。

 天皇てんのうさまをはじめ、皇族方こうぞくがたのうちで、圓滿えんまんな歌うたを作つくられたお方かたを探さがして見みると、それから時代じだいが下さがつて、南北朝なんぼくちようのはじめ頃ごろの伏見天皇ふしみてんのう、それからその皇后こう〴〵さまの永福門院えいふくもんいんといふお方かた、このお二方ふたかたが、まづとびぬけていらつしやると思おもひます。勅撰集ちよくせんしゆうでいふと、新古今集しんこきんしゆうが八番はちばんめの歌集かしゆう、それから後六あとむつつめすなはち、古今集こきんしゆうから勘定かんじようして十四番じゆうよばんめの玉葉和歌集ぎよくようわかしゆう、十七番じゆうしちばんめの風雅和歌集ふうがわかしゆう、この二ふたつのものに、特別とくべつに關係かんけいがお深ふかいのであります。


一九、發達はつたつしきつた歌うた


ゆふぐれの雲くも飛とびみだれ、荒あれて吹ふく 嵐あらしのうちに、時雨しぐれをぞきく

いつはとも 心こゝろに時ときはわかなくに、をちの柳やなぎの 春はるになる色いろ

 これが伏見天皇ふしみてんのうのお歌うたです。後鳥羽上皇ごとばじようこうから、も一ひとつ進すゝんで、更さらにその一種いつしゆの癖くせを拔ぬいた素直すなほなお歌うたになつてゐます。

夕方ゆふがたの空そらには、一いつぱい雲くもが亂みだれてゐて、あちらこちらに早はやく飛とび廻まはつてゐる時ときに吹ふきおろす山風やまかぜが、あら〳〵しく吹ふいてゐる。その目めにも耳みゝにも、すさまじい景色けしき。殊ことにはげしい風かぜの音おとにも打うち消けされずに、靜しづかな時雨しぐれの音おとのしてゐるのを自分じぶんが聞きいてゐる。

 これはちょっと見みると、「雲くも飛とび亂みだれ」、「荒あれて吹ふく」などいふ言葉ことばが、ごた〳〵してゐるようであるが、私わたしの解釋かいしやくしたように荒あれて吹ふくから、別べつに考かんがへて見みると、空模樣そらもように更さらに加くはへて、はげしい風かぜの樣子ようすが感かんじられます。このお歌うたは靜しづかな時雨しぐれの音おとを、さうした間あひだに耳みゝを留とめてゐたといふところに、變かはつた興味きようみを起おこされたので、かういふ詠よみ方かたの歌うたは、これ以前いぜんにもこれ以後いごにも、まづ類例るいれいのない新あたらしい、さうしていゝものだといふことが出來できます。あらしといふのは山やまおろしのことで、暴風ぼうふうではありません。

今いまは、冬ふゆか春はるか心こゝろの上うへで迷まよはずにゐられない時分じぶんである。心こゝろではいつとも時候じこうの區別くべつがつかないのに、目めに見みるものは、すでに尠すくなくとも、一ひとつだけは春はるらしいしるしを示しめしてゐる。これは遠方えんぽうに立たつてゐる柳やなぎの木きの、いかにも春景色はるげしきになつて行ゆく色いろあひがそれである。

 春はるになる色いろといふのは、まだ春はるになり切きつてゐるわけではありません。春はるの樣子ようすが調とゝのつて行いつてゐることをいふのです。

 色いろといはれたのは、漠然ばくぜんとどこか春はるらしい樣子ようす・色いろあひの見みえることを、氣分式きぶんしきに示しめされたのです。をちの柳やなぎといふのも、はっきりと、何本なんぼんあるとも、どの位くらゐの距離きよりにあるともいはれないで、まづほのかな色いろあひで、幾本いくほんか竝ならんでゐるといふ感かんじを起おこさせるためなのです。いつはといふのは、いつといふのとかはりがないと見みておいてよろしい。

やまもとの鳥とりの聲こゑより明あけ初そめて、花はなもむら〳〵 色いろぞ見みえ行ゆく

何なにとなき草くさの花はな咲さく野のべの春はる。雲くもに ひばりの聲こゑものどけき

 これが永福門院えいふくもんいんのお歌うたです。御覽ごらんのとほり、物ものの色いろあひ、組くみ合あはせが、非常ひじように美うつくしく作つくられてゐます。

山やまの麓ふもとの方ほうに、鳥とりの聲こゑがする。その鳥とりの聲こゑのするあたりから、だん〳〵夜よが明あけかけて、あちらに一ひとかたまり、こちらに一ひとかたまりといふふうに、山やまの櫻さくらの花はなも色いろが現あらはれて、だん〳〵明あきらかになつて行ゆく。

