浮舟
泉鏡花



一


「浪花江なにわえの片葉かたはの蘆あしの結ぼれかかり──よいやさ。」

 と蹌踉よろりとして、

「これわいな。……いや、どっこいしょ。」

 脱いで提げたる道中笠、一寸ちょっと左手に持換えて、紺の風呂敷、桐油包とうゆづつみ、振分けの荷を両方、蝙蝠こうもりの憑物めかいて、振落しそうに掛けた肩を、自棄やけに前に突いて最一もひとつ蹌踉よろける。

「……解けてほぐれて逢う事もか。何を言いやがる。……此方こっちあ可いい加減に溶とろけそうだ。……まつにかいあるヤンレ夏の雨、かい……とおいでなすったかい。」

 さっと沈めた浪の音。磯馴松そなれまつは一樹ひとき、一本ひともと、薄い枝に、濃い梢に、一ツずつ、翠みどり、淡紅色ときいろ、絵のような、旅館、別荘の窓灯を掛連ね、松露しょうろが恋に身を焦す、紅提灯ちらほらと、家と家との間を透く、白砂に影を落して、日暮の打水うちみずのまだ乾かぬ茶屋の葭簀よしずも青薄あおすすき、婦おんなの姿もほのめいて、穂に出て招く風情あり。此こ処こは二見ふたみの浦づたい。

 真夏の夜の暗闇やみである。この四五日、引続く暑さと云うは、日中ひなかは硝子ビイドロを焼くが如く、嚇かっと晴れて照着てりつける、が、夕凪ゆうなぎとともに曇どんよりと、水も空も疲れたように、ぐったりと雲がだらけて、煤色すすいろの飴の如く粘々ねばねばと掻曇かきくもって、日が暮れると墨を流し、海の波は漆を畝うねらす。これでいて今夜も降るまい。癖に成なって、一雫ひとしずくの風を誘いざなう潮の香かもないのであった。

 男は草鞋穿わらじばき、脚絆きゃはんの両脚もろずね、しゃんとして、恰あたかも一本の杭の如く、松を仰いで、立停たちどまって、……眦まなじりを返して波を視みた。

「ああ、唄じゃねえが、一雨ひとあめ欲ほしいぜ……」

 俄然がぜんとして額を叩いて、

「慌てまい。六ちゃん、いや、ちゃんと云う柄じゃねえ。六公ろくこう、六ろくでなし、六印ろくじるし、月六斎つきろくさいでいやあがら。はははは。」

 肩を刻んで苦笑いして、またふらふらと砂を踏み、

「野宿に雨は禁物でえ。」

 その時躓つまずく。……

「これわいな! 慌てまいとはこの事だ。はあ、松の根ッ子か。この、何でもせい。」

 岸辺の茶屋の、それならぬ、渚の松の舫船もやいぶね。──六蔵は投遣なげやりに振った笠を手許てもとに引いて、屈腰かがみごしに前を透かすと、つい目の前に船首みよしが見える。

 船は、櫂かいもなく艪ろもなしに、浜松の幹に繋いで、一棟、三階立は淡路屋と云う宏壮な大旅館、一軒は当国松坂の富豪、池川の別荘、清洒せいしゃなる二階造、二見の浦の海に面した裏木戸の両りょうの間あわい、表通りへ抜路ぬけみちの浜口に、波打際に引上げてあった。

 夫女巌めおといわへ行くものの、通りがかりの街道から、この模様を視ながめたら、それも名所の数には洩れまい。舷ふなばたに鯔ぼらは飛ばないでも、舳へさきに蒼い潮の鱗。船は波に、海に浮べたかと思われる。……が藍あいを流した池のような浦の波は、風の時も、渚に近いこの船底を洗いはせぬ。戯たわむれにともづなの舫もやいを解いて、木馬のかわりにぐらぐらと動かしても、縦横に揺れこそすれ、洲走すばしりに砂を辷すべって、水に攫さらわれるような憂うれいはない。

 気の軽い、のん気な船は、件くだんの別荘の、世に隔てを置かぬ、ただ夕顔の杖ばかり、四ツ目に結った竹垣の一重を隔てた。濡縁越ぬれえんごしの座敷から聞え来る三味線の節の小唄の、二葉ふたは三葉みは、松の葉に軽く支えられて、流れもあえず、絹のような砂の上に漂っているのである。


二


「この何でもせい。……住吉の岸辺の茶屋に、よいやさ。」

 と風体ふう、恰好、役雑やくざなものに名まで似た、因果小僧とも言いそうな這奴しゃつ六蔵は、その舷ふなばたに腰を掛けた、が、舌打して、

「ちょッ面倒だ。宿銭とまりは鐚びたでお定さだまり、それ、」

 と笠を、すぽりと落し、次手ついでに振分の荷を取って、笠の中へ投げ込んで、

「いや、お泊りならばァ泊らんせ、お風呂もどんどん湧いている、障子もこの頃はりかえて、畳もこの頃かえてある。──嘘を吐きゃあがれ。」

 空手からてを組んで、四辺あたりを見たが、がッくりと首を振って、

「待てよ……青天井が黒光りだ。電いなびかりは些ちっと気が無ねえがね、二見ヶ浦は千畳敷、浜の砂いさごは金銀……だろう、そうだろそうだろ然そうであろ。成程どんどん湧いていら、伊良子いらこヶ崎までたっぷりだ。ああ、しかし暑いぜ。」

 腕まくりを肩までして、

「よく皆、瓦かわらの下の、壁の裡なかへ入へえってやがる。」

 瓦の下、壁の裡、別荘でも旅館でも、階下したも二階もこの温気うんきに、夕凪の潮うしおを避け、南うけに座を移して、伊勢三郎いせのさぶろうが物見松ものみのまつに、月もあらば盗むべく、神路山かみじやま、朝熊嶽あさまがたけ、五十鈴川、宮川の風にこがれているらしい。ものの気勢けはいも人声も、街道向むきは賑にぎやかに、裏手には湯殿の電燈の小暗おぐらきさえ、燈あかりは海に遠かった。

 六蔵ニヤニヤと独笑ひとりえみして、

「お寝間のお伽とぎもまけにしてと──姉さん、真個ほんとかい、洒落しゃれだぜ洒落だぜ洒落じゃねえ。入いらっしゃい、お一方ひとかた、お泊でございますよ。へい、お早いお着様つきさまで、難有ありがとう存じます。これ、御濯足おすすぎの水を早くよ。あいあい、とおいでなさる。白地の手拭てぬぐい、紅い襷たすきよ……柔やわらかな指で水と来りゃ、俺あ盥たらいで金魚に化けるぜ。金魚うや、金魚う。」

