大岡政談
尾佐竹猛校訂



解題


法學博士 尾佐竹 猛


 古來名判官といへば大岡越前守にとゞめをさすが、その事蹟といへば講談物や芝居で喧傳せられて居るのに過ぎないので、眞の事蹟としては反つて傳はつて居るものは少いのである。

 所謂大岡裁判なるものは、徳川時代中期の無名の大衆作家の手に成り、民衆に依つて漸次精練大成せられて、動かすべからざる根據を植付けられたのであるから、その生命は最も永いのである。我國に於ける大衆文藝として最も優れたるものゝ一つである。

 その何が故にかゝる聲譽を得たかといへば、これは我國の文藝に乏しき探偵趣味のあるのが、その主たる原因である。

 古い處では青砥藤綱はあるが、これはあまりに古く、また事柄も少いから、一般人士の耳には入りがたい、さりとて本朝櫻陰比事の類はあるが、これは支那種でもあり、少し堅過ぎる。大岡物はこの間にありて異彩を放つて民衆向である。中には支那種の飜案物もあるが巧みに其種を知らしめざる程日本化して居る。それに當時の民衆の最も敵としまた最も非難多き奉行の處置振りに慊らざるものは理想的の大岡物を讀んで、密に溜飮を下げたといふのも、大岡物を謳歌する一理由ともなつたであらう。

 しかし嚴格にいふときは大岡裁判は探偵趣味といふよりは、寧ろ裁判趣味といつた方が適當である。巧妙なる探偵術に依つて犯人を搜査するといふよりも、法廷に曳かれて白状せざる奸兇の徒を如何にして白状させたかといふことに、興味がかゝつて居るのである。勿論その白状さす爲めには種々の探偵術を用ひて居るが、物語の骨子は證據はあつても白状せぬ被告人を白状させる處に、大岡越前守の手腕を見るのである。

 これは徳川中期の産物であるから、かゝる作品が出來たのである。犯罪の搜査も裁判も町奉行の職權であるから、與力同心さては目明し岡ツ引輩の探偵の巧妙だけでは町奉行は光らない。否その巧妙な探偵もこれは奉行の指圖から出るのが原則であるから、町奉行の手柄としては白状させることに重きを置かなくてはならぬ。

 それに當時は拷問を用ふることは當然とされて居つたが、それも漸次進んで、今日の言葉でいへば、拷問は訴訟手續であつて、證據方法では無いのである。即ち證據を得る爲めに拷問するのでは無くて、證據が十分あつても白状せぬものを白状させる爲め、換言すれば如何に證據十分でも本人が白状せぬ以上は裁判することは出來ぬから、その手續を完結する爲め、拷問を用ふるといふのが、當時の法制の原則であつた。

 そこで奉行は證據を集めつゝ、その證據に基いて白状せしむるといふのが、大岡裁判物の狙ひ所である。

 また一面、當時の裁判の實相といへば、奉行の實權は與力に、與力は同心に、同心は目明し岡ツ引の徒に、漸次權力は下推し、奉行は單に形式的に裁判し、盲判を押すに過ぎなかつたから、こゝに明斷察智の超人的奉行を主人公とし、その縱横の材幹に由り、疑獄を裁斷するといふことが時流に投じたのである。

 古くは最明寺時頼の廻國物語、近くは水戸黄門の廻國記の如き、密に諸國の人情風俗、政治の良否を知り、是非を裁斷するといふ英雄崇拜の片影ともいふべき物語が、民衆の頭に成長しつゝあつた處へ、わざ〳〵廻國はせなくても、一大理想的奉行があつて、淨玻璃の鏡に照すが如く、如何なる疑獄難獄も解決するといふ物語の出現したのであるから、大向ふの喝采するのも尤である。それに實際大岡越前守は事務に練達湛能の能吏であつたから、これを理想的に祭り上げ何んでも箇でも持つて行つて、名判官一手專賣としたのも、自然の勢である。

 こゝに於てか、大岡越前守は理想的名判官として民衆の間に活きて居るのである。

 そこで、所謂大岡裁判なるものに付て述べんに、大岡裁判を書いたものは板本に「大川仁政録」があり、寫本には「板岡實録」「大岡板倉二君政要録」「大岡政要實録」など數種あり、また一事件毎に單行本として傳はつて居るものがある。講談の種本は概ね此單行本である、或は講談物を單行本としたかと思はるゝものもある、また「大岡政談」「大川政談」として殘つて居るものもあるが、これは右の單行本を纒めたものらしい。大岡政談といへる始めからの一册本が後に數種の單行本と分れたものと見るよりも、寧ろ單行本を纒めたのが大岡政談といふ方が正しいやうである。謂はゞなんでも名裁判物語を書き立てゝ、これを大岡越前守に持つて行くから、一層これを纒めて一册にしたならばといふのが大岡政談らしい、後には件數に依り「大岡十八政談」といつたものもある。こんな工合であるから「大岡政談」といつても各事件毎に文體筆勢が異り、記述の態樣も區々であるが。多年無名の民衆に依つて作り上げられたる眞の大衆向のものであるから、幾多の大岡物の内からこの「大岡政談」を採録したのである。

斯く大岡物にも幾多の種類があるから、その事件の數も各書に依つて異同がある。内田魯庵氏が

大岡政談が越前守以前の「櫻陰秘事」更に又以前に遡つた傳説野乘の作り換へであるのは誰も氣が附く、其の中にソロモン傳説が混入して居るのは必ずしも伴天連僧の持つて來たもので無く、或は亞剌比亞や波斯を經由して支那から傳はつたものであるかも知れぬが、切支丹僧が多くの傳説や神話を授けたのは爭はれない。(日本文學講座第十八卷「日本の文
學に及ぼしたる歐洲文學の影響」
)

の所謂ソロモン傳説たる、二人の女親と稱する女に子供の兩手を引張らせて眞僞を判じた事件はこの政談の中に入つて居ないから割愛するが、通常「大岡政談」に收められてあるものは、

天一坊、白子屋お熊、烟草屋喜八、村井長庵、直助權兵衞、越後傳吉、傾城瀬川、畔倉重四郎、小間物屋彦兵衞、後藤半四郎、松田お花、嘉川主税、小西屋、雲切仁左衞門、津の國屋お菊、水呑村九助

の十六件である。

 この内最初の天一坊一件は大岡裁判の中最も有名で、この事件の爲め大岡越前守が立身した如く喧傳せられて居るが、その實大岡越前守に關係はないのである。尤もこの事件と相似たものに、關東郡代伊奈半左衞門の手で審理せられたるのがあるから、これを大岡越前守に持つて來たとも見られるから、その事件の概略を述ぶれば

天一坊惡事露顯の端緒は享保十四年三月五日の事とかや浪人本多儀左衞門、關東御郡代伊奈半左衞門の屋敷に來り、當御支配内の儀に付御用役衆へ御意得たくと申出、半左衞門用人遠山郡太夫面會の處、儀左衛門申樣、下品川宿秋葉山伏赤川大膳方に居られ候源氏坊天一と申すは、當上樣の御落胤にて、大納言樣御兄の由、内内に日光御門主まで仔細申上られ、既に上聞にも達し、御内々一萬俵つゝ御合力米下し置かるゝ由申弘め、浪人共多分御抱入に付、我等も目見いたし奉公相望候てはと申勸るものあり、右源氏坊は全く左樣の御方にて候や、御支配内の儀に付此段内々御樣子承度との儀なり、郡太夫聞て大に驚き、そは怪しからぬ次第なり、支配内に左樣の疑しきもの罷在事是まで少くも存ぜず候、貴殿御咄にて初めて承り候、最早其儘には捨置がたく早速吟味を遂ぐべく、御迷惑ながら其許を勸めたるものも其許も掛合にて候間、名前書出すべく左樣御心得あるべしと申すに儀左衛門仰天なして早々歸りたり。郡太夫は直に此事を主人半左衛門へ申聞、早速品川宿名主年寄を呼出して吟味に及びし處、成程去年以來大膳方に富貴なる山伏居候へども、大納言樣御兄とか又は浪人召抱の沙汰は更に承はらず、其故御話も申上ず候との答なり。郡太夫、其山伏事御用の仔細あり、取逃しては相成らず、直樣立歸り逃げざる樣心付べしと申渡し、自分も組子引連、後より品川宿へ出張なし、山伏常樂院方に赴き、源氏坊天一と云へるもの住居致すやと尋ねければ、手前屋敷の裏に住居罷在と答へたり、即ち常樂院を案内に天一居宅に至り見れば、中々に構造も美を盡し、室内に裝置せし諸道具類は皆花葵の蒔繪紋散しにして、座敷の上手には一段高く上げ疊をなし、何樣將軍家の御由緒にてもあるべく思はれたり。程なく天一、白紗綾の小袖に白無垢を重ね、着用して出でけり。郡太夫慇懃に口上を演べ、主人半左衛門儀御尋ね申度仔細あり御同道致すべき樣に申付候、其儘御越し成さるべくと申すに、天一聊か躊躇の氣色もなく、畏り候と傍なる大小刀をも渡したり。郡太夫天一を駕籠に乘せ、常樂院をも共々召連て屋敷へ歸りければ、半左衛門早速對面なせしが、最初の程は將軍家御落胤の虚實も分明ならざりし故、待遇言葉遣も丁寧になし、一室にて密々の取調なり、常樂院をはじめ關係の諸浪人共をも召出して一應訊問に及びし處、全く詐欺なりとの見込ありて、遂に評定所一座吟味となり、夫々取糺せし所、此天一の母は紀州田邊の者にて名をよしと稱し、紀州侯家中某方に奉公中、主人の寵を受けて妊娠なし、若干の手當金を貰ひ郷里に歸りし後、男の子を生み落したり。是則ち天一にて幼名を半之助と稱し、四歳の時母諸共叔父の徳隱といへるもの、江戸橋場總泉寺末某寺の住職たりしを手寄りて出府なし、其世話にて母子共に淺草藏前町人半兵衛方へ縁付しが、天一十歳の時母病死なし、其砌養父半兵衛も身代取續がたき事ありて家をたゝみ、天一は徳隱の弟子となし、自分は何處ともなく廻國六部と成て出たり。母の存生中常に天一への物語に、其方は元來下賤の身の上ならず、歴々由緒あるものゝ胤なれば、何卒して武家に取立たくと申聞け、由緒書もありて叔父徳隱の預り居たりしが、享保六年火災に逢うて燒失せり。其由緒書の内に源氏とありしより、徳隱取て源氏坊天一と名乘らしめしとぞ。然るに徳隱は享保十二年病死せし故、天一傳手を求めて修驗堯仙院の弟子となりたり、天一幼年の時より酒を嗜なみ酒僻ありし故、叔父徳隱存生中は堅く戒めて飮せざりしに、死去の後は頭の押へ手なきより常に大酒を飮み、我が由緒の歴々なるを誇り散らして亂妨に及ぶこと度々なりければ、堯仙院も幾んど持餘し、寺社奉行へ召連出て懲戒を請ひたりしが、酒狂の上なれば能々意見を加へよとまでにて差たる咎もなかりけるより、天一彌〻増長なし、畢竟我が身分の歴々なる故公儀にても御咎なしと猶も大言を吐て更に愼む樣子なければ、堯仙院も捨置がたく、孫弟子の品川常樂院に仔細を云ひて預けたりしが、此常樂院中々の横着者にて、天一が紀州にて生れ由緒ありと云ふを奇貨として惡計を廻らし、終に將軍吉宗公紀州潜邸の時の御落胤なりと僞り、内々は日光御門主より上聞に達せられ、既に一萬俵づつの御合力米をも下され、追付表向の御對面、御披露もありて御三家同樣の大名にも御取立成さるべき御内意ありたり。抔と觸廻りて金銀を借入又は諸浪人どもを抱へて、夫々の役向をも定めたり。即ち常樂院は自ら家老となり赤川大膳と稱し、其他南部權太夫、本多源右衛門の兩人を用人となし或は番頭、旗奉行、槍大將又は大目附、町奉行、勘定奉行、小納戸役、近習、使番抔種々役々を申付しもの數十人に及び、次第に世間へも聞え、終に浪人本多儀左衛門の口より洩れて惡事露顯に及び一同逮捕せられて刑に處せられたり。

四月二十一日於評定所申渡之覺
天一坊改行
酉三十一

僞の儀どもを申立浪人共を集め公儀を不憚不屆に付死罪の上獄門に行ふもの也

常樂院

改行申旨に任せ浪人共集候儀其分に仕改行宿を仕所の役人へも不屆重々不屆に付遠島申付るもの也

本多源左衛門
南部權太夫
矢島主計

改行慥成儀も不糺身非一人無筋儀を申觸し浪人大勢引付公儀を不憚仕方不屆に付遠島申付るもの也

これが天一坊事件の梗概である。

 次に「白子屋阿熊一件」これは實際大岡越前守の取扱つた事件である。芝居でする「お駒才三」である。

 お熊が引廻しの際、上に黄八丈の大格子、下着は白無垢、髮は島田に結ひ上げ薄化粧さへ施し、手には水晶の珠數をかけ馬上に荒繩で結られて行く凄艷なる有樣は好箇の劇的場面であつた。本文に

此時お熊の着たるより世の婦女子、黄八丈は不義の縞なりとて嫌ひしは云々

とあるのは眞實である。

「煙草屋喜八一件」は『耳袋』にある。「煙草屋長八」の事件に似て居る。長八一件ならば大岡越前守より後の依田豐前守正次の江戸町奉行在勤中の事柄にて勿論大岡越前守に關係が無い。

「村井長庵一件」これは架空の物語である

「直助權兵衛一件」これは實在の事件である。

本書に

近き頃まで、諸所の關所に直助が人相書有りしを知る人に便りて見たる事あり、云々

とあるは眞實で、有名な事件であつた爲め、芝居の「四谷怪談」に「直助權兵衞」といふ一人物あるは、此事件からの思ひ付きである。

「越後傳吉一件」は大岡に關係なく、津村宗庵の「譚海」中にある物語である。これが後には「鹽原多助」の粉本にもなつて居る。

「傾城瀬川一件」は吉原耽美の風潮に迎合した小説である、本文に

遊女が鑑と稱られ夫が爲め花街も繁昌せし由來を尋るに云々

とあるのが作者の本音であらう。

「畔倉重四郎一件」これは伊奈半左衞門の取扱つた事件と傳へられ居り、そのことも多少疑問はあるが、兎に角大岡には關係の無い事件である。

「小間物屋彦兵衞一件」は支那種の飜案である。

「後藤半四郎」「松田お花」「嘉川主税」はいづれも文士の筆の先で出來た物語に過ぎぬ。

「小西屋一件」これは支那種で、同種の飜案に「會談與晤門人雅話」がある。

「雲切仁左衞門」「津の國屋お菊」はいづれも小説、「水呑村九助一件」は支那種に近世的探偵趣味を多分に盛つてある。特にその首と屍のことは「棠陰比事」の『從事函首』から出て居ることは明白である。

「大岡政談」の正味を一々檢討すれば以上に述べた如くである。

しかしなにしろ、多年大衆向きとして、講談に芝居に叩き上げられたことなれば、益〻精練せられて今では殆んど確定的の事實として、大岡越前守の名奉行振りを稱へられて居る。謂はゞ大衆向きの作品としてこれ程大なる價値を有するものは無い。

 さればとて、大岡政談が悉く事實でないから大岡越前守は凡庸の町奉行に過ぎなかつたかといへば、さうでは無い、町奉行二十年寺社奉行十六年といふ勤續である。この多年の經驗だけでも他に比肩するものは無い。啻に奉行といはず他の如何なる職でも、これ程永く勤續したものは無い。これ丈けでも立派な模範官吏である。しかも太平の世の中に何等の武勳無くして、六百石の旗本から一萬石の大名に陞進したのである。徳川時代としては空前絶後の出身といつても可なる程目醒しい昇進振りである、如何に事務に練達湛能であつたかを知るべきである。

 その一生の事蹟を仔細に研究すれば、行政上の治蹟が著名であつて、反つて司法上の事蹟に付てはさまで顯揚して居らぬのは、世評と正反對の奇なる現象である。これは一體に行政事務は華やかで、司法事務はヂミなのが常であることは今日でも同じである。大岡の江戸町奉行に就任した際は、市政も未だ整つて居らなかつたときであつたから、充分腕を振ふ餘地もあり、從つて其事業も華々しかつたのである。司法に關しては法典編纂の一人として、「科條類典」即ち徳川初期よりの法令並に先例判決例を蒐集したもので、徳川氏最初の立法事業に干與して居る。それから個々の裁判例に付ても幾多の法律問題に苦心したことの見るべきものが多い。司法事務本來の性質としてヂミな骨の折れる職務に數十年從事したといふこと丈けでも充分立派な明判官たる資格があるのである。所謂大過なくして永年勤務したといふこと夫れ自身が非凡なる人材である。

 世人は往々にして大岡時代は法律の適用解釋が自由であつたから、理想的の裁判が出來たといふものがあるが、遵據すべき正確なる條文無き時代に事相に適する裁判を爲すことは反つて骨が折れるのである。立派な條文が完備して居れば寧ろ裁判には樂であるともいひ得られるのである。況んや法律の解釋適用は自由なりとはいひながら、故例格式の八釜しかつた幕府時代に於ては、その無意味の桎梏の力強くこれを打破するに足る法理の無かつたことは、或は觀方に依つては法律の解釋適用は今日よりも不自由であつたともいひ得らるゝのである。然るにも拘はらず永く名判官の名聲を維持して、昇進したのは偉材といはねばならぬ。

 本書の首卷に「大岡越前守出世の事」の一卷がある、これは何等かの隨筆物などの一節で、この記事が大岡越前守の事蹟の全體若くは逸事であつたものが、後に他の幾多の物語が出來た爲め、茲に首卷として採録したものらしい。その始めに

當世奉行役人百姓を夜中にてもかまはず呼出し、腰かけに苦勞させ、おのれら我意に任せて退出後にゆる〳〵休息し、酒盛などして夜に入て評定し又もなかれて歸すなど云々

とありて、時の裁判振りを慨する徒輩が、大岡裁判に假託して時事を諷したとも見らるゝが、この首卷の中の事柄は眞實の事らしい。猶ほ官歴のことも書いてあるが、十分でないから、左にその大要を掲げんに

延寶五年江戸に生る、大岡美濃守忠高の四男、幼名求馬

貞享三年十二月 大岡忠右衞門忠眞の養子となる、十歳

貞享四年 通稱を市十郎と改め、忠相と稱す、十一歳

元祿十三年七月、養父病死、家督を相續し、養家歴代の通稱忠右衞門と改む。六百石寄合旗本無役、二十四歳

元祿十五年五月、御書院番士  二十六歳

寶永元年十月 御徒頭  二十八歳

同  年十二月 布衣

同 四年八月 御使番  三十一歳

同 五年七月 御目附  三十二歳

正徳二年正月 伊勢國山田奉行

  同年三月 從五位下 能登守

この時山田に赴任し、有名なる紀州領と松坂の住民との訴訟を裁判し、後年江戸町奉行に榮轉の素地を爲したのである。しかしこゝに注意すべきは山田奉行といふからには、田舍の區裁判所判事の如く思ひ、從つて江戸町奉行の轉任は未曾有の拔擢の如く考へるものがあるが、山田奉行の地位は伊勢神宮所在地なるが爲め、重要なる地位である。故に從五位下能登守と叙爵したので、謂はゞ指定地の勅任所長ともいふべきで、それが、東京地方裁判所長に轉任したのであるから、榮轉は榮轉であるが、未曾有の榮轉といふ程でもない、即ち能登守が越前守に轉じた叙爵の形式から見ても想像がつく、

享保元年二月 御普請奉行 歸府 四十歳

同 二年二月 江戸町奉行、越前守 四十一歳

同 十年九月 二千石加賜、遺領と併せて三千七百二十石 四十九歳

元文元年八月 寺社奉行 二千石加賜 猶ほ廩米四千二百八十俵を足高とし、一萬石の高となし、大名の格式となる、六十歳

同年十二月 雁の間席並

寛延元年閏十月 奏者番 寺社奉行故の如し、從前の足高廩米を廢し更に四千二百八十石加賜、全く一萬石藩列に入る、七十二歳、三河國額田郡西太平を居所とす。

寶暦元年十一月病の爲め職を辭す、寺社奉行を免じ奏者番を許されず

此年十二月十六日薨ず、享年七十五歳、法名松運院殿興譽仁山崇義大居士

墓は神奈川縣高座郡小出淨見寺にあり、裏面には「御奏者番寺社奉行俗名大岡越前守藤原忠相行年七十五歳」と刻してある。また別に、芝區三田聖坂功運寺にも墓がある、これは後年追墓合葬したもので、數多の戒名があり、右より五番目に「松運院殿前越州刺史興譽仁山崇義大居士、寶暦元年辛未十二月十六日」と刻してある。功運寺は其後、府下野方町に移轉し、淨見寺は大正十二年の大震災にて大破したから、有志に於てこれが修繕の擧ありと聞く。

 淨見寺の東南、土地高濶遙かに富士山を望み要害の地がある、これは大岡氏の陣屋址で、二代目忠政の時こゝに土着したが、後江戸に移住したのである。

 大岡越前守は曩に從四位を贈られたが、これは主として民政上の功に依る。とのことである、司法官としての功績に付ては未しであるのは遺憾である。

大正四年十一月四日 穗積陳重博士淨見寺の墓に詣でて

問ひてましかたりてましをあまた世を

         へたてゝけりな道の友垣

と詠ぜられ、穗積八束博士また參詣せられた、この二大法曹の參詣を受けては地下の大岡越前守も定めて滿足したであらう。

──解題終──

大岡政談首卷

大岡政談おほをかせいだん首卷しゆくわん


大岡越前守出世しゆつせの事こと


 大聖孔子たいせいこうしの曰いはく訟うつたへを聞きく事我われ猶なほ人の如くかならずうつたへなからしむとかや今いふ公事訴訟くじそしよう願ねがひ事になりたとへば孔子こうし聖人せいじんには公事訟訴くじそしよう出來たる時は諺ことわざにちゑなきとの事我われ猶人の如くと也さりながら孔子聖人奉行ぶぎやうとなつて其訴そのうつたへ自然しぜんと世の中にたえるやう天下ををさめ仁義じんぎをもつて民たみ百姓ひやくしやうをしたがへ道に落おちたるをひろはず戸さゝぬ御代とせんとなりまことに舜しゆんといへども聖人せいじんの御代には庭上ていじやうに皷つゞみを出し置おき舜帝しゆんていみつから其罪そのつみを糺たゞしあらためあしき御政事おんせいじ當時は何時にても此皷このつゞみを打うちて奏聞そうもんするに帝ていたとへば御食事おんしよくじの時にても皷つゞみの音おとを聞給ひたちまち出させ給ひ萬民ばんみんの訴うつたへを聞給ふとなりまことにありがたき事なり然るに當世たうせい奉行ぶぎやう役人やくにんは町人百姓を夜中やちうにてもかまはず呼出よびいだし腰こしかけに苦勞くらうをさせおのれら我意がいに任まかせて退出後たいしゆつごにゆる〳〵休足きうそくし酒盛さかもりなどして夜に入て評定ひやうぢやうし又もなかれて歸かへすなとよく〳〵舜帝しゆんていの御心を恐おそれながらかんがへ學まなぶへき事なり然るに舜帝のつゝみ世こぞつて諫鼓かんこのつゝみと云いふ其後そのご程ほどなく天下よく此君このきみにしたがひ徳とくになつきければ其皷そのつゞみ自然しぜんとほこりたまり苔こけを生しやうし諸鳥しよてうも來りて羽はを休やすめけるとなん此事を諫皷かんこ苔こけふかうして鳥とりおどろかずと申あへりいまもつぱら江戸えど大傳馬町おほでんまちやうより山王御祭禮さんわうごさいれいに皷つゞみの作つくりもの出し祭禮の第一番に朝鮮てうせん馬ば場ばにおいて上覽しやうらん是あるなり往古わうこ常憲院じやうけんゐんさま御代までは南傳馬町の猿さるのへいをもちし作つくりものゝ出でしを第一番に渡わたし諫皷かんこは二番に渡わたしけるが或時あるときの祭禮さいれいに彼猿かのさるの出し作つくらふひまに先へ拔ぬけたり此時よりして鳥の出し一番に渡わたるとの嚴命げんめいにて長ながく一番とはなりにけり是天下太平の功こうなり

此猿このさるの面めんは南傳馬町名主なぬしの又右衞門といふもの作つくりて主計かずへが猿さるといふよし今以て彼かの方にあるよしなり

然りといへども繁華はんくわの日夜に増ましけるゆゑ少々つゞの訴うつたへはふん〳〵として更さらにやむことなしさればこそ奉行ぶぎやうは是をえらむべきの第一也三代將軍しやうぐんの御代みよより大猷公たいいうこう嚴有公げんいうこうの兩君にまたがりて板倉いたくら伊賀守同周防守すはうのかみ同内膳正ないぜんしやうは誠まことに知仁ちじんの奉行ぶぎやうなりと萬民ばんみんこぞつて今に其徳そのとくをしたふか板倉のひえ炬燵こたつとは少しも火ひがないといふ事なり非ひと火と同音どうおんなればなり夫より後世こうせいの奉行ぶぎやういつれも堅理けんりなりといへども日を同じく語かたるべからず然るに享保きやうほの初はじめ大岡越前守忠相たゞともといふ人町奉行となつて年とし久ひさしく吉宗公に勤仕きんししける此人あつぱれ大丈夫だいぢやうふにして其智萬人にすぐれ遠とほき板倉の輩ともがらに同じされば奉行ぶぎやう勤仕きんし勤功きんこう同越前守よく〳〵上をうやまひ下を憐あはれみてすたれたるをおこしたへたるをつくろひ給ふ事誠まことに賢けんなりといふべし扨さて大岡おほをか忠右衞門とて三百石にて御書院番ごしよゐんばん勤つとめし其後そののち二百石加増かぞうあつて五百石と成を越前守家督かとくを繼つぎて御小姓組おこしやうぐみと成なる勤仕きんしの功こうを顯あらはし有章公いうしやうこうの御代に御徒頭おかちがしらとなり其後伊勢山田奉行ぶぎやう仰付られ初て芙蓉ふようの間ま御役人の列れつに入りけるなり


第二回


 諺ことわざにいはく千里の道みちを走はしる馬常つねにあるといへども是を知しる伯樂はくらくもなく其智者そのちしやにあへはなしとかや人間にんげんも又同じ忠信ちうしん義信ぎしんの人多おほくあつても其君そのきみのこゝろくらくして是を用ゆる事なくんばむなしく泥中でいちう玉たまをうづめんが如くに成なりて過るなしすべての人の君たる人はよく〳〵これ察さつすべきことなり舜しゆんも人なり我われも人なり智に臥龍ぐわりよう孔明の
事なり
勇ゆうに關羽くわんうの如きもの當世たうせいの人になからんや爰こゝに有章院殿の御代大岡おほをか越前守伊勢山田奉行ぶぎやうとなりてかしこに至り諸人しよにん公事くじに彼地かのちにて多く裁許さいきよあり先年より勢州路せいしうぢ紀州領きしうりやうの境論さかひろんの公事くじありてやむ事なし山田奉行替かはりのたび事にねがひ出るといへども今もつて落着らくちやくせず是は先來紀州殿きしうどの非分ひぶんなりといへども御三家の領分りやうぶんを相手あひてなれば御大身をおそれ時の奉行も捌さばきかねてあつかひを入て濟すますといへども扱あつかひ崩くづれ訴うつたへ出る事たび〳〵なり然るにこの度大岡越前守山田奉行やまだぶぎやうと成て來りしかば百姓ひやくしやうども又々境論さかひろんを願ひ出づるを忠相たゞとも段々聞きかれける所紀州殿きしうどの方甚はなはだ非分ひぶんなりとてあきらかに取捌とりさばきけり只今までの奉行ぶぎやういかなれば穩便をんびんにいたし置けるにや幸ひに越前守相糺あひたゞすべきなりとて紀州きしうの方まけと成て勢州山田方理運りうん甚だしかりき爰こゝにおいて年頃としごろのうつぷんを散さんじ大いに悦よろこび越前守の智ちをかんじける誠まことに正直しやうぢき理非りひ全まつたふして糸筋いとすぢの別れたるが如くなりしとかや其後正徳しやうとく六年四月晦日みそか將軍家繼公しやうぐんいへつぐこう御多界ごたかいまし〳〵則すなはち有章院殿と號し奉る御繼子けいし無なく是によつて御三家より御養子ごやうしなり東照宮とうせうぐうに御血脉けつみやく近ちかきによつて御三家の内にても尾州公びしうこう紀州公きしうこう御兩家御帶座ごたいざにて則ち紀州公上座じやうざに直なほり給ふ此君仁義じんぎ兼徳けんとくにまし〳〵吉宗公よしむねこうと申將軍しやうぐんとなり給ふ其後そのご諸侯しよこうの心を考かんがへ給ふ處におよそ奉行たる者は正路しやうろにあらざれば片時へんじも立難たちがたし其正直そのしやうぢきにて仁義じんぎのもの當世たうせいに少し然るに大岡越前守伊勢山田奉行ぶぎやうとして先年の境論さかひろんありし時いづれの奉行も我武威わがぶゐをおそれ我方非分ひぶんと知りながら是を捌さばく事遠慮ゑんりよする所彼かの越前守は奉行ぶぎやうとなつてたちまち一時に是非ぜひを糺たゞし我領分わがりやうぶんをまけになしたる段だんあつぱれ器量きりやうは格別かくべつにして智ち仁じん勇ゆう三徳とく兼備けんびの大丈夫だいぢやうふなり彼かれを我手取わがてどりに呼下よびくだし天下の政事せいじを統すべしなば萬民のためならんとの上意じやういにて則ち大岡殿を江戸へ召寄めしよせられける夫より越前守早速さつそくはせ下り吉宗公の御前へ出けるにぞ則ち忠相たゞともを以て江戸町奉行仰付られけり誠まこと君君たれば臣しん臣たるとは此事にて有るべき


第三回


 享保きやうほの初はじめの頃ころ將軍吉宗公町奉行まちぶぎやう大岡越前守と御評議ごひやうぎあつて或は農工商のうこうしやう罪つみなるものに仰付けられ追放つゐはう遠島ゑんたうの替かはりに金銀を以て罪つみをつぐのひ給ふ事初り今是過料金くわれうきんといふなり大に益えきある御仁政ごじんせい然るに賢君けんくんの御心をしらず忠臣ちうしんの奉行をしらざる輩ともがらは此過料金このくわれうきんの御政事せいじを難なんしていはく人の罪つみを金銀を以てゆうめんする事上たる人の有ましき事なり第一欲よくにふけり以の外いやしき掟おきてなり然らば金銀あるものは態わざと惡事あくじなしむつかしき時にはわづか金銀を出せば濟事すむこと也と抔など高たかをくゝり惡事あくじをなさん是却かへつて罪人ざいにん多くならん媒なかだち也とあざけりし人多しとかや是非ぜひ學者がくしやの論ろんなりといにしへより我朝わがてうの掟おきてにぞかゝる事なけれども利の當然たうぜんなり新法しんはふを立らるゝ事天晴あつぱれ器量きりやうといひ其上唐土もろこしにも周しうの文王民たみ百姓の罪つみあるものを金銀を出させて其罪そのつみをつぐなうとあれば聖人せいじんの掟おきてにも有事なり然らば惡あしき御政事ごせいじにてはなきと决せり又非學者ひがくしやの難なんじて曰いはく文王は有徳うとくな百姓町人の罪つみ死しけいに非あらざるものを過料くわれうを出ださせて其金銀を以て道路だうろにたゝずみ暑寒しよかんをしのぐ事あたはざるもの飢餲きかつにうれふるものには其金銀を與へてくるしみを除のぞき給ひしが當時たうじのありさまを見るにさしてこゝ一日人を救すくひ給ふ事もなし皆みな公儀こうぎの用意よういなるはいかにと言いひ是又上の御賢慮ごけんりよ奉行ぶぎやうの良智りやうちをしらざるゆゑなりその者よびとひて聞せん今江戸其外そのほか所々より出す過料くわれう金銀は公儀こうぎに御入用抔などには決けつして用もちひ給ず唯たゞ橋はし道等みちとうの御修復金ごしゆふくきんと成る多くは橋はしの普請ふしんのみ入用に成事なり是にて飢うゑ凍こゝゑる人を救すくふ道利だうりにてみな此内にこもる聖君せいくんの御賢慮ごけんりよ御いさをし也

橋はし功徳經くとくきやうにいはく

 渡わたりに船ふねを得えたるが如く暗夜あんやにともし火を得えたるが如なり將はた經文きやうもんの心を得えたるが如く也此經文きやうもんの心にて見ればうゑたるもの食しよくを得たるか旅人りよじんのこめなればひとへに裸はだかなる者衣類いるゐを得たるか如くにてあれはこゝえる人に衣ころもを下さるをなさけに同じ事なりうゑたるもの食を得たるが如くとあれば御憐愍ごれんびんの御政事爰こゝを以て知るべし有ある時とき常憲院樣さま五十の賀がの時何をもつて功徳くどくの長ちやうと成べきと智化ちけの上人へ桂昌院樣けいしやうゐんさま一位樣御尋おんたづね遊ばされしに僧侶そうりよ答こたへて申上げるは凡およそ君たる人の御功徳くどくには橋はしなき所へ橋をかけ旅人りよじんのわづらひを止め給ふ事肝要かんえうならんと申ければ則すなはち兩國橋りやうごくばしと永代えいたいとの間へ新大橋しんおほはしを懸かけられ諸人の爲ために仰付られけるとかや右過料くわれうの御政事ごせいじ圖づに當りて誠まこと諸人しよにんの爲と成て可なりしとかや江戸池いけの端はた本門寺ほんもんじは紀州の御菩提所ごぼだいしよなれば吉宗公と御簾中ごれんちう本門寺ほんもんじ御葬送ごさうそうを被遊て源徳院殿げんとくゐんでんと號し奉るなりよつて去頃さるころ家重將軍いへしげしやうぐん是へ爲成候に付御成まへ俄にはかにあたら敷御成門おなりもんとして出來ければ淨土宗じやうどしうのともがら是をねたみ御成門へ夜よの内に大文字じにて祐天風いうてんふうの南無阿彌陀佛なむあみだぶつと書かきたり誰たれとも知れざれども不屆ふとゞきの仕方しかたなりよつて御成門なりもんを又々改あらため新あらたに立直たてなほし奉行所ぶぎやうしよへ申上て昨夜さくや御成門へ徒いたづら仕りしが南無阿彌陀佛なむあみだぶつと書しは淨土宗じやうどしうのともがらねたみしと相見あひみえ申候如何計申べしや何卒なにとぞ公儀こうぎ御威光ゐくわうを以て徒いたづら者これなきやう仰付られ下し置れ度願ひ奉るとぞ訴うつたへおけるが大岡越前守是を聞給ひもつともの願ひなり御成門の儀ぎは大切にかきりなし夫をわきまへずして大膽だいたんの者ども不屆千萬ふとゞきせんばん言語同斷ごんごどうだんの致し方なり然しながら御門の事なれば其方ともにも嚴敷きびしく取計も成難なりがたし斯かくせよとて大岡殿白紙はくしへ一首の狂歌きやうかをなされ是を御門へ張はるべしとなり

其狂歌きやうかにいはく

西方さいはうのあるじと聞し阿彌陀佛あみだぶつ

       今は法花ほつけの門番もんばんとなる

斯かくの如く遊されて本門寺ほんもんじへ渡し是を御門へ張置はりおくべしと仰渡おほせわたされけり依よつて右の狂歌きやうかを張置はりおきければ是に恥はぢて重かさねてさやうないたづらをばせざりしとかや


大岡政談首卷終

天一坊一件

天一坊てんいちばう一件いつけん


第一回


 下野國しもつけのくに日光山につくわうざんに鎭座ちんざまします東照大神とうせうだいじんより第八代の將軍しやうぐん有徳院吉宗公いうとくゐんよしむねこうと稱しようし奉たてまつるは東照神君とうせうしんくんの十一男なん紀伊國きいのくに和歌山わかやまの城主じやうしゆ高たか五十五萬石を領りやうする從じゆ二位ゐ大納言光貞卿だいなごんみつさだきやうの三男なんにて幼名えうみやうを徳太郎とくたらう信房のぶふさと稱しようし後のちに吉宗よしむねと改あらたむ御母おんはゝは九條前關白太政大臣くでうさきのくわんぱくだじやうだいじん第四の姫君ひめぎみお高たかの方かたにて御本腹ごほんぷくなり

假令たとへ三家方さんけがたにても奧方おくがたは江戸えどに在あるべき筈はずなり紀州にての御誕生ごたんじやうを本腹ほんぷくなりとは大納言光貞卿だいなごんみつさだきやう紀州きしう和歌山わかやまにて大病たいびやうにつき奧方おくがた國元くにもとへ入いらせられ直ぢきに看病遊かんびやうあそばされたきよし度々たび〳〵の願ひ先例せんれいにはなく共とも格別かくべつの家柄いへがらゆゑ聞濟きゝずみに成り國許くにもとへ登のぼらせられ御看病遊ごかんびやうあそばし平癒へいゆの後ご懷姙くわいにんなる故ゆゑ和歌山にて御誕生ごたんじやうありしなり

扨さて奧方ある夜の夢ゆめに日輪にちりん月輪ぐわつりんを兩手りやうてに握にぎると見給みたまひ是より御懷姙ごくわいにんの御身おんみとはなり給ふ

夢ゆめは五臟ござうのわづらひといひ傳つたふれども正夢しやうむにして賢人けんじん聖人せいじん或は名僧めいそう知識ちしきの人を産うむは天竺てんぢく唐土もろこし我朝わがてうともにその例ためし少すくなからず已すでに玄奘法師げんさうほふしは夢を四ツにわけ一に現夢げんむ二に虚夢きよむ三に靈夢れいむ四に心夢しんむとす現夢げんむとはうつゝまぼろしのごとく見ゆるをいふ虚夢きよむとは心魂しんこんの勞つかれよりして種々しゆ〴〵樣々さま〴〵の事を見るをいふ靈夢れいむとは神靈しんれい佛菩薩ぶつぼさつの御告おんつげをかうむるをいふ心夢しんむとは常つね平生へいぜいこゝろに思ふ事を見るをいふなりこの時奧方おくがたの見給ふは靈夢れいむにして天下の主將しゆしやうに成なるべき兆さがを後々のち〳〵思ひしられたり

奧方おくがたにはあまりふしぎなる夢なれば迚とて大納言光貞卿に告給つげたまへば光貞卿深ふかく悦よろこびこの度懷姙くわいにんの子男子なんしならば器量きりやう勝すぐれ世に名を上あぐる程のものならんと仰おほせありしことなり頃ころは貞享ていきやう元甲子きのえね正月廿日卯うの刻こく玉の如くなる御男子ごなんし誕生たんじやうまし〳〵ければ大納言光貞卿をはじめ一家中いつかちう萬歳まんざいを祝しゆくし奉つれり奧方看病かんびやうのため國元くにもとへいらせられ若君わかぎみ誕生たんじやうにては公儀こうぎへ對し憚はゞかりありとて内々ない〳〵にて養育やういくのおぼし召めしなりまた大納言光貞卿は當年たうねん四十一歳にあたり若君わかぎみ誕生たんじやうなれば四十二の二ツ子なり何いかなる事にや昔むかしより忌いみきらふ事ゆゑ光貞卿にも心掛こゝろがかりに思召おぼしめしある日家老からう加納將監かなふしやうげんをめし其方そのはうの妻女さいぢよ近ちかき頃安産あんざんいたせしと聞及ぶ然しかるに間もなく其兒そのこ相果あひはてしよし其方は男子なんしの事なれば左程さほどにも思ふまじけれども妻女さいぢよは定めて懷ふところさびしくも思ふべし幸さいはひこの度出生しゆつしやうせし徳太郎は予よが爲には四十二の二ツ子なり依よつて我手元わがてもとにて養育やういく致し難し不便ふびんには思へども捨子すてごにいたさんと思ふなりその方はう取上とりあげ妻女の乳を以て養やしなひくれよ成長せいちやうの後其方に男子なんし出産しゆつさんせば予が方へ返かへせ若もし又また男子なくばその方の家名かめい相續さうぞくいたさすべしと仰おほせありければ將監しやうげん謹つゝしんで忝かたじけなくも御本腹ごほんぷくの若君を御厄年おやくどしの御子なりとて某に御養育ごやういくを命ぜらるゝ儀有がたく存ぞんじ奉つる然しかしながら上意のおもふき愚妻ぐさいへ申聞かせ其上にて御請仕おんうけつかまつりたし小兒せうに養育やういくの儀は偏ひとへに女の手に寄處よるところにて私しの一存に行屆ゆきとゞき申さずとて急いそぎ御前を退しりぞき宿へ歸りて女房にようばうに御内命ごないめいの趣おもぶきを申し聞せければ妻女大おほいに悦よろこびさりながら御本腹ごほんぷくの若君わかぎみを我々が手に下されん事は勿體もつたいなし御幼年ごえうねんの内は御預おあづかり申上あげ御成長遊ごせいちやうあそばし候後は太守樣たいしゆさまの御元へ御返おんかへし申上何方いづかたへなりとも然るべき方へ御養子ごやうしに入らせらるゝ樣に御取計おんとりはからひ有て宜よろしかるべし當家たうけ相續さうぞくなどとは思ひも寄らず私し今日より御乳おちゝを奉つりて御養育ごやういくを申上んといふにぞ將監しやうげんも道理もつともなりと同心し早速さつそく御前へ出て妻さいが申せし趣おもむきを言上に及ぶに光貞卿深ふかく悦よろこび然らば暫しばらくの内其方へ預あづけ置おくべしとて城内二の丸の堀端ほりばたに大木たいぼくの松の木あり其下へ葵紋あふひもんぢらしの蒔繪まきゑの廣葢ひろぶたに若君を錦にしきにつゝみ女中一人外ほかに附つきの女中三人添そひの捨子すてごとし給ふ加納將監は乘物のりものを舁かゝせ行き直樣すぐさま拾ひろひ上乘物のりものにて我家わがやへ歸り女房に渡わたして養やしなひ奉つりぬ加納將監は本高ほんだか六百石なるが此度このたび二百五十石を里扶持さとふぢとして下し置おかれ都合つがふ八百五十石と成なりいよ〳〵忠勤ちうきんを盡つくしけり爰こゝに徳太郎君とくたらうぎみは日を追おつて成長せいちやうまし〳〵器量きりやう拔群ばつくんに勝すぐれ發明はつめいなれば加納將監夫婦ふうふは偏ひとへに實子の如く寵いつくしみ育そだてける扨さて或日あるひ徳太郎君に附つきの女中みな集あつまり四方山よもやまの咄はなしなどしけるが若君には御運ごうん拙つたなき御生おうまれなりと申すに徳太郎君御不審ごふしんに思おぼしめし女中に向ひ其方ども予が事を不運ふうんなりとは何故ぞと仰せければ女中ども若君わかぎみには實じつは太守たいしゆ光貞卿の御子にておはし候へ共四十二の御厄年おやくどしの御子なりとて御捨遊おすてあそばされしを將監御拾おひろひ申上將監の子と成ならせ玉ひしは御可憐いたはしき御事なり御殿ごてんにて御成長遊あそばし候へば我々とても肩身かたみひろく御奉公ごほうこうも勤つとむべきに殘念ざんねんの事なりと四人ともども申上しを聞しめし然しからば予は太守光貞卿の子とやと仰おほせありしが夫それよりは將監が申事も御用おんもちゐなく殊ことの外ほか我儘わがまゝ氣隨きずゐに成せ給へりある日書院しよゐんの上段に着座ちやくざまし〳〵て將監々々〳〵〳〵と呼よばせ給ふ聲こゑきこえければ將監大いに驚おどろき何者なるや萬一もし太守たいしゆの御出にもと不審ふしんながら襖ふすまを少し明あけけるにこは何いかに徳太郎君には悠然いうぜんと上段に控ひかへ給ふ將監この形勢ありさまを見て大いに驚おどろき其方は狂氣きやうきせしか父に向ひて無禮ぶれいの振舞ふるまひ何と心得居るやと申ければ徳太郎君仰おほせけるはいかに隱かくすとも予は太守光貞みつさだの子なり然れば其方は家來けらいなるぞ以後はさやう心得こゝろえよと仰ありて是迄これまでは將監を實じつの親おやの如く敬うやまひ給ひしが其後は將監々々と御呼およびなさるゝ故ゆゑ加納將監も是よりして徳太郎君を主人しゆじんの如くに敬うやまひ侍かしづき養育やういくなし奉つりける


第二回


 扨さて徳太郎君は和歌山わかやまの城下じやうかは申すに及およばず近在きんざいなる山谷さんこく原野げんやの隔へだてなく駈廻かけめぐりて殺生せつしやうし高野かうや根來等ねごろとうの靈山れいざん後のちには伊勢いせ神領しんりやうまであらさるゝ故ゆゑ百姓共迷惑めいわくに思ひしが詮方せんかたなく其儘そのまゝに捨置すておきけり爰こゝに勢州阿漕あこぎが浦うらといふは往古わうこより殺生禁斷せつしやうきんだんの場なるを徳太郎君此こ處こへも到り夜々よな〳〵網あみを卸おろされける此事早くも山田奉行やまだぶぎやう大岡忠右衞門聞きゝて手附の與力よりきに申付召捕めしとるには及およばず只々嚴重げんぢうに追拂おひはらふべしと申含ふくめければ與力よりき兩人その意を得て早速さつそく阿漕あこぎが浦うらへ到り見れば案あんに違たがはず網あみを卸おろす者あり與力聲こゑをかけ何者なれば禁斷きんだんの場所に於て殺生せつしやういたすや召捕めしとるべしと聲を掛くれば彼者かのもの自若じじやくとして予は大納言殿の三男なん徳太郎信房のぶふさなり慮外りよぐわいすな此提灯このちやうちんの葵あふひの紋もんは其方どもの目に見えぬかと悠然いうぜんたる形容ありさまに與力は手荒てあらにすべからずと云付いひつけられたれば詮方せんかたなく立歸り奉行ぶぎやう大岡忠右衞門に此趣このおもむきを達たつすれば殺生禁斷せつしやうきんだんの場所ばしよへ網あみを卸おろせしと見ながら其儘そのまゝに差置難さしおきがたし此度は自身じしん參まゐるべしとて與力よりき二人を召連めしつれ阿漕が浦に到いたれば其夜も徳太郎君例れいの如く網あみを卸おろして居られし故ゆゑ忠右衞門大聲たいせいにて當所たうしよは往古わうこより殺生禁斷せつしやうきんだんの場所なれば殺生せつしやうする者あれば搦捕からめとるなりと呼はるを徳太郎君聞給きゝたまひ先夜も申聞すごとく予は紀伊大納言殿きいだいなごんどのの三男徳太郎信房のぶふさだぞ無禮ぶれい致すな提灯ちやうちんの紋もんは目に見えぬか慮外りよぐわいせば赦ゆるさぬぞと宣のたまふ大岡大音だいおんあげ紀伊家の若君が御辨おわきまへなく殺生禁斷せつしやうきんだんの場所へ網あみを入させ給ふべき這こは全く徳太郎君の御名を騙かたる曲者くせものそれ召捕めしとれと烈はげしき聲に與力ども心得たりと左右より組付くみつき難なんなく繩なはをぞ掛かけたりける徳太郎君當然たうぜんの理に申譯わけなければ是非ぜひなく山田奉行の役宅やくたくへ引れ給へり扨さて其夜そのよは明家あきやへ入れ番人ばんにんを付て翌朝よくてう白洲しらすへ引出し大岡忠右衞門は次上下つぎがみしもに威儀ゐぎを正たゞし若ものを發はつたと白眼にらみ汝おのれ何者なれば殺生禁斷せつしやうきんだんの場所を穢けがし剩あまつさへ徳川徳太郎などと御名を騙かたる不屆者ふとゞきもの屹度きつと罪科ざいくわに行おこなふべきなれども此度このたびは格別かくべつの慈悲じひを以て免し遣つかはす以後見當みあたり候はゞ決して赦ゆるさゞるなり屹度きつと相愼あひつゝしみ心を改あらたむべしと申渡して繩なはを解といてぞ放はなしける徳太郎君は何となるべきと案じ煩わづらひ給ひしに斯かく赦ゆるされ蘇生そせいせし心地し這々はう〳〵の體ていにて和歌山へ立歸たちかへり此後は大人おとなしくぞなり給ひけるとなん斯かくて徳太郎君追々おひ〳〵成長せいちやうまし〳〵早くも十八歳になり給へり此年このとし加納將監江戸えど在勤ざいきんを仰付おほせつけられけるにぞ徳太郎君をも江戸見物えどけんぶつの爲に同道どうだうなし麹町なる上屋敷かみやしきに住着すみつけたり徳太郎君は役儀もなければ平生ふだん閑ひまに任せ草履取ざうりとり一人を連つれて兩國りやうごく淺草等あさくさとう又は所々の縁日えんにち熱閙場さかりばへ日毎に出歩行であるき給ひければ自然しぜんと下情かじやうに通ず萬端ばんたん如才じよさいなく成給へり程なく一ヶ年も過すぎ將監も江戸えど在勤ざいきんの年限果はてければ又も徳太郎君を伴ともなひ紀州へこそは歸りけれ爰こゝに伊豫國新居郡にゐごほり西條の城主じやうしゆ高三萬石松平左京太夫此程このほど病氣びやうきの所ろいまだ嫡子ちやくしなし此は紀伊家の分家ぶんけゆゑ家督評議かとくひやうぎとして紀州の家老からう水野筑後守みづのちくごのかみ久野但馬守くのたじまのかみ三浦うら彈正だんじやう菅沼すがぬま重兵衞渡邊對馬守つしまのかみ熊谷くまがや次郎南部なんぶ喜太夫等の面々めん〳〵打うちより跡目あとめの評議に及びける時とき水野筑後守進出すゝみいでて申けるは各々の御了簡ごれうけんは如何いかゞか存ぜざれ共左京太夫殿どのお家督かとくの儀は御國許おんくにもと加納將監方に御預おんあづけ置れ候徳太郎君を然しかるべく存ずると申出たり一同此儀このぎ然しかるべしと評議一決けつしければ急いそぎ此趣このおもむき和歌山表おもてへ早飛脚はやびきやくを以て申送れば國許くにもとにても家老衆からうしう早々さう〳〵登城とじやうの上評議ひやうぎに及ぶ面々は安藤帶刀たてわき同く市正いちのかみ水野石見守いはみのかみ宮城丹波みやぎたんば川俣彈正かはまただんじやう登坂式部とさかしきぶ松平監物けんもつ細井圖書等づしよとうなり江戸表よりの書状しよじやうを披見ひけんに及べば此度松平左京太夫殿御病死ごびやうしの所御世繼よつぎこれ無に付ては加納將監方へお預あづけ遊あそばし候徳太郎君御跡目あとめしかるべしとの事なり此儀このぎ尤もつともの事なりとて早速さつそく加納將監へ其段申渡しければ將監かしこまり急ぎ立戻たちもどりて其趣そのおもむきを徳太郎君に申上出立しゆつたつの用意に及び近々きん〳〵江戸表御下おんくだりとは相成あひなりける。爰こゝに又和歌山の城下じやうかより五十町道みち一里半ほど在ざいに平澤村といふ小村こむらあり此處へ先年せんねん信州者にて夫婦に娘むすめ一人ひとりを連つれし千ヶ寺じ參まゐりの平左衞門と申者來りぬ名主なぬし甚兵衞は至て世話好せわずきにて遂に此三人を世話して足を止とゞめ甚兵衞は己おのが隱居所を貸かし遣つかはし置おけり其後平左衞門病死し後あとは妻のお三と娘むすめなりお三は近村きんそんの産婆とりあげを渡世としお三婆々さんばゝと呼よばれたり娘も追々おひ〳〵成長せいちやうして容貌きりやうも可なりなるにはや年頃に成なれば手元に置おくも爲によからじ何方いづかたへ成とも奉公ほうこうに出いださんと口入の榎本屋えのもとや三藏を頼み和歌山の家中加納將監方へ奉公ほうこう住込すみこみたりこゝにて名を澤の井と呼よび腰元こしもとをぞ勤つとめける此女へ何時いつしか徳太郎君の御手が付つき人しれず馴染なじみを重かさね終つひに澤の井懷姙くわいにんしてはや五月帶いはたおびを結ぶ時とぞ成なりにき澤の井密ひそかに徳太郎君に向むかひかね〳〵君の御情おなさけを蒙り嬉うれしくもまた悲かなしくいつか御胤おたねをやどり最もはや五月いつゝきに相あひなり候と申上げれば徳太郎君聞きこし召めし甚だ當惑たうわくの體ていなりしが稍やゝ有あつて仰けるは予は知る如き部屋住へやずみの身分みぶん箇樣かやうの事が聞えては將監が手前てまへも面目めんぼくなし予もまた近々きん〳〵に江戸表へ下り左京太夫殿の家督かとくを相續さうぞくする筈はずなれば首尾しゆびよく右等の事の相濟あひすみし上は呼迎よびむかへて妾となすべし夫迄それまでは其方の了簡れうけんにて深く愼つゝしみ猥みだりに口外こうぐわい致すべからず併しかし五月つきにも相成あひなる上は奉公ほうこうも太儀なるべし其方は病氣びやうきと披露ひろうし一先宿へ下さがり母の許もとにて予が出世しゆつせを相待ち懷姙くわいにんの子を大切たいせつに致すべしとて御手元おてもと金百兩を澤さわの井ゐへ遣つかはされたり澤の井は押戴おしいたゞき有難ありがたきよしを御禮おんれい申上左樣なれば仰おほせに隨がひ私儀わたくしぎは病氣の積つもりにて母の許もとへ參るべし併しかしながら御胤おんたねを宿やどし奉りし上は何卒なにとぞ御出生の御子おんこを世に立度たてたく存じ奉れば後來迄のちのちまでも御見捨なき爲に御證據おんしようこの品を下くだし置れ度と願ければ徳太郎君も道理に思おぼし召て御墨付おすみつきに御短刀おたんたうを添そへて下されけり澤の井は押戴おしいたゞき御短刀おんたんたうを能々拜見はいけんして偖さて申やう此御短刀は私し望のぞみ御座なく候何卒君の常々つね〴〵御手馴てなれし方を戴いたゞき度旨むね願ひければ君も御祕藏ごひざうの短刀を遣つかはさるゝは御迷惑ごめいわくの體なりしが據處よんどころなく下されて仰おほせけるは此品このしなは東照神君より傳つたはれるにて父君にも深ふかく御祕藏ごひざうの物なるを先年せんねん自分じぶんに下されしなり大切の品なれども其方そのはうの願ねがひも點止もだし難ければ遣つかはすなりと御墨付おんすみつきを添て件くだんの短刀をぞ賜たまはりける其お墨付すみつきには

其方懷姙くわいにんのよし我等血筋ちすぢに相違さうゐ是なし若もし男子なんし出生に於ては時節じせつを以て呼出よびいだすべし女子たらば其方の勝手かつてに致すべし後日ごにち證據しようこの爲我等身に添そへ大切に致候短刀たんたう相添あひそへ遣つかはし置者也依而よつて如件くだんのごとし

寛永二申年十月
徳太郎信房
澤の井女へ

と成され印を据すゑし一書を下し置おかれ短刀は淺黄綾あさぎあやの葵あふひの御紋ごもん染拔そめぬきの服紗ふくさに包つゝみて下されたり。扨さて又徳太郎君には道中も滯とゞこほりなく同年霜月しもつき加納將監御供おんともにて江戸麹町紀州家きしうけ上屋敷へ到着たうちやくと相成り夫より左京太夫殿家督相續かとくさうぞく萬端ばんたん首尾しゆびよく相濟せられたり。然しかるに澤の井は其後漸く月つき重かさなり今は包つゝむに包まれず或時あるとき母に向ひ恥はづかしながら徳太郎君ぎみの御胤おんたねを宿やどしまゐらせ御内意ごないいを受け御手當金てあてきん百兩と御墨附おすみつき御短刀まで後のちの證據しようこに迚とて下されしこと逐ちく一物語ものがたればお三婆ばゝは大いに悦よろこび其後は只管ひたすら男子の誕生たんじやうあらんことをぞ祈いのりたるが已に月つき滿みちて寛永くわんえい三年三月十五日の子ねの上刻じやうこくに玉の如くなる男子なんしを誕生し澤の井母子おやこの悦び大方おほかたならず天へも昇のぼる心地こゝちして此若君このわかぎみの生長せいちやうを待つより外は無なかるべし


第三回


 然しかるにお三婆ばゝ母子おやこは若君わかぎみ誕生ありしに始はじめて安堵あんどの思ひをなせしが老少らうせう不定ふぢやうの世の習ならひ喜こぶ甲斐かひもあら悲かなしや誕生たんじやうの若君は其夜そのよの七ツ時頃虫むしの氣にて終つひに空むなしくなり給ひぬ母はゝ澤の井斯と聞より力を落おとし忽ち産後さんごの血ち上あがり是も其夜の明方あけがたに相果あひはてければ跡あとに殘のこりしお三婆は兩人ふたりの死骸しがいに取付天を仰あふぎ地に俯ふし泣悲なきかなしむより外なきは見るも哀あはれの次第なり近邊きんぺんの者ども婆ばゝが泣聲なきごゑを聞つけ尋たづね來り見れば娘の澤の井と嬰孩みどりごの死骸しがいに取付樣々の謔言よまひごとを言立いひたて狂氣きやうきの如き有樣なれば種々いろ〳〵賺すかし宥なだめ兩人ふたりの死骸しがいを光照寺くわうせうじといふ一向宗かうしうの寺へ葬はうむりしがお三婆は狂氣きやうきなし種々さま〴〵の事を叫さけび歩くにぞ名主なぬしの甚兵衞も持もてあまし其隱居所いんきよじよを追出おひいだしけり然さればお三婆は住家すみかを失なひ所々方々と浮うかれ彷徨さまよひしを隣村りんそん平野村の名主なぬし甚左衞門は平澤村の甚兵衞名主の弟おととなるがこれも至つて慈悲じひ深ふかき者ものにてお三婆ばゝの迷まよひ歩行あるくを氣の毒に思ひ何時いつまで狂氣きちがひでも有まじ其内には正氣しやうきに成べしとて己おのが明家あきやに住すまはせ此處にあること半年程はんねんほどにて漸やく正氣しやうきに成しかば以前の如く産婦さんぷの世話せわを業わざとして寡婦暮やもめぐらしに世を渡りける。爰こゝに寶永三年四月紀伊きい大納言光貞卿御大病ごたいびやうの處醫療いれう叶かなはず六十三歳にて逝去せいきよまし〳〵ける此時松平主税頭ちからのかみ信房卿は御同家青山あをやま百人町なる松平左京太夫さきやうのたいふの養子やうしとなり青山の屋敷やしきに在おはせり扨さてまた大納言光貞卿の惣領そうりやう綱教卿つなのりきやうは幼年より病身びやうしんと雖も御惣領ごそうりやうなれば強おして家督かとくに立給しが綱教卿も同年九月九日御年廿六歳さいにて逝去せいきよなり然るに次男じなん頼職卿よりなりきやうも早世さうせいなるに依より紀伊家は殆ほとんど世繼よつぎ絶たえたるが如し三男なん信房卿同家へ養子やうしと成ならせられて間まは無なけれ共外に御血筋ちすぢなき故まづ左京太夫頼純よりすみの四男宗通むなみちの次男を左京太夫頼淳よりあつと號して從四位少將せうしやうに任じて家督かとくとし主税頭ちからのかみ信房卿は是より本家相續さうぞくに相成あひなり紀州和歌山にて五十五萬五千石の主ぬしとは成なり玉へり舍兄しやけい綱教卿は忌服きふく十二月朔日ついたちに明け翌よく二日從三位中納言ちうなごんに任ぜられ給ひけり。扨さて寶永は七年續つゞきて八年目の五月七日に正徳元年と改元かいげんあり正徳は五年續つゞき六年目の三月朔日ついたちに享保元年と改元かいげんある然るに正徳三年の九月六代の將軍家宣公いへのぶこう御他界ごたかいあり御幼年の鍋松君なべまつぎみ當年八歳にならせ給ふを七代の將軍と崇あがめ家繼公いへつぐこうとぞ申したてまつる此君御不運ふうんにまし〳〵間まもなく御他界ごたかいにて有章院殿いうしやうゐんでんと號したてまつる是に依て此度は將軍家に御繼子けいしなく殿中でんちう闇夜あんやに燈火ともしびを失ひたる如くなれば將軍家御家督ごかとくの御評定ごひやうぢやうとして大城たいじやうへ出仕しゆつしの面々には三家十八國主四溜老中したまりらうぢうには阿部豐後守あべぶんごのかみ政高。久世大和守重之やまとのかみしげゆき。戸田山城守忠實やましろのかみたゞさね。井上河内守かはちのかみ正峯。御側おそば御用人間部まなべ越前守詮房のりふさ。本多中務大輔なかつかさのたいふ正辰たゞとき。若年寄には大久保長門守正廣ながとのかみまさひろ。大久保佐渡守常春つねはる。森川出羽守俊胤ではのかみとしたね。寺社奉行じしやぶぎやうには松平對馬守近貞つしまのかみちかさだ。土井伊豫守利道としみち。井上遠江守正長とほたふみのかみまさなが大目付には横田備中守重春びつちうのかみしげはる。松平安房守乘宗あはのかみのりむね。中川淡路守重高あはぢのかみしげたか等なり此時井伊掃部頭ゐいかもんのかみ發言はつごんにより松平陸奧守綱村卿つなむらきやう進み出いでて申されけるに天下の御繼子ごけいしの儀は東照神君御血筋ごちすぢ近ちかき方より繼つがせ玉はす事こそ順當じゆんたうなるべし然れば紀州公は神君の御彦おんひこに當らせ給へり紀州公こそ然しかるべからんとぞ申されける諸侯其儀ぎ道理もつとも然るべしと異口同音いくどうおんに賛成さんせいなれば彌々いよ〳〵紀伊家より御相續さうぞくと相極あひきはまる是に因て同年八月吉宗公よしむねこうと御改名かいめいあり

正二位右大臣うだいじん右近衞大將うこんゑのたいしやう征夷大將軍せいいたいしやうぐん淳和じゆんな奬學さうがく兩院りやうゐん別當べつたう源氏長者げんぢのちやうじや

右の通り御轉任ごてんにんにて八代將軍吉宗公と申上奉つる時に三十三歳なり寶永はうえい四年紀州家きしうけ御相續より十月とつき目にて將軍に任じ給ふ御運ごうん目出度めでたき君にぞありける是これに依よつて江戸町々は申すに及およばず東は津輕つがる外そとが濱はま西は鎭西ちんぜい薩摩潟さつまがたまで皆みな萬歳ばんざいをぞ祝しゆくし奉つる別して紀州にては村々むら〳〵在々ざい〳〵まで殊ことの外に喜び祝しゆくしけるとぞ。扨さても平野村甚左衞門方に世話せわに成居るお三婆は此事を聞きくより大おほひに歎なげき悲かなしみ先年御誕生ごたんじやうの若君の今迄いままでも御存命に在おはしまさば將軍の御落胤おんおとしだねなれば何樣いかやうなる立身をもすべきに御不運にて御早世ごさうせいなりしは返す〴〵も殘念ざんねんなりと獨ひとり泣悲なきかなしむも理ことわりとこそ聞きこえけれ扨も八代將軍には或時御側御用おそばごよう取次に御尋おんたづね有やうは先年せんねん勢州せいしう山田奉行を勤つとめし大岡忠右衞門と申者は目今たうじ何役なにやくを致し居るやと御尋おんたづねに御側衆おそばしう申上げる樣やう大岡忠右衞門儀未いまだ山田奉行勤役きんやくにて罷在まかりある旨を申上ければ吉宗公上意じやういに忠右衞門は政事せいじに私わたくしなく天晴あつぱれ器量きりやうある者なり早々さう〳〵呼出すべしとの事故に台命たいめいの趣おもむきを御老中に申達たつしける是に依て御月番おつきばんより御召出おめしいだしの御奉書ごほうしよ勢州山田へ飛脚ひきやくを以て遣つかはさる大岡忠右衞門には御奉書到來たうらいし熟々つら〳〵考かんがふるに先年徳太郎君まだ紀州表に御入の節せつ阿漕あこぎが浦うらにて召捕めしとり吟味ぎんみせし事あり此度計はからずも將軍に成ならせられたれば此度の召状めしじやうは必定ひつぢやう返報へんぱうの御咎おんとがめにて切腹せつぷくでも仰付らるゝか又は知行ちぎやう御取上おんとりあげかさらずば御役御免おやくごめんなるべしと覺悟かくごし用意も匇々そこ〳〵に途中とちうを急ぎ程なく江戸表へ着ちやくしければ早速さつそく御月番おつきばん御老中へ到着たうちやくの御屆おんとゞけに及び此段上聞じやうぶんに達しければ早々忠右衞門に御目見おめみえ仰せ付らるべきの趣おもむきなれば大岡忠右衞門早速さつそく御前へ罷出まかりいでて平伏へいふくしける時に將軍の上意じやういに忠右衞門其方は予が面體めんたいに見覺みおぼえ有あるかとの御尋なり此時忠右衞門畏かしこまり奉る上意の通り私し儀山田奉行勤役中きんやくちう先年阿漕が浦なる殺生禁斷せつしやうきんだんの場所へ夜々よな〳〵網あみを入れ殺生する曲者くせものありとの訴うつたへに付私し出役しゆつやく仕つり引き捕へ吟味ぎんみ仕り候處に彼曲者かのくせものは紀伊家の徳太郎信房卿のぶふさきやうの御名前を僞いつはる曲者ゆゑ篤とくと吟味に及び候恐おそれ乍ら右曲者の面體めんてい君きみの御容貌ごようばうによく似に申す樣に存じ奉るとぞ御答おんこたへ申上ければ將軍家には深ふかく其忠節そのちうせつを御感心遊ばされ忠右衞門宜くも申たりとて御譽おほめの御言葉を下され直すぐに江戸町奉行をぞ仰付おほせつけられける。是これに因よつて越前守と任官にんくわんし大岡越前守藤原忠相ふぢはらのたゞすけと末代までも名奉行めいぶぎやうの名を轟とゞろかしたるは此人の事なり將軍家には其後も越前は末代の名奉行なりと度々上意じやういありしとかや


第四回


 爰こゝに長門國ながとのくに阿武郡あふのごほり萩はぎは江戸より路程みちのり二百七十里三十六萬五千石ごく毛利家の城下にて殊ことに賑にぎはしき土地なり其傍そのかたはらに淵瀬ふちせといふ處あり昔むかし此處このところに萩はぎの長者といふありしが幾世いくよをか經へて衰破すゐは斷滅だんめつし其屋敷跡あとは畑はたとなりて殘のこれり其中に少しの丘をかありて時々とき〴〵錢ぜに又は其外そのほか種々いろ〳〵の器物きぶつなど掘出ほりだす事ある由を昔より云傳いひつたへたりまた里人の茶話ちやばなしにも朝あしたに出る日夕ゆふべに入る日も輝かゞやき渡る山の端はは黄金千兩錢千貫ぐわん漆うるし千樽たる朱砂しゆしや千斤きん埋うづめありとは云へど誰たれありて其在處ありどころを知る者なし然ども時として鷄の聲などの聞きこゆる事ありて此は金氣きんきの埋れ有ある故ゆゑなりと評するのみ又誰も其他を定さだかに知るもの無なかりける然るに其屋敷の下に毛利家の藩中にて五十石三人扶持ふちをとる原田兵助はらだひやうすけと云者あり常々田畑でんばたを耕作かうさくする事を好みしが或時兵助山の岨畑そばはたへ出て耕作しけるに一つの壺瓶つぼがめを掘出ほりだしたり密ひそかに我家へ持ち歸り彼壺を開き見るに古金こきん許多そくばくあり兵助大いに喜び縁者えんじや又は親したしき者へも深く隱かくし置おきけるが如何して此事の漏もれたりけん隣家りんかの山口やまぐち六郎右衞門ろゑもんが或日原田兵助方へ來り稍やゝ時候の挨拶あいさつも終をはりて四方山よもやまの咄はなしに移うつりし時六郎右衞門兵助に向むかひて貴殿には先達せんだつて古金の入いりし瓶かめを掘出ほりだされし由を慥たしかに承うけたまはり及およびたり扨々さて〳〵浦山敷うらやましき事なり何卒其古金の内を少々拙者せつしやへ配分はいぶん致し賜れと云ふに兵助は發はつと思へど然有さあらぬ風情ふぜいにて貴殿には然さることを何者にか聞れし一向蹤跡あとかたなき事なり拙者毛頭もうとう左樣さやうの事存じ申さずと虚嘯そらうそぶき何なにも不束ふつつかなる挨拶なるにぞ六郎右衞門は勃むつとし彼奴きやつ多分の金子を掘り出しながら少すこしの配分をも拒こばみ夫のみならず我に對たいして不束の挨拶こそ心得ぬよし〳〵其儀そのぎなら爲しようこそあれと急いそぎ我家へ立歸たちかへり直樣すぐさま役所へ赴むき訴へける樣は原田兵助事此度畑より金瓶を掘出ほりいだし候處ところ上かみへも御屆申上げず密ひそかに自分方へ仕舞置しまひおき候旨をば訴へに及びたり役人中此由を聞き吟味の上兵助を役所へ呼寄よびよせ其方事此度畑はたけより古金の瓶かめを掘出し其段そのだん早速さつそく役所へ屆け出づべきに然さは無なくして自分方に隱置かくしおき其方そのはう一個この得分に致さんとの心底しんてい侍にも似合ず後闇あとくらき致し方にて重々不屆に思召おぼしめさる依よつて相當の御咎おんとがめをも仰せ付らるべきを此度は格別の御慈悲じひを以て永の御暇下おんいとまくだし置おかる早々屋敷を引拂ひ何方へなりとも立退たちのくべし尤も掘出せし器物は其儘そのまゝに上かみへ上納すべき旨申渡されける原田兵助は驚ながらも御請おうけ致し是全く六郎右衞門が訴人そにんせしに相違さうゐなしとは思へど今更いまさら詮方せんかたなければ掘出せし金瓶きんぺいは役所へ差出し家財かざいは賣拂うりはらひ一人の老母を引連ひきつれて泪なみだ乍ながらに住馴すみなれし萩を旅立て播州ばんしう加古川かこがはに少すこしの知音しるべのあれば播州さしてぞ立去たちさりける老母を倶ぐせし旅なれば急ぐとすれど捗行はかゆかず漸々やう〳〵の事にて加古川に着つきたれば知音しるべを尋たづね事の始末しまつを委くはしく咄はなし萬事を頼みければ異議いぎなく承知し暫しばらくの内は此處の食客しよくかくとなりしが兵助は外ほかに覺えし家業も無ければ彼の知音の世話せわにて加古川の船守ふなもりとなり手馴てなれぬ業わざの水標棹みなれざをもその艱難かんなん云ん方なし然されど原田兵助は至て孝心かうしん深ふかき者なれば患難を事ともせず日々ひゞ加古川の渡守わたしもりして貧まづしき中にも母に孝養怠らざりし其内老母は風の心地とて臥ふしければ兵助は家業かげふを休やすみ母の傍かたはらを離はなれず藥用も手を盡つくしたれど定業ぢやうごふは逃のがれ難く母は空敷むなしくなりにけり兵助の愁傷しうしやう大方ならず然されど歎なげきて甲斐かひ無事なきことなれば泣々も野邊の送りより七々四十九日の法いとなみもいと懇ねんごろに弔とふらひける。扨又山口六郎右衞門も此度訴人の罪に依て是亦永ながの暇いとまとなりて浪人らうにんの身となり姿すがたを虚無僧こむそうに替かへて所々を徘徊はいくわいせしがフト心付き原田は播州へ行ゆきしとの事なり今我斯樣かやうに浪々の身となり艱難するも元もとは兵助が事より起れりと自身の惡事には氣も付かず只管ひたすら兵助を怨うらみいざや播州へ赴き兵助に巡逢めぐりあひ此無念このむねんを晴はらさんと夫より播州指さしてぞ急いそぎける所々方々と尋ぬれど行衞ゆくゑは更に知しれざりしが或日途中とちうにて兵助に出會であひしも六郎右衞門は天蓋てんがいを冠かふりし故兵助は夫とも知しらず行過ゆきすぎんとせしに一陣の風かぜ吹ふき來り天蓋を吹落ふきおとしければ思はず兩人は顏かほ見合みあはせける此時兵助聲をかけ汝は山口六郎右衞門ならずや我わが斯かく零落れいらくせしも皆汝が仕業しわざぞと傍かたはらにある竿竹さをだけを把とつて突て掛る六郎右衞門も心得こゝろえたりと身を飄かはし汝此地に來りしと聞きゝ渺々はる〴〵尋ねし甲斐かひ有あつて祝着しうちやくなり無念を晴はらす時到いたれり覺悟かくごせよと云いひさま替の筒脇差つゝわきざしにて切かゝり互ひに劣おとらず切結きりむすびしが六郎右衞門が苛いらつて打込うちこむ脇差にて竿竹さをだけを手元五尺許ばかり斜はすかけに切落きりおとせり兵助は心得たりと飛込とびこみ其その斜はすかけに切きられし棹竹にて六郎右衞門が脇腹わきばら目掛めがけて突込つきこんだり六郎右衞門は堪得たまりえず其處に倒だうとぞ倒たふれたり兵助立寄たちより六郎右衞門が持もちし脇差にて最期刀とゞめをさし無念は晴はらしたれど今は此地に住居は成ならじと直樣すぐさま此處を立去たちさり是よりは名を嘉傳次かでんじと改あらため大坂へ出夫より九州へ赴き所々を徘徊はいくわいし廻めぐり〳〵て和歌山わかやまの平野村と云へる所に到いたりける此平野村に當山派たうざんはの修驗しゆけん感應院かんおうゐんといふ山伏やまぶしありしが此人甚だ世話好せわずきにて嘉傳次を世話しければ嘉傳次は此感應院の食客とぞ成り感應院或時嘉傳次に向むかひ申けるは和歌山の城下に片町かたまちといふあり其處に夫婦に娘一人あり親子三人暮さんにんぐらしの醫師なりしが近頃兩親共に熱病ねつびやうにて死去し娘計ばかりぞ殘のこれり貴公きこう其所へ養子に行て手習てならひの指南しなんでもせば宜よろしからんといふ嘉傳次是を聞きゝ成程なるほど何時いつ迄當院の厄介やくかいに成なつても居られず何分にも宜しくと頼みければ感應院も承知なして早速さつそく彼かの片町の醫師方へ往ゆき右みぎの咄はなしをなし若もし御承知なら御世話せんといふに此時娘も兩親ふたおやに離はなれ一人の事なれば早速承知し萬事頼むとの事故相談さうだん頓とみに取極とりきまりて感應院は日柄ひがらを撰えらみ首尾よく祝言しうげんをぞ取結とりむすばせける夫より夫婦間なかも睦むつましく暮しけるが幾程いくほどもなく妻は懷妊くわいにんなし嘉傳次は外ほかに家業なりはひもなき事なれば手跡しゆせきの指南なし傍かたはら膏藥かうやくなど煉ねりて賣うりける月日早くも押移おしうつり十月とつき滿みちて頃は寶永二年戌いぬ三月十五日の夜よ子ねの刻こくに安産あんざんし玉の如き男子出生しゆつしやうしける嘉傳次夫婦が悦よろこび大方ならず程ほどなく七夜しちやにも成りければ名をば玉之助たまのすけと號なづけ掌中たなそこの玉と慈いつくしみ養そだてける然しかるに妻は産後の肥立ひだち惡あしく荏苒ぶら〳〵と煩わづらひしが秋の末に至りては追々疲勞ひらうし終つひに泉下せんかの客とはなりけり嘉傳次の悲歎ひたんは更なり幼をさなきものを殘し置おき力に思ふ妻に別れし事なれば餘所よその見目みるめも可哀いぢらしく哀れと云ふも餘りあり斯くて有あるべき事ならねばそれ相應さうおうに野邊のべの送りを營いとなみ七日々々なぬか〳〵の追善供養つゐぜんくやうも心の及ぶだけは勤つとめしが何分男の手一ツで幼をさなき者の養育やういくに當惑たうわくし晝ひるは漸く近所きんじよ隣となりに貰もらひ乳ちゝなどし夜よるは摺粉すりこを與へ孤子みなしごなればとて只管ひたすら不便ふびんに思ひ養やしなひけり扨て玉之助も年月の立たつに從ひ成長せいちやうしければ最早もはや牛馬にも踏ふまれじと嘉傳次も少しく安堵あんどし益々ます〳〵成長の末を祈いのりし親の心ぞ切せつなけれ其夏の事とか嘉傳次は傷寒しやうかんを煩わづらひ心の限かぎり藥用はすれども更に其驗そのしるしなく次第々々に病氣の重おもるのみなれば或日嘉傳次は感應院を病床びやうしやうに招まねき重き枕まくらを上あげて偖さて申けるは抑々そも〳〵私しが當國に杖つゑを止めしより尊院の御厚情ごこうじやうに預あづかりし其恩を謝しやし奉つらずして此度の病氣迚とても全快ぜんくわいは覺束おぼつかなし何卒此上とも我なき跡あとの玉之助が事偏ひとへに頼み參まゐらすると泪なみだながらに述のべにける感應院は逐一ちくいちに承知し玉之助の事は必ず氣に懸かけられな萬一もしもの事あらば拙者が方へ引取ひきとつて世話せわし遣つかはすべし左樣の事は案あんじず少すこしも早く全快せられよ夫れには藥用こそ第一なれなど勸すゝめければ嘉傳次は感應院を伏拜ふしをがみ世にも嬉うれしげに見えにけるが其夜そのよ嘉傳次は獨ひとりの玉之助を跡に殘し後おくれ先立さきだつ習ならひとは云ひながら夕ゆふべの露つゆと消行きえゆきしは哀れ墓はかなかりける次第なり感應院夫と聞き早速來り嘉傳次の死骸なきがらをば例かたの如く菩提寺ぼだいじへ葬はうむり僅わづかなる家財かざい調度てうどは賣代うりしろなし夫婦が追善の料れうとして菩提寺へ納をさめ何呉なにくれとなく取賄とりまかなひ最いと信實しんじつに世話しけり然されば村の人々も嘉傳次が死しを哀み感應院の篤あつき情なさけを感かんじけるとかや


第五回


 光陰くわういんは矢よりも早く流るゝ水に宛さも似にたり正徳元年辛卯年かのとうどしと成なれり玉之助も今年七歳になり嘉傳次が病死の後は感應院方へ引取ひきとられ弟子となり名をば寶澤はうたくと改めける感應院は元より妻も子もなく獨身どくしんの事なる故に寶澤を實子じつしの如く慈いつくしみて育そだてけるが此寶澤は生うまれながらにして才智さいち人に勝すぐれ發明はつめいの性質なれば讀經どくきやうは云いふに及およばず其他何くれと教をしゆるに一を示して十を覺さとるの敏才びんさいあれば師匠ししやうの感應院も末すゑ頼母たのもしく思ひ別わけて大事に教へ養やしなひけるされば寶澤は十一歳の頃は他人の十六七歳程の智慧ちゑ有ありて手習は勿論もちろん素讀そどくにも達し何をさせても役に立ける此感應院は兼てよりお三婆さんばゝとは懇意こんいにしけるが或時寶澤を呼よびて申けるは其方そちの行衣ぎやうえ其外とも垢あか付つきし物を持もちお三婆の方へ參り洗濯せんたくを頼み參るべしと云付られ元來寶澤は人懷ひとなづきのよき生れなれば諸人皆みな可愛かあいがる内にもお三婆は取分とりわけ寶澤を孤子也みなしごなりとて愛いつくしみ味うまき食物等などの有ば常に殘し置て遣つかはしなどしける此日師匠の用事にて來りける折をりから冬の事にて婆は圍爐裡ゐろりに煖あたりゐけるが寶澤の來るを見て有あふ菓子などを與へて此寒このさぶいに御苦勞ごくらうなり此爐このろの火の温ぬくければ暫しばらく煖あたゝまりて行給ゆきたまへと云いふに寶澤は喜びさらば少時間すこしのまあたりて行んと頓やがて圍爐裡端ゐろりばたへ寄て四方山よもやまの噺はなしせし序ついで婆のいふやうは今年ことし幾歳いくつなるやと問ふに寶澤は肌はだを寛くつろげ掛かけし守まもり袋取出してお三婆に示せば是を見るに寶永二年三月十五日の夜子ねの刻こく出生しゆつしやうと印しるし有ありければ指折算ゆびをりかぞへ見るに當年恰ちやうど十一歳なり忘わすれもせぬ三月十五日の夜なるがお三婆は頻しきりに落涙らくるゐしテモ御身は仕合しあはせ物なりとて寶澤が顏かほを打守りしみ〳〵悲歎ひたんの有樣なれば寶澤は婆に向ひ私し程世に不仕合の者はなきに夫それを仕合とは何事ぞや抑そも當歳たうさいにて産うみの母に死別しにわかれ七歳なゝつの年には父にさへ死しなれ師匠の惠めぐみに養育やういくせられ漸く成長はしたるなり斯かく墓はかなき身を仕合とは又何故にお前は其樣に歎なげき給ふぞと尋たづねけるお三婆は落おつる涙を押拭おしぬぐひ成程お身の云ふ通り早く兩親に別わかれ師匠樣ししやうさまの養育やういくにて人と成なれば不仕合の樣なれ共併しさう達者たつしやで成長せしは何よりの仕合なり譯わけと云いへば此婆が娘の産うみし御子樣當年まで御存命ごぞんめいならば恰ちやうどお身と同じ齡としにて寶永三戌年いぬとし然しかも三月十五日子の刻の御出生なりしと語かたり又も泪なみだに暮る體ていは合點がてんのゆかぬ惇言くりことと思へば扨はお前のお娘の産うみし孫まごありて幼年に果はてられしや开そは又如何なる人の子にて有ありしぞと問とふに婆は彌々いよ〳〵涙にくれ乍ながらも語り出る樣やう私わしに澤さはの井ゐといふ娘あり御城下の加納將監樣といふへ奉公に參らせしが其頃將監樣しやうげんさまに徳太郎樣と申す太守樣たいしゆさまの若君が御預おあづかりにて渡わたらせ給へり其若君が早晩いつか澤の井に御手を付け給ひ御胤おたねを宿やどしたれど人に知らせず婆が許もとへ呼取よびとりしも太守樣の若君樣が御胤おたねなれば竊ひそかに御男子が御出生あれと朝夕あさゆふ神佛かみほとけへ祈いのる甲斐かひにや安産せしは前にも云へる如く御身と年月刻限こくげんまで同じ寶永二年の三月十五日夜よるの子刻ねのこくなりき取揚とりあげ見みれば玉の如き男子なれば娘やばゝが悦よろこびは天へも上のぼる心地なりしが悦ぶ甲斐もあら情なさけなや御誕生ごたんじやうの若君は其夜の明方あけがた無慘むざんや敢あへなく御果成おんはてなされしにぞ澤の井は是を聞きくと齊ひとしく産後の血上り是も續つゞきて翌朝よくあさ其若君の御跡慕したひ終に空むなしく相果あひはてたり獨ひとり殘りしばゝが悲かなしみ何に譬たとへん樣もなく扨も其後徳太郎樣には御運ごうん目出度めでたくましまし今の公方樣くばうさまとは成ならせ給ひたり然されば娘の持もち奉りて若君の今迄御無事に在ましまさば夫こそ天下樣の落胤おとしだね成なれば此ばゝも綾錦あやにしきを身に纒まとひ何樣どのやうなる出世もなる筈はずを娘に別れ孫を失ひ寄邊よるべ渚なぎさの捨小舟すてこぶねのかゝる島さへ無なき身みぞと叫わつと計ばかりに泣沈なきしづめり寶澤は默然もくねんと此長物語を聞畢きゝをはり實げに女は氏うぢなくて玉の輿こしと運うんが有あれば思おもひの外の事もあるものと心の内に思ふ色を面おもてには顯あらはさず夫は氣の毒にも惜をしき事なり併しかし夫には證據しようこでも有ての事か覺束おぼつかなし孫君の將軍の落胤らくいんでも輙たやすく出世は出來まじ過去すぎさりし事は諦あきらめ玉へと賺すかし宥なだむればばゝは此言葉ことばを聞きゝ宜いしくも申されたり實げに幼をさなくして兩親ふたおやに離はなるゝ者は格別かくべつに發明なりとか婆も今は浮世に望のぞみの綱つなも切きれたれば只其日々々を送り暮せど計はからずも孫君まごぎみと同年と聞きゝ思はず愚痴ぐちを翻こぼしたり偖さても干支えとのよく揃そろひ生れとて今まで人に示しめさざりしが證據しようこといふ品見すべしと婆は傍かたへの古ふる葛籠つゞらを明あけ彼二品かのふたしなを取出せば寶澤は手に取上とりあげ先まづお短刀たんたうを熟々つく〴〵見るに其結構けつこうなる拵こしらへは紛まがふ方なき高貴の御品次に御墨付すみつきおし披ひらき拜見はいけんするに如樣いかさま徳太郎君の御直筆おぢきひつとは見えける諺ことわざに云へる事あり蛇じやは一寸にして人を噛かむの氣あり虎とらは生れながらにして牛うしを喰くらふの勢ひ有ありとか寶澤は心中に偖々さて〳〵此婆ばゝめが善よき貨物しろものを持て居ることよ此二品を手に入て我こそ天下の落胤らくいんと名乘なのつて出なば分地でも御ご三家け位ぐらゐ萬一もし極運きやくうんに適かなふ時はと漸やつと當年十一の兒こが爰こゝに惡念あくねんを起おこしけるは怖おそろしとも又類たぐひなし寶澤は此事を心中に深く祕ひし其時は然氣さりげなく感應院へぞ歸りける偖さて翌よく年は寶澤十二歳なり。其夏の事なりし師匠ししやう感應院の供ともして和歌山の城下なる藥種屋市右衞門やくしゆやいちゑもん方へ參りけるに感應院は奧おくにて祈祷の内寶澤は店みせに來り番頭ばんとう若者も皆みな心安こゝろやすければ種々さま〴〵の咄はなしなどして居たり然しかるに此日は藥種屋にて土藏の蟲干むしぼしなりければ寶澤も藏くらの二階にかいへ上りて見物せしが遂つひに見も慣なれざる品を數々かず〴〵並ならべたる傍かたへには半兵衞と云ふ番頭が番をして居たり寶澤側そばへ寄よせて色々藥種の名を聞きけば半兵衞も懇篤ねんごろに教へける中に遙はるか離はなして一段高き所に壺つぼ三ツ并ならべたり寶澤指ゆびさし彼壺は何といふ藥種の入ありやと尋たづねければ半兵衞のいふ樣やう彼あれこそ斑猫はんめうと砒霜石ひさうせきと云ふ物なるが大毒藥だいどくやくなれば心して斯は遠とほくに離したりと聞きいて膽きも太ふとき寶澤は態わざと顏を皺しかめテも左樣の毒藥にて候かと恐れし色をぞ示しめしたり折節をりふし下したより午飯の案内あんないに半兵衞は暫しばし頼みまする緩々ゆる〳〵見物せられよと寶澤を殘のこし己は飯めし喰くひにぞ下りけり跡には寶澤只たゞ一人熟々つら〳〵思ひ廻めぐらせば今いま此この二品を盜ぬすみ置おかば用ゆる時節はこれ斯かうと心の中に點頭うなづきつゝ頓やがて懷中紙くわいちうがみを口に啣くはへ毒藥の壺つぼ取卸とりおろし彼中なる二品を一塊かけづつ紙に包つゝみて盜取ぬすみとり跡あとは故もとの如くにして何知らぬ體にて半兵衞が歸るを待居まちゐたり半兵衞は頓やがて歸り來り偖々さて〳〵御太儀なりしお小僧にも臺所だいどこへ行て食事仕玉へと云ひければ寶澤は嬉うれし氣げに下行おりゆき食事も畢をはりける頃感應院も祈祷きたうを仕舞ひければ寶澤も供ともして歸りぬ彼盜取かのぬすみとりし毒藥は竊ひそかに臺所の縁えんの下の土中どちうへ深く埋うづめ折を待まつて用ひんと工たくむ心ぞ怖おそろしけれ


第六回


 頃ころは享保きやうほ三丙申ひのえさる年霜しも月十六日の事なりし此日は宵よひより大雪おほゆき降ふりて殊の外に寒さぶき日なりし修驗者しゆげんじや感應院には或人より酒さけ二升を貰もらひしに感應院は元もとより酒を少すこしも用ひねば此酒は近所きんじよの懇意こんいの者に分與わけあたへける寶澤はうたく師匠ししやうに向ひ申やうは何卒なにとぞ那酒あのさけを少し私しへ下さるべしと乞こひけるに感應院其方そのはう飮のむならば勝手かつてに呑べしと云ふ否々いや〳〵私しは爭いかでか酒は用ひ申べきお三婆さんばゝは常々私しを可愛かあいがり呉くれ候へば少し戴いたゞきて渠かれに呑せたしといふ感應院これを聞て能よくこそ心付たれ我は婆ばゝの事に心付ざりし隨分ずゐぶん澤山たくさんに遣つかはせと有ければ寶澤は大いに悦よろこび早速さつそく酒を徳利へ移うつし肴さかなをば竹の皮に包つゝみ降積ふりつもりたる大雪おほゆきを踏分々々ふみわけ〳〵彼お三婆の方かたへ到いたりぬ今日は怪けしからぬ大雪にて戸口とぐちへも出られずさぞ寒からんと存じ師匠樣ししやうさまより貰もらひし酒を寒凌さぶさしのぎにもと少しなれど持來もちきたりしとて件くだんの徳利とくりと竹皮包かはづつみを差出さしいだせばお三婆は圍爐裡ゐろりの端はたに火を焚たき居ゐたりしが是を聞きいて大きに悦び能よくも〳〵此大雪を厭いとはず深切しんせつにも持來り給へりと麁朶そだ折をりくべて寶澤をも爐端ろばたへ坐らせ元より好すきの酒なれば直すぐに燗かんをなし茶碗ちやわんに汲つぎて舌した打鳴うちならし呑ける程に胸むねに一物ある寶澤は酌しやくなど致し種々と勸すゝめける婆は好物かうぶつの酒なれば勸めに隨ひ辭儀じぎもせず呑ければ漸次しだいに醉よひ出て今は正體しやうたい無なく醉臥ゑひふしたり寶澤熟々此體このていを見て心中に點頭うなづき時分は宜よしと獨り微笑ほゝゑみ傍あたりを見廻せば壁かべに一筋の細引ほそびきを掛て有に是屈竟くつきやうと取卸とりおろし前後も知らず寢入ねいりしばゝが首に纒まとひ難なく縊くゝり殺し豫かねて認置みおきし二品を奪うばひ取とり首に纒ひし細引ほそびきを外はづし元の如く壁かべにかけ圍爐裡ゐろりの邊ほとりには茶碗ちやわん又は肴さかなを少々取並とりならべ置おき死したるお三婆が體からだを圍爐裡ゐろりの火の中へ押込おしこみ如何にも酒に醉潰ゑひつぶれ轉ころげ込で燒死やけじにたる樣に拵こしらへたれば知者しるもの更になし寶澤は然さあらぬ體ていにて感應院へ歸かへり師匠へもばゝが厚あつく禮れいを申せしと其場を取繕とりつくろひ何喰なにくはぬ顏して有しに其日の夕暮ゆふぐれに何とやらん怪あやしき匂にほひのするに近所きんじよの人々寄集よりあつまりて何の匂にほひやらん雪の中にて場所も分らず種々さま〴〵評議に及び斯かゝる時には何時いつも第一番にお三ばゝが出來いできたり世話せわをやくに今日けふは如何せしや出來いでこぬは不思議成なりとて囁さゝやきける爰こゝに名主なぬし甚左衞門の悴せがれがフト心付お三ばゞの方へ到いたり戸を押明おしあけて見れば此こは抑そも如何いかにお三ばゝは圍爐裡ゐろりの中へ頭かしらを差込さしこみ死し居たり匂にほひの此處より發おこりしなれば大いに驚おどろき一同へ告つげ親おや甚左衞門へも此事を通つうじけるに名主も駈來かけきたり四邊あたり近所きんじよの者も追々おひ〳〵に集あつまり改め見れば何樣いかさま酒に醉倒ゑひたふれ轉込まろびこみ死したるに相違さうゐなき體ていなりと評議一決し翌日よくじつ此趣このおもむきを郡こほり奉行へ屆とゞけければ早速さつそく檢使けんしの役人も來り改あらため見しに間違もなき動靜やうす成ば名主始め村中むらぢうは口書くちがきを取とられ大酒に醉伏ゑひふし燒死やけじにたるに相違なき由にて其場は相濟あひすみたり是に依て村中評議ひやうぎの上にてお三ばゝの死骸しがいは近所の者共請取うけとり菩提寺ぼだいじへぞ葬はうむりける隣家りんかのお清婆きよばゝと云は常々お三ばゝと懇意こんいなりければ横死わうしを聞て殊更ことさらに悲歎ひたんの思ひをなし昨日きのふの大雪にて一度も尋たづねざりしゆゑ此事を知しらざりしぞ不便ふびんなれとて歎なげきけるとぞ是より日々墓はかへ參詣さんけいして香花かうげを手向たむけける扨も寶澤はお三ばゝを縊殺しめころし彼かの二品しなを奪うばひ取とり旨々うま〳〵と打點頭うちうなづき此後は我われ成長せいちやうして此品々を證據しようことし公方樣くばうさまの落胤おとしだねと申上なば御三家同樣夫程迄それほどまでならぬも會津家あひづけぐらゐの大名には成べし併しかしながら將軍の落胤おとしだねなりと欺あざむく時は如何なる者をも欺あざむき負おほすべけれども爰こゝに一ツの難儀なんぎといふは師匠ししやうの口から彼者は幼年えうねんの内斯樣々々かやう〳〵にて某し養育やういくせし者なりと云るゝ時は折角せつかくの巧たくみも急ち破やぶるゝに相違なし七歳より十二歳まで六ヶ年が其間そのあひだ養育の恩は須彌しゆみよりも高く滄海さうかいよりも深しと雖ども我大望わがたいまうには替難かへがたし此上は是非に及ばず不便ふびんながらも師匠の感應院を殺ころし誰たれ知しらぬ樣になし成人せいじんの後に名乘出なのりいづべしと心太ふとくも十二歳の時始はじめて起おこす大望たいもうの志ざしこそ怖おそろしけれ既に其歳も暮くれて十二月十九日と成なりければ感應院には今日けふは天氣も宜よければ煤拂すゝはらひをせんものと未明みめいより下男げなん善助相手あひてとし寶澤にも院内ゐんないを掃除さうぢさせけるが稍やゝ片付かたづきて暮方になり早はや殘のこる方なく掃除さうぢを仕舞しまひければ善助は食事しよくじの支度したくをなし寶澤は神前の油道具あぶらだうぐを掃除しけるが下男げなんの善助は最早もはや膳部ぜんぶも出來たれば寶澤に申ける御膳ごぜんも出來候へばお師匠樣へ差上給へといへば寶澤は此時なりと兼かねて巧たくみし事なれば今われ給仕きふじしては後々の障さはりに成んと思ひければ善助に向むかひ我は油手あぶらてなれば其方給仕きふじして上られよと頼たのむに何心なき善助は承知して今いま水みづ一荷かを汲くみて後に御膳ごぜんを差上べしといひ表おもての方へ出行たり跡あとに寶澤は手早く此夏中このなつちう縁えんの下へ埋置うづめおきし二品ふたしなの毒藥どくやくを取出し平と汁しるの中へ附木つけぎにて匕すくひ込こみ何知ぬ體ていにて元の處へ來り油掃除あぶらさうぢして居たりけり善助は爭いかで斯る事と知るべき水を汲終くみをはり神ならぬ身の是非ぜひもなや感應院の前へ彼膳部かのぜんぶを持出し給仕をぞなし居たり感應院が食事しよくじ仕果しはてし頃を計り寶澤も油掃除あぶらさうぢを成なし果はてて臺所だいところへ入來り下男げなん倶々とも〴〵食事をぞなしぬ胸むねに一物ある寶澤が院主ゐんしゆの方を密ひそかに窺うかゞふに何事もなし扨さて不審ふしんとは心に思へど色にも顯あらはさず已すでに其夜も五ツ時と思ふころ毒藥どくやくの効かう總身そうしんに廻り感應院は俄にはかに七轉てん八倒たうして苦くるしみ出せば寶澤はさも驚おどろきたる體にて泣なきながら先まづ近所の者へ知せける土地ところの者共驚おどろき慌あわて早速さつそく名主なぬしへ知せければ名主も駈付かけつけ醫者いしやよ藥くすりと騷さわぎしに全く食滯しよくたいならんなど云儘まゝ寶澤は心には可笑をかしけれど樣々介抱かいはうなしゐしが夥おびただしく血ちを吐はいて遂つひに其夜の九ツ時に感應院は淺あさましき最期さいごをこそ遂とげたりける名主を始め種々しゆ〴〵詮議せんぎすれば煤掃すゝはきの膳部ぜんぶより外に何にも喰たべずとの事なり依よつて膳部を調しらぶれども更に怪あやしき事なければ彌々いよ〳〵食滯しよくたいと決し感應院の死骸しがいは村中より集あつまり形の如く野邊のべの送おくりを取行ひける扨さて此平野村には感應院より餘ほかに修驗しゆげんもなきことゆゑ村中に何事の出來るとも甚だ差支さしつかへなりと名主甚左衞門は感應院へ村中の者を集あつめ扨さて相談さうだんに及ぶは此度このたび不圖はからづも感應院の横死わうしせしが子迚ことても無ればあと目め相續さうぞくさすべき者なし然さりとて何時迄いつまでも當院を無住むぢうにも爲して置れず我思ふには年こそ行ゆかねど寶澤は七歳の時より感應院が手元てもとにて修行しゆぎやうせし者なり殊ことには外の子供と違ちがひ發明はつめいなる性質せいしつにて法印ほふいんの眞似事まねごとは最早もはや差支さしつかへなし我等始め村中が世話せわしてやらば相續さうぞくとして差支さしつかへなし然さすれば先住せんぢう感應院に於ても嘸さぞかし草葉くさばの蔭かげより喜び申すべし此儀如何と述のべければ名主なぬしどのゝ云るゝ事なり寶澤は七歳の時から感應院の手元てもとで育そだち殊には利發りはつで愛敬者あいきやうものなり誰か違背いはいすべき孰いづれも其儀然るべしと相談さうだん爰こゝに決したり


第七回


 斯かくて名主甚左衞門は寶澤を招まねき申渡しける樣は扨さても先達せんだつて師匠の死去しきよせしより當村に山伏やまぶしなし且かつ又また感應院には子もなければ相續さうぞくすべき者なし依て今日村中を呼寄よびよせ相談に及びしは其方は幼年えうねんなれども感應院の手許てもとにて教導けうだうを受し事なれば可なりに修驗しゆけんの眞似まねは出來べし我々始め村中より世話せわをすれば師匠感應院の後住ごぢうにせんと村中相談一決けつしたり左樣に心得こゝろえべしと申渡せば寶澤はうたくは謹つゝしんで承はり答へけるは師匠感應院の跡目あとめ相續致し候樣と貴殿きでんを始め村中の厚あつき思し召めしの程は有難ありがたく幼年の私わたくしの身に取ては此上もなき仕合しあはせに存じ奉つり早速さつそく御受すべき處なれど師匠ししやうが存命中ぞんめいちう申聞せ候には凡およそ山伏やまぶしと云者は日本國中の靈山れいざん靈場れいぢやうを廻めぐり難行苦行なんぎやうくぎやうをなし或は野のに伏ふし山に伏ふし修行をする故に山伏やまぶしとは申なり扨さて亦また山伏の宗派しうはといツパ則ち三派ぱは分わかれたり三派と云は天台宗てんだいしうにて聖護院宮しやうごゐんみやを以て本寺となし當たう三派はは眞言宗しんごんしうにて醍醐だいご三寶院はうゐんの宮を本山とす出羽國ではのくに羽黒山派はぐろさんはは天台宗てんだいしうにて東叡山とうえいざん一品親王ぽんしんわうを以て本山と仰ぎ奉る故に山伏とは諸山しよざん修行しゆぎやうの修學しゆがくの名にて難行苦行なんぎやうくぎやうをして野に伏し山に宿しゆくし戒行かいぎやうを勵はげむゆゑに山伏といふ又修驗しゆけんといツパ其修行そのしゆぎやう終り修行滿みちたる後の本學ほんがくとあれば難行苦行をなし修行しゆぎやう終をはりて後の本名ほんみやうなり故かるがゆゑに十界かい輪宗りんしうの嘲言てうげんに徹てつすれば厭いとふべき肉食にくじきなし兩部りやうぶ不二の法水を嘗なむれば嫌きらふべき淫慾いんよくなしと立る法はふなり三寶院は聖護大僧正しやうごだいそうじやうを宗祖しうそとし聖護院は坊譽大僧正ばうよだいそうじやうを宗祖しうそとするなり然ども何いづれも開山かいざんと申は三派ともに役えんの小角せうかくが開き給ひしなり扨さて亦山伏が補任ほにんの次第しだい

小阿闍梨こあじやり 大々法印だい〳〵ほふいん 金蘭院こんらんゐん 律師りつし 大越家たいえつか 一山大先達いつさんたいせんだつ 内議僧ないぎそう 院號ゐんがう 坊號笈籠ばうがうきふこ 權大僧都ごんだいそうづ

七道具なゝつだうぐ左之通とほり

篠掛すゞかけ 摺袴すりはかま 磨紫金ましきん 兜巾ときん 貝かひ 貝詰かひつめ 護摩刀ごまたう

評ひやうに曰此護摩刀ごまたうのことは柴刀さいたうとも申よし是これは聖護院三寶院の宮樣みやさま山入やまいりの節せつ諸國の修驗しゆけん先供さきどもの節柴しばを切拂きりはらひて護摩ごまの場所ばしよを拵こしらへる故に是を柴刀さいたうとも云なり

斯かくの如く山伏には六むづかしき事の御座候よし兼て師匠ししやうより聞及び候に私事は未だ若年じやくねんにて師匠の跡目あとめ相續の儀は過分くわぶんの儀なれば修驗の法はふを一向に辨わきまへずして感應院後住ごぢうの儀は存じも寄よらず爰にされば一ひとつの御願ひあり何卒當年たうねんより五ヶ年の間諸國修行致し諸寺しよじ諸山しよざんの靈場れいぢやうを踏ふみ難行苦行を致し誠まことの修驗と相成て後當村へ歸かへり其時にこそ師匠ししやう感應院の院を續度つぎたく存ずるなり哀あはれ此儀を御許おんゆるし下され度夫迄それまでの内は感應院へは宜よろしき代りを御入いれ置おき下され度凡五ヶ年も過すぎ候はゞ私し事屹度きつと相戻あひもどりますれば何卒相替あひかはらず御世話おせわ下されたし尤とも此事は師匠存命ぞんめいの内にも度々相願あひねがひしかども師匠は私わたくしを慈いつくしむの餘り片時へんじも側そばを離すを嫌きらひて幼年なれば今四五年も相待あひまつべしと止とゞめ候故本意ほんいなくは思へども師匠の仰せ默止難もだしがたく是迄は打過うちすぎ候なり此度こそ幸さいはひに日頃の宿願しゆくぐわんを果はたすべき時なり何卒此儀このぎをお許ゆるし下されと幼年に似合にあはず思ひ入たる有樣ありさまに聞居る名主を初はじめ村中むらぢうの者は只管ひたすら感心かんしんするより外なく皆々口を閉とぢて控へたり此時名主なぬし甚左衞門進出て申す樣只今願の趣おもむき委細ゐさい承知しようち致したり扨々驚き入たる心底しんてい幼年には勝りし發明はつめい天晴あつぱれの心立なり斯迄思込おもひこみし事をむざ〳〵押止おしとゞめんも如何なれば願ひに任すべしさらば五ヶ年過すぎて歸り來る迄までは感應院へは留守居るすゐを置べし相違さうゐなく五ヶ年の修行しゆぎやうを遂とげ是非とも歸り來り師匠ししやうの跡目を繼つぎ給へとて名主を初はじめ村中も倶々とも〴〵勸すゝめて止ざりけり偖さても寶澤は願ひの如き身となり旅たびの用意よういもそこ〳〵に營いとなみければ村中より餞別せんべつとして百文二百文分に應おうじて贈おくられしに塵ちりも積つもりて山の譬たとへ集りし金は都合八兩貳歩ぶとぞ成にける其外には濱村はまむらざしの風呂敷ふろしき或は柳庫裏やなぎごり笈笠おひがさ蜘くもの巣す絞しぼりの襦袢じゆばんなど思々の餞別せんべつに支度は十分なれば寶澤はさも有難げに押戴おしいたゞき幼年よりの好誼よしみと此程の淺あさからぬ餞別重々ぢう〳〵有難き仕合しあはせと恩を謝しやしいよ〳〵明日の早天さうてんに出立しゆつたつ致す故御暇乞いとまごひに參り候なりと村中へ暇乞に廻まはれり此時寶澤は漸やうやく十四歳の少年なり頃は享保きやうほ三戌いぬ年二月二日成し幼年えうねんより住馴すみなれし土地を離はなるゝは悲かなしけれど是も修行しゆぎやうなれば決して御案おあんじ下さるなとて空々敷そら〴〵しくも辭儀じぎをなし一先感應院へ歸り下男げなん善助に向ひ明朝あした早く出立すれば何卒握飯にぎりめしを三ツ許り拵こしらへ呉よと頼み置き床房ふしどへ入て休やすみける其夜丑滿うしみつの頃に起出おきいでて彼の握り飯を懷中くわいちうなし兼て奪取うばひとりし二品を所持しよぢし最早夜明に程近ほどちかし緩々ゆる〳〵と行べしと下男善助に暇乞し感應院をぞ立出たちいでたり馴なれし路みちとて闇やみをも厭いとはずたどり行に漸々と紀州加田浦かだのうらに到いたる頃は夜はほの〴〵と明掛あけかゝりたり寶澤は一休ひとやすみせんと傍の石に腰こしを打掛うちかけ暫く休みながら向むかうを見れば白き犬いぬ一疋ぴき臥居ふしゐたり寶澤は近付ちかづき彼の握飯にぎりめしを取出し與あたへければ犬は尾を振ふり悦よろこび喰居くひゐるを首筋くびすぢを掴つかんで曳えいやつて投なげつけ起しも立たゝず用意の小刀こがたなを取出し急所きふしよをグサと刺通さしとほせば犬は敢なく斃たふれたり寶澤は謀計はかりごと成りと犬の血を己おのれが手に塗付ぬりつけて笈笠おひがさへ手の跡を幾許いくつとなく捺なすり付又餞別に貰もらひし襦袢じゆばん風呂敷ふろしきへも血を塗て着きたる衣服いふくの所々を切裂きりさきこれへも血を夥多したゝかに塗付ぬりつけ誰たれが見ても盜賊たうぞくに切殺れたる體ていに拵こしらへ扨犬の死骸しがいは壓おもりを付て海へ沈しづめ其身は用意の伊勢參宮いせまゐりの姿すがたに改め彼二品しなを莚包むしろづゝみとして背負せおひ柄杓ひしやくを持て其場を足早あしばやに立去しは恐おそろしくもまた巧たくみなる企くはだてなり稍五ツ時頃に獵師れふしの傳九郎といふが見付みつけ取散せし笈摺おひずる并に菅笠すげがさを見れば血に塗まみれたる樣子は全たく人殺ひとごろしにて骸からだは海へ投込なげこまれしなるべしと早速さつそく土地ところの名主へ屆とゞけゝれば年寄等としよりらが來り改あらためしに死骸しがいは見えねども人殺しに相違さうゐなければ等閑なほざりならぬ大事なりと此段このだん奉行所へも屆出とゞけいでしにぞ其事平野村へ聞えければ同村の者共馳來はせきたれり此品々を見れば一々寶澤へ餞別せんべつに遣つかはしたる品に相違さうゐなし依て平野村の者より右の次第を濱奉行に訴うつたへ私し共見覺みおぼえある次第を述のべ村方感應院と申す山伏やまぶしが昨今病死びやうしし其弟子でし當たう十四歳なる者五ヶ年間諸國修行しよこくしゆぎやうの願にて昨日出立につき村中よりせん別べつに遣つかはしたる金子は八兩貳歩ぶあり此品々も跡々あと〳〵より贈おくりし物ものなり幼年にて多分たぶんの金子を所持しよぢし候を見付られ斯かくの仕合しあはせ全く賊ぞくの爲に切害せつがいせられ候なるべしと申上ければ濱奉行はまぶぎやうも是を聞きゝ如何樣盜賊たうぞくの所爲しよゐなるべし此品々は其方共へ戻もどす譯わけには參らず欠所藏けつしよぐらへ入置るゝなり何分にも不便ふびんの至りなりとて其場は相濟あひすみたり偖さても寶澤は加田浦にて盜賊たうぞくに殺され不便の者なりとて師匠ししやう感應院の石塔せきたふの側そばに形かたばかりの墓はかを立てられ村中替々かはる〴〵香花かうげを手向たむけ跡あと念頃ねんごろに弔とふらひけるとなん


第八回


 寶澤は盜賊たうぞくに殺害せつがいされし體ていに拵こしらへ事十分調とゝのひぬと身は伊勢參宮いせまゐりの姿なりに窶やつし一先九州へ下り何所いづかたにても足を止め幼顏をさながほを失うしなひて後に名乘なのり出んものと心は早くも定めたり先まづ大坂へ出いで夫より便船びんせんを求めて九州へ赴おもふかんと大坂にて兩三日逗留とうりうし所々を見物けんぶつし藝州迄げいしうまでの便船びんせんあるを聞出きゝだして此を頼み乘しが順風じゆんぷうなれば日ならずして廣島の地に着ちやくせしかば先廣島を一見けんせんと上陸じやうりくをぞなしにける抑々そも〳〵此廣島は大坂より海上かいじやう百里餘にて當所たうしよ嚴島いつくしま大明神だいみやうじんと申は推古天皇すゐこてんわうの五年に出現しゆつげんましませし神なり社領しやりやう千石あり毎月六日十六日祭禮さいれいなり其外三女神によじんの傳あり七濱なゝはま七夷等なゝえびすとうを廻まはり夫より所々を見物けんぶつしける内一疋ぴきの鹿しかを追駈おつかけしが鹿の迯にぐるに寶澤は何地迄いづくまでもと思あとを慕したひしも終つひに鹿は見失ひ四方あたりを見廻みめぐらせば遠近をちこちの山の櫻さくら今を盛さかりと咲亂さきみだれえも云れぬ景色けしきに寶澤は茫然ばうぜんと暫し木蔭こかげに休やすらひて詠ながめ居たり此時遙はるかの向むかうより年頃四十許ばかりの男身みに編綴へんてつといふを纏まとひ歩行あゆみ來りしが怪あやしやと思ひけん寶澤に向ひて名を問とふ寶澤答こたへて我は徳川無名丸むめいまると申す者なり繼母けいぼの讒言ざんげんにより斯は獨旅ひとりたびを致す者なり又其許もとは何人にやと尋たづね返かへせば彼者かのもの芝原しばはらへ手を突つかへ申けるは徳川と名乘なのらせ給ふには定さだめて仔細しさいある御方なるべし某それがし事は信濃國諏訪すはの者にて遠州屋ゑんしうや彌次六と申し鵞湖散人がこさんじんまた南齋なんさいとも名乘候下諏訪しもすはに旅籠屋はたごや渡世とせい仕つれり若も信州邊しんしうへんへ御下りに成ば見苦みぐるしくとも御立寄あるべし御宿仕らんと云にぞ寶澤は打點頭うちうなづき扨さては左樣の人なるか某それがしも此度據よんどころなき事にて九州へ下るなれ共此用向の濟すみ次第しだいに是非とも關東くわんとうへ下向の心得なれば其節そのせつは立寄申べしと契約けいやくし其場は別わかれたり扨さて寶澤は九州路ぢを徊歴くわいれきし肥後國ひごのくに熊本の城下じやうかに到りぬ爰こゝは名に負おふ五十四萬石なる細川家ほそかはけの城下なれば他所とは替かはり繁昌はんじやうの地なり寶澤は既に路用ろようを遣つかひ盡しはや一錢も無なくなりいと空腹くうふくに成しに折節をりふし餠屋もちやの店先みせさきなりしが彳たゝずみて手の内を乞と暫しばし縁えんの下もとに休やすらひぬ餠屋もちやの店には亭主ていしゆと思しき男の居たりしかば寶澤其男に向むかひ申けるは私しは腹痛ふくつう致し甚だ難澁なんじふ致せば藥くすりを飮のみたし御面倒樣めんだうさまながら素湯さゆ一ツ下されと乞こひけるにぞ其男は家内かないに云付心よく茶碗ちやわんへ湯を汲くみて與へたり寶澤は押戴おしいたゞき懷中くわいちうより何やらん取出して飮のむ眞似まねせり此時以前の男をとこ寶澤に向ひ尋けるは其方は年も行ゆかぬに伊勢參宮いせまゐりと見受たり奇特きどくの事なり何いづれの國の生うまれなるやと問ふ思慮しりよ深ふかき寶澤は紀州と名乘ば後々のち〳〵の障さはりなるべしと早くも心付態わざと僞いつはりて私しは信州の生うまれにて候と云亭主ていしゆ此を聞て眉まゆを顰ひそめ信州と此熊本とは道程みちのり四五百里も隔へだたりぬらんに伊勢いせ參宮より何ゆゑ當國迄たうごくまでは參りしやと不審ふしんを打うたれ敏速さそくの寶澤は空泣そらなきして扨さても私しの親父おやは養子やうしにて母は私しが二ツの年病死びやうしし夫より祖ば母ばの養育やういくに成長ひとゝなりしが十一歳の年に親ち父ちは故郷こきやうの熊本へ行とて祖ば母ばに私しを預あづけ置て立出たちいでしが其後一向に歸り來らず然に昨年祖ば母ばも病死びやうしし殘るは私し一人と成り切せめては今一度對面たいめんし度と存ず夫故に伊勢參宮より故郷こきやうを跡あとにして遙々はる〴〵と父の故郷は熊本くまもとと聞海山うみやま越こえて此處迄は參り候へ共何程いかほど尋ても未だ父の在所ありかが知しれ申さず何成いかなる過去くわこの惡縁あくえんにて斯は兩親に縁えん薄うすく孤子みなしごとは成候かと潸然々々さめ〴〵と泣沈なきしづめば餠屋もちやの亭主も貰もらひ泣なきし偖々さて〳〵幼少えうせうにて氣の毒な不仕合ふしあはせ者かなと頻しきりに不便ふびん彌増いやまし偖さて云やう其方の父は熊本と計ばかりでは當所も廣ひろき城下じやうかなれば分るまじ父の名は何と申し又商賣しやうばいは何渡世なにとせいなるやと尋ねられ寶澤は泣々なく〳〵父は源兵衞と申し餠屋商賣もちやしやうばいなりと口より出任でまかせに答こたへければ亭主は是を聞きき實事まことと思ひ然らば我等と同職どうしよくなれば委くはしく尋る程ならば譬たとへ廣き御城下じやうかでも知ぬ事は有まじ今夜こんやは此方このはうに泊とまり明日未明みめいより餠屋仲間なかまを一々尋ね見るべし我も仲間帳面なかまちやうめんを調しらべ遣やらんとて臺所へ上て休息きうそくさせける扨さて其日も暮くれに及び夕飯ゆふはんなど與へられ夜に入て亭主は仲間帳面なかまちやうめんを取出し源兵衞といふ餠屋や有と繰返くりかへし改めしに茗荷屋みやうがや源兵衞と云があり是は近頃遠國ゑんごくより歸し人と聞きゝ及ぶ定さだめて此これ成ならんと寶澤にも是由を云聞せ明朝みやうてうは其家に至り尋ぬべしと云れたり翌朝よくてう夫婦共に彼是と世話せわし件くだんの茗荷屋みやうがや源兵衞の町所を委くはしく書認かきしたゝめて渡されしにぞ寶澤は態わざと嬉うれしげに書付を持もち茗荷屋へと出行いでゆきたり其夕暮ゆふぐれ寶澤には歸り來りいと白々しら〴〵しく今朝こんてう茗荷屋源兵衞樣方へ參り尋ねたれど私の親父おやぢにては是なきゆゑ夫より又々所々しよ〳〵尋ねたれ共相知申さずと悄々しほ〳〵として述ければ餠屋夫婦も氣きの毒どくに思ひ其夜も泊とめて遣つかはし又翌朝よくてうも尋に出したれ共元來もとより知しれる筈はずはなし其夜寶澤は亭主に向むかひ申けるは扨々さて〳〵是迄淺あさからぬお情なさけにて御城下じやうかは荒あらまし尋ねたれども何分父の居所ゐどころは相知あひしれ申さず何時迄いつまでも仇あだに月日を送らんも勿體もつたいなし明日よりは餠もちを背負せおひてお屋敷や又は町中まちぢうを賣ながら父を尋ね度存ぞんずるなり此上のお情なさけに此儀を御許おゆるし下くだされなば有難しと餘儀よぎなげに頼むに夫は宜よき思付おもひつきなり明日より左樣さやういたし心任こゝろまかせに父の在所ありかを尋ぬべしとて翌日より餠を背負せおはせて出せしに元より發明はつめいの生うまれなれば屋敷方やしきがたへ到りても人氣じんきを計り口に合あふやうに如才じよさいなく商あきなふゆゑに何時も一ツも殘のこさず皆みな賣うりて夕刻ゆふこくには歸り來り夫から又勝手かつてを手傳てつだひなどするにぞ夫婦は大に悦よろこび餠類もちるゐは毎日々々賣切うりきれて歸れば今は店みせにて賣より寶澤が外そとにて商あきなふ方が多き程になり夫婦は宜者よきものを得えつと名も吉之助と呼び實子じつしの如く寵愛ちようあいしけり或夜夫婦は寢物語ねものがたりに吉之助は年に似氣にげなき利口者りこうものにて何一ツ不足ふそくなき生れ付器量きりやうといひ人品迄よくも揃そろひし者なり我々に子無なければ年頃神佛しんぶつに祈いのりし誠心せいしんを神佛の感應かんおうまし〳〵天よりして養子やうしにせよと授け給ひし者成べし此家を繼つがせん者末頼母すゑたのもしと語合かたらふを吉之助潜ひそかに聞て心の内に冷笑あざわらへど時節を待まつには屈強くつきやうの腰掛こしかけなりと心中に點頭うなづきこれよりは別べつして萬事に氣をつけ何事も失費しつぴなき樣にして聊いさゝかでも利分をつけ晝夜ちうやとなく駈廻かけまはり働はたらく程に夫婦は又なき者と慈いつくしみける扨も此餠屋このもちやと云は國主こくしゆ細川家の御買物方の御用達ようたしにて御城下に隱かくれもなき加納屋かなふや利兵衞とて巨萬きよまんの身代なる大家に數年來實體じつていに奉公を勤つとめ近年きんねん此餠屋の出店を出だして貰もらひ夫婦とも稼暮かせぎくらす者なりフト吉之助の來てより家業かげふも忙いそがしく大いに身代しんだいを仕出たり光陰くわういん矢やの如く享保きやうほも七年とは成ぬ吉之助も當年たうねんは十八歳と成けり夫婦相談さうだんして當年の内には吉之助へも云聞いひきかせ良辰りやうしんを撰みて元服げんぷくさせ表向養子やうしの披露ひろうもせんとて色々其用意よういなどしける處に或時本店ほんてんの加納屋より急使きふつかひ來り同道にて參るべしとの事故餠屋もちやの亭主ていしゆは大いに驚き何事の出來せしやと取物とるものも取敢ず急いそぎ本店へ赴おもむきけるに利兵衞は餠屋を奧おくの一間へ呼入れ時候じこうの挨拶あいさつ終をはり扨云やう今日其方を招まねきしは別儀にも非ず此兩三年はお屋敷やしきの御用も殊の外鬧敷いそがしく相成ど店の者無人むにんにて何時も御用の間を缺かき甚はなはだ困こまり入が承まはれば其方に召仕めしつかふ吉之助とやらんは殊の外發明者はつめいものの由なり拙者方せつしやがたへ召使めしつかひたしとの事なるが何共迷惑めいわくに思ども主人の頼たのみなれば否いやとも云れず據よんどころなく承知なし早々我家へ歸り女房にようばうにも此事を相談さうだんしければ妻も致し方なく頓やがて吉之助を呼よび今日本店ほんてんよりの使は斯々にて本店ほんだな無人に付暫しばらくの内其方を借かりたしとの事なり未だ其方に話はなしは致さねども當年たうねんの内には元服げんぷくさせ養子にせんと思しも本店へ引取ひきとられては我が所存しよぞんも空むなしく殘念ざんねんなれども外々ならば如何樣にも斷ことわり申すべきが本店の事なれば是非ぜひに及ばず明日よりは彼處かしこへ參り一入しほ出精しゆつせいし奉公致し呉くれべしと申渡しければ吉之助は心中に悦よろこび是ぞ運うんの向處むかふところなり我われ大家に入込まば一仕事が成べしと思ふ心を色にも見みせず態わざと悄々しほ〳〵として是迄の厚あつき御高恩ごかうおんを報じもせずして他家たけに奉公致す事は誠まことに迷惑めいわくなれども御本店の事なれば致いたし方なしと誠に餘儀よぎなき體ていに挨拶あいさつをぞなしにける


第九回


 然程さるほどに吉之助は其翌日そのよくじつ彼かの加納屋利兵衞方へ引移ひきうつり元服して名をば吉兵衞と改め出精しゆつせいして奉公しける程に利發者りはつものなれば物の用に立事古參こさんの者に増まさりければ程なく番頭ばんとう三人の中にて吉兵衞きちべゑには一番上席じやうせきとなり毎日々々細川家ほそかはけの御館おやかたへ參り御用を達たつしける萬事利發りはつの取廻とりまはしゆゑ重役衆ぢうやくしうには其樣に計はからひ下役人へは賄賂わいろを贈おくり萬事ばんじ拔目ぬけめなきゆゑ上下擧こぞつて吉兵衞を贔屓ひいきし御用も追々多くなり今は利兵衞方りへゑかたにても吉兵衞なくては叶かなはぬ樣に相成けり然共されども吉兵衞は少も高たかぶらず傍輩はうばい中なかも睦むつましく古參こさんの者へは別べつして親したしみける故内外うちそと共に評判ひやうばんよく利兵衞が喜よろこび大方ならず無二者またなきものと思ひけり然しかるに吉兵衞は熟々つら〳〵思案しあんするに最早もはや紀州を立退たちのき夥多あまたの年を過すごしたれば我幼顏わがをさながほも變り果はて見知る者無るべし然さらば兩三年の内には是非々々大望たいまうの企くはだてに取掛とりかゝるべし夫に付ては金子きんすなくては事成就じやうじゆし難がたし率や是よりは金子の調達てうだつに掛らん物をと筆先ふでさき十露盤玉そろばんだまにて掠かすめ始めしが主人は巨萬きよまんの身代なれば少しの金には氣きも付ず僅わづかに二年の内に金子きんす六十兩餘を掠かすめ取とり今は熊本に長居ながゐは益やくなし近々に此土地を立去たちさらんと心に思ひ定さだめける頃しも享保きやうほ十巳年みどし十二月二十六日の事なりし加納屋方にて金四十七兩二分細川家ほそかはけの役所より請取うけとるべき事あり右の書付かきつけを認したゝめ吉兵衞に其方此書付に裏印形うらいんぎやうを申請御金おかね會所くわいしよにて金子受取參るべしと云遣いひやりけるにぞ吉兵衞は彼かの書付を懷中くわいちうなし爰こゝに彌々いよ〳〵決心し兼て勝手かつてを知し事なれば御勘定ごかんぢやうの部屋へやに到り右の書付かきつけを差出ければ役人は是を改あらため見るに金四十七兩二歩とあり頓やがて調印てういんをなし渡わたされたり此部屋このへやに勘定役四五人有ありて夫々に拂方はらひかたを改ため相違さうゐなければ役所にて金子何程なにほど錢ぜに何貫文なんぐわんもん書付に引合せて渡わたさるべしと裏印うらいんなし其書を金方かねかたの役所へ廻まはし金方にて拂はらひを渡す事なり今いま吉兵衞が差出たる書付かきつけも役人が改あらため添書そへしよに右の通り認したゝめ調印てういんして渡わたしける此勘定部屋と金方役所かねかたやくしよとは其間三町を隔へだちたり吉兵衞は御勘定部屋より金方の役所へ行道ゆくみちにて件くだんの書付を出し見るに〆高しめだか金四十七兩二分と有しかば竊ひそかに腰こしより矢立やたてを取出し人なきを窺うかゞひ四十の四の字じの上へ一畫いちくわくを引ひいて百十七兩二歩と直なほし金方の役所へ到り差出し加納屋利兵衞御拂おんはらひを下くださるべしといふ役人やくにん請取うけとり改あらたむるに勘定方かんぢやうかたの添書そへしよ印形いんぎやうも相違なければ頓やがて百十七兩二分の金子を吉兵衞に渡わたされたり吉兵衞は悠々いう〳〵と金子を改め一禮れい述のべて懷中くわいちうし歸宅きたくの上主人利兵衞へは四十七兩二歩を渡わたし殘のこり六十兩は己おのれが物ものとし是迄に掠取かすめとりし金と合せ見るに今は七百兩餘に成ければ最早もはや長居ながゐは成難しと或日役所やくしよにて態わざと聊いさゝかの不調法ぶてうはふを仕出し主人へ申譯立難たちがたしとて書置かきおきを認したゝめ途中とちうより加納屋へ屆とゞけ其身は直すぐに熊本を立退たちのき先まづ西濱指さして急ぎ行ゆけり此西濱と云は湊みなとにて九州第一の大湊おほみなとなり四國中國上方筋かみがたすぢへの大船は何いづれも此西濱より出すとなり然しかるに加納屋利兵衞方にて此度このたび天神丸てんじんまると名付し大船を造つくり極月ごくげつ廿八日は吉日なりとて西濱にて新艘卸しんざうおろしをなし大坂へ廻まはして一商賣ひとしやうばいせん積つもりなりし此事は兼かねて吉兵衞も承知しようちの事なれば心に思ふ樣是より西濱にしはまに到り船頭せんどうを欺あざむき天神丸の上乘うはのりして上方筋かみがたすぢへ赴おもふかんと胸むねに巧たくみ足を早めて西濱に到いたりければ天神丸ははや乘出のりいださん時なり吉兵衞は大音だいおん上あげオヽイ〳〵と船を招まねけば船頭せんどう杢右衞門もくゑもんが聞つけ何事ならんと端舟てんまを卸おろして漕寄こぎよせ見れば當時本店ほんてんにて日の出の番頭ばんとう吉兵衞なれば杢右衞門もくゑもんは慇懃いんぎんに是は〳〵番頭樣には何なに御用ごようにて御出いで成なされしやと尋ければ吉兵衞答こたへて御前方おまへがたも兼て知らるゝ如く此吉兵衞は是迄精心せいしんを盡つくして奉公せし故御主人方ごしゆじんがたにても此兩三年は餘程の利分りぶんを得られたれば此度このたび旦那だんなの仰おほせに別家べつけでも出し遣つかはすべきか幸ひ天神丸の新艘卸しんざうおろしなれば其方上乘うはのりして大坂へなり又は江戸へなり勝手かつてな所で一旗はた揚あぐべしとて手元金として七百兩を下くだされたり若も商賣しやうばいの都合つがふで不足なれば何程でも助力じよりきして遣つかはさんと御主人の厚あつきお心入辭退じたいも成ず夫故斯かく火急くわきふの出立にて參りしなり今日より天神丸の上乘うはのり方と成り一まづ上方かみがたへ參る積つもりなりと申ければ船頭せんどう杢右衞門は是を聞きいて大きに悦よろこび是迄何事に依よらず御運うん強つよき吉兵衞樣の商賣初しやうばいはじめといひ天神丸の新艘卸しんざうおろし傍々かた〴〵以て御商賣しやうばいは御利運ごりうんに疑ひなしお目出度めでたし〳〵と祝いはひつゝ吉兵衞を端舟てんまに乘のせて天神丸へぞ乘移のりうつしけり扨さて杢右衞門もくゑもんは十八人の水主かこを呼出よびだし一人一人に吉兵衞に引合ひきあはせ此度は番頭ばんとう吉兵衞樣御商賣のお手初てはじめ新艘しんざうの天神丸の上乘成うはのりなさるゝとの事なり萬事ばんじ御利發ごりはつのお方なり正月三日のお祝いはひは番頭樣ばんとうさまの奢おごり成ぞ皆々悦び候へと語りければ水主等かこらは皆々手を突ついて挨拶あいさつをぞなしたり其夜吉兵衞には酒肴しゆかうを取寄とりよせ船頭せんどうはじめ水主かこ十八人を饗應もてなし酒宴しゆえんを催もよほしける明れば極月ごくづき廿九日此日は早天より晴渡はれわたり其上追手おつての風なれば船頭杢右衞門は水主共かこどもに出帆しゆつぱんの用意よういをさせ然さらばとて西濱の港より友綱ともつなを解とき順風じゆんぷうに眞帆まほ十分に引上ひきあげ走らせけるにぞ矢を射いる如く早くも中國四國の内海ないかいを打過うちすぎ晝夜の差別さべつなく走はしりて晦日みそかの夜の亥ゐの刻こく頃ごろとは成れり船頭せんどう杢右衞門は漸やうやく日和ひよりを見て水主等かこらに此處は何所いづこの沖おきなるやと尋けるに水主等は確しかとは分らねど多分たぶんは兵庫ひやうごの沖おきなるべしと答けるにぞ杢右衞門もくゑもんは吉兵衞に向むかひ番頭樣貴所あなたの御運の能よきゆゑに僅たつた二日二夜で數す百里りの海路かいろを走り早攝州せつしう兵庫の港みなとに參たり明朝みやうてうは元日の事なれば爰にて三ヶ日の御規式おぎしきを取行ひ四日には兵庫の港みなとなり共大阪の川尻かはじりなり共思し召に任まかせ着船ちやくせんすべしと云ふ吉兵衞熟々つら〳〵考ふるに今大阪へ上あがりても兵庫へ着つきても船頭せんどうが熊本へ歸り斯樣々々かやう〳〵と咄はなさば加納屋利兵衞方より追手おつてを掛んも計難はかりがたし然ば一先遠とほく江戸表えどおもてへ赴おもむきて事を計はからふに如ずと思案し杢右衞門もくゑもんに向申けるは我種々いろ〳〵と思案しあんせしが當時大阪よりは江戸表えどおもての方かた繁昌はんじやうにて諸事便利べんりなれば一先江戸を廻めぐりて商賣しやうばいを仕たく思ふなり太儀たいぎながら天氣を見定みさだめ遠く江戸廻えどまはりして貰もらひたしといふ杢右衞門は頭かしらをかき是迄の海上かいじやうの深淺しんせんは能よく存ぞんじたれば水差みづさしも入らざりしが是から江戸への海上かいじやうは當所たうしよにて水差を頼たのまでは叶ふまじといへば吉兵衞は夫それは兎も角も船頭せんどう任まかせなれば宜よき樣やうに計はからひ給へとて其議に決し此所こゝにて水差を頼たのみ江戸廻まはりとぞ定めける


第十回


 享保十巳年みどしも暮くれ明れば同おなじき十一午年うまどしの元日天神丸てんじんまるには吉兵衞始はじめ船頭杢右衞門もくゑもん水主かこ十八人水差みづさし一人都合つがふ二十一人にて元日の規式ぎしきを取行ひ三が日の間あひだは酒宴しゆえんに日を暮し己おのが樣々の藝げい盡つくして興きようをぞ催もよほしけるが三日も暮くれはや四日と成なりにける此日は早天さうてんより長閑のどかにて四方晴渡はれわたり海上青疊あをだたみを敷たる如く青あをめき渡わたりければ吉兵衞も船頭せんどうも船表ふなおもてへ出て四方を詠ながめ波なみ靜しづかなる有樣を見て吉兵衞は杢右衞門に向ひ兵庫ひやうごの沖おきを今日出帆しゆつぱんせんは如何といふ杢右衞門は最早もはや三が日の規式ぎしきも相濟あひすみ殊に長閑のどかなる空そらなれば御道理ごもつともなりとて水差みづさしを呼て只今番頭樣ばんとうさまより今日は殊ことによき日和ひよりゆゑ出帆しゆつぱんすべしとの事なり我等も左樣さやうに存ずれば急いそぎ出帆しゆつぱんの用意有べしといふ水差みづさし是を聞て如何にも今日は晴天せいてんにて長閑のどかにはあれど得て斯樣かやうなる日は雨下あまおろしといふ事あり能々天氣を見定みさだめて出帆しゆつぱん然るべしといふ吉兵衞始はじめ皆々今日のごとき晴天せいてんによも雨下あまおろしなどの難なんは有べからずと思へば杢右衞門又々水差みづさしに向ひ成程足下そくかの云るゝ處も一理なきにも有ねど餘あまり好よき天氣てんきなればよも難風なんぷうなど有まじく思ふなり強おして出帆しゆつぱんすべく存ずると云に水差みづさしも然ばとて承知し兵庫の沖おきをぞ出帆したり追々おひ〳〵風かぜも少し吹出ふきいだし眞帆まほを七分に上て走はしらせハヤ四國の灘なだを廻り凡およそ船路ふなぢにて四五十里も走はしりしと思ふ頃吉兵衞は船ふねの舳みよしへ出て四方を詠ながめ居たりしが遙はるか向むかうに山一ツ見えけるにぞ吉兵衞は水差みづさしに向ひ彼あの高き山は何國いづくの山なりや畫ゑに描かきし駿河の富士山ふじさんに能よくも似たりと問ふ水差みづさし答こたへて那山あのやまこそ名高き四國の新富士しんふじなりと答ふる折をりから此こは抑何そもいかに此山の絶頂ぜつちやうより刷毛はけにて引し如き黒雲くろくもの出しに水差は仰天ぎやうてんしすはや程なく雨下あまおろしの來るぞや早く用心ようじんして帆を下さげよ錨いかりをといふ間も有あらばこそ一陣ぢんの颺風はやて飄さつと落おとし來るに常の風かぜとは事こと變かはり潮うしほ波を吹出て空そらは忽たちまち墨を流ながせし如く眞闇まつくらやみとなり魔風まふうます〳〵吹募ふきつのり瞬時間またゝくまに激浪あらなみは山の如く打上うちあげ打下うちおろし新艘しんざうの天神丸も今や覆くつがへらん形勢ありさまなり日頃大膽だいたんの吉兵衞始め船頭せんどう杢右衞門十八人の水主かこ水差都合二十一人の者共肝きもを消けし魂たましひを飛とばし更に生いきたる心地もなく互たがひに顏かほを見合せ思ひ〳〵に神佛しんぶつを祈いのり溜息ためいきを吐つくばかりなり風は益々強つよく船を搖上ゆりあげ搖下ゆりおろし此方こなたへ漂たゞよひ彼方へ搖ゆすれ正月四日の朝あさ巳みの刻こくより翌五日の申さるの刻こくまで風は少しも止やまず吹通ふきとほしければ二十一人の者共は食事しよくじもせす二日ふつか二夜ふたよを風に揉もまれて暮したり漸やうやく五日の申さるの下刻げこくに及び少し風も靜しづまり浪も稍やゝ穩おだやかに成ければ僅わづかに蘇生そせいの心地して悦よろこびしが間もなく其夜の初更しよかうに再び震動しんどう雷電らいでんし颶風ぐふう頻しきりに吹起ふきおこり以前に倍ばいして強つよければ船ふねは搖上ゆりあげ搖下ゆりおろされ今にも逆卷さかまく浪なみに引れ那落ならくに沈しづまん計りなれば八寒かん八熱ねつの地獄ぢごくの樣も斯かくやとばかり怖おそろしなんども愚おろかなり看々みる〳〵山の如き大浪おほなみは天神丸の胴腹どうはらへ打付たれば哀あはれやさしも堅固けんごに營しつらへし天神丸も忽地たちまち巖石がんせきに打付られ微塵みぢんに成なつて碎くだけ失たり氣早きばやき吉兵衞は此時早くも身構みがまへして所持の品は身に付ゐたるが天神丸の巖石に打付うちつけられし機會はずみに遙はるかの岩の上へ打上られ暫しばしは正氣しやうきも有ざりける稍やゝ時とき過すぎて心付拂ほつと一息いき吐つき夢ゆめの覺し如く然さるにても船は如何せしやと幽かすかに照てらす宵月よひづきの光りに透すかし見ば廿人の者共は如何にせしや一人も影かげだになし無漸むざんや鯨魚くぢらの餌食ゑじきと成しか其か中にても我われ獨ひとり辛からくも命いのち助たすかりしは能々よく〳〵運うんに叶かなひし事かな然されど二日二夜海上に漂たゞよひし事なれば身心しんしん勞つかれ流石さすがの吉兵衞岩の上に倒たふれ伏ふし歎息たんそくの外は無りしが衣類いるゐは殘らず潮しほに濡ぬれ惣身そうしんよりは雫しづく滴したゝり未だ初春しよしゆんの事なれば餘寒よかんは五體に染渡しみわたり針はりにて刺さゝれる如くなるを堪こらへて吉兵衞漸々やう〳〵起上おきあがり大事を抱かゝへし身の爰にて空むなしく凍死こゞえしなんも殘念ざんねんなりと氣を勵はげまし四方を見廻みまはせば蔦葛つたかつら下さがりて有あるを見付是ぞ天の與あたへなりと二品しなの包みを脊負せおひ纒まとふ葛を力草ちからぐさ漸々やう〳〵と山へ這上はひあがりて見ば此は何いかに山上は大雪おほゆきにて一面の銀世界ぎんせかいなり方角はうがくはます〳〵見分がたく衣類いるゐには氷柱つらゝ下さがり汐しほに濡ぬれし上を寒風に吹晒ふきさらされ髮かみまで氷りて針金はりがねの如くなれば進退しんたい茲こゝに極まりて兎にも角にも此處で相果あひはつる事かと思ふ計ばかりなり時に吉兵衞倩々つら〳〵思に我われ江戸表えどおもてへ名のり出て事露顯ろけんに及時は三尺高たかき木の上そらに命いのちを捨る覺悟かくごなれども今爰こゝて阿容々々おめ〳〵凍死こゞえしなんは殘念なり人家じんかは無事かと凍こゞえし足を曳ひきながら遙はるか向ふの方に人家らしき處ところの有を見付みつけたれば吉兵衞是に力を得えて艱苦かんくを忍しのび其處を目當に雪ゆきを踏分々々ふみわけ〳〵たどり行ゆきて見れば人家にはあらで一簇ひとむらの樹き茂しげりなれば甚いたく望みを失ひはや神佛しんぶつにも見放みはなされ此處にて一命の果はてる事かと只管ひたすら歎なげき悲かなしみながら猶も向を詠ながめやれば遙はるか向ふに燈火ともしびの光のちら〳〵と見えしに吉兵衞漸やうやく生いきたる心地こゝちし是ぞ紛まがひなき人家ならんと又も彼火かのひの光ひかりを目當めあてに雪ゆきを踏分々々ふみわけ〳〵たどり行て見ば殊の外なる大家なり吉兵衞は衣類いるゐも氷柱つらゝ垂たれ其上二日二夜海上に漂たゞよひ食事しよくじもせざれば身體しんたい疲つかれ果はて聲も震ふるへ〳〵戸の外そとより案内を乞こひしに内よりは大音にて何者なにものなるや内へ這入はいるべしといふ吉兵衞大いに悦よろこび内へ入りて申やう私し儀は肥後國ひごのくに熊本の者なるが今日の大雪おほゆきに道みち踏迷ふみまよひ難澁なんじふいたす者なり何卒なにとぞ御情なさけにて一宿しゆく一飯ぱんの御惠おんめぐみを願奉ると叮嚀ていねいに述ければ圍爐裡ゐろりの端はたに年頃卅六七とも見ゆる男の半面はんめんに青髭あをひげ生はえ骨柄こつがらは然さのみ賤いやしからざるが火に煖あたりて居たりしが夫は定さだめし難澁なんじふならん疾々とく〳〵此方こなたへ上あがり給へ併し空腹くふふくとあれば直すぐに火に煖あたるは宜よろしからず先々臺所だいどころへ行て食事しよくじいたし其後ご火の邊へんへ依より玉へと最いと慇懃ねんごろに申けるに吉兵衞は地獄ぢごくで佛ほとけに逢あふたる心地なし世にも情なさけあるお詞ことばかなと悦び臺所だいどころへ到りて空腹くうふくの事ゆゑ急ぎ食事しよくじせんものと見れば何いづれも五升も入べき飯櫃めしびつ五ツ竝ならべたり飯めしも焚立たきたてなりければ吉兵衞は大きに不審ふしんし此樣子このやうすでは大勢おほぜいの暮しと見えたれども此程の大家に男は留守るすにもせよ女の五人や三人は居をるべきに夫と見えぬは最いと不審いぶかし如何なる者の住家すみかならんと思ひながら飢うゑたる儘まゝに獨り食事しよくじし終り再び圍爐裡ゐろりの端はたへ來りて彼かの男に厚あつく禮を述のべければ先々緩ゆるりと安座あんざして火に煖あたり給へといふ吉兵衞は世にも有難ありがたく思ひ火に煖あたれば今まで氷たる衣類いるゐの雪も解とけて髮かみよりは雫しづく滴したゝり衣服は絞しぼるが如くなれば彼かの男もこれを見て氣の毒どくにや思ひけん其衣類そのいるゐでは嘸さぞかし難儀なんぎなるべし麁末そまつなれども此方の衣服いふくを貸かし申さん其衣類は明朝みやうてうまで竿さをにでも掛て乾ほし玉へと殘のこる方なき心切なる言葉ことばに吉兵衞はます〳〵悦よろこび衣類を借かりて着替きかへ濡ぬれし着類きるゐは竿さをに掛け再び圍爐裡ゐろりの端はたへ來りて煖あたれば二日二夜の苦くるしみに心身しんしん共ともに勞つかれし上今十分に食事しよくじを成して火に煖あたゝまりし事なれば自然しぜんと眠氣ねふけを催もよほしける然されど始めて宿り心も知れざる家なれば吉兵衞は氣を張はり居をれども我知しらず頻しきりに居眠ゐねぶりけるを彼男は見兼みかねたりけん客人には餘程草臥くたびれしと見えたり遠慮ゑんりよなく勝手かつてに休み給へ今に家内の者共が大勢おほぜい歸り來るが態々わざ〳〵起おきて挨拶あいさつには及ばず明朝まで緩ゆるりと寢ねられよ夜具やぐは押入おしいれに澤山たくさんありどれでも勝手に着玉へ枕まくらは鴨居かもゐの上に幾許いくつもありいざ〳〵と進めながら奧座敷おくざしきは差支さしつかへ有れば是へは猥みだりに這入はいり給ふな此儀は屹度きつと斷ことわりたりと云ふに吉兵衞委細ゐさい承知しようちし然らば御言葉ことばに隨したがひ御免蒙ごめんかうむるべしとて次の間へ到いたり押入を明あけて見るに絹布けんぷ木綿もめんの夜具やぐ夥多おびたゞしく積上つみあげてあり鴨居かもゐの上には枕の數かず凡そ四十許ばかりも有んと思はれます〳〵不審ふしんな住家すみかなりと吉兵衞は怪あやしみながらも押入おしいれより夜具取出して次の間へこそ臥ふしたりける


第十一回


 扨も吉兵衞が宿やどりたる家の主人を何者なにもの成なると尋るに水戸中納言殿みとちうなごんどのの御家老職ごからうしよくに藤井紋太夫もんだいふと云ふあり彼柳澤が謀叛むほんに組くみして既に公邊こうへんの大事にも及べき處を黄門光圀卿くわうもんみつくにきやうの明察めいさつに見露みあらはし玉ひお手討に相成あひなりける然るに紋太夫に一人の悴せがれあり名を大膳だいぜんと呼べり親紋太夫の氣を受繼うけつぎてや生得しやうとく不敵ふてきの曲者くせもの成なれば一家中に是を憎まぬ者なし紋太夫が惡事露顯ろけんの節せつに扶持高ふちたかも住宅をも召上めしあげられ大膳は門前拂はらひとなり據よんどころなく水戸を立去り美濃國みのゝくに各務郡かゞみごほり谷汲たにくみの郷さと長洞村ながほらむらの日蓮宗にて百八十三箇寺の本寺なる常樂院の當住たうぢう天忠上人てんちうしやうにんと聞えしは藤井紋太夫が弟おとゝにて大膳が爲には實じつの伯父坊をぢばうなれば大膳は此長洞村へ尋ね來り暫しばらく此寺の食客しよくかくとなり居たりしが元より不敵の者なれば夜々よな〳〵往還わうくわんへ出て旅人を刧おびやかし路用ろようを奪うばひて己が酒色の料れうにぞ遣つかひ捨すてけり初の程は何者の仕業しわざとも知る者無なかりしが遂に誰云ふとなく旅人りよじんを剥はぐの惡黨は此頃常樂院の食客大膳と云ふ者の仕業なりとをさ〳〵評判ひやうばん高くなり何なんと無く影護うしろめだくなり此寺にも居惡ゐにくく餘儀なく此處を立退たちのき一先江戸へ出ん物と關東を心ざし東海道とうかいだうをば下りけり懷ふところ淋さびしければ道中にても旅人を害がいし金銀を奪うばひ酒色に酖ふけり急いそがぬ道も日數ひかず經へて漸やうやく江戸へ近づき神奈川宿の龜屋徳右衞門かめやとくゑもんといふ旅籠屋はたごやへ泊り隣となり座敷を窺うかゞへば女の化粧けしやうする動靜やうすなり何心なく覗のぞき込こめば年の頃は十八九の娘の容色きりやうも勝すぐれて美麗うつくしきが服紗ふくさより一ツの金包かねつゝみを取出し中より四五兩りやう分わけて紙に包み跡をば包て床とこの下へ入し嵩かさは百兩ほどなり強慾がうよくの大膳は此體このていを見るより粟々ぞく〳〵と喜び乍ながらも女の身として斯かゝる大金を所持し一人旅行りよかうするは心得がたしと先まづ宿やどの下女を招まねき密ひそかに樣子を尋たづねければ口惡善くちさがなき下女の習慣ならひ那あれこそ近在の大盡だいじんの娘御むすめごなるが江戸のさる大店おほだなへ嫁入よめいりなされしが聟樣むこさまを嫌きらひ鎌倉の尼寺あまでらへ夜通の積つもりにて行れるなり出入の駕籠舁かごかき善六といふが強たつての頼み今夜は茲こゝに泊られしなりと聞かぬ事まで喋々べら〳〵と話すを大膳は聞濟きゝすまし夫は近頃不了簡ふれうけんの女なりなど云いひ程ほどなく枕まくらには着つきたり已に其夜も追々おひ〳〵に更ふけわたり丑滿頃うしみつころとなりければ大膳は密ひそかに起出おきいで間あひの襖ふすまを忍明しのびあけぬき足に彼女を窺うかゞへば晝ひるの疲つかれかすや〳〵と休やすみ寢入ねいり居り夜具の上より床ゆかも徹とほれと氷の刄やいば情なさけなくも只一突つき女は苦痛くつうの聲も得立ず敢あへなくも息いき絶たえたれば仕濟しすましたりと床とこの下より件くだんの服紗包ふくさつゝみを取出し大膽にも己が座敷へ立戻たちもどり何氣なにげなき體ていにて明方近くまで一寢入し俄にはかに下女を呼起よびおこし急用なれば八ツ半には出立の積つもり成なりしが大に寢忘ねわすれたり直すぐに出立すれば何も入ず茶漬ちやづけを出し呉くれよと逆立せきたてられ下女は慌あわてて膳拵ぜんごしらへすれば大膳は食事を仕舞ひ用意も底々そこ〳〵に龜屋をこそは出立せり最前さいぜんの如く江戸の方へは行ゆかず引返ひきかへして足に任まかせて又また上かみの方へと赴きける主人の徳右衞門は表の戸を明あけしに驚き偵さすが旅宿屋やどやの主人だけ宵よひに斷ことわりもなき客の急きふに出立せしは何いかにも不審ふしんなりとて彼の座敷を改あらためしに變かはる事も無なければ隔となり座敷を窺うかゞふに是も靜しづかなれど昨日きのふ駕籠屋かごや善六に頼まれし若わかき女なればと案あんじて座敷へ入り見れば無慚むざんや朱あけに染そみて死しゐたり扨こそ彼侍かのさむらひが女を殺して立退たちのきしと俄にはかに上を下へと騷動さうどうし追人おつてを掛かけんもハヤ時刻じこくが延のびたり併し當人を取迯とりにがしては假令たとへ訴うつたへ出るとも此身の科とがは免まぬかれ難し殊ことには一人旅ひとりたびは泊とめぬ御大法ごたいはふなり女は善六の頼みなれば云譯いひわけも立たつべけれど侍さふらひの方は此方の落度おちどは遁のがれ難し所詮しよせん此事は蔽かくすに如しかじと家内の者共に殘のこらず口留くちどめして邊あたりの血も灑拭ふきぬぐひ死骸は幸ひ此頃植うゑし庭の梅の木を引拔ひきぬき深ふかく掘りて密ひそかに其下へ埋うづめける爰に駕籠舁かごかきの善六と云いふは神奈川宿にて正直しやうぢきの名を取とりし者なり昨日龜屋へ一宿を頼みし女中は今日は通駕籠とほしかごにて鎌倉迄かまくらまで行ゆくべき約束ゆゑ善六は朝早く龜屋へ來り亭主に斯かくと言入れ約束やくそくの駕かごが迎むかひに參りたりと云いはせたり徳右衞門は南無なむ三と思ふ色を隱かくし何氣なにげなき體にて彼女中の客人は今朝こんてう餘程よほど早はやく立たゝれたり貴樣の方へは行ゆかずやと云いふ善六頭かしらを振ふり左樣さやうの筈はずはなし其譯そのわけは昨日きのふ途中にて駕籠へ乘のる時とき駕籠蒲團かごふとん許ばかりでは薄うすしとて小袖を下に布しきしが今日も乘のらるゝ約束成なれば小袖は其儘そのまゝ我等が預あづかり置て只今持て參りたり然されば一應の咄はなしも無なくて出立すべき筈は無なしと云いへば徳右衞門押返おしかへしいや決して僞いつはり成ならず實じつに昨夜ゆうべ女中よりの咄には明日あす鎌倉の尼寺まで通駕籠とほしかごで參る約束はしたれ共那駕籠屋あのかごやは何とやらん心元こゝろもとなし明朝迎ひに參らば程能斷ことわり呉くれよと頼まれたり若もし僞いつはりと思はゞ家探やさがしなり共致さるべし何とて詮せんなき僞り申すべきやと云ひけるに善六は此を聞きゝ不審いぶかしとは思へ共兎とにも角かくにも爭あらそふも詮方せんかたなし勿論もちろん昨日きのふの駕籠賃かごちんはまだ受取うけとらず今日一所に貰もらふ筈なりしが早立しとなれば是非ぜひもなし過分くわぶんなれど此小袖は昨日の駕籠賃の質かたに預り置おくべしと善六は駕籠を舁かたげて出行たり跡あとは徳右衞門を始はじめ家内の者もホツト溜息ためいきを吐計つくばかりなり斯かくて善六は神奈川臺だいへ行て駕籠かごを下おろし棒組ぼうぐみと咄はなしけるは只今龜屋方の挨拶あいさつに昨夜ゆうべの女客の今朝早く出立せしとは不審ふしんなり殊に亭主の顏色かほいろといひ何共合點がてんの行ゆかぬ事なりと咄はなし居ゐる處へ江戸の方より十人計ばかりの男の羽織はおり股引もゝひきにて旅人とも見えず然さりとて又近所の者には非あらずと見ゆるが息いきを切きつて來りつゝ居合はせし善六に向ひ尋たづぬる樣に昨日年頃としのころ十八九の女の黒縮緬くろちりめんに八丈の小袖を襲着かさねぎせしが若もしや此道筋このみちすぢを通りしを見懸みかけられざりしや後あとの宿にて慥たしかに昨日の晝頃ひるごろに通りしと聞きけり若もし見當り玉はゞ教をしへ玉はれといふに善六は件くだんの小袖を取出し其尋そのたづぬる人は此小袖の主にや此は斯々かう〳〵にて今朝けさ迎むかひに參りしが龜屋の亭主に傳言でんごんして先刻お立なされしとの事なり此小袖このこそでは昨日の賃錢ちんせんに私が預りたり私へ沙汰さたなしに立れしは合點がてん行ゆかずと今も咄はなしてをる所なり不審ふしんに思はれなば精くはしくは龜屋にて尋ね給へといふにぞ中にも年倍としばいの男が進出すゝみいで尋たづぬるは此人に相違さうゐなし扨さても駕籠の衆しう種々いろ〳〵とお世話せわ忝かたじけなしと一禮れい述のべ實じつは我々仔細しさい有て其女中を尋たづぬる者なり何共御太儀ごたいぎながら今一應おう其旅籠屋そのはたごやまで案内して呉くれまじきやと云いふにぞ夫れは易き事なりと善六は先さきに立たち件くだんの人々を伴ともなひて龜屋徳右衞門方へ到り人々を亭主に引合はせぬ徳右衞門は一大事と尚なほも然氣さりげなく善六に答へし如く此者どもにも咄はなしたり然さらばとて十人の内より三人を鎌倉の尼寺あまでらへ遣つかはし殘り七人は其儘そのまゝ龜屋に宿やどりて鎌倉の安否あんぴを相待あひまちける其日の夕暮に及び尼寺へ行ゆきし人々は立歸たちかへりけるが女中にはまだ彼寺へは來らざる由なれば皆々みな〳〵只たゞ驚おどろく計ばかりなり就ついては龜屋徳右衞門に不審ふしんが掛り追々おひ〳〵疑うたがはしきこともあれば此事終つひに代官所の沙汰さたとなり吟味ぎんみ強つよくなりて龜屋徳右衞門の家内は殘のこらず呼出よびいだされ跡へ役人來りて家搜やさがしせしに庭の梅の木の下もとの土の新あたらしければ怪あやしとて掘發ほりおこすに果して女の死骸しがいの埋うづめ有ありしとぞ龜屋徳右衞門は其儘そのまゝ牢舍らうしやせられ度々の吟味ぎんみに始めて前の次第を逐ちく一に白状はくじやうには及およびぬ然されば殺害せしと思ふ當人を取逃とりにがし殊に御法度はつとの一人旅ひとりたびを泊とめし落度おちどの申譯立ちがたく罪は徳右衞門一人に歸きし長き牢舍らうしやのうち憐あはれむべし渠かれは牢死ろうしをぞなしたり一旦たんの不覺悟ふかくごにて終に一家の滅亡めつばうを來せしは哀れなりける災難さいなんなり


第十二回


 爰に大膳は神奈川の旅店はたごやにて婦人を切害せつがいし思ひ懸がけぬ大金を奪取うばひとりたれば江戸は面倒めんだうなるべし如しかず此より上方に取て返かへし中國より九州へ渡わたらんにはと遂つひに四國に立越たちこえしが伊豫國なる藤ふぢが原はらと云ふ山中に來り爰に一個ひとつの隱家かくれがを得て赤川大膳あかがはだいぜんと姓名を變へんじ山賊を業げふとして暫く此山中に住居しが次第々々に同氣どうき相求あひもとむる手下の出來いできしかば今は三十一人の山賊さんぞくの張本ちやうほんとなり浮雲ふうんの富とみに其日を送りける然るに一年ひととせ上方に住し折柄をりから兄弟の約やくを結むすびし藤井左京ふぢゐさきやうと云者あり此頃藤が原へ尋ね來り暫く食客と成なりて居たりしが時は享保十一午年うまどし正月五日の事なりし朝より大雪おほゆきの降出ふりいでしが藤井左京は大膳に向ひ某それがし去冬きよとうより此山寨このさんさいへ參り未だ寸功すんこうもなく空むなしく暮くらすも殘念ざんねんなり我も貴殿の門下となりし手始めに今日の雪を幸ひ麓ふもとの往來へ罷出まかりいで一當ひとあてあてんと存ぞんずるなり就ては御手下を我等に暫時ざんじ貸給かしたまへ一手柄ひとてがら顯あらはし申さんと云ふ大膳斯かくと聞て左京殿に我手を貸かすはいと易けれど此大雪では旅人たびびとも尾羽をはを束つかね通行する者あるべからず折角せつかく寒氣かんきを犯をかし行かれしとて思ふ如き鳥も罹かゝるまじ先まづ今日は罷やめに致し玉へ手柄は何時でも成できる事と押止おしとゞめけれど思ひ込こみたる左京は更に聞き入れず思立しが吉日なり是非とも參りたしと強たつての懇望こんまうなれば然程さほどに思はれなば兎も角もと手下の小賊せうぞくを貸與かしあたへたれば左京は欣然きんぜんと支度を調とゝのへ麓ふもとを指さして出で行きし跡に大膳は一人つぶやき左京めが己れが意地いぢを立んとて此大雪に出で行きたれ共ども何なんの甲斐かひやあらん骨折損ほねをりぞんの草臥くたびれ所得まうけ今に空手からてで歸り來こんアラ笑止せうしの事やと獨ひとり言ごと留守るすしてこそは居たりけり

却かへつて説とく吉兵衞は宿やどりし山家やまがの樣子何かに付て疑うたがはしき事のみなれば枕まくらには就けど寢ねもやらず越方こしかた行末ゆくすゑのことを案じながらも先刻せんこく主人あるじの言葉に奧の一間を見るなと固かたく制せいせしは如何なる譯わけかと頻しきりに其奧の間の見ま欲ほしくて密そつと起上おきあがり忍び足して彼座敷かのざしきの襖ふすまを押明おしあけ見れば此はそも如何に金銀を鏤ちりばめ言語ごんごに絶ぜつせし結構けつこうの座敷にて先まづ唐紙からかみは金銀の箔はく張付はりつけにて中央には雲間縁うんげんべりの二疊でふ臺だいを設まうけ其上に紺純子こんどんすの布團を二ツ重かさね傍かたはらに同じ夜具が一ツ唐紗羅紗たうざらさの掻卷かいまき一ひとツあり疊でふの左右には朱塗しゆぬりの燭臺しよくだいを立床の間には三幅對ぷくついの掛物香爐かうろを臺に戴いたゞいてあり不完全物ながら結構けつこうづくめの品のみなり内うちぞ床ゆかしき違棚ちがひだなには小さ口の花生はないけへ山茶花を古風に揷さしたり袋棚ふくろだなの戸二三寸明し中より脇差わきざしの鐺こじりの見ゆれば吉兵衞は立寄たちよりて見れば鮫鞘さめざやの大脇差なり手に取上とりあげ鞘さやを拂て見るに只今人を殺あやめしが如くまだ生々なま〳〵しき膏あぶらの浮ういて見ゆれば偵さすがに吉兵衞は愕然ぎよつとして扨ても山賊の住家なり斯かゝる所へ泊りしこそ不覺ふかくなれと後悔こうくわいすれど今は網裡まうりの魚函中かんちうの獸けものまた詮方せんかたぞ無なかりければ如何はせんと再び枕まくらに就つきながらも次の間の動靜やうすを如何ぞと耳みゝ振立ふりたてて窺うかゞへば折節をりふし人の歸り來りて語る樣は棟梁おかしらの仰おほせの通とほり今日は大雪なれば旅人は尾羽をばを縮ちゞめ案の如く徒足むだあしなりしとつぶやきながら臺所へ上あがる其跡に動々どや〳〵と藤井左京を初め立戻り皆々爐ろの端はたへ集まりぬ此時左京は大膳に向ひ貴殿の御異見ごいけんに隨したがはず我意がいに募つのりて參りしか此雪で往來には半人はんにんの旅客りよかくもなし夫ゆゑ諸方しよはうを駈廻かけまはり漸く一人の旅人たびびとを見つけ溌ばつさりやつて見れば一文なしの殼欠がらつけつ無益むやくの殺生せつしやうに手下の衆を勞らうし何とも氣毒きのどくの至りなり以來いらい此左京は山賊は止やめ申すと云ふに大膳呵々から〳〵と打笑ひ左京どの沙彌さみから長老ちやうらうと申し何事でも左樣甘うまくは行ぬ者なり山賊さんぞく迚とても其通り兎角辛抱しんばうが肝心かんじんなり石の上にも三年と云へば先づ〳〵氣長きながにし給へ其内には好事よきことも有るべし扨また我は今宵こよひの留守に勞らうせずして小千兩の鳥とりを押おさへたりと云ふに左京は是を聞きいて大いに訝いぶかり我々は大雪を踏分ふみわけ寒さむさを厭いとはず麓ふもとへ出て網あみを張はつても骨折損ほねをりぞんして歸へりしに貴殿は内に居て爐ろに煖あたり乍ら千兩程の大鳥を掛かけられしとは更に合點がてんの參らぬ事なり此は貴殿の異見いけんをも聞きかず徒骨むだぼね折をりしを嘲弄てうろうさるゝと思はれたりと云へば大膳は莞爾につこりと打笑うちゑみ否いなとよ此大膳何なにしに僞いつはりを申べき仔細しさいを知らねば疑うたがはるゝも道理もつともなりいで其譯そのわけは斯々なり宵に御身たちが出行いでゆきし跡へ年の頃廿歳許ばかりの容顏ようがん麗うるはしき若者來れり何いづれにも九州しう邊へんの大盡だいじんの子息むすこならずば大家たいけに仕つかはるゝ者なるべし此大雪に道みちを踏迷ふみまよひ此處へ來りて一宿しゆくを乞こひし故快こゝろよく泊とめ置おいて衣類は濡ぬれたれば此方のを貸かし遣つかはしたるが着替きかゆる時に一寸ちよつと見し懷中ふところの金は七八百兩と白眼にらんだ大膳が眼力がんりきはよも違たがふまじ明朝みやうてうまで休息きうそくさせ明日は道案内みちあんないに途中まで連出つれだして別わかれ際ぎはに只一刀大だいまいの金は手を濡ぬらさずと語る聲を次の間に寢入ねいりし風ふうの吉兵衞は委くはしく聞取り扨こそ案に違たがはざりし山賊の張本ちやうほんなりけり斯かく深々ふか〴〵と穽あなの内に落し身の今更いまさら迯にげるとも迯にがさんや去乍ら大望のある身をむざ〳〵と山賊どもの手に懸かゝり相あひ果はつるも殘念なりと頻しきりに思案しあんを廻めぐらしける此時藤井左京は大膳に向ひ某し近頃此地へ參り貴殿の門弟とは相成たれど未いまだ寸功すんこうも立てざれば切せめて今宵こよひ舞込まひこみし仕事は何卒拙者せつしやに料理方れうりかたを讓ゆづり給はるべし手始めの功とも致したく明朝あすとも云ず今宵の中に結果かたづけ申すべしと云ふに大膳のいふ樣貴殿が手始めの功にしたしと有るからは仕事を讓り申べしと聞きゝて左京は大に悦よろこび然さらば早々埓らち明あけんと立上るを大膳は暫しばしと押止おしとゞめ先々待たれよ今宵の仕事は袋ふくろの物を取り出すよりも易やすし先々まづ〳〵一盃ぱい呑のんだ上の事とて是より酒宴しゆえんを催もよほしける次の間なる吉兵衞は色々と思案し只此上は我膽力わがたんりよくを渠等かれらに知らせ首尾しゆびよく謀はからば毒藥も却かへつて藥になる時あらん此者共を刧おびやかし味方に付る時は江戸表えどおもてへ名乘なのり出いづるに必ず便利べんりなるべしと不敵にも思案を定め彼奧座敷に至り燭臺しよくだいに灯あかりを點ともし茵しとねの上に欣然きんぜんと座を占しめ胴卷どうまきの金子は脇わきの臺に差置さしおき所持の二品を恭々敷うや〳〵しく正面しやうめんの床とこに飾かざり悠々いう〳〵として控ひかへたり大膳左京の兩人は斯かゝこととは爭いかで知るべき盃の數も重かさなりて早十分に醉ゑひを發し今は好よき時分じぶんなり率いざや醉醒ゑひざめの仕事に掛らんと兩人は剛刀だんびらを携たづさへ次の間へ至りて見れば彼若者は居ず大膳不審ふしんに思ひ然さるにても慥たしかに此こ處こへ臥ねかせしに何方いづかたへも行ゆく氣遣きづかひなしと此所彼所と探さがして奧座敷へ至れば此は抑そも如何いかに若者は二疊でふ臺だいの上に威儀ゐぎ堂々だう〳〵と恐おそれ氣げも無なく控ひかへたれば兩人は肝きもを潰つぶし互ひに顏を見合せて少時しばし言葉ことばも無なかりしが大膳は吉兵衞に向ひ我こそは赤川大膳とて則すなはち山賊の棟梁とうりやうなりまた此これなるは藤井左京とて近頃此山中に來りて兄弟の縁えんを結むすびし者なり汝なんぢ當所たうしよへ泊とまりしは運命うんめいの盡つくる處なり先刻せんこく見置みおきし金子はや〳〵拙者どもへ差出せよと荒々あら〳〵しげに申ける吉兵衞は少しも惡わるびれたる氣色けしきもなく此方こなたに向ひ兩人ども必ず慮外りよぐわいの振舞ふるまひを致す事なかれ無禮ぶれいは許す傍そば近ちかく參るべし我は忝かたじけなくも當將軍家吉宗公よしむねこうの御落胤ごらくいんなり當山中に赤川大膳といふ器量きりやう勝すぐれの浪人の有るよしを聞及びしゆゑ家來に召抱めしかゝへたく遙々はる〴〵此處まで參りしなり聊いさゝかの金子などに心を掛かける事なく予よに隨身ずゐしんなすべし追おつては五萬石以上に取立て大名にし遣つかはすべし迷まよひを取とらず聢しかと返答へんたふ致すべしとさも横柄わうへいに述のべけるに兩人再び驚きしが大膳は聲を勵はげまし汝天下の御落胤ごらくいんなどとあられもなき僞いつはりを述べ我々を欺あざむき此場を遁のがれんとする共我われ何なんぞ左樣の舌頭ぜつとうに欺あざむかれんや併し夫には何か證據しようこでも有て左樣には申すか若もしも當座たうざの出たらめなれば思ひ知しらすと睨付ねめつければ吉兵衞莞爾につこと打笑ひ其方共の疑うたがひも理なきにあらず先づ是を見て疑念ぎねんを散ずべしと彼二品を差示さししめせば大膳は此品々を受取先まづ御墨附おすみつきを拜見するに正まさしく徳太郎君の御名乘に御書判おかきはんをさへ据すゑられたり又御短刀おんたんたうを拜見し暫く見惚みとれて有りしが大膳急きふに座を飛退とびしさり低頭平身ていとうへいしんして敬うやまひ私儀は赤川大膳とて元もと水戸家みとけの藩中なれば紀伊家に此御短刀の傳はりし事は能々よく〳〵知れり斯る證據のある上は將軍の御落胤ごらくいんに相違なし斯る高貴かうきの御方とも存じ申さず無禮の段恐れ入り奉りぬ幾重いくへにも御免おんゆるしを蒙かうむり度此上は我々共御家來の末すゑに召し出さるれば身命を抛なげうつて守護仕しゆごつかまつるべし御心安く思し召さるべし然れども我々は是迄これまで惡逆あくぎやくをなせし者なり江戸表へ御供致せば惡事あくじ露顯ろけんいたすべし然されば忽たちまち罪科ざいくわに行はれんが此儀は如何あらんと云ふに吉兵衞は答へて予が守護を致し江戸表へ參り親子しんし對面たいめんする上は是迄の舊惡きうあくは殘らず赦ゆるし遣つかはすべしとの言葉に大膳は有難く拜伏はいふくし茲に主從しうじうの約をなし左京をも進すゝめて此これも主家來の盃盞さかづきをさせにける此時吉兵衞は布團ふとんの上より下くだり兩人に向ひ申けるは我われ將軍しやうぐんの落胤らくいんとは全く僞りにて實は紀州名草郡平野村の修驗者しゆけんじや感應院の弟子寶澤といふ者なるが平野村にお三婆と云ふ者あり其娘こそ誠にお胤たねを孕やどし此御墨附このおすみつきと御短刀を戴きしが其若君は御誕生たんじやうの日にお果はてなされ其娘も空しくなり此二品は婆の持腐もちぐされにしたるを我十二歳の時婆を殺し此品々を奪取うばひとり江戸へ名乘出んとは思しが師匠ししやう感應院かんおうゐんの口より泄もれんも計りがたければ師匠は我十三歳の時に毒殺どくさつしたり尚も幼顏をさながほを亡なくさん爲に九州へ下り熊本にて年月を經り大望を企くはだつるには金子きんすなくては叶かなふまじと此度金七百兩を掠かすめ取り出奔しゆつぽんなし船頭杢右衞門もくゑもんを誑たばかりて天神丸の上乘うはのりし不慮ふりよの難に遇あひて此處まで來れる事の一伍一什いちぶしじふを虚實きよじつを交まじへて語りければさしもの兩人も舌を卷まき恐れ其不敵なるを感じ世に類たぐひなき惡者わるものも有れば有る者とます〳〵心を傾かたぶけて兩人とも一味なして寶澤が運うんを開き西丸へ乘込のりこみの節は兩人とも五萬石の大名に取立らるゝ約束やくそくにて血判けつぱん誓詞せいしにぞ及びける


第十三回


 扨も赤川藤井の兩人は寶澤の吉兵衞に一味なしけるが此時このとき大膳だいぜんは兩人に向ひて我手下は今三十一人有あれども下郎は口の善惡さがなき者なり萬一此一大事の手下の口より漏もれんも計り難し我に一の謀計ぼうけいこそ有あれ後のちの災わざはひを避さけんには皆殺しにするより外ほかなし夫には斯々と密ひそかに酒の中へ曼多羅華まんだらげといふ草を入いれ惣手下そうてしたの者へ酒一樽たる與へければ爭いかでか斯る工たくみのありとは思はんや夢ゆめにも知ず大に歡よろこび頓やがて酒宴を開きけるに皆々漸次しだいに酩酊めいていして前後を失うしなふ程に五體ごたい俄にはかに痿痺出しびれだせしも只醉の廻りしと思ひて正體しやうたいもなきに大膳等は此體このていを見て時分は宜よしと風上より我家に火をば懸かけたりける折節をりふし山風烈はげしくして炎ほのほは所々へ燃移もえうつれば三十一人の小賊共スハ大變たいへんなりと慌騷あわてさわぐも毒どく酒に五體の利きかざれば憐あはれむべし一人ひとりも殘らず燒燗やけたゞれて死亡しばうに及ぶを強惡がうあくの三人は是を見て大に悦びまづ是にて災わざはひの根ねは斷たちたれば更に心殘こゝろのこりなし大望成就じやうじゆは疑うたがひなし今は此地に用はなし急いそぎ他國へ立越たちこえん幸ひ濃州のうしう谷汲の長洞村ほらむら法華ほつけ山常樂院長洞寺の天忠日信と云は親おや藤井紋太夫の弟にて我爲には實の伯父をぢなるが斯かゝる事の相談には屈強くつきやうの軍略ぐんりやく人にて過つる頃ころ大恩おんを受し師匠の天道と云を縊殺しめころし僞筆にせひつの讓状ゆづりじやうにて常樂院の後住と成り謀計ぼうけいに富たる人なりと云ば寶澤は打うち點頭うなづきそは又妙めうなりとて則ち赤川大膳が案内あんないにて享保きやうほ十一丙午ひのえうま年正月七日の夜に伊豫國いよのくに藤が原の賊寨ぞくさいを立去三人道を急ぎ同月下旬じゆん美濃國みのゝくになる常樂院へ着ちやくし案内を乞こひ拙者せつしやは伊豫國藤が原の者にて赤川大膳と申す者なり參まゐりし趣おもむき取次玉はるべしといふ取次の小侍こさむらひは早速此事を奧おくへ通じたれば天忠聞て大膳と有あらば我甥わがをひなり遠慮に及ばず直に居間ゐまへ通すべしとの事なれば取次の侍案内に及べば大膳は吉兵衞きちべゑ左京さきやうの兩人を次の間へ控ひかへさせ己れ獨ひとり居間へ通り久々ひさ〴〵の對面たいめんに互たがひに無事を賀がし暫しばし四方山の話に時をぞ移うつしける時に天忠は大膳に向むかひ先達せんだつての手紙にて伊豫の藤が原とかに住居すまひたる由は承知しようちしたり彼地にて家業かげふは何を致し候や定めて忙いそがしき事ならんとの尋たづねに大膳は然氣さりげなく御意ぎよいの如し藤が原に浪宅らうたくを營いとなみ候へ共ども彼地は至て邊鄙へんぴなれば家業も隙ひまなり夫故それゆゑ此度同所を引拂ひきはらひ少々御内談ないだんも致度事これありて伯父上をぢうへの御許おんもとへ態々わざ〳〵遠路ゑんろを厭いとはず參りしと云ば天忠聞て其は又何事ぞや夫には何ぞ面白おもしろき事でも有やと申けるに大膳答こたへて參さん候隨分ずゐぶん面白おもしろからぬにも此なし萬まんよく仕課しおほせなば五萬石位ぐらゐの大名には成るゝ事なれ共夫には我々の短才たんさいでは行屆ゆきとゞき申さず依て伯父御をぢごの智慧ちゑを拜借はいしやく仕つり度是迄推參すいさん候といふに強慾がうよく無道ぶだうの天忠和尚滿面まんめんに笑ゑみを含ふくみ夫は重疊ちようでふの事なり扨さて其譯わけは如何にと尋ぬるに大膳は膝ひざを進すゝめ聲を低ひくくし申けるは此度藤が原より召連れ候者あり只たゞ今御次に控ひかへさせたり其中一人の若人わかうど吉兵衞と申す者實は生國しやうこくは紀州きしう名草郡なぐさのごほり平野村ひらのむらなる感應院かんおうゐんと申す修驗者しゆけんじやの弟子でしにて寶澤と申す者なりしが今より十餘年前此平野村にお三婆といふ産婆とりあげばゝありその娘むすめの澤さはの井と云が紀州家の家老職からうしよく加納將監かなふしやうげん方へ奉公せし折將軍家は其頃ころ徳太郎君と申し御部屋住ずみにて將監方に在おはしけるが彼澤の井に御手を付させられ懷姙くわいにんし母お三婆の許もとへ歸る砌みぎり御手づから御墨付すみつきと御短刀たんたうを添そへて下し置れしが御懷姙の若君わかぎみは御誕生たんじやうの夜空むなしく逝去遊おかくれあそばせしを見より澤の井も産後さんごの嘆なげきに血上りて此も其夜の中うちに死去したり依よつてお三婆は右の二品を所持なせど更さらに人には語かたる事も無りしが寶澤は別して入魂じゆこんの上に未だ少年こどもの事なれば心も許ゆるして右の次第を物語ものがたりしかば寶澤が十二歳の時彼かの婆を縊殺しめころし其二品を奪うばひ取大望たいまうの妨さまたげなればとて師匠感應院をも毒殺どくさつし其身は諸國修行しよこくしゆぎやうと僞いつはり平野村を發足ほつそくし其翌日加田浦かだのうらにて白犬を殺ころし其血にて自分は盜賊たうぞくに切殺きりころされし體ていに取拵とりこしらへ夫より九州へ下り肥後ひごの熊本くまもとにて加納かなふ屋利兵衞といふ大家に奉公し七百兩餘の金子を掠かすめ夫を手當てあてとして江戸表へ名乘なのり出んとせし船中にて難風なんぷうに出合船頭せんどうも水主かこも皆々みな〳〵海底かいていの木屑もくづとなりしが果報くわはうめで度たき吉兵衞一人ひとりは辛からふじて助たすかり藤が原なる拙者の隱かくれ家へ來り右の次第を物語れり證據しようこの品も慥たしかなれば我々も隨從ずゐじうして將軍の御落胤らくいんなりと名乘出ん所存なり萬々ばん〳〵首尾しゆびよく仕課しおほせなば寶澤の吉兵衞には西の丸まるへ乘込のりこむか左無なくとも三家の順格位じゆんかくぐらゐは手の内なれば此度このたび同道仕つりしと詳つまびらかに物語れば天忠は始終しじうを聞て思ず太息といきを吐つき驚き入たる大膽だいたんの振舞ふるまひ其性根そのしやうねならんには首尾しゆびよく成就じやうじゆなすべしと偵さすがの天忠も密ひそかに舌したをば卷まきて先兎も角も對面たいめんせんと大膳だいぜんに案内あんないさせければ吉兵衞左京の兩人は天忠和尚に對面にぞ及びたり此天忠の弟子に天一と云ふ美僧びそうあり年は廿歳許はたちばかりなり三人へ茶ちやの給事きふじなどして天忠の傍かたはらに控ひかへける此時天忠は天一に向ひ用事有あらば呼よぶべし夫迄それまで臺所だいどころへ參り居よと云いへば天一は勝手かつてへと退しりぞきける強慾がうよくの天忠は兩人に向ひ委細ゐさいの事は只今大膳より聞きゝ及び承知したり併しかし箇樣かやうの大望たいまうは中々浮うきたる事にては成就じやうじゆ覺束おぼつかなし先まづ根本こんぽんより申合せて巧たくまねば萬一まんいち中折なかをれして半途はんとに露顯ろけんに及ぶ時は千辛萬苦せんしんばんくも水の泡あわと成なる計ばかりか其身の一大事に及ぶべし先名乘なのり出る時は必ず其生れ所と育そだちし所を糺たゞさるべし其答が胡亂うろんにては成ず即ち紀州名草郡平野村にて誕生たんじやうと申立る時は差向さしむき紀州を調しらべられんには忽たちまち化ばけの皮の顯あらはるゝなり此儀は既すでに疾とく差支さしつかへなく整とゝのひ居るにやと問に大膳始め吉兵衞左京さきやうも未だ其邊へんの密議みつぎに及ばねば礑はたと返答へんたふに當惑たうわくなしぬ時に大膳は了簡れうけん有氣に其儀は先達せんだつてより心付き種々しゆ〴〵工夫くふうは仕つれど未だ然るべき考かんがへも付ず願ねがはくは伯父上の御工夫をといふを聞て天忠暫しばし兩手を組くみて默然もくねんたりしが稍やゝ有て三人に向むかひ拙僧せつそう少し所存あり夫は只今此所へ茶を汲くみて參まゐりし者は當時は拙者弟子なれども元は師匠ししやう天道てんだうが弟子にて渠かれは師匠が未だ佐渡さどの淨覺院じやうがくゐんの持主たりし時門前に捨すて有しを拾ひろひ上げ養育やういくして弟子と成なしける者なり天道遷化せんげの後は拙僧が弟子となして永年召使めしつかふ者なれば何いかにも不便ふびんには存ずれど大功は細瑾さいきんを顧かへりみずと依て彼かれを殺ころし其後吉兵衞殿に剃髮ていはつさせ面おもざしの似たるを幸さいはひ天一坊と名乘せ御出生の後佐州相川郡尾島をじま村の淨覺院の門前に御墨付と御短刀を添そへて捨て有しを天忠が拾上げ養育なし奉たてまつり其後當所たうしよ美濃國常樂院へ轉住てんぢうの頃も伴ともなひ奉つりたれば御成長せいちやうは美濃國みのゝくにと申立なば誰たれ有て知者あらじ然すれば紀州の調しらべも平野村の糺たゞしも無して事の破やぶるる氣遣きづかひなし此儀如何にと申ければ三人は感かんじ入誠まことに古今の妙計めうけいと一同是に同じける此時常樂院また申けるは今天一を殺は易やすけれど爰こゝに一ツの難儀なんぎといふは小姓こしやう次助佐助の兩人にて渠かれは天一とは幼年えうねんより一所に育そだちし者なれば天一を殺せば兩人の口より密計みつけいの露顯ろけんに及は必定ひつぢやうなり然されば兩人とも生いかし置難し無益むやくの殺生せつしやうに似にたれど是非ぜひに及ばず此兩人をも殺害せつがいすべし扨さて彼かの兩人を片付る手段といふは明日各々方に山見物させ其案内あんないに兩人を差遣さしつかはすべし山中に地獄谷ぢごくだにと云處あり此こ所こにて兩人を谷底たにそこに突落つきおとして殺し給へ必ず仕損しそんずる事あるまじ其留守るすには老僧らうそう天一を片付申すべし年は老よつたれどもまだ一人や二人の者を殺すは苦くもなし拙僧の儀は御氣遣おきづかひ有あるべからず呉々くれ〴〵小姓共は仕損じ給ふなと約束やくそくし夫より酒宴を催もよほし四方山の雜談ざふだんに時を移し早子ねの刻こくも過すぎたれば皆々臥房ふしどへ入にける天忠は翌朝よくてうは何時より早く起出おきいで小姓の次助佐助兩人に今日は御客人おきやくじんが山見物けんぶつにお出なれば其方共御案内致すべし別して地獄谷の邊あたりは他國の人には珍めづらしく思はるべければ能々よく〳〵御案内申せよと言付いひつけられ神ならぬ身の小姓兩人は畏かしこまりしと支度したくして三人を伴ともなひ立出たちいでたり


第十四回


 去程さるほどに常樂院じやうらくゐんの小姓次助佐助の兩人りやうにんは己おのれが命の危あやふきをば知よしなく山案内やまあんないとして大膳吉兵衞左京の三人を伴ともなひ山中さして至いたる事凡一里り許ばかりなり爰こゝは名に負おふ地獄谷ぢごくだにとて巖石がんせき恰も劔の如きは劔の山に髣髴さもにたり樹木生茂りて底そこも見え分ぬ數千丈の谷は無間むげん地獄とも云なるべし何心なき二人の小姓こしやうは師匠ししやうの詞ことばに從がひ爰こそ名に高き地獄谷なり能々御覽ごらんあれと巖尖いはかどに進て差示せば三人は時分じぶんは宜よきぞと竊に目配めくばせすれば赤川大膳藤井左京直つゝと寄て次助佐助が後に立寄たちより突落つきおとせば哀あはれや兩人は數すう千丈ぢやうの谷底たにそこに眞逆樣まつさかさまに落入て微塵みぢんに碎けて死失たりまた常樂院は五人の者を出し遣やりし後に天一を呼よび近ちかづけ今日は次助佐助は客人きやくじんの山案内に遣つかはし留主なれば太儀ながら靈具れいぐは其方仕つるべしと云に天一畏かしこまり品々の靈具を取揃とりそろへ先住の塚つかへ供にと行ゆく跡あとより天忠は殊勝氣しゆしようげに法衣ほふいを着ちやくし内心は惡鬼羅刹あくきらせつの如く懷ふところに短刀を用意し何氣なき體ていにて徐々しづ〳〵と歩行寄けり天一は斯る惡心ありとは夢ゆめにも知ず靈具を供畢そなへをはり立上らんとする處を天忠は隱かくし持たる短刀を拔手ぬきても見ず柄つかも徹とほれと突立れば哀むべし天一は其儘そのまゝ其處へ倒れ伏ぬ天忠は仕遂しすましたりと法衣を脱捨ぬぎすて裾すそをからげ萬毒ばんどくの木の根を掘ほりて天一が死骸しがいを埋め何知ぬ體に居間へ立戻たちもどり居る所へ三人も歸來り首尾しゆびよく地獄谷へ突落せし體を告囁つげさゝやけば天忠は點頭うなづきて拙僧も各々の留主に斯樣々々に計はからひたれば最早心懸こゝろがかりはなし然さればとて大望たいまうの密談みつだんをなし已に其議も調のひければ急に本堂ほんだうの脇わきなる座敷に上段を營しつらへ前に簾みすを下おろし赤川大膳藤井左京の兩人は繼上下つぎかみしもにて其前に控ひかへ傍らに天忠和尚をしやう紫の衣を着し座す其形勢ありさまいと嚴重げんぢうにして先本堂には紫縮緬むらさきちりめんに白しろく十六の菊きくを染出そめいだせし幕まくを張り渡し表門には木綿地もめんぢに白と紺こんとの三筋すぢを染出したる幕を張はり惣門そうもんの内には箱番所はこばんしよを置き番人は麻上下あさがみしもの者と下役は黒羽織くろはおりを着し者を詰つめさせ檀家だんかの者たりとも表門の通行つうかうを禁きんじ裏門うらもんより出入させ墓場への參詣さんけいをば許せども本堂ほんだうへの參詣は堅かたく相成ざる由を箱番所はこばんしよの者共より制せいさせける是則ち天一坊樣さまの御座所と唱となへて斯の如く嚴重げんぢうに構かまへしなり又天忠は兩人の下男に云付る樣は天一坊御事は是迄は世を忍しのび拙僧せつそうが弟子と披露ひろうし置候へ共實じつは當將軍家の御落胤らくいんたるゆゑ近々江戸表へ御乘出し遊あそばされ公方樣くばうさまと御親子ごしんしの御對顏ごたいがんあれば多分たぶん西の丸へ入らせ給ふべしさすれば再び御目通りは叶かなはざる樣なり依て近々きん〳〵御出立前ごしゆつたつぜんに格別かくべつの儀を以て當寺の檀家だんか一同へ御目見を仰付らるべし此旨村中むらぢうへ申達すべしとの事なり下男共げなんども何事も知らざれば是を聞て肝きもを潰つぶし此頃迄臺所だいどころで一つに食事しよくじをせし天一樣は將軍樣の若君樣わかぎみさまなりしか然さればこそ急に簾みすの中へ入せられ御住持樣ぢうじさまも打うちて替かはり御主人の樣に何事も兩手りやうてを突ついて平伏へいふくなさると下男共は此等の事を村内へ觸歩行ふれあるきしゆゑ村中一統とう此頃の寺の動靜やうす扨さては然る事にて天一樣は將軍家の御落胤にて今度こんど江戸へ御出立に成なれば二度御目通り成ねば當前あたりまへ然さらば今の内に御目見おめみえを仰付らるゝは有難い事迚とて村中の者共老若男女殘りなく常樂院へ集來つどひきたり天忠に就つきて取次を頼たのめば和尚は大膳に向ひ拙寺せつじ檀家だんかの者共天一坊樣御暇乞おいとまごひに御尊顏ごそんがん拜はいし奉り度由哀あはれ御聞屆願ねがはんと申上れば是迄の知因よしみに御對面たいめん仰付らるゝとて御座の間の簾みすを卷上まきあぐれば二疊臺にでふだいに雲間縁うんけんべりの疊たゝみの上に天一坊威儀ゐぎを正たゞして着座ちやくざなし大膳が名前を披露に及べば天一坊は言葉ことば少すくなに孰いづれも神妙と計ばかり大樣の一聲ひとこゑに皆々低頭ていとう平身誰一人面おもてを上て顏を見る者なかりしと爰こゝに浪人體らうにんていの侍さむらひの身には粗服そふくを纏まとひ二月の餘寒よかん烈はげしきに羊羹色やうかんいろの絽ろの羽織を着て麻の袴はかまを穿はき柄つかの解はづれし大小を帶たいせし者常樂院じやうらくゐんの表門へ進み入いらんとせしが寺内の嚴重げんぢうなる形勢ありさまを見みて少し不審ふしんの體にて箱番所の前を行過ゆきすぎんとすれば箱番所に控へし番人は聲をかけ貴殿きでんには何人にて何いづれへ通り給ふや當時たうじ本堂は將軍しやうぐんの若君わかぎみ天一坊樣の御座所ござしよと相成り我々晝夜相詰罷まかりありと咎とがむれば浪人は拙者せつしやは當院の住職ぢうしよく天忠和尚の許へ相通る者なりと答ふ然ば暫時ざんじ此處に御休息ごきうそくあるべし其段そのだん拙者共より方丈はうぢやうへ申通じ伺うかゞひし上にて御案内ごあんないせんといふに彼浪人も夫は尤もつともの事なりと自分じぶんも番所へ上れば番人は浪人の姓名せいめいを問に只先生が參りしと申給へと云ば番人は顏かほ見合みあはせ先生と許では何なに先生せんせいなるや分り申さず御名前おなまへを承うけたまはりたしといふ左樣ならば方丈へ山内先生が參まゐりしと申し給へとの事なれば早速さつそく其趣そのおもむきを通つうじければ山内先生の御出とならば自身に出迎でむかうべしと何か下心したごころのある天忠が出來いできたる行粧ぎやうさうは徒士かち二人を先立自身は紫むらさきの法衣ころもに古金襴こきんらんの袈裟けさを掛かけ頭かしらには帽子ばうしを戴き右の手に中啓ちうけいを持左の手に水晶すゐしやうの念ず珠ず爪つまぐり沓くつを踏ふみしめ徐々と出來る跡には役僧やくそう二人付そひ常に替かはりし行粧ありさまなり頓やがて門まで來り浪人に向むかひ恭々うや〳〵しく是は〳〵山内先生には宜こそ御入來ごじゆらい成たり率いざ御案内と先に進すゝめば浪人らうにんは臆おくする色なく引續ひきつゞいて隨ひ行ぬ扨此浪人の山内先生とは如何なる者といふに元もとは九條前關白殿下くでうさきのくわんぱくでんかの御家來にて山内伊賀亮やまのうちいがのすけと稱しようせし者なり近年病身びやうしんを云立いひたて九條家を退しりぞき浪人らうにんして近頃美濃國の山中に隱かくれ住ければ折節をりふしこの常樂院へ來り近しく交まじはる人なり此人奇世きせいの豪傑がうけつにて大器量だいきりやうあれば常樂院の天忠和尚も此山内伊賀亮を敬うやまふ事大方ならず今日計はからずも伊賀亮の來訪らいはうに預あづかれば自身に出迎ひて座敷ざしきへ請しやうじ久々にての對面を喜び種々饗應きやうおうして四方山よもやまの物語ものがたりには及べり天忠言葉を改め山内先生には今日幸さいはひの處へ御入來なりし拙僧せつそうも大慶たいけいに存ずる仔細しさいは拙僧が甥をひなる赤川大膳と申者此度將軍家の御落胤ごらくいんなる天一坊樣のお供致し拙寺せつじへ御入にて御逗留中ごとうりうちうなり近々江戸表へ御名乘出おんなのりいでにて御親子御對顏遊ばす筈はずならば時宜に依ては西にしの丸まるへ居なほらせらるゝか左無とも御三家順格ごさんけじゆんかくには受合なり然時は拙僧せつそうも立身の小口こぐちに先生も御隨身ごずゐしんの思召あらば拙僧せつそう御吹擧ごすゐきよに及およぶべしといふ伊賀亮は是を聞きゝ暫しばし思案して申ける樣和尚は何と思おもはるゝや拙者せつしや大言たいげんを吐はくに似たれども伊賀亮程ほどの大才ある者久しく山中に隱かくれて在あるは黄金こがねを土中に埋うづむるに均し今貴僧の咄はなさるゝ天一坊殿にも此伊賀亮の如き者一人召抱めしかゝへに相成ば此上もなき御仕合と申もの也我も立身に望のぞみなきにあらず老僧らうそう宜よろしく取計ひ給へと申ける常樂院大に喜こび早速さつそく大膳にも相談さうだんに及びし所ろ大望たいまうを企くはだつるには一人も器量勝れし者を味方にせねば成就じやうじゆし難がたし夫そは屈強くつきやうの者なりといふにぞ天忠は打悦び天一坊へ申けるは今日拙寺せつじへ參る所の客人きやくじんは舊もと京都きやうと九條家の御家來にて當時は浪人し山内伊賀亮と申す大器量人だいきりやうじんなり上は天文地理てんもんちりを悟さとり下しもは神儒佛しんじゆぶつの三道に亘わたり和學わがく軍學ぐんがくに至るまで何なに一ツ知ずといふ事なき文武兼備の秀才士しうさいしなり此人を御家來ごけらいと成なされなば何いかなる謀計ぼうけいも成就せん事疑ひなしと稱譽しようよして薦すゝめければ天一坊は大に悦喜えつきし左樣の軍師ぐんしを得る事大望成就の吉瑞きつずゐなりと云ば天忠は早々御對面ありて主從の契約けいやくあるべしと相談さうだん茲こゝに一決し天忠は次つぎへ退しりぞき伊賀亮に申樣只今先生の事を申上しに天一坊樣にも先生の大才だいさいを御稱美ごしようびありて早速御召抱おめしかゝへ成るべくとの由なれば直樣すぐさま御對面ごたいめんあらるべし就ついては先生の御衣服おいふくは餘あまり見苦みぐるし此段をも申上たれば小袖こそで一重ひとかさねと羽織はおり一ツとを下くだし置おかれたり率御着用有りて然るべしと述のべければ伊賀亮呵々から〳〵と笑わらひ貴僧きそうの御芳志ごはうしは忝かたじけなけれど未だ御對面もなき中に時服じふく頂戴ちやうだいする謂いはれなし又拙者が粗服そふくで御對面成なされ難くば夫迄の事なり押おして拙者より奉公は願ひ申さずと斷然きつぱり言放いひはなし立上る勢いきほひに常樂院は慌あわて押止め然ば其段今いま一應いちおう申上べしまづ〳〵御待下されと待せ置て奧おくへ行き暫時ざんじにして出來り然らば其儘そのまゝにて對面たいめん有あるべしとの事なりと告れば伊賀亮は然さも有べしと頓やがて粗服そふくのまゝ天忠に引れて本堂の座敷ざしきへ到れば遙はるかの末座まつざに着座させられぬ