『花はなもむら〳〵色いろぞ見みえ行ゆく』などいふところに氣きのついたのは、やはり時代じだいがずっと新あたらしくなり、人ひとの心こゝろが自然物しぜんぶつに對たいして、敏感びんかんに動うごくようになつて來きたからです。しかし普通ふつうの人ひとは、文學ぶんがくの上うへではやはり昔むかしのまゝの型かたどほりに作つくつてゐるに拘かゝはらず、勝すぐれた人ひとは、その時代じだいの人ひとらしい眼めで、物ものを見み、感かんじるものであります。さうして新あたらしいとはいひながら、柔やはらかで穩おだやかなよい氣持きもちを破やぶらないで、上品じようひんさを持もちながら歌うたはれてあるのが、この歌うたなどのよいところです。殊ことに二番にばんめの歌うたなどになると、ほとんど、只今たゞいまの人ひとが作つくつたものか、とうっかり思おもはれるようなお作さくであります。まづ普通ふつうの人ひとならば、名なのない雜草ざつそうの花はななどは詠よみません。ところがこの門院樣もんいんさまは、その雜草ざつそうの花はなに興味きようみを持もつてゐられます。なんといふことのない變かはつた點てんもない草くさの花はな、この咲さいてゐる野のの春景色はるげしき、とぱっと廣ひろい樣子やうすを現あらはして來きて、下しもの句くで、自分じぶんはどこにをつて、何なにをしてゐるかといふことを、はっきりと現あらはしてあります。その草くさの花はなの咲さいてゐるところに据すわりこんで空そらを仰あふぐと、雲くもが出でてゐる。その雲くものあたりへ鳴なき上あがつて行ゆく雲雀ひばりの聲こゑに氣きがついて、そして、今いまかうしてゐることの外ほかに、なんの爲事しごとも煩わづらはしさも心こゝろがかりもない、豐ゆたかな氣持きもちを感かんじてゐることを、のどけきといふ言葉ことばで示しめされてゐます。

 この頃ころにも、このお二方ふたかたを取とりまいて、名人めいじんといつてよい人々ひと〴〵が大だいぶんゐるのですが、そのお話はなしは、只今たゞいまいたしません。こんな勝すぐれた歌うたが、しかも非常ひじように貴たふとい方々かた〴〵のお作さくに出でて來きてゐるに拘かゝはらず、世間せけんの流行りゆうこうは、爲方しかたのないもので、だん〳〵、惡わるい方ほうへ〳〵と傾かたむきました。さうして、この玉葉集ぎよくようしゆう、風雅集ふうがしゆうなどの歌うたは、いけないつまらない歌うただ、とねうちをきめてしまふようになりました。これは世間せけんの評判ひようばんと、ほんとうの物もののねうちとは、たいていの場合ばあひ一致いつちしてゐないそのもっとも適當てきとうな例れいであります。これから後のち、室町時代むろまちじだいから時ときが過すぎて江戸えどの時代じだいに至いたるまで、そんなに勝すぐれた歌人かじんは、多おほくは出でてまゐりませんでした。つまり平凡へいぼんなお手本てほんを敷しき寫うつしになぞつて行ゆくものですから、だん〳〵つまらなく、その作者さくしやの特徴とくちようを出だすことが出來できなくなつたわけであります。


二〇、江戸時代えどじだいの歌うた


 ところが江戸時代えどじだいになると、徳川氏とくがはしの政治せいじの方針ほうしんがさうであり、また世よの中なかが治をさまつて來きたゝめか、學問がくもんが盛さかんになつて來きました。そして支那しなの學問がくもんから更さらに進すゝんで、日本につぽんの學問がくもん日本につぽんの文學ぶんがくの研究けんきゆうが行おこなはれ出だして來きました。さうして學者がくしやも文學者ぶんがくしやも、かならずしも上流社會じようりうしやかいの人々ひと〴〵ばかりでなく、かへって低ひくい位置いちの人ひとの方ほうに中心ちゆうしんが移うつつて來くるようになりました。

 昔むかしの文學ぶんがく昔むかしの短歌たんかを研究けんきゆうした結果けつか、今いままでやつてゐたのはいけなかつた。五百年ごひやくねんも千年せんねんも前まへの歌うたの方ほうが、自分じぶんたちのものより遙はるかに新あたらしく、もつと〳〵熱情ねつじようが籠こもつてゐるといふことに、皆みんなが心こゝろづくようになりました。さういふよい影響えいきようを與あたへたのは、第一だいゝちに、萬葉集まんにようしゆうが新あたらしく讀よみ返かへされたことであります。それから學者がくしや・文學者ぶんがくしやの間あひだに、一足飛いつそくとびに、よい歌うたに激戟しげきせられて、新あたらしい歌うたを作つくる人々ひと〴〵が殖ふえて來きました。

 さういふ人ひとたちは、數かぞへ上あげることの出來できない程ほどたくさんありますから、こゝにはごくわづかの代表者だいひようしやだけを出だしておきませう。


二一、歌人かじんとしての國學者こくがくしやたち


 よくいふ國學こくがくの四大人しうしのうちで、一番いちばん文學者ぶんがくしやらしかつたのは賀茂眞淵かものまぶちであります。そしてそれ以前いぜんにも、だん〳〵萬葉まんにようぶりの歌うたを作つくつた人ひとがあるが、この人ひとから一ひとつの主義しゆぎとして、さういふ方面ほうめんに進すゝむ歌うたが出來できて來きました。でもこの人ひとの歌うたは、評判ひようばんほども勝すぐれたものではありません。だから一首いつしゆだけ引ひいて置おきませう。

秋あきの夜よの ほがら〳〵と、天あまの原はら照てる月つきかげに、雁かり鳴なき渡わたる

ほがら〳〵といふと、夜明よあけの空そらのあかるさを示しめす言葉ことばです。それを、月つきの照てつてゐる空そらの形容けいように用もちひたので、いかにも晝ひるのような明あかるい天てんが感かんじられます。隅すみから隅すみまでからりと明あかるく、廣ひろい空そらに照てつてゐる秋あきの夜よの光線こうせんのさしてゐる中うちに、雁かりが鳴なき渡わたつて行ゆくといふ歌うたです。

 感かんじてゐるところはよろしいが、上うへの三句さんくがごた〳〵として、感かんじた氣分きぶんがすっきりと現あらはれてゐません。けれどもこの人ひとは、まづ大體だいたいかういふ調子ちようしに、一筋ひとすぢに歌うたふのが得意とくいだつたと見みえます。