 と可いい気な売声。

「はてな、紺がすりに、紺の脚絆、おかしな色の金魚だぜ。畜生め、鯰なまずじゃねえか。刎はねる処は鮒だ奴やつさ。鮒だ、鮒だ、鮒侍ふなざむれえだ。」

 と胸を揺ゆすって、ぐっと反ったが、忽たちまち肩ぐるみ頭をすくめて、

「何を言やあがる。」

 で、揚あげあしを左の股、遣違やりちがいにまた右て。燈は遠し、手探りを、何の気もなく草鞋を解いて、びたりと揃えて、トンと船底へ突込つきこむと、殊勝な事には、手拭の畳んで持ったをスイと解き、足の埃をはたはたと払って、臀いしきで楫かじを取って、ぐるりと船の胴の間にのめり込む。

「御案内引あいあい……」

 と自分で喚わめき、

「奥の離座敷はなれざしきだよ、……船の間──とおいでなすった。ああ、佳いい見晴みはらし、と言いてえが、暗くッて薩張さっぱり分らねえ。」

 勝手な事を吐ほざくうちに、船の中で胡坐あぐらに成った。が兎が櫂かいを押さないばかり、狸が乗った形である。

「何、お風呂だえ、風呂は留やめだ。こう見えても余り水心のある方じゃねえ。はははは、湯に水心も可笑おかしいが、どんどん湧いてるは海だろう。──すぐに御膳だ。膳の上で一銚子よ。分ったか。脱落ぬかりもあるめえが、何ぞ一品ひとしな、別の肴を見繕ってよ、と仰せられる。」

 と仰せられ、

「ああ、いい酒だぜ、忠兵衛のおふくろかい、古い所で……妙燗みょうかん妙燗。」

 と二つばかり額を叩く。……暢気のんきさも傍若無人ぼうじゃくぶじんで、いずれ野宿の、ここに寝てしまうつもりでいよう。舫船を旅籠とより、名所を座敷にしたようなことを吐ぬかす。が。僅わずか一時ひとときばかり前、この町通り、両側の旅籠の前を、うろついて歩行あるいた折は、早や日も落ちて、脚にも背にも、放浪の陰の漾ただよった、見るからみじめな様子であった。


三


 黄昏たそがれに、御泊おとまりを待つ宿引女やどひきおんなの、廂ひさしはずれの床几しょうぎに掛けて、島田、円髷まるまげ、銀杏返いちょうがえし、撫なでつけ髪の夕化粧、姿を斜ななめに腰を掛けて、浅葱あさぎに、白に、紅に、ちらちら手絡てがらの色に通う、団扇うちわの絵を動かす状さま、もの言う声も媚なまめかしく傾城町けいせいまちの風情がある。

 浦づたいなる掃いたような白い道は、両側に軒を並べた、家居いえいの中を、あの注連しめを張った岩に続く……、松の蒔絵まきえの貝の一筋道。

 氷店こおりみせ、休茶屋やすみぢゃや、赤福売る店、一膳めし、就中なかんずく、鵯ひよどりの鳴くように、けたたましく往来ゆききを呼ぶ、貝細工、寄木細工の小女どもも、昼から夜へ日脚ひあしの淀みに商売あきないの逢魔おうまヶ時どき、一時ひとしきり鳴なりを鎮めると、出女の髪が黒く、白粉おしろいが白く成る。

 優い声で、

「もし、お泊りかな。」

「お泊りやすえ。」

 彼方あっちでも、お泊りやす、此方こっちでも、お泊りやす、と愛嬌声の口許は、松葉牡丹の紅である。

「泊るよ。」

 其処そこへ、突掛つッかけに 紺がすりの汗ばんだ道中どうちゅうを持って行ゆくと、

「はい、お旅籠は上中下と三段にございますがな、最下等にいたしましても……」

 何どうして、こんな旅籠へ一宿出来よう、服装みなりを見ての口上に違いないから。

「何だ。無価ただ泊めようと云うのじゃねえのか。」

「外ほかを聞いておくんなはれ。」

「指揮さしずは受けねえ。」と肩を揺って、のっさり通る。

「お泊りやす。」

「俺か。」とまたずっと寄る。

「否いいえ、違いまんの。」

「状ざまあ見ろ、へへん。」

 と、半分白い目で天を仰いで、拗ねたようにそのまま素通すどおり。

 この辺あたりとて、道者宿、木賃泊りが無いではない。要するに、容子ようすの好よい婦人たぼが居て、夕ゆうべをほの白く道中を招く旅籠では、風体の恁かくの如き、君を客にはしないのである。

 荷にも石瓦いしがわら、古新聞、乃至ないし、懐中ふところは空からっぽでも、一度目指した軒を潜って、座敷に足さえ踏掛ふんがくれば、銚子を倒し、椀を替え、比目魚ひらめだ、鯛だ、と贅ぜいを言って、按摩あんままで取って、ぐっすり寝て、いざ出発の勘定に、五銭の白銅一個ひとつ持たないでも、彼はびくとも為するのではなかった。

 針が一本──魔法でない。

 この六ろくでなしの六蔵は、元来腕利きの仕立屋で、女房と世帯しょたいを持ち、弟子小僧も使った奴。酒で崩して、賭博ばくちを積み、いかさまの目ばかり装もった、己おのの名の旅双六たびすごろく、花の東都あずまを夜遁よにげして、神奈川宿のはずれから、早や旅銭なしの食いつめもの、旅から旅をうろつくこと既にして三年越ごし。

 右様みぎようの勘定書に対すれば、洗った面で、けろりとして、

「おう、仕立ものの用はねえか。羽織はおりでも、袴はかまでも。何にもなきゃ経帷子きょうかたびらを縫って遣やら。勘定は差引だ。」

 女郎屋の朝の居残りに遊女おんなどもの顔を剃あたって、虎口ここうを遁のがれた床屋がある。──それから見れば、旅籠屋や、温泉宿で、上手な仕立は重宝ちょうほうで、六の名は七しち同然、融通ゆうずうは利き過ぎる。

 尤もっとも仕事を稼ぎためて、小遣こづかいのたしにするほどなら、女房を棄てて流浪なんかしない筈。

 からっけつの尻端折しりっぱしょり、笠かさ一蓋いちがいの着きたッ切きり雀すずめと云うも恥かしい阿房鳥あほうどりの黒扮装くろいでたちで、二見ヶ浦に塒ねぐらを捜して、

「お泊りだ、お一人さん──旅籠は鐚びたでお定きまり、そりゃ。」と指二本、出女でおんなの目前めさきへぬいと出す。

 誰が対手あいてに成るものか、黙って動かす団扇の手は、浦風を軒に誘って、背後うしろから……塩花しおばな塩花。


四


 六は門並かどなみ六七軒。

 風体と面構つらがまえで、その指二本突出して、二両を二百に値切っても、怒って喧嘩はしないけれど、誰たれも取合うものはなし。

 いざ、と成れば、法もかく、手心は心得たが、さて指当さしあたって、腹は空く、汗は流れる、咽喉のどは乾く、氷屋へ入る仕覚しがくも無かった。

 すねた顔色つらつき、ふてた図体ずうたい、そして、身軽な旅人の笠捌かささばきで、出女の中を伸歩行のしあるく、白徒しれものの不敵らしさ。梁山泊りょうざんぱくの割符わりふでも襟に縫込んでいそうだったが、晩の旅籠にさしかかった飢うえと疲労つかれは、……六よ、怒るなよ……実際余所目よそめには、ひょろついて、途方に暮れたらしく可哀あわれに見えた。