第十五回


 此この時上段の簾みすの前には赤川大膳あかがはだいぜん藤井左京ふぢゐさきやうの兩人繼上下つぎかみしもにて左右に居並び常樂院天忠和尚てんちうをしやうが披露ひろうにつれ大膳が簾を卷まけば雲間縁うんけんべりの疊でふの上に錦にしきの褥しとねを敷しき天一坊安座し身には法衣ころもを着し中啓ちうけいを手に持て欣然きんぜんとして控ひかへたり頓やがて言葉を發して九條家の浪人山内伊賀亮いがのすけとやらん其方の儀は常樂院より具つぶさに承知しようちしたり此度予に仕つかへんとの志こゝろざし神妙しんめうに思なり以後精勤せいきんを盡すべし率いざ主從の契約けいやく盃盞さかづき遣つかはさんと云ばこの時兼かねて用意の三寶さんばうに土器かはらけを載のせ藤井左京持出て天一坊の前に差置さしおけば土器取あげ一獻こんを飮干のみほして伊賀亮へ遣つかはす時に伊賀亮は頭かしらを上あげつく〳〵と天一坊の面貌めんばうを見て土器を取上ず呵々から〳〵と打笑うちわらひ將軍の御落胤ごらくいんとは大の僞いつはり者餘人は知らず此伊賀亮斯かくの如き淺あさはかなる僞坊主にせばうずの謀計ぼうけいに欺あざむかれんや片腹痛かたはらいたき工たくみかなと急に立退たちのかんとするを見て赤川大膳は心中に驚き見透みすかされては一大事と氣を勵はげまし何いかに山内やまのうち狂氣きやうきせしか上に對たいし奉つり無禮の過言くわごんいで切捨きりすてんと立よりて刀の柄つかに手てを掛るを伊賀亮ます〳〵わらひ茲こゝな刀架かたなかけめ其方如き者の刄が伊賀亮の身に立べき切ば見事に切て見よと立掛たちかゝるを左京と常樂院の兩人は中へ分入押止おしとゞめければ天一坊は疊の上より飛下とびおり伊賀亮に向如何に伊賀亮予よを僞者にせものとの過言其意を得ず何か證據しようこが有て左樣には申すや返答聞んと詰寄つめよれば伊賀亮動どうずる色なく慥たしかに證據なくして麁忽そこつの言を出さんや其證據しようこを聞んとならば禮れいを厚あつくして問るべし先まづ第一に天一坊の面部めんぶに顯あらはれし相さうは存外の事を企くはだつる相にて人を僞るの氣慥たしかなり又眼中に殺伐さつばつの氣あり是は他人を切害せし證據假初かりそめにも將軍家の御落胤に有べからざる凶相きようさうなり僞物にせものと申せしがよも誤あやまりで厶ござるかと席を叩たゝいて申ける天一坊始め皆々口を閉とぢて茫然ばうぜんたりしが大膳堪こらへ兼御墨付おすみつきと御短刀たんたうを持出し伊賀亮どの貴殿きでん只今の失言しつげん聞惡きゝにくし則ち御落胤らくいんに相違さうゐなき證據は是にあり篤とくと拜見はいけんあるべしと出し示せば伊賀亮苦笑にがわらひしながら然さらば拜見せんと手に取上これは紛まがひなき當たう將軍家の御直筆ごぢきひつなり又御短刀を拔ぬいて詠ながむるに是も亦違もなき天下三品さんぴんの短刀なりと拜見し畢をはりて大膳に戻もどし成程御證據の二品は慥なれ共天一坊殿に於ては僞物にせものに相違なしといふ此時このとき天忠席を進み遖あつぱれなる山内先生の御眼力がんりき恐入たり左樣に星ほしを指さして仰らるゝ上は包つゝみ隱かくすに益えきなし此上は有體ありていに申べし實に斯樣かやうなりと大望たいまうを企てし一部ぶ始終しじう落おちなく物語がたり此上は何卒なにとぞ先生の知略ちりやくを以て此證據の品に基もとづき事成就じやうじゆ致すやう深慮しんりよの程こそ願はしと述のべければ伊賀亮は欣然きんぜんと打笑ひ左こそ有べし事を分て頼たのむとあれば義を見て爲せざるは勇いさみなしとか惡とは知しれども一工夫ひとくふう仕まつて見申べしと稍やゝ暫く思慮しりよに及びけるが人々に向ひ先まづ天一殿の面部は當將軍家の幼稚をさなだちの御相恰ごさうがふに能よく似にしのみか音聲おんじやう迄も其儘なれば十が九ツ此企このくはだて成就せんと云に皆々打悦よろこび茲に主從しうじうの約をぞ結むすび五人頭かしらを差寄て密談みつだん數刻すこくに及びける伊賀亮申す樣やう斯樣かやうなる大望を企てるには金子乏とぼしくては大事成就覺束おぼつかなし第一に金子の才覺さいかくこそ肝要かんえうなれ其上にて計はからふ旨むねこそあれ各々の深慮しんりよは如何と申ければ天一坊進出すゝみいでて其金子の事にて思ひ出せし事あり某それがし先年九州へ下りし砌みぎり藝州げいしう宮島みやじまにて出會であひし者あり信州しんしう下諏訪しもすはの旅籠屋はたごや遠藤ゑんどう屋彌次六と云ふ者にて彼は相應さうおうの身代の者のよし語かたらひ置おきし事も有ば此者を手引てびきとし金子きんす才覺さいかく致させんには調達てうだつすべき事もあらんと云に任まかせ遂つひに其儀に決けつし密々みつ〳〵用意して天一坊と大膳の兩人は長洞ながほら村を出立し信州下諏訪へと赴おもむきたり漸やうやく遠藤屋彌次六方へ着ちやくし案内あんないを乞こひ先年の事を語れば彌次六は先年の事を思出し早速さつそく出迎むかへ能こそ御尋たづね下されしと夫より種々しゆ〴〵の饗應きやうおうに手を盡つくしける天一坊は大膳を彌次六に引合ひきあはせ種々いろ〳〵と内談ないだんに及びぬ爰に諏訪明神の社人しやにんに諏訪右門すはうもんとて年齡とし未いまだ十三歳なれど器量きりやう拔群ばつくんに勝すぐれし者有り此度遠藤屋へ珍客ちんきやくの見えしと聞より早速さつそく彌次六方へ來り委細ゐさいを聞きゝ遂つひに彌次六の紹介とりもちにて天一坊に對面たいめんを遂とげ是も主從の約やくをぞ結むすびける是より彌次六は只管ひたすら天一坊を世に出いださんものと深ふかく思ひ込こみ兎角とかくして金子を調達てうだつせんと右門にも内談ないだんをなすに右門の申樣やうは我等われら同職どうしよくの中うちにて有徳うとくなるは肥前ひぜんなり此者を引入ひきいれなば金子の調達てうだつも致すべし此儀如何有あらんと申ければ彌次六も大いに悦よろこび早々さう〳〵夫となく彼かの肥前を招まねき樣々さま〴〵饗應もてなしゐる内天一坊には白綾しらあやの小袖こそでに紫純子むらさきどんすの丸蔕まるぐけを緊しめ態わざと庭にはへ出て小鳥ことりを詠ながめ居る體さまにもてなし肥前が目に留とまりて心中に怪あやしと思はせん者と圖はかるとは毫つゆ知らざれば肥前は亭主ていしゆの彌次六に向ひ只たゞ今庭へ出給ふ御方は如何いかなる客人にや當人たゞびととは思はれずと云に彌次六は仕濟しすましたりと聲をひそめ彼あの御方の儀に付ては一朝一夕いつてういつせきに述のべがたし先まづは斯樣々々かやう〳〵の御身分の御方なりとて終つひに天一坊と赤川大膳だいぜんに引合せ則すなはち御墨付すみつきと御短刀をも拜見させらるれば元より肥前は篤實とくじつの者故甚いたく恐おそれ敬うやまひぬ彌次六右門の兩人は爰ぞと何いづれにも天一坊樣を御世に出したし夫には少し入用もあり何卒なにとぞ貴殿きでんの周旋しうせんにて金子の御口入くちいれ相あひ成まじきやと餘儀よぎもなく頼たのみければ肥前は然さる儀ぎなれば拙者せつしやには多分の儀は出來兼かねれど少々は工夫くふうせんと聞て兩人は大に悦よろこびいよ〳〵金子御調達下てうだつくださるれば天一坊樣江戸表にて御親子しんし御對顏たいがん相濟あひすみなば當明神を御祈願所きぐわんじよと御定め一ヶ年米三百俵ぺうづつ永代えいだい御寄附きふある樣に我々取計とりはからひ申べし然すれば永く社頭の譽ほまれにも相成候事なり精々せい〴〵御働はたらき下されと事十分なる頼たのみの言葉ことばに肥前の申樣は御入用の金子は何程いかほどか存ぞんせねど拙者せつしやに於ては三百兩を御用立ようだて申べし其上は自力じりきに及び難がたしといふ彌次六申やう御入用高は未だ篤とくと相伺あひうかゞはねば先まづ貴殿方きでんかたの御都合つがふもあれば夫だけ御用立下さるべしと云に肥前は委細ゐさい承知しようちなして歸宅きたくせしが早速さつそく右の金子三百兩持參ぢさんしければ此旨むね天一坊大膳へ申し談じ則ち天一樣御出世の上は永代米三百俵づつ毎年まいねん御奉納ほうなふ有べしと認したゝめし證文しようもんと引替ひきかへにし金子をば受取一先美濃國みのゝくにへ立歸らんと天一坊は大膳右門うもん遠藤屋彌次六との三人を同道して常樂院じやうらくゐんへ歸り來りて右の首尾しゆびを物語れば常樂院もさらば拙僧せつそうも一目論もくろみして見よと庚申待かうしんまちを催もよほし講中かうちうの内にて紺屋こんや五郎兵衞蒔繪師まきゑし三右衞門米屋六兵衞呉服屋ごふくや又兵衞の四人にんを跡へ止め別段べつだんに酒肴しゆかうを調のへ一間へ招まねきて酒も餘程よほど廻まはりし頃ころ常樂院申けるは各々方も御承知の如く是迄は拙僧の弟子と致し世を忍しのび給ひし天一坊樣は實は佐州さしう相川郡尾島村をじまむらの淨覺院じやうがくゐんの門前に捨すてられ給ひしを師匠ししやう天道和尚の拾ひろひし上弟子でしに致いたし置れしが全まつたくは當將軍家の御部屋住へやずみの内の御落胤らくいんなり此度御還俗遊げんぞくあそばし我々御供ともにて江戸表おもてへ御上のぼり遊ばすなり御親子しんし御對顏たいがんの上は御三家同樣の御大名にならせらるゝは必定ひつぢやうなり夫に付ては差向さしむき金子御入用なるが只今御用金とし金百兩差上る者には則すなはち三百石の御高おんたかを下され五十兩には百五十石三百兩ならば千石其餘は是に准じゆんじて宛行あておこなはるゝ思召なり然されば各々方おの〳〵がたも今の内に御用金を差上られなば御直參ぢきさんに御取立に成樣師檀しだんの好よしみを以て拙僧宜よろしく御取持せん思し召めしもあらば承うけたまはらんと説法口せつぱふぐちの辯べんに任せて思ふ樣に欺たばかりければ四人の者共は先頃さきごろよりの寺の動靜やうす如何樣斯かく有んと思へど誰も貯たくはへは無れど永代えいだいの家の株かぶと無理にも金子調達てうだつ仕つらんそれには御實情じつじやうの處も伺うかゞひたしといふに心得たりと常樂院は奧おくへ赴おもぶき此由を咄はなし直すぐに四人を伴ともなひて客殿きやくでんの末座ばつざに待せ置き其身も席せきへ列つらなりける四人は遙はるか向ふを見れば上段の簾みすの前に頭かしらは半白はんぱくにして威ゐ有て猛たけからぬ一人の侍さふらひ堂々だう〳〵として控へたり是ぞ山内伊賀亮いがのすけなり次は未壯年さうねんにして骨柄こつがら賤いやしからぬ形相ぎやうさうの侍ひ二人是ぞ赤川大膳だいぜんと藤井左京さきやうにて何れも大家の家老職と云とも恥はづかしからざる人品じんぴんにて威儀ゐぎを正して控へたれば其威風に恐れ四人の者は只々頭を下る計なり


第十六回


 扨さても常樂院は紺屋こんや五郎兵衞を初め四人の者共に威を示し甘々うま〳〵と用金を出させんと先本堂ほんだうの客殿に請しやうじ例れいの正面の簾みすを卷上れば天一坊は威ゐ有あつて猛たけからざる容體ようだいに着座す其出立には鼠色ねずみいろ琥珀こはくの小袖こそでの上に顯紋紗けんもんしやの十徳じつとくを着法眼袴はふげんはかまを穿はきたり後の方には黒七子くろなゝこの小袖に同じ羽織茶宇ちやうの袴はかまを穿はき紫縮緬むらさきちりめんの服紗ふくさにて小脇差こわきざしを持たる剪髮ぜんぱつの美少年の面體めんてい雪ゆきを欺あざむくが如きは是なん諏訪右門なり其傍かたはらに黒羽二重くろはぶたへの小袖に煤竹色すゝたけいろの道服だうふくを着したるは遠藤屋彌次六一號鵞湖山人がこさんじんなり孰いづれも整々せい〳〵として控たれば四人の者は思はず發はつと計りに平伏へいふくす時に天一坊聲こゑ清爽さはやかに其方共此度予に隨身ずゐしんせんとの願ひ神妙しんめうに存ずるなり依よつて父上より賜たまはりし證據しようこの御品拜見さし許し主從の盃さかづき取らすべしとの詞ことばの下藤井左京は彼二品を三寶へ戴て恭々敷うや〳〵しく持出し四人の者へ拜見致させたり四人は此二品を拜見して驚き入り何卒なにとぞ御家來けらいに御召抱かゝへ下され度と詞を盡つくして願ひける是に依て四人より金子四百兩を才覺さいかくして差出し御判物はんものを戴き帶刀たいたう苗字めうじをゆるされしかば夫々に改名かいめいして家來分となりにける先まづ紺屋五郎兵衞は本多源右衞門ほんだげんゑもん呉服屋又兵衞は南部權兵衞なんぶごんべゑ蒔畫師の三右衞門は遠藤森右衞門米屋六兵衞は藤代要人ふぢしろかなめと各々改名に及びたり中にも呉服屋又兵衞は武州入間いるま郡川越に有徳うとくの親類しんるゐあれば彼方どなたか御同道下さらば金千兩位は出來しゆつたいすべしといふにより山内伊賀亮は呉服屋又兵衞を案内として武州川越在ざいの百姓市右衞門方へ到着し是又以前の手續てつゞきにて辯べんに任まかして諸人を欺き櫻井村にて右膳うぜん權内ごんない馬ば場ば内にて源三郎七右衞門川越の町にて大坂屋七兵衞和久井わくゐ五兵衞千塚つか六郎兵衞大圓寺だいゑんじ自性じしやう寺其外寺院にて七ヶ寺都合廿七人金高二千八百兩出來しゆつたいせり偖さて千塚ちつか六郎兵衞は帳本ちやうもとにて金子は常樂院へ持參の上證文と引替ひきかへる約束やくそくにて伊賀亮に附從つきしたがひ川越を發足せしが此六郎兵衞は相州さうしう浦賀うらがに有徳の親類有ばとて案内し伊賀亮又兵衞と三人にて浦賀へ立越たちこえ六郎兵衞の勸すゝめに因て江戸屋七左衞門叶屋かなふや八右衞門美作みまさか屋權七といふ三人の者より金子八百兩を差出して天一坊樣御出府しゆつぷの節せつは途中とちう迄御出迎仕むかへつかまつらんとぞ約束をなし是より伊賀亮等の三人は美濃みのへ立戻もどり川越浦賀の兩所にて金子は三千兩餘出來しゆつたいせしと物語れば皆々大に悦よろこび先まづ六郎兵衞に夫々の判物はんものを渡わたせしかば六郎兵衞は是を請取うけとり川越の地へ歸りけり跡あとに皆々此圖を外はづさず近々に江戸表へ下くだらんと用意にこそは掛かゝりける先呉服物一式いつしきは南部權兵衞是を請込うけこみ染物そめものは本多源右衞門塗物ぬりものの類は遠藤森右衞門が引請夜を日に繼ついで支度に掛かゝれば二月の末には萬々ばん〳〵用意は整とゝのひたり爰に皆々を呼集よびあつめ評定ひやうぢやうに及ぶ樣は直すぐさま江戸へ下るべきや又は大坂表へ出て動靜やうすを窺うかゞはんやと評議區々まち〳〵にて更に決着けつちやくせざりしにぞ山内伊賀亮進すゝみ出て申樣は直すぐに江戸表へ罷下まかりくだらん事先以て麁忽そこつに似て然べからず其仔細しさいは先年駿河大納言殿の御子息しそく長七郎君も先大坂へ御出の吉例きちれいも有あれば此先例に任まかせ一先大坂へ出張ゆる〳〵關東くわんとうの動靜やうすを見定め變へんに應おうじて事を計はからはんこそ十全の策さくと云べしと理りを盡つくして申ければ皆一同に此議に同ず道理もつともの事とて評議は此に決定したり然さらば急いそぎ大坂へ旅館りよくわんを構かまへ是へ御引移ひきうつり有あるべしとて此旅館の借かり受方には伊賀亮が内意ないいを受則ち常樂院が出立する事にぞ定さだまりぬ頃は享保きやうほ十一午年うまどし三月朔日ついたち常樂院は美濃國長洞ながほら村を出立し道を急ぎ大坂渡邊わたなべ橋紅屋庄藏べにやしやうざう方へぞ着しける此紅屋といふ旅人宿はたごやは金比羅こんぴら參りの定宿ぢやうやどにて常樂院は其夜主人あるじの庄藏を呼近づけ申樣は此度聖護院せいごゐんの宮みや御配下はいか天一坊樣當表へ御出張に付御旅館取調とりしらべの爲に拙寺が罷越まかりこし候なり不案内の事ゆえ萬端ばんたん其許もとをお頼たのみ申なりとて手箱の中うちより用意の金子を取出しこれは些少させうながら御骨折料ほねをりれうなりと差出しければ庄藏は大いに悦よろこび委細ゐさい畏かしこまり候と翌よく日未明みめいより大坂中を欠廻かけまはり遂つひに渡邊橋向ふの大和屋やまとや三郎兵衞の控家こそ然るべしと借かり入のことを三郎兵衞方へ申入れしに早速承知しようちしければ庄藏は我家へ歸り其趣おもぶきを常樂院へ物語れば常樂院は偏ひとへに足下の働はたらきなりしと賞賛しやうさんし庄藏を案内として大和屋三郎兵衞方に赴おもむき辯べんを飾かざりて申樣此度拙寺が本山天一坊樣大坂へ出張に付旅館として足下そくかの控家ひかへやを借用しやくようの儀を頼入たのみいれしに早速の承知忝かたじけなしと述終のべをはり此は輕少けいせうながら樽代たるだいなりと金子を贈おくり借用證文を入れ則ち借主は常樂院請人は紅屋庄藏として調印てういんし宿老しゆくらうへも相屆け萬端ばんたん事も相濟たれば常樂院は尚なほも紅屋方に逗留とうりうし翌日より大工泥工さくわんの諸職人しよしよくにんを雇ひ破損はそんの處は修復しゆふくを加へ新規しんきに建添たてそへなどし失費も厭いとはず人歩を増まして急ぎければ僅わづかの日數にて荒増あらまし成就じやうじゆしたれば然ば迚とて一先歸國すべしと旅館へは召し連下男一人を留守るすに殘のこしいよ〳〵天一坊樣御出張の節せつは斯樣々々と紅屋庄藏大和屋三郎兵衞の兩人に萬端頼み置き常樂院には大坂を發足し道を急ぎ長洞村へ歸り大坂の首尾しゆび斯樣々々かやう〳〵の場所へ普請ふしん出來しゆつたいの事まで申述のべければ常樂院が留守中に此方こなたも出立の用意調とゝのひ居れば然さあらば發足有べしとて其手配てくばりに及びける頃は享保十一年四月五日いよ〳〵常樂院の許もとを一同出立には及びたり其行列ぎやうれつには第一番の油箪ゆたん掛かけし長持十三棹さを何れも宰領さいりやう二人づつ附添つきそひその跡より萠黄もえぎ純子どんすの油箪白く葵あふひの御紋もんを染出せしを掛し長持ながもち二棹露拂つゆばらひ二人宰領二人づつなり引續ひきつゞきて徒士かち二人長棒の乘物にて駕籠脇かごわき四人鎗やり挾箱はさみばこ草履取ざうりとり長柄ながえ持合羽籠かつぱかご兩掛りやうがけ都合十五人の一列は赤川大膳にて是は先供さきとも御長持預あづかりの役なり次に天一坊の行列は先徒士九人網代あじろの乘物駕籠脇の侍さむらひは南部權兵衞本多源右衞門遠藤森右衞門諏訪すは右門遠藤彌次六藤代要人かなめ等なり先箱二ツは手代てがはりとも四人打物手代とも二人跡箱二ツ手代とも四人傘持かさもち草履取合羽籠兩掛茶辨當ちやべんたう等なり引續いて常樂院天忠和尚をしやう藤井左京山内伊賀亮等孰いづれも長棒の乘物にて大膳が供立に同じ惣そう同勢二百餘人其體さま美々びゞしく長洞村を出立し大坂指さして赴おもむき日ならず渡邊橋向の設まうけの旅館へぞ着ちやくしたり伊賀亮が差圖さしづにて旅館の玄關げんくわんに紫縮緬むらさきちりめんに葵あふひの御紋を染出せし幕まくを張渡はりわたし檜ひのきの大板の表札へうさつには筆太ふでぶとに徳川天一坊旅館の七字を書付て門前に押おし立玄關には取次の役人繼上下にて控へ何いかにも嚴重げんぢうの有樣なり是等は夜中にせし事なれば紅屋大和屋も一向いつかうに知ざる處ろ翌朝よくてうに至り市中の者共は是を見付て只膽きもを潰つぶすばかりにて誰云となく大評判だいひやうばんとなり紅屋は不審ふしん晴はれず兎とも角かくもと大和屋三郎兵衞方へ到いたり前の段を物語り後難こうなんも恐おそろしければ何に致せ表札と幕をば一先外はづさせ申べしとて兩人は急に袴はかま羽織はおりにて彼旅館へ赴おもむき中の口に案内を乞こはば此時取次の役人は藤代要人成しが如何にも横柄わうへいに何用にやと問ば庄藏三郎兵衞の兩人は手を突つき私共は紅屋庄藏大和屋三郎兵衞と申て當町の者なり何卒急速きふそくに常樂院樣に御目通とほり願ひ相伺うかゞひ度儀ありて推參すゐさん仕れり此段御取次下さるべしと慇懃いんぎんに相述のぶれば藤代要人は承知し中の口に控させ此趣きを常樂院へ申し通つうじければ天忠和尚は偖さては紅屋等が何か六かしき事を申越こしたかと伊賀亮へ此由を談ずれば伊賀亮打點頭うちうなづき夫こそ表札幕へうさつまくなどの事にて來りしならん返答へんたふの次第は斯々かう〳〵と委細ゐさいに常樂院へ差圖さしづしたりける


第十七回


 斯かくて常樂院は伊賀亮いがのすけの内意を請うけ徐々しづ〳〵と出で來り彼庄藏かのしやうざう三郎兵衞の兩人に對面たいめんするに兩人は口を揃そろへて申す樣何なにとも恐入おそれいり候事ながら貴院きゐん先達せんだつて仰聞られ候には聖護院しやうごゐん宮樣の御配下ごはいかにて天一坊樣の御旅館りよくわんとばかり故庄藏御世話せわ申三郎兵衞の明店あきだな御用立差上候ひしに只今御玄關おげんくわんを拜見仕つるに徳川天一坊樣御旅館ごりよくわんとの御表札ごへうさつあり又御玄關おげんくわんには葵御紋あふひごもんの御幕おんまくを張せられしが右樣の儀ならば前まへ以て私共わたくしどもへお話はなしの有べき筈はずなり若し此事町奉行所まちぶぎやうしよより御沙汰ごさたあらば貸主かしぬし三郎兵衞は勿論もちろん世話人の庄藏までの難儀なんぎなり何卒なにとぞ右の表札へうさつと御玄關なる御紋付ごもんつきのお幕はお取外とりはづしを願ひ候といふに常樂院は兩人の言葉ことばを聞て打笑乍うちゑみながら申けるは成程仔細しさいを知しらねば驚おどろくも無理ならず然されども御表札ごへうさつと御紋付ごもんつきの幕を暫時ざんじなりとも取外とりはずす儀は叶かなひ難し其故は聖護院宮樣みやさま御配下ごはいか天一坊樣御身分は當將軍吉宗公よしむねこうの未だ紀州公御部屋住おへやずみの時分女中に御儲おんまうけの若君にて此度このたび江戸表へ御下向ごげかうあり御親子ごしんし御對顏ごたいがんの上は大方おほかたは西の丸へ直なほらせらるべし左樣に輕かるからぬ御身分おみぶんにて徳川は御苗字ごめうじなり又また葵あふひは御定紋ごぢやうもんなり其方輩たちが少しも案あんじるには及ばず若も町奉行まちぶぎやうより彼是を申出ば此方へ役人を遣つかはすべし屹度きつと申渡すべき筋すぢも有あり其方共も落度おちどには毛頭もうとう相成あひならず氣遣きづかひ無用なり何分無禮ぶれいの無なき樣やうに致すべしと云渡いひわたしければ兩人は是を聞きゝて肝きもを潰つぶし將軍の御落胤ごらくいんとの事なれば少こし安堵あんどしけれども後々の咎とがめを恐おそれ早速さつそく名主組合へ右の段だんを屆とゞけ夫より町奉行の御月番おつきばん松平日向守殿御役宅おやくたくへ此段を訴うつたへける是に依よつて東ひがし町奉行鈴木飛騨守殿ひだのかみどのへも御相談ごさうだんとなり是より御城代ごじやうだい堀田相模守殿へ御屆おんとゞけに相成ば御城代は玉造口たまつくりぐちの御加番ごかばん植村土佐守殿京橋口の御加番戸田大隅守殿おほすみのかみどのへも御相談となりしが先年松平まつだひら長七郎殿の例れいもあり迂濶うくわつには取計とりはからひ難し先々町奉行所へ呼寄よびよせ篤とくと相調あひしらべ申べしと相談さうだん一決けつし御月番なれば西町奉行松平日向守ひうがのかみ殿は組與力くみよりき堀ほり十左衞門片岡逸平の兩人を渡邊橋わたなべばしの天一坊の旅館りよくわんへ遣つかはさる兩人は玄關げんくわんより案内あんないに及べば取次は遠藤ゑんどう東次右衞門なり出て挨拶あいさつに及ぶに兩人の與力よりきの申には我々は西にし町奉行松平日向守組與力くみよりきなるが天一坊殿に御重役ごぢうやく御意ぎよい得えたし少々御伺おうかゞひ申度儀ありと述のぶ取次とりつぎの遠藤東次右衞門は早速さつそく奧へ斯かくと通ぜんと先まづ兩人を使者ししやの間へ請しやうじ暫く御待おんまち有べしと控ひかへさせける間毎々々まごと〳〵の立派りつぱに兩人も密ひそかに肝きもを潰つぶし居しが頓やがて年頃は三十八九にて色いろ白しろく丈せい高たかく中肉ちうにくにて人品じんぴん宜しき男の黒羽二重くろはぶたへの小袖こそでに葵あふひの御紋ごもんを付つけ下には淺黄無垢あさぎむくを着ちやくし茶宇ちやうの袴はかまを靜々しづ〳〵と鳴ならして出來るは是なん赤川大膳あかがはだいぜんなり頓やがて座に就て申樣拙者せつしやは徳川天一坊殿家來けらい赤川大膳と申者なり何等の御用向ごようむきにて參られしと尋たづねければ與力等よりきらは平伏へいふくして私し共は當月番たうつきばん町奉行松平日向守組與力くみよりき堀十左衞門片岡逸平なり奉行日向守申付には天一坊樣へ日向守御目通おんめどほり致し直ぢきに御伺おんうかゞひ申度儀御座候得ば明日御役宅迄やくたくまで天一坊樣に御入來ごじゆらいある樣との趣おもむきなりと述のべければ大膳は篤とくと聞濟きゝすまし其段は一應おう伺うかゞひの上御返事おへんじに及び申べしと座を立て奧へ入しが暫しばらく有ありて出來り兩人に向むかひ御口上の趣おもむき上へ伺うかゞひしに御意ぎよいには町奉行の役宅は非人ひにん科人とがにんの出入致し穢けがらはしき場所の由よし左樣の不淨ふじやうなる屋敷へは予は參る身ならず用事ようじと有あらば日向守殿に此方へ來られよとの御意ぎよいなれば此段このだん日向守殿へ御達おんたつし下されと言捨いひすてて奧へぞ入たり兩人は手持無沙汰てもちぶさた據よんどころなく立歸たちかへり右の次第を日向守へ申聞きければ此こは等閑なほざりならぬ事なりとて又も御城代ごじやうだい堀田相摸守殿さがみのかみどのへ申上らるれば左樣さやうの儀ならば是非ぜひなし御城代屋敷やしきへ呼寄よびよせ對面たいめんせんと再び堀片岡の兩人を以て御城代ごじやうだい堀田相摸守殿屋敷やしきへ明日天一坊殿入いらせられ候樣にと申入ける此度このたびは異儀いぎなく承知の趣おもむきの返答へんたふあり依て日向守殿には與力よりき同心へ申付る樣やう天一樣定さだめし明日は乘物のりものなるべし然されど御城代の御門前ごもんぜんにて下乘げじよう致いたさすべし若も下乘げじようなき時は屹度きつと制止せいしに及ぶべしと嚴重げんぢうにこそ申渡し翌あくるを遲おそしと待またれける頃は享保きやうほ十一丙午年ひのえうまどし四月十一日天一坊は供揃ともぞろひして御城代の屋敷やしきへ赴おもむく其行列そのぎやうれつには先に白木しらきの長持ながもち二棹さを萌黄純子もえぎどんすに葵御紋付あふひごもんつきの油箪ゆたんを掛け宰領さいりやう二人づつ跡あとより麻上下あさがみしもにて股立もゝだち取とりたる侍さむらひ一人是は御長持おながもち預あづかりの役なり續つゞいて金御紋きんごもんの先箱さきばこ二ツ黒羽織くろはおりの徒士かち八人煤竹すゝたけ羅紗らしやの袋ふくろに白く葵あふひの御紋を切貫きりぬきし打物うちものを持せ陸尺ろくしやく十人駕籠かごの左右に諏訪右門すはうもん本多源右衞門高間たかま大膳同じく權内ごんない藤代要人ふぢしろかなめ遠藤東次右衞門等また金御紋きんごもんの跡箱あとばこ二ツ簑箱みのばこ一ツ爪折傘つまをりがさには黒天鵞絨くろびろうどに紫むらさきの化粧紐けしやうひもを懸かけ銀拵ぎんごしらへの茶辨當ちやべんたう合羽籠かつぱかご兩掛りやうがけ三箇こ跡あとより徒士かち四人朱網代しゆあじろの駕籠侍かござふらひ四人打物うちものを持せ常樂院天忠和尚てんちうをしやう引續ひきつゞいて同おなじ供立ともたてにて黒叩くろたゝき十文字の鎗やりを持せしは山内伊賀亮やまのうちいがのすけなり其次にも同じ供立に鳥毛とりげの鎗やりを持せしは藤井左京さきやうなり少し離はなれて白黒しろくろの摘毛つみげの鎗を眞先まつさきに押立おしたて麻上下あさがみしもにて馬上なるは赤川大膳にて今日の御供頭おともがしらたり右の同勢堂々だう〳〵として渡邊橋の旅館を立出たちいで下したに〳〵と制しをなし御城代の屋敷やしきを指さして來りければ道筋みちすぢは見物けんぶつ山やまをなして夥おびただしく既に御城代屋敷へ到り乘物のりものを玄關げんくわんへ横付よこづけにせん氣色けしきを見るより今日出役しゆつやくの與力よりき駈來かけきたる是ぞ島秀之助といふ者なり大音だいおん上あげて下乘々々げじよう〳〵と制せしが更に聞きかぬ風して尚なほも門内へ舁込かきこまんとす此時このとき島秀之助駈寄かけより天一坊の乘物の棒鼻ぼうはなへ手を掛かけて押戻おしもどし假令たとへ何樣いかやうなる御身分たりとも此所にて御下乘あるべし未だ公儀こうぎより御達おたつし無なきうちは御城代の御門内ごもんない打乘うちのり決して相成申さず是非ぜひ御下乘と制せいして止やまざれば然ばとて餘儀よぎなく門外にて下乘し玄關げんくわんへこそは打通うちとほりぬ

島秀之助が今日の振舞ふるまひ後のちに關東へ聞え器量きりやう格別かくべつの者なりとて元文ぐわんぶん三年三月京都町奉行まちぶぎやうを仰付られ島長門守しまながとのかみと言いひしは此人なりし同五年江戸町奉行となり延享えんきやう三年寅年とらどし免ぜらる

此時天一坊の裝束しやうぞくには鼠琥珀ねずみこはくに紅裏付こううらつきたる袷小袖あはせこそでの下には白無垢しろむくを重かさねて山吹色やまぶきいろの素絹そけんを着ちやくし紫斜子むらさきなゝこの指貫さしぬきを帶はき蜀紅錦しよくこうにしきの袈裟けさを掛け金作こがねづくり鳥頭とりがしらの太刀を帶たいし手には金地の中啓ちうけいを握にぎり爪折傘つまをりがさを差掛さしかけさせ沓くつしと〳〵と踏鳴ふみならし靜々とぞ歩行あゆみける附從つきしたがふ小姓こしやうの面々には麻上下あさがみしもの股立もゝだちを取て左右を守護しゆごしける引續ひきつゞいて常樂院天忠和尚てんちうをしやうは紫むらさきの衣に白地の袈裟けさを掛け殊勝しゆしようげに手に念珠ねんじゆを携たづさへて相隨あひしたがひ山内伊賀亮には黒羽二重くろはぶたへの袷小袖あはせこそでに柿染かきぞめの長上下なががみしもその外赤川大膳藤井左京さきやう皆々麻上下にて續つゞいて隨ひ來る其行粧そのぎやうさうは威風ゐふう堂々だう〳〵として四邊を拂はらひ目覺めざましくも又勇々敷ゆゝしくぞ見えたりける斯かくて玄關に到れば取次の役人やくにん兩人下座敷げざしきまで出迎でむかへ案内して廣書院ひろしよゐんへ通せしを見るに上段には簾みすを下おろし中には二疊でふ臺だいの上に錦にしきの褥しとねを敷て座を設まうけたり引れて此處このところへ着座ちやくざすれば左右には常樂院天忠てんちう山内赤川藤井等の面々威儀ゐぎを正たゞして座を占しめたり


第十八回


 大坂御城代ごじやうだい堀田相摸守殿の屋敷へ天一坊を請しやうし書院上段の下段げだんに御城代相摸守殿を初はじめとして加番かばんには戸田大隅守殿おほすみのかみどの同植村土佐守殿町奉行まちぶぎやうには松平日向守ひうがのかみ殿鈴木飛騨守ひだのかみ殿大番頭おほばんがしら松平采女正うねめのしやう殿設樂したら河内守殿御目附おんめつけ御番衆しう列座れつざし縁側えんがはには與力十人同心二十人出役しゆつやく致しいと嚴重げんぢうに構かまへたり時に上段の簾みすをきり〳〵と卷上まきあぐれば御城代堀田相摸守殿平伏へいふく致いたされ少し頭かしらを上て恐れ乍ら今般如何いかゞなる事ゆゑ御上坂ごじやうはん町奉行へ御屆おんとゞけもなく理不盡りふじんに御紋付ごもんつきの御幕を御旅館ごりよくわんへ張せられ町家まちやには御旅宿ごりよしゆく相成候や剩あまつさへ御苗字ごめうじの表札を建たてさせ給ふ事不審ふしんに存じ奉る此段伺うかゞひ申さん爲今日御招おんまねき申したり御身分の義ぎ明あきらかに仰聞おほせきかせられたしとぞ相述あひのべらる時に天一坊言葉ことばを柔やはらげ相摸殿よく承うけたまはられよ徳川は予よが本性ほんせいゆゑ名乘申す又また葵あふひも予が定紋ぢやうもんなる故用ゆる迄までなり何の不審ふしんか有べきとの詞ことばを聞より相摸守殿は恐おそれながら左樣の仰聞おほせきけらるゝ計にては會得ゑとくも仕つかまつり難し右には其御因縁そのごいんえんも候はんが其を委敷くはしく仰聞られ下くだされたしといふ其時そのとき伊賀亮少しく席せきを進すゝみ相摸守殿に向ひ相摸守には上うへの御身分ごみぶんを不審ふしんせらるゝ御樣子ごやうす是は尤も千萬なり御筋目おんすぢめの儀は委敷此この伊賀より御聽おんきかせ申べし抑々そも〳〵天一樣てんいちさま御身分と申せば當たう上樣うへさま未だ御弱年ごじやくねんにて紀州表御家老からう加納將監方に御部屋住へやずみにて渡わたらせ給ひ徳太郎信房のぶふさ君と申上し折柄をりから將監妻が腰元こしもとの澤の井と申女中に御不愍ごふびん掛させられ澤の井殿御胤おんたねを宿やどし奉つり御形見おんかたみ等を頂戴ちやうだいし將監方を暇いとまを取生國は佐渡さどなれば則ち佐州へ老母諸共らうぼもろともに立歸りしが其後そののち澤の井殿には若君わかぎみを生うみ奉つり産後肥立さんごひだち兼かね相果られ其後は老母らうぼの手にて御養育ごやういく申せしが右の老母病死びやうしの砌みぎり若君をば同國相川郡あひかはごほり尾島村淨覺院じやうかくゐんと申す寺の門前に御證據しようこの品を相添あひそへ捨子すてごとして有しを是なる天忠淨覺院住職ぢうしよくの砌みぎり拾ひろひ上て御養育申上あげし處間もなく天忠には美濃みのゝ國各務郡かゞみごほり谷汲郷たにぐみがう長洞村常樂院へ轉住てんぢう致し候に付若君をも伴ともなひ奉つれり依て御生長ごせいちやうの土地は美濃國にて候此度このたび受戒じゆかい得道とくだうなし奉つり常樂院の後住ごぢうにも直なほし申べくと存じ候得ども正まさしく當將軍の御落胤ごらくいんたるを知つゝ出家しゆつけになし奉らんは勿體もつたいなき儀に付今度我々守護しゆごし奉つり江戸表おもてへ御供仕つるに就ついては一度江戸表へ御下りの上うへは二度京坂けいはんの御見物ごけんぶつも思召に任まかせられざるべしと依て只今の内うち京坂けいはん御遊覽ごいうらんの爲當表たうおもてへは御出遊いであそばされしなり委細ゐさいは斯の如し相摸殿にも是にて疑念ぎねん有べからずと辯舌べんぜつ滔々たう〳〵として水の流ながるゝ如に述のべたり是を聞居きゝゐる諸役人しよやくにん御城代を始はじめとし各々おの〳〵顏を見合せ誰たれ有あつて一言ごん申出る者なく如何いかにも尤もつともの事と思ふ氣色けしきなり此時御城代ごじやうだい相摸守殿申さるゝ樣は成程なるほど段々の御申立委細ゐさい承知しようちせり併し夫には慥たしかに御落胤おらくいんたるの御證據しようこを拜見はいけん願ひたしと申さる依て伊賀亮は天一坊に向むかひ御城代相摸守より御證據ごしようこ拜見はいけんの願ひあり如何いかゞ仕つかまつらんと云に天一坊は願の趣おもむき聞屆きゝとゞけたり拜見致させよとの事なり則すなはち赤川大膳御長持ながもちを明あけて内より白木しらきの箱はこと黒塗くろぬりの箱とを取出し伊賀亮が前まへへ差出す時に伊賀亮は天一坊に默禮もくれいし恭うや〳〵しく件くだんの箱はこの紐ひもを解とき中より御墨附おんすみつきと御短刀たんたうとを取出し相摸殿率いざ拜見はいけんと差付れば御城代初はじめ町奉行に至る迄各々おの〳〵再拜さいはいし一人々々に拜見はいけん相濟あひすむ是これ紛まぎれもなき正眞しやうじんの御直筆ぢきひつと御短刀なれば一同に驚おどろき入る是に於て疑心ぎしん晴はれ相摸守殿には伊賀亮に向むかひ斯かく確たしかなる御證據おんしようこの御座ある上は將軍の御落胤ごらくいんに相違なく渡わたらせ給へり此段早速さつそく江戸表へ申達たつし御老中ごらうちうの返事へんじを得し上此方このはうより申上べし先まづ夫れ迄は當表たうおもてに御逗留ごとうりう緩々ゆる〳〵御遊覽ごいうらん有べき樣言上ごんじやうせらるべし御證據ごしようこの品々は先まづ御納下おんをさめくださるべしと伊賀亮へ返かへしぬ是より種々饗應きやうおうに及び其日の八つ過すぎに御歸館ごきくわんを觸ふれぬ此度は相摸守殿には玄關げんくわん式臺迄しきだいまで御見送おんみおくり町奉行は下座敷へ罷出まかりいで表門おもてもんを一文字に推開おしひらけば天一坊は悠然いうぜんと乘物の儘まゝ門もんを出るや否や下に〳〵の制止せいしの聲々こゑ〴〵滯とゞこほりなく渡邊橋の旅館りよくわんにこそ歸りける今は誰たれ憚はゞかる者はなく幕は玄關げんくわんへ閃ひらめき表札は雲にも屆とゞくべく恰も旭あさひの昇のぼるが如き勢いきほひなれば町役人まちやくにんどもは晝夜相詰あひつめいと嚴重げんぢうの欵待あしらひなり扨さて御城代には御墨附おすみつきの寫うつし并びに御短刀おたんたうの寸法すんぱふ拵こしらへ迄委敷くはしく認したゝめ委細ゐさいを御月番の御老中へ宛あて急飛きふひを差立らる爰こゝに又天一坊の旅館りよくわんには山内伊賀亮常樂院赤川大膳藤井左京等尚なほも密談みつだんに及び大坂は餘程よほどに富とむ地ちなり此處にて用金ようきんを集あつめんと評議ひやうぎに及び即ち紅屋べにや庄藏大和屋三郎兵衞の兩人を招まねき帶刀を許ゆるし扨さて申談ずる樣は天一坊樣此度このたび御城代の御面會ごめんくわいも相濟たれば近々江戸表よりの御下知おげぢ次第江府かうふへ御下り有て將軍へ御對顏ごたいがん相濟あひすまば西の御丸へ直なほられ給たまふに相違なし依て兩人より金三百兩づつ御用金ごようきんを差出すに於ては返金へんきんは申に及ばず御褒美ごはうびとして知行ちぎやう百石づつ下し置れる樣拙者せつしやどもが屹度きつと取り計ひ遣つかはすべし若し御家來に御取立を望のぞまずば永代えいだい倉元役くらもとやくを周旋しうせんすべし依て千兩は千石の御墨附おすみつきと御引替に下くだし置おかるべしと語かたらうに兩人とも昨日の動靜やうすに安堵あんどしければこの事を所々へ取持たれば其を聞傳きゝつたへて申込者は鹿島屋兵助鴻池善右衞門角屋與兵衞天王寺屋儀兵衞襖屋ふすまや三右衞門播磨はりま屋五兵衞等を初はじめとして我先にと金子きんすを持參し少しも早く御用立ごようだつる者は知行ちぎやう多く下さるとて毎日々々紅屋べにや方へ取次とりつぎを頼み來る有徳うとくの町人百姓又は醫師など迄思ひ〳〵に五百兩千兩と持參する者引も切きらず其金高日ならずして八萬五千兩に及びければ一同は先まづ是これにて差向さしむきの賄まかなひ方には不自由無し此上案あんじらるゝは江戸表えどおもての御沙汰ごさたばかり今や〳〵と相待あひまちける


第十九回


 扨さても大坂御城代の早打はやうち程ほどなく江戸へ到着たうちやくし御月番御老中ごらうぢう松平伊豆守殿御役宅へ書状しよじやうを差出せば御同役松平左京太夫殿さきやうだいふどの酒井讃岐守殿さぬきのかみどのを始め自餘の御役人列座れつざの席にて伊豆守殿大坂御城代よりの書面の儀を御相談ごさうだんあり何れも慥たしかなる證據しようこと有上は大切たいせつの儀なり宜しく上聞に達し御覺悟おんかくご有せらるゝ事成ば急いそぎ當地へ御下おんくだり申し其上何樣いかやうとも思召に任まかせ然るべしと評議ひやうぎ一決しけるが此儀を上へ伺うかゞふには餘人にては宜よろしからず兼々御懇命ごこんめいを蒙かうむる石川近江守然るべしとて近江守を招まねかれ委細ゐさい申し含ふくめ御機嫌ごきげんを見合せ伺ひ申べしとのことにて先まづ夫迄それまでは大坂の早打はやうちは留置とめおけとの趣きなり近江守は甚だ迷惑めいわくの儀なれども御重役ごぢうやくの申付是非ぜひなく御機嫌の宜よろしき時節を待居たり或日將軍家には御庭おんにはへ成せられ何氣なにげなく植木うゑきなど御覽遊ごらんあそばし御機嫌ごきげんの麗うるはしく見ゆれば近江守は御小姓衆おこしやうしうへ目配めくばせし其座を退しりぞけ獨り御側おんそばへ進寄すゝみより聲を潜ひそめて大坂より早打はやうちの次第を伺うかゞひたれば甚だ御赤面ごせきめんの體にて知しらぬ〳〵との上意じやういなれば推返して伺ひけるに成程なるほど少し心當りはあり書付を遣はせし事ありとの上意なれば近江守は御答おこたへの趣き早速松平伊豆守殿へ申通じければ又々御役人方御評議ごひやうぎとなり御連名にて返翰へんかんを遣されたり其文は先達せんだつて仰越おほせこされ候天一坊殿の儀石川近江守を以て御内意伺ひし處上樣うへさまには御覺悟有せらるゝとの仰なり隨分粗略そりやくなく御取計ひ有べく候尚なほ御機嫌ごきげんを見合せ追て申達すべしとの返翰へんかんなり斯樣に江戸表より粗略にすべからずとの儀ぎなれば御城代ごじやうだいの下知として俄にはかに天一坊の旅官りよくわんを前後左右に竹矢來たけやらいを結び前後に箱番所はこばんしよを取建四方の道筋みちすぢへは與力同心等晝夜出役して往來わうらいの旅人馬うま駕籠かごは乘打のりうちを禁じ頭巾づきん頬冠ほゝかぶりをも制し嚴重に警固せり天一坊方にては此樣子を見て先々江戸表の首尾しゆびも宜しき事と見えたりとて各々おの〳〵悦よろこび勇み居たりけり


第二十回


 去程に御城代ごじやうだいより天一坊の旅館を斯く嚴重に警固けいご有ありければ天一坊伊賀亮大膳左京常樂院等の五人は一室に打寄事大方は成就じやうじゆせりと悦び然さらば此上は近々の内うち當所たうしよを引上出立し京都に赴き諸司代にも威勢ゐせいを示し其より江戸表へ下る可べしと相談さうだん一決いつけつせしが未だ御家來不足なり大坂にて召抱めしかゝへんと夫々へ申付此度新規しんきに抱たる者共には米屋甚助事石黒善太夫いしぐろぜんだいふ筆屋三右衞門事福島彌右衞門ふくしまやゑもん町方住居ぢうきよの手習師匠矢島主計やじまかずへ辰巳屋たつみや石右衞門番頭三次事木下新助きのしたしんすけ伊丹屋十藏事澤邊さはのべ十藏酒屋長右衞門事松倉まつくら長右衞門町醫師いし高岡玄純たかをかげんじゆん酒屋新右衞門事上國かみくに三九郎鎗術さうじゆつ指南しなんの浪人近松ちかまつ源げん八上總屋五郎兵衞事相良さがら傳でん九郎と各々改名かいめいさせ都合十人の者を召抱めしかゝへ先是にて可かなり間まに合べし然らば片時へんじも早く京都へ立越べしと此旨を御城代へ屆とゞけける使者は赤川大膳是を勤つとむ其節の口上には近々天一坊京都御見物の思召あれば御上京ごじやうきやう遊ばすに付當表の御旅館りよくわん御引拂ひきはらひ成べくに付此段お達しに及ぶとの趣おもむきなり夫と聞より大坂の役人中やくにんちうは疫病神やくびやうがみを追拂ふが如くに悦び片時も早く立退たちのかせんと内々ない〳〵囁さゝやきけるとなり斯て天一坊の方にては先まづ京都きやうとの御旅館の見立役みたてやくとして赤川大膳は五六日先へ立て上京し京中きやうちうの明家あきやを相尋ねしに三條通でうとほりの錢屋四郎右衞門らうゑもん方に屈竟くつきやうの明店有あるを聞出し早速さつそく同人方へ到り掛合樣此度聖護院しやうごゐんの宮みや御配下天一坊樣御上京に付つき拙者せつしや御旅館展檢てんけんの爲ため上京し所々聞合せしに貴所方きしよかた明店然るべしと申事なり何卒なにとぞ御上京御逗留中ごたうりうちう借用致し度との旨なりしが四郎右衞門は異儀なく承知しようちしければ同人の口入くちいれにて直樣金銀を吝をしまず大工だいく泥工さくわんを雇ひ俄に假玄關かりげんくわんを拵らへ晝夜の別なく急ぎ修復しゆふくを加へ障子しやうじ唐紙からかみ疊たゝみまで出來に及べば此旨このむね飛脚ひきやくを以て大坂へ申越こせば然ば急々上京すべし尤とも此度このたびは大坂表へ繰込くりこみの節せつより一際ひときは目立樣にすべしと伊賀亮いがのすけは萬端に心を配り新規召抱の家來へも夫々役割やくわり申付用意も荒増あらましに屆きたれば愈々明日の出立と相定め伊賀亮常樂院等の連名れんめいにて大膳方へ書翰しよかんを以て彌々いよ〳〵明十日大坂表御出立明後十一日京都御着の思召なれば其用意そのようい有べしと認したゝめ送れり頃は享保十一丙午年六月十日の早天さうてんに大坂渡邊橋わたなべばしの旅館を出立す其行列そのぎやうれつ以前に倍して行粧ぎやうさう善美ぜんびを粧よそほひ道中滯とゞこほりなく十一日晝過に京都四條通りの旅館へぞ着ちやくなせり則ち大坂の如くに入口玄關へは紫むらさき縮緬ちりめんの葵あふひの紋もんの幕を張渡はりわたし門前へは大きなる表札へうさつを立置ける錢屋ぜにや四郎右衞門は是を見て大に驚き赤川大膳に對面たいめんして仔細を問に天一坊樣は當たう將軍の御落胤らくいんなれば徳川の表札御紋付の幕も更に憚はゞかる儀にあらずと彼紅屋等かのべにやらに語りし如く空嘯そらうそふいて告ければ四郎右衞門は今更詮方せんかたなく迷惑めいわくが無ればよしと心中に思ふのみ乍ら捨置すておいては無念ならんと此段奉行所ぶぎやうしよへ町役人ちやうやくにん同道どうだうにて訴へ出いで其趣おもむきは此度錢屋四郎右衞門方へ聖護院宮樣しやうごゐんのみやさまの御配下ごはいか天一坊樣御旅舍の儀明家の儀なれば貸申候に昨夜さくや御到着ごたうちやくの後のち玄關げんくわんへは御紋付きの御幕を張はり剩あまつさへ徳川天一坊旅館との表札を差出され候故其仔細承はり候に天一坊樣には當將軍家の御落胤にて徳川は御本姓ほんめい葵あふひは御定紋ごぢやうもんとの趣きなり依て此段念の爲御屆申上るとの趣きを書面しよめんにし訴へ出いで町奉行所にては是ぞ大坂に噂うはさの有者併しかし理不盡りふじんの振舞なりとて早速役人を出張せしめ速かに召連めしつれ參まゐるべし仰せ畏かしこまり候とて手附てつきの與力兩人を錢屋方へつかはさる兩人の與力は旅館に到り見るに嚴重げんぢうなる有樣なれば粗忽そこつの事もならずと先まづ玄關げんくわんに案内を乞こひ重役ぢうやくに對面の儀を申入取次は斯と奧へ通じければ頓やがて山内伊賀亮繼上下つぎかみしもにて出來いできたり與力に向ひ申す樣各々には何用なにようの有て參られしやといふに答こたへて餘の儀に非ず譬たとへ何樣いかやうの御身分なりとも町旅館なさるゝ節は當所支配の奉行へ一應御屆とゞけ有あるべき筈なるに其儀もなく剩あまつさへ徳川の御表札に御紋付の御幕は其意を得ず依て町奉行所へ御同道どうだう申さんため我々兩人參まゐつて候なりと聞て伊賀亮は態わざと氣色けしきを變かへ夫は甚だ心得ざる口上なり各々には如何樣いかやうの身分みぶんにて恐れ多も天一坊樣を奉行所へ召連めしつれ奉らん抔などと上うへへ對し容易よういならざる過言くわごん無禮ぶれいとや言ん緩怠くわんたいとや言ん言語に絶せし口上かな忝かたじけなくも天一坊樣には當將軍家の御落胤らくいんにて既に大坂城代より江戸表へも上申に相成御左右ごさう次第しだい江戸へ御下向ごげかうの御積おんつもり其間に京都御遊覽いうらんの爲め上京じやうきやう此段町奉行にも心得有べき筈不屆至極ふとゞきしごくの使者今一言申さばと威丈高ゐたけだかに遣込やりこめ其上汝知らずや町奉行所は科とが人罪ざい人の出入する不淨ふじやうの場所なり左樣なる穢けがれし場所へ御成を願ふは不埓千萬ふらちせんばんなり伺ひ度儀あらば奉行が自身に參上さんじやうすべき筈なり今般の儀は役儀やくぎに免じ御許しあるべし此趣き早々罷まかり歸り奉行に申達すべしと云捨て伊賀亮はツと奧おくへ入いれば兩人は散々に恥はぢしめられ凄々すご〳〵と御役宅へ歸り奉行へ此由を申せば其は捨置すておき難しと早速さつそく諸司代しよしだいへ到り牧野丹波守殿まきのたんばのかみどのへ此段申上るに然ば諸司代屋敷へ相招ぎ吟味を遂とげ相違無に於ては當表たうおもてよりも江戸へ注進ちうしんすべしと評定ひやうぢやう一決し牧野丹波守殿より使者を以て招がれける此方こなたは思ふ壺つぼ成なれば此度は異儀いぎ無なく參まゐるべしと返答し諸司代の目を驚かし呉んものと行列ぎやうれつを粧よそほひ諸司代屋敷へ赴おもむきしかば牧野丹波守殿對面たいめん有て身分より御證據しようこの品の拜見もありしに全く相違なしと見屆みとゞけ京都よりも又此段を江戸表御月番御老中おつきばんごらうちうへ御屆おんとゞけに相成る先達て御城代堀田相摸守殿よりの早打はやうち上聞じやうぶんに達せしに御覺悟ごかくご有せらるゝの上意なれば京都に於ても麁略そりやく無樣なきやう計はからひ申さるべしとの事故ゆゑ然さらば其儘に差置さしおかれずと俄にはかに組與力等くみよりきら出張せしめ晝夜ちうやとも嚴重げんぢうに固かためさせける此方にては愈々上首尾と打悦うちよろこび又も近邊の有徳なる者どもを進め用金ようきんをば集あつめける京都にても五萬五千兩程集まり京きやう大坂にて都合十五萬兩餘の大金と成ば最早もはや金子は不足ふそくなし此勢に乘じようじて江戸へ押下おしくだりいよ〳〵大事を計らはんは如何にと相談さうだん有ありしに山内伊賀亮進出て云やう京坂は荒増あらまし仕濟したれど江戸表には諸役人ども多く是迄これまでとは違ちがひ先老中には智慧ちゑ伊豆守いづのかみあり町奉行には名代なだいの大岡越前など有あれば容易には事を爲難なしがたし依て一先ひとまづ江戸表へ御旅館ごりよくわんを修繕しつらひ篤とくと動靜やうす見計みはからひ其上にて御下り有て然るべし其間あひだには江戸表の御沙汰ごさたも相分り申さん變へんに應おうじて事を計らはざれば成就じやうじゆの程ほど計難はかりがたしといふに然ば江戸表に旅館りよくわんを構かまゆる手續てつゞきに掛らんとて常樂院の別懇べつこんに南藏院なんざうゐんと云いふ江戸芝田しばた町に修驗者しゆけんじやあれば此者方へ常樂院じやうらくゐんの添状そへじやうを持せ本多源右衞門ほんだげんゑもんに金子を渡し先まづ江戸表へ下しける源右衞門は道中を急ぎ江戸芝田しばた町南藏院方へ着ちやくし常樂院の手紙てがみを渡わたし其夜は口上にて委細ゐさい咄はなしに及べば南藏院は篤とくと承知し早速さつそく懇意こんいなる芝田町二丁目の阿波屋吉兵衞あはやきちべゑ品川しながは宿の河内屋與兵衞本石町二丁目の松屋まつや佐さ四郎下鎌田村しもかまだむらの長谷川はせがは卯う兵衞兩國米澤町の鼈甲屋喜助等べつかふやきすけとうの五人を語らひ品川宿近江屋儀右衞門の地面ぢめん芝高輪しばたかなわ八山やつやまに有あるを買取て普請にぞ取掛りける表門玄關使者の間大書院おほしよゐん小書院しよゐん居間ゐま其外諸役所長屋等迄とうまで殘のこる所なく入用を厭いとはず晝夜ちうやを掛て急ぐ程に僅かに五十日許りにて荒増あらまし出來上り建具屋たてぐや疊張付たゝみはりつけ諸造作しよざうさく庭廻にはまはりまで全く普請は成就して壯嚴美々敷調ひけり依よつて本多源右衞門と南藏院の兩名りやうめいにて普請ふしん出來せし旨を京都へ申遣つかはしければ天一坊は伊賀亮大膳等の五人と密談みつだんを遂とげいよ〳〵江戸の普請ふしん成就じやうじゆの上は片時も早く彼地へ下り變に應じ機に臨み施す謀計ぼうけいは幾計いくらもあるべし首尾能御目見おんめみえさへ濟ば最早氣遣きづかひなし然ば發足有べしと江戸下向げかうの用意にこそは掛かゝりける


第二十一回


 斯かくて江戸高輪の旅館りよくわん出來しゆつたいの由書状しよじやう到來せしかば一同に評議ひやうぎの上早々江戸下向と決し用意も既に調とゝのひしかば諸司代牧野丹波守殿まきのたんばのかみどのへ使者を以て此段を相屆あひとゞける頃は享保きやうほ十一午年九月廿日天一坊が京都出立の行列ぎやうれつは先供さきどもは例の如く赤川大膳と藤井左京の兩人りやうにん一日代りの積りにて其供方には徒士かち若黨わかたう四人づつ長棒ながぼうの駕籠かごに陸尺ろくしやく八人跡箱あとばこ二人鎗やり長柄ながえ傘杖草履取兩掛合羽籠等なり其跡は天一坊の同勢にて眞先まつさきなる白木しらきの長持には葵あふひの御紋ごもんを染出そめいだしたる萌黄緞子もえぎどんすの油箪ゆたんを掛て二棹宰領四人づつ次に黒塗くろぬりに金紋きんもん付紫むらさきの化粧紐けしやうひも掛かけたる先箱二ツ徒士十人次に黒天鵞絨に白く御紋ごもんを切付し袋ふくろの打物うちもの栗色くりいろ網代あじろの輿物には陸尺十二人近習の侍ひ左右に五人づつ跡箱あとばこ二ツ是も同く黒塗ぬり金紋付紫むらさきの化粧紐けしやうひもを掛たり續つゞいて簑箱みのばこ一ツ朱の爪折傘つまをりがさは天鵞絨びろうどの袋に入紫の化粧紐を掛たり引馬ひきうま一疋銀拵ぎんごしらへの茶辨當には高岡玄純付添ふ其餘は合羽籠兩掛等なり繼いて朱塗しゆぬりに十六葉の菊きくの紋もんを付紫の化粧紐を掛たる先箱二ツ徒士五人打物うちものを先に立朱網代の乘物には常樂院天忠和尚跡は四人の徒士かち若黨長棒の駕籠には山内伊賀亮外ほかに乘物十六挺ちやう駄荷物十七荷か桐棒きりぼう駕籠五挺都合上下二百六十四人の同勢どうぜいにて道中筋すぢは下に〳〵と制止聲を懸させ目を驚おどろかすばかりいと勇ましく出立し既に三河國かはのくに岡崎の宿へぞ着ちやくしける此岡崎をかざきの城下は上の本陣ほんぢん下の本陣迚二軒あり天一坊は上かみの本陣へ旅宿りよしゆくを取表に彼の大表札さつに徳川天一坊旅宿と書かきしを押立おしたて玄關には紫むらさき縮緬の幕を張はり威儀ゐぎ嚴重げんぢうに構へたり此時下の本陣には播州ばんしう姫路ひめぢの城主酒井雅樂頭殿どの歸國の折柄にて御旅宿なりしが雅樂頭うたのかみ殿上の本陣に天一坊旅宿の由を聞及び給ひ御家來に仰おほせらるゝ樣やう兼々かね〴〵江戸表にも噂うはさ有ありし天一坊とやら此度このたび下向と相見えたり此所にて出會ては面倒めんだうなり何卒行逢ゆきあはぬ樣にしたしと思召御近習きんじゆを召て其方密ひそかに彼が旅宿の邊へんへ參り密々明日の出立の時間じかんを聞合せ參るべしと申付らる近習は頓やがて上本陣の邊りへ立越便宜びんぎを窺うかがへば折節本陣より侍さぶらひ一人出來りぬれば進すゝみ寄て天一坊樣には明日は御逗留ごとうりうなるや又は御發駕ごはつがに相成やと問けるに彼の侍ひ答て天一坊樣には明日は當所たうしよに御逗留の積なりとぞ答へたり是これは伊賀亮が兼ての工たくみにて若も酒井家より明日の出立しゆつたつを聞合せて參まゐるまじきにも非あらず其時は逗留とうりうと答へよと下々迄申付置しに是は雅樂頭殿に油斷ゆだんさせ明朝途中とちうにて行逢ゆきあひ威光ゐくわうを見せんとの謀計ぼうけいなりしとぞ斯る巧のありとは夢ゆめにも知ず其言葉を實まことと思ひ早速立歸たちかへりて雅樂頭殿へ此由このよしを申上れば然ば明朝は未明みめい彼かれに先立出立せん其用意致すべしと觸出ふれいだされける然ば其夜何れも寢ねる者なく早はやくも用意に及び寅とらの刻こくにも成ければ出立いたされ暗くらきに靜々しづ〳〵と同勢を繰出さる天一坊方かたには山内伊賀亮が計はからひにて忍しのびを入れ此樣子を承知して遠見とほみを出し置雅樂頭殿出門しゆつもん有あらば此方も出門に及ぶべしと悉こと〴〵く夜の内に支度を調へ今や〳〵と待居たり只今たゞいま雅樂頭出門との知しらせに直此方も繰出くりいだせり酒井家は斯かくあらんとは少しも知ず行列ぎやうれつ嚴重げんぢうに來懸る處此方は御墨附おすみつき御短刀たんたうの長持を眞先に進ませ下に〳〵と制止せいしを懸かくれば雅樂頭殿是を聞きゝ玉ひ驚かれしが今更いまさら跡あとへ引返さんも如何なり何とかせんと猶豫いうよの内に最早御墨附の長持と行逢ゆきあふ程に成たり此こゝに至いたつて雅樂頭殿は據よんどころなく駕籠かごより下て控ひかへられ御墨附の通る間雅樂頭殿には頭かしらを下さげて居給へり元來もとより巧たくみし事なれば天一坊の乘物も此日は此長持に引添ひきそひて來り天一坊は駕籠の中より聲こゑを懸かけ酒井殿乘打のりうち御免ごめんと云捨て馳拔はせぬけければ思はずも雅樂頭殿には天一坊にまで下座をし給ふ此は無念なりと蹉跎あしすりなして怒いかり給ひしが今更詮方せんかたも無りしとぞ假初かりそめにも十五萬石にて播州姫路の城主たる御身分ごみぶんが素性すじやうもいまだ慥たしかならぬ天一坊に下座有ありしは殘念ざんねんと云も餘りあり天一坊は流石さすがの酒井家さかゐけさへ下座されしと態わざと言觸いひふらし其威勢ゐせい濤おほなみの如くなれば東海道筋にて誰一人爭ふ者はなく揚々やう〳〵として下りけるは大膽不敵だいたんふてきの振舞と云べし扨も享保十一午うま年九月廿日に京都を發足し威光ゐくわう列風れつぷうの如く十三日の道中だうちうにて東海道を滯りなく十月二日に江戸芝高輪八山やつやまの旅館へ着せり玄關には例れいの御紋附の幕を張はり徳川天一坊殿旅館と墨黒に書し表札を押立おしたてたれば之を見る者扨さてこそ噂うはさのある公方樣くばうさまの御落胤の天一坊樣といふ御方なるぞ無禮せば咎とがめも有んと恐れざる者ものもなく此段早くも町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿の耳みゝに入り彼所かしこは當たう奉行支配の地なれば捨置難すておきがたしと密々みつ〳〵調しらべられし上うへこの段御老中筆頭ごらうぢうひつとう松平伊豆守殿いづのかみどのへ御屆に及ばるれば早速さつそく御老中若年寄わかどしより御相談ごさうだんの上うへ先まづ伊豆守殿御役宅おんやくたくへ相招あひまねき實否じつぴ取糺とりたゞしの上にて御落胤に相違なきに於ては速すみやかに上聞じやうぶんに達たつし取計とりはからひ方も有べしと評議ひやうぎ一決し則ち松平伊豆守殿より公用人こうようにんを以て八山やつやまなる旅館へ申遣しける趣おもぶきは此度天一坊樣御下向ごげかうに付ついては重役の者一統とう相伺あひうかゞひ申度たき儀ぎこそ有ば明日五ツ時どき伊豆守御役宅へ御出あらせられ度たしとの口上こうじやうを申入いるれば頓やがて山内伊賀亮出會しゆつくわいし再ふたゝび出來いできたり御おん申越こしの趣おもぶき伺ひし處明日みやうにち伊豆守殿御屋敷へ入いらせられ候儀御承知の御返答なり其節そのせつ萬端ばんたん宜よろしく伊豆殿に頼み入趣きなりとの挨拶あいさつなり扨翌朝になり八山にては行列を揃そろへ今日は先供として山内伊賀亮御墨附おすみつきの長持を宰領さいりやうす供には常樂院大膳左京等皆々附隨がふ程ほどなく伊豆守殿御役宅に到るに開門かいもんあれば天一坊の乘物は玄關げんくわんへ横付よこつけにしたり案内の公用人に引ひかれ廣書院ひろしよゐんへ通り上段じやうだんなる設の席に着す常樂院伊賀亮等は次つぎの間まへ着座す又此方に控へらるゝ御役人方おんやくにんがたには御老中筆頭ごらうちうひつとう松平伊豆守殿を始め松平まつだひら左近將監酒井さかゐ讃岐守戸田とだ山城守水野みづの和泉守若年寄わかどしよりには水野みづの壹岐守本多ほんだ伊豫守太田おほた備中守松平左京太夫御側御用人には石川いしかは近江守寺社じしや奉行には黒田くろだ豐前守小出こいで信濃守土岐とき丹後守井上ゐのうへ河内守大目附おほめつけには松平相摸守奧津おきつ能登守上田うへだ周防守有馬ありま出羽守町奉行には大岡越前守諏訪すは美濃守御勘定ごかんぢやう奉行には駒木根こまきね肥前守筧かけひ播磨守久松ひさまつ豐前守稻生いなふ下野守御目附には野々山のゝやま市十郎松田勘解由まつだかげゆ徳山とくやま五兵衞へゑ等とうの諸御役人しよおんやくにん輝星きらぼしの如く列座れつざせらる此時松平伊豆守殿進出すゝみいでて申されけるは此度天一坊殿關東くわんとう下向げかうに付今日御役人ども御對面ごたいめんを願ねがふとの趣おもむきなり此時隔の襖ふすまを押明れば天一坊威儀を繕ろひ然も鷹揚おうやうに此方を見廻せば一同どう平伏へいふくある時に伊豆守殿は伊賀亮に向むかはれ申さるゝ樣天一坊殿御出生ごしゆつしやうの地ち并ならびに御成長の所は何の地なるやと尋たづねらるゝに此時常樂院は懷中くわいちうより書付かきつけを取出し御身分の儀ぎは委細ゐさい是これに相認め御座候と差出さしいだす伊豆殿請取うけとつて開き見らるゝに佐州さしう相川郡あひかはごほり尾島村をじまむら淨覺院じやうかくゐんの門前に御墨附に御短刀相添て捨すて是有これありしを淨覺院先住せんぢう天道てんだう是を拾ひろひ揚て弟子とし參らせし處天道先年遷化せんげの後のち天忠即ち住職ぢうしよく仕つかまつり其砌みぎりに天一坊樣をも附屬ふぞく致され後年御世に出し參まゐらすべしとの遺言ゆゐごんなれば天忠御養育ごやういくなし參らせし處其後天忠美濃國みのゝくに谷汲郷たにぐみがう長洞村ながほらむら常樂院へ轉住てんぢうせしに付御同道申上あげ同院どうゐんにて御成長に御座候と書認めたり伊豆殿見終みをはり玉ひ御書面にて先御誕生後ごたんじやうご御成長迄は分りたれども未いまだ如何いかなる御腹おんはらに御出生ありしや不分明ふぶんめいなり此儀は如何にと問とはれたり


第二十二回


 此時山内伊賀亮座ざを進すゝみ申樣天一坊樣御身分の儀は只今たゞいまの書付にて委くはしく御承知ならんが御腹の儀御不審ふしん御尤もつともに存候されば拙者より委細ゐさい申上べし抑そも當たう將軍樣紀州きしう和歌山わかやま加納將監方かなふしやうげんかたに御部屋住にて渡らせ給ふ節せつ將監しやうげん妻さいの召使めしつかふ腰元こしもと澤さはの井ゐと申婦女ふぢよの上樣うへさま御情おんなさけ懸かけさせられ御胤を宿し奉りし處御部屋住おんへやずみの儀ぎ成なれば後々召出さるべしとの御約束にて夫迄それまでは何れへ成とも身を寄よせ時節じせつを待べしとの上意にて御墨附おんすみつき御短刀おたんたうを後の證據しようことして下し置れしが澤の井儀は元もと佐渡さど出生しゆつしやうの者故老母諸共生國佐州へ歸かへり間もなく御安産なりしが産後さんごの血暈ちのみちにて肥立ひだちかね澤の井樣には相果られ其後は老母らうぼの手にて養育やういく申上しが又候老母も病氣にて若君の御養育やういく相屆あひとゞかず即はち淨覺院の門前に捨子と致し右老母も死去しきよ致したるなり淨覺院先住天道存命中の遺言ゆゐごん斯かくの如し依て常樂院初め我々御守護申上何卒なにとぞ御世みよに出し奉らんと渺々はる〴〵御供おんとも申上候なりと辯舌水の流るゝ如く滔々たう〳〵と申述ければ松平伊豆守殿初め御役人方おやくにんがたいづれも詞ことばは無く只たゞ點頭うなづくばかりなりしが然ば御身分の儀は委敷くはしく相分りたり此上は御證據しようこの品々拜見致し度と申されければ伊賀亮は天一坊に向むかひ伊豆殿御證據の御品しな拜見はいけんを相願はれ候如何いかゞ計はからひ申さんといふに天一坊は許ゆるすと計り言葉少なに言放せば大膳は鍵かぎ取出し二品を取出し三寶さんばうに載のせ持出もちいで伊豆守殿の前に差置さしおくにぞ伊豆守殿初め重役の面々各々手水てうづして先御墨附を拜見はいけんに及ばる其文面そのぶんめんは例の如く

其方そのはう懷妊くわいにんの由我等血筋に相違是なし若もし男子なんし出生しゆつしやうに於ては時節を以て呼出すべし女子たらば其方の勝手に致すべし後日證據の爲め我等われら身みに添大切に致し候短刀たんたう相添あひそへ遣つかはし置者也依て如件

寛永二申年十月
徳太郎信房
澤の井女へ

とあり御直筆おんぢきひつに相違なければ面々めん〳〵恐れ入り拜見致されまた御短刀をも一見するに紛まがふ方なき御品なれば御老中若年寄わかどしよりには愈々將軍の御落胤ごらくいんに相違なしと承伏しようふくし伊豆守殿則すなはち伊賀亮を以て天一坊へ申上られける樣は先刻せんこくより重役ども一同御身の上委細ゐさい承知仕り斯かくの如く慥たしかなる御證據ある上は何をか疑うたがひ申べき將軍の若君わかぎみたるに相違なく存じ奉る此上は一同いちどう篤とくと相談さうだん仕り近々に御親子御對顏ごたいがんに相成候樣取計ひ仕るべし夫迄それまでは八山やつやま御旅館ごりよくわんに御座成ござなされ候樣願ひ奉ると言上に及ばる是これにて御席おせき相濟あひすみ伊豆守殿より種々御饗應ごきやうおう有て其後歸館を相觸あひふれらる此度は玄關迄伊豆守殿初め御役人殘らず見送りなればいとゞ威光ゐくわうは彌増いやましたり是にて愈々いよ〳〵謀計ぼうけい成就じやうじゆせりと一同安堵あんどの思ひをなしにけり扨又伊豆守殿御役宅おんやくたくには天一坊歸館の跡にて御老中には伊豆守殿松平左近將監殿酒井讃岐守殿戸田山城守殿水野和泉守殿みづのいづみのかみどの若年寄衆は水野壹岐守殿みづのいきのかみどの本多伊豫守殿太田備中守殿松平左京太夫殿等御相談ごさうだんの上にて御側おそば御用御取次を以て申上られけるは先達せんだつて大坂表より御屆に相成りし天一坊樣御事今般こんぱん芝八山御旅館へ御到着ごたうちやくに付今日伊豆守御役宅にて諸役人一同恐れ乍ながら御身分の御調おんしらべ申上げ御證據の品々拜見仕りしに御血筋に相違御座なくと存じ奉り候今日は御歸館なさせ奉りしが何いづれ近日吉日きちにちを撰えらび御親子御對顏の儀計らひ奉るべく就ては御日限げんの儀ぎ御沙汰おさた願ねがひ奉るとの儀なれば將軍吉宗公には是を聞きこし召めされ限りなき御祝着ごしうちやくにて片時へんじも早く逢度あひたくとの上意なりし御親子の御間柄あひだがらまた別段べつだんの御事なり扨も大岡越前守殿には數寄屋橋の御役宅へ歸り獨ひとり熟々つら〳〵勘考かんかう有あるに天一坊の相貌さうばう不審ふしん千萬なりと思はるれば翌朝よくてう未明みめい伊豆殿御役宅へ參られ御逢あひを願はれしが此日も伊豆殿の御役宅には御内談ごないだん有て松平左近將監殿酒井讃岐守殿御出なり其席へ越前守を招まねかれける時に越前守低頭ていとうして恐れながら越前守申上候は昨日御逢これ有りし天一坊殿の儀御評議ひやうぎ如何候や伺うかゞひ度たく參上せりと聞きかれ伊豆守殿の仰おほせに天一坊殿の御身分の儀昨日拙者どもにも御落胤らくいんに相違無なきと存ずれば依よつて上聞に達たつせしに上かみにも御覺悟かくご有らせられ速すみやかに逢度あひたくとの上意なれば近々吉日を撰えらび御對顏の儀ぎ取計とりはからひ其上は上の思召おぼしめしに任まかすべきに決せりとの事なり此時まで平伏へいふくせられし越前守頭かしらを少すこし上げて伊豆守殿に向ひ御重役方の斯く御評議御決定ごけつぢやうに相成候を越前斯樣かやうに申上候は甚はなはだ恐入おそれいり候へ共少々思付候仔細御座候是を申述のべざるも不忠ふちうと存候此儀私事には候はず天下の御爲おんため君きみへの忠義ちうぎにも御座あるべく依て包つゝまず言上仕り候越前儀未熟みじゆくながら幼少えうせうの時より人相にんさうを聊いさゝか相學あひまなび候故昨日間あひは隔へだち候へ共彼の方を篤とくと拜見候處御面相ごめんさう甚だ宜よろしからず第一に目と頬ほゝとの間あひだに凶相きようさう現はる是は存外の謀計はかりごとを企くはだつる相にて又また眼中がんちう殺伐さつばつの氣あり是は人を害がいしたる相貌さうばうなり且眼中に赤き筋すぢありて此筋このすぢ瞳ひとみを貫つらぬくは劔難けんなんの相にて三十日立たゝざる内に刃やいばに掛かゝり相果あひはつるの相なり斯る不徳ふとくの凶相きようさうにして將軍の御子樣とは存じ奉り難がたし越前守が思考かんがへには御品は實なれど御當人に於ては何なにとも怪あやしく存ずるなり愚案ぐあんは御目鏡おめがねには背そむき候へども何卒なにとぞ此御身の上は今一應おう越前へ吟味ぎんみを相許あひゆるし下されたし越前篤と相調べ其上にて御親子御對顏ごたいがんの儀御取計ひ有るとも遲おそかるまじくと存ず此段願ひ奉るとの趣きなり伊豆守殿斯と聞給きゝたまふより忽たちまち怒いかり面おもてに顯あらはれ越前守を白眼にらまへ越前只今の申條過言くわごんなり昨日重役ども並に諸役人一同相調あひしらべし御身分將軍の御落胤に相違なしと見極みきはめ上聞じやうぶんにも達たつしたる儀を其方一人是を拒こばみ贋者にせものと申立慥たしかなる證據もなく再吟味さいぎんみ願ひ出るは拙者どもが調べを不行屆ふゆきとゞきと申にや何分にも重役どもを蔑ないがしろに致す仕方しかた不屆至極ふとゞきしごくなりと叱しかり玉へば越前守には少しも恐るゝ色なく全く越前自己の了簡れうけんを立んとて御重役を蔑ないがしろに致すべきや此吟味の儀は御法に背そむき候とは苟いやしくも越前御役をも相勤あひつとむる身分なれば辨わきまへ居候へども只々天下の御爲國家の大事と存じ聊いさゝか忠義と心得候へば何卒なにとぞ枉まげて御身分おみぶん調しらべの事一應おう越前へ御許し下されたしと押おして願ひ申されける此時松平左近將監殿仰せらるには是越前其方は重役共の吟味を悖もどき再吟味を願ひ若もし將軍しやうぐんの御胤に相違なき時は其方そのはう如何致す所存にやと仰おほせられければ越前守愼つゝしんで答らるゝ樣御意ぎよいに候再吟味願の義は越前が身に替かへての願ひに御座候へは萬一まんいち天一坊殿將軍の御子に相違なき時は越前が三千石の知行ちぎやうは元より家名斷絶かめいだんぜつ切腹せつぷくも覺悟なりと御答に及ばれける此時酒井讃岐守殿の仰には越前其方は飽あくまで拙者共どもを蔑ないがしろにし押おして再吟味願ふは其方の爲に宜しからぬぞ控ひかへられよと仰せらるれども假令たとへ身分は何樣いかやうに相成候とも苦くるしからず君への御爲天下の爲なり幾重いくへにも再吟味の儀御許し下され度偏ひとへに願ひ奉たてまつると再三押て願はれければ伊豆殿散々さん〴〵に氣色けしきを損そんぜられ其方左程さほどに再吟味致し度とあれば勝手かつてにせよと立腹りつぷくの體にて座をば立たちたまひたり是に依よつて御列座も皆々退參たいさんと相成りければ跡に越前守只一人殘のこりて手持てもちなき體なりしが外に詮せんすべもなくて凄々すご〳〵として御役宅を立ち去り歸宅せられしが忠義に凝こりなる所存を固かため種々に思案しあんを廻めぐらし如何いかにも天一坊怪敷あやしき振舞ふるまひなれば是非とも再吟味せんものと思へど御重役方は取上られず此上は是非に及ばず假令たとへ此身は御咎おとがめを蒙かうむるとも明朝あすは未明に登城に及び直々ぢき〳〵將軍家しやうぐんけに願ひ奉るより外ほかなしと思案を極きはめ家來を呼び出され明朝みやうてうは六時の御太鼓たいこを相圖あひづに登城致す間あひだ其用意そのよういいたすべしと云付けられたり


第廿三回


 扨も松平伊豆守殿には大岡越前守の戻もどられし跡にて熟々つら〳〵と思案あるに越前定さだめし明朝は登城なし天一坊樣御身分再吟味の儀將軍へ直ぢきに願ひ出るも計はかり難がたし然ば此方も早く登城し越前に先を越こし申上置おかざれば叶かなふ可らずと是も明朝明六時あけむつのお太鼓に登城の用意を申付られたり既すでにして翌日よくじつ御城おんしろのお太鼓六むつの刻限こくげん鼕々とう〳〵と鳴響なりひゞけば松平伊豆守殿には登城門よりハヤ駕籠かごをぞ馳はせられけり又大岡越前守には同おなじく六のお太鼓を相圖あひづに是も御役宅を立出たり然るに伊豆守殿御役宅は西丸下にしまるしたなり越前守の御役宅は數寄屋橋すきやばし御門内なれば其道筋そのみちすぢも隔へだたれば伊豆守殿には越前守より少すこしく先に御登城あり御用ごよう取次とりつぎは未だ登城なく御側衆おそばしうの泊番高木伊勢守のみ相詰あひつめたり乃すなはち伊豆守殿芙蓉ふようの間まに於て高木伊勢守を召めされ突然とつぜんと尋ねらるゝは貴所きしよには當時の役人中にて發明はつめいは誰れとの評判と存ぜらるゝやと尋たづねらるゝに伊勢守は不思議ふしぎの尋なりと當惑たうわくながら暫く思案して答へられけるは御意に候當節御役人の中には豆州侯づしうこう其許そのもとをこそ智慧伊豆ちゑいづと下々しも〴〵にては評判も致し御筆頭ひつとうと申し其許樣そのもとさまに上越す御役人はこれ有あるまじとの評判に候と申さるゝに伊豆守殿是を聞かれいやとよ夫は差置さしおき外々ほか〳〵の御役人にては誰が利口りこう發明はつめいなる噂うはさにやと仰せらる其時伊勢守參さん候外御役人にては町奉行越前など發明との評判に御座候やに承うけたまはる旨を答らるゝに伊豆守殿點頭うなづかれ成程當節たうせつは越前を名奉行と人々噂うはさを致すやに聞及べり然されど予よは越前は嫌きらひなり兎角に我意がいの振舞ふるまひ多く人を輕かろんずる氣色けしきありて甚だ心底しんていに應おうぜぬ者なりと申されける是は只今にも登城に及び若もし直願ぢきねがひの取次等とりつぎらを申出るとも取次させまじと態わざと斯かくは其意を曉さとらせし言葉なるべし

扨さて又大岡越前守には明六あけむつのお太鼓を相圖あひづに登城なされしが早はや伊豆守殿には登城ありて芙蓉ふようの間まに控ひかへ給ひ伊勢守と何か物語ものがたりの樣子なれば越前守には高木伊勢守を密ひそかに招まねき語る樣は此度江戸表へ御下向おげかう有て芝八山の御旅館に在まします天一坊樣儀は一昨日松平伊豆守殿御役宅にて御身分調べあり御重役方は御相違ごさうゐなしとて近々御對顏ごたいがんの儀取計らはるゝ趣き拙者に於ては萬事其意を得ざる事と存ず其譯そのわけと申すは天一坊樣の御面相ごめんさうを拜するに目と頬ほゝの間に凶相きようさう顯あらはれ中々以て高貴かうきの相貌さうばうにあらず拙者の勘考かんかうには御證據の品は實ならんが御當人ごたうにんは贋者にせものなりと決したり依て天下の爲再吟味を重役方へ願ひしが早はや評議ひやうぎ一決の由にて聞屆きゝとゞけられず由々敷ゆゝしき御大事ゆゑ君への御奉公再吟味の儀御許おんゆるし下され候樣に直願ぢきぐわん仕つかまつり度何卒此段御取次下され度たしと思ひ込で申ける高木伊勢守も打聞うちきいて甚いたく驚きしが先刻せんこくの口上もあれば迷惑めいわくに思はれたり其故は越前守の願ひ言上に及べば御發明の將軍家しやうぐんけ御許おんゆるしも有あるべし然さすれば伊豆守殿には不首尾ふしゆびと相なるべし當時此人に憎にくまれては勤役きんやくなり難しと思案し斯こは大岡越前守が願ひ取次も御採用おとりもちひなき樣に言上ごんじやうするより外ほかなしと思案を定さだめ伊豆守殿の方へ向むき目配めくばせしつゝ越州ゑつしう御願おんねがひの趣おもむき早速さつそく上聞じやうぶんに達し申さんと立て奧の方へ到いたり將軍の御前へ出て申上あげける樣は恐おそれ乍ら言上仕り候此度このたび御下向おげかうにて芝八山の御旅館に在まします天一坊樣御事は先達さきだつて伊豆守役宅へ御招き申上御身分篤とくと御調おんしらべ申上しに恐れながら君の御面部めんぶに其儘そのまゝ加之しかのみならず御音聲迄ごおんじやうまでも能よく似遊にあそばし瓜うりを二ツと申事且つ又御墨附御短刀も相違御座なく在あらせらるれば近々きん〳〵御親子ごしんし御對顏ごたいがんの御儀式ぎしき執計とりはからひ申すべき段上聞に達し候處芝八山は町奉行の掛りなれば越前再吟味願度由さいぎんみねがひたきよし此段このだん伺うかゞひ奉ると言上に及びければ將軍には聞きこし食めされ天一は予よに能よく似にて居をるとや音聲迄おんじやうまでも其儘とな物の種は盜むも人種は盜ぬすまれずと世俗せぞくの諺ことわざさもあり爭あらそはれぬ者かな早々さう〳〵天一に逢度あひたしとの上意なり世の中の親の心は闇やみならねど子を思ふ道に迷まよふとか云ひて子を慈いつくしむ親の心は上かみ將軍より下しも非人ひにん乞食こじきに至る迄替かはる事なき理ことわりなり其時また上意に芝八山は町奉行の支配しはいなりとて越前我意がいに募つのり吟味を願ふとな既すでに重役ども取調べ予が子に相違なきに極きはまりしを一人彼是かれこれと申拒こばむは偏執へんしふの致す處か再吟味は天下の法に背そむく相成ぬと申せとの事なれば伊勢守は仰おほせ畏かしこまり奉り候迚とて頓やがて芙蓉の間へ出來いできたり上座に着つき越前上意なりと申渡さるゝに越前守には遙はるかに引下りて平伏へいふくなす此時高木伊勢守申渡す樣は八山御旅館に居らせられ候天一坊身分越前我意がいに募つのり再吟味願の儀は已すでに重役ども篤とくと相調べ相違なきを一人彼是申拒こばむは重役を蔑ないがしろに致す所行しよぎやう殊ことに再吟味は天下の大法たいはふに背そむく間あひだ相成ぬとの上意なりと嚴重げんぢうにこそ申渡しける越前守は發はつとばかり御受を致され恐入おそれいつて退出たいしゆつせらる跡より大目附土屋六郎兵衞下馬げばより駕籠かごに打乘うちのり御徒士目附おかちめつけ御小人目附おこびとめつけ警固けいごして越前守を數寄屋橋内の御役宅へ送られ土屋六郎兵衞より閉門へいもんを申渡し表門には封印ふういんし御徒士目附御小人目附ども晝夜ちうや嚴重げんぢうに番をぞ致しける良藥は口に苦にがく忠言ちうげん耳みゝに逆さからふの先言せんげん宜むべなるかな大岡越前守は忠義一圖いちづに凝固こりかたまりて天一坊の身分再吟味の直願ぢきぐわんを致されしが輕かろからざる上意にて今は閉門へいもんの身となりけれど此事は中々なか〳〵打捨置難うちすておきがたき大事なれば公用人平石ひらいし次じ右衞門吉田よしだ三五郎池田大助いけだだいすけの三人を招まねかれ申されけるは予は天一を贋者にせものと思ひ定め再吟味の儀を重役へ願ひしが自己じこの言状いひじやうを立んとて取上られず據よんどころなく今朝直願に及びしが是又御親子の御愛情あいじやうに惹ひかされ給ひ筋違すぢちがひの事重役を蔑如べつじよし大法に背くとの趣きにて重き上意を蒙かうむり予は閉門へいもんを仰付られしが一同とも神妙しんめうに致し居る樣申付くべしとの言葉に三人は平伏へいふくして御意の趣き委細ゐさい承知仕れり實まことに月に浮雲うきくもの障さはり花に暴風ばうふうの憂うれひ天下の御爲忠義を思召おぼしめしての再吟味の御願ひ御許しなきのみか剩あまつさへ閉門を仰付られ候段だんは誠まことに是非もなき次第なり此上は何樣なにやうの御沙汰有あらんも計り難しと愁傷しうしやうの體ていなれば越前守には此體を見られ澘々はら〳〵と落涙らくるゐせられ此方はよき家來を持て滿悦まんえつに思ふなり三人の忠節ちうせつ心體見えて忝けなし去りながら我深き存意も有れば密ひそかに申聞すべし近ふ〳〵と三人を側近そばちかくこそ進ませたり


第二十四回


 其時そのとき越前守は平石次右衞門吉田三五郎池田大助の三人を膝元ひざもとへ進ませ申されけるは其方共そのはうども家の爲め思ひ呉くれる段だん忝かたじけなく存るなり依よつて越前が心底しんていを申聞すなり今越前不慮ふりよの儀に及び候へば明日にも御對顏仰せ出さるゝは必定ひつぢやうなり萬一御對顏の後のちに贋者にせものと相分るも最早もはや取戻とりもどしなり難し然さすれば第一天下の恥辱ちじよく二ツには君への不忠なり依て越前は短慮たんりよの振舞致さず今宵計略はかりごとを以て屋敷を忍しのび出んと思おもふなり仔細しさいは斯樣々々なり先まづ次右衞門其方の老母病死なりと申僞いつはり不淨門ふじやうもんより出て小石川御館おやかたへ推參すゐさんし今一應再吟味の儀を願ふ所存しよぞんなり萬一小石川御屋形おやかたに於ても御取用おとりもちひなき時は越前が運命うんめいの盡つくる期ときなり其時予は含状ふくみじやうを出して切腹せつぷくすべし然有時さあるときは將軍にも何程御急ぎ遊ばすとも急ぎ御對顏ごたいがんは能あたふまじ其内には天一坊の眞僞しんぎ必ず相分り申べし依て今一應小石川御屋形へ此段を願ひ申さんと思ふなれば急いそぎ其支度を致すべしと申付られける公用人等こうようにんらは早速さつそく古駕籠ふるかご一挺ちやう古看板ふるかんばん三ツ并びに帶おび三筋女の掛無垢等かけむくとうを用意なし日の暮くるゝをぞ相待あひまちける扨夜も初更しよこうの頃に成なりしかば越前守は掛無垢かけむくを頭かしらより冠かぶりて彼古駕籠に身を潜ひそむれば公用人三人は中間體ちうげんていに身を窶やつし外に入用の品々は駕籠の下へ敷込しきこみ二人にて駕籠を舁かき今一人は湯灌盥ゆくわんたらひに杖つゑを添て荷になひ不淨門へ向ひ屆ける樣やうは今日用人平石次右衞門老母儀らうぼぎ病死びやうし致候依て只今菩提所ぼだいしよへ送り申なり御門御通し下さるべしと斷ことわりけるに當番たうばんの御小人目附は錠ぢやうを明け駕籠を改あらため見るに如何さま女をんなの掛無垢を冠かぶりしは死人の體ていなれば相違なき由にて通とほしけるこれより數寄屋橋御門へも此段相斷りそれより御堀端ほりばた通りを行鎌倉河岸かまくらがしまで來りたれば先まづ此所にて駕籠を卸おろし主從四人ほツとばかり溜息ためいきを吐つきながらも先々首尾しゆびよく僞いつはり出しを喜よろこび最早氣遣きづかひなしと爰こゝにて越前守には麻上下あさがみしもを着用なし三人は何いづれも羽織袴はおりはかまに改め駕籠等は懇意こんいの町人の家に預置あづけおき小石川指さして急ぎ行に夜は次第に更ふけ稍やゝ四ツ時と覺おぼしき頃小石川御館おんやかたには到りたり頓やがて御中の口へ掛かゝりて案内を乞こふに取次出來れば越前守申さるには夜中やちう甚はなはだ恐入存ずれど天下の一大事に付越前ゑちぜん推參すゐさん仕つて候何卒中納言樣へ御目通おめどほりの儀願上奉る旨むねを述のべらる取次は此段早速御奧へ申上ければ中納言綱條卿つなえだきやうは先達せんだつてより御病氣なりしが追々おひ〳〵御全快ごぜんくわいにて今日は中奧に移うつらせ給ひ御酒ごしゆ下くだされて御酒宴の最中さいちうなり中にも山野邊主税之助やまのべちからのすけと云ふは年は未だ十七歳なれど家老職からうしよくにて器量きりやう人ひとに勝すぐれしかば中納言樣の御意に入りて今夜も御席おんせきに召めされ御酒ごしゆ頂戴ちやうだいの折から御取次の者右の通申上ければ中納言樣の御意に越前夜陰やいんの推參何事なるか主税其方對面たいめん致いたし委細承まはり參るべしとの御意に山野邊主税之助は表おもてへ出來いできたり越前守に對面して申けるは拙者は山野邊主税之助やまのべちからのすけと申する者なり越前殿には中納言樣へ御目通り御願の由然る所中納言樣には先達せんだつてより御所勞ごしよらうなり夜陰の御入來じゆらい何樣なにやうの儀なるや御口上承まはる可べしとの御意なりと叮嚀ていねいに相述あひのべければ越前守頭を下さげ扨申されけるは越前斯かく夜中やちうをも省かへりみず推參すゐさん候は天下の御大事に付中納言樣へ御願ひ申上度儀御座有ござあつての儀なり此段御披露ひろう頼たのみ存ずるとぞ述のべられたり主税是を聞て尋常じんじやうの儀ならんには主税及ばずながら承まはり申べきが國家の御大事を拙者せつしや如き若年者の承まはる可事覺束おぼつかなし兎も角も中納言樣へ言上ごんじやうの上御挨拶あいさつすべし暫く御控へ有べしと會釋ゑしやくして奧へ入り綱條卿つなえだきやうに申上げるは町奉行越前守に對面仕り候處天下の一大事出來しゆつたいに付夜中をも憚はゞからず推參仕り候趣おもむき若年の私承たまはらん事覺束なく存じ此段言上仕り候と申上らる中納言綱條卿聞きこし召めし深く驚かせ給ひ天下の一大事出來しゆつらいとは何事ならん夫は容易よういならざる事なるべし越前を書院しよゐんへ通すべし對面たいめんせんとの仰おほせなり是に依て侍ひ中御廣書院へ案内あんないせらる最早中納言樣には御書院に入せられ御寢衣ねまきの儘まゝ御着座遊おんちやくざあそばさる越前守には敷居際しきゐぎはに平伏へいふくせらる時に中納言樣には越前近ふ〳〵との御言葉ことばに越前守は少し座を進すゝみ頭かしらを下さげて申上らるゝ樣やう御恐おそれながら天下の御大事に付夜中をも省かへりみず推參すゐさん候段恐入おそれいり奉り候御病中も厭いとはせ給はず御目通めどほり仰付おほせつけられ候段有難き仕合に存じ奉ると申上らる此時綱條卿には御褥おんしとねを下られ給ひ天下の一大事たる儀を承うけたまはるに略服りやくふくの段は甚だ恐おそれ有と病中の儀越前許し候へとの御意なりしと此時大岡越前守は恐入おそれいつて言上ごんじやうに及ばれけるは定めて御承知も有せらるべきが此度八山御旅館へ御下向げかう有ありし天一坊樣儀先達て伊豆守御役宅へ御招まねぎ申し御身分みぶん調しらべ申せしに將軍の御落胤らくいんたるに相違さうゐ無なく御證據の品も御座あれば近々きん〳〵御對面ごたいめんの御儀式ぎしき有あらせらるべき間あひだ取計とりはからひ申べしとの事に候然るに私聊いさゝか相學さうがくを心掛候に付き間まも隔へだて候へども伊豆守御役宅に於て天一坊樣御面部を竊ひそかに拜し奉りしに御目と頬ほゝの間に凶相きようさうあり此こは存外ぞんぐわいなる工たくみあるの相にて又眼中がんちうに赤筋あかすぢ有あつて瞳ひとみを貫つらぬき候は劔難けんなんの相にて三十日以内に刄やいばに掛るべき相もあり旁々かた〴〵斯かゝる凶惡きようあく上將軍かみしやうぐんの若君たるの理あるべからず如何にも御證據の品は實じつなるべきが御當人に於ては贋者にせもの必定ひつぢやうと見究みきはめ候依て重役共へ再吟味の儀度々どゝ申立候へども相許あひゆるさず據よんどころなく今朝こんてう登城仕り高木伊勢守を以て言上に及び再吟味の儀直願ぢきぐわん仕りしが御親子しんしの御愛情あいじやうにや越前が願ひは御聞屆なきのみか重役を蔑ないがしろに致いたし候上うへ再吟味は天下の御大法に背くとて重き上意の趣おもぶきにて越前閉門へいもん仰付おほせつけられ既に切腹とも存じ候へ共若もし明日にも御對顏ある上萬一まんいち贋者にせものにてもある時は取返とりかへし相成らず御威光ごゐくわうにも拘かゝはり容易よういならざる天下の御恥辱ちじよくと存じ越前惜をしからぬ命を存ながらへ御尤とがめの身分を憚はゞからず押おして此段御屋形樣へ言上ごんじやう仕り候此儀御用ひなき時は是非に及ばず私し儀は含状ふくみじやうを仕つり其節そのせつ切腹せつぷく仕るべき覺悟かくごに候然らば當年中にはよも御對顏の運はこびには相成まじく其内に眞僞しんぎ判然はんぜんも仕らんかと所存を定め候間あひだ今晩こんばんは亡者まうじやの姿すがたにて不淨門の番人を僞いつはり御屋形へ推參奉りて候とまた餘儀もなく言上に及ばる綱條卿つなえだきやう聞きこし食めされ越前其方が忠節ちうせつ頼母たのもしく存ずるなり能よくも其所へ心付きしぞ予は病中成れども天下の一大事には替難かへがたし明朝登城し將軍家へ拜謁はいえつし如何樣にも計らふべき間其方安心致し此上心付候へとの御意にて又仰せには明朝みやうてう予が登城致す迄に萬一もし切腹せつぷくの御沙汰あらんも計り難し假令たとへ上使ありとも必ず御請おうけを致さず押返おしかへして予が沙汰に及ばざる内は幾度いくども御斷ことわり申立べし是は其方より上意を背そむくには非あらず言いはば我等が御意を背儀なれば少しも心遣ひなく存じ居をるべしと御懇切ねんごろなる御意を蒙かうむり越前守感涙かんるゐ肝きもに銘めいじ有難く坐そゞろに勇み居たりけり


第二十五回


 水戸中納言綱條卿は越前守に打對うちむかひ給ひ其方死人の體にて不淨門ふじやうもんより出たりとの事なれば歸宅むづかしからんとの御意ぎよいに越前守平伏して御意の通御役宅を出候には番人ばんにんを僞いつはり候へども歸の程甚だ當惑たうわく仕つかまつると申上ければ中納言樣には主税之助ちからのすけを召れ其方越前を宅迄送屆け申べし此使は大切なるぞ其方より外ほかに勤る者なし必ず後おくれを取候な其刀を遣す程に若もし無禮ぶれいの振舞ふるまひ致す者あらば切捨きりすてに致せ予が手打も同前なるぞと仰せらる主税之助は委細ゐさい畏かしこまり奉つると直に支度を調とゝのへ侍さふらひ兩人に提灯持鎗持草履取三人越前守主從しゆじう四人都合十人にて小石川こいしかは御屋形を立出たちいで數寄屋橋御門内なる町奉行御役宅を指さして急いそぎ行ゆく早はや夜よも子ねの刻こくを過すぎ屋敷に近付ちかづき一同に表門へ懸り小石川御館の御使者ししや山野邊主税之助なり開門かいもんあるべしと呼はれば夜番の御徒士目附答こたへて越前守には閉門中へいもんちうにて開門叶かなひ申さずといふ主税之助越前殿閉門は誰より申付候やと尋ぬるに御徒士目附申やう土屋つちや六郎兵衞殿の申付なりと此時このとき主税之助態わざと憤いかりの聲を振たて何と申され候や土屋つちや六郎兵衞の詞ことばが夫程それほど重おもきか中納言樣の御詞おことばを背そむくに於ては仰付おほせつけられの心得ありと大音に呼はりければ何れも肝きもを潰つぶし時を移さず開門に及べば山野邊主税之助先に立たつて門を通らんとする時御徒士目附聲を懸かけ暫しばらく御待まち有あるべし小石川御屋形やかたの御使者御供の人數を調しらべ申さんと有ゆゑ主税之助答へて篤とくと念入ねんいれ調しらべらるべしと主税之助主從十人と數かぞへてぞ通しける主税之助は越前守の主從を無難ぶなんに屋敷へ送込おくりこみ奧おくへ通り呉々も越前守に申含ふくめけるは明朝早々御屋形御登城有て御取計ひ有べし夫迄は大切たいせつの御身と主人よりも申付て候何樣なにやうの儀候とも小石川御屋形の御意と御申立あるべし其内には屹度きつと宜よろしき御沙汰有べしと申置おき暇乞いとまごひして歸りには主從六人にて表門へ出來り小石川御屋形の御使者おししや只今たゞいま歸かへり申す開門ありたしと申ければ番人また人數を改め四人不足ふそくなれば主税之助に向ひ最前さいぜんの御人數は侍さふらひ分六人中間三人主從十人に候處ところ只今たゞいま御人數は侍ひ四人不足なり如何の儀に候やと云いふ主税之助は威丈高になり各々には何と申さるゝや先刻せんこくよりは人數四人不足とや御手前方おてまへがたは何の爲に閉門の御番をば致さるゝや小石川御館にては閉門の屋敷やしきへ參り居殘致ゐのこりいたす者は一人もなし狼狽うろたへたる申分かな彼是かれこれ申さば切て捨んと大言に叱り付られ番衆も據よんどころなく開門して通しける主税之助は首尾能しゆびよく仕課しおほせ急ぎ小石川へ歸り御前ごぜんへ出て右の次第を委敷くはしく言上に及びければ中納言樣には深く御滿悦遊ごまんえつあそばし汝ならでは然樣さやうの働きは成まじとの御賞美の御意なりまた御意には越前はさぞ夜明よあけが待遠成まちどほなるべし明朝は六ツ時登城すべし然樣さやうに計ひ申す可との御意なれば夫々の役々へ御登城の御觸出ふれいだしに及びける夫よりは御寢所しんじよへも入せられず直樣すぐさま御月代を遊ばされんとの趣おもむきなれば主税之助初め御病中ごびやうちう御月代の儀は御延引えんいん遊ばし然るべしと申上らる中納言樣には長髮ちやうはつにて登城し將軍の御前へ出るは失敬しつけいなり我將軍を敬うやまはずんば誰か將軍を重ずべき病中とて苦くるしからず月代さかやきせよとの御意なれば掛りの役人やくにんも是非なく御櫛おくしを取上とりあげける夫より御行水おんぎやうずゐ相濟あひすみ頃はハヤ御本丸の六ツの御太鼓遠く聞えれば御供揃おともぞろひにて直に御登城遊ばせしが時刻早ければ未だ御役人方がたは一人も登城なく御側衆そばしう泊番太田おほた主計頭のみなり主計頭かずへのかみを召れ天下の一大事に付將軍へ御逢おんあひの爲ため登城に及べり此段このだん取次とりつぎ申せとの仰なれば主計頭其趣きを言上に及およばれける將軍家聞し食させ大に驚おどろかせ給ひ早速御裝束ごしやうぞくを改めさせられ御對面あるに此時このとき將軍家の仰に中納言殿には天下の一大事いちだいじの由よし何事なるやと御尋あれば中納言綱條卿つなえだきやうには衣紋えもんを正し天下の一大事と申候は餘よの儀ぎにも候はず先まづ伺うかゞひ度は町奉行越前を名めい奉行と宣ひしは抑も誰にて候やとの御尋たづねなり是は先年松平左近將監殿へ御意に大岡越前は名奉行めいぶぎやうなりと仰せられし事を中納言家には御存じゆゑ斯樣かやうに仰上られしものなるべし此時このとき將軍には御不審の體にて御在おはしますにぞ又申上らるゝ樣は斯かの綸言りんげんは汗あせの如しまた武士ぶしに二言なしとか君のお目鏡めがねにて名奉行と仰せられ候越前天下の御爲ためを存じ君へ忠節を盡す心底より天一坊殿御身分ごみぶん再吟味願候に越前へ閉門仰付られしと承うけたまはる町奉行たるものが支配内の事を吟味ぎんみ致すに筋違すぢちがひとは如何なる儀にや此段承まはりたしと御老人らうじんの苦にがり切たる有樣なれば將軍にも御當惑たうわくの體にて偵さすが名君の理りに伏ふくし見え給ひ殆ほとんど御困こまりの御樣子にて太田主計頭を召し上意には其方只今たゞいまより越前宅へ罷越まかりこし呼よび參れとの上意なれば主計頭は御受に及び直樣すぐさま馬を飛とばせ鞭むちを加へて一散に數寄屋橋の御役宅へ來り御上使ごじやうし々々々と呼はりければ大岡の屋敷にては上下是を聞付きゝつけスハ切腹の御上使と一家中色を失なひ噪さわぎける表門には御上使と有あるに開門かいもんしければ主計頭には急ぎ玄關へ通り越前守に對面たいめんありて上意の趣きを相述べ急ぎ登城あるべしとの事なり越前守委細ゐさい承知しようちし則ち馬を急し家來に申付火急くわきふの御用なり駕籠は跡より廻まはせと申付麻上下あさがみしもに服を改め主計頭と同道にて登城にこそは及ばれたり跡には皆々みな〳〵打寄うちより只今たゞいま御上使と御同道にて御登城有しは迚も御存命ぞんめい覺束おぼつかなし是は將軍の御手打か又は詰腹つめばらか兎に角大岡の御家は今日限り斷絶成だんぜつなるべし行末如何成事ことやらんと主の身の上より我行末迄ゆくすえまでも案じやり歎に沈まぬ者もなし扨も將軍家しやうぐんけには中納言綱條卿と御對座たいざにて御座おんましまし越前が登城今や〳〵と待給まちたまふ時しも太田主計頭が案内にて越前守恐おそる〳〵御前へ出いで遙はるか末座に平伏す時に主計頭座を進み只今越前召連めしつれて候と申上るにぞ將軍の上意に芝八山に旅館りよくわんの天一坊身分再吟味の儀越前其方が心に任まかせ申付つくるぞと仰なれば越前守には發と計り御請うけ申上らる將軍は又も中納言樣に向はせ給ひ水戸家只今聞きかせらるゝ通り越前へ右の如く申付つけたり御安心これ有たしと宣ふに綱條卿には實げに御名將の思召おぼしめし潔いさぎよく御座候と申上られ是より中納言樣には御老中御列座れつざの御席へ渡らせ給ひ越前守をも此席へ召れて中納言樣の仰おほせに芝八山に旅宿致さるゝ天一身分みぶん再吟味さいぎんみの儀ぎ今日より越前に任まかすとの上意なれば一同左樣に心得られよ取分とりわけ予が申渡すは天一身分吟味中越前が申す事は予が言葉ことばと心得られよ越前も又左樣さやう相心得あひこゝろえ心を用ゆべし越前には少身の由萬端行屆まじお手前達てまへたちに於て宜く心付致さるべしとの御意ぎよいなれば越前守は願の通り再吟味の台命たいめいを蒙り悦こび身に餘り勇いさみ進んで下城にこそは及ばれたり下馬先げばさきには迎の駕籠廻り居て夫に乘のり徐々しづ〳〵と歸宅せられたり頓やがて屋敷近くなりし頃ころ押おさへが一人駈拔かけぬけて表門よりお歸り〳〵と呼はれば此を聞きゝて家來の男女はまた驚き恙つゝがなき歸りをば悦び且疑ふばかりなり


第二十六回


 扨さても大岡越前守には三人の公用こうよう人を呼出され今日より天一坊吟味の儀越前が心任こゝろまかせとの台命たいめいを蒙り又天一坊吟味中越前が申詞ことばは小石川御館樣の御言葉ことばと心得よとの御意なり然されば次右衞門其方は只今より八山へ到り明日みやうにち辰たつの上刻じやうこく天一坊に越前が役宅へ參り候樣申參べし必ず町奉行の威光を落すなと申付つけられ又吉田三五郎には天一坊の召捕方めしとりかたを池田大助には召捕手配方めしとりてくばりがたを申付られたり是に依よつて吉田三五郎は江戸三箇所の出口へ人數にんずを配くばり先千住板橋新宿の三口へは人數若干を遣し固かためさせ外九口へは是又人數若干そこばくを配り海手うみては深川新地の鼻より品川の沖迄御船手にて取切とりきり備船そなへぶねは沖間おきあひへ出し間々は鯨船くぢらぶねにて取固とりかため然さも嚴重に構へたり扨又平石次右衞門は桐棒きりぼうの駕籠に打乘若黨長柄草履取を召倶めしぐし數寄屋橋の御役宅を出いで芝八山へと急ぎ行次右衞門道々考へけるは天一坊家來に九條殿くでうどのの浪人にて大器量人と噂うはさある山内伊賀亮には逢度あひたくなし然されば赤川大膳を名差なざしにて對面せんと思案し頓て芝八山なる天一坊が旅館りよくわんの門前に來りける箱番所はこばんしよには絹羽織きぬはおり菖蒲皮しやうぶかはの袴はかまを穿はき控ひかへ居ゐし番人大音に御使者と呼上よびあげれば次右衞門は中の口に案内を乞こひけるに此時戸村次右衞門と云者いふもの次上下つぎがみしもにて取次とりつぎに出來れば次右衞門は懷中より手札取出し拙者せつしやは町奉行大岡越前守公用方平石次右衞門と申者まをすものなり天一坊樣御重役赤川殿へ御意ぎよい得えて越前守が口上の趣きを申述度のべたく存ぞんず何卒此段御取次下さる可べしと云に戸村は承知して大膳に斯と申通ずれば大膳は聞て眉まゆを顰ひそめ町奉行大岡越前守より使者の來る筈は無しと不審ふしんに思へば伊賀亮が居間に到り只今町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申す者もの來きたり某しに面會し主人越前が口上こうじやうを述のべたしとの事なれど町奉行より使者の來る譯わけはなき筈ぢやが如何の者かと聞ければ伊賀亮成程なるほど越前より使者を遣はす筋すぢ無なけれど貴殿名差とあれば何用とも計れず兎角御逢めさる方然しかるべし併し目の寄る所へ玉とか申し越前守は大器量人だいきりやうじんなり然されば使者の平石とやらんも一癖くせあるべし貴殿應對は氣遣ひなりと小首こくびを傾けられて大膳は氣後きおくれし然らば拙者は病氣と披露ひろうして貴殿面會し給はれと云ふに伊賀亮夫は何より易やすけれども平石次右衞門と手札を出し大膳殿へ御意ぎよい得えたしと申せし時に大膳儀は不快ゆゑ同役山内伊賀亮御目に懸かゝるべしと申せば宜に今となりて大膳儀病氣びやうきなれば伊賀亮御目に掛ると申す時に赤川は取とるに足たらざる者ゆゑ出會いであはぬと見えたりと貴殿の腹を見透みすかさるゝ樣な物なり夫共事成就の上此伊賀亮は五萬石の大名だいみやうに御取立になり貴殿は三千石の御旗本位おはたもとぐらゐ是これが御承知ならば伊賀亮何樣いかやうにも計ひ對面すべしと云に強慾がうよく無道ぶだうの大膳是を聞きゝ夫なれば某し對面し口上を承まはらん併しかし返答に何と致して宜しかる可べきやと云に伊賀亮打笑ひ未だ對面もせぬ先に返答の差圖さしづは出來ず夫こそ臨機りんき應變おうへんと云者なり向ふの口上に因て即答そくたふあるべきなり口上を聞もせぬ内其挨拶が成べなやと云いへば大膳は益々氣後せし樣子に伊賀亮も見兼みかねて大膳殿左程に案じ給ふならば極意ごくいを教をしゆべし先平石の口上を聞て返答に差詰さしつまりし時は暫く控へさせ上へ伺うかゞひ申して後返答致すべしとて奧おくへ來り給へ其口上に依て返答の致し方は種々さま〴〵ありと教ければ然らば對面致すべしと取次の者を呼よんで次右衞門を使者の間へ通すべしと申渡せば戸村とむらは中の口へ來り平石に向ひ率いざ御案内ごあんない申すべしと先に立たち使者の間の次へ來る時戸村は御使者には御帶劔ごたいけんを御預り申さんといふ平石次右衞門脇差わきざしを渡さんと思ひしが待まて暫しばし主人が八山へ參り町奉行の威光ゐくわうを落すなと仰られしは爰こゝなりと平石は態と聲高こわだかに拙者は何方いづかたに參るも帶劔を致す身分なればお預あづけ申事は相成がたしと云に戸村は町奉行公用人衆こうようにんしうは外々の公用方と御身分違候や何いづれの公用方でも此處にて帶劔は御預り申候御老中方ごらうぢうがた公用人の御身分は何いかなる物にやと問ければ御老中方の公用方は御目附代ゆゑ御直參同樣に候と答こたへけるまた御城代公用方の御身分は如何と問とふに是は中國四國九州の探題の公用方なれば矢張やはり御直參ごぢきさん同樣どうやうに候と答へける戸村然しからば御城代諸司代御老中と夫々の公用人何れも帶劔を御渡し成なさるゝに町奉行の公用人のみ御渡し成れぬは御身分でも違ちがひ候やと言ければ平石は町奉行の公用人とて別段べつだん身分みぶんは違はず併し乍ながら赤川大膳殿には何程いかほどの御身分にて帶劔の儘まゝお目に懸れぬや又此處は天一坊樣の御座ござの間ま近ければ帶劔のならざるや又また大膳殿には御座の間ま近ちかくより外へは御出席なされぬや拙者は只赤川殿に御目おめに懸り主人越前守の口上を述のべ候へば夫にて使者の役目は相濟あひすむ事なれば假令たとへ御廊下ごらうかの端御玄關の隅すみにても苦くるしからず帶劔の出來る所にて御目に懸り度存ぞんじ候なり此段御伺ひ下されと申けるにぞ戸村も此詞ことばに閉口へいこうし大膳に右の次第を委しく咄はなせば大膳はいよいよ驚き迚とても平石に對面は致し難しと又々伊賀亮の居間ゐまに來り貴殿の眼力がんりよくの通り越前守が使者と申奴は頗る秀才しうさいの者と見えたり其譯は今戸村が使者の間まへ案内し帶劔を預あづからんと申せしに斯樣々々かやう〳〵の挨拶の由拙者對面しなば後々の障碍さはりと成べし伊賀亮殿御太儀ながら御逢下あひくださるべしと又餘儀もなく頼むにぞ伊賀亮も承知なし成程目の寄所よるところへ玉たまとは能も申たり越前守は能よき家來けらいを持もち羨うらやましと譽めながら戸村を呼よび彼かの使者に大膳殿は今日御上御連歌れんがの御相手にて御座ござの間より外ほかへ出席成難なりがたし同役山内伊賀亮非番ひばんなれば代りて御目に懸らんと御使者の間へ通すべしと言付いひつけられて此趣きを平石へ申通じける平石は伊賀亮と聞て迷惑めいわくに思へども今更詮方なく控へ居る頓やがて山内伊賀亮は黒羽二重くろはぶたへの小袖に繼上下つぎかみしもを着つけ出來いできたり申けるは町奉行大岡越前守公用人平石次右衞門と申は其方そのはうなるか拙者は天一坊樣重役ぢうやく山内伊賀亮なり未だ大岡には對面せねど勤役中きんやくちう太儀たいぎと然も横柄わうへいの言葉なり平石次右衞門は平伏し御意の通とほり大岡が使者平石次右衞門に候天一坊樣益々ます〳〵御機嫌能く恐悦に存じ奉つり候大岡參上さんじやうし以て申上べき處當八山は奉行支配場にて參上仕り兼かね候間使者を以て申上奉あげたてまつり候明日辰たつの上刻じやうこく天一坊樣大岡役宅へ入せられ候樣申上奉つるとの口上こうじやうなり山内聞いて町奉行宅は罪人ざいにん科人とがにんの出入する穢の場所なり左樣な不淨ふじやうの處へ天一坊樣には入いらせられまじ假令御入成るとの御意ありとも此の山内に於て屹度きつと御止め申なり此段だん立歸たちかへり大岡殿へ申されよと云いふにぞ平石は案に相違しけれど此儘このまゝにては天一坊には御役宅へ來らじと言葉ことばを改あらため申けるは此度天一坊樣御身分調しらべの儀に付ては越前守申す事は小石川御屋形おやかたの御言葉と心得よとの儀にて大岡が言葉を背そむかるゝは則ち上意を背くも同然の事なりと云いふにぞ山内も上意じやういとあれば輕かるからざる儀なり先づ一應伺ひの上返答へんたふ致すべし暫く控ひかへられよとて奧おくへ入り良やゝありて再び出で來り次右衞門に向むかひ町奉行大岡越前守より申上の趣き伺ひし處大岡の申す條なれども公方くばう樣の上意とあれば如何いかにも其の刻限こくげんに御出あるべしとの上意なり明日は山内にも御供を仰付おほせつけられたれば何れ大岡殿に對面致すべし宜しく申し傳へ給はるべしと謂捨いひすてて奧へは入たり次右衞門はホツと溜息ためいきを吐き門前より駕籠を急がせお役宅さして歸りける


第二十七回


 扨も平石次右衞門はお役宅やくたくへ歸り來り早速主人のまへにいづれば大岡しゆじんの曰く次右衞門其方に申付べき事をツヒ失念しつねんしたり天一坊の家來に山内伊賀亮といふ器量人あり渠に逢ては惡あしかりしが何人に逢しやと尋たづねらるゝにぞ次右衞門いふ私しも左樣に心づき候ゆゑ名差にて御重役ぢうやく赤川大膳殿へお目に懸かゝりたしと申入しに赤川殿は御連歌ごれんがのお相手にて御座の間より外へ出席なり難がたき故ゆゑ非番の山内伊賀亮が對面たいめん致すとて面談せしに明日刻限こくげん通り參らるべしとの儀なりと述ければ越前守大きに悦び明日は大器量人たいきりやうじんの山内伊賀を越前が一言の下したに恐れ入いらせんものとぞ思はれける爰に八山には次右衞門の歸かへりしあとにて山内は役人を招ぎ御上には天てん文お稽古中なれば天文臺へ入せらるゝなり其用意よういすべしと申付るにぞ役人は早速其用意をなし先まづ天文臺へは五色しきの天幕を張廻し長廊下より天文臺まで猩々緋しやう〴〵ひを布續しきつゞける山内は天文臺へ天文教導の役なればとて先に立ち續つゞいて天一坊常樂院天忠和尚赤川大膳藤井左京の五人にて進すゝみ行ゆきけり扨さて臺上へのぼりて山内は四人に向むかひ町奉行越前宅より使者を以て明日我々を呼寄よびよせるは多分召捕了簡と見えたりと述ければ大膳は肝きもを潰つぶし果して大事の露顯なす上は是非に及ず皆々切腹せつぷくなさんといふ山内また云やう未だ二度に切拔きりぬける事も有べし早計はやまり玉ふな明日大膳殿には先驅さきどもなれば某しが警戒いましむべき事あり其は越前守の役宅やくたくにて必ず無禮ぶれいを働くべし決して怒いかりを發はつし刀などに手を掛かけ給ふな町奉行の役宅にて劍㦸の沙汰に及べば不屆者ふとゞきものと召捕て繩を掛ん呉々も怒を愼み給へと云含め猶種々と密談みつだんに及びし内既に黄昏たそがれになりしかば山内は四方を屹きつと見渡し大いに驚き大膳殿品川宿の方に當り火の光ひかり見みゆるが那あれを何とか思るゝやと問へば大膳是を見て那あれこそは縁日抔えんにちなどの商人の燈火ともしびならんといふに山内首くびを打振うちふり否々いや〳〵然さに非ず夫等それらの火光くわくわうは人氣にんき和融くわゆうなれば自然しぜんとそらへ丸く映うつるべきに今彼光は棒の如く尖とがりて映れり彼人氣じんき勇烈ゆうれつを含むの氣にて火氣と云ひ旁々かた〴〵我々を召捕んとて出口々々を固めたる人數の篝火かゞりびなるべし此人數は凡そ千人餘ならんと又また一方を見渡し深川新地の端より品川沖まで燈火ともしびの見るは何舟なりやと問ふ大膳那あれこそ白魚しらうをを漁とる舟なりと云ば伊賀亮大に打笑ひ那燈火も矢張我々を召捕ん爲ため舟手ふなてにて固かためたる火光にして其間に丸まるく見みゆる火光こそ全くの漁船なり海陸かいりくとも斯の如く手配せしは越前が我々を召捕べき手筈てはずと見えたりと聞て四人は色を失ひ各々顏を見合て然しからば今宵の内に皆々自殺なさんと云ば伊賀亮推止おしとゞめ未だ驚くには及ばず明日こそは器量人の越前を此伊賀が閉口へいこうさせて見すべければ呉々も大膳殿明日みやうにちは怒を發し給ふなと戒め夫より翌日よくじつの支度にぞ掛りける早はや其夜も明て卯の上刻となれば赤川大膳先驅さきどもとして徒士四人先箱二ツ鳥毛とりげの一本道具を駕籠の先へ推立おしたて長棒ながぼうの駕籠に陸ろく尺八人侍ひ六人跡箱あとばこ二ツ引馬一疋長柄草履取合羽等にて數寄屋橋内町奉行の役宅やくたくへ來り門前にて駕籠を下おろし表門おもてもんへ掛かゝる此時大膳は熨斗のし目麻上下なり既すでにして若黨潜門くゞりもんへ廻り徳川天一坊樣の先驅赤川大膳なり開門かいもんせられよと云に門番は坐睡ゐねむりし乍ら何なに赤川大膳ぢやと天一坊は越前守が吟味ぎんみを受る身分なり其家來に開門は成ぬ潜より這入べし彼是かれこれ云いはば繩目なはめに及ぞと云に大膳斯かくと聞て伊賀亮が戒めしは爰なりと思ひ大膳一人潜より入り家來は殘のこらず門外に殘し置おき玄關へかゝれば取次として平石次右衞門出來いできたりて大膳を伴うて間毎々々まごと〳〵を經へ庭にはへ下おり向の物置部屋へ案内したり爰には數十人の與力よりき同心どうしん番ばんをなし言語同斷の無禮を働くにぞ大膳は元來短氣たんきの性質なれば無念むねん骨髓こつずゐに徹てつすれども伊賀亮が戒めしは此こ所こなりと憤怒ふんどを堪こらへ居たりける斯て八山の天一坊が行列には眞先に葵の紋を染出せし萌黄純子もえぎどんすの油箪ゆたんを掛たる長持二棹さを黒羽織の警固けいご八人長持ながもち預り役は熨斗目麻上下の侍ひ一人其跡は金葵きんあふひの紋もん付つきたる栗色くりいろの先箱には紫の化粧紐を掛雁行に并べ絹羽織の徒士かち十人宛づつ三人に并び黒天鵞絨へ金葵の紋を縫出ぬひいだせし袋を掛たる長柄は金の葵唐草からくさの高蒔繪たかまきゑにて紫縮緬の服紗にて熨斗目麻上下の侍ひ持行同じ出立の手代てがはり一人引添ひきそひたり又麻上下にて股立もゝだち取とつたる侍ひ十人宛二行に並ぶ次に縮ちゞら熨斗目に紅裏こううらの小袖麻上下にて股立取たるは何阿彌なにあみとかいふ同朋どうぼうなりさて天一坊は飴色網代の蹴出付けだしつき黒棒くろぼうの乘物にて駕籠脇十四人熨斗目麻上下にて股立とり跡あとより沓臺持くつだいもち一人黒塗に金紋付の跡箱紫きの化粧紐を掛かけ乘物のりものの上下には朱しゆの爪折傘つまをりがさ二本を指掛さしかけ簑箱みのばこ一ツ虎皮の鞍覆たる引馬一疋豹へうの皮の鞍覆たる馬一疋黒天鵞絨くろびろうどに白く葵の紋を切付たる鞍覆馬一疋供鎗ともやり三十本其餘兩掛合羽駕籠茶瓶等なり續つゞいて常樂院天忠和尚四人徒士にて金十六菊きくの紋を附たる先箱二ツ打物を持せ朱網代の乘物にて陸尺ろくしやく六人駕籠脇の侍ひ四人跡あと箱貳ツ何も紫きの化粧紐を掛かけたり黒羅紗の袋を掛たる爪折傘に草履取合羽籠等なり引續ひきつゞいて藤井左京も四人徒士にて長棒の駕籠に乘のり若黨わかたう四人黒叩き十文字もんじ鎗やりを持せ長柄傘草履取合羽駕籠等なり少し後おくれて山内伊賀亮は白摘毛しろつみげの鎗を眞先に押立おしたて大縮おほちゞら熨斗目麻上下にて馬上なり尤も若黨四人長柄草履取合羽駕籠等相添あひそへ右の同勢にて八山を出いで下したに〳〵と呼り數寄屋橋を指て練來ぬひきたるしかるに往來の横々は木戸を〆切しめきり町内の自身番屋には鳶の者火事裝束にて相詰あひつめたり程なく惣人數そうにんずは數寄屋橋御門へ來しに見附は常よりも警固かための人數多く既に天一坊の同勢どうぜい見附みつけへ這入はひれば門を〆切しめきり夫それを相圖に外廓の見附は何も〆切しめきりたり斯て越前守の役宅へ近付ければ只今たゞいま天一坊樣入いらせられたり開門せよと呼れば此日は池田いけだ大助門番を勤め何天一坊が參まゐりしとや天一坊は越前守が吟味を受る身分みぶん開門は相成あひならず潜りより這入れと云に徒士等之を聞て膽きもを潰つぶし其旨供頭の伊賀亮へ告ければ伊賀亮は天一坊の乘物のりものの側へ來り奉行越前は將軍の御名代ごみやうだいなれば開門致さぬとの事潜より御通り然しかるべく存じ候と申ければ天一坊は父君の名代と有あれば是非に及ばず潜りより通る可と云ひて乘物を下おり沓くつを穿はきて立出ける其衣服は葵の紋を織出したる白綾しろあやの小袖を着用し其下に柿色かきいろ綾の小袖五ツを重ね紫きの丸帶まるぐけを締しめ古金襴の法眼袴を穿ち上には顯文紗けんもんしや十徳を着用し手に金の中啓ちうけいを持頭は惣髮そうはつの撫附なでつけにて威風ゐふう近傍を拂つて徐々しづ〳〵と進み行く續いて常樂じやうらく院天忠和尚は紫きの直綴ぢきとぢを纏ひ蜀紅錦しよくこうにしきの袈裟を掛けて手に水晶の念珠を爪繰つまぐりたり其の跡は藤井左京麻上下にて續いて山内伊賀亮は上下なり四人の者潛りより入りて玄關式臺の眞中を悠然いうぜんとして歩あゆみ行ゆく門内には與力同心の數人スハと云へば搦からめ捕とらんと控へたり


第二十八回


 既にして天一坊玄關へ來ければ取次案内とりつぎあんないとして平石次右衞門出迎いでむかへ平伏し先に立て案内す天一坊は沓くつの儘にて次右衞門に伴つれられ行ゆくに常樂院は天一坊の未いまだ沓を脱ざるを見て其の前へ走寄り沓へ手を掛かけければ天一坊は常樂院を見るに早はや沓くつを脱たりまた後を振返り伊賀亮左京をも見みるに何も履物はきものを穿ざれば天一坊も沓を拔ぬぎ捨ける夫より案内に從ひ行き遙か向を見れば一段高き床とこを設け其上に越前守忠相たゞすけ丸まるに向ふ矢車の定紋を付つけ繼つぎ上下にて控へ左右に召捕手の役人數多あまた並び居るにぞ如何なれば大坂御城代ごじやうだいを始京都所司代御老中の役宅にても自分じぶんを上座に据ゑしに越前守のみは自ら高き處に着座ちやくざなすやと不審に思ひつゝ立止れば此時越前守には先達て伊豆守殿役宅やくたくにては間も隔し故ゆゑ若もし見違もやせんと思ひしが今天一坊の面貌めんばう熟々よく〳〵視みるに聊か相違なければ彌々僞物に紛なしと見究きはめしも未だ確なる證據なき故召捕めしとること叶はず如何にせんと思ひしが屹度して大音に天一坊下に居れ此賣主このばいす坊主ばうず餘人は欺くとも此越前を欺かんとは不屆至極ふとゞきしごくなりと叱付しかりつければ天一坊は莞爾くわんじと打笑ひ越前は逆上ぎやくじやうせしと見えたり此頃まで三百俵の知行なりしが三千石の高祿かうろくになり當時町奉行を勤め人々尊敬そんけいすればとて慢心増長なせしか若もし予よが答を爲ば不便や其方切腹せねば成まじ唯たゞ聞流きゝながしにして遣さんに篤と勘考かんかうすべしとて悠然と控へければ頓やがて常樂院を始め皆々着座なす時に常樂院天忠和尚をしやう進出越前守殿には只今上に對し賣主坊主僞物にせものなりとの過言を出さるゝは何故なるぞ大坂おほさか京都及び老中の役宅に於て將軍しやうぐんの落胤に相違なしと確認みきわめの附しを足下のみ左樣に云るゝは如何いかゞなりと云に越前守假令たとへ大坂御城代并ならびに御老中迄將軍の落胤なりと申さるも此越前が目には僞物に相違さうゐなしと思はるゝといふ常樂院又また云いふやう夫は越前守殿の上を委く承知なされぬ故なり兎角とかくに知ぬ事は疑心の發るもの然ば拙僧せつそうが詳細くはしく認めて御目に掛んと筆を取出とりいだし佐州相川郡尾島村淨覺院門前に捨子すてごに成せられしを此天忠拾ひ上參らせ御養育ごやういくなし奉りしが其後天忠美濃國各務郡谷汲郷長洞山常樂院法華寺へ轉住てんぢうすれば御成長の地は美濃國なりと認め差出すに越前守は是を受取うけとり再三よく〳〵見終り如何にも斯樣に委しき證據あれば概略あらましは知たりと云つゝ又熟々思案するに斯る事に繋かゝり居ては面倒なり山内めを呼出よびいだし渠を恐入らせんとて大音に御城代所司代并に御老中の役宅にて喋々べら〳〵と饒舌しやべりし者は此席に居ゐるや罷出まかりいでよ吟味の筋ありと呼はれば山内は最前より餘人よにんに尋んより我に問ば我一言の下もとに越前を屈服くつぷくさせんと待まつ處なれば今此言を聞て進み出京都大坂并に老中らうぢうの役宅にて取切とりきつて應答せしは拙者なりと云にぞ越前守は其方そのはうなるか然ば手札を出すべしと云ふに山内懷中くわいちうより手札を差出す越前守は手に取とり克々よく〳〵見て其方の名前は山内伊賀亮かと尋たづねられしに如何にも左樣なりと答ふ越前守推返おしかへして伊賀亮なりやと問ひ扨改めて伊賀亮といふ文字もじは其方心得て附たるや又心得ずして附たるやと尋たづねらるゝに山内その儀如何にも心得あつて附つけし文字なりと答ふ越前守また心得有て附たりと有ば尋る仔細あり此亮このすけと云いふ文字は則ち守といふ字にて取も直なほさず其方の名前は山内伊賀守なり天一坊の家來けらいにて何を以て守を名乘なのるやと咎むれば山内答へて越前守殿よく聞かれよ此の山内の身分は浪人は愚おろか如何に零落れいらくするとも正四位上中將の官は身に備りたりと云ふにぞ越前守は大音聲に默だまれ山内其方以前は九條家でうけの家來と有あれば正四位上中將の官爵も有べけれど退身すれば官位は指さしおかねば成ぬ筈なり然るを今天一坊の家來也けらいなりとて正四位上中將の官位くわんゐにて山内伊賀亮と名乘は不屆なりと叱り付れば山内から〳〵と打笑うちわらひ越前守殿には承知なき故疑ひ有も道理もつともなり此伊賀亮の身分に正四位上中將の備そなはりある次第を咄さん拙者は九條家の家來なり一體公家方は官位高く祿ろく卑ひくきもの故に聊か役に立たつ者もの有あれば諸家方より臨時お雇ひに預る事あり拙者九條家に在勤中ざいきんちうは北の御門みかどへ御笏代おしやくがはりに雇れ參りし事折々なり此北きたの御門みかどとは四親王の家柄にて有栖川宮桂宮かつらのみや閑院宮かんゐんのみや伏見宮ふしみのみやを四親王と稱す當時は伏見宮を除のぞき三親王なり此伏見宮を稱して北の御門みかどと云其譯は天子に御世繼の太子たいし在ましまさぬ時は北の御門御夫婦禁庭きんていへ入る宮樣御降誕あれば復たび北の御門へ御歸りあるなり扨御門の御笏代を勤つとむる事は正四位上中將の官ならでは能あたはず其時には假官をなし大納言と爲るなり扨御笏代りとは北の御門參殿の節せつ笏しやくにて禁中きんちうの間毎々々に垂ある簾みすを揚て通行在せらることにて恐れ多くも龍顏りうがんを拜し玉ふ時は此笏を持事もつことの叶はぬ故御笏代りとて御裾おすその後に笏を持ち控居て餘所乍よそながら玉體ぎよくたいを拜するを得者うるものなり拙者先年多病にて勤仕なり難きゆゑ九條家を退身の節せつ北の御門へ奏聞そうもんを遂とげしに御門は御略體ごりやくたいにてお目通りへ召れ山内其の方は予が笏代しやくがはりをも勤め龍顏をも拜せし者なれば縱令たとへ九條家を退身し何國いづくの果へ行も存命中は正四位上中將の官より下らず死後の贈官ぞうくわん正二位大納言たる可べしとの尊命を蒙むれば山内此末非人乞食こつじきと成果るも官位は身に備れば伊賀亮の亮の字も心得て用ひ候也なりと辯舌べんぜつ滔々たう〳〵と水の流る如くに述のべければ流石の越前守も言葉なく暫時しばし控られしが稍やゝ有あつて山内に向かひ其方の身分委く聞ば尤もなり併し天一は似物にせものに相違なければ召捕可べしといふに伊賀亮いがのすけ容かたちを改め越前守殿何故に天一樣を似者にせものと云るゝやと尋ければ越前守然されば似者に相違なきは此度將軍へ伺ひしに毫すこしも覺おぼえなしとの御事なれば天一は似者に紛なしと云ふなりと山内是を聞きゝ將軍には覺なしとの御意合點參ず正く徳太郎信房公お直筆ぢきひつと墨附及びお證據のお短刀たんたうあり又天一樣には將軍の御落胤に相違なきは其御面部めんぶの瓜うりを割わりたるが如きのみか御音聲迄おんじやうまでも其儘なり是これ御親子に相違なき證據ならずや今一應將軍へ御伺うかゞひ下されたし克々よく〳〵御勘考かんかう遊ばされなば屹度御覺有べしと述れば越前守は大音に伊賀亮默だまれ天一坊の面體よく將軍御幼年えうねんの御面部に似しのみならず音聲まで其の儘とは僞いつはり者め其方紀州家の浪人ならばいざ知ず九條家の浪人らうにんにて將軍の御音聲を知べき筈なしと咎とがめられしに山内は嘲笑あざわらひ御面部また御音聲まで似奉にたてまつる事お咄し申さんに紀州大納言光貞公の御簾中れんぢうは九條前關白太政大臣の姫君ひめぎみにてお高の方と申し其お腹に誕生たんじやうまし〳〵しは則ち當時將軍吉宗公なり御幼名を徳太郎信房君と申せし砌みぎり拙者は虎伏山竹垣城へ九條殿下の使者ししやにて參りお手習てならひ和學わがくの御教導をも爲し故御面部は勿論御音聲までも能よく承知しようち致いたせばこそ將軍の公達に相違なしとは云しなり如何に越前守殿どのお疑ひは晴しやと言詰いひつめるに越前守は亦た言葉ことばなく何を以て此の山内を言ひ伏んやと暫し工夫を凝こらして居られける


第二十九回


 扨も大岡越前守は再度さいどまで山内に言ひ伏られ無念に思へども詮方なく暫時しばし思案ありけるが屹度天一坊の乘物に心付き心中しんちうに悦こび此度こそは閉口へいこうさせんと山内に打對ひ天一坊は將軍の公達きんだちならば官位は何程なるやと問ふに山内最初さいしよの官なれば宰相が當然なりと答ふ越前守又宰相さいしやうは東叡山の宮樣と何程の相違ありやと問とふに山内宮樣は一品親王ほんしんわうなり夫一品の御位は官外にして日本國中三人ならではなし先まづ天子てんしの御隱居遊されしを仙洞御所せんどうごしよと稱し一品親王なり又天子御世繼よつぎの太子を東宮とうぐうと云いひ是又一品親王なり又東叡山の宮樣は一品准后ほんじゆんこうにして准后とは天子の后きさきに准じゆんずる故に准后の宮樣とは云なり然ば宮樣の御沓おくつを取者の位くらゐさへ左大臣右大臣ならでは取事とること叶かなはざれば御登城には御沓取なくお乘物のりものを玄關へ横付よこづけにせられ西湖せいこの間にて將軍に御對顏たいがんあらばお沓はお用ひなし故ゆゑに宮樣と宰相とは主從しゆじうの如くなれど今少し官位の相違さうゐ有あらんかと答へらる越前守是を聞きかれ然らば天一坊を召捕めしとれといふ山内また何故に天一坊を召捕と云いはるゝやと云せもあへず越前守大音に飴色あめいろ網代あじろ蹴出けだし黒棒くろぼうは勿體なくも日本廣ひろしと雖も東叡山御門主に限るなり然程に官位の相違する天一坊が宮樣みやさまに齊ひとしき乘物に乘しは不屆なれば召捕と云いひしなり此の時山内から〳〵と打笑ひ越前守殿左樣に知しらるゝなら尋ぬるには及ばず又知ざれば尋ねらるゝ事もなき筈はずなり今ま山内が此こ所こにて飴色網代のお咄はなし申さんに先將軍の官職より解出ときいださゞれば解げし難し抑々將軍に三の官ありしは征夷せいい大將軍とて二百十餘の大名へ官職を取次給とりつぎたまふの官なり尤も小石川御館のみは直ぢきに京都より官職を受るなり二は淳和院じゆんなゐんとて日本國中の武家を支配する官なり三は奬學院しやうがくゐんとて總公家そうくげを支配する官職なり然れど江戸にて斯かく京都の公家を支配する譯わけは天子若關東を圖はからせらるゝ事こと有ありては徳川の天下永く續き難き故東照神君の深慮しんりよを以て比叡山を江戸へ移し鬼門除に致したしと奏聞そうもんありしが許されず二代の將軍秀忠公へ此事を遺言ゆゐごんせられしに秀忠公も亦深慮を廻めぐらされ京都へ御縁組遊ばし其上にて事を計はからはんと姫君お福の方を後水尾院ごみづのをゐんの皇后に奉つらる之を東福門院とうふくもんゐんと稱し奉つり此御腹に二方の太子御降誕まし〳〵ける其末そのすゑの太子を關東へ申降し給ひ比叡山延暦寺えんりやくじを關東へ移し東叡山寛永寺を建立す是これ宮樣みやさまの始めにて一品准后の宮と稱し奉つり天子御東伐とうばつある時は宮樣を天子として御綸旨ごりんしを受る爲なり然ども天子には三種みくさの神器あり此中何れにても闕かければ御綸旨を出す事能はざるなり故に三代將軍家光公武運長久を祈いのる爲と奏聞有て草薙くさなぎの寶劔はうけんを降借かうしやくせられ其後返上なく東叡山に納たり夫それ寶たからは一所に在ては寶成ず故に慈眼大師の御遷座ごせんざと唱へ毎月晦日つごもりに三十六院を廻るは即ち此寶劔の事なり尤も大切の寶物はうもつゆゑ闇の夜ならでは持歩行もちあるく事ならず依て月の晦日は闇なれば假令たとへ晝ひるにても燈火照して御遷座あるは此譯也なり斯く如く宮樣の御身分おみぶんは今にも天子に成せ給ふや又また御一生御門主にて在せらるゝや定めなき御身の上なればお乘物のりものの中を朱塗しゆぬりになし其上に黒漆くろうるしを掛るは是日輪の光りに簇雲の覆し容を表あらはしたるにて是を飴色網代蹴出黄棒の乘物といふ今いま天一坊樣の御身も御親子ごしんし御對顏ごたいがんの上は西丸へ直らせらるゝや又御三家格けかくなるや將はた會津家越前家同樣なるや抑々御譜代並の大名に成ならせ給ふや定めなき御身分ゆゑ朱塗しゆぬりの上に黒漆を掛て飴色網代に仕立したてしは此伊賀亮が計ひなり如何に越前守此儀惡あしかるべきやと問詰とひつめれば越前守は言葉なく無念に思おもへども理の當然なれば齒を切齒くひしばりて控へられしが稍やゝありて然ば證據の御品拜見せんと云ふに山内は天一坊に向むかひ奉行越前御證據の御品おんしな拜見願ひ奉つると云いひければ天一坊は奉行越前へ拜見許ゆるすと云ふ頓やがて藤井左京長持の錠を開て二品しなを取出し越前守の前に出す越前守は覆面ふくめんもせず先墨附を拜見するに將軍の直筆に相違なく亦短刀を拜見するに疑うたがひもなき天下三品の短刀にて縁頭ふちがしらは赤銅斜子しやくどうなゝこに金葵の紋散し目貫は金無垢の三疋の狂獅子くるひじし作さくは後藤祐乘いうじようにて鍔は金の食出し鞘に金梨子地に葵の紋散し中身は一尺七寸銘は志津三郎兼氏かねうぢなり是は東照神君が久能山くのうざんに於て御十一男紀州大納言常陸介頼宣卿へ下されし物なり又同じ拵こしらへにて備前三郎信國のぶくにの短刀は御十男尾張大納言義直卿へ又また同じ拵へにて左兵衞左文字御短刀たんたうは御十二男水戸中納言左衞門尉頼房卿に下くだされたり是を天下三品の御短刀と稱す斯て越前守は拜見はいけんし終りて故もとへ收め俄に高き床より飛下低頭平身して斯かくの如き御證據ある上は疑ひもなく將軍の御息男ごそくなんに相違有ましく越前役儀やくぎとは申乍まをしながら上へ對し無禮過言を働き恐れ入り奉つる何卒彼方あれへ入らせらるゝ樣にと襖ふすまを明れば上段に錦の褥しとねを敷前には簾を垂て天一坊が座を設たり頓やがて赤川大膳をも呼よび來り簾の左右には伊賀亮常樂院其次つぎには大膳藤井左京等並居る此時越前守は遙はるか末座に跪ひざまづきてお取次を以て申上まをしあげ奉つる役儀とは申乍ら上へ對し無禮過言の段恐れ入り奉つる是に依て越前差控さしひかへ餘人を以て吉日良辰りやうしんを撰み御親子御對顏の御式を取計ひ申べくと云ければ伊賀亮此由よし披露ひろうに及ぶ簾の中より天一坊は越前目通り許ゆるすとの言にて簾をきり〳〵と卷上まきあげ天一坊堂々と越前守に向むかひ越前予に對し無禮過言せしは父上ちゝうへの御爲を思ひてなれば差控さしひかへには及ばず越前とても予が家來なり是迄の無禮ぶれいは許すといひ又越前片時へんじも疾く父上に對面の儀ぎ取計とりはからふべしと有ば越前守は恐おそれ入て有難き上意を蒙り冥加みやうがに存し奉つる近々御對顏の儀取計ひ申べければ夫それまでは八山御旅館に御休息ごきうそくある樣願ひ奉つると云へば山内も越前殿呉々も取急とりいそぎて御親子御對顔の儀頼たのみ入と云に越前守には何れにも近々きん〳〵の内取計らひ申べしと返答へんたふに及れける是より歸館きくわんを觸出ふれだして天一坊は直樣敷臺より乘物のりものにて立出れば越前守は徒跣はだしにて門際もんぎはまで出て平伏す駕籠脇かごわき少すこし戸を引ば天一坊は越前居ゐるかと云に越前守ハツと御請うけを致されたり斯て天一坊の威光ゐくわう熾盛さかんに下に〳〵と呼りつゝ芝八山の旅館りよくわんを指て歸りける此時大岡越前守には八山の方を睨付にらみつけて云うんと計り氣絶せしかば公用人を始はじめ家來等驚いて打寄氣付藥を口へ吹込顏に水を灌そゝぎなどしければ漸々にして我に復かへりホツと息いきを吐つき乍ら今日こそは伊賀亮を閉口させんと思ひしに渠かれが器量の勝すぐれしに却つて予が閉口したれば餘り殘念さに氣絶きぜつしたりと切齒をなして憤いきどほられしも道理ことわりなる次第なり


第卅回


 去程さるほどに大岡越前守は今日社こそは山内伊賀亮を恐入せ天一坊始め殘のこらず召捕めしとらんものをと手當にまで及びしが思ひの外ほか越前守は言伏られ返答にさへ差閊さしつかへたれば一先恐入て天一坊に油斷ゆだんさせ自ら病氣と披露ひろうし其内に紀州表を調しらべんものと池田大助を呼で御月番の御老中へ病氣びやうきの御屆けを差出させ又また平石ひらいし次右衞門を呼で八山へ使者に遣しける八山にては天一坊を始はじめ常樂院藤井左京等打寄て越前を恐入せし上は外に氣遣きづかふ物なし近々の内には大岡の取計とりはからひにて御對顏あるに相違なし事大方成就じやうじゆせりと悦びけるが山内は少しも悦ぶ色なく鬱々とせし有樣ありさまなれば大膳は山内に打ち向ひ今日町奉行越前を恐入おそれいらせしからは近日事の成就せんと皆々悦ぶ其中に貴殿きでん一人愁うれひ給ふは如何成仔細に候やと尋たづねければ山内は成程なるほど各々方には今日越前が恐入しを見て實に閉口へいこう屈伏くつぷくしたりと思はるゝならんが此伊賀亮が思おもふには今日大岡が恐れ入りしは僞いつはりにて多分病氣を申立引籠るべし其内に紀州表を調しらぶるは必定ひつぢやう越前が恐入しは此伊賀亮が爲に一苦勞くらうなりと云に大膳始め皆々驚愕おどろき然しからば大岡が恐入しは僞りなるか此後は如何して宜よからん抔など案あんじけるに山内笑ひて大岡手を變へて事を成なさば我又其裏うらをかく詮方てだてありと皆々に物語る處へ取次戸村とむら馳來はせきたり只今町奉行方より平石次右衞門使者ししやに參り口上の趣きには天一坊樣御歸り後大岡氣脱きぬけ致いたし候や癪氣しやくきさし起り候に付今日より引籠ひきこもり候との由なりと云ふに山内是を聞て扨さてこそ只今申通り我々を召捕了簡と相見みえたりと云へば皆々山内が明察めいさつを感じて止やまざりしと扨も越前守は若黨草履取を供ともに連紀州の上屋敷へ到り門番所もんばんしよにて尋ねらるゝ樣此節加納將監殿には江戸御在勤ざいきんなるやといふに門番答へて加納將監樣には三年前死去しきよせられ只今は御子息大隅守殿御家督に候と云ければ一禮れいを述のべ加納大隅守殿の長屋を聞合きゝあはせ直樣宿所へ趣き案内を乞こひ大隅守殿へ御目通り仕つり度儀御座候に付町奉行越前守推參すゐさん仕つかまつり候御取次下さるべしと云に取次とりつぎの者此由を通つうじければ大隅守殿早速對面あり此時越前守には率爾そつじながら早速伺ひ申度は今より廿三年以前の御召使めしつかひに澤さはの井ゐと申女中の御座候ひしやと聞きくに大隅守殿申さるゝは親將監三年以前に病死びやうし致し私し家督仕つり候へども當年廿五歳なれば廿三年跡あとの事は一向かう辨わきまへ申さずと答へらる越前守推返おしかへして然らば御母公ぼこうには御存命ぞんめいに御座候やと申さるに大隅守殿拙者儀せつしやぎは妾腹にて養母は存命いたし候へども當年八十五歳にて御逢おんあひなされ候とも物の役には立申さずと言いはるゝに越前守御老體御迷惑めいわくとは存候へども御目通り願ひ度候と言いはるゝに大隅守殿は據ころなく奧へ行き養母正榮尼しやうえいにに向ひ只今奉行大岡越前守殿參られ御目通り願ねがひ候が定めて御政事の事なるべし母上には御當病たうびやうと仰られて逢なされぬ方宜からんと云に正榮尼しやうえいにいやとよ奉行越前守が折角せつかく來り給ふを對面せぬも無禮なり逢あひ申べし大隅心遣こゝろづかひ無用なり假令何事を申す共八十五歳の老人らうじん後々のち〳〵の障さはりになることは申すまじよし申にもせよ老耄らうもう致し前後の辨わきまへ無と申さば少も其方の邪魔じやまには成申すまじ氣遣きづかひ無此方に案内致す可と申さるゝ故ゆゑ大隅守殿には越前守殿を案内せられ老母らうぼの居間へ來らる越前守殿正榮尼に初ての對面より時候じこうの挨拶あいさつを述のべ次に御六むつか敷しくとも御母公へ伺ひ度儀あり此廿二三年ねん以前いぜんに御召使ひの女中に澤の井と申者候ひしやと尋たづねらるゝに母公答て私し共紀州表に住居ぢうきよ致し候節召使の女も五六人宛づつ置候が澤の井瀧津たきつ皐月さつきと申す名は私し家の通名とほりなにて候故何の女なりしや一向かうに分り兼候と云いふ越前守然らば其中にて御家に御奉公長く勤つとめ候女中御座候やとあるに母公然されば和歌山在西家村の神職伊勢が娘むすめの菊と申者私し方に十五年相勤あひつとめ候此外に長く居し者なく其菊と申すは當時伊勢の妻に成しと承うけたまはり候と云るゝに越前守更さらに手懸なく然ば廿二三年跡あとの澤の井が證文御座候やと聞きゝけるに正榮尼申けるは奉公人の證文は一通つうも御座無なく斯樣かやうに計ばかり申ては何か御不審も有べけれど紀州きしうの國法にて男女共に主人方にては奉公人の宿やどは存じ申さず其譯は和歌山御城下に奉公人口入所二軒けんあり男の奉公人は大黒屋源左衞門世話致し女をんなは榎本屋三藏世話せわにて此二軒より主人方へ證文差出し抱かゝへ候にて主人方にては一向かう奉公人の宿を存申さず親元おやもとよりは口入人の方へ證文を出し候由承うけたまはり候然ば奉公人の宿やどを御尋成り候には紀州表にて口入人を御調しらべなされずは相分あひわかり申まじと云に越前守委しく承まはり左樣さやうならば紀州表へ參らずば相分り申まじ然らば御暇申べしと一禮れい述のべ急いそぎ御役宅へ立歸り公用人こうようにん平石次右衞門吉田三五郎を呼出し其方兩人は是より直樣すぐさま紀州表和歌山へ赴き大黒屋源左衞門榎本屋えのもとや三藏の兩人りやうにんを調べ澤の井が宿を尋ね天一坊の身分を糺し參べし萬まん一澤の井の宿榎本屋三藏方にて分わかり兼かね候はゞ和歌山在西家村の神職伊勢の娘菊と申す者加納將監方かたに十四五年も相勤あひつとめ居候由成ば此者を呼出よびいだしなば手懸にも相成べし此旨心得置べし此度の儀は國家こくかの一大事家の安危あんきなるぞ急げ〳〵途中は金銀を吝をしむな喩にも黄金乏とぼしければ交り薄うすしと云へり女子によしと小人は養ひ難しとの聖言せいげんを守るなと委細ゐさいに申付られしかば次右衞門三五郎の兩人は主命しゆめい畏かしこまり奉つると早速先まづ觸ふれを出し直樣桐棒駕籠に打乘うちのり白布にて鉢卷と腹卷をなし品川宿じゆくより道中駕籠一挺に人足廿三人を付添つけそへ酒代も澤山に遣す程に急げ〳〵と急立ける御定法の早飛脚はやひきやくは江戸より京都迄まで二日二夜半よはんなれども此度は大岡の家改易に成か又立かの途中なれば金銀を散財まきちらして急がせける程に百五十里の行程みちのりを二日二夜半にて紀州和歌山へ着しける此時和歌山の町奉行鈴木重兵衞出迎いでむかへ彼奉行所本町東ひがしの本陣に旅館致させけるに次右衞門三五郎の兩人は休息きうそくもせず鈴木重兵衞へ申達し大黒屋源左衞門榎本屋三藏の兩人を呼出よびいだし澤の井の宿所しゆくしよを尋ねしに大黒屋源左衞門は男をとこのみ世話する故女の奉公人の儀ぎは存じ申さずとの事なれば然さらばとて榎本屋三藏に澤の井が宿所を糺たゞしけるに親おや三藏は近年病死びやうし致し私しは當年廿五歳なれば廿二三年跡あとの事は一向覺えなしと云にぞ然らば廿二三年前ぜんの奉公人の宿帳やどちやうを調しらぶべしと申付るに三年以前に隣家りんかより出火しゆつくわ致し古帳は殘らず燒失せうしつ致し候と云故少も手懸り無なければ次右衞門三五郎は三藏に向むかひ和歌山に西家村と云處有ありやと云へば是より一里許り在ざいに候と答へけるにぞ寺社奉行へ達し西家村の神職伊勢しんしよくいせ同人妻菊同道にて東の本陣へ罷まかり出べき旨むね差紙を遣はしける神職伊勢は差紙さしがみを見て大いに驚き女房に向むかひ申けるは何事にや有らん是は定めて其方そのはう和歌山加納樣方に奉公致し居をり候節の事なるべし御本陣へ參りて御役人やくにんより何事を尋ねらるゝ共一向かう覺おぼえ申さずと云ふべし憖なまじひに知顏しりがほなさば懸合かゝりあひとなりて甚だ面倒なりと能々申合ければ菊女も委細ゐさい承知しようちなし少しも案じ給ふ事なかれ何事も知しらずと申すべしとて夫れより夫婦支度をなし急ぎ本陣へ赴きけり


第卅一回


 神職伊勢は女房菊きく同道にて東の本陣へ到り此由よし通じければ早速兩人を呼出さる吉田三五郎は伊勢に向むかひ西家村の神職伊勢同人妻つま菊と申すは其方そのはうなるかと云に漣いざちやで御座ると答へける又取返して伊勢の妻菊と申すは其方そのはうなるかと尋るに只々漣で御座ると答こたへ一向に分り兼れば平石次右衞門心付き伊勢には舞太夫まひだいふを致さるゝやと尋ねけるに御意ぎよいの通り舞太夫を仕つり候と答こたへければ然ば妻女の名前を漣太夫いざちやだいふと申さるゝやと聞に如何いかにも左樣さやうに候と答ける此時次右衞門漣太夫に尋る儀あり其方事は加納將監方に數年すうねん奉公したりと聞きく實じつ以もつて左樣なるやと尋ければ菊は一向かう存ぞんじ申さずと云に押返おしかへして將監方に奉公ほうこう致たるに相違有まいなと尋るに更さらに存ぞんじ申さずと答へければ否々廿二三年跡あと其方奉公中傍輩に澤の井と申す女中ぢよちう有ありしと存じ居べしと尋ねけれ共一向かう存申さずと云に次右衞門は是これは伊勢より女房に口留くちどめしたるに相違なしと心付たれば懷中くわいちうより小判十枚取出し紙に包つゝみて差出し漣いざちやどの此金子は將軍樣しやうぐんさまより其方へ下くださるゝ金子なれば有難く頂戴ちやうだい致されよとて渡し更あらためて申けるは當將軍樣には加納將監方にて御成長遊ばし御幼名ごえうみやうを徳太郎君と申し其方には厚あつく世話になり玉ひし由よし依て此金子を遣はせとの上意じやういなり又澤の井をも召出し御褒美下さるゝとの儀にて我々澤の井の宿やどを調べに參りし也なり其方存じ居をらば教へ申可べしと和やはらかに諭ければ菊は十兩の金を見て心打解うちとけ成程考へ候へば加納將監樣の呉服ごふくの間に澤の井と申て甚だ不器量の女中御座候やに存じ候去乍さりながら宿やどの儀は存じ申さずと面おもなげに云を次右衞門は聞て然さらば澤の井の宿を存じたる者は無なきやと尋ぬるに菊は暫く考へ成程其節小買物を致惣助そうすけと申者澤の井に頼れ手紙を持て折々をり〳〵宿やどへ參りし事有と云に其惣助と申す者は當時何方いづかたに居ゐるや申聞すべしといへば只今は御普請ごふしん奉行小林軍次郎樣方に中間奉公致し居候と申にぞ然さらばとて早速使を仕立したて御差紙を以て小林軍次郎召使めしつかひ惣助同道にて早々本陣へ罷り越こすべき旨申達せしに軍次郎は大に驚おどろき惣助を腰繩にて召連來めしつれきたれば直に惣助を呼出し其方事加納將監方に奉公中澤の井と云女中に頼たのまれ手紙使に折々宿へ參りし由よし定さだめて澤の井の宿を存じ居をるべし何方に候やと尋けるに一向に覺おぼえ御座なく候と答へける吉田三五郎懷中くわいちうより又金子十兩を取出し菊へ渡して此金子を其方そのはうより惣助へ遣はし澤の井の宿を尋呉たづねくれよと言ければ菊は惣助に向ひ此金子は徳太郎とくたらう樣より其方に下さるゝとの御事にて澤の井樣をも召出めしいだし御褒美ごはうび下さるゝ筈なれ共今は宿を知しりたる者なしお前は頼まれて度々お宿へ參りし事あれば能々よく〳〵考かんがへて御役人樣へ申上られよと聞きき惣助も十兩の金子を見て肝を潰し頻りに金の欲ほしさに樣々と考へ成程なるほど澤の井さんに頼まれて折々手紙を持參りしが其頃そのころ澤の井さんの申には糸切村いときりむらの茶屋迄持て行ば宿やどへは直に屆とゞくと申されしゆゑ茶屋迄は度々たび〳〵持參りしと云にぞ能よくこそ知しらしたりとて彼十兩は惣助へ遣つかはし然らば惣助を案内として其糸切村へ參らんと支度をなし神職夫妻には暇いとまを遣やり次右衞門三五郎寺社奉行差添さしそへ小林軍次郎奉行遠藤喜助同道にて夜四ツ時過より淡島道あはしまみち五十町一里半を揉もみに揉もんで丑滿うしみつの頃漸々にて糸切村に着し彼の茶見世を御用々々と叩たゝき起せば此家このやの亭主何事にやと起出おきいづるに先まづ惣助亭主に向ひ廿二三年跡あとに澤の井樣より手紙を頼まれ毎度まいど頼み置し事有しが其手紙そのてがみは何方へ屆けしやと尋ねけるに亭主ていしゆ答へて私し方は道端みちばたの見世故在々へ頼まれる手紙は日々二三十本ぽん程ほども有ば一々に覺え申さず殊ことに二十二三年跡の事なれば猶更なほさら存ぞんじ申さずと答こたへけるにいよ〳〵澤の井の宿所しゆくしよの手懸てがかりなく是に依て次右衞門三五郎の兩人は色いろを失なひ斯迄かくまで千辛萬苦して調しらぶるも手懸りを得ず此上は是非に及ばじ此この旨江戸へ申送おくり我等は紀州きしうにて自殺致じさついたすより外なしと覺悟を極めしが三五郎フト心付き懷中くわいちうより又金十兩取出し亭主ていしゆに向ひ其方澤の井の手紙てがみを頼まれ宿やどへ參らず共とも村名位むらなぐらゐは覺の有さうな物なり今十兩遣つかはす程に能々よく〳〵考かんがへて思ひ出せと申にぞ亭主は金かねを見て思ひも寄ず十兩に有付ありつく事と兩手を組くんで樣々と思案しあんをし稍やゝ暫しばらく有て思出しけん申樣澤の井殿の宿やどの村名は私しの弟おとうとの名の字を上へ付候樣に覺おぼえ申候と云に其方の弟おとうとの名を何と申すやと尋ぬるに弟は平へい五郎と申し候と答こたへけるに郡奉行こほりぶぎやうへ談だんじ急ぎ平の字の付たる村々を調しらべさせけるに十三ヶ村有れば是を始より一々亭主ていしゆへ讀聞よみきかすに平澤村ひらさはむらと云に到りて亭主礑はたと手を拍うち其村で御座候といふに然らば是より平澤村へ立越たちこえんと爰こゝにて大勢支度したくをし先まづ平澤村へ先觸さきぶれを出し其跡あとより百五十人餘の同勢にて平澤村指さして急いそぎける扨さて此この平澤村と云は高たか二十八石家數やかず僅二十二軒けんにて困窮こんきうの村なり澤の井の事に付ては是迄度々尋ね有しか共ども懸かゝり合を恐おそれ村中相談さうだんなし何時も知ぬ旨趣を申立通したりとか然されば平澤村には先觸さきぶれ來れば又例れいの澤の井の調しらべなるべし是迄これまでの通り村中少すこしも存じ申さずと言放いひはなし懸り合に成ぬ樣に致事第一なりと申合せ役人やくにんの來るを待まちしに此度は是迄とは變かはり凡およそ百五十人餘りの大勢にて名主甚兵衞方へ着し直すぐに村中むらぢうへ觸を出いだして十五歳以上の男子なんしを殘らず呼集よびあつめ次右衞門三五郎正座に直なほり座傍かたはらには寺社奉行じしやぶぎやう并びに遠藤喜助小林軍次郎等列座れつざにて一人々々に呼出よびいだし澤の井の宿を吟味ぎんみに及ぶも名主を始はじめ村中殘のこらず存じ申さずとの答こたへなれば少しも手懸てがかりはなきに次右衞門の思ふ樣是は村中申合まをしあはせ掛り合を恐れて斯樣かやうに申立るならんと席せきを改あらため威儀ゐぎを正たゞして申けるは是名主甚兵衞其外の百姓共能よく承うけたまはれ將軍の上意なれば輕かるからざる事なり然しかるに當村中一同に申合せ知しらぬ〳〵と強情がうじやうを申募つのるに於ては是非に及ばず此大勢おほぜいにて半年又は一年懸かゝりても澤の井の出所しゆつしよを調しらべねばならぬぞ左樣さやうに心得よと威猛高ゐたけだかになりて威おどすにぞ村中の者肝きもを潰つぶし此大勢にて十日も逗留とうりうされては村中の惣潰そうつぶれと成るべし如何いかゞはせんと十方に呉くれ誰たれ有て一言半句はんくを出す者なし此時末座まつざより一人の老人らうじん進み出で憚はゞかりながら御役人樣方へ申上ます私しは當村の草分くさわけ百姓にて善兵衞と申す者なるが當時たうじ此村は高廿八石にて百姓しやう二十二軒ある甚はなはだ困窮こんきうの村方なれば斯かく御大勢長く御逗留ごとうりう有ては必死と難澁なんじふに及ぶべし澤の井の一條でうさへ相分り申せば早速さつそく當村を御引取下され候やと恐おそる〳〵申すにぞ次右衞門答こたへて澤の井の一條でうさへ相分り候へば何故に逗留とうりうすべき直すぐ我々は出立しゆつたつ致すなり其方存じ居るやと尋ねければ善兵衞は然さればにて候澤の井が身の上は村中に覺おぼえ居候者は有間敷あるまじく只だ私し一人委細ゐさい心得罷まかり在候間申上可べし當村の名主甚兵衞と申は至つて世話好せわずきにて先年信州者しんしうものにて夫婦に娘むすめ一人を連つれ同行三人にて千せんヶ寺じ參り旁々かた〴〵當地へ參りしを彼かの甚兵衞世話せわ致いたし自分の隱居所いんきよじよを貸遣かしつかはし世話致し候ひしに兩三年過すぎ右當人平右衞門死去しきよ致し跡には女房にようばうお三と申婆ばゝと娘の兩人に相成あひなりしがお三婆は産さんの取揚とりあげを家業かげふとし娘を育そだてしが追々成長せいちやうするに隨したがひ針はり仕事を教へ居し内年頃としごろにて相成候へば何處どこぞへ奉公ほうこうに出し度由お三婆より私へ頼みに付私し右娘を同道どうだう致いたし城下へ參り榎本屋えのもとや三藏に頼み加納將監かなふしやうげん樣へ御針おはり奉公に出し遣つかはし候に其後のち病氣びやうきなりとて宿やどへ下り母の許もとに居候が何者の胤たねなるか懷姙くわいにん致し居候故村中むらぢう取り〴〵噂うはさを致し候に翌年よくねん三月安産あんざんせしが其夜の中に小兒せうには相果あひはて娘も血氣ちのけ上りて是も其夜の曉あかつきに死去致し候に付き近邊きんぺんの者共寄集よりあつまり相談するも遠國者ゑんごくもの故菩提所ぼだいしよも無なく依て私しの寺へ頼み葬はうむり遣し候其後お三婆は狂氣きやうき致し若君樣わかぎみさまを失なひて殘念ざんねんなりと罵詈狂のゝしりくるひ歩行候ゆゑ甚兵衞も迷惑めいわくに存じ隱居所いんきよじよを追出せしにお三婆は宿やどなしと相あひなりしを隣村りんそんの名主甚左衞門といふ者當村の名主なぬし甚兵衞が弟おとゝにて慈悲じひ深ふかき人ひとにて是を憐あはれみ何時迄いつまで狂氣きやうきでも有まじ其内には正氣しやうきに成るべしとて連つれ歸り是も隱居所いんきよじよへ入置遣つかはせしに追々おひ〳〵正氣に相成あひなりければ又々以前の如く産婦さんぷの取揚とりあげを致し候が十年程以前病死びやうし致し候由に御座候是これにて澤の井の一條でうは御得心ごとくしんに相成候やと云に次右衞門三五郎は是を聞きゝ何いかにも概略あらましは相分あひわかりたり其若君と澤の井を葬はうぶりし寺は當村なりやと尋たづぬるに向ふに見え候山の麓ふもとにて宗旨しうしは一向宗かうしう光照寺と申し候と聞きいて然らば其節せつの住持ぢうぢは未だ存命ぞんめい致し居やと有に參さん候其節の住持祐然いうねんと申すは未だ壯健たつしやに候と答へける吉田よしだ三五郎然さらば光照寺住持ぢうぢ祐然を爰こゝへ呼參よびまゐる可べしとの事なれば早速さつそく村の小使こづかひを走はしらせ江戸表より御着ごちやくの役人方より御用の由早々名主宅迄なぬしたくまで御出なさるべしと云いはすれば祐然は聞て驚おどろき何事やらんと支度したくなし急ぎ甚兵衞方へ赴おもむきけり


第卅二回


 光照寺祐然いうねんは江戸表より御役人到着たうちやくにて召呼めしよばるゝと聞き何事やらんと驚おどろきながら役人の前まへへ出ければ次右衞門三五郎の兩人りやうにん祐然に對むかひ廿二三年以前當村たうそんに住居ぢうきよ致し候お三が娘むすめ澤の井并ならびに若君とかを其方寺てらへ葬はうむりし趣きなるが右は當時たうじ無縁むえんなるか又は印しるしの石塔せきたふにても建たてありやと尋けるに此祐然素もとより頓智とんち才辨さいべんの者故參候若君わかぎみ澤の井の石塔せきたふは御座候も香花かうげを手向たむけ候者一人も是なし併しかし拙僧せつそう宗旨しうしの儀は親鸞上人しんらんしやうにんよりの申傳つたへにて無縁むえんに相成候塚つかへは命めい日忌き日には自坊じばうより香花かうげを手向たむけ佛前ぶつぜんに於て回向ゑかう仕つり候なりと元より墓標はかじるしも無なきを取繕とりつくろひ申にぞ次右衞門三五郎口を揃そろへて然らば其石塔せきたふへ參詣さんけい致し度貴僧きそうには先へ歸られ其用意よういをなし置給へと云に祐然畏かしこまり候と急ぎ立歸りて無縁むえんの五輪りんの塔たふを二ツ取出し程ほど能よき所へ据置すゑおき左右へは新らしき樒しきみの花を揷さし香爐臺かうろだいに香を薫くゆらし前には莚むしろを敷しきて今や〳〵と相待あひまちける所へ三五郎次右衞門寺社奉行じしやぶぎやう郡奉行こほりぶぎやう同道にて來りしかば祐然は出迎いでむかへ直たゞちに墓所はかしよへ案内するに此時三五郎は我々は野服のふくなれば御燒香せうかうを致すは恐おそれあり貴僧きそう代香だいかうを頼み入と云に祐然則ち承うけたまはり代香だいかうをなし夫より皆々本堂ほんだうへ來り過去帳くわこちやうを取出させ委細ゐさいを調しらべける

寶永二酉年三月十五日寂  釋妙幸信女  施主 三

寶永二酉年三月十五日寂  釋春泡童子  同人

右の如くに記しるし有ありしかば住持ぢうぢ祐然いうねんに書寫かきうつさせ其奧おくへ右之通り相違さうゐ御座なく候に付つき即ち調印てういん仕り候以上月日寺社じしや奉行何某殿なにがしどのと奧書おくがきを認したゝめさせ次右衞門是を受取うけとれば三五郎懷中くわいちうより金二十兩を取出とりいだし祐然に與あたへ是は輕少けいせうながら我々より當座たうざの回向料ゑかうれうなり尚なほ又江戸表へ立歸らば宜よろしく披露ひろう致し御沙汰さた有之候樣やう取計ひ申すべしと挨拶あいさつに及び夫より祐然に暇いとまを告げ光照寺くわうせうじをば立出たちいでける是にて平澤村の方は調しらべ埓明らちあきしかば直樣隣村りんそん平野村へ立越たちこえ名主なぬし甚左衞門方へ落付おちつき村中殘らず呼集よびあつめ次右衞門三五郎の兩人は名主甚左衞門に向むかひ其方に尋たづねたき仔細しさいあり今より廿二三年以前に平澤村のお三と申す婆ばゞ當村たうそんへ參りしと承うけたまはるが其者は未いまだ存命ぞんめいなるやまた何方いづかたへか參りしやと尋たづねけるに甚左衞門仰おほせの通り慥たしかに寶永はうえい二酉年三月頃と覺おぼえ候が右お三儀ぎは其娘むすめ澤の井と申者相果あひはて候より狂氣きやうきなし平澤村を追出され所々しよ〳〵を流浪るらう致し居をり不便ふびんに存候故途中とちうより連つれ歸かへり私し明家あきやへ住居させ候に追々狂氣きやうきも治をさまり正氣しやうきに立歸り以前の如く渡世とせい致し居候内享保きやうほ元申年十一月廿八日かと覺え候が其日は大雪おほゆきにて人通りも稀まれなるにお三には酒に醉ゑひ圍爐裏ゐろりへ轉まろび落おち相果あひはて申候と聞て次右衞門三五郎は役柄やくがらなれば早くも心付其死骸しがいを見付し者は何者なるやと尋たづねけるに甚左衞門彼かの死骸しがいを最初さいしよに見出し候者は私わたくし悴せがれ甚之助に御座候其仔細そのしさいは同日の夕刻ゆふこく雪も降止ふりやみ候に何となく怪あやしき臭にほひ致せば近所の者共表へ出いで穿鑿せんさく致し候に何時いつも何事にても人先に出て世話せわ致いたし候お三婆ばゞのみ一人相見え申さざれば私し悴せがれ甚之助不審ふしんに存じ渠かれが家の戸を明あけ初はじめて見出し申候と云に次右衞門は悴せがれ甚之助は其頃何歳なんさいなりしやと尋たづぬるに然さればに候悴儀は寶永元年の生れにて十三歳の時ときに御座候と答こたへけるに然らば其甚之助は只今たゞいま以て存命ぞんめいなるやと尋ねるに甚左衞門參さん候親おやの口より我子を譽ほめ候は恐入おそれいり候へ共幼年えうねんより發明はつめいなれば末すゑ頼母敷たのもしく存居しに生長に隨したがひ惡事を好このみ親の目に餘り候事度々なれば十八歳の時御帳おちやうに附つき勘當かんだう仕つり候其後一向に行衞ゆくゑ相知あひしれ申さず村の者共渠かれが噂うはさを申し甚之助には能方よきかたへ赴おもむけば鎗やり一筋すぢの主共しゆとも成るべきが惡方あしきかたへ趣けば馬の上にて鎗やりを跡あとへ持もたせる身に成るべしと專ら取沙汰致候程の者なれども親おやの心には折々をり〳〵思出し不便ふびんに存じ候と涙なみだながらに申立しにそ此時次右衞門三五郎は顏かほを見合せ互たがひに心中は今いま江戸表八山に居る天一坊は多分たぶん此甚之助に相違あるまじくと思ひしが然あらぬ體ていにて其方の悴せがれ甚之助は生うまれ付つき體面かほだち如何有しやと尋ぬるに甚左衞門私し悴は疱瘡はうさう重おもく候故其痕あと面體めんていに殘のこり甚はなはだ醜みにくく候と云に扨さては人違ひとちがひならんと又問けるは其方の悴に同年か又一二年違ちがひの男子が當村たうむらに居をりしやと尋ぬるに甚左衞門は即ち人別帳にんべつちやうを調しらべ寶澤はうたくと申す者有しが夫は盜賊たうぞくに殺ころされしと云に其仔細そのしさいは如何にと尋たづぬれば甚左衞門は答こたへて右寶澤と申すは九州浪人らうにん原田何某の悴せがれにて幼年の頃兩親りやうしんに別れ夫より修驗者しゆけんしや感應院かんおうゐんの弟子と成りしが十三歳の暮くれ感應院には横死わうしいたし候に付右みぎ寶澤へ跡あとを繼つぎ候樣村中むらちう相談さうだんの上申聞候に渠かれは幼年えうねんながら發明はつめいにて我々へ申候には山伏やまぶしは艱行苦行なんぎやうくぎやうする者にて幼年の私し未だ右等みぎらの修行しゆぎやうも致さず候へば暫しばらく他國たこく致し苦行くぎやうを修め候上立戻たちもどり師匠ししやうの跡あとを繼つぎ申度と強たつて申聞候故村中むらぢうより餞別せんべつに取集とりあつめ遣つかはし候金子八兩二分を所持致し出立せしが右みぎ金子きんすを所持せし故にや加田かだの浦うらにて切害せつがいされ死骸しがいは海中へ入いれ申候しか相見え申さず此浦このうらには鰐鮫わにざめ住すみ候故大方は鮫さめの餌食ゑじきと相成候事と存られ候衣類いるゐ并ならびに笠かさは血に染り濱邊に打上うちあげ是有候故濱奉行へ御屆に相成候且かつ村中不便ふびんに存じ師匠ししやう感應院の墓はかの側そばへ塚標はかじるしを相立懇篤ねんごろに弔とふらひ遣し候と云に兩士りやうしは是を聞より其寶澤はうたくの身の上こそ不審ふしんなりと思ひ其寶澤と云は常々つね〴〵お三婆ばゝの所へ往復ゆきかよひ致せしかと尋るに如何にも寶澤は常つねにお三婆の所へ參り既すでに相果候跡あとにて承うけたまはり候へば其日寶澤は師匠ししやうより酒さけ肴さかなを貰もらひ持參せし由其酒にて醉伏ゑひふし相果あひはて候事と存じられ候と聞より彌々いよ〳〵不審いぶかしく思ひ次右衞門申樣右寶澤の顏立かほだち下唇したくちびるに小ちひさき黒痣ほくろ一ツ又左の耳の下に大なる黒痣ほくろ有しやと聞に如何にも有候と答こたへるにぞ然ば天一坊は其寶澤に相違さうゐなしと兩士は郡奉行遠藤喜助に對むかひ其寶澤の衣類等いるゐとう御座候はゞ證據しようこにも相成るべく存じ候へば申受度と云に喜助きすけ申樣夫は先年某濱奉行勤役中きんやくちうにて笈摺おひづる笠かさ衣類は缺所藏けつしよぐらの二階の隅すみへ上置候へば當時たうじの濱奉行淺山あさやま權ごん九郎へ申談じ差上申べしと其旨そのむね濱奉行へ申達しんだつし右の品々を取寄とりよせ兩人の前に差出せば次右衞門三五郎は改めて見に笠かさ衣類いるゐ笈摺おひずる等一々疵きず付つけ有共其疵口きずぐちの不審さに流石さすがは公儀こうぎの役人是は盜賊たうぞくの所爲しわざならず寶澤人に殺されし體ていに自身に疵付きずつけし者ならんと血ちに染そみたる所を見れば年限ねんげん隔へだたりて黒染すみにじみの樣なれば人間の血の染そみたるとは大に異ことなりしかば寶澤こそ天一坊に相違なしと三五郎は名主なぬし甚左衞門に向ひ山伏やまぶし感應院の死去せしは病氣びやうきなりしやと尋たづねけるに甚左衞門病氣は食滯しよくたいと承うけたまはり候と云然らば其時は醫師いしに見せ候やと聞に參さん候當村に清兵衞と申す醫師有て夫それに見せ候と答ふ然らば其醫師いしを是へ呼べしとの事に早速さつそく人を走はしらせ清兵衞を呼寄よびよせける三五郎清兵衞に向ひ其方はう醫道いだうは確しかと心得ありやと尋たづねけるに少しは心得罷居まかりをり候と云に又押返おしかへして確と醫道いだうを心得居るやといふに今度は確しかと心得候と答こたへける然らば感應院病死びやうしの節せつは其方病症びやうしやうをば慥たしかに見留みとめたるやと申すに清兵衞答て感應院の病症は大食滯だいしよくたいに候去ながら私わたくし事は病症びやうしやう見屆みとゞけの醫には候はず病氣を治なほす醫師なれば食滯しよくたいと申し其座を立退たちのき候病症見屆の醫師に候はゞ大食滯だいしよくたいを申立其場は立去申まじと答ければ感應院の死去しきよは全く毒殺どくさつと社こそ知られけり抑々そも〳〵此清兵衞と云は元もと紀伊大納言光貞卿みつさだきやう御意に入の醫師にて高橋意伯いはくとて博學はくがくの者なりしが光貞卿の御愛妾あいせふお作さくの方といふに密通みつつうなし大納言殿の御眼に觸ふれ其方深山幽谷しんざんいうこくに住居すべし家督かとくは悴せがれへ申付捨扶持すてふちとして五人扶持を遣つかはすとの御意にて暇いとまになり又た作さくの方も直すぐに永ながの暇となり意伯と夫婦に成べしとの御意にて是も五人扶持下くだし置れしかば意伯いはくはお作の方と熊野くまのの山奧やまおくに蟄居ちつきよし十七年目にて御目通りなし又増扶持として五人扶持下し置れ都合つがふ十五人扶持にて平野村ひらのむらに住居し名を清兵衞と改あらためしなり斯る醫道いだうに精くはしき人なれば今此返答へんたふには及しなり然されば天一坊は寶澤に相違なしと郡奉行の荷物にもつを持來し善助と云ふ者元感應院に數年すねん奉公せし故能よく存ぞんじ居ると云を郡奉行へ相談の上見知人みしりにんの爲江戸表へ連行つれゆく事と定めけれど老人らうじんなれば途中とちう覺束おぼつかなしと甚左衞門をも見知人みしりにんに出府致す樣申渡し直に先觸さきぶれを出し東海道とうかいだうは廻遠まはりとほし難所なんしよにても山越に御下向げかう有べしとて勢州せいしう田丸街道たまるがいだうへ先觸を出し桐棒駕籠きりぼうかご二挺ちやうには次右衞門三五郎打乘うちのり宿駕籠やどかご二挺には見知人甚左衞門善助の兩人打乘うちのり笈摺おひずる衣類いるゐの證據しようこに成べき品々は駕籠かごの上に付紀州和歌山を出立しゆつたつなし田丸越たまるごえをぞ急ぎける


第卅三回


 此時江戸表には八代將軍吉宗公よしむねこう近習きんじゆを召めされ上意には奉行越前守は未だ病氣全快びやうきぜんくわいは致さぬか芝八山やつやまに居る天一坊は如何いかがせしやと發ほつと御溜息ためいきを吐つかせ給ひながら是は内々なり必ず沙汰さたす可べからずと仰おほせられたるが斯かく吉宗公が溜息ためいきを吐つかせ給ふは抑々そも〳〵天一坊の身の上を思おぼし召めしての事なり世の親の子を思ふ事貴賤きせん上下の差別さべつはなきものにて俚諺ことわざにも燒野やけのの雉子きゞす夜よるの鶴つるといひて鳥類てうるゐさへ親子の恩愛おんあいには變かはりなし忝かたじけなくも將軍家には天一坊は實じつの御愛息あいそくと思召おぼしめさばこそ斯かく御心を惱なやませられし成るべし此は容易よういならざる事成と御側そば御用御取次おとりつぎより御老中筆頭ひつとう松平伊豆守殿へ此由よしを申達しんだつせらるゝに伊豆守殿も捨置すておかれずと御評議ひやうぎの上小石川御館おやかたへ此段申上られける此時このとき中納言綱條卿思召おぼしめさるゝ樣奉行越前病氣びやうき屆とゞけ致せしは自ら紀州表へ取調とりしらべに參し者か但たゞしは家來を遣はしたるか何にも今暫らく日數も掛かゝるべし然さりながら捨置すておきがたしと伊豆守殿へ仰おほせけるは越前守役宅やくたくへ上意じやういの趣おもむき申遣はすべしとの事なれば早速さつそく伊豆守殿より使者ししやを以て越前守方へ此度このたび將軍の上意じやういに越前守には未だ病氣全快びやうきぜんくわい致さぬか芝しば八山やつやまに居る天一坊は如何いかゞせしやとの御事なれば明朝みやうてうは早速すみやかに登城とじやう致し御返答ごへんたふ申上らるゝか今宵こよひの内に御役御免おやくごめんを願ふか兩樣の内何共いづれとも決心けつしん致さるべしとの趣おもむきを申遣つかはしたるに此方こなたは越前守は公用人こうようにん次右衞門三五郎の紀州表へ出立しゆつたつせし其日より夜終よもすがら行衣ぎやういを着し新菰あらごもの上にて水垢離みづごりを取とり諸天しよてん善神ぜんしんに祈誓きせいを懸かけ用人無事に紀州表の取調とりしらべ行屆ゆきとゞき候樣丹誠たんせいを凝こらし晝は一間に閉籠とぢこもりて佛菩薩ぶつぼさつを祈念きねんし別しては紀州の豐川とよかは稻荷いなり大明神だいみやうじんを遙拜えうはいし晝夜の信心しんじん少すこしも餘念よねんなかりしに斯かゝる處へ伊豆守殿より使者ししやを受け口上の趣おもむきを聞き茫然ばうぜんと天を仰あふぎて歎息たんそくなし指屈ゆびをりて數かぞふればハヤ兩人出立しゆつたつなしてより今日は七日目なぬかめなり行路ゆくみち三日歸り路三日紀州表の調しらべ早はやくして三日なり然ば九日くにちならでは歸り難し然るを今宵こよひの中に御役御免を願ねがへば今宵こよひか明日は御親子御對顏ごたいがんあるに相違さうゐなし然すれば是迄盡つくせし千辛萬苦せんしんばんくも水の泡あわとなり諸天善神へ祈誓きせいを懸かけし甲斐もなく嗚呼あゝ是非ぜひもなし明朝みやうてう六ツの時計を相圖あひづに悴せがれ忠右衞門を刺殺さしころし我自ら含状ふくみじやうを致して切腹せつぷくなすべし然らば當年の内はよも御對顏ごたいがんは有まじく其内には紀州へ遣つかはせし兩人も調しらべ行屆て歸かへるべし斯かゝれば我われ果はてしとて後のち忠義の程顯あらはるべしと覺悟かくごを定め當年十一歳なる悴せがれ忠右衞門を呼出よびいだし委細ゐさいに言含いひふくめ又家中一同を呼出して今宵は通夜つやを致し明朝みやうてう六ツの時計を相圖あひづに予われは切腹せつぷく致すなりと申渡されけるに家中の面々大に驚おどろき今宵こよひこそは殿樣とのさまへの御暇乞おいとまごひなりとて不覺そゞろに涙を流ながし各々座敷へ相詰あひつめける越前守は家中一同を屹度きつと見て池田大助だいすけを側近そばちかく呼よびて申樣汝に遺言ゆゐごんする事あり明朝は忠右衞門も予と共に切腹せつぷく致せば予がなき跡あとは三日を待またず其方并ならびに次右衞門三五郎は當たう御役宅おやくたくへ奉公すべし必らず忠臣ちうしん二君に仕つかへずとの聖言せいげんを守るなよ此この三人は予が眼鏡めがねに止りし者なれば屹度きつと御役おやくに立者なり必ず〳〵此一言を忘わするゝな次右衞門三五郎等歸府きふなさば此遺言このゆゐごんを申し聞すべしと言又家中一同の者へ其方共予がなき跡あとは三日を待またず夫々それ〴〵へ奉公すべし兩刀りやうたうを帶たいする者は皆々天子てんしの家來なるぞ必ず忠臣二君に仕へずとの言葉ことばを用ゆるな浪人らうにんを致して居て越前の行末ゆくすゑかと後指うしろゆびを指さゝるゝな立派な出世致すべし斯かくてこそ予に對たいし忠義ちうぎなるぞと申聞られ一人々々ひとり〳〵に盃盞さかづきを下され夫より夜の明あくるを待まちける此時越前守の奧方おくがたには奧御用人を以て明朝君きみには御切腹ごせつぷく悴せがれ忠右衞門も自害致し死出しで三途さんづの露拂つゆはらひ仕つかまつるとの事武士の妻が御切腹ごせつぷくの事兼て覺悟かくごには御座候へども君に御別おんわかれ申其上愛子あいしに先立さきだたれ何を樂たのしみに此世に存命ながらへべきや何卒なにとぞ妾わたくしへも自害じがい仰付られ度と願はれければ越前守是を聞きゝ道理もつともの願なり許ゆるし遣はす座ざ隔へだたれば遲速ちそくあり親子三人一間ひとまに於て切腹せつぷくすべければ此所へ參れとの御言葉に用人は畏かしこまり此旨このむね奧方おくがたへ申上げれば奧方には早速さつそく白裝束しろしやうぞくに改あらためられ此方の一間へ來り給ひ涙なみだも溢こぼさず良人をつとの傍そばに座ざして三人時刻を待まつは風前ふうぜんの燈火ともしびの如く哀あはれ墓無はかなき有樣なり皆々は目を數瞬しばたゝき念佛ねんぶつを唱となへ夜の明るを怨うらみに長ながき夜も早晩いづしか更行ふけゆき早はや明あけ六ツに間も有じとて切腹の用意に掛かゝらるゝに明六ツの時計とけい鳴渡なりわたれば越前守は奧方おくがたに向ひ悴せがれ忠右衞門切腹致さば其方介錯かいしやく致せ其方自害じがいせば予が直ぢきに介錯かいしやくすべし予が切腹せば介錯かいしやくには大助致すべしと言付いひつけて又忠右衞門に向ひ最早もはや時刻じこくなるぞ後おくれを取なと言いはるゝに忠右衞門殊勝けなげにも然らば父上ちゝうへ御免を蒙かうむり御先へ切腹仕つり黄泉くわうせんの露拂つゆはらひ致さんと潔いさぎよくも短刀たんたうを兩手に持もち左の脇腹わきばらへ既に突立つきたてんとする折柄をりから廊下らうかをばた〳〵と馳來はせくる人音ひとおとに越前守悴せがれ暫しばしと押止おしとゞめ何者なるやと尋ぬれば紀州よりの先觸さきぶれと呼はりける越前守是を聞き先觸さきぶれを此こ處こへと申にぞ其儘そのまゝに差出せば急いそぎ封ふう押開おしひらき見みて是は三五郎の手跡しゆせきなり此文體ぶんていにては紀州表の調しらべ方行屆ゆきとゞきたりと相見え勇いさみたる文段なり然さりながら兩人の着ちやくは是非ぜひ晝過ひるすぎならん夫迄は猶豫いうよ成難なりがたし餘念ざんねんながら是非に及ばず悴せがれ忠右衞門後おくれを取な早々はや〴〵用意を致せと云いふ言葉ことばに隨て然ば御先へと又短刀たんたうを持直もちなほしあはや只今突立つきたてんとする時亦々廊下らうかに物音ものおと凄すさまじく聞えければ越前守何事やらん今暫いましばらくと忠右衞門を止めて待るゝに次右衞門三五郎の兩士亂髮らんぱつの上を白布しろぬのにて卷まき野服のふくの儘まゝにて刀かたなを杖つゑに越前守殿の前に駈來かけきたり立乍ら大音だいおん上あげ天一坊は贋者にせものにて山伏やまぶし感應院の弟子でし寶澤と云者いふものなり若君には寶永はうえい二酉年三月十五日御早世ごさうせいに相違なし委細ゐさいは是に候とて書留かきとめの控ひかへ差出し兩人は撥はつたと平伏へいふくなし私共天一坊贋者にせものの儀を早々申上御安堵ごあんどさせ奉つらんと一圖に存じ込こみ君臣の禮れいを失ひ候段恐入奉つり候依よつて兩人は是より差控仕さしひかへつかまつる可と座を退しりぞかんとするを越前守大音だいおん上あげ次右衞門三五郎暫しばし待まてと呼よび止れども兩士は強しひて退座たいざせんとするに兩人參らずんば越前守直に夫へ出向ぞと言に兩人は是非ぜひなく立戻たちもどり越前守が前まへに出て平伏へいふくす是時越前守には次右衞門三五郎の手を取とられ兩人の丹精たんせい忝かたじけなく思ふなり予よが家來けらいとは思はぬぞや迚とて夫より伊豆守殿より使者ししやに預あづかり捨置難すておきがたければ親子しんし三人覺悟かくごなし只今既に忠右衞門切腹せつぷくするの所ろ兩人の歸着きちやくこそ神佛しんぶつの加護かごとはいへ全たく誠忠せいちうの致す所なりと物語ものがたられ悴せがれ忠右衞門一代は兩人をば伯父々々をぢ〳〵と呼よぶべしと言ければ兩人は有難涙ありがたなみだに暮くれ厚あつく御禮おんれい申上召連し見知人甚左衞門善助は名主部屋へ入置休息きうそく致させける是に依て越前守には池田大助だいすけに命じ全快屆ぜんくわいとゞけの書面を認したゝめさせ公儀こうぎへこそは差出されける


第卅四回


 扨さても越前守には紀州より兩臣歸着きちやくにて逐一ちくいち穿鑿せんさく行屆たれば直樣すぐさま沐浴もくよくなし登城の觸出ふれだし有て御供揃ともそろひに及び御役宅おやくたくを出で松平伊豆守殿御役屋敷を指さして急いそがせられ既すでに伊豆守殿御屋敷おやしき御玄關おげんくわんへ懸て奉行ぶぎやう越前守伊豆守殿へ御ご内々ない〳〵御目通おめどほり致度と申入るに取次の者此趣このおもむきを申上ければ伊豆守殿不審ふしんに思はれ奉行越前は昨夜さくやの内に御役おやく御免を願ふ筈はずなるに今日全快屆ぜんくわいとゞけを出し予に内々逢あひたしとは何事ならんと早速さつそく對面たいめんありしに越前守申さるゝには少々せう〳〵御密談おんみつだん申上度儀候へば御人拂ひとはらひ願ひたしとの事故公用人こうようにん一人殘のこし餘は皆みな退しりぞけらる越前守は再ふたゝび公用人をも御退おしりぞけ下さるべしと言るゝに伊豆守殿顏色がんしよくを變かへ是れ越前其方は役柄やくがらをも相勤あひつとめ候へば斯程かほどの事は辨わきまへ居るべし老中らうぢうの公用人は目付代めつけかはりなり役屋敷やくやしきに於て密談みつだん致す事は元より御法度ごはつとなりと申さるゝを越前守ゑちぜんのかみ少しも臆おくせず左樣に候はゞ是非に及ばず天一坊儀に付つき少々せう〳〵御密談申上度存じ態々わざ〳〵推參すゐさん仕つり候御聞屆おきゝとゞけ無なきに於ては致し方なし然れば御暇おんいとま仕つらんと立懸たちかゝるに伊豆守殿天一坊の事と聞きゝて何事やらんと心懸こゝろがかりなれば言葉ことばを和やはらげられ越前天一坊儀と有あれば伊豆守も承うけたまはらねばならぬ事也なりとて頓やがて公用人をも退しりぞけられ今は全まつたく二人差向さしむかひに成れける此時このとき越前守申さるゝ樣は私わたくし先達てより天一坊の身分再吟味さいぎんみの役を蒙かうむり候處病氣びやうきに付御屆申上引籠ひきこもり罷在其内に家來を以て紀州表きしうおもてへ調方に遣つかはし候ひしが今朝漸やうやく歸府きふ仕つり逐一相糺あひたゞし候處當時八山に旅宿りよしゆく致し居天一坊といふは元もと九州浪人らうにん原田嘉傳次と申者の悴せがれにて幼名えうみやうを玉之助といひ幼年にて父母に別れ紀州きしう名草郡なぐさごほり平野村の山伏やまぶし感應院の弟子となり名を寶澤はうたくと改め十二歳の時お三婆さんばゞを縊殺しめころし御墨附短刀を奪うばひ取十三歳にして師匠ししやう感應院を毒殺どくさつし十四歳の時村中を僞いつはり諸國修行と號がうし平野村を立出其夜加田の浦にて盜賊たうぞくに殺されし體に拵こしらへ夫より同類どうるゐを語かたらひて將軍の落胤おとしだねなりと名乘なのり出候に相違有間敷候此度見知人も是有彼地かのちより兩人同道にて連參つれまゐり候なりと委敷くはしく申述けるに伊豆守殿斯かくと聞て仰天ぎやうてんし暫々言葉ことばも無りしが稍やゝ有て仰おほせけるは越前は能よくも心付たり定めて御褒美ごはうびとして五萬石は御加増ごかぞう有べし夫に引替ひきかへ此伊豆守は半知はんちと成て御役御免に相成可しと悄々しほ〳〵として言ければ越前守打點頭うちうなづき私し儀御加増ごかぞうを望のぞみ立身を心懸こゝろがけ候心底しんていには候はず左樣の存じ寄よりあらば何とて今日御役宅へ御密談おみつだんに參り可申や配下はいかの身として御重役ごぢうやくの不首尾ふしゆびを悦ぶ所謂いはれなし只今申上候御密談と申は外ほかの儀に候はず伊豆守殿には拙者せつしやより先へ御登城ごとじやうなされ將軍家へ天一坊儀は重役共ぢうやくどもより先達さきだつて身分みぶん相調あひしらべ候處全く將軍の御子樣おこさまに相違さうゐなく存じ奉つり此段言上ごんじやう仕り候へ共退しりぞいて能々よく〳〵勘考かんかう仕つり候へば不審ふしんの廉々かど〳〵も御座候故ゆゑ奉行越前心付し體ていに仕り内々吟味ぎんみ致させ候に天一坊儀は全く贋者にせものにて山伏感應院の弟子でし寶澤と申す賣僧まいすに御座候と仰上おほせあげられなば伊豆守殿の御落度にも相成まじ又私しよりも伊豆守殿の御心付おこゝろづきにて御内密仰含ごないみつおほせふくめられ候に依て内々にて吟味仕り候處贋者にせものに紛まぎれ御座なく候と言上ごんじやう仕り候らはゞ双方さうはうの言葉ことば符合ふがふ致すべしと云に伊豆守殿には聞きいて大に悦び給ひ然らば越前其方が申通り伊豆守より言上ごんじやう致すべし其方も相違さうゐなく左樣さやうに言上致され候や其節に及び双方さうはうの申立相違さうゐ致ては伊豆守が身分みぶんにも相懸あひかゝり候儀なれば能々よく〳〵承知しようち有たし只今の口上に異變いへんなきやと再應仰おほせらるゝにぞ越前守顏かほを正たゞし私しより申上候儀なれば毛頭もうとう相違は御座なく候と答こたへらるゝに然らば越前同道どうだうにて登城とじやう可致と御供觸おともぶれを出され御同道にて御登城ごとじやうに及ばれ伊豆守殿には御用御取次を召て仰おほせけるは伊豆守越前守倶ともに言上ごんじやうの儀有之候に付御目見得下めみえくだし置れ候樣御取次有あるべしとの事なれば御用御取次は此段早速さつそく言上に及ばれける將軍家にも奉行越前病氣全快びやうきぜんくわいと聞し召れ御悦氣ごえつきにて早速さつそく召出され御目見仰付おほせつけらる此時伊豆守殿には天一坊儀上樣うへさまの御落胤ごらくいんに相違なしと存じ奉つり先達さきだつて此段上聞に達たつし候へ共退しりぞきて倩々つら〳〵考かんがへ候へば聊いさゝか不審ふしんの事も御座候故御證據しようこは慥たしかの御品ながら當人は若もし紛まぎらはしき者にやと心付候へ共重役ぢうやく共一同申上候儀を變じ候も如何と存じ奉つり越前へ内意ないい仕つり同人心付候由よしにて吟味ぎんみ致させ申候處果はたして天一坊儀は贋者に相違さうゐ御座なく候と委敷くはしく言上に及ばれければ將軍には能々よく〳〵聞し召れ越前守に向むかはせ給ひ予は全く越前が心付しと存ぜしが實じつは伊豆が心付て内意ないい有たるに相違なきや越前如何いかゞぢやとの上意に越前守發と平伏へいふくなし只今伊豆守より言上ごんじやう仕り候通り毛頭もうとう相違御座なく候委細ゐさいは此書面に認したゝめしとて書付を出さるれば御用ごよう御取次是を受取將軍家へ差上さしあぐる御直ぢきに御覽ごらんあるに當時天一坊と名乘候者は元もと九州浪人らうにん原田嘉傳次かでんじの悴にて幼名えうみやう玉之助と呼よび幼年にて兩親に別れ平野村の山伏やまぶし感應院の弟子となり寶澤はうたくと改名かいめいし十二歳にしてお三婆を縊殺しめころし御墨附御短刀を奪うばひ取十三歳にて師匠を毒殺どくさつし十四歳の春はる紀州加田の浦にて盜賊たうぞくに殺されし體ていに取拵こしらへ夫より所々を徘徊はいくわいなし同類を語かたらひ此度將軍家の御落胤おとしだねと名乘なのり出候に相違御座無なく確しかと記し有を御覽遊ごらんあそばし殊の外ほか御顏色ごがんしよく變かはらせ給ひ憎にくき坊主ばうずめが擧動ふるまひなり仕置しおきの儀は越前が心に任まかすべし此段兩人りやうにん同道にて水戸家みとけへ參り左樣に申べしとの上意じやういに直樣すぐさま伊豆守殿越前守同道にて小石川の御館おやかたさして急行いそぎゆきける小石川にては綱條卿つなえだきやう今朝奉行越前病氣全快屆ぜんくわいとゞけを出せし由定さだめて屋形へも越前參るべしと思召遠見とほみを出すべしとの御意ぎよいにて則ち遠見の者を出いだされけるに此者下馬先げばさきにて越前守伊豆守殿と同道どうだうにて小石川御屋形の方を指さして來るを見るより急ぎ馳歸はせかへりて只今松平伊豆守殿大岡おほをか越前守御同道にて御館おやかたを指て參まゐられ候なりと申上るに中納言ちうなごん綱條卿斯と御聞とり遊あそばし伊豆守同道とは何事ならんと御待まち有けるに間まもなく兩人御館へ參られ伊豆守越前守同道參上さんじやう仕つかまつり御目見を願ねがひ奉たてまつると取次を以て申上るに中納言綱條卿つなえだきやうは如何思召おぼしめしけん伊豆守は控ひかへさせよ越前守ばかり書院へ通せとの御意にて越前守を御廣おんひろ書院へ通し伊豆守殿をば使者ししやの間へ控ひかへさせられたり間もなく綱條卿には御廣おんひろ書院へ入らせられ越前守に御目見おんめみえ仰付らる此時越前守少すこしく頭かしらを上申上らるゝ樣は先達さきだつて私し心付候由にて天一坊身分みぶん再吟味さいぎんみの儀願ひ奉つり則すなはち御免を蒙かうむり候へ共是は私しの心付には御座なく全く伊豆守いづのかみ心付なり然共されども先達て將軍の御落胤おとしだねに相違なしと上聞じやうぶんに達し其後の心付なりとて一旦いつたん重役ぢうやく共申出し儀を相違仕つかまつり候ては御役儀も輕かろく相成あひなり候故私しの内意仕つり候に付私再吟味御免を蒙かうむり其後病氣と披露ひろう仕つり引籠ひきこもり中ちう家來けらいを以て紀州表相調あひしらべ候に天一坊儀は贋者にせものに相違是なく委細ゐさいは此書面に御座ござ候と差上らるゝに綱條卿是を御手おてに取とらせ玉ひ御覽ごらん有るに全くの若君わかぎみには寶永三酉年三月十五日御誕生ごたんじやうにて直すぐ御早世ごさうせい澤の井も其明方あけがたに同じく相果あひはて平澤村光照寺へ葬はうむり右法名ほふみやう共に寫うつし有て且天一坊は原田嘉傳次が子にして幼名えうみやうを玉之助といひ七歳にて兩親に捨すてられ山伏やまぶし感應院の弟子となり十二歳の時お三婆を縊殺しめころし十三歳の冬ふゆ師匠感應院を毒殺どくさつし十四歳の年とし諸國修行と僞いつはり加田の浦にて盜賊に殺ころされたる體ていにし夫より諸國を經廻へめぐり同類どうるゐを語らひ今般こんぱん將軍の御落胤おんおとしだねなりと名乘出候に相違さうゐ御座なく候と認したゝめたれば扨々憎にくき惡僧あくそうなり如何に越前此調このしらべは伊豆守の内意ないいを受て紀州表を吟味ぎんみ致したりと申せ共ども全くは左樣には非あらざるべし其方が心付しに相違さうゐ有あるまいな其方重役ぢうやくの身を思ひ功こうを他に讓ゆづる心なるべし予が眼力がんりきによも相違は有るまじと再さい三仰おほせらるゝに越前守恐おそれながら言葉ことばを返へし奉つるに似に候へ共私存じ仕候樣に申上しは僞言いつはりにて實は伊豆守よりの内意ないいを受候に相違御座なく候と申上げるに綱條卿つなえだきやうの御意に越前予よに對たいして詞ことばを返へし候段は忘わすれて遣すとの御意ぎよいなりしか