 おなじような歌うたを竝ならべて見みませう。上田秋成うへだあきなりといふ人ひとは、眞淵まぶちの孫弟子まごでしに當あたる文學者ぶんがくしやですが、この人ひとも、歌うたはその散文さんぶんほど上手じようずではありませんが、かなり作つくれた人ひとであります。

照てる月つきに、雁かりのまれびと鳴なき渡わたる。わが待まつ友ともは、こよひ來こなくに

 こんな歌うたになると、この人ひとの方ほうが、遙はるかに勝すぐれた才能さいのうを持もつてゐたことがわかります。

空そらに照てつてゐる秋あきの夜よの月つき。その月光つきかげのさしてゐる空そらを遠方えんぽうからやつて來きた雁かりが、列れつをなして鳴なきとほつて行ゆく。こんな晩ばんには、一いつしょに親したしむ友ともだちの訪問ほうもんが待またれる。けれども私わたしの待まつてゐる仲間なかまは、今晩こんばんはやつて來こないでゐるのに、さうして私わたし一人ひとりで明あかるくほがらかな天地てんちに照てる月つきに對たいしてゐるのに、その上うへを雁かりが鳴なき連つれてとほる、といつた滿足まんぞくはしてゐながら、ある點てんに、自分じぶんの感かんじをいつて聞きかせたい仲間なかまのゐない、もの足たらなさを述のべてゐるのです。

 しかしそれも、けっして理りくつらしくは出でてをらずに、このほがらかな調子ちようしに、玉たまのように包つゝまれて、たゞ月つきの光ひかりに、及および雁かりの列れつに動うごかされた氣分きぶんとして、胸むねに觸ふれて來きます。かういふのが、ほがらかな、たけ高たかい調子ちようしといふのであります。先さきの歌うたに比くらべて見みると、こんな形かたちの歌うたの出でるまでは、それでも相當そうとうに見みえたものが、なんだかつまらなく感かんじられるでせう。

 まれびとといふのは、お客きやくさまといふことですが、ごくたまに來くる珍めづらしい人ひとといふのが古ふるい意味いみです。渡わたり鳥どりなる雁かりをば、この珍客ちんきやくに見立みたてたのであります。それを譬たとへのようにいはないで、直接ちよくせつにまれびとなる雁かりといふふうにいつたところに、濁にごりがなくなつてをります。


二二、加納諸平かのうもろひら


 眞淵まぶちの弟子でしの本居宣長もとをりのりなが、その弟子でしの夏目甕麿なつめかめまろ、この人ひとの子こで、紀州きしゆうの醫者いしやの家いへの養子ようしとなつた加納諸平かのうもろひらといふ人ひとがあります。小ちひさな時ときから父ちゝの伴ともをして、諸國しよこくを歩あるいて攝津せつつの國くにへ來きた時ときに、酒飮さけのみの父親ちゝおやは、月つきを捕とらへるのだといつて、歌うたの友ともだちなどが止とめるのもきかずに、池いけの中なかへをどり込こんで死しにました。それからすぐに和歌山わかやまへ引ひき取とられて行いつて、久ひさしく國くにへ歸かへることもしませんでした。加納家かのうけに住すみこんでから、はじめて遠江とほたふみの母はゝのところへ歸省きせいしたことがあります。かういふ傳記でんきの一部いちぶを知しつて諸平もろひらの歌うたを讀よむと、誠まことに思おもひ深ふかいところが感かんじられます。

 歌うたや俳句はいくの上うへでは、その形かたちが短みじかく小ちひさいだけに、はしがき──また、詞書ことばがきともいふ──や、その歌うたを作つくつた事情じじようなどを知しるといふことが、外ほかの文學ぶんがくとは別べつで大事だいじなことであります。つまりその作物さくぶつの背景はいけいになつてゐるものをのみこんで、眞しんに歌うたなり俳句はいくなりを味あぢはひ知しるといふことが、どうしても必要ひつようなのです。

旅衣たびごろもわゝくばかりに 春はるたけて、うばらが花はなぞ、香かに匂にほふなる

 青年せいねんが一人旅ひとりたびをしてゐるといふことを、頭あたまに持もつて下ください。わゝくといふのは、きれや着物きもののぼや〳〵になつて來くることで、長旅ながたびをしたゝめに、摺すり切きれて來きたりしたところがある樣子ようすです。

着きてゐる旅行りよこうの着物きものが、わゝけるほどに早はやく出でた春はるの旅たびも、すでに春深はるふかくなつて、道傍みちばたに雜草ざつそうのように咲さいてゐる野茨のばらの花はなが、匂にほひ立たつて感かんぜられる、といふ意味いみです。

がそれはもちろん、實際じつさい以上いじように歌うたらしい味あぢをつけようとしてゐます。理りくつっぽくいへば、和歌山わかやまを出でて遠江とほたふみまでの間あひだに、旅たびごろもがわゝけるといふ程ほどのこともあるまいし、また早春そうしゆんに出でたのが晩春ばんしゆんになつたといふ程ほどのこともありますまい。けれどもそれほどのことは、文學上ぶんがくじようの一種いつしゆの誇張こちようといふもので、いくらか輪わをかけて感かんじ深ふかくいひ表あらはすのが、文學ぶんがくのほんとうの爲方しかただと、今いまですらも考かんがへてゐる學者がくしや・文學者ぶんがくしやが多おほいのですから、これくらゐのことは、昔むかしの歌うたとしてあたりまへだと見みていゝとおもひます。この頃ころの人ひとはすべて、あまり自分じぶんの生活せいかつが歌うたに現あらはれるといふことを嫌きらつたので、さういふふうなのを無風流ぶふうりゆうだとしりぞけてゐました。この中うちにこんなのが出でて來くると、さすがにちょっと、胸むねをうたれる氣きがするのです。