 この後を、道の小半町こはんちょう、嬉しそうに、おかしそうに、視ながめ視め、片頬笑みをしながら跟ついて歩行あるいたのは、糊のきいた白地の浴衣ゆかたに、絞りの兵児へこ帯無雑作にぐるりと捲いた、耳許みみもとの青澄んで見えるまで、頭髪かみのけの艶のいい、鼻筋の通った、色の浅黒い、三十四五の、すっきりとした男で。何処どこにも白粉の影は見えず、下宿屋の二階から放出ほうりだした書生らしいが、京阪地かみがたにも東京にも人の知った、巽辰吉たつみたつきちと云う名題なだいの俳優やくしゃ。

 で、六が砂まぶれの脚絆をすじりもじって、別荘の門を通ったのと、一足違いに、彼は庭下駄で、小石を綺麗に敷詰めた、間々あいあいに、濃いと薄いと、すぐって緋色なのが、やや曇って咲く、松葉牡丹まつばぼたんの花を拾って、その別荘の表の木戸を街道へぶらりと出た。

 巽は時に、酔ざましの薬を買いに出たのであった。

 客筋と云うのではない、松坂の富豪池川とは、近い血筋ほどに別懇べっこんな親類交際づきあい。東に西に興行の都度つど、日取の都合が付きさえすれば、伊勢路に廻って遊ぶのが習いで、別わけて夏は、三日なり二日なり此処に来ない事はないのであった。

 今度も、別荘の主人が一所いっしょで、新道の芸妓お美津みつ、踊りの上手なかるたなど、取巻とりまき大勢と、他に土地の友だちが二三人で、昨日から夜昼なし。

 向う側の官営煙草、兼ねたり薬屋へ、ずっと入って巽が、

「御免よ。」

「はい、お出でなさいまし。」

 唯と、側対かわむかいの淡路屋の軒前のきさきに、客待きゃくまちうけの円髷に突掛つッかかって、六でなしの六蔵が、(おい、泊るぜえ)を遣らかす処。──考えても──上あがり端ばなには萌黄と赤と上草履をずらりと揃えて、廊下の奥の大広間には洋琴ピアノを備えつけた館と思え──彼奴きゃつが風体。

 傍見わきみをしながら、

「宝丹ほうたんはありますかい。」

「一寸ちゃと、ござりまへんで。」

「無い。」

「左様さいで、ござりません。仁丹が可ようござりますやろ。」と夕間暮ゆうまぐれの薬箪笥くすりだんすに手を掛ける、とカチカチと鳴る環かんとともに、額の抜上った首を振りつつ大おおきな眼鏡越にじろりと見やる。

「宝丹が欲しいんだがね。」

「強えらい、お生憎様あいにくさまで。」

「お邪魔を。」

「何うだ、姉あんねえ、これだけじゃ。」

 六は再また指二本。

 この、笠ぐるみ振分けを捲まくり手での一方へ、褌ふどしも見える高端折たかばしょり、脚絆ばかりの切草鞋で、片腕を揮ったり、挙げたり、鼻の下を擦ったり、べかこと赤い目を剥いたり、勝手に軒をひやかして、ふらふらと街道を伸のして行くのが、如何にも舞台馴れた演種しぐさに見えて、巽はうかうか独笑ひとりえみしてその後あとに続いたのである。


五


 やがて一町ひとまち出はずれて、小松原に、紫陽花あじさいの海の見える処であった。

「君、君。」

 何と思ったか、巽がその六でなしを呼んだのである。

「ええ、手前で、へい。」と云うと、ぎっくり腰を折って、膝の処へ一文字いちもんじに、つん、と伏せた笠の上、額を着けそうにして一ツおじぎをした工合が、丁寧と言えば丁寧だが、何とも人を食った形に見える。

 辰吉は片頬笑かたほほえみして、

「突然で失礼ですがね、何処どこ此処どこここと云ってるよりか、私の許とこへ泊っちゃ何うです。」

「へい、貴方あなたへ。」と、俯向うつむけていた地薄な角刈かくがりの頭を擡もたげて、はぐらかす気か、汗ばんだか、手の甲で目を擦って、ぎろりと巽の顔を見た。

「何うです、泊りませんか……ッたってね、私も実は、余所よその別荘に食客いそうろうと云うわけだが、大腹たいふくな主人でね、戸締りもしない内うちなんだから、一晩、君一人ぐらい、私が引受けて何うにもしますよ。」