第卅五回


 此時中納言ちうなごん綱條卿の御意には伊豆守を是へ呼出よびいだすべしとの事なれば伊豆守殿には案内あんないに連つれて恐々出來り平伏ある中納言綱條卿には芝しば八山やつやまに旅宿りよしゆく致居る天一坊の身分調方しらべかた伊豆其方が心付にて内意ないい致し奉行越前が心附し體ていに計はからひ再吟味を願ひ紀州表を相調あひしらべ穿鑿せんさく方行屆候由只今越前より左樣さやうに申せしが伊豆が内意ないい致せしに相違なきやとの御意ぎよいなれば伊豆守殿には恐入おそれいり越前より言上仕り候通とほり相違さうゐ御座なく候と申上げれば綱條卿には伊豆守は能よき配下はいかを持もちて仕合しあはせ者なりとの仰おほせに伊豆守殿は胸中きようちうを見透みすかされ針はりの莚むしろに坐する如く冷汗ひやあせ流ながして控ひかへらる此時綱條卿には越前天一坊の仕置しおきの儀は其方が勝手に致べし予よが免ゆるすぞ越前は小身者せうしんものなれば天一坊召捕方めしとりかたの手當等はむづかしからん伊豆其方そのはうより萬端ばんたん助力じよりよく致いたし遣つかはし早々其用意よういを致べしとて御暇いとまを下し置かる是に依て伊豆守殿には發ほつと息いきを吐つき漸く蘇生そせいしたる心地して退出たいしゆつなし役宅やくたくへこそ歸られける扨さて越前守は跡あとへ殘のこり御懇意こんいの御言葉ことばを蒙り御暇いとまを給はり面目めんぼくを施して勇進いさみすゝんで御役宅やくたくへ歸り早速さつそく公用人二人を呼出よびいだし次右衞門に言付いひつけけるは其方是より芝八山へ參り明あくる巳みの刻こく越前役宅へ天一坊參候樣申聞べし必ず悟さとられるなと心付られ又三五郎を呼よびて其方は天一坊召捕方めしとりかた手配てくばりを致べしと仰付られ池田大助には天一坊召取方めしとりかたを申付らる是に依よつて三五郎は以前の如く江戸出口十三ヶ所へ人數にんずを配くばり先まづ品川新宿板橋千住の大出口おほでぐち四ヶ所へは人數千人宛づつ固かためさせ其外九ヶ所の出口でぐちへは人數五百人宛づつを守らせ沖おきの方は船手ふなてへ申付深川新地しんちより品川沖おき迄御船手ふなてにて取切御備そなへの御船は沖中おきなかへ押出し其外鯨船げいせん數艘すそうを用意し嚴重げんぢうに社こそ備そなへける然ば次右衞門は桐棒きりぼうの駕籠かごに打乘若徒わかたう兩人長柄ながえ草履ざうり取を召連めしつれ數寄屋橋御門内御役宅やくたくを出芝八山を指さして急ぎ行ゆきしが道々思案しあんするには先達て赤川大膳を名指なざしにせしが此度も又大膳だいぜんに對面たいめんなさんか否々いや〳〵若し山内伊賀亮が側わきより聞て悟さとらば一大事なり然さらば此度は伊賀亮を名指なざしにて渠かれに對面して欺あざむき課おほせん者をと工夫くふうを凝こらし頓やがて八山の旅館りよくわんに到り案内を乞こふに中村市之丞取次とりつぎとして出來れば次右衞門申やう町奉行まちぶぎやう大岡越前守使者ししや平石次右衞門天一坊樣御重役ぢうやく山内伊賀亮樣に御目通めどほり致し申上度儀御座候此段御取次下さるべしと有に市之丞此旨このむね伊賀亮へ申通つうじけるに伊賀亮熟々つら〳〵思案しあんするに奉行越前病氣びやうきと披露ひろうし自分に紀州表へ調しらべに參りしに相違さうゐなし然ば往ゆき三日半歸り三日半調しらべに三日懸かゝるべし越前病氣引籠びやうきひきこもりより今日は丁度ちやうど八日目なり十日過すぎての使者なれば彌々いよ〳〵役宅へ呼寄よびよせて召捕めしとる工風くふうなるべけれど四五日早く使者ししやの來る處を見れば謀事はかりごと成就じやうじゆせしと相見えたり迚とて次右衞門を使者の間へ通し頓やがて伊賀亮對面たいめんに及びたる此時このとき次右衞門申けるは越前先日せんじつ以來病氣に候處少すこしく快こゝろよき方かたにて御座候故今日押おして出勤致し候一體たい越前守參り以て申上べきの處なれど未だ聢しかと全快ぜんくわいも仕つらず候故私しを以て此段申上奉り候明日は吉日に付御親子しんし御對顏たいがんの御規式ぎしきを御取計ひ仕り候尤もつとも重役ぢうやく伊豆守越前役宅迄まで參られ天一坊樣へ御元服げんぷくを奉り夫より御登城とじやうの御案内には伊豆守は勿論もちろん西の御丸へ直なほらせられ候節は酒井左衞門尉さゑもんのじようより御鎗やり一筋獻上けんじやう仕つかまつり候事吉例きちれいに候へ共左衞門尉は在國ざいこく出羽鶴が岡に罷まかり在候に付名代みやうだいとして伊豆守より猿毛さるげの御鎗やり一筋すぢ獻上仕り候上樣よりは御祝儀しうぎとして御先箱さきばこ一ツ御打物うちもの一ト振ふり右は雨天に候節は御紋ごもん唐草からくさの蒔繪まきゑの柄え晴天せいてんに候へば青貝柄あをかひえの打物に候大手迄は御譜代ふだい在江戸の大名方出迎でむかへ御中尺迄ちうしやくまでは尾州紀州水戸の御三方さんかたの御出迎でむかひにて御玄關げんくわんより御通り遊ばし御白書院おんしろしよゐんに於て公方樣くばうさま御對顏たいがん夫より御黒書院くろしよゐんに於て御臺みだい樣御對顏再ふたゝび西湖せいこの間に於て御三方樣御盃さかづき事あり夫より西の丸へ入せられ候御事にて御高たかの儀は吉例きちれい四國なれば上野國かうづけのくににて廿萬石下總國にて十萬石甲斐三河で廿萬石都合つがふ五十萬石上野國佐位郡さゐのこほり厩橋うまやばしの城主格じやうしゆかくに御座候と辯舌べんぜつ爽さわやかに申述猶なほ申殘しの儀は明日成せられ候節せつ越前直々ぢき〳〵に言上仕つり候と申演のべ終をはれば伊賀亮是を聞て扨さては事成就じやうじゆせりと心中に悦びける是餘人成ば城中じやうちうの事委くはしくは知ざれば疑うたがはしく思おもふべけれ共伊賀亮は城中の事を能よく心得居る故今次右衞門のいふ處一々理りに當れば偵さすがの伊賀亮も心を弛ゆるし此計略このけいりやくには乘のせられたるなり扨さて伊賀亮は奧へ來り皆々みな〳〵に此趣このおもむきを申聞せ伊賀亮所持しよぢの金作きんづくりの刀かたなを持出て次右衞門に向ひ越前守より申越こされし段上樣へ申上候處御滿足まんぞくに思召おぼしめし明日巳みの刻に越前役宅へ參るべしとの上意じやういなり是は余が所持しよぢの品如何敷いかゞはしく候へども其方へ遣つかはすとて一刀かたなを差出せば次右衞門は此刀このかたなを申請厚あつく禮を述のべ暇いとまを告て門前迄出いで先々まづ〳〵仕濟しすましたりと發ほつと一息いき吐ついて飛が如くに役宅へ歸り此趣このおもむきを越前守へ申上彌々いよ〳〵召捕めしとる手筈てはずをなしにける斯て八山には皆々みな〳〵打寄うちより實に明日こそ御親子御對顏たいがんに相成に付最早もはや事こと成就じやうじゆせりと次右衞門が計略けいりやくに乘りしとは知しらず大いに悦び斯樣かやうなる悦しき事は一夜を待明まちあかすなりとて伊賀亮が計はからひとして金春太夫こんぱるだいふ觀世太夫くわんぜだいふを呼で能舞臺のうぶたいに於て御悦びの御能のうを催もよほしける然るに其夜亥いの刻こくとも覺敷頃おぼしきころ風かぜもなくして燭臺しよくだいの燈火ともしびふツと消きえければ伊賀亮不審ふしんに思ひ天文臺てんもんだいへ登のぼりて四邊あたりを見渡みわたすに總て海邊かいへんは數百艘そうの船にて取圍とりかこみ篝かゞりを焚たき品川灣を初め江戸の出口でぐち十三ヶ所へ人數にんずを配くばり固かためたる有樣ありさまなれば伊賀亮驚き最早もはや事露顯ろけんせしと見たり今は是非に及ばず名も無者なきものに召捕めしとらるゝは末代まつだい迄の恥辱ちじよくなり名奉行と呼るゝ越前守が手に掛らば本望ほんまうなり大坂御城代ごじやうだい京都諸司代御老中迄も欺あざむきし上は思殘す事更になしと自分じぶんの部屋へ來りて鏡かゞみを取出し見れば最早もはや顏かほに劔難けんなんの相さう顯あらはれたれば然ば明日は病氣と僞いつはり供を除き捕手とりての向はぬ内に切腹せつぷくすべしと覺悟かくごを極め大膳の許もとへ使つかひを立伊賀亮事俄にはかに癪氣しやくき差起さしおこり明日の所全快ぜんくわい覺束おぼつかなく候間萬端ばんたん宜敷御頼み申也と云送おくり部屋へやへ引籠ひきこもり居たりける扨さて其夜も明あけ辰たつの上刻じやうこくと成ば天一坊には八山を立出で行列ぎやうれつ以前よりも華美くわびに粧よそほひて藤井左京赤川大膳だいぜん供頭ともがしらとなりて來る程に途中とちうの横町々々は大戸を〆切町内々々ちやうない〳〵の自身番屋じしんばんやには鳶とびの者共火事裝束しやうぞくにて詰つめ家主抔いへぬしなども替かはり〴〵相詰たり數寄屋橋御見附みつけへ這入はいれば常よりも人數夥多おびたゞしく天一坊の供殘のこらず繰込くりこむを待て御門を礑はたと〆切たり越前守御役宅おんやくたくへ到れば大門を開き敷臺迄しきだいまで駕籠かごを横着よこづけになし平石次右衞門池田大助下座敷げざしきに平伏へいふくす時に越前守には繼つぎ上下にて敷臺迄出迎いでむかへ上段の間へ案内あんないし是にて暫く御休息遊ごきうそくあそばすべし其内には伊豆守參上仕つるべし迚とて退しりぞかる簾みすの前には常樂院赤川大膳藤井左京諏訪右門すはうもん各々威儀ゐぎを正して居竝ゐならびたり越前守は見知人みしりにんの甚左衞門善助を御近習きんじふに仕立したて寶澤に相違なくは余よが袂たもとを引べし夫を相圖に召捕べしと申渡し彼紀州より持もち來りし笈摺おひずるには紀州名草郡平野村感應院かんおうゐんの弟子寶澤十四歳と記し所々血汐ちしほに染そめし品々を壁かべに懸置かけおき最早手筈は宜と越前守簾みすの間へ來りて控居ひかへゐる然る所へ伊豆守殿の使者ししや來り申述けるは今日伊豆守當御役宅たうおやくたくへ參りて元服げんぷく奉るべきの所今日佐竹左京太夫さきやうたいふ殿江戸着にて伊豆守上使じやうしに參り今日は御規式おぎしきの御間に合兼あひかね候由何共恐おそれ入奉り候へ共明日巳の刻に越前役宅やくたくへ入せられ候樣願上奉ると有ければ越前守には大膳に向むかひ只今たゞいま御聞おんきゝの通り伊豆守方より斯樣に申參り候へば迚とても今日の儀ぎには參り申さず恐おそれながら明日又々入いらせられ候樣願ひ奉ると申に大膳も此趣このおもむきを天一坊へ申傳へるに伊豆守役儀と有ば是非に及ばず又明日參るべしとの事にて頓やがて歸館々々きくわん〳〵と觸出ふれだしければ天一坊は上段じやうだんの間より靜々しづ〳〵と下り立ちけるに引續いて常樂院大膳左京右門の輩ともがら玄關げんくわん指さして歩行あゆみけり


第卅六回


 天一坊初め一味の輩ともがら町奉行御役宅の玄關げんくわん指さして出いでけるに豫て越前守が見知人として近習きんじゆに仕立召連つれし彼甚左衞門善助は此時ぞと天一坊を能々よく〳〵見みれば紛まぎれもなき寶澤なれば越前守に目配めくばせなし密ひそかに袂たもとを引たりける此時は天一坊は既に玄關迄來りしが向の壁かべに懸し笈摺おひずりを見て偵さすが大膽不敵の天一坊なれど慄然ぞつと身の毛よだち思はず二足三足跡へ退しりぞくを見て取越前守大音に寶澤待と聲を懸けければ此方は彌々いよ〳〵愕然びつくりし急に顏色がんしよく蒼醒あをざめ後の方を振返るに夫それ召捕めしとれと云間も有ず數十人の捕手襖ふすまの影かげより走り出難なん無なく高手たかて小手に繩なはをば懸たりける斯かくと視みるより大膳は事こと顯あらはれしと思ければ刀引拔勢ひ猛たけく縱横たてよこ十文字に切て廻り切死せんと働はたらくを大勢にて取籠とりこめつゝ階子はしごを以て取押とりおさへ漸く繩をぞ懸たりける此間このまに常樂院藤井左京諏訪右門等各々召捕れ其餘一人も殘ず召捕たり越前守は豫て手配てくばりせし事なれば急ぎ八山へ捕方とりかたを遣はせしに山内伊賀亮は早くも覺悟かくごし自分の部屋へやへ火を懸て燒立やきたて其中にて切腹し果たれば死骸は更に分わからずとなん惡徒とは云へ天晴あつぱれの器量人と稱すべし斯て越前守には御目附野山のやま市いち十郎松田勘解由まつだかげゆ等立合にて一同呼出し先天一坊を吟味ぎんみに及ばれけるが只々伊賀亮いがのすけ萬事を取計ひしゆゑ委細いさいは存じ申さずと云に然らばとて常樂院其餘の者を吟味ぎんみするに是も同斷の答へゆゑ入牢の上嚴重に拷問がうもんを懸られたれば終に殘らず白状に及びける是に依て伺うかゞひ相濟あひすみ享保十一丙午ひのえうま年の十一月廿一日町奉行所に於て大岡越前守御勘定奉行駒木根肥後守筧播磨守かけひはりまのかみ野山市十郎松田勘解由立合にて大岡越前守左の通り申渡されける

元長州浪人原田嘉傳次悴
玉之助
當山派修驗感應院弟子
となり其後改寶澤當時
獄門           天一坊

其方儀そのはうぎ感應院かんおうゐんの師恩しおんを辨わきまへず西國修行に罷り出度由申立欺あざむきて諸國を遍歴へんれきし徒黨とたうを集め百姓町人より金銀を掠取かすめとり衣食住いしよくぢうに侈奢ししやをなしたる段だん上かみを恐ざる致方いたしかた重々ぢう〳〵不屆至極に付獄門申付る

天一坊家來
死罪           赤川大膳

右みぎ大膳儀だいぜんぎ先年神奈川かながは旅籠屋はたごや徳とく右衞門方に於て旅人を殺害し金子を奪取うばひとり其後天一坊に一味み致謀計ぼうけい虚言きよげんを以て百姓町人を欺あざむき金銀を掠取かすめとり衣食住に侈奢おごり身の程をも辨わきまへず上かみを蔑ないがしろに致たる段だん重々不屆に付死罪申付る

天一坊家來
死罪           藤井左京

其方儀そのはうぎ天一坊へ一味いちみ致し謀計ぼうけい虚言きよげんを以て百姓町人を欺あざむき金銀を掠取り衣食住に侈奢おごり身の程をも辨わきまへず上を蔑ないがしろに致たる段重々不屆に付死罪申付る

美濃國各務郡谷汲郷
長洞村日蓮宗
遠島           常樂院天忠

其方儀そのはうぎ天一坊身分みぶん聢しかと相糺あひたゞさず百姓町人を欺き金銀を掠取かすめとり候段上かみを蔑ないがしろに致し重々不屆に付つき遠島ゑんたう申付る(八丈島)

芝田町
重追放          山伏南藏院

其方儀天一坊身分聢しかと存ぜずとは申ながら常樂院に頼たのまれ假かり住居の世話申候段不埓ふらちに付重追放申付る

品川宿地面賣主
過料五貫文        儀右衞門

其方儀天一坊身分聢しかと相糺あひたゞさず地面ぢめん賣遣うりつかはし候段不埓に付過料くわれう五貫文申付る

品川宿名主
身分取上         茂太夫

其方儀天一坊身分聢しかと相糺さず萬事ばんじ華麗くわれいの體ていたらく有しを如何いかゞ相心得居申候や訴うつたへもせず役儀やくぎをも勤つとめながら心付ざる段不屆に付退役申付る

天一坊家來
本多源右衞門
南部權兵衞
遠藤森右衞門
中追放          藤代要人
諏訪右門
浮木立平
高間左膳

右みぎ七人にんの者共ものども天一坊身分みぶん聢しかと相糺あひたゞさず主從しうじうの盟約めいやくを致し候段だん不屆ふとゞきの致し方かたに付中追放申付る

天一坊家來
高間權内
石黒善太夫
輕追放          福島彌右衞門
矢島主計

右みぎ四人の者同斷に付輕追放けいつゐはう申付る

天一坊家來
木下新助
澤邊十藏
松倉長右衞門
高岡玄純
門前拂          上國三九郎
近松源八
相良傳九郎
森川玄蕃

右みぎ八人の者共同斷どうだんに付門前拂もんぜんばらひ申付る

天一坊家來
作右衞門
權助
石平
傳藏
專藏
無構           八助
半五郎
六左衞門
源七
八内

右みぎ十人の者共は請人うけにんへ引渡ひきわたし可申事

時に享保十一丙午ひのえうま年十一月廿一日右の通り裁許さいきよ相濟あひすみ其外金子差出候者共は呼出しの上夫々相當の過料くわれう申付らる斯かくて天一坊一件けん善惡ぜんあく邪正じやせい明白に決斷けつだん相濟み落着らくちやくとなりければ此段このだん上聽じやうちやうに達たつしける將軍家の上意に若もし越前ゑちぜん無ば彼惡僧に誑たばかられん者と深く御稱美ごしようび有て三州額田郡ぬかたごほり西大平にしおほひらに於て一萬石加増仰付られ越前守是迄の心勞しんらう一方ならざりしも其甲斐そのかひありて愁眉しうびを開ひらかれける扨さて又平石ひらいし次右衞門吉田三五郎の兩人より越前守へ言上いひあげ彼若君かのわかぎみ澤の井の死骸しがいを葬はうむりし光照寺へ永代佛供料えいたいぶつくれうとして十八石の御朱印ごしゆいんを下し置れける是偏ひとへに住持ぢうぢ祐然いうねんが發明はつめい頓才とんさいの一言に依て末代まつだい寺號じがうを輝かゞやかせり且又見知人として出府せし甚左衞門善助の兩人へは越前守より目録もくろく其外の品々を賜たまはり目出度歸國きこく致ける然ば曲まがれる者は折易をれやすく直すぐなる者は伸易のびやすしとか山内伊賀亮程の器量きりやうある者も惡事に組し末代の今に到る迄まで其汚名をめいを殘のこしけるが越前守には明智を以て斯かゝる惡事を見顯みあらはし忠功を立たて後世迄も美名びめいを海内かいだいに輝かゞやかし子孫の繁榮はんえいを遺のこすは最いと有難ありがたき事共なり


天一坊一件終

白子屋阿熊一件

白子屋阿熊しろこやおくま一件いつけん


第一回


 賢けんにして財たから多おほければ則ち其志そのこゝろざしを損そんじ愚ぐにして財たから多おほければ則ち其過そのあやまちを益ます且かつ夫それ富貴ふうきは衆しうの怨うらみなりと此言や宜むべなるかな享保の頃ころ麹町二丁目に加賀屋かがや四郎右衞門とて間口まぐち十八間餘けんよ番頭ばんとう手代てだい丁稚でつち五十餘人其外下女下男二十人夫婦に子供こども都合つがふ七十人餘の暮くらしにして地面四五ヶ所を持もち呉服物ごふくものを商あきなひ日々ひゞ繁昌はんじやうなすに近頃ちかごろ其向そのむかうへ見世開みせびらきをなして小切こぎれ太物ふとものを鬻ひさぐ駿河屋するがや三郎兵衞と云者ありしが此方こなたは新規しんきの小見世こみせと云いひ向むかふは所に久しき大店なれば客足きやくあしも自然おのづから向むかふへのみ行勝ゆきがちなれども加賀屋よりも折をりにふれては代呂物しろものの融通等ゆうづうとうもなし出入邸でいりやしきの商あきなひをして取續とりつゞき居ゐたれども或年あるとし三月節句せつく前金二十兩不足にて勘定かんぢやう立たゝざれば是非なく向ふの加賀屋へ到いたり亭主ていしゆに逢あひて此節句前二十兩不足ゆゑ問屋とひやの拂はらひ行屆ゆきとゞかざるに付何卒節句過まで金子借用致し度たき旨むね只管ひたすら頼たのみければ此四郎右衞門は情有者なさけあるものにて夫は嘸さぞ御難儀ごなんぎならん向前むかうまへと云いひ類商賣るゐしやうばいの事なれば此度に限らず御都合次第何時にても御遠慮なく仰越れよと快こゝろよく貸かしければ三郎兵衞大いに悦よろこび書付かきつけを入れんと云に四郎右衞門書付には及び申さず御同商賣の事故互たがひに融通ゆうづうは致す筈はずなりと眞實面に顯れければ三郎兵衞は誠まことに忝かたじけなしと厚く禮を述て歸らんとするを四郎右衞門先々まづ〳〵と引止ひきとめ下女に云付酒さけ肴さかなを出し懇切ねんごろに饗應もてなして三郎兵衞を歸しけり其後三月十日に三郎兵衞二十兩加賀屋へ持參ぢさんし先達せんだつての禮を述て返濟なし其節も馳走に成しが其後五月節句せつく前まへ又三十兩不足に付借用致し度と云ければ四郎右衞門は以前の如く快こゝろよく貸かせしを夫も五月十日に返濟なし七月盆前ぼんぜんに五十兩借是又同廿日に返し九月節句前にも八十兩借同月晦日みそかに返濟せしが扨さて今度は十二月となり年の暮くれなれば誰も金を貸かさぬ時分なるに此四郎右衞門は如何にも眞實者しんじつものなれば困こまると聞て利も取らず極月ごくげつ金百兩貸かしたり斯の如く鰻登うなぎのぼりに借る事三郎兵衞素もとより心に一物あれば此百兩の金を十二月大晦日おほつごもりに持行けるが四郎右衞門其日は殊の外勘定に取込居とりこみをり三郎兵衞の來りても碌々ろく〳〵挨拶あいさつもせず帳合ちやうあひを爲居なしゐたりし所へ三郎兵衞右の金百兩を返濟しければ其儘そのまゝ硯筥すゞりばこの上に置て下女に申付酒さけ肴さかなを出させ三郎兵衞を饗應もてなしながら猶帳合をなし居ける中うち邸方やしきがたより六むづヶ敷しき拂はらひ殘りの掛合かけあひなどありて四郎右衞門も忙敷いそがしく居ゐたり立たりせし紛まぎれに三郎兵衞は掛硯筥かけすゞりばこの上に置たる彼の百兩を竊そつと取て懷中へ入たるを誰も知る者なかりしが其後三郎兵衞は姑しばらく話はなしをなして歸りける跡あとにて四郎右衞門彼の百兩を仕廻しまはんとするに見えざれば萬一もし忙敷いそがしき紛まぎれ外の金子の中へ這入りはせぬかと種々尋ぬると雖も一向知れず大晦日おほみそかの事ゆゑ邸方やしきがたより二百兩三百兩づつ度々來るに付入帳には付けたれども百兩不足に受取しや合點がてん行ゆかずと種々考ふれども帳合合あはず然るを下女の中にて三郎兵衞を少し疑うたがふ者ありしが夫は證據なき事とて是非なく今年ことしの厄落やくおとしと斷念あきらめ帳面を〆切しめきりしが是を不幸けちの始として只一人の娘に聟むこを撰えらみ跡あとをも繼つがせんと思居たりしに其年五月大病にて死亡みまかりしにぞ其力落しより間もなく妻も病死なし僅か一年の中に妻子に別れ夫より手代なども引負して掛先の損たふれ多く斯程の身代も一瞬しゆんの間に不手廻になり四郎右衞門も大病を煩わづらひ漸く全快はなしたれども足腰あしこし弱よわり歩行事あゆむこと叶かなはず日々身代に苦勞なすと雖種々しゆ〴〵物入ものいり嵩かさみ五年程に地面も賣拂うりはらひ是非なく身上を仕舞まひて今は麹町加賀屋茂兵衞と云る者の方に掛人かゝりびとにぞなりたりける此茂兵衞と云は四郎右衞門に數年すねん勤つとめし者なりしが資本金もとできんを與へ暖簾のれんを分わけ加賀屋茂兵衞とて同六丁目にて小切類こぎれるゐを商あきなひ居ると雖も元來もとより細ほそき身代なれば漸々其日を送るのみ四郎右衞門は此中へ掛り人となる程なれば其零落そのれいらく思ひ遣られしなり然るに駿河屋するがや三郎兵衞は彼の百兩を取てより其金を資本もとでとして是より見世の者へ云付代物しろものに色を付景物けいぶつに手拭てぬぐひ等を添て商あきなひ或は金一分以上の買人かひてには袖口そでくちか半襟はんえりなどを負まけて賣うりければ是より人の思ひ付よく追々おひ〳〵繁昌はんじやうなすに隨ひ見世をも廣げ手代てだい丁稚でつちも大勢おほぜい抱かゝへ今は一廉かどの身代となり向ふの加賀屋衰おとろへるに引變ひきかへ彌々いよ〳〵繁昌なしけるが加賀屋四郎右衞門は茂兵衞方へ引取とられし後ご其身そのみ病勝やまひがちの上うへ老衰らうすゐして漸々近所を歩行あるく位くらゐなれば四郎右衞門倩々つく〴〵考かんがふるに斯かく爲事なすこともなく茂兵衞方に居れども渠かれも貧窮ひんきうの身ゆゑ何卒なにとぞ少しにても茂兵衞の資本もとでを助け遣り度たくと或時駿河屋三郎兵衞方へ到り御亭主ごていしゆへ御目に懸かゝり度たしと云を番頭は四郎右衞門が見苦敷みぐるしき姿すがたを見て古いにしへを思へば氣の毒どくに心得奧へ通しけるに三郎兵衞は若い者を大いに叱しかり四郎右衞門來たらば留守るすと云て歸せと申に若い者お宿やどに居らるゝ旨申せしかば今更然樣には申されずと云故三郎兵衞不承々々ふしよう〴〵に面會なし何用有て來られしやと申ければ四郎右衞門段々だん〳〵との不仕合ふしあはせを物語ものがたり昔むかし其許そのもとに金子を用立し事も有により昔を忘れ給はずは斯の如く難儀せし間少しの合力がふりよくに預あづかり度たくと詞ことばを卑ひくふして頼けるに三郎兵衞は碌々ろく〳〵耳にも入ず合力は一向なり申さず勿論もちろん昔むかしは借用致したれども夫は殘らず返濟したり然さすれば何も申分有べからずとの返答に四郎右衞門成程なるほど其金は受取たれども仕舞しまひの百兩は大晦日おほみそかの事にて帳ちやうへは付ながら金は見え申さず不思議の事と思へども最早もはや夫それは昔むかしの事我等が厄落やくおとしと存じ思切て濟すましたり夫を申立るには非ず當時茂兵衞が身代惡あしく我等へ扶助ふぢよも難儀の樣子なり其上斯かく病身に相成手助てだすけもなし難がたきにより切せめて聊いさゝかなりとも資本もとでを助たすけ度存ずるに付昔し貸かしたる利分と思ひ少々の金を貸給かしたまへと云けれども三郎兵衞更に承知せず外の話に紛まぎらして取合ざれば四郎右衞門も大いに腹はらを立たて此これほど事を譯わけて頼むに恩を知ぬ人非人なりと罵のゝしりけるに三郎兵衞大いに怒り人非人とは不禮ぶれい千萬と云樣いひざま銀煙管ぎんぎせるを以て四郎右衞門の頭かしらを打うちければ額ひたひより血ち流ながれけるに四郎右衞門今は堪忍かんにん成難なりがたしと思へども其身病勞やみつかれて居るゆゑ何共なにとも詮方せんかたなく無念を堪へ寥々すご〳〵とこそ歸りけれ


第二回


 其後そののち又また湯屋ゆやにて出會であひし時とき三郎兵衞は四郎右衞門を捕とらへ此乞食このこじきめと人中ひとなかにて散々さん〴〵罵のゝしり恥はづかしめければ今は四郎右衞門も腹はらに居すゑ兼かね大いに憤いきどほりけれどもとても腕うでづくにては叶かなひ難がたしと思ひ其日も堪こらへて歸りしが不圖ふと心付こゝろづき我わが日來ひごろ信心しんじんなす金毘羅こんぴらへ祈誓きせいを寵こめ呪のろひ呉くれんと三郎兵衞の人形ひとがたを拵こしらへ是へ釘くぎを打うつて或夜三郎兵衞が裏口うらぐちより忍しのび入り居間ゐまの縁えんの下に埋うづめ置是で遺恨ゐこんを晴はらさんと思ひしは貧苦ひんくに迫せまりし老人の愚おろかなり折節をりふし臺所だいどころの男共小用こように起おきしが裏口うらぐちの明てありしを不審いぶかり建たてんとなす時迯出にげいだす人あるにより夫それ盜人ぬすびとよ出逢々々であへ〳〵と大聲に呼はりけるに大勢馳來はせきたりて見れば加賀屋四郎右衞門なり皆々是は人違ひとちがひ成ならんと云に三郎兵衞之を見て否々いや〳〵人違ひとちがひに非ず盜賊は此者に相違なく此程我に無心を云掛いひかけしを聞ざる故ゆゑ盜ぬすびに入しならん直樣すぐさま訴うつたへ申べしと云を町内の人々來り我等に預あづけ給へとて無理に四郎右衞門を連歸つれかへり元もとは此所の分限者ぶんげんしやなりしを盜賊に落さんも氣の毒に思ひ家主の宅たくへ寄合ひ四郎右衞門に譯わけを尋ぬるに前々の始末を殘らず話し又また此頃このごろ湯屋ゆやにて惡口あくこうされし事如何にも殘念に存て斯々は爲なせど盜みに入りしには非ずと申ければ是を聞て皆々みな〳〵三郎兵衞は人に非ずと憎にくみ四郎右衞門を憫然あはれに思ひて町内申合あはせ無盡むじんを取立とりたて金子十兩拵こしらへて與へければ大いに悦び茂兵衞も倶々とも〴〵禮れいを云て悦びけり然るに三郎兵衞は四郎右衞門を盜賊に陷おとし殺ころさんとせしに皆々に止められしが猶なほ所々しよ〳〵を改あらため見るに我が居間ゐまの縁えんの下より怪き箱はこを探さがし出し蓋ふたを明あけけるに己おのれを呪のろふ人形ひとがたなれば大いに怒り夫より呪咀しゆその始末しまつを書記かきしるし町奉行大岡越前守殿へ訴へ出しかば則ち駿河屋三郎兵衞加賀屋四郎右衞門并ならびに茂兵衞もへゑ町内の者共一同呼出され吟味ぎんみ有しに皆々四郎右衞門が申せし通りを申立ければ大岡殿おほをかどの三郎兵衞を呼よばれ其方前々四郎右衞門より金子借用せしに相違さうゐなきやと尋問たづねられしに三郎兵衞御意ぎよいの如く十ヶ年以前三月節句前せつくまへに金廿兩五月三十兩七月五十兩九月八十兩十二月百兩借候へども其節々そのせつ〳〵殘のこらず皆濟仕かいさいつかまつり其後四郎右衞門不勝手ふかつてに相成私し方へ無心に參り候處ろ取合申さず右を遺恨ゐこんに存じ呪咀しゆそ致せしに相違さうゐなく何卒なにとぞ御吟味ごぎんみ願ねがひ奉つると申立ければ大岡殿吟味有しに四郎右衞門呪咀しゆそ致せしに相違なし然しかれども末に百兩返濟の時其金見えず既すでに其節そのせつ三郎兵衞を疑ひし者も御座りしかど證據しようこなき事故厄落やくおとしと心得相濟し候夫を今更いまさら申には御座なく候へども貧窮ひんきうの餘り無心申せしより斯かくの仕合せと申に付大岡殿コリヤ三郎兵衞彼百兩は彌々いよ〳〵返濟へんさいなせし哉や暮くれの事に取紛とりまぎれ萬一忘却致したるにはあらずや篤とくと考かんがへ見よ僞いつはり包つゝむに於ては屹度きつと糺問きうもん致すぞ其方そのはう鰻登うなぎのぼりに金を借る程の者なれば油斷ゆだんならざる男なりと言れし時三郎兵衞はギヨツとせし樣子やうすを見られしが又四郎右衞門は身代しんだいの果程はてほど有ありて困こまつた事をなし不便ふびんの至りなり勿論呪咀しゆその科とがは屹度きつと申付るぞ然されど三郎兵衞は其百兩の金かね彌々いよ〳〵返濟したるや否いなや明白に返答致すべしと有ば三郎兵衞ハツと云のみ何とも返答へんたふなし大岡殿又三郎兵衞に向はれ其方は左右とかく物忘ものわすれ致すと見えたり忘れし事を思ひ出すには閑靜しづかなる所がよきものなり因て見張みはりを附つけるにより明あき長屋ながやへ到いたり篤とくと考へ見よとて同心に遠見とほみを致させ裏手うらての明あき長屋ながやへ入られ凡およそ二時ふたとき餘あまり過て又白洲しらすへ呼出されいまだ考へ出ずば又明日出よ尤も其方の宅たくは終日客も入來り騷々さう〴〵しからんにより日々奉行所へ出いで明長屋にて思ひ出す迄まで考かんがふべしと申渡わたされ一同下さげられしかば三郎兵衞は我が家に歸り熟々つく〴〵考かんがへけるに若もし返濟へんさいせぬならば明日又々明長屋へ入れらるべし如何致したれば宜しからんと困こまり居るを家内の者ども皆々みな〳〵三郎兵衞に向ひ是は全く忘わすれ居たりとて差出さしいだす方宜しからん只今の身上にて百兩の金は然さのみ難儀にも成るまじと申けるにぞ三郎兵衞も詮方せんかたなく翌日よくじつ百兩持參して出しに大岡殿如何に三郎兵衞いまだ思ひ出さずや然しからば又々長屋に行て考かんがへ見みよと申されければ三郎兵衞否いな其金の儀ぎは全く失念しつねん致し居りしに相違さうゐ是なく候と云により然されば未だ返さぬのかと念ねんを押おされしに三郎兵衞然樣さやうなりと申しける故彌々いよ〳〵其方四郎右衞門より借用致したるに相違さうゐなくは右百兩の金に十年の利分りぶんを算かぞふれば廿五兩一分の利にして百二十兩となる依よつて元利合せて二百二十兩四郎右衞門へ返かへすべし早速さつそく宿元やどもとより取寄とりよすべしと申渡さる誠まことに理りの當然たうぜんなれば三郎兵衞は是非なく畏かしこまるとは申ものゝ只今たゞいま二百二十兩の金子匇々なか〳〵以て出來でき兼かね候により何分御勘辨下ごかんべんくださるべしと申を大岡殿大いに叱しかられ其方二百二十兩出す事難儀なりと申せども其方が借し金を忘却ばうきやくせし爲め四郎右衞門如何程か難儀致したらん然れども出來るに於ては只今たゞいま百五十兩出すべし是を出いださずんば牢舍らうしや申付んと申されける故是非なく三郎兵衞家いへより五十兩取寄とりよせ合あはせて百五十兩出しければ大岡殿元利百五十兩四郎右衞門に請取うけとらせ殘金ざんきん七十兩は三十五ヶ年賦ねんぷに致いたし遣つかはせ如何に三郎兵衞殘金は毎年金二兩宛四郎右衞門方へ屹度きつと渡わたすべし右みぎ七十兩相濟あひすみ次第しだい四郎右衞門は相當の御仕置おんしおき仰付おほせつけらるべし町役人共四郎右衞門は殘金相濟あひすむまで其方共へ預置あづけおくなり然樣さやう心得よと申渡されしは天晴あつぱれ頓智とんちの裁許さいきよにして正直を助け惡を懲こらさるゝ事萬事ばんじ斯かくの如ごとしとかや

此この四郎右衞門は當年たうねん六十五歳の老人らうじんなり夫を是より三十五年の間あひだ殘金ざんきんの勘定かんぢやうに懸かゝらば是これ何歳なんさいに至るぞや大岡殿おほをかどのの仁心じんしん思おもふべし


第三回


 茲こゝに上州より太物ふとものを商あきなふて毎年まいねん江戸へ出いづる商人あきびとに井筒屋ゐづつや茂兵衞金屋かなや利兵衞と云者あり平生へいぜい兄弟の如く親類しんるゐよりも中睦なかむつましかりしが兩人の妻つまとも此頃懷姙くわいにんなし居たり或時あるとき江戸より歸る道々みち〳〵の咄はなしに利兵衞は茂兵衞に向むかひ私わたしは今年ことし四十になり始めて子と云者いふものを持ちたり貴殿おまへは二十歳ばかりの子息むすこあれば今度こんど生うまれたりとも私わたし程には思ふまじと云に井筒屋ゐづつやは首かうべを振ふり我われ成人せいじんの悴せがれは有れども貴殿おまへも知ての通り五年以前出家しゆつけして諸國しよこくへ行脚あんぎやに出たれば我が子でも我子に非あらず末すゑの役には立難し夫に付つけ一ツの相談さうだんあり今兩人の妻つま同月の産さんなれば生うまれし子が男女なんによならば夫婦ふうふにすべし又男子なんしばかりか女子ばかりならば兄弟きやうだいとして成人せいじんの後まで一家となすは如何にと云ふに金屋かなやも至極しごく望のぞむ所なりと兩人未前みぜんの約束やくそくをなし夫より國許くにもとへ歸れば間もなく兩人りやうにんの妻安産あんざんなし金屋の方かたは女子にて名をお菊きくと呼び井筒屋ゐづつやの方かたは男子にて吉三郎と名付なづけ互ひの悦よろこび大方ならず豫かねて約束やくそくの如く夫婦ふうふにせんと末を約やくして各々妻にも其趣そのおもむきを云聞いひきかせ是より兩家別べつして睦むつましく交際つきあひけり然るに兩人の子供こどもも丈夫ぢやうぶに成長せいちやうなす中うち疾はや吉三郎十三歳と成し時父ちゝの茂兵衞大病たいびやうを煩わづらひ種々しゆ〴〵療養れうやうを加へけれども驗しるしなきゆゑ茂兵衞の枕元まくらもとへ金屋利兵衞を始はじめ家内殘のこらず呼集よびあつめ我われ此度の病氣全快びやうきぜんくわい覺束おぼつかなし因て江戸の得意とくいを利兵衞殿へ預あづけ申なり悴せがれ吉三郎成人迄せいじんまで何卒我が得意先とくいさきを宜敷御廻おまはり下さるべし是のみ心懸こゝろがかり故縁者えんじや同樣の貴殿きでんなれば此事頼み置なり又また妻子さいしのことも宜よろしくお世話下せわくだされよと遺言ゆゐごんなし夫より悴せがれ吉三郎に向ひ利兵衞殿娘むすめお菊は其方そなたと胎内たいないより云號いひなづけせしに付利兵衞殿を父と思ひ大切たいせつにせよ必かならず何事も同人の意に背そむく事こと勿なかれと能々よく〳〵教訓けうくんして五十三歳を一期ごとなし終つひに空むなしくなりしかば是より利兵衞は毎年江戸えどの得意とくい井筒屋の分迄ぶんまでも一人ひとりにて廻りける故俄にはかに商あきなひ多く忽たちまち多分の金子きんすを儲まうけ二人前稼かせぎけるにぞ五六年の中に餘程よほどの金を貯たくはへしが後には江戸えどへも見世みせを出さんと通とほり油町あぶらちやうへ間口まぐち十間奧行おくゆきは新道迄しんだうまで二十間餘の地を買かひ土藏どざうもあり立派りつぱなる大身代おほしんだいとなり番頭ばんとう若い者都合つがふ廿餘人に及びける事こと偏ひとへに井筒屋茂兵衞が多分の善よき得意とくいを己おのれが得意と一ツにし一手にて商あきなひせし故なり然るに又上州じやうしうの吉三郎并ならびに母のお稻いね兩人は利兵衞が江戸えどへ店を出さば早速さつそく迎むかひに來る約束なるに三四年立ども一向に沙汰さたもなければ餘儀よぎなく吉三郎は人の周旋せわにて小商こあきなひなどして親子おやこ漸やうやく其日を送おくり江戸より迎むかひの來るを今か〳〵と樂たのしみ居たれど案あんに相違さうゐして其後一向かう手紙てがみも來らず此方このはうよりは度々たび〳〵文通ぶんつうすれども一度の返事へんじもなきにより今は吉三郎の母のお稻いねも大に立腹りつぷくし夫をつと茂兵衞が臨終りんじうに那程迄あれほどまでに頼みしを忘わすれはせまじ餘り情なさけなき仕方しかたなりと利兵衞を恨うらみけるが吉三郎は素もとより孝心かうしん深ふかければ母を慰なぐさめ利兵衞殿斯の如く約束やくそくを變へんじ音信おとづれをせざればとて此方こなたに於て如何共爲せん術すべなく樣子も分わからざれば若や病死びやうしにても致されしや假令たとへ夫にしてもお蔦殿つたどのお菊共約束やくそくあり此方このはうの得意まで任まかせ置し者なれば是非ぜひとも迎むかひは參るべし深く案事あんじられ病氣びやうきにても出いでぬやうなし給へと云紛いひまぎらせども母は我が子の窶然みすぼらしき形容なりかたちを見て憫然あはれに思ひ少すこしも早くお菊と娶めあはせ昔の井筒屋を取立とりたてさせ度たく神佛かみほとけを祈いのり居ゐる中又半年も待けれども音沙汰おとさたなければ或時母は吉三郎に申樣やう二人して江戸へ出いで先達せんだつてより噂うはさの如く江戸通えどとほり油町なれば尋ね行ゆき利兵衞殿に會あうて談判かけあひ我々親子を引取ひきとるや否や其心底そのしんていを探さぐり若し引取ずんば其時は何を爲してなりとも繁華はんくわの江戸ゆゑ親子二人渡世とせいのならぬ事は有まじ若もし運うんよく立身りつしんいたしなは今の難儀なんぎせし面おもてを見返みかへさん何は兎もあれ一先ひとまづ江戸へ出べしとて夫より世帶せたいを仕舞しまひ家財かざいを賣うりて路銀ろぎんとなし母子おやこ二人江戸へ立出馬喰町ばくろちやうの定宿ぢやうやど武藏屋清兵衞方へ宿を取り翌日よくじつ吉三郎一人油町へ行ゆきて見るに人の噂うはさに違たがはず金屋の店みせは立派りつぱなれば勝手より入て私わたくしは上州じやうしうより參りしが利兵衞樣に御目に懸かゝり度と云入けるに利兵衞是を聞きゝ上州より誰たれも來る筈はずなし偖さては吉三郎尋たづね來りしならん此方こなたへ通とほせとて吉三郎に對面たいめんし其方は何用なによう有ありて來りしやと云に吉三郎は叮寧ていねいに挨拶あいさつをなし餘り久々御疎遠ごそゑんなれば御機嫌ごきげんも伺うかゞひ度又此方の御樣子ごやうす如何と存じ母を同道して出いで馬喰町武藏屋清兵衞方に罷在まかりあり候と申けるに利兵衞の心は疾とくより變かはり持參金ぢさんきんのある聟むこを取とる所存なれば今吉三郎が來りしを忌々敷いま〳〵しく思ひ何卒して田舍ゐなかへ追歸おひかへさんと心に巧たくみ夫は態々わざ〳〵尋ね來りしかど此方このはうに變かはる事なければ今母公はゝごに對面たいめんするには及ばず早々さう〳〵國へ歸りて母を大切たいせつに致せよと云捨いひすてて奧へ行んと爲るを吉三郎最早堪兼こらへかね利兵衞が裾すそを捕とらへ何故然樣さやうの事を申され候や此身になりても御無心ごむしんに參りしには非ず貴殿あなたには我が父より御頼おたのみ申せしことを忘れ給ひしやと詞ことばを放はなちて申けるに利兵衞は何共返答へんたふなく其儘そのまゝ振切ふりきつて奧へ入ければ吉三郎は惘あきれ果はてて頼切たのみきつたる利兵衞が斯の如くの所存しよぞんなれば所詮しよせん又また逢あうたりとも取上べき樣なし我が身一人ならば此處このところにて自殺じさつをも爲べけれども母を連つれて遙々はる〴〵來きたりしなればと燃立もえたつ胸むねを摩さすり何事も勘辨かんべんして寥々すご〳〵金屋の家を立出で二三町ちやう來きたりけるに跡あとより申し〳〵と呼掛よびかける者有故振返ふりかへるに田舍ゐなかにて見覺みおぼえあるお竹たけと云し女なり此女は金屋かなや井筒屋ゐづつやへ出入なす織物屋おりものやの娘にて利兵衞が江戸へ店みせを開きし時分お竹は母に別わかれ父と倶ともに利兵衞方へ尋たづね來りしを父は番頭となし娘のお竹はお菊と相應さうおうの年恰好としかつかうなれば腰元こしもとにして召仕めしつかひけるが此者子供の時より吉三郎とも心安こゝろやすくお菊と云號いひなづけのことも知り居けるにぞ吉三郎が臺所だいどころより來りけるを不圖ふと見付てお菊に斯かくと告つげければ母お蔦つたも聞付きゝつけて呼度よびたく思へども利兵衞が得心とくしんせざる故據よんどころなく打捨置うちすておきけるを娘むすめお菊は吉三郎に逢度あひたく思ひながら父利兵衞に叱しかられんことを恐おそれ密ひそかに腰元こしもとお竹に頼みしかば吉三郎が後あとを追駈おつかけ來りしなり扨さてお竹は吉三郎に對むかひお菊樣が貴郎あなたに是非お逢成あひなされ度との事成ば先々此方こなたへ來り給へと手を取引戻ひきもどすゆゑ吉三郎偖さては娘の心は變らず我を云號いひなづけと思ひ居る事の嬉敷うれしくは思へども利兵衞殿の心底しんてい變かはりなければお菊に逢あふまじと云をお竹は無理むりに吉三郎を連來つれきたり今度は新道しんみちへ廻り庭口にはぐちの切戸を明あけてお菊の部屋へ誘引いざなひしに吉三郎はお菊に向ひ利兵衞殿昔むかしの約束やくそくを變じ外に聟むこを取んとの心と見え我を追返おひかへさんと成されしを何故に呼返よびかへし給ふやと云れけばお菊は太息といきを吐つき夫に付て種々いろ〳〵談話度事はなしたきことあるにより御迎へ申したり今は間合まあひも惡ければ何卒なにとぞ翌あすの夜此處まで忍び來り給へ緩々ゆる〳〵とお話はなし申さんと呉々くれ〴〵も吉三郎に約束やくそくなして歸しける偖さて翌日よくじつの夜吉三郎は彼の板塀いたべいの處へ來りしに内よりお竹出迎いでむかへて吉三郎が手を把とりお菊の部屋へ誘引いざなひたり然るに此お菊は幼年えうねんより吉三郎と云號いひなづけと聞居たりしが今年ことし十七歳に成なり始めて吉三郎を見るに衣裳なりは見苦みぐるしけれども色白くして人品ひとがら能く鄙ひなに稀まれなる美男なれば心こゝろ嬉敷うれしく閨ねやに伴ともなひつゝ終に新枕にひまくらを交かはせし故是より吉三郎もお菊を惡にくからず思ひ毎夜まいよ此處へ通かよひお竹が手引にて逢あはせしが此隣このとなりに兩替屋の伊勢屋三郎兵衞と云者有り或夜子刻頃こゝのつどきごろに表の戸を叩きて旅僧たびそうなるが一夜の宿を貸給かしたまへと云ふを番頭ばんとう目めを覺さまし旅人を泊とめる處は是より少々せう〳〵行ゆけば馬喰町と云處に旅籠屋はたごや多くあれば夫へ到りて泊とまり給へと挨拶あいさつなすに彼の僧は如何にも苦くるし氣げなる聲にて我は腹痛はらいたみ歩行事あゆむこと叶かなはず願はくは板縁いたえんにても一夜を明させ給へ且かつ藥くすりも飮のみたく何卒湯一ツ賜れと云ども番頭は盜賊たうぞくならんと疑うたがひて戸を締切しめきり一向に答もせざれば僧そうは詮方せんかたなく此表に大だい八車ぐるまのありしを幸ひ其蔭そのかげに風呂敷ふろしきを敷て其上に坐ざし頭陀袋づだぶくろより藥くすりを取出して飮のみ暫時しばし其處に休み居ける中段々夜も更行ふけゆき四邊あたりも寂しんとしける此時手拭てぬぐひに深く面おもてを包つゝみし男二人伊勢屋の門かどに彳たゝずみ内の樣子を聞居たりしが頓やがて一人の男は相手あひての肩に登のぼりて難なく塀へいの中へ忍び入り又また肩かたへ乘たる男は塀へいの外に待居けるに程なく忍び入たる男出來りて何か密々ひそ〳〵と囁さゝやきしが其の男は西の方をさして立去たり跡あとに殘りし男は猶なほ内の樣子を窺うかゞひ居る故旅僧たびそうは見付られなば殺されもやせんと息いきを堪こらへて車の蔭かげに屈かゞみ居る中此方の板塀いたべいの戸を開きて金屋の庭先より吉三郎は今宵こよひもお菊の部屋に忍び來り積つもる談話はなしの中旅籠屋はたごやに永逗留ながとうりうして大分入用が嵩かさみ其の上母は病氣びやうきにて藥の代しろに貯たくはへも遣つかひ果したる由委細ゐさいに物語りけるをお菊は甚いたく氣の毒に思ひ我故に斯かく成行なりゆき給ふなれば何卒見繼みつぎ度思へども親に養やしなはるゝ此身なる故ゆゑ何事も心に任まかせず是は僅なれども私しが手道具てだうぐなれば大事なし賣うりてなりとも旅籠はたごの入用母御の藥の代しろに爲給したまへと鼈甲べつかふの櫛くしと琴柱ことぢに花菱はなびしの紋付もんつきたる後差うしろざし二本是は價あたひに構はず調とゝのへし品なりとて吉三郎に渡しければ大いに悦び其芳志そのこゝろざしを聞きく上うへは假令夫婦になられずとも本望なり然さらば此品暫時しばらく借用申すと受納うけをさめ立歸らんとするにお菊は涙なみだを浮うかめ此程より申せし通り父御ちゝごは御身を入ず外ほかより金を持參の聟むこを取らんと云るゝこと最いと心苦こゝろぐるしけれど必ず母樣と倶ともに父御を宥なだめ申べきにより時節を待ちたまへ我が身に於ては外ほかに男を持もつ心こゝろなしと堅く誓ちかひて別れければ腰元こしもとお竹は毎度いつもの通り吉三郎を送り開戸ひらきどを明て出し遣やり跡あとを鎖とざしける吉三郎は母の病氣びやうきを案事あんじけれどもお菊が情なさけに惹ひかされて毎夜々々通ひはなすものゝ何時も泊とまる事なく夜更よふけて歸りけるが今夜も最早もはや丑刻やつ過すぎ頃馬喰町へぞ歸りける然るに先刻さきより樣子を窺うかゞひ居たりし彼の曲者くせもの今吉三郎が歸り行く體ていを見て扨は渠等かれら色事いろごとならん究竟くつきやうの事なりと彼の開戸ひらきどの處へ行ゆき外そとよりほと〳〵叩たゝきけるに中にはお竹たけ庭に下立おりたち何かお忘れ物に候やと小聲こごゑに言いひながら何心なく戸を開くに吉三郎にはあらで一人の男拔打ぬきうちに切掛きりかけしかばお竹はあなやと驚き奧の方へ迯入にげいりながら泥棒どろぼうと聲を立てるを半分はんぶん言いはせず後うしろより只一刀に切殺し此方へ入來いりきたるにぞお菊はお竹が聲に驚おどろき迯出にげいださんとするに間合まあひなければ屏風びやうぶの蔭かげへ隱れ戰慄ふるへ居ゐたりし中曲者くせものは手近ぢかに在しお菊が道具だうぐを見付手當てあたり次第に掻浚かきさらひ元もと來きし道より出行けりお菊は盜賊たうぞくの立去るを見て頓やがて家内を起せしかば利兵衞りへゑ始め走來りて庭にお竹が殺され居るを見て大いに驚き盜人は何所へ行ゆきしやらんと家の隅々すみ〴〵まで探さがしけれども最早もはや遁のがれ行しと見えて庭にはの切戸きりどの明て有しかば若い者共表へ走り出其所そこよ此こ處こよと尋たづねけるに又また隣となりの伊勢屋三郎兵衞方にても盜賊入たりとて大いに騷さわぎ立ち男共大勢立出見るに板塀いたべいの上を越こえて迯行にげゆきしと見え足跡あしあとの付てあれば追駈おつかけよと犇ひしめき合ふに以前いぜんの旅僧未だ車の蔭かげに居たりしが此騷このさわぎを聞我此所に居るならば盜賊たうぞくの疑うたがひ掛かゝりて捕とらへられんも量はかり難がたし早く此處このところを立去べしと立上りしを伊勢屋いせやの男共は見付扨さてこそ盜人は此坊主ならんと大勢にて難なんなく旅僧を捕へたり三郎兵衞べゑは家内を改め見るに金五百兩有あらねば金は何所へ隱せしぞと彼の旅僧を種々いろ〳〵詮議せんぎしけれども素もとより覺おぼえなき事なれば云ふべき樣なく然れども宵に表を叩き宿を貸呉かしくれよと云ひしは此僧に違ちがひなし爰にて詮議せんぎ爲せんよりは奉行所へ訴うつたへ可と願書を認め大岡殿おほをかどのへ訴うつたへ出いでたり又隣りの金屋利兵衞方よりも盜賊たうぞく入いり下女げぢよを殺害せつがいに及びし段だん訴うつたへければ役人來りてお竹が死骸しがいを檢査あらため是は宅へ迯込にげこむ所を後より切きりたる者ならん又盜まれし品々は書付を以て訴ゆべしとて役人は歸へけり此家の番頭はお竹が父親なりしかば大いに悲みお竹の亡骸なきがらを取納とりをさめける扨利兵衞は娘むすめお菊きくを呼て其方盜賊の面體めんてい恰好かつかうを見たるやと問ふに娘は勿々なか〳〵怕敷おそろしく見みる事叶はざれば如何樣の者なるや一向かう覺おぼえ申さずと答こたふるにぞ利兵衞而して又またお竹は何故なにゆゑ夜更に庭へ出たるやと云けるにお菊きくは只たゞ差俯向さしうつむいて詞なし利兵衞は暫時しばらく考かんがへ此盜人我少し心當りの者あり然れども是と云證據なきゆゑ訴へ出難いでがたしとて夫より盜れし娘が手道具てだうぐの中うち紛失ふんじつの品々を書付になし大岡殿へ訴へ出でにけり


第四回


 扨さても吉三郎は彼の菊より貰もらひし櫛と簪かんざしとを持歸り亭主ていしゆに見せ申しけるは是にて藥くすりを調とゝのへ度存候是は我母わがはゝの若き時に差たる品なりとて頼ければ亭主は氣の毒に思ながら出入の小間物屋與兵衞こまものやよへゑと云者いふものへ彼二品を見せ亭主ていしゆ保證人うけにんになりて是を二兩りやう二分ぶに賣渡しければ吉きち三郎大いに悦よろこび是にて藥など調とゝのへ醫師をも替かへて其身も側そばを放れず看病かんびやう怠おこたりなかりける扨さて又また此與兵衞このよへゑは平生へいぜい金屋かなやへも心易く出入なすにより彼の吉三郎より調とゝのへたる二品を持行もちゆき見みせければ利兵衞の妻は見覺えのあるお菊きくが簪かんざしなる故ゆゑ大おほいに驚おどろき夫利兵衞に斯かくと告つげしに利兵衞も是を見て此品は一昨夜我等方へ盜賊たうぞく忍しのび入いつて盜ぬすまれし娘が簪かんざしなり如何して手に入しやと問ければ與兵衞大に肝を潰し彼旅籠屋の客人きやくじんより買かひたりと答ふるに利兵衞礑はたと横手よこてを打我が推察すゐさつに違ず此盜賊は吉三郎なり其譯そのわけは先達さきだつて我が方へ尋たづね來りし時我樣子を見るに如何にも見苦敷みぐるしき體ていにて店の者へ對し我も恥入處はぢいるところなり斯かく働はたらきのなき者は聟むこに爲難しがたしと思ひ未いまだ約束の驗しるしを取交とりかはさぬを幸さいはひ強面つれなくして彼が心こゝろを勵はげましたるに夫それを憤いきどほり我が家へ忍しのび入て種々しゆ〴〵盜ぬすみ迯にげんと爲する折をりお竹に見付みつけられし故殺したる成ならん疾とくより然さは思ひけれども是ぞと云ふ見定みさだめたる事無なければ今迄いままで控ひかへたり最早證據あれば渠かれが天命てんめい遁のがれぬ處なるにより早速さつそく願書ぐわんしよを認したゝめ吉三郎盜賊人殺しに相違さうゐなき旨むね訴うつたへんとて番頭へも其趣そのおもぶき申聞きけければ妻のお蔦つたは夫をつとを諫いさめ吉三郎は勿々なか〳〵然樣さやうの事を致すべき者に非あらず是には何か譯わけの有べき事なり若もし吉三郎盜みしにもせよ娘むすめ菊きくが云號いひなづけなれば此方の聟むこなり是を訴へんは此方こなたの恥はぢならずや枉まげて容し給へと述のべけるを利兵衞少しも聞き入ず何を汝おのれが知しるべきやと叱しかり付つけ直樣奉行所へ訴へけり是は利兵衞が内心ないしんには幸ひ吉三郎を科に落し外より持參金ぢさんきん澤山たくさんある聟むこを取る存意ぞんいなりしとぞ大岡殿金屋利兵衞が願書ぐわんしよを一覽らん有あつて則すなはち吉三郎を召捕べしと役人へ申付られけり却て説とく彼かの吉三郎は母の病やまひ二三日別べつして樣子惡あしければ側そばを放はなれず附添つきそひ種々しゆ〴〵心配しんぱいなして勞はり居しが母は暫時しばし睡眠まどろみし中醫師の方へ藥くすりを取に行んと立出る所を役人兩三人上意と聲こゑ掛かけ縛いましめられしかば何故斯る憂目うきめに逢事あふことやら合點行ず素もとより惡事の覺おぼえなきゆゑ我が身に於て辯解まをしわけは立たつべけれども我われ居をらざれば母の看病かんびやうを誰たれも爲る者もの有あるまじと思ひ頻しきりに悲かなしく心は後へ引ひかれながら既に奉行所ぶぎやうしよへ來り白洲しらすへ引居ひきすゑられたり此日伊勢屋三郎兵衞方にては彼旅僧を連て訴へしが番頭は進み出私しは油町伊勢屋三郎兵衞名代喜兵衞と申者ものに御座ござ候主人しゆじん店先みせさきへ一昨夜九ツ時どき過すぎ此法師このほふし來り戸を叩きて一夜の宿を貸呉かしくれ候樣やう申に付旅籠屋はたごやに非あらずと斷ことわりし處ところ其後は音も仕つかまつらず候故何方へか參りしやと存じ休やすみ候に夜よ丑刻やつどき過頃すぎごろ忍しのび入金子五百兩盜み迯出にげいづる時家内の者目を覺さまし追駈おつかけ候へども此僧足早に迯去にげさり候を漸々やう〳〵捕押とりおさへ申候依よつて御吟味ごぎんみを願ねがひ奉つり候と願書ぐわんしよを差出したり此時このとき大岡殿先吉三郎に向はれ如何に其方そのはう上州じやうしうより遙々はる〴〵來きたりて利兵衞方へ忍しのび入いり盜賊たうぞくをなし其上腰元竹を殺したる事大膽不敵の擧動ふるまひなり伊勢屋方より訴うつたへたる旅僧も同夜の事なれば是は汝なんぢが同類どうるゐ成なるべし殊更ことさら其方そのほうは金屋にて盜みし櫛を小間物屋與兵衞こまものやよへゑに賣うりたる由よし渠かれ金屋かなやへ持行しより此事顯れ則ち利兵衞與兵衞兩人訴うつたへたり斯かゝる確たしかなる證據しようこ有ある上うへは少しも包む事なく白状はくじやう致いたせと申まをされければ吉三郎思ひも寄よらぬ事の糺問たゞしに惘あきれ果はてけるが屹度きつと思案しあんするに是これ必かならずものゝ間違まちがひならんと謹つゝしんで首かうべを上あげ私し事は上州より毎年まいねん江戸へ太物商賣ふとものしやうばいに參まゐる井筒屋茂兵衞ゐづつやもへゑの悴せがれ吉きち三郎と申者にて候是なる利兵衞は私し親おや茂兵衞もへゑと兄弟きやうだい同樣どうやうに交まじはり其上利兵衞の娘菊事私し胎内たいないよりの云號いひなづけなり然るに私し十二歳の際とき父茂兵衞病氣に付枕元まくらもとへ利兵衞を呼江戸の得意とくいを殘のこらず預け私し成人せいじんの後娘に娶めあはせんとの遺言ゆゐごんを利兵衞も承知しようちに付父茂兵衞は安心あんしんいたし頓やがて相果あひはて申候夫より利兵衞は江戸へ出いで店みせをも開し由四五年を過すごし候へ共ども一向かう音信なく因よつて母と相談さうだんの上うへ世帶せたいを仕舞江戸へ出でて利兵衞を相尋あひたづね先々の話はなし致いたしける處に何時か心變こゝろがはり致いたし居をり以前いぜんの約束を違ちがへて私し母子を寄付申さず母は其不實を怒ると雖詮方せんかたなく頼み切たる利兵衞りへゑ斯かくの如き心底しんていなれば當惑たうわく致いたしたれども斯かく繁昌はんじやうの御當地に付如何樣にも口過くちすぎは相成あひなり申べくと存ぞんじ其後そのごは一度ども相尋あひたづね申さず扨さて彼かの櫛簪くしかんざしの儀ぎは利兵衞娘菊より内々ない〳〵貰もらひ母はゝの病氣にて貯たくはへ盡つき候故與兵衞よへゑに賣て母の病氣救すくひ候なり決けつして盜ぬすみしには候はず何卒なにとぞ此段このだん御賢察下ごけんさつくだされ御免を蒙かうぶり母の看病仕かんびやうつかまつり度たしと涙ながらに申けるを大岡殿聞れ汝が申條でう道理もつともには聞ゆれ共ども又また胡亂うろんなる處あり其その譯わけは其方そのはう遙々はる〴〵利兵衞を頼たのみに思ひて來りしに渠かれ約束やくそくを變じ寄よせつけねば其後一度も行ゆかずと申一度ども行ゆかぬ者が如何いかゞして娘菊に逢あひ彼かの品しなを貰もらひしやと尋問たづねられしかば吉三郎はつと當惑たうわくの體にて密通みつつう致いたし貰もらひしとは大勢の中故ゆゑ云兼いひかね只たゞ差俯向さしうつむいて詞ことばなし大岡殿重かさねて此この二品の出處でどころ知しれざれば盜賊の名な遁のがれ難がたし其方竊ひそかに通じて娘に貰もらひしやと正鵠ほしをさゝれしにぞ吉きち三郎は彌々いよ〳〵顏かほを赤うして差俯向さしうつむき居ゐたり大岡殿おほをかどの大概おほよそ是これを悟さとられ夫それより彼の旅僧たびそうに對むかはれ其方そのはう出家しゆつけの身として盜みせし段だん大膽たいたんなり早々白状せよと申されければ旅僧は吉三郎が吟味中ぎんみちう頻しきりと首を傾かたむけ居たりしが今いま問とはるゝに隨したがひ私わたくし事こと上州じやうしうの産さんにて名なを雲源うんげんと申十五歳さいの時とき出家仕しゆつけつかまつり候へども幼少えうせうより盜ぬすみ心こゝろあり成人せいじんなすに付つけ尚々なほ〳〵相募あひつのり既すでに一昨夜さくや伊勢屋いせやへ忍しのび入いりて金五百兩盜ぬすみ取其隣の金屋かなやとやらんへも忍入しのびいつて盜ぬすみ致いたし出る處を女に見付られ據ころなく切捨申候然れば天命てんめい遁のがれず斯かく繩目なはめに及ぶ事こと素もとより覺悟なり然るに那あれなる若者を盜賊たうぞくなりと疑うたがひ掛り候由よし何共見兼申候私し委細ゐさい白状仕つりし上は科とがなき若者を御助け下され母はゝの看病かんびやう致いたさせ度候と臆おくしたる形容けしきもなく申立れば是を聞れ其方が申處ところ不分明ふぶんみやうなり伊勢屋方にて五百兩りやう盜ぬすみ又金屋へも入りて種々しゆ〳〵盜ぬすみ女を殺したりと白状はくじやう致いたせども盜ぬすみたる金も見えず又女を殺したる刄物はものもなしと有あるに旅僧頭を上げ其節せつ盜ぬすみし金子きんすも刄物はものも迯にげ候節せつ取落とりおとし身一つになり候處を捕へられ候と申せば大岡殿おほをかどの伊勢屋いせやの番頭に對むかはれ此者を捕ゆる時何ぞ所持しよぢの品しなはなきかと尋たづねられ番頭喜兵衞外ほかには何も候はず只たゞ網代笠あじろがさ一蓋がいと頭陀袋づだぶくろ一つ之ありしと申に大岡殿其頭陀袋づだぶくろ是へと申されるにより差出さしいだしければ中を檢査あらためて書付など讀よまれ何か心に合點うなづき仔細しさい有あれば追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶとて一同下られ小間物屋こまものやは町内ちやうない預あづけ吉三郎旅僧は入牢申付られけり偖さて翌日よくじつ大岡殿吉三郎を呼出し其の方彌々いよ〳〵菊と密通みつつう致いたして櫛くし簪かんざしを貰もらひしや恥はづかしとて隱かくすべからずと懇切ねんごろに尋たづねられければ吉三郎赤面せきめんしながら仰おほせの如く相違さうゐ之これなく候猶なほ又また菊を御呼出しの上うへ御尋おんたづね下さるべしと申に大岡殿頓やがて同心を馬喰町旅籠屋清兵衞方はたごやせいべゑかたへ遣つかはされ吉三郎が母を隨分ずゐぶん勞いたはり申すべし一兩日中には吉三郎を無事に返し遣つかはさん夫迄それまでは能々よく〳〵看病かんびやうを大切たいせつに取扱とりあつかふべしと申付つけられ其後そののち差紙さしがみにて金屋利兵衞かなやりへゑ娘むすめ菊きく伊勢屋いせや三郎兵衞小間物屋まものや與兵衞よへゑ旅籠屋清兵衞せいべゑ雲源等うんげんとう殘のこらず呼出されしにお菊は贈おくりし二品しな故ゆゑに無實むじつの罪つみにて吉三郎牢舍らうしやと聞あるにも在あられず歎なげき悲かなしむと雖いへども此事云にも云れず然とて云ねば吉三郎が身の上を思おもひ竊ひそかに母はゝへ委敷事くはしきことを語りければ母はゝも驚おどろき今度の御呼出およびだしは吉三郎と對決たいけつさせんとの事成なるべければ種々いろ〳〵御尋おんたづね有あるならんが其時そのとき委細ゐさいを申さば父の越度をちどとなり又また云いはずば吉三郎は殺さるべし兩方全まつたきやうには何事も行ゆかざれども能々よく〳〵考かんがへて心こゝろ靜しづかに双方さうはう無事に成なるやうの御答おこたへを申べしと云ばお菊きくも得心とくしんして出たりけり扨さて大岡殿おほをかどの利兵衞に對むかひ如何に利兵衞其方そのはう櫛くし簪かんざしを證據しようことして與兵衞供々とも〴〵吉三郎を盜賊たうぞく人殺ひとごろしなりと訴うつたへけれども吉三郎事は豫かねて其方娘むすめ菊きくと密通みつつう致いたし居をり娘むすめより貰もらひて與兵衞よへゑに賣うりたりと云故其段そのだん明白に吟味ぎんみせん爲ため娘むすめを呼出したり其方そのはう此事を知らざるやと申されければ利兵衞答こたへて夫は跡形あとかたもなき僞いつはりにて是全く罪つみを遁のがれん爲吉三郎が拵こしらへ事にて候如何に菊吉三郎と密通みつつう致いたし候覺おぼえなきならば其通そのとほり早く申上よと急立せきたちけるにお菊は生れしより始はじめて奉行所ぶぎやうしよへ呼出され大勢の中にて吉三郎が縛いましめられ窶やつれたるを見て涙を浮うかめしが大岡殿おほをかどの是を御覽ごらんじ大概おほよそ察さつしられ如何いかに菊きく此越前守このゑちぜんのかみ媒酌なかうどとなり頓やがて吉三郎に添そはせ遣つかはすべし隨分ずゐぶん安堵あんどして居ゐよと和やはらかに言れければ吉三郎も傍そばよりお菊殿きくどの何故なにゆゑに明白に云給いひたまはぬ御身おんみまで匿かくされては我等われら何時いつか御免おゆるしを請うけんや其中は母の看病かんびやう藥くすり何呉なにくれと定さだめて不自由ふじいう成ならんと此事のみ心に懸かゝり牢舍らうしやしたる我心を少しは汲譯くみわけ早はやく現在ありのまゝに申上て此苦このくるしみを助たすけられよと申を聞お菊きくは尚々なほ〳〵悲かなしく白地あからさまに云んと思へども母の教をしへの通り父の科とがを訴うつたへるも同前云ねば吉三郎は殺されんと心を千々ちゞに傷いため居ゐる體ていを大岡殿敏はやくも察さつしられ其方そのはうは吉三郎を牢舍らうしやさするや父ちゝ利兵衞を牢舍らうしやさするやと尋ねられければお菊は何卒なにとぞ父利兵衞吉三郎ともに御免おんゆるし下され其代りに私しを牢らうへ御入下おんいれくださるゝ樣やうにと涙ながらに申立るを聞れ大岡殿おほをかどの大に感じられ是これにて何もかも相分あひわかりたり決して吉三郎は盜賊たうぞくに非あらず追付おつつけ免ゆるして其方と夫婦ふうふに致いたし遣つかはすべしと申され扨さて又また利兵衞を呼ばれ其方そのはう以前の約束やくそくを變へんじ茂兵衞もへゑ悴せがれ吉三郎を追返おひかへし不實の上うへ科とがなき者を盜賊人殺と麁忽そこつの訴うつたへをなす事こと甚はなはだ以て不屆ふとゞきなり屹度きつと曲事きよくじに申付べき所なれども娘菊が孝貞かうていに免じ汝が越度をちどを差免さしゆるすなり落着らくぢやくの後は娘菊を吉三郎に娶めあはせ其身は隱居いんきよ致いたすべし然れども二人にんの盜賊たうぞく未いまだ知しれず因よつて盜賊たうぞくの知しれる迄までは控ひかへ居ゐよと申渡され偖さて又また小間物屋は町内預ちやうないあづけ伊勢屋も呼出す迄まで控ひかへ申べし吉三郎は當時たうじ旅籠屋へ預あづけ町内の者氣を付母の看病致させよ又諸入用は金屋利兵衞かなやりへゑ必かならず是これを送おくるべし且かつ旅籠屋清兵衞はたごやせいべゑは入用にふよう何程なにほど懸かゝりても金屋利兵衞方かなやりへゑかたより請取うけとられ又利兵衞儀ぎは吉三郎の母は病中の事ゆゑ夜具やぐ布團ふとん其外に心付け食事等しよくじとう宜敷よろしく見繼みつぐべし此段このだん屹度きつと申付たるぞ若もし麁末そまつ成事なることも有あらば曲事きよくじたるべしと申渡わたされ皆々下られけり偖さて旅僧たびそう一人を殘のこし置おき一同下りし後のち其方そのはう何故なにゆゑ僞いつはりを申すやと有しかば雲源うんげん全まつたく僞いつはりは申上ず私し盜賊たうぞくに紛まぎれ之なく候御仕置おしおき仰付おほせつけらるべしと云に大岡殿おほをかどの否いや彼の吉三郎は其方と兄弟に非あらずや人相にんさう恰好かつかう音聲おんせいまでもよく似たり汝なんぢ弟おとゝを救すくはん爲に故意わざと罪つみに陷おちいりしならん何ぞ是を知らずして殺さんや其方は井筒屋茂兵衞ゐづつやもへゑが惣領そうりやうならんと申されければ雲源うんげん驚おどろき感じ今は何をか包申べき御賢察ごけんさつの通り茂兵衞もへゑが悴せがれなれども十五歳さいの時とき仔細しさい有ありて出家仕つかまつり諸國修行しよこくしゆぎやうの身に御座ござ候其後そののち弟おとゝ出生しゆつしやうの事こと仄ほのかに承うけたまはりし儘まゝ此程國許へ參まゐり尋たづね候所弟おとゝ吉きち三郎金屋利兵衞方に譯わけ有ありて國許を立出たちいで江戸へ參り候由に付後あと追來おひきたり何卒なにとぞ今いま一度ど母や弟に對面たいめん致いたし度たく江戸中を探さがし歩行あるきし中うち斯かくの仕合しあはせ故ゆゑ弟おとゝが無實の罪つみに陷おちいる事の悼いたはしく殊更ことさら母はゝは旅籠屋にて病氣の由承うけたまはりしにより何卒なにとぞ弟おとゝを助け母に孝行かうかうを盡つくさせ度たく私わたくしは出家しゆつけ遁世とんせいの身み故ゆゑ母や弟を助たすけ候事なれば身命しんめいを捨すて候ても救すくはんと存ぞんじ其盜賊なりと申僞いつはり候其夜全くの盜賊は迯去にげさりたり其譯そのわけは私事母はゝや弟を尋たづねんと所々方々を歩行あるきし中うち先夜せんや伊勢屋の前へ參まゐり懸かゝりし時腹痛ふくつうにて難儀仕なんぎつかまつり夜更なれども詮方せんかたなく伊勢屋の戸を叩たゝき湯を貰もらはんと存ぞんじ候處一向かうに戸を明申さず是非ぜひに其の所に車の御座ござ候蔭かげに姑しばらく相休あひやすみ居をり候處夜も丑刻頃やつどきごろ兩人りやうにんの曲者來り一人は伊勢屋いせやの家に忍び入り暫時しばらく過すぎて出けるが外に待居まちゐたる者と何か囁さゝやき其の者は西の方へ馳行はせゆき殘のこりし一人は其後そのご金屋の切戸きりどより人の出行し跡あとへ這入はひりしに女の叫さけぶ聲こゑしてほどなく彼の男何やら風呂敷ふろしきに包みたるを背負せおひて立出是も西の方へ行しが頓やがて伊勢屋の家内かない騷さわぎ立し故ゆゑ私し此處こゝに居をらば盜賊の連累まきぞへに成んと是を怕おそれて迯出せし機をり斯かくは捕とらはれて候なりと申せしかば大岡殿是を聞れ然しからば必定かならず外ほかに盜賊たうぞくあるべきにより早々さう〳〵詮鑿せんさくすべし窮屈きうくつながら今少し辛抱しんばうせよと勞いたはられ又々牢屋らうやへ下げられけり


第五回


 茲こゝに新材木町なる白子屋しろこや庄しやう三郎一家の騷動さうどうを委曲くはしく尋たづぬるに享保きやうほの始めの事なりしが此この白子屋の地面間口十二間奧行は新道しんみちの方へ廿五間即すなはち券面けんめん千三百兩の地を一軒けんにて住居ぢうきよなし此近邊このきんぺんの大身代おほしんだいなり主は入聟いりむこにて庄しやう三郎と云今年ことし六十歳さい妻つまは此家の娘むすめにて名をお常つねと呼よび四十歳さいなれども生得しやうとく派手はでなる事を好このみ甚はなはだ婬婦いんぷなりしが娘お熊くまは容顏きりやう衆人しうじんに勝すぐれて美麗うつくしく見る者もの心こゝろを動うごかさぬものなく二八の春秋はるあきも過すぎて年頃に及びければ引手ひくて數多あまたの身なれども我下紐わがしたひもは許ゆるさじと清少納言せいせうなごんの教をしへも今は伊達だてなる母を見慣みならひて平生へいぜいはすはに育そだちしは其の父母の教訓をしへの至いたらざる所なり取譯とりわけ母はゝは心こゝろ邪よこしまにて欲深よくふかく亭主庄三郎は商賣しやうばいの道は知りても世事せじに疎うとく世帶せたいは妻に任まかせ置おくゆゑ妻は好事よきことにして夫をつとを尻しりに敷しき身上向むきを己が儘まゝに掻𢌞かきまはし我儘わがまゝ氣儘きまゝに振舞ふるまひ居ゐたりしが何時しか町内廻りの髮結かみゆひ清三郎と密通みつつうをなし内外うちそとの目を忍びて物見遊山に浪費ついえを厭いとはず出歩行であるくのみか娘むすめお熊くまにも衣類いるゐの流行物櫛笄くしかうがひ贅澤ぜいたくづくめに着餝きかざらせ上野うへの淺草あさくさ隅田すみだの花はな兩國川りやうこくがはの夕涼ゆふすゞみ或は芝居しばゐの替かはり目めと上なき奢おごりをなしければ心こゝろ有ある人ひとは皆みな爪彈つまはじきして笑わらふ者多く此妻の渾名あだな一ツ印籠いんろうのお常つねと云て世間せけんに誰知らぬ者も無りしとかや然されば女の子は父親ちゝおやより母の教方をしへかたにて志操みさをも美うつくしかるべきに斯かゝる母はゝ故ゆゑ幼少えうせうより育そだちも卑いやしく風俗ふうぞくは芝居しばゐの俳優やくしやを見る如く淨瑠璃じやうるり三絃さみせんの外は正敷事たゞしきことを一ツも教をしへず殊ことに女の爲べき裁縫たちぬひの道は少しも知しらず自然しぜんとうは〳〵しき事ことにのみ心を傾かたむけしこと淺猿あさましけれ茲こゝに白子屋の商賣しやうばいに係かゝりて庄しやう三郎が名代をも勤め此家の番頭ばんとうと呼よばれたる忠ちう八と云者何時いつの程にかお熊と人知ひとしらぬ中となりけるが母のお常は是を知ると雖も其身も密夫みつぷ有ある故ゆゑに渠かれを制せいする事出來ず却かへつて取持しは人外と謂いひつべし是より家内の男女なんによ色欲しきよくに耽ふけりお常つねは何時も本夫をつと庄しやう三郎には少しの小遣こづかひを與あてがひて遊あそびに追遣おひやり跡あとには娘お熊くま番頭ばんとう忠ちう八髮結かみゆひ清せい三郎ともに入込いりこみ下女のお久ひさお菊もお常つねに仕込しこまれ日毎に酒宴しゆえんの相手あひてをなし居ゐたりしが或日お常つねは金きん二分ぶ出して下男げなんに云付いひつけ酒さけ肴さかなを取寄とりよせ芝居者しばゐもの淨瑠璃語じやうるりかたり三絃彈さみせんひきなど入込いりこませ皆々みな〳〵得意とくいの藝を顯あらはし戯たはぶれ興きようじけり茲に又また杉森すぎのもりの新道しんみち孫右衞門店まごゑもんたなに横山玄柳よこやまげんりうと云いふ按摩あんまあり是は別わけて白子屋へ入浸いりひたり何樣なにさま白子屋一軒けんを定得意ぢやうとくいとなし居る身の上なればお常つねは勿論もちろん忠ちう八が云事にても背そむく事なく主人の如くに仕つかへ毎日まいにちお常つねの肩かたなど揉もみて機嫌きげんをとり居ゐたり斯かく日々ひゞ奢おごりに長ちやうじければさしもの身代しんたい漸々やう〳〵に衰おとろへ享保きやうほ八年ねん十月夷子講えびすかう前まへには金きん二百兩りやう不足ふそくに付つき妻つまのお常つねは番頭ばんとう忠ちう八と申合あはせ亭主庄しやう三郎に斯かくと申ける故庄しやう三郎甚はなはだ困こまり入いると雖も親類しんるゐ一家は素もとより妻つまが奢おごりを見るに付つけ誰たれあつて用立ようたつ物ものなきにより庄しやう三郎日頃ひごろ懇意こんいなる加賀屋長兵衞方かがやちやうべゑかたへ行ゆき右みぎの概略あらましを話はなしければ長兵衞は氣の毒どくに思ひ材木屋ざいもくや仲間なかまの中うち山形屋やまがたや箱根屋はこねや加賀屋かがや其外十人の者を頼たのみて無盡むじんを取立一人前掛金かけきん二十兩りやうづつとなし尤もつとも長兵衞世話人せわにん故ゆゑ庄しやう三郎の分ぶんまで都合つがふ四十兩りやう出いだし二百兩りやう集あつめて庄しやう三郎に渡わたし集あつまりし人々をも厚あつく饗應もてなしし歸かへされける因よつて庄しやう三郎は大おほいに悦よろこび右みぎの二百兩を夷子棚えびすだなに上置あげおき其夜そのよは長兵衞方へ禮れいに行ゆきたりしが此加賀屋長兵衞このかがやちやうべゑと云いふは元もと同町どうちやうの加賀屋彌兵衞方やへゑかたへ十歳さいの時奉公ほうこうに來りて十年の年季ねんきを勤つとめ尚なほ禮奉公れいぼうこう十五年を勤つとめ上あげ都合つがふ廿五年ねんの間あひだ見世みせの事に心を盡つくしければ則すなはち加賀屋の暖簾のれんを貰もらひ同所へ材木店ざいもくみせを出せしが漸次しだいに繁昌はんじやうして此春より將軍家桶御用をけごようの株かぶを讓ゆづられ猶々なほ〳〵榮さかえ消光くらしけるも必竟ひつきやう長兵衞ちやうべゑの心懸こゝろがけよき故なり斯かくて白子屋庄しやう三郎は長兵衞方へ厚あつく禮れいを述のべ我が家へ立歸りしに其夜そのよの中に夷子棚えびすだなへ上置あげおきし二百兩の金かね見みえざればお常つね忠ちう八も狼狽うろたへたる體ていにて主人へ斯かくと申けるにぞ庄しやう三郎は大いに驚おどろき周章あわて其分そのぶんには捨置難すておきがたしと直樣すぐさま加賀屋長兵衞方へ行ゆき右みぎの譯わけを話はなし是は是非々々ぜひ〳〵訴うつたへねば成ならぬと急込せきこむを長兵衞先々まづ〳〵とて樣子を篤とくと聞きゝ何樣なにさま是これは外より入たる盜人ぬすびとにては有まじ然れども今いま是これを訴へる時には我々われ〳〵は兎とも角かくも仲間なかまの衆しうへ二十兩出させた上うへ又々番所ばんしよへ引出しては何分氣きの毒どくにて我等われら濟難すみがたきにより先まづ内々ない〳〵詮鑿せんさく致いたされよとは云ものゝ明日あしたの拂はらひに困こまらるべければ我等われら二百兩りやう用立ようたてんにより夫それにて此節季このせつきは濟すまさるべし尤もつとも此金は利分りぶんに及ばず御都合ごつがふ宜敷よろしき折をり返濟へんさい成なさるべしと金子二百兩を出いだして渡わたしければ庄しやう三郎押戴おしいたゞきて段々だん〳〵と御深切ごしんせつの上又また斯かゝる災難さいなんまで貴公きこうの御苦勞ごくらうに預あづかり御禮おんれいは申盡つくし難がたしとて涙を流ながし打歡うちよろこびてぞ歸かへりけり又お常つね忠ちう八はまんまと夷子棚えびすだなの二百兩を欺あざむき取とり仕合しあはせよしと微笑合ほゝゑみあひ是これを斯かうしてあゝしてと奢おごる事而已のみ談合かたらひけり偖さて其年そのとしも暮くれ明あくれば享保きやうほ九年春も三月と成なりしに江戸中えどぢう大火たいくわに付此白子屋も諸侯方しよこうがたを始はじめ多分たぶんの用ようを達たし屋敷方やしきがたの普請ふしん計ばかりにても二千兩餘よの儲まうけありしとなり然しかれども彼の加賀屋長兵衞かがやちやうべゑより借請かりうけし二百兩の事は忠ちう八が算盤そろばんを奇變あやなし庄しやう三郎に僞いつはりて今いまに辨濟へんさいせざれども長兵衞は催促さいそくもなさず彼是する中うち又また其その年としも過すぎ翌年よくどしと成なり身代しんだい左ひだり前にて難儀なんぎなる由よし忠ちう八より申せしかば庄三郎も不審ふしんに思ひ何とて其樣そのやうに成なりしぞと云に忠八御屋敷おやしきの普請ふしん存ぞんじの外ほか積つもり違ちがひにて一箱はこ餘よも損金そんきんになり其外そのほか彼是かれこれにて二千兩餘の損そんに爲たりと口くちから出任でまかせに僞いつはるをお常つねも側そばから種々いろ〳〵口車くちぐるまの楫かぢを取しかば又々また〳〵加賀屋へ到いたり段々だん〳〵の仔細しさいを話けるに長兵衞は左右とかく氣きの毒どくに思ひ付つき或時あるとき庄しやう三郎に對むかひ時節じせつとは云乍ながら古ふるき御家の斯迄かくまで不如意ふによいになり給たまふ事是非ぜひなき次第しだいなり夫それに付つき少々せう〳〵御相談ごさうだんあり其譯そのわけはお娘子お熊殿くまどのへ持參金ぢさんきんのある聟むこを入給いれたまひては如何いかゞや尤もつとも外に男の子も御在おはさぬ事故ゆゑお熊殿くまどの年の長ふけぬうちに聟養子むこやうしをなし持參ぢさんの金子きんすを以て山方やまがた問屋とひやの借かりを償却つぐなひ暮くらし方も氣きを付て身上しんしやうを立直たてなほす樣やうに相談だんして見給みたまへと深切しんせつの言葉ことばに庄三郎大に喜び何から何迄なにまで段々だん〳〵の御世話おせわ忝かたじけなく是に過すぎたる事はなし然れ共ども我々われ〳〵方かたへ參まゐる養子やうしの有ある可べきや能々よく〳〵御聞糺おんきゝたゞし下くださるゝ樣やう偏ひとへに御頼おたのみ申なりと云けるにぞ然しからば先方へ申聞きくべき間あひだ御家内うちかたへも此段このだん能々よく〳〵御相談ごさうだん成るべし我等方は明日みやうにち聢しかと致いたしたる返事へんじを承うけたまはりし上うへ又々また〳〵御話おはなし申べくとて庄三郎を歸かへしけり夫それより長兵衞は大傳馬町おほでんまちやう家主いへぬし平右衞門方へいゑもんかたへ行ゆき先達さきだつて御話おはなしの聟殿むこどの白子屋庄三郎方にて貰もらひ度たき由よし故ゆゑ御世話下おんせわくださるべし白子屋事は材木町ざいもくちやうにて千三百兩りやうの地面ぢめんも持居もちをり御屋敷方おやしきがたの出入澤山たくさん有ありて株敷かぶしきは三千兩程ほどなり然れば五百兩りやう位ぐらゐは持參ぢさんありても宜よろしかるべし殊更ことさら娘お熊は當年廿二歳にて容貌きりやうもよく承うけたまはれば聟殿むこどのは四十に近ちかしとか隨分ずゐぶん相應さうおうの縁組えんぐみなれば能々よく〳〵御世話頼入おせわたのみいると申を平右衞門へいゑもん聞きゝて夫それは相應さうおうの相談さうだんなり當人といふは我等われらが同町どうちやうの地主ぢぬし彌太郎方やたらうかたに勤居らるゝ又七と申者なり隨分ずゐぶん辛抱人しんばうにんにて主人しゆじん彌太郎やたらう事は最早もはや六十にもなれど一人も子なく金ばかり澤山ありて地面ぢめんは十三ヶ所も持居もちをり此人親分おやぶんとなる積つもりなれば何事も氣遣きづかひなし先方せんぱうへ能々よく〳〵話はなせし上明日御返事ごへんじ致いたすべしとて長兵衞を歸かへし其後そのご平右衞門へいゑもんの口入くちいれにて相方さうはう相談さうだん調とゝのひ吉日きちにちを撰えらみて五百兩りやう持參金ぢさんきんをなし又七を彼の白子屋しろこやの聟養子むこやうしとぞなしたりけり此事は素もとよりお熊の不承知ふしようちなるを種々いろ〳〵説とき勸すゝめ跡あとは右とも左かくも先まづ當分たうぶん其その五百兩を取りて又また樂たのしむべし其その上うへ此方の仕向しむけにより聟むこの方より出て行ゆく時ときは金かねを返かへさずに濟すむ仕方しかたは如何程ほども有べしとお常つね忠ちう八の惡巧わるだくみにて種々しゆ〴〵に言なし終つひに又七を入けれどもお熊は祝言しうげんの夜より癪氣しやくけ發おこり難儀なんぎなりとて母はゝの側そばへ寢ねかしお熊くまは忠ちう八母は清せい三郎と毎夜枕まくらを双ならべて一ツ寢ねをなす事こと人外にんぐわいの仕方なり然されども又七は是を一向かう知しらず最早もはや一年餘に及べどもお熊と一度ども添寢そへねをせず加之そのうへ聟むこに來りてより家内中かないぢうの突掛者つゝかけものとなり優やさしき詞ことばを懸かくる者一人もなけれど下男げなん長助ちやうすけと云者のみ又七を大切たいせつになし彼の四人の者共どもを憎にくみけるが或時給金きふきん三兩を田舍ゐなかへ遣つかはさんとて手紙てがみに封ふうじ瀬戸物町せとものちやうの島屋へ持行もちゆきし途中とちう橋向はしむかふにて晝抅盜ひるとんびに奪うばはれ忙然ばうぜんとして立歸たてかへりしが那あの金かねを取れては又また一年餘よの奉公ほうこうを爲ねばならぬと力を落おとし顏色がんしよく蒼然あをざめて居ける處へ又七は立出たちいで何故なにゆゑ其樣に鬱ふさぎ居るや心地こゝちにても惡あしきかと問とひけるに長助は有ありの儘まゝに譯わけを話し涙を流ながしけるを又七は憫然ふびんに思ひ我等われら其金を與あたへんとて懷中より三兩りやう出し長助へ渡しけるに長助は大地だいちに鰭伏ひれふし此御恩このごおんは忘わすれまじとて悦よろこびけり是よりは別べつして此この長助而已のみ毎度まいどお常つね始はじめの惡巧わるだくみを内通ないつうして又七を救すくひしなり或時あるとき彼の四人打寄うちよつて耳語さゝやくやう又七事こと是迄これまで種々しゆ〴〵非道ひだうになすと雖も此家を出行いでゆく景色なし此上このうへは如何せんと相談さうだんしけるにお常つねは膝ひざを進すゝめ是は毒藥どくやくを飮のませるに如しくなけれども急に殺しては顯あらはるゝ故一ヶ月ばかりも過すぎて死ぬ樣に藥くすりを調合てうがふして用るが宜よろしからん此事は先まづ新道しんみちの玄柳げんりう方へ行て相談さうだん致いたすべしと四人打連立うちつれだちて出行たり偖さて彼の長助は毒藥どくやくと云聲こゑの不圖ふと聞きこえければ又々四人の者共が惡事あくじならん何れ又また七樣さまの事なるべしとお常つねの部屋の傍そばに寄より立聞たちぎきをなしけるが新道の玄柳げんりう方にて調合てうがふなし貰もらはんと出行いでゆく體てい故ゆゑ素知そしらぬ面かほに臺所だいところへ立戻たちもどりたり又彼の玄柳げんりうは毒藥のことを請合うけあひけれども針醫はりいの事なれば毒藥どくやくを求もとめんこと難かたしと思へば風藥かぜぐすり二服ふくを四十文もんにて買かひ炮烙はうろくにて是を煎いり金紙きんがみに包み鄭重たいそうらしくしてお常つねに密と渡わたしければお常は喜よろこび金子きんすを玄柳に遣つかはしお熊くま倶々とも〴〵厚あつく禮を述たりけり此時玄柳は僅わづか四十文もんの風藥にてお常より三兩忠八より五兩お熊より一兩都合九兩の金にあり付しは藥九層倍所か是藥百倍と云べしと喜びけり夫より此藥を下女に云付又七が飯めし汁しる茶ちやなどへ入いれて毎日々々用もちひしとぞ彼の長助も此事を聞きゝしかば又七へも密かに告置つげおき己おのれも隨分ずゐぶん心を付ると雖も大勢おほぜいにて爲る事なれば何時いつの間に入けるや知らざれども或時あるとき鮃ひらめの切身きりみを煮にて皿さらに盛もり彼の藥をお熊が手より入れて又七の前へ持來もちきたり是は母樣はゝさまよりお前に上んとて新場より取寄とりよせし魚うを成なればお喰あがり成なさるべしと一年餘の間あひだに始はじめてお熊の口より又七へ物云ものいひければ又七は喜び直樣すぐさま飯めしを取寄とりよせ是を喰くはんと爲るを長助は目配めくばせをなし止とむる體てい故ゆゑ扨さてはと思ひ何か紛まぎらして是を喰くはず夫より又七は新道しんみちの湯に行けるに長助も後あとより同く湯ゆへ來きたり彼の毒藥どくやくをお熊が入たる事を竊ひそかに話し私わたくしにも昨日さくじつ一服ぷく遣つかはして貴君樣あなたさまの食事に入れて呉くれよと頼たのみ候と彼藥を見せければ又また七委細ゐさいを聞て驚おどろき我は加賀屋かがや長兵衞方へ參る間あひだ其方後より參まゐるべしとて其足そのあしにて又七は長兵衞方へ到いたり是迄これまでの事を物語り勘辨かんべんなり難しと立腹りつぷく致いたしければ長兵衞も以もつての外に驚おどろきける處へ長助も來り三人額ひたひを集めて相談さうだんしける中長兵衞心付こゝろづき彼の藥くすりを猫に喰くはせて試ためしけるに何の事もなければ是には何か樣子やうす有あるべし我又致方いたしかた有あれば隨分ずゐぶん油斷ゆだん有あるべからずとて又七を宥なだめ一先まづ歸かへしけり其後二三日過すぎて長兵衞は白子屋庄三郎并に妻つまお常つねを呼び段々だん〳〵と内證ないしようの都合迄つがふまでも聞何共氣の毒どくなる事なり然しからば聟むこ又七殿どのお熊殿との中宜よろしくば家を渡わたし世帶せたいを若夫婦に任まかせ番頭忠ちう八には暇いとまを遣つかはし小手前にして家内かない取廻とりまはし善よきが肝要かんえうなり而して御兩人ごりやうにんは氣樂に御隱居ごいんきよ有あらば又また宜敷事も有べしと事を分て段々だん〳〵遠廻とほまはしにお常つねへ異見いけんをなしけるに庄しやう三郎は大に悦よろこび何かと厚あつき思召の程ほど忝かたじけなく承知しようち致いたしたりと申しけるにお常つねは甚はなはだ不承知ふしようちの面にて長兵衞に向むかひ又七に世帶せたいを渡せと仰おほせらるれども追々おひ〳〵渠かれが擧動ふるまひを見るに一として商賣しやうばいの道に適かなはず其上未いまだ出入場ば等とうの勝手も覺おぼえず今忠八に暇いとまを出しては猶々なほ〳〵都合つがふ惡わるく手代てだい多おほくの中にも忠八は發明にて萬事ばんじ心得居者をるものなり又七は素もとよりお熊と中なか睦むつましからす持參金ぢさんきんを鼻に懸かけて我々を見下し不孝の事のみ多く其上下女などに不義ふぎを仕懸しかけ何一ツ是ぞと云取處とりどころなく斯樣かやうの者に家を渡す事は勿論もちろん忠八に暇いとまを遣つかはせなどとは憚はゞかりながら餘あまりなる御差圖おさしづなり我々隱居いんきよ致いたすよりは又七を離縁りえん致いたす方はうが却かへつて家の都合つがふなりと申ければ長兵衞是を聞夫は何分聞こえぬ論ろんなり下女に手てを付つけるなどとは必竟ひつきやうお熊殿の取扱とりあつかひ惡き故ゆゑ起おこる事なり何は兎ともあれ兎角とかく家の丸く治をさまるが宜よければ何事も堪忍かんにん有ありて隱居いんきよ有あるべしと勸すゝめけるにお常は大いに立腹りつぷくして一々云爭あらそひ氣に入ぬ聟むこなれば地面ぢめんを賣てなりとも持參金ぢさんきんを戻もどし不縁ふえん致いたすべしと罵のゝしりけるを長兵衞種々いろ〳〵と諫いさめれども一向かうに承知しようちせず疊を蹴立けたて此樣な話はなしは聞ずと直樣すぐさま御歸りあれと夫をつと庄しやう三郎を引立てぞ歸りける夫よりお常つねは庄三郎に少すこしの金ぜにを與あたへ講釋かうしやくの寄席よせせきへ追遣おひやり跡あとは忠八お熊くま清三郎を招き例の如く酒宴さかもりを始め長兵衞が云し事どもを委細ゐさい話はなして此上は金子きんす五百兩拵こしらへ又七に添そへて離縁りえんするに如なし然さすれば長兵衞彼れ是これ云いはれぬ筋すぢなり又七を出す事ゆゑ忠八此金このかね算段さんだんせられよと申ければ忠八は打悦うちよろこび其金子必かならず調達てうだつ致いたすべし私わたくし一ツの工夫くふう有ありとて清三郎に耳語さゝやき頼たのみ其夜そのよ油町あぶらちやう新道しんみち伊勢屋いせや三郎兵衞方へ忍しのび入て金五百兩を盜ぬすみ取清三郎は其隣そのとなりの金屋利兵衞方へ入りて彼の腰元こしもと竹を切殺きりころし娘の手道具てだうぐを奪うばひ取り來りしが忠八にも是を話し我も只たゞ歸かへるは殘念ざんねんゆゑ是程の働はたらきをせしと取たる品々しな〴〵を改あらため見るに蝦夷錦えぞにしきの楊枝指やうじさし一角かくの箸はし其外笄かうがひ簪かんざしの類るゐ何れも金かね目の物多く有ありければ兩人是これは儲まうけものなりと悦よろこびけり然れども此品このしな賣拂うりはらはゞ顯あらはるべしとて暫時しばしの間あひだ彼かの玄柳方へ預あづけ置おきけるが此品々このしな〴〵より終に二人が天罰てんばつ報むくい來とは知ざりけり扨さても白子屋にては又七が事は地面ぢめんを賣うつてなりとも持參金ぢさんきんを返かへし離縁りえん致いたすべしとお常つね長兵衞ちやうべゑに云し詞ことば有あれば終つひに離縁りえんの事を申込こみたり


第六回


 扨もお常は忠八を頼たのみ金五百兩才覺さいかく致させけれ共又候夫をつと庄三郎を僞いつはり又七を離縁りえんなす金にさし支つかへる間地面ぢめんを書入かきいれにて金五百兩借出かりいだすべしと勸すゝめけるに庄三郎是非ぜひなく又々長兵衞方へ行き金子きんすにさし支つかへる趣おもむきを話はなせしかば長兵衞も是はお常の仕業しわざならんにより捨置すておくべしとは思ひけれども庄三郎が達たつての頼みを聞きかざるも氣きの毒どくと思ひ長兵衞申は何卒なにとぞ身代しんだいを持直もちなほし給へ殊ことに先祖代々の地面ぢめんを人手ひとでに渡わたさるゝ事嘸さぞかし殘念ざんねんなるべし然らば我等其五百兩は用達ようだち申べし然されども今度このたびは金子きんす出來でき次第しだい百兩にても五十兩にても御返濟ごへんさい成なされよ利分は取り申さず金子相濟あひすみ次第に證文は返却へんきやく致すべけれども先まづ證文しようもんは預あづかり置おき申べし其地面人手ひとでに渡わたさるゝが氣の毒に存ぞんずる故なりお常殿にも此話このはなしをなされ請人うけにん共とも御三人御印形ごいんぎやう御持參ごぢさん有あるべしと申ければ庄三郎大いに悦よろこび立歸たちかへりてお常忠八に長兵衞が申せし通とほり咄はなしけるにお常は是これを聞きゝ夫それは長兵衞事此地面このぢめんを自分が欲ほしければ體ていよく然樣さやう申成なるべし何は兎もあれ五百兩借かり候はんとてお常が合口あひくちなる親類しんるゐを連つれて三人にん印形いんぎやうを持ち長兵衞方へ行ゆき五百兩借かりて歸りけるがお常は此金このきん手てに入いりしより又々放はなすが惜をしくなりし事誠まことに白子屋滅亡めつばうの基もとゐとこそは知られけれ偖さて何をがな又七が落度おちどを見付みつけ云立いひたてなば金は返かへすに及ぶまじと思ひ居けるに或日庄三郎は又七を呼よび松平相摸守殿まつだひらさがみのかみどのの屋敷へ金子六十兩請取うけとりに參るべしと申付けしかば忠八是を聞きゝてお常に斯かくと知らせ彼かの清三郎を招まねき三人何なにか竊ひそかに耳語さゝやきけるが程ほどなく清三郎は出行いでゆきたり是は途中とちうにて惡者わるものに喧嘩を仕掛しかけさせ屋敷より請取うけとり來きたる六十兩を奪うばひ又七は此金を受取うけとりて遊女いうぢよ通がよひに遣つかひ込こみしと云立いひたて夫それを科とがに離縁せんとの巧たくみなり斯かくとも知らず又七は下男げなん長助を倶ともに連つれて出行いでゆき屋敷より金子を請取うけとり夫それより呉服橋へ掛り四日市へと來懸きかゝるに當時そのころは今と違ちがひ晝も四日市邊へんは淋さびしく人通ひととほり稀まれなれば清三郎は惡僕わるもの二人ふたりと共に此處に待伏まちぶせなし居たり又七は金を持ちたる故隨分ずゐぶん用心ようじんはすれども白晝ひるひなかの事なれば何心なく歩行あゆみ來きたりし所手拭てぬぐひにて顏を包つゝみたる大の男三人現あらはれ出いで突然ゆきなり又七に組付くみつく故ゆゑ又七は驚きながら振放ふりはなさんと爲する所を一人の男手てを指込さしこみ懷中くわいちうの金子を奪うばはんとなすにぞ又七は長助に聲こゑを掛け盜人々々ぬすびと〳〵と呼よばはりければ長助は先刻せんこくより外ほか一人の男と組合くみあひ居ゐたるが此聲を聞て金を取とられては大變たいへんと振放ふりはなし又七の懷中くわいちうへ手を入いれたる男の横面よこつらを充分したゝかに打叩うちたゝきければ彼の男横よこに摚どうと倒たふされしにぞ其間そのひまに又七と共に殘り二人の惡者わるものを散々さん〴〵に打叩きける故皆みな叶かなはじと散々ちり〴〵に迯にげ行けり然されば金は取られず先まづ無事に其場を立去たちさりたり此長助は力量りきりやう勝すぐれし男故幸さいはひに打勝うちかちしとは雖も何共合點がてんの行かぬ者なり正まさしく是も四人の者の巧たくみ成なるべしと話合はなしあひながら長助は道々みち〳〵お常は清三郎と譯わけ有ある事お熊くまは忠ちう八と不義ふぎの事など落おちもなく語かたりければ又七は始めてお熊は忠八と譯わけ有ありし事を聞き扨は日頃ひごろの仕方しかた思おもひ當りたりと夫それより二人我わが家やに歸り庄三郎に金子を渡わたしけるにお常忠八等らは是を見て清三郎に頼たのみし事手筈てはず違ちがひたりと思ひ又々玄柳方げんりうかたへ行きて相談さうだんすべしと其翌日そのよくじつ三人玄柳方へぞ到いたりける斯かくて又清三郎は四日市にて長助に十分したゝか打うたれ面かほに疵きずを受うけければ我が家に引込ひきこみ居たりしに玄柳方より呼びに來りしかば早速さつそく走り行き四人打寄うちより又々惡事の相談をなすにお常は聲を潜ひそめ我一ツ思ひ付ついたる手段しゆだんあり其譯そのわけは下女の菊は生得しやうとく愚成者おろかなるものなれば是に云付いひつけ又七が閨ねやへ忍ばせ剃刀かみそりにて又七へ少しにても疵を付け情死しんぢうせんとて又七に誑だまされ口惜くちをしければ是非ぜひとも又七を殺ころして我も死ぬ覺悟かくごなりと呼よばはらせ其處へ我々駈込かけこみ種々しゆ〴〵詮議せんぎして菊が口より云々しか〴〵と云いはせんは如何にやと申ければ三人是を聞き其謀計そのはかりごと奇妙々々きめう〳〵誠に當時たうじの智者ちしやなりと譽稱ほめたゝへ夫より白子屋へ歸り年増としまの下女お久を竊ひそかに呼びお熊の小袖三ツと金一兩を出し菊に斯々かく〳〵言含いひふくめ呉くれよと頼みければお久承知して我部屋わがへやへお菊を呼び始終しじうの事共ことども委曲くはしく話はなし又七樣へ疵きずを付け其身も咽喉のんどを少すこし疵付きずつけ情死しんぢうと云ひて泣なくべしと教をしへ頼み居たるを長助は物影ものかげより是を聞きゝて大いに驚きながら猶なほ息いきを詰つめて聞居きゝゐたり斯くとも知らず元來もとよりお菊は愚おろかなれば小袖金子を見て忽たちまち心迷こゝろまよひ何の思慮しりよもなく承知をぞなしたりける又長助は篤とくと樣子を聞濟きゝすまし早々又七に右の事故ことがらを話し御油斷ごゆだん有あるべからずと云ふにより又七點頭うなづき今宵こよひ若もし菊が來たらば我われ直ぢきに取て押おさへ繩なはを掛くべし其時其方は早々さう〳〵加賀屋長兵衞を呼よび來きたるべしと竊ひそかに示合しめしあはせて別わかれけり菊は只金と小袖の欲ほしさに其夜そのよ丑うしの刻こくも過すぐる頃又七が寢間ねまへ忍び入り剃刀かみそりを逆手さかでに持もち又七が夜着よぎの上より刺貫さしとほしけるに又七は居ず夜具やぐばかりなれば南無三と傍邊かたへを見る間に又七はお菊を蹴倒けたふし難なんなく繩を掛かけ又七は大音だいおん揚あげ長助々々〳〵と呼よぶ聲こゑに家内の者共目を覺さまし何事にやと庄三郎お常お熊忠八も此所へ來り彼是かれこれなす間まに長助は加賀屋へ駈行かけゆき又七樣只今たゞいま急きふに御逢成おあひなされ度たきとの事出來しにより私し御供おんとも仕つるべき間あひだ御入下おんいりくだされよと申ければ長兵衞驚き直樣すぐさま同道どうだうにて入り來るにお常は長兵衞に向むかひ又七事お熊を指置さしおき下女の菊と不義ふぎをなし終つひに情死しんぢうとまでの騷さわぎなり夫故それゆゑ平常つね〴〵お熊と中なか惡わるく家内かない治をさまらずと云ひければ又七是を聞き是は思ひもよらぬ事を仰せらるゝもの哉今宵こよひ菊が何故か刄物はものを持て我が寢所ねどころへ來りし故怪敷あやしく思おもひ片蔭かたかげに隱かくれて窺うかゝひしに夜着よぎの上より我を刺さし候樣子に付き取押とりおさへて繩を掛かけしなり此儀このぎ公邊おかみへ訴うつたへ此者を吟味ぎんみ致さんと云ひけるを長兵衞は先々まづ〳〵事こと穩便をんびんに世間へ聞きこえぬ中うち濟すます方が宜しからんお常殿もお熊殿も能よく御思案ごしあん有あるべし縱令たとへ又七殿がお菊に通じたるにもせよお常殿より又七殿に篤とくと御異見ごいけん有あつてお菊に暇いとまを出いだせば濟む事也なり是を又七殿訴へなば大亂たいらんとなり白子屋の家名かめい立難たちがたしお常殿は女の事故其處そのところへ氣も付つかれざるは道理もつともの事なれども能々よく〳〵勘辨かんべんありて隨分ずゐぶん又七殿を宥なだめ家内かない和合わがふ致さるゝ樣やう成なさるべし不如意ふによいの事は及ばずながら此長兵衞見繼みつぎ申さんと利解りかいを述のべけれどもお常は一向かう得心とくしんせず又七事菊と忍合しのびあひ情死しんぢう爲なさんとせしを見付けしに相違さうゐなければ公邊おかみへ訴へ何處迄どこまでも黒白を分け申べしと片意地かたいぢ張はつて持參金を返濟へんさいせぬ工夫くふうをなすに忠八も側そばより日頃又七樣下女に手を付つけられし事私共存居り候と云ひければ又清三郎も傍邊かたはらより進すゝみ出いで御兩人の仰せ御道理也ごもつともなり又七樣御持參金を鼻はなに掛け我々迄も見下げ給ふ事甚はなはだしと云ふを長兵衞は見遣みやり汝なんぢは廻まはりの髮結かみゆひならずや何故此所へ來り入らざる差出口さしでぐち過言くわごんなり長助那あの者を擲出たゝきだせと云ひければ長助は立掛たちかゝり清三郎が首筋くびすぢを掴つかみて表おもてへ突出つきだし門口かどぐちの材木ざいもくを投付なげつけしにぞ清三郎は怒いかり汝おのれ此間も四日市にて我を擲たゝき今又斯かく投付なげつける事此返報このへんぱう覺おぼえ居よと罵のゝしりけるに扨は四日市の盜人ぬすびとは汝おのれかと云はれてハツと思ひしかば後あとをも見ずして逃にげ歸りけり扨又長兵衞はお常に對むかひ此事訴へなば怪我人けがにんも多く出來る故何分なにぶん穩便をんびんに取扱とりあつかひ白子屋の家名に瑾きずの付かぬ樣やう我々が異見いけんに隨したがひ給へと云へどもお常は少しも承知せざれば長兵衞も今は是非ぜひなく又七を連れて我が家やへ立歸りたり其間そのまに夜も明あけければ長兵衞は傳馬町なる平右衞門方へ到いたり右の次第を物語ものがたりければ平右衞門は大に立腹りつぷくし白子屋の者共如何にも不屆なる仕方なれば早々さう〳〵地主ぢぬしへ申聞きかせんと夫より彌太郎方へ行き右の仔細しさい話し居る處へ番頭忠八髮結清三郎の兩人入來いりきたり彌々いよ〳〵訴へ出いづるにより又七を預あづかりし手形てがたを出せと店先みせさきにて談事だんじければ彌太郎も今は堪忍かんにん成難なりがたく其方そなたよりの訴訟うつたへを待またず此方より訴へんと云時いふとき又々下男長助又七を尋たづね來り夜前やぜん清三郎が云ひし四日市のことを話はなしけるにぞ尚々なほ〳〵遺恨ゐこんを重かさね右の趣おもぶきまで願書に認したゝめ居たるに加賀屋長兵衞入り來り我等何分なにぶんにも取扱ひ候間今いま少すこし御待ち下さるべし白子屋方へ能々よく〳〵異見いけんを加へ内濟ないさい致すべしと云置いひおき夫それより又白子屋へ行き此事訴へられては此方こなたの家名かめいを失うしなふ基もとゐ成なるべきにより内濟ないさいにし給へと種々さま〴〵に説とき勸すゝめると雖もお常は一向かう承知せず却かへつて長兵衞迄も散々さん〴〵に罵のゝしりける故長兵衞も今は是非ぜひなく打捨うちすてければ終つひに彌太郎の方より訴訟にこそ及びけれ然されば大岡殿是を聞かれ此訴訟の趣おもぶきにては大いなる罪人つみびと八逆ぎやくの者多し是を糺たゞすは誠に歎なげかは敷しき事なりと種々いろ〳〵利解りかい有あつて下さげられけれども双方さうはう得心とくしんなければ是非なく吟味ぎんみとぞなりにける頃ころは享保きやうほ十二年十月双方さうはう惣そう呼出よびだしの人々には白子屋庄三郎並ならびに妻つま常つね娘むすめ熊くま番頭ばんとう忠ちう八下男げなん長助ちやうすけ下女げぢよ久ひさ同菊きく聟むこ又また七大傳馬町おほでんまちやう居付ゐつき地主ぢぬし彌太やた郎加賀屋長兵衞等かがやちやうべゑとうなり此砌このみぎり髮結かみゆひ清せい三郎は出奔しゆつぽんして行方ゆくへ知れず大岡殿彌太郎に向はれ其方願書の趣き相違さうゐなきやと尋問たづねらるゝに彌太郎御意ぎよいの通とほり少すこしも相違さうゐ之これなく候と答こたへしかば頓やがて庄三郎と呼ばれ其方妻常娘熊番頭忠八斯の如き惡事あくじをなす事存ぞんじて差置さしおきしや又知らざるやと申されしに庄三郎其等の儀は實以じつもつて存じ申さずと云ひければ又大岡殿お常に對むかはれ其方聟むこ又七に毒殺どくさつの覺おぼえ之これ有あるやと尋問たづねらるゝにお常は首かうべを上あげ如何にも驚きたる體ていをなし其そは決けつして覺え之なく又七事妻を差置さしおき下女に不義を仕掛しかけ不屆ふとゞきに付つき離縁りえん致さんと存じ候處斯かくの訴へに及びし迄にて候何卒なにとぞ御慈悲おじひを以て又七儀離縁りえん仕つる樣願ひ上奉つると申立るを聞きゝて又七恐れながらと進すゝみ出いで其その毒藥どくやくの儀相違之なく則ち稻荷いなり新道しんみち横山玄柳よこやまげんりうと申す醫師に藥くすりを貰もらひし節せつの證文等もあり候御呼出おんよびだしの上御吟味下くださるべしと申ける故早速さつそく右みぎ玄柳を呼出されて尋ねられし所玄柳申立るはお常の頼みに候へ共毒藥は容易ようい成ならざるに付調合てうがふせず斯々かく〳〵致し風邪藥かぜぐすりにて間を合せ候と答こたふるにぞ大岡殿次に下女お菊を呼よばれ其方主人の閨ねやへ刄物はものを持もち忍しのび入る事大膽不敵だいたんふてきなり但し汝が一存か又は人に頼まれしか正直しやうぢきに申さずんば一命に及ぶべしと云いはれけるにお菊は生いきたる心地こゝちなく恐れ入りてお常始はじめ四人の者に頼まれし段だん白地あからさまに白状しければ大岡殿ソレ縛しばれと下知を傳つたへお菊に繩なはをうたせ又娘お熊手代忠八兩人に向むかはれ其方共日來ひごろ密通みつつういたし居をり聟むこの又七を殺さんとせし段不屆ふとゞきなり有體ありていに申立よと有ありて直すぐに繩を掛させられしかばお常是を見てハツと仰天ぎやうてんし今更いまさら後悔こうくわいの體ていに差俯向さしうつむきしを大岡殿發打はつたと白眼にらまれ其方養子又七に疵きず付つけ候樣下女菊に申付たる段不屆なり有體ありていに申せと云いはれしかば隱かくすこと能あたはずお常お熊共に白状にぞ及びける又庄三郎は家内の者の斯如かくのごとき不屆を存ぜざる段不埓ふらちなり猶なほ外ほかに何ぞ心當りの事は之無これなきやと申されければ庄三郎何も是と申す程の儀御座なく候へども髮結かみゆひ清三郎と申す者常々つね〴〵入浸いりびたり居しは心得難く候と申立るに大岡殿同心どうしんを呼よばれ白子屋家内を檢査あらため清三郎を捕とらへ來れと下知せられしかば同心馳行はせゆきて檢査あらためしに清三郎は逐電ちくでんせし樣子なれど道具だうぐ中うち斯樣の品有ありしと其品々を持來もちきたりし中に蝦夷錦えぞにしきの箸入はしいれ花菱はなびしの紋付たる一角の箸はし鼈甲べつかふの簪かんざしなどありしかば大岡殿是を見給ひ即時そくじに金屋かなや利兵衞を呼出よびいだされ此品其方覺おぼえ有るやと尋ねられければ正まさしく覺え之あり私娘むすめの手道具てだうぐなるよし申立てしにぞ猶なほ又またお常お熊兩人へ嚴敷きびしく尋たづねられしかば忠八清三郎兩人より貰もらひしまゝ何事も存ぜずと申により忠八を糺問きうもん有ありければ終つひに白状致しけり因よつて金屋の盜賊たうぞくも相知れ夫より清三郎へ追手おつてを掛かけられたり扨牢内より彼の旅僧たびそう雲源うんげんを呼出よびいだされ又伊勢屋三郎兵衞をも呼れて五百兩の盜賊たうぞく相知あひしれしにより人違ひとちがひにて是迄雲源を苦くるしめ候間あひだ其代そのかはり雲源を宜敷よろしく扶持ふち致すべしと申渡され雲源は出牢しゆつらうとなり利兵衞は得意を吉三郎に返さゞる段だん不屆ふとどきなれば身代を半分にして吉三郎に菊を娶めあはせ養子となし利兵衞夫婦ふうふは隱居いんきよ致す可し且つ彌太郎方へは又七を取戻とりもどせと申渡されけり


第七回


 享保十二年十二月大岡殿白洲しらすに於て申渡わたし左之通り

新材木町しんざいもくちやう
白子屋しろこや庄しやう三郎養子やうし
又また七 妻さい
くま
二十二歳

其方儀そのはうぎ手代てだい忠ちう八と密通みつつう致いたし不屆至極ふとゞきしごくに付つき町中まちちう引廻ひきまはしの上うへ淺草あさくさに於おいて獄門ごくもん申付つくる

白子屋しろこや庄しやう三郎手代てだい
忠ちう八
二十八歳

其方儀主人しゆじん庄三郎養子又七妻つま熊と密通致し其上そのうへ通とほり油町あぶらちやう伊勢屋三郎兵衞方にて夜盜やたう相働あひはたらき金五百兩盜ぬすみ取り候段重々ぢゆう〳〵不屆ふとゞきに付つき町中まちぢう引廻ひきまはしの上淺草あさくさに於て獄門ごくもん申付くる

白子屋しろこや庄しやう三郎下女げぢよ
きく
十八歳

其方儀主人しゆじん妻つま何程なにほど申付候共又七も主人の儀ぎに付つき致方いたしかたも有之これあるべき處主人又七に疵きずを付つけ剩あまつさへ不義ふぎの申掛かけを致さんとせし段不屆至極ふとゞきしごくに付死罪しざい申付つくる

白子しろこ屋庄しやう三郎妻つま
つね
四十歳

其方儀養子やうし又七に疵きず付つけ剩あまつさへ不義の申掛かけ致候樣下女きくに申付つける段人に母はゝたるの行おこなひに非あらず不埓ふらち至極しごくに付つき遠島ゑんたう申付つくる

杉森すぎのもり新道しんみち孫右衞門店まごゑもんだな
針醫はりい
横山玄柳よこやまげんりう

其方儀白子屋庄三郎妻さい常つね始はじめの惡事あくじに荷擔かたん致いたし候段不屆に付追放つゐはう申付つくる

新材木町しんざいもくちやう家持いへもち
白子屋しろこや庄しやう三郎
六十歳

其方儀養子やうし又七に疵きず付つけ候節せつ篤とくと樣子も見屆ず其上妻つま常つね娘むすめ熊くま手代てだい忠ちう八不屆の儀を存ぜぬ段不埓ふらちに付江戸構えどがまひ申付つくる

同人手代どうにんてだい
清兵衞せいべゑ
彦ひこ八
長助ちやうすけ
伊助いすけ

其方共儀不埓ふらちの筋すぢも之なくに付つき構かまひなし

但たゞし當時このころ下女げぢよ久ひさは病死びやうしに依よつて名前なまへ之これなし

彼かの時とき髮結かみゆひ清三郎は上總かづさへ迯行にげゆきし所天網てんまう遁のがれ難がたく終つひに召捕めしとられ拷問がうもんの上殘らず惡事を白状に及びければ是これ亦また引廻ひきまはしの上獄門ごくもん申付られけり偖さて亦お熊は引廻しの節せつ上うへには黄き八丈ぢやう下したには白無垢しろむく二ツを着ちやくし本繩ほんなはに掛り襟えりには水晶すゐしやうの珠ず數ずを掛け馬に騎のりて口に法華經ほけきやう普門品ふもんぼんを唱へながら引かれしとぞ此時お熊の着きたるより世の婦女子ふぢよし黄き八丈ぢやうは不義の縞しまなりとて嫌きらひしは戯たはれ事の樣なれども其そは貞操ていさうの意こゝろとも云いふべし然るを近來ちかごろ其事を知る者も稀まれなりと雖も又また不開化ふかいくわなどといふ者もあらんか嗟あゝ愼つゝしむべしと云いふ口くちも又また愼つゝしむべし

當時そのころの狂歌きやうかに

實げに誠まこと名なは畜生ちくしやうの熊くまなれや不義ふぎに曇くもりし胸むねの月つきの輪わ

白子屋しろこやを下したから讀よめばおやころし聟むこを殺ころさん心こゝろ怖おそろし

身みも婦人ふじん心こゝろも不仁ふじん欲よくは常つね實げに理不盡りふじんの巧たくみなりけり


白子屋阿熊一件終

煙草屋喜八一件

煙草屋喜八たばこやきはち一件いつけん


第一回


 茲こゝに享保年間下總國しもふさのくに古河こがの城下に穀物屋吉右衞門こくものやきちゑもんと云者いふものあり所に双ならびなき豪家がうかにて江戸表えどおもてにも出店でみせ十三軒げんありて何れも地面ぢめん土藏共どざうども十三ヶ所を所持なし出店でだな親類又は番頭若い者に至る迄大勢召仕ひ豐ゆたかに世を送おくりけるが一人の悴せがれ吉之助とて今年ことし十九歳人品じんぴん能よき生うまれにて父母の寵愛ちようあい限かぎりなく然されども田舍ゐなかの事なれば遊藝いうげいを習ならはせんと思へども然るべき師匠ししやうなきにより江戸兩國りやうごく横山町よこやまちやう三丁目角かどにて折廻をりまはし間口奧行拾三間づつ穀物こくもつ乾物かんぶつ類るゐを商あきなひ則ち古河の吉右衞門が出店なるを番頭傳兵衞でんべゑと云いへる者預あづかり支配しはいなし居たるが此處に吉之助を遣つかはして諸藝しよげいの師を撰えらみ金銀に拘かゝはらず習ならはするに日々生花いけばな茶ちやの湯ゆ其外そのほか遊藝いうげい彼是なにくれと是を己が役にして居る所に兩國米澤町の花の師匠にて相弟子の六之助と云ふは同所どうしよ廣小路ひろこうぢの虎屋の息子むすこなるが何事も如才じよさいなく平生へいぜい吉之助とは交まじはり厚あつかりしが或時あるとき吉之助を引誘さそひ納涼すゞみに出し歸り懸がけ船中せんちうより直すぐに吉原の燈籠とうろうを見物せんと勸すゝめけるに吉之助は御當地ごたうち始はじめての事なれば吉原は別べつして不案内ふあんないゆゑ堅かたく辭退ことわり此日は漸々やう〳〵宿やどへ歸り番頭傳兵衞に此事を話はなしければ傳兵衞首かうべを傾かたぶけ六之助殿は江戸えど産うまれの事にて何事も如才なきにより此事御斷おことわり切きりにもなるまじ若もし明日みやうにちにも又また誘引給さそひたまはゞ彼の地に行六之助殿に負まけられてはお顏かほの汚よごれることなれば金銀は隨分ずゐぶん奇麗きれいに御遣ひ成なされ斯樣々々になし給へと委細ゐさいを教をしへけるにぞ吉之助承知して其後そののち又々涼船すゞみぶね花火はなび見物けんぶつの時六之助同道どうだうにて吉原へ行き蓬莱屋ほうらいやと云ふ六之助が馴染なじみの茶屋へ上りけるに吉之助は傳兵衞が教をしへは爰こゝなりと女房にようばう娘むすめを始め若い者女子迄七八人近付ちかづきに成ならんと惣纒頭そうばなを打うち江戸町一丁目玉屋内たまやうち初瀬留はせとめと云ふ娼妓おひらんを揚あげ程ほどなく妓樓ぢよろやへ伴ともなはれ陽氣やうきに酒宴しゆえんも濟すみ床とこへ入りしが六之助は夫より前さき初瀬留を密ひそかに招まねき吉之助は古河こが一番の大盡だいじんの息子むすこにて江戸の店みせへ遊藝稽古いうげいけいこの爲に參られ此處へは始めての事なれば隨分ずゐぶん宜敷よろしく計はからひ呉くれよ此後も度々連參つれまゐらんと内證を吹込ふきこみける故初瀬留も男振をとこぶりは好よし大盡の息子と聞き眞實しんじつを盡つくして待遇もてなしけるにぞ吉之助は斯かゝる遊びの初めて成なれば魂魄たましひは天外てんぐわいに飛とび只たゞ現うつゝの如くに浮うかれ是よりして雨の夜雪の日の厭いとひなく通かよひしかば初瀬留も憎にくからず思ひ吉之助ならではと今は互たがひに深ふかく云交いひかはし一日にち逢あはねば千秋の思ひをなすにぞ番頭傳兵衞は最初さいしよ己おのれが教をしへし事の却かへつて毒どくと成しかば大いに困こまり度々異見いけんを加へ少すこしの事は苦くるしからざれども最早もはや二箱近く御遣おつかひ成されし故御國許おくにもとの旦那へ聞きこえては此傳兵衞申譯わけなしとて猶なほ種々しゆ〴〵に異見致しけれども一向かうに用ゆる氣色けしきもなく終つひに翌よく享保きやうほ九年七月迄に金二千七八百兩餘よ遣つかひ捨すてたれば今は傳兵衞も惘あきれ果はて是非なく國許くにもとへ此由知らせしにより父吉右衞門是を聞きゝて以もつての外ほかに驚き憎にくき悴せがれが行状ふるまひ言語同斷ごんごどうだんなりとて直樣すぐさま出府しゆつぷなし吉之助を呼びて着類きるゐを脱ぬがせ古袷ふるあはせ一枚錢ぜに三百文與へて何國いづくへなりと出行いでゆくべしと勘當かんだうなしければ番頭若い者等種々いろ〳〵詫言わびごとすると雖も吉右衞門承知せず其儘そのまゝ古河へ歸りけり依て吉之助は今更いまさら途方とはうに昏くれ此體このなりにては所詮しよせん初瀬留にも逢あはれず死ぬより外に詮術せんすべなしと覺悟かくごを究きはめ其夜兩國橋へ行き既すでに身を投なげんと爲したりし際とき小提灯こちやうちんを持ちたる男馳寄かけよつてヤレ待またれよと吉之助を抱いだき止とゞめるに否々いな〳〵是非死なねばならぬ事あり此こ所こ放はなしてと云ふを其そはお若わかい衆しう不了簡ふれうけん死ぬは何時いつでも易い事先々まづ〳〵此方こなたへ來こられよと云ふ面かほ見みれば吉原の幇間たいこ五八なれば吉之助は尚々なほ〳〵面目なく又もや身を投なげんとせしを五八も驚き確しつかと抱いだき止とめ是こは若旦那にて有ありしか私し事は多く御恩ごおんに預あづかり何かと御贔屓下ごひいきくだされし者なれば先々まづ〳〵譯わけは後あとの事手前の宿やどへ御供を致し左とに右かく宜敷計らひ候はん初瀬留樣にも此程このほどは日毎に御噂おうはさばかりなりと無理むりに手を取り其邊そのあたりなる茶屋へ伴ともなひ酒さけ肴さかななど出いださせて種々馳走ちそうをなし而して又また宵こよひの事がらは如何なる譯わけと問懸とひかくるに吉之助は面目めんぼく無氣なげに答こたふる樣此程父吉右衞門國元くにもとより來り我等二千七八百兩の穴あなを明あけしを大いに怒いかり終に勘當かんだうを請うけたれば最早もはや初瀬留には逢事あふこともならず所詮生て恥はぢをかゝんよりはと覺悟かくご極きはめし事なりと一伍一什いちぶしじふを物語れば五八は是を聞き終をはり夫そは父公樣おやごさまの御腹立おはらだちも御道理ごもつともなれど若い中には有ある習ならひ又其中には御詫おわびの成なされ方も御座らう程に先まづ此度このたびは初瀬留樣と諸供もろとも御勘氣ごかんきの免ゆるさるまで此五八が御匿おかくまひ申上あげんと力を付つけ夫より五八が宅へ連つれ歸かへり女房にも仔細しさいを話はなし初瀬留が方へも此事を知しらせけるにそ初瀬留は打驚うちおどろき早速さつそく來きたりて吉之助に逢あひ私し故に御勘當ごかんだうの御身となられし由嘸さぞかし憎にくき者と思召おぼしめされんが此上は私し何事も御見繼おみつぎ申さんにより何處いづくへも行き給はず五八の方に居給へとて夫より呉服屋ごふくやへ言ひ付吉之助が衣類いるゐ其外そのほか何不自由なにふじいうなく送おくりければ是ぞ誠に鷄卵たまごに四角かくの眞實しんじつと仕送しおくらるゝ身は思ふなるべし或日五八は吉之助を連つれ淺草の觀音へ參詣さんけいしけるに地内にて吉之助を呼掛よびかける者あり誰ぞと振返ふりかへり見れば古河に在ありし際とき召使ひし喜八と云ふ者にて吉之助が側そばに來り貴君樣あなたさまには何時御當地へ御出おんいで有ありしや途中とちうながら御容子ごようす伺うかゞひ度たしと申けるに此所は人立ひとだち繁しげければとて傍邊かたへの茶屋に伴ともなひ吉之助は諸藝稽古しよげいけいこの爲め横山町の出店でだなへ來りしより多くの金を遣つかひ込こみ父の勘當を請うけ身を投なげんとせし時に是なる五八に助たすけられ今は五八方に居て初瀬留に見繼みつぎを受け不自由なくは消光くらし居れど何卒なにとぞ勘當かんだうの詫わびをせん爲に觀音へ參詣さんけいの處思はず其方に逢あひしなりと委細ゐさいの事を話せしに喜八は大に驚きしが先まづ以もつて五八殿とやらん御深切ごしんせつの段だん忝かたじけなし然さりながら親旦那も只一人の若旦那を僅わづか二千や三千の金位に御勘當ごかんだうとは餘りなり當分の見懲みごらしなるべきまゝ今にも私し參り御詫おんわび仕つらんなれども吉原に御在ござられて女郎の世話になり給ふと有りては御詫の妨さまたげ今より直すぐに私し方へ御供申さんと云ふにぞ五八も其理そのりに伏ふくし如何樣いかさま私し方に御出おんいで有ありては却かへつて御詫の妨げ此由初瀬留樣へも申べし自然しぜん御用もあらば御文は私し方へ遣つかはされよ御取次申べしと茲こゝに於て五八は吉之助を喜八に渡わたし別れてこそは歸りけれ偖さて此喜八は古河吉右衞門が方に十年の年季ねんきを首尾能しゆびよく勤つとめ上あげ吉右衞門より金五十兩貰もらひて穀物店こくもつみせを江戸へ出しけるが二年の間あひだに三度類燒るゐせうなし資本もとでを失うしなひしかば是非なく今は麻布原町あざぶはらまちに刻煙草きざみたばこの小店を出し其身そのみは日々糶賣せりうりをして女房に店は任まかせ漸々やう〳〵其日を送りけるが此喜八素もとより實體じつていなる者故に困こまればとて人に無心合力がふりよくなどは決けつして云し事なく幽かすかな渡世とせいにても己れが果福くわふくなりと斷念あきらめ其日を送りける然されば喜八は吉之助を連歸つれかへりしかど我が家は貧窮ひんきうにして九尺間口まぐちの煙草店たばこみせ故ゆゑ別べつに此方へと言所いふところもなく夫婦諸共ふうふもろとも吉之助を勞いたはると雖も夜よるの物さへ三布蒲團みのぶとん一を漸くに二人着きて寢ねし事なれば吉之助に着きせる物なく其夜は右みぎの三布蒲團を吉之助に着せ夫婦は夜中やちう辻番つじばんを抱だいて夜を明あかしけれども是にては主人を暖あたゝかに寢ねかす事ならず豫かねて金二分に質入しちいれせし抱卷かいまき蒲團ふとん有あれども其日を送る事さへ心に任まかせねば質しちを出す金は猶更なほさらなく其上吉之助一人口が殖ふゑ難儀なんぎの事故夫婦は膝ひざを突合つきあはせ相談なすに妻のお梅は漸く二十三歳にて縹緻きりやうもよく志操こゝろざし優やさしき者なるが夫をつとの難儀なんぎを見兼みかね何事も御主人樣ごしゆじんさまのお爲なれば此身を一年の間あひだ何方いづかたへ成なりとも水仕奉公みづしほうこうに遣られ其給金にて夜具蒲團を質請しちうけして御主人を暖あたゝかに休やすませられよ外ほかに思案は有まじと貞節ていせつを盡して申を聞き喜八も涙を流して其志操そのこゝろざしを感かんじ僅わづか二分か三分の金故妻を奉公に出さん事も口惜くちをしけれども外に工面くめんの致し方なく此上は一人の口を減へらすより外なしと近所きんじよの口入を頼みけるに早速さつそく能よき口ありて麻布あざぶ我善坊谷がぜんばうだに火附盜賊改ひつけたうぞくあらため組與力くみよりき笠原粂之進かさはらくめのしんと云ふ方へ中働なかばたらきに住込すみこみける是にてお梅の給金三兩の中うち取替とりかへ金きん二兩借かり内金一兩二分はお梅素より何一ツなければ夜具其外支度に掛殘りの二分は質物に入れたる夜具蒲團を請出うけいだし吉之助樣に着きせ進まゐらせられよとお梅は頓やがて奉公にこそ出でたりけれ


第二回


 然程さるほどに喜八は妻のお梅を奉公に出いだし取替とりかへとして金二兩借かり内一兩二分は支度したくに遣つかひ殘り二分を持もちて同町の質屋源右衞門方しちやげんゑもんかたへ行き當夏たうなつ入置いれおきし夜具蒲團を請出うけいだしけるに此質屋此邊このへんにての善よき身代しんだい故ゆゑ多く下質したしちを取りけるが今外より下質の金八十兩請取うけとり亭主ていしゆは財布さいふに入れけるを喜八熟ぢつと見て居たりしが心の中に偖々さて〳〵有處あるところには澤山たくさんに有るもの哉我は只二分の金にさし支つかへ妻を奉公に出せしに八十兩と云ふ金を石いしか瓦かはらの如く取扱ふ事偖々さて〳〵世よの渡世とせいの貧福ひんぷくは是非もなし我に八十兩の金あれば主人に不自由もさせず一ツには勘當かんだうの詫わびの種たねにもなり二ツには妻に辛つらき奉公はさせまじと倩々つく〴〵思ひ運めぐらす程ほど世の無端あじきなきを詫かこち爰こゝの身代にて八十兩位は我が百文の錢程にも思ふまじ何事も御主人の爲と思ひ那あの金八十兩を盜取ぬすみとらんと喜八が不圖ふと胸むねに浮うかみしは是これ災難さいなんの基もとゐなり夫より喜八は質物を我家わがやへ持歸もちかへりて吉之助を寢ねかし置おき其夜そのよ丑うしの刻こくとも思しき頃豫かねて研澄とぎすましたる出刄庖丁でばばうちやうを懷中くわいちうなし頬冠ほゝかぶりして忍び出いで頓やがて質屋の前へ行き四邊あたりを見るに折節をりふし土藏どざうの普請ふしんにて足代あししろの掛り居たれば是これ僥倖さいはひと其足代より登のぼりしが流石さすが我ながらに怖おそろしく戰々わな〳〵慄々ふるへるを漸くに踏ふみしめ勝手かつての屋根やねへ到いたらんとする機をり思ひも寄らぬ近傍かたへの窓まどより大の男ぬつくと出ければ喜八はハツと驚き既に足を踏外ふみはづさんとするに彼の男は是を見て汝は何者なるや我われ今宵こよひ此質屋へ忍び入り思ひの儘まゝに盜ぬすまんと今いま引窓ひきまどより這入はひりたるに屋根にて足音あしおとする故不思議ふしぎに思おもひ出來いできたりたり汝聲を立てなば一討うちと氷こほりの如き刄やいばを突付つきつける故喜八は増々ます〳〵驚き齒の根ねも合ざりしが漸くに息いきを呑のみこみ私しことは此家このやへ盜賊たうぞくに這入はひらん爲に只今屋根へ登のぼりしなり見遁みのがしたまへと申ければ彼男は微笑ほゝゑみナニ盜賊に這入らんとする者が其樣に震ふるへては所詮しよせん盜ぬすむ事出來ず偖さては貧ひんに迫せまりし出來心の新しんまい盜人どろばうかと云ふに喜八仰せの通とほり何をか隱かくし申すべき私しは此谷町に住すむ喜八とて幽かすかに暮くらす者なるが昨日主人の若旦那を私し方へ預あづかり候處夫婦の着きたる三布蒲團みのぶとん一ツの外ほかはなく金の才覺さいかくは尚なほ出來ず是非なく妻を奉公に出いだし取換とりかへの二分にて質しちに入置いれおきし夜具を請うけに先刻さきほど此家へ參りし處八十兩の金を掛硯かけすゞりの引出しへ入置處いれおくところを見たるに付何卒なにとぞ是これを盜ぬすみ御主人の不自由を救すくひ勘當の詫わびの種にも爲なし又妻をも取戻とりもどして消光度無くらしたくなくては叶かなはぬ金子故主しうの爲には親をも捨すてる習ならひ後日に我が首を切きらるゝ如きは容易おろかと思ひ道ならぬ事乍ながら盜ぬすみに參りしと有ありの儘まゝに語りければ彼の男是を聞き汝が見たる八十兩は是なるやと懷中くわいちうより取出して見せければ如何にも是にて候と云に彼の男喜八の體ていを見て其方其如く慄ふるへては此金を取らん事思ひも寄よらず今云事の僞いつはりにも有あるまじ主しうの爲の出來心にて盜みに來りしと正直しやうぢきに云ふ事の憫然あはれなれば此金を汝に與へん間主人しゆじんの難儀なんぎを救すくひ妻をも取戻とりもどせと財布さいふの儘まゝ喜八に渡しけるにぞ喜八は押戴おしいたゞき偖々さて〳〵世の中に其許そのもとの如き盜賊は稀まれなるべし命を的まとに掛て取りたる金を我に與へ給ふは誠に有難ありがたし然らば申受んと涙を流し此御恩このごおんは死すとも忘わすれ申さず何卒なにとぞ其許そのもとの御名を聞きかせ給はるべしと云ひければ彼の男點頭うなづき我は田子たごの伊兵衞いへゑと云ひて一通とほりの盜賊に非ず百兩や二百兩の金は然さのみ大金とも思はず今迄いままで火附ひつけ人殺ひとごろし夜盜等よたうとうの數自分ながらも何程か知れず明日にも召捕めしとられ其罪科そのざいくわに行おこなはれなば汝今の情なさけを思ひ我が亡跡なきあとを弔とふらひ呉くれよ此外に頼み置事おくことなし汝に逢あひしも因縁いんえんならん疾々とく〳〵見付られぬ中うち歸るべし〳〵我は未いまだ仕殘しのこしたる事ありと云ひつゝ又また引窓ひきまどよりずる〳〵と這入はひり質物しちもつ二十餘品を盜ぬすみ出し其上そのうへ臺所だいどころへ火を付何處いづく共ともなく迯失にげうせけり折節をりふし風かぜ烈はげしく忽ち燃上もえあがりしかば驚破すは火事くわじよと近邊大に騷ぎければ喜八はまご〳〵して居たりしが狼狽うろたへ漸々やう〳〵屋根よりは下おりたれ共足あし縮ちゞみて歩行あゆまれず殊に金子と庖丁はうちやうを懷中くわいちうに入れし事なれば若し見咎みとがめられては大變たいへんと早々迯出にげいだす向ふより火附盜賊改め役奧田主膳殿おくだしゆぜんどの組くみの與力同心を二三十人連て此處へ來らるゝ故喜八は夫と見るより一趁さんに駈拔かけぬけんとしけるを奧田が組下くみした山田やまだ軍平ぐんぺいと云者喜八が形かたちを見て怪あやしみ曲者くせもの待まてと聲を掛ながら既に捕とらへんと喜八の袖を押おさへしにぞ喜八は一生しやう懸命けんめいと彼の出刄庖丁にて軍平が捕へたる片袖かたそでを切きつて早くも人込ひとごみの中へ迯込にげこんだり軍平も後あとより追駈おつかけけれども終に見失みうしなひ切たる片袖は軍平が手に殘のこりければ奧田が前へ持出もちいでて只今火附を捕へんとせし處斯の如く袖を切りて迯行にげゆき候と申けるに奧田殿扨々さて〳〵夫それは惜をしき事なり然らば切たる袖は後の證據とならん是へとて右の袖を見らるゝに辨慶縞べんけいじまの單物ひとへもの古ふるきを茶に染返そめかへしたる布子ぬのこなり是は取置とりおけと申付られ頓やがて火も鎭しづまりしかば皆々火事場を引ひかれけり扨又喜八は危あやふくも袖を切て其の場を遁のがれ漸々やう〳〵我家へ歸りて胸むね撫下なでおろし誠に神佛の御蔭おかげにて助たすかりたりと心の内に伏拜ふしをがみ吉之助には火事にて驚きたりと僞いつはり彼の八十兩の金は戸棚とだなの隅すみに重箱有りける故其中へ入いれ置おき既すでに休やすまんとする時表の戸を叩たゝく者もの有あり偖さては役人後を追來りしかど更に心も落付おちつかず返事さへ碌ろくにせざれば表には又々また〳〵叩たゝき早く此處をお開下あけくだされと云ふを聞けば女の聲なる故不思議ふしぎに思ひ少すこし戸とを明あけ其許そのもとは何用有て此の夜更よふけに來られしや云ふに彼女私しは吉原より參りし者なり吉之助樣にお目に懸かゝりたしと云ふ聲初瀬留成なれば吉之助は奧より走出はしりいで大いに驚き如何して夜中やちう遙々はる〴〵の處を來りしや先まづ此方こなたへ這入はいられよと云ふに初瀬留は御免成ごめんなされと戸口を入り漸々やう〳〵に胸むね撫下なでおろし餘りの御懷おなつかしさに今宵こよひ廓くるわを逃亡かけおちして此處へ來りしと物語ものがたりなど彼是なす中程なく夜も明あくるにぞ喜八は起出おきいで引窓ひきまどを明け釜元かまもとを焚付たきつけ扨々昨夜ゆうべは危き事かなと一人云いひつゝ吉之助初瀬留をも起おこさんとしける折をり昨夜さくや喜八を捕とらへたる山田軍平は朝湯あさゆの歸り掛け煙草たばこを買かはんと喜八の店みせに立寄たちよりしが未だ表おもては締しまり居る故煙草たばこを呉くれと聲を掛かけしかば喜八ハイと答へて揚戸あげどを上あげる時とき袂たもとの斜はすに引裂ひきさけてあるゆゑ軍平は眼めを留とめて見るに縞柄しまがらも昨夜の布子ぬのこに相違さうゐなければ直すぐに召捕んとせしが取迯とりにがしては一大事と然有さあらぬ體ていにて煙草を買ひて歸りがけ直すぐに笠原粂之進かさはらくめのしんの方かたへ行き夜前やぜんの火付は原町の煙草屋喜八と云ふ者なり今朝こんてう私し煙草を買かひ候時渠かれが布子の縞しま能よく似にたれば心を付て見るに袂たもとの切れてあり然さすれば昨夜の火付は渠かれの業わざに相違なく早々さう〳〵召捕めしとり給へと申するに粂之進然しからば取迯とりにがさぬ樣支度したくせよとて手配てくばりにぞかゝりける喜八は如何に周章あわてしや昨夜の布子を着替きかへもせず居たりしは拙つたなき運と知られけり茲に原町の家主に平兵衞へいべゑと云ふ者あり近邊きんぺんにて評判の如才じよさいなき男にて至つて慈悲じひ深ふかく人を憐あはれみけるが平生へいぜい喜八の正直なる心を感かんじ何時も憫然あはれを掛かけける處に町内の自身番屋じしんばんやへ火附盜賊改役奧田主膳殿組下與力笠原粂之進は同心を引連ひきつれ來きたりて平兵衞を呼び其方そのはう店子たなこ煙草屋たばこや喜八事御用の筋すじ有あるに依より案内あんない致せとて平兵衞を先に立て同心二人喜八が宅たくへ來り御用の聲と諸共もろともに高手たかて小手こてに喜八を縛いましめ引立ひきたて行ゆくにぞ吉之助初瀬留は大いに驚き是は如何にと呆あきれ果はてたるばかりなり斯くて粂之進は彼の切れたる袖と喜八が着きたる布子を合せ見るにしつくりと合あひければ扨は此者に相違さうゐなしとて家内を檢査あらためしに戸棚の隅すみの重箱に財布さいふに入りたる金八十兩有りければ彌々いよ〳〵盜賊火附に極きはまりしと此趣このおもぶきを添状そへじやうにて町奉行大岡殿へ引渡ひきわたし吉之助初瀬留の兩人は家主いへぬしへ預あづけられたり偖さて喜八儀は火附盜賊に相違なしとて送りに成なりしかば直樣すぐさま入牢じゆらう申付られしに付き家主平兵衞は喜八を片蔭かたかげへ招まねき段々だん〳〵の樣子を聞きくに喜八は主しうの爲ため妻を奉公に出し其給金にて質しちを請出うけだし八十兩の金を見て不圖ふと出來心できごころより其夜忍び入りて伊兵衞と云へる盜賊に右の八十兩を貰もらひし迄まで現ありのまゝ具つぶさに語かたりけるにぞ家主は始めて是を聞きゝ憫然あはれに思ひ如何にもして御慈悲おじひを願ひて見るべしと夫より平兵衞は宅たくへ歸り吉之助初瀬留に對むかひ偖々さて〳〵喜八は憫然あはれにも是々の事により最早もはや近々ちか〴〵御所刑おしおきに成なるべし偖々是非もなき事なりと語りしかば吉之助大いに驚き扨は喜八事我が爲の出來心にて盜ぬすに入り既に御所刑にならんとか然さすれば我が手で殺すも同じ事なり同人を殺し汚面々々をめ〳〵と我而已われのみ生いきて勘當かんだう免ゆるさるゝとも何の悦よろこびか有あらん我も冥土めいどの途連みちづれせんとて既に首を縊くゝるべき體ていなれば初瀬留も是を聞き其元の起おこりは皆私し故なれば倶々とも〴〵死しなんと同じく細帶ほそおびを梁はりへ掛かけるにぞ家主は慌あわて狼狽ふためき漸々やう〳〵と兩人を止とゞめ今二人とも此處にて死なれては我一人の難儀なり何分なにぶん此儀このぎは我等に任まかせ給へよしや無事に行ゆかず共切せめては喜八が御慈悲願おじひねがひを致して見ん夫に就て急々きふ〳〵古河こがへ相談さうだんなし度たきものなれども外の人を遣つかはしては事の分わかるまじければ詮方せんかたなし我古河へ行きて吉右衞門殿に面談めんだんを遂とげ其上喜八が命乞いのちごひ首尾しゆび能よく濟すまし申べし其間そのあひだ必ず〳〵御兩人とも短見はやまり給ふなと異見いけんをなし妻にも能々よく〳〵云付いひつけ置おき長屋の者を頼みて平兵衞は早々さう〳〵調度したくをなし下總しもふさの古河へぞ赴おもむきける


第三回


 偖も家主平兵衞は古河をさして道を急いそぎ程なく穀物屋吉右衞門方へ尋たづね到いたり某それがしは江戸麻布原町家主平兵衞と申者なるが此方こなたの御子息ごしそく吉之助殿の事に付て少々せう〳〵御相談ごさうだん申度儀之あり故意々々わざ〳〵參りたり吉右衞門殿御在宿ございしゆくかと申入いれけるに番頭其事を主人に告つげしかば奧より吉右衞門立ち出來り互たがひに一禮終をはりて平兵衞を奧へ伴ともなひけるに平兵衞状かたちを改あらため拙者せつしや店子たなこの喜八と申者元は其許樣の方に勤つとめしとの事なるが此度このたび不慮ふりよの災難さいなんにて火附盜賊に陷おちいり召捕めしとられたり其原そのもとの起りは御子息ごしそく吉之助殿故なり其譯そのわけは斯樣々々の事なりと淺草あさくさにて吉之助に逢あひしより喜八方へ引取り勘當かんだうの詫わびをせんと妻を奉公に出いだし夫より不圖ふと出來心にて質屋しちやへ夜盜よたうに入りし事顯あらはれ既に御仕置おしおきにも極まる由夫故御慈悲願おじひねがひをせんと存ずる處に又吉原より女郎初瀬留吉之助殿を慕したひ逃亡かけおちして來りし處喜八が右の一件に付兩人共生ては居られぬ其原そのもとの起りは吉之助殿初瀬留が故なりとて既すでに縊くびれんとするを漸々やう〳〵宥なだめ賺すかし置おき何卒なにとぞ喜八が罪を助けたく態々わざ〳〵是迄參りたりと具つぶさに話しければ吉右衞門夫婦は大いに驚き偖々夫は御深切ごしんせつ忝かたじけなし悴せがれを勘當かんだう致せしも當分の見懲みこらしと存ぜしなり五八とやらは幇間たいこなどに似合にあはぬ深切なる者又初瀬留事も誠まことに惜をしき心底しんてい其樣な女ならば傾城けいせいにても苦くるしからず身請みうけ致し夫婦に致さんと存ずるが何卒なにとぞ御世話下されまじきやと母の頼みなれば吉右衞門も平兵衞に對むかひ何卒此上は貴殿きでんへ御任せ申間宜敷御取計おとりはからひ下され候樣にと申にぞ家主平兵衞夫は何より易やすき事吉之助殿并ならびに初瀬留の事は我等預あづかり置おきし儘まゝ案事あんじ給ふに及ばず兎角目前に喜八が難儀なんぎを救すくひ度たく存ぞんずるなり因ては我等と倶ともに江戸へ出府しゆつぷ有あるべしと申にぞ吉右衞門も委細ゐさい承知なし金子は何程なにほど入りても苦しからず何分なにぶん宜よろしく頼み申と夫より吉右衞門平兵衞の兩人は駕籠かごにて晝夜ちうやを急がせ江戸へ出しが是迄老中松平右近將監殿へ度々用金を指出さしいだせし縁えんも有あればとて吉右衞門は屋敷へ到いたり喜八の一件を歎願たんぐわんせしに最早もはや罪科ざいくわ極きはまり御所刑おしおき付づけへ老中方の判も据すわりたり今少し早くば致方も有あるべきに今更是非なしとの事なれば吉右衞門平兵衞共に途方とはうに暮くれ寥々すご〳〵と歸りしが吉右衞門は如何程いかほど金子入用にても何卒喜八を助けんとて種々いろ〳〵と平兵衞に相談する機をりから思ひも寄らず喜八が妻のお梅主家しうかを遁のがれ歸りけるが此主人は先達さきだつて喜八を捕とらへ出したる盜賊改め奧田主膳殿組與力笠原粂之進にて則すなはち此家へお梅奉公致しけるが此粂之進獨身どくしんゆゑ此お梅の縹緻きりやう宜よきに戀慕れんぼし種々いろ〳〵と口説くどくと雖も此お梅貞節ていせつの女なれば決して從したがはざるにより彌々いよ〳〵粂之進思ひを増まし種々いろ〳〵に手を變かへ云いひ寄よるゆゑ夫をつと喜八と申者在ある中うちは御心に從ひては女の道立たち申さずと一寸すん遁のがれに云拔いひぬけけるを或時粂之進茶ちやを汲くませ持來もちきたる其手を捕とらへ是程までに其方を執心しふしんし種々口説くどけども夫をつとある故從ひ難しと申が夫なくんば我が心に從ふやと云ふにお梅は差俯向さしうつむきしまゝ答へをなさざれば其方夫をつと有ると思ふかや夫をつとは疾はや亡なき身みなり因て我に隨したがふべしと云ひければお梅は不審いぶかり何故なにゆゑ夫をつとなしと云ひ給ふと問とふに粂之進は微笑ほゝゑみ其方が夫喜八は火附盜賊をなし町奉行所へ送られたれば近々きん〳〵御所刑おしおきに成なるべし其妻の其方なれば同罪どうざいなれども我其方を深ふかく隱かくし是まで恙つゝがなく置おきしは全まつたく我が恩なり因て我に從ひ申すべし所詮しよせん喜八が命は助たすからぬなりと云ひければお梅は大いに驚きしが是は粂之進我を手に入れんが爲の僞いつはりならんと思ひ夫は何故火附盜賊をば致せしやと云ふに粂之進は喜八が火附盜賊に陷おちいりし始末しまつも殘らず話しければお梅はハツとばかりに胸むね閉ふさがり暫しばし詞ことばもなかりしが偖々情なさけなしと思ひ粂之進に對むかひ何卒私しに御暇下さるべし夫をつとと共に御所刑おしおきに成なり申べし科人とがにんの女房を御免成おゆるしなされて御役目の障さはりに成なるべしと申けるを粂之進首かうべを振ふり我其方に心を懸かくればこそ沙汰さたなしに致し置おきたり其恩を思はゞ我方わがかたに居よ暇いとまは出すまじと無體むたいに引寄ひきよせるをお梅は突退つきのけ耳みゝにも入れず若もし御暇下おいとまくだされずは逃亡かけおちしても宿やどへ參らんと云へば粂之進大いに憤いきどほり斯程迄かほどまでに心を盡つくしたる甲斐かひもなく辛つらかりし事思ひ知らせん隨したがへばよし隨したがはすは斯かくの通とほりと刀を拔ぬいて胸先に押當おしあつれどもお梅は夫をつとの事のみ心に懸かゝり勿々なか〳〵怖おそるゝ容子ようすもなく殺ころさば殺し給へ決して隨ふまじと罵のゝしる故ゆゑ粂之進は刀を拔ぬきは拔たれども素もとより殺す心なければ納をさめ方かたに困こまり居るを中間ちうげん七助と云ふ者先刻せんこくより此樣子を見て心こゝろ可笑をかしく走り出で主人を止とゞめ先々まづ〳〵御待下おんまちくださるべし只今彼方にて承まはりしが御立腹ごりつぷくは御道理ごもつともなり然しながら女を手に入れんと思召おぼしめさば欺だますに如しくなし是は私しに御任せ有るべしお梅に篤とくと申聞きかせ御心に隨ふ樣得心とくしん致させ申べし先々御刀おんかたなは御納おんをさめ下されよと云ふを幸さいはひに粂之進は刀を納め彌々いよ〳〵其方そのはう取持呉とりもちくれんとならば任する程に能々よく〳〵仕課しおほせ手に入れよ是は當座の褒美はうびなりと金三兩投出なげいだせしかば七助有難しと押戴おしいたゞくを又不承知なれば其金を取返とりかへすぞ然樣さやう心得こゝろえよと云ふ處へ御廻おまはり御出と觸來ふれきたるにぞ則ち粂之進も支度したくをして廻り場へ出行いでゆきけり跡あとには七助お梅に對むかひ所詮しよせん其方そなたも旦那は嫌いやなるべし我われ取持とりもちせん事も骨折損ほねをりぞん出來ぬ時は却かへつて首尾しゆび惡わろし然らば其方には少しも早く此處を逃亡かけおち致されよ我も辯解いひわけなければ是より宿へ歸る可べし三十六計けい走るに如しかじ我が宿やどは牛込うしごめ改代町かいたいまち芋屋いもや六兵衞と云者いふものなり用事有らば云越いひこし給へと兩人云合いひあはせ早々に支度したくして七助は牛込お梅は平兵衞方へ迯歸にげかへりしなり然されば委細の譯わけを物語るにぞ平兵衞は聞終きゝをはり是は喜八を助くる手段しゆだんも出來たりと云へば吉右衞門夫それは何故ぞと云ふ平兵衞は膝ひざを進すゝめ喜八が科とがなき次第を女房に呑込のみこませ斯樣かやう〳〵訴状そじやうに認したゝめ喜八を助け申さん何事も我に任せ給へと頓やがてお梅に駈込訴訟かけこみそしようの仕樣を教をしへ願書を認め是を以て奉行所ぶぎやうしよの門を入り右の方の訴へ所へ行き斯々かう〳〵致すべし然されど主人を相手取あひてどる公事くじなれば白地あからさまには訴へ難し唯たゞ何なにとなく樣子あり氣げに暇いとまを呉くれ候樣に御願ひ申すとばかり認め是をお梅に持もたせ平兵衞同道にて奉行所の屋敷やしき近邊きんぺんまで附添行つきそひゆき那あの門より這入はいれと教へて立歸りしかばお梅は素足すあしに成りて奉行所の門より訴訟所うつたへじよへ行き御願ひ申上ますと云ふに役人是を聞きゝ町役人を以て願へと雖も聞入きゝいれず叫さけびける故頓やがて門外もんそとへ送り出すにぞお梅は腰掛こしかけにて暫時しばし休息きうそくし又々訴訟所へどつさり坐すわり以前の如く申故又々送り出され最早もはや夜に入り門も鎖しまりければ是非無なく腰掛こしかけに夜を明し居るに其夜平兵衞竊ひそかに辨當べんだうを持來りて與へ明日御奉行樣御登城掛を待ち受け御駕籠おかごに付て願ふべし御駕籠の中うちより何事ぞと尋たづねらるゝ時とき夫をつとの難儀なんぎ御救おんすくひの御慈悲を願ひ上あげますと云ふべし御奉行樣おぶぎやうさま今は登城前とじやうまへなり後迄のちまで腰掛に控ひかへよと有らば其時又また茲こゝへ來りて休息きうそくせよ晝時分ひるじぶん呼込よびこみある時駕籠の訴への女をんな罷出まかりいでよと有らば御門へ入り左の方より白洲しらすの溜たまりへ行て控ひかへ居をり御呼出およびだしにて御白洲へ出いで此訴状を出すべし御奉行樣の傍そばに居る目安方めやすかたの御役人是を讀上よみあげ此書付このかきつけは何者が認めたるやと御尋おたづねの時我われ書かきたりと云ひては惡わるし因て昨日御門へ這入はひり兼かねて御門前を胡亂々々うろ〳〵致いたし候處へ御武家樣おぶけさま御通り掛り成れ候て其方は駈込訴訟かけこみそしようかと御聞成おきゝなされ候間然樣さやうなれども如何して宜敷よろしきやと承まはり候へば斯樣々々かやう〳〵致せと御教へ成なされ其上訴状は持來もちきたりしかと御尋おんたづね故ゆゑ之なくと申ければ然しからば認め遣つかはすべしとて記しるして下され候と申べし夫それさへ云へば後あとは此方の物向むかふが大岡樣なれば何事も察さつし有あるべしと教へ平兵衞は我が家に歸りけるにお梅は悦よろこびつゝ夜の明あくるをも待詫まちわび居たるに姑しばらくして夜も明放あけはなれ辰刻過頃いつゝすぎごろ大岡殿登城の樣子にて供廻ともまはり嚴重げんぢうに立出られしかば平兵衞の教をしへの如くお梅は駕籠訴かごそに及びしに腰掛に控へよと申付つけられ頓やがて呼び込に相成あひなり白洲しらすに於て訴状の趣おもむき御尋ね有りしかば是又教へられし通とほり申立たて目安方めやすかた之を讀上る時大岡殿お梅に向むかはれ其方主人へ暇いとまを願へども出いださず其上そのうへ度々たび〳〵不義ふぎ申掛かけしを夫をつと有ある身みなれば隨はざるにより刄を以て威おどすゆゑ願ふと有共あれども今いま此處このところへ粂之進を呼出よびだし此事を問とはんに然樣の事覺えなし又不義仕掛たる事も候はずと云いふ時ときは互ひに水掛論みづかけろんにて證據なければ主人を相手あひてに公事くじをなすのみ成ならず奉公人の方より主人へ無理暇むりいとまを乞こふ事不屆なり此儀は其方は何んぞ證據ありやと問とはるればお梅は謹つゝしんで答こたふる樣其儀は牛込改代町十郎兵衞店たな六兵衞方の同居七助と申者證據人に御座候と申立るにより然からば其七助を呼出よびいだすべしと差紙さしがみに付町役人七助を召連めしつれ罷出まかりいでければ大岡殿何歟なにか思おぼさるゝ事ありて此日は吟味ぎんみもなく追おつて呼出よびいだすまで七助梅は家主へ預あづけると申付られけり


第四回


 茲こゝに又また田子たこの伊兵衞は質屋しちやの火付盜賊ひつけたうぞく召捕めしとられ近々きん〳〵引廻ひきまはしにでる由よし噂うはさを聞きゝ偖さては我八十兩りやうを遣つかはしたる喜八とやらん捕とられたるや又外に有事あること成なるかと不審ふしんに思ひ能よく聞きけば其人そのひとは全く彼の喜き八に相違さうゐなく火付盜賊に陷おちいり近々きん〳〵に火罪ひあぶりとの事なりしかば田子たこの伊兵衞いへゑ思ふは科とがなき者を無實むじつに殺させん事不便ふびんなりとて我と名乘なのりて奉行所ぶぎやうしよへ出いで火付ひつけ十三ヶ所しよ人殺ひとごろし七人にん夜盜數かず知しれず其中そのうち麻布あさぶ原町はらまち質屋しちやへ這入はいり金子きんす八十兩りやう代物しろもの二十五品しな盜ぬすみ候由よし白状はくじやうに及びしかば大岡殿おほをかどの喜き八を牢らうより呼出よびいだし兩人りやうにん對決たいけつの時大岡殿喜き八に對むかはれ其方質屋しちやの火附盜賊ひつけたうぞくなりと申せども其科そのとが人外より出たり此者このものが則すなはち其盜賊伊兵衞なりとて自訴じそに及およびしと申されければ喜き八は彼の伊兵衞いへゑを見て驚おどろきたる體ていなりしが其盜賊は全まつたく私わたくしなり那あの者は御助おんたすけ下さるべしと申けるを聞きゝ伊兵衞は喜き八に對むかひ汝は我が先達さきだつての寸志すんしを報むくはんとて命を捨すてて我を助たすけんと云いふ心底しんていは嬉うれしけれども其そは無益むえきの事なり我は其外そのほかにも科とが多おほければとても遁のがれぬ身みなるにより尋常じんじやうに科とがを蒙かうむらんと申にぞ喜八は差俯向さしうつむいて詞ことばなし大岡殿暫時兩人りやうにんの詞ことばを聞きゝて甚はなはだ感かんじられ伊兵衞事いへゑこと八十兩喜き八に遣つかはした儀ぎ相違さうゐなきや然しからば追おつて詮議せんぎすべし今日こんにちは先まづ下さがれとて兩人りやうにん倶ともに牢らうへ下さげられしが其後そののち程ほど過すぎて兩人りやうにん并ならびに彼の笠原粂之進かさはらくめのしんも呼出され其外家主いへぬし平兵衞へいべゑお梅うめ白洲しらすへ罷出まかりいでるに大岡殿おほをかどの粂之進くめのしんに對むかはれ此梅と云いふ女をんな其方に奉公ほうこう致いたせし哉やと尋たづねらるゝに粂之進くめのしん然樣さやうにて候と答こたふるを大岡殿夫をつとの難儀なんぎとあつて暇いとまを願ねがふに何故暇いとまを出されずやと有あれば粂之進くめのしん則すなはち暇いとまを遣つかはして候と云をお梅うめ否々いへ〳〵暇いとまは一向かう出し申さず候と申に家主平兵衞も進み出いで先達さきだつて梅事うめこと私わたくしへ御預おあづけの間あひだ委細ゐさい承うけたまはり候處ところ粂之進殿くめのしんどの暇いとまを遣つかはされず候に付つき據よんどころなく御願ひ申上あげし旨むね梅うめ申聞候といふにぞ大岡殿粂之進くめのしんに對むかはれ斯樣かやうに難儀なんぎ致いたす者を止置とめおき候事心得こゝろえずと申されしかば粂之進くめのしん冷笑あざわらひ都すべて奉公人ほうこうにん主人に暇いとまを願ねがふには人代ひとかはりを以て願ねがふべき筈はずなり夫それに然樣さやうの事もなく夫故それゆゑ暇いとまは出し申さずと云放いひはなしければ大岡殿某それは何を云るゝや只今たゞいま暇いとまは遣つかはしたりと申せし口くちの下より人代ひとかはりなき中は出いださずとは前後ぜんご揃そろはぬ申條でう殊更ことさら夫の難儀なんぎと有あるに人代ひとかはりを出す隙ひまの有べきや其方は情なさけなき爲方しかたなり是には何か樣子やうすあらんと云いはれしかば粂之進くめのしん心中しんちう憤いきどほり小身せうしんなりとも某それがしも上の御扶持ごふちを頂戴ちやうだいし殊ことに人の理非りひを糺たゞす役目なり奉行ぶぎやうには依怙贔屓えこひいきありて某それがしばかり片落かたおとしに爲給したまふならんと言せも果はてず大岡殿おほをかどの發打はつたと白眼にらまれ依怙贔屓えこひいきとは慮外りよぐわい千萬なり此梅を抱かゝゆる時とき請人うけにんは何者が致いたしたるやと有あるに粂之進くめのしん夫は則すなはち夫をつと喜き八に候と云大岡殿重かさねて其喜そのき八は火付盜賊に相違さうゐなしとて某それがし方へ添状そへじやうを以て此程このほど送おくられたる其許そのもとが何故なにゆゑ科人とがにんの妻を役やくをも勤つとむる身分みぶんとして其儘そのまゝに召仕めしつかひ置おきたるぞや假令たとへ當人たうにんより申出ずとも其方そのはうより暇いとまを出すべき筈はずなり此故に何か樣子やうす有あらんと申せしなり定さだめて不義ふぎを申掛かけたる成ならんと申されしかば粂之進くめのしんグツとさし閊つかへしがナニ不義ふぎなど申掛かけたる覺おぼえ曾かつて之なしと云に大岡殿おほをかどの牛込改代町かいたいまちの者もの呼出せと申されしかば發はつと答こたへて彼の中間ちうげん七助すけを白洲しらすへ連來つれきたるを粂之進くめのしんは見てハツと思へども態わざと何氣なく那あの者は拙者せつしや方にて取迯とりにげ致いたし候者と云乍いひながら七助すけに向むかひ偖さては其方梅うめと密通みつつう致いたし我わが金子きんすを奪うばひ迯亡かけおちさせつるか憎につくき奴やつ今茲に於て何事なにごとをか云いふ詞ことばを出さば手ては見みせぬぞと眼めを瞋いからしけるを大岡殿おほをかどの粂之進くめのしんに對むかはれ渠かれは拙者せつしやが尋たづねる仔細しさい有あつて呼出せしなり決けつして構かまふまじ如何いかに七助すけ有樣に申せと云れければ七助すけは夫見ろと云いふ面色にて粂之進くめのしんを見ながら如何いかに私わたくし事下部しもべは致いたし候へども取迯とりにげなど仕つかまつりし覺おぼえ御座ござなく是迄まで多く粂之進くめのしん方へ女中の奉公ほうこう人來り候へども一ヶ月とは勤つとめず何いつれも早々さう〳〵に暇を取とり下さがり候故ゆゑ不審ふしんに存ぞんじ候處ところ此度このたびも又梅事暇いとまを願ねがひ候間あひだ容子ようすを窺うかゞひしに不義ふぎを申掛かけられ承知しようちせぬとて刄物三昧はものざんまい致いたしゝに付つき其節せつ私わたくし中へ入て取鎭とりしづめ候へば金三兩呉られ候て取持とりもち候樣やう申付られ候へども梅事は貞節ていせつの女をんなゆゑとても叶かなはぬ事と存ぞんじ私しは申譯わけなきにより宿やどへ迯歸にげかへり候と具つぶさに申立たつる廉々かど〳〵粂之進くめのしんは面目めんもく青あをくなり赤あかくなりしが差俯向さしうつむきて控ひかへ居ゐるを大岡殿おほをかどの粂之進くめのしんを白眼にらまれ其方只今たゞいま公邊かみの祿ろくを頂戴ちやうだいし御役を勤つとめ人の理非りひをも糺たゞす身の上と云ながら誠まことの火付盜賊は是なる伊兵衞を差置さしおき科とがなき喜八を捕とらへ熟とくと吟味ぎんみもなく送おくり状じやうを添そへて此方へ送おくられ拙者迄せつしやまでに落度おちどをさせ重々ぢう〳〵の不調法ぶてうはふ斯樣かやうの不埓ふらちにて御役が勤つとまるべきや不屆ふとゞき至極しごくなり揚屋あがりや入いり申付ると有ありしかば同心飛とびかゝり粂之進くめのしんの肩衣かたぎぬを刎はねたちまち繩なはをぞ掛かけたりける斯かくて七助すけとお梅うめは家主へ預あづけ粂之進くめのしん揚屋あがりや入いり喜八伊兵衞いへゑは牢らうへ戻もどされけり偖さて翌日よくじつ大岡殿登城とじやう有ありて月番の御老中ごらうぢう松平右近將監殿まつだひらうこんしやうげんどのへ御逢おあひを願ねがはれ何卒なにとぞ私わたくし儀ぎ御役御免下ごめんくださるべしと云いはれしかば何故退役たいやくを願ねがはるゝやと申さるゝに大岡殿此度このたび煙草屋たばこや喜八裁許さいきよ違ちがひ科とがなき者を科人とがにんに陷おとし既すでに上へ言上に及び各々おの〳〵樣さま御判ごはんも据すわり候處ところ外より盜賊出しかば全まつたく越前守ゑちぜんのかみ越度をちどに付御役御免ごめん願ねがひ奉つる此段このだん宜敷よろしく御披露ごひろう下さるべしと申述のべられしかば右近將監殿うこんしやうげんどの大おほいに驚おどろかれ先々まづ〳〵輕擧給はやまりたまふな篤とくと同列どうれつとも談じ合あひ言上に及んとて御老中方ごらうぢうがた評議ひやうぎの上言上ごんじやうに及ばれしかば將軍しやうぐん吉宗公よしむねこう以もつての外ほか驚おどろかせ給たまひ直すぐに大岡殿を御前へ召めされ汝必ず輕擧はやまる事勿なかれ未いまだ其者刑罰けいばつに行はざれば再應さいおう取調とりしらべ此後迚とても出精しゆつせい相勤あひつとむべしと上意有しかば大岡殿御仁ごじん惠の御沙汰さた畏かしこまり奉たてまつると感涙かんるゐを流され御前を退出たいしゆつせられけり時に享保きやうほ十年八月廿四日双方さうはう呼出しの面々めん〳〵は笠原粂之進かさはらくめのしん煙草屋喜八家主平兵衞へいべゑ田子たごの伊兵衞中間ちうげん七助等なり大岡殿大音たいおんにて粂之進くめのしん儀ぎ刑法けいはふ役をも勤つとめ候身分にて盜賊たうぞくの人違ひとちがひ罪つみ無なき喜八を科とがに陷おとしいれる而已のみならず其妻に不義ふぎを申し掛し段だん不屆ふとゞきの至なり依よつて二百五十俵ぺう召上めしあげられ重おもき刑罪けいざいにも處しよせらるべき處格別かくべつの御慈悲おじひを以打首うちくび次つぎに七助事主人を欺あざむき私しに宿やどへ下り候は不埓ふらちなり然しかりと雖も御公儀おかみを僞いつはらざる故ゆゑ過料金くわれうきん三兩次つぎに盜賊伊兵衞儀ぎ重罪ぢうざいなれども神妙しんめうに名乘なのり出其上喜八を助たすけ候段だん奇特きどくに付御慈悲おんじひを以て多くの罪つみを宥ゆるし伊豆大島へ遠島ゑんたう次つぎに煙草屋喜八は構かまひなし妻つま梅構かまひなし家主いへぬし平兵衞此度の働はたらき町人には奇特きどくの儀ぎに付譽ほめ置おく右みぎの通申渡わたされ双方さうはう一件けん落着らくちやくせり偖さて穀物屋こくものや吉右衞門は女郎初瀬留はせとめを八百兩にて請出うけいだし嫁よめとなし吉之助きちのすけが勘當かんだうをも免し目出度めでたく夫婦ふうふとして喜八夫婦には横山町よこやまちやう角屋敷かどやしき穀物店こくものみせに三百兩附つけて與あたへ家主平兵衞へいべゑへは右みぎ横山町よこやまちやう地面ぢめん間口まぐち十間けん奧行おくゆき十八間けんの怙劵こけんに種々いろ〳〵音物いんもつを添そへ悴せがれ夫婦ふうふ并ならびに喜八が是まで厚あつく世話せわに成なりし禮れいとして遣つかはし又また吉原よしはらの男藝者をとこげいしや五八は心實しんじつなる者故吉右衞門きちゑもん悦よろこびの餘り悴せがれが命いのちの親なりと號がうし禮金れいきん三百兩を贈おくり又また初瀬留はせとめよりも衣類いるゐ其外目録もくろくにして委細ゐさいの文を添そへ種々いろ〳〵禮物れいものを贈おくりけるゆゑ五八は俄にはか分限ぶげんとなり何れも其家々そのいへ〳〵繁昌はんじやうなせし事實に心實しんじつ程ほど大切たいせつなるものはなしと皆々感じけるとなん


煙草屋喜八一件 終

村井長庵一件

村井長庵むらゐちやうあん一件いつけん


第一回


 積善せきぜんの家には餘慶よけいあり積惡せきあくの家には餘殃よあうありと宜むべなる哉かな此篇このへんに載のする所の村井長庵の如き表おもては醫術いじゆつを業わざとし内は佞邪奸惡ねいじやかんあくを恣ほしいまゝにして己おのれが榮利えいりを盡つくさんと欲ほつす然れども天網てんまう爭いかで此惡漢わるものを通さん其咎とがめを蒙かうぶるに及んでは僞りて遁のがるゝ道みちなく飾かざつて覆おほべきの理なく然されば大岡越前守殿の裁許さいきよに預あづかりし者其善惡そのぜんあく邪正じやせい別わかたざるなし實じつに賢奉行けんぶぎやうとや謂いつつべし仰々そも〳〵村井長庵といふは麹町かうぢまち三丁目に町醫まちいと成つて世を送おくり舍弟おとゝ十兵衞を芝しば札ふだの辻つじにて殺害せつがいし同人の娘を賣りし身の代金しろきん五十兩を奪ひ取とり其妻そのつまを三次と云る同氣どうき相あひ求もとむる惡漢わるものに委ゆだね淺草の中田圃なかたんぼにて殺害させ其上伊勢屋五兵衞の養子やうし千太郎に小夜衣さよぎぬを他たに身請する人ありと僞いつはりて五十兩の金を騙かたり取とり種々しゆ〴〵の惡計あくけいを働はたらきし其根元こんげんを尋たづぬるに國は三州しう藤川ふぢかはの近在きんざい岩井村いはゐむらの百姓に作さく十と云者あり夫婦の中なかに子供兩人有て兄あにを作藏舍弟おとゝを十兵衞と云しが兄作藏は性質うまれつき善よからぬ者にて村方にても種々しゆ〴〵樣々さま〴〵の惡事を働はたらきし故親の作十も持餘もてあまし終つひに勘當かんだうに及びしが弟十兵衞は兄と違ちがひ正路しやうろの者にて隣村迄りんそんまでも評判ひやうばんの善よきにつき是を家督かとくとし近村よりお安やすといふ嫁よめを貰もらひ親子おやこ夫婦の間なかもよく最いと睦むつまじく稼かせぎけり斯て兄あに作藏は勘當の身と成しを後悔こうくわいをもせず江戸へ出で少しの知己しるべを便たよりて奉公の口を尋ねる内うち幸さいはひ小川町にて其頃評判の御殿醫てんい武田長生院方たけだちやうせいゐんかたに人の入用ありと聞きゝ口入くちいれの者に頼みて此こ處こに住込ける此長生院と申は老年としばえと云いひ殊ことに名醫の聞きこえあれば大流行おほはやりにて毎日々々公私こうしの使ひ引も切らず藥取の者其外門前に市いちをなし節句前毎せつくまへごとに藥禮やくれいの目録もくろく其他の進物しんもつなど雨あめの降ふる如く成れば作藏は是を見て世の中に能物よきものは醫者いしやなり何程の療治れうぢは出來できずとも流行出せば斯かくの如し我も故郷は勘當され此江戸へ來りて所々しよ〳〵方々はう〴〵と彷徨さまようばかりにて未だ何の仕出しいだしたる事もなく此これぞと云身過みすぎの思ひ付もなき機をりなれば此上は何卒なにとぞして我も醫師いしやとなり長棒ながぼうの駕籠かごにて往來なし一身の出世しゆつせを計はからんものと思ひ込こみけるは殊勝しゆしよう成なれども一心に醫學を學び其術じゆつを以て立身りつしん出世を望むに有ねば元より切磋琢磨せつさたくまの功を積つみ修行しゆぎやうせんなどとは更に思はず大切たいせつの人命じんめいを預る醫業いげふなるに只金銀を貪むさぼることのみを思ひ假令たとへ藥違くすりちがひにて人を殺したりとて匙さじさへ持ば解死人げしにんには取れず斯かゝる家業かげふは又となし只醫者らしく見せ懸かけるのと詞遣ことばつかひさへ腹に這入はひれば別に修行しゆぎやうが入いるものぞと藥種やくしゆの名など些ちとづつ覺おぼえ醫者にならんと思ひ込こみ奸才邪知かんさいじやちの曲者くせものにて後年己おのれが罪惡ざいあくの顯あらはれし時申陳ちんじて人に塗付ぬりつけ天下未曾有みそうの名奉行めいぶぎやうをも欺あざむき課おほせんとする程の大膽不敵だいたんふてきなれば間もなく見樣見眞似みやうみまねにて風藥かぜぐすりの葛根湯位は易々やす〳〵と調合てうがふする樣に成ける程に武田長生院も下男げなんにも珍めづらしき奴やつなれど扨さて心の寛ゆるせぬ勤め振と流石さすがに老醫常々親戚しんせきの者へ語られしとぞ作藏の僅わづか三年越ごしの奉公中に醫いの道を少しく覺おぼえ殊に遊ぶ隙ひまなければ給金其他病家びやうかへ代脈だいみやくの供ともなどに行し時貰もらひたる金を少しく溜たまりたるより武田に暇いとまを貰もらひ直すぐに天窓あたまを剃そりて坊主ばうずとなり麹町三丁目の裏店うらだなを借て世帶せたいをもち醫師渡世とせいを初めしに運うんの一度たび向むかひし所にや元來もとより藪醫者やぶいしやと云ふ程も醫術は知ぬ作藏が名字みやうじを村井と唱となへ自ら名を長庵と改めて朝あさから晩ばんまで當あては無れど忙いそがし振ぶりに歩行あるき廻りければ相應に病家びやうかも出來たるにぞ長庵今は己れ名醫めいいにでも成し心にて辯舌べんぜつ奸計かんけいを以て富家ふうかより金を引出し終に表店おもてだなへ出て可かなりに暮し一度は流行りうかう爲なしけれども元より己おのれに覺えなき業わざなれば終には此處の内儀ないぎが藥違ひにて殺されたの彼所の息子むすこが見立違みたてちがひにて苦しみ死しにをしたの又渠かれは無學文盲むがくもんまうの何も知らぬ山師醫者の元締もとじめなりなど湯屋ゆやの二階かい髮結床かみゆひどこなどにて長庵の惡評あくひやうを聞きくも夏蠅うるさきばかりなれば果は命いのちの入ぬのか又は死しにたく思ふ人は長庵の藥くすりを飮のめ命が大事と思はば村井が門も通るなと雜言ざふごんにも言いひ觸ふらしける程に追々おひ〳〵に全治ぜんぢ病人迄びやうにんまでも皆轉藥てんやくをなし誰たれ一人脉みやくを取する者も無なりしにぞ長庵今は朝暮あさゆふの煙けぶりも立兼たちかねるより所々しよ〳〵方々はう〴〵手の屆く丈借かり盡して返すことをせざれば酒屋米屋薪屋まきやを始め何商賣なにしやうばいをするものも長庵の宅たくの前は忍しのんで通る樣になりければ引ひつかけ上手じやうずの長庵も百方ぱう術じゆつ盡つき爲なす事なく困こまり果てぞ居たりける爰に又長庵が故郷こきやう岩井村にては親おやの作十も病死びやうしし弟おとゝ十兵衞の代と成けるが或時近邊きんぺんより出火して家屋かをくをはじめ家財雜具迄かざいざふぐまで殘のこり少すくなに燒失ひ其のみならず引續ひきつゞきて水旱すゐかんの難なんに罹かゝり難儀の重かさなりて年々殖ふえる年貢ねんぐの未進みしんに當年こそは是非ともに未進の皆納かいなふなすべしと村役人むらやくにんより促うながされ素より篤實とくじつ一遍ぺんの者なれば十兵衞夫婦は膝ひざ摺寄すりよせ如何なる前世ぜんせの宿業しゆくごふにや追々續く災難さいなんにて斯迄かくまで困窮こんきうの身となりしぞ斯かゝる事の無なからん爲鋤鍬すきくはの勞らうを厭いとはず朝はしらむを待て起き霧きりに簑みの着きて山稼やまかせぎ人は戻もどれど黄昏たそがれ過すぎ月の無なき夜よは星影ほしかげを見ねば戻らぬ樣に稼かせぎ畑はた一枚まい荒あらさずに骨體ほねみ碎くだいて働はたらきても火災くわさいの難に水旱すゐかんの難儀が終始しじう付て廻まはり追々おひ〳〵嵩かさむ年貢ねんぐの未進みしん今年ことしは何でも納をさむべしと村役人衆むらやくにんしうより度々の催促さいそく其處そこで色々いろ〳〵工面くめんも仕たが外に仕方の有ざれば所詮しよせん我内わがうちには居られぬなり此上は我四五年の間あひだ何國いづくへなりとも身を潜ひそめ奉公なりともして稼かせがなば又兎も角も成べしと思ひ定めし事なれば和女そなたは跡あとに殘り居て二人の娘を頼たのむぞよ斯かく云いはば邪見じやけんと思はんが我さへ居ねば年貢の未進も何とか村役人衆むらやくにんしゆが仕法しはふを付つけ宜よき樣やうにして呉くれられんと男泣をとこなきに泣ながら氣の毒どくさうに言けるにぞ女房にようばうのお安やすは恨うらめしげに夫をつと十兵衞の顏を見つゝ餘りの事に涙なみだも飜こぼさず唯たゞ俯向うつむいて居たりける茲に十兵衞夫婦が間なかに二人の娘あり姉あねをお文ふみといひ妹いもとをお富とみと云るが姉妹はらから共に心操こゝろばえ優やさしく何處となく品ひんよき生質うまれつきなれば如何なる貴人きにんの娘といふとも恥はづかしからず斯かゝる在所には珍しき者にて殊に兩人ふたりとも親思おやおもひの孝行かうかう者なれば今いま父ちゝ十兵衞が年貢ねんぐの金に差詰さしつまり身を隱かくさんと云るを聞きゝ共に涙に暮くれ居ゐたりしが軈やがてお文は父母ふたおやの前に來きたり兩手を突つき只たゞ今お兩方樣ふたかたさまのお咄はなしを承まはり候に父樣は何方いづかたへかお身を隱かくされ給ふ由よし然樣さやうにては跡々あと〳〵の仕樣しやうも御座なく母樣はゝさま御一人にてお困こまり成るゝは申迄もなく元は妾わらは姉妹はらから二人を斯樣に御育下おそだてくだされ候よりお物入ものいり多く夫ゆゑ御難儀にも相成し事なれば數かずならねども私しを浮川竹うきかはたけとやらへお沈しづめ下され聊いさゝかにてもお金に換かへらるゝ物ならば此身は何樣いかやうの艱難かんなんを致し候も更々さら〳〵厭いとひ申さねば何卒此身を遊女いうぢよに御賣成うりなされ其お金にて御年貢ねんぐの納をさめ方を成なさるべしと最いと忠實まめやかに申けるにぞ父母ふたおやは其切そのせつなる心に感じ眼を屡叩しばたゝき然程迄さほどまで我が身を捨ても親を救すくはんとは我が子ながらも見上たり忝かたじけなしとお文の脊中せなかを摩さすりながら其志こゝろざしは嬉うれしけれど如何いかに年貢の金に差閊さしつかへたりとて其方達そのはうたちを浮川竹うきかはたけに沈しづめんとは思ひも寄よらずと十兵衞は妻お安の泣居なきゐるを勵はげまし餘り苦心くしんをすると能よき工夫くふうの付ぬ物なりと自在鍵じざいかぎより鑵子やくわんを外し素湯さゆを呑良やゝあつて十兵衞は膝ひざ立直たてなほし兎とも角かくも我さへ居ずば妻つまや子に然まで難儀は掛かゝるまじ思ひ定めし事成ば何樣あつても己は居られぬ留守るすを其方達そちたち守まもつて呉くれといふ袖袂そでたもとへ取縋とりすがり此身を賣てとかき口説くどき親子の恩愛おんあい孝かうと慈じと暫時しばしは果はても無りけり漸々やう〳〵にして妻つまお安は落おつる泪なみだを押拭おしぬぐひ夫程迄それほどまでに親を思ひ傾城遊女けいせいいうぢよと成とても今の難儀を救すくはんとの其孝心が天に通つうじ神や佛ほとけの冥助めいじよにて賣代うりしろなしたる曉あかつきには如何なる貴人きじん有福いうふくの人に愛され請出され却つて結構けつこうの身ともなり結句けつく我手に育そだちしより末の幸福しあはせ見る樣に成なるまじき者にも非ず能よく覺悟かくごをしたりしと空頼そらだのみに心を慰なぐさめ終に娘お文が孝心を立る事に兩親ふたおやとも得心なせばお文は悦よろこび一先まづ安堵あんどはしたものゝ元より堅氣かたぎ一遍ぺんの十兵衞なれば子を賣うる術すべなど知らざる上に都みやこは知らず在方ざいかたでは身の賣買うりかひは法度はつとにて誰に頼たのまん樣もなく當惑たうわくなして居たりしが十兵衞鐺はたと膝ひざを打うち兄あに作藏は當時たうじ江戸麹町三丁目にて村井長庵と言いひて立派りつぱなる醫者いしやに成て居るとの由故ゆゑ出府しゆつぷして兄の長庵に委細ゐさいを噺はなし頼たのまんものと委敷くはしく手紙てがみに認したゝめて長庵方へ送おくりける其文面ぶんめんに曰いはく

以手紙てがみをもつて申上候貴兄きけい樣彌々いよ〳〵御安全あんぜん御醫業いげふ被成なされ目出度めでたく存ぞんじ奉つり候然れば此方このはう八年前まへ近邊きんぺんよりの出火しゆつくわにて家財道具を燒失ひ其上旱損かんそん昨年は水難すゐなんにて段々だん〳〵年貢未進に相成候處當年は是非ぜひ皆納かいなふ致し候樣村役人衆より嚴敷きびしき沙汰さたに候得共種々しゆ〴〵打續ての災難さいなん故ゆゑ當惑致し居候處娘文事孝心により身を賣其金子にて年貢ねんぐの不足ふそくを皆納かいなふいたし候樣申呉候間甚はだ以て不便ふびんの至りには候へ共外ほかに致し方も無之これなく據よんどころなく文ふみ事賣うり申度存じ候之に依て近日召連めしつれ出府致し候間何いづれへ成共御世話被下度せわくだされたく此段御相談さうだん申上奉つり候猶なほ委細ゐさいは拜顏はいがん之上申上可べく候早々さう〳〵以上

八月二日
三州藤川在岩井村  十兵衞
江戸麹町三丁目村井長庵樣

是は長庵近來ちかごろ再び無頼ぶらいの行ひになりし事を知ざればなり扨さて又長庵は追々己おのれが心がらにて困窮こんきうに及び何哉なにかに能よき仕事しごとの有あれかしと思ひ居ける所故是を見るより先々まづ〳〵金かねの蔓つるに取付たりと竊ひそかに悦び直に返事へんじを認したゝめ遣つかはしける其文ぶんに曰く

去さる二日出で之の書状しよじやう到來たうらいいたし委細ゐさい拜見はいけん致し候偖々さて〳〵其方にても段々不如意ふによいとの趣おもぶき蔭乍かげながら案事あんじ申候右みぎに付御申越こしの娘儀むすめぎ出府しゆつぷ致されべく候吉原町にも病家も有レ之これあり候間宜よろしき先を見立みたて奉公ほうこうに差遣さしつかはし可申何いづれ出府の上御相談に及ぶべく候委細は筆紙ひつしに盡つくし難く早々さう〳〵以上

八月九日
村井長庵
三州藤川在岩井村  十兵衞殿

と有ありける返事へんじ屆とゞきければ十兵衞夫婦は歎なげきの中にも先々兄の世話にてお江戸の吉原町とやらへ行ゆく上うへは娘が難儀にも相成まじと心に悦び直すぐに娘むすめ文に其由を語りて支度したくをさせ同道どうだうして江戸表へ出んと其身も支度したくに及びける母は豫かねて覺悟かくごとは言ながら頻しきりに泪にかき昏くれて娘の文を近く招まねき今更いまさら云迄もなけれど惡あしき病を請ぬ樣に心を付て奉公せよ一日も早く能よきお客に請出され斯々云所へ片付かたづきしと云越いひこして悦ばせよ呉々くれ〴〵も機嫌きげんよく奉公し傍輩達はうばいたちと仲能なかようして苛酷いぢめられぬ樣にせよはしたなき事をして田舍者ゐなかものと笑はれなと心の有たけかき口説くどきまた夫十兵衞に打向ひ隨分ずゐぶん道中だうちうを用心して濕氣しつけに當り給はぬ樣娘の事は呉々も能よきやうに計はからひ給へと懇切ねんごろに言慰なぐさめ互ひに名殘なごりを惜をしめども斯かくてあるべきにあらざれば既に袂たもとを別わかちしが跡には女房と妹いもととの二人夫と姉あねの後ろ影かげを我が門口かどぐちへ立出て伸上のびあがり〳〵見送みおくるを此方こなたも同じ思ひにて十兵衞お文の兩人も妻つまと妹を見返みかへり〳〵稍やゝ影かげさへも見みえざれば後うしろ髮がみをや引れけん一足あし行ば二足も戻もどる心地の氣を勵はげまし三河の岩井を後あとになし江戸をさしてぞ急ぎ行ゆく實げに人間の一生は敢果はかなき事草葉くさばに置おける露つゆよりも猶なほ脆もろしとかや如何に貧苦ひんくに責せめられても親子諸共もろとも苦くるしまば又能よき事も有べきに別れ〳〵に楢ならの葉はや子の手柏てがしはを引連ひきつれて誘引さそへばさそふ秋風に末すゑは散行ちりゆく我が身ぞと知ぬ旅路たびぢぞ哀あはれなる