ゆふ月夜づくよ ほの見みえ初そめしあぢさゐの、花はなも まどかに咲さきみちにけり

 これはちょっと見みると、いかにも紫陽花あぢさゐの花はなの樣子ようすを細こまやかに寫うつしてあるように見みえますが、實じつは紫陽花あぢさゐを見みて作つくつたのでなく、見慣みなれてゐる花はなの模樣もようを空想くうそうに浮うかべて、美うつくしく爲立したてたに過すぎません。だから近頃ちかごろの歌うたや文學ぶんがくの上うへからは、かういふ態度たいどはよいとはいへないが、それにしても作つくつたものが相當そうとうによければ、やはりよいといふより外ほかはありません。空想くうそうで作つくりながらこれまでに作つくり上あげたのだから、その作者さくしやに力ちからの十分じゆうぶんあつたことがわかります。この人ひとは學者がくしやであり文學者ぶんがくしやですから、言葉ことばのあやを十分じゆうぶんに心得こゝろえて、少すこしのむだもしないでゐます。それがかへって、今いまでは邪魔じやまになるのです。譬たとへばわれ〳〵の時代じだいには、夕ゆふづく夜よならば、ほんとうに夕方ゆふがたのお月つきさまが出でてゐると感かんじるだけで滿足まんぞくするのに、この人ひとの歌うたでは、昔むかしの習慣しゆうかんに從したがつて、ほの見みえ初そめしの枕詞まくらことばなる夕ゆふづく夜よといふ言葉ことばを、まづ据すゑたのです。もちろんたゞの枕詞まくらことばだけでなく、夕月ゆふづきの頃ころにほんのり見みえかけたといふ意味いみにはいつてゐるのですが、學問的がくもんてきにもこの二ふたつの句くの連絡れんらくをつけてゐるわけなのです。昔むかしはかういふことの自由じゆうに出來できるのが名人めいじんだと思おもはれたのですが、今いまではかへって、文學ぶんがくを味あぢはふ上うへの足手纏あしてまとひとして、避さけねばならぬことであります。夕月夜ゆふづくよといふのは夕月ゆふづきの夜よといふことでなく、月夜つきよは月つきのことです。で、夕月ゆふづきの頃ころといふと、新月しんげつの出でた時分じぶんといふことになります。

その頃ころにはまだ、ほんのり見みえかけてゐた紫陽花あぢさゐのその花はなも、もう今いまでは、まどかにまんまるく、圓滿えんまんに咲さいてゐることだ。

 紫陽花あぢさゐの花はなのだん〳〵咲さき調とゝのつて行ゆくありさまが、よく詠よんであります。その上うへに、いかにも紫陽花あぢさゐに適てきした氣分きぶんが出でてゐます。たゞそれだけで滿足まんぞくせずに、新月しんげつの頃ころから注意ちゆういしてゐたのが、こんなに大おほきく立派りつぱに咲さいたといふようなおもしろみを附つけたのは、ほんとうはよくないのです。けれどもそれはあなた方がたの年頃としごろでは、細こまかに説といてもむりですから、もっと長ながく歌うたに親したしんで貰もらつて、自分自身じぶんじしんの批評ひひようが出來できるまでは、まづよい歌うただと考かんがへて置おいて下ください。その上うへこの歌うたでは、まだ〳〵言葉ことばの外そとにいひ含ふくめたものがたくさんあります。

 あぢさゐの花もともの字じを使つかつてゐるのは、空そらのお月樣つきさまがちょうどまんまるになつてゐる頃ころ、あぢさゐもまんまるになつた。かういふことを感かんじさせようとしてゐるのです。なかなか昔むかしの人ひとは苦勞くろうしたものです。がそんなことは、文學ぶんがくの上うへではむだ骨折ほねをりといふものです。それをまた、おもしろいと思おもつてゐてはいけないのです。


二三、思おもひを抒のべる歌うた


 この人ひとには歌うたの上うへに、まだいろ〳〵の試こゝろみがあつて、おもしろいことをしてゐるが、その一例いちれいをあげると、

月つきに吹ふく市いちの植うゑ木きの風かぜ高たかみ 塵ちりも殘のこらず 霽はれし空そらかな

月つきに聽きく波なみの響ひゞきも更ふけにけり。誰たれか うきねの袖そで絞しぼるらむ

月つきにうつ大城おほきの鼓つゞみしばし待まて。くだちゆく夜よを、誰たれか 惜をしまぬ

 かういふ一續ひとつゞきの歌うたが、まだ〴〵あるのですが、これだけにして置おきます。

月つきの照てつてゐる所ところに咲さいてゐる、町まちのとほりに植うゑてある木きに、當あたるところの風かぜの音おとの高たかさに、なるほどひどい風かぜだと思おもつて空そらを見みると、吹ふき上あげられた塵ちりも、どこへ行いつたかわからぬほど澄すみきつて、霽はれきつてゐる月つきの空そらよ。

月光げつこうの照てらす下もとに聞きこえて來くるその波なみの響ひゞきも、思おもへば夜よの更ふけた感かんじのすることだ。かうした晩ばんに、この海うみに舟旅ふなたびをして、船ふねの中なかで目めの覺さめてゐる人ひともあらう。そして水みづの上うへに浮ういて寢ねてゐる袖そでを絞しぼるほど、涙なみだで濡ぬらしてゐるだらう。