「へええ、御串戯ごじょうだんを。」と道の前後を眗みまわして、苦笑いをしつつ、一寸ちょっと頭を掻いたは、扨さては、我が挙動ふるまいを、と思ったろう。

「串戯なもんですか。」

 其処が水菓子屋の店前で──巽は、別に他に見当らなかったので、──居合す小僧に振向いて、最もう一軒薬屋はないか、と聞いて、心得て出て、更めて言った。

「真個ほんとうだよ、君。」

 と笑いながら、……もう向うむいて行きかける六蔵を再また呼んで、

「……今君が通って来た、あの、旭館と淡路屋と云う大おおきな旅館の間にある、別荘に居るんだからね。」

「何とも難有ありがてえ思召おぼしめしで、へい。」

 と、も一度笠を出して面つらを伏せて、

「いずれまた……」

「ではさようなら。」

「御機嫌よろしゅう。」

 二見ヶ浦を西、東。

 思いも掛けない親船に、六はゆすぶった身体を鎮めて、足腰をしゃんと行ゆく。

「兄さん、兄さん。」

「親方。」

 と若い女が諸声で、やや色染めた紅提灯、松原の茶店から、夕顔別当、白い顔、絞の浴衣が、飜然ひらりと出て、六でなしを左右から。

「親方。」

「兄さん。」

「ええ、俺おらが事か。兄さん、とけつかったな。聞馴ききなれねえ口を利きやあがる。幾干いくらで泊める。こう、旅籠は幾干だ。」

「否いいえ、宿屋じゃありません。まあ、お掛けなさいな。」

「よう一寸。」

「何にも持たねえ、茶代が無えぜ。」

「何んですよ、そんな事は。」

「はてな、聞馴れねえ口を利きやあがる。」

「その代りね、今、親方、其処で口を利いたでしょう。」

「一寸、あの方は何と云って。矢張やっぱり普通ただの人間とおんなじ口の利き方をなさる事? 一寸さあ……」

 と衣紋えもんを抜く。

 六蔵解よめぬ面の眉を顰しかめ、

「何だ、人間の口の利方ききかただ?……ほい、じゃ、ありゃ此処等ここらの稲荷様か。」

「まあ!」

「何だい?」

「あら、名題の方じゃありませんか、巽さんと云う俳優やくしゃだわよ。」

「畜生め、此奴等こいつら、道理で騒ぐぜ。むむ、素顔にゃはじめてだ。」

 と、遠くを行く辰吉のすらりとした、後姿に伸上る。

「可いわねえ。」と、可厭いやな目色めつき。

「黙ってろ。俺もこう見えて江戸児えどっこだ。巽の仮声こわいろがうめえんだ。……」

「あら、嬉しい。ひい!」と泣声を放ったり。

「馳走をしねえ、聞かして遣やら。二見中の鮑あわびと鯛を背負しょって来や。熱燗熱燗。」と大手をふった。

 これじゃ頓やがて、鼻唄も出そうである。


六


「もしもし、貴方。」

 と媚なまめかしい声。

 溝端みぞばたの片陰かたかげに、封袋ふうたいを切って晃乎きらりとする、薬の錫すずを捻ひねくって、伏目に辰吉の彳たたずんだ容子ようすは、片頬かたほに微笑ほほえみさえ見える。四辺あたりに人の居ない時、こうした形は、子供が鉄砲玉でも買って来たように、邪気無あどけないものである。

 水菓子屋で聞いた薬屋へ行くには、彼は、引返ひっかえして別荘の前をまた通らねば成ならなかった。それから路みちを折曲って、草生くさはえの空地を抜けて、まばら垣について廻って、停車場ステエション方角の、新開と云った場末らしい、青田も見えて藁屋わらやのある。その中に、廂ひさしに唐辛子、軒に橙だいだいの皮を干した、……百姓家の片商売。白髪の婆が目を光らして、見るなよ、見るなよ、と言いそうな古納戸めいた裡なかに、字も絵も解らぬ大衝立おおついたてを置いた。

 宝丹は其処にあったが、不思議に故郷に遠い、旅にある心地がして、巽はふと薄い疲労つかれさえ覚えた。道もやがて別荘の門から十町ばかり離れたろう。

 右から左に弁ずる筈を、こうして手に入れた宝丹は、心嬉しく、珍らしい。

「あの、お薬をめしあがりますなら、お湯か何ぞ差上げますわ。」

 唯ふと、片側の一軒立いっけんだち、平屋の白い格子の裡に、薄彩色の裙すそをぼかした、艶なのが、絵のように覗いて立つ。

 黒髪は水が垂りそう、櫛巻の房ふッさりとした、瓜核顔うりざねがおの鼻筋が通って、眉の恍惚うっとりした、優しいのが、中形の浴衣に黒繻子くろじゅすの帯をして、片手、その格子に掛けた、二の腕透いて雪を欺あざむく、下緊したじめの浅葱に挟んで、──玉の荵しのぶの茶室かこいを起たった。──緋の袱紗ふくさ、と見えたのは鹿子絞かのこしぼりの撥袋ばちぶくろ。

 片手に象牙の撥を持ったままで、巽に声を掛けたのである。

 薬の錫を持ったなり、浴衣の胸に掌てを当てて、その姿を見たが、通りがかりの旅人に、一夜を貸そうと云った矢先、巽は怪む気もしないで、

「恐入りますな。」

「さあ何うぞ。」

 と云って莞爾にっこりした。が、撥を挙げて靨えくぼを隠すと、向うむきに格子を離れ、細ほっそりした襟の白さ、撫肩なでがたの媚なまめかしさ。浴衣の千鳥が宙に浮いて、ふっと消える、とカチリと鳴る……何処かに撥を置いた音。

 すぐに、上框あがりがまちへすっと出て、柱がくれの半身で、爪尖つまさきがほんのりと、常夏とこなつ淡く人を誘う。

 巽は猶なお関かまわず格子を開けた。

「じゃあ御免なさいよ。」

 と、土間に釣った未だ灯を入れない御神燈に蔦の紋、鶴沢宮歳つるさわみやとしとあるのを読んで、ああ、お師匠さん、と思う時、名の主は……早や次の室まの葭戸越よしどごし、背姿うしろすがたに、薄うっすりと鉄瓶の湯気をかけて、一処ひとところ浦の波が月に霞んだようであった。

「恐入ります。」

 婦おんなは声を受けて、何となく、なよやかな袖を揺がしながら、黙って白湯を注いでいる。

「拝借します。」

 と巽は其処の上框へ。

 二つ三つ、すらすらと畳触り。で、遠慮したか、葭戸の開いた敷居越に、撓しなうような膝を支ついて、框の隅の柱を楯に、少し前屈みに身を寄せる、と繻子しゅすの帯がキクと鳴る、心の通う音である。

「温湯ぬるまゆにいたしましたよ、水が悪うございますから。」

「……御深切ごしんせつに。」

 取った湯呑は定紋着じょうもんつき、蔦を染めたが、黄昏に、薄りと蒼あおずむと、宮歳の白魚しらおの指に、撥袋の緋が残る。

「ああ、私。」と、ばらりと落すと、下褄の端にちらめいて、瞼まぶたに颯さっと色を染めた、二十三四が艶えんなる哉かな。


七


「私、何うしたら可いいでしょう。極きまりが悪うござんすわ。」

 と婦おんなは軽く呼吸いきを継いで、三味線みすじの糸を弾くが如く、指を柱に刻みながら、

「私、お知己ちかづきでもないお方をお呼び申して、極りが悪いものですから、何ですか、ひとりで慌てしまって、御茶台にも気が付きません。……そんな自分の湯呑でなんか。……失礼な、……まあ、何うしたら可ようございましょうね。」

 と襟を圧えて俯向うつむいて、撥袋を取って背後うしろに投げたが、留南奇とめぎの薫が颯さっとして、夕暮の奇くしき花、散らすに惜しき風情あり。辰吉は湯呑を片手に、

「何うしまして、結構です。難有ありがとう。そしてお師匠さん。貴女の芸にあやかりましょう。」

「存じません。」

 と、また一刷毛瞼を染めつつ、

「人様ひとさま御迷惑。蚊柱のように唸るんでございますもの、そんな湯呑には孑孑ぼうふらが居ると不可いけません。お打棄うっちゃりなさいましよ。唯今、別のを汲替とりかえて差上げますから。」と片手をついて立構たちがまえす。

 辰吉は圧おさえるように、

「ああ、しばらく。貴女あなたがそんな事をお言いなすっちゃ私は薬が服のめなく成ります。この図体ずうたいで、第一、宝丹を舐めようと云う柄じゃないんですもの。鯱しゃちや鯨と掴合って、一角丸ウニコオルを棒で噛ろうと云うまどろすじゃありませんか。」