第二回


 然程さるほどに村井長庵は兎とに角かくに金儲かねまうけの蔓つるに有付たりと心に悦び十兵衞の出府しゆつぷを一日千秋しうの思ひにて待まつ程ほどに此方は十兵衞娘文を連つれて岩井村を出立し道中だうちうにても心を付つけ足を痛いためな草臥くたびれなと種々いろ〳〵言慰なぐさめつゝ日を經へて漸々やう〳〵江戸に着つき麹町三丁目なる長庵が宅たくに到りければ長庵は大に悦び偖々さて〳〵能よく出府には及ばれたり久敷ひさしく便たよりもせざりし故田舍ゐなかの樣子も如何いかゞ有し事と思ひ出さぬ日とてはなく豫々容子ようすを尋たづねたく思ひしかども何を言いふにも人の命いのちを預あづかる渡世とせい寸暇すんかの無なければ中々田舍ゐなかへ尋ね行事などは思ひも寄よらず心に掛かゝる計りにて今迄疎遠そゑんに打過うちすごしたり夫に付ても此間の手紙に細々こま〴〵と言越たるには追々おひ〳〵不時ふじの災難や水難旱損かんそんの打續きて思はぬ入費ものいりの有しゆゑ親の讓ゆづりの身上も都合つがふ惡敷しく成なりし由實じつに當時の世の中は田舍も江戸も詰つまり勝がち併しかし呉々くれ〴〵返事へんじに言遣いひつかはしたる通り親は泣寄なきよりとさへ申せと惡敷樣あしきやうには計らはぬこと最いと懇切ねんごろに申ければ十兵衞親子は大いに歡よろこび何分宜しくお頼み申すと言いへば長庵は打點うちうなづき今夜は我が内うちも同じ事なれば安心して休息きうそくせよ併し草臥くたびれて居るならん洗足せんそくの湯を沸わかして遣つかはす筈はずなれど夫よりは近所ゆゑ湯に入て來くるがよいお文も父と共に行ゆくべしと辯舌べんぜつ利口りこうを以て口車くちぐるまに乘せ金の蔓つると思ふ姪めひのお文は如何なる容貌しろものかとお文が仰向あふむく顏かほを見て其嬋妍あでやかさにほく〳〵悦び在郷ざいがう育そだちの娘なれば漸々やう〳〵宿場しゆくばの飯盛めしもりか吉原ならば小格子こがうしの僅わづか二十か三十の金を得るのが關せきの山と陰踏かげぶみをして置たるが少しばかり手を入いれれば日向ひなた臭くさい匂にほひは拔ぬけやう此奴こいつは運うんが向て來たと草鞋わらぢを解とかせて門かどへ立出あれに見ゆるが洗湯せんたうなれば親子で緩々ゆる〳〵と這入はひつて來なと心切しんせつめかして長庵が深くも計る待遇もてなし振ぶりに欺だまさるゝとは夢にも知ず斯迄かくまでに長庵が心の優やさしく成しのは嬉うれしき事と十兵衞は娘お文にも安心させいそ〳〵として出行いでゆきしが暫しばらくして湯ゆより戻もどり珍めづらしくは候はねど遠路ゑんろを持て來し國土産くにみやげと心も厚あつき紙袋かみぶくろ蕎麥粉そばこ饂飩粉うどんこ取揃とりそろへ長庵の前へ差出せば然も嬉うれしげに禮を演のべ湯ゆの中に誂あつらへ置おきし酒さけ肴さかなを居間ゐまへ並ならべサア寛々ゆる〳〵と久し振ぶりにて何は無とも一献こん汲くまんと弟十兵衞を饗應もてなしけり十兵衞は長庵に向ひ御馳走中ごちそうちう申上るも如何なれど豫かねて手紙にて申上たる次第につき娘文を同道せり何卒御忙敷おいそがしくも御都合なされ娘を能よき所へ早々さう〳〵御世話下されと泪なみだを拭ふきつゝ咄はなしかくれば長庵は態わざと目を拭ぬぐひ涙に聲を曇くもらせて貧ひんの病は是非もなし世の成行なりゆきと斷念あきらめよ我とては貯たくはへ金は有ざれども融通ゆうづうさへ成事なら用立ようだつて遣度やりたしと手紙を見たる其時より懇意こんいの者へ頼んで置たが何分にも急場の事故貸かして呉人くれても一寸ちよつとなく殊に此程は何や斯や不時ふじの物入續き勝がちにて夫に豫かねての心願にて人の嫌いやがる貧家ひんかの病人療治れうぢは勿論もちろん施藥せやくをなし中には稼かせぎ人が煩わづらひて喰くふや喰ずの極貧者ごくひんものには持合せの金を何程いくらか與へ慈善じぜんの道を好むのも掛替かけがへの無き兩親に不幸を成し罪滅つみほろぼしと自分の身には榮耀ええうは止め人に施ほどこす事而已のみ爲なす故受取金も多けれども夫故困こまる我が身上しんしやう現在げんざい弟おとゝが外成ぬ年貢の金に差支へ手風てかぜも厭いとうて育そだてし娘を苦界へ沈める急場の難儀を助たすける事も出來できぬとは兄と言いはるゝ甲斐も無なく悔くやし涙が飜こぼるゝと手を拱こまぬけば弟の十兵衞は眞實しんじつぞと思へばいとゞ氣の毒どくさに兄樣あにさん然さまでに御心配下されますな御心切を忘れはせぬ然乍さりながら娘も覺悟の上なれば兎も角も何いづれへ成とて好方よきかたへ奉公させて下されと只管ひたすら頼たのめば長庵は然ば是非なし明日あしたにも吉原の病家へ見舞みまひがてら行ゆく程に能よき口を尋ね見ん先今晩こんばんは休やすまれよと兩人を枕に付せけるが翌日長庵は早々支度を爲なし麹町を立出吉原さして急いそぎけり爰に吉原江戸町二丁目の丁字屋ちやうじや半藏と云る遊女屋いうぢよやは其頃での繁昌はんじやうの家にて貴賤きせんの客人まろうど引ひきも切きらず然されば此丁字屋方へ賣込うりこまんと傳手つてをもとめて懸合かけあひに及びけるに幸ひ此丁字屋にても追々子供こどもも年明ねんあけの近寄ちかよりければ何卒どうぞして能よき子供を抱かゝへんと思ふ折柄をりから故其娘を今日にも見たきとの事なれば長庵は急ぎ宅へ歸り弟おとゝ十兵衞にもお文にも此由を云聞きかせ直すぐ己おのれが隣家の女房を頼み賣物うりものには花を飾かざれとやら何分宜敷御頼み申すと髮形かみかたちから化粧迄けしやうまで其頃の風俗に作つくり立損料そんれう着物ぎものを借請衣裳附いしやうつけまで長庵が拔目ぬけめなく差圖をなしお文を連つれて丁字屋へ出かけしが先兩三日は目見めみえに差置さしおく樣にとの事なれば其まゝに差置て長庵は歸りける丁字屋にてはお文が容子ようす誰たれ有あつて田舍娘ゐなかむすめと見る者なく傍輩はうばい娼妓しやうぎも恥はづるばかりなれば流石さすがに長庵が骨折ほねをりの顯あらはれし所にて在所に在し其時とは親の十兵衞さへも見違みちがへる程なれば主人半藏方にても十分氣に入いりお文へ何故に身を賣うるやと容子を尋ねけるに親十兵衞が云々しか〴〵にて年貢のお金に差支さしつかへ據よんどころなく身を賣うる時宜しぎなれば何卒お抱かゝへ下されたく如何樣いかやうの憂つらひ悲かなしひ事成とも御主人大事御客樣きやくさまを大切たいせつに勤めますと云其言葉に田舍訛ゐなかなまり有けれど容貌きりやうのよさに主人あるじもはずみ少し高くは思へども終つひに年一杯ぱい廿七年の夏なつ四月までの證文しようもんにて五十兩に買かはんとの挨拶に十兵衞は大いに悦び五十兩の金の有ならば年貢の未進は殘らず納をさめ所々の買懸かひがかり其外の借錢しやくせんまで殘らず一時に片かたを付つけ其上にて稼かせぎなば娘を請出す時節じせつも有なん然さはなくとも其内娘が能よき客ありて身請をさるる事もや有んとお文にも言聞せ直すぐに證文を取極め判はん人へ禮金三兩當人の身附みづき金五兩を引去四十二兩の金を請取て長庵諸共麹町へこそ歸りけれ偖さて十兵衞兄長庵に打向ひ段々だん〳〵の御世話せわにてお文こと思ひの外ほか能よき所へ住込有難く存じます就ついては多分たぶんの御禮も致す筈はずなれども何を申すも此始末なれば是は誠まことに心ばかりの御挨拶御受納下じゆなふくだされと金子三兩を紙に包みて差さし出しければ長庵は押戻おしもどし否々いや〳〵夫それは思ひも寄ぬ事なり豫かねて我が言たる通り工面くめんさへ出來る事なれば何であの孝行かうかうな娘の身を浮川竹うきかはたけに沈むる周旋せわを我しやう他人がましき事をせな聊いさゝか有ても調法なは金なり心が濟すまずば其金にて妹いもとお富へ何なりと江戸土産みやげなど買かうて行れよ然すれば我が請たも同樣必かならず〳〵心配しんぱいしやるなと手にだも取ず押戻おしもどし肉身にくしん分わけたる舍弟おとゝ十兵衞を飽あくまで欺あざむく長庵が佞辯ねいべん奸智かんち極惡ごくあくは譬たとふるに物なしと後にぞ思ひ知られけり十兵衞は兄あに長庵が巧たくみのありとは少しも知らず然樣さやうならば頂戴いたゞきますと己おのれが出たる三兩を再び胴卷どうまきの金と一緒しよに仕舞込しまひこむを長庵は横目よこめでジロリと眺ながめ空嘯そらうそふけば十兵衞は何れ歸村きそんを致せし上御禮の仕樣もありぬべしと親ちかしき中にも禮義れいぎを知る弟が心ぞしほらしき


第三回


 偖さても弟十兵衞は長庵に向ひ嘸さぞかし在所ざいしよにても妻や娘の私しが歸るを待兼て居る成らん因て明朝あさは是非とも出立致し度と言けるに長庵否々いや〳〵此通り雨も降ふつて居ることゆえ明日あしたは一日見合せて明後日あさつて出立しゆつたつ爲なすべしと留とゞめけれ共十兵衞は是を聞ず否々いや〳〵兄樣あにさま降ふればとて一日二日の旅たびではなし天氣てんきの好よき日ひを見て立ても道にて大雨おほあめに逢まじき者にも非ずと在所ざいしよを案じる一筋すじに十兵衞が一日も早く妻つまや子に安心させんと思ひ詰つめ頻しきりに翌朝あしたは出立せんとて何と云いひても止まらねば然らば翌あすは出立して在所の者に少しも早く安心させるも能よかるべし然樣さう決心けつしんをした上は嘸さぞかし氣勞きづかれも有あらう程に今宵こよひは早く休やすむがよい己おれも今夜は早寢はやねにせんと云ば十兵衞は然樣さやうならお先へ臥ふせります御免成ごめんなされと挨拶し臥戸ふしどへこそは入にけれ跡に長庵工夫くふうを凝こらし彼の五十兩の金を取とらんには刺殺さしころして物にせんか縊殺しめころして呉くれんかと立たり居たりして見ても流石さすがに自分の居宅きよたくにて荒仕事あらしごとを働はたらかば後の始末しまつが面倒めんだうならん寧いつそ翌日あしたは暗くらきに立たゝせん然さうじや〳〵と打うち點頭うなづき獨ひとり笑ゑみつゝ取出す傘かさは日外いつぞや同町に住居すまひする藤崎ふぢさき道だう十郎が忘れて行しを幸ひなりと隱かくし置おき夜よの更ふけるを待内に愈々いよ〳〵雨は小止こやみなく早はや耳先へ響ひゞくのは市ヶ谷八幡まんの丑時やつの鐘かね時刻じこくはよしと長庵はむつくと起て弟の十兵衞を搖起ゆりおこし是十兵衞最早もはや今のは寅刻なゝつの鐘かね殊ことに此鐘は何時も少し遲おそき故夜の明るに間も有まい眼を覺さまして支度せよ鐵瓶てつびんの湯も温ぬるんで有と聞て十兵衞は起上り顏かほを洗あらはず支度をなし幸ひ雨も小降こぶりになりぬ翌日は天氣になりなんと心こゝろ急せかるゝ十兵衞は死出しでの旅路たびぢと知ぬ身の兄長庵に禮を述のべ用意よういの雨具あまぐ甲掛かふかけ脚絆きやはん旅拵たびごしらへもそこ〳〵に暇乞いとまごひして門かどへ立出菅笠すげがささへも阿彌陀あみだに冠かぶるは後あとより追おはるゝ無常むじやうの吹降ふきぶり桐油とうゆの裾すそへ提灯の灯ひを消けすまじと馴なれもせぬ江戸の夜道は野山より結句けつく淋さびしく思はれて進まぬ足を蹈ふみしめ〳〵黒白あやめも分わかぬ眞しんの闇やみ辿たどりながらも思ふ樣貧まづしき中にも手風てかぜも當ず是迄育そだてし娘お文を浮川竹に身を沈しづめ憂つらひ勤つとめをさせるのは親の本意と思はねど身に替難かへがたき年貢ねんぐの金子かねゆゑ子に救すくはるゝのも因果いんぐわなり娘の勤つとめは如何ならん嘸さぞや故郷こきやうの事を思ひ出憂うきが積つもりて若もしや又煩わづらひもせば何とせん思へば貧まづしく生うまれ來て何にも知ぬ我が子に迄倦あかぬ別れをさするかやと男をとこ涙なみだに足元あしもとも踉々しどろ蹌々もどろに定め兼かね子故に迷ふ闇やみの夜に麹町をば後になし歸ると聞し虎とらの門もんも歸らぬ旅に行ゆく空そらの西の久保より赤羽あかばねの川は三途づとしら壁かべの有馬ありま長家も打過て六堂ならねど札ふだの辻つじ脇目わきめも振ふらず急ぎしか此程高輪たかなわよりの出火にて愛宕下通り新あたらし橋邊まで一圓に燒原やけはらとなり四邊あたり曠々くわう〳〵として物凄ものすごく雨は次第に降募ふりつのり目先も知ぬ眞しんの闇やみ漸々やう〳〵にして歩行あゆみける折しも響ひゞく鐘かねの音ねは明あけ六ツならんと心こゝろ嬉うれしく算かぞへて見れば然さはなくして芝しば切通きりどほしの七ツなれば偖さては兄の長庵殿が我が出立を急ぎしゆゑ少しも早くと思ふ念ねんより八ツを七ツと聞違きゝちがへて我を起おこし呉くれしならんまだ勿なか〳〵に夜は明まじ偖さて蝋燭らふそくの無なくならば困こまつたものと立止り灯影ほかげに中を差覗さしのぞきしと〳〵とまた歩行出あゆみだす折柄をりからばた〳〵駈來かけくる足音あしおとに夫と見る間も有ばこそ聲をば懸かけず拔打ぬきうちに振向ふりむく笠かさの眞向まつかうより頬ほゝの外はづれを切下きりさげられあつと玉ぎる一聲と共に落せし提灯の發ぱつと燃立もえたつ其明あかりに見れば兄なる長庵が坊主天窓ばうずあたまへ頬冠ほゝかぶり浴衣ゆかたの尻しりを引ひつからげ顏を背そむけて其場に彳たゝずみ持たる脇差わきざし取直し再度ふたゝび斯かうよと飛蒐とびかゝるをヱヽと驚く十兵衞がヤアお前は兄の長庵殿何故あつて此の私わしを切殺きりころすとはサヽ扨さては娘を賣つた此の金が初手しよてから欲ほしさに深切しんせつを表おもてに飾かざつて我を欺むき八ツを七ツの鐘なりと進めて出立させて置殺して取とはなにごとぞ恨うらめしや長庵どのとひよろ〳〵立を蹴轉けころばし愚圖々々ぐづ〳〵云はずと默だまつて亡くたばれこの世の暇いとまを取とらせて遣やらんと又切付れば七轉てん八倒ばつたう空くうを掴つかんで十兵衞が其の儘息は絶たえにけり長庵刀の血を拭ぬぐひて鞘さやに納め懷中くわいちうの胴卷どうまきを取だし四十二兩は福ふくの神かみ弟おとゝの身には死神しにがみと己おのれが胴どうにしつかり括くゝり雨も止やまぬに傘からかさをと一思案しあんして其場へ捨置すておき是が後日の狂言きやうげんだ斯かうして置ば大丈夫と彼藤崎道十郎が忘わすれて行し傘を死骸しがいの脇わきへ投捨なげすてて跡あと白浪しらなみと我が家なる麹町へぞ急ぎける爰に武州なる品川宿といふは山を後うしろにし海を前にして遠く房總ばうそうの山々を望のぞみ南は羽田はねだの岬みさき海上かいじやうに突出つきいだし北は芝浦しばうらより淺草の堂塔迄だうたふまで遙はるかに見渡し凡そ妓樓あそびやの在ある地ちにして此絶景ぜつけいを占しめしは江戸四宿の内只此品川のみ然れば遊客いうきやくも隨したがつて多く彼の吉原にもをさ〳〵劣おとらず殊更ことさら此地は海に臨のぞみて曉あかつきの他所ほかよりも早けれど客人まろうどは後朝きぬ〴〵をかこち昨夜ゆうべも四日市よつかいち邊へんなる三人の若い者此處こゝの妓樓あそびや某それに遊興あがりて夜を深ふかし宿いねるに間もなく夜は白しらみたりと若い者に起され今朝けさしもぶつ〳〵と呟つぶやきながら妓樓あそびやを立出道みちすがら昨夜ゆうべの相方は斯々かく〳〵なりなどと雜談ざふだんを云つゝ一本の傘かさに三人が小雨こさめを凌しのぎながら品川を後にして高輪たかなわより札ふだの辻つじの方へ差掛さしかゝりける處に夜の引明なれば未だ往來わうらいは人影ひとかげもなく向ふを見るに三ツ股またの辻つじの此方こなたに人の寢ねて居る樣子ゆゑ何心なく通りけるに這こは其も如何に一人の旅客たびびとの朱あけに染そめ切倒きりたふされて居たりしかば三人共に大いに驚きながらも一人は死人の向ふを通り拔ぬけ後あとをも見ずに迯行にげゆきしが殘りし二人は顏見合せ怖こはい者見たしの譬たとへの如く何樣どんな人やら能よく見みんと思へば何分恐おそろしく小一町手前てまへに彳たゝずみしが連つれの男は聲を懸かけ寧いつその事田町通とほりを歸らんと言ば一人の男申樣何にもせよ此趣このよしを自身番じしんばんへ知らせて遣やらば早々さう〳〵人や出來らん其時一緒しよに見ながら通らん是は如何にと言いひければ如何にも夫は面白おもしろしと二人は直すぐに番屋ばんやに至り大聲揚て告けるは御町内に人殺あり早く往いつて見らるべしとの知らせに自身番の宿直とまりの人は大いに驚き定番ぢやうばんの者を四方へ走らせて斯かくと告るに町内の行事ぎやうじ其外家主中いへぬしちう名主なぬし書役しよやくに至る迄忽たちまちに寄集よりつどひしかば知らせし兩人も一緒しよに行て死骸を怕々こは〴〵ながら後より覗のぞき見て各々方おの〳〵がたは御苦勞成ごくらうなりと云つゝ兩人は通り過んとする處を町役人等押止おしとゞめて御二人とも御知らせ下されたる上からは御掛かゝり合は遁のがれぬなり先々御檢使ごけんしの御出まで御待候へと有ありければ兩人は大きに打驚き何も私し共が爲なしたる事には候はず全く通り掛がかりて見付しゆゑ御知せ申せし迄なり其者が掛り合とは甚だ迷惑めいわくと云をも更さらに聞き入ず否々和主達おまへたちが殺したりと云には非ず御知らせ有しは少しの災難さいなん手續てつゞきなれば止やむを得ず夫とも達たつて止まるを否いなとならば繩なはを打ても差止さしとめ置おかねば町法が立ざるなりと烈はげしき言葉に彌々いよ〳〵恐れ昨夜ゆうべは昨夜女郎にふられ今朝は今朝とて此災難斯まで運うんの惡わるくなる者か夫に付ても吉きちの野郎やらうは昨夜も一人持囃もてはやされ今朝も先へ拔て歸り仕合者しあはせものよと呟つぶやき〳〵自身番屋へ上り込こみ檢使けんしの出張でばるを待まつうちも若や如何なるお調しらべに成もやせんかと兩人共安やすき心は無りけり


第四回


 去程さるほどに札ふだの辻つじの自身番より月番の町奉行中山出雲守殿へ右の次第を訴うつたへに及びければ檢使の役人兩人非番ひばんの町奉行より一人出張しゆつちやうに相成立合の上死骸を篤とくと改められし處歳の頃四十三四百姓しやう體ていの男にて身の内に疵きず三ヶ處頭上づじやうより頬ほゝへ掛て切付し疵きず一ヶ所脊せより腹はらへ突通つきとほせし疵二ヶ所其脇わきに傘からかさ一本ぽん捨すてこれ有其傘からかさに澤瀉おもだかに岩と云字の印し付是あり懷中には鼻紙入はながみいれに藥包くすりつゝみ一ツ外ほかに手紙一通あり其上書うはがきは「三州藤川在岩井村十兵衞殿返事江戸麹町三丁目村井長庵」右の通りの上書うはがきにて中の文言もんごんは「去二日出の書状到着たうちやく委細拜見致し候扨々其方にても屡々不如意ふによいとの趣き蔭乍かげながら案事あんじ申候右に付御申越こしの娘出府しゆつぷ致されべく候吉原町にも病家びやうかも有レ之候間宜しき處を見立奉公に差遣さしつかはし可申候何いづれ出府の上相談可申候委細は筆紙に盡つくし難し早々さう〳〵以上

 八月九日 村井長庵 藤川在岩井村十兵衞殿」右みぎの文體ぶんてい也ければ直たゞちに麹町三丁目町醫師村井長庵呼出よびだしの差紙さしがみを札の辻の町役人へ渡されければ非番ひばんの家主即時そくじに麹町の名主の玄關へ持參なし順序じゆんじよを經て長庵の家主の手に渡すに何事やらんと驚きつゝ家主は長庵方へ到りける斯かくあらんと豫かねて覺悟の長庵は鉢卷はちまきして藥土瓶くすりどびんなぞ取散とりちらし大夜具おほやぐを冠かぶりて打臥うちふしたり家主は枕元に居すわりて長庵殿芝しば札ふだの辻の自身番より急の御差紙さしがみを以て村井長庵を召連めしつれ只今直すぐに罷まかり出いでよとの事なり見請みうければ鉢卷はちまきなどして如何いかゞ成なされしや直すぐに出行るゝやと尋ねけるに長庵は重おもた氣げに枕を持上偖々昨夜より大熱だいねつにて頭痛甚しく夜通し苦しみたり誠まことに〳〵病氣の時の悲かなしさは獨身者は藥一服いつぷく煎せんじて呉る人もなく實以て困こまり候而て其札の辻よりの御差紙とは何等なんらの御用筋にやと空嘯そらうそぶいて申けるにぞ家主は氣の毒さうに扨々さて〳〵病中と云とんだ難儀なんぎの事なり又聞の咄はなしなれば確しかとは分らねども何か札の辻にて昨夜人殺しが有りしとか云ふこと其の切きられたる者の懷中くわいちうに貴殿きでんの手紙が有りしよし檢使けんしの場へも呼出しに成るとの事といへば長庵は然さも驚きし樣子にて床とこの上に起き上り其殺されし人は如何なる出立いでたちの人に候やと聞きくに家主は然さればなり四十三四の年頃にて百姓體の男の由と咄はなせば長庵は顏色がんしよく變かへ扨は弟十兵衞が金子を持もつて早立せし故萬一もしもの事でも有りしかと立たり居たりする體は實心じつしんとこそ見みえにけれ稍やゝ有あつて申けるは病中にて難儀には候へども捨置すておかれねば直すぐに押おしても罷まかり出んと支度したくを早々そこ〳〵にして立出れば家主も夫は〳〵氣の毒千萬と心配しながら諸共に芝札の辻を指さして急ぎ行ゆくに頓やがて檢使の前へ呼出よびいだされ長庵に一通り尋ね有ありて彼の十兵衞の死骸を見せられけるに長庵は一目め見みるより死骸に取付扨は十兵衞にて有ありけるか斯かゝる事の有るべきと虫むしが知らせし物にや頻しきりに夜明よあけて出立致させ度たく我が止めしをも聞入きゝいれず出立成なしたる夫故それゆゑに斯る憂目うきめを見る事ぞ病氣でさへなき物ならば此邊迄も見送みおくり遣やらんに無念むねんの事を仕てけりと前後不覺ぜんごふかくに泣沈み正體しやうたい更さらに有あらざれば其有樣を見る人は如何にも其身が仕なしたる事とは更に知らざりけり此時檢使の役人は彌々いよ〳〵其方が弟に相違無さうゐなきや如何いかなる譯わけ有て大雨たいうの折から深更しんかうに發足はつそく致せしやと尋ね有りければ長庵袖に涙を拭ぬぐひ私し弟十兵衞事は三州藤川在岩井村の百姓にて豫々かね〴〵正直者しやうぢきものに候へ共不事の物入いり打續き年貢の未進みしん多分たぶんに出來上納方に差支さしつかへ如何共とも詮術せんすべなき儘文と申姉あね娘を吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身賣致し其身代金みのしろきんを所持致し今朝こんてう未明みめいに私し方を出立致し候を存知居ぞんぢをり候者の仕業しわざかと恐れながら存じられ候と身を震ふるはして申立てけるに其時檢使は彼場所に傘捨有りし傘を出いだされ其方此傘に覺え有りやと見せらるれば長庵涙を拂はらひて倩々つく〴〵と打詠うちながめ暫く有あつて小膝を叩たゝき是こそ私し同町に住居すまひ致居候浪人藤崎道十郎と申者の所持しよぢの傘かさに有之此傘からかさにて思ひ當りし事あり同人義昨日も私し方へ參り居をり候是は當今たうこん同人事病氣にて拙者せつしやより藥を遣つかはし置候事故昨日も例れいの藥取に參りしなり其節弟十兵衞朝未明あさまだきより出立致し候とて右の金子を取出し改めて懷中くわいちうへ入候事ども羨うらやまし氣げに見て歸り候間若もしや彼の道十郎が困窮こんきうに迫せまりて如何の了簡れうけんをも出しは致す間敷まじく候やと然さも誠まことしやかに申立ければ役人中ぢうも長庵が申立たてを實げにもと思はれ其道十郎を取迯にがさぬ樣手當てあてせよとて手先并ならびに町役人へ内達ないたつにぞ及ばれける


第五回


 扨も檢使には掛かゝり合の者一同召連めしつれて北の番所へ(幕府ばくふの頃は町奉行兩人有て南みなみ北きたと二ヶ所に役宅やくたくあり)歸かへりしかば中山出雲守殿へ檢使の次第を言上いひあげ且夫々の口書を差出さしいだしけるに出雲守殿も長庵が佞辯ねいべんを是ぜとして彌々いよ〳〵道十郎の仕業なりと疑がひ掛り直すぐに麹町へ召捕方めしとりかたを差向さしむけられ十兵衞事死骸は兄長庵へ御引渡しに相成ければ長庵は仕濟しすましたりと内心に悦び直すぐに十兵衞の死骸を引取ひきとりける爰に彼の浪人藤崎道十郎といへるは故ゆゑ有ありて主家を退身たいしん爲なし流浪るらうの身と成りしが二君に仕へるは武士さむらひの廉恥はぢいる所成れ共座して喰くらへば山も空むなし何れへか仕官しくわんに就つかんと思ひしに不幸にも永の煩わづらひに夫も成らず困苦こんくに困苦を重かさねしも女房お光が忠實敷まめ〳〵しく賃裁縫ちんしごとやら洗濯等せんたくなどなし細ほそくも朝夕あさゆふの烟けむりを立たて啻たゞ夫をつとの病氣全快ぜんくわい成なさしめ給へと神佛へ祈念きねんを掛かけ貧まづしき中にも幼少えうせうなる道之助の養育やういくを樂たのしみ居たりしに或日あるひ表裏おもてうらの門口かどぐちより上意々々じやうい〳〵との聲こゑ聞きこゆるにぞ何事やらんと道十郎は枕まくらを揚あげる折をりこそあれ召捕めしとりの役人どや〳〵と押込おしこみ御用なり尋常じんじやうに繩なはに掛れと勢猛いきまきて罵のゝしるにぞ道十郎は驚きて居すわり直なほし拙者に於ては御召捕に相成べき謂いはれ無し其は人違ひとちがひにては候はずやと言いはせも果ず役人共言譯いひわけ有あらば白洲しらすにて申べしと病痿やみほいけたる道十郎を高手小手に警いましめて妻子さいしの泣なくをも構かまはゞこそ四方を嚴きびしく取圍とりかこみ北の番所へ引出しが頓て中山出雲守殿の御白洲へ情なさけなくも引出しけり然されば出雲守殿一通り調しらべに掛かけられしに道十郎は思ひも寄よらぬ事成れば大いに驚怖おどろき何者なにものが訴人そにんせしや知しらざれども右樣みぎやうの儀ぎ決けつして覺え是無これなく候と申に出雲守然らば此傘このかさは其方覺え無きやとの尋ねなれば道十郎是は私しの所持の傘かさに御座候と云ふに出雲守殿然されば如何いかゞしてか此傘が右人殺ひとごろしの場所に捨すて有ありしなり其方惡事を働はたらき其場所に取落し置たるに相違さうゐ有あるまじ尋常に白状せよ特ことに長庵が申立に其方事前日長庵方へ藥取くすりとりに參り合せ十兵衞が娘を吉原町へ賣うり其金を持て歸りし時の容子ようすを認みとめ其方惡意あくいを發はつせしもの成らんと云へり然もあるべし如何樣に申陳ちんずる共既すでに證據と成るべき傘からかさあれば申譯わけ立難たちがたしと申さるゝに道十郎は如何にも迷惑めいわくし這こは驚き入たる仰せかな長庵事何と申上候か存申さず候得ども私し事は先月せんげつ中より永々なが〳〵の病氣にて臥居ふしをり中々長庵方などへ參り候事是無く勿論先月中一兩度も近所の事故藥取に參り候が其時の事にて有りしが雨あめ晴はれ候故不思つひ傘かさを長庵の玄關先さきに失念しつねん致して歸り候により其後兩三度も取りに遣つかはし候得ども之無き趣おもむきにて返して呉くれざる故其儘に致し置候ひしが其節の傘に相違さうゐ無御座候然るに長庵右樣みぎやうの儀を申立る事何分にも其意を得ざるまゝ何卒なにとぞ長庵と對決たいけつの御調べ偏ひとへに願ひ奉つり候と申上あげければ然らば此傘は其方長庵方に忘わすれ置おきしと申か長庵は其方が十兵衞の金子を持て歸る事を存ぞんじ居をり旁々かた〴〵怪あやしき段申立る何れ長庵と突合つきあはせ猶なほ吟味ぎんみを遂とくべし併しながら其方所持の傘からかさ其場所に捨在すてありし上は其方こそ疑ひ無なきに非ず依て吟味中入牢じゆらう申付るなりと終に道十郎は入牢の身とこそは成にけれ翌日村井長庵呼出しにて段々だん〳〵取調とりしらべ有りしに長庵は前に申上し通り傘を私しの宅へ忘わすれ置き候などとは道十郎が僞言いつはり決して右樣の事是なく候右は長庵に罪つみを塗付ぬりつくべしとの巧たくみにて申上候事やと存じ奉つり候と態わざと驚怖おどろきたる容子ようすに申立双方さうはうの眞僞しんぎ判然わからざるより道十郎と突合つきあはせ吟味に相成し處佞奸邪智ねいかんじやちの長庵が辯舌べんぜつに云昏いひくるめられ道十郎も種々しゆ〴〵言開いひひらくと雖も申口相分らず長庵は只町役人へ預けにて下さがり道十郎は病中の處猶又歸牢きらうに相成心氣しんき疲つかれ心程言葉の廻まはらざるより自然しぜんと對決たいけつも屆かず吟味詰にも相成ずして居たりし中うち寶永七年九月廿七日憐あはれむべし道十郎牢内らうないにて死去に及びけるは不運ふうんと云ふも餘りあり妻お光は此由を聞て狂氣きやうきの如く悲かなしみしかども又詮方せんかたも非ざれば無念ながらも甲斐かひなき日をぞ送りける其長庵は心の内の悦び大方ならず猶なほ種々さま〴〵と辯舌を以て申立て終に死人に口無くちなしの喩たとへの通り彼札の辻の人殺しは道十郎に事極きはまり殘骸は取捨に相成家財かざいは妻子に下し置れ店請たなうけ人なる赤坂の六右衞門方へ妻子の者は泣々なく〳〵引取れ長庵は何の御咎とがめもなく落着らくちやくせしかば爰こゝに於て三州藤川在岩井村へは此由を長庵より知らせやりしに十兵衞の妻お安やす妹娘いもとむすめお富は地摺ちすり足摺あしずりして歎なげけども詮方せんかたなく終に兩人ながら出府して長庵方へ引取れけり其内に長庵は又一ツの惡計あくけいを考へ出し妹娘のお富も幸ひ十二相さう揃そろひし容貌きりやうなれば欺だまして是をも金にせんと己れが惡事仲間の早乘はやのりの三次と云ふ者を語合かたらひ又近所の後家ごけにて惡婆あくばのお定と云ふ女をも手なづけ置き頓やがて母の御安にはお富を能よき屋敷やしき方へ御奉公に差上るなりと云いひ勸すゝめ彼惡婆かのあくばのお定を三次が出入の御屋敷の老女と爲し御取替とりかへ金などと僞りて僅わづかの金子をお安に與へ妹娘のお富を連出つれだしけるがお富には姉と共に奉公せよと種々いろ〳〵に云いひ慰なぐさめ欺だまし賺すかして終に吉原江戸町二丁目なる丁字屋半藏方へ身の代しろ金三十兩にて賣代うりしろなし右の金子の内を三次へ五兩お定へ一兩遣つかはし殘りの金廿四兩を悉皆こと〴〵く己れが榮耀ええうに遣ひけりお安は旨々うま〳〵と長庵に欺かされ妹のお富迄も浮川竹うきかはたけの流ながれの身と成りし事を毫つゆ知しらざれども其後更に二人の娘より一度の便たよりも無ければ案事あんじ煩わづらひ或日長庵に向ひて申樣何卒姉娘のお文にも一度逢あはして下されと頼みければ流石さすがの長庵も當惑たうわく爲し挨拶あいさつに困こうじ果はて口から出放題ではうだいの事を言いひて慰めける内又々妹お富が參りたる御邸やしきは何と申ところにやお富にも何卒逢あはして下されと朝夕となく頻しきりにお安に責せめらるれば長庵は愈々いよ〳〵困こうじ果はて妹お富が行きし所は堅かたい御邸おやしき成なれば然さう輕々敷かる〴〵しくは逢難あひがたし其内都合を見て逢あはせんと一日遁のがれの挨拶も煎せんじ詰つまつて長庵が匙さじ加減かげんにさへ廻り兼姉のお文に逢せなば必ずお富が居る事故出て來るは必定ひつぢやう外の内へ賣れば能よかりしに近來ちかごろになき失策しぞこなひを致したりと後悔こうくわいすれども詮方なく今はお安も側そばを放はなれず二人の娘に逢して呉くれと髮かみもおどろに振亂ふりみだし狂氣の如き形容ありさまに長庵殆ほとんどあぐみ果はて捨置すておく時ときは此女から古疵ふるきずが發おこらんも知れぬなり毒どく喰くはば皿とやら可愛さうだがお安めも殺して仕舞しまふ外ほかは無いが如何なる手段で殺して呉くれん内で殺さば始末しまつが惡し何でも娘兩人に逢して遣やると誘引出おびきだし人里遠き所にて拂放ぶつぱなすより思案は無し夫にしても自分でするは些ちつと小面倒こめんだうの仕事なり彼奴あいつを頼んで片付んと獨ひとり思案の其折から入來る兩人は別人べつじんならず日頃入魂じゆこんの後家のお定に彼の早乘はやのりの三次成れば長庵忽地たちまち笑ゑみを含ふくみ何にも無ないが一ツ飮ふと戸棚とだなより取出す世帶せたいの貧乏徳利干上ひあがる財布のしま干物獻さしつ押おさへつ三人が遠慮ゑんりよもなしに呑掛のみかけたりお安は娘に逢度さを引しぼる程苦勞くらうが彌増いやまし今迄兄の長庵へ娘二人に逢あはしてと逼せまりて居たる折柄をりから成なれば此酒盛に立交たちまじりて居るも物憂うく思ふ物から其場を外して二階に上れば折こそ宜よしと長庵は二人が耳に口を寄せ何か祕々ひそ〳〵囁さゝやきければ二人はハツと驚きしが三次は暫しばし小首を傾かたむけ茶碗ちやわんの酒をぐつと呑干のみほし先生皆迄宣のたまふな我々が身に係かゝる事委細承知と早乘が答へに長庵力を得て惡婆のお定と鼎かなへに成なり其巧そのたくみにぞ及びけり


第六回


 三人寄よれど文珠もんじゆさへ授けぬ奸智かんちの智慧袋ちゑぶくろはたいた底そこの破やぶれかぶれ爲術せんすべ盡つきし荒仕事あらしごと娘に逢あはすと悦ばせて誘引おびき出すは斯々と忽ち極きまる惡計に獻さしつ酬さゝれつ飮みながらとは云ふものゝ此この幕まくは餘り感心かんしんせぬ事成れば姉御あねごと己と鬮くじにせんと紙縷こより捻ひねつて差出せばお定は引て莞爾につこり笑わらひ矢張やつぱり兄貴あにきが當り鬮と云はれて三次は天窓あたまを掻かき然さらば三次が引請ひきうけんと其夜は戻りて二三日過すぎ眞面目まじめに成て尋ね來れば長庵はお安を打招うちまねきお富を奉公に世話を下されしは此お人なればお頼み申てお富に逢あうて來るが能よいと聞てお安は今が今迄兎とや角かくと案あんじ暮して居た事ゆゑ忽ち笑ゑみを含ふくみつゝ三次の側そばへさし寄て今より何卒御一所にお連つれ成なされて下されと云へば三次は默禮もくれいし然程迄さほどまでにも逢度あひたくば今夜直すぐにも同道せんと聞てお安は飛立とびたつ思おもひそれは〳〵有難し先樣でさへ夜分やぶんにても能事よいこと成なれば私しは一刻ちつとも疾はやく逢度あひたいと悦ぶ風情ふぜいに長庵は仕濟したりと心の目算もくさん頓やがて三次に打向ひ御苦勞くらうながら世話せわ序ついでに今晩こんばん逢あはせて下されと云へば三次は苦笑にがわらひ如何にも承知と挨拶あいさつするうち殺さるゝとは夢ゆめにも知らずお安は急ぎ帶おび引締ひきしめサアと促うながす詞ことばと共に三次は態わざと親切らしくお安を連て立ち出しは既に時刻じこくを計りし事故黄昏たそがれ近き折なれば僅かの内に日は暮切くれきり宵闇よひやみなれば辻番にて三次は用意の提灯ちやうちんへ灯あかりを點つけて先へ立コレお安殿何も案じる事は無ないお富さんも御屋敷へ行てから度々たび〳〵母樣はゝさまへお案事あんじ成なさらぬ樣宜しく云て下されとお言傳ことづても有りました特には先の御屋敷でも御意に適かなつて益々ます〳〵全盛ぜんせいと云はんとせしが口を押おさへ少し辛抱しんばうして居らるゝと屹度きつと出世しゆつせも出來まする其御邸と申のは至つて風儀ふうぎも能よいとの事傍輩衆はうばいしうも大勢有て御奇麗きれい好ずきの方々ゆゑ毎日朝から化粧つくろひが御奉公安心なる物なりと口から出次第でしだい喋舌立しやべりたてるを誠と思ふ田舍堅氣ゐなかかたぎお安は唯たゞ莞爾々々にこ〳〵と打悦びお前樣には色々と御世話に相成娘も嘸さぞや悦んでがな居ませう又今晩は夜道よみちをもお厭いとひ無くて態々わざ〳〵と娘の勤つとめ先までも御連れ下さる御心切御禮れいの申上樣も御座らぬ迄に有難う存じますると云ふを聞きゝ三次はかぶりを振ふりながら何の御禮に及びませうぞ夫それ其處そこは水溜みづたまり此處には石が轉ころげ有りと飽迄あくまでお安に安心させ何處どこへ連行つれゆき殺ばらさんかと心の内に目算しつゝ麹町をも疾とく過すぎて初夜の鐘かねをも算かぞへつゝ巧たくみも深き御堀端ほりばた此こ處こぞと猶豫ためらふ一番町たやすく人は殺せぬ物と田安たやす御門も何時いつか過ぎ心も暗くらき牛うしヶ淵ふちを右に望のぞみて星明ほしあかり九段坂をも下り來て飯田町なる堀留ほりどめより過るも早き小川町をがはまち水道橋すゐだうばしを渡り越こえ水戸みと樣前を左りになし壹岐殿坂いきどのざかを打上り本郷通りを横に見て行ゆけども先の目的めあてなき目盲めくら長屋ながやをたどり過すぎ人の心に尖とげぞ有る殼枳寺からたちでらや切道きりどほし切るゝ身とは知らずとも頓やがて命は仲町と三次は四邊あたり見廻すに忍しのばずと云ふ名は有りと池いけの端はたこそ窟竟くつきやうの所と思へどまだ夜も淺あさければ人の往來ゆききも絶たえざる故山下通り打過て漸々やう〳〵思ひ金杉と心の坂本さかもと通どほり越こし大恩寺だいおんじ前まへへ曲り込ば此處は名に負おふ中田圃なかたんぼ右も左りも畔道あぜみちにて人跡じんせきさへも途絶とだえたる向ふは曲輪くるわの裏うら二階かい眼隱めかくし板の透間すきまより仄ほのかに見ゆる家毎やごとの燈あかしお安は不審いぶかり三次に向ひ爰は何と申所にやまた那あの賑にぎやかのは何所なりと訪とはれて三次は振返ふりかへり那あれか那あれがお江戸の吉原さお文さんは那内あのうちに居られるのだ而してお富さんの居るお屋敷もたんとは離はなれて居らぬ故二人に今夜は逢あはせて進あげんと言いはれてお安は草臥くたびれも頓とみに忘わすれて莞爾々々にこ〳〵と今殺さるゝ其人を力と頼みて夜道をも子故の闇やみにたどりつゝ三次が後に引添ひきそひ歸らぬ旅路へ赴むくと虫が知らすか畔傳あぜづたひつたはる因果の耳元みゝもと近く淺草寺の鐘の音も無常むじやうを告る後夜ごやの聲かねて覺悟の早乘三次長脇差ながわきざしを小脇こわきに隱かくしぶら提燈をお安に渡し是から道も廣ひろければ先へ立てと入替り最お屋敷も終つひ其處そこだと二足三足遣やり過すごす折柄聞ゆる曲輪くるわの絲竹いとたけ彼の芳兵衞の長吉殺し野中のなかの井戸にあらねども此處は名に負おふ反圃中たんぼなか三次は裾すそを引からげ堪忍かんにんしろと後うしろから浴あびせ掛たる氷こほりの刄やいば肩先かたさき深ふかく切込れアツとたまきる聲の下ヤア情けなや三次どの何で妾わらはを殺すぞや妾は何の咎とが有て娘に逢あはすと連出し此樣こんな淋さびしい所へ來て欺だまし殺しは何故ぞアヽ恨うらめしや三次殿四邊あたりに人はなき事か何卒どうぞ助たすけて下されと切きられし肩かたを兩手で押おさへ迯にげんとするを引捕ひつとらへ三次は其邊そこら見廻みまはしつゝ己おれは元より怨うらみもなけりや殺す心はなけれ共頼まれたのが互たがひの不運斯かうなる上は觀念くわんねん爲しろと又も一太刀切倒きりたふされ立んとしても最もう立たゝれずばツたり其處へ打倒れ流るゝ血汐ちしほを押へしまゝ七轉八倒のた打廻るに流石の三次も心こゝろ弱よわりヱヽ氣の毒な不便だが殺さにや成らぬ事が有る是と云ふのもお前の因果長庵と云ふ惡者を兄に持たが不仕合ふしあはせ必ず私わしを恨まれな無慈悲むじひなことと思へども頼まれてする荒手業あらしごと呉々くれ〴〵私わしが爲るではなし長庵殿の計はからひなりと云にお安は聲こゑ震ふるはし扨は兄さん長庵殿がお前を頼んで殺すのか聞えぬぞへ長庵殿私を殺す譯わけあらば娘に逢あはした上なれば十兵衞殿への土産みやげも有るにお前もお前頼まるゝ事にも差別しなの有あるものを罪も恨うらみも無なき私わしを殺す心の其方そなさんも情なさけ無ないぞや恨めしやと勃然むつくと立てば三次は驚きヤア〳〵姉御あねご此私このわしを決して恨んでたもるまい此場に臨のぞんで左右どうかうと言譯いひわけするも大人氣おとなげなし永き苦しみさせるのも猶々不便が彌増いやませばと再度ふたゝび大刀だんびら振上ふりあげていざ〳〵覺悟と切付る刄やいばの下に鰭伏ひれふして兩手を合せ幾度いくたびか助てたべと歎くにぞ三次も心こゝろ後おくれてか鬼おにの眼めにさへ涙とやら不便の者やと思ひしゆゑ彼の長庵が惡事の段々だん〳〵苦痛くつうなしゐるお安に聞せ夫故お前を殺す時機じき因果いんぐわづくだが斷念あきらめて成佛じやうぶつしやれお安殿と又切付れば手を合せ何どうでも私を殺すのか二人の娘に逢あふまでは死しにとも無ないぞや〳〵と刄に縋すがるを引ひく機會はずみに兩手の指ゆびは破羅々々ばら〳〵と落て流るゝ血雫ちしづくに畔あぜの千草の韓紅からくれなゐ折から見ゆる人影に刄を逆手さかてに取直し胸の邊あたりへ押當て柄つかも徹とほれと刺貫さしつらぬき止めの一刀引拔ば爰に命は消果きえはてぬ實げに世に不運の者も有者哉夫十兵衞は兄長庵の爲に命を落し娘兩人は苦界へ沈しづみ夫のみ成らで其身まで此世の縁えにし淺草なる此中田圃なかたんぼの露と共に消きえて行身の哀あはれさは譬たとふるものぞなかりける


第七回


 斯て早乘三次はお安の死骸を田圃の溝みぞへ投込み其儘にして道を急ぎ麹町へ歸り來て長庵の門かどをほと〳〵叩たゝけば待まうけたる長庵は忽ち立て戸を引明上首尾成じやうしゆびなりと聞て悦び酒の用意もして有りと廣蓋代ひろぶたがはりの夜食膳やしよくぜんへ何やら肴を并べたて大きに骨が折れたで有らう最早もはや是にてお互ひに心に掛る雲も無なしと飮のみ戲たはむるゝ有樣は大膽不敵の振舞ふるまひなり人ひと盛成さかんなる時ときは天に勝の道理にて暫時しばらくの内は長庵も安樂に世を送りけるが彼の十兵衞の娘お富お文は揃そろひも揃ひし容貌きりやうにて殊に姉のお文は小町こまち西施せいしも恥はぢらうばかりの嬋妍あでやかもの加之そのうへ田舍ゐなか育そだちには似氣にげもなく絲竹いとたけの道は更なり讀書よみかきも拙つたなからず最いと愛やさしき性質成れば傍輩はうばい女郎も勞いたはりて何から何まで深切しんせつを盡くして呉ける故僅わづかの間まに曲輪くるわの風も何時か見習みならひ樓主あるじの悦び大方成らず依て丁字屋の板頭おしよく名前なまへ丁山ちやうざんとこそ名付たれ抑そも突出つきだしの初めより通ひ廓くるわの遊客いうかくは云ふも更なり仲の町の茶屋々々迄も譽ほめものとせし位なれば日成らずして其の頃屈指ゆびをりの全盛と成りし事全まつたく孝行かうかうの徳とくにして神佛も其赤心そのまごころを守護まもり給ふ物成らんと又妹お富も長庵に欺あざむかれて此丁字屋へ賣うられ來しかば姉妹はらから手と手を取換とりかはし如何成れば姉妹二人斯る苦界に沈みしぞ父樣とゝさまには私の身の代金しろきんの爲に人手に掛り果て給ひ母樣には麹町にお在はするとの事成れどなどか逢あひには來給はぬぞ手紙を上あげても片便かただより若しや生別いきわかれにも成らんかと夫のみ心に懸かゝれりと袖に涙の玉霰たまあられ案事あんじ暮くらすぞ道理だうりなり偖妹のお富は名を小夜衣さよぎぬと改めしか是も突出つきだし其日より評判最もつとも宜よかりければ日夜の客絶間たえまなく全盛ぜんせい一方ならざりけり茲に神田三河町に質しち兩替渡世をする伊勢屋五兵衞とて有徳うとくなる者の養子に千太郎と云ふ若者あり實家じつかは富澤町の古着ふるぎ渡世甲州屋吉兵衞と云ふ者なりしか此千太郎或時仲間なかまの參會崩さんくわいくづれより大おほ一座にて晝遊びに此丁字屋へ登樓あがりお富の小夜衣を偶娼あひかたにせしが惚合やみづきにて二度が三度と深くなり互ひに思ひ思はれて割わりなき中とは成りにけり偖此伊勢屋五兵衞と云ふは例ためしなき吝嗇りんしよく者にて不斷ふだんの口癖くちぐせにて我程仕合者しあはせものは有るまじ世の中に子を持程の損そんはなし夫故我は妻をも持ず世繼よつぎには人が骨ほねを折をつて養育やういくした子を貰もらへば持參金ぢさんきんも何程か附つくなり縱令たとへ放蕩はうたうを仕たればとて無した金は持參金より引去ひきさり離縁りえんさへすれば跡腹あとばらを病やまずに濟ぞかし我も追々おひ〳〵取年にて近頃大きに弱りし故養子を一人貰もらひ度たく望のぞみと云ふは他ならず何事も拔目ぬけめなく實家の立派なる持參金の澤山たくさん有ある養子なりなどと云ひ又奉公人が風邪かぜでも引て寢ねると人と入物いれものは有次第なり米が入いらなくて能よいなどと戲談おどけにも云ふ程の吝嗇りんしよく成なれば養子の周旋せわをする者も無なけれど誰しも欲の世の中なれば身上の太きに愛めでて言込者いひこむものも又多かり然共持參金の不足より毎いつも相談整とゝのはず爰に出入の者の内に古着渡世ふるぎとせいの者有りしが彼が周旋せわにて富澤町に甲州屋吉兵衞と云ふ古着渡世の者の次男じなんに千太郎と呼て當年二十歳に成なり器量きりやうと云ひ算筆さんぴつと云ひ殊に古着渡世なれば質屋にも因ちなみ有て申分無なき若者成れば御當家の御養子やうしにせられては如何にやと相談さうだん有りけるに五兵衞は彼の持參金の無なきより縁談えんだんを斷ことわりければ當家に幼年えうねんの頃より奉公して番頭と迄出世しゆつせをなし忠義無類むるゐ世間せけんにて伊勢屋の白鼠しろねずみと云ひ囃はやし誰知らぬ者も無き評判の久八は日頃より主人の吝嗇りんしよくなるを心に悲しみ居けるが御儉約けんやく成なさるゝは結構けつこうの事なれ共御相續の御養子は御家を御繼つがせ成さる大事の御方なり其大切なる御養子持參金を御望み有るは大きな御了簡違れうけんちがひと申ものなりと思ひ切て忠義一途づの心より主人五兵衞を種々しゆ〴〵樣々さま〴〵と申諫いさめ當家御相續の御養子に候へば持參金の儀は御止りありて只たゞ其人をこそ御撰えらみあるが然るべしと道理を盡つくして諫言かんげんに及びければ流石さすが強慾がうよくの五兵衞も初めて道理もつともと思ひ終に持參金の念ねんを斷たちたる樣子なれば久八は此圖づを外はづさず話しなば必ず縁談えんだん整とゝのはんと彼の富澤町なる甲州屋吉兵衞の次男千太郎の身持みもちを篤とくと探さぐりしに何所いづれで訪とうても能よき若者なりと賛成ほめざる者の無かりしかば其趣きを取敢とりあへず五兵衞に話しけるに忽ち縁談えんだん整とゝのひたれば久八の悦喜よろこび一方成ず然共されども物入を厭いとひの聟入むこいりの祝言しうげんも表向おもてむきにせず客分きやくぶんに貰もらひ請うけたるが素もとより吝嗇の五兵衞なれば養父子の情愛じやうあひ至て薄うすく髮も丁稚小僧同樣に一ヶ月六十四文にて留置とめおき湯ゆも洗湯せんたうへは容易に出さず内へ一日置おいて立る程なれば一事が萬事にても辛抱しんばうが出來兼る故千太郎は如何はせんと思案の體を久八は疾とくに察さつし何事も心切しんせつを盡し内々にて小遣錢こづかひぜに迄も與へ陰かげになり日向ひなたになり心配して呉くれけるゆゑ久八が忠々まめ〳〵敷心に愛めでて千太郎は奉公に來し心にて辛抱しんばうをして居たりけり然るに正徳しやうとく三年癸巳みづのとみの三月四日例年の事とて兩替りやうがへ并ならびに質古着しちふるぎ渡世の仲間の參會さんくわい有あり皆々みな〳〵兩國の萬八樓へ集まりけるが伊勢屋五兵衞も仲間内なかまうちとて月行事つきぎやうじより其の趣きの回状くわいじやうのありし折節をりふし五兵衞は店に手の拔ぬけられぬ帳合有りとて悴せがれ千太郎を呼よび我等が名代に萬八へ行き仲間の者にも知己ちかづきに成るべしと云ふに千太郎は畏かしこまり候と頓やがて支度に掛りしに持參の衣類は商人あきうどには立派過ると養父の差圖さしづに毎いつもの松坂縞まつざかじまの布子に御納戸木綿おなんどもめんの羽織はおり何所どこから見ても大家の養子とは受取兼る樣子なり其時養父五兵衞は千太郎に云ひける樣今日の馳走ちそうは總て割合わりあひ勘定かんぢやうなれば遠慮ゑんりよには及ばぬなり殘して歸るは損そん故ゆゑ是へ包んで持歸もちかへれと古びたる油紙あぶらがみと重箱ぢうばこを風呂敷ふろしきに包んで渡し今日は別段の事なれば金の入事の有るも知れねば用意に持參せよと澁々しぶ〳〵金一分を千太郎に渡し參會が濟すみ次第人には構かまはず先へ歸つて來れよと宛然さながら丁稚小僧でつちこぞうを宿入やどいりに出すが如き仕成しなしにて名代に遣つかはしけるに彼の仲間の若者は萬八の崩くづれより向島むかうじまの花見と云ひなしその實じつ花街よしはらの櫻の景氣を見んと言ひ立ち伊勢五の養子をも連つれ行かんと誘引さそひければ千太郎は恭うや〳〵しく兩手をつき據よんどころなき用事も有あれば勝手が間敷は候得共今日は御免ごめん有れと云ひければ大勢は酒機嫌さかきげんにて聞入ず殊に五兵衞の吝嗇りんしよくを平生へいぜい憎にくみける故態わざと千太郎を歸さず是非お附合つきあひなされよと無理に引留ひきとめまだ日も高ければ夕刻ゆふこく迄には寛々ゆる〳〵としても歸らるゝなり決して御迷惑ごめいわくは掛ませぬと厭いやがる千太郎の手て引ひき袖そで引ひき萬八の棧橋さんばしに繋合もあひたる家根船へ漸々やう〳〵にして乘込のりこませり是ぞ千太郎と久八が大難だいなんの基もとゐとこそは成りにけれ


第八回


 然されば彼伊勢屋千太郎は養子の身なれば仲間一同へ程ほど能よく申譯わけを爲し逃歸にげかへらんとなせども養父五兵衞が平生仲間交際つきあひを更さらになさず類たぐひ無き吝嗇りんしよく者なれば養子千太郎を連行つれゆきて伊勢五の親爺おやぢに氣を揉もませ呉んと一同にて仕組しくみしことゆゑ千太郎の云ふ事を少しも聞入きゝいれず御養父が若もし分わからぬ叱言こごとを言れなば仲間一同にて引受ひきうけ貴樣おまへに御迷惑ごめいわくは懸かけまじ一年に唯たゞ一度の參會故夫を外はづし給ふとは卑怯ひけふなりと手引袖引萬八樓の棧橋さんばしより家根船に乘込のりこませしが折節揚汐あげしほといひ南風なれば忽ち吾妻橋をも打越え眞乳まつち沈しづんで梢こずゑ乘込のりこむと彼端唄かのはうたに謠うたはれたる山谷堀より一同船を上り十間の白扇子しらあふぎに麗うららかなる春の日を翳かざし片身替かたみがはりの夕時雨ゆふしぐれに濡ぬれにし昔の相傘あひがさを思ひ出せし者も有るべし土手八町もうち越して五十間けんより大門口に來て見れば折しも仲なかの町の櫻さくら今いまを盛さかりと咲亂さきみだれ晝と雖も花明はなあかりまばゆきまでの別世界べつせかい兩側りやうがはの引手茶屋も水道尻すゐだうじりまで花染はなぞめの暖簾のれん提灯ちやうちん軒を揃へて掛列かけつらね萬客の出入袖を摺合すりあひ茶屋々々の二階には糸竹の調べ皷つゞみ太皷たいこの音ね絶たえる事なく幇間たいこの對羽織つゐばおりに色増君いろますきみの全盛を顯あらはし其繁榮はんえい目を驚せし浮生ふせいは夢の如く白駒はくくの隙ひまあるを忘る實げに蓬莱ほうらいの仙境せんきやうも斯る賑にぎはひはよも非じと云ふべき景況ありさまなれば萬八樓より翦それたる一同は大門内おほもんうち山口巴やまぐちともゑと云引手茶屋へ躍をどり込こめば是は皆々樣御揃そろひで能うこそお出いで在あられしぞ先々二階へ入いらつしやいと家内の者共喋々てふ〳〵しき世事の中にも親切しんせつらしく其所そこよ其所こゝよと妓樓まがきを算かぞへ丁字屋ならば娼妓おひらんも澤山たくさん有ある故ゆゑ宜よからんと山口巴の案内にて江戸町二丁目丁字屋方へ一同どや〳〵登樓おしあがり千太郎には頃日このあひだ出でたばかりなる小夜衣が丁度ちやうど似合にあひの相方と見立みたてられしが互ひの縁えにし如何につき合なればとてまだ日も暮くれぬきぬ〳〵に心殘せど一座の手前其の日はどつと陽氣やうきに騷ぎ手輕てがるく遊あそんで立出つゝ別れ〳〵に歸りけり偖も小夜衣は今日けふ圖はからずも千太郎の相方に出しより何となく其人の慕したはるゝまゝ如何にもして彼の客人まろうどを今一度なりとも呼度思ひ其夜は外の客きやくへも染々しみ〴〵勤つとめざる程なれば其心の此方こなたにも通つうじけん千太郎も小夜衣の事を憎にくからず思ひ其その移うつり香がの忘わすれ難しと雖も養父の手前一日二日は耐へしが何分なにぶん物事手に付ず實家じつかへ參ると僞いつはりて我が家を立出小夜衣が許もとへ到いたりしに夫と見るより小夜衣は飛とんで出いで直樣すぐさま我が部屋へやへ伴ともなひ何くれとなく勤つとめを離はなれし待遇もてなしに互ひの心を打明つゝ變かはるまいぞや變らじと末すゑの約束までなせしかば千太郎は養家やうかを大事と思ふ心も何時しか忘れて小夜衣の顏を見ぬ夜は千秋しうの懷おもひにて種々しゆ〴〵樣々さま〴〵と事にかこつけ晝夜の別わかちも無なく通ひける實に若き者の溺おぼれ安きは此道にして如何なる才子さいしも忽ち身を亡ほろぼし家産かさんを破る殊ことに世間見ずの千太郎と又相手は遊女とは云へまだ生娘きむすめも同樣なる小夜衣のことなれば後先あとさきの考かんがへも無く千太郎を招き田舍ゐなかに在ありては見る事も成らぬ斯かゝる御人と連理れんりの契ちぎりを結むすぶ嬉しさは身を捨てこそ有なれと思ふも果敢はかなき小女氣むすめぎなり彼の一生しやうの苦勞くらうは他人に寄より一雙さうの玉手千人枕まくらし一點てんの唇くちびる萬客に嘗なめらるゝと云ふ愁つらい勤つとめの其中の心の底を打明て語るお方は唯一人と小夜衣が誠まことを盡つくせば千太郎は彌々いよ〳〵夢中むちうになり契情けいせい遊女に咎とがはなく通ふ客人に咎とが有りとは我が事なり願ねがはくは明鏡かゞみとなつて君が俤おもかげを分うつし願は輕羅うすものと成て君が細腰こしにまつはりたしなどと凝塊こりかたまり養父五兵衞が病氣にて見世へ出いでぬを幸ひに若い者等を欺だましては日毎ひごと夜毎に通ひ詰つめ邂逅たまさか宅うちに寢ねる夜よには外を商ふ物賣ものうりの聲も花街くるわの夜よ商人あきんど丁稚でつちの寢言ねごとも禿かふろと聞え犬の遠吼とほぼえ按摩針あんまはりの聲迄も都すべて廓中くるわの事を思ひ出す程にして何も斯かうして居られぬと又飛出しては夜泊り日泊り家には尻の据らねば終に病中びやうちうながら養父五兵衞の耳に入いり直すぐに離縁と憤いきどほるを番頭久八は大いに驚き主人五兵衞へ段々だん〳〵に詫言わびごとに及び千太郎には厚く異見いけんを加へ彼方あち此方こちと執成とりなしければ五兵衞も漸々やう〳〵怒いかりを治め此後を急度きつと愼つゝしむならばと一ト先まづ勘辨かんべんにぞ及びける仍よつて久八より猶なほ又千太郎に堅く異見をなし呉々くれ〴〵も愼つゝしみ給へとて蔭かげに成なり日向ひなたになり忠義を盡つくしければ千太郎も太はなはだ後悔に及び暫しばらく吉原通ひを止とゞまりしと雖も小夜衣の事を思ひ切きりしに非ず只々たゞ〳〵便たよりをせざるのみにて我此家の相續をなさば是非とも渠かれを早々さう〳〵身請みうけなし手活ていけの花と詠ながめんものをと心に誓ちかひて表面うはべは辛抱したりし故久八は悦び勇いさみ猶々なほ〳〵心を用ひ大切たいせつにぞ勤務つとめける


第九回


 時に彼町醫師かのまちいし村井長庵は既に十兵衞を殺害せつがいし奪ひ取たる五十兩又妹いもとお富をも賣代うりしろ爲なして掠かすめ取たる金までも悉皆こと〴〵く遣つかひ捨すて今は早一文なしの素もとの形相すがたと成りければ又候奸智かんちを巡めぐらし段々だん〳〵聞きけば丁山小夜衣の兩人共に追々おひ〳〵全盛ぜんせいに成て朝夕あしたゆふべに通ひ來る客も絶間たえまなく吉原にても今は一二と呼るゝとの噂うはさを聞きゝ此兩人の許もとに立越て小遣ひ取つて呉んものと或日丁山小夜衣の許もとに到り殺して仕舞た母のお安が病氣にて寢て居るゆゑと白々敷しら〴〵しくも入用の次第しだいを咄はなし如何にも差迫さしせまりたる體に見せければ兩人とも流石さすがは伯父をぢのことゆゑ兩親ふたおやとも此叔父をぢに殺害ころされしとは夢にも知らず特に母が病氣ときゝ姉妹はらから二人にて心一杯ぱい出來できる程ほど合力がふりよくに及びければ強慾がうよく非道ひだうの長庵は能き事に思ひ毎日々々の樣に無心に行ける程に果はては丁山小夜衣も持餘もてあまして斷ことわりを云ひければ折をりに觸ふれては無理なる難題なんだいをも云掛いひかけなどして殆ほとんど困こまり入りしとかや又有時あるとき長庵來りて毎時いつもの通り種々いろ〳〵無心を申しけれども丁山も餘り度々たび〳〵のことなれば然々さう〳〵は工面くめんも出來ず併し母樣が御病氣ならば主人へ願ひ兩人で引取ひきとり何の樣にも看病かんびやう致さん何どうぞ然さうして給はれと言いはれて長庵驚愕びつくりせしがお安も追々おひ〳〵快方よきかたなれば近き内に連て來て兩人に逢あはして遣りませう金が出來ずば夫でよしとはいひしかど又小夜衣に向むかひ少しにてもと言ければ小夜衣も同じ返事へんじをなしけるにいやさ其方そなたは仕合しあはせ者能よき客きやくが有ると云いふ噂うはさは疾とくより知て居る尾張屋の客は何どうした此の頃は御出がないか而して半四郎近江あふみから御出の人はと口から出任でまかせに引手茶屋の名前を並ならべ立たてる内にアノ山口巴から來る若旦那かへと小夜衣は空然うつかり長庵の口に乘のせられ然さればなりその三河町の若旦那は頓とんと鼬いたちの道みちを切たとやら云ふ樣に少共ちつとも御出の有らぬのは何した事かと思ふ故御茶屋へ度たび〳〵文ふみを出し待まてども一度の返事へんじもなし何處どこに何どうして居なさるやらとても逢あはれぬ者ならば寧いつそ死んだが勝ましならめと打しほれしが顏かほふり上あげ伯父樣何どうぞ三河町とやらへ往いつて樣子を尋ねて下されと頼たのめば長庵小首こくびを傾かたぶけ直すぐにも樣子を探さぐつて見樣が必ず短氣たんきな事などしまひ先の返事は翌日あすする程に少し成りとも小遣ひをと云いはれて小夜衣は千太郎が樣子を聞度きゝたく思ひしより金子少すこし渡しければ長庵は夫より直すぐに三河町をさして立歸り頓やがて近所の湯屋ゆやの二階へ上りて夫となく樣子を聞糺きゝたゞし夫より近邊きんぺんの割烹店れうりやへ上り竊ひそかに千太郎を呼び出し初めて面會めんくわいに及び段々だん〳〵の挨拶も終りければ彼小夜衣よりの言傳ことづてを落おちもなく物語りを爲なすにぞ千太郎は小夜衣の伯父をぢと云ふに心寛ゆるみ私し儀不圖ふとした事より貴殿の姪めひ小夜衣に馴染なじみを重かさね夫婦の語らひ迄約せし上は貴殿とても一方ならぬ御中なりと詞ことばの端はしに長庵が曲輪くるわの樣子具つぶさに噺はなし又此程は絶て遠ざかられし故小夜衣は明暮あけくれ思ひ煩わづらひて歎息かこち恨うらみし事などを口から出任でまかせ永々と物語り何卒御宅の御首尾しゆびを御繕おつくろひ有て能程よきほどに御尋ね遣つかはされなば私し迄も忝けなしと云ひつゝ小夜衣より預あづかりたる文を差出しけるにぞ千太郎は取とる手ても遲おそしと押披おしひらき一下くだり讀よんでは笑を含ふくみ二下り讀では莞爾々々にこ〳〵と彷彿さも嬉うれし氣げなる面持おももちの樣子を篤とくと見留て長庵は心に點頭うなづきつゝ頓やがて返書を請取千太郎よりも小遣こづかひとて金百疋ぴきを貰もらひ請其儘我が家へ戻もどり翌日返書は小夜衣へ屆とゞけしが此機に就ついて何か一仕事しごと有ありさうな物と心の内に又もや奸智を運めぐらして急度きつと一ツの謀略はかりごとを思ひ付き一兩日過て又々彼三河町に到いたり千太郎に面會めんくわいし扨若旦那折入て御相談が御座りますゆゑ態々わざ〳〵用を差繰さしくりて參りしは外の事にても御座りませぬ彼花街かのくるわの小夜衣が事木場きばの客人よりだら〳〵急に身受の相談さうだん然る處小夜衣は如何いかにもして若旦那の御側へ參り度たく夫それのみを樂しみに苦界を勤つとめ居たるに思はぬ人に思はれて藪やぶから棒ぼうの身受の相談だん其所そこで彼めも途方とはうに暮くれ此相談を止にして若旦那の方へ遣やつて呉くれと泣付なきつかれ愚老ぐらうも不便と存ずれば何どうがなして遣やり度たくは思へども何を云ふにも金銀づく外へ根引ねびきをさるゝ時はとても生いきては居られぬと小夜衣が一圖づの心夫それや是やを心配の餘りまた御部屋住おへやずみの若旦那へ御咄し申すも如何いかゞとは存じたなれども急場きふばの事にて十方とはうに暮參りまして何どうにか御工風ごくふうは御座りますまいかと誠まことしやかに述のぶるにぞ世間知らずの千太郎聞くより大いに仰天ぎやうてんし心の内は狂氣きやうきのごとく溜息ためいきつきつゝ居たりしが如何なしたら能よからんと言いふ尾をに付て長庵は然さればにて候外々よりの身受と有れば二百兩や三百兩の金にては勿々なか〳〵六むづかしく候へ共親の病氣と申遣つかはし詐いつはりて身請に及ぶ時は僅わづか元の賣金うりきん五十兩にて相談になり申すなり何卒なにとぞ若旦那の御工風くふうにて其五十兩の金さへ御座れば拙者が萬端取計とりはからひ身受をなして某それがしが宅へ密こつそりさし置きなば何時貴君が御出でも名代床みやうだいどこの不都合なく御泊とまり成るも御勝手次第幾日いくか居續ゐつゞけし給ひても誰に遠慮ゑんりよも内證も入らず然さうなる時は小夜衣が命いのちの親とも存じます何卒なにとぞ五十兩の御工風くふうをと聞て千太郎は夢中むちうになり小夜衣を何時いつかは女房に持もたんと思ひ居たる處なれば外の客に身受されんこといかにも口惜しく思ひける故長庵に打向ひ成程云はるゝ通り五十兩の金子は私わたくしが工風くふう爲しましやうとは言ふものゝ五十兩の大金如何いかゞして拵こしらへん何どうして調達てうだつせん者と兎角當惑たうわくしながらもまた小夜衣を受け出し長庵方に差置さしおいて折々通ひ樂たのしまば此上もなき安心成りと思ふも若氣わかげの無分別むふんべつ迷まよふ心の置所おきどころ露つゆの命と氣も付かず不圖ふと惡心あくしんや發しけん竊ひそかに店たなの有金の内を幾干いくらか掴つかみ出し身受の金にせんものと急度きつと思案しあんを定めつゝ再度ふたゝび長庵に打向ひ云はるゝ通り相違さうゐなくは如何にもして五十兩調達てうだつせん宜しく御頼たのみ申しますと聞て長庵大いに悦び聊いさゝか相違は仕つらず然しからば何頃いつごろ受取うけとりに參るべきやと申にぞ千太郎は明後日あさつて來り給ひねと約束固かためて別れを告つげ其日は我が家へ立戻り覺悟かくごの如く用意なし頓やがて約束の日になりしかば長庵の來るのを待まちて彼五十兩を渡しけるに長庵は是を懷中くわいちうして彌々いよ〳〵明後日迄には小夜衣を身受なし愚老ぐらうが宅たくへ連つれ歸かへれば四五日内に御出いで有あれとて金子を預あづかりしと云ふ一札迄さつまで渡わたし置おき其儘別れて歸りける心の内に長庵は仕濟しすましたりと大いに悦び彼五十兩の其金は己おのれが榮耀ええう酒肴ざけさかな遊女狂いうぢよぐるひに遣つかひける然るに伊勢屋千太郎は斯かゝる事とは夢にも知らず心の中に今日は小夜衣が麹町へ來たか翌あすは來るかと指屈算ゆびをりかぞへ日の暮くるるのを樂しみに漸々やう〳〵と四五日を送りしが密ひそかに支度したくを調とゝのへて見世を拔出ぬけいだし麹町三丁目へ到り其所そこか此所かと尋ぬるうちに門札かどふだに村井と表名へうめいの有りければ心嬉こゝろうれしく爰が長庵の宅たくにて小夜衣は嘸さぞ待詫まちわびつらんと玄關形げんくわんかたちの履脱くつぬぎへ立入て案内を乞ふに内にては大聲おほごゑあげどうれと云て立出る長庵を見るよりはやく千太郎是は〳〵伯父樣をぢさま此間このあひだは御出下され段々だん〳〵の御世話忝けなし偖御約束の通り今日參上さんじやう致せしと云ふに長庵最いと不審いぶかしげに小首こくびを傾かたぶけ是は〳〵何方いづかたより御越にや何處の御方樣にて候ひしか御病人なるや又御見舞みまひに上りますのでござるかと思ひも寄らぬ挨拶に千太郎は長庵が戲たはむれにやと思ひけれども猶なほも叮嚀ていねいによもやお見忘れは成なさるまじ私しは伊勢屋五兵衞の養子せがれ千太郎にて候なり段々と小夜衣がとこに付いてはお骨折ほねをり何なにとも有難く存ぞんじ奉つる夫れ付き今日は參上致し候小夜衣も參り居候や御逢あはせ下されたしと云ひければ長庵彌々いよ〳〵驚怖おどろきたる面色おももちにて不思議の仰せを承まはり候者哉かな小夜衣とは何のことにて候や夫は全まつたく門違かどちがひにて有るべし然樣のことは夢にも覺え候はず何か御心得違ちがひ成るべし拙者せつしやは町醫村井長庵と申す者にて候と聞より然れば戲たはむれにてもなきかと千太郎は大いに驚怖おどろき先日私し近邊きんぺんの料理茶屋の二階にて御目に懸り眼前がんぜんに貴殿へお渡し申したる五十兩の金子を以て貴殿きでんの姪めひ小夜衣を身請して御當家へ置おくとのお約束ゆゑ金子きんすをばお渡し申せしに何故なにゆゑ然樣のことを仰せられ候やと申に長庵大いに怒いかり這こは怪けしからぬことを云いふ人ひとかな失禮しつれいながら貴殿は未だ御若年ごじやくねんで有りながら御見請申せば餘程よほどの逆上ぎやくじやう今の間に御療治なければ行末ゆくすゑ御案事おあんじ申なりと取ても付ぬ挨拶あいさつに千太郎は身を震ふるはしアノ白々しら〴〵しいと言いふ時とき長庵は顏色がんしよくかへて五十兩には何事ぞや拙者は更さらに覺おぼえなき大金を拙者に渡したなどとは途方とはうも無なき事を云はるゝ人哉ひとかな恐おそろしや又五十兩と有れば容易ようい成ならざる大金なり夫には何ぞ證據にても有りさうな物と言いへば其時千太郎如何にも御自分が認したゝめられし受取うけとり證文しようもん是これ見みられよと云ひつゝ一札さつを懷中くわいちうより取出し長庵が前へ摺寄すりより開ひらきて見れば這こは如何に文字もんじは消きえて跡形あとかた無くたゞ情なさけなき白紙しらかみなり是は長庵が惡計にて跡の證據に成らざる樣やう最初さいしよより工たくんで置きたる大惡だいあく無道ぶだう恐おそろしかりける事共なり

評ひやうに曰く證文の文字の消失きえうせしは長庵が計略により烏賊いかの墨すみにて認めし故ゆゑ成ならんか古今に其例そのためし有りとかや


第十回


 古語こごに曰く君子は欺あざむくべし罔しゆべからずとは宜むべなる哉かな都すべて奸佞かんねいの者に欺かるゝは己おのれが心の正直しやうぢきより欺かさるゝものなり實じつに其人にして爲なす而已のみ其の欺あざむく者は論ず可べからず其才さい不才ふさいに依るにあらざるか爰に伊勢屋五兵衞の養子千太郎は父の病中を幸ひに店みせの有金の内五十兩養父やうふの目めを掠かすめ彼小夜衣を根引ねびき爲なし圍かこひ置て自儘に我が家内にもせん者と思ひ居たる心より村井長庵の惡計あくけいに罹かゝり夫而已それのみならず金と引替に長庵より受取置たる證文を開いて見れば不思議にも文字もんじは消きえて唯たゞの白紙ゆゑ這は如何せし事成かと千太郎は暫時しばし惘あきれ果はて茫然ばうぜんとして居たりしが我と我が心を勵はげまし餘りと云いへば長庵殿眼前がんぜん此程料理屋の二階にて貴殿あなたの頼たのみに任せ手渡し爲したる五十兩を覺え無とは何故ぞ受取證書が白紙に成て居るのも不審ふしんの一ツと云ば長庵は大いに笑ひ戲氣たはけと云も程こそあれ覺おぼえ違ちがひも事による證據の書附有などと其の白紙しらかみが何に成なる然さうして見ればお若いが正氣しやうきでは御座るまい診察しんさつして藥を進ぜん外々ほか〳〵の儀と事變り金子の事故驚怖おどろいたりあたら膽きもを潰つぶす所と空嘯そらうそぶひて莨たばこをくゆらし白々敷しら〴〵しくも千太郎を世間知らずの息子むすこと見掠かすめ先まづ寛々ゆる〳〵と氣を落付思ひ定めて歸らるべしヤヨ氣の毒どくなる病氣ぞと長庵更に取合とりあはねば千太郎は其儘に戻もどるにも戻られず進退しんたい爰ぞと覺悟を極きはめ猶なほ長庵に打向ひ是は怪けしからぬ御言葉哉ことばかな假令證文は白紙に變りし共最初さいしよ小夜衣が使ひに參られ我を喚出よびいだし三四度御自分樣じぶんさまと引合ひきあひたる家も有り殊に御自分の云はるゝには小夜衣は我が姪めひなれば行末ゆくすゑ共に懇ねんごろに私に頼たのむと小夜衣が文を持參成れし成ずや夫等の事柄がらよもお忘れも仕給ふまじ夫より後も參られて姪めひの小夜衣が木場きばの客へ俄にはかに受出さるゝことに成夫に付親許おやもと身受にすれば元金もときん五十兩にて苦界を出らるゝ故其五十兩の金子を何とかして才覺さいかくなし呉よ其金さへ有ば木場の客を出し拔ぬいて小夜衣を身受なし貴宅へ置とのお話し故貴殿の言いはるゝ其意に任まかせ五十兩の金とても勿々なか〳〵に出來兼たれど延引えんいんして居る時は外へ身受に成との事故道ならぬ事とは知りながら養父やうふの金を引出ひきいだし命がけにて其金を約束通り貴殿きでんに渡し今日は寛々ゆる〳〵小夜衣に逢あうて行んと來りしに仁術じんじゆつ家業かげふの身を以て現在げんざい姪めひの小夜衣をも知ぬ抔とは何故なりや然すれば我を店者たなものと最初よりして見侮みあなどり那あの小夜衣を餌ゑばとなし我を欺き五十兩の金をば騙かたり取巧たくみと云を打聞うちきゝ長庵は兩眼を濶くわつとむき出し目眦まなじり逆立さかだて形相かたちを改め這は聞憎にくき今の一言此長庵を騙かたりなどとは何事ぞや我等は仁術じんじゆつを基もととする醫業なり最初さいしよよりして欺いて五十兩の金を騙かたり取たとは不埓ふらちの一言今一言ごん聞きいて見よ其分には置まじと煙管きせる追取おつとり身構みがまへなし威猛高ゐたけだかに罵のゝしるにぞ彌々いよ〳〵驚怖おどろく千太郎悔くやし涙にかき暮くれて最まう是迄と大聲あげ長庵殿そりや聞えぬぞへ今更に然樣にばかり言るゝからは矢張やつぱり騙かたりに相違なしと半分はんぶん云いはせず長庵は汝若年者故に何事も勘辨かんべんして言はして置ば付上り跡形あとかたも無き惡口雜言あくこうざふごん最まう此上は聞捨きゝすて成ならぬ眼に物見せて呉くれんずと千太郎が襟髮えりがみをぐさと掴つかんで疊たゝみへ引据ひきすゑ打やら擲たゝくやら煙管きせるを取て續け樣さまに腕うでに任せて打ける程に髮は散々おとろに亂れ面體めんていにも聊か疵を受けぬれば千太郎は最早百年目と思ひきり口惜くちをしや汝ぢ其金を騙かたり取しに相違無し言譯いひわけなさに此打擲ちやうちやく騙かたりめ〳〵奸賊かんぞくめと大音聲じやうに罵のゝしれば長庵増々ます〳〵怒いかりを發し其金の五十兩とは何所から出したる金成なるぞ夫程迄に兎とや角かくと云事ならば其方が養父の宅へ引摺ひきずり行ゆきて金の出所糺たゞして呉ん已に屹度きつと穿鑿せんさくに及びし上にて黒白くろしろの分わかちを付んと一刀たうを腰こしに佩たばさみ此青壯年あをにさいいざ行やれと罵のゝしりつゝ泣臥なきふし居たる千太郎を引立々々ひきたて〳〵行んとすれば此方こなたは胸むねに釘くぎ打思ひ眼前がんぜん養父の預あづかり金をば偸ぬすみ出したる五十兩宅たくへ行れて彼是かれこれと其の事露顯ろけんに及びなば第一養父は豫かねての氣性きしやう如何成騷さわぎに成やら知れずと思へば是も我が身の難儀なんぎと屹度きつと思案を胸に定め先まづ待まちたまへ長庵殿最早もはや委細は分つたり然ば外には言分いひぶんなし勘辨なして下されと千太郎は悔くやしくも兩手を突ついて詫わびければ長庵呵々かゝと冷笑あざわらひ夫みられよ最初さいしよより某しが言通り其方が騙かたりをば却かへつて我等に塗付ぬりつけんと當途あてどもなき事こと言散し若年ながらも不屆至極ふとゞきしごく重かさねて口を愼つゝしみ給へ若き時より氣を付て惡き了簡れうけん出さるゝな親々達おや〳〵たちに氣を揉もませ不幸ふかうの上に大不幸だいふかうと異見いけんらしくも言散しサア何處いづこへなり勝手に行と表おもての方へ突出つきいだし泣倒なきたふれたる千太郎を尻目しりめに掛かけ打笑ひまだ行ぬかと大音に叱しかり付つけられ口惜くちをし乍ながら詮方なく凄然々々すご〳〵我が家へ立戻たちもどりぬ跡に長庵箒はうきを採とり玄關げんくわんの敷臺しきだい掃出はきだしながら如何に相手が青年にさいでも餘よ日がない故とぼけるにも餘程骨ほねが折をれたはへ併しかし五十兩の仕業しごとだからアノ位なる狂言きやうげんはせにや成舞なるまひと長庵は獨ひとり微笑ゑみつゝ居たりけり


第十一回


 偖さて千太郎は何所どこを何うか我が家へ歸り悔くやし涙にかき暮くれながら二階の小座敷こざしきへ竊そつと這入はひり心中に思ふ樣やう如何にしても口惜きは長庵なり眼前がんぜん渡して其金を知らぬと言いふさへ恐おそろしきに己おのれが惡事を覆はん爲ため此我をよく那あの樣に踏ふんだり蹴けつたり思へば〳〵殘念ざんねん至極是と言のも我が身を誤あやまり不幸の天罰ばつ報むくい來て我と苦しむ自業自得じごふじとく然さは然ながら此儘に知らぬ面かほには過されず今にも店たなの勘定かんぢやうせば眼前がんぜん知れる五十兩償つぐのひ方は實家じつかへ赴き何とか兄に咄はなしなば何うにか成ならんと思へども彼の小夜衣の事につき欺だまして取れた金などとは何の顏さげて人に言いはれん然れば其時死しぬるより外に方便てだても無き身なれば遲おそかれ早かれ死ぬ此身とても死ぬなら今日只今長庵方へ押掛行ゆき命いのちを渠かれに取るゝ共時宜じぎに寄よらば長庵めを恨みの一刀たう浴あびせ掛かけ我も其場で潔いさぎよく自殺を爲なして怨うらみを晴はらさんオヽ然さうじや〳〵と覺悟を極め豫かねて其の身が嗜たしなみの脇差わきざし密そつと取出して四邊あたりを見廻し拔放ぬきはなし元末もとすゑ倩々つく〴〵打詠ながめ是ぞ此身の消きえて行ゆく露つゆの白刄しらはと成けるが義理ぎり有ある養父やうふや忠々敷まめ〳〵しき那あの久八を始めとして富澤町の實父じつぷにも兄にも先立さきだつ不幸ふかうの罪お許ゆるし成なされて下されよ是皆前世の定業と斷念あきらめられて逆樣さかさまながら只一遍ぺんの御回向を願ふと云ふも忍しのび泣なき殊ことに他人に有ながら當家へ養子やうしに來た日より厚あつく深切しんせつ盡つくして呉し支配人なる久八へ鳥渡成ちよつとなりとも書置かきおきせんと有ありあふ硯すゞり引寄ひきよせて涙ながらに摺流すりながす墨すみさへ薄うすき縁えにしぞと筆ふでの命毛いのちげ短みじかくも漸々やう〳〵認したゝめ終をはりつゝ封ふうじる粘のりより法のりの道みち心ながら締直しめなほす帶の博多はかたの一本獨鈷どつこ眞言しんごん成ねど祕密ひみつの爲細腕ほそうで成ども我一心長庵如き何の其岩いはをも徹とほす桑くはの弓ゆみ張裂はりさく胸むねを押鎭おししづめ打果さでや置べきかと裾すそ短みじかに支度したくを爲し既に一刀佩たばさんて出行でかけんとする其の折柄をりから後ろの襖ふすまを押おし開き立出たるは別人成ず彼の番頭ばんとうの久八なれば千太郎は大いに怖おどろき書かき置手早く後うしろへ隱かくし素知そしらぬ振ふりして居る側へ久八は膝ひざ摺寄すりよせ是申し若旦那わかだんな暫時しばらくお待まち下さるべし如何にも御無念は御道理然共爰こゝは急せく時ならず曩さきより私し失禮しつれいながら主人の御容子ようす唯事たゞごとならずと心配しんぱいなして襖ふすまの彼方に殘らず始終しじうを承まはり何にも知ぬ私しさへ悔くやしく存ぞんずる程なれば嘸さぞ御無念ごむねんにも思し召んが他所から出來た事ではなし矢張やつぱりお身から求もとめた事故人をお恨み成なさるゝな此久八めが申すこと今一通り御聞下され此間より度々たび〳〵に御異見いけん申上たる通り願ねがふ事では御座りませんが今にも萬一ひよつと大旦那がお目出度めでたく成なられたなら其時こそは此大このだいまいの御身上しんしやう悉皆若旦那の物となる假令たとへ然樣さやうに成すとも僅わづかの事には眼めを掛ず惡わるい夢ゆめだと斷念あきらめて御辛抱しんばうを成されなば大旦那にも安心あんしん致され家督かとくを御讓ゆずり有れんと思ひ運めぐらすことも有ば何は扨置さておき御家督を御讓り受の有樣やうに御辛抱こそ肝要かんえうなれ然樣さへ成ば何事も御心任せに成事と心身しんみに掛かけたる久八が親兄弟おやきやうだいも及ばぬ異見に千太郎は只たゞ茫然ばうぜんとして居たりしかば久八は猶なほも詞ことばを改ためて若旦那只今は何をお認したゝめ成れしやと四邊あたりを見れば一通の書置かきおき有あり是書置は何事ぞと封ふう押切おしきつて讀よみ下し這は抑そも御狂氣きやうき成なされしか養家やうか實家じつかの親御達おやごたち其お歎なげきは如何成ん夫を不孝とは覺おぼさずやと撓たゆまぬ異見に千太郎も今は思ひを止とゞまりて嗚呼あゝ誤あやまてり〳〵更に心を入替いれかへて義理有親の御安心遊あそばす樣に是からは屹度きつと辛抱しんばうする程に其方そちも安心あんしんして呉と天窓あたまを下げて詫わびるにぞ久八は其手を取とり勿體もつたい無い何事ぞや失禮しつれいなるも顧かへりみず御意見なせしお叱しかりも無なきのみ成ず速すみやかに御志ざしを御改め下さらんとは有難ありがたく夫にて安心仕つりぬと悦よろこび云ば千太郎は猶なほ手てを拱こまぬきて居ゐたりしがとは云物いふものの五十兩容易よういの金に有ぬ故如何どうして穴あなを償つぐなはん實家へ何とか方便はうべん云いふて時借なりとせんものか外に手段しゆだんは更さらに無しと胸むねに思へども久八にも夫のみは云出し兼かねて居たりしを久八敏はやくも悟さとり得て又改めて申すやう其長庵とかに騙かたられし五十兩の金子きんすの穴あな其外是迄これまで遣つかはれし金の仕埋しうめは私しが御引受ひきうけ申ます必ず〳〵御心配遊しんぱいあそばされなと何事も忠義ちうぎ面おもてに顯あらはれたる久八が意見に千太郎は伏拜ふしおがみ返かへす〴〵も辱かたじけなし此恩必ず忘却わすれはせじと主從しうじう兩人ふたり寄擧よりこぞり暫しばし涙に沈しづみけり


第十二回


 武家ぶけに在ては國家の柱石ちうせき商家しやうかで申さば白鼠しろねずみなる番頭久八は頃日このごろ千太郎の容子ようす不審いぶかししと心意こゝろを付て居たりし折から顏色かほいろも常つね成ならず息いきせきと立戻たちもどり突然いきなり二階の小座敷へ這入はひりし容子ようす啻事たゞごと成らずと久八が裏階子うらばしごより忍び上り襖ふすまの陰かげに彳たゝずみて窺うかゞひ居るとは夢にも知らず千太郎は腕うで拱こまぬき長庵に欺かれて五十兩騙かたり取れし殘念さよと覺悟を極めし獨言を委細ゐさいに聞て其場へ立出樣々さま〴〵諫いさめ賺すかせし末畢竟ひつきやう花街くるわの小夜衣とか云娼妓おいらんも長庵とは伯父をぢ姪めひとかの中成なれば一ツ穴あなの貉むじなならん然すれば勿々油斷ゆだんは成ならず旁々かた〴〵以て小夜衣が事は判然さつぱり思ひ切きり再度ふたゝび廓くるわへ行ゆかれぬ樣此久八が願ひなりと猶なほ眞實しんじつに委曲こま〴〵との意見いけんを聞て千太郎は漸々心落こゝろおち居つゝ久八の言通り金子の工夫は又有べし何にもせよ今度の事にて小夜衣に愛想あいそもこそも盡果つきはてたり他人に心恕ゆるすなとは能よくも言いひたる者哉かなと後悔こうくわい表おもてに顯あらはれければ久八は打喜び禍わざはひが却つて僥倖さいはひなり斷念あきらめ給へとて長庵の方へは其後何の懸合かけあひもせざりし程に長庵は五十兩の金を騙かたり徳とくと彌々喜悦よろこび居たりける然るに養父五兵衞は例れいの吝嗇者りんしよくものなれば病中にも店たなの事而已のみ心配爲なして居たりしが此程このほど追々おひ〳〵快氣くわいきに隨したがひ店たなの惣勘定そうかんぢやうをなさんとの事に久八千太郎は人知らぬ胸を痛いためけるが早くも年月推移おしうつりて正徳四年と成ければ當春たうはるは是非ぜひ店卸たなおろしを爲んとて頓やがて諸帳面類しよちやうめんるゐを悉皆こと〴〵く調べ段々惣勘定と立けるに店たなの有金五十兩不足しければ猶又勘定立直たてなほし種々いろ〳〵取調べしかども同く帳合ちやうあひ立難たちがたく如何に穿鑿せんさくなすと雖も番頭久八が引負ひきおひとは流石さすが吝嗇りんしよくなる五兵衞も心付ず只々たゞ〳〵不審に思ひ外々ほか〳〵の番頭若者に至る迄疑うたがひを懸かけ平日ふだん百か二百の端足はした錢ぜにさへ勘定かんぢやう合あはざれば狂氣きやうきの如くに騷ぎ立る五兵衞なれば五十兩の事故鬼神おにがみの如く憤いきどほり居たる所へ番頭久八進み出て私し儀幼少えうせうの時よりの御恩澤おんたくを只今となり仇あだにて報はうじ候は何とも申譯なき事ながら此程計らずも遊び過すごし五十兩の不足金は全まつたく私し儀引負ひきおひ仕つりし故何卒なにとぞ御慈悲じひの御沙汰偏ひとへに願ひ上ますと彼の千太郎が欺あざむかれし五十兩を既に我が身に引請んとするを暫時しばしと引留千太郎進み寄より否々いへ〳〵久八にては御座らぬと言んとするを押留おしとゞめ尻目しりめに懸かけて夫と無なく知らする忠義の赤心まごころを水の泡あわにさせるも本意なし如何はせんと千太郎が胡亂々々うろ〳〵爲なすを久八は我が身の後ろへ引廻ひきまはし私しが引負ひきおひに相違なく餘よの者の仕業しわざでは御座りませぬと聞より五兵衞大いに怒り汝おのれ久八め今迄伊勢五の白鼠しろねずみ忠義者ちうぎものよと世間せけんでも評判請うけし身ならずや此五兵衞迄然樣さやうに思ひしは大いなる見違みちがひなり扨も〳〵五十兩と言ふ大金を遣つかひ捨すてしとは何ごとぞや十兩からは大金たいきん成なるぞ夫を何ぞや遣つかひ込こみ知しらぬ顏して主人の眼めを拔ぬく大膽者だいたんものめと有合ありあふ十露盤そろばんおつ取て久八を散々さん〴〵に打擲ちやうちやく爲なすを側に見て居る千太郎は我が骨節ほねぶしを打るゝ思ひ寧いつそ有體ありてい打明てと思ふ樣子を久八は頻りに後へ引止め五兵衞に向ひ何とも御詫わびの致し樣も御座なく御打擲ちやうちやくは扨置さておき御討殺うちころし成なされる共少しも御恨うらみは申ません御十分に成なされよと兩手をつかへ頭かしらをさげ詫入る處を猶も又めつた打ちに打ち敲たゝき頓やがて蹴飛けとばし蹴返けかへして直に請人石町甚藏店の六右衞門を呼よびに遣やりけるに六右衞門は何事やらんと打驚怖おどろき直すぐに其使ひと倶ともに來て見れば豈あに圖はからん久八が主人に折檻せつかん請うける有樣に暫時しばし惘あきれて言葉もなし五兵衞は皺枯聲しわかれごゑをふり立て如何に請人六右衞門此久八の盜賊たうぞくめが五十兩と言大金を汝おのれが奢おごりに遣ひ捨て引負ひきおひ成なしたる上からは直すぐに當人久八を引取行ゆき五十兩の金子を償つぐなひたる上本金をも殘らず納をさめよと言渡されて仰天ぎやうてんなし本金とは何事ぞ如何に不埓ふらちが有ればとて廿餘年の勤功きんこうにて既に支配も任まかされたる此久八を丁稚でつち小僧か何ぞの樣に打擲ちやうちやくさるゝのみならずと思へど久八を一先内へ連歸つれかへり篤とくと容子ようすを正した上又詫言わびごとの仕樣も有んと言度事いひたきことをじつと堪こらへ六右衞門は主人五兵衞に打向ひ扨さて段々の御立腹りつぷく御詫わびの致し方も之無く候就ついては五十兩の引負金ひきおひきん何分なにぶん直すぐには償つぐのひ難く暫時御猶豫下いうよくだされ度たし且又御給金の儀は半なかばは頂戴仕ちやうだいつかまつり半分なかばは御預け置候故日割わり御勘定の程御願ひ申上候當人身分の儀は直樣すぐさま引取一札をも差上さしあげ申すべく又當人久八に御用の節せつは何時にても同道申べくと事を分て申せども聊いさゝか聞入きゝいる景況けしきも無く五兵衞は却かへつて憤いきどほり然樣な勝手は相成ず直に勘定して行ゆかれよと怒いかりけるを猶種々さま〴〵詫言わびごとなし漸々にして追々に償ふ事を免ゆるされしかば直樣すぐさま引取の一札さつを指出さしいだし久八を連歸りけるは無慈悲むじひなりける有樣なり久八は子供こどもの時より主人を大切と我が身の苦患くげんを厭いとはず勤つとめ一人として譽ほめざる者も無者なきもの成なるに伊勢五の店たなを引負ひきおひして請人方へ引渡されしは何か譯わけの有事成んと云も有ば久八は白鼠しろねずみ所どころか溷鼠とぶねずみで有たなどと後指をさす者も有しとかや六右衞門は久八を連つれ歸りて百日の説法せつぱふ屁へ一ツとは汝おのれが事なり此六右衞門は人の世話も多く仕したが斯かゝる事を言いはれし事なし五十兩と云大金を何に遣つかつたこんな馬鹿ばかとは知らずして汝おのれが事を人樣に辛抱人しんばうにんと譽ほめたのが今となりては面目めんぼくない二階へなりと往いきくされ面つらを見みるのも忌々いま〳〵しいと口では言ど心では何か容子ようすの有事やと手を拱こまぬいて居たりけり翌日伊勢屋の養子千太郎は我が爲に久八が昨日きのふの始末しまつと夜の目も合あはず少しも早く六右衞門に逢あうて實を明あかさんと何どう首尾しゆびせしか宅たくを出でて本石町なる六右衞門の宅へ到いたり久八に逢度あひたき由を云ひ入ければ夫と見るより六右衞門は飛とんで出いで偖々さて〳〵若旦那能くこそ御出なされしぞ千太郎を奧おくへ通し久八に引合せければ千太郎は男泣に泣なきながら段々だん〳〵の禮を述のべ何と云べき詞もなく我身に代かはりて惡事を引受ひきうけアノ一徹てつなる親父殿どのに罪なき足下そなたが打擲たゝかれ廿餘年の奉公を贅事むだにして暇いとまを引され夫を堪へし昨日きのふの始末嘸さぞや嘸さぞ六右衞門殿には不審いぶかしく思はれけん久八は私の爲には命の親おや共言いふべき樣なる恩人おんじんなり是非足下おまへの身の立樣にする程に暫しばしの内勘辨かんべんして何ぞ耐こらへて下されと久八が前に鰭伏ひれふせば久八は涙を流し何事も是皆前世の因縁いんえんづくと斷念あきらめ居をれば必ず御心配は下さるまじ併しながら時節じせつ來りて若旦那の御家督かとくと成れなば其時には此久八を御呼戻よびもどし下されたし夫それのみ願ひ上まする夫に就ついても呉々くれ〴〵も御辛抱こそ肝要かんえうなれと猶も撓たゆまぬ忠義の久八六右衞門も一伍一什いちぶしじふを聞居たりしか久八に向ひ其方が五十兩の大金を遊あそび過すごして遣つかひ捨すてしとは合點がてん行ゆかねど其方が打叩うちたゝかれても一言の言譯いひわけさへもせざりしゆゑ如何成いかなる天魔てんまが魅みいりしかと今が今迄思ひ居たるに全く若旦那の引負を其身に引受ひきうけての事成か能も斯かくは計らひしぞ其方ならでは出來ぬ事と六右衞門は感心かんしんなし千太郎に打向うちむかひ初めて承まはりし今度の始末如來樣家來けらいと成なり主人と成なりし上からは忠義の爲には些いの奉公決して御心配しんぱいに及びませぬ假令たとへ何どの樣なる難儀なんぎ苦勞くらうを致せばとて御主人樣の御爲なら少しも厭いとひは致しませぬと久八と云六右衞門と云揃そろひも揃ひし忠義な男義をとこぎ千太郎は猶々穴あなへも入たき思ひ六右衞門に打向ひ兩手を合せて伏し拜をがみ氣の毒どく共何共申分の仕樣しやうも無しと言を六右衞門是はしたりと其手を取只此上は御心得違ちがひのなき樣に久八が申通り呉々くれ〴〵御辛抱しんばう成なされましと申時千太郎は豫かねて用意をしたりけん懷中くわいちうより書付かきつけ一通取出し扨此書付は久八殿が拙者せつしやの引負ひきおひ引受ひきうけて呉られし後日の證據しようこに渡し置おくと言いひながら兩人の前にさし置きける其文は

入置いれおき申一札さつ之事

一金五十兩也

右は我等われら養父の金子引負致し候所其許もと自分に引負金と申立引受ひきうけ呉くれ夫が爲養父五兵衞より其許暇いとまに相成候段生々世々しやう〴〵せゝの高恩かうおん以來とも忘却仕ばうきやくつかまつる間敷候依之これによつて我代わがよに相成り候節は急度呼戻し此度の大恩を報ずべく候爲後日一札仍而如件ごにちのためいつさつよつてくだんのごとし

正徳四年四月
千太郎 判

久八 殿

斯の如く認したゝめたる一通なれば六右衞門は押戴おしいたゞき若旦那の御心遣ひ有り難く存じ上ます然らば此一通は私し方慥かに御預あづかり申さんとて久八へ渡しける時に千太郎又々懷中くわいちうより金子一と包つゝみ取出し追々おひ〳〵見繼みつぎも致す心なれども是は當座の凌しのぎの爲實父の方より借受かりうけし金子なり之を遣ひ居て下されよと出すを久八はおし返し達たつて辭退じたいをなしけれども千太郎は猶なほ種々さま〴〵に言ひなし漸々やう〳〵金子を差置さしおきつゝ我が家へこそは歸りけれ


第十三回


 扨さてまた六右衞門は久八に向むかひ如何にも貴殿きさまが心底しんていには勿々なか〳〵引負ひきおひなど致す樣成なる者では無と思ひしに豈あに圖はからんや昨日きのふの始末しまつと思ひの外ほか打うつて變かはりし今日の時宜じぎ異見いけんをせしも面目めんぼくなし決して心配致すに及ばず伊勢屋の引負金も一工夫くふうして濟すましもせん其方そなたは此若旦那樣よりの御心添こゝろぞへの金子にて何成なんなりとも商賣を初める樣にと六右衞門が始終を思ひし深切に久八も大に喜悦よろこび何商なにあきなひを初めたら宜よろしからうと工夫を爲なせども元より大家の支配人の果なれば小商こあきなひの道を知ず右左とかく損毛そんもう多く夫而已のみならず久八は生れ付ての慈悲じひ心深く貧まづしき者を見る時は不便心が彌増いやまし施ほどこすことの好すきなる故儲まうけの無も道理ことわりなり依て六右衞門も心配なし寧いつそ我弟が渡世とせいの先買さきがひとなり恥はぢを忍びて紙屑買かみくづかひには成ぬかと聞て久八暫しばらく考へ却つて夫こそ面白おもしろからんと紙屑買にぞなりにけり嗚あ呼あ榮枯盛衰えいこせいすゐ單ひとへに天なり命なり昨日迄は兎も角も大店の番頭支配人とも言はれし身が千種木綿ちくさもめんの股引もゝひきは葱ねぎの枯葉かれはのごとくにて木綿布子ぬのこに紋皮もんぱの頭巾づきん見る影も無き形相なりふりは商賣向の身拵みごしらへ天秤棒てんびんぼうに紙屑籠かご鐵砲笊てつぱうざるを横にのせ日がな一日買ひ歩行あるき戻もどれば夜を掛かけ撰えりわけて千住品川問屋先賣代なして聊いさゝかの利益を得ては幽々かす〳〵に其日々々を送おくりけり然ども是を苦くにもせず稼かせぎ溜たまれば少しでも伊勢五の穴あなを埋めて行心の正直律儀りちぎ者昔しも今も町家には例ためし少なき忠義なり是皆村井長庵が惡業あくげふの爲所にして西も東も知らぬ若者の千太郎を欺あざむき多くの人に難儀を掛ること人面にんめん獸心じうしんの曲者くせものなり長庵が惡事を算かぞへるに第一札の辻にて弟十兵衞を殺害せつがいし罪を浪人らうにん藤崎道十郎に負せ二ツにはお富を賣り三ツにはお安を三次に頼たのみ中反圃なかたんぼにて殺させ今又伊勢屋千太郎を欺きて五十兩の金子を騙り取久八をも斯かく苦くるしめる事是皆露顯ろけんの小口となり彼かの道十郎の後家お光が圖はからず訴うつたへ出る樣に成けるは天命てんめいの然らしめたる所なり


第十四回


 天の作なせる禍わざはひは猶去可し自から作なせる禍ひは避さく可からずとは雖も爰に寶永はうえい七年九月廿一日北の町奉行中山出雲守殿いづものかみどのの掛りにて奸賊かんぞく村井長庵が惡計に陷入おちいり遂には寃むじつ横難わうなんに罹り入牢じゆらうし果は牢死らうしに及びぬる彼道十郎は舊もと吉良家きらけの藩士はんしなる岩瀬舍人いはせとねりとて御近習へ出仕し天晴武文も心懸有し者なりしが不圖した事の譯柄わけがらにて今は浪人と成なり名なを藤崎道十郎と更めて居たりしが妻お光は當年三歳に成し悴せがれの道之助を懷ふところにして店請人赤坂傳馬町治郎兵衞店に小切商こぎれあきなひを爲なす清右衞門方へ御引ひき渡しと成けるにぞ返す〴〵も夫をつと道十郎が芝しば札ふだの辻に於て十兵衞を殺害に及びしなどとは夢ゆめにも知らぬ無實むじつの難にて入牢なし其事故の分明あきらかに別わからぬ内に情無なさけなくも牢死に及びける故遂に死人に口なしとて悉皆こと〴〵く長庵の佞辯ねいべんにより種々いろ〳〵言廻いひまはされ夫をつと道十郎の罪科ざいくわとは定まりし事無念骨髓こつずゐに徹とほり女ながらも再度ふたゝび願ねがひを上あげ夫をつとの惡名あくみやうを雪すゝぎ度とは思へども清右衞門は段々だん〳〵意見をなし兎に角に假令たとへ再度さいど御調べを願ふとも是と云證據しようこも有ねば公儀おかみに於ても詮方せんかたなし先々夫迄の天命なりと諦あきらめ道十郎殿の紀念かたみに殘せし道之助を一日も早く成長せいちやうさせて藤崎の家を再興さいこうせらるゝが佛へ對たいし何よりの追善つゐぜんなりと言諭いひさとされて悔くやし涙に暮ながら唯此上は悴せがれ道之助が一日も早く成長なし札ふだの辻つじにて十兵衞とやらを殺害なしたる本人を尋ね出して夫をつと道十郎殿の惡名を雪すゝがせん者をと夫より心を定め赤坂あかさか傳馬町でんまちやうへと引取られ同町にて表おもてながらも最いと狹せまき孫店まごだなを借受かりうけ爰に雨露うろを凌しのぎつゝ親子が涙の乾かわく間もなく僅わづかの本資もとでに水菓子みづぐわしや一本菓子など并ならべ置おき小商こあきなひの其の隙ひまにはそゝぎ洗濯せんたく賃仕事ちんしごと氷こほる油あぶらの燈あかりを掻立かきたてつゝ漸々やう〳〵にして取續き女心の一ト筋すぢに神佛かみほとけをぞ頼みける然るに光陰くわういんは懸河けんかの流るゝ如く早八ヶ年を送おくりしに夫をつとの忌日きにちもいつしか八年跡の空そらとぞ過行すぎゆきける道之助今年ことし十歳に成けるに親は無とも子は育そだつとやら母の手一ツに育そだて揚あげたる子ながらも生うまれ付ての發明者はつめいもの殊ことに幼稚いとけなき心にも母が心盡こゝろづくしの程をや察さつしけん孝心かうしん怠おこたり無なく夏秋なつあきは枝豆えだまめを賣歩行うりあるき或ひは母が手業てわざの助たすけと成又は使ひに雇やとはれて其賃錢ちんせんを貰もらひ請うけ朝あさな夕ゆふなの孝行かうかうは見る人聞人感じける然るに有日あるひ道之助は例日いつもの通り枝豆えだまめを肩かたに掛かけ門口かどぐちへ出る所へ獨りの男をとこ木綿もめんの羽織はおりに千種ちくさの股引もゝひき風呂ふろしき包づつみを脊負せおひし人立止りて思はずも店みせに並ならべし水菓子の價あたひを聞ながら其所そこに居たりし道之助を熟々つく〴〵見て最いと不審氣いぶかしげにお前は若もしや藤崎道十郎殿の御子息しそくの道之助殿では御座らぬかと云いふ聲こゑ聞て後家のお光は心嬉うれしく夫の名を言ふ其人は床ゆかし懷なつかし何人ぞやと出合頭であひがしらに顏かほ打詠うちながめ見れば此方こなたの彼男はお前こそは道十郎殿の御内儀ないぎお光殿にて有しよな珍めづらしき所にて絶たえて久しき面會めんくわいなり拙者せつしや事は瀬戸物屋せとものや忠兵衞と言れてお光は面かほ打うちまもり扨は忠兵衞殿にて在せしかと往昔馴染むかしなじみの何とやら懷なつかしきまゝ詞ことばを改め斯樣に穢苦むさくるしき住居すまひなれども此方こちらへ御通り下されと最丁寧なる挨拶あいさつに瀬戸物屋の忠兵衞は莞爾にこ〳〵として立入けり此瀬戸物屋忠兵衞と云ふは至つて女好ずきにて殊にお光は後家なりと思ふ者から見れば貧苦ひんくの容子ようす故一肌はだ脱ぬいで世話をなし恩を着きせ置思ひを遂んと心の中に目算もくさんなし忽ち發おこる煩惱ぼんなうの犬いぬよりも猶なほ眼尻めじりを下げお光殿にも可愛かあいさうに若わかい身そらで後家になられ年増盛としまざかりを惜をしい物と戯氣おどけ乍ながら御子息道之助殿を能よくも女の手一ツにて斯樣かやうに御育養そだて有れしぞ併しかし其後は御亭主ていしゆも定めてお出來成なされたで有あらうに今日は何いづれへかお出かけにやと言へばお光は形かたちを改あらためそは怪けしからぬ忠兵衞殿の仰おほせかな御冗談ごじようだんでも御座りませうが夫をつと道十郎が牢死の後にせめて紀念かたみの此子をば成長せいちやうさせ一日も早く夫の惡名を雪すゝぎ度たく夫而已それのみ樂たのしみに暮くらし居と云ふを打消うちけし忠兵衞は否いや然さうでは有ますまい隱かくす程ほど顯あらはるゝと申如く尚々なほ〳〵怪あやしき事にこそ然さりながら今迄全まつたく後家暮ごけくらしにて居られしならば少しは何かの御相談相手ごさうだんあひてに昔馴染むかしなじみの甲斐かひ丈だけは失禮しつれい乍らお世話も致し御不自由の事も有なれば御遠慮ゑんりよなしに言れよと情なさけ仕掛しかけの忠兵衞が持もつた病に据すわり込彼方と話はなせしが暫しばらく有て懷中より金子一分取出し道之助に頼たのみ近邊きんぺんにて酒さけ肴さかなを買求かひもとめ酒宴しゆえんをこそは初めけれ


第十五回


 扨又お光は忠兵衞が酒の相手をなすを五月蠅うるさく思おもひ種々いろ〳〵に斷ことわりても忠兵衞は耳にも入れず追々おひ〳〵醉ゑひの廻まはるに隨したがひお光に向ひ婬みだりがましき戯たはぶれ事を云出しければお光は大いに驚怖おどろきて是は〳〵忠兵衞樣夫をつと道十郎不慮ふりよのことにて死去しきよ致してより八ヶ年の其間そのあひだ悴せがれの脊丈だけの伸のびるのを唯たゞ樂たのしみに此世を送り人に後指うしろゆびを指さゝれぬ私し勿々なか〳〵以て然樣さやう成事なること思ひ寄よらずお許ゆるし成されて下されと云紛まぎらすを忠兵衞は尚なほ種々さま〴〵に言いひ寄よりつゝ頓やがて言葉を和やはらげて言ひ出しけるは然云さういふ御前の心底しんていを破やぶらするのも氣の毒千萬私しも今迄決けつして他言たごんは致す間敷まじとは思ひしがお前が私の言葉を一寸ちよつとなりとも聞きかるゝなら私もお前に云事ありお前の連合つれあひ道十郎殿那あんな事柄ことがらに成なられしは全く誰も知しる者なし實はあの折をり十兵衞を殺ころした奴は外に有ある夫を知て居らるゝかと聞よりお光は飛立とびたつ思おもひ其十兵衞を殺した人は別に有とは誰人たれびとにや其許樣そこもとさまが御存知ぞんじならば何卒なにとぞ教をしへて下されと言ば忠兵衞莞爾につこと笑わらひ然樣さういはるゝならば教へもせんが然れども其處そこが肝要かんじんかなめ魚心うをごころ有ば水心と味あじな詞ことばにお光はほゝ笑ゑみ強面つれなくなさば隱かくさんときつと思案しあんを仕直しなほして夫さへ聞きかして下さらば如何なる事でも貴方あなた次第しだいと聞て忠兵衞夢中むちうになりお前の夫をつと道十郎殿に寃むじつの難なんを着きせたる奴はお前も知ての那あの藪醫者やぶいしや長庵坊主ばうずに相違さうゐ無し斯かうばかりでは譯わからぬが算かぞへて見れば八年跡あと八月廿八日に寅刻なゝつ起おきして三日ゆゑ例いつもの通り平川の天神樣てんじんさまへ參詣に出掛でかけた處か早過はやすぎて往來ゆきゝの人はなし雨あめは頻しきりに強つよく降ふり困こまつたなれど信心しんじん參り少しも厭いとはず參詣なし裏門うらもんを出て戻もどる頃漸々東が白しらみ出し雨も小降こぶりに成たる故浮羅々々ぶら〳〵戻る向むかうより尻しりつぺた迄引端打ひつはしをり古手拭ふるてぬぐひで頬冠ほゝかぶり傘かさをも指ずに濡ぬれしよぼ垂たれ小脇差こわきざしをば後ろへ廻し薄氣味惡うすきみわるき坊主奴ばうずめが來るのを見れば長庵故傘かさをもさゝず先生せんせいには何いづれへお出と迂濶うつかり言葉を掛たら彼方はおどろき急きふ病人の診察みまひの戻もどりと答へし形容ようすの不審いぶかしく殊に衣類いるゐへ生血なまちのしたゝり懸つて有故其の血汐しほは如何の譯わけやと再度ふたゝび問へば長庵愈々驚怖おどろき周章あわて嗚あ呼あ殺生せつしやうはせぬ者なり益えきなきことを致したり霞かすみヶ關せきの坂下にて惡わるい犬いぬめが吼付ほえつく故ゆゑ據所よんどころなく拔討ぬきうちに犬を斬しが其血が刎はね衣類いるゐを如斯こんなに汚よごせしなりと云つゝ吐息といきを吐つく體さまが何どうも怪あやしく思はれたり夫のみならず第一に病家びやうかへ行に傘かさをもさゝず濡萎ぬれしよぼたれて跣はだしとは其の意を得ずと思ひしに跡にて聞きけば弟おとうとなる十兵衞とやら云者が札の辻にて人手にかゝり其曉あかつきに長庵は病氣なりとて十兵衞が出立するを見送みおくりも爲ざりし由檢使場けんしばでも御奉行樣のお前でも申立たる赴きゆゑはてなと思うて居るものゝ人の事にて兎や角と言爭いひあらそはんも益えきなき事殊ことに私しの女房の云には滅多めつたにそんな事を口出しなさば懸かゝり合あひ然樣さうなる時は大變たいへんなれば決して口外こうぐわいなさるゝなと言ける故に今迄は人にも決して言ざりしがお前にばかり話はなすなり夫ゆゑお前の御亭主ていしゆの敵かたきと言ふは長庵に相違さうゐなしさなサア〳〵〳〵咄はなした上はお光さん私が事も聞て呉れとお光に突然いきなり抱だき附つくを其手を取て突除つきのけつゝ見相けんさう變かへて忠兵衞さん扨は其朝長庵が傘をもさゝず天神樣の裏門前うらもんまへにて逢あはれし時口利きかれたは確乎たしかな證據しようこ夫程證據の有事をなどて今日迄包つゝまれしや情なき忠兵衞殿無念々々むねん〳〵と齒噛はがみをなし忽まち眼まなこも血走ちばしりつゝ髮も逆立さかたつ形容ありさまにて斯る證人有上は此趣きを直樣すぐさまに御奉行樣へ駈込かけこんで彼の長庵を御調べ願ひ夫の惡名あくみやう雪すゝぐべし忠兵衞殿には何處迄も證據しようこと成て下されと直すぐにも駈出かけだすお光が氣色此有樣に忠兵衞は如何いかゞなことをば言ひ出してひよな騷さわぎに成たりと酒も何處どこへか醒さめて行ゆき色いろも戀路こひぢも消果きえはててこはそも如何にと惘あきれ果十方に暮て居たりしが忠兵衞は迯にげもされねば是これ待まち給へお光殿御番所へ駈込かけこんでも外事ほかこと成ぬ大事の一條でう人の命に關る事先々篤とくと勘考かんがへてと言紛いひまぎらすをお光は聞ず兎にも角にも御奉行所へ訴うつたへ出て御調しらべを願うた時は必ず證據しようこ人と成て給はれ忠兵衞殿と念ねんを押おせども忠兵衞は茫然ばうぜんとして答こたへもなく我が家へこそは立歸りぬお光は悴せがれ道之助にも其次第を言聞いひきかせ其儘直すぐに支度して店請たなうけ人の清右衞門に相談せんと出行いでゆきける


第十六回


 口を守まもる事瓢ふくべの如くと又口は禍わざはひの門かど舌したは禍ひの根ねと言る事金言きんげん成なるかな瀬戸物屋忠兵衞計はからず八ヶ年過去すぎさりたる事をお光が色情しきじやうにほだされ迂濶うかつと口走くちばしり掛り合に成て當惑に及びしも口の禍ひなり然さりながら天に口なし人を以て言いはしめ給ふ事長庵が多年の積惡せきあく露顯ろけんの時節じせつにや有ぬべし然ばお光は忠兵衞が歸りしより早々さう〳〵支度したくを爲し直樣すぐさま店請人たなうけにんの清右衞門方へ到り云々しか〴〵の譯柄わけがらなれば速すみやかに此趣きを訴へて夫の汚名をめいを雪すゝぎ度たき由一心込て相談に及びければ清右衞門倩々つく〴〵聞きゝ心の内に一旦たん中山出雲守樣の御白洲しらすにて落着らくちやくに成し一件なれば假令たとへ聊いさゝか證人の有ばとて容易よういに御取上には成なるまじ毛けを吹ふいて疵きずを求もとめなば却つてお光の爲ならずと思案しあんを極きはめてお光に向ひ夫は道理もつともなる次第なれども一朝てう一夕せきの事ならず假令證據しようこ人の有ればとて周章あわてて願ねがふ事柄がらならず殊に北の御番所にて先年せんねん裁許濟さいきよずみに成し事故今更兎や角申立るとも入費倒にふひたふれにて贅むだ事に成も知れず云ば證文の出し後おくれなり夫より最早もはや夫をつと道十郎殿の事は前世よりの因縁いんえんと斷念あきらめられ紀念かたみの道之助殿の成長を樂たのしみに暮くらし給へと種々いろ〳〵に宥なだめつ透すかしつ諫いさめると雖もお光は更に思ひ止るべき所存しよぞん無なければ猶押返かへして頼みけるに清右衞門一圓ゑん取用ひ呉ざれば詮術せんすべなさに凄々すご〳〵と我が屋へ社こそは立戻たちもどれど熟々つく〴〵思へば懷おもふ程無念悔しさ止難やみがたければ店請人たなうけにん清右衞門をさし置てお光は家主いへぬし長助方へ赴き貴君樣あなたさまに折入をりいつて密々みつ〳〵御願ひ申度一大事の出來候まゝ態々わざ〳〵參まゐりしなり併し乍ら人樣ひとさまの前にては申し上難きことなれば何卒なにとぞ内々にて御相談ごさうだん願ねがひ上度と言いふにより長助は如何にも承知なりとて早速さつそく自身じしんの家内に向ひ其方は何方いづかたなりとも少しの間あひだ行ゆきてをれと云れて女房にようばうは頬ほゝ膨ふくらし女房が何で邪魔じやまに成なるお光殿もお光殿此晝日中ひるひなか馬鹿々々ばか〳〵しいと口には言いはねどつん〳〵するを長助夫と見て取つて其方が氣を揉事もむことに非ず早々何處いづこへか行きて居れと叱しかり付いざお光殿是へ御座れと奧おくの一間へ喚込よびこめば女房は彌々いよ〳〵角つのも生はゆべき景色けしきにて密男まをとこは七兩二分密女まをんなに相場は無ないと呟つぶやきながら格子戸かうしどをがたびし明あけて出行いでゆきけり跡には長助お光兩人差向さしむかひなればお光は四方あたりを見廻して徐しづかに云けるに内々にて御願ひと申すは外のことには候はず私し夫をつと道十郎事八ヶ年以前いぜん寃むじつの難なんにて斯樣々々かやう〳〵と有し次第を具つぶさに物語り彼忠兵衞を證據人と爲なし私し駈込願かけこみねがひ致し度と涙を浮うかめて頼みける容子ようすに貞心ていしん顯あらはれければ長助は感心なし今度忠兵衞が計はからずお前方に過去すぎさりたる一件けんを口走くちばしりしはお光殿の貞心ていしんを天道樣が感應かんおう在ましまして忠兵衞に云いはせし者ならん如何にも此長助が一肌ひとはだ脱ぬいでお世話致さん然さりながら一旦たん中山樣にて落着らくちやくの付し事を訴うつたへるわけゆゑ言いはは裁許さいきよ破毀やぶりの願ひなれば一ト通りの運はこびにては貫徹つらぬく事六むづヶ敷しからんされば長庵とやらが大雨おほあめの降ふるに傘かさをもさゝず曉方あけがたに平川天神の裏門通りにて行逢ゆきあひたりと云忠兵衞とかの方へ赴おもむき證據人に必ず立と云處を突留つきとめ其上玄關げんくわんへ委細ゐさいを申し立若もし取上て呉くれぬ時は駈込かけこみ願ひを爲なすべし又幾度いくたび駈込かけこみ願ひを爲なしても御取上に成ぬ時は月番の御老中へ駕訴かごそをすると覺悟を仕て掛かゝるべしと身に引受し長助が最いと懇切ねんごろに言聞いひきかせければお光は飛立ばかりに喜び早々さう〳〵長助同道どうだうにて忠兵衞方へ赴きける僥倖さいはひなる哉かな例令たとへお光が女の身にて何樣に思ふとも外の家主ならんには勿々なか〳〵引請て呉くれる事柄ことがらには有らね共此長助と云家主は當時此廣ひろき大江戸にても三人と言るゝ指折ゆびをりの公事好くじずきと名を取し男にて其頃の噂にも朝あさ起出おきいでて神棚かみだなに向ひ先我が身み安泰あんたい家内かない安全あんぜん町内大變たいへんと祈いのりしと云ふ程の心底故か御番所の腰掛こしかけにて喰くふ辨當べんたうは何が無なくても別段べつだん甘うましと言しとかや何故に町内大變々々たいへん〳〵と言かと思ふに支配内に變が無なければ家主は何にも面白く無ないと言位の人物にて麻布あざぶに三次郎芝しばに勘左衞門赤坂に此長助と三人の公事好ずき家主なり此長助には望のぞむ所の出入なりと直樣すぐさまお光が力となりしはお光か貞心ていしんの貫つらぬく運と言も畢竟ひつきやう天より定りて人を制せいするの時節じせつ到來たうらいしたりし者か此時彼瀬戸物屋忠兵衞は益えきも無事なきことを引出したりと色いろ蒼あをざめて我家へ歸來り女房のお富に向ひ突然いきなりと證據人に立たてて呉くれと道十郎の後家のお光に言れ何と云紛まぎらしても漸とんと聞入れず漸々やう〳〵と迯にげ歸りては來れ共お光が駈込かけこみ願ひにても及ぶ時は必ず我が名を申立べし如何して能よからんやと大息おほいき吐ついて言けるにぞ女房は聞て大いに驚怖おどろき長庵に逢あうた話しは容易ようい成ならざる事故決して口外こうぐわいはなさるなと豫々かね〴〵おまへに言置しに何故然樣さやうなる一大事を云れし事哉と聞きいて忠兵衞は女房の手前ながらも面目なく後悔こうくわい顏かほにあらはるれば女房は益々聲こゑ荒あららげ畢竟ひつきやうお光さんは後家なる故何か思ふ仔細が有て上り込み者成ならんさも無くば久ひさし振ぶりで逢あうたお光さんに是迄噺はなさぬ一大事を噺はなさう譯わけがない屹度きつとお光さんの色香いろかに迷ひ私があれ程に言て置た事をも打忘れて自分じぶんから迷惑めいわくを釀こしらへ私に相談も無い者だ夫と云も日頃から身の嗜たしなみの惡わるい故と早はややきかけし女房は可笑をかしくも又道理もつともなり


第十七回


 人の憂うれひをうれひ人の樂たのしみをたのしむと是は又一己この豪傑がうけつなり偖さても家主長助は道十郎後家のお光を同道にて忠兵衞の宅たくに到り私しは赤坂表町家主長助と申す者なりと初對面しよたいめんの挨拶も濟すみ扨さて段々だん〳〵と此お光より承うけたまはりしに御自分ごじぶん事八ヶ年以前八月廿八日未明みめいに平川天神御參詣の折節をりふし麹町三丁目町醫師まちいし村井長庵にお逢あひなされしとの事道十郎殿寃むじつの罪に墮おちいりしも長庵は其朝あさ不快ふくわいにて臥ふせり居り弟の見送みおくりにさへ出る事能あたはざりしなどと申立し由なれ共右樣確固たしかなる證據人の有ある上うへからはお光殿年來の本意ほんいをも達し家主の身に取ても然樣さやうなることの知しれし上は打捨うちすてては役儀も濟すまざること故夫々に手配てくばりなし御番所へ願ひ出るにより此時の證據人に相違さうゐ無く御立下たちくだされよとお光倶々とも〴〵退引のつぴきさせぬ理詰りづめの談だんじに忠兵衞は暫時しばし物ものをも言はざりしが漸々やう〳〵にして答るやう如何にも御噺おはなし申せし通り平川天神の裏門前うらもんまへにて其日の曉あかつき長庵に逢あひしに相違これ無ことに付其所は何處どこ迄も證據人に相立申べし去さりながら札ふだの辻つじの人殺しが長庵と言ふことの證據人には相立難あひたちがたしと言へば長助點頭うなづき夫は如何にも承知しようち致いたしぬ只平川にて其朝まだき長庵に逢あひたると言ふことを發輝はつきと申立て給はらば夫にて宜しと家主長助は忠兵衞を聢しかと談じ其の趣おもむきの一札を取置去さればお光殿立歸りて訴訟の支度したくに及ばんなれども忠兵衞殿には御迷惑ごめいわくなる事に候はんと厚あつく禮を演のべ長助お光の兩人は是で此方こなたに拔目ぬけめはないと小躍こをどりをして立戻り長助は直たゞちに訴訟書をぞ認したゝめける總すべて公事は訴状面に依よつて善惡ぜんあく邪正じやしやうを分つは勿論の事なれども其中にも成ると成ならざるとは大いに違ちがひあることなり譬たとへば町内に捨物すてものの有りし時拔身ぬきみの白刄しらはなりとも鞘さや無なき脇差わきざし何處其處どこそこに捨すてこれ有候と認したゝめて訴へれば穩おだやかに聞ゆるなり依よつて此訟訴書の無事に御取上に成る樣にとて長助は種々しゆ〴〵に心を配り願書をぞ認したゝめける其文に乍恐おそれながら書附かきつけを以て奉願上ねがひあげたてまつり候一赤坂傳馬町長助店道十郎後家光奉申上候去さんぬる寶永七年八月廿八日拂曉ふつげう芝しば札ふだの辻つじに於て麹町三丁目町醫まちい村井長庵弟十兵衞國元くにもとへ出立仕候節せつ人手ひとでに罹かゝり相果候其場そのばに私し夫をつと道十郎所持印付しるしつきの傘かさ捨すて有之候より道十郎へ御疑念ごぎねん相掛あひかゝり候哉其節の御月番中山出雲守樣御奉行所へ夫道十郎儀病中びやうちう御召捕おめしとりに相成入牢じゆらう仰おほせ付けられ候處御吟味中牢死仕つり死骸の儀は御取捨とりすてに相成家財は私し母子おやこへ下し置れ候間其後私し儀は店請人たなうけにん清右衞門方へ悴せがれ倶々とも〴〵引取り同人の世話にて當時の所へ借宅仕しやくたくつかまつり幼少の悴道之助兩人にて八ヶ年來住居ぢうきよ罷まかり在あり年來夫道十郎事非業ひごふの死をなし候儀無念むねん止時やむときなく右人殺しの本人搜索たづね出し夫の惡名相雪あひそゝぎ申度心懸居がけをり候處私し元もと住居麹町に於て懇意に仕つり候忠兵衞と申者頃日このごろ不圖ふと私し方へ罷まかり越こし種々しゆ〴〵話しの手續きより忠兵衞申聞きかせ呉くれ候には先年札の辻の人殺しは村井長庵こそ怪あやしけれと口走くちばしり候まゝ猶なほ其その實情じつじやうを承まはり候に右同日の未明みめいには長庵儀前日より病氣にて弟十兵衞の出立しゆつたつをも見送らざる旨御檢使場ごけんしばに於て申立候趣きに候得ども忠兵衞儀同日同刻麹町平川天神へ參詣さんけいし歸り同所裏門前に於て行逢ゆきあひ言葉ことばを替かはし候由尤も其節長庵が體裁ありさま甚だ以て如何敷いかゞしき趣きに有之候旨に御座候之に依て右忠兵衞證據人に相立あひたて此段御訴訟申上奉つり候何卒なにとぞ格別かくべつの御慈悲を以つて右忠兵衞儀御呼出よびいだし御糺しの上長庵召出めしいだされ御吟味成し下し置おかれ夫道十郎の惡名相雪あひそゝぎ候樣偏ひとへに願上度之れに依よつて此段このだん奉歎願たんぐわんたてまつり候以上赤坂傳馬町二丁目後家願人みつ 差添清右衞門 家主長助 享保二年三月 南御奉行樣 右の通り訴状そじやう認したゝめ長助猶も倩々つく〴〵勘考かんがへけるに此事件は一旦中山樣御白洲しらすにて御裁許濟ごさいきよずみに成りし事なれば次第に寄よると訴状を却下さげもどさるゝやも計り難く先年は北の御月番なりしかば此度は南の御番所へ出訴しゆつそせん然すれば御役所も違ちがひ殊には此頃勢州山田奉行から江戸町奉行へ御見出しに相成あひなりたる大岡越前守樣へ持出しなば御新役ごしんやくだけ御力の入られ樣も違はん又聞所きくところに寄よれば大岡樣は往昔むかしの青砥あをと左衞門にも優まされる御奉行也との評判なれば屹度きつと御吟味も下さらんと家主長助諸もろともお光は南の役所へ駈込訴かつこみそに及びしかば越前守殿落手らくしゆ致され一通り糺問たづねの上追て沙汰に及ぶ旨むね申わたされ其日は一同下さがりけり


第十八回


 好すきこそ物の上手じやうずなれと譬たとへの通り飽迄あくまでも公事向くじむきに手馴なれし長助が思ひ通りの訴状御取上に成りしかばお光の喜よろこび一方ならず然るに三四日過て御呼出よびだしに相成越前守殿願ひ人お光清右衞門長助の三人へ申渡されけるは此訴訟の趣おもむきにては先年同役たる中山出雲守の係りにて裁許さいきよ相濟あひすみたる事件ことがらを再び申立る樣に聞ゆるなり然ば裁許さいきよを戻すと云ふ者にて輕かるからざる儀なり併しながら其始末しまつに依ては再び吟味爲まじき者にも非ず達て願ひ立ると有れば取上て一通り調べもいたし遣つかはさんが何れとも其覺悟かくごにて願ひ立べしと申されけるに願ひ人のお光は恐おそる〳〵頭かうべを上げ此事に付假令たとへ如何樣の儀仰せ付らるゝ共聊いさゝか相違さうゐの儀申上ざるにより御取調べの程偏ひとへに願ひ上奉つる尤も證據人忠兵衞を召出めしいだされ御尋ね下されなば委細に相分り候趣おもむき申立るに越前守殿然らば其忠兵衞に相尋あひたづぬる時は長庵が始末柄しまつがら相分あひわかる趣なれども先其方より一應申立べしとの事によりお光再度ふたゝび首かうべを上八ヶ年以前夫道十郎儀芝札の辻に於て十兵衞と申者人手に罹かゝり相果あひはて候處其場に道十郎の印しるし付に傘からかさ捨之有すてこれありしに付御疑ひ罹りしと雖も其傘は長庵方へ忘れ置たる品に相違さうゐなく候然しかるに夫道十郎浪人の貧ひんに逼せまり十兵衞が四十兩餘の金子を持たる事を知る故後あとを付來りて十兵衞を殺害せつがいなし其金を奪ひ取りしに相違なしと御檢使けんしへ長庵より申立たるに依て夫道十郎召捕めしとられ御吟味中牢死仕つりし也なり長庵儀は其朝は前夜より不快ふくわいにて弟十兵衞の出立を見送りも致さゞる趣むき是又御檢使の場にて申上再應御調べの節も同じ樣に申立長庵へは御咎とがめもなく相濟あひすみたる所此間忠兵衞不圖ふと私し方へ參り申聞せ候には寶永七年八月廿八日未明あけがたに麹町平川天神の裏門うらもん前にて忠兵衞參詣さんけいの歸りがけ村井長庵を見請たるに其節は大雨おほあめ降ふり居候へ共長庵は傘かさをもさゝず濡ながら來りしに付何方いづかたへ參られ候哉と忠兵衞相尋ね候處霞かすみヶ關せき邊へんの病家へ參り候趣おもむき勿論もちろん其節そのせつ衣類いるゐに血汐ちしほの夥多敷おびたゞしく付つき有あり候に付き是又忠兵衞より如何致され候やと相尋ね候處大いに驚怖おどろき候樣子にて申けるにはアヽ殺生せつしやうは致さぬもの今犬めが餘り吼付ほえつきし故遂つひ拔討ぬきうちに斬殺きりころしけるが其血汐の付たる者ならんと云ひて周章あわたゞしく其儘まゝに別れ候ひし由尤も病氣にて弟の見送みおくりもいたさぬ長庵が然樣さやうの始末しまつ甚だ以て怪あやしく存じ候まゝ何卒なにとぞ忠兵衞へ御尋ねの上長庵を御調べの程偏ひとへに御願ひ申上ますと申立ければ越前守殿否いなとよ願ひ人光其は容易ようゐ成ならざる事件ことがらなれば胡亂うろんなる儀は取上には成らぬぞ篤とくと了簡れうけんして申立よ差添さしそへ店請たなうけ人清右衞門其方儀は八ヶ年以前右の事柄ことがら心得居るや又如何なる縁えんにて母子共ぼしとも世話致し居りしやと尋問たづね有ありしかば清右衞門愼つゝしんで恐おそれ乍ながら道十郎は私し店受人致し候以前より別段べつだんの入懇じゆこんに付店受たなうけ人に相成候所右不慮ふりよの儀ぎ出來しゆつたい仕つり餘儀よぎ無なく其儘受人の好よしみにて引取世話仕つかまつり罷まかり在候八箇年以前御檢使ごけんしの場は存じ申さず候へ共其後右道十郎お召捕めしとりに相成御調しらべの度毎に私し儀も召出され委細心得罷り在候御調べ筋は右十兵衞事横死わうし致し候場所に道十郎所持の印しるし付の傘有之候に付申譯わけ相立難く兩度りやうど程ほど長庵と突合つきあはせ御調べに相成候へ共道十郎は其前より久々不快ふくわい故申開きも心に任まかせず遂つひに牢死に及び候に付彌々いよ〳〵長庵が辯舌べんぜつにて道十郎の罪科ざいくわに相定まり死骸は御取捨とりすて家財かざいは妻子へ下し置れ候旨むね其節そのせつ仰おほせ渡され候と申立ければ越前守殿御聞有て成程其調べの儀は此越前守が取調べても其通そのとほりなり然るに忠兵衞と申者八箇年打過うちすぎ只今たゞいまと成て右樣の儀申出ると言ふは何ぞ忠兵衞が右長庵に遺恨ゐこんにても是ある事には非あらざるか何とも怪あやしき證據人なり八箇年以前同役が調しらべの節せつ上かみに然樣さやうの不吟味は是なき筈はずなり然さりながら證據人と有る上は右忠兵衞を召出したる上にて追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶなりと概あらまし御尋問たづね有りし儘まゝ家主長助へも其旨申渡され今日は先まづ引取ひきとるべしと有りける故に皆々みな〳〵我が家へ歸りけり翌日直に麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞を御呼出よびいだしに相成白洲しらすに於て越前守殿其人物を御覽あるに人の惡あくを揚あげ意趣遺恨いしゆゐこんなどを含ふくみ又有りもせぬ事柄ことがらを申懸る樣成者に非ざる事を早くも見て取られ如何に忠兵衞其方八箇年以前寶永七年八月廿八日の明曉あかつき長庵を麹町平川天神裏門前にて見受たる由其砌そのみぎりの始末しまつ包つゝまず逐ちく一申立べしと云はれければ忠兵衞はハツと答こたへしまゝ齒はの根ねも合あはぬばかりにて漸々やう〳〵に申立けるは願ひ人光より申上たる通り相違さうゐ御座なくとばかりなれば越前守殿汝おのれ忠兵衞右樣みぎやうの儀を承知して居ながら其節そのせつ確しかと申上べきの處只今たゞいま迄まで打捨うちすて置おきし段不埓ふらちの至りなり追々おひ〳〵呼出し長庵と對決たいけつ申付るなりと一先まづ歸宅きたくさせられたり偖て越前守殿此一件は容易よういならずと内々にて探索たんさく有りし所隱かくるゝより顯あらはるゝはなしとの古語こごの如く彼の札の辻の人殺しは全まつたく長庵の仕業しわざに相違なきこと世上の取沙汰とりさたもあるにより大岡殿は新役しんやくの手際てぎはを顯あらはさんと思はれ一度の吟味もなく直すぐに麹町名主矢部與兵衞へ内通ないつう有つて村井長庵が在宿ざいしゆくを篤とくと見屆させ置召捕方の與力同心を遣つかはされしかば捕方とりかたの者共長庵が宅の表裏おもてうらより一度に込入たる然るに長庵は諺ことわざに曰いふ臭くさい者の見知みしらずとやら斯かる事とは夢ゆめにも知らず是は何事ぞと驚く機會とたんに上意々々と呼よばはるを長庵は身を退しさり人違ひにも候べし此長庵に於て御召捕めしとりに相成あひなる覺おぼえ更になしと大膽だいたんにも言拔いひぬけんとするを捕方とりかたの人々聲をかけ覺えの有無うむは云ふに及ばず尋常じんじやうに繩なはに掛れと大勢折重をりかさなりて取押へ遂に繩をぞ掛たりける頓やがて引立られし長庵が心の内には驚怖おどろけども奸惡かんあく長たけし曲者くせものなれば何の調べか知ねども我がした惡事は皆みな無證據むしようこ何樣なにやうに吟味筋が有るにもせよ此長庵が舌頭ぜつとうにて左りを糺たゞせば右へ拔ぬけ右を問はゞ左りへ綾あやなし越前とやら名めい奉行でも何の恐おそるゝ事やあらんと高手たかて小手こては縛いましめの繩の縷よりさへ戻す氣で引れ行くこそ不敵ふてきなれ。


第十九回


 偖さて又大岡越前守殿役宅やくたくの白洲には召捕めしとり來りし村井長庵高手小手に縛いましめられ砂利じやりに居づくまる時に越前守殿出座しゆつざありて村井長庵と呼よばはるゝ時長庵ハツと答へければ越前守殿尋問たづねらるゝ樣其方儀去さんぬる寶永七年八月廿八日の未明みめいに芝札の辻にて其方弟十兵衞横死わうしの節せつ北きたの役所へ差出したる口書の儀何と認したゝめたるや覺え有あらば申立べしとの事により長庵は驚きしが少しも其色を見せず空涙そらなみだを流して只今御尋ねに付思ひ出し候ても歎なげかは敷しきは私し事其前夜より病氣にて立起も自由成ならずして當朝たうてう弟十兵衞出立しゆつたつの見送りも致さず獨ひとり立せしゆゑ闇々やみ〳〵と人手に掛り相果候事殘念今に忘れ申さず候と泣々なくなく申立ければ越前守殿是を聞きかれ其節其方が病氣と有あらば見送りの出來ぬは道理もつともなり併しかしながら大金を所持しよぢせし者を夜更よふけに出立しゆつたつ致させたるは不審いぶかしき事なり何故夜明て後出立致させぬそと有りけるに長庵然さればにて候私儀呉々くれ〴〵弟に夜が明て後出立しゆつたつ致いたし候樣に申聞せ候へ共在所ざいしよに殘し置たる妻や娘に一刻こくも早く安堵あんどさせ度旅たびは朝こそ敢果取はかどれば最早もはや寅刻なゝつも過すぎたるゆゑ少し歩行あゆまば夜も明あけなんと止むるを聞で出懸でかけしまゝ私しも病氣ながら起上おきあがり止る桐油とうゆの袖そで振切ふりきり首途かどでを爲なしつゝ賊難に罹かゝりたるは如何なる前世の宿業しゆくごふにやと諦あきらめ候より外に致し方無之これなきと申立ければ越前守殿假令たとへ弟十兵衞が何と申共一日や二日で歸村きそんの成る可べき所にも非らざれば強しひても止むべきが兄たる者の情じやうならずや其方が仕成しなし方甚だ以つて其意を得ずと申されければ長庵は病中びやうちう故ゆゑ心こゝろに任せず今更いまさら後悔こうくわい仕つり候併し先年中山出雲守樣の御裁許濟さいきよずみに相成候事と申す時越前守殿礑はつたと白眼にらまれ如何に長庵其方病中にて見送りさへ致し得ぬと申しながら何として其廿八日の未明みめいに平川天神の裏門通りを傘かさをもさゝず歩行ほかう致したるやと大聲たいせいに尋問たづねられしかば流石さすがの長庵内心に驚怖おどろくと雖も然有さあらぬ體ていにて這は思ひも寄らぬ御尋問を蒙る者哉かな然樣さやうの儀は更に覺おぼえ無なく御座候と何の氣色も無く申し立ければ大岡殿覺おぼえ無しと云はさぬぞと言はるゝをも待ず長庵其人殺しは浪人道十郎と定さだまり御吟味濟ぎんみずみに相成たる儀を何故今更に疑ひを以て私しへ仰せ聞きけらるゝやと申立るを越前守殿聞きかれ默だまれ長庵其砌みぎりは確然しかとした證據人の無なかりし故なり此度は其節せつの證據人と對決申し付る間其時有無うむを答こたゆべしと申さるれども長庵は空嘯そらうそぶき一旦御吟味濟に相成たる事件ことがらを再應さいおうの御調べ直なほしは何とやらん御奉行所の御裁許は兩ふたつ有ある樣やうに存じ奉つると公儀こうぎの裁判所をも恐れず傍若無人ばうじやくぶじんの言立いひたてなれば越州殿ゑつしうどのにも不敵の奸賊かんぞくなりと目を着つけられしかども一旦中山殿奉行所にて裁許さいきよの有りし事件ことがらなれば何と無く斟酌しんしやく有て暫時しばらく考かんがへ居られしが又猶申さるゝは其折道十郎なる者吟味詰づめに相成りし譯わけには之なく牢死らうし爲なしたる故其儘に成り居をりしなり存生ぞんしやうならば外に吟味の致し方も有りしならん然しかるに只今の一言奉行所の不行屆ふゆきとゞきの樣に上の御政度せいどを批判ひはんに及びし條彌々いよ〳〵以て不屆き至極也なり右樣の儀を口走くちばしり後悔こうくわいするなと云はるゝに長庵は猶も減へらず面がほに御吟味の行屆ゆきとゞかざると申たる譯には御座無く全く御裁許さいきよ相濟あひすみたればこそ道十郎が死骸は取捨仰せ付けられ又た家財かざいは妻子へ下くだし置おかれしと申立る時越前守殿一層そう聲こゑを張揚はりあげ默だまれ長庵夫等それらの儀を汝おのれに問に非ず道十郎は此儀ばかりに關かゝはらず別べつに仔細有て死骸は取捨申付られたるなり餘事よじの答へには及ばず其方其夜は病中にて他行たぎやう致したる覺え無なしと言へ共ども其證據有りや如何にと尋問たづねらるゝ長庵冷笑せゝらわらひ別に證據と申ては御座無候へ共町役人一同其曉あかつき私し打臥居うちふしをり候所へ參り候間皆能々よく〳〵存じ居候と云へば越前守殿夫は證據に成難なしがたし仍よつて此度再應さいおう調しらべに及ぶなり奉行所には證據人有るぞよ夫にては其方に明白めいはくの申開き有ありやと申さるれば長庵私し病氣故弟十兵衞が夜中の出立を見送る事も出來ぬ身を以て如何いかんぞ他行たぎやうなどの出來申べきや其邊へん篤とくと御賢察下けんさつくだされ度と誠まことしやかに陳ちんずる形容ありさま越前守殿見られて態わざと面おもてを和やはらげられ其方は強情がうじやう者なり追て證據人を呼び出し對決申付る其節閉口へいこう致すな依て吟味中入牢じゆらう申付ると後あとの一聲高く申渡さるゝに兩人ふたりの同心立懸たちかゝり長庵を引立て傳馬町へと送られしは心地こゝち能よくこそ見えたりけり嗚呼あゝ天てんなる哉かな命めいなる哉かな村井長庵弟十兵衞を殺害せつがいせし寶永七年八月廿八日の事成るに八ヶ年の星霜せいさうを經へし今日露顯ろけんに及ばんとする事衆怨しうゑんの歸する所にして就中なかんづく道十郎が無念むねんの魂魄こんぱくとお光が貞心ていしんを神佛の助け給ふ所ならん恐るべし愼つゝしむべし。


第二十回


 偖さて翌よく日大岡殿には願ひ人長助光并びに證據しようこ人麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞相手方あひてかた村井長庵とを呼出しになり越前守殿出座しゆつざ有ありて一同呼上よびあげる時大岡殿忠兵衞へ向はれ其方事今日は長庵と對決たいけつ申付つける間天神の裏門前にて同人に逢あふたる趣き發輝はつきと申立よと申渡され次に長庵其方の弟十兵衞出立の朝あさは病中にて有りしと申が平川天神裏門通りを其朝まだきに傘をも持ず歩行せし時其方に行逢ゆきあひし者あるよし然る上は其節病中との申立は僞いつはりならんと有りければ長庵不審ふしんさうなる面色おももちして決して他行は勿論もちろん門かどへも出申さず候と誠まことしやかに申立てけるにぞ然る上は證據人をと申さるゝ時麹町三丁目瀬戸物屋忠兵衞直たゞちに白洲へ呼込よびこみと相成長庵の側かたはらに蹲踞うづくまる是を見て流石さすがの長庵少すこしく顏色がんしよく變かはりしかば越前守殿最いと徐しづかにいざ長庵夫に居をる忠兵衞こそ彼の日の曉あかつきに其方に逢あひし趣きなりと云はれしに長庵は忠兵衞を尻目しりめに掛かけ恐れ乍ながら申上候何者が斯かゝる事を言上ごんじやうに及び御疑ひを蒙かうむり情け無くも仁術じんじゆつを旨むねと仕つり平生へいぜい慈善じぜんを心懸候某を御召捕に相成し哉と存じ居候所扨は此忠兵衞が仕業しわざ成なるか夫にて漸々相分り申候此忠兵衞事私しへ對し遺恨ゐこんの儀御座候に付斯かくは計はからひ私しを亡者なきものにせんとの巧たくみに相違御座なく候と申立るに大岡殿而して其方忠兵衞より請たる遺恨ゐこんと云ふは如何の譯わけ成なるぞと云はれければ長庵此儀は些ちと私しの口よりは申上難く候とて恥入はぢいりたる容體ようすに見えける故越前守殿兎も角も其方忠兵衞に遺恨を請し次第を審つまびらかに申立よと有りしかば長庵然らば言上ごんじやう仕つり候實じつは私し事忠兵衞の妻つま富とみと久しく密通みつつう致し居候處煩腦ぼんなうの犬いぬ追おへども去らず終つひに先月の半頃なかごろ忠兵衞に見顯みあらはされ面目も無き次第故私しも覺悟を致し斯成かくなる上うへは重置かさねおかれ眞ま二ツにせらるゝとも致し方無く思ひ切きつて云ひけれど忠兵衞儀は妻に未練みれんの有る處より私しばかり殺す譯わけにも相成あひならず其場をも見遁し呉くれ候間此大恩は忘れまじと其以後は急度きつと愼つゝしみ罷まかり在あり候然るに私しを生置いけおいては妻の事心元無く思ひてや謂いはゆる犬の糞くそにて敵きと申如く有ありもせぬ事を申上長庵を罪科ざいくわに陷おとし入いれ己おのれが女房をば其儘に致し置べき忠兵衞が巧たくみと心得候見顯みあらはされし其砌みぎり助け呉くれしは却つて仇あだにて情け無なき了簡れうけんに候と涙を流して申立しかば越前守殿倩々つく〴〵聞きかれ扨々さて〳〵珍めずらしき事を聞者哉きくものかな其趣そのおもむきならば汝は立派な好男子也いゝをとこなり併しながら忠兵衞妻は餘程よほど好者ものずきなりと戯たはふれられしかば長庵眞顏まがほにて否いやさ世には相縁あひえん奇縁きえんと申事も御座候と申けるは如何にも不敵々々ふて〳〵しき曲者なり越前守殿如何に忠兵衞長庵の申立而已のみにては胡亂うろんなり先月中旬ちうじゆんの頃ころ其方が妻つま富儀とみぎ長庵と密通みつつうの場を其方露顯はせし事のありやと尋問たづねられしに忠兵衞は然樣さやうの儀は一切御座なく候恐れながら私し家内かないに限り右樣密通など仕つる者にては御座無く候と申立ける時大岡殿然さらば其方が妻富を明日召連めしつれべく旨忠兵衞并に差添さしぞへの町役人へ申渡され白洲しらすは引けければ忠兵衞は心も空に立戻り云々しか〴〵なりと長庵が言掛いひかけし事を咄はなすにぞ女房お富は惘あきれ果はて暫時しばし言葉ことばもなかりしが夫と云ふも皆お前が埓らちも無き事を云ひ出してこんな騷さわぎに成りしなり初めから私し呉々くれ〴〵口止くちどめをして置おいたるを後家のお光に迷まよひし故口走りたる事こと成ならんと立たり居たり狂氣きやうきの如く悋氣りんき交まじりに騷さわぐにぞ忠兵衞は更に生いきたる心地もなく何どう成事なることやと夜の目も合あはさず早はや翌日にも成りければ止事やむことを得ず夫婦連立つれだち町役人に誘引いざなはれ奉行所さして出行いでゆきけり頓やがて白洲へ呼込よびこまれけるに長庵は那あの忠兵衞めが入いらざる事を喋しやべりて斯かゝる時宜じぎに及ばせたれば今日こそは目に物見せんと覺悟を極きはめて引居ひきすゑられたる其折柄をりから越前守殿一通り忠兵衞が妻のお富へ尋ねの有りし上うへ相方さうはうの申立方かた相違さうゐに依て對決申渡す長庵も毛頭もうとう他出たしゆつは致さぬとの趣おもむきなり忠兵衞に於ては胡亂なる儀申立ては相濟あひすまんぞ心を鎭しづめて對決に及ぶべしと申渡されける依て三人は顏かほを見合せ居たりしが忠兵衞頓やがて長庵に向ひ長庵殿如何に貴殿きでんに恨うらみ有などと云ふ事は思ひも寄よらず然されども八ヶ年以前八月廿八日の曉あかつき方かた平川天神へ私し朝參あさまゐりの戻もどり掛がけ同所裏門前にて貴殿に逢あひし時衣類いるゐの血を見て貴殿に尋ねしかば犬を切きりしと云れたる事のお覺え有らんと云ふ顏を長庵はつたとねめ付つけ汝おのれ忠兵衞貴樣きさまも餘程よほど愚痴ぐちなる奴かな如何に女房に未練みれんが有ればとて餘りに憎にくき仕方しかたなり此長庵が生いきて居て心配なるとか又近所で安心あんしん成ならぬと思ふなら何所どこへ成なり共とも引越ひきこしなば仔細しさいは有るまじ勿論もちろん燒やけぼつくいには火の付つき安やすき譬たとへも有れば不安心に思ふも道理もつともなり然し一旦たん勘辨かんべんした事を又別段に手を替かへて此長庵を暗くらき所へ迄まで入いれたるは餘りの口惜くちをしき次第なり最初さいしよ斯の如きの了簡れうけんならなぜ男らしくせざるぞや貴樣に日外いつぞや申せし通り重かさねて置て二ツに成なりと四ツに成と勝手かつてにすべき者をと云ひければ忠兵衞は頭かしらをあげ長庵殿には取逆上とりのぼせしか貴殿の云ふ事少しも分からず申せば長庵聞て譯らぬとは麁言そごんなり貴樣こそ取逆上とりのぼせしと見みえたり密夫まをとこ仕したりと我口より云て居る此長庵を殺さば殺せ覺悟なりと己れが舊惡きうあくの顯あらはれ口を横道よこみちへ引摺込ひきずりこんで防ふせがんと猶も奸智かんちを運めぐらしけるに忠兵衞の妻お富は長庵が云いふ事を始終しじう默もくして聞居たりしが眞赤まつかに成たる顏を上あげ若し長庵殿言事いふことにも程が有る近所きんじよには居らるれどもお前とは染々しみ〴〵物もの言換いひかはした事も無いに私しと密通みつつうを仕て居るなどと根も葉も無事なきことを何程いくら言いふても此方こつちが知らぬ事なれば構かまいは無けれど御上かみの御前ごぜん夫をつとの手前私しは面目めんぼくないぞへと云へば長庵大聲おほごゑ揚あげ此女め今と成て御上の前夫の手前の憚はゞかるも能よく出來できた連つれて迯にげて呉くれろの一緒しよに殺して呉ろのと言た事を忘れたかと誠まことしやかに罵のゝしればお富は惘あきれて涙も出ず暫時しばし默もくして居る容子ようすに大岡殿は長庵が言掛いひかけなりと思はるれど態わざと詞ことばを弛ゆるめられ双方さうはう無證據の爭あらそひなれば猶吟味を遂とげんと申されるを聞きゝ忠兵衞は堪たまり兼かね長庵事私し妻と密通みつつうを年來致し居候由何いつの頃よりの事なるや又其都度々々つど〳〵の事合宿あひやどは何處いづこ成なるや長庵へ御尋問たづねの程願ひ上あげますと申立ければ越前守殿微笑ほゝゑみながら如何にも道理もつともなる尋たづねなり如何いかに長庵何頃いつごろより通つうじ合あひ幾日いくにちのひ何方いづかたにて出合しや有體ありていに申立よと有あるにぞ長庵然さればにて候一兩年以前より度々たび〳〵密通に及び候間日月の儀は失念しつねん致し候場所はいつも私宅にて出會候處忠兵衞に先月の中旬頃見付られ候と申ければお富は大いに怒いかりまだそんな有ありもせぬ事を云ふ人哉第一先月の頃ころは子宮病まへのやまひにて醫者に懸かゝり勿々なか〳〵そんな事はとお富の答へを大岡殿打聞れ斯ては長庵其方の僞いつはりに相違なし子宮病まへのやまひと有ばよも奸通かんつうは致されまじ然る上は其方先月密會みつくわいの折をり忠兵衞に見顯はされしと言ひしは跡形あとかたも無事なきことならんと言はれるを長庵ぬからず成程先月頃は病氣にて密通みつつう致さねども唯たゞ寢ねて居し處を見顯みあらはされしと云ひ直なほさんとするを越前守殿大音揚あげ汝おのれ長庵初めは密通に及びし處を見付られたりと云ひ只今富が申立に泥なづみてたゞ寢て居た處などと云ひ紛まぎらせし段重々ぢう〳〵不屆至極なり假令此上如何樣に陳ちんずる共決して申譯は相立ずと天眼通てんがんつうの一言に流石の長庵否いや夫それはと云たばかりで答へもなく差俯向さしうつむいて居たりしかば大岡殿長庵を見られ依て一事が萬事なり十兵衞を殺害せつがいせしも其方が業わざに相違さうゐ有あるまじ然るを道十郎に寃むじつの罪を負せ公儀を僞いつはる段重々不埓ふらちの奴なり斯成かくなる上は有體に申立よと諭さとさるれども一言の答へもせざれば其日はみつ并に忠兵衞夫婦ふうふを下られ其後段々長庵を吟味の上願ひ人光并に店請人たなうけにん清右衞門をも呼出され傘からかさの一條其外種々取調べと相成り長庵の惡事顯然げんぜんなりと雖も當人は曾て知らざる旨申張はり何分なにぶん白状はくじやうに及ばざれば是非無く拷問がうもんにかけ石を七枚迄抱だかせると雖も一言も云はざる故暫しばらく拷問を止めし中うち追々長庵が惡事數ヶ條綻ほころびけるは天の容ゆるさざる所と云ふべきのみ


第二十一回


 爰こゝに彼長庵が惡事の手先てさきを働はたらき十兵衞の女房お安を吉原の中反圃なかたんぼにて殺害に及びし小手塚こてづかの三次舊名もとのなは早乘はやのり小僧の三次其頃火附盜賊改め石原清右衞門殿へ召捕に成りしに舊惡きうあく追々露顯ろけんしとても助からずと覺悟を極め彼長庵に頼たのまれて先年淺草中反圃にて十兵衞の女房お安を殺害せつがいなしたる一條逐一白状に及びしかば町奉行所へ引渡に相成其年の舊記きうきを御調べ有りけるに「正徳三年十二月十八日 百姓體ていの女の死骸しがい年三十七八歳位衣類いるゐ木綿もめん手織縞布子ておりじまぬのこ木綿じゆばん半纒はんてんを着し身の疵所きずしよ脊せより腹へかけ切疵きりきず一ヶ所脊より突貫つきとほしたる疵一ヶ所咽のどへ突込つきこみし疵一ヶ所兩手の指ゆび不殘のこらず切落きりおとしあり右之通り心當の者是有候はゞ月番松野壹岐守役所へ申出べく候事十二月」右は其節そのせつ見知りの人も之れなく御取片付かたづけと相なりしに三次の申立により十兵衞の妻お安なる事相分り彌々長庵の重罪相顯あひあらはれしかば越前守猶長庵を取調べられ三次が白状の趣おもむきを申聞らるゝに長庵心中に是はと仰天ぎやうてんなせしかども急度きつと腹はらを居すゑ是これとても更に知らずとの申立によりて又もや三次を呼出よびいだし突合つきあはせの上吟味有りけるに長庵三次に向ひ拙者せつしやは村井長庵と申町醫なり貴樣には何と云いふ人ひと成なるや見し事も無き御方なりと素知そしらぬ顏して云ひけるを三次聞て大いに笑ひ何と云はるゝや長庵老らう牢屋らうやの苦くるしみにて眼も暗くらみしや確乎しつかりし給へ小手塚の三次なりと云ひければ何ぞ牢内らうないの苦しみが強つよければとて知己ちきの人を忘わすれんや更に貴樣は知らぬ人なりと再度ふたゝび云へば三次は呆あきれ果はて嗚呼あゝ讀よめたり長庵老らうお安の一件を己おれが白状せし故其惡事を隱かくさんが爲にとぼけらるゝか其所らは貴殿より此方が苦勞人くらうにん最早何も斯も御上へ知れて居る己が白状しねへとてお互たがひに助からぬ命也なり意地いぢ不潔きたなく愚圖々々ぐづ〳〵せずと奇麗きれいに白状して惡徒あくたうは又惡徒だけ男らしく云て仕舞と云へば長庵は彌々空嘯そらうそぶき三次とやらん何を云いふ己おれには少しも譯わからぬ繰言くりごと然乍さりながら弟十兵衞の女房お安も拙者の方へ來て居たが思出せば七年あと不圖ふと家出いへでして歸らぬ故ゆゑ如何なしたる事ならんと思ひ出た日を命日めいにちに佛事を營いとなみ居たりしが偖さては貴樣が殺したるかと然も驚きたる樣子をなせば三次は最早やつきとなりとぼけなさんな長庵老屋敷へ出すとお安を欺あざむき妹娘を苦界くがいに沈しづめ浮うかむ瀬せも無なき罪科つみとがを虫が知たかお安めが二人の娘に逢あはして呉くれと晝夜を分わかたず口説立くどきたて逢あはして遣ればお富をも賣うつた惡事が露顯ろけんなし内から火事を出す都合つがふ可愛想かはいさうだがお安をば何處どこかへ連出つれだし人知ず殺して呉くれろと頼んだことをよもや今更いまさら忘わすれもしめへと云ふと長庵落付おちつきはらひ夫は其方そなたが殺した話し此長庵は知らぬ事御奉行樣宜敷御推察すゐさつ願ひますと申立れば越前守殿兼かねて目を着つけられし如く是又長庵が惡事なりと思はるれ共本人の口より白状はくじやうさせんと猶も詞ことばを和やはらげ三次が斯迄かくまで申ても覺おぼえ無なきやと言はるれば長庵然さればにて候此上骨身ほねみをひしがるゝとも覺おぼえ無事なきことは申上難く候と言ひ募つのるにぞ然ば猶後日の調べと再度さいど一同どう下さげられ長庵三次の兩人は又も獄屋ごくやへ引れける


第二十二回


 爰こゝに又伊勢屋五兵衞の養子やうし千太郎は舊もとの番頭久八が情なさけにて己おのれの引負ひきおひの金迄も久八が自分に引請ひきうけ終つひに是が爲に久八は年來ねんらい勤つとめ白鼠しろねずみと云れし功も水の泡あわとなし永の暇いとまと成し事其身を捨すてて養子やうし千太郎の離縁りえんを繋つなぎ留とめしは最初さいしよ其身が主人五兵衞を説勸ときすゝめて養子となせし千太郎なれば殊更忠義を盡つくせしゆゑ千太郎の代とも成るならば舊の支配人に召使めしつかはんと堅かたく約束なし千太郎より書面しよめん迄も久八へ渡し置千太郎も久八が忠義の異見いけん骨身ほねみに染渡しみわたり一旦迷ひし小夜衣も長庵の姪めひなれば五十兩の騙かたりも同腹どうふくにて爲なしたる事ならんと思ふ故愛想あいそもこそもつき果しかば其後は絶たえて廓くるわへ足向もせず辛抱しんばうして居たりし程に見聞人毎ひとごとに久八の忠義により伊勢五の養子も人に成たりと譽ほめければ久八も蔭かげながら悦よろこびつゝ己おのれが今の姿すがたも打忘れてぞ居たりける然るに丁字屋の小夜衣は伯父をぢ長庵が惡計あくけいに罹りて戀しき人の憂目うきめに逢し事よりして愛想あいさうを盡されしとは露つゆ程も知らざれば外ほかに増花ますはなの出來もやせしか若もし御煩おわづらひでも成れはせぬかと山口巴の若い者や女中ぢよちうに樣子を尋たづねてもお店たなへ直すぐには參れねどお文は都度々々つと〴〵中宿迄なかやどまで御屆おとゞけ申て置ましたが其處そこへも絶たえて御出の無ないよし尤もつとも其後お變りなく御辛抱しんぼうとの事ゆゑにいづれお出で有ませうと取り留もなき挨拶に詮方せんかた盡つきて小夜衣は只たゞ明暮あけくれに神頼かみたのみ神鬮みくじ辻占つじうら疊算たゝみざん夫さへ驗しるしの有ざれば二階かい廻しの吉六を一寸ちよつとと云て小蔭こかげへ招まねき今日は何樣どうとも都合つがふなし是非若旦那へ此文を手渡しにして今夜にも必ず御出の有やうに其言傳そのことづては斯々かう〳〵と幾干いくらか小遣こづかひ握にぎらせれば事に馴なれたる吉六ゆゑ委細承知と請込うけこみつゝ三河町へと急いそぎ行ゆき湯屋ゆやの二階で容子ようすを索搜たづね密々こつそり呼出よびだし千太郎に小夜衣よりの言傳ことづてを委くはしく語りおいらんは明ても暮くれても若旦那の事のみ云れて此頃は泣ないてばつかり居らるゝを何程なんぼ御店がお大事でも絶たえてお足あしの向むかぬとは餘まり氣強きづよき罪造り何樣どうかお都合なされし上一寸ちよつとなりともお顏をみせてと云を打消けし千太郎は是さ吉六殿お前迄が馬鹿ばかにして此千太郎を欺だます氣か那あの小夜衣の狐阿魔きつねあま面つらに似合にあはぬ薄情者はくじやうものお前は知らぬか知らねども彼奴あいつは伯父をぢの長庵と腹はらを合せて先々月せん〳〵げつ己おれから金を五十兩騙かたり取たは是々の始末しまつで己の命をも既すでに捨すてんとせし程の騷さわぎを爲させて置ながら又今となり逢あひたいとは如何に欺だますが商賣しやうばいでも餘りに壓おしが強過つよすぎると取ても付ぬ挨拶に吉六暫時しばし呆あきれしが夫は長庵が一存ぞんの惡功わるだくみせし事ならん小夜衣さんに限かぎつては其樣そんな御人じや御座りません早速さつそく歸かへつておいらんへ其御話しを致しませうと吉六息切いきせき立戻たちもどり一伍ぶ一什じふを小夜衣へ話せば小夜衣仰天ぎやうてんし那あの伯父さんの惡巧わるだくみ大事の〳〵若旦那を愛想盡あいそづかしをさせるとは思へば〳〵恨うらめしと齒噛はがみをなせしが其儘まゝにウンとばかりに反返そりかへれば姉丁山も駈かけ來り漸々やう〳〵にして氣は付共前後正體なく伏居ふしゐるを丁山吉六力ちからを付最も一度文を認めさせ又吉六を三河町へ急がし立たてて遣ければ猶千太郎を呼出よびいだし小夜衣よりの言傳ことづてと有し樣子やうすを物語ものがたり文も爰こゝにとさし出せど手にだに取とらず千太郎は袖そで振拂ふりはらひ立歸るを暫時しばしと止め種々さま〴〵に請勸ときすゝめし故ゆゑ澁々しぶ〳〵に文ふみ取上て封ふう押切おしきり讀よむに隨したがひ小夜衣は少しも知らぬ眞心まごころ見みえ伯父長庵が惡事を歎なげき我身を悔かこち悲かなしむ體さま如何いかにも不便ふびんと思ふより忽たちまちに狂くるふ心の駒こま良やゝ引止ひきとめん樣もなく然樣さうなら今宵こよひ一走はしりと彼の久八の異見いけんも忘わすれ何れ返事は逢あうての上と言ば吉六〆しめたりと雀躍こをどりなして立歸りぬ夫それより千太郎は店たなの都合つがふを言拵いひこしらへ我が家を出ると小夜衣が許もとへ其儘まゝ到いたりしかば絶たえて久しき逢瀬あふせかと外ほかの客をば皆みな斷ことわり其宵ば部屋に差向さしむかひ伯父長庵が惡巧わるだくみ何と御詫わびの仕樣もなく私しまで嘸さぞや憎にくしと思すらん然は然さりながら夢ゆめにだも知らぬ此身の事なれば只たゞ堪忍かんにんをと歎なげかれて終つひに心も打解うちとけつゝ再び迷まよふ千太郎忠義一圖の久八が異見いけんの釘くぎを寛ゆるめし事嗚呼是非もなき次第なり。


第二十三回


 天命てんめいは是耶ぜか非耶ひかと言いはるは伯夷傳はくいでんの要文えうぶんなるべし爰こゝに忠義に凝こつたる彼の久八は辛からき光陰つきひは送おくれども只千太郎の代に成て呼戻よびもどさるゝを樂たのしみに古主こしうの容子ようすを聞居しが此頃人の噂うはさには伊勢五の養子千太郎は再度ふたゝび小夜衣の許もとへ通かよひ初めしと聞えしかば以ての外ほかに驚おどろけども是は全く人の惡口わるくち成ならん千太郎樣にはよもや我が異見いけんを忘わすれはしまじと打過うちすぎけるに或日朝まだきに吉原土手を千住へ赴かんと鐵砲笊てつぱうざるを肩かたにかけて行過ゆきすぐる折柄をりから向ふより御納戸縮緬なんどちりめんの頭巾づきんを冠かぶり唐棧揃たうざんそろひの拵へにて疊たゝみつきの駒下駄こまげたを穿はき身奇麗みぎれいなる若い者此方こなたをさして來掛きかゝるを近寄ちかより見みれば紛まがふ方なき千太郎成ければ是はと思ひし久八よりも千太郎は殊更ことさらに驚怖おどろきしが頭巾づきんを取とり何喰なにくはぬ顏にて是は久八殿何所へ行ゆかるゝや私しは千住の天王樣へ朝參りの歸りなりと云ふ久八熟々つく〴〵打詠うちながめ涙なみだをはら〳〵と流し這こは情なさけなき御心哉おこゝろかな假令たとへ何なにと云紛いひまぎらさるゝとも朝歸りは知れてある未だ御身持を直なほし給はぬか今の我が身が辛つらいとて御異見いけん申では御座りませぬ皆みな御身の爲なれば少しは以前の御難儀を思し召されて御辛抱しんばうを成さる事は出來ぬかや此後このごは屹度きつと愼つゝしむと堅かたき誓ちかひの御言葉ことばをよもや忘れは成るまじとかき口説くどかれて千太郎は何と答へも面目めんぼくなく消きえも入たき風情ありさまなり稍やゝ有あつて久八に向ひ段々の異見いけん我が骨身ほねみに徹こたへ今更詫わびんも樣なし以後は心を入替いれかへて急度きつと辛抱しんばうする程にと泣なかぬばかりに詫わびければ久八も漸々やう〳〵面おもてを和やはらげ猶なほ種々いろ〳〵と異見に及び御歸りの遲おそく相成てはと別れて猶も後見送りしが千太郎は圖はからずも久八に行逢ゆきあひ面目めんぼくなきまゝ兩三日は辛抱しんばうなせしが程ほど過すぎるに隨したがひ又もや夜毎ごとに通ひ居たりしに其後朝歸りの道みちすがら向ふより來るは又々久八なれば夫と見るより千太郎は土手下へ駈下かけおり畔傳あせづたひに後あとをも見ずに迯にげさりけり斯ることの早兩三度に及びし故流石さすがの久八も憤いきどほり我が忠義の仇あだと成事なること如何いかにも〳〵口惜くちをしや今一度逢あうて異見せん者をと其後吉原土手の邊ほとりへ毎朝早くより久八は出行いでゆき蘆簀茶屋よしずぢややの蔭かげに潜ひそみて待つとも知らず三四日過すぎて飮馴のみなれぬ酒の二日醉ゑひに重おもき額ひたひを押ながら二本堤づつみを急ぎ足に歸る姿すがたを遣やり過し久八は千太郎が後うしろより若旦那お早うと云ふ聲聞て千太郎は迯にげんとするを久八が隙すかさず袂たもとに取縋すがり此程もあれほど御諫いさめ申せしにお通ひ成るは何事ぞ其後も度々御見かけ申せど此久八に隱かくれ廻まはり少しも御身の落付ぬは如何なる天魔てんまが魅入みいりしやと涙を流し足摺あしずりしつゝ千太郎が胸むねづくしを聢しかと捕とらへて異見やら又呟つぶやくやら我が正直しやうぢきなる心より狂氣きやうきの如く身を震ふるはしこなたへ御座つて篤くりと此久八が言事を御聞きゝ成なすつて下されとまだ朝まだきで人通りの無を幸ひ中反圃なかたんぼの地藏の影へ引摺ひきずり行ゆき猶なほ段々だん〳〵と異見をなすに千太郎も我が身ながら餘あまりとや思ひけん一言も言ず只々たゞ〳〵許ゆるしたまへとばかりにて兎角とかくするうち久八が忠義一圖に手先迄凝固こりかたまりて千太郎が咽喉のどの呼吸こきふを思はずも締しめたるものか千太郎はアツと仰向のつけに倒たふるゝにぞ久八大いに驚怖おどろき周章あわて是これは如何どうして能よからんと田溝たみぞの水を手拭てぬぐひに浸ひたして口に含ふくますれど全く息の絶たる樣子に久八今は途方とはうに暮くれ天てんを仰あふぎ地に伏ふして悲かなしみ歎き我が身程世に因果いんぐわなる者はなし主人の養子が引負ひきおひを身に引受てかく恥はぢも若旦那樣を眞人間まにんげんにして上たさに厭いとはゞこそ猶なほ御異見を申氣の如何に凝こるとて此手先と我と我が手に喰付くひつきしが覺悟を極め此趣おもむきを御番所へ自ら訴うつたへ公おほやけの御法はふ通どほりに御仕置を受るが切せめての罪滅ほろぼし然樣じや〳〵と獨ひとり言ごと頓やがて千太郎の亡骸なきがらに打向ひ餘あまりあなた樣の御身の上の御爲を思ひ込こみ斯かくの始末しまつに及びし事御詫わびは程なく黄泉あのよにて申上てと伏拜ふしをがみ夫より一散さんに南の町奉行所へ駈込かけこみ私しは主殺しの大罪人だいざいにん御定法ごぢやうはふの御仕置しおき願奉つると申たてければ役人共は一時發狂人はつきやうにんと思ひしが容易よういならざる訴うつたへなれば直すぐに一通り調しらべ有て繩なはを懸かけられ越前守殿の白洲しらすへ呼込よびこみと成しかば久八有し次第を逐一に申立し時既に其場所よりも横死わうし人の屆とゞけ出けるにより先久八は入牢じゆらう申付られ檢死けんしを其場所へ遣つかはし取調べに相成けるに年頃廿二三歳身のうちに疵所きずしよ是なく咽のどを縊くびりし體ていにて伊勢屋五兵衞の養子千太郎に相違無なき趣おもむきは久八より申立にて知られし事なれば直すぐに三河町の伊勢屋五兵衞を呼よび出しに相成五兵衞より親里おやさとの富澤とみざは町甲州屋吉兵衞方へ知らす夫より同道どうだうにて彼土手下かのどてした檢使けんしの場へ罷まかり出吉兵衞二男にて五兵衞方へ養子やうしに遣つかはせし千太郎なる旨むね口書こうしよになり右に付死骸しがいは五兵衞吉兵衞の兩人へ引渡しに成たりける元より久八が縊くびり殺ころしたる趣おもむき自訴じそせしかば翌日甲州屋吉兵衞伊勢屋五兵衞久八の伯父をぢ六右衞門一同等御呼出よびだしにて調べとこそは成りにけれ。


第二十四回


 然程さるほどに大岡殿には翌よく日直樣すぐさま吉原土手下どてしたの人殺し一條でう調しらべとなり其人々には駈込訴人かけこみそにん石こく町二丁目甚兵衞店だな六右衞門方同居久八右久八伯父をぢ六右衞門久八元主人神田三河町伊勢屋五兵衞代金七富澤町甲州屋吉兵衞等なり越前守殿久八を見られ昨日相尋あひたづねし通り其方そのはう舊主人もとしゆじん養子やうし千太郎を締殺しめころせし段だん最もつとも重罪ぢうざいなり然ながら後悔こうくわい致し自訴じそに及びし段神妙しんめうに似にたり其始末しまつは何故何樣の所業しよげふに及びしや仔細しさい有る事ならん眞直まつすぐに申立よと有ければ久八首かうべを垂たれ私し事計はからずも千太郎を締殺しめころし候別段に仔細しさいと申は是無全く誤あやまつて殺せしに相違さうゐ御座なく候と申立るに大岡殿否々只たゞ誤あやまつて殺せしと云ふこと有まじ何成なんなりとも事柄がらを包つゝまず申立よ又六右衞門其方事何等の縁合えんあひを以て此久八をば世話致し居をるや且かつ此度の義に付心當りも是有これあらば申立よと申されし時六右衞門愼つゝしんで頭かしらを上げ私事は生國三州藤川宿に御座候藤川近在きんざいに罷まかり在あり候兄の久右衞門儀先年捨子すてごを貰もらひ請うけ慈いつくしみ養育なし廿箇年以前私し方へ連參つれまゐり何方いづれへ成共奉公致させ呉候樣にとの事に付私し世話致し則すなはち三河町伊勢屋五兵衞方へ奉公住すみ致させ候處一事の誤あやまりも無奉公を大切に勤めし故主人の氣に適かなひ店の支配しはいをも任せられ私し儀も安堵あんど致し居候に昨年不慮ふりよの儀にて永の暇いとまに相成廿餘年の勤功きんこうを水の泡あわとなし其上此度の大罪私しに於ても何故なにゆゑに右樣所業しよげふ致し候哉や更々さら〳〵分明わかり申さず候と申立る依て一同へも段々だん〳〵の手續てつゞき尋問たづねに相成翌日又々久八六右衞門兩人を呼出して猶なほ又調べの處六右衞門申立る樣昨日も申上候通り久八儀誤りにもせよ主人を害がいし候など申儀は私しに於ても一圓合點がてん參り申さす候此度このたびの一條何分にも其意を得難えがたきことに候當時たうじ賤いやしき渡世とせいを致し居候ても正直しやうぢき一三昧まいに出精しゆつせい致し居候と申上ければ越前守殿久八に申さるゝは其方事昨日も尋問たづぬる通り千太郎を害がいしたるには別べつに仔細の有事成ならん其仔細も有あらば包まず有體ありていに申立よと有りければ六右衞門久八に向ひ御奉行樣の仰おほせなり其次第を包まず委細に申立よ千太郎殿の事に付ては取分とりわけ影かげに成なり日向ひなたに成て心を盡つくし又大旦那五兵衞殿へ廿年來律義りちぎに勤て主思ひの聞えも取たる其方成らずや何とて千太郎殿を締殺しめころしたるや我にも更に仔細が譯わからず一伍いちぶ一什しじふを御奉行樣へ申上よと六右衞門の言葉に久八涙を流し只今伯父をぢ六右衞門申上たる通り二十箇年以前五兵衞方へ奉公住仕つり居り候處據よんどころなき譯合わけあひにて私し五十兩の遣つかひ込に相成終に永ながの暇いとまを受候儀に御座候又千太郎儀を誤つて殺害せつがいせしも畢竟ひつきやうは其と云懸いひかけしが口籠ごもり何事も皆前世の約束と斷念あきらめ居候得ば一日も早く御仕置しおきを願ひ上候又伯父樣にも是迄の事と思し召下めしくだされよ兎角とかく不屆ふとゞき者と御憎おんにくしみも候はん殊に長々の世話に預りたる御恩をも報じ申さず未來みらい永々えい〳〵の不孝此上なく是ばかりが殘念ざんねんに候なり何卒此段御勘辨かんべん下されよと首かうべを砂利じやりに摺付暫しばらく泣伏なきふし居たりける越前守殿否いな是これには何か深き仔細ありと見て取られ押返おしかへして如何に久八其方事御所刑しおきの儀は願はずとも遁のがるゝ事に非ず然さりながら公儀こうぎに於ては事實ことがらの分明ぶんみやうならざる上は假にも御所刑しおきには爲給はず其方唯今申たるには千太郎を締殺しめころしたるも必竟ひつきやうはと言しが五十兩の金子の事ならん其五十兩の引負金ひきおひきんと云は如何の譯にて何に遣つかひ捨すてしや有體ありていに申立よとの事に至り久八は元より千太郎の引負金を我身に引請ひきうけたる事情がらを今さら云出せば主人千太郎を締殺しめころしたる而已のみならず同人の惡名迄あくみやうまでも顯あらはすこと本意なしと思ひける故今迄は聊いさゝかも云ひ出さず包つゝみ隱かくして居たりしが段々だん〳〵嚴重げんぢうの尋問たづねに公儀おかみを僞いつはらんも恐おそれありと思ひ定めて漸々やう〳〵顏かほを上げ追々事を譯わけての御尋問に付此上は包まず申上るなり舊もと主人伊勢屋五兵衞事世嗣つぎの男子これなく相應さうおうの養子も有あらばと探索たづねるうち千太郎事を申込候者これ有しに五兵衞持參金ぢさんきんが無なくては不承知ふしようちなる由を承まはり私しより段々と五兵衞へ申進め終に千太郎を養子に致し候儀に御座候然るに千太郎若氣わかげの誤あやまりにて新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱へ遊女小夜衣に馴染なじみし處同人伯父麹町三丁目町醫師村井長庵に小夜衣が身受金也と欺あざむかれ五十兩騙かたり取れ候由其節せつ千太郎の容子ようす怪敷あやしく見受候まゝ私し異見を爲し樣子を承まはり候へば云々しか〴〵なりと申に付千太郎の一時店みせより持出もちいだせし五十兩を私し引負金ひきおひきんと爲なして永の暇いとまになりし節千太郎へ呉々くれ〴〵異見を申以後急度きつと愼つゝしみ候筈に付私し儀も嬉うれしく存じ五十兩の金子は今以て私しより少しづつ返濟へんさい致し居候然るに先日私し事千住の紙屑問屋かみくづくどひやへ參りし途中とちう吉原堤どてにて千太郎が朝歸りの體を見受候まゝ其の節せつも厚あつく異見仕つり必ず遊女通ひ相止候積つもりの處兩三日過すぎ又々土手にて見受候得ども私しの姿すがたを見るや否いな直樣すぐさま横町に隱かくれ候事三度に及び候故餘り殘念に存じ其翌日より千太郎の戻もどり道に待受居をり漸々やう〳〵面會めんくわい致し候間土手下より中反圃まで胸むなぐらを取て連行つれゆき悔くやしいやら悲かなしいやらにて夢中むちうに成萬一もし手を弛ゆるめなば迯出にげいださんとなす故我知らず強つよく押おさへしに過あやまりて咽のどの呼吸こきふを止めしにや息の絶たえたるに驚おどろきつゝ種々しゆ〴〵介抱かいはう成なしけれ共蘇生よみがへる容子ようすも無なく暫時ざんじに冷つめたくなり候まゝ當御奉行所へ御訴へ申上候儀に御座候と申立ければ慈仁じじん無類むるゐの大岡殿ゆゑ忽たちまち久八の廉直れんちよくなるを悟さとられ然も有べし〳〵とて其日は白洲しらすを閉とぢられけり。


第二十五回


 偖さても享保二年四月十八日越前守殿には今日村井長庵が罪科ざいくわ悉皆こと〴〵く調しらべ上んとや思はれけん此度の一件に掛かゝり合の者どもを悉皆のこりなく呼出よびだされ村井長庵は兩度りやうどの拷問がうもんにても白状はくじやうせざる事故身體しんたい勞つかれ果はてかゝる惡人あくにんなりと雖いへども天てん定さだまりて人を制せいするの時節じせつ到來たうらいなし目も當あてられぬ有樣にて繩なはつきの儘白洲しらすの中央ちうあうへ引据ひきすゑられたり次に久八並びに小手塚三次又神田三河町二丁目家持いへもち質しち兩替りやうがへ渡世とせい伊勢屋五兵衞富澤町の古着ふるぎ渡世とせい甲州屋吉兵衞新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七右半藏抱かゝへ遊女いうぢよ文事丁山同人どうにん妹富こと小夜衣石町二丁目甚藏店六右衞門麹町三丁目瀬戸物せともの渡世とせい忠兵衞ならびに同人妻富右町役人共一同御呼出およびだしと相成り右一件願ひ人赤坂傳馬町二丁目長助店道十郎後家みつ悴せがれ道之助右光店請人たなうけにん同所清右衞門右家主長助都すべて掛かゝり合の者殘のこらずにて廿有餘人呼出しに相成偖さて大岡越前守殿千太郎父吉兵衞養父五兵衞兩人の名を呼よばれ其方共そのはうども千太郎の死骸しがい引取ひきとり候節せつ差出さしいだしたる口書くちがきの通り相違はこれ無やと尋問たづねらるゝに兩人如何にも仰せの通り相違御座なく候と申立ければ大岡殿又六右衞門其方儀ぎ久八の申立に付何ぞ證據しようこありやと云るゝ時六右衞門は千太郎より久八へ渡わたし置たる一札さつを目安方めやすかたへ差出しけるに越前守殿熟覽じゆくらん有て長庵に向はれ其方事豫々かね〴〵惡事の段々露顯ろけんに及びたり未だ三次に頼たのんでお安を殺ころさせたる一條並びに札ふだの辻つじに於て弟十兵衞を殺ころしたる儀とも明白めいはくなるに何とて白状はくじやうに及ばざるやと申されるを聞て長庵は猶も恐おそれず勿々なか〳〵以て左樣の事ども更さらに覺おぼえ御座無候程に白状はくじやうなどとは思ひも寄ぬ事なりと大膽不敵だいたんふてきにも白状せざれば越前守殿は丁字屋ちやうじや半藏代人だいにん文七と呼よばれ其方尋問たづねる次第巨細こさいに答こたへ成るやと有に文七徐しづかに頭を上げ私し事半藏の家事を取扱とりあつかひ居候得ば遊女いうぢよに付候事は委細に辨へ居候と申にぞ大岡殿然しからば抱かゝへ遊いう女文事丁山富事小夜衣の兩人は何人の周旋せわにて何れより抱かゝへたるや請人等うけにんとう巨細こさいに申立よと尋問たづねらるゝに文七丁山事は三河國藤川在ざい岩井村百姓十兵衞と申實親じつおやの判はんにて麹町三丁目醫師いし長庵儀は右十兵衞の兄なる由にて受人に相立あひたち召抱めしかゝへ候又妹小夜衣事は十兵衞死後しご成なる故ゆゑに右長庵賣主うりぬしにて小手塚三次と言いふ者受人に御座候と申立ける時越前守殿如何に長庵姉は十兵衞に相頼あひたのまれ賣しならん妹いもとの小夜衣は誰に頼まれて賣渡うりわたせしや長庵答へて弟十兵衞横死わうしの後金子は紛失ふんじつ致し彌々身體しんたい立行難たちゆきがたく十兵衞の妻安に頼まれ賣渡しの節三次を受人に相頼み申候と聊いさゝか憚はゞかる色いろなく申立ければ越前守殿莞爾につこと笑はれ其そりやこそ長庵汝なんぢの口より追々尻しりを割わるではないか有體ありていに申せよと如何なる惡人あくにんとても成丈たけ吟味の上にも吟味致さるゝこそ有り難けれ


第二十六回


 越前守殿には又丁山小夜衣に向むかはれ此長庵は其方共の爲に伯父とは云乍ながら兩親の敵かたきなり遠慮ゑんりよに及ばす心得有事は有體ありていに申立よ猶も妹小夜衣には別べつに尋ぬる仔細しさい有其方が身の代金は母はゝ存生ぞんしやうの内母の手にわたしたるやよも母安へは渡すまじ萬一もし包つゝみ隱かくす時は汝等が身の爲に相成あひならぬぞと有ける時小夜衣は女ながらも心男々をゝしき生質さがなれば大岡殿の詞ことばに隨したがひ私し苦界へ沈しづみし事は父が人手に掛り其上姉の身の代金も奪うばはれしとの事を國元にて聞しより母には氣の違はぬばかりにて國元の家を仕廻しまひ私を連つれて麹町の伯父の所へ來て居し中姉に逢あはしてやると此三次と云人と伯父が申のに欺だまされ丁字屋へ連つれられ行し儘まゝ終つひに身を賣られ是非なく勤つとめ居をりしに其後母は不圖ふと家出せしまゝ行衞ゆくゑが知れぬと伯父が話せし程ゆゑ私の身の代金は母の手へは請取うけとり申まじと申立れば越前守殿然も有あらんコリヤ長庵小夜衣が申立は斯かくの通り成なるぞ然さすれば小夜衣が身賣みうりの事を後家ごけ安より其方へ頼むべき所謂いはれなきにより金子は勿論もちろん安に渡す譯わけなし全く小夜衣が申立る通り其方と三次と申合せ姉に逢あはして遣やると僞いつはりて連出し身を沈しづめしうへ身の代金の三十兩は兩人にて遣つかひ捨すてたるに相違さうゐ有まじ夫故にこそ三次に頼み後の憂うれひを除かん爲又お安をも連出して中田圃に於て殺害に及ばせし成らん右は既に三次が申立にて聢しかと相分り居る處なり如何に三次其方事追々申立たる通り相違なきやとの糺問たづねに三次首を上げ此程申上ました通り十兵衞の後家お安へは妹娘は或屋敷あるやしきへ奉公に上あげたと僞いつはり私しと長庵兩人ふたりで丁字屋へ三十兩に賣代うりしろなし其内私しは長庵より僅わづかに五兩貰もらひ候處お安も其後妹娘の行先ゆくさきが變へんだと思ふたやら兩人の娘に逢あはして呉くれ〳〵と長庵に晝夜ちうやを分わかたず迫せまるより逢せて遣れば化ばけの皮が顯あらはるゝにより娘に逢すとお安を欺あざむき人なき所へ連出し殺して呉くれろと長庵に頼まれたるが因果いんぐわづく中反圃にて殺した始末しまつ思ひ出しても凄ぞつとする是等の話しを爲なす事も兩人の娘へ懺悔也ざんげなりと今眼めの前に見る如く云々しか〴〵是々これ〳〵斯樣ぞとお安が苦痛の死をなしたる其有樣を申立長庵に向ひ此通りだ未練みれんらしくとぼけずと立派りつぱに白状はくじやうしねへかと三次が話はなしを聞よりも思はず知らず聲を揚あげわつとばかりに泣沈なきしづむ母の横死わうしの有樣が眼めに見る樣に思はれて姉妹はらから二人が心の内うち哀あはれと言も餘りあり又長庵は是を聞是三次何を云夫は幾度いくたび云ても汝おのれが殺した話し夫を又此長庵に白状せよと言て仕舞しまへのとは何事ぞ某しに於ては何も言いふことはない如何樣人間の命を取ほど有て不屆ふとゞきの奴なり此長庵は人を助たすくる仁術じんじゆつに此世を送る家業故機をりに觸ふれては定業ぢやうごふにて病ひの爲に死す人を見てゐるさへも不便なるにまして非業ひごふの死を遂る有樣は嘸々さぞ〳〵恐おそろしき事ならん拙者せつしやのやうに氣の弱よわき者などは見たばかりでも氣を失なふぞ如何にも貴樣は肝きもの太ふとき男なり是兩人の娘問ず語りの此三次は二人が母の敵かたきなるぞ能々よく〳〵御奉行樣へ御願ひ申敵を討うつて貰もらふが能よいと懇切ねんごろさうに申聞きけ又居直ゐなほりて御奉行樣私よりも願ひ上ます妹の安は此三次めが殺せしと承まはる上からは直すぐにも打果うちはたすべき奴やつなるに現在げんざい妹の敵と名乘なのるに側そばに居ながら手も出されぬ我が身は如何に口惜くちをしと齒はがみをなすを熟々つく〴〵見られ越前守殿心中に何程なにほど佞奸ねいかん無類むるゐの曲者くせものにても斯迄かくまで強惡がうあくなる奴やつは他に有まじと歎息たんそくされしが其方は惡人に似合にあはぬ未練みれん千萬成なる奴なり安女は小手塚三次が殺したるにもせよその三次をば誰たれが頼たのんで殺ころさせたるや汝おのれ三次に頼んで殺ころさせたれば己れが手を下して殺せしより猶なほ以もつて不屆ふとゞきなり又最前三次と突合せの節三次をば知らぬ者なりと申せしが其後に至り三次は知己ちかづきの趣きに申立る等前後ぜんご不都合ふつがふなり且此程より追々おひ〳〵取調とりしらべる通り八ヶ年以前に弟十兵衞を芝しば札ふだの辻つじに於て殺害せつがいに及び姪めひの文を賣たる金子を奪ひ取夫而已のみならず浪人道十郎へ右の罪科を悉皆こと〴〵く塗付ぬりつけ終に公儀を欺あざむき寃むじつに陷おとしいれたる段證據人忠兵衞が申立の通り聊いさゝか相違なく聞ゆ然るに忠兵衞は恨み有者故右樣の事を申立候などと無體の儀を申掛かけ再度さいど忠兵衞夫婦に罪科ざいくわを負せんと致したれ共既に其方の申口相違致したるに付流石さすがに申論まうしろんずる事能はず恐おそれ入たるには非ずや然る上からは一事が萬事を知るべし此上にも申爭あらそふに於ては猶なほ追々おひ〳〵嚴重げんぢう取調べに及ばねば相成ず重ね〴〵の憎しみを蒙り自身じしんも種々しゆ〴〵の辛き目に逢あはんより事十分に顯あらはれたる上は惡徒は惡徒あくとだけの肝魂きもだまの有者なれば未練みれんと人に笑はれんよりも流石さすがに潔よき長庵と云るゝやうに白状致して仕舞へと段々理非を譯たる名言を飽まで欺く長庵は眞面まがほに成り是は新しき仰せ哉成程忠兵衞が妻富と密通を仕つりしと申上しは私し此度寃むじつの難題なんだいを申し掛られ餘りと申さば無念むねんさに私とても申掛致し候なり其外の儀は恐れ入べき箇條更々之なく何事も仰せの趣おもむきは存ぞんじ候はずと事もなげに陳じける時越前守殿コリヤ長庵然らば其方に猶なほ新あたらしき事を尋問たづぬる箇條かでう有汝ぢ三河町二丁目の伊勢屋五兵衞養子千太郎を欺あざむき五十兩の金を騙かたり取たる段相違なきや此儀は證據人の久八眼めの前に有あり如何々々いかに〳〵と糺問たゞし有ありしに長庵は然さも仰天ぎやうてんせし顏色かほつきして是は〳〵又しても御奉行樣の御難題なんだいばかり私し曾て伊勢屋千太郎などと云名前も知らずましてや五十兩の金子を騙かたり取たなどとは存ぞんじも寄ぬ事にて候又久八とやらん何故に右樣の儀を申立たるや其意更々合點がてん參らす候嗚呼あゝ長庵が重かさなる不運の時節成か斯迄人々に憎にくしみを受る事醫は人を助ける仁術じんじゆつの渡世とせいにて陰徳いんとく有ば陽報やうはうありとの古語も當に成ず口惜く候と獨ひとり言ごとを云を越前守殿汝おのれ此上は眼に物見せんと少しく怒いかりの色を顯あらはされしかば一同の者は顏を見合せ如何なる拷問がうもんに掛らるゝやと長庵を憎にくしみてぞ居たりけり


第二十七回


 又越前守殿は久八の方を見られ如何に久八五十兩の金子を千太郎が是なる長庵に騙かたり取とられたる始末しまつ此所にて逐一に申立べしと有ければ久八は愼んで頭かしらを上げ私舊もと主人千太郎事先般せんぱんも申上たる通り若氣わかげの誤りより新吉原江戸町丁字屋半藏の抱かゝへ遊女小夜衣の方かたへ通ひ詰候處右の長庵事は小夜衣と伯父姪めひの中に候由にて千太郎と知己ちかづきに相成其後千太郎方へ長庵參り申聞候には小夜衣事木場邊きばへんの客人に身受致さるゝにやう相成候得共小夜衣は千太郎の方へ何卒なにとぞ參り度由長庵へ呉々相談なせしと雖も金づくの事ゆゑ何共致し方御座無候間金子五十兩何卒なにとぞ才覺さいかく致しなば親元身受けに成して木場の客の方は相斷わり長庵宅へ小夜衣を受出し置其上夫婦になすべしと僞言ぎげんを千太郎は現在げんざいの伯父の申事故實情じつじやうと心得店の有金の内五十兩取出し長庵へ相渡し兩三日過て千太郎は長庵宅たくへ參まゐり小夜衣の事を申せしに長庵儀右樣の金子預りし覺え無之殊ことに逢あひしことも無なき人ひとなりとて更に取合申さず餘りのことに千太郎段々と掛合に及び候處却かへつて長庵大いに立腹りつぷくなし跡形あとかたも無事を言掛がけ候段不屆き者なりとて散々さん〴〵に打擲ちやうちやくに及び候由右の始末據よんどころなく千太郎は立歸りしかど如何にも殘念ざんねんに存じ居候より再度ふたゝび長庵方へ罷まかり越長庵を刺殺さしころし其身も自害仕つらんと覺悟かくごの機をりから私し樣子を見受け候まゝ取敢す引止其事柄を段々承まはり種々異見仕つり候處全まつたくは小夜衣に心を取とられしより斯かゝる巧たくみに罹かゝりし事故已來いらいは急度きつと小夜衣の事は思ひ切と千太郎申候に付長庵に騙かたり取とられし五十兩は其儘取とられ切に致し其五十兩の金子は則ち私しの引負ひきおひ金に引受候儀に御座候事と委細ゐさいに申立ければ越前守殿小夜衣の方を見られ小夜衣其方事も久八が申立たる事ども覺おぼえ有やと尋問たづねらるゝに小夜衣は長庵が五十兩の金子千太郎より騙かたり取し事は千太郎存生ぞんしやうの節せつ私し方へ參られし折柄委細に聞及びし故甚だ悔くやしく思ひ居候と有體ありていに申立ける程に越前守殿點頭うなづかれ引合の者共悉皆こと〴〵く申立により長庵が惡事あくじ箇條かでう明白めいはくに了解わかりたり因つては猶長庵に問ふ事あり既すでに久八の申立る通りにて相違さうゐ有あるまじきに猶又小夜衣が申立の趣き彌々いよ〳〵以て相違有まじ此上にも陳ちんじ僞いつはるやと膝ひざを進すゝめて申されけり