月つきの輝かゞやいてゐる空そらに響ひゞくお城しろの太鼓たいこ。それは、もう門限もんげんだといふ知しらせなのです。だがまう暫しばらく、打うつのを待まつてくれと感かんじるのは、現在げんざいの心持こゝろもちのなくなるのを惜をしむ心こゝろなのです。それにも拘かゝはらず、太鼓たいこはどん〳〵鳴なつてゐます。それに對たいして、なるほど夜よはだん〳〵更ふけて行ゆくが、この更ふけて行ゆく夜よを惜をしまない人ひとが、誰一人たれひとりとしてあらうか、とかういふ心持こゝろもちです。

 全體ぜんたい月つきに何々なに〳〵といふふうに、頭かしらに句くを置おいてゐるために、幾分いくぶん歌うたが上調子うはちようしになつてゐるが、眞底しんそこにはやはりよいものがあります。市いちといつても、今いまの市場いちばではなく、商人しようにんの店みせを列つらねてゐる町通まちどほりで、そこには、今いまの街路樹がいろじゆに似にたものを植うゑたのです。それは古ふるいことで、この歌人かじんのゐた時分じぶんのことではないが、歌うたの上うへではかういふふうに、現代げんだいを古ふるいものに爲立したてゝ作つくることもあつたのです。まぁあなた方がたにわかり易やすいためには、東京とうきようの銀座ぎんざその外ほか、街路樹がいろじゆの植うわつてゐる商店街しようてんがいの、夜よふけて騷さわいでゐた人ひとも、寢靜ねしづまつた後のちの月光げつこうを思おもひ浮うかべて見みればよからうと思おもひます。

 浮うき寢ねといふのは、水鳥みづとりが、波なみの上うへで寢ねることから移うつつて來きて、人間にんげんにも、舟旅ふなたびの夜泊よどまりの場合ばあひに用もちひます。それにも、うきねといふ言葉ことばに憂うきといふ厭いやな、情なさけない悲觀ひかんすべき意味いみの言葉ことばが、音おんから感かんじられる習慣しゆうかんになつてゐます。この歌うたも内容ないようよりは、調子ちようしが流ながれすぎてゐるのですが、作者さくしやが月つきの晩ばんに、さびしい心こゝろになつて、外ほかにもかうした人ひとがあるといふことに思おもひ及およぼしてゐる心持こゝろもちが、この人ひとをなつかしく感かんじさせます。大城おほきの鼓つゞみといふのは、和歌山城わかやまじようの『時とき』の太鼓たいこです。

 この歌うたは別べつに深ふかく思おもひこんでゐるのでもない樂たのしみを、ぢっと續つゞけてゐたといふだけの物ものですから、調子ちようしと意味いみとがぴったりとしてゐます。さうしてこれらの歌うたは、皆みな歌うたつて氣持きもちの好よいように、調子ちようしが調とゝのつてゐます。

沖おきさけて 浮うかぶ鳥船とりふね。時ときのまに翔かけりも行ゆくか。いさな見みゆらし

熊野くまのの山やまめぐりをした時ときの歌うたですが、沖おき遠とほく離はなれて浮うかんでゐる鳥とりのような船ふね、それが今いま、そこにをつたかと思おもふと、瞬間しゆんかんの目めも及およばない遠とほいところにかけつて行いつてゐることよ。それは鯨くぢらが見みえたに違ちがひない。

 こんな歌うたになると、自由じゆうで浮うかれるような調子ちようしが、ぴったりともりを衝つく鯨船くぢらぶねのすばやい動作どうさを表あらはすに適當てきとうしてゐるではありませんか。鳥船とりぶねといふのは大昔おほむかしの國語こくごで、船ふねの名前なまへでもあり、同時どうじに舟ふねについていらつしやる神樣かみさまのお名前なまへでもありました。あなた方がたならば、船ふねが早はやいから鳥とりに見立みたてたのだと思おもつて置おいてさし支つかへありません。熊野くまのの鯨くぢらつきの歌うたです。


二四、香川景樹かがはかげき


 この諸平もろひらのゐた時分じぶんに、近世きんせいでもっとも名高なだかい香川景樹かがはかげきといふ歌人かじんが京都きようとにゐました。非常ひじように上手じようずの評判ひようばんがあり、門人もんじんも多おほく、その一門いちもんは榮さかえて今いままでも續つゞいてゐるほどの人ひとでありました。明治天皇めいじてんのうのお師匠番ししようばんになつた人ひとも、この流ながれのものであります。そのためにたいへん名人めいじんのように感かんじられてゐますが、これもまた、評判ひようばんと實際じつさいとの價値かちの違ちがふ生いきた手本てほんで、この人ひとの歌うたにはほとんど文學ぶんがくとしてねうちのあるものは見みえません。まづ一例いちれいを取とつて申まをしませう。