 婦おんなが清すずしい目で、口許に嬉しそうな笑を浮べ、流眄ながしめに一寸ちょっと見て、

「まあ、そうしてお商売は、貴方。」

「船頭でさあね。」

「一寸! 池川さんのお遊び道具の、あの釣船ばかりお漕ぎ遊ばす……」

 お師匠さんは御存じだ。

「雑ざっと、人違いですよ。」と眦まなじりを伏せてぐっと呑んで、

「申兼もうしかねましたが、もう一杯。丁ちょうど咽喉が渇いて困っていた、と云う処です。」

 艶なお師匠さんは、いそいそして、

「お出ばなにいたしましょうね。」

「薬を服のみました後ですから、お湯の方が結構です──何ですか、お稽古は日が暮れてからですか。ああ、いや、それで結構。」

 辰吉は錆のある粋な笑わらいで、

「ははは、些ちと厚かましいようですな。」

「沢山たんとおっしゃいまし。──否いいえ、最もう片手間の、あの、些少ほんの真似事でございます。」

「お呼び申せば座敷へも……?」

「可厭いやでございますねえ、貴方。」

 と片手おがみの指が撓しなって、

「そんな御義理を遊ばしちゃ、それじゃ私申訳がありません。それで無くってさえ、お通りがかりをお呼び申して、真個ほんとうに不躾ぶしつけだ、と極りが悪うございましてね、赫々かっかっ逆上のぼせますほどなんですもの。」

 身を恥じるように言訳がましく、

「実は、あの、小婢こどもを買ものに出しまして、自分でお温習さらいでもしましょうか、と存じました処が、窓の貴方、荵しのぶの露の、大きな雫が落ちますように、螢が一つ、飛ぶのが見えたんでございますよ……」

「螢。」

 と巽は、声に応じて言返した。

「はあ、時節は過ぎましたのを、つい、珍しい。それとも一ツ星の光るお姿か知ら、とそう思って立ったんですが、うっかり私、撥なんか持って、螢だったら、それで叩きますつもりだったんでしょうかねえ。そんな了簡で、螢なんて、蜻蛉とんぼか蝙蝠こうもりで沢山でございます。」

 蜻蛉は寝たから御存じあるまい、軒前を飛ぶ蝙蝠が、べかこ、と赤い舌を出して、

「これは御挨拶だ。」

 と飜然ひらりと行やる。


八


「それですから、ふっと、その格子を覗きました時は、貴方の御手おての御薬の錫をば、あの、螢をおつかまえなすった、と見ましたんですよ。」

 器は巽の手に光る。

 彼は掌たなそこに据えて熟じっと視みた。

「まあ、お塩梅が沢山たんと悪いんじゃありませんか、何しろお上りなすって、お休みなさいましたら何うでしょう。貴方、御気分は如何です。」と、摺寄って案じ顔。

 巽は眉の凜とした顔を上げて、

「否いいえ、気分は初めから然さしたる事も無いのです。宝丹は道楽に買った、と云って可いくらいなんですが。」

 爾時そのとき、袂へ突込つッこんで、

「今の、螢には、何だか少し今度は係合かかりあいがありそうですよ──然うですか、螢を慕ってお師匠さん、貴女格子際へ出なすったんだ。」

「貴方のお口から、そんな事、お人の悪い、慕って、と云う柄じゃありません。」

「まあまあ……ですがね、私が宝丹を買いに出たはじまりが、矢張り螢ゆえに、と云ったような訳なんですよ。ふっと、今思出したんです……」

「へええ。」と沈んだような声で言う、宮歳は襟を合せた。

「今度、当地こちらへ来ます時に、然うです。興津おきつ……東海道の興津に、夏場遊んでる友だちが居て、其処へ一日寄ったもんです。夜汽車が涼しいから、十一時過ぎでした、あの駅から上りに乗ったんですよ、右の船頭が。」

「……はあ、可ようございます。ほほほ。」と笑わらいが散らぬまで、そよそよ、と浅葱の団扇の風を送る。指環の真珠が且かつ涼しい。

「頂戴しますよ。」

 と出してあった薄お納戸の麻の座蒲団をここで敷いて、

「小さな革鞄一つぶら下げて、プラットホームから汽車の踏段を踏んで、客室の扉を開けようとすると、ほたりと。」

 巽は口許の片頬を圧おさえて言ったのである。

「虫が来て此処へ留ったんです、すっと消きえ際しなの弱い稲妻か、と思いました。目前に光ったんですから吃驚びっくりして、邪険に引払うと、最もう汽車が動出す。

 妙にあとが冷つくのです、濡れてるようにね、擦って見ても何ともないので。

 忘れていると、時々冷い。何か、かぶれでもしやしないかしら、螢だと思ったものの、それとも出合頭であいがしらに、別の他の毒虫ででもありはしないかと、一度洗面台へ行って洗いましたよ。彼処あすこで顔を映して見ても別に何事もないのです、そのうちに紛れてしまう。それでも汽車で、うとうとと寝た時には、清水だの、川だの、大な湖だの、何でも水の夢ばかり切々きれぎれに見ましてね、繋ぎに目が覚める、と丁ど天龍川の上だったり、何処かの野原で、水が流れるように虫の鳴いてた事もありましたがね。最う別に思出しもしないで、つい先刻さっきまでそれ切りで済んでいました。

 今しがたです……

 池川さんの、二階で、」

 と顔を見合せた時、両方で思わず頷く様な瞳を通わす、ト圧えた手を膝にして巽はまた笑を含んで、

「……釣舟にしておきましょう、その舟のね、表二階の方へ餉台ちゃぶだいを繋いで、大勢で飲酒のみながら遊んでいたんですが、景色は何とも言えないけれど、暑いでしょう。この暑さと云ったら暑さが重石おもしに成って、人間を、ずんと上から圧付おしつけるようです。窓から見る松原の葭簀よしず茶屋と酸漿提灯ほおずきぢょうちんと、その影がちらちら砂に溢こぼれるような緋色の松葉牡丹ばかりが、却って目に涼しい。海が焼原に成って、仕方がない、それじゃ生命も続くまいから、陸おかの方の青い草木を水にしておけ、と天道てんとうの御情けで、融通をつけて下さる、と云った陽気ですからね。」

「まあ、随分、ほほほ、もう自棄やけでございますわね、こんなに暑くっちゃ。」

 その癖、見る目も涼しい黒髪。


九


「些ちっとでも涼しい心持に成りたくッて、其処等の木の葉の青いのを熟じっと視ていて、その目で海を見ると、漸やっと何うやら水らしい色に成ります。

 でないと真赤ですぜ。日盛ひざかりなんざ火が波を打っているようでしょう。──さあ、然うなると不思議なもので今も言った通りです。潮煮うしおの鯛の目、鮑の蒸したのが涼しそうで、熱燗の酒がヒヤリと舌に冷いくらい──貴女が云った自棄やけですか──

 夕方、今しがた一時ひとしきりは、凪の絶頂で口も利けない。餉台を囲んだ人の話声を、じりじりと響くように思って、傍目も触らないで松原の松を見ていて、その目をやがて海の上にこう返すと、」