第二十八回


 古語こごに謂いふ有あり其以てする所を觀み其由そのしたがふ所を觀み其安んずる所を察す人焉いづくんぞ庾かくさん哉人焉いづくんぞ庾かくさん哉爰に僞いつはり飾かざる者有り然れ共其者の眸瞳ひとみの動靜どうせいを察みる時は必ず其眞僞しんぎ現あらはるゝと宜むべなる哉然れ共萬一もし庸人ようじんの奉行となりて強情がうじやう奸曲かんきよくの者を調べるに於てをや或るひは面體めんてい惡氣にくげに心は善良ぜんりやう成なるも有あり或ひに面體めんてい柔和にうわにして胸中きようちう大膽不敵だいたんふてきなる者有所謂いはゆる外面如菩薩げめんによぼさつ内心ないしん如夜刄によやしやと佛ほとけも説給ひし如し然れば其面體めんてい柔和にして形容なりかたちも柔和おとなしやかなる者の言事は自然と直なる樣に聞ゆれども其事は邪心じやしんを含ふくみ工たくめる奸賊かんぞくも有り面體見惡みにくき者の申立る事は言葉續き荒あららかにして詐いつはり飾かざり有ある樣やうに聞え品に因ては裁許さいきよの過あやまりなしとも云難し然れば鎌倉七世の執權しつけん北條時宗を輔佐ほさして問注所もんちうしよの總裁職を勤つとめ美名を後世に傳つたへし青砥あをと左衞門尉藤綱ふぢつなは公事訴訟等くじそしようとうを聞るゝときは必ず眼を閉塞ふさぎて調べられしとこそ聞えたれ抑々そも〳〵越前守殿此長庵を一目見るより此奴こやつは容易よういならざる不敵の者なれば尋常じんじやうの糺問たゞしにては事實じじつを吐はくまじと思はれしにより斯かくは氣長きながに諭さとしながら糺問たゞされしなり然しかりと雖いへども長庵は何事も曾て存ぜずと而已のみ申立口を閉とぢて居ければ此上は詞ことばを以て諭さん樣もなく拷問がうもんに及ぶより外はなしと思はれしなり然れども猶なほ徐しづかに長庵を見られ如何に長庵札ふだの辻つじ人殺ひとごろしの罪つみを道十郎に負おはせし事は既すでに忠兵衞と言いふ證人あり又千太郎を欺あざむきて五十兩の金子を騙かたり取其上千太郎を罵り打擲ちやうちやくに及びし事は久八並びに其方姪めひ小夜衣が申立と符合ふがふして明あきらかなり又弟十兵衞の女房安やすを殺ころさせし事は眼前がんぜんに汝が頼みし無宿むしゆく三次より疾とく白状に及びしことなれば如何に其方鷺さぎを烏からすと爭あらそふとも遁のがるゝことは叶かなはず速すみやかに白状せよと諭さとされければ大膽無類の長庵も最早もはや叶かなはじとや思ひけん見る中に髮髯かみひげ逆立さかだち兩眼りやうがんに血ちを注そゝぎ惡鬼羅刹あくきらせつの如き面おもてを振上ふりあげ一同の者を礑はたと白眼にらみし其形容ありさまに居並び居たる面々めん〳〵何れも身の毛も彌立よだつばかりに思ひ斯かゝる惡人なれば如何成事をや言出すらんと皆々みな〳〵手に汗あせを握にぎりて控ひかへたる其中にも彼丁山小夜衣の兩人はアツといひて砂利じやりに鰭伏ひれふし戰慄ふるひわなゝき居たりけり長庵は齒はをぎり〳〵と噛締かみしめ汝等一同確乎たしかに聞け汝等おのれらは揃ひも揃ひし鈍愚たはけなるに其の智慧ちゑの足たらざるを思はず能よくも我が事を訴人そにんせし者成かな然ながら今日只今迄は假令たとへ骨々ほね〴〵を斷割たちわられ鉛なまりの熱湯ねつたうは愚おろか水責みづぜめ火責ひぜめ海老責えびぜめに成とも白状なすまじと覺悟せしが御奉行樣の御明諭ごめいゆにより今ぞ我が作なせし惡事の段々だん〳〵不殘のこさず白状はくじやうせんと長庵が其決心は殊勝にも又憎體にくていなり


第二十九回


 偖さても越前守殿に於ては夫々それ〴〵確固たしかなる證據人しようこにんの有事を言いはざる奸惡かんあく無類むるゐの大賊に似氣無にげなき卑怯ひけふ者成と思おぼされしに長庵が今ぞ殘らず白状はくじやうなさんとの一言に流石さすが惡徒あくとは惡徒丈だけに了簡れうけんを改あらためし者かと言葉を和やはらげられ白状するとは神妙しんめうの至りなりと申さるゝに長庵眼めを見開みひらき御奉行越前守殿に益えきも無く御骨おほねを折をらすも恐おそれ入ば今こそ殘らず白状爲すなり仍よつて此長庵が身は刑罰けいばつに成なるべけれども魂魄こんぱくは此土に止とゞまり己れ等一同に思ひ知らするぞ其中にも忠兵衞は第一の大恩人だいおんじんなり能よくも〳〵八ヶ年以前のことを事こと新あたらしく今更に道十郎が後家に告口つげぐちなし此長庵が命いのちを縮ちゞめさせたるは忝け無ない共とも嬉うれしいとも禮れいが言盡いひつくされぬ故今は括くゝられた身の自由じいう成ならねば孰いづれ黄泉あのよから汝おのれも直に取殺し共に冥土めいどへ連つれて行ゆき禮を云から待てゐよ必ず忘るゝ事勿なかれと憤怒ふんぬの目眥まなじり逆立さかだつて礑はつたと白眼にらみ兩の手をひし〳〵と握にぎりつめ齒はを喰くひしばりし恐怖おそろしさに忠兵衞夫婦は白洲しらすをも打忘うちわすれアツと云樣立上り迯にげんとするを忽ちに警固けいごの者に引据ひきすゑられ悶絶もんぜつなさぬ計りなり稍やゝ有あつて泣聲なきごゑ出し是申長庵殿御死おしになされし其後にて私し宅たくへ禮れいなどに御出おいで成なさるには及びませぬ私しとても御前おまへには何の恨うらみも無なけれども八ヶ年の其昔むかし天神樣の裏門前で逢あひたる事を圖はからずもお光殿より尋ねられ迂濶うつかり口が辷すべりしを是非ぜひ證人しようにんに立たつべしとお光殿をば同道なし其處そこに居をらるゝ長助殿に談だんじ付られ仕方しかたもなく斯樣かやうのことに成たる譯わけ何樣どうぞ勘辨して下されと兩手を合あはせて泪なみだを流し詫入わびいる體ていこそ笑止せうしけれ長庵は忠兵衞を尻目しりめにかけ默だまれ忠兵衞入いらざる汝なんぢが噪々おしやべりより我が舊疵ふるきずを再發さいはつさせ科人とがにんの身と成し事思ひ知れやと言いひながら奉行ぶぎやうの方に打向ひ割われるばかりの大音だいおん揚あげ是迄爲なしたる我が惡事を逐一ちくいち並ならべて御聞きかせ申さん然さは然さりながら自分でも忘わするゝ程の數々かず〳〵なればお忘れなき樣お聞きゝ下され此長庵は在所なる岩井村いはゐむらに在し頃博奕ばくち崩くづれの喧嘩けんくわより同村に住すむ勘次郎を殺す氣もなく打殺し夫より村方を逐轉ちくてんして此大江戸へ出てより所々しよ〳〵方々はう〴〵の小稼こかせぎは言はずと知れし小盜人こぬすびと盜ぬすみし金や神農しんのうも嘗殘なめのこしたる質種しちぐさを資本もとでに初めし醫者家業いしやかげふ傷寒論しやうかんろんは讀よめねども醫いは位ゐなりとて衣服いふくで驚おどかし馬鹿にて付る藥迄まで舌した三寸の匙加減さじかげんでやつて退のいたる御醫者樣も斯かう成ては長棒ながぼうの駕かごより命いのちをしまい肩がたばつた〳〵と何にもかも夕ゆふべの夢の過たる惡事先第一は現在げんざいの弟を殺して此所こゝに居る姪めひのお文の身の代金しろきんを奪うばひ取たる後腹あとばらは道十郎の傘からかさで廣ひろがる惡事を骨ほねさへ折ず中山殿を欺あざむいて道十郎へ疊たゝみ付つけ又小夜衣を賣代うりしろ爲し身の代金は博奕ばくちと酒と女郎買ひに遣つかひ失なくし其上に又小夜衣の手紙てがみを種たねに伊勢屋の養子やうし千太郎を旨うまくも欺あざむき五十兩と云大金を騙かたり取其外二十や三十の小ちひさな仕事しごとは數かず知しれず兎角とかく惡錢身に付ず忽ち元の木阿彌もくあみと貧乏陶びんばふとくりも干上ひあがる時弟の女房のお安めが娘に逢あはせろ〳〵と毎日々々まいにち〳〵迫せまるのも惡事を働はたらく邪魔じやまなるゆゑ子分の三次に申付殺させたるに相違さうゐなし餘あまり惡事の身代しんだいが能過よすぎるゆゑに年月の過たる事は白状はくじやうするも面倒めんだうなりと申立ければ越前守殿呵々から〳〵と打笑わらはれ汝おのれ長庵永々なが〳〵強情がうじやうに申陳じ居たりしが只今と成て能も自分の惡事に相違なしなどと白状せし者哉併しかしながら先は神妙しんめうのことなりと言れ次つぎに久八に向はれ不便ふびんなるは其方なり如何程いかほど千太郎の惡敷あしくとも主人と名の付つきし者を假令たとへ過あやまりにもせよ締殺しめころしたる上からは五逆ごぎやくの罪は遁のがるゝ道無し然れ共其方の身元は元來捨子すてごなる由最初さいしよよりの事ども篤とくと相尋ね度事なり依て伯父をぢ六右衞門に尋問たづねん其方日外いつぞや一寸ちよつと申上しが猶委細に久八が人と成の始末申立よと有ければ六右衞門愼つゝしんで首かうべを上あげ仰おほせの如く此久八は元三州藤川宿の町外れに捨置すておかれし身に御座候(是これより久八の履歴ことがらは六右衞門が申立の讀續よみつゞきなれども人情にんじやうの貫徹つらぬかざる所も有により讀本よみほんの口調くてうに換かゆれば諸君みなさん怪給あやしみたまふ勿なかれ)


第三十回


 抑々そも〳〵久八は去さんぬ元祿げんろくの頃ころ京都きやうと丸山通りに安養寺あんやうじと云大寺有り其門前町に住て寺社じしや巨商等きよしやうとうへ出入を爲す割烹人れうりにん吉兵衞と云者いまだ獨身どくしんゆゑ妻つまを勸すゝむる者の多かりしが軈やがて良縁よきえん有てお久と呼よばる女を娶めとりけるが容貌きりやう人に優すぐれ殊ことに裁縫たちぬひを能よくし讀書よみかきも拙つたなからず料理人の女房に成なし置おくは勿體もつたい無きなどと見る人毎ごとに言合いひあへる程成ば吉兵衞は一方成ず思ひ偕老同穴かいらうどうけつの契ちぎり淺あさからず暫時しばらく連添つれそふ内うち姙娠にんしんなし元祿二年四月廿八日玉たまの如く成なる男子を儲まうけ夫婦の喜悦よろこび假令たとふるに物もの無く蝶てふよ花よと慈いつくしみ育そだつる中うちに間も無妻つまのお久時の流行はやり風邪かぜを引ひきたるが初めにて一兩日過すぐる中うちに發熱はつねつ甚はなはだしく次第に病やまひ重おもりて更に醫藥いやくの効しるしも無く重症ぢうしやうに赴おもむきしかば吉兵衞は易き心も無なく殊ことに病ひの爲ために乳ちゝは少しも出ず成りければ妻の看病みとりをしつゝ情なさけ有ある家いへへ乳貰ちもらひに赴おもむき漸々やう〳〵にして育そだつれ共乳ちゝの足たらざれば泣沈しづむ子よりも猶なほ悲かなしく思ひ最う此上は神佛しんぶつの加護かごに預あづかるより他事無しと吉兵衞は祇園ぎをん清水きよみづ其外靈場れいぢやうへ祈誓きせいを掛かけ精神せいしんを摧くだきて我が妻の疾やまひ平癒へいゆ成さしめ給へと祈りしかば定まり有ある命數めいすうにや日増ひましに勞つかれ衰おとろへて今は頼み少なき有樣に吉兵衞は妻の枕邊まくらべに膝ひざさし寄よせ彼是かれこれと力をつけ言慰いひなぐさめつゝ何か食たべよ藥くすりを飮のみねといと信實まめやかに看病みとりなせども今ははや臨終いまはの近く見えければ夫婦ふうふ親子の別れの悲かなしさ同じ涙にふし芝しばの起おこる日もなき燒野やけのの雉子きゞす孤子みなしごになる稚兒をさなごより捨すてて行ゆく身みの親心おやごころ重おもき枕まくらを揚あげ兼かねる妻のお久は熟々つく〴〵と夫をつとの顏を打詠うちながめ物ごしさへも絶々たえ〴〵に此子を頼む此子をと云いふ一言ことが此世の餘波なごり涙なみだに濕しめる枕邊まくらべは雨に亂みだれし糸萩いとはぎの流ながれに沈しづむばかりなり然ば男乍をとこながらも吉兵衞は狂氣きやうきの如く歎なげきつゝ斯かくまで妻の顏かほ痩やせて昔に變かはる哀あはれさよと落おつる涙を堰敢せきあへず空むなしき死骸に抱いだき付のう我が妻よ今一度此世に戻もどりて給はれや言事いふこと有ありと臥轉ふしまろび如何いか成なればこそ此如このごとく果敢無はかなき縁えにしに有りしやと呼よび叫さけべど答へさへ泣なきゐる我子を抱上いだきあげ今日より後は如何にせん果報くわはう拙つたなき乳呑子ちのみごやと聲を放はなつて悲かなしむを近所の人々聞知りて追々おひ〳〵集あつまり入來り悔くやみ言いひつゝ吉兵衞に力を付て一同に通夜迄もなし翌朝よくあさは泣々なく〳〵野邊のべの送おくりさへ最いと懇ねんごろに取行なひ妻の紀念かたみと孤子みなしごを漸々やう〳〵男の手一ツに育そだてゝ月日を送りけり


第三十一回


 偖さても吉兵衞は素もとより富とめる身ならねば乳母うばを抱かゝゆべき金力ちからも無なく情け有家へ便たより腰こしを屈かゞめて晝夜を分わかたず少し宛づつの貰もらひ乳ぢを成なし又は乳ちゝの粉や甘酒あまざけと一日々々を送る體さま側眼わきめで見てさへ不便ふびん成なるに子の可愛かあいさの一筋に小半年程ほど過すごせしが妻のお久が病中より更に家業も成ぬ上死後しごの物入ものいり何や斯かやに家財雜具を賣喰うりぐひなし迂濶々々うか〳〵活計くらして居たりしが吉兵衞倩々つく〴〵思ふ樣獨身成ば又元の出入の家々へ頼みても庖丁はうちやうさへ手に持もつならば少しも困こまらぬ我が身なれど此兒の有故家業かげふも出來ず此上居喰にする時は山をも空むなしく失なくなす道理だうり子供を何處どこへか遣やり度たくも些ちつとは金子を付ざれば貰もらうて呉る人もなし又貰もらひ乳ちゝに行度にも初めの程は機嫌能きげんよく呑のませて呉し家にても今日は用事で他行たぎやうせり今朝けさから風邪ふうじやの心地こゝちにて乳ちゝの出樣も少なく成宅うちの子にさへ飮足らねば御氣の毒だと斷ことわりを言れて戻る其そのつらさ斯かくては終に親子共餓死がしより外に目的めあてなし如何成ばこそ斯迄に哀あはれの身とは成けるぞや思おもひ廻まはせば運まはす程妻のお久に別わかれしが此身の不運ふうん不幸ふかうぞと思案に暮て居たりしが所詮斯樣の姿にて故郷こきやうに恥はぢを晒さらさんより寧いつそ江戸の淺草にて水茶屋渡世の甚兵衞は從弟いとこの縁えんもある事故彼を便たよりて行ならば又能よき手段しゆだんも有べきやと心の内に思ひを定め賣殘したる家財かざいを集め金に換かへつゝ當歳の子を懷ふところに住馴し京都の我が家を立出て心細くも東路あづまぢへ志ざしてぞ下りけり元より馴なれぬ旅と云殊に男の懷ろに當歳の子を抱きての驛路うまやぢなれば其辛つらさは云も更なり漸々にして大津の宿を辿たどり過すぎ打出うちでの濱を打越て堅石部かたいしべや草津宿草枯時くさがれどきも今日と暮くれ明日あしたの空も定め無き老の身ならねど坂の下五十三次半ば迄懷ふところの兒に添乳そへぢを貰ひ當なき人の乳を當に行先々の氣配りに難儀なんぎ艱難辛苦かんなんしんくとも云いはん方なき事どもなり漸々にして三州岡崎迄は來きたれども素もとより手薄てうすの其上に旅の日數も重なれば手當の金子かねをも遣込つかひこみ殘のこり少なに成ける程に心は彌猛やたけに思へども猶なほ如何に共爲せん術すべなく必竟ひつきやう斯る難澁なんじふに及ぶと云も兒の有故身の振方ふりかたも成ぬなり此上親子おやこ餓死うゑじにに成行事の悲かなしさよ寧いつそ此子も妻諸共に死んで呉くれなば此樣に今の困苦こんくはせざりし者と泣々なく〳〵頼たのむ貰もらひ乳の足ぬ勝がちなる養育やういくに繋つなぐ我が子の玉の緒をの細ほそくも五體たい痩やせながら蟲氣むしけも有ぬ健すこやかさ縁えん有ればこそ親子と成何知らぬ兒に此憂苦いうくを見するも過世すぐせの因縁いんえん成なるか不便の者をと嘆かこちしが我から心を鬼になし道途だうとに迷ふ親の身を助たすかる手便てだては此乳子ちごを捨るより外に思案なしと我が子の寢顏ねがほを打詠ながめ涙ながらに心を定め其處よ彼處かしこと思へ共竟つひに其日は捨兼て同じ宿なる棒端ぼうばなの境屋さかひやと云旅籠屋はたごやに一宿なして明の朝此所の旅店やどやを立出て人の往來ゆきゝの無中に疾とく捨すてなんと右とつ左おいつ其場所がらを見歩行みあるく折をりから早藤川にさし掛り夜も良やゝ白しらむ頃なれば宿外やどはづれなる或家の軒端のきばの下に寢たる子をそつとさし置たち出しが又立もどり熟眠うまひせし其顏熟々つく〴〵打ながめ偶々たま〳〵此世で親と子に成し縁えにしも斯ばかり薄うすき契ちぎりぞ情なし然ど汝なんぢを抱へては親子が畢つひに餓うゑ死に外に爲せん術すべなきまゝに可愛いとし我が子を捨るぞや強面つれなき親おやと怨うらみなせぞ只たゞ此上は善人よきひとに拾ひ上られ成長せば其人樣を父母と思ひて孝行かうかう盡つくすべしと暫時しばし涙に昏くれたりしが斯かゝる姿を他の人に見咎みとがめられなば一大事と二足三足去さり掛かけしが又振返りさし覗のぞき嗚呼あゝ我ながら未練みれんなりと心で心を勵はげましつゝ思ひ極めて立去けり


第三十二回


 夫生いきとし生る物子を愛せざるはなし燒野やけのの雉子きゞす夜よるの鶴つる皆子を思ふが故に其身の危あやふきをも顧かへりみず況いはんや萬物の靈れいたる人間界にんげんかいに於てをや然るに情け無くも吉兵衞は妻の死去せしより身代をば仕舞しまひ住馴すみなれし京都みやこを後あとになし孤子みなしごを抱かゝへて遙々はる〴〵東あづまの空そらへ赴おもむく途中とちう三州迄は來たれども殆ほとんど困窮こんきうに迫せまり餘儀なく我が子を藤川宿の町外れに捨すてたるは是非もなき次第なり嗚呼あゝ勿體もつたいなくも一天てん萬乘ばんじようの皇帝おほぎみも世の中下樣しもざまの人情にんじやうを知ろしめされ賜うて後水尾帝ごみづをていの御製ぎよせいに「あはれさよ夜半よはに捨子すてごの泣なきやむは母にそへ乳ぢの夢ゆめや見つらん」とは夜更よふけて外面そともの方に赤子あかごの泣聲なくこゑの聞えしは捨子にやあらんと最と哀あはれに聞えたりしが兎角するうちに彼泣聲なきごゑの止たりしかば如何せしやらんと思ひぬるうち又もや泣出しける程ほどに扨さては今いま暫しばし泣止なきやみしは捨すてられし子の夢心ゆめごころに我が母に添乳そへぢせられし所をや見し成んと一入ひとしほ哀あはれのいやませしと言つる心の御製なり又芭蕉翁ばせをおうの句くにも「猿ましらさへ捨子すてごは如何いかに秋あきの暮くれ」是や人情にんじやうの赴く處なるらん扨さて又藤川宿にては夜明て後のち所の人々ひと〴〵此捨子を見付村役人に屆けなどする中一人の旅僧たびそう鼠ねずみの衣ころもに麻あさの袈裟けさを身に纒まとひ水晶すゐしやうの珠ず數ずを片手かたてに持もち藜あかざの杖つゑを突て通りかゝりけるが此捨子を見て杖つゑを止め頓やがて立寄りつゝ彼小兒せうにの袖そでを廣ひろげ腰こしなる矢立を取出して筆ふで清きよらかに認したゝめられしは「汝なんぢ父に疎うとまれしに非らず母に疎うとまれしに非あらず父母捨すてるに非ず自分の薄命はくめいなり元祿二年九月貧暦ひんれき」と書付て其儘まゝに行過ゆきすぎける兎角とかくする内に村方の役人其外大勢の人集あつまりて地頭ぢとう代官所へ訴へ出ければ役人方見分けんぶんの上捨子の儀は村方へ養育申付られ小兒は村方預りと成たるに同村の百姓久左衞門と云者有しが妻出産しゆつさんの後のち間まも無く其子病死なし最いと本意無く思ひける所乳のあるより村役人に頼まれて此の捨子を預あづかり養育やういくせしに追々馴染なじむにつれ愛あいも優まさりしかば寧いつそ此子を貰もらひ受んと夫婦相談の上村役人に申入しにぞ早速さつそく其筋そのすぢへ屆け濟ずみの上米三俵を添そへて彼捨子を久左衞門へ遣つかはしける依て名をも久八と附て夫婦の寵愛ちようあい淺あさからず養育しけるに一日々々と智慧ちゑ付つくに隨したがひ他所よその兒に優まさりて利發りはつなるにより末すゑ頼母敷たのもしき小兒せうになりと慈いつくしみける中月立年暮て早くも七歳の春を迎むかへ手習てならひに通かよはせけるに讀書よみかきとも一を聞て十を知り兩親りやうしんの言葉ことばを背そむく事無孝行を盡つくす故夫婦の歡よろこび一方ならず久八も手習てならひより歸れば何時も近所の子供と遊びけるが折をりに觸ふれては少しの爭あらそひより友達ともだち子供等が久八の捨子々々と云ければ何とて我が事を捨子々々と云やらんと泣顏なきがほにて我が家へ歸へり久左衞門夫婦に向ひて友達衆ともだちしうが喧嘩けんくわがてらに私しの事を捨子々々と毎度言罵いひのゝしるは何故にやと不審氣いぶかしげに尋たづねられ久左衞門夫婦は顏見合せ暫時しばし默もくして居たりしが涙なみだを流ながし何故いかにも道理もつともなる尋ねなり今日まで云ざりしが實じつは其方事七年前藤川宿の町外まちはづれに棄すてて有しなり其時其方の袂たもとに書付かきつけて有しは是なりと彼の僧そうの落書らくがきまで殘り無物語に及びければ久八は子供心に我が身の上を初めて知り棄子すてごと云るゝを深く恥はぢたりけん其後は手習を我が家にてなし遊びにも外へ出行いでゆくことなく柔和おとなしやかに母の手傳ひをして我が家の内に遊び居るを養父母も其の樣子を見て取頻しきりに其心根を不便に思ひ夫婦相談の上江戸表へ連行つれゆきて奉公にてもさするならば立派りつぱな人に成もやせん幸さいはひ弟六右衞門が江戸本石町二丁目に渡世して有ければ是へ往て頼み何れへ成とも奉公に出いださんものをと忽ち心一決けつ爲し久左衞門は軈やがて江戸へと久八を連て下り弟六右衞門に逢あひて事の仔細を委敷くはしく話し頼み置つゝ歸りけり因よつて六右衞門所々しよ〳〵を聞合せけるに神田三河町二丁目にて彼質かのしち兩替渡世とせい伊勢屋五兵衞方にて子供を抱かゝへたきよしを聞込早々頼み入れ吉日を撰えらんで奉公にぞ遣つかはしける

第三十三回


 然しかるに此伊勢屋五兵衞と云は古今稀ここんまれなる吝嗇りんしよく人にて其吝しはき事譬ふるに物なく所謂いはゆる爪つめに火を燈ともすとの例たとへの如くなれば召使めしつかふ下女下男に至る迄一人として永く勤つとむる事なく一季き半季はんきにて出代る者多き中に久八而已のみ幼年えうねん成と雖も發明者にて殊には親に棄られたる其身の不幸を心に忘わすれず何事も主人五兵衞の心に恊かなふ樣に萬事に心を配くばり曾て外々ほか〳〵の者とは事變り其辛抱は餘所目よそめにも見ゆる程なれば近所近邊の者に至る迄まで伊勢五の忠義ちうぎ者々々〳〵と評判高く一年々々と年とし重かさなりて終に二十年を送りける故吝嗇りんしよく無類むるゐの五兵衞さへ萬端久八に任せ主人に代りて取扱とりあつかふ樣に成りけるに彌々いよ〳〵人々賞美しやうびして伊勢五の白鼠しろねずみと云れて店向の取締りをも爲すこととなりたりけり因て右捨子の次第を具さに六右衞門より申立ければ大岡殿熟々つく〴〵と聞れ再び尋問たづねられんとせし時白洲の端はしに控ひかへし彼富澤町の古着ふるぎ渡世甲州屋吉兵衞は先刻せんこくより久八六右衞門兩人の申立を聞きく度たび毎ごとに膝ひざを進めて驚怖おどろきながら久八の顏かほをじろ〳〵と打詠うちながめ居たりしが今六右衞門が詞ことばの切きれたるを見て恐おそれながら申上ますと正面へ進み出頓やがて越前守殿に向ひ久八事私し二男千太郎を締殺しめころせしと自訴じそ仕つりしと雖も全まつたく殺ころしたるに非ず千太郎事一體たい幼少えうせうの頃より持病に癲癇てんかん有之候故其場にて右の病ひ差發さしおこり候儀と存じられ候且つ又千太郎儀は久八の恩義を格別に受居しこと成れば勿々なか〳〵以て意趣いしゆ意恨いこんなど有べき樣御座なく候により私しに於て更々さら〳〵恨うらみとは存じ申さず候就ついては格別の御慈悲じひを以て久八助命じよめい仰せ付られ下し置れ候樣偏ひとへに願ひ上奉つり候と頻りに繰返し〳〵願ひ立ける程に有合一同の者共昨日迄何とも言ざりし吉兵衞が俄にはかに遮さへぎつて助命を願ふ事最いと不審いぶかしくぞ思ひける扨も此甲州屋吉兵衞と云は其已前京都丸山安養寺あんやうじ門前に住居せし彼の料理人吉兵衞にして東都へ下くだる砌みぎり藤川宿の外はづれへ小兒を棄其後江戸表へ出て從弟いとこの甚兵衞を頼み所々方々の料理の手間取をして居たる中上野の山内へ出入となり四軒寺町本覺院ほんがくゐんの住寺の贔屓ひいきに預あづかりたり此寺の和尚と云は彼の藤川宿にて先年棄子すてごの袖そでへ落書らくがきなしたる僧そう成なりしが或日吉兵衞へ行脚あんぎやせし頃の物語りより彼の藤川宿に於て棄子すてごの袖そでへ落書らくがきなしたる事を話けるに吉兵衞心に驚おどろき夫は何時頃いつごろの事なるやと尋問たづねければ和尚は指折算ゆびをりかぞへ元祿二年九月の事なりと聞より吉兵衞は涙を浮うかべ其子を棄たるは則ち私しなり其事情そのことがらは云々しか〴〵斯樣々々かやう〳〵の貧苦ひんくに迫せまり現在げんざい我が子を棄たりと我が身の罪をも打忘うちわすれて懺悔ざんげなすにより和尚も奇異きいの事ことに思ひ夫より別して吉兵衞を贔屓ひいきになし富澤町古着渡世甲州屋とて身代しんだいも可成かなりなる家へ入夫いりむこの世話致されたり其後吉兵衞夫婦の中に男子二人を儲け兄を吉之助と名付弟を千太郎と呼昨日きのふに變かはる身代となり我が身の安心なせしに付ても其昔むかし京都にて妻のお久の不仕合ふしあはせ又藤川の宿外はづれへ棄すてし我が子は其後如何になりしや情なさけある人に拾はれ育そだちしかと種々しゆ〴〵手を盡つくし探索たづねしかど更に樣子のしれざりしに今六右衞門の物語りにて久八社こそは彼の時に棄すてたる我が子に相違さうゐなしと心の中に分明わかりし故ゆゑ頻しきりに不便ふびん彌増いやまして只管ひたすら命いのちを助け度思ふ心の迫來せきくれば訴へ事も後あとや先さき揃そろはぬ詞も道理だうりなり


第三十四回


 却説かくて甲州屋吉兵衞は廿有餘年いうよねんの其昔し東海道の藤川宿へ貧苦ひんくに迫せまつて棄すてたる我が子に場所も有あらうに白洲しらすにて再會さいくわいせんとは思ひきや夢かとばかりに思はれて後先も無く突然いきなりと助命じよめいは願へど流石さすがにも久八事ことは私しの悴せがれなりとも云出し兼然さりとても又棄置すておく時ときは五逆の大罪遁るゝ道なし此身を棄ても歎願たんぐわんせねば第一死しんだ母親の位牌ゐはいの前へも言譯なし久左衞門とか云人の情なさけによりて斯かく迄に成人ひとゝなりたる者なるか親は無とも子は育そだつとの諺言ことわざも今知られけるとは云物の是迄は苦勞くらう辛苦しんくを爲し續つゞけ現在げんざい弟の千太郎の事を思ひて紙屑かみくづを買かふ身みと迄に零落おちぶれても眞の人に成んと思ひ赤心こゝろの誤よりも息いきの根の止たを直樣すぐさまに自ら訴へ主殺しの御所刑しおき願ふ氣なげさよ我が子で有ぞ可愛かあいやと抱いだきも仕度親心立派りつぱな男も三歳兒つごの樣に思はるゝのが子を思ふ人の習ひぞ無理ならじ吉兵衞は嬉うれしいと悲かなしとにて前後揃そろはぬ助命願ひには越前守殿は何か此助命じよめい願ねがひには深ふかき譯わけの有事ことやと英才深智の奉行にも事の仔細しさいの分り難く暫時しばらく頭かうべを傾かたぶけ居らるゝ折柄をりから猶なほも吉兵衞は聲こゑ震ふるはし只今も申上奉つりし通り二男千太郎儀は全く持病ぢびやうの癲癇てんかんを發したることゝ心得候へば久八の仕業には決して御座なく候殊には現在げんざい千太郎の親たる私しより斯かく願ねがひ上る上からは聊いさゝか以て久八を恨み申べき存念ぞんねん之なく候よしや然さなく候共千太郎が身持を直さん爲に異見いけんをなし誤あやまつて斯樣の時宜に立至りたる事なれば久八に害心がいしんなきは素もとよりの儀に御座候依て私しより助命じよめい只管ひたすら願ねがひ上奉つり候と申立ければ越前守殿悉皆こと〴〵く打聞うちきかれ如何に其方久八が助命の儀を願ふと雖も其は思ひも寄ず假令たとへ平生へいぜい何樣どのやうに忠義を盡せしことの有しにもせよ主人の悴せがれを過あやまつて締殺しめころしたるには相違なし然る上は容易ようい成ならざる罪人つみんどなり嚴重げんぢうに申付るは天下の大法たいはふ公邊こうへんの掟おきてなり餘の儀に付て慈悲の取計らひを願ふこと成ば兎も角も計らひ方有べけれ共主殺しゆごろしの大罪を差免さしゆるすとは相成ず然るを強て申立ること其方は町人の身故に公儀おかみの御定法を相辨わきまへぬ所なり得手えて勝手かつて而已のみ申立るなり如何樣汝が願ひに及べばとて天下の御定法には替難かへがたしと申さるゝを吉兵衞再々應さい〳〵おう押返おしかへし否々いへ〳〵久八ことは主人を殺し候と申譯にては決して御座無候と何時までも同じ事を繰返くりかへし〳〵何の憚はゞかる色も無く申立ければ居並びたる人々甚はなはだ氣の毒どくに思ひ這こは物に狂くるひしか吉兵衞御奉行樣の御前にて主人の養子千太郎を締殺しめころしたりと自訴に及びし久八を主殺しには之無と云は何事ぞや此上如何なる御叱しかりを蒙かうふりやせんと皆々みな〳〵安やすき心も無き所に越前守殿には大いに不審いぶかられ是吉兵衞久八ことは千太郎を締殺しめころしたる趣きを當人たうにんの口より申立之有處に却つて其方一人遮さへぎつて主殺しには之無と申立ること其謂いはれ有やと言葉和やはらかに尋たづねられければ吉兵衞は先年の始末今更申立るも恥の上の恥とは思へども久八が命いのちには代難かへがたし然さりとて外に申立べきことも無なく途方とはうに暮くれて居たりけり


第三十五回


 扨さても吉兵衞は今ぞ大事と思ひ切きり愼つゝしんで又々申立る樣素もとより久八と千太郎とは兄弟に御座候と顏を赤あからめて云ければ越前守殿是を聞れ吉兵衞其方は狂氣きやうきにても致したるや取留とりとめもなきこと而已のみ申奴やつかな然ながら千太郎は久八と兄弟なりとは如何の譯にて右樣の儀を申立るや一圓合點がてんの行ぬ事なり其仔細しさい有ば申すべしと云れしかば吉兵衞答ふる樣右の次第は事長々なが〳〵込入候儀にて全體ぜんたい私しは京都きやうと下しも四條の生れにして其後丸山安養寺門前に住居致し候砌り一人の男子を儲まうけ候處間もなく妻久こと病死致し候に付病中の物入葬送さうそうの雜費等ざつぴとうにて貧苦ひんくに迫せまり何分小兒の養育も致し難く御當地に一人の從弟いとこ之有候間彼を便りて國元を出立しゆつたつ致し東海道を罷り下り候へども道中の事故小兒の乳ちゝに困こまり果はて旅費りよひの貯たくはへとても殘のこり少なに成なり漸々やう〳〵三州藤川宿迄で參りし折柄不便ふびんには候得共餓死がしせんよりはと存じ同宿の町外まちはづれへ棄兒すてごに仕つり候然るに只今六右衞門久八兩人よりの申立を承まはり久八は豫て探索たづねる我が子なることを知り驚おどろき入申候尤もつとも其時の證據と申は其後御當地上野の御山内四軒寺町本學院の和尚をしやう先年私し藤川宿へ棄兒すてごせし跡あとへ通り掛り棄兒を見て其袖そでへ落書らくがきいたし候由其儀は只今兩人の者より申上候通りなり然るを私し不思議にも本學院の住職ぢうしよくより右樣の次第を承うけたまはり及び候に付其以來それいらい種々いろ〳〵手を替かへ品しなを替かへ相尋あひたづね候へども更に行方相分り申さず猶又其後私し事は當時の家へ入夫仕にふふつかまつり兩人の子供も持即ち兄を吉之助弟を千太郎と名付候儀に御座候右の久八は藤川宿へ私し棄すてたる子に候其上本學院殿の落書らくがき且かつ又また年月日迄も符合ふがふ仕つる上は紛まがふ方無き私し惣領そうりやうの悴せがれに相違さうゐ御座無く候夫故久八は千太郎の爲には兄に候間兄弟と申上候右久八の儀は今日只今始めて承知仕つり候實々じつ〳〵私しも驚き入候なりと申立ければ大岡殿威猛高ゐたけだかになられ汝おのれ吉兵衞其方は不埓ふらち成ことを申立る奴やつかな汝ごときの者何事も辨わきまへざると覺おぼえたり抑そも棄子すてごを致したりと有ては容易ようい成ざる罪人なり然るを何ぞや汝が罪をも思はず右樣申立るは畢竟ひつきやう久八へ千太郎より恩義おんぎを報じさせんとの存意にて右樣の儀を申立久八の助命を願ひしことゝ覺おぼえり詐いつはりを構かまへ公儀を欺あざむかんとする段不屆き至極なり久八は全く主殺しに相違無しと大いに叱しかれしは越前守殿の心の中如何思されてのことやらんと吉兵衞も恐おそれ入てぞ控ひかへける


第三十六回


 仁智じんち明斷めいだんの大岡殿も久八が助命じよめいの儀を甲州屋吉兵衞俄にはかに願ひ出たるは如何成なる事情ことがら有ての儀やと勘考かんかうせられし處今吉兵衞が長々なが〳〵しき申立を奇異きいのことに思はれしが再度ふたゝび熟考じゆくかうあるに久八が千太郎を縊殺しめころしたるは全く實意じついよりなせし過あやまりにして自ら訴へ出御仕置しおきを願ふ所にて恨うらみも晴はれたれば一ト通りの歎願たんぐわんにてはとても助命覺束おぼつかなく思ひ六右衞門の申立たる棄子に事寄吉兵衞が差當りての作意さくいにて斯かゝることをや云ひ出たるものならんかと一時は思はれけれども又篤とくと容子ようすを見らるゝに全く詐いつはりにもあらぬことを悟さとられ殊ことに慈善じぜんを第一に天下の爲下民の安全を心掛らるゝことなれば久八が過あやまつて縊殺しめころせしと云ひ無證據むしようこのことなるを自訴じそせしにて赤心せきしんの顯あらはれたれば如何にもして助け遣はし度と心を勞せられし折からなれば是これ幸さいはひと越前守殿工夫有つて重ねて吉兵衞を見られ然らば汝が言いふ通り久八は全く主殺しとは治定ぢぢやう致すまじ又其方の棄子すてごにして實じつの悴せがれと云ことは生前の儀なれば更に取上る處なし又千太郎儀五兵衞方へ參り居候とは申ながらいまだ養子やうしに遣つかはしたると云には有まじ畢竟ひつきやう當人の樣子柄がらをも五兵衞方にて見屆け其上にて養子に取極めんと奉公人同樣に遣つかはし置おきたることならん然すれば久八が爲に千太郎ことは傍輩はうばいにして未だ主人とは申難し其傍輩はうばいの千太郎の身持を直さんとて誤まつて呼吸こきふを止たると有からは罪科ざいくわも大いに相違なり如何に五兵衞其方と千太郎が樣子柄がらを見屆ける迄は奉公人同樣どうやう召使めしつかひ置しに非ずやとの仰せに五兵衞はハツとばかりに平伏へいふくなし如何にも仰せの通りに御座候と答へ申けるに依て久八が主殺しゆごろしの廉かどは越前守殿の明斷めいだんに依て遁のがれる緒いとぐちにこそ成にける


第三十七回


 猶なほ又大岡殿五兵衞へ尋問たづねらるゝ樣千太郎儀は吉兵衞方より奉公に遣つかはし置おきたるを先達せんだつてより悴又は養子やうしなどと申立しは往々ゆく〳〵養子にも致す了簡れうけん故に右樣申立たる者ならんと有ければ五兵衞は直すぐさまぬからぬ顏かほにて仰せの通り千太郎ことは矢張やはり奉公人に召仕めしつかひ居候得共往々ゆく〳〵は養子に致し申べく所存に御座候事故ゆゑ折々をり〳〵養子又は悴などと申上候段誠まことに恐おそれ入奉つり候と越前守殿の云れし通りを申立けるこそ笑をかしけれ扨さしも種々いろ〳〵樣々さま〴〵に縛もつれし公事くじ成りしが今日の一度にて取調べ濟すみに相成口書の一段だんまでに及びけり嗚呼あゝ善惡ぜんあく應報おうはうの著いちじるしきは索あざなへる繩なはの如しと先哲せんてつの言葉ことば宜むべなる哉かな村井長庵は三州藤川在岩井村に生立おひたちて幼年えうねんの頃より心底こゝろざま惡あしく成長するに隨したがひ惡行あくぎやう増長ぞうちやうして友達の勘次郎と云者を謂いはれ無く撲殺うちころし村方を逐轉ちくてんして江戸へ出小川町竹田長生院方へ奉公に住込すみこみ奉公中竊鼠々々こそ〳〵物を盜ぬすみ溜ため其後麹町へ醫業を開き一時僥倖さいはひを得ると雖も忽たちまち病家びやうかも無なりしより惡漢者しれものを集あつめて博奕宿をなし在所ざいしよより遙々はる〴〵と便たより來りし弟十兵衞を芝札の辻に於て殺害し年貢ねんぐの未進みしんに血の涙なみだにて娘文を苦界くがいへ沈めし身の代金を奪うばひ取て其罪を浪人藤崎道十郎に巧言かうげんを以て負おはせ又妹お富を欺だまして同じ丁字屋へ賣渡し身の代金を掠かすめとり其上に母のお安を三次に頼たのみて殺させ加之しかのみならず千太郎を欺あざむきて五十兩の大金を騙かたり取猶又同人を打擲ちやうちやくなし其數々の惡事一時に露顯ろけんして言破いひやぶること能あたはず終に口書こうしよ爪印つめいんをなすに至る又伊勢屋五兵衞元もと召使めしつかひ久八の如き忠義は町人にめづらしき者なれど過あやまつて主殺しうころしの大罪だいざいを犯すに至れること恐るべき次第なり然されども天てん誠まことを照てらし給ふにより大岡越前守殿の如き賢けん奉行の明斷めいだんに依て遁のがれ難き死刑一等を宥められ豆州づしう八丈島へ流罪ながされ存命ぞんめいせしも長庵の大罪に處せられけるも善惡ぜんあく應報おうはうの然らしむる所にして敢あへて珍めづらしからず

享保二年六月廿八日一同申口まをしくち調しらべ上あげと相成同日長庵始め引合の者共白洲へ呼込よびこみになり越前守殿高たからかに刑罰けいばつ申渡されける其次第は「三州藤川在岩井村無宿當時江戸麹町三丁目重兵衞店作藏事町醫師村井長庵五十三歳 其方儀そのはうぎ三州藤川在岩井村に罷まかり在候砌みぎり同村に於て百姓勘かん次郎を殺害せつがいに及び國元を脱走かけおち爲なし當地へ罷まかり出小川町邊へん武家奉公ぶけほうこうに身分を詐いつはりて住込すみこみ奉公中所々にて金銀きんぎん衣類等を盜ぬすみ取右の金を資本もとでとして當時の住所へ借宅しやくたくなし醫業を表に種々の惡事を働はたらき第一弟十兵衞國元に於て年貢ねんぐの未進みしんに差迫さしせまり娘文を其方が世話を以て遊女に賣し身の代しろ金四十二兩を持て歸國の節せつ丑刻やつの鐘かねを寅刻なゝつと詐いつはり出立させ置後より見え隱かくれに忍しのび行芝札の辻にて同人を欺だまし討になし其金を奪うばひ取とり夫それ而已成のみならず文妹富を欺あざむきて遊女に賣渡し同人の身の代金三十兩をを掠かすめ取とり其後十兵衞後家ごけ安やすを己れが惡事露顯ろけんを覆おほはん爲三次へ頼みて淺草中田圃なかたんぼにて殺害に及ばせ又神田三河町二丁目家持いへもち五兵衞召使めしつかひ千太郎より五十兩の金子を騙り取候而已成のみならず同人を打擲ちやうちやくに及び剩あまつさへ惡事の證人忠兵衞夫婦へ無實むじつの難題なんだいを申懸かけ邪舌じやぜつを以て罪科を負おはせんと工たくみ右の金子は殘らず酒喰しゆしよく遊興いうきように遣捨つかひすて候段だん重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付町中引廻ひきまはしの上獄門」「武州小手塚村無宿一名早乘事三次三十七歳 其方儀ぎ所々しよ〳〵に於て小盜こぬすみ致し其上麹町三丁目町醫村井長庵に同意爲し淺草中田圃なかたんぼに於て三州藤川在岩井村百姓十兵衞後家ごけ安やすを殺害せつがい致し其外種々しゆ〴〵右長庵に加擔かたん致し惡事相働あひはたらき候段不屆至極しごくに付獄門ごくもん」「神田三河町二丁目家持五兵衞元召使三州藤川在岩井村百姓久左衞門悴當時本石町二丁目甚兵衞店六右衞門方同居久八二十九歳 其方儀元主人五兵衞召使めしつかひ千太郎身持みもち放埓はうらつに付其方兄分の好身よしみを以て千太郎が朝歸りの折柄をりから新吉原土手にて其方行逢ゆきあひ見るに忍びず異見いけんを爲すこと數度すどに及び千太郎面目めんぼく無なさに逃にげんと爲すを其方取押とりおさへるはずみに咽喉のどの呼吸こきふを停とゞめ相果あひはてたる赴き畢竟ひつきやう傍輩はうばいの心實より爲したる事實と相聞え加ふるに千太郎實父じつぷ吉兵衞外一同よりも助命を願ひ出又其方こと速すみやかに自訴じそに及びし段神妙しんめうに付死一等を許ゆるされ豆州づしう八丈島へ遠島ゑんたう申付る」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏代文七 其方儀先年召抱かゝへ候文こと丁山儀は人主ひとぬし請人夫々相違之無候に付年季ねんき勤つとめ上し上は勝手かつて次第たるべし妹富こと小夜衣儀は同人伯父をぢ村井長庵と無宿むしゆく三次と申合せ母はゝ安やすを欺あざむき賣代うりしろ成せし處聢しかと身元請人等相調べず抱かゝへ置候段行屆かざるに付過料くわれう三貫文申付る尤も小夜衣事は直すぐに證文差許さしゆるし岩井村百姓十兵衞身寄みより太郎作へ引渡し遣つかはすべし」「新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏抱遊女ふみ事丁山 富とみ事小夜衣 其方共主人へ右之通り申渡し置おき候間心得こゝろえとして聞置きけおく」「三州藤川在岩井村百姓十兵衞亡身寄太郎作 其方身寄十兵衞二女富こと小夜衣さよぎぬ儀は新吉原江戸町二丁目丁字屋半藏より此度其方へ引渡し遣つかはし候間世話せわ致し遣つかはすべし」「赤坂傳馬町二丁目長助店元麹町三丁目浪人藤崎道十郎後家願人みつ 其方儀願ひ出候目安めやすを取調とりしらべる處事實じじつ相違さうゐ無之これなく且かつ永年えいねん夫をつと無實むじつの罪科ざいくわに逢あひしを歎なげかは敷しく心得貞節ていせつを相守り悴道之助養育やういくに及び罷まかり在候段神妙しんめうの至りに候之に依て夫道十郎儀罪科ざいくわ悉皆こと〴〵く差許さしゆるされ候追善つゐぜん供養くやう勝手かつて次第爲可なるべく且又御褒美はうびとして銀二枚取せ遣はす」「同人悴道之助 其方儀實父じつぷ道十郎事牢死らうしいたし候後母光の養育を請候より追々おひ〳〵成長に及び候處幼弱えうじやくの身に之あり乍ながら日頃より母に孝養かうやうを盡つくし罷り在其身は母の助けに相成べくと毎日晴雨せいうを厭いとはず未明みめいより起出て枝豆えだまめ其外時の物を自身じしん賣歩行うりあるき難澁なんじふをも厭いとはず孝行盡し候段だん幼年えうねんには似合ざる孝心奇特きどく之事に候依よつて御褒美はうびとして鳥目てうもく十貫文取とらせ遣つかはす」「麹町三丁目庄兵衞地借瀬戸物渡世忠兵衞同人妻とみ 其方共儀ぎ八ヶ年以前平川天神裏門うらもん前にて町醫師村井長庵こと雨中うちう傘かさも持もたず立戻たちもどり候を見請候はゞ其節せつ道十郎身分にも關かゝはり候事故早速さつそくにも申立べくの處其儀無く打過うちすぎ候段不埓に付屹度申付べきの處此度證人に相立其方が申立に依よつて事實じじつ明白めいはくに行屆ゆきとゞき候儀も有之に付格別の御憐愍れんみんを以て無構かまひなし」「麹町三丁目家主共 其方共 店内に差置さしおき候醫師村井長庵儀は身分慥たしかならざる者に之あり候處存ぞんぜずとは申ながら永年えいねん差置候段不屆に付叱しかり置」「神田三河町二丁目家持伊勢屋五兵衞 富澤町家持甲州屋吉兵衞 本石町二丁目甚兵衞店六右衞門 赤坂傳馬町二丁目長助店浪人藤崎道十郎後家光みつ店受人清右衞門 右みつ家主長助 其方共一同取調べ候處別段不都合の筋すぢもこれなく候に付何れも構無かまへなし」右之通り一同相心得申べく旨申渡わたされ八ヶ年以前中山出雲守殿調しらべにて無實むじつの横死わうしを遂とげし浪人藤崎道十郎が修羅しゆらの亡執まうしふも此處に浮うかみ出て嬉く思ふなるべし果せる哉かな惡事の報むくい速かに巡めぐり來りてさしも申詐いつはりたる村井長庵が奸謀かんぼうも悉皆こと〴〵く調べ上に相成初はじめて貞婦ていふお光みつ孝子かうし道みち之助が善報の程は神佛しんぶつの應護おうごにも預あづかりし物成んと其頃ころ風聞とりさたなせしとぞ偖さて其翌年に至りて公儀こうぎに有難き大赦たいしやの行はれけるに御上かみにも久八が忠義の程を御賞感しやうかん有あらせられし事成れば直すぐに此大赦たいしやの中うちへ加へられ終つひに御免にて遠とほき八丈島より歸國にこそは及びけれ依て六右衞門へ引渡ひきわたしに相成其後三河町伊勢屋五兵衞にも追々おひ〳〵取年とるとしにて養子やうし千太郎死去に及びたるより家を讓ゆづるべき子もなく居たる所なる故ゆゑ甲州屋吉兵衞へ相談さうだんの上六右衞門方より吉兵衞方へ久八を引取ひきとり元もと主人しゆじん五兵衞方へ改あらためて養子にぞ遣つかはしける然ば昨日迄きのふまでに遠き八丈の島守しまもりとなりし身が今日は此大家たいかの養子と成なりし事實に忠義の餘慶よけい天より福さいはひを授さづけ賜たまふ所ならん然るに久八は養父五兵衞に事つかふること昔むかしに優まさりて孝行を盡つくし店みせの者勝手元の下男に至る迄憐あはれみを懸かけ正直しやうぢき實義じつぎを以て遣つかひける故に一同擧こぞつて出精しゆつせいなし益々ます〳〵伊勢屋の暖簾のれん富とみ榮さかえければ其久八が赤心せきしんに感かんじて養父五兵衞も生うまれ變かはりし如く慈善じぜんの心を發おこし昔しの行ひを恥はぢ己れは隱居して久八に家督かとくを讓ゆづりしとぞ爰こゝに又丁山と小夜衣の兩人は程ほどなく曲輪くるわを出てたり姉の丁山二世と言替いひかはせし遠山とほやま勘かん十郎と云し人も病死なせしかば其跡を弔とぶらひ小夜衣さよぎぬは千太郎が横死わうしせしは我身より起おこりし事と忘わするゝ隙ひまのなくばかりなれば在所ざいしよの身寄みより太郎作へ引渡ひきわたされしゆゑ所々より嫁に貰もらはんと言込いひこむ者の數かず有ども兩親の菩提ぼだいの爲ため尼あまに成らんと姉妹はらから兩人ふたり心を決し在所ざいしよの永正寺と云尼寺あまでらへ入翠みどりの黒髮くろかみを剃そりて念佛ねんぶつ三昧まいに生涯しやうがいを送おくりし事こそ殊勝しゆしようなれ然されば長庵を指さして大膽無敵だいたんふてきの惡賊あくぞくにして大岡殿勤役きんやく中四五の裁許さいきよなりと世に云傳つたふると雖も長庵が白状はくじやうの際ときに至り證據人忠兵衞を怨うらむこと卑怯ひけふ未練みれんの小賊せうぞくなり古語こごに人の知ること勿なきを欲ほつすれば爲なすこと勿なきに若しくなし人の聞きくこと勿なきを欲ほつすれば言こと勿なきに若しくなしと宜むべなる哉かな嗚呼あゝ謹愼つゝしまずんば有べからず。


村井長庵一件終

直助權兵衞一件

直助權兵衞なほすけごんべゑ一件いつけん


第一回


 茲こゝに播州ばんしう赤穗あかほの城主じやうしゆ淺野内匠頭殿あさのたくみのかみどの家臣かしん大石内藏助おほいしくらのすけ始はじめ忠義ちうぎの面々めん〳〵元祿げんろく十五年十二月十四日吉良上野介殿きらかうずけのすけどの邸やしきへ討入うちいりと極きはまり同月十日に大石内藏助は小山田庄左衞門をやまだしやうざゑもんを招まねき同志どうしの人々ひと〴〵家内かないを片付かたづけ支度致したくいたすに付て金銀の入用有べし太儀たいぎながら諸所へ行ゆかれ金子を與へ給へとて二百五十兩相渡せしかば心得候と出行いでゆくを引留ひきとめ其金にて不足も有ば濱町の堀部彌兵衞片岡源吾右衞門にて廿卅の金は借候べしと申渡し又貴樣の刀は寸延すんのびと見えたり室内の働はたらきには不便ふべんなれば是これを進まゐらせんと則光のりみつの二尺五寸有しを與へければ忝かたじけなしと押戴おしいたゞき是にて討入の節せつ思おもふまゝに働き申さんと喜びて立出しが如何なる惡魔あくまに魅入みいられしにや俄然にはかに欲心よくしん萌きざして此十四日の夜討に入りなば討死爲するか又は切腹なすか二ツの外は出いづべからず幸さいはひ此二百五十兩を路金ろぎんとして立退たちのかばやと思ひしが毒どくを喰くらはゞ皿迄さらまでとは爰こゝのことなりと片岡堀部前原なんどを廻り大石殿より家々いへ〳〵片付かたづけの金使かねつかひに命ぜられたれども不足の時は各々より二十三十づつ借請かりうける樣やうにと申されたりと云て各々めい〳〵より請取うけとり其外そのほか衣類いるゐ夜具迄やぐまでも所々にて借入何處いづく共ともなく迯亡にげうせけり是これ福貴ふくきなり共とも人ひと百年の壽命は保ち難し瓦かはらとなりて保たもたんより玉となりて碎くだけよとは宜むべなる哉大石と倶ともに死しなば美名は萬世に殘るべきを呼呵あゝ淺猿あさましきは人欲じんよくなり


第二回


 偖さても同志の人々は小山田庄左衞門が逐電ちくでんせしを聞て大いに怒り追掛て討止うちとめんと云しを大石制して其身に惡事有れば夜討の事を泄もらす氣遣きづかひなしと止めしが豫かねて申合せし四十七人十四日の夜全く本望を遂とげ翌朝泉岳寺へ引取けるに大勢の見物は雲霞うんかの如く忽ち四方に評判聞えけり爰こゝに庄左衞門が妹いもうとは美麗びれいにして三味線みせんなどよく彈ひく故ゆゑ品川の駿河屋何某の許もとへ縁付けるに庄左衞門が父十兵衞は古稀こきに近く腰こしは二重に曲居まがりゐるを此駿河屋方へ預あづけ置しが十四日の夜討のことを聞き如何に本望遂ほんまうとげたるや子息せがれ庄左衞門は高名なしたるかと案事居あんじゐけるに浪士らうし泉岳寺へ引取しと聞き二本の杖つゑに縋すがり大勢の見物を押分おしわけるに見物山の如くにて近寄事叶かなはず其中に討入の者の名前書がきを賣歩行うりあるく故ゆゑ買取かひとりて見るに寺坂吉右衞門迄名前有共あれども小山田と云は無し這こは記者の間違まちがひならんと又賣來るを買取かひとり見みるに同じく漏居もれゐければ十兵衞不審いぶかりながら立歸りしが其夜に至り子息せがれ庄左衞門逐電ちくでんせし事を始て聞知り切齒はがみを爲て怒り歎きしが夜中に書置かきおきを認したゝめ腹はら掻切かききつて亡うせたりけり是庄左衞門が非道の行ひに因よつて老體の父ちゝ斯かく成行なりゆきしは庄左衞門が不義の手に掛りしも同じ事なり斯かくて後のち庄左衞門は姑しばらく田舍ゐなかに潜居かくれゐて外科げくわを習ならひ覺おぼえ兩三年立て妻子を引連ひきつれ深川萬年町に賣家うりいへを買かひ中島なかじま立石りふせきと改名して醫業を營いとなみとせしに殊ことの外ほか繁昌はんじやう致し下男下女を置き妻と娘一人を相手に暫時しばし無事に消光くらしけり


第三回


 茲こゝに立石りふせきが下男に直助と云ふ者有り元もとは信州の生れにして老實まめ〳〵しく働きけるが下女に心を懸かけ種々に口説くどくと雖も直助は片田舍かたゐなかの生れにて此下女は江戸の出生しゆつしやう故直助が云ふ事を聞ず兎角とかく強面つれなく當りしを立石夫婦も知り折をりに觸ふれては笑ひなどしけるを直助は面目なく且かつは遺恨ゐこんに思ひ居たるに或夜立石夫婦は酒に醉ゑひて前後も知らず寢入ねいりしを見濟みすまし其の夜丑滿うしみつの物凄ものさびしき折こそ能けれと直助は寢息ねいきを窺うかゞひ竊そつと起出おきいで押入おしいれの中に有る箪笥たんすの抽斗ひきだしを開け金を奪うばひ取らんとなせしかど錠前ぢやうまへ堅固けんごなれば急に開あける事叶かなはず其中に十二歳なる娘むすめ不圖ふと目めを覺さまし母樣かゝさん那あれ直助がと云ふ聲聞き立石が枕邊まくらべにある刀を引拔ひきぬき無殘むざんにも娘を刺殺さしころせども猶立石は前後も知らず醉臥ゑひふし居ゐたるを直助は直樣すぐさま上うへに跨またがり咽喉のどもとを突貫つきとほし一ゑぐりに殺して又また箪笥たんすの方へ行ゆかんとせしに女房は密そつと續いて來るを振返ふりかへり樣三刀四刀に切殺せり其中に下女は表おもてへ迯出にげいで人殺々々ひとごろし〳〵と呼よばはりながら金盥かなだらひを叩たゝき立てしかば近隣の人々馳付はせつける樣子を見て金を奪うばふ隙すきもなく裏口うらぐちより驀直まつしぐらに迯出にげいだし行衞ゆくゑも知れずなりにけり(時に正徳四年冬ふゆ十二月義士十三回忌くわいきの時に當り庄左衞門は下僕げぼくの爲に切殺されしは然しかも大石より與へられし則光の刀なりと小山田が不義ふぎ天てん奚なんぞ恕ゆるし給はんや又直助は御尋ね者となり近き頃まで諸所の關所に直助が人相書にんさうがき有ありしを知る人に便たよりて見たることあり實げにや因果は廻めぐる車の如く直助が身の上も思ひ知られたり)其後そのご直助は人相書を以て御尋ね者と成し所ところ一向かう行衞ゆくゑ知しれざりしに享保も四年となりし頃は最早もはや五六年も立し故ゆゑ氣遣きづかひなしとは思へども肩かたへ藍あゐにて黶あざの如く入墨いれずみをなし額ひたひにも腮あごの形かたちを畫ゑがき前齒二枚打缺うちかきて名を權兵衞と改め麹町六丁目米屋三左衞門方に米搗こめつきに住込すみこみ居ゐたるを町方まちかたの役人やくにん怪しみ早速召捕めしとりて嚴敷きびしく拷問がうもんに及びしかど一向白状せざれば偖さては直助にては非ざりしかと此段大岡殿へ申立しにぞ越前守殿ゑちぜんのかみどの然さも有るべしとて呼び出され如何に權兵衞其方は科とがもなき者なるを役人捕違とりちがへて是迄吟味ぎんみに及びし事氣の毒の至りなり定めし身體も弱よわり手足も利きくまじ然されば此儘に歸しては當分たうぶん嘸さぞ難儀なんぎなるべし依て金五兩取とらせ遣はす間あひだ是にて能々療治をなし渡世を致せ主人三左衞門も權兵衞を介抱かいはうして遣つかはせ誠に不便ふびんのことなりしいざ立てと申さるゝを聞き權兵衞は嬉うれしさ何に譬たとへん方なく其金を持て白洲しらすを立ち五六間けん行處ゆくところを大岡殿コリヤ直助と呼び掛けられしに天命てんめい遁のがれ難がたくハイと振向ふりむきしを夫それ縛しばれと云るゝを聞き南無三と潛戸くゞりどを迯出にげいださんとなすを同心ばら〳〵と立懸り忽ち繩なはをぞ掛けたりける(是これ其身そのみの科とがを白状せざる者へ甘あまき詞ことばを掛け金迄かねまで與へられし故ゆゑ偖さては我が惡事知ずして命いのち助たすかり金まで貰もらひたりと嬉うれし悦び何心なく立ち去んとせし時とき思おもはずも直助と呼び掛けられ渠かれに答へをさせられし秀才しうさい頓智とんち實げに等閑なほざりの及ぶ處に非ず)之に依て又々吟味ぎんみに及ばれし處一旦たん荒膽あらぎもを挫ひしがれたれば如何に強膽がうたんの者なりとも勿々なか〳〵隱かくす事能はず立石が家内三人切殺せし事ども殘らず白状成なしければ小塚原こづかはらに於て終つひに磔はりつけにこそ行おこなはれけれ


直助權兵衞一件終

越後傳吉一件

越後傳吉ゑちごでんきち一件いつけん


第一回


 古人こじん曰いはく近きを計はかれば足たらざるが如く遠きに渡れば乃ち餘り有りと爲す我國わがくに聽訟ちやうしようを云ふ者大概おほむね青砥藤綱あをとふぢつな大岡忠相おほをかたゞすけの兩氏が明斷を稱す茲に説出ときいだすは其大岡殿勤役中屈指の裁許にして頃は享保年間に越後の國高田の城下を距事さること七八里寶田村たからだむらに工藤傳吉くどうでんきちと云ふ百姓あり祖父の代より田畑でんばた數多あまた持ち傳吉が父傳藏の代迄名主役を勤つとめ父傳藏に至り水損すゐそん打續うちつゞき其上災害さいがい并ならび至りて田畑殘りなく失ひ悴せがれ傳吉十六歳の時とき親おや傳藏は病死なし母一人殘り孝行かうかうを盡しけるに母も父が七回忌くわいきに當あたる年とし病死なしければ傳吉の愁傷しうしよう大方ならず且かつ親類しんるゐは只當村たうむらの長をさ上臺憑司かみだいひようじ而已のみなれ共是は傳吉の不如意を忌きらひ出入をなさず又母は樽見村たるみむらの百姓源兵衞の娘にて妹一人あり此妹に家を繼つがせ自分は傳吉の家へ嫁入よめいりせしに父源兵衞病死の後は妹お早身持みもち宜よからず聟むこを三人迄取りけれ共皆離縁になり其後惡き者と欠落かけおちし母方の跡あとは斷絶だんぜつせり此外には親類もあらざれば母は臨終りんじうの時傳吉に向ひ我が妹お早は其方の爲に實の叔母をばなれども先年せんねん村を欠落かけおちなし今は其の在家ありかを知らざれ共我が亡後なきあとに巡めぐり逢あはば其方力になりて呉くれよと遺言ゆゐごんして終りてより實に親しんはなきよりとは斯如かくのごときならん夫後そのご傳吉は人に頼たのまれ江戸表へ飛脚ひきやくに來たり途中とちう鴻巣宿こうのすじゆくを通り掛るに道の傍かたはらに親子と見ゆるが休み居たり傳吉は何心なく彼女親を見るといと窶やつれたる形かたちなれども先年家出せし叔母お早に似たりと思ひしゆゑに立戻たちもどり段々樣子を聞きたるに叔母お早に相違なく且つ先年家出せし後此娘お梅と云るを設まうけ當時は此宿に足を止とめ人に雇はれ憂うき年月を送る旨物語るに傳吉も母の遺言ゆゐごんなにくれと話しなどし此上は及ばずながらお力にも成ならんと云ふに親子おやこは地獄ちごくで佛に逢うたる如くに歡びけるが傳吉は飛脚ひきやくの事故一先袂たもとを別ち江戸へ來り用事を濟すませ立ち歸る時に又叔母をばのお早を尋ねしに猶なほ段々だん〳〵と難儀なんぎの咄はなしをなす故見捨難く近所へ厚あつく禮れいを述べ直に越後へ連歸つれかへりぬ扨傳吉は貧まづしき暮くらしの中にて叔母と從弟いとこを養育はごくむ事容易に非ず殊に實家さへ絶ぜつせし叔母に斯く孝行を盡す事人々譽合ほめあへり扨お梅も當年十八歳傳吉は廿六歳幸ひの縁と心中を聞合きゝあはせしに兩人共得心とくしんの樣子故夫婦と成したり斯て傳吉は村の評判ひやうばん宜よろしき故親類といひ捨置すておかれずと名主上臺憑司かみだいひようじも出入を始め悴せがれ昌次郎も時々に出這入ではひりなし居たり


第二回


 扨て又傳吉は倩々つら〳〵思ふに我が家世々村長成しが父の代より家いへ衰おとろへ田畑たはたも失ひ剩あまつさへ從弟いとこ上臺憑司かみだいひようじに村長役むらをさやくを奪うばはれ今では人々にまで見落さるゝ口惜くちをしさ是も世の有樣と思ひ十六七の時より何卒なにとぞ再び家を起おこさんと志ざし牛馬に等ひとしき荒稼あらかせぎして勵はげめども元より母は多病たびやうにて始終しじう名醫にも掛しかど終に養生やうじやう叶かなはず亡むなしく成しが其入費いりめ多分有る所へ又叔母を養やしなひ妻を持もち貧まづしき上に貧まづしくならん今の中に江戸に出て五六年も稼かせぎなば能き事も有べしと思ひ或日叔母女房に向ひ此事を直談ぢきだんに及びければ大いに驚おどろき是は思ひ掛かけなき事を云るゝものかと我が身親子が飢うゑもせず今日迄暮くらしけるは皆此方の陰かげなり今更老たる叔母此梅諸共もろとも置去おきざりにせんとならば勿々なか〳〵止とめはせじ夫ならば其樣そのやうに白地あからさまに申給はれと云けるにぞ傳吉大いに迷惑めいわくし是は〳〵叔母や女房を置去おきざりにせん心なら最初さいしよより諸方を尋ね歩行あるき鴻こうの巣すより態々わざ〳〵連つれては歸らず私しの江戸へ出るは我が身の利を計はかるに非ず五六年も苦くるしみなば元の田畑でんばた取戻とりもどすことも出來左すれば村長にも成る家柄いへがら故ゆゑ先祖せんぞへの孝養かうやうと思ひ兼かねて心懸がけ置たる錢十貫文之を殘のこし置おかば當時の暮し方は澤山たくさんあらん來年は給金の半なかばを分わけ贈おくり申べし待まつは久しき樣なれども只一筋すぢに勤つとめ上早々立歸りて元の田地取戻し候はゞ先祖への面目めんぼく親への孝行是に増ます事なし能々よく〳〵聞分て給はれと申ければ叔母女房も得心とくしんして俄にはかに旅たびの用意よういをなし父母の墓はかへ參詣さんけいし夫より村長上臺憑司かみだいひようじ方へ行き妻子のことを頼たのみ置き其日住馴すみなれたる寶田村を立ち出て東の空へぞ旅立たびだちけり時に享保三年九月十日の事なり足あしに任まかせて行けるに十日の月さし出つゝ暮くれて宿やどなき一人旅たび頻しきりに急ぎ歩行あるきし所にぴかりと光ひかる物あり足にて踏返ふみかへせしに女の櫛くしなりければ何方の人が落おとせしやらんと手に翳かざし見れば鼈甲べつかふの最いと古ふるびたるにて齒はも三ツ四ツ缺かけたり是を拾ひ取り行くほどに一里塚づかの邊ほとりより申々御旅人樣是より先に人里なし此宿このやどへ御泊り成れと走り來るを見返れば年の頃十三四なる少女なり今日は勞つかれたり何所へ泊るも同じ事案内あんない頼たのむと家路いへぢを指さして急いそぎけり


第三回


 斯かくて傳吉は小娘に誘引いざなはれ許とある家に入て見れば柱はしらは曲まがりて倒たふれ軒のきは傾かたぶき屋根落おちていかにも貧家ひんかの有樣なれば傳吉は跡先あとさき見回し今更立ち出んも如何と見合ける中に小娘は盥たらひへ温湯ぬるゆを汲くんで持ち出で傳吉の足を洗あらひ行燈あんどう提さげ先に立ち座敷へ伴ひ木枕きまくらを出し些ちと寢轉ねころび給へとて娘は勝手へ立ち行き半時ばかり出で來らず傳吉は頭かしらを回めぐらし家内かないの樣子を窺うかゞひ見る程に元は相應さうおうの旅籠屋と見えて家の作りやう由緒ゆゐしよありげに見えけれども彼の小娘の外一人もなきは山樵やまかつか盜賊たうぞくの棲巣すみかならんと頻しきりに怪しくなり逃道にげみちを見て置ばやと密ひそかに見回す折柄をりから壁かべの落たる那方にて最いと苦くるし氣なる咳せきを成なし苦聲うなるこゑの聞ゆるにぞ壁かべの穴あなよりさし覗のぞくに年の頃五十ばかりの男病耄やみほゝけて顏色かほいろ青あをざめ餘程長き煩わづらひに勞つかれたる樣子なり傳吉は此體を見て密ひそかに元もとの座へ立ち歸り彼は正しく此所の主あるじさては娘の父ならん然れば山賊の隱かくれ家がにも非ずと安堵あんどして在る所へ彼娘の勝手より膳ぜんを持ち出で傳吉が前に差し置き嘸さぞやお空腹ひもじう候はん私し一人にて煮炊にたき致し候ゆゑ急いそぐとすれども時移ときうつりお待ち兼て在りしならん緩々ゆる〳〵上あがりてお休やすみなされませと言ふものごしに愛敬あいきやうを含ふくみ至つて賢かしこく見えければ傳吉今更哀あはれに思ひ箸はしを下に置き小娘に向ひ斯かく廣ひろき家に唯一人立ち働はたらき給ふは昔しの餘波なごり痛いたましく思ふなり殊に病人の有る樣子に見受みうけしが其方そなたの父なるか母は在いまさずや其方名は何んと申す今宵限こよひかぎりの宿ながら聞まほしと云ひければ娘は忽たちまち涙なみだを流ながし有難き今の御言葉身の悲かなしさをお話し申さん彼所かしこに臥ふしたるは父にて候ふ所其以前は可成なる旅籠屋はたごやなりしが私し五歳の時母は相果たり夫よりは家の活業なりわい衰おとろへ下女下男に暇を取せ其中にお早と申すを父が後妻こうさいとし私が爲ために繼母まゝはゝなりしも家は段々衰へて父は四年以前より苟且かりそめの病ひにて打臥うちふしたるが家の事打任うちまかせたる彼のお早どのは夫の病氣を看護みとりもせず其上家財かざい着類きるゐ金子迄掻集かきあつめ家出なし三年の今日迄行衞ゆくゑ知ず母には實の娘一人ありけるが夫を同伴ともなひて此家を出しは我が家の次第に傾かたむく身代に見切を付て他へ移うつり恩おんを仇なる畜生めと病の中に父の腹立はらだち此怒りを寛なだめんにも泣なくより外の事もなく心細ぼそさに跡あとや先昔は恩おんを請うけたる者も今は見放みはなし寄付よりつかず身近き親類なければ何語らんも病の親と私しと二人なれば今迄いままで御定宿の方々も遂に脇わきへ皆取られ只一人も客はなし其上去々年をととしの山津浪やまつなみ荒あれたる上に荒果あれはてて宿やど借かる人も猶猶なく親子の者の命の綱つな絶果たえはてる身の是非もなく宿の外はづれに旅人を一人二人づつ無理にお宿を申ても此有樣に皆樣が門口よりして逃にげゆかれ今日は貴方あなたをお止め申し聊いさゝか父が藥の代しろになさんと存じて御無理にもお宿を願ひあげたる事赦ゆるし給へとて泣伏なきふしたる娘が體てい見るも不便ふびんを覺おぼえけり


第四回


 然されば傳吉お專せんが物語りを聞て歎息たんそくし扨々世の中に不幸ふかうの者我一人にあらずまだ肩揚かたあげの娘が孝行四年こしなる父の大病を今日迄看病かんびやう疎おろそかならねば爭いかで天道憐あはれまさらん今こそ斯あれ後々は必ず榮華えいぐわの身とならんと我が叔母女房の噂うはさとは夢にも知らずいたりける此ぞ傳吉が叔母お早が事にして此はお早親子も深ふかく隱かくしける故傳吉は知らざりし偖さて何かなと考かんがへしが先に拾ひし鼈甲べつかふの櫛くしこそ好けれと取り出し是は我等が山間やまあひにて圖らず拾ひし品なる故ゆゑ之を賣代うりしろなすならば少しばかりの錢にはならん父御の口くちに叶かなひし物を調とゝのへてなり進まゐらせよと件くだんの櫛くしを與あたへしかば娘は之を押戴おしいたゞき行燈あんどうの灯ひに指翳さしかざし一目見るより打ち驚き之は先さきつ頃私しが道に遺おとせし品にして母の紀念かたみの櫛くしなれば家財道具は聊かの物も殘さず賣盡し身に纏まとふべき衣類いるゐさへ今は綴つゞれもあらざれども此品計りは我が母の恩おんを忘れぬ心にて生涯しやうがい頭かしらに頂かんと思ふが故に賣殘しぬ然るを先日落おとして後を種々いろ〳〵と探さがし求めて居しなり偖々嬉しき事哉と幾度となく押戴おしいたゞき喜悦よろこぶ體さまを熟々つく〴〵見て感心なし今の話しには母御の紀念かたみの此櫛と云はるゝからは片時も忘れ給はぬ孝心かうしんを天道樣も憐あはれまれ必ず御惠みなるならん能々父子てゝごを大事になされよ我れ又江戸より歸りの時は再び尋たづね進まゐらせん名を聞ばやと云ければ父は森田屋銀五郎我が身は專せんと呼よばれつゝ所に久しき家柄いへがらなれども斯かく成果なりはてしと嘆息の外なかりけり


第五回


 傳吉は是より江戸表へ着し馬喰町三丁目信濃屋しなのや源げん右衞門へ旅宿なし或日案内者を頼み彼方あなた此方こなたと見物なし江戸第一の靈場れいぢやう淺草の觀音へ參詣さんけいし能き主取りをなさん事を願ひ夫より口入に頼み奉公口を探さがしけるに吉原の廓くるわ第一の妓樓ぢようろやにて京町の三浦屋に米搗こめつきの口有り一ヶ年給金三兩にて住込すみこみ日毎ひごとに米を搗つくを以て身の勤めとはなしにける然るに物堅がたき傳吉は鄭聲ていせい音曲おんぎよく洞房どうばう花燭くわしよくの樂たのしみを羨うらやまず旦あしたより暮くるるまで只管ひたすら米を搗つき一粒つぶにても空むだにせず其勤め方信切しんせつなりければ主人益々悦び多くの米も一向に搗減つきへりなく取扱ひ夫より其年の給金きふきんを請取るに半分は遣つかはし叔母女房の衣食の足たしになし殘る所は主人へ預け儉約けんやくを第一として勤め居たり


第六回


 然程さるほどに光陰くわういん矢やの如く傳吉は四五年勤めしが四季の給金臨時ふじの貰もらひもの等塵ちり積つもり山となりて百廿兩程になりし故宿願しゆくぐわん既すでに成就したりと頻しきりに古郷が懷敷なつかしく主人の機嫌を伺ひ越後へ歸り度旨を願ひけるに今三浦屋の白鼠と云はれし者を暇いとまをやるは主人も惜をしく思ひけれ共是非ぜひに及ばず首尾能く暇いとまを遣つかはしければ傳吉大いに悦よろこび豫かねて年頃主人へ預けし金百廿兩餘を請取うけとり頓やがて古郷こきやうへ急ぎける斯かくて山路に掛り小松原を急ぐ程に身には荒布の如き半纏を纏まとひし雲助二人一里塚づかの邊より諸共に出て前後より傳吉を引挾ひつはさみ親方骨柳こりが重さうに見えるか今日は朝から鐚びた一文にもならず少々揚取あげとらせて給はれと骨柳こりに手を掛るを傳吉其手を拂はらひ中仙道を足あしに懸かけ年中往來する我等小揚取こあげとらせることはない串戯じようだんを爲しなと力身りきんで見てもびく共せず二人の雲助嘲笑あざわらひイヤ強い旅人じや雲助は旅人に肩かたを貸かさねば世渡りがならず酒手さかて欲ほしさに手を出して親にも打れぬ胸板むないたを折をれるばかりに突つかれては今日から駄賃だちんを取る事出來ずと云ふを旁かたはらより一人が往手の道に立ち塞ふさがり否いやなら否で宜事いゝことなり突つかれる咎とがは少しもなし何でも荷物を擔かつがせて貰もらはにや成らぬとゆすり半分喧嘩けんくわ仕懸しかけに傳吉は何とか此場を遁のがれなんとせども惡者承知せず彼是言いふうち其骨柳こり渡せと手を掛るに傳吉今は一生懸命右を拂はらへば左より又た一人が腕首うでくびを確しつかと取て動うごかせず困かうじ果はてたる折柄此處に來たる旅人あり此有樣を見るよりも衝つと馳掛はせかゝり一人の雲助を取て引擔ひきかつぎ斗筋打もんどりうたせ投付なげつけるに今一人も張倒はりたふし蹴返けかへし乍ながらに發打はつたと白眼にらみ汝等二人は晝日中追落しする不屆者直樣すぐさま捕へ宿場へ連れ立ち御法通りにして呉ん首は入らぬか蠢蟲うじむしめと罵りければ惡徒共此勢に恐れけん尻込しりごみして只眞平御免まつぴらごめんと詫わびるにぞ夫なら今日は赦ゆるして呉んと言捨いひすてて是は我等が連れなり率々いざ〳〵御一所にと目配めくばせすれば傳吉も夫と悟さとりて骨柳を取り打ち連れ立ちて行き乍ながら彼の旅人に打ち對ひ小腰こごしを屈かゞめ偖々惡者に付られ難儀千萬の處貴君の御救ひにて何事なく誠まことに御禮は言葉に盡し難がたしと慇懃いんぎんに禮を述のべつゝこの旅人を見るに一癖くせあるべき顏形かほかたちなれば如何にもして此者と立ち別れんと漸々やう〳〵野尻宿迄來り近江屋與惣次よそうじと言ふ旅籠屋へ泊とまりける


第七回


 扨旅籠屋にて年頃としごろ十七八ばかり田舍に稀なる女ありと心を留とめてみれば何か見覺みおぼえ有る樣にて彼の女も傳吉を見て不審いぶかしの顏色かほいろなりけるが連つれの男は湯に入らんと湯殿の方へ到いたりし折節彼の女を傳吉は引留ひきとめてお前は何處かで見た樣なれど思ひ出されずと言ば女は傳吉を倩々つら〳〵見て私も見たお方の樣に思ひしが若しや五年前柏原の森田屋へ泊とまり給ひし傳吉樣にては御座なきやといふに此方は礑はたと手を打ち森田屋の娘子むすめごお專どのにて在しよなお前が此所に御座るとは夢ゆめ聊いさゝかも知らざりし我等も江戸へ赴おもむきて今度古郷へ歸るゆゑ柏原へ立ち寄りお宅を尋ねしが道にて惡き奴やつに付られ少しも油斷ゆだんならざるまゝ早忽々々そこ〳〵に通り拔しがいつごろ此所へ來られしやと問懸とひかけられお專は忽ち涙なみだ含ふくみ父は貴方のお泊りありし其年の暮くれに死亡みまかり遂に我家を賣代うりしろなし此旅籠屋は少しの縁由ゆかりも有りけるまゝ下女に雇はれ候ふなり先頃貴方あなたの御惠めぐみに預るのみか取り分て下し給ひし一品は富とみたる人の千金に増まして忘れぬ御恩なり今夜に迫せまる貴方の御難儀大概たいがい御察し申たり今夜は私が何也なりとお救ひ申し參らせん御安堵あれと請合うけあひながらも過さりし親の病苦びやうくや身の憂事うきことを思ひ出してや最いととしく涙に昏くれて居たりけり傳吉も實まことなる言葉ことばに聊いさゝか安堵あんどなしたれば猶も物語らんとする所へ彼連かのつれの者の足音せしゆえ空寢入そらねいりして居る程にお專も立て出で行けり偖傳吉は金を藁苞わらづとより徐そろ〳〵と出し腰こしに確しつかと結ゆひつけ之まで風かぜを引たりと僞り一ト夜も湯には入らざるのみか夜もろく〳〵に目眠まどろまず心を配り在りけるが今夜は彼かのお專に委細くはしく相談せんと思ふ故少し風も快こゝろよく候へば湯に入りて來らんと湯殿ゆどのの方へ立ち出でければお專は疾とくに縁側えんがはへ立ち出で傍かたへの座敷ざしきへ連れ行て貴方が湯に入り給はんと申さるゝ故荷物にもつ番に御膳ぜんを出し且又咄はなしの内に立せ間敷まじく其爲そのために朋輩ほうばいを頼み置きたりお咄はなしあらば心靜かに咄し給へと最いと發明はつめいなる働に傳吉は其頓智とんちを感心なし事急ぐなれば摘つまんで咄さんが某し江戸表に奉公なし年頃としごろ給金其外とも溜置ためおきし金百五十兩程に成たり依て此度古郷へ立ち歸り家を興おこし亡なき親達おやたちへ聊いさゝか孝養かうやうに備そなへんと出立なす折柄をりから輕井澤かるゐざはの邊へんより彼の曲者くせものと連れに成り道中みちすがら彼の振舞ふるまひに心をつけるに唯者たゞものならず江戸より付き來りし樣子なり今日も彼者度々たび〳〵手を出さんとすれ共我も油斷ゆだんなく往來の人に交る故其難は免のがれたれども今宵こよひ一夜が絶體絶命ぜつたいぜつめい明日は古郷へ五里許ばかりの處なり今夜を過すごせば明日は安堵あんどいたすべし何卒今宵の大難を救ひ給へと申しければお專は暫時しばし思案の體にてよしや今宵は凌しのぐ共明日道にて如何成る目に遭あひ給はんも知れがたし兎角に其金子御身が所持しよぢなし給ひては災ならん私に預あづけ給へと言ふに傳吉も豫かねてより親孝行は知りしうへ且又發明女はつめいぢよ故ゆゑ懷中より金子を出して渡せば確しかと懷中して則ち頭に指させし櫛くしを出し是はお前樣も知る通り我が爲に千金にも替かへがたき母の紀念かたみにして片時も離はなさず祕藏ひざうの品此櫛このくしを證據にお渡し申さん鼈甲べつかふの古びたる上に齒はの三枚缺かけて能よき證據しようこなれば此度御歸國なし給ひて假令たとへお前がお出なく共此櫛くしさへ持せて遣つかはされなば他人にてもお金をお渡し申すべし確たしかなる證據故能々此櫛を大切に失ひ給ふなと櫛くしを傳吉に渡わたしお身金子なく共彼の惡者と明日一所に道連みちづれにならんこと危し今夜の八ツの鐘かねを相圖あひづに立ち給へとて間道を教をしへて一人立せける彼金子をお專が預あづかり金のこと故主人にも深く包つゝみて置きけるとぞ


第八回


 偖て傳吉は脇道わきみちより其の日の八ツ時分に寶田村へ立ち歸り無事に歸國きこくのよしを名主方へ屆け置き我が家へこそは歸りける叔母女房は門口かどぐちへ出迎ひ偖々五年ぶりにて無事に歸り給ひしことの嬉うれしさよ當年たうねんは歸るとの手紙てがみ成れ共今時分とは思ひよらず定さだめて暮くれにも成んと存じ居りしに早く歸られて安心なしぬと言ふうちに村中連つれ立ち大勢來りける故叔母も女房も夫々へ挨拶あいさつして居るに名主の憑司ひようじも來り悦びを述のぶる程ほどに傳吉も是迄の艱難を物語り偖五時頃皆々暇いとまを告て立ち歸る後に叔母は不思議ふしぎさうに傳吉に向ひ先刻せんこくより尋ねやうと存じけるが五六年も奉公なし歸かへられるに風呂敷包ふろしきづつみみ一つも持ぬとは何なんの云譯いひわけだと尋ねければ傳吉は道中にありし始末を物語り彼のお專せんより預りし櫛くしを出し此だに出しなば誰たれにても金子は渡わたし呉くれる筈はずなれば明日は早々參て受取り來らんと思ふ故此櫛くしは百五十兩の代の品大切なりと申しければ叔母をばは大いに悦よろこび偖々さて〳〵夫は危あやふひこと殊ことに百五十の大金は能々心掛ざれば貯ためることは成り難し如何にも斯る大金を溜ためる辛苦しんくの程察し入る呉々も歡よろこばしきことにこそ而して其の櫛くしは百五十兩の形かた成なれば佛前へ供そなへて御先祖其外父御てゝごにも悦ばせ給へと叔母女房とも口くちを揃そろへて申すにぞ傳吉も佛前へ供そなへ夫より夜食やしよくも濟すみて傳吉は今こそ我家へ立ち歸りし故ゆゑ心こゝろ落付おちつき草臥くたびれ出しにやこくり〳〵と居眠ゐねぶりけるを叔母は見るより傳吉どのも嘸さぞや勞つかれしならんお梅や床とこを敷しきて進まゐらせよと云ひければお梅は夫の床とこを打敷うちしき臥戸ふしどに伴ひけるに傳吉も安堵あんどせしにや枕に着くと其の儘に眠ねぶりけるが翌日の巳刻よつ時分漸々起出おきいで顏かほを清め佛前へ向ひ回向ゑかうし前夜の櫛くしを仕舞しまはんと探さがせど更に見えざるに叔母に向ひ前夜の櫛くしは如何成れしやと問ふに叔母もお梅も口を揃そろへ一向知らずと申すにぞ傳吉は仰天ぎやうてんして所々しよ〳〵方々はう〴〵と尋ねけるに何分見當らず之れによりて家内大いに騷さわぎたち猶も殘る隈くまなく尋ねしに如何にも知れざるゆゑ傳吉も今は詮方せんかたなく能々よく〳〵思案しあんを巡めぐらすにお專はいたつて正直しやうぢきにして殊ことに發明の女成ればは櫛くし無きも預あづかり物を預あづからぬとは申すまじ是より野尻宿へ到り右の譯わけを咄はなし金子を受取んと野尻宿へ赴きお專に逢て扨々申分なきことを致したり前夜ぜんや歸かへりて櫛くしをば百五十兩の形かたなりと佛前へ備へ置きけるが今朝けさ見れば更になきゆゑ家内中穿鑿せんさくを致すと雖も何分見當らず夫に付き只今參りたり櫛くしの代に何程なにほどにても取て金子を渡わたし給はれと申しければお專は傳吉の顏を熟々つく〴〵打うち詠ながめ扨さて御前樣は盜賊たうぞくに能々見込れ給ひしものと見えたり今朝程けさほどお前樣よりお頼みのよしにてお隣家りんかなる彌太八とか云る御人が櫛くしを御持參有しに間違まちがひも有まじと思ひ右品引換ひきかへに金子御渡し申したりと櫛くしを取とり出だして見せければ傳吉は再び仰天ぎやうてんなしたりしが心を靜しづめ夫は年の頃はいくつ位に候や我が村中に彌太八といふ者なければ我頼みし覺おぼえなし察さつする所前日の惡者の仲間を頼たのんで遣よこしたるならん五年の間あひだ千辛萬苦せんしんばんくして貯ためたる金子もよく〳〵我に授らぬ金なり斷念あきらめるより外無しと力を落して茫然ばうぜんとして居たりけるお專は如何にも氣の毒に思ひ種々いろ〳〵考かんがへしに之は全く過日の惡物わるものの業わざに非ず同村中の人成ならん斯かく申さば何となく人を誹そしる樣なれども私しも係かゝり合ひの事なれば心に思ふ所を申して見んかならずお心に掛かけ給ふな實まことに七人の子はなすとも女に心こゝろ許ゆるすなとの譬たとへもありておまへ樣のお留主に女房さんの心變こゝろがはりし事もあらんか能々家内に心を用ひ見られよ然されども先何事もなき體ていに歸り斯樣々々かやう〳〵にし給へと謀計はかりごとを教をしへ傳吉をば歸しける


第九回


 扨て傳吉は其夜そのよ亥刻よつ過すぎに我が家へ歸りければ女房叔母ともに出で立ち今御歸りなされしや金子は如何にと尋たづぬるに傳吉然さればお專殿は留守にて分らず歸りを待んと存ぜしが又々金子不用心ぶようじんゆゑ明後日參りて受取り來らん先は五ヶ年留守の中うち村中の世話せわに成り殊ことに百五十兩と云ふ大金を貯ためて來りし事なれば村中を明日あす呼よんで馳走をなさんと思ふなり其用意致すべしと事もなげに申しける女房叔母も其支度を致し村中へ人を廻まはし呼びけるにぞ巳刻時分より五六十人一座にて馳走ちそうをなし一通り盃盞さかづきも廻りければ傳吉はそつと其場をたち表の方へ出れば垣根かきねの際きはに野尻宿のお專頭巾づきんを眉深まぶかに冠かぶり立ち居たり傳吉は密ひそかに宅へ伴ひ忍しのばせて座中を窺うかゞはせたるに此中には其人なしと云ふ故傳吉は又々女房叔母を呼び五ヶ年の中うち村中に強きつい御世話に相成しは實に有難き仕合しあはせなり別て上臺憑司ひようじ親子に厚あつき御世話に相成しよし然るに昌次郎いまだみえず御迎おむかひにと申す處へ入り來たり直に傳吉の傍らに着座ちやくざし馳走にぞ預あづかりける傳吉一同へ向ひ私しも江戸表にて宜よろしき家へ奉公に有り付き金子少々貯はへたれば古郷こきやうの空そらもなつかしく罷り歸り候皆々樣へ右の御禮旁々かた〴〵麁酒そしゆを進まゐらするなり何も御座らぬ掴つかみ料理澤山お食あがりくだされよと亭主の愛想あいさうに人々は大いに悦び盃盞さかづき屡々しば〳〵巡るうち時分を計り傳吉は小用に行く體して叔母女房を立せざる樣になし密そつと立ち出でお專に向ひ如何に盜賊どろばうは此中に居たりしやと聞きければお專打ち笑ひ實に盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは虚言ならず今しも後より入り來られ上より八番目に居りたる年若にて色白く太織ふとおりの紋付もんつきの羽織はおりにて棧留さんとめの着物を着たる人こそ間違ひなく彌太八と名乘て參まゐりし人なりと云ふを聞て傳吉は吃驚びつくりなし彼は名主殿の子息昌次郎といふ者なり間違まちがひ有ては大變たいへんと云ふにお專は決けつして〳〵間違ふ氣遣ひなし若し又あの人兎に角と爭あらそはゞ私が出て白状はくじやうさせん外に又慥たしかなる證據しようこの品もあり然して江戸表にて金百五十兩貯ためし事道中難儀なんぎして私に預けし事迄知りし者は外にあるべき樣なし御前樣は彼所へ行ゆきて是迄の事を話し金子を彌太八と申す人に奪うばはれし事を殘らず物語られ其上にて斯樣々々かやう〳〵なしたまへと牒しめし合せ元の座敷へいで行きけり


第十回


 却説かくて傳吉は酒宴しゆえんの席へ出で扨々折角せつかく御招ぎ申しても何も進ずる物もなし併しかし今日の座興ざきように歸國きこくなす道中の物語を皆々さま御退屈たいくつ乍ながら御聞下されと申しければ何いづれも夫は一段の事然るべしと聞き居たり傳吉は席せきを進みて私し江戸に在りし時は全盛ぜんせいの土地柄とちがら故主人の光ひかりにて百五十兩の金子に有り附き古郷へ歸り舊もとの田畑たはたを受戻うけもどし家を起しなば過行し兩親りやうしんへ聊さか孝行の端はしにもならんかと悦び勇んでくる道すがら惡者わるものに付かれ是非なく野尻宿の旅籠はたごやの下女に彼大金は預あづけて歸り其盜賊の難は遁のがれたれ共又々一ツの憂うれひを増まして件の金子を昨日騙取かたりとられたり其仔細そのしさいをおはなし申せば斯樣々々云々しか〴〵なりと證據しようこの櫛くしの事迄一伍一什を委しく語かたりければ皆々仰天ぎやうてんなし夫は又何物が櫛くしを以て行しやと興きようを失ひければ憑司を始め叔母女房も大いに驚おどろきたる體ていにて眉まゆを寄よせ夫は何共合點がてんの行ぬ事と言ひけるを憑司席せきを進すゝみ其は旅籠屋の下女が巧たくみならん貴樣の方に櫛くしはなしと計はかりたるに先には鼈甲べつかふの櫛の幾個いくらもあらんにより指替さしかへの似寄によりの品を出して貴樣を欺あざむき歸せしなるべし其女を引捕ひつとらへ嚴重きびしく吟味ぎんみする成れば早速に相分らん憎にくき奴やつの仕業しわざかな若しも僞いつはる時は領主へ訴へ吟味ぎんみを願ふならば忽ちに相分らんと申しけるに傳吉偖さて其の盜人は此座中に在りと申しければ皆々夫はと云つて互たがひに顏かほを見合せ居たりしがマア誰たれならんと申すに傳吉然されば私し隣となりに住すむ彌太八と云ふ者の由よし申し僞り金子を騙かたり取りたるはと云ひながら昌次郎の面かほを見ればぎよつとせしが素知そしらぬ體に面かほを背そむける故傳吉は最早もはや耐難こらへがたく之れにある昌次郎殿に相違なし慥たしかなる證據しようこもある上は爭あらそはず金子を返し候へ萬一爭ひ給はゞ公邊おかみへ訴へ黒白くろしろを分ねば相成ずと言ければ忽ち昌次郎は眞赤まつかに成て座を直し此は存じもよらぬことを承うけたまはるものかな我等に對むかひ盜賊呼どろぼうよばはり其分には相濟ず不屆ふとゞきなる申し分也と威猛高ゐたけだかになつて申しけるにぞ側そばより親おや憑司も張肱はりひぢなしコリヤ悴よ傳吉に泥棒呼どろぼうよばはりを致され萬一申開き相立ざる時は人手は借かりぬ我自らに手討に爲すぞ惡名あくみやうを付られては最早男は立ず急度きつと相糺あひたゞして汚名をめいを雪そゝげよと親も聲を掛る故ゆゑ夫それより双方さうはう爭ひ立ち既に喧嘩けんくわにも成んと人々は手に汗あせを握にぎりもて餘しける處へ奧の方よりお專は直すぐと立ち出で座に就つきて皆々へ挨拶あいさつするに一座の人々不審ふしん晴はれず是は何方の女中ぞやとお專が顏かほを打守うちまもるに叔母女房も之を見て打驚うちおどろきて居たる時にお專せんは穩當しとやかに昌次郎に向ひ昨日一寸ちよつと御目に掛かゝり金子百五十兩御渡し申せし彌太八樣最もう私しか參まゐりし上は爭あらそひ給ふも益えきなきこと早々金子を出し給へ此上猶なほも爭ひ給はゞ外に致し方これ有りと申しけるに昌次郎は猶なほも空嘯そらうそふき我等は然樣さやうの覺おぼえもなく殊ことにお前は何處の人か終に逢あうたることもなしコリヤ傳吉と申し合せ我等へ遺趣ゐしゆても有あるかして罪を塗付ぬりつけんとするならんイヤ不屆ふとゞきなる女めと眼付ねめつけるにお專は少しも騷さわがず彌々爭ひ給はゞ外に見せる物ものありと懷中くわいちうより一通の文を取り出し是は一昨日お前樣の歸りし跡あとに落おちてありし品しな故ゆゑ何心なく拾ひろひしが不斗ふと此場の役に立つ傳吉殿讀給よみたまへと差出すを傳吉取上とりあげ讀下よみくだすに

一筆示しめし〓(まいらせそうろう)偖傳吉事江戸より今宵こよひ立ち歸り申候まゝ此上は夜々の契ちぎりも相成ずと存じ候へば勿々なか〳〵つかの間も忍しのび難く思ひは彌増いやまし〓(まいらせそうろう)夫に付き傳吉こと江戸に於て溜ためたる金百五十兩此度こたび持歸もちかへり候途中盜賊に付かれ候ゆゑ野尻のじり宿の近江屋與惣次よそうじと申す宿屋の下女お專へ右の金を預け置き受取候節は此櫛さへ持參ぢさん致し候へば誰たれにても引替ひきかへに金子相渡す由承まはり候まゝ右の櫛くしを御手元おてもとへ差上候明朝早々に野尻宿へ御出で下され金子きんす御受取被成候へば私し事は何いづれ近々の中に當所を立ち退のき候て何國の果はてにても永く夫婦と相成申したくと夫のみ此世の願ひと祈いのり居り〓(まいらせそうろう)どうぞ〳〵御目おめもじのうへ山々やま〳〵御もの語がたり申し上ぐべく候

あら〳〵めて度〓(かしく)
うめゟ
昌次郎殿へ

と有りけるに座中の人々彌々いよ〳〵驚き偖は其方が野尻宿の近江屋のお專殿せんどのなるか而して又持參の此文はと惘あきれ果てたるばかりなりお專せんは猶なほも座を進すゝみ何と此文は覺おぼえが有りませう彌太八とやらの歸りし跡あとに此文が落てありしは天命ならん然し左右とかくに爭ひ給はゞ此文を以て御上へ訴うつたへ御吟味を願ひませう夫とも只今百五十兩出し給ふか如何にぞやと理りを詰つめて申しければ昌次郎も一言ごんの答こたへもなく赤面せきめん閉口へいこうしたりしは心地こゝち能よくこそ見えにけれ父上臺憑司堪こらへ兼かねて立ち上り昌次郎の襟髮えりがみ掴つかみ疊たゝみへ摺すり付け打据うちすゆるにお早は娘お梅が髻たぶさを掴つかんで引倒し怒の聲を震ふるはしつゝ茲な恩知ず者め傳吉どのが留守中何時なんどきの間にやら不義ふぎいたづら傳吉殿に此伯母が何なに面目めんぼくのあるべきや思へば憎にくき女めと人目繕つくらう僞にせ打擲ちやうちやくも是れ又見捨て置れねば又人々は取押とりおさへ彼是れ騷動さうどう大方ならず時に憑司は其座の人々四五人に何か談はなして打ち連れ立ち自分の宅へ戻もどりしが間もなく入り來りて傳吉殿此人々と立ち合ひにて悴せがれの部屋へやを改あらたむると此の通り百五十兩胴卷どうまきの儘まゝ仕舞しまうて有り是にて候やと差出すに傳吉は篤とくと見て成程私しの胴卷どうまきなりと云ひつゝ中を改め一錢の紛失ふんじつなしと云ふにぞ然らば受取給へ何分にも親類しんるゐのことなれば此儀は内分に濟すまし呉れよと憑司は一向かう誤あやまり入り悴せがれは只今勘當かんだうすべしと詫わびける故其座の年寄組合など種々扱ひ金子の歸りし上は先々穩便をんびんに濟し給へと申しければ傳吉は暫しばし言葉ことばはなかりしが皆々樣の御扱あつかひにて金子は無事に戻もどりしゆゑ私しも内分にて濟すまし申すべくと直に硯すゞりを引寄て三行半を書かきて之は女房梅が離縁状りえんじやうなり姦夫の實否じつぴを糺たゞさずして離縁なすは百五十兩の金皆々樣の御骨折ほねをりにて我が手に戻もどりし歡よろこびなれば申し分もこれなきことなりお早はやどの儀ぎは現在げんざい叔母に候あひだ私しが養育やういく申べし夫共お梅の方へ參りたくは夫程の手當てあてを差上申べしと云ば伯母お早も默然もくねんとして居たりしが此上にも傳吉殿に養やしなはれ申も氣の毒なり梅方へ參り度と申ければ其儀なら私しが貯ためたる金子百五十兩の中を半分はんぶん分て伯母御が一生の養育料やういくれうにと分ち與あたへければ其座の人々大いに感心かんしんなし傳吉どのは五ヶ年の間天下の御膝元ひざもとの江戸で揉もまれた故ゆゑ違ちがうた者なり是にて相濟あひすむ上からは名主殿も御子息の勘當を御免ゆるしなされ又お梅殿傳吉殿那程あれほど捌さばけて申さるゝ故嫁御に致されしかるべしと皆々取なせば憑司は一同へ打向うちむかひ此度このたびの一條は何と申樣もなき悴せがれの不埓ふらち我は何樣御扱かひ有あり迚とても勘辨かんべんなすべき譯ならねど村中の口添くちぞへに餘り愛相なき事故に曲まげて差赦さしゆるせしにより人々は大に悦よろこび傳吉に昌次郎お梅をば詫わびさせ其夜の中に事を濟すませ叔母も名主方へぞ參りける是は傳吉が留守中るすちうおはや憑司は不義ふぎなしお梅は昌次郎と密通みつつうに及びて居たるを村中にても薄々うす〳〵知て居る者あれば幸ひと引取り親子共に夫婦となりける又おせんも我身わがみの明あかりもたち傳吉へ金も戻もどりし上は人々に暇いとまを告げ野尻のじりへ立ち歸りぬ


第十一回


 扨世話好者せわずきの多きは常なるに傳吉か宅へ其夜來し人々は翌朝五六人おせんを野尻のじり宿の與惣次方へ送おくり行き前夜の始末しまつを話し又傳吉が心の廣きこと恨みある伯母に艱難辛苦かんなんしんくして溜ためし金の半分を遣つかはし其場を濟すませし事迄を落なく語りければ與惣次は大いに感心かんしんなし如何にも今の世には得難き人なり殊に女房叔母ともに奇麗きれいに向ふへ遣つかはし温順おとなしき心底なりと傳吉が徳とくを譽稱ほめたゝへて止まざりける此の時村人與惣次に申しけるは人家の女房にようばうは眞棒しんぼうなり傳吉殿も今江戸より戻り大略たいりやく元の身代に成らんとなす折柄をりから女房が無ては萬事不都合ふつがふならん夫に付此方のお專殿を傳吉殿の妻に御遣つかはしあらば實に幸ひならん此度の事はお專殿せんどのの働はたらきにて不思議に金子手に戻もどり殊ことに發明なる性なれば何と與惣次殿我々斯かく申も言いはば傳吉殿に牛うしを馬うまに乘替のりかへさせ先の者どもへ見せつけて遣んとおもふ心なり其所は其許もとの胸むね一ツ何卒兩人夫婦にさせては呉くれまいかと無造作むざうさに頼たのめば與惣次よそうじ承知なしお專を養女やうぢよに貰もらひ受け傳吉に添そはせることに取極め翌日は吉日なればとて上臺じやうだい憑司其他の人を打招うちまねき與惣次を舅入しうといり一所にして首尾能く婚姻なしける


第十二回


 偖さて祝儀しうぎも濟すみて與惣次と傳吉お專而已のみなればお專傳吉に打向うちむかひお早どのは私しが養母やうぼにてお梅どのは私しの姉あねなり豫かねてお咄はなし申せし如く私十二歳の時に病氣の父ちゝを捨すてて家財かざい殘のこらず掻かきさらひお梅どのを連つれ欠落かけおちなせしかば私に逢あうては恥はづかしく夫ゆゑ參らぬと見えたり然乍さりながら是必ず他人に語り給ふなと言はれて傳吉吃驚びつくりなし其方が咄はなせしは我が叔母にて有けるや餘所よそのことぞと聞てさへ憎にくしと思ふに其の人は我が叔母女房にて有けるかと驚入おどろきいるぞ道理なりお專せん又申樣然らば此度の儀も叔母御は必ず村長の憑司殿と譯わけあらん依てお前を倒たふし我が子を夫婦となせし上自分も共に樂たのしまんと櫛くしを盜ぬすませ金を騙かたり取らせしならんと云ふに與惣次打點頭うちうなづき成程お專が言ふ如く毒ある花は人を悦ばせ針はりある魚は汀なぎさに寄る骨肉こつにくなりとて油斷は成じ何とぞ一旦兩人の身を我が野尻のじりへ退きて暫時ざんじ身の安泰あんたいを心掛られよと諫めければ傳吉は是を道理もつともと歡こびて或日傳吉は憑司方へ到り此度都合により他所へ引移ひきうつり商賣を致し度と申しければ憑司は傳吉が此村に居る時は何かに面伏おもぶせなるゆゑ是幸ひと早速承知しようちなしたるに傳吉は立歸り少しの田地は人に預け夫婦諸共に野尻のじりへ引移りしかば與惣次よそうじも老人故家内の世話は傳吉夫婦に任まかせけるに傳吉は正直實義の男なれば何いづれも深切しんせつに取扱ひ殊ことにお專は發明ゆゑ與惣次も安堵あんどなし茲こゝに二三年を送おくりける時に寶田村の上臺憑司親子四人の者は傳吉が村中むらぢうに居ざるを喜悦よろこび奢おごり増長して傳吉が人に預けし田地を書入にして金を拵こしらへ其上村の持山もちやまを村人に相談もせず金三十兩餘に賣うり横領わうりやうのありければ百姓共は堪忍かんにん成難なりがたしと高田の役所へ訴へければ役人吟味ぎんみのうへ憑司事重々不屆の儀に付村役召放めしはなされ其上小前の百姓へ早々勘定致すべき旨嚴敷きびしく仰付られけるに依て寶田村にては名主の跡役を見付相願はんとて惣寄合そうよりあひ商議だんがふせしに傳吉の親迄代々彼は當村の名主の家なり然らば此度は傳吉へ名主役やく仰せ付られ下さるやうに願はんと評議ひやうぎ一決なし其段願ひ出しに付榊原さかきばら家の役人中早速傳吉を召返し寶田村名主役仰付られければ爰こゝに於て傳吉は寶田村たからだむらの名主になり昔むかしに歸る古卿の錦にしき家を求て造作なし夫婦の中も睦むつましく樂き光陰を送おくりけり偖又夫に引替上臺憑司は己が惡あしきに心付ず之れ皆傳吉夫婦が有故に斯かゝる禍ひに逢たりと理も非ひも分わかず傳吉に村役むらやくを取られしとて深く恨うらみ高田の役人へ手を廻まはし此怨うらみを晴はらさんと種々工夫を巡めぐらしけるしかるに高田役所にても先の奉行并びに下役の者ども替り新役になりければ此時ぞと思ひ役人に賄賂まいないを遣ひ傳吉のことを惡樣あしざまに言なしける傳吉は元正直律義の生れ故諂へつらふことをせず用向の外は立入ことなければ當時の役人供ども傳吉は行屆ぬ者と思ひしより遂つひに憑司の方を贔屓になしけるが然とて傳吉に落度おちどもなく別に咎とがむべき筋もなければ其儘まゝになし置を憑司は何にしても先役せんやくに立歸らんと色々賄賂まいないを遣つかひけれども是ばかりは急きふのことにも埓明らちあかず親子商議しけれども金は容易よういに調とゝのひ難く之に依て悴夫婦を江戸表へ稼ぎに出し金子を拵んと旅の用意を致いたし日暮ひぐれに寶田村を立出猿島さるしま河原まで來りしが手元の暗くらければ松明を燈ともさんとて火打道具を見るに火打石いしを忘わすれたり是れより昌次郎はお梅を河原に待せ其身は取て返しける時に昌次郎夫婦は出立の後あとに火打ひうちが殘のこつて有る故急ぎ忘れしと見えたり屆とゞけ呉くれんと親の上臺は後より携たづさへて馳はせたりしが昌次郎とは往違ゆきちがひに成たり偖又譚はなし替かはつて此猿島河原は膝丈の水成しが一人の雲助若わかき女を脊負せおほて渡り來りて河原に動どつさりおろし女に向ひ今も道々いふ通り今夜の中女郎に賣こかす程に此己を兄樣あにさまとぬかしをれ只た三年の苦みだ斯かう己おれに見付つたが百年目否いやでも應おうでも賣ずにや置ぬと威おどす言葉も荒あらぐれに女は涙の顏を上あげ何卒なにとぞ免ゆるしてたべ妾わたしは源次郎と言いふ夫をつとのある身金子が入なら夫より必ずお前に進まゐらせん何卒我家へ回してと泣々なく〳〵詫わびるを一向聞ず彼の雲助くもすけは眼を剥むきだし是程に言ても聞分きゝわけぬ強情がうじやう阿魔あまめ然らば此所で打殺し川へ投込なげこむ覺悟かくごをしろと手頃てごろの木の枝えだ追取て散々さん〴〵に打けるをお梅は片邊に見居たりしが迯出にげいださんとする所を雲助くもすけ眼早めばやく見咎めて爰にも人が居をつたか今の話しを聞ききたる奴やつは逃にがしはせぬと飛掛とびかゝつて捕る袂たもとを振拂ふりはらひお梅は聲立人殺し人殺しぞと呼所よぶところへ昌次郎の後あと追おうて此所へ來かゝる親上臺は女のさけびごゑを聞きゝ其所に居るのはお梅かと言へばお梅はオヽ父とゝさん何卒どうぞ助たすけて下されと聞くより上臺は馳寄はせよるに雲助は是を見て邪魔じやまだてなすなと棒ぼう振上ふりあげ打うつて掛るを引外し脇差わきざし拔ぬいて切懸きりかゝるに彼の雲助は逃乍ながら女を楯たてに受ると見えしが無慘むざんや女は一聲きやつと叫さけびしまゝに切下げれば虚空こくうを掴つかんでのた打うつ間ひまに雲助又も棒ぼう追取おつとり上臺が膝ひざを横さまに拂はらへば俯伏うつふしに倒るゝ所を雲助は乘掛のりかゝりつゝ打のめしたる折をりからに昌次郎は歸り來り拔手も見せず雲助が肩先かたさき深ふかく切付ればウンと倒たふれるを上臺は漸々やう〳〵起上おきあがり一息ほつとつき親子三人は顏かほを見合せ互ひに無事ぶじを悦よろこびつゝ頓やがて四傍を見廻せば片邊かたへに女の倒たふれ居て朱あけに染そみ息も絶たる樣子やうすなりとて憑司は礑はたと手を打是と云も元は傳吉から起おきたこと然らば此死骸しがいへ昌次郎お梅が着類きるゐを着きせ此所へ殘し置き我また別に能よき工夫くふうありとてかの曲者並びに女の首くびを切きつて川へ流し二人の着類きるゐを着せ替て昌次郎夫婦は甲州路かふしうぢより江戸へ赴おもむかせたり


第十三回


 偖さて又また憑司は其夜昌次郎を立せやり草履ざうりに血の付たるを持もちて傳吉宅へ忍しのび込こみ庭にはの飛石とびいしへ血を付置き夫より高田の役所へ夜通よどほしに往て訴うつたへ捕方とりかたを願ひける偖又傳吉方にては斯かゝることの有りとは夢ゆめにも知らざれども所謂いはゆる物の前兆ぜんてうならんとお專が見たる夢ゆめの惡あしければ夫をつと傳吉に此事を語かたり其吉凶きつきようを猿島川さるしまがはの向ひなる卜ひ者へ出向はれ身の上を占うらなひ貰もらへ給はれとお專が勸すゝむるにぞ傳吉も彼方に立出或山路へかゝる所に一人の侍士さむらひに逢あひ能々見れば先年新吉原の三浦やに勤つとめし頃同家の空蝉うつせみの許もとへ毎度まいど通ひし細川の家來井戸源次郎にてあり傳吉是はとばかり立止たちどまるを先方にも貴樣きさまは傳吉ならずやと云ふに久々ひさ〴〵にて御目に懸かゝりたり何の御用にてと尋たづねければ源次郎は大いに急込せきこみたる樣子にて然ば貴樣が三浦やの暇いとまを取し後空蝉うつせみを受出うけいだし名も千代と改あらためて我妻となしけるが實親じつおやは越後に在るとのこと故彼れが實家じつかを尋たづねんと此地へ來り今朝こんてう馬丁うまかたの惡漢が我が妻ちよを勾引かどはかし何れへか引込みしが跡より追懸おひかけ尋たづぬれ共一方行方ゆきがた知しれず所々しよ〳〵方々はう〴〵尋ね居れりと物語ものがたりけるに傳吉聞て偖て憎にくき奴やつの仕業かな偖々御困りならん何れにか御商議さうだん申上げん程に私し方へお出あれ然共されども只今は急ぎの用事して猿島川さるしまがはまで罷越まかりこせば今晩にも私し方へ入らせられよ寶田村傳吉とお尋ねあれと互ひに苦勞くらうの折柄右と左りへ別わかれける斯て傳吉は畑村はたむらの占ひ者の宅へ急ぎ行き夢物語ゆめものがたりして吉凶きつきようを委細尋ねければ占ひ者暫時勘考かんかうせしが是は大凶だいきようなり其故は斯く〳〵と傳吉か身に後大難のあることを判斷はんだんなして此上信心しんじんが肝要かんえうなりと申しけるにお專も大いに心配しんぱいなし然らば明日より鹽斷しほだちなり斷食だんじきなりして信心を致しお前の身に凶事きようじなき樣やうに致さんと夫婦は來方こしかた行末ゆくすゑを思ひ續けて夜は遲おそく打臥ける翌朝傳吉は神前に向ひて拜するをお專は見てお前まへ裾すそに血が付て居るは如何なされしやと問はれて傳吉は驚おどろきながら打返うちかへして見れば裾裏すそうら所々に血の付て居る故是は不思議ふしぎなる事哉かな昨夜河原にて物に躓つまづきけるを偖は人にても切きられて居たるやと見れば庭にはの飛石とびいしにも草履ざうりにて血を踏付ふみつけたる跡ありけるに依よつて草履を返し見れば血の付て居ざるにそ偖さて不思議ふしぎ成なることなりとて血を洗あらひ落おとさんと夫婦水を汲くみきて庭石にはいしを洗はんと爲所するところへ上臺憑司が案内あんないにて關田の捕方とりかた内へつか〳〵と入くるに傳吉夫婦は何事やらんと驚おどろくを後眼しりめに掛かけ憑司は役人に向ひ御覽の通り飛石は血だらけに候と申す言葉に終ひに役人上意じやういの聲こゑと諸共もろともに縛いましめける傳吉大いに驚き私し身に取とり犯をかせる罪は決けつしてなしと言ひけれども捕方とりかたは耳にも掛かけず申し分あらば奉行所ぶぎやうしよに於て申すべしと傳吉を引立行くにぞお專は狂氣きやうきの如く是は何故の御捕方と後あと背掛おひかけて往きけるが役人傍へも寄せ付ねば詮方泣々我が家に歸り聲を惜をしまず嘆なげきしが偖ては前夜の夢は此前兆ぜんてうにて有りけるか然し憑司殿か案内こそ心得ぬ豫て役人を拵こしらへての惡巧わるだくみか如何せんと獨ひとり氣を揉もむ折柄をりからに近邊の人々も驚きて何故傳吉殿は召捕めしとられしと種々評議ひやうぎに及および頓やがてて女房おせんを連つれ組頭百姓代共打揃うちそろひ高田の役所へ罷り出御慈悲じひを願ひけれ共一向取上にならず傳吉は入牢じゆらう申付られ女房おせんは村役人へ預あづけ遣つかはす旨申渡されける


第十四回


 時ときに享保きやうほ十年九月七日越後高田の城主じやうしゆ榊原家さかきばらけの郡奉行こほりぶぎやう伊藤いとう伴はん右衞門公事方吟味役小野寺源兵衞川崎金右衞門其外役所へ揃そろひければ繩付なはつきのまゝ傳吉を引据ひきすゑ訴訟人そしようにん上臺憑司かみだいひようじをも呼出し伊藤は嚴いかめしく白洲しらすを見廻し如何に傳吉汝猿島さるしま河原にて昌次郎夫婦を殺せしは如何なる仔細しさいなるや有體ありていに申せと云ひければ傳吉漸々やう〳〵頭かうべをあげ恐おそれながら私し愚成ぐなりと雖も村役を相勤あひつとめ御法度ごはふどは辨わきまへ居をれば爭いかでか人を殺すべきや殊に憑司父子の者は私し親類しんるゐに御座候へば何故意恨等いこんなどを含ふくみ申さんやと云ふを默だまれ汝人を殺さぬ者か衣類いるゐの裾すそに血ちを付け其の上我が入口の飛石へ血の跡あとを殘のこすべき此段は憑司が訴うつたへの通りなり何故に汝が衣類に血のつきたるやと詰なじれば傳吉は私し昨夜さくや畑村はたむらより日暮ひぐれて歸る時河原にて物ものに跌つまづき不審ふしんに存じ候が定めて酒に醉よひし人の寢ねて居ることゝ存じ咎とがめられては面倒めんだうと脇わきへ寄よつて通り拔ぬけしが眞しんの闇やみゆゑ死人とは一向かう存じ申さず今朝衣類いるゐ并ならびに庭の敷石しきいし等へ血の着つき居をりしを見出し驚おどろき申候然されば昨夜跌つまづきしは全まつたく殺害せつがいされし者と初めて心づき候因て殺し人は外に御座候はん恐おそれながら此儀御賢慮ごけんりよ願ねがひ奉つるといふをも待またず小野寺源兵衞席を進み聲こゑ荒あらくいかに傳吉汝おのれ邪辯じやべんを以て役人を欺あざむく段不屆ふとゞき千萬なり其の申分甚だ暗くらく且又裾すその血而已に有らず庭のとび石に足痕あしあとあるは既に捕手の役人より申立し如く其血を夫婦ふうふにて洗あらひ落おとさんと成しゝ機をり捕手の者罷まかり越こし召捕めしとりしと申ぞ是これ天命てんめい逃のがれざる所なり之にても未だ陳ちんずるやと威猛高ゐたけだかになつて申けるに傳吉は恐れながら裾すそ并ならびに敷石しきいしに血の着つきたるを以て證據と遊あそばされ候事一應おう御道理ごもつともには候へども私し家内の脇差わきざし出刀庖丁でばばうちやうの類刄物はもの御取寄おとりよせ御吟味下され候へば御疑うたがひも解とけ申べし其上憑司は私しの叔父なり昌次郎は從弟いとこなり又妻つま梅うめは私の先妻にこれあり叔母は憑司が方に居り斯かくの如く繋つながる親類ゆゑ假令たとへ一旦たんの恨うらみあり共親身の者爭いかでか殺さるべきやと義理ぎり分明に辯解いひとくを川崎金右衞門聲をあげ默だまれ傳吉威もの〳〵しく言葉を飾かざり刄物の吟味を申立るが夫を汝に習ならはんや其意趣そのいしゆある事を言聞さん憑司事先年村持の山を伐きりたる咎とがに依て村役を退のけたり其跡役あとやくは上の思召にて汝を村長に致したる處御意を振ふるふ故村中の者先代憑司が時の取計とりはからひを慕したひ汝が村役を上させ先代憑司に仰付られる樣に願ひたるを第一の意趣いしゆに存ぞんじ其上先妻梅事貞實成しをお專とか云ふ宿屋の下女に馴染なじみの出來しまゝ無體むたいに離縁りえんを致し今は梅事昌次郎の妻と成り夫と中睦むつまじきを妬ねたみ昌次郎が柏原かしはばらへ行て暮くれて歸るを待伏まちぶせ河原にて切殺きりころし猶知れざるやうにと首を切きつて隱かくすなど言語に絶えし惡業あくごふなりコリヤ首くびは何處へ隱したるぞ有體に申すべしと云ふを側そばから憑司は額うなづきて恐れながら申上げん私し親類とは申せども近頃ちかごろは一向出入も仕つらず候處傳吉は其の朝に限かぎり用事もこれなきに私し方へ參り悴夫婦せがれふうふが柏原かしはばらへ行事を承知しようちいたし歸りたり只今思ひ合すれば樣子を窺うかゞひに參りしと相見え候と云ふを聞傳吉は憑司に向ひ思掛おもひがけなきことを申さるゝものかな我あの朝は斯樣々々かやう〳〵の用事にてと云はんとすれば伊藤は打消うちけし默だまれ傳吉汝何程僞いつはりでも淨玻璃じやうはりの鏡かゞみに掛て見るが如く己おのれが罪は知れてあり然らば拷問がうもんに掛かけて云はして見せんと笘しもとを以て百許ばかり續つゞけ打に打せければ憐あはれむべし傳吉は身の皮かは破やぶれ肉にく裂さけて血は流れて身心しんしん惱亂なうらんし終に悶絶もんぜつしたるゆゑ今日の責せめは是迄にて入牢じゆらうとなり之より日々に責せめられけるが數度の拷問がうもんに肉落て最早腰こしも立ず纔わづかに息の通かよふのみにて今は命の終をはらんとなす有樣なり爰に於て傳吉思ふやう斯かゝる無體むたいの拷問は偏ひとへに上臺憑司が役人と腹はらを合せてなすと見えたり假令幾度辯解まをしわけする共證據なければとても遁のがれ難し長く苦痛くつうせんよりは身に覺えなき罪に落おちて死を早くなし苦痛を逃のがれんものと覺悟かくごをぞ極めける或日又々郡奉行伊藤半右衞門は傳吉を呼出し汝が何程僞いつはりても惡事は最早知れてあり其夜暗闇くらやみにて昌次郎と爭あらそひしを聞居きゝゐたる者あつて御領主へ疾とくに申上たれば此上陳ちんずるとも無益むえきなりと申しければ傳吉は熟々つく〴〵と心の中に思ふ樣罪なくして無實の罪に陷おちいる我が身にまつはる災厄まがつみとは言ひながら我朝わがてうは神國しんこくなるに神も非禮ひれいを請給ふか正實の頭かしらに神かみ舍やどると世の諺ことわざも僞いつはりかや嗟あゝ情なさけなきことどもなりと神を恨うらみ佛を詫かこち頻しきりに涙に暮居たり伊藤半右衞門は大いに急立せきたて一言の答へなきは愈々いよ〳〵僞りなるべし白状せぬからは骨ほねを割わつても言はせて見せんと大音だいおんに罵のゝしり又もや拷問がうもんに懸かけんとす然るに傳吉は最早もはや覺悟の事なれば疲つかれたる聲をして暫しばらく拷問は御用捨に預あづかりたし實は私し昌次郎に恨うらみあるにより彼等が歸り道に待伏まちぶせし猿島河原にて二人の者を切殺し首を落おとして川へ投入なげいれたるに相違これなく候御定法通ごぢやうほふどほり御所刑おしおき仰せ付られ下され度と申立てければ伊藤は聞て然らば傳吉の口書を以て爪印つめいんをさせよ又追おつて呼出さんと牢らうへ送りけり又同年九月廿一日同白洲しらすへ呼出しに相成上臺憑司并ならびにお早も罷出まかりいで牢らうよりは傳吉を繩付にて引出たり時に伊藤半右衞門申けるは憑司其方共訴うつたへの趣きにより傳吉を段々吟味ぎんみ致せし所彌々いよ〳〵兩人を殺したる趣おもむき白状に及びたり依て罪の儀ぎは追おつて仰付らる則すなはち傳吉が口書の趣き承まはれと讀聞よみきかせければ憑司は誠に御役所の御仁惠じんゑを以て悴と嫁の敵を取候事嘆なげきの中の喜びにして是偏ひとへに御上の御威光ごゐくわう有難ありがたき仕合せに存じ奉ると申し述ける體てい誠まことしやかに見えしかば傳吉は覺悟かくごのことゆゑ只たゞ頭くびを下て嘆息たんそくの外なかりけり今日は皆々白洲を下りける爰に傳吉が妻お專は夫をつとの入牢じゆらうなしたる日より種々に心を痛いため如何はせんと野尻の與惣次方へも知らせて兎とも角かくも相談さうだんせんと思ひ直に野尻の與惣次方へ往ゆかんと支度したくをなしたる處へ養父やうふ與惣次息いき繼敢つぎあへず馳來はせきたればお專は打悦うちよろこび挨拶あいさつの先にたつのは涙にて左右詞ことば出いでざれば與惣次はお專に向ひ其嘆なげきは道理もつともなり昨日聞きたる傳吉の災難さいなん直すぐ參まゐらうと氣は急せくといふとも何も寄よる年に心の如く身は動うごかず漸々やう〳〵馳かけ出し參りたり仔細しさいは何じやと尋たづぬるにおせんは涙の顏かほを上げ譯わけと申すは云々しか〴〵ならん彼の夢ゆめの事より衣類并に庭にはの石に血の跡あとがあつた夫が證據しようこに入牢じゆらうせし事迄落おちもなく咄はなし女心の十方に暮くれ如何致して宜よからんか今日貴公あなたのお宅へ出向き御相談さうだんを願ねがはんと支度をなして居しと語る間も聲を揚あげ歎なげき悲かなしむ有樣に與惣次は眉まゆを顰ひそめて夫は傳吉が人を殺ししたるに非ず殺した奴やつは外に有るべし然しかし憑司が村長を傳吉に奪うばはれたりと思ひ違ひ憤いきどほりを含ふくみ居りしに斯る事出來せしかは其罪を幸ひに傳吉に負おはせしなるべし我又高田の家中に知る人多し金子の手當てあてして高田に到り夫々それ〴〵役向やくむきへ金を遣ひ傳吉が科とがならざるを執とりなし貰もらひ又お專か村方の組合も出て與惣次共々とも〴〵種々しゆ〴〵命乞いのちごひと嘆願たんぐわんにおよびけれども何分其事叶かなはず其中に七日八日隙取ひまどりければ早傳吉は罪つみに陷おちて昌次郎夫婦を殺せし由既すでに白状に及び最早もはや罪の次第も定さだまりし上は力及ばずと聞しお專は狂氣の如く又與惣次も力を落おとし互たがひに嘆なげき悲かなしめ共今は詮方せんかたなく種々に心を痛いためたり


第十五回


 人の憂うれひを憂ひ人の樂たのしみを樂むは豪傑がうけつ好義かうぎの情なり然ば與惣次は如何にもして此無實むじつの罪を解とき命を助せんと種々しゆ〴〵心を痛いたむる折柄をりから將軍家しやうぐんけの御名代ごみやうだいとして禁裏きんりの御用にて當時御老中ごらうぢう酒井さかゐ讃岐守さぬきのかみ殿中仙道筋すぢを上り道中諸願を取上領主りやうしゆ役人などの非義非道なることは取調とりしらぶるとのことにて明後日は追分邊おひわけへんお泊りとの噂うはさを聞きゝ與惣次は大いに喜び然ば御途中とちうに待受まちうけて直に願はゞ萬一傳吉が助かることもあらんか且かつはお專が氣をも取直とりなほさせんと其のことをお專に話はなし早々御駕籠かごへ直すぐに願はんといふにお專は甚いたく打喜悦うちよろこび天へも登る心にてそんなら是より些少ちつともはやくと直すぐに與惣次と同道なし中仙道の追分おひわけへ出て聞けば明日は當驛たうえき晝御膳ひるごぜんなりと言ふゆゑ與惣次お專は漸々やう〳〵胸むね落付おちつけ願ねがひ書を認したゝめ翌日を遲おそしと待請まちうけける時に享保十年十月十六日酒井さかゐ讃岐守殿先供さきとも通とほり掛らんとする處へ六十ばかりの男と廿三四歳さいの女の如何にも窶やつれたる状髮かみを亂みだし打しほれし有樣ありさまにて竹に差さしたる訴訟そしようを以て待居たり酒井樣の先供さきども之を見て汝等何者にて願ねがひの筋は何なに成なるやと云ふ兩人は大地だいぢに手をつき恐おそる〳〵私し共は越後國高田領たかたりやうの百姓しやうにて是なる女の夫をつと無實むじつの罪に落入おちいり遠からず死罪しざいに決し候へ共未だ存命にて入牢じゆらう仕つり居り候何卒御殿樣おんとのさまの御慈悲じひを以つて誠の御吟味ぎんみを仰おほせ付られ御助け下さる樣やう願ねがひ上げ奉りますと述のぶれば武士一人殘のこりて夫は不便ふびんの事なり今に此所御通行つうかう相成時怖れずと委細に申上よと云ひければ兩人は歡よろこびて今や遲おそしと待居まちゐる處へ宿役人大勢おほぜい領主々々りやうしゆ〳〵の役人先を拂はらひ讃岐守殿通とほられける時に殿とのの乘輿のりもの來掛る時先刻せんこく殘のこりし武士手を着つき榊原遠江守百姓愁訴しうそ願ひ奉つると高聲に披露ひろうなすにぞおせんは足許も定らぬまでに悦よろこび漸々訴状そじやうを以て願ひますと差出するに駕籠脇かごわきの士さむらひ請取駕籠の中に差出さしいだせば酒井侯中より彼かの女の樣子を倩々つく〴〵見らるゝに如何にも痩衰やせおとろへ愁うれひに沈みし有樣なれば駕籠を暫しばし立よと止められ其の女是へと呼るゝ故おせんは乘輿のりものの側へ參り土に手をつき頭かしらを下るに讃岐守殿委細ゐさい尋問有りしかばお專一々申上る時又後うしろに控居ひかへゐるは何者ぢやと有るにおせん彼は私父ちゝ與惣次と申者の由申上げしに讃岐守さぬきのかみ殿近習太田幸藏かうざうを呼ばれ其方は後に止り此者どもを今晩こんばんの泊やどに連參つれまゐれと申されければ幸藏はおせん與惣次に向ひ願の趣きお取上に相成あひなりたれば今宵お泊とまりの御本陣迄ごほんぢんまで罷まかり出よと云いひ置おき乘輿のりものを追つて走り行くにぞアラ有難ありがたや嬉うれしやと飛立とびたつばかりに打喜悦うちよろこび泊りの宿へと急いそぎ行きしにお專與惣次を一番に呼入よびいれられ酒井侯には公用人澤田源之進井上喜右衞門兩人に委細ゐさい相尋問あひたづねべき旨仰付られしかばお專與惣次を糺たゞしける時お專面を上あげ傳吉が家の貧窮ひんきうを嘆なげき江戸表へ奉公に出でたることより憑司が悴せがれ昌次郎に金子騙取かたりとられしこと其他そのたありし始末しまつ委細申ければ公用人は篤とくと聞き終り如何にも訴うつたへの趣き道理の樣には聞ゆれ共片口かたぐちにては定め難し何れ主人へも申上べき間旅宿はたごやへ下り明朝罷まかり出よとお專與惣次は宿やどへ下られける右の條々でう〳〵酒井侯公用人より一々申述ける酒井侯暫く工夫有りて當節領主の役人やくにん共非義ひぎの取捌とりさばき是有由豫て聞及びあればと申されて願ねがひの趣き取上と成り翌日よくじつ馬廻の武士岸角之丞御下知書を持もつて榊原殿へ達たつせよと早打はやうちの直使つかひを立られ榊原家の老臣らうしん伊奈兵右衞門へ御用状ごようじやうをぞ渡しける御用状ようじやうの趣おもむき

此度このたび上京に付信州小田井をだゐ宿旅宿の處其領分高田村名主傳吉と申者此度無實の罪つみにて死罪しざいに相決あひけつし既に日限り定り候由右傳吉妻專と申者愁訴しうそ有之近年御領奉行代官に依怙えこの取計とりはからひ有て非義成儀ひぎなるぎ多き由上聞じやうぶんに達し此度道中だうちう愁訴しうそあらば取上申べき樣嚴命げんめいを蒙かうふりしに依て右の訴へ御取上に相成再應さいおうの吟味仰せ付られ傳吉儀御用有之に付私しの仕置しおき相成ず則ち當月晦日迄みそかまでに罪人傳吉并ならびに相手方上臺憑司夫婦かみだいひようじふうふ其外專せん養父野尻宿百姓與惣次よそうじ江戸表差出大岡越前守役所迄追々召連めしつれ可申候且此度掛かゝりの役人やくにん郡奉行伊藤伴右衞門吟味ぎんみ方川崎金右衞門小野寺源兵衞等江戸へ同道可有之右之段主人讃岐守さぬきのかみより相達あひたつし候之に依て此旨むね貴殿迄きでんまで急度きつと御意得候以上

十月十七日
酒井讃岐守内  勅使河原角兵衞
榊原遠江守殿内  伊奈兵衞門殿

然るに傳吉は昨夜より牢内らうないに切繩きりなはを入れて彌々明日死罪しざいと申事故一念ねん唱名しやうみやうして豫かねて覺悟かくご致しける所ろ折節をりふし牢役人らうやくにん來り傳吉に向ひ偖々さて〳〵其方は仕合者なり既すでに死罪に決けつし明日首くびを切きらるゝ所其方が妻つまは酒井樣のお駕籠かごに付願ねがひたるゆゑ再御吟味さいごぎんみとなり明日江戸表へお差出さしいだしに相成と申ことなりと言いひければ傳吉は夢ゆめに夢みし心地にて誠に神佛未だ我れを見捨みすて給はざるやと樣子を窺うかゞひいたりける時に酒井樣より其の朝あさ宿次しゆくじ刻限こくげんの急使にて江戸御老中大久保佐渡守樣へ御用状到達たうたつなし則ち上聞じやうぶんに達たつせられける尤も遠國は皆寺社奉行じしやぶぎやう勘定奉行かんぢやうぶぎやうの掛りの所此度このたびは讃岐守より言上ごんじやうの趣きは餘程よほど入組いりくみし事柄ことがらなりと申上られければ將軍家にも再吟味さいぎんみと有れば越前守が宜しからんと大岡殿へ人撰にんせんにて仰付られける爰こゝに於て榊原殿より傳吉を軍鷄駕籠とうまるかごに入れて役人大勢守護しゆごなし并傳吉妻つま舅しうと與惣次及び榊原殿郡奉行伊藤半はん右衞門公用方下吟味川崎金右衞門小野寺源兵衞訴訟人憑司夫婦皆々江戸表へ出立致させ榊原さかきばらより役人百人ばかり附添つきそひ享保きやうほ十午年十月廿二日江戸着に相成其段そのだん屆出とゞけいでしかば傳吉は直取ぢきとり大岡請取られ入牢申付られ郡奉行其外は江戸表屋敷又は町方等へ下宿げしゆく致しけり偖又享保十年十月廿九日願人ねがひにん憑司夫婦を南町奉行所へ召出されし時越前守ゑちぜんのかみ殿出席有て訴訟人そしようにん越後高田領百姓憑司お早とは其方なるか并ならびに差添さしそへの者喜兵衞甚右衞門何れも罷出まかりいでしやと仰おほせに一同罷出まかりいづる趣き願ねがひあぐれば右願書ねがひしよを讀上よみあぐる

乍レ恐以二願書一奉二申上一候おそれながらぐわんしよをもつてまをしあげたてまつりそろ

越後國頸城郡くびきごほり寶田村百姓憑司并に妻早奉申上候私し同村傳吉と申者親類にも有之候に付先年傳吉江戸表へ奉公稼かせぎにて罷り出叔母と妻とも國元へ差置さしおき候ゆゑ手前配下はいかの儀と申殊に親類にも有之候間留守中母子の者取續とりつゞき候樣世話いたし置し所傳吉國元くにもとへ立歸り候ては右の恩おんを忘れ彼是難澁なんじふを申懸まをしかけいたし且又道中にて野尻宿與惣次召仕めしつかへの下女專と申者と密通みつつう致し叔母女房留守中貞節ていせつを相守候者を彼是惡名を付離縁りえんに及び候段重々不屆の至りに御座候其節彼に異見いけん差加へ候得共却かへつて私し并昌次郎と傳吉妻と不義なと有之候樣に申掛離縁に及び候に今母子の身寄處みよるところなく既すでに道路に餓死がし仕つり候仕合に御座候間見るに忍しのびず無據よんどころなく手前方へ引取百姓共取扱とりあつかひにて是非なく嫁よめに仕つり候處之を遺恨ゐこんに思ひ音信不通ふつうに仕つり其上に昌次郎夫婦を豫かねて狙ねらひ候と相見え柏原と申す所へ夫婦ふうふ罷越まかりこし候跡より付行日暮ぐれをはかり兩人を共に殺害せつがいし立退候へども天命てんめい逃のがれ難し庭の飛石とびいしに血の跡あとこれあり且傳吉衣類の裾すそにも血の付居候に付此儀相顯あひあらはれ召捕れ右の段領主りやうしゆの役人方へ吟味ぎんみ願ひ候處傳吉隱すこと能はず切害せつがい致し候始末白状に及び候然るに今般こんぱん召出めしいだされ御吟味を蒙り候上は何卒御明察めいさつを以御吟味被下置子供二人の解死人げしにんに被仰付被下置候へば有難ありがたき仕合に存じ奉つり候偏に御威光ゐくわうを以此段御吟味ごぎんみ願上候以上

享保十年十月
榊原遠江守領分百姓寶田村 願人 はや
南御番所奉行所樣

讀上よみあぐるに越前守殿憑司ひようじを見られ此願書の趣きにては嘸々さぞ〳〵無念むねんに思ふなるべし不便の次第しだいなり妻早其方の一人の娘を殺ころされ嘸さぞ愁傷しうしやうならん併し屹度きつと傳吉が殺せし共言難いひがたからん而して猿島河原より寶田村へ道程みちのりは何程あるやと申さるゝにお早は憑司が答こたへを待たず四十町許是ありと申立れば越前守殿又其日子供は何時頃いつごろ宅を出何方へ罷まかり越こせしぞと尋たづねらるゝに憑司頭を上げ柏原かしはばらと申す所へ用有つて早朝さうてうより罷り出しなりと申立れば越前守殿疵所きずしよは如何なりしやと申さるゝに憑司娘は肩先かたさきより切付られ疵は數ヶ所ござりまして首くびは隱かくせしや更に見えずと云ふに越前守殿首がなくて我が子と云ふこと如何にして知れしぞと仰おほせければ憑司ヘイ着物きもので分りますでござりますと云ふに成程なるほど我子ならば着物きものに見覺みおぼえあるは道理もつともなり偖々さて〳〵不便ふびんの事哉近々呼出よびいだす間罷り立てと仰せられけり


第十六回


時に享保きやうほ十年十一月五日牢内らうないより傳吉公事宿よりは妻專せん與惣次よそうじ等奉行所へ呼出され大岡殿出座しゆつざ有て傳吉を御覽らんある處に惣身そうしん痩衰やせおとろへ如何にも嚴重きびしき拷問がうもんに掛しと見えて甚はなはだ勞つかれたる樣體だいなり其歳は三十五六歳物柔和ものやはらかなる體なり妻專は之も痩衰やせおとろへたる有樣にて其體てい哀あはれに見えにけり明智の大岡殿故其と見みらるゝ處や有けん詞ことば靜しづかに傳吉汝は如何なる意趣いしゆにて親屬しんぞくなる昌次郎を殺害せつがいせしや憑司ひようじ夫婦の者より願ひ書のおもむき只今たゞいま讀聞よみきかせる間承うけたまはれとありければ目安方めやすかた與力よりき其願書を讀よみ上るに越前守殿又傳吉に向はれ憑司が願ひ書の趣おもむき覺おぼえあるやと云るれば傳吉は漸々やう〳〵に面おもてを上げ恐おそれながら申上ます其儀は私し一向に覺おぼえ御座りません然るに高田の役所に於て數度すどの拷問がうもんに逢あひ骨々ほね〴〵も碎くだけ苦痛に堪兼たへかね是非なく無實むじつの罪に陷入おちいりし所又々再應さいおうの御吟味誠まことに有難仕合せに存じ奉ります訴訟人そしようにん憑司ひようじは現在げんざい私しの伯父ゆゑ如何成前世の業因ごふいんかと存じ斷念あきらめ無實むじつの罪つみに服ふくせしと申立ければ越前守殿是を聞きかれ汝なんぢは然樣に申せ共全く覺えなきものが罪に服するの理有べきや又憑司とても跡形あとかたもなきことは申まじ然されば其方が申事は眞まこととは受取難し能々よく〳〵明白に申立よと仰らるゝに傳吉は迷惑めいわくなる面色おももちにて再應さいおうの御尋問ごじんもんなれども私しは決けつして昌次郎夫婦を殺したる覺おぼえなく且何の意趣いしゆを含ふくむ事も御座なく殊ことに五六年の間江戸へ出奉公仕つり金子百五十兩を貯たくはへ國元くにもとへ歸りし處私し江戸へ出し跡あとにて妻梅と憑司悴昌次郎と密通みつつうを致し居をり私しが持歸もちかへりし金子百五十兩を其翌日よくじつ預あづけ置し所より欺あざむき取しにより其節之なる二度目の妻つま專せんが計はからひにて憑司方より金子は私しへ差戻さしもどし呉くれし故直樣先妻梅は離縁りえんの上昌次郎へ遣し其後同村の者共取扱ひにて昌次郎と表向夫婦に致ました梅の母早事は私し實の叔母なれば永ながく養やしなひ置べき心得の所叔母早儀は憑司方へ強しひて參り度旨申により其意そのいに任せ其節せつ百五十兩の半分を分て遣つかはせし程のことゆゑ私し心底御賢察けんさつ下されたく萬一右等の儀を遺恨ゐこんに思ふ程ならば五ヶ年の間た千辛萬苦せんしんばんくして貯たくはへたる金子をいかに叔母成ばとて分ては遣つかはしませぬ是意旨いしを含ふくまぬ證據なりと申せば越前守其金子は何程なにほどにて又江戸表は何いづれへ奉公なし金子を貯ためたるやと尋問たづねらるゝに傳吉ハイ江戸は新吉原三浦屋四郎左衞門方に五ヶ年相勤め居其内百五十兩貯たくはへし由云ければ大岡殿五ヶ年奉公の内國元くにもとの伯母をばと妻つまとは如何せしぞと云るゝに傳吉給金きふきんの内半分は國元へ遣つかはし半分は主人に預あづけ置し處首尾能しゆびよく相勤しとて褒美はうびに主人より十兩貰もらひ又遊女共より餞別せんべつとして十兩餘り貰もらひ都合百五十兩餘に相成持もち歸かへり其内七十五兩伯母に遣つかはしたりと云立ければ大岡殿其伯母と云は當時たうじ憑司が妻早の事なるやと云れ暫時しばし考かんがへられしが成ほど其方が申立の如くならば如何いかにも人を害がいする程の遺恨ゐこんは有まじ然なから裾すそに血を引ひく而已のみか飛石とびいしに迄血ちの付居たるはいかなることぞと問とはるゝに傳吉答こたへて其夜畑村はたむらへ參り河原にて物に跌つまづきしが眞暗まつくらにて何か分わかりませぬゆゑ早々立歸り翌朝よくてう裾すそに血がつき居たるを見出し其上何者か飛石とびいしへ草履ざうりにて血の跡あと迄付置しか不思議ふしぎに存じ私しの履はきし草履ざうりを改あらため見たれども血の氣は更に之なく如何して飛石とびいしに血が付しかと女房せんと諸共もろともに洗あらひ居をりし處へ憑司が案内にて直樣すぐさま召捕れし上種々拷問がうもんに懸り申分致せ共御聞入相成ず夫故それゆゑ據よんどころなく死る覺悟かくご致し罪に伏ふくしたる旨申すにぞ大岡殿コリヤ其方は其專せんと申す女と密通みつつう致し居るにより先妻せんさいを追出せしと聞きく然樣さやうなるか傳吉否いな全く然樣の事はござりません先達て道中にて私し難儀なんぎありし節此專が金子を預あづかり呉くれ櫛くしを形によこしましてと野尻宿のじりじゆくにての事柄ことがらより彌太八と僞いつはりし者に金子を欺かたり取れしこと專が勸すゝめにより又村中の者を呼び酒宴を催もよほし梅が不義昌次郎が騙かたりの始末相顯あひあらはれ是に因て梅を離縁りえん致し夫より同村の懇意こんいの者が中だちにて專せんを後妻に迎むかへたること迄委細ゐさいに申立此儀は寶田村より差副さしそへに來たる者共へ御尋たづね下さるれば相分りますと申ければ大岡殿如何樣に其方が申處まをすところ聞處きゝどころあり猶追々吟味ぎんみに及ぶとて其日は一同下られたり其後外々の者一通り吟味ぎんみ有し所領主家來の者奸曲かんきよくの取計とりはからひも聞ゆるにより評定所へ差出しに相成たり


第十七回


 同年十一月十日評定所ひやうぢやうしよへ御呼出しに付訴訟人そしようにん相手共腰掛迄こしかけまで相詰あひつめ居し處老中若年寄り及び三奉行を始め立合の役人中今日は天下てんかの御評定ごひやうぢやう日にて諸國より訴訟人夥多おびたゞしく出張なし居けるに程なく榊原さかきばら遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓傳吉一件けん這入はひりませいと呼び込む聲こゑと諸もろともに訴訟人憑司おはや相手方あひてかた傳吉其の外引合共白洲へ出るに傳吉は繩目なはめの儘まゝにて跑踞かしこまる同人妻せん與惣次も謹つゝしんで平伏へいふくなし何れも遠國片田舍の者始めて天下の決斷所けつだんしよへ召出され青あをめの大砂利おほじやり敷詰しきつめて雨覆あめおひを高々とかけ嚴重げんぢうなる白洲しらすの體てい左右には夫々の役人居ならび威ゐを示しめしつゝ靜まり返て見えけるに各々戰慄ふるへの止らぬまでに恐おそれ入てぞいたりける今日榊原家の郡奉行伊藤半右衞門同人手代川崎金右衞門小野寺源兵衞及び附副つきそひ留守居るすゐ等召出されければ此人々は板縁に控ひかへたり暫しばらくありて老中方を始め若年寄わかどしより三奉行並に立合の役人席に着つかるゝや大岡殿中央に進すゝまれ大目附兩脇りやうわきに附て立合るゝ時大岡殿には榊原家家來伊藤半右衞門と呼よばれ其方の吟味ぎんみにて傳吉は罪に伏したる由然樣なるかとありければ伊藤いとう半はん右衞門愼つゝしんで彼段々と吟味ぎんみ仕つり候處其罪明白めいはくに伏し候段相違さうゐ御座なく然るを同人妻せん何樣成儀申上奉りしや再ふたたび御手數おんてかず相掛候段不屆ふとゞき者なりと申けるに越前守殿成程なるほど其方の申所道理もつともの樣には聞えしが其方も榊原の家來けらいにて某が役儀にも准じゆんする事故決斷けつだんに如才じよさいはあるまじきも人命の重きは豫かねて承知しようちで有らう罪の疑うたがはしきは之を問ず功こうの疑うたがはしきは之を擧あげよと衣裳いしやうに血を引飛石に血ちの付たるにて殺したるは傳吉ならんと疑うたがはれ拷問がうもんの嚴敷きびしきに堪兼たへかねて罪に伏せしと傳吉並に專より申立しが此儀このぎ如何いかなるやと云るれば伊藤いとうは面おもてを上げ恐おそれながら段々だん〳〵吟味ぎんみ仕つりし所意旨いし之あり候て殺したりと當人たうにん白状仕つり既に爪印迄相濟あひすみたる上からは彼が罪は明白めいはくなりと申せしかば越前守殿イヤ夫は拷問がうもんの苦くるしみに堪たへ兼ね是非なくも罪に伏ふくせしと云又昌次郎梅の兩人を殺ころし血が走はしりて注かゝらは裾すそ而已のみならず或は襟えり又は袖そでなどへも注かゝるべきに何ぞ裾すそばかりに引べきや此儀このぎ合點がてん行ゆかずシテ其猿島川さるしまかはより寶田村迄道程みちのり何程有やと聞るゝに伊藤卅町程の道程みちのりなりと答こたふれば大岡殿斯かく道程みちのりの有所にて人を害がいし草履ざうりの裏うらに血が付きしとて三十町程ほど歩行あるき歸かへらば必ず地を踏ふみ付て仕舞しまふべきなり空中くうちうを飛行ひかうなさばいざしらず我が庭の飛石に草履ざうりの形かたが血にて明々あり〳〵殘るの所謂いはれなし是これ眞しんに疑うたがふべき一ツなり然すれば傳吉に意旨いしを含ふくみし者猿島川邊へんにて男女の害がいされたるを見留みとめ之幸これさいはひと傳吉の罪に落おとさんと計はかりたるも知るべからず殊に其夜は傳吉も同じ河原を歸かへりしを知しる其者草履ざうりに血を付つて飛石に押おしたるものならんか右二ヶ條の趣おもむき而已のみにても心付べき筈はずなり是これ調しらべし人の過あやまりにして勿々なか〳〵罪は斷し難がたし且又其夜傳吉が參りし占うらなひ者を呼で傳吉の歸りし刻限こくげんを尋ねしや又傳吉が脇差わきざし其他刄物はもの等をも改あらためしや何どうぢやと云るゝに伊藤は今更一言の申上樣もなく恐おそれ入候と申すにぞ越前守殿之は麁忽そこつ千萬なり然しからば一方が訴うつたへばかりを聞て拷問がうもんに掛るは裁判さいばんの法にあらず假令憑司如何樣いかやうに申とも心得有べき筈なり榊原家にても公事決斷けつだんを預あづかる者は器量きりやうなくて有べきや斯樣かやうなる事辨わきまへぬ其方にても有可ざるに事の此こ所こに及べるは眞まことに疑うたがはしきことどもなり是其方に疑ひの掛かゝり糺問きうもんせざるを得ざるなりと仰られければ半右衞門忽ち色いろ蒼然あをざめ恐れ入て答へなし時に越前守殿コリヤ憑司只今聞きく通りにて裾すそに血の引ひき飛石とびいしの血ばかりでは其血とも決けつし難がたし其方覺おぼえあらう明白あからさまに云立ろと云はれしかば憑司は心中ぎよつとして徐しづかに頭を持上もたげたり


第十八回


 大岡殿に向ひ否いな昌次郎夫婦を害ころせし者傳吉の外には御座ござなく其故は昌次郎女房にようばうは元傳吉が妻にて傳吉は只たゞ今の妻專と密通みつつう仕つり母諸共梅は離別りべつせられ道路だうろに餓死がし仕るべき有樣なるを私し親戚しんせきのことゆゑ二人を引取世話せわいたし其後昌次郎が妻つまに仕つりしが傳吉これを却かへつて妬ねたみ其上村長役を傳吉へ申付られ候故ゆゑ名主なぬしの權威けんゐを以て段々押領あふりやう我意等がいとうの振舞ふるまひ候故村中私しへ村長を相勤あひつとめ呉れる樣内談ないだん仕つりしを何方にてか承うけたまはり猶々妬ねたみ彌増いやまし猿島川さるしまがはに待伏居り兩人を殺し私しに氣を落おとさせ向後かうご村中より相頼み候共村長役勤め兼かねる樣仕つりしに相違さうゐこれなく此段何卒御賢察ごけんさつを願ねがひ奉つると申立れば越前守殿傳吉を見られ只今憑司が申所まをすところにては其方はう人殺ひとごろしに相違さうゐなく又無體むたいに叔母と女房にようばうを追出したる由なるが如何いかにやと尋問じんもんさるゝに傳吉は憑司を怨うらめし氣に見遣みやり之は先にも申し上し通り私爭いかでか人を殺ころしうべき又た先妻梅儀を離縁りえん致せしは昌次郎と不義ふぎ顯あらはれし故離縁状りえんじやうを遣やりし又叔母儀も彼より望のぞみて憑司方へ相越あひこしたるは村中總寄合そうよりあひの席の事にて相違は御座なく此儀は總代そうだい差副さしそへの者へお尋たづね下さらば相分る儀と存じ奉つりますと云に越前守どの其方昌次郎梅兩人不義致せしと云は何か確たしかなる證據ありや傳吉此儀は委敷くはしく妻せんへお尋たづね下さるべしと云に大岡殿はコリヤせん其譯わけを存て居るやと云へば私し事未いまだ傳吉妻と相成あひならざる前野尻宿與惣次方に居し時傳吉こと江戸えどより國元へ歸り候とて與惣次方へ泊とまりしに途中とちうより賊ぞくに付られ難儀の由私しを見かけ救すくひ呉くれ候樣申候此時始めて顏かほを見候へば五ヶ年以前私し實家じつか柏原宿の森田屋方へ泊りし旅人たびびとにてと夫より其節せつのことども委くはしく申立後父銀五郎病死びやうし致せしより其所を仕舞しまひ養父與惣次方へ少しの縁合えんあひを以て居りしに傳吉に巡めぐり逢ひ同人より預あづかりし金を昌次郎に欺かたられしこと右金子を取戻せし節昌次郎お梅むめの不義相顯あひあらはれ村中寄合し席せきにて傳吉よりお梅に離縁りえん状を渡したる事迄夫の大事と思おもふ故云々しか〴〵斯樣々々かやう〳〵なりとこと落おちもなく申上ければ大岡殿心中しんちうにお專が才智さいちを感かんじられしが態わざとおせんに向はれ其方は其前より傳吉と密通みつつうせしと憑司より申立まをしたてしが此儀如何なるやと問とひければおせん少しは顏かほを赤あからめイヱ〳〵五ヶ年ねん前私し在所ざいしよ柏原の宿へ一夜泊とまりたれども其節そのせつ父銀五郎病中にて私しは十二歳さい一夜の旅宿はたごに爭いかで然樣さやうの儀ぎを致しませうぞ夫より五ヶ年過すぎまして與惣次方にて出會であひましたは是れ只一夜殊ことに傳吉の身に深ふかき心配しんぱいありて右樣なる猥みだらの事の出來樣やう譯わけは御座ござりませんと申上けるに大岡殿然ば何で夫婦ふうふに成なりしぞと云るればお專ハイ之はお梅うめどのを去さりました跡で村中より勸すゝめられ主人の與惣次も得心とくしんの上其の意に任まかせ傳吉方へ參りしなり此儀は與惣次よそうじ始はじめ村中の者もの共に尋たづね下さらば相別あひわかりますとの答こたへに大岡殿ヤヨ與惣次今專がまうせし通とほりなるやと御尋たづねに與惣次又進すゝみ出其儀少しも相違これなく其節そのせつ寶田村百姓與次右衞門喜兵衞助すけ右衞門八兵衞四人にて專せんを所望しよまうに付遣せし事にて則すなはち其喜兵衞助右衞門は此度差添に罷まかり居ります故ゆゑに尋下たづねくださらば相分るべしといふにぞ喜兵衞助右衞門へ尋たづねられし處二人とも少すこしも相違これなきむね申立まをしたてけるに大岡殿然しからば傳吉は密通みつつうならず委細相分りぬ又盜難たうなんと申は如何なる譯わけぞ百五十兩と申せば大金なり譯なき女に預あづける事是又不審ふしんなりと尋たづねらるゝに傳吉は猶なほ亦また答こたへて私し五ヶ年以前江戸へ出立の時一宿仕つり候が幼をさなくして父ちゝ銀五郎の病氣介抱かいはうの體如何にも孝行かうかうの者と見屆是ぞ誠まことある女と存ぞんぜしにより私し江戸より古郷こきやうへ歸り懸がけ道みちにて惡漢わるものに金子を見込れ甚だ危あやふく心得只今言上せし通り其志こゝろざしも知りしゆゑ櫛くしと取替に金子を預け其夜の盜難たうなんを遁のがれたる儀に御座りますと云立ければ大岡殿大聲を張揚はりあげコリヤ憑司只今傳吉夫婦が言立る所は如何にも明白めいはくなり然すれば其方そのはうは公儀を僞いつはる罪人ざいにん茲こゝな不屆ふとゞき者めと白眼にらめらるゝに憑司はハツと頭かうべを下げ今更一言の云譯いひわけもなければお早は耐こらへず進み出でイエ〳〵彼等は不義に相違さうゐなしと言へば大岡殿だまれ其方には問とはぬぞそれより先まづ其方誰たれが媒妁なかうどにて憑司の妻となりしぞと云れしかばお早はやはグツと差さし詰つまりヘイ誰たれも媒妁なかうどはございませぬが子供等が夫婦ふうふに成ました故憑司と私しも夫婦ふうふに成ましたとの答こたへに白洲の一同どうフツと吹ふき出せしが大岡殿笑わらひを堪こらへ白痴たはけ者め其方が樣子を見るに傳吉が留守るすに不義ふぎ猥婬いたづらを致し居しなるべし傳吉が叔母をばと云は父方が身元を委細くはしく申せと言ければ傳吉は茲こゝに於て是非ぜひなく申立る叔母儀は私の母の妹いもとにて家の相續さうぞくいたせし所聟むこを三人まで追出おひだし淺治郎と申男の病死びやうし後又善九郎と申者と欠落かけおちし行衞知れざりしを先年私し江戸へ飛脚ひきやくに赴きし時鴻こうの巣す宿じゆくより連歸り其後私し儀は梅と夫婦ふうふに成叔母を養ひ置しと申立んとせしが是迄これまでの勞つかれに息切いききれ強く云兼るに付此後は專せん其方より申上げ呉よと言ければ其時おせんは首を上お早が身の素性すじやうより實家じつか森田屋銀五郎の方にて不實ふじつを働はたらきし事まで殘りなく申立るに越前守殿點頭うなづかれコレ早然さすれば汝が不儀の樣子森田屋銀五郎に大恩だいおんを請うけながら其主人宅を取逃とりにげ欠落かけおちをしたる段重々ぢう〳〵不屆ふとゞき至極の奴やつなり入牢申付る縛しばれと有ければ同心共立懸たちかゝり高手小手に縛いましめたりける夫より憑司が村長を退きしことを尋問たづねられしかば憑司はぐつ〳〵答こたふる樣やう私し少し間違まちがひの儀ぎにて村の持山もちやまを伐きりしゆゑ退役いたし其跡にて傳吉儀役人中へ色々諛こび竟つひに村長と相成しが傳吉段々我儘わがまゝ押領あふりやう等の筋之有るやにて又私しへ村長を相頼あひたのみたしと村中の者私しへ内談ないだん仕つりましたと申上るに越前守傳吉に向はれ其方役人に賄賂まいないを遣つかひ村長に成又押領あふりやうとは何を押領せしと尋問たづねらるゝ傳吉只今憑司が申上しは皆みな僞いつはりにて彼事かのことは村の杉の木を己おのれが了簡れうけんにて賣拂うりはらひたるにぞ村方一同立腹りつぷくなし村中よりの願ひに依て退役たいやくを仰付られました其頃そのころ私わたくしは渡世の爲野尻の與惣次方に一兩年も住居ぢうきよいたし居し所村方一同の願ねがひとて役人衆やくにんしうより古郷へ召返めしかへされ名主役仰せ付られしが其節も辭退仕じたいつかまつり憑司儀を取とりなし申せど何分村方にて聞濟きゝずみ呉くれ申さず是とても差添さしそへの者へお尋たづね下さらば相分り申べくと申立けるに大岡殿又また勘右衞門喜兵衞を見られ傳吉は其頃そのころ一兩年村内に居ず松山に在りしや又百姓中總體そうたいの願ねがひにて村長に成しと云が然樣なるや尚又なほまた傳吉近頃押領あふりやうあるよしにて元の村長憑司に頼たのまんと致せしや申立よと言いはれければ兩人は成程傳吉は其節せつ野尻宿與惣次方に居りしを村中の願ねがひにて村長に成しなり傳吉が押領あふりやうせしと云廉かどは如何成儀ぎを致せしや此喜兵衞は一向かう承うけたまはり及び申さず若もしや勘右衞門は承うけたまはりしやと云時勘右衞門は喜兵衞が存ぞんぜぬ事を我等われら承まはる筈はずなしと申に大岡殿其方共は村方にて何役を勤つとむるやと尋たづねられ喜兵衞は組頭くみかしら勘右衞門は百姓總代そうだいの趣き申立つる越前守殿汝等なんぢら知らざれば今憑司の申立は僞いつはりと相見える傳吉は廿年來行衞ゆくゑ知れざる叔母を連歸つれかへり飢渇きかつを救ひ從弟梅を妻つまとして其上五ヶ年の奉公に金子を溜ためし實體じつていなる行ひに感かんじ村中の者地頭ぢとうに願ひ村長にしたるにまた〳〵憑司へ歸役きやくを願ふことはよもあるまじ然らば憑司は疑うたがひなきにあらじ依て手錠てぢやう申付ると有ければ憑司は戰々わな〳〵慄ふるひ出し何か云んとする所だまれと一聲せい叱しかられて蹲踞うづくまりしぞ笑止せうしなる又大岡殿は榊原家の留守居るすゐへ向はれ此度の一條吟味懸ぎんみがかり三人の役人は其方へ屹度きつと預け追おつて呼出すべしと言渡いひわたされたり


第十九回


 再び傳吉并ならびにお專與惣次よそうじを評定所ひやうぢやうしよへ呼出され大岡侯こう如何に傳吉其方は何故暗くらき夜に提灯ちやうちんをも燈つけずして猿島さるしま河原を通とほりしやと尋問じんもんせらるゝに傳吉先日申上げ奉つりし如く前夜專事せんこと惡あしき夢を見し由にて心に掛かゝる旨申に付吉凶きつきようを問とはんと存じ夕七つ時分に宿やどを出しに途中とちうにて先年懇意こんいになりし細川家の藩士はんし井戸ゐと源次郎げんじらうに出會し故ゆゑ如何なる用向ようむきにて此地へ來られしやと問とひしに妻を連つれ信州しんしうの湯治たうぢに參りしが右妻儀は五歳の時人に勾引かどわかされ江戸へ參まゐりしに肌はだの守り袋ぶくろに生國は越後高田領の由よし書付かきつけ有しゆゑ親おやに對面たいめん致させんとて來りし所途中とちうにて妻を馬丁うまかたに奪うばはれ一向に知れざる由承うけたまはり氣の毒どくに存じ彼是と談話だんわ仕つりし中に暇ひま取とりて遲おそく參り日暮くれにならざる内うち歸かへる心故提燈ちやうちんの用意も仕らず歸りは夜に入亥刻頃ゐのこくごろにも相成りしと言ければ大岡殿其方は細川ほそかはの家來と何れにて心易やすくなりしや傳吉私し先年新吉原三浦屋みうらやにて心易やすく相成りました右源次郎殿げんじらうどのの妻つまは三浦やの遊女空蝉うつせみ同人が根引ねびきいたし妻となりし故ゆゑに存じ居ますと言にぞ其の者もの妻つまを失ひしと申せし後其源次郎に逢あひしやと云るれば傳吉其中私し高田御役所へ召捕めしとられし故源次郎には逢あひ申さずと云時傍かたはらより與惣次よそうじ進み出其源次郎と言人其後猿島川さるしまかはより三里ばかり川下にて女の首くびを見付則ち自分の妻の首くび成とて殊ことの外歎なげき近所の寺院へ葬はうむりし趣き私し國元に在し中に專ら噂うはさを致しました然共七八里程ほど脇わきにて確しかとぞんじ申さずとのことに大岡殿其葬そのはうむりし寺と村の名は知り居るやと問とはるゝに與惣次よそうじ其は存じ申さずと云爰に大岡殿其手續てつゞきを大概たいがいに洞察みぬかれし樣子にて扨ては怪あやしき事なりその女を殺ころし又昌次郎梅等が着物きものを着せ置傳吉に難儀なんぎを掛罪に陷おとさんと計はかりしやも知難し首を隱かくす程なれば着類きものをも剥取はぎとるべきに夫を殘のこし置しは不審ふしんなり追々吟味ぎんみに及ぶと言るゝ時下役の者傍そばより立ませいと聲を掛かくるに各々其日は下りけり重かさねて大岡殿細川越中守の留守居るすゐを經て井戸源次郎を呼出し其來歴らいれき或は遭難さうなんの始末等しまつとう逐一尋られたるに傳吉與惣次の口と符合ふがふなしければ尚尋たづねられたるに源次郎夫は其處そこより上の方三里程ほど隔へだてし所に男女の死體ありとの風聞其邊そのへんの夫婦ふうふの者の由其頃ころ噂うはさ仕つりしなり大岡殿其方は其の邊へんにて傳吉と云へる者に逢あひしと申が傳吉方へ尋たづねたるや源次郎成程傳吉は江戸にて知己ちかづきの者故其邊そのへんにて逢あひたれども愚妻ぐさいを失ひし折柄をりからゆゑそこ〳〵に打過すぎ其後寶田村を相尋あひたづね候所何成いかなる罪にや傳吉領主へ召捕めしとられし由其後逢あひ申さず候と云に大岡殿シテ傳吉は何云どういふ縁えんにて存じ居るや源次郎然れば新吉原三浦屋にて其節そのせつ若い者を致して居をりしなりと言立ければ大岡殿又新吉原三浦屋四郎左衞門を呼よばれ其方そのはうが内に先年越後國高田領寶田村傳吉と云者いふものを若い者に抱かゝへたる事ありやと尋問たづねらるゝに成程四ヶ年程以前迄傳吉と言者を抱かゝへ置しことありと云ふに大岡殿其傳吉は其方召抱めしかゝへ中平常の行状ぎやうじやう委敷くはしく云上よとあるに此者儀ぎ初はじめの程は米搗こめつきに召抱へし所至つて正路しやうろ忠實ちうじつの者故二階の客きやくの取扱とりあつかひを申付此役を廓くるわにて若わかい者と云私し宅に五ヶ年の間相勤あひつとめます中少しも後暗あとくらきこともなく實に正直しやうぢき正路しやうろの者なりと言ければ大岡殿は其傳吉事奉公ほうこう中給金其外にて百五十兩程貯たくはへ其元そのもとへ預け歸國の節持返もちかへりしと申が然樣成や四郎左衞門如何にも五ヶ年の内に私わたくしへ百廿兩預あづけ置歸國の節せつ其金を渡し又出精しゆつせい致せし故ゆゑ私し手元より褒美はうび十兩遣つかはし其外遊女共より餞別はなむけを貰もらひ等にて成程百五十兩に成なりましたで御座りませうと云に又大岡殿尋問たづねらるゝ樣先年其の宅の遊女空蝉うつせみ年明後ねんあけご井戸源次郎と云者妻に致たる由其事ありしや又同人を抱かゝへし時の手續てつゞきを申べしと有しかば四郎左衞門成程なるほど夫は手前抱かゝへ遊女空うつせみと申者年明後井戸源次郎樣と申御宅へ縁付えんづきしに相違さうゐ御座無なく又抱かゝへたる節せつは其者の二親は相果あひはてましたるとの事にて揚屋あげや町善右衞門養女やうぢよの由善右衞門より年ねん一杯ぱい廿五歳までを六歳の時に廿五兩に買取かひとりしに相違これなき旨むね申立しかば源次郎四郎左衞門の兩人へ追おつて呼出す事有んと云渡いひわたされ其日は白洲しらすを閉とぢられけり是に於て大岡殿豫かねて目を着つけられし通り傳吉は何れにも正路しやうろの者右の河原にて殺ころされたる女は空せみ又一人の男は彼を勾引かどはかしたる奴やつならんが二ツの首くびを川へ流ながしたるに女の首のみ柳やなぎの枝えだに止とまりたるは則ち縁えんも引ものか左右とかく怪あやしき所なり必定ひつぢやう此公事は願人共の不筋ふすぢならんと流石さすが明智めいちの眼力がんりきに洞察みぬかれしこそ畏こけれ


第二十回


 同月二十三日亦々また〳〵評定所ひやうぢやうしよに呼び出さる大岡殿端近はしぢかく席を進まれ大目附御目附立合にて留役衆吟味ぎんみ書を改めて差出さるゝに大岡殿頓やがて白洲を見られ願人憑司同人妻早相手傳吉同人妻專舅與惣次村役の者喜兵衞勘右衞門榊原家來半右衞門同じく吟味役ぎんみやく小野寺源兵衞川崎金右衞門留守居清水十郎左衞門と一々姓名せいめいを呼はれ憑司に向むかはれ其方が段々願ひの趣おもむき確固たしかなる證據しようこもなし然らば急度きつと傳吉が所行しわざとも相分らず麁忽そこつの訴へに及びしは不屆に思はる人命重おもしとする所只々着類ばかり似たりとて兩人の子供こどもなりと申すと言ども世には染色そめいろ模樣もやうなど同樣成なる着類着きせし者往々あることなり但し死體したいに實固じつこなる目當ありしやと云るゝに憑司は御道理ごもつとものお尋に候悴儀は幼年の内に少々體からだへ彫物ほりもの致し候のみならず喧嘩けんくわを致し子供同士鎌かまで肩先かたさきへ疵きづを附られ候悴が今に殘のこり居候が何よりの證據しようこに御座りますと云に越前守樣成程なるほど確固たしかなる證據ありして其彫物ほりものは何なる物ぞ憑司ヘイ腕うでに力と申す字を大く彫ほつて居ました又大岡殿梅が死體の證據しようこは何じや憑司之は實しかとした證據は存ぞんじませぬと云ふにぞ越前守殿早我は娘の事目的めあてありやと仰さるれはお早ハイ現在げんざいの一人娘何見違へませう姿すがた着類きものと云ひ聊か相違さうゐ御座りませんと云へば大岡殿コリヤ早其方が娘の體からだに疵きずはないかお早一向に御座りませぬと答るに實固しかとさうかと期を押おされ大岡殿喜兵衞勘右衞門と呼ばれ其方ども其時の事を申立よと尋たづねらるれば兩人畏かしこまり領主の役人ども檢視けんし相濟あひすみ取片付仰付られしまでの儀ぎを申立けるに大岡殿其方とも死骸しがい檢視あらための節せつ定さだめて立合たるなるべし其の死骸しがいに今憑司が申た通り彫物疵ほりものきずありしやと尋ねらるゝ兩人ヘイ力と云ふ字が彫付ほりつけて有しと云立るに女の方は如何じや此方にも聞きき込し事あれば僞いつはりを言上ごんじやうなせば其方どもゝ入牢申付るぞと仰されければ兩人は少し戰ふるへながら女の死體は何事も御座りませんが片々の二の腕うでに小さく源次郎命と彫付ほりつけてありまた片々には影物かげものに灸を据すゑたる跡ありと云立れば大岡殿お早に向むかはれ其方が娘は元賣女ばいぢよでも致したか源次郎と云名は先夫のでもなしまた昌次郎でもなし何いづれの人ひとじや存ぞんじたるやと云はるゝに側そばより憑司は然樣の義ぎは存じ申さず候へども豫かねて嫁梅の腕うでにも何か彫たる趣き承まはりし事もありナフお早其彫物ほりものの事に付ては何とか申せし事ありしがナヽと夫と知らする心の謎なぞを越前守殿聞だまれ憑司汝は何を申すぞ早は此この方はうで吟味ぎんみなすに爰な出過者ですぎものめ今早が口より梅が體に疵きずなどは御ざらぬと申立たるに汝なんぢ夫を無理むりに申させても取上には相成あひならぬぞ其源次郎と申はナ細川の家來けらいにて井戸源次郎と云者新吉原の三浦屋四郎左衞門抱かゝへの遊女いうぢよ空うつせみを年明後ねんあけごに妻つまとなし越後に實親じつおやありと探たづね行しに同國猿島河原にて人手ひとでに掛かゝり其首くびをば川下にて見附みつけたりと申す然すれば其方どもか奸計かんけいにて右の死骸しがいへ娘むすめ悴せがれの着物きるゐを着せ傳吉を罪つみに陷おとさんと計りし事鏡かゞみに懸かけて寫が如し重々不屆の次第明白めいはくに申立ろと大音だいおんに云るゝを憑司は恐おそれず傳吉が申するのみを御取上げあるは片手打の御捌おさばきと言いひも果はてぬに默だまれ憑司汝おのれ極惡ごくあくの罪人つみんどとして公儀こうぎの裁判さいばんを片手打かたてうちとは何事ぞ其方が悴昌次郎は傳吉が留守中るすちう不義致し居し段だん重々ぢう〳〵不屆なるを傳吉は其れを知り乍ながら夫となしに梅を速すみやかに離縁りえんに及び其上叔母へ金子迄を遣つかはしたるを阿容々々おめ〳〵と二人ながら引取親子互たがひに妻と致し其上にも厭足あきたらず傳吉を謀はかり罪に行おこなはんとなしたる條でう人畜じんちくとは其方共がことなり然るに奉行所の裁判さいばんを片手打依怙贔屓えこひいきなどと申條不屆者め吟味中憑司は入牢申付る其外双方の者共猶なほ追々おひ〳〵吟味に及ぶと云はれし時直樣すぐさま白洲しらすを閉とぢられたり重ねて同月廿五日新吉原三浦屋并に善右衞門を町奉行所へ呼出よびいだされ又井戸源次郎も罷まかり出しに越前守出座有て四郎左衞門其方抱かゝへの空うつせみと申遊女は善右衞門より買取かひとりしとなコリヤ善右衞門其方は空せみと申女を四郎左衞門に賣うりしやと其方が實じつの娘か何じや僞いつはりを申と入牢の上拷問がうもん申付るぞと云れしに善右衞門は青あをくなりハイ彼かれは私しが實の娘にてはござりません伯父をぢの娘むすめなれども兩親相果五歳より引取ひきとり養育やういく仕つりしと申立る故夫より伯父の名前を始め住所ぢうしよまで調しらべられしに追々口籠くちごもり終に答へ出來ざれば越前守殿仰おほせには其方は胡亂うろんなる事を申者かな伯父夫婦は相果あひはてて跡あとも知れざる由家主いへぬしも確しかと覺おぼえず是これ疑うたがひの一つ又空うつせみが實の親なる者越後と申事なり只今たゞいま汝に引合ひきあはする者ありと井戸源次郎を呼出よびいだされ縁側えんがはに控へるを源次郎其方は四郎左衞門抱への遊女いうぢよ空せみを引取しときあの善右衞門方より貰もらひ請うけしやと尋たづねらるゝに源次郎成程善右衞門方より貰もらひ請うけたりと云にぞ越前殿三浦屋を呼れ其方そのはう抱かゝへの遊女いうぢよ空うつせみを井戸源次郎が貰もらひ請うけしとき此善右衞門が源次郎へ我われは空うつせみの親おやなりと申したは相違さうゐ無なきやコリヤ源次郎も先達さきだつて申立たる通り今一應おう申立よとあるに付き源次郎は更に其その手續てつゞきを告つげければ越前守殿是を聞善右衞門汝が賣渡うりわたしたる空うつせみは五歳の時勾引かどはかされ江戸へ來りしと有り夫を汝なんぢは伯父の娘也と僞いつはりを申立てしも今聞通とほりなり眞直まつすぐに申立よ此上包つゝみ祕かくすに於ては急度きつと申付るぞと聞て善右衞門ヘイ明白めいはくに申上ます私しは然樣さやうなる者を勾引かどはかしはいたしませんが彼は友達の松五郎と云が連來つれきたりまして我姪わがめひなりと段々だん〳〵頼たのみまする故據ろなく三浦屋は私し名前にして賣込うりこみたる趣きを申にぞ越前殿其松五郎は何方いづこにありしやとのお尋たづねに右松五郎は先達さきだつて惡漢わるもの八五郎と申者召捕めしとられし時より何處へか逃去にげさり其後行方分らざるよし申立ければ越前守殿其八五郎とは先達さきだつて八丈島へ流罪るざい申付たる泥どろ八が事ならん其節せつ泥八が申口にて相尋あひたづねし松五郎なる者行衞ゆくゑ知れず勿論もちろん其節ならば其方を急度きつと入牢申付る儀なれども最早もはや年も經し儀故右の松五郎は其方へ尋たづね申付る來る十日迄に尋ね出し召連出よ其方は家主町内組合へ預あづけ申付ると云渡されけり


第二十一回


 斯かくて同年極ごく月二日評定所へ又々前々の通とほり役人やくにん衆相揃はれ右一件の者もの共總殘そうのこらず御呼び出し追々おひ〳〵白洲しらすに呼込に相成役人衆やくにんしう列座れつざ致いたされ時に大岡殿越後國頸城郡寶田村百姓上臺憑司と呼よばれ其方儀是迄段々吟味に及びし所猿島河原切きられ人は其方悴せがれ嫁等の趣き申立ると雖も必ず昌次郎梅とは定め難く其譯わけは同じ衣裳いしやうを着たる者一郷がうの内には往々あるべし殊ことに女の死骸しがいは井戸源次郎妻空うつせみが亡骸なきがらと思はる然すれば男の方も昌しやう次郎にはあるべからず外ほかに殺ころしたる者有るを不屆の調べに及び傳吉を無實むじつの死に至らしめんとなせし條でう不埓ふらちの至なり自然後にて昌次郎夫婦がこの世に存命ながらへ居をらば其方は如何致すぞと申されければ憑司は彌々いよ〳〵我が巧たくみの顯あらはれしかとは思へども猶ぬからぬ面おもてにて恐おそれながら御奉行樣の仰には御座れども着類きるゐ帶おび繻袢じゆばんに至るまで悴に相違御座りませぬと言張を大岡殿聞きかれまだ其樣に強情がうじやうを云居るが既すでに其日は柏崎かしはざきへ昌次郎夫婦して參り夕刻彼所を立歸りしと云にあらずや然らば我が妻を捨すてていまだ一面識めんしきならぬ他の女と道連みちづれになり人の爲に殺ころさるゝ者が有べきやシテ梅は如何いかゞせしぞ汝公儀の役人を僞いつはる重惡者ぢうあくものめと叱しかられしにぞ憑司は今更大息おほいきを吐つき頭を低たれ一言も物もの云ず依て越前守は四郎左衞門善右衞門并に井戸ゐど源次郎へ一々聲を懸かけられコリや憑司夫に居は四郎左衞門善右衞門井戸ゐど源次郎成ぞ此源次郎が四郎左衞門抱の遊女空うつせみと云女を買馴染かひなじみ其空せみは五歳の時人に勾引かどはかされ揚屋町善右衞門口入にて神田かんだ小柳町松五郎が姪成めひなりとて三浦屋へ賣込しが年季明ねんきあけにて源次郎の妻に致し其主人へ願ねがひ湯治たうぢの暇ひまを貰もらひ信州より越後へ實じつの親おやを尋たづねに參る途中馬丁べつたうに勾引かどはかされ源次郎諸方を尋たづねし處猿島河原にて妻が首くびを見付たる由コリヤ源げん次郎其妻の名は何とか申せしや源次郎私し妻さいの幼名をさなゝは上臺千代と守り袋に書付かきつけ之あり千代平常申には慥たしか越後邊の生うまれの由よし明暮あけくれ實の親を慕したひ居りし故私主人へ暇いとまを貰もらひ信州へ參り越後の方を尋ね候處不慮ふりよの災難なんに逢ひ終には猿島河の下にて首を見付みつけたるは先達て申上候と言にぞ越前ゑちぜん守殿何源次郎其方妻つまは右の二の腕うでに源次郎命と彫物ほりものをしてをりしならんと云れしかば然樣さやうなりと言にぞ越前守源次郎其節そのせつ川上に男女なんによの死體したいありし由女の方は其方が妻の千代に相違なし又左りの腕うでに彫物ほりものの痕あとある男は察さつする所勾引かどはかせし馬丁ならん又彼等を殺せしは憑司昌次郎兩人の中なかの仕業しわざなる故に首を切て知れざる樣に昌次郎夫婦ふうふの着類を着置きせおき傳吉を罪に陷おとさんと巧たくみしならん源次郎其方が女房の仇あだは是なる憑司等と思はる憑司是にても猶云分あるか斯の如く明白めいはくに相分る上は眞直まつすぐに申立よ僞ると拷問がうもんに掛骨を挫ぐ共言いはするが何じや〳〵と仰らるゝに憑司是は御無體ごむたいの仰おほせなり然樣なる覺おぼえは御座らぬと言張いひはるにぞ大岡殿は是より一同調しらべんとて榊原さかきばらの家來伊東半右衞門に向むかはれ只今聞通り彌々いよ〳〵猿島川原の男女の死骸しがいは推量すゐりやうに違たがはず源次郎妻と馬丁の者と相見える其方が公事くじ決斷けつだんは甚だ粗忽そこつなり言分有りやと云ふ又與惣次其方は高田へ參りて役人を頼たのみ傳吉が助命願ねがひしが叶かなはず然ながら種々いろ〳〵に取繕とりつくろひ牢屋まで飯を送りしと先達て申立しが其節そのせつ役人へ何を遣つかはし頼み入たるや此義このぎ明白めいはくに言上いひたてよと云るゝ故與惣次は奉行へ金十兩其その下役人へ十兩贈おくりし段を言立いひたてしかば大岡殿作右衞門へ尋たづねありしに始はじめは左とに右かくと陳ちんじしがとても包つゝみ難がたしと存ぜしや寒中見舞かんちうみまひとして金子を貰もらひ請し旨を申に何か肴さかなの類ひならば格別かくべつ金子を受るは賄賂まいないに當あたる不屆ふとゞ至極しごくなり下役兩人も受しならんとあれば金きん二兩づつ貰もらひし旨言立るに大岡殿下役は奉行を見習みならひ所業しよげふ不正ふせいなり且賄賂によつて罪つみの有樣を私しなすは此上もなき不屆者ふとゞきもの伊東半右衞門は揚屋あげや入申付下役二人は留守居へ預あづけ遣つかはす急度きつと戒いましめ置と言渡され傳吉は出牢の上手當てあてして宿預け言付下さげられけり又極ごく月十日傳吉お專與惣次喜兵衞きへゑ勘かん右衞門等を奉行所へ呼出され昌次郎夫婦ふうふの者古郷を出でて何所なにどころか忍しのび居んと内々探索たんさくのため昌次郎梅二人の年齡ねんれいより風俗を大岡殿逐ちく一問糺とひたゞされしに就き一同は昌次郎梅が風俗ふうぞくを委敷くはしく申立且昌次郎の鼻の下に黒くろき黒子ほくろありと云ければ越前守殿二人共ども多分存命ぞんめいにてあらん其方に手懸てがかりはなきやとのことなれども一同更さらに手懸りなき旨むねを申又傳吉より先日御吟味ごぎんみの節思ひあたりしは源次郎妻つま千代事に付て段々だん〳〵御吟味うかゞひしに上臺憑司が娘むすめに候はん此義ぎは私幼少えうせうの頃ころ高田城下の祭禮さいれいを見に參り其節憑司の娘千代は人に勾引かどはかされ行衞ゆくゑ知ずとのこと憑司も探索たんさくせしが分らざるゆゑ捨置すておきたるに先頃御吟味の節せつ苗字めうじは上臺名は千代と申よし彼に相違さうゐなし尤も五ヶ年ねんの間三浦屋にて一處しよに相勤あひつとめ居れ共同人とは夢ゆめにも存ぜず彼は江戸出生とばかり存ぞんじをりました重かさねて此義をも御吟味下さる樣やう願ねがひ上奉つると言に大岡殿横手よこてを拍うたれ扨々積惡の報むくふ所は恐おそろしき物かな我が子と知ず憑司が殺し猿島河原へ捨すてたるは己が實じつの娘むすめの首なりしとはハテ爭あらそはれぬものなり重ねて吟味致さん追おつて呼出す罷まかり立と傳吉を始め一同どう下られけり其後そのご大岡殿は何れ昌次郎夫婦ふうふの者外へは參るまじ江戸表おもてならんと定廻りの與力同心へ急々索たづね申べしと内命ないめい有りしとぞ


第二十二回


 先頃越後國猿島さるしま河原より跡あとを闇くらましたる昌次郎夫婦の者は親おや憑司と計はかりて殺ころせし男女の死體したいへ己等おのれらが着物きものを着きせ夫それより信州の山路やまぢにかゝり忍しのび〳〵に江戸へ來りて奉公口ほうこうぐちを尋たづねけれ共相應の口もなく貯たくはへの路用を遣つかひ切詮方せんかたなく或人の世話せわにて本郷三丁目に裏店うらだなを借かり己おのれは庄兵衞と改名しお梅は豐とよと改ため庄兵衞日雇ひやとひとなり細ほそき烟けむりを立つゝ二三ヶ月暮くらしけれ共天道惡事を憎み給ふゆゑ何どう幸さいはひのあるべきや偖さて又また庄兵衞しやうべゑは傘谷からかさだにに桂山道宅かつらやまだうたくと云醫師ありて毎日雇れ居たり此醫者隨分小金を持もつたる樣子を見請うけ奪うばひ取んと爰こゝに惡念あくねんを發おこし或日庄兵衞は不圖ふと道宅家へ參りしは夜の亥刻過なれども同人は留守るすにて近所の長家は皆みな戸を閉たて有道宅の内うちは庄兵衞勝手覺おぼえし事故四邊あたりに人のなきを幸ひと水口みづぐちの半戸を開て這入金子三十兩着類きるゐ品々を奪うばひ取り知ぬ顏して居たりける扨さて道宅は家へ歸かへりて見れば勝手かつての戸と明放あけはなしありて三十兩の金子と着類三品紛失ふんじつなしたるゆゑ大きに驚おどろき諸方を見るに路次ろじの方水口より這入し樣子やうすなり其中に家主いへぬしも來り大騷おほさわぎとなりしが早々さう〳〵翌日此段大岡殿御番所へ訴うつたへ出るに早速呼よび出され段々尋問じんもんとなり其日怪あやしき者來らずやと申さるゝに私し留守故委くはしくは存じ仕らず候へども隣家りんかの者の噂うはさには日頃雇ひ候庄兵衞と云者參りし樣に存じ候趣き併しかしながら人の咄はなししと云確しかと見屆候義にはこれなくと云ければ大岡殿又々道澤だうたくへ尋問たづねらるゝは其日雇に參る庄兵衞と云者いふものは何所にをるものなりやといはれしかば本郷三丁目徳兵衞店だなに住居ぢうきよなし日々雇ひ候者なれども心底しんていを確かくと存じ申さず越後邊の出生しゆつしやうの者と申立しにより大岡殿以後手懸てがゝりともならんかと樣子やうすを見せに遣つかはされしに役人は家主いへぬし徳兵衞を案内に庄兵衞が家を調べんと至いたり見しに此節女房は傷寒しやうかんにて打臥床とこに着しまゝ立居も出來できぬ體なり斯る所へ家主の案内にて役人やくにん入り來り家搜やさがしをなすよし女房は屏風を立廻たてまはし床に掛かゝり有ありしが後の方に骨柳こり一ツ有しを夫を改めんとなすを妻つまは此品は不正ふせいの物ものならずと手を出す役人共拂はらひ退て中を改むるに金子二十兩有て着類きるゐは見えず是は賣代うりしろなせしやと女房を見れば貧家に似合にあはず下に絹物きぬものを着込居るゆゑ脱ぬがせて見れば男小袖こそでなり是はと役人共も思ひ直すぐさま手配をなして庄しやう兵衞を召捕奉行所へ引き立に成り入牢仰付られ其後そのご段々と御吟味になりしが女房豐とよは病後夫が召捕めしとられしよりハツと逆上なし狂くるひ廻まはりしかば長家中皆々みな〳〵番もすれとも動やゝもすれば駈出かけいでてあらぬことども罵のゝしり廻るにぞ是非なく家主徳とく兵衞并に組合くみあひより願ひ出けるに先達さきだつて御召捕に相成あひなり候庄兵衞の妻豐とよ亂心らんしん仕つり町内にて種々と介抱かいはう且かつ養生仕つり候へども晝夜ちうや安心相成ず難儀なんぎ至極に付何卒御奉行樣にて入牢仰付られ候へば町内ちやうない一同有難仕合也なりと申ける是れは毎度まいど亂心らんしん之者有り家業ならざる中は養生牢らうとて入牢仰付らるゝ故則ち願書取上となり翌日よくじつ本郷三丁目徳兵衞組合くみあひ名主付添へ白洲へ罷り出控居るを大岡殿見らるゝに痩衰やせおとろへ眼中血ちばしりし體てい實じつに亂心らんしんの樣子なれども傳吉始めより申立し梅の人相にんさうに似たる故ゆゑ如何にも言葉ことばを和やはらげられ物靜ものしづかに庄兵衞妻其方が名は何と云ぞ又國は何れ成やと問とはれしかば豐とよはげら〳〵笑わらひ出し御奉行樣さまは私わたしの名は御存ごぞんじないか私の夫は越後國寶田村の昌次郎しやうじらう私は梅と申して上臺の若夫婦わかふうふなり夫を知ぬとは扨々さて〳〵可笑や〳〵と笑ひ狂ふにぞ越前守殿然さも有べし當人たうにんは如何にも亂心らんしんの體ていゆゑ入牢申付ると云渡いひわたされけり其後又奉行所へ梅を呼出よびいだされ亂心らんしんながら其方生國しやうこくは越後高田在ざい寶田村にて父は憑司母は早夫をつとは昌次郎なる由云立しが相違さうゐなきかと尚再三尋問たづねられし上豫て入牢申付られたる庄兵衞を呼よび出されしに女房が亂心らんしんなし奉行所へ召連訴うつたへと成なししを少すこしも知らねば如何なる筋すぢのお尋かと心に不審く引出されしが其時大岡殿庄兵衞を見られ其方は何時なんどき改名かいめいせしぞ其方の名をば何なんと申せしと糺たゞされしかば庄兵衞心中しんちうに驚け共元來不敵ふてきの曲者くせもの故色にも見せず私儀ぎは四ヶ年跡あとに仔細あつて改名かいめいいたし其以前は吉之介と申し候と云に大岡殿然しからば其方妻つま名は其以前梅と申せしなるべし夫婦の者改名は四ヶ年跡あとにては無なく二三ヶ月前に改名かいめいしたるならんシテまた其方が生國しやうこくは榊原遠江守領分越後高田在寶田村成ならん其義ぎ汝なんぢの妻梅が申上しぞと仰おほせらるゝを聞て庄しやう兵衞は默然もくぜんとして居たりしが又大岡殿仰らるゝ樣其方何なん年何なん月幾いく日何故古郷を立て江戸えどへ來りしぞ庄しやう兵衞ヘイ二三年跡あと身代しんだい零落れいらくに付き稼ぎの爲めまかり出しと云ふを大岡殿否いな二三年では有あるまじ二三ヶ月跡ならん夫それとも強情がうじやうを云ならば二三年以前に出て何所いづこに住居すまひいたせしぞと尋問たづねられしかば庄兵衞は何處迄も云張いひはる了見れうけんにてハイ國者の所に居をりしと云にその所は何所にて名は何と云やと尋問たづねられしに淺草邊へんなりしが其の淺草は駒形こまがたにて名は兵右衞門と申すとかシテ其の兵右衞門は只だいま以つて其の所ろに住居致いたすやと問詰つめられしに庄兵衞ヘイ其者そのもの當時は身上を仕舞しまひ國元へ歸り候と申立るに大岡殿は少すこし聲こゑを張上はりあげられコリヤ庄兵衞其方は種々しゆ〴〵の事を云奴なり己れは生國越後國頸城郡寶田村上臺憑司が悴せがれ昌次郎三箇月以前猿島さるしま河原がはらに於て親憑司と謀はかり人を殺して汝夫婦の着類を着置きせおき其處を立退き今は改名かいめいして庄兵衞と名乘其元の名は昌しやう次郎妻つまとよ事元の名は梅うめと云者ならん天命にて其方が妻さい亂心らんしんなし我が手にあり加之しかのみならず親憑司早くも先達せんだつて牢舍申附たり同村名主傳吉を罪つみに陷おとし入んと計り闇くらき夜に昌次郎と兩人ふたりにて男女を殺ころし悴娘の着類を着きせ兩人の首を切きつて川へ流せし趣おもむき最早兩人より白状はくじやうに及びしを己れ此上にも僞いつはらんとならば水火の責に掛かけて言いはする何どうじやと仰おほせに流石さすがの庄兵衞も驚おどろき色いろ蒼然あをざめ戰々わな〳〵慄ふるひ出だし一言の答へもなし大岡殿何じや己れ罪つみに伏ふくせしやと云るゝ時庄兵衞は猶なほも遁のがるゝだけ脱のがれんと思ひ私し全まつたく然樣さやうなる覺えは之なしと申により大岡殿斯かく兩人は罪に伏ふくしたれ共此上にも爭あらそはゞ是非なく拷問がうもん申し附るとこれより庄兵衞の昌次郎は拷問がうもんに掛かゝり種々責せめられ終つひに人殺しの一條より國を立退たちのき江戸へ來り本郷に少しの知己しるべある故是に落附候所天命てんめいにて召捕られし段申立しかば則ち石出で帶刀たてわきより爪印を取て奉行所へ差出しに及およびけりよつて享保きやうほ十一年正月二十三日右一件けんにつき又々評定所へ前々の通り夫々の役人列座れつざある願人憑司并に郡奉行伊藤いとう半右衞門等は牢らうより引出され且かつ又川崎金左衞門及小野寺源兵衞相手方傳吉及與惣次村役差添人尚又引合の細川家ほそかはけの家來けらい井戸源次郎三浦屋四郎左衞門善右衞門皆々みな〳〵白洲へ罷まかり出ければ目安役與力一々名前なまへを呼立る時大岡殿席せきを進まれ是迄段々吟味を遂とげし通り最早其方罪つみに伏したるやと云れしかば憑司は左右さう恐おそれぬ體ていにて私し悴を殺され爭いかでか罪に伏ふくし申さんやと申すに大岡殿其方如何に爭あらそふとも河原の死骸しがいは馬丁と空うつせみの兩人にして昌次郎夫婦は存命ぞんめいいたし居るぞ然るに傳吉を罪つみに陷おとさんと巧たくみ訴訟うつたへしは重々不屆きなる奴やつかなと云はるゝを憑司猶なほ押返おしかへし恐れ乍ら其死骸が馬丁並ならびに空せみと申遊女いうぢよなりと云確固たしかなる證據しようこも御座らずといふに越前守殿馬丁には慥たしかの證據も非ざれ共女は腕うでに源次郎命と彫物ほりものありし故是なる源次郎の申口にて委細ゐさい相譯あひわかりしなり又一人は空うつせみを勾引かどはかたる馬丁に相違あるまじ汝何いかに僞いつはるとも天命爭いかでか惡を助たすけんや早く白状はくじやう致すべしと一々證據しようこを示されければ流石さすがの憑司も包つゝむに由なく實は傳吉に村長を奪うばはれしと存じ彼あれを亡者なきものとなし我また後役あとやくにならんと惡心あくしん増長ぞうちやうせし所役人へ遣はす賄賂わいろの金子に困り悴夫婦を江戸へ稼かせぎに出し給金にて地頭役人を拵こしらへ先役に立歸たちかへらんと存じ此ことを村中へ知らせず日暮ひぐれて立出させし所に猿島さるしま河原迄到いたり火打ひうち道具を失念しつねん致したるを心付昌次郎は取とりに立戻たちもどる時私しは又宅たくにて心付子供等が後あとを追駈おひかけ昌次郎と途中にて行違ひと成り梅一人河原に待まち居たる所雲助風俗ふうぞくの者女を勾引かどはかし來り打叩くを傍かたはらにて梅は驚き迯出にげいだす所を又其者梅をも捕とらへんとて爭ふ所へ私は駈付かけつけ夫と見るより切付しに過あやまつて彼の女を切殺し又悴は雲助を打果うちはたせしかば如何ならんと相談さうだん致し傳吉を罪つみに落おとさんと二人か首くびを切り川へ流し着類を着きせ替かへ其上傳吉が庭の飛石とびいしに血の跡あとを附置つけおきしに我が手に掛かけしは現在げんざい娘千代にてありしか彼が事は行衞ゆくゑ知れず然しかるに彼は親を慕したひ夫へ願ひ態々わざ〳〵尋ね來りしを不便の事をしてけりと強情がうじやう我慢がまんを言張し憑司夫婦も恩愛おんあいに心の鬼おにの角つのをれて是まで巧たくみし惡事の段々殘らず白状なりたりけり依て大岡殿は外々の者共ものどもへも右の趣きを言渡いひわたされ別けて善右衞門には惡者わるもの松五郎欠落かけおち中未だ行衞分らざる由につき猶なほ尋たづね申べきむね嚴重げんぢうに仰付られしかば憑司はたゞ恐れ入てぞ居たりける斯かくの如く追々調べ相濟すみしに付一同口書こうしよ爪印つめいん仰付られ享保十二年二月二日一同呼出しに相成例れいの如く役人衆しう列席れつせき大岡殿夫々科とがの次第申渡されたり

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村百姓   憑司

其方儀ぎ村長むらをさ役をも勤つとめながら傳吉留守中同人叔母早と密通みつつうに及び早を我が家へ引取妻と致し其後村長役を召放めしはなされ傳吉へ後役あとやく申付られしを妬ねたく思ひ加之猿島河原に於て現在げんざい娘千代事空うつせみを切害し其罪を傳吉へ負おはせん事を榊原遠江守郡奉行伊藤半右衞門外ほか下役二人の者共と相謀あひはかり傳吉か無實の汚名をめいを申立彼を亡ひし後のち己れ跡あとに再勤せんと巧たくみし條でう不屆至極ふとゞきしごくに付死罪の上越後國猿島河原に於て獄門ごくもん申付る