春日野かすがのに若菜わかなを摘つめば、われながら 昔むかしの人ひとのこゝちこそすれ

 これはこの人ひとのものでもいゝ部類ぶるいの歌うたです。けれども、先さきの諸平もろひらに似にた歌うたがあるのと竝ならべて見みませう。

曳馬野ひくまのの木この芽めはり原はら。入いり亂みだれ、春日はるひくらすは、昔人むかしびとかも

 景樹かげきのは、『歴史的れきしてきにいろ〳〵な記念きねんのあるこの春日野かすがので、自分じぶんが若菜わかなを摘つんでゐると、昔むかしの人ひとも、かうして若菜わかなを摘つんでゐたのだから、うっかりすると、自分じぶんでゐて昔むかしの人ひとのような氣きがする』といふのです。おもしろいと思おもふでせうが、これは説明せつめいでおもしろく見みえてゐるので、歌うたその物ものは、たゞさういふおもしろさを考かんがへて見みたゞけで、ほんとうに氣分きぶんの上うへにまで、昔むかしの人ひとになつた心持こゝろもちが出でてゐません。これを知識ちしきの上うへの遊あそびといひます。それとゝもに、氣分きぶんが少すこしも伴ともなはないのですから、散文的さんぶんてきな歌うたといはねばなりません。殊ことにわれながらといふのは、いかにも常識的じようしきてきで、自分じぶんで知しつてゐて、わざとそんなことをいつたゞけだといふことを見みせてゐます。

 それと比くらべて見みると、諸平もろひらのはさすがにもっと熱情ねつじようが出でてゐます。自分じぶんが昔むかしの人ひとか知しらんとかう疑うたがつてゐるので、その疑うたがひの起おこる導みちびきとして、『曳馬野ひくまの──萬葉集まんにようしゆうなどに見みえてゐる土地とちで、濱松はまゝつから北きたへかけての平野へいや地方ちほう──の木この芽めが新あたらしく出でてゐる。──そのはると、はりの木きのはりとをひっかけて歌うたつたもの──はりの木原きはらにめちゃくちゃに入いりこんで、この春はるの日ひを一日いちにち遊あそんでゐるのは、あの萬葉集まんにようしゆうに出でて來きてゐる人ひとたちなのか知しらん』と疑うたがつたので、その一人ひとりとして、諸平もろひら自身じしんも含ふくめていつてゐるわけです。

 景樹かげきの歌うたの方ほうが、皆みんなにわかりやすからうと思おもひますが、そこが散文さんぶんと詩しとの違ちがふところで、意味いみの上うへからおもしろいことが、きっと詩しや歌うたの完全かんぜんなねうちをきめるものだといふわけにはいけないのです。世間せけんのものを見みても、誰たれにもわかるものが、きっとよい文學ぶんがく藝術げいじゆつであると思おもつてゐる人ひともあるが、それは大たいへんな間違まちがひであるといはねばなりません。景樹かげきのことはこれでよします。

 景樹かげきなどが騷さわがれてゐたかげに、評判ひようばんにならずにゐた人ひとが、まだ〳〵ありました。その一等いつとう目めにつく人ひとは、越中えつちゆう富山とやまの橘曙覽たちばなのあけみであります。この人ひとは明治めいじ以後いごの新派しんぱの和歌わかといふものに、非常ひじような影響えいきようを與あたへた人ひとですが、それまではあまり人ひとから騷さわがれなかつたのです。江戸えどの末すゑから明治めいじの始はじめにかけて生いきてゐた人ひとです。いひ傳つたへでは、大たいへん貧乏びんぼうな暮くらしをしてゐて、しかも國學こくがくや歌うたの樂たのしみを捨すてなかつた人ひとであります。この人ひとにも、諸平もろひら同樣どうよう同おなじ句くをはじめに据すゑて詠よんだ歌うたがあります。


二五、橘曙覽たちばなのあけみ


 中なかでも、『獨樂吟どくらくぎん』といふのは、五十首ごじつしゆからもあります。名高なだかいものだから、そのうち、六七首ろくしちしゆ竝ならべておきませう。

樂たのしみは、草くさのいほりの むしろ敷しき、ひとり 心こゝろをしづめをる時とき

樂たのしみは、すびつのもとにうち仆たふれ、ゆすり起おこすも知らでねし時とき

樂たのしみは、めづらしき書ふみ人ひとに借かり、はじめ一枚ひとひら ひろげたる時とき

樂たのしみは、妻子めこむつまじくうち集つどひ、頭かしら竝ならべてものを食くふ時とき

樂たのしみは、心こゝろに浮うかぶはかなごと 思おもひつゞけて、たばこ吸すふ時とき

樂たのしみは、晝寢ひるねめざむる枕まくらべに、こと〳〵と湯ゆの沸にえてある時とき

樂たのしみは、乏とぼしきまゝに人集ひとあつめ、酒さけのめ ものを食くへといふ時とき

樂たのしみは、童わらは墨すみするかたはらに、筆ふでの運はこびをおもひをる時とき

樂たのしみは、神かみのみ國くにの民たみとして、神かみのをしへを深ふかくおもふ時とき

 かういふふうに、最後さいごの句くを皆みな『時とき』でをさめてゐます。恐おそらく口くちから出任でまかせに、大たいして苦勞くろうなしに作つくつたとおもはれますが、それが皆みな下品げひんでなく、あっさりとほがらかに明あかるい氣持きもちで詠よみ上あげられてゐます。この外ほか、樂たのしみの歌うたはありますが、年としの若わかいあなた方がたにはわかりにくいものは省はぶきました。これらの歌うたならば、あなた方がたにも大體だいたいわかりませう。そして年としが行ゆくと共ともに、これらの歌うたの味あぢはひが、變かはつて感かんじられて來くるのです。だからまづ暗記あんきしておいてほしいとおもひます。