 巽は目を離して指ゆびさしたが、宮歳の顔を見て、鏽さびた声して低く笑った。

「はははは、べッかっこをするんじゃありませんよ──。然うすると、海の色が朝からはじめて、颯さっと一面に青く澄んで、それが裏座敷の廻縁まわりえんの総欄干へ、ひたひたと簾すだれを流すように見えましてね、縁側へ雪のような波の裾が、すっと柔かに、月もないのに光を誘って、遥かの沖から、一よせ、寄せるような景色でした。

 悚ぞっと涼しく成ると、例の頬辺ほっぺたが冷ひやりとしました、螢の留った処です。──裏を透して、口の裡うちへ、真珠でも含んだかと思う、光るように胸へ映りました。」

 敷居に凭もたれかかり、団扇を落して聞いていた婦おんなは、膝の手を胸へ引いて、肩を細く袖を合せた。

「可厭いやな心持じゃなかったんです──それが、しかし確に、氷を一片ひときれ、何処かへ抱いたように急に身を冷して、つるつると融るらしく、脊筋から冷い汗が流れました。香においがします、水のような、あの、螢の。」

 月の柳の雫でも夜露となれば身に染みる。

「私は何かに打たれたように、フイと席を立って戸外そとへ出ました。まだ明い。内の二階で、波ばかり、青く欄干にかかったようには、暮れてはいません。

 名所図絵にありそうな人通りを見ていると、最もう何もかも忘れました。が、宝丹は用心のために、柄にもない船頭が買ったんですが。

 今の螢のお話で、無遠慮に御厄介に成りました。申訳にもと、思いますから、──私も、無理に附着くッつけたらしいかも知れませんが、螢の留ったお話をしたんです。」

 と半ば湯呑のあとを飲むと、俯目ふしめに紋を見て下に置いた。彼は帰りがけの片膝を浮かしたのである。

 唯と、呼吸いきを詰めて、

「貴方。」

「え。」

 余り更まった婦おんなの気に引入れられて驚いた体ていに沈んで云った。

 婦おんなは肩を絞るように、身をしめた手を胸に、片手を肱に掛けながら、

「螢じゃありませんわ。螢じゃありませんわ。」

「何がですえ。」

「そりゃ、あの……何ですよ、屹きっと……そして、その別荘のお二階へ、沖の方から来ましたって、……蒼い、蒼い、蒼い波は。」

 柱の姿も蒼白く、顔の色も俤立おもかげだって、

「お話を伺いますうちにも、私は目に見えますようで。そして、跡を、貴方の跡を追って浪打際が、其処へ門まで参っているようですよ。」

 と、黒繻子の帯の色艶やかに、夜を招いて伸上のびあがる。

 白い犬が門を駈けた。

 辰吉は腰を掛けつつ、思わず足を爪立てた。


十


「貴方、その欄干にかかりました真蒼まっさおな波の中に、あの撫子とこなつの花が一束流れますような、薄い紅色の影の映ったのを、もしか、御覧なさりはしませんか。」

 ……と云う、瞳の色の美しさ、露を誘って明あかるいまで。その色に誘われて、婦おんなが棄てた撥袋の鏡台の端に掛ったのを見た。

 我にもあらず茫ぼうと成って、

「彼処あすこに見える……あれですか。」

「否いいえ、あんなものじゃありません。」とやや気組きぐんで言う。

「それでは?……」

「否いいえ、絽ろの色なんです。──あの時あの妓ひと──は緋の長襦袢を着ていました。月夜のような群青に、秋草を銀で刺繍ぬいとりして、ちらちらと黄金きんの露を置いた、薄いお太鼓をがっくりとゆるくして、羅うすものの裾を敷いて、乱次しどけなさったら無い風で、美しい足袋跣足たびはだしで、そのままスッと、あの別荘の縁を下りて、真直まっすぐに小石の裏庭を突切つッきると、葉のまばらな、花の大きなのが薄化粧して咲きました、」と言う……

 大輪の雪は、その褄を載せる翼であった。

「あの、夕顔の竹の木戸に、長い袂も触れないで、細ほっそりと出たでしょう。……松の樹の下を通る時は、遠い路を行くようでした。舟の縁へりを伝わると、あれ、船首みよしに紅い扱帯しごきが懸る、ふらふらと蹌踉よろけたんです……酷く酔っていましたわね。

 立直った時、すっきりした横顔に、縺もつれながら、島田髷しまだも姿も据すわりました。

 私はその時、隣家の淡路館の裏にあります、ぶらんこを掛けました、柱の処で見ていたんですよ、一昨年ですわね、──巽さん。」

 と、然しかも震ふるえを帯びた声で、更めて名を呼んで、

「貴方に焦こがれて亡く成りました、あの、──小雪さん──の事ですよ。」

 実げに、それは、小雪は伊勢の名妓であった。

 辰吉は、ハッと気を打って胸を退ひいた。片膝揚げつつ框かまちを背後うしろへ、それが一浪乗って揺れた風情である。

 褄に曳いたも水浅葱、団扇の名の深草ならず、宮歳の姿も波に乗ってぞ語りける。

「不思議ですわね、あの時、海が迎いに来て、渚が、小雪さんに近く成ると、もう白足袋が隠れました。蹴出けだしの褄に、藍がかかって、見渡す限り渚が白く、海も空も、薄い萌黄でござんした。

 其処に唯一人、あの妓ひとが立ったんです。笄こうがいがキラキラすると、脊の嫋娜すらりとした、裾の色の紅くれないを、潮が見る見る消して青くします。浪におされて、羅うすものは、その、あの蹴出しにしっとり離れて、取乱したようですが、ああした品の可い人ですから、須磨の浦、明石の浜に、緋の袴で居るようでした。」

 ──驚破すわ泳ぐ、とその時、池川の縁側では大勢が喝采した。──

「あれあれ渚を離れる、と浪の力に裾を取られて、羅のそのまんま、一度肩まで浸りましたね。衝つと立つ時、遠浅の青畳、真中とも思うのに、錦の帯の結目が颯さっと落ちて、夢のような秋草に、濡れた銀ぎんの、蒼い露が、雫のように散ったんです。

 まあ、顔が真蒼まっさお、と思うと、小雪さんは熟じっと沖を凝視みつめました、──其処に──貴方のお頭つむりと、真白な肩のあたりが視えましたよ。

 近所を漕いだ屋根舟の揺れた事!