右同斷            同人妻   はや

其方儀平常つね〴〵身持みもち宜よろしからず數度すど夫をつとを持もち不貞ふていの行ひありしのみならず森田屋銀五郎方の大恩を忘わすれ病人を捨置欠落かけおち致し其上我か甥をひ傳吉より七十五兩の大金を遣つかはしたる信義しんぎを忘わすれ憑司と密通みつつう致し傳吉を計はかり殺さんと致し候條でう不屆至極ふとゞきしごくに付八丈島へ流罪申付る

憑司悴昌次郎事              庄兵衞

其方儀傳吉先妻梅と奸通かんつうに及びしのみならず傳吉預あづけ置候金子を欺かたり取とり加之そのうへ猿島河原に於て名も知れざる馬丁まごを切害せつがいし自分と梅との衣類着替きせかへ置其罪を傳吉へ負おはせん事を親おや倶々とも〴〵相謀り候條でう重々ぢう〳〵不屆至極に付死罪の上猿島河原に於て獄門ごくもん申付る

昌次郎事庄兵衞妻梅事            とよ

其方義夫傳吉の留守中るすちう昌次郎と奸通かんつう致し剩あまつさへ傳吉歸國きこくの節せつ密夫みつぷ昌次郎に大金を欺かたり取とらせ旁々かた〴〵以て不埓ふらちに付三宅島みやけじまへ遠島ゑんたう申付る

榊原遠江守家來              伊藤半右衞門

其方儀重おもき役儀やくぎを勤つとめながら賄賂まいないを取とり邪よこしまの捌さばきをなし不吟味ふぎんみの上傳吉を無體に拷問がうもんに掛無實の罪に陷おとし役儀を失うしなふ條でう不屆に付繩附なはつきの儘まゝ主人遠江守へ下さる間あひだ家法かはふに行ひ候樣やう留守居へ申渡す

右同斷                  川崎金右衞門

其方儀奉行ぶぎやうの申付とは言ながら賄賂まいないを取役儀を失ひ無體むたいに威權ゐけんを弄ろうし良民りやうみんを無實の罪に陷し入候條不屆に付繩附なはつきの儘まゝ主人へ下さる家法かはふに行ひ候樣留守居へ申渡す

右同斷                  小野寺源兵衞

右みぎ同どう文言もんごん

新吉原奉公人口宿             善右衞門

其方儀松五郎尋たづねの所未だ行衞ゆくゑ相知れざる趣き空うつせみ事千代存命ぞんめいも是れ有らば入牢の上屹度きつと被仰付之處當人たうにん空うつせみ相果候上は一等を減げんじられ江戸構えどかまへ申付る

細川越中守家來              井戸源次郎

其方儀不正ふせいの儀もこれなく構かまひなし

新吉原町一丁目              三浦屋 四郎左衞門

右同文言

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村名主   傳吉

其方儀不正の儀ぎ無之これなく而已のみならず我わが家の衰頽すゐたいを再興さいこうせんことを年來心掛貯たくはへたる金子を惜をしむ事なく叔母早へ分與わけあたへたるは仁じんなり義なり憑司ひやうじ昌しやう次郎と交まじはりを絶たち身みを退ひたるは智なり又梅を離縁りえんして昌次郎へ遣つかはし見返みかへらざるは信しんなり罪なくして牢屋に繋つながれ薄命はくめいを覺悟かくごして怨言ゑんげんなきは禮れいなり薄命はくめいを歎たんじて死を定めしは勇ゆうなり五常ごじやうの道に叶かなふ事斯かくの如く之に依て其徳行とくかうを賞しやうして傳吉は領主より相當さうたうの恩賞おんしやうあるべき旨むね別段べつだん遠江守へ仰せ付らるゝ間此旨留守居へ相心得あひこゝろえよと申渡す

傳吉妻   せん

其方儀貞實ていじつ信義しんぎの烈女れつぢよ民間みんかんには稀まれなる者なり汝が貞心ていしん天も感かんずる所にして斯かく夫をつとが無實の罪明白に成事感賞かんしやうに勝たへたりとて厚く御褒詞はうし有之

信濃國水内郡野尻宿            與惣次

其方儀ぎ專せんが親と成り傳吉が無實むじつの罪を助けんと財ざいを惜をしまず眞實しんじつの心より專を助け萬事に心添こゝろそへ致し遣つかはし候段奇特きどくに思おぼし召めさるゝ旨御賞詞ごしやうし有之

榊原遠江守領分越後國頸城郡寶田村組頭總代 吉兵衞
同               百姓總代 勘右衞門

其方共是迄これまで傳吉の證人に相立あひたち御吟味ごぎんみの節申口諛へつらひなく正直に申上候段譽置ほめおく

斯の如く賞罰しやうばつ夫々仰せ付られ其日の廳ちやうは果はてにける之より傳吉夫婦は晴天白日せいてんはくじつの身となりしのみか領主りやうしゆより帶刀たいたうを許され代々村長役たるべき旨仰付おほせつけられしかば歡よろこび物に譬たとへん方なく三浦屋の主人并びに井戸源次郎を始め其事に立障たちさはりし人々に厚あつく禮を述べ與惣次村役人同道どうだうなし目出度越後寶田村故郷こきやうへ立歸りしかば同村の人々は死せし者の蘇生そせいせし思ひをなし傳吉夫婦此度無實の罪は速に消きえ故郷へ歸りし祝也いはひなりとて村中の者を厚あつく饗應もてなしたり又郡奉行伊藤伴右衞門は討首うちくび川崎金右衞門小野寺源兵衞の二人は帶刀たいたう取上領内構かまひの由夫々領主へ申付られけり斯かくて翌年一週忌しうきに當あたる頃は上臺憑司昌次郎空うつせみ伊藤伴右衞門と彼かの馬丁等まごとうと惡人たりとも刀下たうかの鬼おにとなりしを深く憐あはれみ此人々の爲に僧そうを多く招まねき同村の寺にて大法會ほふゑを執行とりおこなひ村中へは施行せぎやうをなし夫れより後傳吉は倍々ます〳〵其身を愼つゝしみ村人を憐あはれみければ一村擧こぞつて其徳を稱し領主よりも屡々しば〳〵賞詞しやうしを蒙かうふりける又野尻宿のじりじゆくの與惣次の實家は縁類えんるゐの者を以て養子となし其の身は傳吉方へ引取れ一生安樂あんらくに過すごしお專も其後子供幾多設まうけければ傳吉が取計とりはからひにて實家森田やの家名かめいを相續さうぞくなさしめ銀五郎と名乘今に繁昌はんじやうなしけるぞお早親子は年立て後上の大赦たいしやに逢ひ島より歸りしが傳吉之れも憐あはれみ厚く世話なせしに惡人あくにんのお早親子も傳吉が徳とくに感かんじ先非を悔悟くわいごすること少なからず終に尼あまとなり兩人共同村にて人々の菩提ぼたいを弔とむらひ終しとかや爰こゝに不思議ふしぎなるは先年罪科に所せられたる上臺昌次郎が未だ梅と姦通かんつうせざる以前村中に深ふかく契ちぎりし娘有りし所遂に姙娠にんしんなしたる儘親元へも掛合かけあひ出生しゆつしやうの子は男女に係かゝはらず昌次郎方へ引取約束やくそくなりしが娘は程なく男子を産うみたるも産後敢果なく成けるにぞ其親は娘の遺物かたみと生れし幼兒を昌次郎方へ遣つかはさず養育やういくなしたるが此者商賣しやうばいの都合に寄より江戸へ出其後絶たえて音信おとづれもなさざりしにさすが古郷こきやうのなつかしくや有りけん計はからず此度越後寶田村へ立戻たちもどり住居をなせしに依より此を傳吉は聞及び幸ひ上臺の家いへ斷絶だんぜつを嘆なげく折柄故其男子に傳吉より憑司ひようじが田地の外に若干じやくかんの地を遣つかはし上臺の家を相續さうぞく成なさしめける眞に傳吉が行ひは孝道かうだうと信義との徳にて無實の罪に落入おちいりたるも死を迯のがれ一生を榮さかゆる事天の惠めぐみとは云乍いひながら一ツには大岡越前守殿の明智めいち英斷えいだんに依よるものなりと專もつぱら當時たうじ人々ひと〴〵噂うはさをなせしとぞ


越後傳吉一件終

傾城瀬川一件

傾城瀬川けいせいせがは一件いつけん


第一回


 茲こゝに江戸えど新吉原町しんよしはらまち松葉屋半左衞門まつばやはんざゑもん抱かゝへの遊女いうぢよ瀬川せがは夫をつとの敵かたきを討うちしより大岡殿の裁許さいきよとなり父の讐迄あだまで討うち孝貞かうていの名を顯あらはす而已のみか遊女いうぢよの鑑かゞみと稱たゝへられ夫それが爲ため花街くるわも繁昌はんじやうせし由來を尋たづぬるに元もと大和國やまとのくに南都なんと春日かすがの社家しやけ大森隼人おほもりはいとの次男にて右膳うぜんと云者いふもの有ありしが是を家督かとくにせんと思おもひ父の隼人は右膳に行儀ぎやうぎ作法さはふを習ならはせんと京都へ登のぼせ堂上方だうじやうかたへ宮仕みやづかへさせしに同家の女中ぢよちうお竹と云ふに密通みつつうなし末々すゑ〴〵の約束迄やくそくまでして居たりしを朋友ほういうの中にも其女に心を懸かけ色々と云寄いひよりしが早晩いつしか大森右膳おほもりうぜんと深き中になり居ると云ふ事を聞きゝ甚はなはだ妬ねたましく思ひ其事柄そのことがらを主人へ告つげければ不義ふぎは家いへの法度はつとなりとて兩人共暇いとまとなりしかば右膳は女を親許おやもとより貰もらひ受うけ古郷こきやうの奈良へ連戻つれもどりしに父は大いに立腹りつぷくなし勘當せしかば止やむを得えず右の女と夫婦ふうふになり小細工こざいくなどして暮くらせしに生質せいしつ器用きようにて學問も出來其上醫道いだうの心懸こゝろがけも有りし故ゆゑ森通仙もりつうせんと改名し外科げくわを專もつぱらとして傍かたはら賣藥を鬻ひさぎ不自由もなく世を送りし中女子一人を儲まうけ名をお高たかとよびて夫婦の寵愛ちようあい限かぎりなく讀書よみかきは勿論もちろん絲竹いとたけの道より茶湯ちやのゆ活花等いけばなとうに至るまで師を撰えらみて習はせしに取分とりわけ書を好み童女どうぢよに稀まれなる能書のうしよなりと人々も稱譽もてはやしけり此お高一體たい容貌みめかたち美麗うるはしくして十五六歳に成なりし頃は類たぐひなき艷女たをやめなりと見る人毎ひとごとに心をぞ迷まよしける中うち近隣きんりんの社人玉井大學たまゐだいがくの若黨に源八と云者いふものありしが常々つね〴〵通仙つうせんの見世へ來ては話はなしなどして出入りしに此者このもの至いたつて好色かうしよくなれば娘お高を見初みそめ兩親の見ぬ時などは折々をり〳〵手てを捕とらへ又は目顏めがほにて知らせけるに兩親は只一人の娘なれば惡あしき蟲でも付ついてはならずと心を配くばり母は娘の側そばを放はなれぬやうにする故何分なにぶん云寄いひよるに便たよりなく源八は種々しゆ〴〵心を盡つくしけるが或時あるとき下男の與八と云者いふものに酒を振舞ふるまひ小遣こづかひなど與へて喜ばせ聲を潜ひそめつゝ其方そなたの主人の娘お高殿に我等われら豫々かね〴〵心こゝろを懸かくる所お高殿も氣のある容體ようすなれども御母殿おふくろどのが猿眼さるまなこをして居る故咄はなしも出來難できがたければ貴樣に此文を渡わたす間あひだ能々よく〳〵人目ひとめを忍びお高どのへ渡し色いろよき返事へんじを貰もらひ呉くれよ此事首尾よく行かば禮れいは何程も爲なさんと云いふに與八は大いに悦よろこびお高殿も最早もはや十六なれば男に氣きの有るは知れた事殊ことに貴樣おまへの男ぶりなれば出來る事は此與八が請合也うけあひなりと文を預あづかり歸りしが或日兩親の居ぬ隙ひまを考かんがへ右の文を渡わたしければお高は容體かたちを改め其方そなたは主人の娘に戀こひの執持とりもちを爲事なすこと不埓ふらち千萬なり重かさねて斯樣なる事をなさば爲ためになるまいぞと嚴敷きびしく辱はづかしめて文を返かへしけるに與八は案あんに相違し大いに困こまり果はてしが其儘そのまゝにも爲難なしがたければ早速さつそくに源八の方へ到いたり日頃は物柔ものやはらかなる娘故譯わけもなく出來樣できやうと存ぜしが大きな間違まちがひにて斯々の次第實まことに御氣の毒千萬と云いひながら文を返しけるに源八は一向かう腹はらをも立たゝず否々いや〳〵未まだ初戀はつごひのお高殿一度や二度では勿々なか〳〵成就じやうじゆすまじ氣永きながに頼むとて又々與八へ酒さけ肴さかななど振舞ふるまひ手拭てぬぐひ雪駄等せつたとうに至るまで心付或時は蕎麥そばなど喰くはせて頼みしかば與八は又々文をお高へ渡わたし種々しゆ〴〵源八が戀慕こひしたふ樣子を物語りければお高は大に憤いかり文を投付なげつけ一言も云はず直すぐに母へ右の事を話はなせしにぞ父も此事を聞きゝ然樣さやうの者は暇いとまを遣つかはすに如しくはなしと與八へは永ながの暇を遣はし其後源八が遊あそびに來りし時皆々折目高をりめだかに待遇もてなしける故源八は手持てもち無沙汰ぶさたに悄々すご〳〵と立歸り是は彼の文の事を兩親の知りし故なりと深ふかく遺恨ゐこんに思おもひけり


第二回


 夫それ人ひとの性は善なりと雖ども習慣ならひに因て惡となると云いひ又また衆生しゆうじやうは皆惡人なれど信心しんじんの徳に因て惡趣あくしゆを放はなれ成佛じやうぶつ得度とくどなすとも云いふ何樣なにさま善惡ぜんあく相半あひなかばすべし偖も源八は彼の與八に暇の出いでたるは我故なり今は云寄いひよる手蔓てづるもなく成りしかば通仙夫婦の者に遺恨ゐこんを晴はらさばやと思ひて竊ひそかに鹿しかを一疋殺し通仙が表おもてへ建掛たてかけて置きしを夜中の事故一人も知者しるものなかりけり(南都にては春日かすが明神みやうじんの愛あいし給ふとて古へより鹿殺しかころしは科とが重おもしと云ふ)翌朝よくてう所の人々見付けて立騷たちさわぐ聲を聞き通仙の家内かないも起出おきいでて見るに鹿の斃たふれて居る故早々さう〳〵町役人へ屆け奈良奉行へ檢視けんしを願ひ出でけるに通仙を呼出よびいだされ吟味ありしかど素もとより知らざる趣き明白めいはく也然れども外に心當こゝろあたりの者や有あると種々しゆ〴〵尋問たづねらるゝと雖も一向かう心當りもなしと申に奉行所に於ても其身が殺して己が家の前に置おく筈はずは無ければ通仙に非あらぬ事は知れながら本人ほんにん出いでざるゆゑ所拂ところばらひとなりしかば通仙は是非ぜひなく京都へ引越ひきこし苗字めうじを山脇やまわきと改ため以前の如く外科げくわを業とすれども南都と違ちがひ新規しんきの場所故何事も思はしからず漸々に細ほそき煙けふりを立居たるに或日家内の者愛宕あたごへ參りける留宅るすへ盜人ぬすびと押入おしいり賣殘うりのこりし少しの道具を奪取うばひとられ彌々難澁なんじふに迫せまり又々大坂へ立越たちこえしが左右とかく困窮こんきうに困窮を重かさね終に通仙は病死し跡には母と娘のみ益々ます〳〵貧窮ひんきうに迫りしが當頃そのころ鯛屋大和たひややまとと云者いふもの狂歌きやうかに名高く俳名はいみやうを貞柳ていりうと云ひしが此者通仙と入魂じゆこんなりし故妻子の難儀を見兼ねて世話をなしける處尼あまヶ崎さきの藩中に小野田幸之進をのだかうのしんと云人有りしが勘定頭かんぢやうがしらを勤つとめ主用にて常々大坂へ出いで金談等きんだんとうも取扱ひし故貞柳も懇意こんいになり山脇が母子の樣子を話はなし御家中内に相應さうおうの口も有らば御世話下されよ娘の年は十八にして容顏きりやうは沈魚ちんぎよ落鴈らくがん羞月しうげつ閉花へいくわとも謂いひつべき美人なりと申ければ幸之進も獨身どくしん者故大きに好このもしく思ひ我等最早もはや四十歳に近けれども先さきにて構ひなくば母子ともに引取妻に致さんと云ふを夫は重疊ちようでふ何分にも御頼み申とて引合ひきあはせしに大いに幸之進が心に適かなひ母子共引取て大坂に差置さしおき不自由なき樣に金銀を送り半年ばかり世話せしに疾はや主人の供にて江戸へ下くだるに付き母子にも路金ろぎん并びに手形てがたを渡し後あとより下り來るべしと申置きし故頓やがて支度を調とゝのへ東海道を下り豫かねて約束なれば深川の下屋敷へ到着たうちやく致いたしけるに小野田は三年以前に先妻は相果あひはて子供もなく住居も下邸しもやしきの事なれば手廣てひろき暮しに付母娘共大きに安堵あんどして幸之進を大切に待遇もてなしけり夫より又半年程經過たち主用にて又々大坂へ登のぼり尼ヶ崎へも立寄たちよるべき事有りて金四百五十兩を預あづかり急いそぎの旅なれば駕籠かごより乘掛のりかけが宜しと供人も纔わづかに引連ひきつれてぞ登りける


第三回


 偖も小野田幸之進は主命に因よつて江戸屋敷を出立なし大坂へと赴おもむく途中とちう箱根も打越うちこえて江尻へ泊とまり急ぎの旅なれば翌曉よくげう寅刻頃なゝつごろに出立しけるが江尻宿を放はなれて十町ばかり野合のあひへ掛る處へ向ふより二人の旅人通とほり掛かゝり幸之進が馬の脇わきを行違ふ時拔手ぬくても見せず右の片足をばつさり切落きりおとしければ幸之進はアツト云いひ樣さま馬より落る處を起おこしも立たてず突殺す故馬士まごは仰天ぎやうてんなし迯にげんと爲すを一人の旅人飛蒐とびかゝつて是をも切殺すに供の男は周章狼狽あわてふためき後あとをも見ずして迯歸にげかへりける故頓やがて盜賊は荷繩になはを解とき明荷あけにの中に在りし金四百五十兩并びに幸之進が胴卷どうまきの中にありし二十兩餘りの金と大小だいせう衣類迄いるゐまでも奪取うばひとり行衞も知れず迯去にげさりける依て彼の供人は江尻宿へ引返ひきかへし宿役人へ斷ことわり置おき死骸しがいを改め飛脚ひきやくを以て江戸表へ注進ちうしんなし猶なほ又また其身も立歸りて委くはしく申立てければ大守たいしゆよりは公儀へ御屆けの上死骸は引取られしが大守は大いに怒いかられ武士たる者一太刀も合あはせず殺されて用金を奪うばひ取られし事他聞たぶんも宜しからず當家の恥辱ちじよくなりとて改易かいえき申付られ尤も憐愍れんみんを以て家財は家内へ與へられたれば通仙が後家ごけお竹并びに娘お高は邸やしきを追拂おひはらはれ富澤町に若松屋金七と云者いふもの幸之進と入魂じゆこん故此者の方へ引移ひきうつり世話になりけるが如何なる過去くわこの因縁にや漸々小野田が方へ縁付安堵あんどせしに間もなく又もや思ひの外の災難さいなんにて再び流浪るらうの身となり親子涙の乾かわく隙ひまなき所に廿日ばかり立たつ中うち近所きんじよより出火と云程いふほどこそあれ大火となり若松屋金七も類燒るゐせうしければ是までの如くは勿々なか〳〵世話にも成難なりがたく如何はせんと思ひし折柄をりから竹本君太夫と云ふ淨瑠璃語じやうるりかたり金七が上方かみがたに在りし頃よりの知己ちかづきにて火事見舞に來りしを幸ひ小野田が後家の身の上を頼たのみければ君太夫も大坂者ゆゑ一しほ思ひ遣やり夫は嘸さぞ御難儀なるべし片田舍かたゐなかなれども當分御凌おしのぎに淺草今戸の町へ御越おこしあれとて荷物を運送はこばせ引移ひきうつらせけるに日數ひかず立たつに隨したがひお高は熟々つく〴〵思ふ樣幸之進殿盜賊の手に掛かゝり果はて給ひしは嘸さぞ御無念ごむねんに在おはすらん殊更ことさら武士に有るまじき事と諸人しよにんに笑わらはれ給ふ事如何にも口惜くちをしき次第なり我も女には生れたれども敵かたきを討取うちとり幸之進殿に手向たむけ進まゐらせ度たし一ツには行末ゆくすゑ永ながき浪人の身の上母公の養育にもさし支つかへるは眼前がんぜんなり且敵を探さぐるに女の身なれば多くの人に交際まじはるには遊女に如事しくことなし彼の節せつ幸之進殿所持しよぢせられし大小印形に勿論もちろん衣類紙入胴卷どうまきは妾が縫ぬひたれば覺えあり是を證據に神佛へ誓ちかひを掛け尋ね出し敵を討うたで置くべきやと一心を込こめて君太夫に對むかひ其許樣そのもとさまには常々吉原へ入込いりこみ給へば私しの身を遊女に成なされ其その身みの代金しろきんにて母の身の上を御世話下され度何分なにぶん宜樣よきやうに御取計ひ給はれと頼みければ君太夫感心かんしんは爲すものゝ又哀あはれを催もよほし實まことに驚き入たる御志操おこゝろざしなれども夫よりは貴孃あなたの御縹緻ごきりやうなれば御縁の口は何程も有るべし我等豫かねて頼たのみ置おきたれば先まづ待まち給へと云ふに否いな縁付も氣兼きがねが否なれば氣樂きらくに遊女奉公を勤度つとめたしと強しひて望むにより素もとより吉原は心安き所故松葉屋半左衞門方へ相談さうだんしけるに縹緻きりやうと云ひ藝げいと云ひ殊に歳頃も彼の望む處なれば年ねん一杯ぱい二十八までの積つもりにて目見しけるに大いに心に適かなひ身代金百五十兩と取極とりきめ君太夫が請人うけにんにて母の爪印つめいんも相濟あひすみ新吉原松葉屋半左衞門方へぞ到いたりける


第四回


 然程さるほどに新吉原松葉屋にては彼のお高を抱かゝへ樣子を見みるに書は廣澤くわうたくを學まなび琴ことは生田流いくたりう揷花いけばなは遠州流茶事より歌俳諧はいかいに至るまで是を知らずと云ふ事なく殊ことに容貌ようばう美麗うるはしく眼に千金の色を含ふくみ物事ものごと柔和やはらかにして名にし負ふ大和詞なれば人ひと愛あいありて朋輩ほうばいの中も睦むつましく怜悧れいりゆゑ僅わづかの中に廓言葉さとことば外そと八文字の踏樣迄ふみやうまでも覺えしかば松葉屋の喜悦よろこび大方ならず近き中に突出つきだしにせんとて名を選えらみしに初代の瀬川は大傳馬町の或大盡あるだいじんに根引ねびきせられ其後名を繼つぐ程ほどの者なければ暫く絶たえたれども是迄瀬川に双ならぶ全盛なし今度このたび抱かゝへしお高は元の瀬川に勝すぐれるとも劣おとるまじとて瀬川と名を付け新造禿迄かぶろまでを選えらび突出しの仕着しきせより茶屋々々の暖簾のれんに至る迄も花々敷吉原中大評判おほひやうばん故ゆゑ突出つきだしの日より晝夜ちうやの客きやく絶たえる間なく如何なる老人醜みにくき男にても麁末そまつに扱はざれば人々皆先さきを爭あらそひ入り來る故實に松葉屋の大黒柱だいこくばしら金箱かねばこと持もてはやされ全盛ぜんせい双ならぶ方なく時めきける中うち早はや其年も暮て享保七年四月中旬なかば上方かみがたの客仲の町の桐屋きりやと云ふ茶屋より松葉屋へ上あがりけるに三人連にて歴々れき〳〵と見え歌浦うたうら八重咲やへざき幾世いくよとて何も晝三ちうさんの名題なだい遊女を上あげ廿日程の中に十四五日續けて來りしに何いつも二日づつは居續けに遊びしが或時遣手やりて若い者を呼て我等は八丁堀に旅宿して當分たうぶん上方かみがたへは歸らぬ積つもり上方より御當地は勿々なか〳〵面白おもしろく來年にならば古郷は親類に預あづけ江戸住居えどずまひに致さんと思ふなり夫に附て在所へ金五百兩程取とりに遣つかはしたり今いま茲こゝには少しなれども四百兩有れば五六日御亭主へ預けたし其仔細そのしさいは我々江の島鎌倉へ參る間道中だうちうの邪魔じやまになる故預けて行きたし頼み入と申ければ若い者遣手やりて詞を揃そろへ御茶屋へ御預けなさるゝは格別かくべつ此方にては御預かり申まじと云ひけるに其そは大いに道理だうりなり茶屋へも話はなし其の上にて預け申さん御亭主へ相談さうだんして給はれと申故松葉屋にても如何樣いかさま上方の大盡なるべしと茶屋を呼よび右の話をなしたるに上方の衆は關東者と違ちがひ念ねんを入いれ候へば物を堅かたくする心ならんとて松葉屋桐屋共に立出たちいで對面たいめんに及びしかば大金を出いだし五六日預かり給はれと謂いひしに桐屋の亭主其御金は御宿おやどへ御預けなされては如何に候やと云ふに彼の客然れば宿は懇意こんいの者ゆゑ金銀を遣つかふ事を異見いけん致せば預ける事叶かなひ難し其譯そのわけは金を遣ひなくしたりと僞いつはり又々五百兩程在所ざいしよへ取りに遣はしたれば此金は見せ難しとの口上こうじやうゆゑ松葉屋桐屋は金を遣はせるが商賣しやうばひに付き然樣さやうに候はゞ御預り申さんと云ふを客は念ねんの爲ため御兩所より一札を申受うけ我々も念の爲預けたる證文を入れ申さんと硯すゞりを取寄とりよせ一札を記載したゝめ三人の名の下へ印を据すゑて預りの一札と引換ひきかへになし素もとより急がぬ旅なれど日和ひよりを見定め出立致さん夫迄は遊び暮すべしとて猶なほ賑にぎは敷しくぞ居續ける其日は夕ゆふ申刻なゝつ時分じぶんにて瀬川が晝ひるの客も歸り何か用の有りとて内證ないしようへ行きしに右の一札を女房に讀聞よみきかせ居たるを何心なく散ちらりと見るに見知りたる書體しよていと云ひ夫幸之進が印形に似にたる故主人より借かりて熟々よく〳〵見るに田原源八小笠原佐七後藤平四郎と云ふ名前にて夫をつとの印形いんぎやうは平四郎と云ふ名の下に捺おして有り偖は此者こそ本夫をつとを殺したる者なるべけれと思ひ此人は何屋なにやより送られし客人なるやと聞けば女房答こたへて夫は桐屋からの客人なり金を四百兩預けられしが何いづれも歴々れき〳〵の人ならんと云ふをそこ〳〵に聞きゝなし我が部屋へやに到いたり身拵みごしらへして新造禿を引連兵庫屋へ行ゆく途と中桐屋へ立寄たちより歌浦さんの御客は上方の衆かと問とへば女房飛とんで出いで御前樣の御言葉おものごしに能よく似にて御出おいでなさると云ふを聞き三人ながら上方かみがたばかりか江戸の衆も一座かと問とふに御三人とも大津おほつとか云ふ所の御方と答ふるを偖は古郷を隱かくして大津と僞りしならんと思ひ若もしや知つた御方なるか三人の腰こしの物を見せてと云ふに女房は何の氣も付つかず出して見せれば平四郎と云ふ者の脇差わきざしは紛まがふ方なき夫をつと幸之進が差料さしれうなり印形と云ひ脇差わきざしと云ひ敵は平四郎に極きはまつたりと思ひ其平さんとやらの女郎衆はと問とへば八重咲樣やへざきさまと云ふを聞き然さあらぬ體ていに其所を立出兵庫屋迄行きしが急病と僞り先松葉屋へ立歸りて心靜こゝろしづかに身拵みごしらへなし密そつと歌浦が座敷を覗うかゞふに彼の三人は有頂天うちやうてんに成りて遊び戯ふれ居しが其中の一人は豫かねて知りたる源八なり是は歌浦が客と聞き素もとより心立こゝろだて惡あしき源八にて兩親の憂うき苦勞くらうし給ふも渠かれゆゑとは思へども敵にも有らぬ者を殺しては濟すまず印形と脇差わきざしが證據なれば平四郎こそ幸之進が敵なりと思ひ定めて座敷の引ひけるを待居まちゐたり


第五回


 早はや其夜も既すでに亥刻よつどき過皆々床とこへ入たる樣子やうすにて座敷々々ざしき〳〵も寂しんと成ければ瀬川せがはは用意よういの短刀たんたうを隱かくし持もち八重咲やへざきの座敷へ行ゆき八重咲やへざきさん〳〵と呼よぶに八重咲やへざきは何の氣きも付つかずアイと答こたへて廊下らうかへ出るを何なにか用を頼たのみ外へ遣置やりおき急立せきたつ心こゝろを鎭しづめて覗見のぞきみるに平へい四郎は夜具やぐに凭もたれて鼻唄はなうたを唄うたひ居るにぞ能よく御出おいでなんしたと屏風びやうぶの中に入いり主ぬしに御聞申事が有あると布團ふとんの上へ上あがりけれども何なんの氣も付つかぬ處ところを夫をつとの敵かたき覺おぼえたかと云いひさま彼の懷劍くわいけんを胴腹どうばらへ突込つきこみしかば平へい四郎はアツト聲こゑ立たて仰向のつけに倒たふれ七轉てん八倒たうなす故ゆゑ隣の座敷ざしきは源八歌浦うたうらなれば此聲このこゑに驚おどろき馳來はせきたるを己おのれも迯にがさぬぞと源げん八へ突掛つきかゝるに源八は思おもひも寄ぬ事ことなれば驚おどろき周章あわて右みぎの手を出いだして刄物はものを挈取もぎとらんとせし處を切先きつさき深ふかく二の腕うでを突貫つきとほされヤアと躊躇たちろくを隙すかさず咽喉のどもとへ突貫つきとほさんとしけれども手先てさき狂くるひて頬ほゝより口まで斬付きりつけたり源八悶もだえながら顏を見ればお高たかなりしにぞ南無なむ三と蹴倒けたふして其所そこを飛出とびいだし連つれの佐さ七と倶ともに後あとをも見ずして迯行にげゆきけり然ば松葉屋まつばやの二階かいは天地てんちも覆くつがへるばかりの騷さわぎになり主あるじ半左衞門はんざゑもんを始として皆々みな〳〵二階かいへ駈かけ來り見るに平へい四郎は朱あけに染そみ苦痛くつうの有樣ありさまにのた打廻うちまはり居ゐる傍かたはらに瀬川せがはは懷劔くわいけんを逆手さかてに持もちし儘まゝ氣きを失うしなひて倒たふれ居ゐたりしかば是は何事なにごとならんと氣付きつけを與あたへて樣子やうすを聞きくに敵討かたきうちなりと申故ゆゑ半左衞門はんざゑもん大おほいに驚き早々さう〳〵町役人ちやうやくにんを招まねき相談に及ぶ中うち若松屋わかまつや金きん七竹本君太夫たけもときみたいふ并ならびに瀬川の母も駈來かけきたり皆々みな〳〵樣子やうすを聞て天晴あつぱれの手柄てがらなりと喜よろこびしが連つれの二人を迯にがしたる事こと口惜くちをしと云に半左衞門はんざゑもん否々いや〳〵事故わけもなく殺ころさば連つれの二人が一座ざを遁のがるゝ筈はずなし何か身に覺おぼえ有あればこそ姿すがたを隱かくせしと見みえたりと云いふ中うち疾はや夜よも明渡りしかば早速さつそく町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿ゑちぜんのかみどのへ訴うつたへ出けるに檢使けんしの者來りて疵きずを改あらため手負ておひの者に樣子やうすを聞共一向かう言舌ごんぜつ分わかり兼かね宿やども知れざれば其儘そのまゝ手當てあてをさせ置おき瀬川せがはの口書くちがきを取て檢使けんしは立歸り右みぎの趣おもむき申立しに大岡殿おほをかどの迯にげたる手負ておひは深手ふかでか淺手あさてかと尋たづねらるれば二の腕うでは深ふかく顏かほの疵きずは少すこしならんと瀬川申候と云いふを聞れ偖々さて〳〵女をんなには落付おちつきたる答こたへなり市中廻しちうまはりの者に下知げぢなし疵きずを證據しようこに召捕めしとり候へと申渡わたされ夫それより瀬川せがは并に母お竹たけ請人うけにん君太夫きみたいふ松葉屋まつばや桐屋きりや以下いか呼出され瀬川の本夫をつとと云は何者なにものなるやと尋問たづねらるゝに瀬川は愼つゝしんで首かうべを上あげ舊もと尼あまヶ崎さきの藩中はんちう小野田幸之進をのだかうのしんと申者にて主用しゆよう有之これあり上方へ登のぼり候時とき江尻宿えじりじゆくにて盜賊たうぞくの爲に切害せつがいに逢あひ主人の金四百五十兩りやう并ならびに其身用意よういの金きん二十兩りやう衣類いるゐ大小まで奪うばひ取られ家も斷絶仕だんぜつつかまつりしのみか盜賊たうぞくの爲に殺害せつがい致いたされしは武士の恥辱ちじよくとて一家中幸之進かうのしんの噂うはさ以ての外ほか宜よろしからず如何いかにも口惜くちをしく存ぞんじ候まゝ神佛へ誓ちかひを掛かけ漸やうやく敵を討うちて候と申立しかば大岡殿不審ふしんに思はれ其方敵の面體めんてい豫かねて見覺みおぼえ居たるや覺束おぼつかなしと有しに瀬川せがは其事そのことは上方の客きやく三人半左衞門へ金四百兩預あづけ候とて證文しようもんを取替とりかはせしに後藤ごとう平へい四郎と申名の下に捺おしたる印形いんぎやうは幸之進の實印に相違さうゐなく然れども夫そればかりにて定さだめ難がたしと存ぞんじ茶屋ちややへ參まゐり腰こしの物を改あらため見候に本夫をつとの脇差わきざしを所持しよぢ致し居に付彌々いよ〳〵敵に相違さうゐなしと存ぞんじ討果うちはたして候と答こたへるを大岡殿おほをかどの聞きかれ何樣道理もつともなる申分なり然ど今一人に斬付きりつけたりと有あるは是も敵なりやと尋たづねらるゝに瀬川せがは否いな其者は源げん八と申て同郷どうがうの者にて私わたくしへ不義ふぎを申掛候而已のみならず私わたくし親どもへも甚はなはだ迷惑めいわくを掛一體たい志操こゝろざし宜よろしからぬ者に付同惡と存ぞんじ殊ことに仇討あだうちの節せつ妨さまたげ致し候故是非ぜひなく疵きずを付候と申ければして又其方敵討かたきうち致いたさん爲に遊女奉公ほうこうを勤つとめしや外に謂いはれ有歟あるかと問とはるゝに瀬川せがは其儀は御覽ごらんの通りの老母らうぼ一人有之これあり君太夫きみたいふとても永々なが〴〵世話せわに相成あひなり居も心苦敷しく又金七と申者も火難くわなんに逢あひ氣きの毒どくに候故相談さうだんの上遊女奉公仕ほうこうつかまつり其金を以て母の養育やういくに當候と少しも滯とゞこほりなく申立る體てい如何にも誠心せいしんに見えければ大岡殿おほをかどの大いに感じられ其方事女には稀まれなる志操こゝろざしなり追々おひ〳〵取調とりしらべ遣つかはさんとて一件けん相濟迄あひすむまで瀬川は主人しゆじんへ預あづけ申付つけられ皆々下られけり夫より大岡殿おほをかどの源八佐さ七が人相にんさう疵等きずとうを證據に役人に申付られ江戸えど近在迄きんざいまでも探索たんさくあると雖も一向かう行方ゆくへ知しれざりけり


第六回


 大岡殿或時あるとき役人を呼よばれ瀬川せがは一件けんの盜賊共數日になれども更に行方ゆくへ知れず因よつて其方共名主なぬしへ掛かゝり江戸中の外療醫ぐわいれういを吟味ぎんみして見よ似寄によりの者あるべきぞと指揮さしづありしに付八方へ分れて名主なぬしへ掛り外療醫者を呼出し取調とりしらべ有ありしに一向かう右體の怪我人けがにん見當らざる由よしを申により又外々の名主へ掛り尋けるに下谷したや廣小路ひろこうぢに道達だうたつとて表へは賣藥ばいやく見世みせを出し置おき外療醫ぐわいれういをなす者の申口に當月廿二日の夜丑滿頃うしみつごろ侍さふらひ體の者二人戸とをこぢ明て入來り一人は拔身ぬきみを持もち一人は私しを捕とらへて此疵きずを療治れうぢ致いたせ然もなくば切殺きりころすと申候に付つき據よんどころ無療治れうぢ致し膏藥かうやくを遣つかはし候處本復ほんぷく次第しだいに禮すると云て行方も知れず出行候と申ければ役人やくにん住所は何處とも云ざりしかと問ふに道達だうたつ夜中に押込おしこみ候程ほどの者共に候へば一向かう名なや所は申さずと答こたふるにぞ大概おほかた其者ならんと思へども手疵きずは何方なりやと尋たづねるに頬ほゝより口くちまで一ヶ所二の腕うで四寸ばかり突疵つききず之あり兩處りやうしよともに縫ぬひ候と申ければ夫にて分明わかりたりとて其段そのだん申立たてしかば大岡殿どの暫時ざんじ考かんがへられ非人小屋ひにんごや又は大寺の縁えんの下其外ほか常々つね〴〵人の住すまぬ明堂あきだうなどに心を付よと申渡わたされしに付役人は八方に眼まなこを配くばり諸所を尋たづねしに一向かう知しれざりしが原田平左衞門と云市中しちう廻の同心どうしん或夜亥刻よつどき過すぎ根津ねづの方より歸かへり懸かけ池いけの端はたへ來懸きかゝりしに誰やらん堀を越こえ垣かきを乘越て上野の山内へ入者いるものありしかば大いに怪あやしみ田村權右衞門たむらごんゑもんへ申斷り内密ひそかに清水門より入りて見廻けるに夫ぞと思ふ事こともなけれど中堂の縁えんの下何となく怪し氣に思はるゝ故ゆゑ傍邊かたはらへ身を潜ひそめて窺うかゞひ居たりしに稍やゝ夜の子刻こゝのつ頃ころとも覺しき頃散々ちら〳〵と火の光ひかり見みえたりしが忽ち消きえし故彌々いよ〳〵心を鎭しづめて窺うかゞひたれば莨たばこの火にや有ありけん折々をり〳〵見みえては消きえるにぞ是は曲者に疑うたがひなしと直すぐに供の者を使に遣つかはし奉行所に通じければ直樣すぐさま捕方の者駈來かけきたりしが未いまだ夜よは明ざるに付つき四方へ手配てくばりをなし山同心をも借集かりあつめて取卷せ夜明方に原田平左衞門はらだへいざゑもん始はじめ踏込ふみこみ見みるに夜具やぐも暖あたゝかに着きて二人眠ねむり居る故是程の騷さわぎを知らざるは餘程よほどの寢惚ねばうなるか腰が拔たるかと同心上意じやういと聲懸かけ飛掛とびかゝつて捕るに驚き漸々やう〳〵目を覺さましけるを矢庭やにはに二人とも生捕いけどり引立ひきたてしは心地よくこそ見えたりけり依よつて二人とも入牢申付られしが吉原に在ありし手負ておひの平四郎は四日目めに相果あひはてし故檢視けんしを遣つかはし死骸しがいは小塚原へ捨すてべき旨むね申渡されけれ共内々松葉屋まつばやより葬はうふりけるとかや


第七回


 然程に上野中堂に於て召捕めしとられたる曲者二人を引出ひきいだし調べられしに瀬川せがはが申立し人相并に疵所等迄きずしよとうまで相違なき故大岡殿どの曲者に對むかはれ其方ども上野うへの中堂の縁えんの下に隱住かくれすむ事何故なるや有體ありていに申立よと有に兩人共一言の返答へんたふも出來難がたき有樣にて俯伏うつぶし居ゐるを重ねて其方共夜中廣小路ひろこうぢ醫師いしや道達だうたつ方へ押込刄物を以て威おどし療治れうぢ致いたさせ上野に匿かくれ住は身に暗くらき處有故ならずや白状はくじやうせず共此科このとがに因よつて首はなきものと心得よ因よつては南都なんと以來の舊惡きうあく殘のこらず白状致せ左さもなき時は嚴敷きびしく拷問がうもん申付る苦痛くつう致いたすは死する身に損そんなるべしと申さるゝに源げん八佐七の兩人首かうべを上我々は上方者にて御當地ごたうちに知人もなく止やむ事を得ず御山内に住居仕すまひつかまつり候と申立るを大岡殿どの呵々から〳〵と笑はれ白痴たはけめ知人なしとて宿屋もあり汝等なんぢらが罪は明白に知しれて居るぞ江尻えじりに於て小野田幸之進をのだかうのしんを殺し四百五十兩の金其外金銀衣類大小を奪ひ取たる事松葉屋まつばやの二階かいにて平四郎手負ておひながら白状はくじやうに及び殊ことに源八は本人なりと申たりサア未練みれんらしく隱かくすなと申されしかば兩人共一言の答こたへもなく居たりしかば大岡殿どの詞ことばを和やはらげられ能々よく〳〵承うけたまはれ只今たゞいまも申通り其方共の大罪は知しれて有共白状せぬ中は御仕置おしおき申付ざる事法令なり因よつて只今たゞいまより拷問がうもん申付る夫より潔いさぎよく白状して最後さいごを清きよくせよ假かりにも帶刀たいたうせし者は夫丈に名を潔きよく致せと云れけるに源八は覺悟かくごをせし樣子やうすにて仰おほせの如く我々白状致すべし先第一は南都なんとに於て大森通仙おほもりつうせん娘お高に戀慕れんぼ致いたし戀の叶かなはぬ意趣いしゆに鹿を殺し通仙つうせんの家の前へ置おきしにより通仙は奈良ならを追拂おひはらはれ京都に住居すまひの時留守宅るすたくへ忍び入衣類を奪うばひ取大津おほつへ立越たちこえ賭博を打うち佐七平四郎と兄弟分になり上方かみがたより東海道とうかいだうを稼かせぎ折々をり〳〵は江戸へも立出候處尼あまヶ崎さき家中の侍士さふらひ金用にて出立と馬士まごの咄を耳に挾はさみ神奈川より付て參り江尻えじりに於て其侍士さふらひを切殺し金銀きんぎん諸品しよしな奪うばひ取候と申立ければ潔いさぎよき白状神妙しんめうなり又幸之進かうのしんを殺せしは誰たれにて馬士まごを殺たるは誰なるやと尋たづねられしに幸之進を殺たるは私わたくしにて馬士を殺し候は平四郎なりと申故シテ松葉屋へ金を預けんとせしは如何なる故ぞと有に源八其儀そのぎは私し共を確實たしかに見せ置松葉屋の案内あんない大方見定みさだめ候間同家の金銀奪取うばひとらん爲故と金子を預あづけ候と一々白状に及びしかば是にて落着致し五月九日吉原町引合の者并に尼あまヶ崎の城主松平縫頭殿まつだひらぬひのかみどの留守居等るすゐとう殘らず呼出され大岡殿どの右留守居に對むかはれ先年江尻宿えじりじゆくに於て松平縫殿頭家來小野田幸之進おのだかうのしんと申者盜賊に切害せつがいせられ金銀を奪うばひ取れたる由今度其盜賊たうぞく取押へし處右みぎ殘金有之と雖も其節せつ屆どゞけ出之なきに付公儀こうぎへ御取上に相成間其段心得られよと申渡され留守居は恐入畏かしこまり奉つると云て立歸る次に瀬川せがはと呼れ其方儀ぎ夫にて承うけたまはれとて源八佐七南都なんと以來いらいの事共今一應おう申立よと云れし時兩人委細ゐさい白状なせしかば各々おの〳〵大いに驚き感かんじける時に瀬川は謹つゝしんで膝ひざを進すゝめ扨は源八こそ親夫の敵にて有しを討止さりし事口惜く候と申立るを大岡殿どの否々いや〳〵源八を殺せば事故こと明白に解わからず源八存命ぞんめい故に委細ゐさい分りしなり殊ことに少々にても疵きずを付たれば敵を討しも同前知れ難がたき惡人共我手に入しは公儀こうぎへの御奉公ごほうこう親の讐あだのみならず本夫の敵まで討たるは忠孝貞と揃そろひし烈婦れつぷと云べし吉原町始はじまりしより以降このかた斯る遊女有べからずと賞美しやうびありしかば瀬川は云も更さらなり抱へ主松葉屋迄までも面目を施ほどこし其外聞居たる公事訴訟人迄くじそしようにんまで感かんぜぬ者ぞ無りける扨さて又また源八は打首うちくびの上獄門ごくもん佐七は遠島ゑんたう申渡されしとぞ


第八回


 此時大岡殿どの松葉屋半左衞門はんざゑもんと呼れ其方存ぞんぜぬ事とは申ながら盜人の金を預あづかりしは不屆ふとゞきなり又瀬川事遊女奉公ほうこう御免ごめん仰付おほせつけらるゝ同瀬川の身の代金しろきんは只今たゞいまより後の所存しよぞんたるべし尚又存寄有ぞんじよりあるやと尋らるゝに半左衞門謹つゝしんで首を上敵討仕つかまつり候程の孝心なる瀬川せがは何とて勤つとめをさせ置おき候はんや殊更渠等白状の趣おもむきにては私し方へ押入おしいり盜み致す所存しよぞんの由盜難たうなんを遁れ候も全く瀬川の働はたらきに候へば然のみ損そんも之なく且又私し抱かゝへの遊女敵討仕つかまつりしと申事外聞も宜よろしく旁々かた〴〵以て一向に申分御座なく候と申により神妙しんめうなりと有て盜賊より預あづかりし金四百兩は取上の上富澤とみざは町金七淨瑠璃語じやうるりかたり君きみ太夫へ渡され其方共瀬川せがは親子の者を世話せわ致し候段奇特きどくなり瀬川事討難がたき讐を討其手筋てすぢにて科人相知れ其身の本望ほんまう公邊かみへの御奉公神妙しんめうに思召幸之進かうのしん取れ候金子きんすの中四百兩相殘あひのこり候に付瀬川へ下さるゝ間母はゝ諸共流浪るらう致さぬ樣取計らひ遣つかはせと申渡され皆々みな〳〵有難ありがたき旨之を申喜悦よろこび勇いさみて下りけり依て瀬川せがはが評判江戸中鳴渡なりわたり諸方より貰もらはんと云者數多あまたあれ共當人たうにんは是を承引うけひかず今迄の難澁なんじふとても世に云苦勞性くらうしやうなるべし遁世して父と夫の後あとを弔とふらふこそ誠の安樂あんらく成んとて幡隨院ばんずゐゐんの弟子となり剃髮ていはつ染衣ぜんいに状を變名を自貞じていと改め淺草あさくさ今戸に庵いほりを結び再法庵さいほふあんと號し母諸共に行おこなひ濟し安く浮世を過すごせしとかや庵いほりの壁に種々いろ〳〵の和歌わかありけるが其中に

いけ水みづに夜な〳〵影かげは映うつれども水もにごらず月もけがさず

其次三代目めの瀬川も名高き遊女いうぢよ成しが丁字屋ちやうじやの雛鶴ひなづるとは常々心安かりしに身請せられし時の文に

承うけたまはり候へば此廓このさとの火宅を今日しも御放おはなれ候て凉すゞしき方へ御根引おねびきの花はな珍敷めづらしき新枕にひまくら御羨敷おうらやましきは物かは殊ことに殿には木きそもじ樣は土つち陰陽いんやうを起し陽やうは養やうにして一生しやう養やしなふを云卦けの表おもて萬人にんの養育やういく萬人にかしづかれ給ふと御頼母おたのもしくも愛度めでたく鳥渡ちよつと占うらなひ參まゐらせ候あなかしこ

松瀬 より
丁雛樣 御もとへ

其後寛政の頃三代目の瀬川は或大諸侯あるだいしよこうの留守居に身請みうけせられしが其人主人の金かねを遣つかひ過すごし閉門へいもん申付けられしに瀬川せがはは隙を見て遁亡かけおちしければ彼の留守居るすゐは瀬川故に難なんを受しに瀬川は我われを捨すてて遁しこそ遺恨ゐこんなれと自殺して死しせしとぞ又瀬川は年頃云交いひかはせし男と連副つれそひしに何時となく神氣しんき狂くるひ左右の小鬢こびんに角の如き癌こぶ出來し故人々彼の留守居るすゐの執念しふねんにてや有んと云しが何時いつしか人の見ぬ間に井戸ゐどへ身を投なげ空敷むなしくなりたりけり案あんずるに鬼女の如き面體めんていになりしを恥はぢて死にけるか但たゞし亂心にや一人は末すゑに名を上一人は末すゑに名を穢けがせりと世に風聞さたせしとなん


傾城瀬川一件終

畔倉重四郎一件

畔倉重四郎あぜくらぢうしらう一件いつけん


第一回


 仁じんは以て下に厚あつく儉けんは以て用もちゐるに足たる和くわに而して弛ゆるめず寛くわんに而して能よく斷だんずと然されば徳川八代將軍吉宗公の御治世ぢせい享保年中大岡越前守忠相殿たゞすけどの勤役きんやく中數多あまたの裁許さいきよ之ありし中うち畔倉あぜくら重四郎ぢうしらうが事蹟じせきを尋たづぬるに武州埼玉郡さいたまごほり幸手宿さつてじゆくに豪富がうふの聞え高き穀物こくもつ問屋とんやにて穀屋こくや平兵衞と言者あり家内三十餘人の暮くらしなるが此平兵衞は正直しやうぢき律儀りちぎの生質うまれつきにて情深なさけぶかき者なれば人を憐あはれみ助たすくることの多きゆゑ人皆みな其徳そのとくを慕したひ敬うやまひける然るに夫婦の中に二人の子供こどもありて長男ちやうなんは平吉とて二十一歳妹いもとをお浪なみと呼て十八歳なるが此お浪は容貌かほかたち衆しうに勝すぐれて美麗うつくしき上氣象こゝろだても優美やさしければ兩親ふたおやの愛情いつくしみも一方ならず所々しよ〴〵方々はう〴〵より縁談えんだんを申入るゝ者多かりしが今度このたび同宿どうしゆくの杉戸屋すぎとや富とみ右衞門が媒人なかうどにて關宿せきやど在ざい坂戸村さかとむらの名主是も分限ぶんげんの聞えある柏木庄左衞門かしはぎしやうざゑもんの悴せがれ庄之助に配偶めあはせんとて既すでに約束やくそく整とゝのひ双方さうはうの結納ゆひなふをも取交とりかはせしかば兩親ふたおやの悦よろこび大方ならず此上は吉日を撰えらみ一日も早く婚姻こんいんをさせんと急いそぎしが庄左衞門方に當時少々の差合の儀ぎ出來できしにより當暮たうくれにと相談さうだん極きまり專もつぱら其支度にぞ及びける爰こゝに又有馬玄蕃頭殿げんばのかみどのの浪人畔倉重左衞門と言者あり其悴を重四郎と呼よび今年ことし二十五歳にて美男びなんと言いひ殊ことに手跡しゆせきも能よく其上劔術早業はやわざの名を得し者なるが父重左衞門より引續ひきつゞき手跡の指南しなんをして在ける故彼の穀屋平兵衞の悴平吉も此重四郎に從したがひ專もつぱら筆道ひつだうを學びしかば平兵衞始はじめ家内の者迄重四郎を先生々々と最いと叮嚀ていねいに待遇もてなし敬うやまひ居たり或時店みせの若者等わかものら打寄うちより彼の先生には劔術けんじゆつの早業はやわざに達たつし給ふと承まはり候が我々も親方の用事ある時は金子きんすを持もつて野道のみち山路やまみちは云も更なり都合つがふに因よりては朝あさは星ほしを戴いたゞき暮くれには月を踏ふんで旅行りよかうなす事往々まゝあるにより先生を頼たのみ劔術を學まなびなば道中爲するにも心強く且かつ賊難ぞくなんを防ふせぐ一端共成事なれば此趣きを旦那だんなへ願ひ見んとて一同より平兵衞へ斯かくと語かたりしに平兵衞も道理もつともと思ひ夫は隨分ずゐぶん宜よき事なれば左とも右かくも其方達そなたたちの隨意ずゐいに致すべしと許ゆるされしにより若者等わかものらは大に悦び早速さつそく重四郎の方へ到り此趣きを只管ひたすら頼たのみしに重四郎も辭いなみ難く承知せしかば此より畔倉を師匠ししやうとして主用の間ひまには劔道けんだうをぞ學まなびける是に因て重四郎も毎度穀屋こくやへ出入致しける處に主平兵衞は殊の外圍碁ゐごを好このみて相應に打ける故ゆゑ折々をり〳〵は重四郎を碁ごの相手となせしを以て重四郎は猶も繁々しげ〳〵出入なし居しが偶然ふと娘お浪の容貌みめかたちの美うつくしきを見初みそめしより戀慕れんぼの情じやう止難やみがたく獨り胸むねを焦こがせしが寧いつそ我が思ひの情たけを云送らんと艷書ふみに認め懷中しつゝ好機よきをりもあらばお浪に渡さんものと來る度たび毎ごとに窺うかゞひ居けれ共其間ひまのあらざれば空むなしく光陰つきひを打過うちすぎし中うち或時重四郎又入り來りけるに平兵衞は相手欲ほしやと思ふ折柄をりからなれば重四郎殿能よくこそ御入來ごじゆらいありしぞ率々いざ〳〵一石參らんと碁盤ごばん引寄ひきよせ重四郎を相手あひてに碁ごを圍かこみ茶菓子ちやぐわしなどを出して饗應もてなしけれども心爰こゝに在あらざれば見れども見えずの道理だうりにて重四郎はお浪にのみ心を奪うばはれ居たりし故ゆえ打うつ石いしには眼めも止とまらず初めの碁ごは脆もろく負まけけるに平兵衞は大に悦びて手水てうずに立たちしを重四郎は是これ幸さひはひと娘の部屋へやを覗のぞき見れば折節をりふしお浪は只たゞ獨ひとり裁縫ぬひものをなし居たるにぞ頓やがて件くだんの文ふみを取出しお浪の袖そでへ密そつと入いれ何喰なにくはぬ顏かほをして元の座に直なほり早々歸らんとせし所へ平兵衞來り今一石せきと望みけるにより又々一石打うち終をはり挨拶あいさつもそこ〳〵に暇いとまを告て立歸り今日こそ我が思ひのたけを通つうぜしからは如何なる返事へんじをなすやらんと一時千秋しうの思ひにて待居まちゐたり却つて説とく娘お浪は重四郎が袖そでへ入しは何なにやらんと出し見れば豈あに圖はからんお浪樣參る御存じよりと認めたる艷書ふみなりしかば大いに驚き少間しばし茫然ばうぜんとして在けるが良やゝあつて心を定め乳母うばに相談せんものと密ひそかに乳母を呼て彼の艷書ふみを封ふうの儘に見せければ乳母は大いに打驚き是は此儘に捨置難すておきがたし旦那樣へ御見せ申さんとて立んと爲するをお浪は引止ひきとめ否々いや〳〵那あの重四郎樣は兄樣のお師匠ししやうなれば此事父上の耳に入る時は元來もとより物固ものがたき父上ゆゑ若もしや手荒てあらきことのありもせば兄樣に對し云ひ譯わけなし又重四郎樣へも氣きの毒どくなり外に思案をしてたもれと言れて乳母うばは實げにもと思ひ暫しばし工夫に暮くれ居ゐたり折柄をりから媒人なかうどの富右衞門來りしにより是これ幸さいはひと乳母は彼の艷書を出して富右衞門に見せければ元來篤實とくじつの富右衞門なれば以ての外に驚き是は等閑なほざりに致し難しと言つゝ此事を主人平兵衞に咄はなしけるに平兵衞は是を聞きゝ烈火れつくわの如く憤いきどほり惡につくき重四郎が擧動ふるまひかな娘と不義せしなどと沙汰ある時は家に瑾きずを附るの道理だうりなり此上は重四郎を寄附よせつけぬ事こそ肝要かんえうなれと早速番頭を始め皆々へ重四郎は斯樣々々の譯わけある故ゆゑ足を遠とほくする樣此後は店へ來る共餘あまり心安く致すべからずと申し付て後來のちをぞ戒いましめ置たりける扨又重四郎は一兩日過すぎて色よき返事を聞んものと穀屋こくやへ來り例れいの如く店へ上りて種々いろ〳〵咄はなしなど爲なしけれ共小僧を始め一向かう構かまひつけず茶も一杯ぱい出さずして何か不興氣ふきようげの樣子なれば重四郎は手持てもち惡あしく平吉殿は如何いかゞ成なされしやと奧おくへ通とほらんとするを番頭ばんとう押止おしとゞめ今日は主人も平吉も留守るすなりと常に變かはりし顏色にて重四郎を眦裂ねめつける體を見て重四郎は奧おくへも行れねば其儘そのまゝそこ〳〵我が家へ立歸り獨り倩々つく〴〵考かんがふるに毎度いつに變りし今日の樣子且番頭が我を眦裂ねめつけし事合點行ず扨は彼の文を父平兵衞に見せしにや其等それらの事より我が足を遠避とほざけんとの事ならん其儀ならば我もまた仕方しかたありとて其夜穀平こくへい方の門邊に到り内の樣子を窺うかゞひ子僧にても出て來りなば仔細しさいを聞かんと身を忍びて居たる所へ丁稚でつち音吉が使ひに出しを見て重四郎は心に悦び是を呼掛よびかけ何いづれへ參るや其方に少し尋ね度たき段だんあり先々此方こなたへ來るべしと酒屋へ連行酒肴などを出させて振舞ふるまひつゝ重四郎申けるは某し先刻其方そなたの店へ到りしに番頭の挨拶振あいさつぶり何共合點がてん行ゆかざるのみか我を奧へ通さぬは如何なる譯わけなるや知つてならば咄はなすべしと尋ねければ流石さすがは丁稚でつちのことゆゑ酒さけ肴さかなに釣つられ其事柄は委くはしき譯を知ね共先生よりお浪さんへ艷書ふみを贈おくられしとやらにて富右衞門殿より大旦那へ見せしゆゑ大旦那より斯々かく〳〵申付られしに依て據よんどころなくお構かまひ申さず夫に付お浪さんも富右衞門殿の世話にて早々坂戸村さかとむらへ縁付えんづかるゝ筈はずなりと落もなく咄し此事必ず私が申せしと沙汰し給ふなと云捨いひすてて歸りしかば跡あとに重四郎はホツと溜息ためいきを吐つき扨さてはお浪め富右衞門に彼あの艷書ふみを見せたりしか情なさけなき仕方なり富右衞門も猶以て遺恨ゐこんなれ店の者共まで今日の始末しまつ思へば〳〵忌々いま〳〵し寧いつそ蹈込ふみこんで打放し此恨みを晴はらさんと立上りしが否いや々荒立あらだてては事の破れ何にもせよお浪を引さらひ女房にすれば男は立つ只たゞ惡につくきは富右衞門なりよき機をりもあらば此遺恨このうらみを晴さんとて其夜は其儘我が家に歸りしが其後明暮あけくれ心懸てぞ居たりける然るに同宿に三五郎と云者あり此三五郎は侠氣をとこぎある者にて生得しやうとく博奕ばくちを好み平生賭事かけごとのみを業としけるが或時博奕場ばくちばより戻もどり食事をしながら女房に向ひ今朝土手際どてぎはなる庚申堂かうしんだうの前へ來たら土橋の所で此煙草入たばこいれを拾ひしゆゑ中を見たら富右衞門殿へ平兵衞と云手紙が這入はひつてあり然さすれば穀平こくへい殿より富右衞門殿へ送つた手紙が有からは落し主ぬしは富右衞門殿ならん其邊そこらを仕舞しまつたら富右衞門殿の方へ返して來よと云にぞ女房は早々に膳ぜんを片付かたづけそんなら一寸ちよつと行いつて參りましやうと云所へ重四郎は三五郎に何か咄はなしありとて來りしが此咄しを聞てなんだ富右衞門殿の煙草入たばこいれを拾つたドレ〳〵見せねへと取上見れば富右衞門の方へ平兵衞より送りし手紙なるゆゑ重四郎忽たちまち惡心あくしんを發おこし三五郎に向ひなんと此煙草入を我等二分に買ふべしといふに三五郎打笑うちわらひ若もし々先生新あたらしい時でさへ四五百文位ゐ最もう老おいこんで七ツ過すぎの代物しろものだ二百がものも有あるまいに夫を二分に買かはんとは合點の行ゆかぬ事ことなりと云ふを重四郎成程なるほど分わからぬ筈よ此品は少し己おれが入用が有て遺恨うらみを晴はらす奴やつに目にもの見せんとの思案しあんなり友達ともだちの好誼よしみに賣て呉くれ夫それ即金そくきんだとて二分取り出してさし置おけば三五郎は打笑ひ夫程に入用なら持もつて行れよ金は入らぬといふをば重四郎そんなら斯かう仕しようと彼の二分を女房に渡わたし少すこしだが單物ひとへものでも買かはれよと無理むりに懷ふところへ入れ此事は決して沙汰さたなしに頼たのむなりと言捨いひすてて立歸りしが途中には穀平の丁稚でつち音吉に行合けるに重四郎聲を懸かけコレサ音吉殿どん大分だいぶ閙いそがしさうだが何所へ行のだと尋ぬれば音吉は振返ふりかへり今日は大旦那が關宿せきやどの庄右衞門樣の方へ米の代金を取に參られますゆゑ是から供ともをして行ますと云ば重四郎夫では今夜は大かた泊とまりであらうと云に音吉否いや何なに明日あすは仲間なかまの寄合よりあひが有から遲おそくとも是非今夜は御歸りで御座りますと言いひながら閙いそがしさうに走り行ゆく跡あと見送みおくりて重四郎は大いに悦び獨り心に點頭うなづき甘うまい〳〵今夜利根川堤とねがはづつみに待伏まちぶせして穀平が歸りをばつさりやらかし此烟草入を死骸しがいの側そばに捨置すておき人殺しを富右衞門に塗付ぬりつけ日來ひごろの恨うらみを晴はらさんと笑ゑみを含ふくんで居たりけり


第二回


 然程さるほどに穀屋平兵衞は穀物の代金を受取んとて一人供ともを連つれ關宿領せきやどりやう坂戸村さかとむらなる庄右衞門の方へ到りけるに庄右衞門は久々ひさ〴〵の御來臨おいでなりと種々いろ〳〵馳走ちそうして饗應もてなすにぞ平兵衞も思はず時刻を移うつせし中穀物の代金百兩受取歸らんとなすを主あるじ庄右衞門之を止とゞめ最早もはや夕暮ゆふぐれなれば今宵こよひは御泊とまり有て明朝早く歸らるべし殊に大金を持もつての夜道よみちなれば無用心ぶようじんなり必ず〳〵御泊とまりあれと勸すゝむるを平兵衞は頭かうべを振ふり其そは忝かたじけなけれども明日は餘儀よぎなきことのあるゆゑに是非共今宵こよひ返かへらずば大いに都合惡あしかりなん左とに右かく御暇おいとま申さんと立上れば庄右衞門も止やむを得ず然らば途中の御用心こそ專要せんえうなれど心付るを平兵衞は承知しようちせりと暇いとまを告つげて立出れば早日は山の端はに傾かたぶき稍やゝ暮くれなんとするに道を急ぎて辿たどるうち最早もはや全く暮くれ過すぎて足元あしもとさへも分難わけがたければ豫かねて用意の提灯ちやうちんを取出し火を點ともいて丁稚音吉に持せ足を早めて歩行あゆめども夏の夜の更ふけ易やすく早五時過いつゝすぎとも成し頃名に聞えたる坂東太郎の川波かはなみ音高く岸邊きしべに戰そよぐ蘆あし茅かやは人丈ひとたけよりも高々と生茂おひしげり最いと長ながき堤つゝみを便たよりに一筋道すぢみち權現堂ごんげんだうの村中へ來懸きかゝる折をりしも颯さつと吹來る川風に提灯ちやうちん消きえて眞の闇やみとなりしかば平兵衞は南無さん明あかりが消きえては一足あしも歩行れぬとて腰こしをさぐり用意の火打を取出し漸々やう〳〵蝋燭らふそくへ點ともしければさあ〳〵音吉注意きをつけて又風に火を取れぬやう急げ〳〵と急立せきたつれば音吉は見返りつゝ旦那樣近道ちかみちに致しませうかと問に平兵衞如何樣小篠堤をざさつゝみの近道ちかみちを行ふと音吉を先に立せ平兵衞は微醉酒ほろゑひさけも醒果さめはてて心ばかりは急いそげ共夜道の捗行はかゆかぬを足に任せて小篠堤に來掛る頃は早北斗ほくとの劔先けんさき尖するどく光りゴンと突つき出す子刻こゝのつの鐘かねの響ひゞきも身に染しみて最いと物凄ものすごく聞えけり折柄をりから堤つゝみの蔭かげなる竹藪たけやぶの中より面おもてを包つゝみ身には黒裝束くろしやうぞくを纏まとひし一人の曲者くせもの顯あらはれ出いで物ものをも云ず拔打ぬきうちに提灯ちやうちんバツサリ切落きりおとせば音吉はきやツと一聲立たる儘まゝ土手どてより動どうと轉まろび落おち狼藉者らうぜきものよと呼よばはりながら雲を霞かすみと駈出かけいだすに平兵衞も是はと驚き逃にげんとなしたる後うしろより大袈裟おほげさに切付れば呀あつと叫びて倒るゝを起しも立ず止とゞめの一刀を刺貫さしつらぬき懷中くわいちうへ手を差入れ彼穀代金百兩を仕合よしと奪うばひ取り何國いづくともなく逃失にげうせけり斯て穀屋にては音吉の知せに悴平吉を始め家内中驚き騷さわぎ平吉は親重代おやぢうだいの脇差追取おつとり音吉を案内として駈出かけいだすを後に續て番頭手代共各々提灯ちやうちん得物えものを引提ひきさげ我先にと駈はせ出すにぞ親類縁者其外日來ひごろ懇意こんいの人々は此知せを聞て何れも驚き集り來るゆゑ幸手宿さつてじゆくの騷動さうどう大方ならず我も〳〵と提灯ちやうちん携たづさへ駈着かけつけたり是より先平吉は一散に其所へ來て見れば無殘や父平兵衞は肩先かたさきより肋ひばらへ掛て八寸程切下られ咽元のどもとには止めの一刀をさし貫つらぬき見るに見られぬ形状ありさまなれば平吉は動どうとばかりに倒たふれ伏ふし死骸しがいに取付狂氣きやうきの如く天に叫び地に轉まろび悲歎ひたんに昏くれて居たりしが良やゝありて氣を取直し涙を拭ぬぐひ倩々つく〴〵と父の面おもてを打まもり嘸さぞ御無念におはすらん汝おのれ敵め其儘にして置べきやと四邊あたりを見れども人影ひとかげ無なければ懷中何いかにと改め見るに金も見えず彼是する折柄をりから人々も駈着かけつけ此有樣を見るよりも皆々愁傷しうしやう大方ならず然されど如何とも詮方せんかたなきにより早々此趣きを村役人へ屆とゞけしかば幸手宿さつてじゆく權現堂兩村の役人とも立合評議ひやうぎなす中夜は程なく明放あけはなれしにぞ早々此段を郡代衆ぐんだいしう出張しゆつちやうの役所へ訴へ出けるに伊奈いな半左衞門殿の手代横田五左衞門深見吉五郎檢使けんし立合の上改め相濟あひすみ一先權現堂村の名主仙右衞門方へ引取ひきとつての調べと相成り横田は平吉に對むかひ其方は平兵衞の悴せがれ成なるかと問とふ平吉發はつと平伏へいふくしける時横田は又其方の親平兵衞儀日頃何か他に意趣遺恨いしゆゐこんを受し覺えはなきやと尋ね有に平吉は頭かしらを上あげ親父儀おやぢぎは是迄喧嘩けんくわ口論こうろんなど致せしことも之無く日頃人の爲のみ仕つり村方にても譽ほめられ候程の儀故勿々なか〳〵意趣遺恨いしゆゐこんなど受ることは聊いさゝかも御座無く候と申立れば横田如何にも然さこそあるべし而して金子きんす紛失ふんじつの由なれば定めて盜賊たうぞくの所業しよげふに相違有まじ因て死骸しがいの儀は勝手次第に引取べしと有り又悴せがれ平吉支配人五兵衞村役人差添江戸表へ罷まかり出べき由申渡し置おき役人は引取けり却説さても穀屋にては燈火ともしびの消きえたる如く平兵衞の妻并娘お浪の愁傷しうしやう大方ならずと雖も詮方せんかたなければ厚あつく野邊のべの送りを營いとなみけり扨平吉支配人五兵衞村役人同道にて江戸小傳馬町旅人宿幸手屋さつてや茂も八方へ到着たうちやくし早速此段郡代屋敷へ屆け出けるに直樣すぐさま差紙さしがみに付き幸手屋茂八附添つきそひ郡代の白洲しらすへ出でければ正面には伊奈半左衞門殿左方には手附手代威儀ゐぎ嚴重げんぢうに控へたり此時伊奈殿徐しづかに武州幸手宿さつてじゆく穀屋平兵衞の悴平吉同人方支配人五兵衞と呼れ去月廿七日の夜小篠堤をざさづつみ權現堂に於て平兵衞儀殺害に逢あひ懷中の金子を奪うばひ取れし趣き尤も盜賊の所爲しよゐならば老人の事故金子を奪ひ取とも殺害せつがい迄には及ぶまじ何いづれ平兵衞に面體めんていを知れし者と見ゆ殺害致したる上全く金子きんすは出來心できごころにて盜ぬすみ取し者ならん然れば豫々意趣いしゆ有者の所行しわざと思ふなり然樣さやうなる心當りも有ば包まず申立よと有に平吉は恐おそる〳〵頭かしらを上あげ親共儀は平生へいぜい慈悲じひを第一と心懸村方困窮こんきうの人の爲には心を盡し先年洪水こうずゐの節せつ猿さるヶ股またの堤つゝみ切きれし時も夫々に救ひ米并に金銀等きんぎんとうも差出さしいだせし程の儀故村中の者一同能よく服ふくし居候間勿々なか〳〵遺恨ゐこんなど受べき覺おぼえ無御座候と申立るに半左衞門殿否々いや〳〵然さに非ず假令たとへ陰徳いんとくを施ほどこし慈悲じひ善根ぜんこんを第一として人の害がいに成ならぬ氣にても金子の遣取やりとり致し商賣あきなひも手廣てびろき事なれば如何なる所に遺恨ゐこんの有間敷あるまじき者にも非ず又其外にも何なんぞ手掛りは無きと云るゝに平吉ヘイ其手掛てがかりと申ては別べつに御座らねども爰に少々せう〳〵心當り是とても右樣の儀を致す人物には之なく日頃より親類しんるゐ同樣どうやうに致し親共も相談さうだん相手あひてに仕つり家内も相應さうおうに暮くらし居ります故ゆゑ是を疑ふ樣も御座なく候と申立るに伊奈殿否々いな〳〵少すこしにても心當り有れば申立よ而して其者は宿内の者か他村かと有ありける時恐れながら申上ますと支配人しはいにんの五兵衞縁先えんさき近ちかく這出はひいでて只今たゞいま平吉が申立し通り右心當りの儀は疑うたがはるゝものゝ先も歴々れき〳〵の身代に候ゆゑ何とも申上兼ると云ければ伊奈殿何々なに〳〵惡わるく致すと歴々れき〳〵でも油斷ゆだんは成ぬ而て何者なるか包まず申立よとあるに五兵衞其儀は私しより申上んとて平吉に會釋ゑしやくなし扨さて主人平兵衞儀權現堂小篠堤にて横死わうしの節せつ死骸しがいの近傍かたはらに紙煙草入かみたばこいれの落おちて有しを後の手懸てがかりにもと存じ拾ひ取とり能々よく〳〵改あらため見る處同宿にて同商賣を仕つる杉戸屋富右衞門と申者所持しよぢの品にして又其煙草入たばこいれの下には主人平兵衞より送りたる手紙が之あり候とて其節そのせつの樣子を委くはしく申立しに伊奈殿は夫は屹度きつとしたる證據しようこなり此方にさし出すべしとの事に付即ち差出しけるに奧州あうしう福島ふくしま仕立じたての紙煙草入かみたばこいれにして其中に手紙一通あり其文そのぶんに

鳥渡ちよつと申上候昨日は御馳走ちそうに預あづかり忝かたじけなく奉存候然者しからば先日御相談致し候穀物こくもつの儀江戸表へ相廻あひまはし申候明後日は關宿せきやど庄右衞門殿方へ穀代金こくだいきん勘定かんぢやうに參り申候粕壁かすかべの代金八十兩也大豆だいづの爲替かはせに仕つり候只今たゞいま御受取可被下候先まづは右の段申上度如此かくのごとく御座候以上

六月廿五日
穀屋平兵衞
杉戸屋富右衞門樣

半左衞門殿是これを見られて此手紙このてがみは平兵衞の手跡しゆせきに相違無さうゐなきや又また斯樣かやうに好よき手掛りが有ながら何故なにゆゑ先に檢使の節せつ差出さぬぞ是これ甚はなはだ不都合の次第しだいなりと尋らるゝに五兵衞は臆おくせず然さばにて候若わか主人平吉儀は若年者ゆゑ血氣けつき強つよく且又家内手代共の中には血氣の若者も大勢たいぜい之あり候により此手紙を出す時は富右衞門を敵かたきと心得仇討かたきうち呼よばはりなどいたさば容易ならざる事に成行なりゆき申べく一ツには右富右衞門と申者は主人も平常つね〴〵より格別かくべつ懇意こんいに仕つり居極々手堅き人に候へば勿々なか〳〵今度このたびの儀など爲出しいだすべき人物に御座なくと存じ密ひそかに私しが取隱とりかくし置たりと云にぞ伊奈殿如何樣夫も道理もつともの譯わけ聞屆きゝとゞけたり追々おひ〳〵吟味ぎんみに及ぶと申され其日は平吉始はじめ五兵衞其外とも一同下られけり是より伊奈殿には手代てだい杉山すぎやま五郎兵衞馬ば場ば與よ三右衞門の兩人に幸手宿さつてじゆくの杉戸屋富右衞門を召捕めしとり來きたるべしと申渡されたり


第三回


 天に不思議の風雲ふううん有り人に不時の禍わざはひありとは宜むべなる哉かな爰こゝに杉戸屋富右衞門は去六月廿六日晝ひる立にして商用の爲め栃木とちぎ町より藤田古河邊こがへんへ到り暫く逗留とうりうなし七月四日晝前に我が家へ歸りければ女房お峰みねは出迎ひ先御無事にと打喜うちよろこび而して又旦那には村中の大變を御途中とちうにてお聞ありしやと云に富右衞門否々いな〳〵何事も聞ざりしがそりや又何云どういふ譯わけなりやと尋るにお峰は申樣貴方あなたが御立成なされた其翌日の事なるが穀平の旦那が關宿せきやどの庄右衞門殿の方へ行ゆかれた歸り懸がけ權現堂の土手にて殺されしと語かたるを聞て富右衞門やゝ何々なに〳〵平兵衞殿がと大に驚おどろき夫は大變たいへんな事而して殺した奴やつは知しかと問ばお峰風聞うはさには大方盜賊どろぼうの所行しわざならんとの事夫れに付ては若旦那は朔日ついたちより江戸の御郡代ぐんだい屋敷へ御出いで成なされ未いまだに御歸り成なさらぬが相手が早く知しれれば好よいと云に富右衞門何さ天命てんめいなれば今に直ぢき知しれるで有あらう先まづ鞋わらぢを脱ぬがぬうち穀屋へ行て來こやうか扨々腹はらが減へつたお峰や一寸一杯喰込かつこんで行うと腰こしを掛け居處ゐるところへ當宿の村役人段右衞門と岡引をかひき吉藏案内あんないにて八州廻まはりの役人どや〳〵と押來おしきたり上意々々じやうい〳〵と聲を掛かけ飛懸とびかゝつて富右衞門を押伏おしふせ忽ち高手小手に縛くゝし上れば富右衞門は魂たましひ天外に飛とび茫然ばうぜんとして惘あきれしが是は抑そも何科なにとが有て此繩目なはめ私し身に取て聊いさゝかも御召捕めしとりになるべき覺おぼえ無しと云せも果ず役人は富右衞門を白睨にらみ付覺おぼえ無しとは白々しら〴〵しき詐いつはりなり去月廿七日小篠堤權現堂の藪蔭やぶかげに於て穀屋平兵衞を切殺きりころし金百兩を奪うばひし段注進ちうしんの者有て召捕なり申譯わけ有あらば役所に於て一々申すべしといふに富右衞門は彌々いよ〳〵仰天ぎやうてんし其は何共合點がてんの行ざることなり私しは元來ぐわんらい殺生せつしやうさへも嫌きらひで虫一つ殺ころした事も無なきに人殺しなどとは思ひもよらず殊に平生兄弟同樣に致いたす所の平兵衞を何の遺恨ゐこんで殺しませう是は全く人違ひとちがひにて候と云に女房お峰も役人に取縋とりすがり夫をつと富右衞門は勿々なか〳〵人殺しなど仕つる者には御座なく是は必定かならず人違ひ何卒どうぞ御宥ゆるし成れて下さりませと涙なみだと共に手を合せ詫わびるを役人耳にも入ず白睨にらみ付てぞ引立ける富右衞門は女房お峰みねに向ひ此儀ぎ素もとより我が身に覺おぼえなき事ことなれば御郡代樣ぐんだいさまの御前にて申譯は致すなり必ず心配しんぱいすること勿なかれと云ども流石さすが女氣をんなぎのお峰は又も取縋とりすがり涙と共に泣詫なきわびるを役人共は突退々々つきのけ〳〵富右衞門を引立つゝ問屋場へと連れ來り宿駕籠しゆくかごに乘のせて江戸馬喰町四丁目の郡代ぐんだい屋敷やしきへ引れしは無殘むざんなることどもなり


第四回


 斯かくて杉戸屋富右衞門は繩目なはめの儘まゝにて郡代屋敷の白洲しらすへ引居ひきすゑられ伊奈半左衞門殿は吟味ぎんみに及ばれんと其席そのせきへ立出られ先まづ何成奴いかなるやつならんと見らるゝ所に面體めんていは柔和にうわにして篤實とくじつらしく見る成れども人は面體に寄よらずと思ひコリヤ幸手宿杉戸屋富右衞門其方そのはう年は何歳なんさい成るやと尋問たづねられるに富右衞門は當年たうねん五十三歳なりと答こたふ伊奈殿其方は先月廿七日の夜關宿せきやど街道かいだう權現堂小篠堤に於て同宿穀屋平兵衞を殺害せつがいに及び加之そのうへ金子を奪うばひ取りたるならん有體ありていに申立よと云れけるにぞ富右衞門は首かうべを上あげ私し儀日頃より右平兵衞とは兄弟同樣に仕つる者に候へば然樣さやうの儀は毛頭もうとう覺おぼえ御座なく殊ことに其節は私し事他出たしゆついたし八九日外に逗留とうりう仕つり居をり歸宅きたく致せし機をり其事柄を家内の者より初めて承まはり實に驚き入しゆゑ早速悔くやみに參らんと存じ旅行りよかうの儘まゝ草鞋わらぢも解とかず空腹くうふくに付食事を致し居り候所へ御捕方とりかたの人々參られ御召捕に相なりし次第にて勿々なか〳〵人を殺し金子を盜ぬすみ取候などと申儀ぎ夢ゆめにも存じ申さず何卒なにとぞ御慈悲じひの段偏へに願はしく存じ奉つると申立れば半左衞門殿聲を張はりあげ默だまれ富右衞門汝おのれ其節他出とあるからは猶なほ以て怪あやしきなりシテ他出とは何いづれへ罷まかり越こしたるぞとあるに富右衞門私し儀ぎは先月二十六日出立しゆつたつ致し古河こがの在藤田村の儀左衞門かたへ參り夫より古河こがの御城下に商用しやうよう御座るゆゑ逗留とうりう仕つり二十七日には栃木とちぎ町の油屋徳右衞門方へ晝の八ツ時より泊りに着居つきをりしにより全く以て右體みぎていの儀は覺え御座なく候と申立ければ伊奈殿大音だいおんに是これ富右衞門今汝ぢが何樣どのやうに申譯をしても此方には聢しかとした證據があるぞ是其方所持しよぢの煙草入たばこいれが其場に落して有しなり夫を見よと投出なげいだされしに富右衞門は是を視みて成程此品は私しの煙草入に相違御座なく候へども是は去月末すゑに隣村りんそんへ用事有て朝あさの内參まゐりし途中にて落せしにより其節心付づき四五町引返して相尋あひたづねしと雖も一向かう見當り申さず併しかし餘ほど持古もちふるし候品と申別段用向の書付も入置ませぬゆゑ其儘まゝに打捨置候處如何いかゞ仕つりてか其邊そのへんにと言せも果はてず半左衞門殿コリヤ其煙草入の中には平兵衞より其方へ遣つかはしたる手紙が有之しなり然さすれば定めて待伏まちぶせをして殺したに相違さうゐ有あるまじきぞと申さるゝに富右衞門恐おそれながら煙草入は私しの品にて又手紙も平兵衞より私し方へ參り候手紙に相違さうゐ御座なく候併しかしながら私し儀は豫かねて平兵衞方へ出入仕つり候て金子きんすは勿論もちろん内外ないぐわいの世話にも相成候中故平兵衞が娘を關宿せきやどへ縁談の媒人なかうど迄も仕つり候程のことにて兄弟の如く交まじはり候中に付何とて渠かれを殺害など仕つるべきや此儀何分御賢察けんさつ下され御慈悲じひの程を偏ひとへに願ひ上奉つると申立れども伊奈殿は首かうべを振ふられ否々いや〳〵其方が申す所一ツとして申譯は相成ず欲情よくじやうに關かゝりては實の親子しんし兄弟の中成とも心得違ちがひの者往々まゝ有ある事なれば彌々いよ〳〵陳ちんずるに於ては拷問がうもん申付るぞ其方が首くびに掛し百兩入の財布さいふは則ち平兵衞を殺し盜ぬすみ取たるに相違は有まじ夫にても猶なほ知らぬと申すかと白眼にらめらるれども富右衞門は實に覺おぼえなきことなるにぞ此百兩の金子は古河こがの穀屋儀左衞門方より請取うけとり候に相違は御座りませんと少しも臆おくせず申立るを半左衞門は大いに憎にくく思ひ否々いな〳〵其口上は幾度いくたび申すも同じ事なり決して申譯には相成ず猶なほ追々呼出すべしと云るゝ時手代の者立ませいと聲を懸かけ其日は入牢とぞ相なりける其後松坂町郡代の牢屋敷らうやしきに於て無殘むざん成かな富右衞門は日々ひゞ手強てづよき拷問に掛り今は五體たい悉々こと〴〵く弱よわり果はて物も咽のんどを下くだすこと能はず一命既に朝夕てうせきに迫せまるに付富右衞門倩々つく〴〵來方こしかたを思ひ行末ゆくすゑを案じけるに今迄一點の罪を犯をかせし事もなきに斯る無實むじつの罪を請うけて刄やいばに懸かゝり非業ひごふの最期さいごを遂とげ五體を野外やぐわいに曝さらし雨露あめつゆに打うたれて鳶烏とびからすの餌食ゑじきと成こと我が恥よりは先祖せんぞの恥辱ちじよくなり返かへす〴〵も口惜くちをしき次第かな女房お峰みねも嘸さぞや悲かなしみ歎なげくらんと五臟ざうを絞しぼる血の涙に前後正體無りける良やゝ有て心を取直とりなほし我が身ながらも未練みれんの繰言くりごと兎とても角かくても助かり難き我が一命此上は又々嚴敷きびしき責苦せめくを忍こらへんよりは寧いつそのこと平兵衞を殺せしと僞いつはり白状して此世の責苦せめくを遁のがれん者と爰こゝに心を定めしは最いとも憐あはれの次第なり然ば翌日の調しらべに右樣白状致せしにより役人は速すみやかに口書こうしよを認したゝめ富右衞門に讀聞よみきかす

一私し儀ぎ穀屋平兵衞と別懇べつこんに仕つり候處關宿せきやど在ざい坂戸村名主庄右衞門方より穀代金請取歸り候儀ぎ前ぜん以て手紙にて承知仕つり候故ゆゑ六月廿七日の夜權現堂小篠堤に待受まちうけ殺害せつがい致いたし金百兩盜ぬすみ取候に相違さうゐ無御座候依之此段奉申上候以上

武州幸手宿
七月廿五日
富右衞門

此時役人は富右衞門に向ひ何なんと慥たしかに承知したか彌々いよ〳〵白状の趣きに相違さうゐなくば口書こうしよに爪印つめいん致せと右の口書を富右衞門の前へ差付さしつくるに富右衞門是を見て殘念ざんねん至極しごくに思ひ心中煮返にえかへるが如き涙をはら〳〵と流ながし齒を喰締くひしめながら爪印つめいんも相濟あひすみけるに依て伊奈半左衞門殿より口書こうしよを添そへ委細ゐさいを書取にして手代富田善右衞門を持もつて月番南町奉行大岡越前守殿へ引渡し相濟ける之に依て大岡殿も一通り吟味の上口書こうしよ并びに書取の通り符合ふがふなすに於ては月番老中衆しゆへ伺うかゞひの上附札つけふだにて御仕置仰せ付らるゝの手續てつゞきなる故今富右衞門が命は風前ふうぜんの燈火ともしびの如し再調さいしらべに引出さるゝ其有樣數日の拷問に勞つかれ果はて總身そうしん痩衰やせおとろへ鬢髭びんひげは蓬々ぼう〳〵とし淺黄木綿あさぎもめんの浴衣ゆかたにて青繩あをなはに縛くゝられ小手を緩ゆるして砂利じやりの上に引居ひきすえられし體てい此世の人とは見えざりけり白洲しらすの正面には大岡越前守殿着座ちやくざ有左の方には御目附土屋つちや六郎兵衞殿縁側えんがはには目安方めやすがたの與力よりき下には同心に至る迄威儀ゐぎ嚴重げんぢうに控ひかへたり此時大岡殿は武州幸手宿富右衞門と呼よばれ其方歳は何歳いくつ成なるぞと尋問とはれしかば富右衞門ハツと平伏し少し顏を上當年五十三歳に相成候と云たる體てい顏色がんしよく殊ことの外ほか痩衰やせおとろへ肉にく落おち骨ほね顯あらはれ聲こゑ皺枯しわがれて高く上あげ得えず何樣數日手強てづよき拷問に掛りし樣子なり大岡殿此體このていを熟々つく〴〵見られしが其方日頃懇意こんいに致し恩義おんぎにも相成し同宿成る穀屋平兵衞が坂戸村名主庄左衞門より金子きんす百兩受取し事を存ぞんじ居て權現堂村小篠堤にて殺害せつがいに及び金子百兩奪うばひ取し趣おもむき明白に白状はくじやう致せしにより口書こうしよも極きまり爪印つめいん濟ずみの上伊奈半左衞門より引渡ひきわたしと相成たり依て一通り糺問たづぬるぞ右みぎ口書爪印致せしからは相違無さうゐなきや何どうぢや明白に申立よと云いはるゝに富右衞門ははら〳〵と涙なみだを落おとしながら漸々やう〳〵に申立る樣は私しこと全く以て平兵衞を殺し金子など取候覺おぼえは毛頭もうとう御座なく候へども是まで段々嚴敷きびしき拷問がうもんの苦くるしさに堪難たへがたく御覽の通りの老體らうたい故ゆゑ其苦しみを早く免まぬかれ度たく寧いつそ未來みらいへ參りなば此苦しみも有まじと存じ斷念あきらめて罪を身に引請ひきうけ白状はくじやう仕つり候なり其實は人を殺し金子を奪ひ取候儀等は毛頭もうとう是なく何卒御賢察下けんさつくだし置れ候樣偏へに願ひ上奉つると涙なみだながら申立ければ大岡殿聞し召れ汝ぢ右樣申立ると雖も半左衞門方よりの明細書めいさいしよの趣おもむきにては其方の煙草入が平兵衞の死骸しがいの側そばに落て有しのみならず加之そのうへ平兵衞より其方へ宛あてたる手紙が中に入有し趣き是等は何どうぢやと申されければ富右衞門其煙草入は去月下旬用向ありて隣村りんそんへ參りて途中に於て取落とりおとせしに相違さうゐなく其上私し儀は六月二十六日出立しゆつたつ仕つり古河の在ざい藤田村儀左衞門方へ一泊ぱく致し二十七日は栃木とちぎ町油屋徳右衞門の方に罷まかり在あり私し在所より十二里餘の場所なる故小篠堤にて平兵衞を殺害せつがい仕つりし儀は一向かう覺おぼえも無是候と申けるに大岡殿然しからば半左衞門方にて他村たむら宿々しゆく〴〵の泊り吟味ぎんみは致したで有うと有し時富右衞門恐おそれながら其儀は一向御取上とりあげなく只々煙草入を外ほかへ落したとは僞いつはり其砌みぎり殺害の場へ落としたに相違あるまじとばかり御吟味ぎんみが強つよさに是非なく身に覺えは御座らねども其罪を引受白状致し候と申立しかば大岡殿篤とくと富右衞門の相恰さうがうを見られし所如何樣にも篤實とくじつ面おもてに顯あらはれ勿々なか〳〵人を殺し盜賊たうぞくをする者にあらず併しかし今いま強しひて吟味する時は裁許さいきよを破り殊に郡代の不詮議ふせんぎと相成事なり然さりとて人一人たり共無實むじつに害そこなふは大事なれば先々まづ〳〵能よく實否じつぴを突止つきとめて後のち右とも左かくも取計はからはんと富右衞門は其儘まゝ入牢申渡されける是より大岡殿組下くみしたの同心へ申付られ在方ざいかたの樣子を探さぐられけるに幸手宿其外そのほかの評判には權現堂の人殺しは富右衞門にては有まじとの風聞ふうぶん故ゆゑ六月廿六日より七月四日迄七日の間あひだ富右衞門が泊とまりし所を詮鑿せんさく有に左の通り

覺

一幸手宿さつてじゆく富右衞門儀ぎ商用しやうように付六月廿七日晝八ツ時頃ごろ私し方へ參り一宿しゆく仕つかまつり候處商用掛合かけあひ不相分あひわからず猶なほ又廿八日も逗留とうりう仕つり候廿七日より晝夜ちうや共他出たしゆつ不仕私し方に逗留とうりう仕居り廿九日巳刻過よつどきすぎ出立しゆつたつ致し候此段相違さうゐ無御座候依て御受書うけしよ如斯御座候以上

下野國栃木中町
八月五日
油屋徳右衞門
同所  町役人
中村五兵衞
同所  問人
杉村幸右衞門

池田大八樣

馬込藤十郎樣

泊所とまりどころ覺おぼえ書がき

一杉戸屋すぎとや富とみ右衞門儀六月廿六日朝あさ卯刻むつどき幸手宿我が家出立致し下總葛飾郡藤田村名主儀左衞門方へ泊とまり廿七日朝卯刻過すぎ出立致し下野しもつけ都賀郡つがごほり栃木とちぎ中町なかまち油屋徳右衞門方へ泊とまり廿八日同所に逗留とうりう廿九日晝ひる巳刻よつどき過栃木中町を立下總國古河町穀屋儀左衞門方に逗留致いたし七月四日朝五ツ時出立右の通り泊り〳〵探索たんさく仕つり候處相違無之さうゐこれなく別紙べつし廿七日泊りの場所栃木中町徳右衞門を上町かみまち名主方へ呼寄よびよせ猶なほ又逐ちく一吟味仕つり書付を取役人共印形いんぎやう取置申候且又古河穀屋儀左衞門方より穀代こくだい金百兩富右衞門へ相渡あひわたし候趣おもむき是又呼上吟味ぎんみ仕つり書付請取うけとり申候右の泊とまり所相違さうゐも無御座候以上

八月八日
馬込藤十郎
池田大八

右の通り出役しゆつやくの者取調とりしらべし上書付二通大岡越前守殿へ差出しけるに依よつて越州殿には扨さてこそ推量すゐりやうに違たがはず外に惡賊あくぞく有ことと是より專もつぱら其本人を種々いろ〳〵詮議せんぎされけるとなん


第五回


 扨も杉戸屋富右衞門に一人の悴せがれあり幼少の節せつ疱瘡はうさうにて兩眼を失うしなひしかば兩親も大に心を痛め種々治療ちれうに手を盡つくせ共更に其効しるしも無く依て田舍座頭ゐなかざとうにせんも不便なりと種々に心配を爲居たる所に其頃江戸長谷川はせがは町に城重と言座頭ざとう有素もと幸手出生の者なりしが偶然ふと此事を聞故郷の者なれば幸ひ我が養子やうしに貰もらはんとて其趣きを相談するに富右衞門も早速さつそく承知しようちなしけるゆゑ此子を養子に貰ひ請うけて城富とぞ名らせけるが城富じやうとみの十四歳の時に養父の城重病死びやうし致せし故養母やうぼを大切に孝養して相應さうおうに暮くらしける是より前さき此城富十二歳の春より按摩あんまを業わざとして居たりしが或時住吉すみよし町を通りたる時不圖ふと竹本政太夫方へ呼込よびこまれ療治をなし居ける中うち五六人義太夫を習ならひに來りしに元より城富も好の道みち故ゆゑ我を忘れて聞ながら長く療治れうぢをせしが縁と成て其後毎夜まいよ呼込では揉もませけるに最いと上手なれば政太夫も至極しごくに歡び療治をさせける處城富は稽古けいこを聞感に妙たへて居る樣子を政太夫は見てコレ按摩殿あんまどの貴樣きさまは淨瑠璃じやうるりが好か何所どこぞで稽古でも仕たるかと尋ねけるに城富はハイ然さ樣で御座りますが未いまだ一向かう稽古は致しません親掛おやがかりの身の上ゆゑ漸々やう〳〵針はりと按摩を稽古けいこ致いたすばかりで淨瑠璃じやうるりは習ひ度は思ひましても手が屆とゞきませぬと云にぞ政太夫成程なるほど然しかし夫程好ならば何んと稽古けいこをする氣は無ないかと言へば城富夫は有がたう存じます實じつに私しは殊ことの外好すきで御座りますれど只今申上る通り親掛りで居をりますれば稽古の代だいが思ふ樣には出來ませぬ只々たゞ〳〵習ならひたいと存ぞんじまして御弟子樣方の御稽古けいこを少し聞ても聞取り學問がくもんとやら外の御宅たくと違ちがうて此方樣の事成れば一口聞ても多きに稽古けいこに成りますと言ふ故ゆゑ扨々さて〳〵不便ふびんの事なり然程に執心しふしん成ならば私が教へて遣やりませう貴樣の事だから金は決けつして取らぬが其替そのかはりに稽古代けいこだいと思うて按摩あんまを安くして頼たのみますと言ふに城富ハイ夫は何寄なにより以て有がたう存じます何卒どうぞお願ひ申ますと是より口移くちうつしに道行の稽古けいこより始めて段々と習ならひ込んで生涯しやうがいの一藝にせんものをとの一心と云其上拍子ひやうしの間も宜よく殊ことに古今の美び音なれば太夫も始めは戲談じようだんの樣に教へしが今は乘氣のりきが來て此奴こやつは物に成さうだと心を入て教へける故天晴舊來ふるき弟子でしを追拔おひぬけて上達しければ政太夫も大いに感かんじ是より三味線をも習ならはせんとて相三味線の鶴澤つるざは友とも次郎へ咄はなして此事を頼たのみけるに友次郎も早速さつそく承知しようちなし其後は三味線を一層しほ身みに入れて教へけるに勿々なか〳〵一通り成らぬ上手じやうずと成しかば稽古けいこは僅わづか四年の中成れども生質たる藝なりと友次郎も大いに感かんじけるとなん斯て城富は當年たうねん十七歳と成り所々の出入は養父やうふ城重の時より殖ふえ其上に三味線みせん淨瑠璃じやうるりにて所々方々へ招まねかれ今は家内も安樂あんらくに暮し養母やうぼも實子の如く不便を加へ亦城富も孝行を盡つくし居たり時に享保きやうほ八年に至り實父富右衞門の災難さいなんのことどもを實母じつぼのお峯が來り委細ゐさいに物語りしければ城富は是を聞き大いに驚おどろき甚だ悲かなしみつゝ涙を流し只一心に神佛を祈いのりける所に享保八年十月十一日彌々いよ〳〵御所刑しおきの由幸手宿村役人を以て穀屋平吉へ申渡わたされ富右衞門妻へも此段申聞られしかば此事を城富は聞より起たちつ居つ心配しんぱいし其儘そのまゝ長谷川町の家を駈かけ出だし杖を便りに數寄屋橋内の大岡越前守殿の表門際おもてもんぎわへ來たり杖を突立つきたて彳たゝずむ故門番は立出汝ぢは道に迷まよひし成ん何方へ行のぢやと言ふに城富は涙に咽むせかへりながらハイ〳〵南御番みなみごばん所は何れで御座りますと問とへば門番の者南御番所は此所こゝなるが何用有て來りしぞ何なにか願ひ度たき事でも有かと聞れ城富はハイ然樣さやうで御座ります御奉行樣へ急きふに御願ひが御座りまして參まゐつた者で御座ります何卒どうぞ御取次を願ねがひますと云にぞ門番の者願ねがひ度たき事有あらば其町内の役人を同道して來り願ふべしと言ふに城富ハイ是は誠まことに差掛さしかゝりまして早急の儀なれば町役人を頼たのむ間も遲おそなはります何卒どうぞ御取次を願ひ上ますとて少しも動うごかざれば門番の者も止やむを得ず此事を訴訟所うつたへじよへ屆とゞけ門内へ入置て町所家主の名前等を聞けれども一向かうに言ず只何卒どうぞ御奉行樣へ御目に掛かゝり其上にて委細ゐさい申上ますとばかりにて盲人まうじんの根生こんじやう勿々なか〳〵動うごかざれば役人も持もて餘あまして此段を申述のべけるに大岡殿是を聞れ苦くるしからず早々白洲しらすへ廻まはすべしとの事により城富を白洲しらすへ呼入ければ大岡殿見られて汝ぢは如何なる願ひ有るか予われは大岡越前守なるぞ其方の名は何と申又住居ぢうきよは何處成ぞ申立よと云れしかば城富は喜びたる體ていにて私し儀は城富と申者長谷川町はせがはちやう地主ぢぬし嘉兵衞かへゑが地面に居をり候と申けるに大岡殿而して又其方は如何成ることの願ひ有て奉行所へ盲人まうじんの身にて駈込訴かけこみそに及びしや城富ヘイ御意ぎよいに御座ります私し儀は武州埼玉郡幸手宿杉戸屋富右衞門と申者の悴せがれなるが十二歳の時ときより江戸長谷川町城重方へ養子やうしに參まゐりし者なりと答こたふるに大岡殿然しからば其方は幸手宿富右衞門が忰せがれ成なるか當時養父城重といふ者達者たつしや成るや城富ヘイ養父儀やうふぎは三四年以前に病死びやうし仕つりました大岡殿然しからば其方は富右衞門が一件けんに付願ひ出しか城富御意ぎよいに御座ります段々樣子やうすを承うけたまはりし所實父富右衞門儀は今日御仕置しおきに相成るとのこと故其悲かなしさは何に譬たとへん樣も無なく又實母儀も嘸さぞや歎なげき申さんと思へば在あるに在あられぬ悲しさの餘り押して御願ひに出たることにて私し儀ぎは御覽の如く眼めの見えぬ者なれば生きて甲斐なきこと故何卒なにとぞ實父じつぷ富右衞門が名代に私しを如何樣いかやうの重き御仕置にても爲下され富右衞門儀は御免ゆるしを偏へに願ひ上奉つると涙なみだと共に願ふにぞ大岡殿にも孝心かうしんの段憫然ふびんの至りなりと思されけれども今さら止やむを得ざれば汝ぢが申所は道理もつともに似にたりと雖も親の罪を子に負おはすると言ふ事には成ならず又罪も罪の次第に寄よる況ましてや其方は他人の養子やうしと成りし身み成ならずや夫を差置さしおき實父富右衞門の代かはりに御仕置に致すことは相成あひならず公儀かみには然樣さやうの御規定は無事なきことなるぞと申さるゝに城富は至極しごく御道理もつともの御儀なれども親の罪科ざいくわに代りし事古來より大分だいぶん御座る樣に承まはり及びますれば何卒なにとぞ御慈悲ごじひを持て父富右衞門儀を御助おたすけ下されて私しめを名代に御仕置おしおき願ひ上奉つると只管ひたすら申立て止ざれば大岡殿成程なるほど一通りは道理もつともの願ひ聞屆けても遣つかはさんが併しかしながら爰を能承まはれ今其方が申儀は實父じつぷ富右衞門には孝行かうかうの樣成れ共養母へ對たいし實母じつぼへ對しても孝行には非ずして却て不孝ふかうと云者なり其方そのはうが名代に立と言たりとて親富右衞門がオイ夫それと承知もすまじ殊に天下の御定法ごぢやうはふとして然樣に自由なることは出來るものに非ず強しひて是を願へば強訴がうその罪つみとなり親富右衞門の外に其方が罪は遁のがれぬぞ爰こゝを能々聞き譯よと理りを以て諭さとされければ城富は段々との御利解ごりかい有難き仕合しあはせに存じ奉つる然さりながら押おして願へば不孝ふかうなりとの御意は不才ふさいの私しには解わかりません親の爲にするは孝道かうだうかと存じますと親富右衞門を助たすけ度たき一心に理も非もなく只々一生懸命に申立けるにぞ越州殿ゑつしうどのには何樣なにさま愍然びんぜんとは思はるれども故意わざと聲を勵はげまされて成程親の爲に一命を捨すつるは孝道かうだうに相違無けれ共能承まはれ其方は一旦たん城重方へ養子と成なり針治しんぢ導引だういんの指南を受し上手足を延のばして貰ひし恩義おんぎは城重の蔭かげで有あらうな然れば師匠ししやうなり義理有る養父なり實父よりは猶更大切たいせつに致さねば相成まじ然るを其方今實父富右衞門の名代みやうだいとなり御仕置になりて相果たらば何樣いかさま富右衞門へ孝行かうかうは立にもせよ養母の養育は誰が爲するぞ義理有る養母を捨すつるは不孝ふかう此上無しよも富右衞門夫婦の者共も是を悦よろこびは致すまじ依よつて不孝と成ぞ爰こゝの所を能々よく〳〵辨わきまへて只此上は富右衞門の亡跡なきあとを弔とむらひ佛事供養くやう怠おこたりなく致すが孝行かうかうなりと申さるゝを聞より城富はハツとばかりに白洲しらすへ泣倒なきたふれ嗚呼實父へ孝を立んとすれば養母やうぼへ不孝となり養母へ孝かうを盡つくさんと思へば實父は御仕置となり是りや何どうしたら宜よからうぞと大聲おほごゑ揚あげて號出なきいだしければ越前守殿は彌々いよ〳〵憫然ふびんと思はれしが是や〳〵其方其樣そのやうに嘆なげき實父に代かはらんと申せども最早もはや富右衞門はお所刑しおきに相成しぞ然されば其富右衞門が蘇生いきかへると云ふ理りは無れども其方の孝心かうしん天へ通じ其惠そのめぐみにて實父富右衞門がまた蘇生そせいなす間じきものにあらず因て其方は此後このご能々よく〳〵實母へ孝行を盡つくすべしと厚あつく諭さとされし上早速其所の地主嘉兵衞と其家主いへぬしを呼寄られ城富を引渡ひきわたしとなり隨分ずゐぶん心付けつかはすべき由申付けられけり


第六回


 扨さても鍼醫はりいの城富は我が願ひ叶かなはず地主嘉兵衞に引渡ひきわたされしかば止を得ず嘉兵衞に伴ともなはれ我が家へ立歸り悲歎ひたんに暮くれて居たりしが良やゝありて思ふ樣父の死は是非もなきこと共なり切せめては父の亡骸なきがらを葬はうむりて修羅しゆらの妄執まうしふを晴はらし申さんとて千住小塚原こづかはらの御仕置場へ到り非人ひにんの小屋へ立寄たちより些ちと御頼み申度ことありて參まゐりたり昨日御仕置になりたる武州幸手宿富右衞門の首くびを何卒なにとぞ私しに下さります樣やう御頼おたのみ申上ますと云へば非人共是を聞て其儀そのぎは勿々なか〳〵相あひならず假令御仕置者なりとも首又は死骸など謂ゆゑ無なく渡して遣やる事は成ぬなり夫共御奉行所よりの御差圖ならば知しらぬこと何どうして〳〵出來ぬことなり早く歸られよと取合とりあう氣色けしきもあらざれば城富は力もぬけ杖つゑに縋すがりて茫然ばうぜんと涙に哽むせび居たりける是を見て非人共は耳語さゝやき合あひ何と彼の座頭ざとうは幸手の富右衞門とやらの由縁ゆかりの人と見えるが何どうだ少しでも酒代さかてを貰もらつて首くびを遣やらうではないかと相談なしモシ〳〵御座頭おざとうさん高くは云れねへが首を極ごく内證ないしようでお前に進あげませうと云ふを城富聞より大いに喜悦よろこび夫は〳〵誠まことに有がたう御座ると云ば非人共而して酒手は何程位どのくらゐ置おいて行のだへ全體ぜんたい遣やつてはならぬことだが己輩おらたちの寸志こゝろざしで内證で進あげるだから其ことを能よく思ひなせへと云を城富聞てハイ酒代は何程いくらでも上ますから首くびは何卒私しへ下さりませと申に非人ひにん共夫ならば大負おほまけにして金二分も置おかつしやい城富ハイ夫は御安いこと若し〳〵然樣ならば何卒富右衞門の首くびを御渡し成なされて下されましと金子きんす二分を渡しけるに非人共は受取千人溜ための方へ行ゆく是これ〳〵傳助や彼の富右衞門とやらの首くびを知て居ゐるかと聞て馬鹿ばかを云ねへ今日は三人昨日五人と何どれが何どうだか分る者か何でも宜いゝは金さへ取ば仔細なしだ生首なまくび一ツ渡して遣やらうと云は脇わきから一人の非人が夫でも親おやの首くびだと云から向うにも見知みしりが有あらう外ほかの首では承知しまいと云ば一人の非人然さればさ何だと云て相手あひては座頭の坊ばうだから見分みわけが有物か首さへ遣やれば宜いゝ然樣さうして直に下屋敷へ葬むるで有らうから宜いゝはさと云に皆々みな〳〵成程々々と云乍ながら首一ツ持出もちいだしてサア〳〵御座頭さんと渡しければ城富是これは〳〵有難ありがたう御座りますと押戴おしいたゞきわつとばかりに泣出なきいだせしが變り果たる此有樣嘸さぞや御無念で御座りませう然さりながら前世ぜんせの因縁いんえんと思召おぼしめし假令私の眼が見えねばとて長い中うちには人間の一念ねん眞事まことの人殺しを搜索さがし出して修羅しゆらの靈魂みたまを慰なぐさめん南無阿彌陀佛〳〵と首くびを抱いだきしめ暫しばらく涙に暮くれ居たり夫より回向院ゑかうゐんの下屋敷を聞しに直に側そばなる故尋ね行ゆきて金子二分取出し葬り呉よと頼みけるに回向院の庵主あんしゆ承知して奇特きどくなることなりと是を葬り香華かうげを手向たむけ經文きやうもんを讀て供養致しければ城富は燒香せうかうをして立出漸々やう〳〵其夜の子刻過ねのこくすぎ長谷川町の我が家へ歸り養母并に實母のお峯みねも此節在所より來り逗留とうりうして居ける故右の樣子を咄はなせしにぞ兩人も涙を流して悲かなしみけるが愁うれひの中にも城富の孝心かうしんを感じ悦び夜と共に物語りして休やすみける城富も晝ひるの勞つかれによく寢入ねいりし夢の中に身の丈たけ六尺ばかりの大の男をとこ兩眼りやうがん大きく髮かみ髭ひげ蓬々ぼう〴〵と亂れ最いと怪あやし氣なる有樣にて悠々のさ〳〵と枕邊まくらべへ來る故夢心に城富は吃驚びつくりしける處に彼の男城富に向ひて若し〳〵御座頭おざとう樣何の由縁ゆかりもない私しを今日は御葬り下され御回向ゑかうに預あづかりしことの有難く御蔭かげにて未來みらいを助かりますにより憚はゞかりながら是より其報恩はうおんに御前樣の蔭身かげみに添て何卒御立身出世りつしんしゆつせを成るゝ樣私が永く守り上る程に然樣思召し下さるべし返々かへす〴〵も嬉うれしや忝かたじけなしと云かと思へばコレ城富や〳〵と兩人の母に起おこされにけるにぞ城富は漸やうやくに眼めを覺さまし然すれば今のは夢にてありしやと大汗おほあせを拭ぬぐひながら頓やがて委細ゐさいの譯を物語り扨も不思議ふしぎや今日のことを斯かく夢ゆめに見ると云は是これ正まさしく父ちゝ富右衞門殿が夢ゆめの中に御座られたので有あらうと涙と倶ともに咄はなし合けるが此後富右衞門の女房にようばうは一七日過すぎて幸手宿へ立歸り親類しんるゐ中を呼集めて後々の相談さうだん彼是かれこれとして其年もはや何時しか暮くれに及びたり


第七回


 明れば享保九年正月三日竹本政太夫たけもとまさだいふの方にては例年の通り淨瑠璃じやうるりの語かたり初そめなりとて門弟もんてい中打集まり一入しほ賑々にぎ〳〵しく人ひと出入でいりも多かりける其頃西の丸の老中安藤對馬守殿あんどうつしまのかみどのの家來に味岡あぢをか勇右衞門と云ふ仁ひとありしが政太夫を贔屓ひいきになし今日も忍びにて語り初そめを聽きかんと參られけるが此人より土産として金千疋ぴき三味線彈さみせんひきの友次郎へも金五百疋ぴき又政太夫の女房にようばうへは縞縮緬しまちりめん一疋を贈おくられ今日の第一番客なり扨さて夕ゆふ申刻なゝつ頃よりして立代たちかはり入代り語り初そめをなす淨瑠璃じやうるりの數々かず〳〵門弟は今日を晴はれと見臺に向ひて大汗おほあせを流ながし素人連中しろうとれんぢうにも上手じやうずの人々は我も〳〵と聲こゑ自慢じまんもあれば又節ふし自慢じまんもあり最も賑にぎはふ其が中に今宵城富は國姓爺合戰こくせんやかつせん鴫しぎと蛤はまぐりの段だんを語りけるに生得しやうとく美音びおんの事なれば座中ざちう鳴なりを鎭めて聽居きゝゐたりしが今いま語かたり終をはりし時一同に咄どつと譽ほめる聲家内やうちに響ひゞきて聞えけり此折しも第一の客なる彼の味岡勇右衞門は如何いかゞ致しけんウンと云て持病ぢびやうの癪氣しやくきに差込さしこまれ齒を噛かみしめしかば上を下へとの大騷ぎとなり幸さいはひ城富は鍼治しんぢに妙めうを得たる故直樣すぐさま療治れうぢを致させしに胸先むねさきより小腹せうふくの邊りへ一二鍼しん打うつや否いなや立所に全快致しけり勇右衞門は持病ぢびやうゆゑ寒暖かんだんに付て發おこる時は急に治をさまらぬ症なるに城富の鍼治しんぢにて早速快氣こゝろよくなりける故大いに喜び紙に包つゝみて金二百疋をさし出し城富に遣はして此後折々我が屋敷やしきへも參るべしとて厚あつく禮れいを述のべければ是よりして味岡あぢをかの方へも出入をなせしが鍼術しんじゆつに於ては大いに妙めうを得しとて彼方此方かなたこなたに重寶ちようはうがられ其後味岡の手引てびきにて所々方々と出入も殖ふえたりしが味岡は大岡殿と内縁ないえんあれば或日味岡勇右衞門は大岡殿へ出でし所越前守殿顏色かほいろ宜よろしからず持病の癪氣しやくきの由申されければ勇右衞門然しからば其それには誠に奇妙なる鍼醫師はりいし是あり私し儀も至つて癪持しやくもちにて難儀仕つりし處不圖ふと渠かれが鍼治しんぢにて全快いたし其後暫時しばらく發おこり申さず實に上手なる由申述ける故越前守殿此由このよしを聞きかれ夫は近頃ちかごろ忝かたじけなし早速に呼寄よびよせ療治すべし其者は何所に居やと尋ねらるゝに勇右衞門其者儀そのものぎは長谷川町に罷まかり在あり名は城富と申して至つて鍼はりに功者こうしやに候と申けるにぞ越前守殿早々用人の山本新左衞門やまもとしんざゑもんを召めされ城富を呼寄せ療治れうぢ致させ度たき由よし申されければ新左衞門は畏かしこまりて次へ下り早々手紙てがみを認めて中間ちうげんに持せ遣しける斯くて使ひの者は長谷川町なる城富の宅たくへ行ゆきて状箱じやうばこを差出し南町奉行所の大岡越前守方より來きたりし由を申入けるにぞ城富は大いに驚おどろき養母やうぼに見せ何事ならんか家主いへぬしへも屆けんと思ひつれ共ども今日は留守るすの由ゆゑ如何はせんと先まづ養母やうぼに状箱じやうばこを披ひらかせ見れば手紙一通有り養母も不審いぶかしとは思へ共城富の名宛なあて故ゆゑ披ひらき見ても宜しかるべしと封ふうを押開おしひらきて見るに

以手紙申入候未だ不得御意ぎよいをえず候得共其許之そのもとの鍼術しんじゆつ聞及きゝおよび候に付申入候此度旦那儀だんなぎ癪氣しやくきにて甚だ難儀被致いたされ候に付療治請られ度たく候間乍御苦勞ごくらうながら今日中に御出被下度尤もつとも拙者宅迄せつしやたくまで御入來に預り度候餘者よは其節せつ萬端ばんたん可申述候以上

大岡越前守内
二月八日
山本新左衞門
城富殿

 右の通り認したゝめて有りければ城富も老母らうぼも先々まづ〳〵安心あんしんなりとて委細畏まり奉つり候と返事へんじを養母に認め貰もらひて使の者を返しける


第八回


 扨さても城富は手引てびきの者を連て其日晝過ひるすぎに大岡殿の邸やしきへ參り山本新左衞門の宅たくへ參上の由申入ければ新左衞門同道して奧おくへ罷まかり出しに大岡殿はナニ城富か近ちかう〳〵早はやく來りしよとのことに城富は平伏へいふくして圖はからず御召に預り有り難き仕合なり然さりながら御前樣には如何遊いかゞあそばされ候やと申ければ越前殿然されば癪氣しやくきにて四花の邊より小腹せうふくへかけきり〳〵と差込さしこんで食事も進まず兎角に鬱ふさいでならぬが其方の噂うはさを味岡勇右衞門の咄はなししに依て承知致し呼に遣したり太儀たいぎながら療治れうぢを頼たのむと云るゝにぞ城富不調法ぶてうはふの私し御召に預りまして有難く候と云つゝ側そばへ摺寄すりより療治れうぢに掛りしに素もとより鍼術に妙を得しことゆゑ癪氣しやくきも速かに治をさまりければ大岡殿には悦ばれ成程妙めうに好よい心持こゝろもちに成しと申されるに城富は先々御休息きうそくを遊あそばされよと申て自分も休やすみ居たりけるに大岡殿は寢返ねがへりて此方を見られコレ城富幸手さつての實母じつぼは息才そくさいで居かとの尋ねに城富はハツと首かうべを下げ有難き仕合せ何も替りましたる儀も御座りませんと答こたふれば大岡殿其方が親父おや富右衞門は扨て〳〵不便ふびんなることぢやが汝ぢが孝行かうかうでは富右衞門も頓やがて蘇生そせいするで有あらうぞと申されしに城富は不思議ふしぎのことを云るゝとは思へども一向かう其意を得ざれば夫は有難ありがたう御座りますが今は早はや相果あひはてました親父が再び生ますと申す道理が御座いませうかと云つゝ涙を泣然ほろりと落おとせしにぞ大岡殿然されば死したる者の蘇生そせいする所以は無なけれ共是城富其方そちは彼の生田源内いくたげんないの物語りと云ふ草紙が有が聞たことは無ないか城富一向に承まはりしことは御座りませぬ大岡殿其生田源内いくたげんないと云ふ者は無實むじつの罪を受て攝州せつしう大坂にて御仕置に行はれしが此源内の娘に豐とよと云ふ大孝行の者が有て父ちゝ源内が入牢せし中讃州さんしうの金毘羅權現こんぴらごんげんへ誓ちかひを立たて我が一命を神かみへ捧さゝげて父の無實の罪に代かはらんことを一心しん不亂ふらんに祈いのりしに今日は早はや源内の罪極きはまり御仕置と聞し故娘の豐は其日父ちゝの引れ行ゆきし御仕置場へ行て見るに終に仇あだし野のの露つゆと消果きえはてしゆゑ泣々なく〳〵も其所を立去り我が家へ歸り神かみへ祈いのりしことも贅むだとも成しとて夫より只管ひたすら菩提ぼだいを吊とふらはんと思ひ樒はなを供へ香を燒たいて只々一途に後生を願うて居ゐる所に其夜丑刻やつどき頃と思ふ折しも表の戸をとん〳〵と叩たゝく故是は何者なるやと門かどの戸を明て見るに今迄も慕したひ悲かなしみ居たる父源内立歸りければ娘の豐は夢現ゆめうつつかと思ひながらも大いに悦びことの仔細しさいを尋ぬるに源内は先内に入り我御仕置場にて首を切れしときハツと思おもひしばかりにて其後そののちは何も知ず頓やがて氣が付て其邊あたりを見廻しけるに首は落おちず何事も無健全まめ息災そくさいなり依て我が家へ立歸りしぞと物語ものがたりしかば娘は嬉うれしく是全く金毘羅樣こんぴらさまの御利益りやくならんと早々嗽うがひ手水てうずにて身を清きよめて金毘羅の掛物を取出し伏拜ふしをがみけるに金毘羅の金こんの一字は切放れて血汐ちしほ滴したゝり有ければ親子の者は一同にハツとひれ伏ふし有難ありがたし〳〵とて感涙かんるゐを流しけるが其中に罪人の本人が出て源内は長壽を保たもちしと云事あり是等は即ち理外りぐわいの物語りにて天地てんちの間に不思議の有しことは擧あげて算かぞへ難し切れて助かる道理は無しと雖も世界の不思議神佛しんぶつの利益は無にも非ず然さすれば其方の父富右衞門も蘇生そせいいたす間まじき者でも無い隨分ずゐぶん神佛を頼たのみ奉つりて信心しんじんを致すべしとの物語り有りければ城富は有難う存ぞんじ奉つりますと正直者しやうぢきもの故に萬一大岡殿の申さるゝ通り親が蘇生そせいでもすることかと思うて心の中に樂たのしみ神佛を信心して養母やうぼを大切に致し暮くらしける是よりは猶鍼はりの療治も日々に繁昌はんじやうして諸家へも呼よばれ大岡殿へも時々療治に上りけるに其度々々に越前守殿にも力ちからを添そへて下され有難き詞ことばを掛られけるとぞ此元は皆全く師の竹本政太夫のお蔭かげなりとて猶更なほさら是をも大切にして兩人の母はゝへ孝行を盡つくしけるこそ殊勝しゆしようなれ


第九回


 却て説とく畔倉重四郎は小篠堤をざさづつみにて穀屋平兵衞を殺害せつがいし百兩の金子を奪ひ取り其上富右衞門に罪を負せ事落着らくちやくして富右衞門は御仕置しおきに行おこなはれけるにぞ我が奸計かんけいの好機まんまと行しを悦よろこび三五郎へも百兩の中三十兩を分わけて遣はし何喰なにくはぬ顏をして居たりける爰こゝに又また慈恩寺村にて大博奕おほばくちの土場どばが出來鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞と云ふ名稱なうての博奕打ばくちうちが來りて大いに卻含はづみ金兵衞は五百兩ばかり勝かちし折柄自分の村方に急用きふよう出來せしにより急いそぎ歸村きそんせよと飛脚の來りける故仲間なかまに斯かくと告つげて振舞ふるまひなどをなしつゝ急ぎの用なればとて一同どうへ暇いとまを告て子分なる水戸浪人らうにん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人に跡あとを取片付とりかたづけさせ自分は急いそぎのこと故ゆゑ一足先へ出立して後あとより追おひつくべしと申聞け日の暮頃慈恩寺村じおんじむらを立出けるが時しも享保きやうほ八年七月十六日にて盂蘭盆うらぼんのことなれば村々にては酒宴さかもりを催せしもあり又男女なんによ打交うちまじりて踊をどるもあり最いと賑にぎはしけれども金兵衞は急いそぎの用なれば却かへつて之を面倒に思ひつゝ足に任まかせて歩行あゆみける此金兵衞の行裝こしらへは辨慶縞べんけいじまの越後縮の帷子かたびらに銀拵ぎんごしらへの大脇差し落し差に差て菅笠すげがさ深ふかく打冠うちかぶり鷲の宮迄來りける爰こゝに畔倉重四郎は此頃續つゞく不仕合に勝負しようぶの資本薄ければ忽然たちまち惡心あくしん發はつし鴻の巣の金兵衞が大いに勝かつて在所ざいしよへ立歸るを幸ひ奴きやつを殺し彼者かれが勝し五百兩の金を奪ひ取んと心懸がけ先さきへ廻つて鷲わしの宮の杉林すぎばやしに身を隱かくし金兵衞の來るを今や遲おそしと待懸たり金兵衞は斯かゝるべしとは夢ゆめにも知ず慈恩寺村じおんじむらにて打勝し五百兩を懷中くわいちうし小歌こうたを唄うたひながら悠々いう〳〵と大宮村おほみやむらへと行ける折をりから畔倉は少し遣過やりすごしつゝ窺うかゞひ寄よつて後より大袈裟掛おほげさがけに切付れば流石さすがの金兵衞も手練てなみの一刀に堪たまり得ずアツと一聲こゑ叫さけびし儘まゝ二ツに成て果はてたりけり重四郎は呵々から〳〵と打笑ひ仕て遣やつたりと云ながら刀の血のりを金兵衞の帷子かたびらにて押拭おしぬぐひ胴卷どうまきの五百兩を何の手も無く奪ひ取り懷中せんとする折をりから後あとより人聲ひとごゑがする故に重四郎は振返ふりかへり彼は定めし子分こぶんの奴等やつら何も恐るゝにはあらねども水戸浪人奴みとらうにんめは些ちと手強てごはき奴やつ見付られては面倒也めんだうなり早々此場を立去んとて雲を霞と駈出しける扨又金兵衞の子分八田掃部かもん練馬ねりま藤兵衞三加尻みかじり茂助の三人は跡あとを片付大宮にて親分に追付んと鷲の宮なる杉林へ來懸きかゝりしが死骸しがいに躓つまづき是は何者なるやと能々見るに親分おやぶん金兵衞の死骸なれば藤兵衞は大いに驚き先生々々爰こゝに親分が切きられてと聞きくより掃部も駈寄かけよつて能見れば正敷金兵衞の死骸なり南無なむさん何者の仕業しわざならんと三人は切齒はがみをなして憤いきどほれ共如何とも詮方せんかたなければ頓やがて懷中を改め見みるに是は如何に五百兩の金かねは無く偖さては盜賊たうぞくの所業しわざならんと近傍あたりを見れば扇子一本落おちてあり藤兵衞手に取あげ能々よく〳〵見るに鐵扇てつせんにて親骨に杉田すぎた三五郎と彫付ほりつけ有りし故掃部大いに怒いかり然らば是は幸手さつての三五郎が所業しわざに違ちがひ無なし今西の方へ駈出かけだして行ゆく人影ひとかげを見しが慥たしかに三五郎奴成らんと三人等ひとしく此方の土手どてへ駈かけよりて見れば二三町隔へだてて西の村を差さして迯行にげゆく者あり掃部は彌々彼奴あいつに相違無し是々これ〳〵藤兵衞飛脚ひきやくを立て家うちへ此ことを知らせて遣やれ己は直すぐに茂助と共に三五郎を討取んと云ふに藤兵衞聞きゝて先生私しも一所に行ゆかんと申を否々いや〳〵夫では親分の死骸を無宿むしゆくにされては成らぬ是非々々手前てまへは此場の始末しまつをして呉れろと云棄いひすてて追駈おつかけ行ゆく此掃部と云ふ者は素もとより武邊ぶへんの達者殊に早足なれば一目散に追行おひゆく所に重四郎は一里餘りも退のひたりしが後うしろより駈來かけくる人音ひとおと有り定めて子分の奴等が來る成らんと深江村ふかえむらの入口に千手院せんじゆゐんと云ふ小寺有り住持ぢうぢは六十餘歳の老僧にて佛前に於て讀經つとめをして居る故ゆゑ重四郎は是幸ひと聲を掛けモシ〳〵和尚樣をしやうさま私しは只今災難さいなんに逢あうて追人の懸る者何卒御慈悲じひを以て御隱匿かくまひ下さるべしと頼みければ老僧は是を聞て扨々夫は嘸さぞ難儀なんぎ成なるべし出家のことなれば何かして救すくうて遣はすべし此天井てんじやうの上に不動明王ふどうみやうわうを觀請くわんじやうして在り彼あれ〳〵見るべし彼の天井の隅すみの所なりと其所へ這入はひるには爰の本堂より位牌壇ゐはいだんの後の方から這入がよいそして踏掛る所が有ある夫から又天井に切拔きりぬいた穴あなが有るから其所より這入はひるべしと最と深切しんせつに教へけり重四郎は追詰られし事故心中如何はせんと思ふ所に斯かくの如く住持ぢうぢの情なさけ深く教へて呉くれける故大いに悦び拜々有難う御座りますと云いひつゝ彼の位牌壇より壁かべに有る足溜あしだまりへ足を踏掛ふみかけ漸々として終つひに天井へ昇り其跡を板いたにて元の如く差塞さしふさぎ先是では氣遣きづかひ無しと大いに安堵あんどなし息を壓こらして隱れ居たり斯る惡人なれども未だ命數めいすうの盡つきざる所にや僧の情なさけに依て危き命を助かりし事ぞ不思議ふしぎなる


第十回


 扨も八田掃部は騫直まつしぐらに追懸おつかけ來りしが三五郎めは慥たしかに此寺に迯込にげこんだるに相違無しと御寺へ駈入眼を配くばりながら住持に向ひ若し〳〵御寺樣てらさま只今人を殺して立退たちのきし者が此寺へ駈込かけこみしを慥に見屆たり何所に居り候やお出だし下さる可しと尋たづねければ住持は聞きゝて其そは以ての外のことながら然樣さやうな者は參らず定めて門違かどちがひに候はんと云ひつゝ見向みむきもせず般若心經はんにやしんきやうを讀よんで居けるに否々いや〳〵是へ追込しを見屆て參つたり然されども御出家の儀なれば人を隱かくまうは道理もつともの事なるが私し共の爲には親分の仇敵あだがたきなれば何卒どうぞ出して御渡し下さるべしと押返おしかへして申けれども住持は頭かしらを左右に振ふり否々いや〳〵此方へは參り申さず來らぬ者を匿藏かくまうべき筋も無なしとさらに取合ねば掃部は焦立いらだち某それがし慥に見屆たることなれば斯は申なり夫にても參らぬとならば我等が念晴ねんばらしに此御寺を家搜索やさがし致さんが此儀は御承知なりやと云ひければ和尚をしやうは微笑ほゝゑみ夫は御勝手次第に家搜やさがしでも何でも致されよと一向かう平氣へいきなり掃部然らばとて本堂を始め位牌堂ゐはいだうより其下の戸棚迄とだなまでがらり〳〵と明放あけはなして見るに中には古ふるびたる提灯ちやうちんや香奠かうでんの臺など有り夫よりして臺所だいどころ部屋々々へや〳〵座敷の廻り次の間茶ちやの間納戸なんど雪隱せついんは申に及ばず床下迄も殘る隈無くまなく尋ぬる處へ茂助も息いきを切て駈付かけつけ來り兩人にて又々彼方此方かなたこなたと尋ね廻り地内の鎭守稻荷堂或ひは薪部屋まきべや物置等ものおきとう殘のこらず搜さがしけれ共影かげだに見えざれば掃部は不審いぶかり最もう此上は和尚を捕とらへて詮議すべしと又々本堂へ立歸りコリヤ和尚をしやう匿かくしたるに相違あるまじサア早く出せ但たゞし又何れへ落したるや明白めいはくに云へば宜よし云はぬに於ては此方にも了簡れうけんが有るぞと詰寄つめよせけれども住持は猶なほ自若じやくとして只今申せし通り少しも知らぬことなり然るを未まだ疑うたがひ有らば勝手かつてに致さるべしと申ければ掃部は大いに怒いかつてコレ坊主我等は慥たしかなる所を見屆て申すなり彌々いよ〳〵言いはぬに於ては斯かうすると首筋くびすぢ掴つかんで引摺出し力に任まかせて板縁いたえんへ摺付々々すりつけ〳〵サア何だ坊主め白状しろ何處どこへ隱かくせしぞ但しは落したかと茂助も諸もろともに聲を荒あららげて打据すゑると雖も知らぬとばかりゆゑ掃部は茂助に繩なはを取て來きたれと言に茂助は臺所より荒繩あらなはを持來もちきたりければ和尚を高手たかて小手こてに縛しばり梁はりへ釣上つりあげ薪たきゞを以て散々さん〴〵打てば和尚は眼を開きコリヤ〳〵假令たとへ隱かくしたりとて出家の境界きやうがい今更其を明あかすべきや然而まして一向知らぬこと此身體は素より假かりの世なり殺さば殺せ勝手にしろと云を兩人は聞イヤハヤ此奴こいつ硬情しぶとき坊主めと云樣力に任せて一打肋あばらを打けるにウンと言て其儘まゝ悶絶もんぜつなせしかば茂助は驚き先生せんせい苛酷ひどいことをされたり夫では爰には居ぬに違ちがひも有めへ敵かたきは幸手さつての三五郎と知れて居ゐるからは先々親分の死骸を葬り相手に油斷をさせ置て不意ふいに幸手へ押掛おしかけ三五郎を討取うちとる工夫くふうは幾等いくらも有うと言ふに掃部も成程敵は知て居上ならばマア急事せくこともねへが彼が兄弟分の重四郎と云ふ奴やつは少し手強てごはひ奴なり然し侠氣たてひきも有奴だから親分の敵を討うつと云聞いひきかせ何か助太刀をして呉ろと頼んで見樣みやう若し承知すれば此方の味方否いやと言ふならば先まづ重四郎を先へ殺して遣やらうと二人相談をなし頓やがて此寺を立出けり其時畔倉重四郎は彼等が相談せし樣子を天井に潜伏かくれて逐ちく一聞屆け時分は好よしと天井を飛降とびおり和尚を見に釣つるし上られた儘まゝ死ししたる體ゆゑ重四郎も流石さすが氣の毒に思ひハヽア僧主は僧主丈だけ正直な者然し打殺うちころさるゝ迄云ぬと言ふは武士にも優ました丈夫な精神たましひ天晴々々あつぱれ〳〵感心した然し彼の掃部めは三五郎が殺したと心得しは鐵扇てつせんを三五郎から借かりて來て死人の側そばへ落おとした故彼等が三五郎と思ひしなり是で好々よし〳〵と獨ひとり言を云つゝ臺所へ到りアヽ腹はらが減へつた何ぞないかと其所そこらを探さがし何か戸棚より取出して飯櫃めしびつを引寄ひきよせ十分に食終くひをはり夫より悠然いう〳〵と幸手宿へ立歸り此由を三五郎に咄はなし密かに喋しめし合せ彼等の子分が金兵衞の敵かたきと狙ねらひ來る時は斯樣々々かやう〳〵と手配てくばりを成して用心堅固けんごに居たりけり


第十一回


 時に文月ふみづき廿八日の入相頃いりあひごろ金兵衞の子分八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞等三人打連立うちつれだつて畔倉重四郎が宅たくへ入來り先生は御宅かと聲を懸かくれば重四郎はイヤ來たなとは思へども何喰なにくはぬ顏にて是は〳〵珍めづらしく御揃ひで能よくこそ御入來忝かたじけなしと挨拶あいさつなすに頓やがて掃部は聲を潜ひそめ早速ながら先生へ折入をりいつて御頼み申度事あつて參上致したりと云ば重四郎其そはまた何事かは知らねども改あらたまりし其御詞日來ひごろよりの懇意と申し貴殿も武士我等も武士の端はしくれ見掛て御頼みと有あらば否とは申さぬシテ何事で御座ると問に掃部イヤ外の事でも御座らぬが我々の親分おやぶん鎌倉屋金兵衞事桶川宿をけがはじゆく鷲わしの宮に於て殺され其上に五百兩と云ふ金子かねを取とられしと云も終をはらぬに重四郎成程なるほど金兵衞親方が殺されたと云噂うはさは聞たれ共人の云事故ゆゑ實正じつしやうとも思はざりしが夫なら彌々いよ〳〵人手ひとでに罹かゝられしか而して敵かたきは知しかと聞に掃部然されば其事に付貴殿へ助太刀すけだちを御頼み申度たく何分御加勢かせい下さるべしと云いふにぞ重四郎然らば我等を男一疋ぴきと見込みこんで御頼みと有ことなれば何の否いなとは申まじ而々さて〳〵其敵そのかたきと言いふは何者なるやと申せば掃部はまだ危あやぶみイヤ其事なり先さきの相手に依よつては御差合さしあひも御座らうと存ぞんずるゆゑ確乎しかとした御詞を承知致さぬ中うちは些ちと敵の名前は申されぬ善惡共ぜんあくとも御承知下されたる言御挨拶あいさつの上御話申べしと言いふに重四郎成程御道理もつともの儀武士たる者は義を見て爲せざるは勇ゆう無なきなりと云詞を尊たうとぶ拙者それがしを見込で御頼みとあれば假令たとへ親兄弟おやきやうだいたりとも義に依ては急度きつと助太刀すけだち致すべしと言へば掃部は聞て偖々さて〳〵頼母たのもしき御心底しんてい感かんじ入たり然樣さやう御座らば何を隱し申べきや其敵と言いふは貴殿の兄弟同樣に成なさるゝ三五郎なりと聞重四郎驚きし體ていにて而して其三五郎を敵と申さるゝは何ぞ慥たしかな證據有ての儀で御座るかと問とふに掃部然さればとよ日外いつぞや慈恩寺村へ金兵衞が出し所在所より急きふに歸るべしとの使つかひが來り其時我々は跡あとへ殘のこり何や彼かや取片付とりかたづけ親分は先へ戻もどりし其晩ばん鷲の宮にて切殺されたる其跡へ我等三人參り合せて見る處に死骸しがいの近傍かたはらに落て有しは是なり此鐵扇てつせんを取上て見れば牡丹ぼたんの繪に裏うらには詩を書かいて有り又此通り親骨おやぼねに杉田三五郎と記してあれば全く敵は三五郎に相違無さうゐなし是に依よつて先生に助太刀を御頼み申て討取度存ぜし所なり何卒御頼み申と云へば重四郎如何さま然樣さやうのことに御座れば全く三五郎の所爲しわざ成ならん併しながら是迄別懇べつこんに致せし三五郎なれ共一旦頼まれし上からは跡あとへは引ぬ重四郎如何にも承知致したりと申に掃部は打喜うちよろこび斯かく有あらんと見込で我々が御頼み申せし上からは早急さつそくながら是より直樣すぐさま三五郎の宅へ御同道下さるべしと立上るを重四郎先まづ暫しばらくと押止おしとゞめ必ず早まり給ふな親分の敵かたきは三五郎と知たる上其は宜敷よろしき時刻じこくを計つて討洩うちもらさぬ樣に致すが肝要かんえうなり殊に今宵こよひ三五郎は宅に居をらず然さすれば仕懸しかけて行ゆく共とも其詮無そのせんなしと云ふにぞ掃部是を聞て然らば何いづれへ參りしや其行先ゆくさきを御存じなるか重四郎然されば今晩こんばんは元栗橋もとくりばしの燒場隱亡やきばをんばう彌十の處に於て長半が出來ると云により夕ゆふ申刻頃なゝつごろから行べしと拙者それがしをも誘さそひしか共少し外に用事も有し故三五郎ばかり先へ遣つかはし置たり然れば是得難えがたき時節じせつなりと云ふに三人の者是を聞て大に歡よろこび何卒能よき手段しゆだんを以て三五郎を討取うちとる樣やう偏ひとへに御頼み申なりと重四郎の意に隨したがひければ然さらば是より案内致すべし彼隱亡かのをんばう彌十が方へ到りて三五郎を呼出よびだし置て其時拙者せつしやも助太刀致し首尾能しゆびよく敵かたきを討せ申べしと重四郎は眞實まことしやかに言ければ掃部を始め茂助藤兵衞等頻しきりと打悦び何分なにぶん宜敷よろしく御頼み申なりとて是より皆々みな〳〵食事しよくじなど致し十分其支度に掛りける扨さて又三五郎は豫かねて重四郎よりの談話はなしもあれば金兵衞が子分等扇子あふぎを證據となし敵かたきと覘ねらふは必定なりと思ひ日頃より用心堅固けんごにして身を戒愼つゝしみ居たりしが此日重四郎に用事ようじ有あつて隣家となり迄來掛きかゝりし所重四郎が宅たくにて囂々がや〳〵と人聲なすゆゑ何事やらんと竊ひそかに身を潜ひそめ内の樣子を窺うかゞひけるに金兵衞が子分共三五郎を敵と覘ねらひて元栗橋へ出掛る相談なりしかば三五郎扨さては重四郎が彼三人の奴等やつらを引出し利根川通とねがはどほりにて殺す了簡れうけんなりと悟さとり獨り點頭うなづきつゝ好々よし〳〵先さきへ廻まはりて助太刀をして遣やらんと尻しり引縛ひつからげ強刀物だんびらものを落し差ざしになし頬冠ほゝかぶり深く顏を隱かくし利根川堤とねがはづつみを指さして急いそぎけり


第十二回


 然程さるほどに畔倉重四郎は鎌倉屋金兵衞の子分こぶん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を伴ともなひ我が家やを出て元栗橋もとくりばしへと急ぎ行く程なく來掛きかゝる利根川堤早瀬はやせの波なみは水柵しがらみに打寄せ蛇籠じやかごを洗ふ水音みづおと滔々たう〳〵として其の夜は殊ことに一天てん俄にはかに掻曇かきくもり宛然さながら墨すみを流ながすに似て礫つぶての如き雨あめはばら〳〵と降來る折柄をりから三更さんかうを報つぐる遠寺ゑんじの鐘かねガウ〳〵と響ひゞき渡り最いと凄然ものすごく思はるればさしも強氣がうきの者共も小氣味こきみ惡々わる〳〵足に任まかせて歩行あゆむ中うち青あをき火の光り見えければ彼あれこそ燒場やきばの火影ひかげならんと掃部は先に立て行程に早はや隱亡小屋をんばうごやに近接ちかづく折柄をりから道の此方こなたなる小笹をざさの冠かぶりし石塔せきたふの蔭かげより一刀閃ひらりと引拔稻妻いなづまの如く掃部が向う脛ずねをずんと切落きりおとせば掃部は堪たまらず尻居しりゐに動どうと倒たふれつゝヤア殘念ざんねんや恨うらめしや欺だまし討とは卑怯ひけふ未練みれん是重四郎殿何者か我が足あしを切りたるぞ疾はやく捕とらへ給はれと云ふ間あらせず重四郎は心得たりと一刀たう閃ひらりと拔より早く練馬ねりま藤兵衞を後背うしろよりばつさり袈裟掛けさがけに切放しければ是を見るより三加尻茂助は飛退とびすさり汝おのれ重四郎助太刀の案内あんないすると僞いつはりて此所へ我々を引出し欺だまし討うちは卑怯至極ひけふしごくなり其儀ならばと一刀引拔討て掛るを重四郎心得たりと身を反かはし二打うち三打うち打合うちあひしが隙すきを見合せ一聲せい叫さけんで肩先より乳の下まで一刀に切放せば茂助はウンとばかりに其儘そのまゝ死しゝたる處へ以前の曲者くせもの石塔せきたふの蔭かげより現あらはれ出るを掃部は倒たふれながら下より横よこに拂はらふにさしつたりと飛違とびちがひ掃部の利腕きゝうで切落きりおとし二の太刀を脾腹ひばらへ突込つゝこみぐつと一剌ゑぐりゑぐりし時重四郎は荼比所だびしよの火影ひかげに顏かほ見逢みあはせヤア三五郎か重四郎殿好機しつくり參つて重疊々々ちようでふ〳〵扨此樣子は先刻さつき用事ようじ有あつて貴殿の宅へ參りし所何か人聲がする故樣子有んと窺うかゞへば金兵衞が子分共こぶんども我を敵かたきと覘ねらひ討うたんとて先生と同道どうだうなし元栗橋もとくりばしへ行ゆかんとの相談さうだん最中さいちうは全く其奴等そいつら三人を土手迄どてまで引出し殺ばらして仕舞ふ計略けいりやくならんと悟りし故助太刀せんと先へ廻まはり此處にて待伏したればこそ此始末このしまつと語かたるを聞て重四郎成程々々なるほど〳〵好氣味よいきみなり然し此儘まゝ斯かうしても置れまいと兩人呟つぶやき居る折から此物音に驚きて隱亡をんばう彌十髭ひげ蓬々ぼう〳〵と髮かみ振亂ふりみだし手には鴈投火箸がんどうひばしを以て出で來れば重四郎は見て其所へ來くるのは彌十か是は重四郎樣と云ふ時手招てまねぎして畔倉聲こゑを密ひそめコレ彌十今手に掛けし此奴等は皆みな宿無やどなしなれど此死骸このしがいが有ては兎角後が面倒めんだうなり何と此奴こいつ等を燒やき引導いんだうを渡して呉くれろと云ふに彌十聞て日來ひごろの懇意こんいに任まかせ承知はしましたが燒代やきだいは何どうしてと言を重四郎知れたこと夫三兩と投出せば彌十は其金かね請取うけとりつゝ大いに喜よろこび然さればすつぽり燒やきませうと申にぞ兩人は夫なら彌十頼んだぞ彌十御案事ごあんじなされますなと三人の死骸しがいを集あつめて火屋へ入いれ火ひを懸かけければ重四郎は三五郎を同道どうだうして立歸り此ほど奪うばひ取し金子の中百兩を三五郎に分配わけて遣殘やりのこりの四百兩を懷中くわいちうなし是迄の所に居るは心惡こゝろわるし一先上方へ立越たちこえて何處へか身を落付おちつけんと思ひ近處きんじよ近傍きんばうへは古郷なる筑後ちくご久留米くるめへ赴くと云いひなしてぞ立出ける


第十三回


 扨さても重四郎は幸手さつてを立出で一先江戸表へ來りて處々しよ〳〵を見物けんぶつなさんと十五六日も逗留とうりうして上野淺草吉原兩國芝増上寺其外そのほか處々を見歩行みあるき或日又本町通りを彼方此方かなたこなたと見物して來かゝる處に髮結床かみゆひどこの前にて往來の人が立噺たちばなしをなし居たるを何ごころなく聞に一人の男コレ彌兵衞さん然樣ならば今日は御立で御座るかと云ば彌兵衞ハイ此度このたびは私しが立番たちばんで御座い升最早もはや今夜子刻こゝのつには出立なれど丑刻頃やつごろには成ませうと言に彼かの男をとこ夫それは〳〵御苦勞若々もし〳〵彌兵衞さん此節は道中で油斷ゆだんを成なさるゝな跡月あとげつも遠州屋と山田屋の飛脚ひきやくが切きられたと申すこと御如才ごじよさいは有まじけれど隨分ずゐぶん御用心が肝要かんえうで御座ると心付れば彌兵衞ハイ有難ありがたう御座い升私し共どもなどは誠まことに御方便ごはうべんと只今迄は何事にも出會であひませんと申を彼の男夫それは結構けつこうなこと隨分ずゐぶん御達者で御歸り成なされましハイ然樣さやうならばと別わかれ行ゆくを重四郎は振返ふりかへり見れば胸當むねあてをして股引もゝひき脚絆きやはん腰こしには三度笠がさを附大莨袋おほたばこいれを提さげたるは如何にも金飛脚と見えけるゆゑ後あとより見え隱かくれに附け行て見屆みとゞけたるに瀬戸物町十七屋孫兵衞と云ふ飛脚屋ひきやくやへ這入はひりけるが今日が立日たちびにて店先みせさきに手代共居双ゐならび帳面など認めし此方こなたには大勢の若い者荷拵にごしらへを成し馬は外に繋つないで有る樣子なり重四郎是を見て此者が金飛脚かねひきやくにて今夜子刻過こゝのつすぎ丑刻頃やつごろには立つと云ふ噺はなしなれば曉あけ寅刻過なゝつごろには鈴ヶ森へ懸るは必定なり毒どくを喰くらはゞ皿迄さらまでと云ば今宵彼を殺害ころしして金を奪ひ取り行掛ゆきがけの駄賃だちんにして呉くれんと獨り笑壺ゑつぼに入相いりあひの鐘かね諸もろともに江戸を立出たちいで品川宿の相摸屋へ上り飮のめや唄うたへとざんざめきしが一寸ちよつと床とこに入り子刻こゝのつの鐘かねを相圖あひづに相摸屋を立ち出で半醉機嫌ほろゑひきげんに鮫洲濱さめずはまの繩手道なはてみちを辿たどり〳〵て鈴ヶ森に來り並木なみきの陰かげに身を忍ばせ彼の飛脚の來くるを疾としや遲おそしと待居たり然るに曉あけ寅刻頃なゝつごろとも思ふ頃遙はるかに聞ゆる驛路えきろの鈴すゞの音ね馬士唄まごうたの聲こゑ高々たか〴〵と來掛る挑灯てうちんを透すかし見れば彼の十七屋となやのの飛脚に相違なし因よつて重四郎は得たりと尻しり引ひつからげて待つほどに定飛脚ぢやうひきやくと書かきたりし小田原挑灯を荷物にもつの小口こぐちへ縊付くゝりつけ三度笠がさを冠かぶりて馬に乘のりつゝ是々馬士まごどの今夜は何だか淋さびしい樣だ何日いつもは最もう寅刻頃なゝつごろには徐々そろ〳〵人の往來ゆきゝも有のに鮫洲から爰迄こゝまで來中くるうちに一人も逢ぬ扨々さて〳〵淋さびしいことだぜ馬士まごアイサ此節は人通りが少無すくなくなつて否はや一向かうに不景氣ふけいきなことさ品川歸りも通らねえ隨分ずゐぶん氣を附て道中を成なされましと噺はなしながらに行所を此所こなたの松陰まつかげより忽然ぬつと出たる畔倉重四郎ものをも云ず馬うまの上うへなる飛脚の片足かたあしをばつさりと切付きりつけたり飛脚はアツと馬より轉ころげ落るを二の刀かたなにて苦くもなく切殺きりころしけるにぞ馬士まごは大きに驚き仰天ぎやうてんして人殺し〳〵と云いひながら一目散に迯出にげいだすを重四郎汝おのれ遁のがしては後日の妨さまたげと飛掛とびかゝつて後背うしろより眞まつ二ツに切下きりさげれば馬士まごは撞どうと倒たふるゝ處を止とゞめの一刀を刺貫さしとほし脆もろい奴だと重四郎は彼の荷物にもつを斷落きりおとして荷にの中うちより四五百兩の金子を奪ひ取つゝ其儘そのまゝ此所を悠然いう〳〵と立去り頓やがて旅支度たびじたくをして相摸路より甲州へ到いたり是より所々方々と遊歴いうれきなし種々いろ〳〵樣々さま〴〵樂たのしみ居たりける扨さても翌日所の者もの共此體ていを見出し大いに驚きて飛脚ひきやくと馬士まごの殺されたる趣おもぶきを早々鈴ヶ森の村役人むらやくにんへ屆けければ村役人は其段訴へ出で早速さつそく檢使の役人出張ありて改め等相濟あひすみ飛脚の死骸しがいは十七屋孫兵衞方へ引渡ひきわたしと相成けるとぞ其の昔むかし延文えんぶん康安かうあんの頃伊勢の國司こくし長野ながのの城主仁木右京大夫義長につきうきやうだいふよしながは己おのれが擅横ほしいまゝに太神宮の御神領迄ごしんりやうまでを押領あふりやうしければ神主等大いに怒りて此段を訴へ其上尚なほも義長を恨うらみて神罰を蒙かうむらせんものをと思ひ居たり然るに義長は我が儘まゝ増長ぞうちやうし五十鈴川いすゝがはを椻止せきとめて魚類を取り又は神路山かみぢやまに分入わけいりて鷹たかを放はなし遊興いうきようは日頃に十倍ばい仕たりける是に依て神主かんぬし共五百餘人集會あつまり榊さかきの枝に四手を切掛かけて種々と義長の惡逆あくぎやくを申立て彼を蹴殺けころし給ふべしと呪咀しゆそしけるに七日目の明方あけがた十歳ばかりの童子わらべに神かみ乘遷のりうつり給ひ聲こゑ荒あららげ我が本覺ほんがく眞如しんによの都を出で和光わくわう同塵どうぢんの跡あとを垂しより已來このかた本尊ほんそん現化げんげの秋の月は照てらさずと云所も無く眷屬けんぞく結縁けちえんの春の花はな薫かをらずと云ふ袖も無なし方便はうべんの門かどには罪有る者を罰ばつし難がたく抑々そも〳〵義長の品行おこなひを汝等なんぢら天に訴へ祈り呪咀じゆそすること道理もつともなれども彼が三世の其以前そのいぜんは義長こと法師にて五部の大藏經を書寫かきうつし此國を治めたり其その善根ぜんこん今生こんじやうに報むくい來て當國を知行することを得る因て暫しばらく其罪を宥ゆるし置者なりと御詫宣たくせん有けるとかや然されば此畔倉重四郎も則ち是等の道理だうりに有んか前世の因縁いんねんも有しことなるか併しかしながら是も只たゞ暫しばしの中うち斯る大惡不道も天の免ゆるしを蒙りて其身そのみ安泰あんたいなれ共何ぞ其罪の報むくはざらんや後々のち〳〵を見て恐るべし〳〵


第十四回


 扨も畔倉重四郎は十七屋となつやの飛脚を殺して大金を奪うばひ取り夫より所々を遊歴なし東海道とうかいだう藤澤ふぢさは宿の松屋文右衞門と云ふ旅籠屋はたごやへ來り二三日逗留とうりうしけるが退屈たいくつの由にて或日藝妓二三人に松屋の若者又は近所の者共ものどもなどを多く引連ひきつれて江の島へ參詣さんけいし其歸りに島の茶屋にて酒宴しゆえんを始めけるが又隣座敷となりざしきに是も江の島へ參詣さんけいと見えて藝妓二三人を引連ひきつれ陽氣やうきに酒を呑のみ居ゐたるに重四郎が同道どうだうしたる者皆々心安こゝろやすき體ていにて彼是聲など懸合ふ故ゆゑ樣子やうすを聞ば藤澤第一番の旅籠屋はたごやにて大津屋の後家ごけお勇ゆうと云者なりとのことに重四郎は彼お勇を能々よく〳〵見みれば歳としは三十歳みそじを二ツ三ツ越こえ中脊ちうぜい中肉ちうにくにして色いろ白しろく眼鼻立めはなだち揃そろひし美人ながら髮の毛の少し薄うすきは商賣上しやうばいあがりの者と見みつ然され共ども本甲ほんかふの櫛笄くしかうがひを差さし銀ぎんの簪かんざしに付たる珊瑚珠等さんごじゆとういづれも金目の物なり衣類は藍微塵あゐみぢんの結城ゆふきを二枚重かさね唐繻子たうじゆすの丸帶まるおびをしどけなく結むすび白縮緬しろちりめんの長繻袢ながじゆばんを着せし姿すがた天晴あつぱれ富豪ふうかの後家ごけと見えければ重四郎亦々また〳〵惡心あくしんを生じ幸い後家と有からは何卒どうぞ手てに入いれて暫時しばらく足休あしやすめに致したしと思ひ夫より言葉を掛け頓やがて一座と成て酒宴さかもりの中うち後家に心有り氣げなる面白可笑おもしろをかしき盃盞さかづきことに後家のお勇も如才じよさいなき人物しろもの故ゆゑ重四郎が樣子を熟々つく〴〵見るに年はまだ三十歳を越こえぬと見え丈せい高たかく面體めんてい柔和にうわにて眉毛まゆげ濃こく鼻筋はなすぢ通りて齒並はならび揃そろひ否いやみなき天晴の美男にして婦人ふじんの好すく風俗ふうぞくなり衣類は黒七子くろなゝこの小袖に橘たちばなの紋所もんどころを付つけ同じ羽折はをりを着き持物等もちものとうに至る迄風雅ふうがでも無なく意氣いきでも無く何どうやら金の有さうな浪人らうにんとお勇ゆうは大いに重四郎に惚込ほれこみしが翌日は上の宮へ參詣さんけいなし額堂がくだうにて重四郎はお勇と只たゞ兩人差向さしむかひの折柄をりからお勇は煙草たばこを吸付すひつけ差出しながらモシ重さん此程このほどは不圖ふとした御縁で御心安く成ましたところ明日は妾わたくしも宿やどへ戻もどりますが御前さんは是から何邊いづれへ御越こし成なされますと云ば重四郎笑ひながら然されば何所いづくの誰や我を待らんとか申せば何いづれへ落付つくかば我ながらも知ぬ浮世定うきよさだめなき浪人の風に任まかせて居る身體からだで御座ると云を聞きお勇否々いや〳〵夫は眞實ほんたうとも存じませんが若御詞ことばのやうなら却かへつて御羨うらやましく存じます女の身にては見たき處が有ても見られもせず然さりながら御前樣まへさまには最早もはや三十に近き御年頃としごろに見上ますが御住居をお定め成れたなら憚はゞかりながら宜敷よろしく御座りませうと云に重四郎然さればで御座る世間せけんを渡り歩行あるくも倦果あきはてたれども差當り未だ有縁うえんの地もないと見えて斯かく歩行あるきます何卒どうぞ五十か七十の敷金しききんでも致して何樣どのやうな所でも身を固かため度たう思ひますから好よき入夫にふふの口でも有ましたなら御世話を御頼み申ますと云にぞお勇は否いや最もうお前まへさんの樣な御人柄と云殊ことに金の五六十兩御持參と有ば世間に欲ほしがる所は降程ふるほど御座ります併しかし定めて器量きりやうの御望み小野をのの小町こまちか衣通姫そとほりひめの樣な手入いらずの娘をお持もち成なさらうと云思召おぼしめし成んと云ければ重四郎は否々いや〳〵その樣にお嬲なぶり成るゝな我等如き浪人らうにん者誰が聟むこに取ませう何樣どのやうな所でも先で入いれてさへ呉くれれば夫に厭いとひは御座らぬと云にお勇然樣さやう成ならば女は何どうでも宜よいと仰しやいますか夫成ば只今一軒けん御座ります其家は間口まぐち十三間奧行おくゆき二十五間田地は十石三斗どの御年貢ごねんぐを納をさめてその跡あとが八十四五俵へう程も取入ます大凡おほよそ家邸いへやしき五百兩諸道具が三百兩餘り抱かゝへの遊女が十四五人是を捨賣すてうりにしても六七百兩位ぐらゐ都合つがふ千五百兩餘の身代で御座りますと聞きいて重四郎夫は大層たいそうなこと勿々なか〳〵然樣さやうな處では先が不承知でと半分云はずお勇は否々いや〳〵縁えんと云者は然樣さう致した者では御座りません然し御内儀おかみさんに成ならんと云ふ人が歳としを取ても卅二歳少々ちと婆々ばゝ過すぎますけれども其代り姑しうとも厄介やくかいも子供も無なく内うちは其女獨りにて若御内儀おかみさんに成ならば其こそ〳〵貞女ていぢよで御亭主ごていしゆを大切に致して至極しごく宜敷よろしう御ざいますと申ければ重四郎夫それは餘あまりと申せば能過よすぎます私し風情ふぜいと云にお勇否々いへ〳〵然樣さやうでは御座りません御承知なれば御世話おせわ致しませう先でも金子の望みは無なけれ共旅たびの御方は尻しりが輕かるいに依よつて其故そこで先方むかうは氣遣きづかひに思ひますから金子を掛て振舞ふるまひでも致すやうに爲したく夫に付金の五六十兩も持參で御出成いでなさるなら速すみやかに御相談が出來ますと云ひながら目顏めがほで夫れと知らする體ていを故意わざと重四郎は氣の付ぬ體ふりにて夫は願つても無い僥倖さいはひ然さういふ口なら金の百兩位ぐらゐは何どうともして才覺さいかく致します何なんと御世話を御頼み申すと云にぞお勇は彌々いよ〳〵機づにのり然樣さうならば先方むかうへ咄はなしてウンと云時は御變替へんがへは成なりません其所そこを御承知で御座りますかと念ねんを押おせば重四郎何が扨武士に二言ごんは御座りませんと云ふにぞお勇は然それを聞きゝてオヽ嬉うれしや申し重四郎樣と云ながら直つと身を寄よせ其縁談そのえんだんは彼あの大津屋段右衞門の後家ごけにて縁女えんぢよはお恥はづかしながらと口籠くちごもり顏を赤らめしが思ひ切て妾わたくしで御座ります然樣さやう御聞成きゝなされたら嘸さぞ御否いやで御座りませうと云つゝ邪視ながしめに見やりたる其艷色うつくしさにナニ夫が眞實ほんたうなら何どうして〳〵此重四郎が身に取ては實に本望ほんまうなりと云ふ時とき人來りければ二人は素知そしらぬ體ていにて左右さいうへ分わかれ其後のち藤澤へ歸りてより猶なほお勇と相談さうだんの上うへ小松屋文右衞門は幸いに縁家えんかなれば親分に頼んでも定めて否いやとは云ふまじと爰に於て内談ないだん極きまりければ重四郎は小松屋文右衞門を親分にして後家ごけお勇の方へ入夫にふふに這入はひり名を大津屋段右衞門と改めて先まづ暫しばらくは落付けり


第十五回


 斯かくて又幸手宿さつてじゆくなる杉田三五郎は重四郎と共に金兵衞の子分こぶん八田掃部練馬藤兵衞三加尻茂助の三人を利根川邊とねがはべりにて殺し重四郎が幸手宿を立退たちのき金兵衞より奪ひ取りし金の中うち百兩を分前わけまへを貰もらひしが惡金あくきん身に付ずとの諺ことわざの如く其金は皆みな博奕ばくちに取られて仕舞しまひ今は寢酒ねざけだにも呑事のむことならず此頃は猶なほ打續うちつゞく不仕合ふしあはせにて一錢の資本もとでにも差支さしつかへしかば胸に手を置て考へしが忽ちに一計けいを思ひ付獨ひとり心の中うちに喜悦よろこびつゝ彼の畔倉重四郎は今藤澤宿にて大津屋おほつやと云ふ旅籠屋はたごやへ入夫にふふに成なり改名して段右衞門と申す由を聞きゝし事あれば先まづ彼の方へ行ゆきて金を無心むしんする時は舊惡きうあくを知たる我ゆゑ退引のつぴき成ならず四五十兩位の金を貸かすに違ちがひ無しと目的みこみをつけ夫より藤澤宿を指さして立ち出でたり然るに重四郎の段右衞門は暫しばらくの足休あしやすめと思ひの外ほか見世みせの繁昌はんじやう大分おほかたならず何不足も無き身分と成しかば一生涯しやうがい此こ家こにて我は終らんと其後は惡事も成なさず暮しけるが或日表おもての方より來りて旦那は御家にかと問者とふものあるを聞て段右衞門は是を見みるに幸手宿さつてじゆくの三五郎なりしかば是は珍めづらしや先まづ此方こなたへとて奧の座敷へ通し女房お勇にも我等が浪人らうにん致し居し頃種々いろ〳〵世話に成し人なりと僞いつはり酒さけ肴等さかなとうを前揃とりそろへて三五郎を厚あつく饗應もてなしける然るに三五郎は家の樣子を能々よく〳〵見るに殊の外ほか大掛おほがかりなりしかば心中大に悦び段右衞門に向かひて我等此節は不仕合ふしあはせにて諸事に運惡うんわるく資本もとでまで負まけ失うしなひたり因て此藤澤宿迄故意わざ〳〵無心むしんに來しなり又我等が仕合しあはせ好よくば返濟へんさいすべき間あひだ暫時しばらくの中うち金子五十兩貸給かしたまはれと申ければ段右衞門も大事を知たる三五郎のことゆゑ否いやとも云いはれず早速さつそく五十兩の金子を取出して返濟へんさいには及ばずと渡し先々まづ〳〵寛ゆるりと滯留たうりう致されよ我等も此家の入夫に這入はひりしより以來このかた堅氣かたぎと成なりしが其前幸手を立退て江戸に滯留中たうりうちう鈴が森にて十七屋となつやの金飛脚を殺し金子五百兩奪うばひ取しが惡事の仕納しをさめなりと咄しければ三五郎聞て眉まゆをひそめ夫は博奕打ばくちうちや盜賊を殺して取とる金かねは同じ罪でも罪は輕かるし唯の者を殺したるは眞まことの大罪だいざいなり因て始終は其身刀かたなの刄はくずに懸らん貴殿おまへも堅氣かたぎの商人あきうどに成なられし上は此後必ず惡事を爲し給ふことなかれと云ながら金を受取歸りしが是を無心の始めとして其後度々來りては無心を云掛いひかける故段右衞門も今は呆あきれ果はててぞ居たりける


第十六回


 扨も幸手宿の三五郎は藤澤宿の大津屋方へ度々たび〳〵金の無心に來りし故に此節このせつは段右衞門も厭倦果あぐみはてて居たりしが又或時三五郎來り我等われら此節このせつ不仕合ふしあはせ打續うちつゞき殊ことの外ほか困こまるにより金子三十兩貸かし呉くれよと頼みけるに段右衞門も當惑たうわくの體にて我此家へ入夫に參りて漸やうやく一年ばかりなれば勿々なか〳〵然樣さやうに金子を自由には取扱とりあつかひ難く殊に只今たゞいま手元てもとには一兩の金も是無しと云と雖も三五郎は遙々はる〴〵是迄これまで來りしゆゑ何卒貸かし呉くれよと申に段右衞門我等われら今いまは別べつに金儲かねまうけも無れば是非もなしと斷ことわるを三五郎は否々いや〳〵何にしても此度は是非共ぜひとも貸かしくれよ翌日あすにも仕合しあはせが好よければ返すべしとて何分承知せざれば段右衞門も心中に思ふやう彼奴かやつ我わが身に惡事のあるを付込つけこみ度々無心に來れども貸かさぬ時は事こと面倒めんだうに成べしと思案しあんを爲なして三五郎に向ひ然さまでに云いはるゝなれば我われ今より品川迄用事あつて行ゆく間あひだ先方せんぱうにて才覺さいかく致し遣すべしと頓やがて身拵みごしらへをなし覺おぼえの一刀差込で三五郎諸共もろともに我が家を出けるが川崎手前にて日の暮くれるやうに量はかり道々みち〳〵戯たはぶれ言ごとなど言て手間てまどり名にし逢あふ鈴ヶ森に差掛りし頃は稍やゝ戌いつゝ過すぎにもなりければ重四郎は前後を見返りしに人影もなく丁度ちやうど往來も途絶とだえしかばその邊にて殺さんと思へども此奴きやつも勿々なか〳〵の曲者なれば容易たやすくは亡うしなひ難し然されども幸ひ今宵は闇やみにて暗くらさはくらし何いかにも遣過やりすごしてと思ひ故意わざと腰を屈かゞめて歩行あるきながら三五郎に向ひ我等近頃𬏣癪せんしやくにて折々難澁なんじふ致すなりと申ければ三五郎聞て夫は彼の大津屋へ入夫にふふに參まゐつてより金が溜たまりし故に腰こしが冷ひえるの成なんなんど戯談たはぶれつゝ先へ行を十分に遣過やりすごし後うしろの方より物をも云ず切掛しに三五郎も豪氣さるものなれば飛退とびのきさまに拔合せ汝れ重四郎め汝なんぢや惡事を知たる我なれば欺だまして殺さんとは卑怯ひけふ未練みれんの仕方なり其儀ならば是より直に公儀こうぎに訴へ穀屋平兵衞を殺して金子百兩を奪取うばひとり夫而已それのみならず慈恩寺村じおんじむらにて鎌倉屋金兵衞をも殺害せつがいして金を取たること迄まで逐一ちくいち訴へ呉ん邪魔じやませずと其所そこを開ひらいて通しをれと罵のゝしるを段右衞門は怒いかり汝おのれ生いかして置ば我が身の仇なり覺悟をせよと切付るを三五郎は心得たりと受流うけながし暫時が程は戰ひしが如何で重四郎に敵するを得んや追々おひ〳〵太刀筋たちすぢ亂みだれ四度路しどろになる所を終に眞向まつかうより梨子割なしわりに割付られ其儘動と倒たふれ二言と云ず死たりけり此時近傍かたはらの非人小屋に乞食こつじき共莚むしろを被かぶり寢て居たるが兩人の爭ふ聲を聞て恐れをなし莚を首に纒まとひ隙すきより密そつと戰ひを覗のぞき居たりしが終に一人の切殺さるゝを見て其まゝ莚むしろを被かぶり震ふるひ〳〵居たりける段右衞門は此體を見しも一向かうにことゝも爲せず悠然いう〳〵として我が家へ歸りけるが扨さて此所の非人共斯かくと村名主方へ達しければ村役人立合にて檢使けんしを願ひ出いで改め見るに何者なにものの殺したると云ふ事一向かうに知ず非人共を呼出よびいだして委細ゐさいを尋ねし所三五郎が戰ひながらに申たる事又段右衞門が云たる事迄逐一ちくいち申立しかば其趣きを一打書いちよがきにして大岡殿の奉行所ぶぎやうしよへ差出しければ大岡殿は殺されたる者の懷中くわいちうの紙入を取寄て其中そのうちを改められけるに死人しにんの宿所は幸手宿と云ふ事知しれければ早速さつそく其所へ人を遣はし尋ねられける所三五郎と知しれしにより三五郎の女房を呼出よびいだしに相成しかば村役人ども并に三五郎妻お文ふみ諸もろともに江戸表大岡殿御役宅やくたくへ罷まかり出し旨むね屆とゞけしにより頓やがて越前守殿の白洲へ呼入よびいれられ三五郎妻つまお文を見られて其方夫をつと三五郎は何所いづれへ參まゐると申して何日頃宅を出しやと尋問たづねらるゝにお文は恐る〳〵首かうべを上げ夫三五郎儀一昨日藤澤の大津屋段右衞門方かたへ參り候とて宅を立出たちいで候と申立るに大岡殿は彼の非人が申立たる口書を讀聞よみきかせられければ女房お文ふみは大いに驚き然らば夫三五郎を殺せしは大津屋段右衞門に相違御座なく候と申立る故ゆゑ大岡殿は何を證據しようこに大津屋段右衞門と申立るや不審ふしん至極しごくなりとありければお文は恐れながら申上あげます右みぎ藤澤宿大津屋段右衞門と申者は前名まへな畔倉重四郎と名乘筑前ちくぜんの浪人にて私しの村方へ先年中せんねんちうより參りて幸手宿に住居いたし夫をつと三五郎とは博奕かけごとの仲間なかまにて日來ひごろ心安く妾わたくし方へも日々にち〳〵立入たちいり居をり候所心立宜しからぬ者にて先頃同宿の穀屋平兵衞と申す者を殺害致して金子きんす百兩を奪取うばひとり其後又慈恩寺村にて博奕かけごと御座候節鴻こうの巣す宿じゆくの鎌倉屋金兵衞と申す者を殺して金子五百兩を奪うばひ取り候を妾わたくしの夫をつと三五郎能よく存ぞんじ居をり候事故其譯わけを以て大津屋方へ無心むしんに參り候所より段右衞門も又夫をつと三五郎は渠かれが舊惡きうあくを存じ候故後日に露顯あらはれん事を恐れ殺し候儀と思はれ候然されば甚だ憎につくき仕方しかたなりと重四郎の段右衞門が惡事を委細くはしく申立ければ大岡殿篤とくと聞請きゝうけられ早速に組下くみしたの同心に申付られ藤澤宿大津屋段右衞門方へ罷まかり越こし右みぎ段右衞門を召捕めしとり來るべしと遣はされたり


第十七回


 扨又重四郎の大津屋段右衞門は鈴すゞヶ森もりにて三五郎を殺害せつがいして最早もはや禍わざはひの根を除のぞきしと大きに悦び藤澤宿なる我が家へ歸り何喰なにくはぬ顏にて居たりける所に役人やくにん中は重四郎を召捕めしとらんと藤澤宿の村役人むらやくにんを案内させ常宿内の捕吏をかびき三次并びに子分十四五人を引連て大津屋方の表裏の口より上意々々と呼はりて込入こみいるや否いなや双方さうはうより組付たり段右衞門は惡事あくじ露顯ろけんと思ふものから心得たりと筋斗もんどり打せて投つくれども捕方とりかたの者は大勢にて取圍み殊に不意を踏込ふみこみし故に終には折重をりかさなりて段右衞門を高手たかて小手こてに縛いましめ家内の者は宿役人に預けられ段右衞門は江戸表大岡殿の白洲しらすへぞ引れける斯くて大岡殿は重四郎の段右衞門を引出ひきいださせ大津屋段右衞門事前名ぜんみやう畔倉重四郎と呼よばれ其方は當月たうげつ二日の夜よ鈴すゞヶ森もりにて幸手宿の三五郎と申す者を殺害せつがいせし趣き包つゝまず白状致せと申されければ段右衞門面おもてを正たゞし私し儀三五郎と申す者を殺害致いたしたる覺おぼえ一向かうに御座なく候と申立ければ大岡殿否々いな〳〵覺えの無とは云せぬぞ公儀おかみに於て證據しようこのなきことを糺たゞさるべきやと申さるゝに段右衞門假令たとへ如何樣いかやうの證據御座候共其儀は一向に覺え無之これなく候と云張いひはるにぞ然らば汝ぢ其三五郎と申者知人しるびとにては無やと有に段右衞門其者そのものは私し儀以前幸手宿に住居の砌みぎり知己人しりびとには御座れ共別に恨うらみもなき事ゆゑ殺すべき謂いはれ更に御座なく候と申立るにより大岡殿重かさねて其三五郎妻つまの文ふみと申者を呼出して相尋あひたづねし所其方儀先達せんだつて同宿なる穀屋平兵衞と申者を權現堂ごんげんだう村小篠堤に於て殺害に及び金子百兩を奪取うばひとり其後にまた慈恩寺村にて博奕ばくち之有處に鴻こうの巣す宿じゆくの鎌倉屋金兵衞と申者をば鷲わしの宮にて殺害に及び金子五百兩を奪うばひ取し趣おもむきなり尋常じんじやうに白状致すべしと有ければ段右衞門は少しも恐るゝ景色けしきなく是は重々かさね〴〵思ひもよらぬことを御糺問たづねに成るもの哉かな私し儀穀屋平兵衞を殺せしとの仰せなれども右平兵衞儀は豫々かね〴〵世話にも相あひなり居をりしことゆゑ私し儀恩おんをこそ報い申べきに何の遺恨いこんありて切害せつがい致さんや又鎌倉屋金兵衞とやらを切害致したる儀是以て一向かう覺え御座なく候何卒私し儀罪つみ無きの次第しだい御賢察けんさつ願ねがひ奉つり候と申立るに越前守殿否いや其儀は猶なほ追々おひ〳〵吟味に及ぶ汝ぢ鈴ヶ森にて三五郎を殺せし砌みぎり非人共見屆たるを彼是かれこれと陳ちんずる條不屆きなり吟味中入牢申付ると終つひに其日は夫成それなり牢内らうないへ下られ其後越前守殿三五郎の妻を呼出よびいだされ其方先達せんだつて申すには段右衞門儀幸手宿の穀屋平兵衞鴻こうの巣す宿じゆくの鎌倉屋金兵衞を殺害せつがいせし趣おもむき申立しに依て段右衞門を召捕めしとり相糺あひたゞす所一向に存ぜざる由申せり確乎しかと段右衞門が仕業しわざに相違無さうゐなきやと猶なほ又また糺問たゞし有ければ其儀少も相違御座なく希ねがはくは妾わたくし事段右衞門に對面仰おほせ付けられ下くださる樣にと願ひければ大岡殿其趣きなれば段右衞門儀其方そのはうと近日對決たいけつ申付けん先まづ今日けふは引取べしと申渡されけり


第十八回


 去程さるほどに大岡殿例れいの如く出座しゆつざ有て段右衞門を見られ其方儀そのはうぎ今日三五郎妻つま文ふみと對決申付るに依り有體ていに申立よ又三五郎妻文儀も同樣どうやう相心得先達せんだつて申立し通り幸手宿穀屋平兵衞鴻の巣宿鎌倉屋金兵衞及び飛脚ひきやく彌兵衞を殺せしは段右衞門元もとの名は重四郎が仕業しわざに相違無や愈々いよ〳〵相違なきに於ては其段そのだんを段右衞門に申聞きけよと有ければお文は發はつと平伏へいふくなし頓やがて段右衞門に向ひ貴殿おまへは夫をつと三五郎とは兄弟きやうだい同樣どうやうにして何事に依よらず善惡共に相談相手なれば其方そなたの惡事も隱かくして遣やり何なにかにつけ夫は心配して居る程のことなるに如何いかなる遺恨ゐこんが有て無情なさけなくも夫を殺せしや餘あまりと言へば恩知らず憎につくき仕方しかたなりサア尋常じんじやうに白状はくじやうされよと云ひければ段右衞門輾々から〳〵と打笑うちわらひ汝なんぢ女の分際ぶんざいとして何を知しるべきや三五郎を殺したなどとは無法むはふな云掛いひかけ然樣の覺えは更になし實に汝ぢは見下果みさげはてたる奴なり公儀おかみの前をも憚はゞからず有事無事ないことを饒舌しやべり立己おのがことを種々と申上げたな全體ぜんたい汝おのれは何と心得居るや汝等夫婦は貧窮ひんきうに迫せまりて困苦こんくするを愍然ふびんに思ひ是迄此段右衞門が樣々さま〴〵と見繼みついで遣やつた其恩義を忘れし爰な恩知ずの大膽者だいたんものとは汝おのれがことなり然るを己おれが人殺しなどとは能も〳〵云をつたな是迄恩を掛しが却つて仇と成たかと云をお文は打消うちけしオヤマア夫は何程なんぼ口が在と云ても左樣さう自由ちやうはうなことをいはれたものかソレ貴殿おまへが幸手の町へ來たときは尾羽をは打枯うちからした素浪人すらうにん喰くふや食くはずの身を可愛相かあいさうだと云て穀平では始終しじう世話を成れ親おや同前どうぜんに大恩を請うけた其平兵衞さんさへ殺す程の大惡人兄弟分ぶん位ぐらゐの妾わたしの夫を殺し兼かねる者かと云ば段右衞門何穀平を殺したと馬鹿ばかを云へ彼の穀平を殺せし者は杉戸屋すぎとや富右衞門とて既に御仕置に成たり然しかるに汝おのれ今さら何を吐ぬかす恍とぼけをるか此女このあまめと叱しかり付るをお文コレ段右衞門マア強情がうじやうも宜加減いゝかげんにお仕しな夫をつと三五郎が庚申堂かうしんだうの畑際で拾ひろつて來た烟草入たばこいれ其中に穀平から杉戸屋の富右衞門さんの所へ遣やつた手紙が這入はひつて居から杉戸屋の烟草入だと言いふ事が知れ然も其時妾わたしが直すぐに持て行うとする所へ貴殿おまへが來て其烟草入を金二分に賣て呉くれろと小聲こごゑで相談し貴殿が仕組しくんだ所業だはね最早もう夫をつとを殺されたからは隱かくさず云が其仕事しごとは權現堂の土手どてで穀屋平兵衞を殺し金迄取て其翌日妾わたしの方へ來てお前は狼狽うろたへ廻まはり幸手宿を立退たちのかうと云ふを夫三五郎が止めて烟草入を證據しようこに富右衞門に負かぶせる上は立退たちのくに及ばぬ急に立去たちさらば却つて疑惑うたがひが懸かゝると云れてお前は氣が付身躰みこしを居すゑたでは無か其時に三十兩と云ふ金を配分はいぶんして侠客をとこづくで呑込のみこんで居て遣やつたのに金を何で貴殿おまへが貢みついだなどとは不埓ふとい云樣いひやうだと泣聲なきごゑを出して云ひ募つのるを段右衞門聲高に噪やかましい女め如何樣どんなにべら〳〵喋舌しやべるとも然樣そんなことは夢にも覺えは無ねえ汝おのれはまア恐おそろしい阿魔あまだ女に似合にあはぬ誣言事こしらひごと扨は三五郎の敵かたきと思ひ違へての惡口あくこう成ならん七人の子を成なすとも女に心を寛ゆるすなとは此ことなりと空嘯そらうそぶいて居たりけるお文は切齒はがみをなしヱヽ忌々いま〳〵しい段右衞門未々まだ〳〵其後も慈恩寺村にて能いゝ張半ちやうはんが出來たと云つて夫をつと三五郎を誘引さそひに來たれども夫は用向ようむきもあれば行ゆかれぬと斷ことわりしに其時貴殿おまへは扇子あふぎを落して來たから貸かして呉くれろと云ふ故鐵てつの扇あふぎを貸かして遣やつた其日鴻の巣の金兵衞が金五百兩勝かちしを見て汝おのれは先へ廻り金兵衞が歸りを待伏まちぶせして切害せつがいし死骸の傍そばへ貸かして遣やつた扇子を落して置おき其鐵扇てつせんに杉田三五郎と名前が彫刻付ほりつけて有しゆゑ夫に嫌疑うたがひの懸かゝるを三五郎も承知して暫時しばらくの中うち金兵衞を殺したに成なつて居たが是は鐵扇てつせんの代だいだと百兩の金を汝おのれが配分はいぶん仕したのを今さら忘れもしまいと一々其節せつの手續てつゞきを云立るに段右衞門ヱヽ夏蠅うるさい女め種々いろ〳〵なことを拵こしらへて己おれを無實むじつの罪に落おとさんと仕居しをる然し是は汝ればかりでは有まい誰たれか腰押こしおしの者が有らう扨々恐敷おそろしき阿魔あまめと云せも果ずお文は彌々いよ〳〵やつきとなり未々まだ〳〵其上に藤澤の大津屋へ入夫に行ゆく前まへのこと鈴ヶ森にて十七屋となつやの三度飛脚を殺して金を盜み取しことを三五郎へ咄はなした時に三五郎が異見をして博奕打や盜人の金を取とり又は殺したり共同じ罪でも罪科つみは輕い素人たゞのひとを殺すことは古今の強惡がうあくなり始終は白刄しらはの錆さびと成べし必定々々かならず〳〵此後は屹度きつと止られよと云たることも三五郎から聞たるぞ今では汝れも大造たいそうな身代くらしに成たに付昔しの縁えんで三五郎も一年越の不仕合ふしあはせ故度々無心には行しが都合つがふ惣計しめて金八十三兩貸かしたに相違は無しサア〳〵此方こつちからして盜人ぬすびとの上前うはまへを取たと迄逐ちく一白状仕はくじやうしたならば汝おのれも早く申上て仕舞しまうがイヽアノ此こゝな大盜人おほぬすびとめと砂利じやりを叩たゝいて舊惡きうあくを算かぞへ立たつれど段右衞門は落付おちつきはらい否々いや〳〵博奕ばくちは打うちても人を殺し金を盜ぬすんだ覺えは無ないぞと云をお文ふみ是サ何ぼ妾わたしが女でも然樣さうお前等まへたちに云ひ込こめられては是まで人に姉公々々あねご〳〵と立られた面に濟すまない人を殺し金を取たに相違無ないから其通り申上よと云ふのだ男らしくもないと猛たけり立我を忘れて云ひ募つのりけるを段右衞門は猶なほ冷笑せゝわらひイヤ〳〵此阿魔あまめ幾何いくら八面めん大王鬼だいわうきに成ても此身に覺えの無事は然樣さうだなどゝは云れぬ者よフヽンと鼻はなであしらうを聞いてお文は益々ます〳〵怒いかりコレサ〳〵段右衞門夫それなら愈々いよ〳〵爾なんぢは穀平を殺さぬと云張いひはるかハテ知たことよ身に覺えのなきことは何處迄どこまでも此の段右衞門は覺えなしサと云いふにお文は夫なら是程慥たしかな證據しようこが有ても知しらぬと云か段右衞門アヽ騷々さう〴〵しい女如ごときが口で云ふ事は證據しようこに成者か爾おのれは取逆上のぼせ亂心らんしんして居るな但たゞしは熱ねつの上言うはごとか未練みれんな僞いつはりを言掛いひかけ居をるぞと聞よりお文はワツと泣出し掴つかみ掛らん有樣なれば大岡殿大音聲だいおんじやうに默止だまれ爾等なんぢらは此所を何處と心得る然しかも天下の決斷處けつだんしよなるぞコレ〳〵段右衞門其方は文を女と輕侮あなどり申し伏んとすれども假令たとへ婦人をんななりとも逐ちく一申立己れが罪迄も明白に白状はくじやうするを爾なんぢは只今知ぬ〳〵と而已のみ強情に言張んと爲するは不屆至極なり如何程爾なんぢは陳ちんずるとも大方知たる罪なるぞ眞直まつすぐに白状致せと申されけるを段右衞門是は聞えぬ仰せなり御奉行樣ぶぎやうさまには女の方を贔屓ひいき成なさるゝかと言しかば越前守殿大いに怒いかられナニ婦人ふじんを贔屓するとは不屆の一言天地てんち自然しぜんの淨玻璃じやうはりの鏡かゞみを立たて邪正じやしやうを糺たゞし業ごふの秤はかりを以て分厘ふんりんも違たがはず善惡を裁斷する天下の役人を暗くらまさんとなす強情者がうじやうもの古今ここん稀まれなる此こゝな大惡人め穀屋平兵衞を殺せしに相違さうゐ有まじサア申立よと問詰とひつめられしかども段右衞門然さあらぬ體ていにて平兵衞を殺し金かねを取し盜賊ぬすびとは先達さきだつて穀屋方より願ひに依て杉戸屋富右衞門が既すでに御仕置おしおきに成しと承知うけたまはる然らば又候外ほかに平兵衞を殺した者出る時は御奉行を始め御役人の落度おちど成ならんか而して覺えも無き拙者を強しひられ無實むじつの罪に落おちる時は富右衞門は何故に罪の正たゞしからざるを御仕置しおきに成れしやと空嘯そらうそぶいて申けるこそ大膽不敵だいたんふてきの曲者なり時に大岡殿呵々から〳〵と笑はれ爾なんぢ舌した長ながくも申者哉かな然らば一應申附すべし穀平を殺したるは富右衞門にて裁斷さいだん濟すみたりと雖も富右衞門は無罪むざいなり爾なんぢは大罪人なり若今いま富右衞門が存命ぞんめいならば爾ぢは科人とがにんと成やと有しかば段右衞門冷笑せゝらわらひ一旦御仕置に成し富右衞門が只今此處へ出候はゞ其時は急度きつと白状はくじやう致すべしと言ければ大岡殿然さらばとて與力に申付られ豫て養やしなひ置おきし富右衞門を只今是へ呼出すべしと有しに與力よりきは畏かしこまり候と其儘そのまゝ立て行ければ此場に居合ゐあはせし者共は互ひに顏を見合みあはせ死しゝける富右衞門が再度ふたたび爰へ出べき樣もなし扨々さて〳〵御奉行樣は奇妙きめうなことを仰せられると皆々不思議に思ひて居たりける然る所へ與力よりき同心どうしん付添つきそひ杉戸屋富右衞門を白洲しらすへ召連めしつれ出いでしかは大岡殿大音聲に如何に段右衞門承うけたまはれ先年富右衞門所持しよぢの煙草入たばこいれを以て穀屋平兵衞を殺し其場に落し置おきしを種たねとして富右衞門に罪を塗付ぬりつけしに相違あるまじ其節そのせつ富右衞門を段々吟味せしに全く平兵衞を殺さざる由其上に彼の富右衞門其日は宿所しゆくしよに居ず全く人殺ひとごろしは別に有あることゝ思ひし故ゆゑ其時は外の科人とがにんの首を以て曝さらし既に今年迄三ヶ年の間あひだ富右衞門を隱し置たり爾なんぢ是を知ずやと仰せ有ければ流石さすが不敵ふてきの段右衞門も只たゞ茫然ばうぜんとして暫時しばらく物をも言ず俯向うつむきて居たりしが何思ひけんぬつくと顏を上あげ今迄いままで包つゝみ隱せし我が惡行あくぎやう成程穀屋平兵衞を殺害し金子百兩を奪ひ取りしは拙者わたくしに相違之これなく併しかしながら其鎌倉屋金兵衞を殺せし覺えは決して御座無く候と猶々強情に申居たりける


第十九回


 螻蟻ろうぎの一念は天へも通つうずとの俚諺りげん又宜むべなるかな大岡殿此度このたび幸手宿三五郎妻つま文ふみの申立を聽きかれ武州鴻こうの巣す鎌倉屋金兵衞方へ差紙さしがみを遣つかはされし處悴せがれ忠助は稍々やう〳〵今年こんねん十一歳なる故ゆゑ伯父をぢ長兵衞は名代みやうだいとして江戸へ赴おもむかんと調度したくを成なし金兵衞方に幼少より召使めしつかひし直八と云者萬事ばんじに怜悧かしこくなるに付き之れを召連めしつれ鴻の巣を立出たちいで江戸馬喰町熊谷屋利八方へ泊とまり込こみしが日永ひながの頃なれば退屈たいくつなりとて直八は兩國淺草又は上野うへの山下邊やましたへんなど見物なし廣小路ひろこうぢへ出で五條の天神前まへへ來りし所に天道干てんだうぼしの道具屋だうぐやに二尺五寸程の脇差わきざしありしが何やら見覺えのある品故ゆゑ直八は立止たちとゞまり此脇差を手に取上とりあげ能々よく〳〵見ば鞘は黒塗くろぬり鐺こじりは銀ぎん鍔つばは丸く瓢箪へうたんの透すかしあり頭かしらは角つの縁ふちは赤銅しやくどうにて鶴つるの高彫目貫は龍の純金なりしかば直八は心に合點うなづきモシ〳〵道具屋さん此脇差わきざしは何程いくらで御座りますハイ其それは無名なれども關物せきものと見えます直價ねだんの所は一兩三分に致しませうと云いふを聞直八其それは高價たかい私わしは百姓のことだから身には少すこしも構かまひは無い見てくれさへ宜よければ好いゝ眞ほんの御祝儀しうぎ差ざしだ最もう些ちつと負て下さい道具屋否々いへ〳〵此品は堅かたい代物しろものなれば夫よりは少しも引ひけやせんと是より暫時しばし直段ねだんの押引おしひきをなし漸く金一兩一分と極きまり直八は道具屋に向ひ直ねは付たが金子の持合もちあはせは少々せう〳〵不足ふそくだが漸やうやして是を手付として置て行ませうと金一分ぶ取出し翌日あすの朝あさ殘のこりの金を持て私が取に來くる然しかし事に寄よると來こられぬ時は御前まへの内へ直樣すぐさま取に遣やるから一寸請取を書かいて下くださいと云ふにぞ道具屋は書付かきつけを認したゝめ判迄はんまで捺おして出しければ直八手に取揚とりあげて讀よみけるに

覺

一脇差わきざし               壹腰こし

右みぎ代だい金壹兩壹分也

内金うちきん壹分請取

但たゞし拵こしらへ付つき貳尺四寸餘よ無名物むめいもの縁ふち赤銅しやくどう鶴つるの彫ほり頭かしら角つの目貫龍りようの純金むく丸鍔つば瓢箪へうたんの透すかし彫ぼり鞘さや黒塗くろぬり鐺こじり銀ぎん

下谷町貳丁目
六月十七日
道具屋治助

と書認かきしたゝめ有ける故夫なら翌日あす又また是これを持もたせて取に上ますが田舍者ゐなかものは兎角とかく迷路まごつき易やすき故下谷と云ても分わからぬことが有つて間取ひまどるから大屋さんの名を書かいて下くだされましと言に道具屋ハイ〳〵家主いへぬしは廣ひろ次郎と申ますと肩書かたがきにして渡しければ直八是で宜と其儘馬喰ばくろ町の旅宿りよしゆくへ歸りて長兵衞并ならびに村名主むらなぬし源左衞門に向ひ下谷山下やましたにて見當みあたりし脇差わきざしの事を話し是は親方の小刀わきざしなり先年行ゆく方知ずとなりし三人の中うち練馬藤兵衞へ確しかと私が手から貸かして遣つかはした代物しろもの故行先を能よく吟味したら三人の死生ししやうの程も知れ親方の敵かたきの手筋も分わかりさうな者だと聞きゝて長兵衞夫それは捨すてて置れぬことなりと源左衞門并に熊谷屋くまがひやの亭主へも相談さうだんなし早速其筋そのすぢへ訴訟うつたへべしとて願書ぐわんしよを認め右道具屋の請取を添そへ町奉行所へ差出たり之に依て翌日同心原田はらだ大右衞門下谷の自身番じしんばんへ出張し家主いへぬし廣ひろ次郎を呼寄られ其方店たなに道具屋治助と申者是有これあるる由直樣召連めしつれ來るべしと申渡せしかば廣次郎畏かしこまり候とて直に治助を同道して來りしに原田治助に向ひ汝ぢは道具渡世とせいをなす治助なるか御意ぎよいに御座りますと答るにコレ此請取に覺えあるかと尋ねければ治助は是を見て此請取は昨日さくじつ廣小路ひろこうぢの店にて商あきなひを致し手付てつけを請取し時さし出したるなりと云に聢しかと夫に相違無なきやと申せば然樣さやうに御座りますと云時原田シテ其脇差わきざしは何所から買かつた其賣口は知て居樣ゐやうなと云れ治助は甚だ氣味惡わるく思ひながら其品そのしなは稻荷町の十兵衞と申者の宿やどに於て去きよ月の市いちに買取かひとりたり然し其節は二十品ばかりの買物かひものにて賣主は誰たれやら聢しかとは申立兼かねれども右十兵衞の帳面ちやうめんに記して御座りますと申せば原田然ば其十兵衞を呼出よびいだすべし尤も跡月あとげつよりの賣上うりあげ帳を持參ぢさんせよと家主へ達しけるにより家主仁兵衞早速さつそく十兵衞へ此由を云聞いひきかせければ十兵衞は又間違まちがひの品が出たかとて家主同道にて下谷の自身番へ來りしかば早速呼出よびいだし原田は十兵衞に向ひ去月中きよげつぢう爾なんぢが宿にて此治助が脇差を買かつたと申が然樣さやうに相違無やと尋ぬるに十兵衞脇差を見てヘイ然樣さやうでは御座れども大勢たいぜいの事故別段べつだん變かはりし品は覺も御座りますが斯樣かやうな品は其日の買取人が參りまして直すぐに引取ます故聢しかと見覺は御座りませんと申に然さらば賣帳うりちやうが有あらうと云いはれ十兵衞は帳面を出し治助どん去月の幾日頃いくかごろだの治助中市と思ひました桃林寺たうりんじ門前の佐印さじるしか三間町の虎公とらこうか何いづれ此兩人の中だと思はれますと云いへば十兵衞成程々々なるほど〳〵斯かうつと十日は治助どんは燒物やきもの獅し子しの香爐かうろ新渡しんとの皿さらが五枚松竹梅三幅對ふくつゐの掛物かけもの火入ひいれが一個ひとつ八寸菊蒔繪きくまきゑ重箱ぢうばこ無銘むめい拵こしらへ付脇差二尺五寸瓢箪へうたんの透すかしの鍔つば目貫めぬき龍りようの丸は頭角つの縁ふちは鶴の彫ほりと聞より治助大に悦よろこび宜々よい〳〵夫それだぞ賣人は誰たれだ〳〵十兵衞待まちなせへよ三間町の虎松とらまつに相違は無いとて原田はらだの前に出いで彼かの脇差は淺草三間町の虎松と申す者より買入しに相違さうゐ御座りませぬと云いへば原田然しからば御用は無ない引取ひきとれと申渡すに十兵衞は有難ありがたしと家主諸共もろとも引取ひきとりける斯て原田大右衞門コレ幸かう藏此治助を連つれ先さきへ東町の自身番へ行いつて淺草三間町の虎松を呼よんで置おけ己おれは坂本へ鳥渡ちよつと廻まはつて行ゆくからと申付て立出れば手先てさきの幸藏かうざうは脇差を風呂敷ふろしきに包つゝみ治助を同道して東町の自身番じしんばんへ來り虎松とらまつを呼寄けるに家主いへぬし巳み之助差添さしそへて罷まかり出いで原田の來るを待居まちゐたり暫時しばらく有て原田大右衞門は自身番じしんばんへ來りければ家主巳之助這出はいいでて私し儀は三間町の家主巳之助と申者なるが何なにか御用の筋すぢ之有これある由に付虎松を召連めしつれ候と申に原田は是を聞其方が虎松なるか此脇差このわきざしを去月十一日稻荷町の十兵衞方かたに於て此この治助に賣うりたるかとの尋たづねに虎松然樣さやうなりと答ふれば原田而して此品このしなは何所どこから買出かひだしたか其買先を申立よと問とはれ虎松是は面倒めんだうの品と思ひながら此脇差このわきざしは去年きよねん十一月田舍ゐなかへ買出かひだしに參つたる節せつ杉戸宿の林藏りんざうと申者の手てより買取かひとりたるに相違さうゐなしと申立れば愈々いよ〳〵然樣さやうならばもはや御用は相濟だ引取ひきとるべしとのことゆゑ治助はホツト溜息ためいきを吐つき家主廣次郎同道どうだうにて我が家にこそは歸かへりけれ扨さて夫それより原田は虎松に向ひ其方明日杉戸へ案内あんないを致せ因よつて今日は家主いへぬし巳之助其方そのはうへ虎松を預あづけるぞと殘のこる處無く差圖さしづ有あつて原田大右衞門歸宅致しける依よつて公儀おかみの御詮議ごせんぎは行屆ゆきとゞきしものなりと人々感心したりけり