 一番いちばんはじめの歌うたは、蓆むしろを敷しいて、そこに坐すわりこんで、ぢっとしてゐる心こゝろの寛くつろぎを喜よろこんでゐるのです。

 たばこの歌うたで、はかなごとゝいふのは、考かんがへなくてもよいようななんでもない、輕かるいことゝいふことです。これはやはり、大人おとなでないとわからない氣持きもちです。第一だいゝちあなた方がたにはたばこを吸すふ人ひとの氣持きもちがわかるはずがないのです。貧乏びんぼうながら、こせつかずに暮くらしてゐたことは乏とぼしきまゝの歌うたを見みて、いかにも人ひとなつかしい、善良ぜんりようなこの歌人かじんの性質せいしつが思おもはれます。

 やはりあなた方がたにはわかり難にくい興味きようみかも知しれませんが、わらはすみするなどの歌うたは、ぢっくりと落おちついた、そしてなんともいへない心こゝろのはづんでゐるのが感かんじられるものです。

 最後さいごの歌うたは、よく世よの中なかの人ひとの作つくりそうな道徳的どうとくてきな歌うたですが、この人ひとは眞底しんそこから、さう考かんがへてゐたゝめに、人ひとから頼たのまれて作つくつたといふような浮ういたところを見みせてゐません。ことに、神かみのをしへを深ふかくおもふ時とき、などいふ味あぢはひは、これから先さき、あなた方がたにだんだんわかつて來くるだらうと思おもひます。

 この人ひとは、また物ものの名前なまへばかり集あつめて、一首いつしゆの歌うたを作つくつてゐます。

木樵きこり歌うた 鳥とりのさへづり 水みづの音おと ぬれたる小草をぐさ 雲くもかゝる松まつ

 山中さんちゆうといふ題だいです。山中さんちゆう目めに見み、耳みゝに聞きこえるものを五いつとほり竝ならべて、そしてもの靜しづかな山やまの樣子ようすを考かんがへさせようとしたのです。けれどもこれは、和歌わかではまづ出來できない相談そうだんで、恐おそらくこの人ひとが、かういふふうな思想しそうの表あらはし方かたをする俳句はいくにも、興味きようみを持もつてゐたから出來できたものなのでせう。どう考かんがへても、この五いつつの現象げんしようが、一ひとつの完全かんぜんな山やまのありさまに組くみ立たてゝ感かんじられては來きません。こんな人ひとですから、時々とき〴〵おどけた歌うたを作つくつて、人ひとを笑わらはせようとしました。そしてやはり、下品げひんすぎるといふ程ほどでなく出來できてゐるのは、人格じんかくによるのです。

着きる物ものの縫ぬひめ〳〵に、子こをひりて、虱しらみの神代かみよはじまりにけり

わたいりの縫ぬひめに頭かしらさし入いれて、ちゞむ虱しらみよ。わがおもふどち

やをら出いでゝ、ころもの首くびを這はひ歩ありき、我われに恥はぢ見みする虱しらみどもかな

 昔むかしの人ひとは、虱しらみとなじみが深ふかかつたゝめに、なんでもなく、かういふ歌うたを作つくつてゐます。そして汚きたならしいあの昆蟲こんちゆうを憎にくんでばかりもゐません。

 最初さいしよの歌うたは、少すこしおどけ過すぎて、下しもの句くなどはわるいとおもひます。二番にばんめのわがおもふどちは、おれの仲なかよしだといふくらゐの意味いみで、おれだつて虱しらみとおんなじことだ、とまるで、綿入わたいりの着物きものの縫ぬひめに、頭あたまをつゝこんで縮ちゞかんでゐる虱しらみばかりを笑わらふことは出來できないといふのです。それを深ふかくおもひ込こんだようにいはずに、輕かるく詠よみすてゝゐるのです。

『やをら出いでゝ』といふのは、少すこし説明せつめいしすぎてゐますが、下しもの句くの方ほうになると、いかにも自分じぶんの人ひとからうけた恥はづかしい經驗けいけんを、そのまゝ輕かるい心こゝろで歌うたつてゐるところが見みえて、わるい歌うたではありません。この人ひとの先生せんせいは、加納諸平かのうもろひらと同門どうもんの田中大秀たなかおほひでといふ飛騨ひだの國くにの學者がくしやでした。その師匠ししようを訪とうた時ときの旅行りよこうの歌うた。

旅衣たびごろもうべこそさゆれ。乘のる駒こまの 鞍くらの高たかねに、み雪ゆきつもれり

旅裝束たびしようぞくをとほして、寒さむさが身みに應こたへると思おもつてゐたが、なるほど冷ひやついたはずだ。あの向むかうに見みえる、乘のるこまの鞍くらといふ名なまへの乘鞍のりくらの高山たかやまに、雪ゆきが積つもつてゐる。

 この人ひとは、この山やまを甲斐かひの國くに乘鞍山のりくらやまと書かいてゐるが、これはやはり只今たゞいまの飛騨山脈ひださんみやく(日本につぽんアルプス)の中なかのあの山やまでせう。この歌うたはどうかすれば、馬うまに乘のつて旅たびをしてゐて、それをすぐさま枕詞まくらことばとして、鞍くらの高たかねといつたようにも思おもはれるが、さう考かんがへてはいけません。


二六、大隈言道おほくまときみち


 尚なほ明治めいじより前まへの歌人かじんとして、忘わすれることの出來できないのは、福岡ふくをかの人ひと、大隈言道おほくまときみちであります。この人ひとも曙覽あけみのように輕かるく明あかるくあまり考かんがへないで、自由じゆうに歌うたを作つくつたらしい人ひとであります。やゝおもしろさにつり込こまれて、下品げひんな歌うたもないでもありません。けれども、歌うたよみとしては勝すぐれた人ひとといふことが出來できます。ことに子こどもらしい氣持きもちを歌うたに自由じゆうに詠よみこんだ人ひとで、そんなのになると、つい〳〵よいわるいを忘わすれて、同感どうかんせずにゐられません。しかし曙覽あけみの歌うたで、さういふ種類しゆるいの歌うたをあげすぎましたから、こゝでは、まじめなものを二三首にさんしゆ竝ならべるだけにしておきませう。