 貴方は泳いで在いらしったんです。

 真裸の男まじりに、三四人、私の知った芸者たちも五六人、ばらばらと浜へ駈けて出る。中には舫もやった船に乗って、両手を挙げて、呼んだ方もござんした、が、最もうその時は波の下で、小雪さんの髪が乱れる、と思う。海の空に、珠の簪かんざしの影かしら、晃々きらきら一ツ星が見えました。」


十一


「その裸体はだかなのは別荘の爺やさんでございましたってね。」

「さよう治平と云う風呂番です。」と言いながら、巽の面おもては面めんの如く瞳が据った。

 灯ともしなき御神燈は、暮迫る土間の上に、無紋の白張しらはりに髣髴ほうふつする。

「爺さんが海へ飛込んで、鉛の水を掻くように、足掻あがいて、波を分けて追掛けましたわね。

 丁ど沖から一波立てて、貴方が泳返しておいでなさいます──

 あとで、貴方がお話しなすッたって……あの、承りましたには、仰向けに成って、浪の下の小雪さんが、……嘸さぞ苦しかったでしょう、乳を透して絽の紅い、其処の水が桃色に薄うっすりと搦からんでいる、胸を細く、両手で軽く襟を取って、披はだけそうにしていたのが、貴方がその傍にお寄りなさいました煽りに、すっと立って、髷に水をかぶっていて、貴方の胸へ前髪をぐっちょり、着つけました時、あの、うつくしい白足袋が、──丁ど咽喉のどの処へ潮を受けてお起ちなすった、──貴方の爪先へ、ぴたりと揃った、と申すじゃありませんか。」

 巽は框をすっくと立った!

「……吃驚びっくりなすって、貴方は、小雪さんの胸を敷いて、前へお流れなさいましたってね。」

「そして驚いて水を飲んだ、今も一斉いっときに飲むような気がします。」と云う顔も白澄むのである。

「其処を爺さんが抜切って、小雪さんを抱きました。ですけれども、最もうその時、あの妓ひとの呼吸いきは絶えていたのです──あの日は、小雪さんは、大変にお酒を飲んでいたんですってね、茶碗で飲んで、杯洗はいせんまであけたんだそうですね。深酒の上に、急に海へ入ったもんですから、血が留とまってしまったんでしょう。

 そして、死体に成ってから、貴方のお胸に縋着すがりついたんじゃありませんか、海の中で、」

 と膝を寄せる、褄が流れて、婦おんなは巽の手を取った。

 指が触ると、掌に、婦おんなの姿は頸うなじの白い、翼の青い、怪しく美しい鳥が留ったような気がして、巽の腕は萎えたる如く、往来ゆききに端近はしぢかな処に居ながら、振払うことが出来なかった。……四辺あたりを見ると、次の間の長火鉢の傍なる腰窓の竹を透いて、其処が空地らしく幻の草が見えた。

「巽さん。」

「…………」

「あの、風呂番の爺さんは、そのまま小雪さんを負おぶい返して、何しろ、水浸しなんですから、すぐにお座敷へは、とそう思ったんでしょう。一度、あの松に舫もやった、別荘の船の中へ抱下だきおろしましたわね。雫に浜も美しい……小雪さんの裾を長く曳いた姿が、頭髪かみから濡れてしおしおと舷ふなべりに腰を掛けました。あの、白いとも、蒼いとも玉のように澄んだ顔。紅も散らない唇から、すぐに、吻ほっと息が出ようと、誰も皆思ったのが、一呼吸ひといきの間もなしにバッタリと胴の間へ、島田を崩して倒れたんです。

 お浴衣じゃありましたけれど、其処にお帯みおびと一所いっしょに。」

 と婦おんなは情に堪えないらしく、いま、巽の帯に、片頬を熟じっと。……一息して、

「貴方のお召ものが脱いで置いてありました。婦おんなの一念……最もうそれですもの。……螢はお迎いに行ったんですよ。欄干にかかりました二見ヶ浦の青い波は、沖から、逢いに来たんです。

 不便ふびんとお思いなさいまし。小雪さんは一言も何にも口へは出さないで、こがれ死じにをしたんです。

 素振そぶり、気振けぶりが精一杯、心は通わしたでしょうのに、普通なみの人より、色も、恋も、百層倍、御存じの貴方でいて、些ちっとも汲んでお遣んなさらない!──否いいえ、小雪さんの心は、よく私が存じております。──

 俺は知らない、迷惑だ、と屹きっと貴方は、然そうおっしゃいましょうけれど、芸妓つとめしたって、女ひとですもの、分けて、あんな、おとなしい、内気な小雪さんなんですもの、打ちつけに言出せますか。

 察しておいで遊ばしながら、──いつも御贔屓を受けていましたものですから、池川さんの、内証の御寵妓おきにいりででもあるようにお思いなすって、その義理で、……あれだけに焦れたものを、かなえてお遣んなさらない。……

 堅気はそうじゃあござんすまい、こうした稼業の果敢はかない事は、金子かねの力のある人には、屹きっと身を任せている、と思われます。

 御酒の上のまま事には、団扇と枕を寝かしておいて、釣手を一ツ貴方にまかして、二人で蚊帳も釣りましたものを。」……と言う。

 その蚊帳のような、海のような、青いものが、さらさらと肩にかかる、と思うと、いつか我身はまた框に掛けつつ、女の顔が弗ふっと浮いて、空から熟じっと覗いたのである。


十二


「これが俳優やくしゃなの。」

「まあ。」

 しょろしょろ、浪が嬲なぶるような、ひそひそと耳に囁く声。

 松原の茶店の婦おんなの、振舞酒に酔い痴れて、別荘裏なる舫船に鼻唄で踏反ふんぞって一寝入りぐッと遣った。が、こんな者に松の露は掛るまい、夜気にこそぐられたように、むずむずと目覚めた六蔵。胴の間に仰向けで、身うちが冷える。唯と、野宿には心得あり。道中笠を取って下腹へ当あてがって、案山子かかしが打倒ぶったおれた形でいたのが。──はじめは別荘の客、巽辰吉が、一夜の宿をしようと云った、情ある言ことばを忘れず、心に留めて、六が此処に寝たのを知って、(船に苫とまを葺ふいてくれるのじゃないか。)と思った。

 舷ふなばたへ、かたかたと何やら嵌込はめこむ……

 その嵌めるものは、漆塗の艶やかな欄干のようである、……はてな、ひそめく声は女である。──

 うまれながらにして大好物。寝た振でいて目を働かすと、舷に立かかって綺麗な貝の形が見える、大きな蛤。

 それが、その貝の口を細く開いた奥に、白銀しろがねの朧なる、たとえば真珠の光があって、その影が、幽かすかに暗夜やみよに、ものの形を映出うつしだす。

「芸妓が化けたんだ、そんな姿で踊おどりでも踊っていたろう。」

 時に、そんなのが一個ひとつではない。左舷の処にも立っている。これも同じように、舷へ一方から欄干らしいものを嵌めた、かたり、と響く。

 外にもまだ居る……三四人、皆おなじ蛤の姿である。

「祭礼まつりの揃そろいかな、蛤提灯──こんなのに河豚も栄螺さざえもある、畑のものじゃ瓜もあら。……茄子なすびもあら。」

 但しその提灯を持っているものの形は分らぬ。が、蛤の姿である……と云うのが、衣服きもの、その袖、その帯と思う処がいずれも同じ蛤で、顔と見るのが蛤で、目鼻と思い、口と思うのが蛤で、そして灯ともしびが蛤である。