第二十回


 去程さるほどに同心どうしん原田大右衞門松野文之助まつのぶんのすけの兩人何いづれも旅裝束たびしやうぞくにて淺草三間町の自身番へ來りければ虎松も豫々かね〴〵申付られしこと故支度したくをして相待居あひまちをりしに付直樣すぐさま案内あんないとして六月廿日に淺草寺あさくさでらの明卯刻あけむつの鐘かねと共に立出たちいで炎天えんてんをも厭いとはず急ぎ武州ぶしう埼玉郡さいたまごほり杉戸宿名主太郎左衞門方へ着ちやくし早速さつそくに道具屋渡世林藏を呼出せし所他行たぎやうの趣おもぶきにて女房にようばうを同道せしと云に原田はアヽ女房では分るまいが折角せつかく來たものなら先まづ是これへ呼寄せとて林藏の妻を呼出し今日林藏は何所どこへ參りしぞと問とはれしかば女房何事か出來しゆつたいしたかと驚き今日は商賣用しやうばいようにて栗橋くりはしまで參りました故申刻過なゝつすぎには大方おほかた戻もどりませう併しかし御役人樣へ申上ます妾わたくしの良人をつとは當年六十に相成りますが近所きんじよでも佛ほとけ林藏と申て何も惡事は是迄これまで少すこしも致しましたことは御座りませんが些少さゝいなことは御免成ごめんなされて下さりませと申ければ原田否いや何なにも林藏に惡事が有あると云では無ない是これへ來きさへすれば分ることゆゑ格別かくべつに案あんじるに及ばずと云に女房ハイ其それは有難ありがたう存ぞんじます併しかし日頃ひごろから妾わたしが異見いけんを致すは爰こゝのこと林藏は能よい歳としを仕して殊ことの外ほか女好ずき夫故大方然樣さやうな一件けんでも御座りませうが主有者ぬしあるものに手を出すの密夫まをとこなどは致ませんが只々たゞ〳〵錢ぜにを持もちさへ致すと女郎買ぢよらうかひにばかり行きます是が誠に玉たまに瑾きずと申ので困こまりきりますと頻しきりに譯わけもなきことを申立るにぞ原田始はじめ一同笑ひに堪兼たへかね最もう宜々よい〳〵林藏が戻もどり次第に早々さう〳〵知しらせろコリヤ家主いへぬし嘉右衞門林藏が歸りしならば早速さつそくに同道どうだうせよと申付られ引取所ひきとるところへ林藏は立戻たちもどりし故に家主いへぬし嘉右衞門は林藏に斯かくと申聞きけければ林藏は何事なにごとやらんと怖々こは〴〵ながら其所そこへ出れば町方まちかた役人村役人二人共附添つきそひ手先てさきの者は立働たちはたらき一同どう居並ゐならんで居る故只肝きもを冷ひやして戰ふるひ居たり此時とき原田は三間町の虎松に向ひ其脇差わきざしは那あの林藏より買取かひとりしに相違無なきやと有に虎松ハイ仰おほせの通り右みぎ林藏の手より買かひ取しに相違御座りません原田是これや林藏今いま虎松が申す通り相違無なきや而して其脇差は何方どこから買かひ取た眞直まつすぐに申立よ僞いつはると汝ぢが爲ために成ぬぞと威おどされ林藏は恐おそる〳〵手に取上て能々よく〳〵視畢みをはり成程此脇差は慥たしかに見覺えました品しな是これは幸手宿の者より否々いや〳〵粕壁かすかべの市いちで買かひましたと云に原田始め役人共其そは何か取留ぬ申口たり林藏確しかと申せ胡亂うろんなことを申と直樣すぐさま縛しばるぞと有けるにぞ元來ぐわんらい臆病者おくびやうもののこと故ゆゑ林藏はがた〳〵戰ふるひ齒はの根も合あはず居たりしかば家主嘉右衞門は傍そばより是々林藏確乎しかとした御答おこたへを申上よ大事だいじな儀ぢやぞと申に林藏何なにと致いたしまして嘘うそを申立ませうアノ夫々それ〳〵是は去年の春の事とて栗橋くりはしの燒場やきばのアノ隱亡をんばうの名は慥たしか彌十とか申者より錢ぜに一貫二百五十文に買受かひうけましたに相違は御座りませんと申立たてるにぞ原田は是を聞きゝコリヤ林藏愈々いよ〳〵然樣さやうに相違無ないか若もし間違まちがうては濟すまぬぞと堅かたく申渡わたされ林藏ハイ〳〵決して間違ひは申上ませんと云故ゆゑ役人共然しかれば其方早々さう〳〵栗橋へ案内あんない致せと直樣すぐさま申刻過頃なゝつすぎごろより出立しゆつたつなし三間町の虎松は是より御用よう濟ずみなりと申渡し役人は林藏を先さきに立せて栗橋宿じゆくの名主代だい右衞門方へ到いたり無常院むじやうゐんなる隱亡をんばうの彌十を呼び出せしに彌十は庭の莚むしろの上うへに襦袢じゆばん一枚にて控ひかへ居たりしを役人共コリヤ彌十爾なんぢは是なる林藏へ脇差わきざしを賣うりたることが有あるか其その脇差は爾ぢの品しなか又は何國どこから持もつて來たか明白めいはくに申立よと云れ彌十は少すこし口籠くちごもりしがイヱ此脇差は私しの家に持傳もちつたへし重代ぢうだいの品なりと云に役人コレ彌十爾なんぢが重代の品などは不屆き至極しごくなり夫縛しばれと下知げぢしければ手先てさきの者立懸たちかゝり忽然たちまち高手たかて小手こてに縛しばり上るに彌十は恐おそれし體ていにて何を隱しませう其品そのしなは葬禮さうれいの時の納をさめ物なれども然樣さやう申上なば御疑うたがひが懸かゝらうかと存じ重代ぢうだいの品と申上しかど實じつは死人しにんの納をさめ物なりと申ければ役人扨々さて〳〵爾なんぢは不屆き者なり此脇差は中仙道なかせんだう鴻の巣の鎌倉屋金兵衞と云者の所持しよぢの品にて其子分なる練馬ねりま藤とう兵衞と云者に貸遣かしつかはしたる脇差なり然る所其後ご右みぎ藤兵衞等ら外ほか二人の行衞ゆくゑは今に於て相知あひしれず然る所今いま藤兵衞が差さして居たる脇差の有からは其方が掃部かもん茂助藤兵衞等ら三人の在家ありかを存じて居をるに相違は有舞あるまひサア眞直まつすぐに白状はくじやうせよと意外いぐわいに出いでられ彌十は南無三寶ばう仕舞しまつたりと思へども然有さあらぬ體ていにて否々いや〳〵全く脇差は納をさめ物に相違御座りませぬと云ば役人は左右とかく汝なんぢは不都合ふつがふなる事を申ぞ脇差を葬禮さうれいの納め物となすならば寺へこそ納をさめる筈はずなれ何ぞ燒場やきばへ納めると云法はふの有あらんやサア尋常じんじやうに白状致せ不屆者め夫それ責せめよと言葉の下より手先てさきの者共笞しもとを揚あげて左右より彌十の股もゝを肉の破やぶる程に打敲たゝきければ彌十は是に堪兼たへかねアツと叫さけんで泣出しアヽ御免ゆるし下くだされよ何事も皆みな包つゝまず申上ます〳〵と詫けるに然らば白状すべしと責せめを止とゞめ猶強情に陳ちんずれば餘計よけいに痛いたいめをするぞ而して藤兵衞が所持しよぢの脇差を如何の譯で汝ぢが手に入いりたるぞサア〳〵其譯そのわけ白状すべしと問詰とひつめられて彌十は苦痛くつうに堪兼たへかね迚とても免れぬ處と覺悟をなし然樣さやうならば申上あげます此脇差このわきざしは一昨々年の七月廿八日の夜の事成しが死人しにんに火を掛内に這入はひりて伏ふしみ居し折柄をりから燒場の外面おもての方に大喧嘩おほげんくわが始りし樣子故何事かと存じ密そつと出て窺うかゞひしに闇くらき夜なれば一向かうに分わからず暫時しばらく樣子を見合居し處幸手宿の畔倉あぜくら重四郎と三五郎と申者の聲ゆゑ徐々そろ〳〵立寄たちよりしに相手の者三人は皆みな切殺され是は浪人らうにんの八田掃部と并ならびに練馬藤兵衞三加尻茂助と申せし者共なり其時重四郎の申には何卒なにとぞ此死人を火葬くわさうに爲て呉ろと頻しきりに頼みしかども私しは後々のち〳〵の事を恐敷おそろしくと申して斷りしに重四郎は承知せず貴樣きさまに難儀を懸かけぬ樣に取計とりはからひ方も有から是非々々頼むと申を兎角とかくに後難こうなんが恐おそろしさに否だと申て立去たちさらんと致せし時斯この大事を見られた上は生いかして置れぬ言ことを聞きかずば命いのちを呉ろと既に切殺さんと致すゆゑ私しも詮方せんかた無なく後の難儀は辨わきまへながら其場の難なんには換難く存じ據よんどころなく申に任まかせ三人共火葬くわさうに致し骨は殘らず川中へ捨すてて仕舞しまひしと白状に及びければ役人其時とき汝ぢは必定ひつぢやう金子を貰もらひし成んと申に彌十ヘイ一人前まへ一兩宛づつ貰ひ是非なく燒やいて遣つかはしましたと悉敷くはしく申立たてけるにぞ原田は進み出いで而して此この脇差は爾ぢが取たのか彌十ヘイ納をさめ物もの同樣どうやうに存じましてと言を原田は白眼付にらめつけ那あの爰こゝな横着わうちやくものめ定めし汝は脇差ばかりでは有あるまじ外々の品も盜ぬすみ取て賣うつたで有あらうと問詰ければ外ほかに二本の脇差は騷さわぎの中うち故ゆゑ火中へ入て御座りしを氣が附つかず燒て仕舞ましたら何時いつか眞赤まつかに成まして役には立ず一本の方は洗箒さゝらの樣に成て致し方なければ川へ捨すてましたと申立けるに原田は點頭うなづき然らば愈々いよ〳〵相違無かと有ありければ彌十少しも僞いつはりは御座りませぬと申すに依より道具屋林藏は御用濟ようずみたり勝手に引取ひきとるべし太儀たいぎなりと申渡され家主いへぬし嘉右衞門は林藏同道どうだうにて歸りける夫より隱亡をんばう彌十は高手たかて小手こてに縛いましめられしまゝ宿籠しゆくかごに乘のせ江戸表を差さして送らせける其後種々しゆ〴〵樣々さま〴〵吟味有けるに先の申立たてと相違も無きこと故是これより大惡の本人ほんにんたる重四郎の段右衞門と愈々いよ〳〵突合つきあはせ吟味とこそは極きはまりけれ


第廿一回


 時に享保きやうほ十一年七月五日重四郎の段右衞門一件けんの者共を悉皆こと〴〵く白洲しらすへ呼出し軈やがて大岡殿彌十に向はれ何いかに彌十汝ぢは元栗橋もとくりはしにて重四郎三五郎の兩人が掃部茂助藤兵衞の三人を殺せし時手傳てつだひて共々とも〴〵殺したで有うなと故意わざと疑ひの詞ことばを設まうけられしかば彌十は面おもてを正たゞし否々いや〳〵私し儀は其節喧嘩けんくわの聲を聞きゝ付見には出ましたが怖こはさは怖し遠方とほくに窺うかゞつて居しのみにて漸く少し鎭しづまりし時三五郎重四郎兩人の聲が致すゆゑ傍そばに立寄たちより夫より右みぎ死骸は據よんどころなく頼まれて火葬くわそうに致しましたれど勿々なか〳〵以て手傳てつだひなどは決して致しません尤もつとも其節の手續てつゞきは斯々かく〳〵云々しか〴〵なりと委細くはしく申立ければ大岡殿段右衞門を見遣みやりコレ段右衞門爾なんぢは三五郎と申合あはせ元栗橋にて掃部茂助藤兵衞を殺せしは我が推量すゐりやうに相違無し然れば鎌倉屋金兵衞を殺したるも汝ならん眞直まつすぐに白状せよともうされければ段右衞門は漸々やう〳〵に眼まなこを開ひらき此間中ぢうより申上し通り穀屋平兵衞を殺し又鈴ヶ森にて三五郎を殺し候は全まつたく私しに相違なけれども金兵衞を殺したる覺おぼえは毛頭もうとう之なしと飽迄あくまでも言張はるにぞ大岡殿詞ことば靜しづかに是これ段右衞門能く承うけたまはれ爾なんぢはよく〳〵迷まよつた奴と見える假令たとへ一人たりとも人殺しの科とが極きはまる上うへは獄門ごくもんに曝さらさるゝは知てあるに今いま猶なほ強情がうじやうに申募つのるとも一命めいの助たすかる譯は無ぞサア〳〵尋常じんじやうに白状せと言れ夫それとも彌十爾なんぢが申立たるとは僞いつはりなるかと申さるゝに彌十は段右衞門に向ひ是々これ〳〵重四郎ではない段右衞門殿夫そんな譯の分わからぬ強情がうじやうは止よしにしろ今奉行ぶぎやう樣の仰おつしやる通りだ幾等いくら其方そなたが隱かくして白状爲せねばとて命いのちの繋つながる事は金輪こんりんざい有ありア爲しねへ夫それ迚も三五郎と申合したかは知ねヱが今と成なつては未練みれんな男だ誠まことに苦くるしみ惜をしみの人間にんげんだなア掃部や藤兵衞茂助の二人を殺した時其方そつちが利根川とねがはへ死骸を打込うちこまふと言いつたら三五郎が言には川へ流しては後日ごにちが面倒めんだうだ幸ひ此彌十に頼んで火葬くわさうに爲して貰もらへば死骸しがいも殘さず三人の影も形かたちも無なるゆゑ金兵衞を殺したことも却かへつて彼等三人に疑うたがひが懸かゝる道理だと三五郎の計略けいりやくにて已すでに火葬を頼んだ其時に若もしもと己おれは不承知しようちを言たら汝おのれが懷中ふところから金を三兩出て博奕友達ばくちともだちの好よしみだと言て平ひらに頼む故己おれも詮方無せんかたなく燒やいて仕舞て骨ほねは利根川へ流したに相違は無いぜ是これサ段右衞門今此彌十に顏を合あはしては百年めと言いふ者サア何なにも彼も決然きつぱりと男らしく言て仕舞しまへと言いふにぞ段右衞門コレ汝ぢは跡方あとかたも無ない拵こしらへ事を言掛かけ我に罪つみを負おはせんと爲する此乞食こじきめと大音だいおんに白眼付にらみつくると彌十大いに怒いかりて何なんだ乞食だと知たことだ隱亡をんばうは人間と非人ひにんとの間あひだは是も渡世とせいだ然さりながら此彌十は酒も呑のみ長半ちやうはんも人並には打殊ことに喧嘩けんくわもするが今迄いままで人に疵きずとても付たことも無し錢ぜに三文でも盜ぬすんだ覺えは無そ能よく聞きけよ汝おのれはな幸手さつての穀屋平兵衞を殺して金百兩を奪うばひ取とり其上にて關宿せきやどの藤五郎の博奕場ばくちばで四人と言者を切て又堺さかひの町でも鷹助たかすけに手疵を負おはせしこと寶珠屋はうじゆや大坂屋のことからしてオヽそれ〳〵其前のことだ栗橋の土手どてで眞田商人さなだあきんどを殺した事も皆々みな〳〵汝ぢだと疑つて居ゐるぞ此盜人野郎ぬすびとやらうめ乞食こじきに近い此彌十よりは遙か劣おとりし人非人にんぴにんめサア言譯わけが有なら返答へんたふ仕しろと大聲おほごゑに言込こめけるに流石さすが不敵ふてきの段右衞門も更に無言むごんとなり此時に至つて大いに赤面せきめん爲したる有樣なれども未だ白状は爲せざりけり


第廿二回


 此時このとき越前守殿高聲かうしやうにコレ段右衞門左右とかくに汝おのれが罪つみを隱かくし鷺さぎを烏からすと言黒いひくろめんとするは扨々不屆き者なりと白眼付にらみつけられ夫より同心どうしんに豫て申付つけ置おきたる品川宿の馬士まごを只今たゞいま是へ出いだすべしと言れけば同心は畏かしこまり候と立て行けるが頓て身には半纒はんてんを着きて眞向まむきより頬ほゝへ掛て切下きりさげられし疵痕きずあとあり丈せいは低ひくく髭ひげは蓬々ぼう〳〵として如何にもみすぼらし氣げなる者を連出つれいだせしかば大岡殿コレ品川宿の馬士まご其方は去年きよねん十七屋の飛脚を乘のせ鈴ヶ森に於て切られし所汝なんぢは運好うんよくも命いのち助たすかりしが其時の盜人ぬすびとは爰に居る段右衞門と言者いふものならん能々よく〳〵顏を見よ其節そのせつの盜人で有あらうがなと申さるゝに馬士まごはヘイ御意に御座ります未いまだ夜明前よあけまへとは申ながら挑灯ちやうちんも御座りました故隨分ずゐぶん慥たしかに見覺えて居をります成程此者に相違は御座りませんと聞きくより流石さすがの段右衞門も愕然ぎよつと仕して大いに驚きヤア然らば其時の馬士まごめで有たか扨々さて〳〵運うんの強つよき奴かな頭から梨割なしわりにして其上に後日の爲ためと思ひ留とゞめ迄刺さしたるに助かると言は汝なんぢは餘程高運かううんな者なりと呆あきれ果てぞ居たりける時に越前守殿如何いかに段右衞門金飛脚かなひきやくの彌兵衞并ならびに馬士爲八を殺したに相違は有舞あるまひなと問詰とひつめられしかば段右衞門はハツと首を下さげ御意ぎよいの通り鈴ヶ森に於て三度飛脚の彌兵衞を殺し金子を奪うばひ取しに聊か相違なしと申立しにぞ大岡殿は馬士まごに向はれ其方は最早もはや用事の相濟あひすみたり引取れと言いはれしかば其儘馬士まごは白洲を立て行ゆく跡あとに越州殿呵々から〳〵と笑はれコレ段右衞門汝ぢは是迄これまで強情がうじやうに申張はつて一向白状に及ばぬ故向むかう疵きずの有ある馬士を尋ね出し彼かれに申付て汝ぢを謀はかり白状させしなり其節せつの馬士まごは何なにとして命いのちの助たすかるべきや然るを我が計略けいりやくに陷おちいりしも是これ天命てんめいなり今さら包み隱かくさずとも尋常じんじやうに惡事を殘らず白状はくじやうすべしと鋭するどく問糺とひたゞされしかば段右衞門は此時このとき初はじめてハツト言いつて歎息たんそくなし寔まことに天命てんめいは恐ろしきものなり然ば白状仕つかまつらんと居直なほり扨も權現堂ごんげんだうの堤つゝみに於て穀屋平兵衞を殺し金子百兩奪ひ取とり其後ご鷲わしの宮に於て鎌倉屋金兵衞を手に掛かけて金五百兩を盜み取とり猶なほ又また三五郎と申合せ元もと栗橋に於て三人の者を殺害せつがいせしより鈴ヶ森にて十七屋の飛脚ひきやくを殺し金子きんす五百兩奪取うばひとり其後藤澤宿の大津屋と申旅籠屋はたごやへ入夫と相成あひなりし處三五郎度々どゝ無心むしんに來りしが我わが惡事を皆悉こと〴〵く知しりたる三五郎なる故後日ごにちの妨害さまたげと存じ欺あざむきて鈴ヶ森まで連出つれいだし終に三五郎をも殺害せつがいせしに少しも相違御座なく候と殘らず申立ければ大岡殿聞きかれ神妙々々しんめう〳〵と言れし時段右衞門は大岡殿に向ひ恐れながら斯かゝる明奉行の御糺問きうもんを蒙かうむり御吟味明あきらかなる而已のみならず御仁慈じんじの程誠まことに以て恐れ入奉つる何さま世間の噂うはさに相違も之無き賢明けんめいの御奉行なり其御裁許ごさいきよに預あづかること此身の本望ほんまうと申すべし返かへす〴〵も私しの惡行今更後悔仕つり候然る上は三五郎女房にようばう文ふみ元栗橋の隱亡をんばう彌十等私しへ係かゝり合の者共の儀は私し故に罪科ざいくわも蒙り候ことゝ存じ奉つるに付私わたくし身分は何樣いかやうの御成敗せいばいを仰せ付らるゝとも自業自得じごふじとくの儀に候へば聊いさゝかも恨うらむる所なし係り合の者共は何卒なにとぞ御慈悲じひの御成敗せいばい願ねがはしく存じ奉つり候とて己れが舊惡を悉皆こと〴〵く白状に及びしかば夫それより口書こうしよを認したゝめ重四郎の段右衞門の爪印つめいんを押おさせ追おつて沙汰に及ぶと申渡され一同それ〴〵下さげられけり


第廿三回


 然程さるほどに大岡越前守殿には段右衞門前名ぜんみやう畔倉重四郎一件けんに付享保きやうほ十一年十二月右みぎ係かゝり合の者共一同どう白洲しらすへ呼よび出され夫々それ〴〵に其罪科ざいくわを申渡されける

相摸國高座郡藤澤宿
大津屋段右衞門事
前名  畔倉重四郎

其方儀そのはうぎ權現堂小篠堤に於て幸手宿穀屋平兵衞を殺害せつがいし金子きんす百兩奪ひ取とり其後そのご中仙道鷲の宮にて鴻こうの巣す宿じゆく鎌倉屋金兵衞を殺し金子五百兩盜ぬすみ取し上剩さへ三五郎と申合せ右金兵衞の子分ぶん掃部茂助藤兵衞等三人の者をも元栗橋もとくりはし燒場前やきばまへにて切殺し死骸しがいは隱亡をんばう彌十に頼み火葬くわさうに致し其後鈴ヶ森にて十七屋の三度飛脚ひきやくを殺し金子きんす五百兩奪うばひ取其後のち猶なほ又同所どうしよにて三五郎をも殺害せつがひ致し候段重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付町中まちぢう引廻ひきまはしの上うへ千住小塚原に於て獄門ごくもんに行おこなふ

武藏國埼玉郡元栗橋宿
隱亡  彌十

其方儀平生へいぜい身持みもち宜よろしからず博奕ばくえき喧嘩けんくわを好このみ其後重四郎并ならびに三五郎より頼まれ候とは雖いへども掃部茂助藤兵衞三人の死骸を燒棄やきすて其上右みぎ骨ほねは利根川とねがはへ流し候段重々ぢう〳〵不屆の所格別かくべつの御仁惠じんゑを以て遠島ゑんたう申付る

同國同郡幸手宿
三五郎妻  ふみ

其方夫をつと三五郎儀平生へいぜい身持みもち宜よろしからず重四郎と申合せ金兵衞の子分等ら三人を元栗橋燒場前に於て殺害せつがいし右死骸を隱亡をんばう彌十に頼み燒棄やきすてさせ候段不屆に付存命ぞんめい致し居をり候はゞ重おもき御仕置しおきにも仰おほせ付らる可べきの所ところ鈴ヶ森に於て殺害せつがい致されしにより其罪つみを諮とはず右は重四郎の仕業しわざと相分あひわかり重四郎儀は町中まちぢう引廻ひきまはしの上うへ獄門ごくもん仰おほせ付られ候上は有難く存すべし

相摸國高座郡藤澤宿旅人宿渡世
小松屋文右衞門

其方儀そのはうぎ重四郎を同宿大津屋ゆう方へ入夫致させ候節せつ身元みもとをも糺たゞさず世話致し候段不行屆ふゆきとゞきに付過料くわれうとして錢ぜに三貫文申付る

長谷川町家主嘉兵衞店針醫師
盲人  城富

其方儀平生へいぜい養母やうぼに孝行を盡し其上に先年實父じつふ富右衞門御所刑しおきに相成候節せつ自分身代みがはりの儀願ひ出いで候段是又實父母ぼへ孝心の至りに思召おぼしめされ候之に依て御褒美はうびとして白銀はくぎん三枚取せ遣つかはす有難ありがたく存ず可し

武藏國埼玉郡幸手宿穀物渡世
杉戸屋富右衞門

其方儀永々なが〳〵入牢じゆらう仰おほせ付られ罷まかり在處あるところ此度右一件本人ほんにん相分り御死刑しおき仰おほせ付られ候に付出牢しゆつらう仰せ付らる有難く存ずべし

右の通とほり重四郎一件落着らくちやくと成しは誠まことに天道正直の道みちを照てらし給ふ所なり然れども其人そのひと其罪無して杉戸屋富右衞門は如何いかなる其身の業報ごふはうにや煙草入たばこいれを落せしより圖はからずも無實むじつの罪に陷入おちいり一旦たん入牢仰せ付られけるが上かみに聖賢せいけんの公きみ存ましませば下に忠良ちうりやうの臣あつて能よく國家を補翼ほよくす故に今斯かく明白めいはくに善惡ぜんあく邪正じやしやうをたゞされしかば富右衞門の女房にようばうお峰みね其子城富は申に及ばず親族しんぞくに至る迄皆みな大岡殿の仁智じんちを感じ喜悦きえつ斜なゝめならず殊ことさらに實子城富は見えぬ眼めに涙なみだを流ながし先頃大岡殿の申されしに父富右衞門は蘇生そせいせまじきものにもあらずとは此事なりと喜悦よろこぶこと限り無く只々たゞ〳〵偏ひとへに名めい御奉行大岡樣の御仁慈じんじなりと奉行所の方に向ひ伏拜ふしをがみ〳〵感涙かんるゐ止とゞめあへざりしも道理だうりなり扨さて爰こゝに亦穀屋平兵衞の悴せがれ平吉は段々だん〳〵吟味ぎんみの末杉戸屋富右衞門は全く無實むじつの罪なること明白に顯あらはれ其節の盜賊たうぞくは畔倉重四郎なる由を聞及びしかば大いに驚おどろき扨々我等が不明ふめい故ゆゑに罪無き杉戸屋富右衞門殿を永々なが〳〵入牢じゆらう致させ苦くるしめしこと何とも申譯なき誤あやまり成りと思ひ平吉は早速さつそく杉戸屋富右衞門方へ到つて種々くさ〴〵樣々さま〴〵に是迄の始末しまつを詫言わびごとなし是は聊いさゝかながら出牢しゆつらうの歡よろこび旁々かた〴〵土産みやげなりとて懷中くわいちうより紙に包み目録もくろくとして金子百兩を差出しければ富右衞門是これを見て扨々さて〳〵誠まことに以て御芳志はうしの段有難き仕合なり然れども此度の災難さいなんかく成行なりゆくも宿世しゆくせの業因ごふいんなれば誰を恨うらみ彼を恨みんとは存じ申さず煙草たばこ入を落せしことが我が誤あやまりなり斯かゝる大金を御惠めぐみ下さるべき謂いはれ無しと達たつて辭退じたいに及ぶゆゑ平吉は何卒して我々が誤りを詫言わびごとなす印しるしに渡し度と思ひ是非々々是は御受納じゆなふ成さるべし又此上何成共相應さうおうの儀も候はゞ御相談さうだん下されよ私し力に叶かなふ儀なれば如何樣にも御助勢じよせい申たしと言つゝ無理遣むりやりに差置て早々歸宅致しければ富右衞門は此金を持もつて又々穀平方へ到いたり御芳志はうしの段忝かたじけなし然さりながら斯る大金を申請うけべき譯わけは更さらに無しとて種々いろ〳〵に斷ことわりけるを平吉夫にては手前の心に濟すまず平に御受納下されよとて受取ざれば是非無ぜひなく富右衞門も右の百兩を貰もらひ受夫より我が旦那寺だんなでらへ到いたりて是を納をさめ惡人ながらも不便ふびんなりとて畔倉重四郎を始め彼三五郎鴻の巣なる鎌倉屋金兵衞其外ほか野州やしう浪人八田掃部三加尻茂助練馬藤兵衞などの菩提ぼだいを弔とぶらひ又元栗橋の隱亡をんばう彌十などの安穩あんをんに歸島致す樣祈祷きたうを頼み其後のち先祖せんぞの菩提ぼだいの爲とて旦那寺だんなでらに於て大施餓鬼おほせがきを取行ひ杉戸屋富右衞門世話人頭がしらと成なりて修行しゆぎやう致しけり扨さて富右衞門は隱居いんきよなし家督かとくは親類しんるゐより相應さうおうなる者を呼入て杉戸屋の家名を繼つがせ其身は只たゞ明暮あけくれ念佛ねんぶつの門に入て名號みやうがうを唱となふる外ほか他事たじ無なかりしとぞ依て追々おひ〳〵佛果ぶつくわを得富右衞門は長命ちやうめいにて終つひに年齡八十一歳に至り眠ねむるが如く大往生だいわうじやうを遂げしとぞ


畔倉重四郎一件終

小間物屋彦兵衞一件

小間物屋彦兵衞こまものやひこべゑ一件いつけん


第一回


 いつはりなき世よなりせばいかばかり人の言ことの葉はうれしからまじとは朗詠集らうえいしふ文詞ぶんしの部ぶにも出いでてよく人情に適かなひたる歌なれども左右とかく人世の欲情は免かれ難がたくして僞いつはり飾かざる事のなきにもあらず然されば元祿の頃大坂おほさか天滿橋てんまばしの邊に與市と云者あり未だ若年にして陽おもてには侠客風俗をとこだてふうを好むと雖も其質そのさが狡猾わるかしこく毎々つね〴〵新町を始め惡所場を騷さわがし諸處に於て強請ねだり騙かたりなどせしが或時喧嘩けんくわにて人を過あやめ遂に召捕れし上うへ久敷ひさしく入牢じゆらうして居たれども相手方命いのちに恙つゝがなく御慈悲を願ひける故ゆゑ遠島ゑんたうにも成べきを三ヶの津構つかまひにて事落着に及びたり元來ぐわんらい船乘ふなのりの事なれば夫より堺さかひへ行ゆき船頭となりしが左右とかくに博奕かけごとを好み身持惡きゆゑ人に嫌きらはれつゝ三十歳ばかりに成し頃ころ船中にて不圖ふと人の荷物にもつを奪ひ取しより面白く思ひ追々效かうを積つむに隨したがひ同類を集め四國西國邊迄も海賊かいぞくを稼かせぎ十餘年を消光おくりけるが其働そのはたらき飛鳥の如く船より船へ飛移とびうつり目にも見えざる程ほど故ゆゑ八艘飛そうとびの與市と渾名あだなを取しなり或時腕首うでくびに大疵おほきずを請うけ其後働く事叶かなはず彼是する中四十歳餘りにもなりしかば元祿の頃大坂を追拂おひはらはれてより十五六年も過たる故ゆゑ最早氣遣ひも有まじと思ひ勘兵衞かんべゑと名を變かへ東堀ひがしぼりに住居すまひをなし表向は船乘内證は博奕を渡世として子分も出來できしにより妻を向へしに渠かれが連子つれこの太七と云ふを實子の如くに不便ふびんを加へ月日を送り居たりけり其頃大坂堂島に彦兵衞ひこべゑと云者小間物こまものを渡世となし夫婦さし向ひにて金持かねもちと云にはあらねども不自由もなく暮くらしけるが彼かの勘兵衞の甥をひ彌七と云者を人の世話にて先頃さきごろ若い者に召抱めしかゝへ荷擔にかつぎにも連れ使ひにも出せしに至極實體に勤つとむる故或時新町の出入先より誂あつらへの金銀物を持もたせ使ひに遣やりしに夫切それきり一向歸り來らず依て心配なし使ひ先を聞合すれども此方へは來らずとの事故然さすれば取迯とりにげに相違さうゐなし出入場へ申譯わけ濟すまずとて早速宿に掛合しに勘兵衞大きに驚き扨々不屆ふとゞきなる奴やつ四五日御待下さらば尋たづね出し御返し申さんと申に我等が品にあらず出入先でいりさきの誂あつらへ物故一入ひとしほ難儀なんぎ致すに付早速に御頼み申と云置いひおき彦兵衞は新町へも右の段を申入れ八方を尋ぬるに彌七の行方ゆくへ更さらに知れず神鬮判斷みくじはんだんなどゝ心配する中新町よりは度々たび〳〵催促さいそくに預あづかり殊の外ほか難儀なんぎなすに依より又々また〳〵東堀ひがしぼりへ行ゆき勘兵衞へ懸合處かけあふところ未いまだ一向かう手掛てがかりも無き由を申せしかば彦兵衞は彌々いよ〳〵困こまり果はて當人が出ぬ時は新町へ立替たてかへねばならず依ては氣の毒ながら右みぎ代物しろもの丈だけの品しな才覺さいかく有あるべしと申を勘兵衞聞入ず勿々なか〳〵急には金子の調達てうだつ出來兼る間あひだ先まづ旦那の方にて御才覺下さるべし彌七引負ひきおひは追々御勘定申さんと云を彦兵衞其そは又餘り勝手過かつてすぎる話はなしなり其爲そのため貴樣請人に非ずや殊に此節我等も金子不手廻ふてまはりにて問屋とひやの勘定かんぢやう滯とゞこほり不自由なせば一兩日の中うちに勘定致さるべし然さもなき時は向うより出入にされては迷惑めいわく致すにより貴樣を相手に御願ひ申さぬ時は誂あつらへ主ぬしへ相濟ず爰こゝを能々勘辨かんべんし給へと段々事を分わけて云聞いひきけけれども勘兵衞は承知せず三十兩と云いふ金かねはとても出來でき難き故ゆゑ縱令たとへ公邊沙汰こうへんざたに成さるゝ共御日延おひのべを願ふより外に分別ふんべつなし誂あつらへ主ぬしへの云譯いひわけに公邊沙汰こうへんざたになさるべし如何にも受うけ申さんとの挨拶なれば是非ぜひなく勘兵衞を家主へ預あづけ誂あつらへ主ぬしの方へも此段を申して日を延のばし直すぐに西の御番所稻葉淡路守殿へ願書ねがひしよを差出さしいだしたり


第二回


 是これに依よつて享保三年五月十八日双方共さうはうとも呼出よびいだされ淡路守殿彦兵衞に向はれ其方儀彌七は何時いつ召抱めしかゝへたるやと尋ねらるゝに彦兵衞謹つゝしんで去年きよねん師走しはすに召抱候と申を能よく勘辨かんべん致せ未だ氣心も知れぬ者に金高きんだかの品を取扱ひさせる事は些少ちと無念ぶねんなるべし此以後は隨分ずゐぶん氣こゝろを注つけよと申渡されコリヤ勘兵衞其品は彦兵衞出入場でいりばより誂あつらへなれば早速さつそく辨償わきまへねばならず奉公人彌七行方ゆくへ知れる迄は右の品々しな〴〵彦兵衞に聞合せ殘のこらず辨償わきまへて遣つかはせと申さるゝに勘兵衞私し儀も所々しよ〳〵相尋あひたづねしか共ども行方ゆくへ知しれず右品々とても高金なれば勿々なか〳〵調達てうだつ出來難し依ては彌七行方相知るゝ迄彦兵衞不肖ふせう仕つる樣仰付おほせつけられ下さるべしと申立るを稻葉殿能よく聞きけ證文しようもんの通とほり其方そのはう甥をひとある上は當人たうにん出いでしとて其品なき時は辨償わきまへずばなるまじ殊ことに彦兵衞が所持の代呂物しろものに非ず出入場より預りし品なれば少しも猶豫いうよ成難なりがたし三日の中に右の品辨償わきまへよ若もし調達出來ぬとあれば申付方が有るぞと嚴敷きびしく申渡され右彦兵衞聞きく通とほり勘兵衞へ申渡せし上は右の品請取うけとれと云はれ兩人并に町役人共下られける斯樣に嚴敷申渡されしは何故なにゆゑと云ふに勘兵衞は大兵だいひやうにして色黒く眼まなこ大きく額ひたひより口へ掛て大疵おほきずの痕あと一ヶ所又小鬢こびんの外はづれより目尻に疵痕きずあと二ヶ所有り至つて惡相あくさうなれば奉公人の欠落かけおち合點がてん行ゆかずと思はれ斯は申されしなり夫より勘兵衞は早速さつそく彦兵衞方へ行ゆき勿々なか〳〵三日の中に三十兩の品は出來申さず何卒なにとぞ右の品其許そのもとにて御求め下され借用の一札を入いれ利足りそくは何程なにほどにても出し申さんと云へば彦兵衞も氣の毒に思ひ我等も問屋の方塞ふさがり不都合ふつがふなれども此譯このわけを話しなば得心とくしんも致す可きかなれども其品は今十五兩と廿兩見せねば出來難きゆゑ貴殿十五兩才覺さいかくし給へ夫にて誂あつらへ主の方は片付かたづけべしと云ふに勘兵衞此節このせつは三兩とても出來難しとて請付うけつけねば彦兵衞も餘りの事に思ひ夫にては是非に及ばず御公儀次第と挨拶にぞ及びける茲に勘兵衞の妻お貞は元もと男勝をとこまさりの女なりしが先の本夫をつとに別れしより勘兵衞に六年程連添つれそひ居て此度の一件を聞きゝ家内中の衣類いるゐを質入しちいれし又は諸處ヘ無心もなし其上に博奕ばくちの堂敷だうしきを取らば十兩は出來申さん夫を彦兵衞へ渡して頼み給へ御番所へ度々たび〳〵出いでて若もしも舊惡きうあくが知れなば爲に成るまじと云へども運命うんめい盡つきたる勘兵衞故其事は少しも氣遣ひなし何どうして〳〵身代が大切大金を出いだしてなるものかと云いふ中うちに早三日立て呼出の日と成り双方さうはう罷出まかりいでしに勘兵衞其方は何故金子調達致さぬぞ今日中に彦兵衞へ渡せと有りし時仰おほせの如ごとく樣々さま〴〵才覺さいかく仕つれども急に整とゝのひ候はず何卒日延ひのべの儀を願ひ奉つると云ふを稻葉殿以ての外叱しかられ其方船持ふねもちと彦兵衞が口上に有り船を賣りても差出すべきに不屆なりと申さるれば勘兵衞私し病氣に付き不自由ふじいうにて船乘ふなのりも出來難く其故別べつして難澁なんじふ仕つり候間兎角とかく出來兼ね恐入候と申を汝出來ぬと言て彦兵衞は如何どうして其品を持主へ返かへすべきや此上このうへ入牢じゆらうと成なつても出さぬ所存しよぞんかと申さるゝに勘兵衞恐れ入り御慈悲おじひを願ひ奉つると平伏へいふくして居るゆゑ淡路守殿如何に彦兵衞其方へ申込こんだる事でも有るかと尋ねられしかば彦兵衞這出はいいで勘兵衞儀不如意ふによいに付つき金子出來兼當分の内問屋より右の品借受かりうけ追おつて返濟へんさい致さんと申し候に付私し儀問屋に借金しやくきんも是あり切せめて當金の十五兩も遣つかはさねば出來難き旨むね申斷ことわり候と申立るを聞かれ夫は奇特きどくなる申分ぶん夫さへ得心とくしんせぬは合點がてんの行ゆかぬ奴なり手錠てぢやう申付明日より三日の内に三十兩調達致せと猶々なほ〳〵嚴敷申渡されけり是偏ひとへに淡路守殿勘兵衞を怪敷あやしく思はれし故なりとぞ其頃そのころ海賊かいぞく二人召捕れ詮議せんぎ有ありしに是等は八艘飛さうとびの與市よいちと云ふ者の子分にて海賊となりし由申ける故其與市は何方いづかたに住居すまひ致すやと糺たゞされしに海賊共七八年以前泉州せんしう堺さかひ又は安藝あきの宮島みやじま阿州あしう尼子あまこの浦うらに相住あひすみ海中にて西國大名の荷物船へ飛乘とびのり賊を働はたらき候が向うに手利てきゝの侍士さぶらひあり疵を請うけ夫より働き不自由に相成候とて海賊を廢やめし故今は何方いづかたに住居すまひ仕つるや存ぞんじ申さずと答こたへにより其與市の疵は如何樣の大疵にて働き不自由になりたるぞと云いはるれば海賊共額ひたひより口へかけ一ヶ所小鬢先こびんさきより目尻迄めじりまで二ヶ所左の腕うでより臂ひぢを切られ右の小指一本之なく候と云を聞かれ與市は何方いづかたの生れ又年は何歳位いくつぐらゐの男なるや彼の者共考かんがへて歳は四十六元もと大坂生れと承まはり候と申故夫にて宜よし早速さつそく勘兵衞を召捕めしとれと同心を東堀ひがしぼりへ向むけられける勘兵衞は斯かゝる事の有ありとは知らず明日御番所へ出いで未いまだ金は出來ぬと云いはば入牢となるに疑ひなしと思ひ彦兵衞方へ掛合かけあひ十兩渡す對談たいだんに致せし所俄にはかに捕方とりかた踏込ふみこんで勘兵衞を本繩ほんなはに掛かけ奉行所へ連行つれゆかるゝゆゑ當人は云ふに及ばず家内の者大いに驚き此度の一件に付て召捕るゝ筈はずなしと怪あやしみ居たるに勘兵衞は頓やがて白洲へ引出ひきいだされ彼の海賊共と押竝おしならべての吟味ぎんみに付つき双方さうはう顏かほを見合せて驚きし樣子を稻葉殿には見て取とられ如何に海賊共與市は手に入いりたり此者に相違さうゐ有あるまじと云はれし時詞ことばを揃そろへ與市に違ちがひなき由申ければ淡路守殿如何に勘兵衞其方儀豫かねて怪敷あやしき廉かども之これ有あるにより取調とりしらべに及びし處海賊の與市に違ひなし眞直まつすぐに舊惡を申立よとありしに勘兵衞是は南無三と思ひしが隱かくせるだけ隱さんと私し事與市と云いひたる覺おぼえ之なし元來もとより勘兵衞と申候と陳ちんずるを稻葉殿イヤ汝なんぢ隱かくすとも茲に居る海賊共は汝が手下てした同類どうるゐなりと申し汝先年船中にて働はたらきし時手疵を負おひ右の小指こゆびなきは確たしかなる證據なり與市白状致せと申さるゝに勘兵衞は空嘯そらうそぶき如何樣に御尋ねあるとも私し儀ぎ與市と申たる儀御座なく候と白状なさねば猶なほ海賊共に尋たづねらるゝに與市に相違之なくと申にぞ淡路守殿勘兵衞に對むかはれ其方面體めんていの疵は何人なにびとに切きられたるや有體に申せと睨にらみ付らるゝに勘兵衞も命の際きはなれば何分白状なさず因て先入牢申付られ劇敷はげしく拷問がうもんに及びしかば終に舊惡きうあく悉皆こと〴〵く白状しける故右海賊共と一處に引廻ひきまはしの上うへ獄門ごくもんに行はれたり然されば勘兵衞の妻は今更いまさら詮方せんかたなく漸々やう〳〵に首くびを貰もらひて念頃ねんごろに弔とふらひしとかや


第三回


 因て勘兵衞の妻お貞は倩々つく〴〵考ふるに彼の彌七が取迯とりにげの事より出入となりて夫をつと勘兵衞殿御仕置しおきとなられしなり彌七が事さへなければ舊惡きうあく露顯ろけんもなすまじきものを如何にも口惜くちをしき事哉ことかな此上は彌七を見當り次第しだい討取うちとつて夫に手向たむけんと思ひ悴せがれ太七を呼よび勘兵衞殿は其方の爲ために實じつの親には有ねども六ヶ年の間あひだ世話せわになりたれば親に違ひなし彌七を見付次第討取うちとつて佛へ手向たむけずば人と云はぬぞと申渡すに太七は此時十八歳に成なれども餘り義心ぎしん少すくなき生うまれなれば一向其心なし然れども母の命めいを背そむき難く委細ゐさい承知せしと云いひて夫より種々さま〴〵に心を付て諸方を尋ね常々つね〴〵新町へも入込いりこみ居たりしに彌七は勘兵衞が御仕置おしおきとなりたる事を聞きゝ最早もはや恐おそるゝ者なしと四五日以前に大坂へ立戻たちもどり久々にて一晩ばん遊あそばんと其年七月十五日の夜新町の茶屋へ這入所はひりしところを太七は見付早々立歸つて母に斯と咄はなすに母は大いに悦よろこび勘兵衞が脇差わきざしを太七に指さゝせ其身は出刄庖丁でばばうちやうを隱かくし夜半頃新町橋に到いたりて待受まちうけたり彌七は斯る事とは夢ゆめにも知ず其夜は大いにざんざめき翌朝よくてう夜明方よあけがたに新町の茶屋を立出橋へ掛る處を母親お貞は斯かくと見るより夫それ切きれよ夫それ押おさへよと云いふに太七は慄ふるへ居て役に立ざれば母親は衝つと進みより通とほり違ちがひに太七が帶たいしたる脇差を引拔ひきぬき彌七の眉間みけんより眼へ掛かけて切付たれば彌七はヤレ人殺し〳〵とて迯にげんとするを疊たゝみかけて右の腕を切落きりおとすに慟どうと倒たふるゝ處を太七は慄ふるへながら取て押へる中町内より人々立出樣子を聞きゝ母子諸共おやこもろとも先番屋へ引上ひきあげ勘兵衞が後家の家主を呼よび段々だん〳〵掛合かけあひの上屆に及びしかば檢使けんし出張しゆつちやうにて勘兵衞後家ごけ并ならびに太七が口書くちがきを取直に稻葉淡路守殿吟味に及ばれし處後家は謹つゝしんで夫をつと勘兵衞舊惡の事は私し共一向存ぞんじ申さず六年以前夫婦と相成あひなりし以來更さらに惡事あくじも之なく人の世話せわも致し信心しんじんを第一と心掛こゝろがけ私くし共に目を掛勞いたはり呉くれ候間惡人とは少すこしも心得ず又彌七儀は私しには少し身寄みよりの者故勘兵衞儀奉公の受人うけにんと相成候處渠かれが取迯とりにげより事こと發おこりて終に御仕置に相成候得ば御公儀樣ごこうぎさまには御道理ごもつともの御仕置にも有べきが私しどもの身には彌七は本夫をつとの敵かたき故ゆゑ討取うちとり候に違ひなく如何樣の御仕置に仰付おほせつけられ候とも御恨おうらみとは存じ奉つらずと思ひ込こんで申を聞きかれ淡路守殿大いに感かんじられ彌七事金高の品を持迯もちにげ致し主人彦兵衞に難儀なんぎを掛かけ夫が爲勘兵衞事番所へ出たる故舊惡きうあく露顯ろけんして御仕置と相成事畢竟ひつきやう彌七より事起おこりたれば同人儀は召捕めしとり次第仕置にも行ふ者なる故其方共へ咎とがめ申付るに及ばず偖々さて〳〵女には珍敷者めづらしきものなりと大いに賞美しやうび致されける是より後お貞は女伊達をんなだてとなり大の男の中へ立交たちまじりて口を利きくに物事能分別し太七を船乘ふなのりにして船を補理こしらへ名を勘兵衞と改あらためさせ其頃そのころ名高なだかき女にありしとかや


第四回


 偖又堂島だうじまの小間物屋彦兵衞は彌七の請人うけにん勘兵衞事御仕置に成なりしかば大いに驚きしが是非なく三十兩の品を辨償わきまへ出入先は濟すませしかども此一件より勘兵衞の舊惡きうあく顯あらはれし事甚はなはだ不便ふびんに思ひ居たるに彌七も又殺されしと聞きゝ何となく世間も狹せまき心になり其上そのうへ借金しやくきんも多く面白おもしろからねば一先江戸へ下くだり何をして成なりとも金の蔓つるに取付かんと工夫くふうをなし女房にも相談さうだんの上仕合しあはせ能よくば其方共の迎むかひに來るべしと云含いひふくめ留守の入用にと金二十兩を渡し十二歳と九歳の男子を女房に預あづけ尚なほ又江戸表より一年に五六兩づつは送る約束やくそくにて其身は三十兩懷中くわいちうし享保三年の冬ふゆ東あづまの空そらへ下りたり彦兵衞が女房は至つて縫物ぬひものに妙めうを得たる故諸處より頼まれ相應さうおうに縫錢ぬひせんをも取とり其上彦兵衞より請取うけとりし金もあれば不自由なく消光くらすに付つけ本夫をつとの開運かいうんをぞ祈りける偖彦兵衞は江戸の知己ちかづきを便たよりて橋本町一丁目の裏店うらだなを借かり元來ぐわんらい覺おぼえたる小間物を商あきなひ未だ東西も知らぬ土地なれども櫛笄簪くしかうがひの荷にを脊負せおひ歩行あるくに名に負おふ大都會なれば日本一の貧まづしき人もあれば又また双ならびなき金滿家かねもちもありて大名も棒手振ぼうてぶりも押並おしならんで歩行あるくを構かまはぬ繁昌はんじやうの地故出入場はなけれども少しづつの錢儲ぜにまうけは有あるにより己一人身と云いひ元來ぐわんらい大坂生れの事なれば儉約けんやくして消光くらす中うち段々得意場も出來始はじめ廿兩ばかりの代呂物しろものも四年目には五六十兩の代呂物しろものを仕込大坂へ年に十五六兩も送りて手許てもとに十廿の金も有る故彌々いよ〳〵面白く稼かせぎしが今年ことしは代呂物も百兩程仕込しこみ金も百兩位はある樣に成しかば大坂へ歸かへらんと思ひしに昨日今日と暮くらす中うち早はや五年の月日を送おくりける或日兩國邊より歸かへる途中とちう俄にはかに夕立ゆふだち降來ふりきたり雷はたゝがみ夥多敷おびたゞしく鳴渡なりわたれども雨具あまぐなければ馬喰町の馬場の脇わきに出格子でがうしの有る家を幸ひに軒下のきしたに立停たちどまり我が宅たくも早二三町なれども歸ること叶かなはず雨あめに濡ぬれて居るを格子の中より六十餘の人品じんぴん能よき老女らうぢよ聲こゑを懸かけ其許そのもと庇ひさしの下に居るとも濡ぬれ給ふべし此方へ入いりて雨を凌しのがれよと念頃ねんごろに申せしかば彦兵衞大いに悦よろこび然さらば仰せに隨したがひ暫時しばし雨舍あまやどりを願はんと家へ這入はひれば下婢をなごは茶ちや煙草盆たばこぼんなどを持出て挨拶あいさつなし斯かう雷らいの鳴なるに女ばかりにて淋さみしき折柄をりから故ゆゑ晴はれるまで咄はなし給へと取卷とりまきしかば彦兵衞は元來辯舌べんぜつ能よく上方かみがたの名所又は女郎屋の體等さまとう面白おもしろく咄はなすにより老女も興きように入り其許そのもとには何方に住宅すまひ致され候やと尋ねけるに私しは御近處橋本町願人ぐわんにん坊主ばうずの隣となりに罷在まかりありて小間物商賣あきなひ致し候と云ふを聞て幸ひ銀ぎんの松葉の小ちひさき耳掻みゝかきが欲ほししと有る故直段ねだんも安く賣うり彼是かれこれする中に雨も止やみしかば暇乞いとまごひして歸かへりけり


第五回


 偖小間物屋彦兵衞は翌日よくじつ手土産てみやげを持もち馬喰町馬場の脇わきなる彼の女隱居いんきよの許もとへ行ゆき昨日きのふ雨舍あまやどりの禮を言いひて直すぐに商賣あきなひに出しが是より心安くなり宵よひの内など咄はなしに行ゆき近處きんじよへ出入場の世話をして貰ひけるが或時貴君あなたの御本宅は何方いづかたに候やと聞きけば老女私は馬喰町二丁目米屋市郎左衞門と云ふ旅籠屋はたごやの隱居いんきよなれども甥をひが居る所は家内も大勢おほぜい殊ことに客の有る時は百人も押込おしこむ故ゆゑ逆上のぼせあがりて血の道も起おこす程の騷さわぎ成なれば私ばかり物靜ものしづかに消光度くらしたくと別宅致せしなりとの咄はなしを聞きゝ御本宅へも御出入を仰付おほせつけられ下さるべしと申故米屋へも出入となり其上そのうへ急きふに出物などにて金子に差支さしつかへる節其は二三十兩又は五十兩と時借ときがりも致し尤も其都度々々そのつど〳〵速すみやかに返濟へんさいなす故隱居も彦兵衞が堅かたき事を知て何時にても用達ようだてて呉るのみならず諸處ヘ引付ひきつけ出入場も多く出來るに付明暮あけくれ立入たちいり隱居いんきよの用事とあれば渡世とせいを休やすみても致し居たり或時雨天うてんにて彦兵衞は商あきなひを休やすみ隱居の方かたへ遊びに參りしに難波戰記なんばせんきの本ほん有あるを彦兵衞元來本好故ほんずきゆゑ取上とりあげ見れば鴫野今福しぎのいまふくの合戰なり是は古郷こきやうのことに付土地の方角はうがくも委くはしければ面白く覺おぼえ口の内にて讀居よみゐたるを見て隱居少し讀よんで聞きかせられよと申しければ心得たりと聲を上あげて讀よむに辯舌べんぜつも能よく支つかへると云ふ事なく佐竹家の侍士さむらひ大將澁江内膳しぶえないぜん梅津うめづ半右衞門外村とのむら十太夫等先陣に進み一の柵さく二の柵を打破うちやぶり井上五郎左衞門飯田左馬助等いひださまのすけとうを討取うちとり猶なほ三の柵片原町なる大學だいがくが持場迄もちばまで此勢このいきほひに崩くづれんとする處へ本城より加勢かせいとして木村長門守重成きむらながとのかみしげなり後藤ごとう又兵衞基次もとつぐ秀頼公の仰おほせに隨ひ繰出くりいだしたりと讀よみて彦兵衞莞爾につこと笑わらひながら是よりは佐竹樣大負おほまけと成て御家老衆ごからうしう討死うちじに致され佐竹左中將義宣公よしのぶこうも危い處へ佐竹六郎殿駈付かけつけて討死致されたればこそ佐竹樣危き命を助たすかり給ひしと咄はなしければ隱居は今迄面白く聞居きゝゐたりしが彦兵衞が咄はなしを耳にも入いれず勝手へ立たつて何やらん外の用事をして居るゆゑ彦兵衞も本ほんを止やめ煙草たばこを呑のんで色々咄を仕掛るに隱居は兎角とかく不機嫌ふきげん故ゆゑ手持不沙汰てもちぶさたに其日は立歸たちかへりしが彦兵衞は如才じよさいなき男なれば偖佐竹樣の勝かつた所を悦よろこび負まけた所を嫌いやがるは何か謂いはれ有るべしと思ひ翌日よくじつは馬喰町の米屋へ立寄たちより小間物を取廣とりひろげ少しの商あきなひを爲しながら市郎左衞門の女房に對むかひ御隱居樣には御年は寄給よりたまへど御人柄おひとがら勝すぐれ常の御方とは見え申さず如何なる御由緒ごゆゐしよに候やと尋たづねしに女房笑ひながら此方こちらに居給へば御不自由はなけれど佐竹樣の御年寄おとしよりを廿年勤つとめられ只今以て三人扶持ふちづつ參る故徐しづかに消光くらすのが望みなりとて馬喰町馬場に隱居して居給ふと委細ゐさい咄はなしけるを聞て彦兵衞大いに後悔こうくわいなし道理だうりこそ佐竹家の敗軍はいぐん心に適かなはず仕方こそ有るべしと夫より本屋を尋ね天安記てんあんきと云いへる書物を借出かりいだし隱居の方へ行て咄をするに一向機嫌の直なほらぬ樣子なれば彦兵衞も金庫かねぐらをなくしてはならずと種々いろ〳〵に機嫌を取とり面白おもしろい本を御覽ごらんに入申さんと存ぞんじて持參致したり少し讀よみ申べし御聞なされよと佐竹殿小田山より落おとし掛かけ天安てんあんが籠こもりたる小田の城を一時に攻落せめおとしたる佐竹家の武功ぶこうを辯に任まかせ讀上ると隱居は大いに機嫌直り豫かねて小田天安を討亡うちほろぼし給ふと云事は聞たれども本を見たる事なきに能よくこそ珍敷めづらしき事を聞きかせられしと打悦び詞の和やはらぐを見て大坂鴫野しぎのの合戰は上杉樣負軍まけいくさになる處を佐竹樣御歳六十になり給ひながら薙刀なぎなたを以て向ふ敵に渡わたり合あひ八九人薙伏なぎふせられしかば諸軍此勢ひに乘て追討おひうちしたる故木村も後藤も遂に叶かなはず柵の中へ迯込にげこみしが共大坂の者には夫にては面白からぬに付木村が十分に勝かちし樣に書かきたると思はれ候と辯を震ふるひて云直いひなほしければ年は取ても女の事故殊ことの外ほか機嫌能きげんよく緩々ゆる〳〵彦兵衞に馳走なし前々の通り懇意こんいに出入をさせたりける或時彦兵衞隱居の方へ來り淺草觀音地内の小間物屋に品物しなもの有る故仲間内の直踏ねぶみには十五兩から九十兩まで付上つけあげたれども能々よく〳〵見るに百兩に買ても二十兩位は利の有る代物しろものなれば私し百兩と入札にふさつ致いたし落札おちふだになりたる故十兩手附てつけを遣つかはし置おきし處明日九十兩持參致し代物しろものを請取うけとり直すぐに賣ても十四五兩は儲まうけ有あり徐々そろ〳〵賣ば三十兩は屹度きつと利の有る品何卒九十兩御貸下さるべし直に御入用に候はゞ糶拂せりはらひにして指上さしあげ申べし少々せう〳〵手間取てまどりても苦しからずば代物を御預け申て段々御勘定ごかんぢやう致さんと申に隱居は是を聞きゝ偖々困こまつた事哉ことかな先月なれば早速用立申さんに當月は霜月しもつきゆゑ何分なにぶん貸難かしがたく氣の毒なりと申を夫は何故なりやと尋るに然れば豫かねて御門跡樣ごもんぜきさまへ百兩上あげたいと思ひ御屋敷より頂戴ちやうだいの御目録おもくろく又は入ぬ物を賣拂うりはらひ漸々やう〳〵百兩整とゝのへし故此御講おかうの内うちに上る願ひ是を見給へと百兩包を箪笥たんすの抽斗ひきだしより取出して見せけるを彦兵衞大いに感かんじ偖々御信心なる事尋常なみ〳〵の者には勿々なか〳〵出來難き御事なるを能よくこそ心掛給ひしと甚いたく賞美しやうびなし外々にて才覺致候はんと申ければ隱居は暫く考へ脊負葛籠せおひつゞら一ツ取出し中より猩々緋しやう〴〵ひ虎とらの皮かは古渡こわたりの錦にしき金襴きんらん八反たん掛茶入かけちやいれ又は秋廣あきひろの短刀五本骨ほんぼねの扇あふぎの三處拵ところごしらへの香箱かうばこに名香めいかう品々しな〴〵其外金銀の小道具を見せ是を質に入れたれば小百兩は貸かしさうなものなりといひければ彦兵衞大いに悦よろこび當分御入用なくば御貸下さるべし用辨次第早速御返し申さんと日暮過ひくれすぎに右の品々を借請かりうけ我家へ立歸り家主八右衞門に頼み右の品を質物しちもつに入れ五十兩借請かりうけ其身も二十兩程は貯たくはへたれば少しの事は如何樣にも成なるべし明あけなば小間物を引請ひきうけ一儲まうけせんと樂み夜の明るを待居まちゐたり扨又米屋の見世にては田舍ゐなかより大勢客が泊とまり込こみ手が廻まはらぬ故隱居所の下女を借かりて働はたらかせしが其の夜は遲おそく成なりしかば翌朝歸かへしけるに早はや辰刻頃いつゝごろなるに隱居所の裏口うらぐち締しまり居て未だ起ざる樣子なれば大いに怪あやしみ何時いつも早く目を覺さまし給ふに合點がてん行ゆかずと無理にこぢ明あけて這入はひり見れば這こは如何に隱居は無慚むざんにも夜具の中に突殺つきころされ朱あけに染そみて死したればアツとばかりに打驚き惘あきれ果てぞ居たりける


第六回


 斯かゝりし程に下女は慌狼狽あわてふためき近所きんじよの人々に聞ども誰たれ知しる者もなく早速さつそく米屋こめやへも知らせければ市郎左衞門は云に及ばず我も〳〵と駈付かけつけ朱あけに染そみたる死骸を見て皆々みな〳〵茫然ばうぜんとして言葉もなかりしが市郎左衞門涙なみだを拂ひ何ぞ紛失ふんじつの物はなきやと吟味ぎんみに及ぶ所ところ豫々かね〴〵大切にせし脊負葛籠せおひつゞらの無は盜まれたりと覺えしと云時夫は昨日夕方に彦兵衞殿參られ御隱居樣ごいんきよさまに願ひお金の代りに四五日拜借はいしやくして行ゆかれしと下女が詞ことばに其そは又如何の譯成わけなりと問ば昨日彦兵衞殿金子の無心を申せし時百兩包を出して見せられ此お講中かうぢうに門跡樣もんぜきさまへ納る故ゆゑ貸事かすこと叶かなひ難し其代りに是を貸かさんとてお葛籠つゞらを貸給ひしが其お金は如何やと申故箪笥たんすの引出を明て見るに其金そのかねなければ偖さては盜賊たうぞくの業わざに違なし然れ共其金の在所あるところを知る人はなき筈なり夫とも誰たれぞ金子きんすを見たらしき者はなきやと聞に下女は考かんがへ夫も彦兵衞殿より外に見た者は無と申故ゆゑ偖さては下女の留守を知て奪うばひ取たるに疑うたがひなし左右とかく此儘このまゝには指置難しとて早々さう〳〵其段訴うつたへ出檢使を願ひしかば程なく檢使けんしの役人やくにん入來いりきたりて疵所きずしよを改め家内の口書くちがきをとり何ぞ心當りはなきやと尋たづねの時右彦兵衞が事を委細ゐさいに申立しにぞ是これ又また町所ちやうところを書記かきしるし南町奉行所へ立歸り大岡殿へ申立ければ早速さつそく召捕めしとるべき旨申渡されしにより同心二人直すぐに橋本町へ立越たちこえし所ところ彦兵衞は他行たぎやう致いたし淺草へ罷越まかりこしたる由ゆゑ途中に待受しを知らず彦兵衞は金の蔓つるに有り付たりと悦よろこび勇み望みの荷物を請取うけとり是これを那あゝして斯かうしてと心に悦よろこび我が家やを指て立歸たちかへり淺草御門迄來懸る處を上意と聲こゑ掛かけ忽たちまち召捕れしかば彦兵衞ハツと驚きしが偖は買付たる小間物は盜物ぬすみものなりしかと思ひ馬喰町の番屋ばんやへ上られ早々橋本町へ申遣しければ家主いへぬし始はじめ長屋の者共駈付彼是の世話をなし又は下帶したおび鼻紙等迄はなかみとうまで心付こゝろづけ氣きを丈夫に持給もちたまへ大方物の間違ならんにより頓やがて清き身體になるべしと力を付などする中うち彦兵衞は奉行所へこそ引れけれ


第七回


 偖さても小間物屋彦兵衞は其身そのみ罪つみなくして享保きやうほ八年霜月しもつき十八日入牢じゆらうとなりしが同廿一日馬喰町市郎左衞門并に下女留隱居所いんきよじよの隣家りんかの者町役人等迄呼出有りて大岡殿市郎左衞門と呼上よびあげられ其方伯母をばは何歳に相成やと尋たづねらるゝに市郎左衞門平伏へいふくして六十五歳に相成候と申立ければ夫程それほどの老人と云殊に女の身なるに何故なにゆゑ一人にん指置さしおきしやとあるに市郎左衞門其儀は同居仕つるやうに申候へ共私し店の儀は大勢おほぜいの泊とまり客きやく入込いりこみ騷さわが敷しきを嫌きらひ向島か根岸邊へ隱居いんきよ致度いたしたき由よし望のぞみ候へども漸々やう〳〵勸すゝめ近所へ差置下女一人付置候處ところ其日そのひ野州邊やしうへんより男女の旅人五六十人着し其外そのほか泊とまり客きやく大勢おほぜい之これあり凡百人ばかり故ゆゑ勿々なか〳〵手て廻まはり兼るに付隱居所の下女を借て手傳てつだはせしに夜よも更ふけし儘まゝ其夜そのよは下女事私し方へ泊り翌朝よくてう客きやくの給仕きふじなどを仕舞て立歸り候處右の騷動さうどう故ゆゑ大いに驚き候由を申立しかば大岡殿下女げぢよ留とめに向はれ只今市郎左衞門が申立たて通どほりなりや又彦兵衞が隱居いんきよを殺し金子を奪うばひ取し者とは如何いかゞして知りたるやと問れしにぞ留は恐おそる〳〵顏を上あげ彦兵衞事常々隱居所へ立入り金銀を隱居いんきよより借請かりうけし事も御座りし處去る十七日右彦兵衞參り小間物こまものの拂はらひを買候に百兩りやう程ほど入用にふよう故ゆゑ九十兩ばかり一兩日りやうじつ借度かりたき由よしを申せしに隱居は暫時しばらく考かんがへ正直なる彦兵衞なれば用立度は思へ共ども豫かねて心願にて御門跡樣ごもんぜきさまへ百兩上度あげたくと漸々やう〳〵調とゝのへ此お講かうの中に指上るに付今は出來難き由を斷ことわり箪笥たんすの抽斗ひきだしより右の百兩を出して見せしに彦兵衞も隱居いんきよの信心を譽ほめ外々ほか〳〵にて才覺さいかく致いたさんと申時とき隱居いんきよ脊負葛籠せおひつゞらを取出し是を質に置れなば五六十兩は貸かし申べしと云し時夫は忝かたじけなしと持て歸り候面體めんてい殊ことの外ほか怪敷あやしく存ぞんじ候と申ければ大岡殿市郎左衞門は如何いかゞ存ぞんずるやと尋られしに市郎左衞門其儀は日頃彦兵衞柔和にうわなる男には候へども舊もと大坂おほさか生うまれゆゑ關東者と違ひ心根こゝろね怖敷おそろしく十が九ツ彦兵衞に違ちがひ之なしと申立るを能々よく〳〵勘考かんがへ見みよ質物しつもつを貸て遣す程の懇意こんい成なるをまさかに忍び込こみ殺害せつがいは致すまじと思はるれど夫共彦兵衞に相違さうゐなきやと念を押るゝに市郎左衞門は一途づに彦兵衞と思ひ込こみ其その邊へんも段々だん〳〵内吟味仕ないぎんみつかまつりしに右百兩は隱居儀いんきよぎ竊ひそかに貯たくはへ置しを十七日朝の内うち封金ふうきんに拵こしらへ候へば外に見たる人は決して御座なく彦兵衞にばかり見せたる事に付何分なにぶん怪あやしく彦兵衞儀を御吟味遊ごぎんみあそばされ伯母をばの敵かたき御取下おんとりくだされ候樣にと申ければ大岡殿も道理もつともに思はれ其後彦兵衞を呼出よびいだされし上其方そのはう常つねに立入て懇意こんいに致し金銀迄きんぎんまで借受かりうける程の隱居いんきよを何故なにゆゑ殺害せつがいに及び剩あまつさへ百兩の金を奪ひ取りしぞ不屆至極ふとゞきしごくなり眞直まつすぐに申せと問糺とひたゞされしかば彦兵衞は意外の事に思ひ私し儀ぎ日頃ひごろ恩おんを請うけ候隱居を何とて手に掛け申べきや其儀そのぎは一向かう覺おぼえ之なくと申に大岡殿然共されども隱居いんきよが貯たくはへたる百兩の金を見たる事有や但たゞし知らぬかと申されければ其百兩は存じ居候私し儀ぎ淺草あさくさに於て小間物の拂ひ入札仕にふさつゝかまつり私し札に落候故十兩手附を遣つかはし外に廿兩持合もちあはせ有れども七十兩足たり申さず候間五六日の處七八十兩借用申度と隱居いんきよへ申込候處當金百兩有れども門跡樣もんぜきさまへ納る故ゆゑ用立難ようだちがたしと是非なく相斷あひことわり候に付外にて手段せんと暇乞いとまごひ致いたせし時質物を貸かし呉くれ候間あひだ隱居いんきよの志操こゝろざしを感じ入いり背負せおひ葛籠つゞらを預り家主を相頼み五十兩の質物に入れ外にて金三十兩借請かりうけ淺草あさくさへ參り荷を引取ひきとり歸かへり候途中にて召捕れ其節そのせつ彼かの隱居人手に懸りし事も承まはり重ね〴〵大いに驚き申候と言立るを大岡殿怪敷あやしく思おもはれ右百兩は十七日の朝あさ包金つゝみきんに拵こしらへ夕方其方に見せ隱居いんきよは血ちの道にて宵から寢たと有れば外に右の金を知る者なし依ては人殺ひとごろし盜賊たうぞくの段だん有體ありていに白状致せと嚴敷きびしく申されけれども決して右體の惡事あくじ致いたしたる事なしと申切きる故ゆゑ是非なく拷問がうもんに掛かけ日夜にちや牢問らうとひ嚴きびしければ苦痛くつうに堪兼たへかね寧いつそ無實むじつの罪を引受此苦みを免れんと覺悟かくごをなし如何にも隱居いんきよを殺し百兩奪ひ取候に相違之なくと白状はくじやうに及び口書こうしよ爪印つめいんをなせしにより終に死罪の上獄門ごくもんとぞ成にける(此彦兵衞牢内らうないに居て煩わづらひ暫時ざんじの中に面體めんてい腫脹上はれあがり忽ち相容變りて元の體かたちは少しもなかりしとぞ)


第八回


 却かへつて説淺草福井町に駕籠舁かごかきを渡世として一人は權三といひ一人は助十とよび二人同長屋に居て貧まづしき暮くらしなれども正直ものといはれ妻子をもよく養やう育しけるが米屋市郎左衞門が伯母をばの殺されたる霜月しもつき十七日の夜麻布邊へ客きやくを乘行のせゆき大おほいに遲おそくなりて丑刻やつどきごろ福井町の我が家へ歸り來るに誰やらん天水桶てんすゐをけにて物を洗あらふ樣子なれども暗くらき夜なれば確とも知れず寒さむさは寒さむし足早に路次口へ來て戸を叩たゝくに家主勘兵衞は口小言くちこごとたら〳〵立出たちいで今夜こんやは常よりも遲かりしぞ以後は少ちと早く歸る樣に致されよと睨付ねめつけて木戸を開ける故兩人は渡世とせいの事なれば那の樣やうに云ずとも宜さうなものと思ひながらも商賣柄しやうばいがらなれば御不肖ごふせうあれ以來御世話になるも御氣おきの毒どくに付つき鍵かぎを御借おかり申置おき家内かないの者に開閉あけたてをさせ申さんと云所へ相長屋あひながやの勘太郎立歸り路次の開しを幸ひに直と入るを見て家主勘兵衞は莞爾々々にこ〳〵と笑ひかけ勘太郎殿何所へ行れしやなどと何の咎もなく機嫌能きげんよく咄はなしながら家うちに入るを見て權三助十の兩人の大いに腹はらを立たて此方こちらは貧乏びんばふしても明白手堅しらきちやうめんの駕籠舁かごかき勘太郎は商賣なし年中ねんちう博奕ばくちに騙かたりなどを渡世に暮せど大屋へ鼻藥はなぐすりを遣やる故ゆゑ何なにをしても小言を言ず此町内にて評判の根生惡こんじやうわるの家主勘兵衞め退役たいやくでもせよかしと呟つぶやきながら家に入今宵こよひは幸ひ旦那を乘のせて六百文ヅツに有付たりと一盃ぱい酒さけの樂たのしみに快よく打臥うちふしけるが早夜も明し故助十は權三を起おこし今朝は寒さむければ早く起て朝湯あさゆへ行ゆき暖あたゝまらんと呼覺す聲を聞權三も反起はねおき打連立うちつれだちて表へ出いで昨夜ゆうべ此こ所こにて何か洗し樣子なるが夜中と云いひ合點がてん行ゆかずと見れば天水桶てんすゐをけの側そばは血に染そみ中なかの水も淡紅もゝいろになりて居る故不思議に思ひ我々が歸ると勘太郎も直すぐに續つゞいて這入はひりしが慥たしかに勘太郎なるべし喧嘩の戻りか但たゞし追落おひおとしでもしたか生得しやうとく惡黨あくたうなれば夜稼よかせぎをなすも知れずと噂うはさしながら錢湯せんたうへ行しに朝湯も冬は込合こみあひ淨瑠璃じやうるり念佛ねんぶつ漫遊唄そゝりうた中なかに一段へ足を踏掛ふみかけながら昨夜ゆうべ馬喰町に人殺の沙汰有しが聞かれしやと尋るに一人の男其事は今朝けさ見舞みまひに參りしが米屋の女隱居をんないんきよが殺され百兩盜まれたり此事追付御檢視の御出なるべしと云傍より又一人の男夫は何時頃の事なるやと問とふに然されば子刻こゝのつ時分じぶんに隱居小用に起たるを隣の女房が見たと云ば其後そののちの事ならんとの噂うはさを聞權三助十は目を見合せ心に合點うなづきつゝ程なく我家へ歸り昨夜ゆうべの咄はなしは勘太郎に極きはまつたり是から錢の遣ひ方に氣を付ろと兩人は人にも語らず心を付居たりしに十日ばかり立と博奕ばくちに廿兩勝かちたりとて家の造作を始しが押入おしいれ勝手元迄かつてもとまで總槻そうけやきになし總銅壺そうどうこも光輝ひかりかゞやかせしかば偖こそ彼奴きやつに違ひなしと思ふ中うち小間物屋彦兵衞と云者いふもの隱居いんきよを殺し金百兩奪ひ取りしとて御所刑おしおきに成しとの噂を聞權三助十の兩人は怪敷あやしく思ひ橋本町八右衞門店たなにも駕籠屋かごや仲間なかま有ある故彦兵衞が樣子を聞に平常つね〴〵正直しやうぢきにて匇々なか〳〵人殺ひとごろしなどなす者に非ず全く拷問がうもん強つよく苦き儘まゝに白状なし獄門ごくもんに成たりと云ふ評判ひやうばんにて大屋殿も三貫文の過料くわれうを取とられし由併し大屋殿は惡くない人故地主を呼れ退役たいやくには及ばぬと仰渡おほせわたされ一件相濟たれども彦兵衞は愍然かあいさうな事をなしたりと咄はなすを權三助十は聞きゝ彌々いよ〳〵勘太郎を怪く思ふ中勘太郎は家主いへぬし始はじめ長家中へも少しづつの金を貸與かしあたへし故皆々勘太郎を尊敬そんきやうすれども權三助十ばかりは渠かれに一向物をも言ず居たりけり


第九回


 茲に又彦兵衞の妻子は大坂に殘り居ても江戸表より折々三兩五兩づつの金を送おくり商あきなひ向むきも追々都合よき旨むね便たより有に付頓やがて金銀を貯たくはへ歸り來らんと樂たのしみ待居たる折柄をりから店請たなうけの方より今度彦兵衞の一件を委細くはしく知しらせ來りしかば妻子は大いに歎なげき哀かなしみしが如何にも其知らせを不審いぶかる人ひとの心は旦夕あしたゆふべに變るものとは云ども彦兵衞殿は平常つね〴〵餘あまり正直過しやうぢきすぎて人と物言など致されし事もなきお人なれば盜みは勿論もちろん人ひとを殺す樣なる事のあるべき筈なし何共なにとも合點がてんの行ぬ儀なりと云を子息彦三郎は漸く十五歳なれども發明はつめいにして孝心かうしん深ふかき故母の言葉を倩々つく〴〵聞きゝ落おつる涙を押へ是迄これまで父樣とゝさまの歸り給ふを待居たる甲斐かひもなく罪つみ有ある人となつて御仕置おしおきと聞ふる時は此大坂中に評判ひやうばんを受るも口惜くちをしと父樣はとても浮うかまれまじきにより私し事こと早々さう〳〵江戸えどへ參り實否を承うけたまはり自然此書中の如くに候へば骨ほねを拾ひ御跡おんあとを弔とぶらひ申さんと云を傍邊かたはらより弟彦四郎是も漸く十二歳なるが進出すゝみいで私わたしも參り兄と一所に委細ゐさいを聞糺きゝたゞし母樣の御心を慰なぐさめんと申せば母は兄弟の孝心かうしんを喜び父樣が世に在いまして此事を聞給きゝたまはゞ嘸さぞな歡よろこび給ふべし暫しばし涙なみだに昏くれけるが否々年も行ぬ其方們そなたたち先々まづ〳〵見合みあはせ呉くれと云を兄弟は聞ず敵討かたきうちに出ると云にも非ず父樣の樣子を聞きく爲ため參まゐるに何の怖敷事おそろしきことの有らんやと強て申故母も止め兼かね夫程それほどに思はゞ兄は支度したく次第しだい江戸へ赴くべし弟彦四郎は此地に止まり我が心を慰なぐさめよと有に是非共兄樣と一所に出立しゆつたつせんと申を兄彦三郎は押止め今兩人江戸へ赴く時は母人はゝびと甚いとゞ淋さびしく思され猶も苦勞くらうを増給ましたまはんにより其方は母樣の傍そばに止りて慰なぐさめ進まゐらせよと漸々やう〳〵宥なだめ賺すかし正月廿一日いまだ幼弱えうじやくの身を以て親と思ふの孝心かうしん一途づに潔いさぎよく母に暇乞いとまごひなし五兩の金を路用にと懷中して其夜は十三里り淀川よどがはの船に打乘うちのり一日も早くと江戸へぞ下くだりける


第十回


 然程さるほどに彦三郎は習ならはぬ旅たびなれども孝心かうしん深ふかきを天も憐あはれみ給ふにや風雨の憂うれひも無なく十日餘りも立たち川崎宿かはさきじゆくへ着て御所刑場おしおきば是より何程なにほどあるやと尋たづねしに品川の手前に鈴ヶ森と云所こそ天下の御仕置場おしおきばなり尤も二ヶ所あり江戸より西南の國にて生れし者は鈴すゞヶ森もり又また東北とうほくの國の生れなれば淺草あさくさ小塚原こつかはらに於て御仕置に行はるゝと云由を聞然さすれば我父は大坂おほさか生うまれなれば鈴ヶ森にて獄門ごくもんに掛られたる事こと疑うたがひなしと夫より六郷の渡場わたしばを越こえ故意わざと途中とちうを手間取てまどり大森おほもりの邊りに來りし頃は早はや夜よも亥ゐの刻こくなれば御所刑場おしおきばの邊あたりは往來わうらいの者も有まじと思おもひ徐々そろ〳〵來懸きかゝりしに夜よ更と云殊に右の方は安房あは上總かづさの浦々うら〳〵迄までも渺々べう〳〵たる海原うなばらにして岸邊を洗ふ波音なみおと高たかく左りは草木くさき生茂おひしげりし鈴ヶ森の御仕置場にして物凄ものすごき事云ふばかりなし然れども孝行かうかうの一心より何卒なにとぞ父ちゝの骨を探さがし求め故郷こきやうへ持歸りて母に見せんと御所刑場おしおきばの中へ分入わけいり那方あなた此方こなたを見廻すに闇やみの夜なれども星明ほしあかりに透すかせば白き骨の多くありて何れが父の骨ほね共とも知しれず暫時しばし躊躇ためらひ居ゐたりしが骨肉こつにくの者の骨には血ちの染しみると聞し事あれば我が血ちを絞しぼり掛て見んと指ゆびを噛かみて血ちを絞しぼり掛け〳〵て試こゝろみしに何れも血は流れて骨に入ず斯かゝる所へ挑灯ちやうちんの光ひかり見みえしかば人目に掛り疑ひを受ては如何と早々さう〳〵木立こだちの中なかへ身をぞ潜ひそめける


第十一回


 斯て彦三郎は木蔭こかげに隱かくれ居る處に夜駕籠よかごの戻もどりと見えて一人は挑灯ちやうちんを持一人は駕籠かごを舁かつぎ小便を爲ながら何と助十去年きよねん此所このところへ獄門ごくもんに懸つた小間物屋彦兵衞那れは大きな間違まちがひ隱居を殺したは勘太郎に違ちがひないと思つては居れど彦兵衞の親類しんるゐでも有るならば格別かくべつ滅多めつたな人には咄はなしも出來ず可愛かあいさうに彦兵衞は浮うかみも遣やらず冥途めいどに迷まよつて居るならんと彦三郎が此所に居るとも知らず噂うはさして行過ゆきすぎるを篤とくと聞彦三郎は大いに悦よろこび是これ偏ひとへに神佛の引合ひきあはせに依て斯る噂を聞者なるべしと思ひ竊そつと木蔭より立出たちいで此人々このひと〳〵に尾ついて行ゆき尋たづぬる者ならば明白に分るべしと後より咄はなしを聞ながら行に行共々々ゆけども〳〵果しなく誠まことに始て江戸へ來る事なれば何と云處なるか町まちの名も知れざれども其夜そのよ丑刻やつ時分じぶんに或町内の路次を開ひらき二人ながら内に入るを見濟みすまし直に入ては疑うたがひも有るならん明朝參つて樣子を尋問たづねん一人の名を助十と聞ば知れるに違ちがひなしと其夜は河岸に石いし材木ざいもく積置つみおきし處へ行ゆき寄凭よりかゝりて少し睡まどろまんとするに知らぬ江戸と云いひ此所こゝは如何なる處やらん若もし咎とがめられなば何と答んと心を苦しめ夜の明るを待事まつこと千秋しうを過すぐるが如く漸やうやく東の方かた白しらみ人も通る故やれ嬉うれしやと立出たちいで往來ゆききの人に茲は何と申所なるやと尋たづねければ淺草御門なりと答る故ゆゑ夫それより東の方かた廣ひろき往來わうらいへ出て又町の名を聞きくに兩國也と云により空くう腹なれば食事をなし辰刻いつゝ時分じぶんになり彼の駕籠舁かごかきの入し路次のある町へ到り所の名を聞きくに福井町なりと云にぞ豫て見置みおきたる權三助十が長屋ながやへ入り一通長屋を見廻みまはすに四ツ手駕籠でかごを前に置たる家ある故ゆゑ是これにて聞ば知れるならんと小腰こごしを屈かゞめ助十樣と申は此方こなたに候やと尋たづねければ女房にようばう立出たちいで何なんの御用に候や駕籠かごの御入用おんいりようにもあらば助十と申は此方の相棒あひぼうゆゑ仰聞おほせきけられよと申にぞ然樣さやうならば昨夜さくや駕籠かごに御出おいでなされしは助十樣御ご一處しよに候かと聞に如何にも毎夜まいよ一處しよに駕籠かごを舁かつぎ渡世とせい致いたすなり何ぞ御用ならば上り給へと申を幸さいはひに草鞋わらぢを脱ぬいで上あがるに未だ寢ねて居たる權三を起おこし右の事を話はなせば早速さつそく起出おきいでて顏かほを洗あらひ見るに十四五の若衆わかしう旅裝束たびしやうぞくなれば駕籠かごの相談さうだんと心得て挨拶あいさつをなすにぞ彦三郎差つけながら内々にて御尋おたづね申度事たきこと有あつて參上さんじやう仕つりしなり助十樣の御名は承うけたまはり候へども貴君あなたの御名は未だ承うけたまはり申さず何と申され候やと問ば私は助十が棒組ぼうぐみ權三と申者御用も御座らば仰聞おほせきけられよと申に若年ながら彦三郎は發明故見れば見苦敷みぐるしく如何いかにも貧窮ひんきうの樣子なれば金子きんす一分を取出とりいだし始て參上仕さんじやうつかまつり内々御聞申度事御座るに付是にて酒さけと肴さかなを御買下おかひくださるべし輕少すこしながら御土産おみやげなりと申故權三も一向に樣子やうす了解わからねば辭退じたいするを得心とくしんせず少すこしなれども御請納下おうけいれくだされねば申難がたしと達たつて差出さしいだす故然ば仰に隨はんと受納うけをさめ扨御用の筋すぢはと尋たづねしに彦三郎御お二階かいにて内々ない〳〵御聞おきゝ申度たく人ひとの耳へ入れては宜からずと申に付子供と云いひ怪あやしみ乍ながら助十を呼よび二階かいへ上り三人膝ひざを突合つきあはせしに彦三郎は聲こゑを潜ひそめ御家内樣御聞下されても相成あひなり申さずと直ずつと壁かべの際きはへ寄り私は大坂おほさか堂島だうじまの彦三郎と申者なるが昨夜さくや御當地ごたうちへ到着たうちやく致いたし未まだ宿やども取らず夜の明るを待まち早速さつそく參上さんじやう仕つる其譯は舊冬きうたう御仕置おしおきに相成し彦兵衞が事こと御存ごぞんぢに候はゞ委細ゐさい御話下おはなしくだされよと申に兩人は思ひも寄ぬ尋たづねゆゑ私し共一向に其彦兵衞殿ひこべゑどのと申御人は御知己おちかづきにもあらねば存じ申さずと答しかば彦三郎涙なみだを流ながし斯かく突然いきなりに御尋問おたづね申せば御不審ごふしんも御道理ごもつともなれど私しは彦兵衞が悴せがれにて當年たうねん十五歳に相成一人の母はゝ御座ござ候處ところ彦兵衞御仕置おしおきに成しと聞て打驚うちおどろき素もとより正直なる父彦兵衞人を殺し盜ぬすみなどする者に非ず何か謂れの有さうな事と明暮あけくれ悲かなしみ歎なげき一向かう食事しよくじも致さぬ故ゆゑ我等われら母はゝを諫いさめ江戸えどへ參り樣子を承まはり申さんと云て大坂を立出昨日六郷がうの渡しを越こえ宵よひに鈴すゞヶ森迄もりまで參まゐりしが切せめて父彦兵衞の骨ほねなりとも拾はんと存じ尋たづねたれども更に知れ申さず然る處へ各々方おの〳〵がた通とほり掛り給ひ彦兵衞が噂うはさ致いたされし故ゆゑ不思議ふしぎに思ひ直すぐに鈴ヶ森を出て御後おあとを尾つけて是迄は參りしなれども夜中やちうと云いひ御知己おちかづきにも有らねば河岸かしにある材木ざいもく薪たきゞなどの蔭かげにて夜を明あかし兩國りやうごくへ到いたりて食事をなし好よき時分じぶんと存じ只今たゞいま參上さんじやう仕つりしなり昨夜鈴ヶ森にて助十と御呼および成なされたる故ゆゑ夫それを心當こゝろあてに助十樣と御尋おたづね申せしと始終はじめをはりを物語りけるに兩人は思はず涙を流し偖々さて〳〵未いまだ年も行ぬ身を以て百餘里の道みちを下くだり親公おやごの骨ほねを拾はんとは如何にも孝心かうしんの段だん感入かんじいりたり殊に鈴ヶ森の凄さみしき所へ夜中能も一人にて入給ひし者哉然さりながら死骸しがいを貰もらふには非人小屋ひにんごやへ手を入れねば勿々なか〳〵知しれ難がたしと申に否いな夫それよりは親彦兵衞が人を殺たるには非ず外に在との御話しゆゑとても死たる彦兵衞が事は是非に及ばず切せめて外に本人があらば其その科人とがにんを出し父彦兵衞が惡名あくめいを雪すゝぎ申度其本人を知らせ給れと渠かれが志操こゝろざしを具つぶさに申ければ權三は一體たい涙脆なみだもろき男なるが助十に對むかひ何と此御若衆このおわかいしゆが鈴ヶ森に居たる時に我々われ〳〵通掛とほりかゝるも不思議ふしぎ又また鈴すゞヶ森もりにて小便を爲する時彦兵衞殿の咄はなしをしたも是これ神佛かみほとけの御引合おんひきあはせにて其孝心そのかうしんを愍あはれみ給ふ故ならん爰こゝは一番二人が力を盡つくして働はたらかにやならぬ其方そなた何なんと思ふと問けるに助十も素もとより正直者しやうぢきものにて勘太とは大だいの不和なれば云いふにや及ぶ力を盡つくして進しんぜんと申にぞ彦三郎は大に悦よろこびしが江戸不案内の事故如何して宜よろしからんか何分にも頼たのむとあれば助十は考かんがへ彦兵衞殿の居られた家主いへぬし八右衞門殿は此邊このへんにての口利くちきゝゆゑ是へ行て相談さうだん有あるべしと云を彦三郎御長屋中に怪敷あやしき人ひと有あるとの事なれば此御家主へ相談は如何いかゞに候はんと尋たづぬるに權三打笑うちわらひ爰の家主いへぬしは店子の中に依怙贔屓えこひいき多おほく下の者を叱しかる事は持前なれども表へ出ては口の利きける大屋に非ず殊ことに寄たら當人へ泄もらして迯にがすも知れざれば彦兵衞殿の家主八右衞門殿を尋たづねて能々よく〳〵相談さうだんなし給へと勸すゝめるに付彦三郎は御深切ごしんせつの御詞おことば忝かたじけなしと打悦うちよろこび内外うちそとの事共ことども諜合しめしあはせ橋本町へぞ急ぎける


第十二回


 偖彦三郎は橋本町一丁目家主八右衞門と尋たづねしに早速さつそく知しれければ八右衞門の家に行き對面たいめん致せしに八右衞門は彦兵衞の悴せがれ彦三郎と聞きゝ胸むね塞ふさがり姑しばし言葉も出ざりしが漸々に首かうべを上げ能こそ尋ね參られたり彦兵衞殿は不慮ふりよの事にて相果あひはてられ嘸々さぞ〳〵力落ちからおとし成なるべしと云に彦三郎は涙を流し父事御仕置になりしは是非に及およばず然さりながら其人殺盜賊は彦兵衞に之なく外にあるにより此段御公儀へ訴へ父が汚名をめいを雪すゝぎ申度何卒御執計おとりはからひを願度依て推參致せりとの言葉の端々はし〴〵未いまだ十五歳の若年者じやくねんものには怪敷あやしく思へども又名奉行大岡樣の御吟味に間違まちがひのあるべき樣なし由無事よしなきことを訴へ其許迄そのもとまで御咎おとがめを蒙かうぶるは笑止せうし千萬但證據有やと尋ぬるに然れば福井町に住すむ權三助十と云ふ駕籠舁かごかき二人證人なりと申せば八右衞門首くびを傾かたぶけ其許そのもと何時いつ江戸へ參られしやと問とふに彦三郎は今朝こんてう福井町へ着ちやくし直すぐに承まはり糺たゞし只今爰許こゝもとへ參りしと申ゆゑ彌々いよ〳〵合點行ず段々樣子を聞くに昨夜の事柄ことがらより權三助十が話し等とう委細ゐさいに物語ものがたりしかば八右衞門は彦三郎の孝心を大に感かんじ早速權三助十を呼に遣やり猶なほ譯わけを聞きくに去年十一月十七日の夜中に歸る機をり天水桶てんすゐをけにて血刀を洗あらひ居る者あるに付能々よく〳〵見るに同長屋の勘太郎と申者なれば怪敷あやしく思おもひながら空知そしらぬ振ふりに罷在し所右の勘太郎急きふに二三十兩掛て造作ざうさくを致し道具を買かひ妻子の身形みなりも立派になり二十兩勝た三十兩勝たと博奕ばくちに勝た咄はなしをする樣子何分合點がてん行ゆかず常には負まけた事ばかり云ひて勝た事を云いはざるに全く金の出處を疑うたがはれぬ樣に勝し事を吹聽ふいちやうするに疑ひなし其上長屋中へ錢金ぜにかね用立家主へも金を貸かす故ゆゑ勘太郎を二無なき者の樣におもひ我々如き後生ごしやう大事だいじと渡世する者は貧乏びんばふを嫌ひ一向に構ひ付ず睾丸きんたまも釣方とやら私し共でも得心せぬ故長屋の泥工さくわんの棟梁とうりやうは年頃と云いひ人も尊敬そんきやうする者なれば此者を以て勘太郎は店立たなだてを致されよ往々は家主の爲にもなるまじと申入たれば大に憤いかり却かへつて我々を追立おひたてんと爲なす故ゆゑ泥工さくわんの棟梁とうりやう家主に異見して相濟あひすみし程の事もあれば馬喰町の隱居殺したるは勘太郎に違ちがひなしと申を八右衞門聞きゝてなる程勘太郎とやらん疑うたがは敷しき者ものなれども屹度きつと隱居を殺したりとも定難さだめがたし併し御吟味を願はゞ何か惡事有る者ならんが各々おの〳〵證人にならるゝとも此事を以て訴訟うつたへにはなり難し何か工夫くふうの有ありさうな事と姑しばらく考へしが我等一ツの手段あり彦兵衞悴せがれ彦三郎と申者私し方へ參り正直しやうぢき無類むるゐの彦兵衞勿々なか〳〵盜ぬすみなど爲者なすものに非ず何故辯解いひわけをして助け呉くれざるや夫にて家主が勤つとまるかと惡口致すにより我々御慈悲願おじひねがひを致したれども公儀にて御吟味の上御所刑おしおきに行はれたる事ゆゑ我々が力ちからに及およばずと申せしかば何分聞入きゝいれず私し共を切殺きりころし親に手向たむけん是則ち敵討なりと立騷たちさわぎ候に付皆々打寄異見仕つれども聞入申さず據よんどころなく召連めしつれて御訴へ申上ると彦三郎を連て皆々南御番所へ罷出申べし其時御尋おたづね有あらば彦三郎殿委細ゐさいの事故ことがらを申上られよ其上各々おの〳〵方がた御差紙おさしがみを以て召呼れ御吟味有るならば必定夫にて彼の勘太郎なるや彦兵衞殿なるや明白めいはくに分るべしと申故三人も八右衞門が才智さいちを感じ夫より長家の者二三人へ話はなし彦三郎をぐる〳〵卷まきに縛上しばりあげ名主へも屆置とゞけおき召連訴へにぞ及びける(誠に感ずべきは人智じんち又恐る可べきも人智なり正雪しやうせつは治をさまりし天下を押領あふりやうせんと巧たくむ智慧ちゑの深き事量はかるべからずと雖も英智の贋物にせものにして悉皆こと〴〵く邪智じやち奸智かんちと云ふべし大石内藏助は其身放蕩はうたうと見せて君の讎あだを討ちしは忠士の智嚢ちなうを振ひ功名を萬世に殘せし正智なり夫程には有あらねども八右衞門が才智さいち感ぜずんば有あるべからず其謂そのいはれは訴へに及ぶには先彦三郎は宿やどを取家主を頼み名主の玄關へ掛かゝり勿々なか〳〵手間取て埓らち明あくまじ殊に十五歳の彦三郎江戸不案内ふあんないと云いひ公邊こうへんには馴なれず又證人の權三助十共明白に口の利きける者に非ず品に寄よると皆々入牢にもなり理り有て罪に陷おちいる事も有あるべしと思慮しりよし因て斯く計ふ時は彦三郎無法にもせよ親おや孝心かうしんにして僅か十五歳の者が大坂より遙々はる〴〵來りて騷さわぐ共とも憎にくむべき事に非ず又また駕籠舁かごかき二人勘太郎事を申立たりとも夜中やちう血刀を天水桶に洗ひしは何か謂れあり彦兵衞一件に關係くわんけい無なく共とも兩人申上る言葉も御咎おとがめ有あるまじ又勘太郎彌々馬喰町の人殺なれば彦三郎が念願ねんぐわんも成就じやうじゆする故前後を考へたる事にして八右衞門が分別ふんべつ等閑なほざりの及ぶ處に非ずといふべし)


第十三回


 却説かくて八右衞門は彦三郎へ申含置ふくめおきたる通り名主の玄關にて強情がうじやう申張はる故是非無召連訴へと相成則ち口上書こうじやうがきを差出せり

乍恐おそれながら以書付かきつけをもつて奉願上ねがひあげたてまつり候

一橋本町一丁目家主八右衞門申上奉つり候去さる冬ふゆ御所刑おしおきに相成候彦兵衞悴せがれ彦三郎と申者父彦兵衞無罪むざいにして御所刑に相成候事私し申上方宜よろしからざる故也因ては父の敵に候へば討果うちはたし彦兵衞に手向たむけ度由申候に付公儀の御成敗ごせいばいは我々力に及ばずと申聞候へ共一向かう得心とくしん仕つらず殊に若年と申大坂より一人罷下まかりくだり候儀亂心らんしんの樣に相見え旅宿承まはり候處必至ひつしの覺悟かくごに御座候間宿も取申さず直樣すぐさま私し方へ參り候由にて惡口あくこう仕り候に付諸人異見を差加さしくはへ候へども物狂敷ものぐるはしき體ていにて引渡候處も之なく候間據よんどころなく當人たうにん召連めしつれ御訴へ申上奉つり候何卒御慈悲を以て彦三郎へ御利解りかい仰聞おほせつけられ大坂表へ罷歸まかりかへり候樣御取計ひ偏ひとへに願ひ上奉つり候以上

橋本町一丁目家主
八右衞門

と之これ有あるに依より早速彦三郎を呼出されしに細引ほそびきにて縛しばりし儘まゝ白洲へ引据ひきすゑたり時に越前守殿此體このていを見られ是は何か仔細しさい有ありと敏はやくも察せられしかば徐しづかに詞を發はつし如何に彦三郎其方が父彦兵衞事去冬人を殺し金子を盜取ぬすみとりし科とがに因て御所刑おしおきと相成し事八右衞門の存ぞんじたる事に非ず若年の事なれば父の敵と思ふも道理だうりなれども今更いまさら是非ぜひに及ばず早々大坂へ立歸るべしと申さるゝに彦三郎涙を流し私儀十歳の時父彦兵衞儀江戸へ下りしゆゑ指折算ゆびをりかぞへて歸るを待居りし中に御所刑となりしかば母は明暮あけくれ歎なげき悲み病氣も出べきやに存じ候まゝ私し儀江戸へ下り骨ほねを拾ひろひ持歸もちかへらんと母を諫いさめ此度江戸表へ參りし途中とちう鈴が森と承まはりしまゝ何卒父の骨を拾ひ得て持歸らんと存じ夜に入て種々しゆ〴〵尋たづね探さがせ共何いづれが父の骨なるや相知れ申さず然る處其夜亥刻時よつどき過すぎにも候はん二人の駕籠舁通掛り去年此所にて彦兵衞御仕置になりしが那あの人殺しは彦兵衞に非あらず惡人は外ほかに有ある由よし話はなしながら行過ゆきすぎ候故後を付て參りし所淺草福井町とやら申町迄到いたり其所の路次ろじへ入候は最早もはや丑刻頃やつどきごろとも覺敷おぼしく候に付其夜は外にて夜を明あかし翌朝右の駕籠屋へ參り段々相尋あひたづね委細ゐさいの事故ことがらを承まはりしに馬喰町人殺は別人べつじんなる由全く彦兵衞の所業しよげふに非ず然るを家主八右衞門熟々よく〳〵糺たゞしも仕つらず御所刑と致候段殘念ざんねんに存ぞんじ小腕こうでながらも敵討を仕つる所存なりと申立ければ大岡殿夫そは其方若年ゆゑに心得違こゝろえちがひなり然ど其人殺は外に有あると申たるは福井町にて何と申者なるぞ名前を申せと云いはれければ福井町勘兵衞店たな權三助十と申者委細ゐさい存罷在候間此者より御聞取下おんきゝとりくだされ候樣にと願ねがひけるにぞ偖々其方そのはうは孝行者かうかうものなり吟味中八右衞門へ預あづけると申渡されしかば其日は彦三郎を伴ともなひ橋本町へぞ歸りける


第十四回


 大岡殿より差紙さしがみを以て勘兵衞店たな權三助十の兩人尋ねの儀有之これあるに付つき召連めしつれ罷出まかりいづべき旨むね達たつされければ家主勘兵衞は兩人を呼よび貴樣達は何ぞ惡わるい客人を乘のせて物でも取たか但たゞし客人の錢金ぜにかねを騙かたりでも爲せしか御奉行所へ明日召連罷り出る樣にと御差紙さしがみを到來たうらいし誠に我等迷惑めいわく至極しごくなり然れば夜駕籠よかごなど舁者かくものを店へは置おかれぬと申を聞きゝ權三は大に腹はらを立たち賤いやしき渡世は致せども然樣な惡事は少しも爲なさず善か惡かは明日出て聞給きゝたまへと平氣の挨拶なれば勘兵衞是非ぜひなく受書うけがきを差出し翌日同道にて南奉行所へぞ出でたりける權三助十の兩人は彦三郎が八右衞門方へ御預おあづけと聞きゝ豫かねての都合と覺悟をなし白洲しらすへ罷出けるに大岡殿出座有て如何に其方共先達せんだつて御仕置に仰付られたる彦兵衞悴せがれ彦三郎と申者は何方いづかたに於て面會めんくわい致したるやと尋ねられしかば兩人ハツと平伏へいふくなし私しども先夜大森まで客を乘のせ亥刻過頃よつどきすぎごろ鈴ヶ森迄歸り來り候處不圖ふと彦兵衞の事を思出おもひだし去年此所で御所刑に成りし彦兵衞は正直者しやうぢきものゆゑ勿々なか〳〵人殺ひとごろし夜盜よたう等は致すまじ此盜人は外に有あらんと申事を誰も聞きく人ひとは有あるまじと存じ噂うはさ仕つりし處御所刑場おしおきばの蔭かげに右彦三郎が居て其事を聞きたるにより私しどもの後あとに付て參り住居すまひを見置みおき翌朝よくてう尋ね來りて彦兵衞悴なる由を申聞きけ鈴ヶ森にて私し共の話を承りしにより父彦兵衞の外ほかに人殺有らば教をしへて呉くれる樣にと涙を流して頼むに付つき何故人も怖おそるゝ鈴ヶ森に夜中居たるやと尋ね候へば父ちゝの骨ほねを拾ひろひ念頃ねんごろに弔とぶらひ度たく存ぞんじ尋たづね候と申ゆゑ數多あまたの骨の中にて爭いかでか是が親の骨と分かるべきやと申候に彦三郎血ちを絞しぼり骨へ掛かける時は他人たにんの骨へは染込しみこむ事なく父の骨なれば染込候故ゆゑ指ゆびを噛切かみきり血ちを掛て見候とて噛切かみきりたる指を見せしに付つき私しどもゝ其孝心を感じて思はず落涙らくるゐ仕り如何にも彦兵衞には有之これあるまじ外に人殺ありと申たるに相違さうゐ御座なく候と申ければ大岡殿聞給ひ然さらば馬喰町米屋市郎左衞門伯母をばを殺ころし金を取とりたる者外に有るやと尋問たづねらるゝに兩人ヘイ其人殺しと申は私ども同長屋に罷在る勘太郎と申者ならんと存ぞんじ候旨むね申立けるを家主勘兵衞恐れながら進出すゝみいで其勘太郎は實體じつていにして渡世向とせいむき出精しゆつせい仕つる者に付つき勿々なか〳〵右體みぎてい非道ひだうの働きを致す者に候はずと云ふゆゑ大岡殿權三助十と呼よばれ今いま聞きく通り家主は實體者じつていものなりと云ふが何ぞ證據有るやと糺たゞさるゝに兩人其儀は去年十一月十七日麻布迄客を乘行のせゆき夜よ丑刻過やつどきすぎに歸り候處町内の天水桶にて刄物はものを洗あらふ者あり其形容そのかたち勘太郎に髣髴よくにたりとは存じながら私し共ども見屆けるにも及ばざる事ゆゑ路次を家主に開いて貰もらひ内へ入いりし時勘太郎も續つゞいて後あとより這入はひりしに付偖は刄物を洗ひしは勘太郎に相違なしと存じ其夜は寢いね翌朝よくてう天水桶を見て候へば淡紅色もゝいろになり桶にも血の付き有る故勘太郎は何方いづかたにて人を斬きりしやと存ずる處昨夜さくや馬喰町米屋の女隱居ゐんきよを殺し金百兩盜みたる者ある由噂仕つるにより扨は勘太郎が仕業しわざなるか但たゞし外に喧嘩けんくわでも致したるかと思ふに中裁なかなほりの沙汰もなく博奕打ばくちうちの喧嘩なれば是非沙汰の有ある筈はずなるに一向何の咄はなしもないは彌々いよ〳〵以て女隱居を殺害したるに違ひなしと思ひし中うち家の造作家内の身形みなりも立派になり皆々不思議ふしぎに存じたる所博奕に廿兩勝た三十兩勝たと吹聽ふいちやう致せども是は盜賊の名を隱かくす心と存ぜしなりと委細申立るに此時大岡殿與力を呼よばれ何やらん申渡され又家主勘兵衞と呼出よびいださるゝに勘兵衞は二人を睨にらみながら進み出づればコレ勘兵衞右勘太郎の商賣しやうばいは何を致すと尋ねられしに勘兵衞ハツと云いひし切きり暫時しばらく返答へんたふ出來ざりしが漸やうやく季節ときの物を商ひ候由申ければ權三助十否々いへ〳〵と云いひながら傍邊かたはらより進み出で勘太郎渡世と申ては外に之なく年中ねんぢう博奕のみ致居候間怪あや敷存じ店中たなうちに差置ては家主の爲に成なるまじくと思ひ泥工さくわんの棟梁とうりやう權九郎と申者を以て勘太郎店立たなだて申入候へば勘兵衞以もつての外に憤いかり却て私し共に店立申付候程の事にて何故か勘太郎を贔屓ひいき仕つり候と申せしかば茲こゝに於て大岡殿大聲に其方家主をも勤つとめながら右體みぎていの者は訴へ出べきに僞いつはりを以て申立る條勘太郎同意どういと思はれる因て手錠ぢやう申付ると勘兵衞に手錠を掛られ追おつて呼出すとて皆々白洲を下られけり然されば勘兵衞は兩人を恨うらみけるを權三助十は冷笑あざわらひ其許は商賣出精爲者には店立を申付博奕を打うち夜盜よたうなどする者を大切に致さるゝ上は覺悟の前なりと今迄惡樣あしざまに取扱はれたる意趣いしゆ晴ばらしの心にて存分に云散いひちらしてぞ立歸りける勘兵衞は早々勘太郎へ右の咄はなしをせんと長屋へ行きて見るに疾はや勘太郎は召捕めしとられたりと聞きて呆あきれ果てたるばかりなり


第十五回


 偖も福井町勘兵衞店たな勘太郎召捕めしとられ入牢申付られしが其後大岡殿呼出よびいだしの上去年霜月しもつき十七日の夜中馬喰町馬場の傍かたはらに住居罷在る米屋市郎左衞門隱居いんきよの老女を殺し金百兩奪うばひ取りたる事明白めいはくなれば陳ちんずるとも遁のがれ難し眞直まつすぐに白状せよと有りければ一向然樣の儀覺おぼえ之なく候と申を然らば汝は何を渡世致すやと問とはるゝに勘太郎拔ぬからぬ面かほにて其季節そのときどきの物を商あきなひ仕つり候と申立るを大岡殿季節の商賣と云ふは何を賣うりて渡世に致候やと申されしかば夏は瓜うり西瓜すゐくわ桃もゝの實みの類るゐ秋あきは梨子なし柿かきの類など商賣仕つると申せども自然おのづから言語ごんご濁にごる故ゆゑイヤ其方家内を檢査處しらべるところ賣歩行うりあるく荷物にもつ一ツもなくして家内にはめくり札賽さいは數多あまたありしなり此返答は何どうぢやと問詰とひつめられしに勘太郎一言の返答も出來兼ねたり越前守殿コレ勘太郎汝は惡黨あくたうと云ふ事疾とくに知れて有るぞ又々吟味せば舊惡有るべし苦痛くつうせぬ中うち白状致せと申さるれども人殺夜盜の覺えなしと云いふ故ゆゑ入牢じゆらうさせ置おき嚴敷きびしく拷問がうもんに及びしかど白状せぬにより妻子を呼出よびいだされ勘太郎如何致して去年十一月より家内造作諸道具等を立派に致し内々金子を貯たくはへしや眞直まつすぐに申せと糺たゞさるゝに女房は慄ふるへ出し私し女の事故一向存じ申さずと云ふ時大岡殿其儀勘太郎申には去年十一月十七日の夜に馬喰町米屋の女隱居いんきよを殺し金を盜みしと白状致したり殊ことに其譯そのわけは其方へ咄はなし内々博奕に勝かつた積つもりに云觸いひふらしたる由其方隱す共勘太郎白状なれば最早もはや遁のがれず達たつて隱せば汝も女ながら怪あやしき奴やつゆゑ入牢の上拷問申付けるぞと威おどされしかば面色めんしよく蒼然あをざめ私しは馬喰町にて人を殺したる事は存ぜねども去年霜月しもつき十七日博奕より遲おそく歸りし時如何なる故か面色かほいろ宜よからず衣類に血が付居つきをりし故樣子を尋ね候に途中とちうにて喧嘩を致し切付きりつけたれば其者迯行にげゆきしが跡に落おとせし物あるにより拾上ひろひあげて見れば百兩の金を紙かみに包つゝみ水引を掛け上書に奉納と書記かきしるし有りし事を承まはり候と申立ければ夫にて宜よしと女房は其儘そのまゝ歸されたり偖大岡殿智略ちりやくを以て勘太郎が妻を問糺とひたゞされしに委細申立たる故勘太郎が爲なせし業わざと知れ拷問嚴敷詮議あれども何分白状なさず因て猶なほ又また大岡殿白洲へ呼出され其方は一通りならぬ惡黨あくたうなれ共斯程かほどの責せめに合あふて白状致さぬは又大丈夫なり然さりながら汝が妻の詞に百兩の金紙かみに包つゝみ奉納ほうなふと書かき水引にて結むすび有しと申立て有る上は白状せずとも差免さしゆるすと云ふ事なし日々苦痛するは却て未練みれんと云ふ者なり妻子も倶ともに仕置に行ふべきなれども今白状いたさば慈悲じひを以て妻子は助遣たすけつかはさん夫とも強情がうじやうを申居をらば見る前にて妻子も倶ともに入牢申付る惡黨は未練を殘のこさぬ者なり此越前が睨にらんだ眼まなこに違ちがひはないぞと申されければ勘太郎も所詮しよせん助かり難しと斷念あきらめ然らば白状仕つらんとて居直ゐなほり米屋の隱居とは存ぜざれども夜中やちう忍込しのびこみ切害の上金百兩奪うばひ取とりたるに相違之なくと白状に及びければ神妙しんめうなりと申され其金百兩有りし事如何して知りたるやと糺たゞされしに勘太郎其日小間物屋彦兵衞金子無心を致して居る樣子を格子かうしの外そとにて承まはりしが黄昏頃たそがれごろ故ゆゑ竊そつと覗のぞきし所百兩包を取出し御門跡へ納める金なりと云ひ又箪笥たんすの引出へ入いれたる處を見ると欲心よくしん萌きざし年寄たる女一人怖おそるべきに非あらずと思ひ其夜忍入しのびいりて殺害なし金子奪ひ取り候と其手續きを一々白状に及びしかば茲に於て口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ又々牢内へ送られける因て彦三郎始はじめ呼出されしに馬喰町米屋市郎左衞門は程經ほどへたる事ゆゑ大に怪あやしみながら請書うけがきをだし又福井町勘兵衞并に助十權三皆々廿五日南奉行所へ罷出腰掛こしかけに相詰あひつめ呼込よびこみを待まちけるに大岡殿午後ひるご未刻過やつどきすぎ退出たいしゆつありて直樣すぐさま橋本町八右衞門一件と呼聲よびこゑに連つれ各々白洲へぞ出にける


第十六回


 偖享保九年二月二十五日橋本町八右衞門一件一同呼出に付つき皆々白洲へ居竝ゐならぶ時馬喰町市郎左衞門と呼上よびあげられ昨冬霜月十七日の夜其方伯母儀をばぎ切害せつがいの上金百兩盜まれし段訴へ出いで右盜賊は小間物屋彦兵衞なりと申故我等利解りかいを下し勘辨かんべん致す樣に申渡たれど彦兵衞に相違なし伯母をばの敵なりとて頻しきりに吟味を相願ふ故彦兵衞を糺明きうめいに及びし處白状により御所刑に申付られたる事存じの通りなり然るに彦兵衞悴せがれ彦三郎と申者今度大坂より來り彦兵衞事右等みぎらの惡事あくじ致す者に非ずと願出るに付段々再吟味に及ぶ處彦三郎が孝心かうしんの致す處其方伯母を殺したる者手に入いりたり只今其者白状の趣き夫にて承まはれと申渡され又勘太郎に向むかはれ其方米屋の女隱居いんきよを殺し金百兩奪ひ取たる手續てつゞき委曲くはしく申せと云はれしかば勘太郎其儀は私し事夕方ゆふがた馬喰町馬場の脇わきを通り候機をり出格子でがうしの中にて金談きんだんの聲致すにより何事やらんと承まはりしに彦兵衞事無心むしんの處折惡をりあしく百兩は御門跡に奉納の願ひにて御講中おかうぢうに差上る積つもり是これ見給みたまへとて彼女隱居は紙に包みし金子を出して見せたる故羨敷うらやましく思ひ我今百兩有らば安樂なるべし役に立ぬ寺への奉納と存じ何方いづかたへ仕舞置やと竊ひそかに覗のぞきしに重箪笥かさねだんすの引出へ入れたるを能々よく〳〵見置みおき其夜そのよ丑刻頃やつどきごろ忍び込み右の金を取らんとする時女隱居目を覺さまし何者と聲を立る故是非なく殺し候と申に大岡殿何と市郎左衞門只今聞きく通とほり本人は勘太郎と云ふ者にて彦兵衞には非ず疑うたがひの心より遮さへぎつて申立罪なき者の命を取し事不埓千萬ふらちせんばん云解いひわけ有るやと申されしかば市郎左衞門は今更いまさら惘果あきれはて何共申譯之なく大いに後悔こうくわいなし恐れ入り奉つると平伏してぞ居たりける又彦三郎と呼れ其方若年にして孝心かうしん深ふかき段天に通じ父の惡名を雪すゝぐ事感ずるに餘りあり又橋本町家主八右衞門并に駕籠舁かごかき權三助十其方共彦三郎が孝心を感じ證人となりて惡黨あくたうを訴へに及およびし事輕かろき身分には奇き特の心底なり只今聞通きくとほり人殺夜盜は勘太郎に相違之なし然樣心得よと云はれしかば彦三郎は云ふに及ばず八右衞門權三助十等皆みな有難ありがたき仕合なりと喜びけり時に大岡殿福井町家主勘兵衞と呼上よびあげられ其方家主の身を以て然程さほどの惡黨を存ぜず差置き剩あまつさへ格別かくべつ懇意こんいに致す事如何の心得なるや恐入たるかと叱しかられしかば勘兵衞一言もなく平蜘ひらくもの如くになり居たり此時權三助十恐おそれながらと進み出で此儀市郎左衞門何樣どのように願上候とも罪もなき者を御仕置に仰付られ候事明白めいはくの御沙汰とも存ぜず然ども市郎左衞門申立より彦兵衞御所刑おしおきと有あらば下より申上候儀は何事も御取上に相成候や伺うかゞひ奉つると申出しに彦三郎涙を流し父彦兵衞罪なき事明白に相分り有難く存じ奉つるにより此上の御慈悲おじひに父彦兵衞が死骸しがいを下くだし置おかれ候樣に願ひ奉つると申傍そばより又八右衞門も進出すゝみいで彦三郎儀罪なき父を殺し候恨うらみなりとて私しを敵と申候儀道だう理に存候然さすれば天下の御奉行樣にも罪なき者を御仕置おしおきに仰付られしは同樣ならんか併し尊たつとき御方故其儘そのまゝに相濟候事や私しどもが然樣さやう道みちに缺かけたる事あらば重き御咎おとがめを蒙かうぶるべし願くは彦兵衞を御返下おかへしくだされ候樣に願ひ奉つると申ければ大岡殿無言むごんにて居られし故權三助十は大岡殿を一番言込いひこめ閉口へいこうさせんと思ひ天下に於て御器量ごきりやう第一と云ふ御奉行樣にも弘法こうぼふも筆の過失あやまち定さだめて惡口あくこうと思召すならんが罪なく死したる彦兵衞が身は如何遊ばさるゝやと口々に申故大岡殿皆々默止だまれと仰おほせられしを權三助十默止だまりますまい此一件彦三郎申分相立候樣に御慈悲おじひを願ひ奉つると云ふに八右衞門彦三郎も進出すゝみいで權ごん三助十諸共もろとも喧かまびすしくこそ申けれ


第十七回


 扨も越前守殿には暫時しばらく默もくして居られしが頓やがて一同控へ居よと云いはれコリヤ彦三郎其方共に彼是かれこれ云込いひこめられ此越前一言もなし之に因て彦三郎へ褒美はうびを遣つかはす夫にて皆々不肖ふせう致せと白洲の外に控へ居たる一人の男を呼出よびいだされしに久しく日の目を見ざりしと見え顏色かほいろは惡あしけれ共能よく肥太こえふとりたりイザ此者を遣すぞ皆々對面たいめんせよと申されしかば各々おの〳〵不思議に思ひ其人を見れば是こは如何に去冬御仕置になりし彦兵衞なり彦兵衞は彦三郎を見るや否いなや白洲をも顧かへりみず涙を流し汝は彦三郎なるかと手を取とり悦よろこび縋すがりしかば皆一同に惘果あきれはてたるばかりなり時に大岡殿申さるゝは此彦兵衞儀白状は致せしかど其口振くちぶりと云ひ人體じんていと申し疑うたがは敷しく思ひ外に罪有る者牢死せしを身代みがはりの獄門ごくもんになし彦兵衞は助命じよめいさせ置たり然るに果して勘太郎と云ふ本人出しは我も悦よろこぶぞ是これ偏ひとへに彦三郎が孝心に因る處一ツは八右衞門が取計とりはからひ權三助十の正直しやうぢきより起る處又某に對して惡口せしは惡口に似て惡口に非ず其方どもが如き者町方まちかたに有るは我も悦びの一ツなり彦兵衞は渡し遣はす又々追て呼出すとて下さげられしかば皆々悦び勇いさむ事限かぎりなく大岡殿の深慮しんりよを感伏したりけり此外に出會いであはせし公事くじ訴訟人迄も涙も流し感ぜぬ者は無なかりしとぞ扨又大岡殿は市郎左衞門に對むかはれ罪を償あがなふには首代くびだいと云ふ事あり先達せんだつて其方伯母より借たる雜物ざふもつは富松町質屋六兵衞方にて五十兩借請かりうけ其金を以て小間物荷を買調かひとゝのへたる故其小間物は一旦たん取上物とりあげものと成しが今度彦兵衞へ下さるゝなり然上しかるうへは右五十兩并に利息りそくを六兵衞方へ遣はさねば相成るまじ彦兵衞事病氣と云ひ大坂へ立歸る路金ろぎんにも差閊さしつかへるならんにより右五十兩の金は其方より六兵衞方へ勘定かんぢやう致して遣はせ若もし難澁なんじふ申に於ては此方に存寄ぞんじよりありと申渡されしかば委細ゐさい畏かしこまり奉つると返答に及びたり又質屋六兵衞其方儀は彦兵衞が預あづけ置たる質物しちもつ一旦たん盜物ぬすみものとなり取上し所今明白に相分り不正の品に之なき上は右五十兩元利共ぐわんりとも彦兵衞より勘定致すべき筈はずなれども只今承まはる通り故米屋市郎左衞門より受取と申渡されけり斯かくて又勘太郎儀は獄門同人妻子は追放つゐはう家財かざい取上となり家主勘兵衞は役柄不相應殊に惡黨の勘太郎より金を借請かりうけ正直しやうぢき成者なるものを追立候儀勘太郎同類に等ひとしく重おもくも仰付られべく處格別の御慈悲を以て家財取上追放申付られ家主家財勘太郎家財とも權三助十へ下さるゝ間双方さうはう申合あはせ然しかるべく住居すまひ致せと申渡され又勘太郎有金ありがね六十兩は彦三郎并に權三助十へ廿兩宛下し置れ權三は勘兵衞跡役あとやくとなり町の事なれば當分たうぶん心添こゝろぞへを八右衞門に申付る又名主儀は日頃ひごろ行屆ゆきとゞかざる故家主の善惡も辨わきまへざる段不束ふつゝかなり以來屹度きつと心付こゝろつけ候樣致すべき旨申渡され一件落着とぞなりける是先に一旦彦兵衞獄門ごくもんと成りしは大岡殿申されし通り獄中にて病死の者の首を切きり彦兵衞重罪なればとて面かほの皮を剥むきて獄門に梟かけられしかば皆々彦兵衞は全く御所刑に成りし事と心得居たるを此度このたび斯かく明白めいはくに善惡を糺たゞされし故世の人彦兵衞は無實むじつの罪に死なざりし事を知り後世こうせいに皮剥かはむき獄門ごくもんとて裁許さいきよの名譽めいよを殘のこされたり


小間物屋彦兵衞一件終

後藤半四郎一件

後藤半四郎ごとうはんしらう一件いつけん


第一回


 仁じんは以て下しもに厚あつく儉けんは以て用もちゐるに足たる和くわにして弛ゆるめず寛くわんにして能よく斷だんずと眞まことなる哉かな徳川八代將軍吉宗公の御代名譽の官吏やくにん多しと雖も就中なかんづく大岡越前守忠相たゞすけ殿は享保二年より元文元年まで二十年の間あひだ市尹まちぶぎやう勤役中きんやくちう裁許の件々其明斷を稱する事世の人の知る所にして天一坊越後傳吉村井長庵又は小間物屋彦兵衞の皮剥かはむき獄門ごくもん煙草屋喜八其他種々樣々の裁斷さばき有しが茲に説出ときいだす後藤半四郎ごとうはんしらうと云者は元もと土民の子なれども生質うまれつき正直しやうぢきにして能五常を守り爾しかも天然の大力ありと雖も是を平常つねに顯さず仁義を專らになし強きを挫くぢき弱きを助け金銀を惜をしまず人の難儀なんぎを救ふ此故に大岡殿の吹擧すゐきよに預りて將軍家の御旗本おはたもととなり領地五百石を賜り其子孫徳川氏の末まで連綿れんめんと繁昌はんじやうせり或人の歌に

人ひと多おほき人の中なかにも人ぞなき人になせ人人になれ人

と詠じし心に協かなひしは實に此半四郎のこと成べし茲に其素性そのすじやうを尋るに元もと讃州丸龜在高野村の百姓半左衞門と云者二人の悴せがれを持もてり兄を半作と號よび弟を半四郎と云此兄の半作は至つて穩當をんたうの生質おひたちなれば是所謂惣領そうりやうの甚六とか云が如し然れども惣領の甚じん六々々〳〵と世間にては馬鹿者ばかものの樣に云ども勿々なか〳〵然さにあらず既に諸侯にては御嫡子と稱し町人ならば家の跡取あととり又また在ざい家農家などにては遺跡ゐせき樣と云いふ惣領そうりやうは遺跡ゐせきと云いふが道理もつともなり是これを説明ときあかせば惣領そうりやうに生うまるゝは格別かくべつに果報くわはうある事なれば貴賤きせんに限かぎらず惣領そうりやうは其家そのいへの相續人さうぞくにんなり因よつて自然しぜんの徳とくを備そなへて生うまれ得えしに相違さうゐなく既すでに右大將頼朝公うだいしやうよりともこうにも源家げんけの御惣領ごそうりやうなりしが一旦たん清盛公きよもりこうの爲ために世よを狹せばめられて蛭ひるヶ小島へ流罪るざいと成せられたれども終には石橋山に義兵を揚あげられし處其軍利なくして伏木ふしきの穴に匿かくれ給ひしを梶原が二心より危き御身を助り夫より御運を開かれ其後自身に戰場せんぢやうへ向はれし事なく木曽義仲公きそよしなかこう追討つゐたうの刻きざみは御舍弟範頼義經兩公達きんだちに命ぜられ宇治瀬田の二道より進で一戰に木曽氏を討亡うちほろぼし續いて兩御舍弟を大將となし一ノ谷の戰ひに平家の十萬騎を討平うちたひらげ猶なほ又また進すゝんで屋島やしま壇だんの浦うらの戰ひに平家を悉皆こと〴〵く討亡ばして源氏一統の御代となし御自分は鎌倉かまくらに居ゐながら日本草創さうさう武家の天下として武將の元祖と仰あふがれ給ふ事是頼朝公は惣領の甚六なれ共ども自然しぜんと大徳の備そなはられし事斯の如くなり又其御舍弟の兩人は現在其功を顯あらはされしかば人々大いに是を稱たゝへ兎角とかく利口りこう發明はつめいの樣に思はるゝなり則ち義經卿近くは眞田幸村さなだゆきむら又平家にても知盛卿など皆其類にして漢の高祖の所謂いはゆる獵師れふしと獵犬れふけんの功に違ひ有が如し然りと雖も百姓半左衞門の悴せがれ半作より弟半四郎の方は生れ質つき働はたらきもあり又大力無双なれども温順をんじゆんにして兄弟共至つて親に孝行を盡し兄弟はらからの中なか睦むつましく兄は弟を思ひ弟は兄を尊敬うやまひ日々にち〳〵農業のうげふ耕作かうさく油斷ゆだんなく精せいを出し隙ひまある時は山に入て薪たきゞを樵こり或ひは日雇ひよう走り使ひ等に雇はれ兩人とも晝夜を分たず稼かせぎて親半左衞門を大切に養育やういくなし殊に半四郎は至て正直律儀なる者故近所隣村の者ども半四郎々々とて何事に寄よらず頼たのみ使ひて贔屓ひいきせしが人にはなくて七癖なゝくせと言如く半四郎事極ごく酒好さけずきにて古いにしへの酒呑童子しゆてんどうじも三舍を避さける程の大酒なり然されども喧嘩口論は勿論何程に酩酊めいていなすとも夢中に成て倒たふれ或ひは家業を怠惰おこたりしと云事なく只酒を飮を樂たのしみとして稼かせぎ兄を助ける故人々心隔こゝろおきなく半四郎を用ひしとぞ右半四郎の親類に佐次さじ右衞門と云者あり是は相應の百姓にて田地百五十石を所持なし居たりしが或時あるとき此佐次右衞門伊豫國いよのくに松山まつやまの親類へ金子かね五十兩送るべき事ありしに大金の事故飛脚ひきやくを雇ふより年若としわかなれ共半四郎の方が慥たしかならんとて右五十兩の金に手紙を添て渡わたせしかば半四郎は是を請取て懷中くわいちうし急用なれば直たゞちに旅支度たびじたくして出立しゆつたつせんとするを見て親半右衞門兄半作ともに是を氣遣きづかひ如何に急用なればとて大金を持もちながら夜道を行ゆくは不用心なり早はや今日も申刻なゝつ下さがりゆえ翌あすの朝早く出立して參るべしと種々に止とゞめけれ共半四郎は殊に大力と云氣象きしやうも勝すぐれたれば一向承知せず必らず御案事あるな萬一もし途中とちうにて追剥おひはぎなど出逢であふ事あらば打倒して仕舞ふ分なり少しも構かまはず出行いでゆきたり元より足も達者にて一日に四十里づつ歩行あるく珍めづらしき若者なれば程なく松の尾と云いふ宿迄しゆくまで來懸きかゝりしに最早疾とく日は暮て戌刻頃いつゝごろとも思ひしゆゑ夜道をするに空腹なる時は途中にて困こまるならんと只とある杉酒屋へ入て酒を五合熱燗あつかんに誂あつらへ何ぞ肴さかなはなきやと問に最早皆みな賣切うりきれ鰹かつをの鹽辛しほからばかりなりと答へけるを夫そは何よりの品なりとて五合の酒を鹽辛にて忽ち飮干のみほし又五合つけて下くだされと云に亭主は肝きもを潰つぶし未まだ年としも行ゆかぬ若者なれど怖おそろしき酒飮もあるものと思ひお前さん其樣に飮れますかと聞きゝければ半四郎は微笑ほゝゑみナニ一升や二升は朝飯前に飮やりますと云に亭主は惘あきれ果はて又五合出せしに是をも直たゞちに呑のみて飯を喰くひ勘定をする機をりから表の方より雲助ども五六人どや〳〵と這入はひり來り最もう仕舞れしかモシ面倒めんだうながら一杯ぱい飮ませて下せいと云つゝ鉢はちにありし鹽漬しほづけの唐辛子たうがらしを肴さかなに何れも五郎八茶碗ぢやわんにて冷酒ひやざけをぐびり〳〵と飮居たりしが今半四郎が胴卷どうまきより錢を出し酒飯の代だいを勘定する處をじろりと見るに胴卷には彼の頼たのまれたる金子五十兩蛇へびが蛙かへるを呑のみし樣に成て有ければ雲助共眼配めくばせをしながら片隅かたすみへより何か密々ひそ〳〵咄はなし合あひ直ついと半四郎の側そばへより是もし息子むすこさん御前は是から何處へ行つしやると云に半四郎は何心なく私わたしは是から夜通しに松山迄參りますと云つゝ胴卷どうまきを仕舞しまひ居るに雲助共それなら夜道は物騷ぶつさうゆゑ駕籠かごに乘て御呉おくんなせへ夫に今見れば率爾ぶしつけながら胴卷には大分御金を持て御出なさる樣子是から先は松原で寂寞さびしい道だ見れば未まだ御年も行ぬ御若衆御一人にては不用心何どうか駕籠かごに乘て御出なせへと云に半四郎は大に困こまり夫は〳〵御前方御深切にさう云て下くださるゝが私しは何どうも駕籠が嫌きらひなり然されども生質うまれつき仕合に足が達者で日に廿里三十里は樂らくに歩行あるきますから先駕籠は止よしに仕ませうと草鞋わらぢの紐ひもを締直しめなほし支度をして行んとする故彼方かなたに居る雲助共は大聲おほごゑ揚あげヤイ〳〵能よくそんな事で行いける者か何でも乘て貰もらへ〳〵今時生若なまわかい者が大金を持て夜通しに松山迄行ゆくと云は怪い奴だ飛脚と云ではなし大方若いのが主人の金を盜出ぬすみだしたに違ちがひはあるめへ若もし達たつて乘ずば酒代さかてを貰もらへ〳〵そんな奴に此街道を只たゞ通とほられて詰つまるものかオイ若衆酒代を貰もらひやしやうと云いふ機をりしも又表より雲助共三四人どや〳〵と入來りて大勢徒黨とたうして騙ゆすり懸しが中にも酒機嫌の者は面倒めんだうなり叩たゝき倒せ打偃うちのめして胴卷の金を取れと騷さわぎ立オヽさうだ違ひねへ何どうで主人の金をせしめたのだ何處どこからも尻しりの來くる氣遣はねへ〆しめろ〳〵と一同に飛懸らんずる樣子やうすゆゑ半四郎は心の中に扨さては此奴等我は年端としはも行ゆかぬ若者と侮あなどり訝おつな處へ氣を廻し酒代を騙ゆすりに懸りしは不屆千萬とは思へ共故意わざと言葉を和やはらげもし〳〵御前方はマアとんだ事を言いはつしやる我はそんな不屆な者ではなく丸龜在まるがめざい高野村かうやむらの百姓半左衞門が悴せがれ半四郎と云者親類から頼まれたる飛脚ひきやくにて松山の親類へ行ゆくに相違なく急用故に夜道をするが怪い者には決してござらぬと云に雲助共は更さらに聞入きゝいれずそんなら酒代さかだいを置て行ゆけ只通してなるものかと半四郎一人を取卷とりまきける故半四郎も今は是非なく覺悟かくごを極きはめ猶なほ内懷うちふところにて胴卷を確しつかと結び帶をも手早く〆直しめなほし三十六計逃るに如しかじと隙すきを見合せひよいと身を躍をどらせて奴等が股またを潜くゞり脱ぬけ表の方へ駈出すにヤレ逃すなと追駈おつかくるを表に待たる仲間の雲助共おつと兄イさう甘うまく行ゆくものかと捕へしを半四郎は振拂ひ行ゆかんとすれば雲助共は追取卷おつとりまきどつこい遁にがして成ものか此小童このこわつぱめどうするか見ろ命いのち惜をしくば酒代さかてを置て行と懷ふところへ手を入れければ最もう勘忍かんにんはならずと半四郎は其腕を取て逆さかさに捻上ねぢりあげ向うの方へ突飛すに大力のはずみなれば蜻蛉とんぼ返りを打て四五間先へ倒れたり是を見て雲助共は少し後逡あとずさりをなせしがイヤ恐しい奴やつ平氣な面つらをして居をる夫それ惣蒐そうがかりにて叩き倒せと手に〳〵息杖いきづえを振り上打て蒐かゝるに半四郎も酒屋の軒下のきしたにありし縁臺えんだいを押取觀念しろと云ながら片端かたはしよりばらり〳〵と打拂ひければ瞬間またゝくひまに八九人の雲助共殘らず擲たゝき倒され這々はう〳〵の體ていにて散々に逃行ける故半四郎は其儘打捨うちすて足あしを早めて此所を立去りつゝやれ〳〵危き目に遭あふものかな何さま親父殿や兄貴あにきは夜道は浮雲あぶなき故朝立にせよと言れしは今こそ思ひ當りたれと後悔こうくわいなして急ぎけり


第二回


 偖又雲助共は再び一所に集合あつまり己れは脛すねを拂はれ汝われは腰を打れたりと皆々疵所きずしよを摩さすり又は手拭てぬぐひなど裂さいて卷くもあり是では渡世が六ヶ敷と詢言々々つぶやき〳〵八九人の雲助共怪我をせぬ者なかりしかば如何にも殘念なり此意趣晴を仕度したけれ共彼奴は勿々なか〳〵一通りの奴にあらず怖しい手利てきゝゆゑ五人や十人では迚とても叶かなひ難し仲間の者を大勢談合かたらひ早々追駈三里の松原にて待伏まちぶせなし彼奴を打殺し胴卷の金を取て頭割あたまわりにせんとて彼是二十人ばかり呼集め何でも奴は恐い早足はやあしだと云ひおつたから最もう餘程よほど行ゆきし時分なれ共未々まだ〳〵三里の松原までは懸る氣遣ひなし本海道を追駈おひかけるより裏道うらみちを駈拔かけぬけんとて皆々駈出し頓やがて三里の松原に出で大勢の雲助共今や來ると彼方此方かなたこなたに潜ひそみ手ぐすね引て待伏たり半四郎は神かみならぬ身の夢にも知ずたどり〳〵て道芝みちしばの露つゆ踏分ふみわけつゝ程なくも三里の松原へ差懸るに木の間の月は晃々くわう〳〵とさし昇のぼり最早夜の亥刻よつ時分共思ふ頃良やゝ原中はらなかまで來りしに最前より待設けたる雲助共松の蔭かげより前後左右に破落々々ばら〳〵と現あらはれ出でヤイ〳〵小童子こわつぱ待まて先刻さつき松の尾の酒屋では能ようも〳〵我等を打倒し居ツたな其意趣晴そのいしゆばらしに汝おのれを擲たゝき殺して金も衣類も剥取はぎとるなり覺悟爲しをれと詰寄するに流石の半四郎も仰天し南無なむ三方ばう斯かく大勢に見込れては我が命いのちはとても無なきものなり好々よし〳〵叶かなはぬ迄も爭いかで手込になされんや命の限り腕かぎり叩たゝき散して遣やらんものと傍かたはらの松の木を楯たてに取サア來こい汝等片端より捻ひねり殺して呉んずと身構たれ共ども手振てぶらにて何の得物えもののなきを付込惡者共は聲々に人の來ぬ間に打殺せと先に進みし一人が振揚ふりあげかゝる息杖いきづゑを飛違へ樣さまもぎ取て手早く腋腹ひばらを突つきければウンと計りに倒れたり續て懸るを引外ひつぱづし空を打せて踉蹌よろめく所を直つと飛込で襟元えりもと掴つかみ遙か向へ投退なげのければ其餘の者共追取卷ソレ打殺せと云まゝに十五六人四方より滅多めつたやたらに打懸るに半四郎は只一生懸命奪ひ取たる息杖いきづゑにて多勢を相手に薙立々々なぎたて〳〵四角八面に打合折柄半四郎が持たる杖つゑは忽ち中より折れたりけり因よつて是こは堪たまらじと逃出にげいだせば雲助共はソレ逃すなと一同に追駈來るを半四郎は遁のがるゝだけは逃延にげのびんと一驂走さんばしりに二三町息いきをも吐つかず逃たりしが惡者共は何所迄もと猶も間近まぢかく逐來おひきたる故に半四郎は如何にもして逃行んとする機をり幸ひ脇道わきみちの有しかば身を飜ひるがへして逃込を惡者共は七八人裏手うらてへ廻り立挾はさみ前後より追迫るにぞ半四郎は彌々いよ〳〵絶體絶命ぜつたいぜつめい畑はたの縁ふちなる榛はんの木をヤツと聲かけ根限ねこぎになしサア來れと身構へたり之を見るより雲助ども十七八人破落々々ばら〳〵と追取卷て打蒐うちかゝるを事共なさず半四郎は力に任せて打合うちあへども死生知らずの雲助ども十七八人群むらがり立此方は助る味方もなく只一人の事なれば大力無双の身なれども先刻せんこくよりの打合に今は勢根せいこんも盡果つきはてたれば傍邊かたへの畔あぜを踏外ふみはづし躚よろめく所を雲助共夫れ〳〵占しめたぞ今一息いき叩たゝき殺して剥取はぎとれと折重なつて打倒すに半四郎も最早もはや叶かなはずと一生懸命の聲を揚あげ人殺し〳〵助て呉れ〳〵と呼はれ共良やゝ夜も更ふけし原中なれば人影とては更になく松吹風の音のみゆゑ雲助共は増々ます〳〵氣きを得え手取足取引倒し已に斯かうよと見えたる折柄一人の武士さふらひ此松原を通り懸り其樣子を窺うかゞふに一人の若者を大勢にて追取卷組くんづ解ほぐれつ戰ふ有樣善か惡かは分らね共若者の働はたらき凡人ぼんじんならず天晴の手練かなと感じ乍ながらに見て居たるに今大勢おほぜいの雲助に叩たゝき伏ふせられ已に一命も危く見ゆる故ゆゑ彼かの武士は立上り何は兎ともあれ惜き若者見殺しにするも情なさけなし率いざ助たすけて呉んと鍛きたえ上たる鐵てつの禪杖ぜんぢやうを追取松の蔭かげより躍をどり出で茲こゝな欲心衆生の惡漢わるもの共命が惜くば逃去べしコレ若衆氣を慥たしかに持れよ我等助けて進まゐらせんと聲を懸けるに雲助共は振返りヤア茲こゝな入らざる入道め汝おのれも倶ともに成佛させんと打て蒐るを武士は閃ひらりと體を引外ひつぱづし然さらば目に物見せんずぞ彼禪杖にて片端よりばらり〳〵と討倒せば雲助共は大に驚き是こは恐ろしき入道かな命いのち有あつての物種ものだねなり逃ろ〳〵と聲を懸かけ後あとをも見ずに逃出すを猶武士は鐵杖てつぢやうにて中あたるを幸ひ打据うちすゑたり因て雲助共は頭かしらを打れ脊せも痛いため或は向う脛ずねを薙なぎられて皆々半死半生になり散々にこそ逃去けれ武士は是を見て呵々から〳〵と打笑ひ扨も能氣味哉よききみかな惡漢共わるものどもは逃失にげうせたりと云つゝ半四郎の側そばに立寄是々氣を確たしかに持れよと抱起だきおこして懷中の氣付を與へ清水を掬むすびて口に注そゝぎなどして厚あつく介抱かいはうなしけるに半四郎は未だ口は利きかざれども眼を開き追々に息いきも入たる樣子を見て先々まづ〳〵強き怪我けがもなかりしや而して其許そのもとは何國の者ぞ又如何成る用事有て夜中只一人此原中を通り懸りしやと問とふに半四郎は漸々に氣を落付おちつけ是は〳〵何方樣かは存ぜね共危き命を御助け下されし事實まことに有難く此御恩生々世々忘れ申まじ私しは讃州さんしう丸龜在まるがめざい高野村かうやむらの百姓半左衞門の次男半四郎と申者に候が親類しんるゐより頼たのまれし急用にて伊豫いよの松山迄參る途中先刻松の尾と申宿にて夜食の機をりから雲助ども理不盡に酒代を搖ゆすりかけ候故ゆゑ據よんどころなく大勢を打散して逃參にげまゐりし所に早くも惡漢わるもの共大勢徒黨とたうして此の如く危き目に出遭であひし也なり夫と申も實は親類より金子五十兩を預り居候故此金を目懸惡漢共に付込れし所僥倖さいはひに貴公樣あなたさまの御庇蔭おかげを以て一命を無難に助かり候事呉々有難く候と涙を流して語かたりければ旅の武士は始終しじう樣子やうすを聞きゝ其そは不屆ふとゞきなる奴輩やつばらなり其許そのもと若年にして今の働き勿々なか〳〵凡人ぼんじんの業とは思はれず天晴農民の悴せがれには珍めづらしき者なり某しは豐後府内の浪人にて後藤ごとう五左衞門秀盛入道ひでもりにふだうと號いひ無刀流の劔術を心懸け諸國武者修行なす者なれば決して氣遣きづかひにするに及ばず尤も猶途中不用心ゆゑ是より其許そのもとを松山迄送り遣つかはすべし又其許に折り入て咄はなし度たき事も有により徐々そろ〳〵と歩行あゆまれよと申に元來正直なる半四郎ゆゑ少しも是を疑はず誠まことに御深切の段有難く存じ奉つる然らば仰に隨ひ申べしと立上り夜の更ふけしをも厭いとひなく是より兩人打連れ立ち松山指さしてたどりけり實げに後藤秀盛の仁勇天晴あつぱれの武士と謂つべし扨又五左衞門は道すがら種々の物語りをなし半四郎の樣子を試ためし見るに應答うけこたへの言葉遣ひ温順をんじゆんにて自然其中に勇氣を含ふくみ又父兄を大切になす孝悌かうていの備そなはり殊に力量早業は目前に見し事ゆゑ心の中に思ふ樣やう都すべて藝道げいだうを習ひて覺おぼゆるを人と云習はずして其業に妙を得るを神と云然されば今此若者百姓にて耕作かうさくを業わざとし居ながら自然劔法の妙めうを得たる手練あり先刻大勢を相手に討合うちあふ有樣ありさま勿々なか〳〵凡人ならず加ふるに大力無双むさうにして正直正路に見え父兄おやあにに孝悌かうていを盡す樣子是これ天晴あつぱれの若者なり此者を貰もらひ受て我養子となし無刀流の劔法を傳授でんじゆせば虎とらの翼つばさを添そゆるが如く古今無双の名人と成べし我が流儀りうぎを後世に殘すは是に増たる事あらじ幸ひ兄は親の家督かとくを繼つぐと申せば此者を是非とも貰もらひ受て老の樂みにせんと思案を極きはめ道々半四郎に此趣きを咄はなしけるに半四郎は大いに悦び誠に有難き思おぼし召なり命の親なる貴公樣あなたさまの事なれば何として否いなむべき樣は御座なく候間あひだ親元さへ承知仕つらば私しは何れとも思し召次第隨ひ奉つらんと申ける故ゆゑ後藤ごとうは甚いたく悦び我等未だ一人も子と云者なきを天も憐あはれみ斯る孝子を授さづけ給ふならんと心の中にて天地を拜し半四郎と倶ともに頓やがて伊豫の松山に到り則ち半四郎は頼まれし五十兩の金を親類しんるゐへ渡し夫より又後藤と同道して讃州さんしうへぞ立歸りける


第三回


 然るに半四郎は後藤秀盛ごとうひでもりと同道して讃州さんしう高野村かうやむらへ立歸り我家に到りて父ちゝ半左衞門へ途中とちうの次第しだいを落もなく物語りければ半左衞門は且かつ驚おどろき且かつ喜よろこび早速さつそく秀盛ひでもりを請しやうじ我子を助けられし恩人おんじんなりと厚あつく禮を述て種々饗應もてなしけるに後藤も恙つゝがなき歡びを云て暫時しばらく酒さけ宴交くみかはせしが頓やがて半四郎を養子に貰もらひ度たき由よし物語りしに半左衞門も大いに悦び迅速すみやかに承知なしければ此に於て萬事の咄はなし調とゝのひ五左衞門は直たゞちに半四郎を貰もらひ受うけ我養子となしたりけり是に因て後藤秀盛は丸龜の城下へ無刀流劔術むたうりうけんじゆつの道場を出せしが此道場日々に繁昌はんじやうして殊の外弟子も多く何一ツ不自由ふじいうなく暮くらしけるに付つき後藤は我目矩わがめがねを以て貰もらひ請うけし半四郎ゆゑ己れが實子の如くに愛あいし半四郎も又また能よく孝養かうやうを盡しけるが其中無刀流の劔術を一入しほ心を盡して教授けうじゆなすに元より神妙しんめうを得たる半四郎なれば上達する事一を聞き十を知るの才智さいちにして忽ち其奧儀をも極め古今無双ここんむさうの達人となりし所に早くも八ヶ年の星霜せいさうを送りける中うち今は門弟中も大先生より小先生の教へ方が宜等よきなどとて皆小先生々々々と半四郎を尊敬そんきやうなすの餘り大先生は最もう老込おいこまれ迚とても小先生には及ぶまじと云を却つて父の五左衞門は我が奧儀あうぎを傳授でんじゆしたる甲斐かひありと悦ぶ事限りなく爰に於て丸龜まるがめの道場は養子半四郎に任まかせんと五左衞門は我名の一字を讓ゆづつて後藤半四郎秀國ひでくにと名乘なのらせ門弟中もんていぢうへも右の趣おもむきを吹聽ふいちやうなし五左衞門は是より猶なほ我わが流名りうめいを國々へ弘ひろめんとて又々諸國武者修行むしやしゆぎやうを志こゝろざし旅立たびだちせんと云に半四郎は是を止とゞめ最早御老年の御事此上の御修行にも及およぶまじければ是までの如く當所たうしよに在おはして以後は月雪花つきゆきはなの詠ながめを友ともとなし老を養ひ給ふべし私し儀ぎ當時たうじは斯かくの如く劔道指南仕つり候樣に相成諸人の尊敬そんきやうを受る事皆御父上の御高恩ごかうおんなれば切せめて此上の御恩報じには朝夕あさゆふ御側おそばに在て御介抱ごかいはう申上度たし聊かも御不自由はさせ申間敷まじく何卒御止まり下さるゝ樣にと只管ひたすらに諫いさめけれども父秀盛は更に聞入ず成程其方が申す志こゝろざしは忝かたじけなけれども未だ〳〵我等とても全く老朽おいくちたるといふ身にもあらず諸國を見物ながら我が流儀りうぎをも弘めんと思ふなり然りと雖も某それがし萬一病氣の時は何國いづくに居をるとも早速飛脚を以て知する間其節は迅速すみやかに來りて呉くれよ是のみ我等が頼たのみなりと申ければ半四郎は是を聞きゝ如何さま此儀を強しひて止むる時はもはや老朽おいくちたりと云に似にて却かへつて不孝になるべしと思ひ夫は仰せまでもなく何時いつにても御用の節は早速さつそくに參り候はん其儀は少しも御氣遣おきづかひあるべからずと申ければ五左衞門も安心なし然しからば近日きんじつ出立におよばんと是より旅たびの用意に及び跡あとの道場は半四郎に任まかせ置おき門弟中へも夫々に別れを告つげ後藤五左衞門秀盛入道は此時五十五歳にて先まづ關くわん八州を志こゝろざし再び武者修行にぞ立出たちいでける扨又後に殘りし後藤半四郎秀國ひでくには丸龜の道場を預あづかり猶なほ追々おひ〳〵に門弟殖ふえければ殊の外に繁昌はんじやうなし居たるに此程半四郎の實父半左衞門は不計ふと風かぜの心地こゝちにて煩わづらひ付しかば種々醫療いれうに手を盡つくしけれども終に養生やうじやう叶かなはず相果あひはてけり因て兄あに半作は勿論半四郎も元もとより孝心深き者ゆゑ其愁傷そのしうしやう大方ならずと雖も斯かくて有べきにあらざれば泣々なく〳〵野邊のべの送りをなし七日々々の追善つゐぜん供養くやうも最いと念頃ねんごろに弔とむらひ兄弟喪もにぞ籠こもりける然るに半四郎は豫かねての孝心ゆゑ親の亡後なきあとは兄の半作を親の如くに尊敬うやまひ假かりにも其意に背そむく事なく五節句其外何事によらず自分が門弟中より申受たる金子有時は兄半作へ遣つかはして田地でんぢ田畑でんばたを買求かひもとめさせ兄半作の身代を助け孝順なる事誠に稀まれなる深切にして自分は一向に姿態なりふりにも構かまはず着きれば着たなり又門弟中より申うけたる金なども何程あるやら勘定もせず少しも欲心よくしんのなき人なれば門弟中ちうの中重立おもだちたる者が夫是それこれの取始末とりしまつをなし賄まかなひの世話を致し居る位くらゐの事にて一向世帶には構かまはぬ人なり又酒は元より大酒故日毎ひごとに一二升づつ飮ぬ日とてはなく然れども今は何一ツ不自由ふじいうなく暮くらし居けるが兎角とかくに他ひとの世話好せわずきにて丸龜の城下は勿論近隣きんりんの村々まで困窮こんきうの者へは米錢を惜まず施し病人へは醫師いしを頼んで藥くすりを飮のませなどして貧民を救ふ事を常の樂みとなしければ丸龜まるがめ近在きんざいにては後藤半四郎を神佛しんぶつよりも有難く思ひ皆々が生神々々いきがみ〳〵と云ひて尊敬なしたりけり扨又後藤五左衞門秀盛入道は讃州さんしう丸龜を出立なし夫より東國を廻り諸所にて無刀流の名譽めいよを顯あらはし上州大間々おほまゝ迄到りしが此所に道場を開き多くの門弟も出來て繁昌はんじやうなし居たりしが兩三年を過すぎ秀盛入道は不斗ふと煩わづらひ付し處大傷寒たいしやうかんとなり殊の外大病ゆゑ門弟中大いに心配なし種々治療ちれうに手を盡つくしたれ共更に効しるしなく今は一命めい旦夕たんせきに迫せまり頼みの綱つなも切果たる體なれば五左衞門重おもき枕まくらを上あげ漸々やう〳〵と言葉短みじかに手紙を認したゝめ丸龜なる養子半四郎方へ急ぎ飛脚を遣はしたり偖さて又また半四郎は養父の安否あんぴを案事あんじ居たるに不圖ふと上州大間々おほまゝよりの飛脚到來せしかば何事やらん急ぎ書状しよじやうを披見ひけんするに養父秀盛の直筆ぢきひつにて我等此度の病氣殊の外大切と有ける故大いに驚き先まづ返事へんじを遣つかはさんと早速參上致すべき旨むね相認あひしたゝめて飛脚を歸し半四郎は豫て約定やくぢやうの通り駈着かけつけんと取物も取敢ず旅の調度を整とゝのへ直樣すぐさま出立に及ばんとしければ門弟中は肝きもを潰つぶし先生には何を急遽あわたゞしく旅の用意を成れて何方いづかたへ御出成れ候やと問けるに半四郎は早はや草鞋わらぢを履はきながら然は各々方も御存知の通り養父やうふ秀盛ひでもりは當時上州大間々に罷在まかりあり候處此程大病にて一命めい旦夕たんせきに迫せまり候由の飛脚到來せし故今より關東へ罷まかり下るなりと有しかば門弟中聞て夫は御道理ごもつともなれども先生餘り御性急ごせいきふかと存じ候而して又後々の儀は如何なされ候やと申すに半四郎然されば其事なり後の道場は其許方そのもとかたに任せ置により能樣に計らひ給はるべし何れにも師父の大病と聞ては片時へんじも安閑あんかんとして居る場合にあらざれば兎とも角かくも高弟衆かうていしうが代稽古だいげいこをして間を合せられよ某し儀格別日數の懸る事もあるまじ何分頼み置と云つゝ直樣すぐさま出立なしたりけり元より早足はやあしの半四郎ゆゑ晝夜ちうやとなく道を急ぎたれ共名に負おふ四國の丸龜より上州大間々迄の道程みちのり百九十餘里の所なれば如何に急ぐとも道中に隙取ひまどりしかば其中に養父五左衞門は病死なし最早もはや門弟中もんていちうの世話にて弔とぶらひも出せし跡あとへ半四郎着しける故師父の死目しにめに合あはざるを如何にも殘念に思ひ足摺あしずりして歎なげき悲かなしみけれども今さら詮術せんすべなければ養父の所持したる品々を賣拂うりはらひ諸入用の勘定等をなし又門弟の中うち世話になりたる者へは夫々に紀念分かたみわけを遣つかはし殘りの金子は葬はうむりし寺へ祠堂金しだうきんに寄進なし其外跡々の事共殘る方なく取片付とりかたづけ暇乞いとまごひして出立に及ばんとするに門弟中一同に名殘なごりを惜をしみ暫時しばらく當所に足を止められ劔道けんだう御指南ごしなん下され候樣にと強しひて申けるゆゑ半四郎も據よんどころなく然らば四十九日の立迄は滯留たいりうせんとて此所に止まり養父の門弟に稽古けいこを致し遣つかはしけるに門人は大に悦よろこび大先生よりは却かへつて教へ方も宜よく業前わざまへも一段上ならんなどと評し彌々いよ〳〵勵はげみけれども半四郎は喪中もちうの事故餘り多勢の入來るを厭いとひ加之そのうへ田舍ゐなかは物固ものがたくして四十九日立ざる中は大精進だいしやうじんにて魚類ぎよるゐを食する事能はず然されども半四郎は元來大酒にして又肴さかなは魚類を好む故ゆゑ精進しやうじんには甚だ困こまり果はて自然力も拔る樣に思ひしかば或日門弟中に向ひ扨々是迄は不思議ふしぎの縁えんにて御世話に相成千萬忝かたじけなく猶又各々方の引止めに因て滯留たいりう致したなれ共某し國元にも道場だうぢやう是これある事なれば何時迄いつまでも長く逗留たうりうも相成難く且歸國がけ江戸表も見物致し度たく存ずれば名殘なごりは盡つきねども最早御暇申さんと云に門人共も甚だ名殘なごりは惜をしめども今は止むる言葉もなく然らば御心任おこゝろまかせになされよと各自おの〳〵餞別せんべつなど贈おくりければ遂に別れを告て出立なし江戸表へぞ到りける


第四回


 偖さて又また爰こゝに武州ぶしう熊谷堤くまがいづつみの外はづれに寶珠花屋はうじゆばなや八五郎と云居酒屋あり亭主八五郎は此邊の口利くちきゝにて喧嘩けんくわ或ひは出入等之ある時は毎いつも扱あつかひに這入はひりては其騷動そのさうどうを鎭しづめけるに渠かれが云事は皆是を用ひるゆゑ人々にも立られ至つて侠氣をとこぎ有者あるものなり此八五郎が女房は去年病死して跡には女子一人有けれ共最早三歳にもなりければ乳ちゝも入らず少すこしづつ食事を與あたへて育やしなひけるゆゑ近所の者後妻を勸すゝめけれども夫は面倒めんだうなりとて只一人子の育そだつを樂たのしみに小女こをんな一人若者二人遣ひて居酒屋ゐざかや渡世とせいをなし居たり然るに其年十月中旬頃なかばごろ年の頃二十四五歳色白にして鼻筋通はなすぢとほりし男と又元服は致し居れども未だ十八九共云べき最いと美麗あでやかなる器量の女を連つれたる浪人體らうにんていの者夫婦連づれとも言べき樣子にて男の衣類は黒羽二重の紋付もんつきに下には縞縮緬しまちりめんの小袖を着し紺博多こんはかたの帶を締しめ大小なども相應なるを帶して更紗さらさの風呂敷包み二つ眞田さなだの紐ひもにて中を縛くゝり是を肩に引掛ひきかけ若き女は上に浴衣ゆかたを覆おほひたれども下には博多縮緬はかたちりめんの小袖を二枚着し小柳こやなぎに縫模樣ぬひもやうある帶を締しめ兩褄りやうづまを取揚とりあげ緋ひの蹴出けだしを顯あらはし肉刺まめにても蹈出ふみだせしと見えて竹の杖つゑを突つきながら足を引摩々々ひきずり〳〵來るは如何にも旅たび馴なれぬ樣子なりしが夫婦連づれの者此寶珠花屋このはうじゆばなや八五郎の見世に腰こしを打懸やれ〳〵草臥くたびれたりと云て息いきを繼つぎ休やすむ故亭主八五郎は茶など運はこばせて挨拶あいさつなしけるに若き夫婦は御世話ながらお酒を]一合がふ御膳ごぜんを二人前出し下されと云ければ亭主は承知なし御肴おさかなは何んぞ見つくろひましよと云つゝ煮染にしめに飯と酒を添て持來りければ是は御世話と云ながら夫婦は頓やがて一合の酒を飮のみ飯めしも食くひ終をはりて身支度をし乍ながら御亭主是から江戸迄何里あるやと問ひけるに亭主は是を聞江戸迄は此所より十六里餘也なりと答こたふるに又夫婦の者最早もはや何時なるやと云ければ頓やがてもう七ツ下さがりならんと申を聞きゝ夫婦の者然さすれば今より江戸までは迚とても行ゆかれまじ切せめて鴻こうの巣すとやら迄も行れべきやと云に亭主は兩人の樣子を見て失禮ぶしつけながら足弱あしよわの御女中を御連おつれなされて是から四里八町は餘程よほど夜に入ります殊に此熊谷くまがい土手どては四里八町と申ても餘程丁數が延のび五里の餘は必ず御座り升夫に惡ひ土手にて機々をり〳〵旅人が切られたりあるひは追剥おひはぎに出會であひ強ひどいめに逢事ありて誠まことに物騷ぶつさうゆゑ何れにも今晩は此熊谷宿へ御宿おとまりあつて明朝はやく御出立なさるが宜しからん入らざることゝ思おぼし召めしも有べけれどもまづ〳〵御用心なさるゝが大丈夫と深切しんせつに咄はなし居る機をりから近來ちかごろ此邊を立廻る駕籠舁かごかきの惡漢共わるものども門邊かどべを通りかゝりしが兩人の樣子を見て此所へ這入はひり來りしかば八五郎は惡わるい奴やつが來りしとは思へども報あだをさるゝも嫌いやさに默止もだし居ゐれば駕籠舁かごかき共は夫婦に向ひもし旦那戻もどり駕籠ゆゑ御安直おやすく參りやす何卒どうぞお乘のりなされといひけるに浪人夫婦は是を聞きゝ今より鴻の巣迄行くには刻限こくげんも遲おそしと申事なれば此宿に泊とまる積り殊に是からの四里八町は餘程延のびて居るとの事ゆゑ夜にもかゝるし其上又大いに物騷ぶつさうだとかいふ事なれば先々見合せに致さうと云けるを駕籠舁どもは大いに笑わらひコレ旦那だんな何どうした事をいひなさる此道中は初めてと見えるゆゑ夫リヤア大方おほかた此宿の者が御客を釣つるつもりの話しを御聞なされたのだらう四里八町所どころか此堤このどては僅わづか二里半しかありません今から急いで行ゆかば必らず灯あかりのつく時分には鴻こうの巣す宿じゆくへ參りやす我等わつちどもはほんの酒代さかて丈だけにて何にも構かまはず二里半三百文で行ゆきませう其代り少しも立たてずに急ぐから何卒どうぞ御乘おのりなすつて下せい三百文なら跡あとで彼是かれこれと酒代さかてなどは御誣頼おねだり申しは致しやせんと駕籠舁かごかきどもは口から出任でまかせに欺あざむき勸すゝめ四里八町の道を二里半なりと云に浪人夫婦の者道中は始めてといひ江戸表へ急ぐ身なれば終に甘々うま〳〵欺あざむかれ夫なら急いで頼みますと云つゝ此家を立出て連つれの女を駕籠に乘のせ男は後うしろに附添つきそひ乍ら堤つゝみをさして急ぎけり


第五回


 偖さて又また寶珠花屋はうじゆばなや八五郎は浪人夫婦の後を見送りアヽ今の若夫婦は惡わるい駕籠舁共かごかきどもに引罹ひきかゝりとんだ目に逢あふならん我等があれ程ほど氣を付て遣やるに若い人達ひとたちと云ふものは仕方がない後先の勘辨かんべんもなく困こまりしものなりと申けるに下男の彌助やすけも氣の毒面どくがほに然さやうさ惡い奴に引罹ひきかゝりましたが夫ならとて知らせる譯わけには參らず實に氣の毒な事で御座ると申を八五郎は聞て然共々々さうとも〳〵奴等きやつらの邪魔じやまをして見ろ後で何樣どのやうな意恨いこんを報かへされるも知れず此こんな間まの惡ひ日には又また何どんな惡ひ奴が來るか計られねば早く見世を仕廻しまつて休むが好いゝといふに下男彌助何さま然樣さやう致さんと早々に見世を片かたつけ今いま戸を建たてんとする處へ見上みあぐる如き大兵の武士鐵てつの禪杖ぜんぢやうを引さげつか〳〵と這入はひり來り是々若いもの酒を一升かんをして呉くれ然さうして何どうぞ肴さかなを出し呉よと云ながら縁臺えんだいにどつかと腰こしを打掛うちかけやれ〳〵日の短みじかひ事だ十月の中の十日に心なしの者を遣つかふなとは能よく云いひしものだコレ〳〵若い者大急ぎだ早く酒と肴を出し呉よと云に下男げなん彌助やすけは此體を見て大いに驚きハツと思ひながら猶なほもよく〳〵見るに身の毛けも彌立よだつばかりに恐ろしき長なが大小を帶し月代さかやきは森もりのごとくに生はえて色いろ赤黒あかくろく眼まなこ尖するどく晃々きら〴〵と光りし顏色にて殊に衣類は羊羹色ようかんいろなる黒のもん付の小袖に古ふるき小倉の帶おびをしめ長刀形なぎなたなりになりたる草鞋わらぢを穿はきながら臑すねにて尻しりを端折はしよりまた傍邊かたはらの杖つゑを見れば鐵てつの延のべ金がねにて四尺ばかりも有んかと思はれ然しかも握にぎり太ふとなる禪杖なり因て下男彌助は戰々ぶる〳〵慄ふるへながら心のうちには是は何でも盜賊の頭かしらに相違なし慥たしかに今の駕籠舁かごかきどもの仲間ならん飛だ奴が這入はひりこんだと思ひ怖々こは〴〵ながら腰こしを屈かゞめ折角の御入來なれども眞實まことに御氣のどく千萬生憎あやにく只今たゞいま肴さかなは賣切しゆゑ見世を仕しまはんと存じし處なれば最早御肴は少しも御ざらぬと申に彼かの武士さぶらひ然しからば酒ばかりにて宜よろしといひければ彌助否いへ其酒も賣切たりと云ばヤレ〳〵夫は是非もなし大方おほかた飯めしは有あるべきにより出して呉くれよと云へば彌助は首かうべを振ふりナニ〳〵飯めしも皆みな賣切うりきれ炊たいたのは少しも御座らぬといひつゝ武士の方をじろ〳〵眺ながめ居るゆゑ武士さふらひは眞實まことに當惑たうわくなし然らばいつその事此家に泊とまるべし見れば障子しやうじに御泊おとまり宿やどと記しるしあり夫に最もはや申刻なゝつ過すぎにもなるべし餘り草臥くたびれたれば泊とまりて行んにより飯も寛ゆるりと炊たいてもらうべし酒も取寄てもらはん此こ所こへ泊とまるとすれば仔細しさいなしと草鞋わらぢを徐々そろ〳〵脱ぬぎかけ座敷へ上らんとするに下男の彌助心の内うち彌々いよ〳〵迷惑めいわくに思ひ奴きやつに何とか云て何れにも泊とまらぬやう追出して仕廻しまはんともじ〳〵手を揉もみながら今晩こんばんは何分御泊おとめ申こと出來難く其譯は今夜村の寄合にて後刻ごこくは大勢集まり候間御氣のどくながら御宿おやどは御斷おことわり申上ると云けるに武士は其その樣子やうすを篤とくと見て大いに立腹なし貴さまは亭主ていしゆか若いものかコレ先さきほどより能々見るに那流あのながしの桶をけに魚もあるに汝おのれはよく虚うそを申なはてさて解わかりしなり某しの體裁ありさまを見て盜賊か又は食倒くひたふしなるべしと思ひて何を聞ても無い〳〵と計り云は奇怪なり大方おほかた酒さけもあるに相違あるまじと云つゝ武士さふらひはづか〳〵と立寄たちよつて酒樽さかだるの呑口のみくちへ升ますを宛あてがひヤツと一ト捻ねぢり捻りければ酒はどく〳〵出しゆゑ汝おのれ是これほど澤山酒もあるものを只たゞ無々ない〳〵とばかり云ひをつて汝おのれ今に誤あやまるか辛目からきめ見せて呉んと云ながら一升桝ますへ波々なみ〳〵と一ぱい酌つぎ酒代さかだいは幾干いくらでも勘定するぞよく見てをれと冷酒ひやざけの桝ますの角すみより一息いきにのみ干ほし最もう一杯ぱいといひつゝ又々呑口のみくちをねぢり一升桝へ再びなみ〳〵と酌つぎ是をも一息いきに飮終りてコレ若いもの狼藉らうぜきに飮逃のみにげなどは致さぬぞ某がしが身形みなりの惡きゆゑ大方其所そこら邊あたりの狡猾あぶれものか盜賊とでも見込だであらう代錢は殘らず拂はらひ遣はすぞコレ路用ろようの金は此通り澤山所持して居ると懷中くわいちうの胴卷どうまきを取出し夫見よ酒も肴も幾許いくらでも出せ喰倒しをするやうな卑劣ひれつの武士と思ふか茲こゝな盲目めくらめと云ながら百兩餘りもあらんと思はるゝ胴卷どうまきを投出なげいだしたるに彌助は再び驚き彌々いよ〳〵奴きやつ盜賊に相違なし那あれは何でも何所ぞの家尻やじりを切て盜みし金ならん那あんな身形みなりをして大金を持て居るは愈々いよ〳〵推量すゐりやうの通りならん此こんな奴に商あきなひをなさば又また關かゝり合に成て難儀をするかも知れぬ何れにも斷ことわるより外はなしと彌助は思案を極め成ほど御客おきやくさまの云るゝ通り實は酒も肴も御座れ共是は今申通り今晩こんばん村むらの寄合よりあひに使つかふ仕込の肴さかな夫ゆゑ御斷り申せしなり此上は何卒なにとぞ御免ごめん下さるべしと詫入わびいるを武士は一向聞入ず汝おのれ又僞りを申ぞと云ながら榮螺さゞえのごとき拳こぶしを振上ふりあげ飛とびかゝつて彌助を打倒さんとするにぞ彌助は大に驚ろき逃出さんとして入口いりぐちの障子しやうじに衝中つきあたり摚だうと倒れしかば此物音に驚き亭主八五郎は奧おくより馳はせ出いで來り先々御客さま御勘辨ごかんべん下されよ實は渠かれが申通り今晩村の寄合御座候につき魚は餘分よぶんに仕入置しにより私し儀ぎ是に居て伺うかゞひ候はゞ御好通おこのみどほり早速御酒も肴もさし上げ申べけれども何を云にも下男彌助めは近來ちかごろ奉公に參りし者ゆゑ其邊の差略さりやくは勿論御客樣の見分も一向に出來申さず夫が爲御氣に障さはる事を申上しならんが其段は偏ひとへに私しに御免じ下され御勘辨ごかんべんを願ひ奉つる因ては何なりとも有合の御肴おさかなをさし上候はんと只管ひたすらに詫入わびいりければ武士は忽ち顏色を和やはらげ是は〳〵御亭主の挨拶あいさつ却つて痛いたみ入いる惣そうじて其方そなたの如く理を分て云るれば某し元より事を好このまざるにより強しひてと申譯もなしと云ふに亭主は大いに悦よろこびて早々さう〳〵彌助やすけをよび我等より御客おきやくさまへ御詫おわびも申上たるに早速御勘辨下されたり然れども是に懲こりて以來いらいよく〳〵氣を付よ其方そなたは餘り正直過しやうぢきすぎるゆゑなり早々御酒のかんを付鯰なまづの燒乾やきからしを煮付につけにして上よと申付るに彌助は諾々はい〳〵と云ながら酒のかんを付肴を拵こしらへて出しければ武士は大いに機嫌きげんを直なほし最いと愉快氣こゝろよげに酒を飮ながら偖々さて〳〵御亭主店先を騷さわがせ氣の毒どく千萬某それがしは業もとより生れ付て容體なりふりに一向かう構かまはぬゆゑ是までも兎角とかく人に見下られ殊に見らるゝ如く大いなる木太刀きだちを二本さして歩行あるきけれども夫それを武者修行と思ふ者一人もなく却て長脇ながわきざしの親方か但たゞし追いはぎ盜賊などの惡漢わるものが扮やつし姿すがたと見違へ甚だ迷惑めいわく致す事ありと云ひければ亭主は聞て否々いへ〳〵失禮しつれいながら人は見かけに寄ぬものにて韓信かんしんとか申人も元は洗濯婆々せんたくばゝの所に食客ゐさふらふに成り居りしとか又人の股またを潜くゞりしとか申程に賤いやしく見えし由よし然さすれば貴公樣あなたさまなどは御體なりは見惡ふ入いらせられても泥中でいちうの蓮華はちすとやらで御人品は自然おのづから瓦かはらと玉程に違ふを見分みわけざれば目鼻めはなのある人とは申さずと云ふに武士は大いに笑ひ夫それは餘り譽過ほめすぎるなりと云つゝ最早もはや酒も頓やがて三升ばかり飮のみたる故ほろ〳〵機嫌きげんになりコレ亭主貴樣は田舍ゐなかに似合にあはず漢土からの事など引事ひきごとにして云は感心々々かんしん〳〵談はなせる男だイヤ面白し〳〵と暫時しばし興きようにぞ入りたりける


第六回


 説さて又また亭主八五郎は彼武士に向ひ失禮しつれいながら御客樣の御國は讃州邊さんしうへんと存じ候が何いづれの御方に御座候やと云ければ半四郎は不審ふしんに思ひ貴樣は如何いかゞして某しの生國を知りたるやと問とふに八五郎は微笑ほゝゑみ先刻より伺うかゞふに御言葉遣ひは讃州のおん言葉ものごしに候間あひだ若もしやと存じお尋ね申上しなりと申せしかば武士は甚だ感じつゝ御亭主ごていしゆ貴樣は記憶きおくといひ心懸こゝろがけといひ天晴の男なり察しの通り某しは讃州丸龜に住居して無刀流劔術の指南しなんを致し後藤半四郎秀國と申ものなりと云に八五郎は是を聞て大いに驚き扨は御客樣が後藤先生にて在おはせしか御縁ごえんと云ものは眞實まことに不思議なものなり知ぬ事とは申ながら先刻せんこくより大いに失禮仕しつれいつかまつりし段だん眞平まつぴら御免ごめん下さるべし只今たゞいま上州大間々に御道場を御出し成れたる後藤秀盛先生が毎度まいど貴方樣あなたさまの御噂おうはさを成れ拙者は未熟みじゆくなれども悴せがれの半四郎は古今の達人なりと御噺おはなし有しが其半四郎先生に今日御目おめに懸かゝらんとは夢ゆめさら存ぜざりしなり又其御身形おんみなりは如何なされし事やと問とひければ半四郎聞きゝて今も云通り某しは生質うまれつき容體なりふりには一向頓着とんぢやくせず人は容體みめより只心なり何國へ行にも此通り少しも構かまはず只々蕩樂だうらくは酒を飮ばかり外には樂たのしみと云者なし而して又々亭主には某しが師父しふを如何して存じ居らるゝやと申に亭主は猶なほ膝ひざを進め然されば秀盛先生はこの近邊きんぺんにも御弟子これ有よしにて時々御指南に御出おいでなされて滯留たうりうの節せつは毎度まいど私方わたくしがたにて御宿おやどを申上夫ゆゑ大先生の御咄おはなしに貴方樣の御噂おうはさを伺うかゞひしなり併しかしながら當冬に相成ては未だ一度も御出なく此秋中迄このあきぢうまでは毎月缺かゝさず御出ありしが如何いかゞなされしにやと申ければ半四郎は始終しじうを聞きゝ夫そは不思議の縁えんなり某し此度此所を通行なすは大間々おほまゝなる我が師父大病の趣おもむき國元へ飛脚到來せしゆゑ丸龜まるがめより急いで上州大間々まで參りし處に何と云ても二百里近ちかくの道程みちのりゆゑ死目の間に合ず遙々はる〴〵遠路ゑんろを來りし甲斐かひもなく甚だ殘念に存するのみ既に師父の葬送さうそうは門弟中厚あつく世話致し呉し由ゆゑ道場の跡片付あとかたづけなど濟すまして漸々やう〳〵今日けふ此所まで戻もどりしなりと此程の事故ことがらを涙ながらに物語りしかば八五郎は大いに驚き夫は嘸々さぞ〳〵御愁傷ごしうしやうの御事と御察し申上る道理だうりこそ當冬たうふゆは御出之なきと存ぜしなり然らば未だ當所の御門弟中ごもんていちうは知らざる事ならんにより私わたくしより早速さつそく申繼つぎ御墓參おはかまゐりも致させんと云けるに半四郎は亭主ていしゆの厚あつき志こゝろざしを感かんじ何分宜しく頼むなりと申せし時とき又八五郎は半四郎に向ひ先生先程さきほどは一旦たん申上たれども其實今晩こんばん村むらの寄合よりあひと申せしは僞りに候間あひだ今宵こよひは寛々ゆる〳〵お泊とまり下さるゝ樣にと申ければ半四郎は莞爾につこと笑ひ夫は幸さいはひもはや時刻じこくも遲おそくなりし上うへ某しも大いに飮過たるにより御亭主の言葉に隨ひ今夜は世話せわに成べし然さらば今一升燗かんを頼むと言に八五郎は誠まことに珍めづらしき大酒なりと思ひ先々まづ〳〵御寛おゆるりと上られよと言つゝコレ〳〵と彌助を呼び先生樣に最もう一升お燗かんをつけて上よシテ又また徐々そろ〳〵御膳ごぜんのお支度をと云ければ彌助は畏かしこまり候と又一升をさし出し夫より四邊あたりを立働たちはたらく隙ひまに傍かたはらに立掛ありし鐵の延棒のべぼうを故意わざと足にて蹴倒けたふし見るに少しも動うごかず因て彌助は目方を引見んと思ひ是これは不調法仕ぶてうはふつかまつりましたと云ながら持て座敷ざしきへ上んとするに少しも持上もちあがらずウン〳〵と云て力瘤ちからこぶを出し居るにぞ八五郎は此所へ出來り我等われらが上んと云ながら引立ひきたてんとすれ共同人にも動うごかねば八五郎は大いに肝きもを潰つぶし是は滅法界めつぱふかいに重き御品なり先生此御杖このおつゑは何程いかほどの貫目おもみ候やら私し共には勿々なか〳〵持上らずと云ければ後藤は打笑ひ否いな多寡たくわの知たる鐵の延棒のべほう某しが杖つゑの代りに突ついて歩行あるく品しな目方は十二三貫目も有べし途中にて惡漢わるものなどに出會いであひし時には切よりも此棒にて打偃うちのめすが宜しと云つゝ片手にて是を取ひう〳〵と風を切て振廻す有樣ありさま宛然さながら麻殼をがらを扱あつかふが如くなるにぞ八五郎は是を見て彌々いよ〳〵肝きもを潰つぶし先生の大力實に天下てんか無双ぶさうならんと見て居たるに後藤はコレ彌助先刻さつきの代りに鳥渡ちよつと一本試こゝろみようかと振上ふりあげければ彌助は大いに仰天ぎやうてんなし御免なされと云より早く奧おくを目懸めがけて迯行にげゆきけり


第七回


 然されば寶珠花屋八五郎は半四郎に向むかひ偖さても〳〵先生は凄然すさまじき御力量哉加之そのうへ劔術は殊さら御熟練ごじゆくれんと伺うかゞひ及び候が今少し貴方あなたが御早く御出あらば好よかりしに惜をしき事なりと申ければ半四郎は聞て某し今少し早く參らば好よきにと云るゝは如何いかなる譯わけなるやと問とふに八五郎然されば御咄おはなし申べし先刻越後者の由よし若わかき夫婦連の侍士さふらひ私し見世に御休み成なされしが逃亡者かけおちものとも見えず身形みなりも可なり立派なれども一向に旅馴たびなれぬ樣子にてイヤモウ意氣地いくぢもなく殊に女は足を痛いためしとて杖つゑに縋すがりて參りし處惡い駕籠舁かごかきどもに付込れ當底たう〳〵欺あざむかれ乘て參りたるが今頃いまごろは此熊谷土手の中程なかほどにて路金も女も定めし奪とられ給ひしならんアヽ思ひ出しても可愛かあいさうな事を致いたせしなり既に其御侍士そのおさふらひが鴻こうの巣すまでも行んと云るゝにより私わたくしが右の駕籠屋かごやの來らざる中うち此熊谷土手は名代の物騷ぶつさうなる所にて殊ことに四里八丁もある場所ゆゑ必らず夜に入いるに付今夜は當宿たうしゆくに泊とまりて翌あすの朝あさ早立はやだちになされよと御止め申居たる處へ駕籠舁かごかきめが這入はひり來り終に勸すゝめ込て引懸ひきかけ行ゆきしなり其時貴方あなた樣が御出成れたなら惡漢わるものの五人や十人は忽ちに打散し助たすけて遣はされしならんに呉々くれ〴〵惜をしきことをしてけりと咄はなせしかば後藤は樣子を聞きゝ夫は又何故に惡漢わるものと知りながら教へては遣やらざりしぞ聞が如きにては實まことに痛いたはしき事なりと云に八五郎否いな道中の雲介くもすけ駕籠舁かごかきなどと申ものは今日は此こ所こに居ると思へば翌あすは大坂へ參り又は東海道へ稼かせぎに歩行あるき少しも居所ゐどころの極らぬ奴輩やつばらゆゑ若もし奴等きやつらが仕事の邪魔じやまをする時は後日に如何なる報あだをさるゝも計り難く夫故に道中筋だうちうすぢは何れの茶屋小屋にても看々みす〳〵惡漢わるものに引懸ひつかゝりて難儀する旅人があらうとも滅多めつたな事は申されずと云ければ半四郎成なるほど夫は道理もつともなり何にしても可愛かあいさうなことゆゑ何どうか救ひて遣度やりたいものと兩手を組くみしが可々よし〳〵某しは元來天地の間あひだに差構さしかまへのなき身分主人持もつではなし母親は兄半作が世話せわををするし全く獨立どくりつの天下浪人又義を見てせざるは勇ゆうなしと云る事あり某し今より駈着かけつけ其者どもを助けて遣やらん是より道程みちのりは何程なにほどあるやと問ひければ八五郎然樣さやうさ四里八町と申せども多分たぶん中頃なかごろで爲す仕事ならん一筋道すぢみちゆゑ御出おいでなされば間違ひなけれ共餘程時刻も後おくれたれば贅足むだあしならんといふに半四郎は最早もはや立上たちあがり假令たとへ贅足むだあしになればとて元々なり某し一ト走りに追着おひつき助たすけてやらん大方おほかた渠等かれら怪我けがもあらんにより本道ほんだう外科げくわ兩人の醫師を頼み置かれよ又また燒酎せうちう鷄卵たまご白木綿等しろもめんとうの用意を頼むなり其入用は某しが出すべしとて後藤は路金を胴卷どうまきの儘まゝ亭主に預けおき悉皆こと〴〵く用意を申し付て強刀がうたうを帶たいし鐵の延棒のべぼうを引提ひつさげ熊谷堤を指さして逸驂いつさんにこそ馳行はせゆきけり


第八回


 偖又彼の駕籠舁かごかきの惡漢わるものどもは浪人夫婦を甘々うま〳〵と僞り乘て寶珠花屋はうじゆはなやを立出しが程なく熊谷堤くまがやどての中程なる地藏堂の前に來り駕籠を撞乎どつかと下おろしオイ棒組々々ぼうぐみ〳〵マア寛然ゆるりと一ぷくやらかさうやれ〳〵世話しないことをしたと云ひながら煙草たばこ入より摺火燧すりひうちを取出してかち〳〵と火を打うち付つけ煙草たばこを呑のみながら最もう爰こゝまで連て來れば此方こつちのものだ先まづ女をんなが捨賣すてうりにしても年一ぱい五六十兩が物はある路用ろようも十兩や十五兩はあるに相違なし其外そのほか衣類いるゐ大小迄だいせうまで奪うばひとらば何でも小百兩の仕事だ久ひさし振ぶりで甘い酒が呑のめる悦べ〳〵と云いふ聲こゑを浪人夫婦は聞て大いに驚き然すれば渠等かれらは豫かねて聞たる護摩ごまの灰はひとか云へる惡漢わるものならん是は如何せんと當惑たうわくの折から一人の駕籠舁は彼浪人かのらうにんに向ひオイ御侍士おさふらひ先刻さつき熊谷の茶屋から四里八丁の丁場ちやうばを二里半だと云て乘のせて來たが實じつは僞りよ此駕籠の中なかの代しろ物と路用大小等が見込みこみで此所まで汗水あせみづに成て乘せて來たのだ何と肝きもが潰つぶれたかヤイ此女は勿論もちろん金と大小衣類まで尋常じんじやうに渡せば命は助けてやる萬一もし否いなと云へば命も倶ともに貰ふ分の事サア素直すなほに路用を出せといふに又一人も同じく侍士さふらひに向ひ應おう然樣さうだ殘らず渡したとて損そんはあるまいコウ侍士さふらひ大方おほかた此女は餘所よその箱入娘はこいりむすめを唆そゝのかし云合せて親の金を盜ぬすみ出して連て逃にげたに相違なし元は只たゞ取とつて來たものだ不殘みんな渡しても損にはならねへサア〳〵渡せ〳〵と立たちかゝる故此方こなたは侍士一人なれども女房を駕籠かごより出し手早く後うしろへ隱かくして楯たてになり嗚呼あゝ殘念ざんねんなるかな斯る惡人とも知らず己れ等如きに欺あざむかれ此所まで來しこと口惜くやしけれとは云ふものゝ刀かたなの手前てまへ假令たとへ命いのちは捨すてるとも汝おのれがまゝに爲さすべきや覺悟をせよと言ひながら腰の一刀引拔ひきぬきつゝ身構みがまへなせば惡わるものどもは打笑ひ何の小癪こしやくな青あを二才さいと息杖いきづゑ取とりのべ打て蒐かゝるを此方は騷さわがず切拂ひ又打込を飛違とびちがへ未だ生若なまわかき腕ながら一生しやう懸命けんめい切捲きりまくれば流石に武士の働はたらきには敵し難くや駕籠舁ども是は叶かなはじと逃出にげいだすを何國迄いづくまでもと追行おひゆく中うち豫かねて相圖あひづやなしたりけん地藏堂の扉とびらを開き七八人の惡漢わるものども破落々々ばら〳〵其所へ馳出かけいだし女を逃すな擔引ひつかつげと追取卷に女房も今は何とも絶體絶命ぜつたいぜつめい如何に此身が女なりとて非道ひだうの手込てごみになるべきやと用意の懷劔くわいけん拔放ぬきはなち彼方此方を掻潜かひくゞり死もの狂ひに突廻つきまはれば惡者どもは是を見てヤア小賢こざかしき女の働き叩たゝき倒たふせと犇ひしめくを頭立かしらだちたる大男は慌あわたゞし氣げに押止おしとゞめコレ〳〵其女を叩き倒して成者なるものか大事の玉に疵きずがつくとそツと生捕いけどれと氣をつけられて惡漢どもよし〳〵合點がつてん承知の濱と遂ひに懷劔を捻取もぎとりつゝ手どり足どり旋々くる〳〵まき強情しぶとひ婀魔あまめと引摺ひきずり來きて捻ねぢつけ駕籠へ入れんとするを女は爰こゝぞ一生懸命ヤレ人殺し〳〵助け給へと泣叫なきさけべは侍士是に心付ヤレ南無三法何時いつの間まに同類めらが後うしろへ廻り我が女房を捕へしやと飛とぶ如くに馳戻はせもどり群むらがる中へ切入ど彼方は名に負おふ荒あれくれども手に〳〵息杖棒いきづゑぼうちぎり打合ふ折から又四五人堤どての蔭かげより顯あらはれ出いで疊んで仕舞へと罵のゝしり前後左右を追取卷打込棒は雨より繁しげく多勢を相手に侍士は死忿しふんを顯はし切り結ぶ心は彌猛やたけに逸はやれども終に刀を打落され逡巡處たぢろくところを惡漢わるものども寄てたかつて侍士を忽ち其所へ打倒うちたふし滅めつた擲なぐりに打据うちすゑたり斯る所へ半四郎は彼早足かのはやあしも一層そう遽はげしく堤の彼方へ來懸きかゝりて遙か向うを見渡すに夜中の事ゆゑ夫なりと目當めあては知ねど女の聲ヤヨ人殺し〳〵助け給へと叫ぶにぞ偖さてこそ惡漢御參んなれと猶一驂さんに馳着はせつきて用意の延棒のべぼうを追取直して躍をどりこみて女房を押おさへたる惡漢どもを後ろよりヤツと云ひさま打たふせば瞬間またゝくまに二三人ウンとも云はず息いき絶たえたり是を此場の始めとして當るを幸ひ片端かたはしより破落離々々々ばらり〳〵と薙倒なぎたふす勢ひに惡漢どもは大いに驚き是は抑如何そもいかに仁王にわうの化身けしんか摩利支天まりしてんかあら恐ろしの強力や逃ろ〳〵と云ひながら命からがら逃失にげうせけり又また打倒うちたふされし五七人は頭を割わられ脛すねを折をられ或は腰骨こしぼね腋腹骨あばらぼね皆打折れて即死せしもあり適々たま〳〵未だ死しなざるも然も哀れ氣に呻うめく體さま心地こゝち能よくこそ見えたりけれ後藤は是を顧かへりみてヤレ〳〵たはいもなき弱虫よわむしめら只一打にて逃散にげちつたりシテ未まだ死切しにきらぬ奴輩やつばらを斯して置は殺生なり然さりとて生返いきかへらせなば又々旅人へ惡さをなす者共なれば止とゞめを刺さして呉んと鐵の棒の先さきを咽のどの邊あたりへ押當おしあてて一寸々々ちよい〳〵と葭よしで物を突く如く手輕てがるに止めを刺し去より後藤は夫婦の者に向ひヤレ〳〵危き事でありしが最早もはや我等が馳着はせつけたる上は心安く思はるべし然されど御浪人には強き怪我けがもなかりしやと云に夫婦の者は大いに悦よろこび何いづれの御方かは存ぜねども圖はからず我々が危難きなんを御助け下され有難く御禮言葉ことばに盡し難し少々は打疵うちきずを受たれども然までの怪我にも是なしと云ながら女房は後藤を熟々よく〳〵見みるに月代さかやきは蓬々ぼう〳〵と生はえ眼まなこ鋭するどき六尺有餘の大男なれば又々仰天なし一旦命を助けられしは嬉うれしく思ひしが是また同じく勾引かどはかしか盜人どろばうにてあるべし如何して能よからんやと薄氣味惡うすきみわるく胡亂々々うろ〳〵するを見て半四郎は是を察さつし是々御浪人我等は此樣に見苦しき身形みなり故ゆゑ定めて不審いぶかしき者と思おぼされんが必ず御心配なさるに及ばず某は讃州さんしう丸龜まるがめに住居なす後藤半四郎秀國ひでくにとて劔道けんだう指南しなんを致す者なるが此度用事あつて上州じやうしう大間々おほまゝ邊へんへ參り先刻歸り道にて熊谷の寶珠花屋といふ酒屋へ立寄たちよりし處亭主の物語に貴殿御夫婦惡漢わるものどもの爲に欺かれ定めし御難儀ごなんぎなされんと申事を聞及び武士は相見互あひみたがひ我等も浪人の危難を餘所よそに聞流すは本意ほんいならず思ひ餘程よほど刻限こくげんは延のびたりと申せしかど假令たとへ無陀むだになるとも屆くだけは御助力じよりよく致さんと馳はせ着しに幸ひ間に合てお救すくひ申たるは我等の本望ほんまう先々まづ〳〵安堵あんど致されよと申ければ夫婦は漸々安心してホツと溜息ためいきを吐つき我々夫婦は越後高田の浪人新藤市之丞しんどういちのじようと申者なり誠に有難き御厚情ごこうせいを以て斯樣に我々兩人をお救ひ下されし事千萬忝かたじけなく存じ奉つると初めて喜びの色いろ面おもてに顯あらはれ兩人土に手を突つきて厚く禮を申述のべければ後藤は否々いや〳〵其樣に禮を云ふには及ばず夫よりは先まづ貴殿の疵所きずしよの手當てあて致されよと申に後藤は某の疵は僅わづかばかりなりと云ふを否々少しにても疵は大切たいせつなり自然しぜん等閑なほざりて波傷風はしやうふうにもならば容易ならず先兎も角も先刻の茶屋迄御同道ごどうだう申ての事なりサア遠慮ゑんりよに及ばず此駕籠このかごに乘のられよと今惡漢どもの置去おきざりにせし駕籠を引寄ひきよせ浪人を乘せたれども舁かつぎ人てのなきゆえ後藤は膝ひざを打うち是これはしたり氣の付ざりしがこんな事なら惡漢の二三人を殘して置おけば能よかつたに皆殺せしは是非もなしドレ參らうと半四郎一人にて引擔ひきかつぎサア〳〵御女中先さきへ立たゝれよと云つゝ行んとせしが半四郎は大小と鐵てつの禪杖ぜんぢやうの邪魔じやまに成たれば若もし御女中憚りながら此大小と杖つゑを持もつて下されと女に渡すに赤銅造しやくどうづくりの強刀と鐵の延棒のべぼうなれば大體たいていの男にても容易に持事叶かなはぬ程ゆゑ女房は持もつ所どころか大小ばかりにも困こまり果て然りとて否いなとも云はれず持には持れず如何して宜よからんと身を悶えて居るゆゑ後藤は可笑をかしく思ひ是はしたり成程なるほど御前さんには持れぬはずどれ此方こつちへと引取ひきとつて駕籠の棒へ下緒さげをにて縛くゝりつけコレ御女中お前も一所いつしよに乘り給へ然すれば却かへつて道も捗はかどらんと云ふに女は否々いへ〳〵どう致して勿々なか〳〵勿體もつたいなしと辭退じたいなしければナニ遠慮なさるな夜中の事ゆゑ外に誰も見る者なしサア〳〵乘り給へと手を取て夫婦二人を無理むりに一つ駕籠に乘のせ是でよしとて半四郎は向むかう鉢卷はちまき片肌かたはだ脱ぬぎ何の苦もなく引擔ひつかつぎすた〳〵道を駈かけながら酒屋を指さして急ぎけり


第九回


 扨寶珠花屋八五郎は後藤の出行し後のち早々さう〳〵下男の彌助にいひ付つけ先まづ燒酎せうちう鷄卵たまご白木綿等しろもめんとうを買調かひとゝのへ夫より外科げくわへ怪我人ある趣き申遣つかはし招きけるに醫師いしは幸ひ在宿ざいしゆくなればとて彌助に藥籠やくろうを持せて先へ差越さしこし程なく寳珠花屋へ入來いりきたりしかば亭主は早速さつそく出迎いでむかへて座敷へ請しやうじしに醫師は四邊あたりを見廻し御病人は何いづれに居らるゝやと云いひければ亭主八五郎然ればなり其病人と申は多分たぶん今晩こんばん旅人りよじんに怪我の有ある筈はずゆゑ急度きつと今に參るならんといふに醫師は大いに不審いぶかり然樣か夫は餘り手廻てまはし過すぎたりシテ其怪我人のあらんと云事は如何の譯わけなりやと申ければ八五郎は浪人夫婦の事より後藤半四郎が助たすけに馳着はせつけし始末等委細ゐさいに物語りなどして居たりしが亭主は何にしても餘り手間取てまどれるにより其邊そこらまで樣子を見せにやらんと宿駕籠しゆくかごを頼みて其用意に及びし所へ後藤半四郎は向むかう鉢卷はちまき片肌脱かたはだぬぎになり駕籠一挺ちやうへ夫婦二人を乘せ一人にて引擔ひつかつぎ寶珠花屋の門かどへ駈着かけつけ是々亭主今歸りたりと表おもての戸とを叩たゝきければ八五郎は飛でいで先生せんせい樣子やうすは如何やと云ながら門の戸引明ひきあければ後藤は汗あせを押拭おしぬぐひ如何いかゞ處どころか誠に危き事なり亭主貴樣の云し通り今一ト足あし遲おそいと間に合ぬ處なりしが丁度ちやうど間まをよく駈着かけつけて惡者共を叩き殺し二人とも救ひて來きたと夫婦の者を駕籠より下おろしければ亭主は是を見てヤレ〳〵夫は御手柄々々おてがら〳〵先生の事ゆゑ定めし斯あらんと存じ仰付おほせつけられ通とほり醫師も招まねき置おき燒酎せうちう白木綿しろもめん玉子たまごとも調とゝのひ置候なりと云つゝ半四郎倶々とも〴〵新藤夫婦を奧へ伴ともなひ醫師に診みせ市之丞の疵口を縫ぬはせ療治を頼み置おき半四郎は又亭主へもよく手當てあてを申付つけ一ト間に入て休息きうそくしやれ〳〵草臥くたびれたり拙者せつしやは酒を飮のむべしと又々酒さけ肴さかなを取寄とりよせ酒食しゆしよくをなして其夜は臥床ふしどへ入にけり偖新藤夫婦は思ひ寄よらざる危難を救はれ萬事の事まで厚あつく世話に成なりければ悦ぶ事限かぎりなく是も其夜は打臥うちふしけるが偖翌日より後藤半四郎は自分の金を出し藥くすり其外そのほか手厚てあつく世話を致させて先新藤夫婦の身元を尋ねしに此この夫婦の者浪人せしは其頃越後高田の城主じやうしゆ松平越後守殿まつだひらゑちごのかみどの藩中はんちうにして高たか二百石を領りやうし側役そばやくを勤つとめし者なるが女房は同藩の娘にてお梅と云いつて是も奧を勤居つとめゐたりしに若氣わかげの過あやまちとて不義密通ふぎみつつうに及びし事薄々うす〳〵上かみへも聞え御家法ごかはふに依て兩人の一命をも召さるべきの處ところ同藩にて五百石を領りやうし物頭役ものがしらやくを勤むる大橋文右衞門と云者いふもの平日へいじつ懇意こんいに致し仁心じんしんも深き人ゆゑ其事を不便に思ひ太守たいしゆより御沙汰のなきうちにと密ひそかに新藤を招き金子二十兩を與あたへ早々御家を立退たちのき江戸表へ出て奉公をなりとも致し始終しじう夫婦になつて暮くらされよと懇切ねんごろなる大橋の情なさけに預り兩人が命を助かり江戸表へ參らんと故郷を立出たちいでしなりと始終の事とも物語り然るに主しう親おやのお罰ばつにや途中とちうに於て惡漢どもに欺かれ既に一命も失うしなはんとせし程の危難に逢あひたるを又圖はからずも貴方あなたの御助けに預かりし事實まことに有難く存じ奉つる此御恩このごおんは生々しやう〴〵世々せゝ忘却ばうきやく仕まつらず候と夫婦諸共もろともに涙を流して申しけり