うちわたす をち方人かたびとの、道みちおそく行ゆき果はつまじき 野のの景色けしきかな

 これも、歌うたには少すくない材料ざいりようで、春はるの野のの霞かすんで果はてがなく感かんじられる上うへに、皆みんなの心こゝろののんびりしてゐる氣持きもちが、よく出でてゐて、しかも非常ひじように古風こふうに上品じようひんに出來できてゐます。

 うちわたすは、見渡みわたすといふくらゐの意味いみ。をち方人かたびとといふのは、向むかうの方ほうを歩あるいてゐる人ひと。道みちおそくとは、足あしがはかどらないでゐる樣子ようすを少々しよう〳〵變かはつたいひ廻まはしでいつたのです。つまりさうしないと、平凡へいぼんに上うはすべりがすると思おもつたのでせう。だから、直譯ちよくやくして、道みちがはかどらないでと取とつておけばよいでせう。とても今日こんにち一日いちにちでは行ゆききるまい、といふ氣持きもちを、行ゆき果はつまじき野のの景色けしきかな、とかういつたのです。

 今いままでの歌うたと違ちがつて、重おもくるしいけれども、やはりよい感かんじがするでせう。

かへり來きて、寢ねたるわらべの袂たもとより、頭あたま出いだせるつく〳〵しかな

かへる雁かり、かへりて春はるもさびしきに、わらはのひろふ小田をだのこぼれ羽は

 この人ひとは子こどもがすきだつたゝめに、同時どうじに、子こどもが讀よんでもわかるような歌うた、或あるひは自分じぶんが幼をさない氣持きもちになりきつて作つくつたものがたくさん出來できたものらしく思おもはれます。

 春はるになると雁かりが、北きたの方ほうへ歸かへります。その後あとに、雁かりの羽はねが、田圃たんぼなどによく殘のこつてゐます。それを子こどもが拾ひろつておもちゃにして遊あそんでゐるのを作つくつたので、さういふ材料ざいりようをごく重々おも〳〵しく爲上しあげてゐるのです。春はるに歸かへる雁かりが、歸かへつてしまつた後のち、花はなは咲さいても、子こどもは雁かりの姿すがたが見みえないので、『がん〳〵竿さをになれ棒ぼうになれ』といふ童謠どうようを謠うたふことも出來できないでゐるその子こどものさびしい氣持きもちを、春はるもさびしきといつたので、大人おとなの作者さくしや自身じしんの氣持きもちを述のべたのではありません。さういふ場合ばあひに、そんな子こどもが、田たにおりて行いつて、雁かりのこぼして行いつた羽はねを拾ひろつて喜よろこんでゐるといふ歌うたです。それをすっかり、大人おとなの側がはから見みて作つくつてゐるのです。

 も一ひとつ、子こどもを種たねにしながら、重おもい歌うたをあげておきませう。

わが身みこそ何なにとも思おもはね。めこどもの 憂うしてふなべに、うきこの世よかな

 これも、あなた方がたにわかりにくい氣持きもちかも知しれません。がお父とうさんお母かあさんの年としごろになると、家いへの生活せいかつが、よくてもあしくても、なんだか社會的しやかいてきの暮くらしといふものが、重荷おもにに感かんじられて來くるものです。さういふ年としごろになると、この歌うたを詠よんだ言道ときみちの心持こゝろもちがわかるでせう。

 言道ときみちもやはり、曙覽あけみ同樣どうようの貧まづしい暮くらしをしてゐました。けれどもそれについて普通ふつうの人ひとでありませんから、大たいして氣きにかけたりあせつたりはしてゐなかつたのです。が時々とき〴〵、もっとよい暮くらしがしたいといふ氣持きもちが起おこらなくもありません。それは多おほくは家族かぞくのものたちが、主人しゆじんに訴うつたへる場合ばあひ、或あるひはさういふ心持こゝろもちを顏かほに現あらはしてゐる場合ばあひに起おこつて來くる氣持きもちなのです。

自分じぶんはそれはなんとも思おもつてゐないが、しかし、時々とき〴〵悲觀ひかんすべき世間せけんだ、とおもふ氣きがする。自分じぶんの妻つまや子こが、厭いやだ〳〵と世よの中なかのことをいふにつれて、厭いやに思おもはれるこの世よよといふのです。

 少すこしもの足たらないところもありますが、家いへの主あるじの持もちそうな氣持きもちをよくいつてゐます。なべにといふ語ごは、それと共ともにと同時どうじになどいふ意味いみですが、この頃ころの人ひとは、輕かるくゆゑにといふくらゐの意味いみにも用もちひたのです。以上いじようの人々ひと〴〵で、江戸時代えどじだいの歌人かじんを代表だいひようさせたつもりです。

底本:「歌・俳句・諺」復刻版日本児童文庫、名著普及会

   1982(昭和57)年10月20日発行

底本の親本:「歌・俳句・諺」日本兒童文庫、アルス

   1930(昭和5)年1月10日発行

※底本は旧字旧仮名づかいです。なお拗音、促音の大書きと小書きの混在は、底本通りです。

入力:しだひろし

校正:沼尻利通

2015年4月8日作成

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