 襟か袖かであるらしく、且つ暗やみの綾の、薄紫の影が籠こむ。

 時にかたかたと響いて、二三人で捧げ持った気勢けはいがして、婦おんなの袖の香立蔽たちおおい、船に柱の用意があって、空を包んで、トンと据えたは、屋根船の屋根めいて、それも漆の塗の艶つや、星の如き唐草の蒔絵が散った。左舷右舷も青貝摺あおがいずり。

 六蔵は雛壇で見て覚えのある車のようだ、と偶ふと思う。

 時に、蛤が口を開いた。否いや、提灯が、真珠の灯を向けたのである、六の顔へ──そして女の声で言った。

「これが俳優やくしゃなの?」

「まあ。」

「醜きたない俳優やくしゃだわね。」

 ──ままにしろ、此奴等こいつら──と心の裡で、六蔵は苦り切る。

「まだ、来ていやしまいと思ったのに、」

「そして、寝ているんだもの、情じょうのない。」

「心中の対手あいての方が、さきへ来て寝ているなんて。」

「ねえ、」

 と応じて、呆れたように云った、と思うと、ざっと浪が鳴って、潮が退いたらしく寂寞ひっそりする。

 欄干も、屋根も、はっと消えて、蒔絵も星も真の暗闇やみ。

 直ぐに、ひたひた、と跫音あしおとして、誰か舷へ来たらしい。

 透通るような声が、露に濡れて、もの優しい湿うるみを帯びつつ、

「……巽さん。」

 途端に、はっと衣の香かと、冷い黒髪の薫かおりがした。

「ああれ、違って……違っているよう。」


十三


 蛤の灯がほんのりと、再また来て……

「お退どきよ、退いておくれよ。」

「よう、お前。」

 と言う。……人をつけ、蛤なんぞに、お前呼ばわりをされる兄哥あにいでないぞよ。

「此処は、今夜用がある。」

「大事の処なんだから。」

「よう。」

「仕ようがない。ね、酔っぱらって。」

「臭い事。」

「憎らしい、松葉で突つッついて遣りましょう。」

 敏捷すばやい、お転婆なのが、すっと幹をかけて枝に登った。呀や、松の中に蛤が、明く真珠を振向ける、と一時ひとしきり、一時、雨の如く松葉が灌そそぐ。

「お、痛いた。」

「何うしたの。」と下から云う。

 松の上なが、興きょうがった声をして、

「松葉が私を擽くすぐるわよ、おほほ、おほほ。」

「わはは。」と浜の松が、枝を揺って哄どっと笑う。

「きゃッ。」と我ながら猿のような声して笑って、六蔵はむっくと起きて、

「姉等あねえら、仕立ものの用はねえか。」と、きょとんとして四辺あたりを視みた。

 浅葱を飜かえす白浪や。

 燃ゆるが如き緋の裳もすそ、浪にすっくと小雪の姿。あの、顔の色、瞳の艶、──恋に死ぬ身は美しや、島田のままの星である。

 蛤が六つ七つ、むらむらと渚を泳いで、左右を照らす、真珠の光。

 凄じいほど気高い顔が、一目、怨めしそうに六蔵の面おもてを視て、さしうつむいて、頸えり白く、羅の両袖を胸に犇ひしと掻合かきあわす、と見ると浪が打ち、打ち重って、裳を包み、帯を消し、胸をかくし、島田髷の浮んだ上に、白い潮がさらり、と立つ。と磯際の高波は、何とてそのまま沖に退くべき。

 颯と寄る浪がしら、雪なす獅子の毛の如く、別荘の二階を包んで、真蒼まっさおに光る、と見る、とこの小舟は揺上って、松の梢に、ゆらりと乗るや、尾張を越して富士山が向うに見えて、六蔵素天辺すてっぺんに仰天した。

 這奴しゃつ横紙を破っても、縦に舟を漕ぐ事能わず、剰あまつさえ櫓櫂ろかいもない。

「わああ、助けてくれ、助船たすけぶね。」

「何うしました、何うした。」

 人目を忍んで、暗夜やみよを宮歳と二人で来た、巽は船のへりに立つと、突然いきなり跳起きて大手を拡げて、且つ船から転がり出した六蔵のために驚かされた。

 菩提所の──巽は既に詣ではしたが──其処ではない。別荘の釣舟は、海に溺れた小雪が魂をのせた墓である。

「小雪さんを私と思って。」……

 あの、船で手を取って、あわれ、生命掛けた恋人の、口ずから、切せめて、最愛いとしい、と云って欲ほしい、可哀相とだけも聞かし給え。

 御神燈は未だ白かったのに、夜の暗さ、別荘の門、街道も寝静まる、夢地を辿る心地して、宮歳のかよわい手に、辰吉は袖を引かれて来たのであった。

「へい、仕立ものの御用はねえかね。」

 きょろん、とした六蔵より、巽が却って茫然とした。

 宮歳の姿は、潮の香の漾ただよう如く消えたのである。

 別荘の主人池川の云うのには、その宮歳は、小雪と姉妹のように仲のよかった芸妓である。

 内証ながら、山田の御師おし、何某なにがしにひかされて、成程、現に師匠をしている、が、それは、山田の廓、新道の、俗に螢小路と云う処に媚なまめかしく、意気である。

 言語道断、昨夜ゆうべ急に二見ヶ浦へ引越して来る筈はない!

 扨さて翌朝の事であった。

 電話で、新道の一ある茶屋へ、宮歳の消息を聞合せると、ぶらぶら病で寝ていたが、昨日急に、変へんが変かわって世を去った。

 ──写真を抱いていましたよ、死際に薄化粧して……巽さんによろしく……──

 その時、別荘の座敷の色は、二見ヶ浦の、海の蒼いよりも藍であった。

 簾に寄る白浪は、雪の降るより尚なお冷い。

 その朝、六蔵も別荘の客の一人であった。が、お先ばしりで、衆ひとと一所いっしょに、草の径こみちを、幻の跡を尋ねた──確に此処ぞ、と云う処に、常夏がはらはら咲いて、草の根の露に濡れつつ、白檀の蒔絵の、あわれに潮にすさんだ折櫛が──その絵の螢が幽に照てった。

 松に舫った釣舟は、主人あるじの情なさけで、別荘の庭に草を植え、薄、刈萱かるかや、女郎花おみなえし、桔梗ききょうの露に燈籠を点して、一つ、二見の名所である。

(『新小説』一九一六[大正五]年四月号)

底本:「文豪怪談傑作選・特別篇 鏡花百物語集」ちくま文庫、筑摩書房

   2009(平成21)年7月10日第1刷発行

初出:「新小説」

   1916(大正5)年4月号

※「一寸」に対するルビの「ちゃと」と「ちょっと」の混在は、底本通りです。

入力:門田裕志

校正:砂場清隆

2018年9月28日作成

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