第十回


 扨も後藤半四郎は夫婦ふうふが長物語ものがたりを聞て成程若き者は有ありうちの事何も是を生涯しやうがいの恥はぢとなす程の事でもなし古き俚諺ことわざに後難こうなんは山にあらず川にあらず人間反覆の中うちに在ありと云いふいつ何時なんどき如何なる難儀憂目うきめに出會であふも計られず然れど又々また〳〵運うんの開ひらく事もあるものなり何でも心も正直しやうぢきにして大橋殿の恩を忘れぬ樣に致されよ江戸表へ出たなら御夫婦ごふうふとも辛抱しんばうして稼かせぎ大橋殿に恩おんを復かへし給ふべし拙者も是より江戸見物致さんと思ふなれば江戸迄は御同道ごどうだう申べし先々まづ〳〵心置こゝろおきなく寛々ゆる〳〵養生やうじやうなすが專一なりとて眞實しんじつに申を聞夫婦は増々ます〳〵悦よろこび心靜こゝろしづかに逗留とうりういたしける中うち早くも十日程立疵口も稍やゝ平癒へいゆして身體も大丈夫に成なりければ最早江戸表へ出立せんと申に亭主八五郎は是を聞き先まづ寛々ゆる〳〵と御逗留遊ばさるべし併しかし貴方あなたがたには江戸表不案内ふあんないと申事なれば爰に好よき幸さいはひあり私し兄江戸馬喰町二丁目に武藏屋むさしや長兵衞と申て當時たうじ旅宿りよしゆくを致して居るにより是へ先御落着ありて寛々ゆる〳〵江戸見物を遊ばされ候はゞ然るべく私し兄の儀を申もいかゞに候へども何なにごとによらず是これは斯かうだといふ時は是までも隨分ずゐぶん他人さまの御世話を申氣象きしやうに候あひだ失禮しつれいながら御相談ごさうだん相手あひてにもなる侠氣をとこぎのものに御座候是へ私より手紙てがみを添そへて差上申べしと云ければ後藤始め大いに悦び夫は何よりの幸ひ何分頼むと有りけるに八五郎は後藤ごとう并ならびに夫婦の者の素性すじやうを委くはしく書状に認したゝめ是を渡わたしければ兩人は悦び旅宿代はたごだいは勿論もちろん醫師いし藥禮等やくれいとうに至る迄殘らず半四郎より勘定致し翌朝よくてうは朝早く起出て支度を調とゝのへ夫々それ〴〵厚あつく暇乞いとまごひに及び後藤半四郎は新藤夫婦を同道どうだうなし熊谷を出立して此程は此堤このどてにて危ふかりしなどと道すがら語かたり合あひつゝ江戸表馬喰町へ來り武藏屋むさしや長兵衞方に落着おちつき寶珠花屋よりの添書を出しければ亭主長兵衞も弟八五郎よりの手紙も是ある事ゆゑ早速さつそくに出來りて夫々に挨拶あいさつに及び御緩ごゆるりと御逗留遊ごとうりうあそばさるべしとて奧座敷を一間ま貸切かしきり厚あつく待遇もてなしける故後藤は心置なく思ひ夫より日毎に案内者を連つれては向島兩國淺草吉原或は芝神明しばしんめい愛宕あたご又は目黒不動と神社佛閣名所舊跡等を見物して歩行あるき氣隨きずゐ氣儘きまゝに日々にち〳〵酒さけ而已のみ多く飮のみ凡そ十四五日も逗留せしが後藤は萬事心を付新藤夫婦をも折々誘引せしかど市之丞夫婦は素もとより僅の貯たくはへにて國くにを出いで途中にても圖らず長逗留なし醫藥其他共後藤の世話になりしとは云いふものゝ追々に金かねも遣つかひ減へらしければ此上江戸見物などに遣つかひ捨すてる貯へなきゆゑ只たゞ禮れいのみ云て一度も同道せし事なく日々宿屋にばかり居て誠に退屈勝たいくつがちなれば夫婦は額ひたひを合あはせ何時まで斯して居るとも段々だん〳〵路用ろようは盡つきる而已にて江戸の樣子は知れざるゆゑ奉公するにも何所どこへ頼んで宜よろしきや勝手も分わからず寧いつその事に何ぞ小商ひにても始はじめて見樣みやうかと明暮あけくれ身の有付ありつきを考へとつ追つ相談なし居たるに或日此家このやの手代てだい來きたり決して御催促を申まをす譯わけには是なく候へども最早もはや暫時しばらくの御逗留ゆゑ御旅籠おはたごも餘程よほど溜たまりしにより少々にても御拂ひ下さるべきや又は後藤樣の御歸りを御待おまち申さんかと後藤始め三人の旅籠代はたごだい二十日分十九貫くわん五百文金となして三兩と二百五十文に相成候と云いひつゝ書付かきつけを差出しけるに夫婦は面かほを見合せ暫時しばらく答こたへもなかりしかば手代は樣子を見て取とり何いづれ又後藤樣の御歸りの上願ひに出んと云て立去たちさりしに夫婦はホツと溜息ためいきを吐つき今も今とて相談の折から此家の旅籠の書付かきつけを見るに就つけても斯かく空々うか〳〵他人ひとの厄介やくかいになりて居るは如何にも心苦しく然りとて是を拂ふ心なしとは云いふものゝ切せめては此家の旅籠だけも後藤に聞せず拂ひたしと猶なほ種々さま〴〵に相談なせしに妻のお梅は是までにも櫛くし簪かんざしなどは追々に賣盡うりつくし今は着替きがへ一つ有而已あるのみなれども此上は其着替そのきがへにても賣代うりしろなし旅籠の代に當あてんと申故市之丞も詮方せんかたなく然らば我等の着替羽織とも未だ之有これあるにより夫をも共に賣代うりしろなし此家の借かりを返さんとお梅に右の三品を取出させ頓やがて先の手代を招まねき彼三品を前に置おき誠まことに恥はづかしき次第なれども道中以來種々の物入にて今は路用ろようも遣つかひ切きり當惑たうわくの折からなれば此衣類を賣代うりしろなし此方の勘定を致し呉くれられよと云いひけるに手代は甚だ氣の毒顏に否いや然樣さやうの御事なれば後藤樣の御歸りの上御相談成さうだんなされて然るべし此御勘定とても只今たゞいま戴いたゞかねばならぬと申譯にも御座なく今日は見世みせの帳合日ちやうあひび故ゆゑ先刻せんこく一應おう伺ひ候までなりと申を夫婦は否々いな〳〵是までも後藤氏には一方ならず世話になりたれば切せめては此方の旅籠だけも我々われ〳〵相拂あひはらひ申度平に取計らひを頼むと云にぞ手代も當惑たうわくなし如何はせんと考がへ居たるに後ろの襖ふすまを押開おしひらき御免なされと此家の亭主あるじ長兵衞は入來いりきたり只今彼方かなたにて御樣子を伺ひ實まことに御志操おこゝろざしを感じ候なり然さりながらお三人のお旅籠を御一人御留守中おるすちうに戴き候も心よからず殊には當時御差支おさしつかへの御樣子旁々かた〴〵決して今日頂戴ちやうだい致すに及ばず候間此御品このおしなは左とに右かく御納め下さるべしと申に市之丞夫婦は亭主の情なさけある言葉を聞きくに付つけ猶さら氣の毒に思ひ此上御世話に相成あひなるは兎も角も此衣類は當時不用の品ゆゑ何卒なにとぞ御賣拂おうりはらひ御勘定下されよと互に爭あらそひ居る折から半四郎は立歸たちかへりしが今兩人の言葉を聞きゝながら此こ所こへ入來いりきたりコレ〳〵新藤氏其儀は拙者に御任おまかせあれと云て亭主長兵衞に向むかひ偖此所に御座る新藤氏夫婦の事は概略あらまし貴樣の弟より手紙にて承知も有あるべきが是これ若わかき者の有うち實じつは越後高田の浪人にて同藩の娘をつれ逃來にげきたりし譯ゆゑ敢あへて憎にくむ程のこともなし夫に旅馴たびなれぬゆゑ熊谷土手にて惡漢わるものに欺だまされ既に妻をも奪さらはれんとする所に八五郎の咄はなしにより某駈着かけつけて惡漢を追散おつちらしたれば夫が縁えんとなり御當地までも同道どうだう致したるなり何にしても便たより少すくなき夫婦の者何どうか貴樣の世話を以て取續とりつゞきの出來できる樣やう頼み申度尤も丸々まる〳〵貴樣の厄介やくかいに懸かけると云いふ譯わけには非ず是は聊いさゝかなれども何ぞ商賣でも初めさせて下されよと後藤は用意よういの金子を二十兩取出とりいだし資本もとでと云いふ程ほどにはなけれども宜しく頼たのむと長兵衞に渡しければ長兵衞は素もとより侠氣をとこぎの者ゆゑ否いや先生貴方がお連なされたお方なり殊に八五郎よりも頼たのみの書状しよじやう參りし事ゆゑ金子などは入いり申さず私しが能よき樣やうに御世話仕つるべきにより決して御心遣ひ成なされまじ假令たとへ宿やどには一錢なくとも私しが何れとも工夫くふう致すべし先々まづ〳〵此金子は御始末下されよとて其事由そのことがらを心快こゝろよく請合うけあひけるにぞ半四郎は大いに悦び夫は千萬忝けなし夫にて先まづ安心あんしん致したり併しかしながら此金は兎も角も貴樣が預あづかり置おいて下くだされよと金子二十兩を押おし返かへして渡し厚あつく夫婦の身の上をぞ頼みける是これ陰徳いんとくあれば陽報やうはうありとの譬たとへの如く此事このこと後年こうねんに至つて大岡殿の見出しに預あづかる一端たんとはなりぬ然されば新藤夫婦は是を見聞みきゝして大いに悦びしとは雖も是までも萬事後藤の世話になりしことゆゑ切せめて旅籠代はたごだいだけは衣類を賣て拂はんと云いふに夫をも止とめられ猶亦二十兩の資本金もとできんまで長兵衞に預けし後藤の深切しんせつ何と禮を云べき詞もなく名利みやうりの程も恐おそろしと兩人涙に昏くれて居たりしに武藏屋長兵衞は委細ゐさい引受ひきうけて世話をなさんと云いふに彌々いよ〳〵打喜び我々夫婦の命を御助け下されるのみならず往々ゆく〳〵身みの落付おちつきまで御世話下さるとは誠に冥加みやうが至極しごく有難き仕合なりと繰返々々くりかへし〳〵夫婦の者は伏拜ふしをがみ嬉うれし涙に咽くれたりけり是より半四郎は國元へ出立の用意よういに及び日々ひゞ土産みやげなど調へしが彌々いよ〳〵明日は出立せんと別わかれを告つぐるに長兵衞夫婦の者名殘なごりを惜をしみ幸ひ大師河原へ參詣さんけいながら川崎宿迄送り申さんと己も支度したくをなし翌朝後藤は此家このやを立出るに新藤夫婦も別わかれを惜をしみ影見えぬまで見送々々みおくり〳〵後藤の方を伏拜ふしをがむこそ道理なれ又長兵衞夫婦は川崎宿まで送らんと同道なしけるに後藤も其志操の厚あつきを感かんじ何時迄いつまでも名殘なごりは盡つきねども又また跡々あと〳〵を御頼み申せし新藤夫婦の事もあれば此度このたびは大師迄だいしまでにて別れ申べけれ重かさねて金比羅こんぴらへ參詣さんけいの事もあらば丸龜城下なる拙者せつしやの宅たくへ必らず立寄たちよられよ又某事も此後こののち江戸表へ出いづるならば貴樣の家を定宿ぢやうやどとなし年中互たがひに往來ゆきき爲度者したきものなりと道々話しながら川崎宿なる萬屋へ到いたり同所にて酒飯しゆはんも濟すませ頓やがて別れを告つげ夫より長兵衞夫婦は大師へ參詣さんけいしてぞもどりける


第十一回


 偖又後藤半四郎は是より東海道とうかいだうを往ゆくに今宵は先まづ藤澤ふじさは泊どまりと心懸こゝろがけ鶴見畷つるみなはてなど打眺うちながめながら神奈川臺も打越し處に町人體の男半四郎の後あとになり先になり來りしが程ほどヶ谷やの先なる燒持坂やきもちざかの邊りより彼町人體の男は聲を懸かけ若もし旦那樣は失敬しつれいながら何方迄いづかたまで御上おのぼり遊ばさるゝやと云いふを半四郎は聞て某は四國の丸龜まで戻もどる者なりと答るに彼男私しは江州がうしうにて候が江戸表へ商あきなひに參り只今歸り道也是から又また尾州びしう名古屋へ到いたり夫より京大坂へ仕入しいれに登り候積つもりに付幸ひ御供同樣に御召連下おめしつれくださるべし一人の道中と云者いふものは道に倦あきるものゆゑ御咄相手おはなしあひてに御同道仕つり度と然も馴々なれ〳〵しく申すにぞ後藤は否々いな〳〵某は又また道連みちづれの有は大いに嫌きらひなり殊に貴樣は江州者だと云ふが近江あふみ盜人どろぼう伊勢乞食こじきと云事があり勿々なか〳〵江州の者は油斷ゆだんはならずと斷ことわるに彼男それは旦那樣貴方の御聞違おきゝちがひなり近江殿御に伊勢子正直と申ので御座りますナニ近江者が泥坊どろぼうと限りますものかと云いひければ半四郎は否々いや〳〵夫は左とも右かくもなんだか氣味が惡わるし某は一人の方が氣儘きまゝなりとてすた〳〵早足はやあしに急ぎ行くを彼男も同じく早足になり追駈おひかけながら若旦那樣何どうぞ御一所に御願ひ申ます貴方樣は見上みあげた所武者修行を遊ばさるゝ御方と存じます御大小なんどは餘程よほど長ながきもので御立派おりつぱなり私し儀實は仕入の金を所持しよぢ致し居り候へば何時いつの道中にても登り下くだりが心遣こゝろづかひでなりません道中は金子の十兩から持つて居ると惡わるものが目を付て油斷ゆだんがならず何卒なにとぞ御迷惑ごめいわくながら御同道下さらば丁度旦那樣の御供の樣にて惡漢わるものが付つく氣遣きづかひなく心丈夫に存じますと云いふに後藤は見向みむきもせず夫は貴樣の勝手次第かつてしだいにといひ放はなし一向構はず行中ゆくうちにはや戸塚の棒鼻ぼうはなへ入りたるに或料理屋の勝手かつてに鰹かつを佳蘇魚まぐろ鮃ひらめの數々の魚見えければ後藤は一杯やらんと此家このやに入て酒さけ肴さかなを誂あつらへなどする中うち彼男も續つゞいて入來り是も酒を言付いひつけしに程なく双方さうはうへ酒肴を持來もちきたりしかば後藤は手酌てしやくにて飮居たるに彼町人も大酒飮おほざけのみと見え大なる茶碗ちやわんにて引懸々々ひきかけ〳〵飮居る體ていに後藤は聲をかけコレ〳〵町人其方は大分だいぶん酒さけが飮る樣子なりといふに彼男は此方こなたに向ひイヤモウ酒は大好物だいかうぶつで御座りますと云ひければ半四郎夫は話せる〳〵其の酒飮は某それがし大好だいすきなり酒は一人で飮では味うまくなし一杯ぱい間あひをせぬかと申に彼町人は得たり賢かしこしと夫は有難し直樣すぐさま御間おあひ仕つらんと是より後藤の側そばへ寄より献さしつ酬さゝれつ飮合のみあひいが其好む所に辟へきすとの如く後藤半四郎は自分が酒好さけずき故ゆゑ終つひに此男と合口となりて忽ち互ひに打解うちとけつゝ四方八方よもやまの物語りをなす中うち良やゝ酒の醉も回まはりしかば後藤は近江あふみ盜賊どろぼうの一件も礑はたと忘わすれて仕舞至極酒の相手には面白く思ひ終に是より道連みちづれとなし飮合たる勘定も拙者が拂はらふ否いや私しが拂ひますと爭ふ位の中になり其後の勘定は面倒めんだうなしに一日代りと極きめければ半四郎は大いに歡よろこび道々みち〳〵の咄し相手となし先今夜は藤澤へ泊とまらんとて程なく宿屋へ着つきたりけり然るに彼道連みちづれに成し男は元もと上總かづさ無宿むしゆくにて近頃東海道を往返わうへんし旅人の懷中ふところを狙ねらふ護摩ごまの灰はひの頭なり因て半四郎が所持の金に目を懸かけ樣々さま〴〵にして終に道連となりしかば此夜このよ何卒なにとぞして半四郎の胴卷どうまきを奪はんと付狙つけねらへども後藤に油斷ゆだんなきゆゑ終に其閑そのひまなく翌日あすとなりしかば又同道して次の夜は箱根はこねを越こし三島宿の長崎屋嘉右衞門と云いふ旅籠屋へ着つきけるに宿の女ども立出たちいで是は〳〵御客樣只今おすましの御湯を上あげます御草鞋おわらぢは其處へと彼是爲る中に彼男は姉樣ねへさん又御世話に成ますと然さも心安き體ていに云いふを聞きゝ主あるじの嘉右衞門出來りて兩人ふたりに挨拶あいさつなし如何さま折々をり〳〵見た事のある男なりと思ひしかば是々これ〳〵女中共御連樣おつれさまがある御草鞋おわらじを始末なし御荷物おにもつを持て御座敷へ御案内せよと指圖さしづに連つれて兩人を座敷へ通し御湯おゆも沸わいて居をりますと云ゆゑ直すぐさま後藤は彼男と倶ともに風呂ふろに入いりながら酒肴を誂あつらへ置おき頓やがて風呂も仕舞て出來りしに女子どもは酒肴を持出もちいでければ兩人は打寛うちくつろぎて酒宴しゆえんに時刻を移うつしけり


第十二回


 偖又半四郎は時とき移うつるに隨ひて醉ゑひは十分に發はつし自おのづから高聲かうせいになり彼町人體の男に向ひ貴樣の樣なる者は道連みちづれになると茶屋なとへ引づり込こみ此樣に打解うちとけて酒を呑合のみあひ百年も交際つきあひし如くなして相手の油斷ゆだんを見澄みすまし荷物又は懷中の金子等を奪うばひ取とる護摩灰ごまのはひとかいふ盜人が道中筋には有と申すが貴樣も其樣な類たぐひならんと正鵠ほしをさゝれて彼町人心の内に南無三寶彼奴きやつめ我等を護摩灰ごまのはひと悟さとりしかと思ひ故意わざと言葉を和やはらげ旦那は訝おつな事を御尋ね成る其の護摩灰と申は私しにて候御油斷ごゆだん成なさるな何樣どのやうに貴方あなたが御用心を成なされても御所持の荷物なり金子なり共奪うばひ取とらんと思へば直すぐに取て御目に懸ますと然も戯談じようだんらしく己が商賣を明白あからさまに云て笑わらひながら平氣へいきに酒を呑で居るゆゑ後藤も心の中に此奴こやつ勿々なか〳〵の惡漢なりと思ひければ彌々いよ〳〵酒興しゆきようの體さまにもてなし懷中より百兩餘りも有ける胴卷を取出し是見られよ此通このとほり金子もあるが某兎角とかくして其の護摩灰とやら云ふ奴に出會て見度思ひしが貴樣輩きさまたちの樣なものに此金を取れまいと云つゝ故意わざと見せびらかし併しかし盜人どろぼうの隙ひまはあれども守人まもりてに隙ひまはなしとか云なりと大口おほぐち開あいて打笑ひ其胴卷そのどうまきを其所へ投出し置増々ます〳〵醉ゑひに乘ずる體なれば彼町人の曲者くせものは假令たとへ武者修行むしやしゆぎやうにもせよ此この機きを外はづさず充分に酒を強付しひつけ醉潰ゑひつぶれたる時に奪うばはゞ造作ざうさもなしと心に巧たくみ頻りに後藤の機嫌きげんを取強付々々しひつけ〳〵酒を勸すゝむるに稍やゝ三四升ほども飮しかば半四郎は機嫌斜なゝめならず謠うたひを謠ひ手拍子てびやうしを拍うつて騷ぎ立るに隣となり座敷の泊とまり客は兎角に騷がしくして眠ねむる事もならず甚だ迷惑めいわくなし能加減いゝかげんに靜しづまれよと襖ふすま一重ひとへを隔へだて聞えよがしに詢言つぶやきければ半四郎は聞つけて大いに立腹りつぷくの體にてもてなし靜しづかにしろとは不屆千萬某が錢ぜににて某酒を呑にいらざる口を利きく奴等やつらなり無刀流の達人たつじん後藤半四郎秀國が相手なるぞ率いざ出來いできたれ片端かたはしより捻ひねり殺して呉れんと大音聲に呼よばはるにぞ連つれの町人は己おのれが仕事の邪魔じやまになりてはならずと思ひしかば若々もし〳〵旦那樣だんなさま誰だれも何とも申は致しません貴方に對して過言くわごん申者の有べきやと種々さま〴〵に宥なだめ賺すかしサア〳〵をつもりに致しませう最早もはや押おつつけ子刻こゝのつなり率いざ御休み成れましと女子共に四邊あたりを片付かたづけさせければ後藤は何の蛆蟲うじむし同前どうぜんの奴輩やつばら某を知らざるやと罵のゝしりながら胴卷どうまきを取て故意わざと腹に周環ぐる〳〵卷まきたるまゝ臥床ふしどに入いり枕まくらに付や否いなや前後も知らぬ高鼾たかいびきに町人も半四郎の側そばへ臥やすみしかば家内の女子どもは酒肴の道具だうぐを下さげ行燈あんどうへ油を注足つぎたし御緩おゆるりと御休みなされましと捨言葉すてことばを跡に殘して出行いでゆきけり是より家内も夫々に休み座敷々々も一同に深々しん〳〵と更渡ふけわたり聞ゆるものは鼾いびきの聲ばかりなり然るに彼町人體の男は家内の寢息ねいきを考へ居たりしが大概おほよそ丑刻やつ時分じぶんとも思ふ頃密そつと起上り寢床ねどこにて甲懸かふがけ脚絆きやはん迄も穿はき率いざと云へば逃出にげだすばかりの支度をなし夫より後藤が寢ねたる側そばに指さしより宵の酒宴さかもりの時見て置きたる胴卷の金を盜ぬすみ取んと彼曲者かのくせものは半四郎が寢たる夜着よぎの脇わきより徐々そろ〳〵と腹の邊あたりへ手を差入さしいれければ後藤は目を覺さましはて奴きやつめが來りしぞと狸寢入たぬきねいりをして密ひそかに傍そばの夜具を見れば連つれの男見えぬ故扨こそ奴つに相違なし今に取押とりおさへ呉くれんと空鼾そらいびきをかき熟よく寢入ねいりし體に持成もてなせば曲者は仕濟したりと彼胴卷を解ほどきてそろり〳〵と引出すゆゑ半四郎は少し體からだを上て引せけるに曲者は爰こゝぞと思ひ滑々ずる〳〵と引出す處を半四郎は寢返ねがへりをする體にて曲者の首くびを股間またぐらへ挾はさみ足を緘からみて締付しめつけけるに大力だいりき無雙ぶさうの後藤に締しめ付られて曲者は言ものを云事も叶かなはず只たゞ眼めを白しろく黒くろくなし鼻にて息をするのみなり時に半四郎は大音だいおん上あげ盜人どろばうが這入はひりしぞや家内の者共起給おきたまへ〳〵と呼よばはるにぞ夫れと云つゝ亭主は勿論もちろん飯焚めしたき下男迄一同に騷ぎ立たち盜人は何處いづくへ這入しと六尺棒或ひは麺棒めんぼう又は箒はゝき摺子木すりこぎなど得物を提ひつさげ來り此處よ彼處と立騷ぐ此の騷動に宿合とまりあはせし旅人の座敷々々部屋々々迄一同に飛起とびおき刎起はねおき手に〳〵荷物を改ため廻り家内の騷動大方ならず半四郎は寢ながら大聲にて何いづれも客人方何ぞ取られし物はなきやと云に一同未々まだ〳〵改め中ゆゑ確しかと分らずなどと云所へ亭主男共は半四郎が座敷へ走來はせきたり若々もし〳〵御客樣盜人が這入はひりしよしゆゑ爰こゝ彼處かしこと改め見れども一向かうに這入し樣子はなし其盜人は何所どこに居をり候やと云ければ半四郎は寢たるまゝにて微笑ほゝゑみながら此處だ〳〵拙者の股間またぐらに居と申ければ大勢一同に御客樣御虚談ごじようだんばかりと笑ひ出せしかば否いや虚談じようだんではなし全く拙者が股間に引挾ひつぱさんで居る然れ共拙者が連つれは見えぬ故先此奴こやつを改め呉くれよと云れて亭主若い者一同立懸たちかゝり半四郎の夜着よぎを捲まくり見れば甲懸かふがけ脚絆きやはんまで穿はき旅支度たびじたくをなし居けるゆゑ能々よく〳〵是を見て大いに驚き此盜人は御客樣貴方の御連なりといふに半四郎も能々よく〳〵顏を見て成程某の連つれなり奴きやつ護摩灰ごまのはひならんにより糺たゞし呉れんと思ひし處とう〳〵今宵引捕ひつとらへたり一體たい此奴こやつ某が連にはあらねども一昨日をとゝひ戸塚とつか境ざかひの燒持坂より連に成りたいとて尾つけ來きたりし者なるが生國しやうこくは近江の由なれど江戸へ商ひに出し歸りにて是より名古屋へ回まはり其後京大坂へ仕入しいれに上のぼるにより供をさせて呉れよと云ども某は承知せず近江あふみ泥坊どろばう伊勢いせ乞食こじきといふ事あれば江州の者に油斷ゆだんはならず連は嫌きらひなりと申せしかど達たつて供を致し度し申に付據處よんどころなく同道致せし譯わけ拙者も些少いさゝか油斷をせぬ故に果して化ばけの皮かはを顯あらはし今いま捕押とりおさへたるは能よき氣味なりと咄すを聞て家内の者共然樣さやうの御連にてありしか何にしても不屆な奴やつ引ひきずり出して叩たゝきのめせと立騷たちさわぐを後藤は止とゞめ否々いや〳〵打擲ちやうちやくなして若もし打處が惡く殺しもなさば死人に口無却つて面倒めんだうなり先々拙者の連こそ幸ひ某しに任まかすべし面白き計らひあり命をば助けて遣やるがよし誰樣どなたも客人方に盜まれし品はなきやといふに隣となり座敷の客は寢惚眼ねぼけまなこにてキヨロ〳〵しながら拙者は大事の者が見えぬなり早々さう〳〵詮議せんぎ成なされて下されよと云ゆゑ大事な者とは何なりやと問とひけるに客人些ちと申兼たるが御寶おたからが紛失ふんじつ致し然も昨日きのふ買かひたてなりと云ば皆々成程犢鼻褌ふんどしでござるか夫は濟すまぬ事熟々よく〳〵御改おあらためなされよと申にいくらさがしても一向御座らぬと云時いふとき宿やどの亭主は若々もし〳〵貴公あなたの裾すその下から何か紐ひもが見えます夫ではなきやと言いはれて夫はと云ながら客人は内懷中うちぶところへ手を入もじ〳〵致せしが頓やがて越中犢鼻褌ゑつちうふんどしを取出し見て是なり〳〵と申ければ一同どつと笑わらひつゝ今夜は隣となり座敷にて大聲を揚あげ馬鹿な騷ぎをするゆゑ宵には少すこしも眠ねふられず又夜中にも此騷ぎヤレ〳〵飛とんだ目に逢あひしと云ながら皆々客人は我が寢所ねどころへぞ入にける因て家内の者は大勢おほぜいにて盜人を庭へ引出し嬲なぶりものにして遣やらんと騷ぎ立を後藤は先々まづ〳〵待またれよ某存じ寄よりあれば決して手荒てあらき事はならずと申付未だ夜明までには間も有あるべし今一寢入ねいりするにより太儀ながら貴樣達は此奴こやつの番を頼むなりとて半四郎は盜人を高手たかて小手こてに縛しばりあげ傍らなる柱はしらへ縛くゝり着置つけおきヤレ〳〵大騷ぎをしたりと云ながら其身は臥寢ふしどに入いりたりけり


第十三回


 偖さて其夜も白々ほの〴〵と明渡りけるに大勢の客人共は皆々一同に起出おきいで嗽うがひ手水てうづを遣つかうゆゑ後藤半四郎も同じく起出おきいでて嗽うがひ手水てうづをなせしに客人たち昨晩さくばんは飛とんだ事で貴方あなたも嘸さぞかし御眠ねむかりしならん道中にて知ぬ連つれは油斷ゆだんは成ませぬと云に半四郎否いな皆樣も嘸さぞかし迷惑偖々不屆の奴やつもある者でござると咄はなしの折から下女は膳ぜんを持來り後藤の方へは一人前を据すゑるゆゑ後藤は是を見てモシ〳〵女中飯は二人前出して下され夫に酒さけを一升添そへて呉くれられよと云に下女は承知なして勝手かつてへ行ゆきしが程なく酒を持來り膳ぜんを二人前半四郎の方へ据すゑければ後藤は柱はしらへ縛しばり付つけ置たる盜人の繩なはを解ときコレ汝爰へ來て酌しやくをせよと茶碗ちやわんを出しければ彼曲者かのくせものはヘイ〳〵と云ながら怖々こは〳〵酒を酌つぐに後藤は大安坐おほあぐらをかいて酒を飮ながら何だびく〳〵するな何故なぜ其樣そんなに震ふるへるぞコレ酒が漏こぼれるぞ落着おちついて酌つぐがよい汝も酒が好すきだ一杯ぱい間あひをせよサア〳〵其茶碗ちやわんがいゝ夫で二三盃ばい飮のむべしと酒を酌ついでやり後で飯も食くふがよい今に拙者が手前を料理れうりして遣やるぞコレ〳〵遠慮ゑんりよなく澤山食せよと云て笑ひ居るに彼曲者は如何なる目に逢あふ事かと生いきたる心地は更さらに無なく何卒なにとぞ旦那樣命いのちばかりは御助け下されと齒はの根ねも合ぬ許ばかりに詫わびければ半四郎彌々いよ〳〵可笑をかしくよし〳〵先まづ食事をせよと云に曲者は半四郎の心中しんちう量はかられざれば有難しと口には云て食事をすれ共ども一向かう咽のどへは通らず戰ふるへ居ゐる中うちに半四郎も食事を仕舞しまひ手てを拍たゝきて女を呼よび昨夕ゆふべからの旅籠はたご酒さけ肴さかなの代共だいとも勘定をといふに女子は御酒代御旅籠おはたごとも二貫七百文なりと書付を出すを半四郎は受取て彼曲者かのくせものに向ひ貴樣は懷中ふところの財布さいふに金があるべし爰こゝへ二分出せ其替りは命は助けて遣やらうと云を聞き曲者は最もう良やゝ横着氣わうちやくきを出し金子などはすこしも御座なくと云ければナニなき事の有べきや若もし包つゝみ隱かくさば命を助けぬぞ汝が懷中に持て居るを某し見屆みとゞけたりサア出せ〳〵と詰寄つめよるに曲者は是非なく財布さいふより金子二分取出し然樣さやうならばと差出せしかばソレ見よ持て居ゐながら少しもなきなぞと未まだ僞るは不屆至極ふとゞきしごくなりと云ながら握にぎり拳こぶしにて横樣よこさまに擲倒はりたふさんとする故盜人は大いに恐れアヽ眞平まつぴら御免下ごめんくださるべしと平蜘ひらくもの如くになつて詫入わびいるにぞ半四郎は二分の金を受とり是で勘定を取とつて呉くれよ夫それ二分渡すぞと云に女は受取行ゆきて直すぐに釣つりを持來りしかば半四郎イヤ釣はいらぬ夜中に騷さわがした茶代ちやだいに取置とりおくべしといひ捨すて夫より盜人に向ひ汝よく聞け此程より彼是と二兩ばかりは遣ひしならんが何商賣なにしやうばいにても儲まうけ而已のみあるものでなし時々見込違みこみちがひにて損そんもすることあり然されば今度から能々人の目利めきゝをして見損じのなき樣に商賣に身を入いれよ馬鹿な奴だと笑ひけるに曲者くせものは只たゞ平謝ひらあやまりに謝あやまり居るゆゑ又半四郎は渠かれを見て汝は命をとる可べき奴なれども今日の處は慈悲を以て助たすけて遣つかはすにより有難く思へと云聞いひきかせ居たるに此家の者ども出來り先生然さうは仰せらるれども後日の誡いましめなれば少し私どもにも御任せあれ斯して呉んと手に〳〵毛を一本づつ引拔ひきぬき半分禿頭頂はげあたまにしてぢく〳〵と血の出る處へ太筆ふとふでに墨すみくろ〴〵と含ませぐる〳〵と塗廻ぬりまはし夫より鹽水を灌そゝぎ懸て強く摩こすり込こみければ盜人はヒツ〳〵と聲を揚あげて困くるしむ事大方ならず後藤は夫で好々よし〳〵最もう寛ゆるして遣やれと聲をかけサア汝斯かう印しるしを付て遣はすにより以來心を改め眞實まことの人間になるべし萬一又々惡心あくしん萌きざしたなれば其時其小鬢こびんの入墨いれずみを水鏡みづかゞみに寫うつし今日の事を思ひ出して心を改ためよと云て此家の下男に追放おひはなすべしと渡すに下男どもは面白おもしろ半分手取足取引摺ひきずり行ゆき宿外はづれにて突放つきはなしければ盜人は命いのち辛々から〴〵這々はう〳〵の體ていにて逃去たり偖さて又半四郎は夫より宿屋を立出長ながの旅中も滯溜とゞこほりなく讃州丸龜へ歸りて舊もとの如く無刀流劔道の指南しなんをぞ爲して居たりけり


第十四回


 扨さて又また江戸馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞夫婦は後藤半四郎を送り大師河原だいしがはらへ參詣さんけいして歸りしが豫かねて後藤より頼まれし越後浪人新藤市之丞の世話せわをして何になりとも有付ありつかせんと思へども新藤夫婦とも此程病氣付つき永々なが〳〵煩わづらひしが六十日程立て漸々やう〳〵快氣こゝろよくなりしかば新藤に向ひ偖御前樣方は何迄いつまでも只々たゞ〳〵安閑あんかんとしては居ゐられまじ殊に此程の御病氣にて預あづかりの金も多分御遣ひ成れしかば先まづ何道どのみちなりと世帶しよたいを持もち何か家業を始め給ふが肝要かんえうなり江戸表に誰ぞ知己しるべか又御國者くにものはなきやと申に夫婦の者は是を聞きゝ段々厚き御世話に相成る事千萬忝けなし私し共に江戸は始めてなれば一向かう不案内ふあんないにて知人しるひととても更に是なしと云ければ長兵衞は首くびを傾かたむけ夫では先まづ私しが此事御世話を申なれば御武家出での事ゆゑ浪人職らうにんしよくで劔術の道場を出すと云者か但し手習師匠てならひししやうでもなされては如何と云に市之丞は赤面せきめんの體にて實まことに御恥おはづかしき事なるが劔術は甚だ未熟みじゆく竹刀しなへを持ば震ふるへが出いで槍やりも同樣手跡しゆせきに於ては惡筆の上なしゆゑとんと其方は不得手ふえてなりと申に長兵衞は若々其樣に御卑下ごひげなされては御相談が出來ぬと云を否いやさ決して卑下致す譯わけに之なく實に長兵衞樣其方はとても及ばぬ事故何どうか寧いつその事町人に成度なりたしと申ければ長兵衞は腑甲斐ふがひなき事に思へども夫なら先私しが申通りに成なされて御覽じませ夫には資本金もとできんの入ぬやうに紙屑買かみくづかひが宜よろしからんと云いへば何いづれにも好よきに頼むとの事に付終に紙屑買かみくづかひと相談を極きはめて名も新藤市之丞にては不似合ふにあひなれば長兵衞は自身の名の頭字を遣やつて長八と改めさせ己おのれは親分になり同町の家主いへぬし治兵衞の店たなを借かりて引越ひきこさせ其外萬事長屋の振合迄ふりあひまで巨細こまかに教へつゝ先まづ世帶を持せ萬端長兵衞が世話にて紙屑買仲間かみくづかひなかまに入り又橘町の立場へも長八を同道して行ゆき敷金しききんを入いれ御膳籠ごせんかご鐵砲笊籠てつぱうざる量等はかりらを借受かりうけいくら目あつて何程といふ事をも覺おぼえさせ又また金者かなものは相針あひばりはいくらに銅あかゞねは潰つぶしにして何程といふ相場を聞きゝ一々手覺ておぼえに書留かきとめさせて歸りしが夫より長八夫婦は店住たなすまひとなり翌日より籠かごを擔かつぎて紙屑かみくづを買に出けれ共元來越後浪人二百石取の新藤市之丞なれば屑くづはござい〳〵と呼よぶ事能はず何所までも無言にて緩々ゆる〳〵と籠かごを背負せおひて歩行事あるくことゆゑ屑くづは少しも買得ず只侍士を見ては我身の上を思ひ出だし花は櫻木さくらぎ人は武士とは實に道理ことわりなり武士程立派なる者はなし夫に引替ひきかへ心からとは云ながら二百石の侍士さむらひが紙屑買かみくづかひとなり果たること餘りと云ば情なし是と云ふ思案しあんの外より出來たる事主親を後あとに爲なしたる罰ばちならんと獨り心にくよ〳〵思ひながら行ゆくに又向ふより侍士の來るを見ては涙なみだを流ながし人に面かほを見らるゝも恥はづかしく思ひて歩行あるくゆゑ肝心かんじんの渡世とせいの紙屑を少しも買ず慢々ぶら〳〵と下谷邊まで回まはりし處長者町へ來りし時は終に日も暮くれしにより道に迷まよつて馬喰町へ歸かへる方角はうがくを失ひ種々いろ〳〵聞ても一向に道は知ず途方とはうに昏くれしゆゑ長八は番屋を頼み日雇ひようを二百文出して馬喰町まで案内あんないを連つれてぞ歸りけるまた親分長兵衞は長八が今日は商賣の出初なれども少しは屑を買得かひえたかと案事あんじらるれば樣子を聞んと長八の家うちへ行ゆき最早もはや長八殿は歸られしやと云に女房にようばうお梅うめは何なにか流なかし元もとをして居たりしが振返ふりかへりオヤ何誰どなたかと存じたら長兵衞さん先々まづ〳〵此方こちらへ御上おあがり下くだされよとて此程中の禮れいを厚く申陳のべ澁茶しぶちやながら汲くみて出しければ長兵衞はコレ〳〵御構おかまひなさるな時に今日は出初ではじめなるが長八樣はお歸かへりかと云に女房にようばう未まだ宿やどでは歸かへりませんと云へば長兵衞夫は大そう遲おそい事だ如何して居らるゝやと噂うはさの折をりから長八は歸かへり來りしが親分おやぶん長兵衞の來て居るとは夢ゆめにも知らずオイお梅うめや今いま歸かへりたりヤレ〳〵今日けふは初めてとは云ながら恐おそろしい目に逢あつた下谷の長者町とか云ふ所へ行ゆきて道に迷まよひ終に二百文出て案内あんないを頼んで來た夫故それゆゑ此樣こんなに遲おそくなり其上空腹ひだるくもありモウ〳〵脇わきの下から冷汗ひやあせが出るはやく飯を食くはせて呉くれよと云ながら内へ這入はひり長兵衞を見て間まの惡わるさうにコレハと云しのみにて辭宜じぎをなせば長兵衞は苦笑にがわらひを爲しながら長八に向ひ紙屑買かみくづかひの道に迷まよひて二百文出し案内を頼みて來ると云者が江戸えど廣ひろしと雖もあるべきや餘り馬鹿々々敷事しきことなり御前も無筆にては豈夫よも有あるまじ町内々々には町名札があれば其の町名を見ながら歸りても能よし夫それは兎ともあれ今日は初商ひゆゑ紙屑かみくづは何程買かはれたるやと申に長八は暫時しばらく無言なりしが否いやも面目なし實に初めてのせゐか少しも屑くづは買へず一日慢々ぶら〳〵歩行あるきて草臥設くたびれまうけなりといひければ流石さすがの長兵衞も惘あきれ果はて物をも云ず面を見詰みつめて居たりしが今日は仕方なし明日あすからは精せいを出して買かふ樣やうに致されよ左右とかく其樣な事にては江戸えどの住居すまひは出來難し先々御休やすみなされと云捨いひすてて我家わがやへこそは歸かへりけれ


第十五回


 偖さて又また紙屑や長八は親分長兵衞が歸かへりし跡あとにて食事をしたゝめ大いに勞つかれしとて湯ゆなどに這入はひりて休やすみしが程なく夜も明あけ翌日になりければ今日こそは紙屑を買習かひならはんと思ひて先まづ淺草御門あさくさごもんを出いで藏前通くらまへどほりを行に往來も繁しげく何分間まの惡ければ先まづ觀音へ參詣さんけいなし矢大臣門やだいじんもんより淺草あさくさ田圃たんぼへ出いでし所前後に人も見えざれば屑くづはござい〳〵と小ちひさな聲こゑで呼習よびならひしがまだ人に見らるゝ樣なれども長八は思ひ切て田圃たんぼの中程へ行き全く人の居ざるを見濟みすまし大音だいおん揚あげて屑くづはございませんか屑はございませんか〳〵と無闇むやみに呼習よびならつて居たりし處に近所の子供等是を見付てヤア〳〵皆々みな〳〵早はやく來きて見みなアレ紙くづ買が狐きつねに誑ばかされて田圃の中なかで屑はござい〳〵と呼で一ツ所を往ゆきたり來きたりして居ゐるが石いしを投付なげつけて遣やらうと云に子供等は追々おひ〳〵馳集はせあつまり是は可笑をかしい〳〵と手に〳〵石を取て投付々々なげつけ〳〵アレ〳〵くづやが狐きつねに誑ばかされた間拔まぬけヤイ腐脱ふぬけヤイと惡口しながら猶も石を破落々々ばら〳〵と投付ける故くずや長八大に驚き江戸と云所は恐ろしく子供等までも人氣にんきの惡わるい所なりと思ひ早々そこ〳〵に田町の方かたへ逃出にげいだし此日もくづをば買かひ得えずして歸かへりけるが長八は親分おやぶんの長兵衞へ行ゆき右の咄をなし實に江戸といふ處は人氣が惡いと云ければ長兵衞は是を聞て大いに笑わらひ夫それは人氣の惡わるいのではなし御前おまへが田圃中たんぼなかを呼よび歩行あるきしゆゑ子供のことなれば狐に誑ばかされたと思ひ石を投付なげつけしは先に少しも無理はなく至極しごく最もつともなり又御前おまへも以前は二百石取の侍士なれば今いま如何いかにくづ買に成果なりはてたればとて顏かほ恥はづかしく大道を呼よび歩行あるくことの出來ざるは敢あへて無理とも思はれず依よつて是これからは裏々うら〳〵を回まはり先まづ知己なじみを拵こしらへるが肝心かんじんなり夫それに付つき彼川柳點かのせんりうてんに「日々にち〳〵の時計とけいになるや小商人こあきんど」と云いふ句くのありと申に長八は一向かう分わからず夫それは何なんと云心に候やと云ば是は川柳點と云て物事の穴あな搜さがしとも申すべき句なり其心は何商賣なにしやうばいにても買つけの得意場とくいばを拵こしらへるには毎日々々時を違たがへず其所を回まはれば今何やが來たから最もう何時成んと家々にて其商人を當あてにするやうになり然さすれば商ひも必かならず殖ふえるものゆゑ御前おまへも町内は申に及ばず裏々うら〳〵を順に廻り今日は好よき天氣てんきとか又は惡わるい風とか御寒おさむいとか御暑おあついとか云て未まだくづは溜たまりませんかと一軒けんづつ聞て歩行あるくが宜しからん其の中には心安くなり人にも顏かほを知られる樣になる斯の如くして馴染なじみが出來るとくづを買求かひもとめらるゝなり然さうさへすると先々で何時いつものくづ屋さんが來きたから最早申刻なゝつどきならん夕膳ゆふぜんの支度を仕やうと云ふ樣に成ば得意とくいも多くなるにより毎日々々時を違えず回まはるが肝要かんえうなり今も云通り爰の處の川柳點にて「日々の時計とけいになるや小商人こあきんど」と吟ぎんじられしと云ば長八は感心して成程よく會得わかりしとて長兵衞の咄はなしの通り翌日あすの朝も刻限こくげんを極きめて籠を背負せおひて直すぐに隣裏となりうらより呼初め一軒づつに今日は結構けつこうな御天氣にて御家内樣御揃ひ遊され御壯健さうけんの段だん珍重ちんちように存候偖私しは馬喰町二丁目家主治兵衞店紙屑買長八と申者なり以來いらい御見知おみしり置おかれまして御心安く願ひ上あげます未まだ紙屑かみくづは溜たまりませんかと永なが口上こうじやうにて叮嚀ていねいに云て歩行あるく故ゆゑ裏々うら〳〵の内儀達は大いに笑ひけれども長八は少しも臆おくせぬ者にて又其隣へ行と例れいの如く永口上を叮嚀ていねいに云ひ歩行しなり是長八は以前越後高田の藩中二百石取の新藤市之丞なれば斯かくの如き永口上も渠かれが爲には却つて云ひ安き言葉なり夫それより淺草下谷本郷小石川小日向牛込市ヶ谷四ツ谷番町麹町其外日々廻まはりしかば後々のち〳〵は馴染なじみも多く出來でき誰たれあつて少しも笑ふ者なく屑屋樣くづやさん今日は紙屑が澤山あるゆゑ持て行てお呉くれといふやうになり叮嚀ていねい屑屋と方々にて贔屓ひいきにされ終には仲間なかまにても名を呼よぶものなく叮嚀屋と云へば長八の事となり段々心安き得意も殖ふえ相應に屑も買出かひいだせしかば早晩いつしか昔むかしの身の上も忘れて追々錢の儲まうかるに隨ひ自おのづから商賣に勵はげみが付て長八は毎日々々相變らず裏々うら〳〵の長屋々々を廻りけるに或時神田紺屋町の裏長屋を回まはりしが職人體しよくにんていの者五六人にて酒を飮のみ居ゐる處へ例の通りていねいに口上を云いふ屑くづやで御座り升と云に職人は酒機嫌さけきげんにて屑屋さん下帶なげしを買かはねへか紙屑の替かはりに鐵釘くぢらを買かはねへと云ければ長八はハイとは云ど何の事やら一向かう解わからざれば私しは屑くづばかりでござりますと云に御前おめえ未まだとう四郎江戸馴なれねへと見えると笑ひしかば然樣さやうで御座ります此間國から出て參りましたと云ふに成程なるほど然さうであらう今度又屑が有たら遣やるべし大きに御苦勞ごくらうと云れ長八は何卒なにとぞ御贔屓ごひいきを御願おねがひ申ますと其所を立去り夫より所々を回りて我家へ歸るや否や親分おやぶんの方へ行ゆき親分に御聞申ことがあると云ゆゑ長兵衞は何事ならんと心配しんぱいして其譯そのわけを聞くに今日商賣の出先でさき神田紺屋町の裏うらにて職人衆が酒を飮て居ながら斯樣々々申されしが私には少すこしも解わからず何の事なるやと問とふに長兵衞は少し笑ひを含みて夫は職人衆しよくにんしうの符號ふちやうにて其なげしと云は下帶したおびの事なりくぢらとは鐵釘かなくぎの事股引もゝひきをば蛸たこと云ふ是れ皆職人衆の平常つねに云ふ符號詞ふちやうことばなりと能々譯わけを云ひ聞せければ長八は大いに悦こび成程夫それにて解わかりしなりと是より紙屑は勿論もちろん帶おび腹掛はらかけ古鐵ふるかねの類るゐ何にても買込かひこみ賣買を精出せいだしけるゆゑ長八は段々と繁昌はんじやうして大いに工面くめんを直し少しづつ小金も出來て先まづ不自由なき身分になりしかば親分長兵衞も世話せわをしたる甲斐ありとて大に悦び猶なほ何なにくれと心添をぞなしたりける偖又長八世帶を持し其翌年女子一人出生しければ夫婦ふうふの喜び云ばかりなく其名をお幸かうと號つけ兩人の中の鎹かすがひと此娘お幸が成人するを明暮あけくれ樂たのしみ暮くらしけるとぞ


第十六回


「年としの尾をや水みづの流ながれと人ひとの身みは」とは彼かの大高源吾が門飾かどかざりの竹を賣歩行うりあるきし時とき晋子しんし其角きかくが贈りし述懷じゆつくわいの名吟めいぎんなる事は世の人の知る所にして實げに定めなきは人の身の上ぞかし偖も越後浪人新藤市之丞が心がらとは云ひながら今は紙屑かみくづ屋長八と名乘なのり裏店うらだな住居ずまひとなりしかど追々商賣に身を入る中うち月日つきひの關守せきもりなくはや十八年の星霜せいさうを送りけるが娘お幸は今年ことし十七歳となり尋常なみ〳〵の者さへ山茶も出端でばなの年頃なるに況ましてや生質うまれつき色白いろしろにして眼鼻めはなだち好よく愛敬あいきやうある女子をなごなれば兩親りやうしんは手の中うちの玉たまの如くに愛いつくしみ手跡しゆせき縫針ぬひばりは勿論淨瑠璃三味線も心安き方へ頼み習ならはせ樂み暮くらして居ける處に一日あるひ長八は淺草觀音へ參詣なし夫より上野の大師へ參らんと車坂くるまざかを通り懸りけるに山下の溷際どぶぎはに深網笠ふかあみがさの浪人者ぼろ〳〵したる身形みなりにて上には丸に三ツ引の定紋ぢやうもん付つきたる黒絽くろろの螢ほたるも洩もるばかりの古き羽織を着し謠うたひを唄うたひながら御憐愍ごれんみんをと云て往來の者に手の内を乞居こひゐけるを長八は何心なく見みるに羽織の定紋と云ひ状なり恰好かつかう大恩受たる大橋文右衞門樣に髣髴よくにたるは扨も不思議なりと思ながら腰の早道はやみちより錢七八文出して手の内に遣やりければ浪人者是は〳〵有難う存じますと云し其物語そのものごしまで彌々いよ〳〵文右衞門に似にたるゆゑ長八は忽ち十八年の昔時むかしを思ひ出し萬一もしや其の人ならんかと能々よく〳〵笠かさの中を見んとするに浪人者は最早もはや日暮方ひぐれがたなれば徐々そろ〳〵仕舞しまひて歸る樣子ゆゑ長八は後あとに尾つきて行けるに下谷山崎町なる油屋といふ暖簾のれんの懸かゝりし裏うらへ這入はひりしかば長八も同じく續つゞいて這入見るに九尺二間如何にも麁末そまつなる浪宅らうたくなるにぞ長八は内の體ていを覗のぞきし處全く大橋文右衞門に相違なきゆゑ御免ごめんなされと云ひながら内に入しが互ひに顏を見合みあはせて驚愕びつくりなしヤア貴殿は新藤市之丞殿貴方は大橋文右衞門樣と云ふに女房にようばうも市之丞を見て是は〳〵市之丞樣何どうしてマア我々が浪宅を御存じなるや先々まづ〳〵些ちと是これへ御通り下されと云いふた所が御通りなさるゝ所もなき山崎町乞食長屋の汚穢むさくるしく御氣もじ樣やと言いひながらも簀子すのこの上に莚むしろをしき是へ御上りあれと云いふゆゑ長八は御構下おかまひくださるなと其所へ上あがり四邊あたりを見るに壁かべの方は破れたる二枚まい屏風びやうぶを立回し此方には崩くづれ懸りし一ツ竈べつゝひに炭すみか鑄懸いかけか眞黒に薫くすぶりたる鍋なべ一ツをかけ飯めしも汁しるも兼帶けんたいの樣子なり其外行燈あんどんは反古張ほごばりの文字も分らぬ迄に黒み赤貝あかゞひへ油あぶらを注つぎ燈心とうしんは僅に一本を入れ又口の缺たる土瓶どびんは今戸燒の缺火鉢かけひばちの上へ斜なゝめに乘て居る其體たらく目も當られぬ困窮こんきう零落れいらく向う三軒兩隣は丹波國の荒熊三井寺へ行かう〳〵といふ張子の釣鐘つりがねを背負せおひて一文貰ひの辨慶或は一人角力すまふの關取烏からすの聲色こわいろ何れも乞食渡世の仲間なかまにて是等の類皆々長屋づきあひなれ共ども流石さすが大橋文右衞門は零落れいらくしても以前は越後家にて五百石取の物頭役なれば只今市之丞の長八に對面たいめんなすに屹きつと状を改め新藤氏には能よくこそ御尋おたづね下されたり誠に一別以來先まづ以もつて御健勝ごけんしようの樣子大悦に存ずると述のべければ市之丞の長八も久々の對面故ゆゑに夫々へ挨拶に及び扨大橋氏思ひ出せば早十八年の其昔そのむかし彼貴殿きでんの御厚情ごこうじやうに依て我々夫婦が一命を助かり剩あまつさへ廿兩といふ金子を御惠下おめぐみくだされし御庇蔭おかげを以て今日まで存命仕つる事千萬有難く存じ奉つり候然るに彼の折をり國元くにもとを立退たちのき江戸表へ罷り出候途中熊谷の土手にて惡漢わるものの爲めに我々兩人既に一命も危ふき難儀に出逢いであひ候處丸龜の人後藤半四郎と云ふ人に救れ夫より身の落着方まで世話せわに相成當時は馬喰町にて紙屑買かみくづかひを渡世に致し何どうか斯か寒暑さむさあつさのなき樣に暮して居をり殊に其後一人の娘を儲もうけ當年十七歳に成候是と申も皆貴殿の御厚恩ごこうおんなれば一度は御禮の書状も差上度さしあげたく心得候へども世間へ憚りあるゆゑ夫それも叶かなはず只々明暮あけくれ思おもひ暮くらし居るにのみに御座候處先づは御揃おそろひ遊ばし御機嫌ごきげん克よき御樣子大悦に存じ奉つるとは申ものゝ大橋氏には如何して斯この御體ごていたらくに候や存ぜぬこととは申ながら是まで御尋ねも申上ざる段だん嘸さぞかし不實の奴と思おぼし召めしも候はんが先まづ仔細しさいを承はり度と申ければ文右衞門其仔細そのしさいと申は最早八ヶ年以前の事にて御家の騷動出來致し忠臣は退しりぞき佞奸邪智ねいかんじやちの輩ともがら蔓延はびこるに付身み不肖ふせうながらも是を正たゞし些少いさゝか忠義を盡さんと心懸しに却て小栗美作が爲に讒ざんせられ終に永の暇を給はり其後未だ斯々かく〳〵して居るなり然されども忠臣は二君に仕へずとの金言を守り一錢二錢の袖乞そでごひをしても他家へ仕官の所存更に是なく早晩いつしか天道某しが誠を照てらし給ふ事あらば歸參仕つる時節もがなと夫のみ心懸かけ罷り在候なり斯樣に困窮こんきう零落れいらくの身の上御目に掛るも誠に面目なき次第に候と互ひに憂うき艱難かんなんの物語ものがたりをなし暫しばらく時をぞ移うつしける


第十七回


 却説さても紙屑屋長八は段々の仔細しさいを聞て甚いたく歎息たんそくなしたりしが何れ又々近日御尋ね申さんと暇乞いとまごひして立歸り道々大橋の物語ものがたりを考へ嗚呼人間の盛衰せいすゐは計はかり難きものなりさしも越後家にて五百石取の物頭役をも勤つとめられし大橋文右衞門殿が今日けふは一文二文の袖乞そでごひを致し居をらるゝとは餘りなる零落おちぶれ樣やう偖さても〳〵笑止せうし千萬なることなり何どうかなして昔年の恩報じに當時の難儀を救ひ助け度たき者ものと種々いろ〳〵に思案しながら我が家へ歸り來りしに女房お梅うめは立出たちいでてヤレ〳〵御歸りなされしか何時いつになく遲おそいにより大いに御案事あんじ申して居たなれど今度の狂言きやうげんは刎幕はねまくがよいと云事故芝居の切きりでも覗のぞいて御出かと思ひましたと云に何サお梅うめ芝居しばゐ處どころか今日けふ珍めづらしい御方に御目に掛り夫故それゆゑ大いに遲おそくなりしと申ければお梅夫は又何誰どなたに御逢成おあひなされましたと問に長八は溜息ためいきを吐つきマア聞て呉くれ今日は思ひの外ほか都合つがふよく午前ひるまへに商賣も捗取はかどつたから淺草の觀音樣へ參り夫それより上野の大師さまへ回まはらうと車坂まで行ゆきし所不思議にも國元の大橋文右衞門樣に御目に懸かゝり斯々かう〳〵いふ事より後あとを尾つけて行いつて見た處が山崎町の裏住居うらずまひ夫それは〳〵目も當られぬ始末御新造樣しんぞさまなども誠に見る影かげもなきしがなひ體裁なりふり御目に懸るさへも否いやもう誠に御氣の毒千萬實ほんに〳〵御痛おいたはしき事也大恩受たる大橋文右衞門樣が彼樣あのやうに御難儀なさるを餘處目よそめには見て居られぬ何どうぞして那節あのせつ下くだされたる二十兩の金子を才覺さいかくして今いま上あげたなら何樣どのやうに御喜びならん何卒御恩報じに進度者あげたきものなれども親分の長兵衞さんにはこんな咄はなしも致されまじ何どうしたら金の才覺が出來るであらうと女房お梅に一部ぶ始終しじうを咄はなしければお梅は是を聞きゝ夫はマア御愛惜おいとしい事然樣さう思おぼし召めすは成程御道理もつとも恩を受て恩を知ぬは人でなしとは云ものゝ力業ちからわざにも屆とゞかぬは金の才覺何どうか仕樣が有さうな者と夫婦は膝ひざを突合つきあはせて種々いろ〳〵相談なせども何分思案に及ばぬゆゑ寧いつそのこと天にも地にも掛代かけがへなき手の中の玉となしたる娘のお幸を不便なれ共遊女に賣うりて金の調達てうだつするより外の工夫くふうはなしと恩義に迫せまりし夫婦が相談茲に漸く調とゝのひしかば娘お幸を一間まに招まねき妻のお梅は涙なみだながら此度このたび斯樣々々かやう〳〵の譯にて是非ともなければならぬ金ゆゑ親の爲ため長い間あひだでも有まじければ何卒勤つとめの奉公をして呉くれよと事を分て云ひ聞せければ元より利發のお幸と云ひ最早もはや年も十七歳花なら今四五分開ひらき初そめしばかりの色娘いろむすめ殊には親孝心おやかうしんの者ゆゑ兩親の爲とならば此身は如何なる苦界くがいの勤つとめなりとも厭いとはじと早速承知なせしにぞ然さらば何分頼むぞさて彌々いよ〳〵娘の身を賣うることに決着はなしたれども長八は一向手懸てがけざる事故何所いづれへ頼んで娘を賣うるがよからんやと思ひしところ爰に淺草田町に利兵衞といふ紙屑問屋かみくづどんやありけるが此利兵衞は元長八の國者にて以前は出入の町人なりしかば至つて懇意こんいなる者ゆゑ長八は利兵衞の方へ行つて右の始末しまつを段々と咄はなして娘を賣て十八年以前なる傍輩はうばいの恩金を返さんと思ふよし悉くはしく咄はなしければ利兵衞も其の志ざしを深く感かんじ早さつそく承知なし即ち判人はんにんとなりて新藤の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎の方へ申こみ目見めみえを致させけるに容貌かほかたちも十人並なみに優すぐれしかば大いに氣に入いりだん〳〵懸合かけあひの末すゑ年ねん一ぱい金五十兩と相談を取極とりきめて利兵衞は立戻たちもどり其段長八へ物語りしに夫婦は利兵衞の骨ほねをりを勞ねぎらひ厚く禮をぞ陳のべたりけり偖さて翌日にもなりければ長八は娘お幸を伴ともなひ判人利兵衞の方へ到り夫より同道して新吉原玉屋山三郎の方へ行ゆき約定やくぢやうの通とほり金五十兩と引替ひきかへに娘おかうを渡し長八は立歸らんとするに豫かねて覺悟かくごとは云ひながら今更いまさら別わかれの悲かなしさは何なにに譬たとへんものもなく親子は胸むねも張裂はりさくばかり齒はを喰くひしばりて居たりしが斯かくては果じと長八は心を鬼に取なほし奉公大事に身を愼つゝしめと言いひながら立上るにお幸も是を見送りて御兩親とも御無事にと互たがひに後あとは言葉ことばなく別わかるゝ親子が心の中うち推量おしはかられて哀あはれなり因て世話人利兵衞も深切者しんせつものゆゑ世話料せわれう判代等はんだいとう一錢も取ず實意じついに周旋しうせんに及びけるとなり


第十八回


 斯かくて長八娘お幸を賣渡うりわたし吉原より戻もどりて女房お梅に相談の上うへ元金もときん二十兩に利を添そへて直樣すぐさま下谷山崎町の大橋文右衞門の方へ持參ぢさん致いたさんとは思へども利足を相當に添そへては何を云ふにも十八年の間の事なれば此金を皆みな返かへすとも利足ひきたらず殊に文右衞門は豫々かね〴〵手堅てがたき氣象きしやう故ゆゑ利足と云ては請取うけとる間敷まじきにより全く禮の心で肴代さかなだいとでも名を付廿五兩も遣はさば然しかるべし然さすれば殘りの廿五兩を以て資本もとでとなし是より表へ出いでて小切類にても賣夫婦して精せいを出し金を貯たくはへたる上一年も早く娘の身受をなす工夫こそ專要せんえうなれ又親分の長兵衞殿へ此事は決して話はなされず娘は屋敷へ當分奉公に出せし積つもりにして置べし若もし年季ねんきに入たなどと云事が知れては夫それこそあゝ云ふ氣象きしやうの親分ゆゑ然さういふ事なら何故なぜ己おれに一應相談仕ないなどと必ず喧やかましいこと云に相違なし因て先まづ夫それは何所どこまでも其積りと長八夫婦は種々いろ〳〵に心配なし是より直樣すぐさま廿五兩の金子を持て下谷山崎町なる大橋文右衞門の方へ到いたりけるに同じく跡あとより續て質屋しちやの小僧も此家に入來り私しは表おもての油屋五兵衞方より參りましたが番頭の久兵衞が申聞きけますには衣類いるゐ大小だいせうの質しちが一口ひとくち最早もはや月切つきぎれに相成あひなり流ながれに出しゆゑ先日一寸御斷り申上げましたが止て置おけとの事ゆゑ今日けふ迄見合せ置たれども今に何なんの御沙汰ごさたもなきにより最早流れ切に致します夫それ共とも利りあげを成るなら止め置おきますが餘り段々日延ひのべに成ばかりに付利上でもなければ然々さう〳〵止置とめおく譯わけには參りません今丁度流れ買が來て居をりますから賣拂うりはらはうと思ひますが何どう成なされますか一寸聞て來こいと申しました文右衞門樣何どう成なされますと小僧は足元から鳥の立たつ樣やうに火急くわきふの催促さいそくに來りければ大橋は甚だ當惑たうわくの體ていにて然樣さやうかなと暫時しばし考かんがへしが否いや左とに右かくあれは大切の大小なれば流しては成ぬ品なり是非共受出うけいだすにより今一兩日待まつて下されといふに小僧はそれでも御前樣まへさま來る度に日延ひのべばかりの御口上今日も又一兩日と仰せでは使に來た私しが困こまります其度に譯わからない使をするとて呵しかられ又御前の方ぢや能いゝやうなことを云なさるし同じ事を度々の使は否いやでござりますが今度こそ間違まちがはなければ最もう一度番頭さんに然樣さやう云てみませうと質屋の小僧は歸り行しかば是を側そばに聞居きゝゐたる紙屑屋長八は文右衞門が身の困窮こんきうを察遣さつしやり成程一文二文の袖乞そでごひをする身の上なれば在ありとあらゆる品物しなものは大小までも質しちに入たるは道理もつともなり其日々々にさへ差支さしつかへる有樣ゆゑ如何に大切の品なり共今いまは勿々なか〳〵受出うけだす事も成まじ質屋しちやよりは流れの催促さいそく嘸さぞかし難澁なんじふの事ならんと己れが身分にも競くらべて考へしが長八は爰こゝぞと思ひて廿五兩の金子を出し扨大橋氏甚はなはだ失敬しつけいなる申し分には御座れ共此金子は十八ヶ年以前に御恩借ごおんしやく致いたしたる金子延引えんいんながら返上仕つるにより何卒なにとぞ御受納下ごじゆなふくだされ候樣に願ひ奉つる誠に彼あの節せつ貴殿の御厚情ゆゑに我々夫婦只今はどうか斯か致して居るも皆貴殿の御庇蔭おかげにて候然るに貴殿斯かく御零落ごれいらく成なられたる有樣を見るに忍びず切せめてもの事に斯樣なる時節にこそ御恩ごおんを報はうぜんと存じて持參致したれ因て此金子何卒なにとぞ御受取下さるべしと二十兩の金子を並ならべ外に金五兩は御利子と申には是なく御禮おんれいの心ばかり御菓子料おくわしれうにさし上度あげたくと出しければ文右衞門は是を見て忽まち氣色を變かへ是は〳〵新藤氏思ひもよらぬことを仰せらるゝ者かな往古むかしは昔し今は今なり一旦貴殿に惠めぐみし金子を如何に某し斯かく零落れいらくして一錢二錢の袖乞そでごひをなせばとて今更受取り申べき謂いはれなし貴殿が昔の恩を思ひ出し給はば夫にて志こゝろざしの程は知て居るなり夫に只今たゞいま質屋しちやより流ながれの催促さいそくに來りしを聞れ斯樣の事をなさるゝ段一應御深切の御志ざし忝かたじけなく存ずるなれども貴殿も未だ有福いうふくの身になられしと云うでもなければ此金子に於ては決して受取申されず今でこそ斯かく困難こんなんに及ぶものゝ以前は越後家において祿ろく五百石を領し物頭役ものがしらやくを相勤あひつとめたる大橋文右衞門清長きよなが率いざ鎌倉かまくらと云ふ時のため武士の省愼たしなみ差替さしかへの大小具足ぐそく一領りやう位ぐらゐは所持致し居り候是これ御覽ごらん候へと仕舞置しまひおきたる具足櫃ぐそくびつ并びに差替の大小を古ふるき葛籠つゞらより取出して此通りと長八の前へ並べて見せければ長八は殆ほとんど感心かんしんなし流石さすがは大橋氏御省愼おたしなみの程ほど感心仕つり候然程さほど迄の御心懸がけ有あるとは夢ゆめさら知ず失敬の儀を申上しは甚面目めんぼくなきことに御座候然されども以前の御恩を報はうぜんと我々夫婦相談の上うへ調達てうだつ致して參りたる此金子ゆゑ何卒なにとぞ御請取下おんうけとりくだされ候樣是非々々願ひ奉つるモシ御新造樣ごしんぞさま然樣さやうなされて下さらば有難く存じますと云ふに妻は何とか言いひたき體ていなるを文右衞門は白眼にらみつけコリヤ新藤氏一旦たん貴殿きでんへ惠めぐみし此金子假令たとへ何樣に申され候とも今さら手前に於ては受取うけとる所存しよぞん決して之なし早々御持歸おもちかへり下されよ某し當時困窮こんきうに及ぶも是天命なれば何をか憂うれへん又また誰たれをか恨うらむる所もなし拙者せつしやは少々認したゝめ物あれば御免ごめんあれ貴殿は緩々ゆる〳〵御咄おはなし成るべしと云ひつゝ其身は机つくゑに懸かゝりけり


第十九回


 偖さて又また文右衞門の女房は勝手かつてにて番茶ばんちやを入れ朶菓子だぐわしなどを取揃とりそろへて持出もちいでたるに長八は大橋が義氣ぎきの強きを彌々感じ心中に成程なるほど斯かくまで零落れいらくなしても武士の道を立通たてとほし指替さしかへの大小并びに具足迄省愼置たしなみおかるゝ程の氣質きしつにては勿々なか〳〵此金子を受取ざるも道理もつともなり併しかしながら某しも一人の娘むすめを賣うつて昔しの恩を返さんと致したるも水みづの泡あわとなり斯々かう〳〵云いふ譯わけなりと打明うちあけて咄はなしも出來ず而して見れば深切しんせつ甲斐がひもなし然されど又また斯かくいひ出しては今更持て返るは如何にも本意ほんいなく置おいて行ゆかんとすれば受取ずはて何どうして宜よからんやと茶を飮のみながら思案の折柄又々表おもての質屋しちやより先さきの小僧が入來りて若もし文右衞門樣先刻仰せられしことを番頭ばんとう久兵衞に申聞し處久兵衞の申には最早もはや月切つきぎれには成なるし利上りあげもなき事なれば何時いつまでも御預あづかり申事は出來兼できかね候幸さいはひ今いま流ながれ買かひの道具屋が來合きあはせたれば賣拂うりはらひますにより然樣さやう御承知下さるゝ樣に申上ろとの事に付つき一寸ちよつと御斷り申ますと云置て小僧こぞうは直すぐに立歸らんとするゆゑ文右衞門は小僧を呼止よびとめイヤ然さう云いふことなら某し直樣すぐさま後あとより參り番頭に面會の上相談もせんにより少々の中うち待まつて呉くれられよと云ながら文右衞門は長八に向ひ某し程ほどなく歸かへり申さん間あひだ暫時しばしの中うち御咄おはなし成なされよと云捨て文右衞門は表の質屋しちやへと出で行ゆきけり跡に猶屑屋長八は種々いろ〳〵と考へしが所詮しよせん此金子を以て歸らんことは思ひも寄よらず如何いかゞはせんと座中を見廻すに是幸ひ傍かたはらに文右衞門の煙草盆たばこぼんありしかば其の中へ右の金子二十五兩を入置いれおき其その身みは素知そしらぬ顏かほして女房に暇乞いとまごひなし歸らんとするに女房は押止おしとゞめ市之丞樣最早もはや夫をつと文右衞門も程なく歸宅きたく致事なれば先々御待下されよと申けれども長八は以前世話せわに預あづかりし者の方に疱瘡人はうさうにん是あるゆゑ夫へ是非々々尋ね行ゆかざればならず何卒なにとぞ文右衞門樣御歸りあらば宜敷よろしく仰おほせ上られ下されよ又々近日御尋おたづね申上んと言置いひおき長八はそこ〳〵に暇乞いとまごひして我家に立歸りしに女房お梅は出迎いでむかへ御持參の金子きんす滯とゞこほりなく文右衞門殿どの請取うけとられしや如何いかにと云ふに長八首かうべを振ふり否々いや〳〵物堅ものがたい文右衞門殿何どうあつても金子をば受取らぬと言張いひはられ實まことに仕樣もなき折をりから幸ひ斯々かう〳〵云事にて外そとへ出いでられし留守中るすちう密そつと煙草盆たばこぼんの中へ入れ置て歸りたり然れば日々に困こまる文右衞門殿ゆゑ質屋しちやからは矢やの催促さいそく彼是かれこれにて右の金子を遣はるゝに相違なし然さすれば某しが志操こゝろざしも屆とゞき娘むすめも無陀奉公むだぼうこうにならぬと云ふ者也なりと咄はなしければ女房お梅も打喜び夫はよくこそ取計とりはからはれたり然さすれば如何に物堅ものがたき人にても手元にあるを遣はずには置れまじ先々夫にて少しは胸むねが晴はれたりと長八夫婦は悦びつゝ咄はなしに時刻じこくを移うつしけり


第二十回


 偖さて又また大橋文右衞門は表おもての質屋しちやへ行ゆきて番頭ばんとう久兵衞に逢あひ種々いろ〳〵相談の上漸く一兩日止置事とめおくことに取極とりきめて歸り來りしに新藤市之丞の見えざれば女房お政まさに向ひ市之丞は如何いかゞ致いたせしやと云ひければお政然れば新藤氏は良人あなたの御歸り迄までと御止め申たなれ共ども以前世話になられし家うちに疱瘡人はうさうにんが是ある由にて是非見舞みまひに行ゆかねば成ぬにより何いづれ又々近日御尋ね申さん宜敷よろしく申上あげ呉くれよと云はれて御歸り成れしと云ふに文右衞門然さうでありしか市之丞と云いふ男をとこは義心ぎしん盛さかんにして誠に奇特きどくなる者なり昔し助けし恩を忘れず今我等斯かく困窮こんきう零落れいらくせしを察さつし廿五兩の金子を工面くめんして持來りしは天晴頼母敷たのもしき志こゝろざしとは云へ共曩さきに某し一旦たん惠めぐみし金子を今さら請取うけとつては我等が一分立ず是に依て堅かたく斷ことわりを申せしゆゑ早々さう〳〵歸かへりしと見えたりさぞかし本意ほいなく思ひしなるべしと云ひながら文右衞門煙草たばこを呑のまんと煙草盆たばこぼんを引寄ひきよせ見みれば是こは如何いかに市之丞が持來りし廿五兩の金子きんす包つゝみの儘まゝ火入ひいれの脇わきに有ければ文右衞門は女房お政を呼よび此金子は何如いかゞ致いたしたるやあれ程ほどに斷ことわりたるを知りながら市之丞より受取うけとり置おきしか大方女をんなのいらざる猿智慧さるぢゑにて我が留守るすを幸ひに兎とも角かくも御預おんあづかり申さんなどと云て受取たるに相違有あるまじエヽ汝おのれは腑甲斐ふがひなき女かな武士の女房には似合にあはぬ心底しんてい斯かく零落れいらくしても大橋文右衞門なるぞ心まで困窮こんきうはせぬ汝おのれは然さまでさもしき根生こんじやうになりたるやと女房お政を叱しかりつけしにお政は驚き是これは〳〵餘りに御推量ごすゐりやう過すぎたり良人あなたの御氣象ごきしようを存じながら何どうしに請取置おき申すべき疑ひ給ふも品しなにこそよれ實に私しは存ぜぬことなり察さつするところ市之丞殿も折角せつかくに持參ぢさん致いたされたる金子ゆゑ良人あなたが御受取なきを本意ほいなく思ひ私しにも知らさぬやうに煙草盆たばこぼんの中に入置いれおきて歸られたるに相違あるまじとて言葉に淀よどみなければ文右衞門も何樣なにさまと思ひ然しからば市之丞が此の中へ入て置たるに相違なからん何なににしても此金子を受取ては某しが一分ぶん立たゝず又また和女そなたは市之丞が住所ぢうしよを知て居ゐるかと問とひけるにお政は然樣さやうさ只馬喰町とのみ承まはりましたと申ければ文右衞門は宜々よし〳〵何いづれにも此金子は返さねばならぬ馬喰町へ行ゆきて紙屑買かみくづかひの市之丞と聞ば知れぬ事はあるまじ明あけなば直樣すぐさま一走ひとはしりと文右衞門は夜よの明あけるを待まち起出おきいでて早々に支度をなし二十五兩の金子を財布さいふに入て市之丞が家を尋ねつゝ馬喰町へと急ぎ行ゆき此邊に新藤市之丞と云ふ紙屑買かみくづかひはなきやと一丁目より二丁目三丁目四丁目まで悉皆こと〴〵く尋ねけれ共少しも知れず是こは知れぬ筈はずの事なり以前は新藤市之丞にもせよ今は浪人らうにんして屑屋長八と改名かいめいしたる者なれば裏々うら〳〵は申に及ばず自身番じしんばんへ懸かゝりて尋ねけれ共一向知らざる由よしを申自身番にて新藤市之丞などと云いふ六ヶ敷むづかしき名なの人は紙屑買かみくづかひにはあるべからず夫そは大方おほかた浪人者らうにんものの間違まちがひなる可べしと云ゆゑ文右衞門は當惑たうわくなせしかど是非共ぜひとも尋ねて金子を返さんと思ひければ猶裏々うら〳〵へも這入込はひりこみ此御近所に紙屑買かみくづかひを渡世にする新藤市之丞と申者の宅たくは御存じなきやと問とふに此町内には御用の屑買は御座らぬなどと云て大いに笑わらはれければ大橋も今いまは是非無ぜひなく尋厭倦たづねあぐみて下谷山崎町の我家へ歸り偖さても〳〵困こまりし事也馬喰町へ行て表店おもてだなは言いふに及ばず裏々まで四丁の間あひだ細こまやかに尋ね探さがしたれ共新藤と云ふ紙屑買かみくづかひ一向に知れず何なにしても大切の預り物もの萬一此金子に於て間違ひにても有なば猶々市之丞へ對たいして言譯いひわけなし何いづれにも此上尋ね探さがして返へさねばならず然されど夫それ迄も斯して置は心遣ひ殊に隣となり近所は皆々不肖ふせうの渡世をする族而已やからのみ丹波の荒熊三井寺へ行ゆかう〳〵と云張子の釣鐘つりがね或は鉢叩はちたゝき願人坊主などと云者許りなれば勿々なか〳〵油斷は少しも成ず若もし此金子の有事を知りて付込れなば如何なる變事へんじの出來んも知れず何いづれにも又々明日馬喰町へ行きて尋ね當り次第市之丞へ渡す迄は甚はなはだ以て心遣ひなりと云に女房も夫そは御道理ごもつともなり今日は終日ひねもす尋ね倦あぐまれ嘸さぞかし御勞おつかれならんにより貴郎あなたは宵よひの中うち御臥おやすみありて夜陰よはよりは御心だけも眠ねむり給はぬ樣いたし度と申に否々いな〳〵今宵こよひとても臥やすむに及ばず兩人して寢ねず番ばんをせんと云故然らば兩人の間に置おき互たがひに心付合あはんと夫婦して二十五兩の金子を中へ置おき風かぜの音おとにも飛起るやうにして夜もすがら寢ねもやらず守り居けるが深々しん〳〵と更行ふけゆくに從ひ文右衞門は過去來すぎこしかた我身の上を思ひ出し偖さても〳〵如何成事にて斯迄武運ぶうんに盡果つきはてたるこの身かな以前は越後家にて五百石の祿ろくを頂戴ちやうだいし物頭役をも勤つとめ大橋文右衞門とも云はれたる武士さふらひが人の金ゆゑ寢ず番を勤める事餘りと云へば口惜くちをしき次第ぞや是といふも小栗美作をぐりみまさかが讒言ざんげんゆゑなり今更悔くやむ共詮方せんかたなけれど天道誠を照てらし給はゞ何いつの世にか歸參する事もあらんとは云いふものゝ今いま一錢二錢の袖乞そでごひをして其日々々を暮くらし兼かねるも二君に仕へぬ我魂魄わがたましひ武士の本意と思へども實げにあぢきなき浮世うきよかなと一人涙を流したる問とはず語がたりの心の中思ひ遣やられて憐あはれなり


第二十一回


 然しかるに女房お政は夫をつと文右衞門が問とはず語りを側そばにて熟々つく〴〵聞居たりしが堪こらへ〳〵し溜涙ためなみだ夜半の時雨しぐれと諸共にワツとばかりに泣出せしかば文右衞門は是を見返みかへりコリヤお政何が其樣に悲かなしくて泣なきをるやと云ひければ女房お政は漸々やう〳〵に顏を上あげ何ゆゑに泣とは餘りに心なき仰かな只今たゞいま良人あなたがお一人言ひとりごと聞きくに付ても今の身の上うへ情なさけない共しかないとも思へば〳〵口惜くちをしく嘸さぞ御無念に思召さん如何に物堅き御氣象ごきしやうとて日々の困窮こんきうの其中に二十五兩と云ふ此金の眼前がんぜんに有ありながら御歸しなさるとの御志ざしは武士道の義理一應おうは御道理ごもつともなれ共市之丞殿が昔の恩義おんぎを報むくはんと故意々々わざ〳〵遣つかはされたる此金なれば假令よしや其儘そのまゝ御受取なされたとて何の不義理が有あるべきぞ殊に今日も今日とて表の質屋しちやよりは度々の催促さいそく若もしや流れに出る時は僅わづか十二三兩の金子にて大切の大小だいせうを失うしなはるゝも口惜くちをしく夫も金子なければ仕方もなし眼前がんぜん此所に有ある金かねを武士の意氣地いきぢと云いひながら遣ふ事さへならぬとははて何どうしたら宜よからんやと女房お政はくよ〳〵と女心の一筋すぢに昔しを忍び今の身の敢果はかなき體さまを喞かこちつゝ如何いかなる因果と泣沈なきしづむにぞ文右衞門は状かたちを正たゞしコレお政其方は何とて其樣に未練みれんなることを申ぞ浪人しても此清長このきよながが妻ならずや夫に何とて以ての外聞苦きゝぐるしき世迷言よまひごと急度きつと省愼居たしなみをり申すべし是此金子は受納うけをさめたりとて何も仔細しさいなき事は汝が申さずとも承知なれ共然さある時は先にも申如く一旦他人ひとに惠めぐみたる金子を如何に零落れいらくなせばとて取戻せしと云れんことも無念むねんなり又是迄年來磨上みがきあげたる武士の魂魄たましひ何ぞ再び變へんずる事あらんや渇かつしても盜泉たうせんの水を飮のまず熱しても惡木あくぼくの蔭かげに舍やどらず君子は清貧せいひんを尊ぶとこそ云へり今一錢二錢の袖乞そでごひしても心清きよきが潔いさぎよし人間萬事塞翁が馬ぢや又また好よき春はるに花を詠ながめる時節もあらん斷念あきらめよと夫婦互に力を添そへ合あひ憂うき物語ものがたりに時移りしに頓やがて塒ねぐらを放るゝ鳥の聲に夜は白々しら〴〵と明渡りければ女房お政は徐々そろ〳〵と勝手に立出たちいで麤朶そだ折をりくべて飯めしの支度に懸かゝり文右衞門は嗽うがひなどして其所そこらを片付かたづけ偖さて飯めしも仕舞ければ是より文右衞門は又々馬喰町へ行ゆき市之丞を尋ね探さがさんとする處へ表の質屋より例れいの小僧が來り一昨日御出おんいで遊ばし御對談ごたいだんの上今一兩日待まち呉くれよとの御頼み承知したれども其後今日けふ迄も一向に御沙汰是なく候間今日中猶豫いたし明日は是非々々相流あひながし候により然樣さやう御承知下されよと門口より言放いひはなし小僧は急ぎて歸りけり


第二十二回


 偖質屋よりは今日中猶豫いうよ致し明日は是非とも質物しちもつ相流し候旨斷ことわりに來りければ文右衞門は途方とはうにくれ如何はせんと女房お政に相談さうだんなしけるにお政も太息といきを吐つき那あの一口は大小ばかり賣拂ひても金五十兩程になるべし其外そのほか小袖こそで合羽かつぱの類まで彼是六十兩餘の金目かねめの品々を僅かに十二三兩位に預けし切ぎり流しては餘り口惜くちをしき事に候はずや因て考ふるに一先まづ此金子にて請出うけいだし其上外方へ賣拂ひ候はゞ相應さうおうの代金手に入べし其時市之丞殿持參致されたる金子だけ返濟へんさい致す共遲おそからぬ事ゆゑ其中の融通ゆうづうに遣つかはれたならば市之丞が折角の志こゝろざしも通り又また貴郎あなたの御義心も貫つらぬくと申もの双方さうはうの御趣意も立て宜く候まゝ是非々々然樣さやうに成なされよと申ければ文右衞門は暫時しばらく考へしが成程是は其方そなたの申通り一時の融通ゆうづうに此金を借用したりとて返かへしさへなせば我が一分も立又市之丞の志ざしも貫とほりて遣はすと云もの實じつに那あの大小を此儘このまゝ流して仕舞は餘り殘念ざんねんなり然さらば先此金子にて請出し我が年來の懇意こんいなる稻葉丹後守樣の藩中へ持參して能よき直段ねだんに賣拂はんと文右衞門は漸々やう〳〵承知なし市之丞が遺したる金子廿五兩の内を以て表の油屋あぶらや五兵衞の方へ行ゆき番頭久兵衞に逢あひて流れの一件段々と延引えんいんに相成甚だ氣の毒千萬なり夫に付今日は右の品物を賣拂うりはらはんとのお使御道理ごもつともにて候然るに幸ひ昨晩さくばん外ほかより融通ゆうづう致したる金子是あるにより右の品々受出うけいだし候間御面倒ごめんだうながら御取出し元利共ぐわんりとも何程なにほどに相成候や勘定して下されと云ひければ番頭久兵衞は大いに驚き心の中うちに思ふ樣此品々を今更受出されては心當こゝろあてが違ちがうたり是と云も此質物は外ほかの代呂物しろものと違ひ五ヶ月限りの約束やくそくにて凡六十兩程は固かたく直段のある品を僅か金十二兩貸かしてあるゆゑ流れになりて賣うり拂へば金四十五兩は儲まうかるなり其四十五兩の金子は皆己が懷中ふところへ入いれ帳面面ちやうめんづらは筆の先にて能よき樣やうにごまかし置んとの胸算用むなさんよう夫と云も平生文右衞門は一文二文の袖乞そでごひをして居けるゆゑ大丈夫請出す氣遣きづかひなしと踏ふみたればこそ嚴重きびしく催促さいそくをしたりしに今請出されては甚だ心當こゝろあてが相違さうゐしたりと番頭久兵衞は小首を傾かたぶけしが又心中に考ふるやう此品物を殘のこらず受出すと云ば仕方なけれども勿々なか〳〵今十兩からの金子の出來る筈はずはなし大方おほかた大小だいせう計ばかり請うけると云ならん其處で拔差ぬきさしは出來ずと斷ことわり流させ呉んと思ひければ久兵衞は文右衞門に向むかひ質物を受出さんとの御事おんこと承知仕つり候へ共一品にても拔差ぬきさしは手前にて迷惑めいわくに候間殘らず御受なさるゝなら格別かくべつ其方そなたの勝手に大小ばかり請樣うけやうなどと仰られても其儀は出來申さずと云ければ文右衞門聞きゝて夫は御道理ごもつともの事なり今殘らず請出す間あひだ元利ぐわんり何程なにほどか勘定して下されと云いふ故ゆゑ番頭久兵衞は飽迄あくまで見込みこみ違ちがひになりしかば心の中にては甚だ忌々いま〳〵しく思へ共詮方せんかたなく勘定致し見るに元利十三兩二分外に時貸ときがしが六百文右の通りと文右衞門が前に差出さしいだしければ文右衞門は是を見て是は〳〵御世話おせわと云いひながら財布さいふの中うちよりぞろ〳〵と一分金にて十三兩二分取出し殘のこらず勘定して質物を受取うけとり我が家をさしてぞ歸りける


第二十三回


 偖文右衞門は我が家やに歸りて衣類大小を能々よく〳〵改め見るに品數しなかずも相違さうゐなく幸ひ今日は雨天うてんにて貰もらひにも出られず直樣すぐさま是これより稻葉侯の御家中へ大小を賣うりに參らんと今いま質しちより受出して來たる衣服いふく并ならびに省愼たしなみの大小を帶たいし立派なる出立いでたちに支度なして居たる處へ同じ長家に居る彼張子かのはりこの釣鐘つりがねを背負せおひて歩行あるく辨慶がのそ〳〵と出きたりモシ〳〵文さん今日は雨降あめふりで御互に骨休ほねやすみ久し振ぶりなれば一口くち呑のむべし夫に今さんまの生々なま〳〵としたるを買かひあつたから是で一ぱい遣やりやせう先まづ何は兎もあれ私しの宅たくへ御出おいでなせへと門口かどぐちから聲こゑを懸かけければ文右衞門は是を聞て夫は忝けないが生憎あひにく今日は少々差掛さしかゝりたる用事のあるゆゑ何れ又此後のことに致すべしと申しけるに辨慶は打笑うちわらひコウ〳〵文さん其樣に稼かせぐには及ぶまじ今より貰もらひに出るには遲おそし是非々々來なせへと忙せはしなく云ひければ文右衞門否いや私わたしは今から稻葉丹後守樣の御屋敷まで參らねばならぬ用事が有あると云に辨慶は猶なほ門口かどぐちを這入はひりながらオイ〳〵貴樣は勇いさましき根性こんじやうだな日々一文づつ貰ひ居ながら稻葉丹後守樣の御屋敷へ罷まかり出いづるなどと餘あまり口巾くちはゞツたきことを云ものかなと大いに笑わらひつゝ文右衞門の容體なりを見るに上には黒羽二重くろはぶたへの紋付もんつき下したには縞縮緬しまちりめんの小袖博多の帶おびに唐棧たうざんの袴はかま黒羅紗の長合羽を着し大小を凜々りゝしく帶たいして如何にも立派なる武士さぶらひに出立いでたち居ゐたりしかば是はと驚き然さう云事いふことなら是非に及ばずと云直いひなほし早々此家を立出しが偖々さて〳〵不思議ふしぎなる事もあるものかな此山崎町へ來りて我等われらが仲間に入いり袖乞そでごひに出る者が今日は斯の如く立派なる身形みなりにて然も稻葉樣へ行ゆくと云は何分なにぶん合點がてん行ゆかず文右衞門は舊もと越後家の浪人と聞及きゝおよびしが苦し紛まぎれに切取り強盜がうたうをせしに相違なしと思ひければ夫より三井寺の辨慶は長屋中を觸歩行ふれあるきしに仲間なる丹波の荒熊あらくま又は皿廻さらまはし烏からすの聲色こわいろ遣つかひなど皆々此浪宅へ來り樣子を覗のぞき見て成なるほど〳〵辨慶の云通り文めが今日の身形みなりは何でも只事ではなしと噂うはさ區々まち〳〵なるに辨慶は少し鬱氣ふさぎし樣子にて己おらア日來ひごろ仲間の事ゆゑ文右衞門とは心安くして度々たび〳〵酒も飮合のみあひしが那あんな身形みなりをして出るに直に探索方たんさくがたの御手に會あふは必定なり萬一もし縛しばられもする時は己も直すぐに引合ひきあひを食ふも知ず困こまりしことと咄しければ荒熊あらくまは聞て然共々々さうとも〳〵文右衞門めが召捕めしとられなば手前は第一番の引合にて同類どうるゐ同樣どうやうなりと云ければ辨慶は勃然むつとして其樣そんなに馬鹿にするな己おらに於おいちやア憚りながら少しも後うしろ暗くらい事など仕た事アネヘと彼是咄し會あひて乞食こつじき仲間は些少ちと妬ねたましき心より種々に氣を揉もみ居たりけり偖又彼油屋の番頭久兵衞は文右衞門が質物しちもつを受出うけいだして歸りし跡あとに茫然ばうぜんと手を拱こまねぎて居たりしが彼浪人め一文貰もんもらひの身分にて僅わづか二三日の中に十三兩と云金子の出來樣筈はずなし融通ゆうづうせし金なりと云とも奚なんぞ袖乞に十兩からの金子を貸かす人ひとの有べきやはて不思議なる事もあるものだ何どうした譯の金なるやと良やゝ暫しばらく考へしが而して見れば一文貰ひの苦紛くるしまぎれに奴きやつ切取きりとり強盜がうたうをなすか又は家尻やじりにても切しならん渠かれは元浪人者だと云から表向おもてむきは一文貰ひ内職ないしよくには押込おしこみ夜盜よたうをするに相違なし兎角とかく然樣さうなければ金の出來る筈はずはなし假令よしや然樣なくとも我が胸算むなさんの相違なれば奴きやつを盜賊に陷おとし未だ遣ひ殘りの金もあらばせしめて呉くれんと忽ちに惡意あくいを發おこし丁度此日質の流れを賣たる百兩と云金が見世にあるゆゑ是を取隱とりかくし置おき早々文右衞門の方へ行て金の出所でどころを聞糺きゝたゞし若もし出所しゆつしよ明らかなれば夫までの事萬一胡亂うろんの申口ならば見世に在ありし百兩の金を文右衞門が盜ぬすみ取とりしと云懸いひかゝりて同人が所持の金子を體能ていよく騙ゆすり取んと工夫くふうにこそは及びけれ此油屋五兵衞方の番頭久兵衞と云ふは元上總無宿の破落者ならずものなりしが其後東海道筋にて護摩灰ごまのはひを働らき前書に顯あらはし置たる通り後藤半四郎の道連みちづれとなり三島宿の長崎屋と云ふ旅籠屋はたごやに於て半四郎が胴卷どうまきの金子を盜取ぬすみとらんとして引捕へられ片々の小鬢こびんの毛を拔取ぬきとられ眞黒に入墨いれずみをされて命いのち辛々から〴〵逃にげし奴やつなり然れども少しは是に懲こりしと見え其後は惡き事もなさず中年にて奉公に住込すみこみ隨分身を愼つゝしみ居ければ主人五兵衞は此久兵衞が年頃といひ萬端ばんたん如才じよさいのなき者ゆゑ大いに心に適かなひ好者よきものを置當おきあてしとて終に番頭となし見世の事は久兵衞一人に任まかせしなり尤も五兵衞の悴せがれに五郎藏と云ふ者有けれ共是は人並ひとなみ外はづれし愚鈍おろかにして見世の事等一向に解わからざれば此番頭久兵衞などには宜樣いゝやうに扱はれ主人か奉公人かの差別もなき位の事なり又また親父おやぢの五兵衞と云者は是迄商賣向には勿々なか〳〵如才じよさいなけれ共酒さけも好すき女も好にていゝ年をしながら此處彼處ここかしこへ圍かこひ者をなし其上屡々しば〳〵女郎買にも行ゆき家うちの下女には手を付て懷妊くわいにんさせて金を取られいやはや女を好むことは鷄にはとりにも似にたりと云程のことなれば近來ちかごろ家内かないの不取締ふとりしまりは勿論なり故に何事に寄よらず番頭久兵衞が一人にて宜樣よきやうに掻廻かきまはして居ければ終に又昔しの惡心あくしん再發さいはつなし此度文右衞門が質しちの一件とても己が氣儘きまゝに取計らはんとし又主人の金子百兩を盜ぬすみ取て文右衞門へ塗付ぬりつけんと巧たくみ家内は誠に亂脈らんみやくにて主人はあれ共なきが如く此久兵衞一旦は改心かいしんの形かたちに見ゆれども茲に至つて又々本性ほんしやうを顯あらはし大橋文右衞門に百兩の云懸いひかゝりをするといふ大惡不道だいあくぶだうの曲者なり然されば根が惡心のある者は如何にしても善心には成難なりがたきものと見え往々わう〳〵召捕めしとらるゝ盜人ぬすびとども入牢じゆらうの上御裁許に逢あひ追放つゐはう又は入墨或は遠島と夫々に御咎おとがめを仰付らるゝにより迅速すみやかに正路しやうろの人になるべき筈はずなれども又人間に出る時は以前いぜんに一層そう惡事の効を積つみ遂つひには其身を亡うしなひ惡名を萬世に流すを見みれば惡は惡に亡ほろぶる事誠に是非もなき次第しだいなり又また主人あるじ五兵衞は其人を知らず只たゞ己の慾よくを恣ほしいまゝになせしゆゑ遂には家の滅亡めつばうを招くと云いふ是これ亦また淺猿あさましき事にこそ


第二十四回


 偖又大橋文右衞門は支度したく調とゝのひしかば稻葉家の藩中へと出行し跡あとへ彼の油屋五兵衞の番頭久兵衞は入來り文右衞門さんは御家おうちにかと云ながら直つぐと上り込こむゆゑ女房お政は是を見てヤア油屋の番頭さん折惡をりあしく宿やどでは留守なれども先まづ一ぷくあがりませ又また今朝程けさほどは何かと御世話に成なり殊ことに約束の月も切きれて度々御催促ごさいそくをも受うけ誠にお氣の毒と云を久兵衞ナニ夫は商賣の事ゆゑ厭いとひませんが若もし内儀おかみさん承まはるも餘り率爾ぶしつけながら能よく急きふに金子が出來ました尤も外より御融通ごゆうづうなされたとか仰せなれども金子かねと云ふものは勿々なか〳〵容易よういには調とゝのひ難きもの最早もはや濟すみし事ながら既すでに流れ買に賣拂はんとする處なりしが彼金あのかねは何處どこから御融通なされしにや些ちと申し惡にくき事なるが御立腹ごりつぷくなさるな内儀樣おかみさん一文貰もらひの袖乞そでごひをする身分にて昨日きのふまでも出來ざりし金が一夜の中うちに十三兩餘りと云いふ大金の調ひしとは誠に不測ふしぎなり是に依よつて失禮ながら御問ひ申す事なりと云ければ女房お政は聞きいて夫は久兵衞さん訝おつな事を御尋ねなさる成程なるほど今此樣に零落れいらくして一文貰をする身なれば不審ふしんに思ひなさるも御道理ごもつともなれど此金子の出來しと云譯を委細くはしく御物語り申せば永ながき事なるが一寸摘んでお咄はなし致さん此金子と云は最早十八年以前の事にて元もと私わたくしの國許くにもと越後の高田に居たる頃同じ家中新藤市之丞と云者ありしが同役の娘と密通みつつうに及びし事薄々うす〳〵役人どもの耳みゝに入御家の御法ごはふを破やぶりし者なれば捨置すておかれずとて既に兩人共一命にも關はる處を夫をつと文右衞門が情なさけに依て兩人が命を助たすけんと二十兩の金を與へて江戸表へ立退たちのかせたるに其後夫婦になりて取續とりつゞき今にては先まづ相應さうおうに暮して居ると申事其助けたる市之丞に此ほど廻めぐり逢あひし處我々夫婦此樣に浪人して困窮こんきうに及ぶを見兼ての深切しんせつ先年の恩報おんがへしなりとて一昨日をとゝひ夕方ゆふがたに廿五兩と云金子を調達てうだつして持參致されし譯ゆゑ何も別に不審ふしんに思はるゝ事は是なしと金の出所を白地あからさまに咄はなすを聞て番頭久兵衞成程世の中には義理ぎりの堅かたい深切なる者もあれば有者あるもの併しかしながら夫が眞實ほんたうの人間なるべし其市之丞殿とか申方は當時たうじ何方に住居致され候やと申にお政は打案うちあんじ左樣さ私しも未だ江戸の樣子やうすは不案内なれ共たしか馬喰町邊とかにて紙屑買を渡世とせいになし居ると申されしなりと云ければ久兵衞は茲ぞ付込處つけこみどころなりと思ひ然さすれば其市之丞殿の家主の名前なまへ又當時本人の名は何と申され候や紙屑買をするに苗字めうじつき新藤市之丞にても有まじと云にお政否家主いへぬしの名は承まはらず又當人の名も當時は替かはり居るならんが此程中このほどちう逢あひし時には以前の名前新藤市之丞と許ばかり申居をりしなりと云に久兵衞は彌々いよ〳〵しめたりと思ひ夫では内儀樣少し胡亂うろんなお咄しなり家主の名も知ず當人たうにんの名前も分らぬとは如何にも受取うけとられぬ事こと而して見れば兎にも角にも其金の出所が怪あやしいと云つゝ充分じうぶん心の中に笑ゑみを含ふくみ道理だうりこそ一夜の内に金の工面くめんが出來たるなれ夫に付て御談おだんじ申す事があり昨日きのふの朝あさ流れる品を賣た代金百兩包みの儘まゝ帳箱ちやうばこの上に差置さしおきつひ事に紛まぎれて仕舞のを忘れしが此方こちらの旦那が歸られたる跡あとにて心付こゝろづき見みるに其の金子何れへ紛失ふんじつせしにや一向分らず因て嚴重げんぢうに家内を詮議せんぎなしたれども何分知れず是は知しらぬ筈はずの事なり其そは文右衞門さんが不圖ふとした出來心夫も無理むりとは思はず斯かく貧窮ひんきう致さるゝゆゑ如何に手堅てがたき人にても心の駒こまの狂ふのは是有これありうちなり然さりとて其儘捨すてても置れず迷惑めいわくなすは我等のみ因て其百兩の金子は早々さう〳〵御返おかへし下されよ然さすれば人の耳にも入いらず内々事を濟すまさん程にサア〳〵素直すなほに御返しあれと思おもひも寄よらぬ言懸いひがかりに女房お政は大に驚き夫そりやマア久兵衞さん途方とはうもない百兩の金子をば文右衞門が取とりしなどとは跡形あとかたもなき云懸いひがかり假令たとへ戲談じようだんにもせよ然樣の事を申されては聞捨きゝずてにならず夫には何か證據が有あつて申さるゝにやと見相けんさうを變て申に久兵衞は冷笑あざわらひ否々いや〳〵人は見かけに寄ぬもの其時其所そこに居合ゐあはせたは文右衞門殿ばかりゆゑ盜まれたるに相違さうゐなし盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは此事なりと云ひければお政は彌々いよ〳〵やつ氣となり私しを女と侮あなどりて當事あてこともなき言懸いひがかり成程一夜の中に金の出來たるを不思議ふしぎと云いはるれど夫は只今も申せし通り新藤市之丞が持もつて來たる金なるに御前は何と思ひしにや無體むたいを云いふも程があるとお政は無念むねんの切齒はがみをなすに久兵衞は落おちつきはらひオイ〳〵御内儀おかみさん其樣に逆たつみ上あがりになるからは猶々怪あやしく思はれるマア能々よく〳〵氣きを鎭しづめて御聞あれその市之丞とやらが家主の名も知れず殊ことに當人の名前なまへ住居ぢうきよも知しらずとは是怪しき證據の第一なり廿五兩といふ大金を受取うけとりながら其人の名前住所をも聞きいて置おかぬと申さるゝは元もとが不正ふせいの金子かね故ゆゑに確しかと出所でどころは云いはれぬ筈はず何でも百兩は此方こつちの旦那が盜み取たるに相違なし四の五の言いはれずと只今返されよサア〳〵如何にと詰つめよるにぞお政は無念むねんさ口惜くちをしさ叫わつと計りに泣出し成程當人の名前住所をも聞きかずに置たるは手前の越度をちどなれども夫をつとに於て其の樣なる不埓ふらちを致す者でなし浪人しても大橋文右衞門素もとは越後家にて五百石の祿ろくを領りやうし物頭役ものがしらやくをも勤つとめたる武士さふらひなり夫を何として不義不道ふぎふだうの盜み心を發おこすべきと怒いかりつ泣つ爭あらさうに番頭久兵衞は左右とかくに冷笑あざわらひナニサ其樣に子供欺だましの泣聲を出しても其手は勿々なか〳〵食くはぬ夫よりは御前方も一文貰もらひの苦し紛まぎれ貧ひんの盜みに戀こひの歌とやら文右衞門さんが不圖ふと出來心できごころにて盜まれしと言つた方が罪が輕かるい其所は私わたしが心一つで取計らひ質を受たる十三兩の金子は負まけてあげ樣やう程ほどに跡の金を殘らず御返しなされ然すれば此事は是切これきりにして上るなり夫が一番上分別じやうふんべつ憖なまじひに押おしを強く云拔いひぬけ樣やうとても然樣甘うまくは欺だまされず是が表向おもてむきになる時は文右衞門さんは甚はなはだ御氣の毒だが御吟味中入牢じゆらうトヾの迫つまりは首がなし命あつての物種ものだねなればサア〳〵殘りの金子を渡されよ何どうだ〳〵と責付せめつけるを此方は増々ます〳〵聲ふるはせ最もう此上このうへは爭ふより今に夫をつとが歸りなば直樣すぐさま分る事柄なり金の出所は市之丞より受取たるに相違さうゐなしと終には互に大音だいおん揚あげ云爭いひあらそひて居たりけり

評ひやうに曰く如何に久兵衞奸惡かんあくなりとも此方こなたには拔目ぬけめなければ惡謀あくぼうも行ふ事能はず然るを二度まで來りし市之丞が當時の住所ぢうしよ名前等も聞置ざりしは全く文右衞門の無念むねんなり然ば久兵衞其落度に付込み斯かく難題なんだいを申懸るのみか己が見世の百圓[は#「百圓は」はママ]密かに我が圍かこひ女の方へこかせし奸曲かんきよくに逢ひ文右衞門は終に身の難儀なんぎとなるは其人にして此過失このあやまちあるは時の不幸と云べき而已


第二十五回


 扨さて又また大橋文右衞門は久々にて稻葉丹後守殿藩中はんちうへ行一別以來の挨拶あいさつに及び扨拙者儀浪人らうにんの後斯樣々々の次第に因て困窮こんきうなし餘儀なく家いへ重代ぢうだいの品も質入なせし處此度月切に相成既に流れんとの趣き度々たび〳〵催促さいそくを受殆ほとんど當惑たうわくなすと雖も詮方せんかたなく年來祕藏ひざうせし差替の大小僅かの金にて他人手ひとでに渡んこと如何にも殘念ざんねんに存じ貴殿は豫々かね〴〵御懇望ごこんまうもありし品ゆゑ御買取を願はんと持參なしたりと申に彼方も大橋の困窮こんきうを察し迅速すみやかに購あがなひ呉くれしかば文右衞門は喜びて代金を受取我が家を指して歸かへり來りしに何やら路次ろじの中騷さわがしければ早々來り見るに油屋番頭久兵衞と我が女房にようばうが何か爭ひ居たるゆゑ文右衞門は兩人に向ひて何事の爭あらそひか譯わけは知ね共互に大音だいおん揚あげ近所きんじよへ對し外聞ぐわいぶん惡わるし靜に譯わけを咄はなすべしと云に女房にようばうお政は夫をつとの歸りしを見て是は好所よきところへ御歸りなり今久兵衞さんが來られて餘り無法むはふな事を言懸いひかけらるゝにより思はず大きな聲を出せしなり其譯そのわけは一昨日をとゝひ良人あなたが質物しちもつの日延をして歸りし後にて心付し處油屋の見世にありし百兩の金が紛失ふんじつしたるに付良人をつとが盜ぬすみ取たるに違ちがひなし然なければ一文貰もらひの貧窮ひんきう浪人らうにんが十三兩三分と云質しちをすら〳〵請うけ出す筈がないと云るゝにより其質しちを請し金は新藤市之丞と申人が昔し貸たる金を返すとて持て來た金なりと譯を申ても聞入きゝいれず質しちを受た丈の金はまけて遣るから殘りの金を返せ〳〵と無理むり無體むたいのことを申さるゝなりと泣なきながら仔細しさいを語りしかば文右衞門は是を篤とくと聞しが夫は不埓ふらち千萬の申懸なりと大いに立腹りつぷくし是より又久兵衞と文右衞門の言爭いひあらそひになりければ長屋ながや中の者追々おひ〳〵此騷動さうどうを聞付けそれ事こそ出來たり我々われ〳〵が云ぬ事か一文貰もんもらひの素浪人すらうにん俄にはかに大造たいそう立派りつぱな身形みなりをして稻葉丹後守樣の屋敷へ行などと云しが果はたして表おもての質屋しちやにて百兩の金が紛失なくなりし由恐おそろしき盜人ぬすびともあるものかな而して見れば是までも諸所しよしよへ盜賊たうぞくに這入はひりしに違ひなし此間もお内儀さんが浴衣ゆかたの古いのを二枚賣たいと云ひしが那あれも盜ぬすみ物ならんなどと種々いろ〳〵に噂うはさをなし兎も角も一ツ長屋に居れば我々まで引合ひきあひになるも知れず日來ひごろ一口ひとくちづつ呑合のみあひし者は今さら仕方なし皆々恐れ用心ようじんしてぞ居たりける偖文右衞門久兵衞の兩人は増々ます〳〵云募いひつのり假令たとへ今浪人らうにんしても大橋文右衞門ぞや他人の金などに目を懸んや某しが質物しちもつを受出せし金は愚妻ぐさいよりも申せし通り新藤市之丞と云者より受取たる金に相違さうゐなく其譯そのわけは斯樣々々と馬喰町中ばくろちやうぢう尋たづね歩行あるきたる事まで委しく申聞ると雖いへども久兵衞は少しも聞入きゝいれず否其新藤市之丞と云は町所家主も知れず當人たうにんが今の名前さへ知れぬ位の事なる由是第一怪あやしき證據なり又不審ふしんなるは一夜の中に大金の出來る筈はずもなし何でも御前が質物流しちもつながれの云譯わけに來た時帳箱の上に置おきし百兩の金子が紛失ふんじつしたれば御前が盜ぬすみしに違ちがひなし質しちを受たる十三兩三分は勘辨かんべんするにより殘のこりの金を只今返かへされよと云ふに文右衞門扨々聞譯きゝわけのなき男かな然れば是非ぜひに及ばず是を見て疑うたがひを晴はらされよと云つゝ豫かねて省愼たしなみ置おきたる具足櫃ぐそくびつ并ならびに差替さしかへの大小までも取出し此通り國難まさかの時の用意も致し居る拙者なり他人の物を盜ぬすむなどと云卑劣ひれつの武士さふらひにあらず是にても疑ひは晴はれぬかと云ふに久兵衞は大口おほぐち開あいて打笑うちわらひイヤサ盜人ぬすびとたけ〴〵しいとは貴殿きさまの事なり此品々を省愼たしなみ置たるとは是これ又また僞いつはりなるべし大方皆盜ぬすみ取たる物ならん茲な大盜人おほぬすびとめと樣々に惡口あくこうなしければ元より武道ぶだうを琢みがく大橋文右衞門賊名ぞくみやうを負おはせられては最早もはや了簡れうけんならず今一度言て見よ己れ其座そのざは立せじと刀かたな追取おつとり膝ひざ立直たてなほし怒いかりの目眥まなじり釣上つりあげて發打はつたと白眼にらみ付けれ共久兵衞は少しも驚く氣色なく否いな盜人ぬすびとに相違さうゐなし百兩盜みし大盜賊おほどろばうと大聲揚あげて鳴なりわめけば爰に至りて文右衞門は耐忍こらへ兼一刀たうすらりと拔放ぬきはなし只一打うちと振上ふりあげるに久兵衞は大に驚きヤア人殺し〳〵と罵のゝしりながら表ての方へ一目驂もくさんに逃出にげいだせば汝れ何條逃のがさんやと路次ろじを放はなれて追行おひゆく折柄をりから火附盜賊改ひつけたうぞくあらための組與力くみよりき笠原粂之進と云者手先兩人を引連ひきつれて今此所を通り掛りけるが文右衞門拔身ぬきみを振て久兵衞を追駈おひかけ行を見留夫捕縛めしとれと云ふより早く手先兩人づか〳〵と走はしり寄より上意と聲かけ文右衞門并びに久兵衞とも忽たちまち高手小手に縛いましめ兩人ながら自身番じしんばんへ引行けるに是を見るより近所の者ども馳集はせあつまり自身番の前は見物の人山やまの如く夫が爲往來わうらいも止るばかりの騷さわぎにて皆々文右衞門に指ゆびさし彼が乞丐頭がうむね長屋に居たる浪人らうにん者此油屋と云質屋にて金を百兩盜ぬすみし大盜人おほどろばう元もとは越後浪人にて劔術けんじゆつの達人たつじんたりとか云が今御召捕めしとりになる時捕方とりかたの者を七八人投付なげつけたれども漸々やう〳〵折重をりかさなりて捕押とりおさへ自身番じしんばんへ上られたり何なんでも大盜人おほどろばうにて手下てしたが百人ばかりもありと云咄はなしなり然れども表向おもてむきは一文貰もらひの袖乞そでごひをして居たと云などと虚うそにも理を付て噂うはさしけるゆゑ彌々いよ〳〵人々集あつまり來り自身番の前は錐きりを立る地もなき程なれば番人ばんにんは鐵棒かなぼうを引出し皆々人を拂ひ退のけるに笠原粂之進は大橋文右衞門并びに油屋の番頭久兵衞の兩人を其所へ引据させ一通り吟味ぎんみに及びし處文右衞門は元より潔白けつぱくの武士さぶらひゆゑ些いさゝかも包つゝみ隱かくさず新藤市之丞より返濟へんさいしたる金子の譯わけ又久兵衞が百兩の云懸いひがかりをなし盜賊たうぞくの惡名を負おはせんとしたるを殘念ざんねんに存じ怒いかりの餘り打捨うちすてんと思ひ詰つめたる事由迄ことがらまで委細ゐさいに申立たり又久兵衞は己れが惡巧わるだくみを押隱おしかくし是非々々ぜひ〳〵百兩の云懸いひがかりを通して文右衞門を盜賊たうぞくに落し呉んとの了簡ゆゑ一文貰ひの身分みぶんにして俄然にはかに金策きんさくの出來たる譯わけ又店にて百兩の金が紛失ふんじつしたるは斯樣々々と辯べんに任まかせて申立ければ其通り双方さうはうの口書くちがきを取久兵衞は吟味ぎんみ中主人五兵衞へ預あづけられ文右衞門は直樣すぐさま頭かしらの小出兵庫殿こいでひやうごどのへ差出しと相なり吟味中ぎんみちう入牢じゆらう申付られける又文右衞門が女房にようばうお政は家主へ預けとなり長屋の者共にて嚴きびしく宅番たくばんを申付置頓やがて與力よりき笠原かさはらは引取けり


第二十六回


 扨文右衞門女房お政は家主預あづけとなりて宅番たくばんまで付し事なれば少すこしも身動みうごきならず只々たゞ〳〵夫文右衞門が此度の災難さいなんを歎なげき悲かなしむ事大方ならず明暮あけくれ涙なみだに沈しづみ何なれば天道てんだう誠まことを照てらし給はぬにや國にては惡人あくにん小栗美作をぐりみまさかが爲に讒ざんせられ終に浪人らうにんして斯かく零落れいらく困窮こんきうに及び其上にも此度斯る無實むじつの難にあふ事はよく〳〵武運ぶうんに盡果つきはてたりしか夫に付ても恨うらめしきは新藤市之丞殿が當時の名前并びに町所等ちやうどころとうを委くはしく聞置ざりし事然れども彼方にても今は何と改名かいめいせし位の事は話しも有べき筈はずなるに夫等に氣の付ぬとは餘り迂濶うくわつなりし那あれ程までに馬喰町を尋ね探さがされても知れぬには仕方なしあはれ今にも市之丞殿が來たりなば夫は災難さいなんを遁のがれなんと女心のやるせなく天てんに歎き地に喞かこち或ひは己を悔くやみ市之丞を怨うらみ種々樣々に悲かなしみつゝ何卒して夫文右衞門殿が身の證あかりの立工夫を授け給へ何か無實の難を逃のがるゝ樣なさしめ給へと神佛を一心しん不亂ふらんに念じ居たりしが不圖ふと隣となりの話しの耳の入女房お政は心付是は當時天下に名譽高き御奉行と評判ひやうばんある大岡越前守樣へ駈込かけこみ訴訟をして夫文右衞門が身の證あかりの立樣に御慈悲ごじひを願ふより外はなし直樣駈出さんかと一圖づに思ひ詰つめたれども如何にも宅番たくばん嚴敷きびしくして一寸の間も門を出る事能はず然ども此お政は貞節と云流石さすがに元は五百石取の大橋文右衞門が妻なれば氣象きしやうに於ても男勝をとこまさりゆゑ何卒隙すきを見て逃にげ出し御奉行所へ駈込かけこまんと心懸こゝろがけてぞ居たりける又宅番に當りし長屋の者共代々かはる〴〵に來りては閑ひまに任せて噂うはさをなすに當座利合りあひを推おして全く文右衞門が盜人なりと思ひ居けるゆゑお政に向ひお前の亭主ていしゆと云者は恐ろしき大盜人おほぬすびと大方まだ〳〵油屋の百兩許りにてはあるまじ所々方々にて稼かせぎたる事もあらん今迄此方の仲間なかまには他人の物を掠取かすめとるなどと云者一人もなし家業は此上もなき賤いやしき一文貰もらひなれども心まで其樣に卑賤いやしくはならず餘りと云ば馬鹿々々しい是内儀かみさん私し共まで文右衞門樣の連累まきぞひを喰くつた樣な者此通り宅番をして居ては家業に出る事もならず此方の頥あごが乾ひて仕舞ぞや此罪このつみは皆お前の亭主へ懸て行よく〳〵の業ごふつくばりなりと己等が迷惑めいわく紛まぎれに種々恥はづかしめければ是を聞居るお政の辛つらさ殘念ざんねんさ辯解いひわけなすとも實まことにせず口惜涙くやしなみだに咽むせ返る心の中ぞ哀あはれなり然るに天の助けにや或夜あるよ戌刻いつゝどきとも思ふ頃下谷車坂くるまざかより出火して火事よ〳〵と立騷ぎければ宅番の者ども大いに驚き皆々我家へ歸り見るに早火の紛は破落々々ばら〳〵と來たり殊に風も烈はげしければ今にも燒やけて來るかと皆々周章狼狽あわてふためき手に〳〵荷物を運はこび片付るゆゑ文右衞門が宅番する者一人もなし因てお政は是ぞ天の助けと大いに悦よろこび此暇このひまに逃出にげいだして御奉行大岡越前守樣の番所へ駈込訴訟かけこみそしようをなさんと手早てばやく支度にこそは及びけれ


第二十七回


 扨さて又またお政は手早く重代ぢうだいの具足櫃ぐそくびつを脊負せおひ差替さしがへの大小を引抱ひつかゝへ用意の金子を懷中くわいちうなし然さも甲斐々々かひ〴〵しき出立いでたちにて逃出さんとするところへ火事騷くわじさわぎの中なれ共家主吉兵衞きちべゑは大切の囚人めしうどの女房ゆゑ萬一取逃とりにがしもせば役儀やくぎに關かゝると駈着かけつけ來り今いま逃出んとするお政を引捕ひきとらへ大事の御預り者何いづれへ行るゝやと咎とがむるにお政は南無三と思ひ無言にて袖そで振拂ふりはらひ駈出かけいだすをコレ〳〵未まだ燒やけては來こぬぞ此騷このさわぎを幸ひに逃にげやうとて逃にがしはせじと又引止るをお政も今は一生懸命邪魔じやまし給ふなと云ながら用意の九寸五分を晁きらりと引拔ひきぬき家主いへぬし目懸めがけて突つきかゝるに吉兵衞は大いに驚きヤア人殺ひとごろし〳〵と後あとをも見ずに逃出せばお政は爰こゝぞと混雜紛こんざつまぎれに込合こみあふ人ひとを押分々々おしわけ〳〵車坂下の四ツ辻つじまで逃來りしが今此處は火先にて四方より落合おちあふ人々押合々々勿々なか〳〵通りぬける事能はず殊に上野近邊の出火ゆゑ其頃上野の御消防ふせぎは松平陸奧守殿(伊達家だてけ)にて太守も出馬有しかば持口々々を嚴重に固かためられたり又仁王門の方かた御加勢には松平安藝守殿(淺野家あさのけ)の同勢にて詰切つめきる其外町方まちかたに於ては近年大岡越前守の下知にて江戸中の鳶とびの者をいろは四十八組くみとなし町方火消まちかたひけしをば申付られたり是に依て此町火消ひけし共一同に押出して火掛りをなし又武家方にては十人火消を始はじめ諸侯方しよこうがた方角はうがく火消ひけし等夫々に持場々々へ詰つめかけるゆゑ其混雜そのこんざつ云いふばかりなし其上御使番火事場くわじば見廻みまはり并に火元見等東西へ乘違のりちがへ乘違のりちがひ駈通かけとほるゆゑ車坂下四ツ辻の邊は老人及び女子供等には勿々なか〳〵通とほり難がたく只々人の波なみを打うつのみなり斯かゝる處へ引續いて南町奉行大岡越前守殿出馬あり今此車坂下の四ツ辻を通とほり懸かゝられし處流石さすがに町奉行の威權ゐけんあれば町方の者先へ立たち往來わうらいを開あけよ〳〵と制しけるゆゑ人々動搖どよめき合て片寄かたよらんとする時彼の文右衞門が女房お政は具足櫃ぐそくびつを脊負せおひ差替さしがへの大小等を引抱ひきかゝへし事なれば女の力にては人を押分難おしわけがたく其處そこ此處こゝと揉もまれ踉蹌中どよめくうち思はず其處へばたりと倒れ伏ふし既に人にも踏ふまれんとするを大岡殿馬上より是を見られ那あの女をんな助たすけよと聲を懸かけらるゝに先に進みし同心畏まり候と馳寄はせよつてお政を引起し怪我けがはなきやと問を見て大勢の人々成程なるほど天下の名奉行と譽ほめるも道理もつとも此混雜このこんざつの中にても仁慈じんじの御差圖おさしづ然されば其下に使へる役人も斯かくの如しと感じ合あへり此の時お政は大岡殿と聞て悦ぶこと限りなく是は全く神佛かみほとけの御引合おひきあはせ成べし既に駈込訴訟かけこみそしようをせんと思ふ折から幸ひ此所にて行逢ゆきあふのみか今も今とて御助け下くだされたる御慈悲深き御奉行樣御取上あるは必定也ひつぢやうなり是ぞ夫をつとの運うんの開ひらき時どき直樣すぐさま爰こゝにて願はんと心を決しつか〳〵と進みよりつゝ大岡殿の馬の轡くつわに取り付て夫をつとの身にとり一大事の御願ありと申にぞ前後を固かためし家來を始め與力同心打驚うちおどろき是は慮外りよぐわいなり御出馬先さき殊に轡くつわへ取り付とは抑そも氣違きちがひか亂心らんしんか女め其處そこを放はなしをれ不禮に及ばは切り捨るぞ大膽不敵も程こそあれ退しされ〳〵と大音に叱しかりながらに縋すがる手を引放さんとなしけれ共お政は一圖づに我が夫をつとの無實の罪を辯解いひとかんと凝固こりかたまつたる念力ゆゑいつかな轡くつわを少しも放さず夫をつとの命いのちに關かゝはる大事何卒御慈悲に御取上を願ひ奉ると聲こゑ震ふるはせ引ども押ども動かねば同心大勢立掛り強情しぶとき女をんなめ下さがらぬかと無體むたいに引立ひきたて行ゆかんとするを大岡殿は此體このていを見られコレ〳〵手荒てあらき事をして怪我けがを致させまじ渠かれが夫をつとの一大事と申は何か仔細のある事ならんと左とに右かく願ひの筋すぢ取上て遣はすべし然れども今は此混雜こんざつゆゑ後のちに趣意しゆいは聞んにより一先まづ其者を上野町なる名主の方へ送り遣はせ而して又また斯かく込合こみあふ中なかなれば其具足櫃大小等は其方ども持參せよと指揮さしづあるに同心は畏かしこまり候とて直樣すぐさま手早く具足櫃を脊負せおひ差替の大小九寸五分其外都合五本の刀かたなを引抱ひきかゝへてお政を引連ひきつれ上野町の名主佐久間某方それがしかたまで送り行ゆき此者并びに具足櫃其外後刻ごこくまで預るべしと申渡し又々火事場へ引返しけり是則ち享保四年極月ごくげつ十三日の夜の事にて漸々やう〳〵火事も鎭しづまりしかば上野の御固おんかためは勿論もちろん武家方ぶけがた人數にんず町火消等まちひけしらも夫々に引取けるにより大岡越前守殿には火事場より引揚ひきあげがけ直たゞちに上野町の名主佐久間某の方かたへ立寄たちよられ文右衞門の女房お政を呼出し願ひの趣き一通り糺たゞしにぞ及ばれける


第二十八回


 扨大岡越前守殿には佐久間某しの玄關へお政を呼出よびいだされければお政は我が願ひ御取上おとりあげに相成事冥加みやうが至極しごく有難ありがたしと思ひ平伏へいふくして居たるに其方儀ぎ夫をつとが一大事の願ひと申せど先まづ其方は何處いづくの者にて當時何いづれに住居致すや有體ありていに申立よと云れければお政は愼つゝしんで首かうべを上あげ私し事は越後高田の浪人大橋文右衞門と申者の妻つま政まさと申者にて八ヶ年以前夫婦御當地へ罷出まかりいで下谷山崎町吉兵衞店たなに罷在し處浪人の身の上うへなれば追々困窮こんきう零落仕れいらくつかまつり只今にては往來に立たち一錢二錢の合力がふりよくを請うけ漸々やう〳〵其日々々を暮くらし居候と申陳のぶるに越前守殿又其方が願ひと申は如何いかなる事なるやと尋たづねられければお政其儀は夫をつと文右衞門事此程無實の罪にて火附盜賊改あらため小出兵庫樣御手へ召捕めしとられ入牢相成し事故がらに御座候と申に大岡殿而して其方が申處にては殊の外ほか困窮こんきうの身の上に聞ゆれども此具足櫃このぐそくびつ又差替の大小等を見れば餘程よほど立派りつぱの品なるが斯程かほどの品を所持するは甚はなはだ以て不審ふしんなり其道具は如何致して所持しよぢするやと申されしかばお政は平伏へいふくして恐れながら此道具と申は夫をつと文右衞門國元より持參致したる品々にて萬一舊主きうしゆへ歸參仕きさんつかまつる事もありし時の爲ため省愼たしなみ置おきし道具に御座候と申を越前守殿聞れ成程なるほど然しからば先まづ中なかを改め見んとて具足櫃ぐそくびつを近く運はこばせ蓋ふたを開かんとせられしに錠前ぢやうまへが卸おろし有ければ鍵かぎはあるやと問るゝにお政はハツと心付其鍵そのかぎは夫をつと文右衞門が所持致し候又入牢じゆらう仕つり候と申ければ大岡殿町役人へ向むかはれ此町内に錠前屋ぢやうまへやあるべし早々是へ呼出よびいだせと申されしかば家主いへぬし佐兵衞は畏まり奉つると直樣すぐさま馳出はせいだし町内の錠前屋吉五郎と云者の門かどを遽あわたゞしく叩たゝき起し急用あれば爰こゝ開あけ給へといふに吉五郎は戸とを明あけながら急用とは如何いかなることにやと申しければ佐兵衞は息いきをきりながら今いま名主樣なぬしさまの玄關げんくわんにて御奉行樣の御調おしらべがあるゆゑ貴樣を直すぐに連つれて來たるべしとの仰せなりと云ふに吉五郎は是を聞て大いに肝きもを潰つぶし夫そは又何事なるやと惘あきれ居ゐたり一體たい此この吉五郎と云者は極ごく正直しやうぢきにて人のよき事こと竟つひに一度も人と物爭ものあらそひなどしたる試ためしなく町方住居の者には稀まれなる故皆々近所にても佛吉々々ほとけきち〳〵と渾名あだななす程の者なれば今御奉行樣が直ぢきの御調おしらべと聞て暫時しばらく無言なりしが稍々やう〳〵震ふるへ聲を出し夫それは又何御用なるやと云に家主は大方貴樣の見覺えあるべし今夜などは火事場にて何なにか働はたらきし事あらんと云ば吉五郎は猶々なほ〳〵驚き否々いへ〳〵私しに於て然樣さやうなる不埓ふらちを致せし覺おぼえ更に是なしと云に家主はコレサ此こ處こにて何を云とも役やくには立ず覺えなければ早く來きたり御奉行樣の前にて辯解いひわけ致いたされよと家主は吉五郎を促うながして名主の玄關へ同道なせしに正面しやうめんには大岡殿を始め與力同心列を正たゞして嚴重に居並ゐならびければ吉五郎は彌々いよ〳〵色いろ蒼然あをざめ齒はの根ねも合あはぬ迄までに慄ふるへながら家主の後あとに蹲踞ゐすくまるにぞ越前守殿是を見られ是へ〳〵と申さるゝに吉五郎は今にも首くびを切られるかと思ひ何分なにぶん慄ふるへて足も踏止ふみとまらぬを漸々やう〳〵大岡殿の前へ罷出まかりいでて平伏へいふくし何卒なにとぞ御慈悲おじひの御沙汰を願ひ奉つる私しは是まで人の物ものとては塵ちり一本ぽんにても盜ぬすみし覺おぼえ御座なく日來ごろ正直に致せしゆゑ私しの事を皆々佛吉ほとけきちと渾名あだなを付る位くらゐなれば少しも惡事あくじは仕つらず何卒命いのちばかりは御助け下されよと泣聲なきごゑを出して申しければ大岡殿は微笑ほゝゑまれコレ〳〵其方は正直者しやうぢきものと云事いふこと豫かねて某しも聞及んだり何なにも汝なんぢに惡事有て調しらべる譯わけにてはなし安心せよ今此調しらべ者に付て其具足櫃を明あけんと思へども合鑰あひかぎなし是に依て其方を呼よびに遣つかはしたり必らず〳〵心配しんぱいするに及ばず早々此こ所こへ合あふべき鑰かぎを持參して此錠前このぢやうまへを開あけよと申されしかば漸々やう〳〵吉五郎はホツと太息といきを吐つきヤレ〳〵有難き仰せ畏まり奉つると蘇生よみがへりたる心地こゝちにて直樣すぐさま馳歸はせかへり多くの鑰かぎを持參なし種々いろ〳〵合あはせ見て具足櫃ぐそくびつの錠前ぢやうまへを開あけけるとなり此事錠前を破りて開あけなば隨分容易に開あくべきなれど假令たとへ奉行職の者なりとも他人ひとの所持品の錠前ぢやうまへを手込てごみに破る事はならず因て故意々々わざ〳〵鐵物屋かなものやを呼出よびいだして開あけさせられたるなり是奉行職をも勤つとむる者の心得は萬事斯かくの如し此事我々の上うへにある時は自然しぜん面倒めんだうなりとて他人ひとの物にても錠前ぢやうまへを叩たゝき開あけよなど云事なしとも云難いひがたし假かりにも錠前ぢやうまへを破るは關所せきしよを破りしも同樣にて其罪至つて重おもし注意こゝろづけずんばあるべからず


第二十九回


 閑話休題あだしことばさておき吉五郎は錠前ぢやうまへを開ひらきて差出せしかば大岡殿自身に具足櫃の中うちを改めらるゝに中なかには紺糸縅鐵小脾こんいとをどしてつこざねの具足ぐそく一領りやう南蠻鐵桃形なんばんてつもゝなりの兜かぶと其外籠手こて脛當すねあて佩楯はいだて沓等くつとう六具ぐとも揃へて是あり又また底そこの方かたに何なにか疊紙たゝみの樣なる包つゝみあり是を引出して見らるゝに至て重き者にして堅かたく封印ふういんあり其上書そのうはがきに慶長五年關ヶ原合戰軍用金ぐんようきん大橋文右衞門源清澄みなもとのきよずみと書付かきつけあり是に依て越前守殿一應お政へ斷ことわられし上うへ封を開ひらいてみらるゝに小判にて金百兩あり大岡殿心中に甚はなはだ感じられ是は全く由緒ゆゐしよある武士なり兎角零落に及んでも萬一の時の爲ためにと先祖せんぞの意を受て省愼置事たしなみおくこと天晴あつぱれの心懸なりと思はれ又其儘元の通りに仕舞て夫それより大小二腰こし九寸五分まで能々よく〳〵改めらるゝに何いづれも天晴れの作物わざものにして尋常の武士さぶらひの所持し難き程の道具なり因て越前守殿彌々いよ〳〵感かんじられお政へ向ひ其方夫をつと文右衞門が無實の罪にて入牢じゆらう致せしとは如何なる事なるや一々申立よとありしにお政は答こたへて私わたくし夫婦八ヶ年浪人の身の上ゆゑ油屋五兵衞方へ衣類いるゐ大小等だいせうとう質物しちもつに預あづけ置おきし處約束の月切つきぎれに相成質屋しちやよりは度々たび〳〵の催促さいそくなれども其品々を請出す事も叶かなはず一日々々と申延置のべおき候中うち彼方かのかたにては流れ買に賣拂うりはらふと申事に御座候然るに十八ヶ年以前國許くにもとに在し時同家中の新藤市之丞と申者若氣わかげの過失あやまりにて同藩の娘と不義に及びし事こと役人共の耳に入いり主家しゆかの法に依て兩人とも一命を召めされんとするを夫をつと文右衞門不便ふびんに存じ密ひそかに金子二十兩を與へて助け遣つかはしゝ處其市之丞夫婦の者當時馬喰町に住居の由よし不圖ふと此間中このあひだぢう久々ひさ〴〵にて尋ね來り對面致し候に我々夫婦零落れいらくの體ていを見て氣の毒と存ぜしにや此程二十五兩の金子を持參ぢさんし先年の恩報おんがへしなりとて差出し候得ども元來夫をつと文右衞門は田舍育ゐなかそだちの頑固かたくなゆゑ一旦たん惠めぐみ遣はしたる金子を今更受取ては武士の一分が立ずと申て押返おしかへし候處其節そのせつ又々右の質屋より月切の品々彌々いよ〳〵流ながれ買かひへ賣拂ふ由よし申來りしに付き文右衞門事其掛合に質屋へ參りし留守中に市之丞は歸宅仕きたくつかまつり候其後夫をつと文右衞門質屋より歸り煙草盆たばこぼんの中うちを見候に先刻差戻せし廿五兩の金子是あり候ゆゑ扨さては市之丞達たつて渡さんと云しを我われ受取らざれば本意なく思ひ密ひそかに此中へ入置て歸りしならん何なんにしても此金を請取うけとりては我が以前の志ざしを無むにするなりとて翌よく早朝市之丞の方へ尋ね行き馬喰町を終日彼是かれこれと探さがしけれども今は其者の名前が改かはり居るにや一向に在家ありか知れず據よんどころなく持歸りて翌日よくじつ猶又尋ね行き是非々々市之丞に返さんと申居をりし折柄をりから又々質屋より嚴敷きびしき催促さいそくゆゑ然らば先まづ其金子を以て質物を請出し賣拂ひて後のちに市之丞へ返しても仔細なしと私し共兩人相談の上うへ二十五兩の内うち十三兩三分にて質物しちもつを請出し申候然るに油屋五兵衞方番頭久兵衞と申者私し方へ參り昨日まで一文なしの袖乞そでごひが急きふに大金の出來る筈はずなし文右衞門が彼の店みせへ參りし時帳箱ちやうばこの上に置たる百兩の金子が紛失ふんじつしたるにより必らず文右衞門が盜ぬすみ取りしに相違なし其金にて質物しちもつを受出せしならんなどと跡形あとかたもなき言懸いひがかりを申すゆゑ質しちを請出したるは市之丞より遣はしたる金子なりと其譯そのわけを申せしかども一向かうに聞入ず終に夫をつとに向ひ盜賊たうぞく呼よばはりを致すゆゑ夫をつとも腹はらに居すゑ兼かね既に久兵衞を切捨んと同人の逃出し候後を追懸おひかけし處に折惡敷をりあしく御加役方笠原粂之進殿に出會であひ直たゞちに召捕れ候に付夫をつとは右の段々一々辯解仕まをしわけつかまつり候へ共御聞入なく入牢と相成誠まことに歎なげかはしく存じ奉つり候因て右申上候紙屑屋かみくづや新藤市之丞の在家ありかさへ相知候へば金子の出所でどころも分り文右衞門が百兩の盜賊に之これなき事も明白に相分り候間何卒御慈悲を以て此段明白に御糺問きうもん下し置れ候樣偏ひとへに願ひ上奉つると委細ゐさい申述のべければ越前守殿一々聞置きゝおきたりとの事にて一先まづお政を下さげられしが此事一應加役方へ掛合の上ならでは吟味ぎんみに取掛り難がたき儀なれども渠かれが申し立て如何いかにも不便ふびんなりと思はれしかば大岡殿の英斷えいだんを以て直樣すぐさま下谷山崎町の質屋渡世油屋五兵衞并びに番頭久兵衞とも呼出よびいだし置べき旨申付られしゆゑ頓やがて町役人へ山崎町質屋五兵衞并びに同人召遣めしつかひ久兵衞等一同揃そろひしなら是へ呼出すべしと有ければ町役人畏こまり同道どうだうして罷出るに油屋五兵衞は豫かねて聞居たる文右衞門が百兩の一件けんならんと思ひければ一向かう平氣へいきにて其所そこへ出るを越前守殿見られ家持いへもち五兵衞其方は質屋渡世とあるが質物しちもつは何ヶ月限りに貸遣かしつかはすやと申されければ五兵衞は平伏へいふくなし御定法通り八ヶ月限かぎりに預り置候と申に越前守殿然らば浪人大橋文右衞門が質物しちもつばかり五ヶ月限り流ながれに出いだせし由是には何か仔細しさいの有ことなるや有體ありていに申立よと云れしかば五兵衞は大いに心組違ぐみちがひしゆゑグツト云て暫時しばし答こたへもなかりしが其儀は私しは辨わきまへ申さずと云を大岡殿聞れ此儀其方そのはう辨わきまへずとは不都合ふつがふなり己れが渡世を知らぬ筈はずはなし愚おろかなる事を申さずとも五ヶ月限りの譯わけ有體ありていに申立よとあるに五兵衞は彌々いよ〳〵當惑たうわくなし此儀は何卒番頭久兵衞へ御尋ね願ひ奉つり度たく私しは老年らうねんに及び候まゝ見世みせ質物しちもつ取引の儀は同人へ萬事任せ置候間一向かう辨わきまへ申さず候と云ければ大岡殿久兵衞に向むかはれ其方は五兵衞の見世を萬事ばんじ引受ひきうけ居ゐる由よし如何なる譯わけにて文右衞門の質物しちもつ而已のみ五ヶ月限りに貸遣かしつかはしたるや此儀申立てよと申さるゝに久兵衞は先刻より五兵衞へ尋問中たづねちう腹はらの中にて種々いろ〳〵考へ置し故文右衞門方より五ヶ月限りに受出うけいだすべき對談たいだんゆゑ其意に任せ約定仕つり候事に御座候然さも是なく候へば御定法通ごぢやうはふどほり八ヶ月の期限きげんに御座候と云ければ越前守殿微笑ほゝゑまれ然らば文右衞門は餘程物好ものずきと見える質しちを置おく程ほどの者が己れより月數を縮ちゞめて約定なすとはハテ不審ふしんなり夫れは暫しばらく置おき其方儀文右衞門は百兩の金子を盜み取りたる盜賊なりと申せし由よし此儀は慥たしかなる證據ありや如何いかにと有ければ久兵衞爰こゝぞと思ひ其儀は文右衞門事こと質物しちもつ流ながれの云譯いひわけに五兵衞の見世へ參りし節流れ品を賣拂ひ候代金を帳箱ちやうばこの上に置候處文右衞門歸りし跡あとにて右百兩の金子を仕舞しまはんと存ぜしに紛失ふんじつ致し種々いろ〳〵詮議中せんぎちう其翌朝そのよくてう文右衞門十三兩三分程の質物を受出し申候因て其樣子そのやうすを考へ候に一文貰もんもらひの身分と云殊に右みぎ質物しちもつ流ながれの議前日まで度々催促仕つり候ても出來申さず候金子が一夜の中うちに調達てうだつ出來しゆつたい候筈はず是なく彼是不審ふしんに存じ候間百兩の金子は文右衞門盜ぬすみ取し事と推量すゐりやう仕まつり私しより内々ない〳〵詮議せんぎに及び十三兩三分は文右衞門に遣はし殘りの金子を返さば勘辨かんべん致いたすべき旨むね申せし處文右衞門は新藤市之丞と申者より遣したる金子にて質物しちもつ受出うけいだし候なりとの云譯いひわけに候へども右市之丞と申者は當時紙屑買かみくづかひにて馬喰町邊に住居と計り申し居り其の町所家主名前すら確しかと相知れざる由よしを申候是全く不正の金子ゆゑ出所でどころを定さだかに云聞いひきけざる事にて手證てしようは見屆ず候へ共是等の儀共思ひ合あはすれば全く文右衞門百兩の盜賊に相違なしと存じ奉つり候依て右十三兩餘質物を受出うけいだし候分は勘辨かんべん致し遣はし殘金ざんきんだけを返し候樣にと申せしに却て渠かれは盜人の惡名を付しなどと殊ことの外ほか立腹りつぷくして私しを切殺さんと刀を拔放ぬきはなし追懸候節加役方の御手へ召捕れ申候何卒此段御糺明下ごきうめいくだし置れ文右衞門百兩の金子を返し呉くれる樣偏ひとへに願ひ上奉つり候と申立たり是に因て大岡殿は篤とくと聞居られしが久兵衞儀辯舌べんぜつ巧たくみに申立る處は一應道理もつともの樣に聞ゆれども是と云ふ慥たしかなる證據もなし殊に此久兵衞は片小鬢かたこびんに入墨いれずみありて如何にも惡黨あくたうらしき者ゆゑ奴きやつめが百兩盜ぬすんで文右衞門になすり付んずる巧みなりと流石さすが御名譽ごめいよ高たかき奉行衆ゆゑ敏はやくも茲こゝに眼めを着つけられしなり


第三十回


 扨又越前守殿は久兵衞に向はれ只今たゞいま汝が云處一應道理もつともの樣に聞ゆれども云いはば無證據にして文右衞門が誠まことの盜賊とも定め難し渠かれ全く盜まぬ時は其方の云懸いひがかりと云ふ者にして無體の惡口に及びし上は文右衞門に切殺されぬが先まづは仕合せ其節そのせつ殺ころされなば死損しにぞんなり併しかし又盜みたる金と極めたる印しるしにてもあるにや質物を請うけに來た時十三兩三分の金は能よく改めしなるべし何ぞ極印ごくいんにても有しや何どうぢやと申さるゝに久兵衞イヤ何も極印は御座なく候へ共ども渠かれの身分にて一夜の中うちに金の出來る筈はずは是なしと同じ事を申立るゆゑ越前守殿コリヤ久兵衞其金子は市之丞より持參ぢさんなりと申ではないか今にも市之丞の在家ありかさへ知れなば金子の出所でどころは慥たしかに知れるぞ汝が云所は無證據なり證據なき事は公儀かみに於ては御取上にはならず殊に又汝が内々ない〳〵詮議せんぎをして文右衞門へ十三兩三分は負まけて遣やり殘金を返さば勘辨かんべんせんなどと自分了簡れうけんにて取計とりはからふは甚だ以て不審ふしんの至にして主人持しゆじんもちにはあるまじき不屆ふとゞきなり汝は探索方たんさくかたの手先てさきでも致すかと申されしに久兵衞は甚だ恐れ如何致しまして然樣さやうな事は仕つらず私しは油屋あぶらや五兵衞が見世の番頭を勤つとめ居をりますと云いへば越前守殿夫れは知れたこと又汝われは文右衞門が宅へ何時いつ行ゆきたるやと尋ねらるゝに久兵衞私しは文右衞門が拔身ぬきみを以て追駈おひかけましたる時に參りしが其節加役方の笠原粂之進樣の御供おともへ突當つきあたり直すぐに御召捕に相成候と申ければ越前守殿否いやさ幾日頃いつかごろに文右衞門方へ言懸りに參りしぞと有に久兵衞は拔ぬからぬ面かほにて恐れながら云懸りには參りませんと云しかば大岡殿默止だまれ久兵衞汝なんぢ確しかとせし證據も無なき事を申は則ち云懸りならずや然さらば幾日いつかに文右衞門方へ參りしや其日限そのにちげんを申せと云るゝに久兵衞夫れは今月八日に御座候と申に越前守殿然らば其夜前そのやぜん紛失ふんじつしたる百兩と申す大金をなぜ早々訴へには出ぬ等閑なほざり置く事は甚だ怪しいぞ汝も嚴敷きびしく吟味ぎんみをせねばならぬ奴やつなり先まづ主人五兵衞へ屹度きつと預け置け愼つゝしみ罷りあれコリヤ町役久兵衞は主人五兵衞へ屹度きつと預け置く能々其方共心付けよとありしかば家主吉兵衞畏まり奉つるとて直樣すぐさま五兵衞久兵衞の兩人を引連ひきつれて下さがりけり又文右衞門女房お政は家主吉兵衞へ預けとなり越前守殿は文右衞門が所持の具足櫃ぐそくびつ并に大小等奉行所へ止置とめおくと云渡され一同夫々に引取と相成たり因てお政は願ひの筋すぢ取上とりあげとなりしを悦ぶ事限なく猶又夫をつと文右衞門が災難さいなんを遁るゝ樣にと神佛を念ねんじ居たりけり扨又大岡越前守殿には直樣すぐさま翌よく十四日火附盜賊改め役小出兵庫殿へ掛合かけあひの上大橋文右衞門を町奉行の手へ引取ひきとられ翌々日よく〳〵じつ享保四年極月ごくげつ十六日初めて文右衞門の一件白洲しらすに於て取調とりしらべとなり越前守殿出座有て文右衞門をみらるゝに久ひさしく浪々なし殊に此程は牢舍らうしやせし事故ゆゑ甚はなはだ窶やつれ居ると雖も自然と人品じんぴんよく天晴の武士さぶらひなりしかば大岡殿徐しづかに言葉を發しられ越後高田浪人大橋文右衞門其方儀ぎ當時たうじ山崎町家主吉兵衞店たなに罷在まかりあり袖乞そでごひ致いたし居る由然程さほど零落れいらくの身分にて油屋五兵衞方へ入置いれおきたる質物受出しの節十三兩三分と申す金子俄にはかに調達てうだつせし由右の金子は元より所持なるや又は外々より融通ゆうづう致したるや一夜の内に金子調達せしは其方業體げふていに似合にあはず不審ふしんなり悉くはしく申立よと云るゝに文右衞門は愼つゝしんで首かうべを上あげ右金子の譯は十八年以前國許くにもとに罷り在候節同家中に新藤市之丞と申者私し同役どうやくの娘と密通みつつうに及びしを重役共薄々うす〳〵聞込きゝこみ捨置すておかれずと既に兩人ながら一命にも關かゝはるべき場合に立到り候に付き某し不便ふびんに存じ二十兩の金を惠めぐみ助けて遣はせし所江戸表へ罷り出でたるよし然るに其後そののち私し儀八ヶ年以前越後家を浪人仕つり御當地へ罷まかり出いで下谷山崎町吉兵衞店に住居罷り在候に不圖ふと此程中ぢう右市之丞尋ね參り久々にて面會仕つり互たがひに身の上の物語ものがたりに及び候處私し夫婦零落れいらく困窮こんきう仕り候を市之丞義見兼みかね候や一兩日過すぎ候と金子二十五兩持參致し先年の恩報おんほうじなりとて差出し候へども私し儀一旦たん市之丞に惠めぐみたる金子を今如何に困窮こんきうなせばとて請取候ては昔しの志ざしをも無むに致すにより固かたく相斷り候て受取申さゞるを市之丞は本意ほいなく存じたるにや私し儀質物流れの掛合に參り候留守に煙草盆たばこぼんの中うちへ人知れず入れ置て歸りしを私し歸宅後きたくご見出し候間直樣すぐさま翌朝よくてう市之丞の宅たくを尋ね右の金子を返さんと馬喰町へ到いたりて段々だん〳〵承うけたまはり候へども何分市之丞の住所相知れ申さず據よんどころなく宿元やどもとへ歸り候然るに質屋よりは又々流れの催促さいそくゆゑ兎とも角かくも此金子を融通ゆうづういたし質物を請出し候後賣拂うりはらひ市之丞の金子を揃そろへて返さんと存じ右の中うち十二兩三分をもつて質物を受出し候に相違御座なく然しかるに油屋五兵衞番頭久兵衞と申者袖乞そでごひの身分にて一夜の中に大金の出來る筈はずはなしその節見世の帳箱の上に置おきたる流れ品を賣候百兩の金子紛失ふんじつ致せしに付右は私し盜ぬすみ取候に相違なしと理不盡りふじんなる云懸いひかけ仕つり候ゆゑ私し儀市之丞より差越さしこしたる金子の譯わけを申聞ると雖も一向双合とりあはず却て盜賊の汚名をめいを付け種々に惡口申募つのり候何分勘辨かんべんなりがたく久兵衞を切捨んと存じ候機をり御加役方笠原久米之進殿に召捕れ斯かく繩目なはめの恥辱ちじよくを蒙り候事口惜くちをしき次第に存じ奉つり候右新藤市之丞なる者もの住所ぢうしよ相知あひしれ候へば私し虚言きよげんに之なき旨むね御分り相成べき儀に付何卒御威光ごゐくわうを以て同人住所御糺おたゞしの上御吟味成し下され候樣願ひ奉つり度たく尤も私し儀市之丞が住所ぢうしよ名前等確しかと承まはり置ざるは不念ぶねんの至り恐れ入り奉つり候呉々くれ〴〵も御慈悲を以て是等の儀を御糺明下ごきうめいくだし置れなば久兵衞申懸かけの段は明白に相分り候儀ゆゑ此段恐れながら御賢慮下ごけんりよくだし置れ候樣偏ひとへに願ひ上げ奉つり候と文右衞門は如何にも無念むねんの體さま面おもてに顯あらはれ拳こぶしを握にぎり齒はを切齒くひしばりて一伍一什いちぶしじふを悉くはしく申立しかば越前守殿は此趣きを篤とくと聞れしが今文右衞門が申す口と又女房お政の申す口と少しも違たがはず符合ふがふせし而已のみならず斯かく困窮こんきうの中に具足一領差替の大小并に具足櫃の中なかには關ヶ原の軍用金百兩其儘まゝ貯たくはへ置し程の心懸なれば文右衞門盜賊に是なき事は明白めいはくなり然されども百兩を盜みし當人の出いでざる中は文右衞門の片口かたくちのみにて免ゆるす譯わけには成り難く尤も百兩の紛失ふんじつは言掛りなしたる久兵衞こそ怪あやしき者なれと敏とくに眼めを着つけられけれども是とても未だ聢しかとしたる證據なければ詮方せんかたなしよつて文右衞門に向はれ其方申立の儀はこの越前聢しかと聞置たり猶追々吟味に及ぶコリヤ文右衞門嘸々さぞ〳〵無念むねんなるべけれども大法に因て吟味中ちう入牢じゆらう申付ると云渡され扨大岡殿には直樣すぐさま急の差紙にて翌十七日には横山町馬喰町兩國邊の紙屑買を殘のこらず呼出よびいだされければ紙屑買共は不測ふしぎに思ひ中には少しづつ内證物ないしようものなど買し心覺こゝろおぼえのある者は思ひ過すごしより俄にはかに逃亡かけおちをするもあり彌々當日に相成ければ名主町役人差添さしそひにて屑買くづかひ一同南町奉行所の腰掛こしかけへ相揃あひそろひ頓やがて呼よび込に隨ひ白洲しらすへ這入はひりて傍かたはらを見るに浪人大橋文右衞門繩付なはつきの儘まゝ控ひかへ居る其外繩取役なはとりやく同心等嚴重に詰合つめあひけり又正面には大岡越前守殿出座有て砂利じやりの間あひだに屑屋一同平伏なし居るを見られコリヤ浪人文右衞門其方が申立し新藤市之丞と云者此中に居ゐるやと申さるゝに文右衞門頭かしらを上あげ夫れ是と見分しが又大岡殿へ向ひ此中には市之丞見當みあたり申さずと云ければ越前守殿然さらば一同下さがるべしと有に屑屋の面々めん〳〵は何事やらんと思ひの外ほか迅速すみやかに下さげられければ一同ホツと溜息ためいきを吐つきて引取けり因て文右衞門は歎息たんそくなし御威光ごゐくわうを以て屑屋一同御呼出し下置れ一々見分みわけ候へ共新藤市之丞の相知申さゞるは誠に是非ぜひなき次第にして能々武運ぶうんの盡果つきはてたる身の仕合せなりと無念の涙に伏沈ふしゝづみ居たりしかば越前守殿も氣の毒に思はれ猶なほ亦また追々おひ〳〵吟味ぎんみの致し方もあらん然樣さやう存ぜよとて又々傳馬町へぞ下さげられける扨も斯迄かくまでに市之丞を尋ねられしかども更に其人の知れざるは左右とかく文右衞門が運うんの拙つたなき處なるべし


第三十一回


 扨又彼の新藤市之丞當時紙屑屋長八は或日女房お梅に向ひ此程文右衞門の留守中るすちう廿五兩の金を煙草盆たばこぼんの中へ置ては來りしが今日あたりは遣つかはれしならんか武士の意氣地いきぢを立るとは云ものゝ餘り物堅ものがたき人かなと文右衞門が噂うはさをなし夫に付ても娘お幸は嘸さぞかし辛つらき勤つとめならんなどと密々ひそ〳〵咄はなしの折から親分の武藏屋長兵衞は長八殿どの家うちにかと聲を懸かけながら入來りしに長八夫婦が巨燵こたつの中に差向さしむかひ何か睦むつまじき咄しの樣子ゆゑ長兵衞は見て是はしたり相惚あひぼれの夫婦は又また格別かくべつ樂たのしみな物私は此年になつても隨分ずゐぶん浦山うらやましいと放氣おどけ交まじりに贅口むだぐちを云つゝ同く炬こたつに這入はひりしに女房お梅は振返ふりかへりオヤ長兵衞樣能こそ御入下されしと少し赤あかくなりしが早々さう〳〵流ながし元ヘ行甲斐々々しく酒肴の支度をして居るに長兵衞は長八に向ひ此頃このごろは此方こつちの娘がさつぱり見えぬが風にても引しかと問ければ長八は今の噂うはさを聞れしかと思へども何喰なにくはぬ顏かほにて何も變ることは御座らねどお幸は能よき世話人せわにんありて此間このあひだ備前樣びぜんさまの御屋敷へ見習奉公みならひぼうこうに出ましたと云に長兵衞は僥倖しあはせなり併ながら押詰おしつめての數かぞへ日に嘸々さぞ〳〵物ものが懸かゝりしならん我等も夫と知るならば何ぞ祝いはうて遣やるものを知ざるを仕方もなし時に長八さん今度こんど據よんどころなき事にて是非々々貴郎おまへを頼み度事あつて來きたが頼まれて呉ねへかと云で長八夫は何の用かは知ね共萬端ばんたん御世話になる貴方あなたゆゑ私しで間に合事なら決して否とは云ません御遠慮ごゑんりよなく御咄おはなしなされと云ば長兵衞は喜び然さう請合うけあつて呉れば拙者せつしやも實まことに頼みいゝ實は私しが兄に清兵衞と云者ありしが若き中は蕩樂者だうらくものにて箸はしにも棒ぼうにもかゝらぬ人間なりしに先年上方かみかたへ行と云て宅うちを出た限ぎり一向かう便たよりもないゆゑ私しも兄弟きやうだいの情じやうにて今頃は何國いづくに何をして居けるやら行當り爲撥ばつたり死しにはせぬかなどと案じて見たが其後三年ばかり立と不圖ふと讃岐さぬきの丸龜より書状しよじやうが屆いたゆゑ夫を見ると日頃案あんじ暮くらせし兄清兵衞よりの手紙てがみに付つき懷なつかしくはあれども蕩樂者だうらくものゆゑ何どうせ善事ろくな譯わけでは有まじと封ふうを開ひらき見るに今では極ごくの辛抱人しんばうにんになりし由當時丸龜まるがめにて江戸屋清兵衞と云ては立派りつぱな旅籠屋はたごやになりて暮くらし居ると云いふ趣おもむきの手紙也依て漸々やう〳〵私しは安心なし夫より此來このかた互たがひに書状の音信たよりして居たりしと話す所へお梅はお燗かんが出來ましたから一ツ御上あがりなされましと湯豆腐ゆとうふの鍋なべと陶とくりを持來るに長兵衞是は先刻さつきの口止くちどめが併しお氣の毒と笑ひながら豬口ちよくを取とり酒さけと湯ゆの辭儀じぎは仕ない者なりお燗かんが能よい中うちと波々なみ〳〵受うけ是これより長兵衞長八の兩人は酒を呑のみながら今も云通り兄も近來ちかごろにては丸龜中先一番の旅籠屋だとの評判ひやうばんさ其所そこで人間の運と云者は知れぬ者元はと云へば些細ささいな居酒屋にて亭主ていしゆが死んだ後のちは後家一人ゆゑ漸々やう〳〵浣すゝき洗濯せんたく人仕事ひとしごとを片手間かたてまにして其日々々を暮くらし居たりしが如何なる縁えんか其後家ごけの處へ兄清兵衞が這はひり込こみ夫それより辛抱しんばうして段々と稼かせぎ出し夫に又女房が勿々なか〳〵針仕事はりしごとが能よく爰こゝ彼處かしこにて頼まれ夫婦にて稼かせぎしかば忽たちまち三四年の間あひだに金が出來て普請ふしんをなし旅籠屋はたごやとなり夫に又兄は元より小料理これうりが好すきにて隨分ずゐぶん庖丁はうちやうに妙めうを得たれば江戸風えどふうに氣が利きいて居るとか云れて評判ひやうばんよく少光陰わづかの中に仕出して段々だん〳〵と普請ふしんも建直たてなほし今にては勿々なか〳〵立派りつぱなる身上しんしやうになりしといふ金毘羅こんぴらへ行たる者が歸りての咄はなしなり丸龜にて江戸屋清兵衞と云ば一番の旅宿はたごやだと云事なれば歡よろこび旁々かた〴〵尋たづね度は思ひしか共五日や十日にては行事も出來ず只々たゞ〳〵蔭かげながら悦よろこぶばかりなりし處此度兄清兵衞大病たいびやうにて九死し一生しやうと云事を申越こしたれば是非々々存生ぞんしやうの中に面會めんくわい致し度今にては私しも親はなし親のなき後は兄は親同前なりと云ば是非逢あひに行ゆく積つもりなり併し是も早はや押迫おしつまつて數かぞへ日にはなるし彼是又暮の始末しまつにて旅立所たびだちどころではなけれ共兄弟きやうだい一生しやうの別れなれば何有ても逢あはねばならず夫に付長旅ながたびの事ゆゑ心の知れぬ者を供に連ては道中が心遣ひなれば貴樣何卒なにとぞ一所に行呉ゆきくれよと餘儀なく頼みけるに長八も否いやとも云れぬ親分長兵衞の事なれば始終しじうを聞て長八は成程御道理ごもつともの事なり兄樣へ一生の別れと申せば假令たとへ元日ぐわんじつであらうが大晦日おほみそかで有うが是は行ねばならず直に今より御供おともを致さんと心能承知なしければ長兵衞は大いに悦喜よろこび夫では私しも大いに安堵あんどしたり夫なら斯仕樣御前が行て呉くれると跡あとは女一人なれば世帶せたいが費つひえるからとてもの事に世帶を仕舞しまひお梅むめ樣さんは我等の方へ來て居るがいゝ然樣さうすれば跡あとの苦勞くらうもなし安心なりと萬事に拔目ぬけめなき長兵衞何樣公事宿商賣程有て行屆ゆきとゞく事勿々なか〳〵感心かんしん成なるものなり扨是より翌日よくじつ早々長兵衞は家主へ斷ことわり世帶せたいを片付かたづけ女房お梅を親分の長兵衞方へ預あづけ長兵衞長八の兩人は旅たびの用意を調へ讃州丸龜を指さして急ぎ發足ほつそくなしたりけり是に因て大橋文右衞門の一件に付兩國邊の紙屑屋殘らず呼出よびいだされて文右衞門へ引合せありけれども證人になるべき肝心かんじんの新藤市之丞が居ざりしなり市之丞の長八が讃州丸龜へ發足ほつそくせしは十二月十四日の事にして紙屑屋一同呼出よびいだされしは同月十七日なれば僅に二三日の相違さうゐにて證人の出ざるゆゑ文右衞門一件けん落着らくちやくに餘儀なく年を越て翌年享保きやうほ五年の春はると相成けり


第三十二回


 扨又馬喰町二丁目なる武藏屋長兵衞は兄清兵衞が大病たいびやうとの手紙故子分の長八を供に連つれ道中だうちうを急ぎて大坂まで上り此所より船ふねに乘し處ところ機をりよく海上も穩おだやかにて滯留とゞこほりなく讃州丸龜へ到着たうちやくし江戸屋清兵衞と尋ねしに直樣すぐさま知れければ行て見るに咄はなしよりも大層たいそうなる構かまひにて間口八間に奧行廿間餘の旅籠屋にて働はたらき女十二三人見世番料理番の下男七八人又勝手には菰こもかぶりの酒樽さかだる七八本を並べ其前には大盤臺おほばんだいに生魚なまうを山やまの如く仕入板前いたまへ煮方にかた其外とも都て江戸風を專もつぱらとなし料理屋旅籠屋兼帶けんたいなり因て間毎々々まごと〳〵には泊とまり客きやくあり又一時の遊興いうきように來る客も多く殊の外繁昌はんじやうなる見世なれば長兵衞も心の中に是は聞しに増まさる家のかゝりかなと思ひながら内へ入コリヤ長八荷物は此處へ卸おろすべしヤレ〳〵草臥くたびれしと云つゝ上り端ばたに腰をかければ大勢の者立出御早う御着なされました御草鞋おわらぢを解ときませう御洗足おせんそくをと盥たらひへ湯を汲くみて持出し奧おくの御座敷おざしきが明て居ります彼處へ入せられまし御酒さけで御座りますか御膳ぜんをあげますかと云ながら茶を汲で出すに長兵衞は姉樣酒も御膳も緩ゆるりと後にてよし早速ながら聞度事がある此方の兄の病氣びやうきは如何なり九死一生の大病たいびやうと云手紙が來りしが何な樣子なるか未だ存生ぞんしやうなりやと藪やぶから棒ぼうに聞ゆゑ女共は膽きもを潰つぶし御客樣は變な事を仰おほせられます此方の家には兄だの大病人たいびやうにんだのと云は御座りません男衆も大勢ありますが旦那樣に若衆ばかり皆達者で居ります夫は大方おほかた門違かどちがひで御座りませうと申に長兵衞否々いや〳〵門違かどちがひにてはなし此方こつちの家は江戸屋清兵衞と云ならんと云を女ども聞て此丸龜にて江戸屋清兵衞と申は此方ばかり夫では違ちがひ御座りませんと云に長兵衞礑はたと膝ひざを拍うちオヽ然樣さうだ餘り思ひ過しをして跡先に聞し故分らぬはず夫なら此方の旦那清兵衞と云は私しの兄なるが此節このせつ大病たいびやうを煩わづらひ居ると云事未いまだ死しにはせぬか達者たつしやで居ますかへ九死一生の病人と聞かれ知らぬ筈はずなりと云時長八傍邊かたはらよりモシ〳〵旦那に江戸の馬喰町から人が參りしと云てお呉くれと申せば女供は何事なるや樣子しれぬゆゑ奧の方へ走り行モシ旦那樣江戸の馬喰町から御客樣で御座りますと云ば亭主清兵衞は不審ふしんに思つて馬喰町からの客人とは合點がてん行ずと考かんがへ居るに又々後あとからも女共が來り旦那樣變へんな客人で御座ります奧座敷おくざしきが明て居ますから御通りなされ御酒にしますか御膳を上あげますかと申たらナニ酒も御膳も後あとにてよし兄は大病にて九死一生だと云手紙が來しが未だ生いきて居るかと御尋ねなされたが何だかさつぱり譯わけが分りませんと云を聞清兵衞漸々やう〳〵考かんがへ付手を拍てオヽ然樣か分わかつたりと云ながら店へ駈出かけいだしければ女共は彌々いよ〳〵譯わけが分らず只たゞ呆あきれ果はててぞ居たりける是出し拔ぬけの事ゆゑ豈よもや弟長兵衞が年の暮くれに押迫おしつまつて來やうとは思はず尤もつとも是まで平常つね〴〵逢度あひたく思おもふ一心より九死一生の大病なりと手紙に嘘うそを書かきて遣つかはしたる事ゆゑ早速さつそくには思ひ出さず暫時しばし考へしが漸々やう〳〵の事にて江戸より弟が來りしかと心付俄にはかに周章あわたゞしく出來り見るに年こそ寄よりたり弟の長兵衞に相違さうゐなき故清兵衞は大いに悦よろこび是は〳〵長兵衞能こそ來て呉しなり豈夫よもや今年の中に來ては呉くれまじと思ひ居たりしに能も〳〵遠路ゑんろの所を尋ねて呉しぞ先々草鞋わらんぢを解といて上るべし二人連づれか御前樣大きに御苦勞なり先々御上あがりなされ是々お初お粂くめ我等は何を胡亂々々うろ〳〵して居やる早く洗足せんそくの湯を以て來ぬか氣のきかぬ奴等やつらだナニ其所にある夫なら早く草鞋わらんぢを解とき何ぜ洗足せんそくをせぬのだと清兵衞は嬉うれし紛まぎれに女共を叱しかり散ちらして彼の是のと世話せわをやき大勢おほぜい居ゐながら餘り目はしの利きかぬ奴等やつらだ兄と云ば某しが弟に違ちがひなし何故早く然樣さう云ないなどと無理むりばかり云中に長兵衞長八の兩人は足を洗あらひ仕廻しまう故清兵衞は先へ立サア〳〵遠慮ゑんりよなしに奧へ〳〵と兩人を伴ともなひ行先久々にての對面たいめん互ひに堅固けんごにて目出たしと挨拶あいさつに及ぶ中早や商賣柄しやうばいがらとは云ながら女房も如才じよさいはなく酒と肴を取揃とりそろへ自身じしんに持來たれば清兵衞は長兵衞に向ひ嘸々さぞ〳〵草臥くたひれしならん然樣さう何時までも畏かしこまり居ては究屈きうくつなりモシ〳〵御連おつれの衆しゆ御遠慮ごゑんりよなさるなコレサ平たひらに〳〵と是より皆々寛くつろぎ兄弟久し振ぶりにての酒宴しゆえんとなり女房も傍そばにて酌しやくをしながら初對面しよたいめんの挨拶あいさつをなしければ清兵衞は弟に向ひ長兵衞是は我等が女房なり以後心安こゝろやすく頼む又遇々たま〳〵來りしに兄嫁あによめなどと思ひ遠慮ゑんりよしては面白おもしろからず平ひらに心安くなし呉よ若もし供ともの衆しゆ遠慮ゑんりよがあつては惡わるい心安く御頼おたのみ申と兄弟中の水入みづいらず献さしつ酬おさへつ良やゝ暫しばし酒宴しゆえんにこそは及びけれ


第三十三回


 扨又長兵衞は兄の清兵衞に向ひ先達さきだつての手紙の樣子やうすにては大病にて九死一生との事なれば大いに心配しんぱい致せしなれ共ども節季せつき師走しはすの事ゆゑ勿々なか〳〵旅立たびたちなどは出來難でぎがたき所ところなるが萬一の事にてもある時は死に目にも逢あはれずと思ひて取物とるものも取敢とりあへず俄にはかの旅立たびだち隨分ずゐぶん道みちを急いで來た處に今樣子を見れば大丈夫だいぢやうぶにて煩わづらひし樣子は一向かう見みえぬか那の手紙は如何なる譯でありしやと云ければ清兵衞は天窓あたまを掻かき成程なるほど不審ふしんは道理もつともの事實は我等が大病なりと手紙に記かきて遣やりしは虚言うそなり譯わけを聞て呉くれ尋常あたりまへの手紙にては手前も一軒けんの主人あるじ容易よういに出て來る氣遣きづかひはないと思ひしゆゑ我等が謀計はかりごとにて九死一生なりと云て遣やれば如何に遠國ゑんごくにても殊ことに寄たら來るべしと思ひての事なりしが斯かく面かほを合て見れば我等が謀計はかりごとの當あたりしなり今にては見らるゝ通り相應さうおうに身上しんじやうも仕上たれば貴樣が今度遣ひし二人の路用金位ろようきんぐらゐは損をば懸かけぬ能よき江戸土産みやげを遣つかはすにより緩々ゆる〳〵と滯留たうりうして金毘羅樣こんぴらさまへも參りたり江戸にもなき珍めづらしき船遊山ふなゆさんでもして春になつてから緩ゆるりと歸るがよし然すれば我等も都合して貴樣達たちを送りながら江戸見物に行ゆかうと思ふゆゑ久ひさし振ぶりにて又貴樣の處の世話にならうかと兄弟きやうだい誠まことを明し合あひ久々ひさ〴〵にての對面たいめんに餘念もなき物語ものがたりにぞ及びける斯かゝりし程に長兵衞は先兄の無事なるを悦よろこび心の中には此位このくらゐなら節季せつき師走しはすの中を來らず共能にと思ひけるゆゑ兄さん御前は夫でよからうが私は道々も明暮あけくれお前の事のみ案あんじられて斯して態々わざ〳〵來くるからは切せめては死目しにめに逢度あひたしと思ひて何なにか苦勞くらうをしたか知ぬほんに一時に十年ばかり壽命じゆみやうを縮ちゞめたと怨うらみを云ば清兵衞否モウ其話は何か己おれに負まけてくれ往昔むかしの樣に蕩樂だうらくをして貴樣の厄介やくかいに成には勝ましだらう實は此樣に仕上た身上を見せ度と思うての事なりと云に長兵衞は夫も然樣かと咄はなしの折柄をりから時に兄さん此丸龜に後藤半四郎と云劔術けんじゆつの先生在しが今にても居らるゝやと問ければ清兵衞聞て夫は當時此四國中には肩かたを双ならぶるものなき劔術けんじゆつの大先生なり其上見懸みかけに依ず慈悲じひ深ふかい御人にて金銀に少しも目を懸ず若もし貧窮者ひんきうものや病人のある時は醫者いしやに懸て下されたり金銀を施ほどこされたり珍めづらしき氣象きしやうの先生なれば近郷近在きんがうきんざいにては生神いきがみ先生々々せんせい〳〵と人々が敬うやまふ位くらゐなり夫に又我等の處は格別かくべつに御贔屓ごひいきにて女房は針はり仕事を能する故後家で居た時分には後藤先生の浣すゝぎ洗濯せんだくから衣類を殘らず仕立たれば何なにか御心安くなし今でも縮緬類ちりめんるゐは時々此方へ仕立に遣はさるゝが昔むかしと違ひて商賣しやうばいが忙いそがしけれ共お馴染なじみゆゑまさかに今では出來ませんとも云れず其度に仕立て進あげるなり夫に又先生は極ごく酒好さけずきにて毎日まいにち店みせへ酒を飮のみに御出なさるが誠まことに氣さくな御人にて我等の所の酒を飮では外の店みせのは飮のめないとて御宅たくで飮あがる時には御弟子衆に五升三升づつ取に御遣つかはしなさる實に古今の酒好先生なりと兄弟きやうだい噂うはさを爲なし居ゐたり

第三十四回


 扨又清兵衞は弟長兵衞に盃盞さかづきをさしながら貴樣は如何して後藤先生を知つて居るやと問に長兵衞然ば縁えんと云ふ者ものは奇代きだいな者にて今度こんど共ともに連つれて來りし此人は舊もと越後ゑちご高田たかたの浪人にて若き時同家中の娘を連つれて江戸へ逃來にげきたる時に在所ざいしよの熊谷宿くまがやしゆくの弟八五郎が見世に休み夫より駕籠屋かごやの惡漢わるものに引罹ひつかゝり既すでに路用ろようも女房も取れ命いのちさへ危あやふき處後藤先生が上州じやうしう大間々おほまゝなる師父しふの大病にて行れたる歸り道に是も八五郎が見世へ休まれて不圖ふとしたる事から八五郎は此衆このしう夫婦ふうふが惡漢わるものに引罹ひつかゝりたる事を物語りしに後藤先生は其若者そのわかもの不便ふびんなれば助けて遣つかはさんと云れて熊谷くまがや土手どてへ追駈おつかけ行ゆき駕籠屋かごやの惡漢わるもの共を叩たゝき散ちらし此衆このしう夫婦ふうふを御助けなされ八五郎が家へ連て來り疵所きずしよを養生やうじやうなし夫より八五郎も那通あのとほりの氣象者きしやうもの故ゆゑ不便ふびんと思ひ手紙を添そへて私が所へ此衆夫婦と後藤先生三人を送り越せし故後藤先生と相談さうだんして此長八をば私しが世話をして世帶せたいを持もたせ今では親分子分の間柄あひだがら今度頼たのんで供に連つれて來りしも此譯也わけなり又其節先生が廿兩と云う金を出して此衆夫婦を世話をして呉くれよと御頼たのみゆゑ私も左とに右かくと相談さうだんの上紙屑商賣を初めさせし處僥倖しあはせに繁昌はんじやうして今では先まづ不足ふそくもなく暮くらし居りて十七歳になる娘一人儲まうけたり概略あらかた後藤先生の眞實しんじつに御世話下されたる譯わけは右申通りゆゑ今度幸さいはひ私が供をしながら昔しを忘れず後藤先生へ御尋おたづね申て厚あつく御禮おんれいをも申上させんと思おもひ連つれて來し譯なり此樣又機の好幸ひなる事もなし併し月日の立のは早き者にて今年にて十八年以前の事と委細くはしく咄はなしければ清兵衞扨は然樣なることにて御知り人になりしか成程なるほど縁えんと云者は不思議ふしぎなる者なり咄はなして見れば貴樣たちは親分子分私しは又後藤先生とは大だいの御懇意ごこんいなりと云つゝ不圖ふと四邊あたりを見廻みまはし遂つひ話はなしに身が入いり大分だいぶん夜よが更ふけたり嘸々さぞ〳〵草臥くたびれしならん今夜は寛々ゆる〳〵と休むがよしと漸々盃盞さかづきを納をさめ女どもに云付て寢床ねどこを敷しかせ各々おの〳〵臥所ふしどに入たりける扨さて翌日よくじつにも成ければ武藏屋長兵衞并に長八は後藤先生へ尋ね行んと思ひ主人あるじの長兵衞へ何ぞ土産みやげをと相談さうだんしけるに長兵衞は遠方を來た事ゆゑ土産みやげも持もたぬとて矢張やはり酒さけがよし外ほかの物は何を上ても其樣にお悦よろこびなされず酒さへ上ると夫は〳〵何よりのお悦びなり我も同道どうだうせんにより夫は我等が宜樣よきやうにするとて五升入の角樽つのだるへ酒を入熨斗のしを付一尺餘りの鯛たひを二枚まい肴籠さかなかごに入てサア〳〵是では隨分ずゐぶん恥はづかしからずと支度したくをなし是より三人連づれにて丸龜城下なる後藤半四郎の方へと到いたりけり又後藤方にては此日は丁度ちやうど稽古日けいこびにて多おほくの門弟もんてい聚あつまり竹刀しなひの音おと懸聲かけごゑ等喧かまびしく今稽古けいこ眞最中まつさいちうなる所へ三人は玄關げんくわんに懸かゝり案内あんないを乞ひければ奧おくより竹具足たけぐそくを着つけ今いま面めん小手こてを取たるばかりにてせい〳〵と息いきを切きりながら一人の門弟もんてい取次とりつぎに出を見て長兵衞會釋ゑしやくなし私しは江戸表馬喰町の新藤市之丞と申者に候が久々にて後藤先生の御機嫌伺ごきげんうかゞひに參上仕りたり此段このだん宜よろしく御取次下おんとりつぎくださるべしと云に門弟の者右の由を後藤へ申けれども今いま稽古けいこの眞最中まつさいちうにて取次の云事は少しも耳みゝに入ず稽古けいこの邪魔じやまなりと叱しかり付られ門弟は膽きも潰つぶして又々玄關げんくわんへ立出たちいで若もし名前なまへが違ちがひはせぬかと聞に長八否いや相違さうゐ御座なく先年熊谷土手にて御世話に預あづかりたる者にて候と云ば門弟は然樣かと云ながら稽古場けいこばへ行て見るに今後藤は稽古を休やすみ息いきを入て居けるゆゑ怖々こは〴〵前へ行先生只今の者に能々承うけたまはりし處熊谷にて御世話になりたる者のよしに候と云ば後藤は是を聞何と云る熊谷にて世話に成し者だと夫れはへんな事なり其者大方おほかた藤ふぢの局つぼねであらうが某それがしは是まで女に心安き者はなき筈はずなりと淨瑠璃じやうるり狂言きやうげんの洒落しやれを云ゆゑ門弟には少しも譯わからず當惑たうわくして居るを後藤は是々其者の名前は何と申やと云に新藤市之丞と申せしと聞や否いなや後藤扨とは云ながら稽古けいこの形體なりにて玄關げんくわんへ出來り是は〳〵珍めづらしや市之丞殿能こそ參まゐられたり而してまた長兵衞殿清兵衞殿も同道どうだうか何れも珍めづらしき人々先々此方へ〳〵と云ながら一間ひとまへ通しやれ〳〵久々ひさ〴〵なりと互たがひに一別べつ以來の情じやうを述のべ夫々それ〴〵挨拶あいさつに及びしが此度兄の病氣の間違まちがひとも云はざれば金毘羅樣こんぴらさまへ參詣旁々さんけいかた〴〵昨夜さくや此清兵衞方へ到着仕たうちやくつかまつり取敢とりあへず御機嫌伺きげんうかがひながら先年の御禮れいに市之丞同道にて參上仕さんじやうつかまつりしと申ければ後藤は喜よろこびて清兵衞に向ひ貴樣の所の此客人達このきやくじんたちは少すこし仔細しさい有て昔し馴染なじみの者なり其仔細そのしさいは後あとにて寛々ゆる〳〵咄はなすべし時に長兵衞殿此清兵衞殿と云男は勿々なか〳〵如才じよさいなき者なり夫の又女房が縫針ぬひはりの業わざは大の上手じやうずにて某しも仕立物したてものを度々たび〳〵頼たのむなりと語るに清兵衞は傍邊かたはらより進すゝみ此長兵衞儀は私しが實じつの弟おとゝに候と申せしかばナニ長兵衞殿は貴樣の弟成なりとや然樣さやうか縁えんと云者は不思議なる者なり然すれば三人ながら親分子分兄弟の中別して遠慮ゑんりよはいらぬ先まづ打寛うちくつろぎて咄はなすべしと是より後藤は稽古けいこを休やすみ弟子中へ斷ことわりて歸し遣やり再ふたゝび座敷ざしきへ來りしに清兵衞は五升入の角樽つのだるに鮮鯛せんたひ一折をりを添そへて出し先生是は餘り御麤末おそまつなれども長兵衞長八兩人の御土産おんみやげなり御受納ごじゆなふ下さる樣御願ひ申上ると云ば後藤は此品々を見て是は〳〵手厚てあつき土産みやげ何よりの好物かうぶつ然しかも澤山たくさんに惠めぐまれ千萬忝かたじけなし清兵衞貴樣の店の酒を飮では外の酒は一向かう飮のめぬ何なにも結構々々けつこう〳〵と大いに悦よろこび直樣すぐさま肴さかなを調理こしらへ酒さけを開ひらき酒宴しゆえんにこそは及びけれ


第三十五回


 扨長八は先年熊谷土手にて助たすけられたる事より廿兩の金子を惠まれたる事まで厚あつく禮れいを述のべ其後夫婦とも暫時しばらく病氣なりしが漸々やう〳〵全快なし夫それより長八と改名して紙屑買となりしに僥倖しあはせよく追々おひ〳〵繁昌はんじやうして先不自由もなく暮くらす中お幸と云いふ娘迄むすめまで儲まうけたる事など物語ものがたり是と云も皆先生の御庇蔭おんかげなりと厚あつく禮れいを云に後藤も喜よろこび夫それは長兵衞の深切しんせつと貴樣の運うんの能よきゆゑなりなどと種々樣々の話はなしに移うつりしが其日は暇いとまを告つげて江戸屋へ歸かへり頓て其年も暮くれ正月にもなり家々の年禮も濟すみしかば半四郎は幸ひ好よき道連みちづれなれば當春たうはるは江戸表へ出いでて無刀流劔術の道場を開ひらかんと思ひ立當地の道場をば高弟に讓ゆづり長兵衞長八兩人十四五日逗留の中に半四郎は支度を調とゝのへ長兵衞長八を連れて江戸屋清兵衞に分わかれを告つぐるに清兵衞も萬端世話をなし土産物みやげものは先達て便船に頼たのみ置路用金等迄長兵衞に遣つかはし互たがひに暇乞いとまごひに及びて讃州を出立なし三人は道中滯とゞこほりなく江戸馬喰町なる武藏屋の見世へ到着しければ家内は一同に出迎いでむかへ道中恙つゝがなく歸りしを悦よろこぶ事限りなし其中にも日々に待居まちゐたりしは長八が女房お梅にて歸るや否いなや長八を一ト間に呼び去年極月中旬町御奉行所より此邊の紙屑問屋并に屑買を一同に御呼出およびいだしにて御尋おたづねありしが段々其樣子を聞しに山崎町に居る浪人者が百兩の金を盜ぬすみ其金にて質物しちもつを受出うけいだしたる事露顯して召捕めしとられ其盜賊の引合なりと申事にて如何にも樣子やうすが氣に懸かゝり萬一文右衞門樣の御身の上に關かゝはる事ではある間じきやと思へども御前さんも長兵衞樣も留守るすの事なり外ほかに咄はなし逢あふ人ひともなし實まことに女の身の悲かなしさは只々蔭ながら文右衞門樣を御案じ申ばかり兎角私は氣懸きがかりなりと女房の咄はなしを聞て長八は眉に皺を寄成程夫は氣に懸るは道理なり己も屑買はすれどもナニ不正の品を買ものか併し何にしても變な事と小首を傾かたむけしが否いな是は質物を受出うけいだしたるに付露顯したると云ば分りしなり夫は彼の廿五兩の金よりの事ならん其節質屋より質物が流ながれるとて度々嚴敷催促なりしが右の金にて其品を受出うけいだせしゆゑ疑うたがひの懸かゝりしも知れず是と云も袖乞そでごひの身分にて云ば不相應なる大金の事ゆゑ疑ひの懸かゝるまじとも云難し何にしても文右衞門樣が盜賊などなさる氣遣きづかひなけれど己も聞きゝては捨すてて置おかれず何分氣に掛かゝるにより明日は早々山崎町へ行て文右衞門樣を御尋おたづね申さんと夫婦相談に及びたり扨翌日にもなりければ長八夫婦は早朝さうてうより兩人して山崎町乞丐頭長屋がうむねながやなる大橋文右衞門方へと志ざしてぞ出行ける


第三十六回


「我が影かげの我を追おひけり冬ふゆの月つき」と人之を疑うたがふ時は柳やなぎの掛かゝり紙鳶たこも幽靈いうれいかと思おもひ石地藏いしぢざうも追剥おひはぎかと驚おどろくが如ごとし然ば大橋文右衞門の女房お政は夫をつとの身の上を種々に案じ居ゐたるに豈計らんや紙屑屋長八夫婦御免なされと云ひながら入來いりきたるを見ると等ひとしく挨拶あいさつもせざる中に長八に獅齒付しがみつき胸元むねもと取とつて捻居々々ねぢすゑ〳〵爰こゝな市之丞殿の恩知らず御前の置て行たる金ゆゑ夫文右衞門は盜賊の疑うたがひ掛かゝりて召捕めしとられ入牢となりし無實の災難夫に奚なんぞや去暮中御奉行所へ紙屑買を一同御呼出になり御尋おたづねありし時は一向に其場へ面出かほだしもせず夫ゆゑ今に夫をつとの證あかりも立ず不實と云ふも餘あまりあり御前の在家ありかさへ知れなば文右衞門の身分は直樣すぐさま證あかりが立御免のあるに相違さうゐなし恨うらめしきは市之丞殿と女心をんなごころの一圖に迫せまり口惜紛くやしまぎれに市之丞へ喰付呉んとするゆゑにお梅は惘あきれて茫然たりしがマア〳〵御新造樣其所を御放し下されよ恨うらみは御道理ごもつともなれども夫それには種々いろ〳〵譯わけがあり先々御氣を鎭しづめて一通とほり御聞下され度と長八諸共もろとも宥なだむると雖どもお政は更に聞入ず否々私し共に何か恨うらみのあつてしたる業ならん私しの夫をつとは召捕めしとられ入牢じゆらうとなり此寒氣に若や牢死したなら私しは如何せん恩を仇で報かへすとは御前方夫婦の事サア〳〵只今直に夫文右衞門が身の證あかりを立出牢させて下されと泣なきつ恨うらみつ掻かき口説を市之丞夫婦は一々御道理ごもつともには御座れども何卒御新造樣私し共の申事を一通り御聞なされて下さりませ貴方あなたの樣やうに仰おつしやつた計ばかりでは譯わけが分わかりませず私共の申事を御聞成れた其上にて不實の廉かども御座るなら如何樣共思召次第に成されましと種々樣々に宥なだめ賺すかしければお政は漸々やう〳〵に手を放はなすにぞ長八は襟えりかき合せ其譯と云は舊冬此方こなたへ參まゐりし後親分の長兵衞に頼たのまれ十四日の日に出立しゆつたつして讃州丸龜へ參まゐり昨晩江戸表へ歸りし處女房お梅が去暮中紙屑屋仲間一同御番所へ御呼び出になりし始末しまつを咄はなせしゆゑ何なににしても文右衞門樣の御身の上うへが案あんじらるゝにより急いそぎ只今御尋おたづね申せし譯わけ又また大恩だいおん請うけたる文右衞門樣に何なに意恨いこんあつて御難儀ごなんぎになる事を仕出しいだしませう全まつたく舊冬御呼出およびいだしの節は丸龜へ參まゐりし留守るすの事又貴方あなたへ置おいて參りたる廿五兩の金は私し共夫婦相談さうだんの上一人の娘を吉原よしはらへ身賣みうりせし金子にて慥たしかなり夫それと申も十八ヶ年以前の御恩報がへしと存ぞんじて致いたしたる其金故に却かへつて文右衞門樣の仇あだとなりしは誠まことに御氣毒おきのどくとも何なにとも申樣も御座なく殊ことに又肝腎の町所名前をも申置ず夫是それこれにて無實の御難儀を掛かけしこと誠に面目次第も御座なく候との物語ものがたりを聞て女房お政は大いに驚おどろき扨は然樣な事にてありしかと今さら恨うらみを云しが面目なく而て又其一人娘を吉原へ勤つとめ奉公に遣やられたとは扨も〳〵悼いたはしき事如何に昔むかしの恩あればとて夫程までに御夫婦が御心盡こゝろづくしを成なされしものを勝手の事而已云並べ無恥はすはな者と思されんは返かへす〴〵も恥はづかしやと面かほ赤あからめて詫入わびいるにぞ長八夫婦はナニ〳〵其樣に仰おほせられては却て私し共も面目なし何は兎もあれ然樣云事いふことなら直樣是より家主を同道なし御奉行所へ訴うつたへ出いでて文右衞門樣の證人となり早々御差免しに相成樣御願ねがひ申候はん必かならず〳〵御心強こゝろつよく思し召下めしくだされよと長八夫婦は暇乞いとまごひして急いそぎ馬喰町へと歸りけり茲こゝに又後藤半四郎は旅籠屋長兵衞方に滯留して居けるが今日長八夫婦の者見えぬゆゑ長兵衞を呼長八は何れへ行ゆきたるやと問に長八は何か急用きふようありとて下谷の山崎町へ參りしと答へければ半四郎然樣さうか親類しんるゐにても有て行たるやと云に否何か外の用達に參りし樣子なるが山崎町と云處は乞丐頭長屋がうむねながやばかりあつて浪人者や物貰ものもらひの住居する所なりと云ば半四郎夫それでは長八は二人して一文もん貰もらひにでも出掛でかけしか歸り〳〵能よく稼かせぐ男なりと大いに笑わらひ居ゐたる所へ長八夫婦は歸り來りしかば後藤は是を見て長八貴樣きさまは何いづれへ行しや何どうだ貰もらひはありしかと云ば否先生御戯談所では御座りません實じつに大變たいへんが出來ましたといふを聞長兵衞夫は何が大變たいへんだと云に長八誠まことに大變なり親分に御相談申さねばならず夫それに付つけても是まで親分には隱かくして御咄おはなし申さざりしが私し共夫婦は豫かねて御存じの通り國元くにもとを逃亡かけおちなし江戸へ出でて來きたりしも元もとはと云ば同家中なる大橋文右衞門と云人の情なさけにて兩人が命いのちを助たすかり殊ことに廿兩と云いふ金迄かねまでも惠めぐまれ路用として江戸へ來りし譯わけなるが道中にても先生の御恩になり又親分の厚あつき御世話にて今日までも無難に暮くらし居ゐるも是皆樣の大恩だいおんなり然しかるに去年の極月初旬はじめ淺草あさくさの觀音樣より上野の大師樣へ參詣せんと下谷の車坂を通とほり懸かゝりしに深編笠ふかあみがさを被かぶりて黒絽くろろの羽織はおりのぼろ〳〵したるを着き如何にも見寥みすぼらしき容體なりをして謠うたひを唄うたひながら御憐愍々々ごれんみん〳〵と云つゝ往來に立たつて袖乞をする者あり其者の羽織はおりの紋が丸まるに三つ引ゆゑはてな羽織はおりの紋と言葉遣ことばづかひと云大橋文右衞門に能よく似にて居ゐるが若もしや浪人でもして零落されたることかと思ひて有合ありあひの錢ぜにを七八文もん遣やりしに有難うと云いふ其聲音迄文右衞門に寸分違ちがはず餘あまり不思議に思ひしかば立止たちとゞまつて笠かさの内うちを見樣と思ふ中其浪人は日暮ひぐれなれば仕舞しまひて歸る樣子やうすなれども蟲むしの知らせしか文右衞門に違ちがひなしとこゝろへ夫より後あとを尾つけて見屆みとゞけしに山崎町の乞丐頭がうむね長屋ながやへ這入はひりしかば其所を尋たづねて見るに果はたして大橋氏なるゆゑ私しもハツと思ひて何の言葉ことばも出ざりしが漸々やう〳〵の事にて段々だん〳〵樣子やうすを聞に八ヶ年以前主家の騷動にて浪人なし斯樣々々かやう〳〵との咄はなしに付私しは膽きもが潰つぶれるのみか如何にも氣きの毒どくに存じヤレ〳〵國元では五百石取の物頭役ものがしらやく大橋文右衞門と云れた人が今一文もん貰もらひの袖乞とは情なさけなしとも哀あはれとも餘りの事の困窮こんきう零落れいらくと思へば〳〵思ふ程ほど何分なにぶん其儘そのまゝ見ては居られぬにより直樣宿へ歸り女房お梅に相談さうだんの上昔しの恩報おんはうじに娘むすめお幸かうを吉原よしはらの玉屋山たまやさん三郎方へ五十兩に身賣みうりして其内廿五兩を文右衞門の宅たくへ持參ぢさんなし昔むかしの恩報おんはうじなりと差出さしいだせし處ところ物堅ものがたき文右衞門なれば何と云ても請取うけとられず私しも仕方なき故考かんがへ居たる中文右衞門は留守るすになりたるを幸さいはひ何も云ずに右廿五兩を煙草盆たばこぼんの中へ入れ置おきて歸かへりたり然しかるに其金にて文右衞門が質物しちものを請出うけいだせし處一文貰もらひの浪人者が一夜の中に金の出來る筈はずはなし殊に文右衞門が流れの云譯いひわけに來たる時に帳箱の上に置おきたる百兩の金子紛失ふんじつしたる故何でも文右衞門が盜ぬすみとりたるに違ちがひなしと質屋しちやの番頭久兵衞と云者が云懸いひかゝりて彼是と爭あらそひとなりしに文右衞門は盜人ぬすびとの惡名あくみやうを付られたるを殘念ざんねんに思ひ切て捨すてんと逃出にげいだす久兵衞を追懸おひかけし折をり火附盜賊改ひつけたうぞくあらため役小出兵庫樣の御組下笠原粂之進とか云ふ人に召捕めしとられ入牢じゆらうとなりしを文右衞門の女房が大岡樣へ御直訴訟ごぢきそしようをなし夫が爲舊冬きうたう此この邊へんの紙屑屋を御奉行所へ御呼出しになり文右衞門へ引會ひきあはされし所ところ其節そのせつ折惡をりあしく私しが御當地に居合せざれば文右衞門が金子の出所しゆつしよ明あきらかならず因つて今に入牢じゆらうなし居る由實に親分大變が出來たるなりと云ば私しの親切しんせつが却かへつて仇あだとなり恩おんある人に難儀なんぎを掛かけし樣なるもの然れば私しも斯かうしては居られぬゆゑ是より直すぐに御奉行所へ駈込訴かけこみそを致し其金の證人に成うと思ふにより何卒どうぞ親分おやぶん願書ぐわんしよを認したゝめて下されと一伍ぶ一什じふの物語りを長兵衞は聞て成程なるほど夫は大變な事貴樣の遣つかはしたる金より疑うたがひを請うけて無實むじつの難なんに陷おちしと聞ては如何にも見て居られぬは道理もつともなり願書ぐわんしよは元より商賣柄しやうばいがら認したゝめるのに手間隙てまひまは入らず然ば長八ナゼ貴樣は娘むすめを賣しや可愛かあいさうに只一人娘のお幸を身賣みうりせず共廿五兩の金子は何れ共出來やうに此長兵衞と云親分が付て居るぞ然程さほどの事なら我等に相談さうだんするがよし私しも馬喰町での武藏屋長兵衞旅籠屋仲間にて人にも知られし男也なり長兵衞の子分が一人娘を賣うつたなどと云れては此長兵衞が面目めんぼくなし如何にも捨すてては置れぬことなら最初さいしよより斯樣かやう々々の譯也わけなりと咄はなしもあれば假令たとへ手元てもとに金は無なくても廿五兩位の金は何れとも融通ゆうづうは出來る者を我等に咄はなしもなく大事の娘を賣などとは長八貴樣にも似合にあはぬ心底しんていなり先達さきだつて云し時は屋敷やしきへ奉公ほうこうに遣つかはしたりとよくも人を欺あざむきしなど申に長八は額ひたひを撫なで否いや然樣さやう云るゝと實に面目めんぼく次第もなし併し年中御世話にばかりなり其上節季せつき師走しはす押迫おしつめての金の才覺さいかく餘あまり心なしに御話おはなしも出來ぬゆゑ據よんどころなく淺草田町の利兵衞と云國者を頼んで江戸町の玉屋山三郎方へ賣うりし譯わけ誠まことに申譯わけ御座らぬと申せば長兵衞よし〳〵お幸は不便ふびんなれ共今更いまさら詮方せんかたなし其中には受出す樣に仕やう先夫は後あとの事差當さしあたつて文右衞門樣の一件けん片時かたときも捨すてては置れず早々さう〳〵願書を認したためんと用意よういにこそは懸かゝりけり


第三十七回


 扨又長兵衞は願書を認したためんとするに先より傍かたはらに酒さけを呑居のみゐたりし後藤半四郎は長八が話しを聞夫は何にしても氣きの毒どくなる事なり併し其金を返せし處は實に頼母敷たのもしき心底しんていなるが今の咄はなしの樣子やうすにては其大橋氏へ百兩の金が紛失ふんじつしたと言懸いひがかりし油屋の番頭こそ不屆ふとゞきなる奴やつなれ浪人しても帶刀たいたうする身が盜賊たうぞくの惡名あくみやうを付られては其分に差置さしおかれずと云は道理もつともなり番頭久兵衞とか云いふ奴やつこそ怪あやしき曲者くせもの其者そのものを嚴敷きびしく吟味ぎんみせば文右衞門殿の證あかりは立に相違なし是長八貴樣案内あんないをしやれ某し是より直樣油屋へ踏込ふみこんで久兵衞とか云ふ奴を引捕ひつとらへて聞糺きゝたゞし呉くれんと帶おび〆しめ直なほして立上りたり後藤は元來ぐわんらい仁心じんしん深ふかく正直しやうじき正路しやうろの人なれば斯の如き事を聞時は頻しきりに憎にくく思はれ他人ひとの事にても何分なにぶん捨すて置れぬ性質せいしつなり是犬は陽やうにして正直なる獸けものゆゑ猫ねこ狸たぬき其外そのほか魔性ましやうの陰獸いんじうを見る時は忽地たちまち噛殺かみころすが如し己おのれが性せいに反はんして陰惡いんあくを巧たくむものは陽正やうせいの者是を見分けんぶんするに忍しのびざる所なり故に此半四郎も己正直なる心より番頭久兵衞が邪よこしまなるを聞て立腹りつぷくし殊に又今酒を飮のんだる一ぱい機嫌きげんゆゑ猶々なほ〳〵憤いきどほり烈はげしく直たゞちに油屋の見世へ踏込ふみこんで番頭久兵衞を引捕ひきとらへ目に物見せて呉くれんずと罵のゝしる聲こゑを聞一ト間の襖ふすまを颯さつと押開おしひらき御免成ごめんなされと長兵衞の弟なる中仙道熊谷宿の寶珠花屋はうじゆはなや八五郎此所へ入來たり是は〳〵後藤先生新藤市之丞樣誠まことに久々の御目通どほり先々御機嫌きげん克よく恐悦きようえつに存じ奉つる道理だうりこそ先程さきほどより一ト間の内にて御咄はなしの聲こゑを承うけたまはるに扨も能よく似にたるお聲こゑなりと存ぜし處果たして後藤先生なりと云ば一同も是はと驚おどろき長兵衞は八五郎に向ひ貴樣は何時頃いつごろ出府しゆつぷしたるや己は昨日歸つたばかりゆゑ未まだ家うちの御客きやくも知らざりしと云に八五郎いや私は此間中より來て居るが兄貴あにきは四國へ行て未だ歸らずと云し誠まことに思案しあんに餘りし事が出來て心配しんぱいなりと云を傍かたはらより後藤はコリヤ八五郎殿誠まことに久し振ぶりなり貴樣の世話に成しも稍やゝ十七八年にもなるべし思へば一と昔し半の餘なるが貴樣の娘は無事ぶじに成人せいじんせしなるべし最早もはや年頃としごろゆゑ聟むこにても貰もらひしか變かはる事もなきやと尋ねられ八五郎は否いな御尋たづね下され有難ありがたく其娘の事にて今度こんど出府しゆつぷ致せしなり長兵衞殿先一通り聞て下され兄貴あにきも知らるゝ通り去年きよねん秋あき中山崎町に居る國者の山田屋佐兵衞が仲人なかうどにて先は質屋渡世土藏もあり地面ぢめんも持もちて相應さうおうの身上との事ゆゑ相談さうだんなし油屋五兵衞の息子むすこ五郎藏と云者へお秀を百兩の持參金にて支度したくも夫それ相應さうおうにして嫁よめに遣やつた所が其聟殿そのむこどのが餘程よほど拔作ぬけさくにて仕方なしと雖ども折角縁えん有あつて行たる者なれば先々まづ〳〵今いま少すこし辛抱しんばうせよと云聞いひきけ居ゐたる處其舅と云者は大の女好をんなずきにて嫁よめの寢所ねどころへ來ては口説くどきたてる由よし誠まことに惘あきれ果はてたる事なり夫にまだ大變なる事あり其店の番頭久兵衞と云者は恐おそろしい惡黨あくたうにて是も主人の嫁よめの處へ毎夜々々這掛はいかける由右の譯わけなれば人にはなしも出來ず兎角とかく娘むすめも居耐ゐたゝまれぬ故ゆゑ此間中駈出かけいだし來りし也なり因て離縁りえんにする積つもりにて媒酌なかだちへ段々だん〳〵掛合かけあひし處親亭主を見捨みすてて出行たる女なれば持參金ぢさんきん道具だうぐは勿論もちろん離縁状りえんじやうまで出す事はならぬと云張いひはり誠まことに困こまり果はてたる故ゆゑ其儘まゝ捨すてても置れず故意々々わざ〳〵出府しゆつぷして自身じしん掛合處かけあふところに聟むこは大馬鹿おほばかなり舅しうとの五兵衞は何日行ても一寸とも會あはず唯店の久兵衞と云者ばかり一人彼是云て何れにも埓らちが明あかず尤も向うが何樣に惡敷あしきとも親亭主を見捨みすてたと云廉かどがあるゆゑ道具だうぐ衣類いるゐは云までもなく百兩の持參金ぢさんきんはとても返す氣遣きづかひなしと思ふゆゑ夫それは損そんをしても構かまはぬが何分なにぶん離縁状りえんじやうを出さぬには甚はなはだ困こまり果はてたり何にしても番頭久兵衞と云奴やつの面つらの憎にくさ言葉ことばにも陳のべられず兄さん何か仕方はあるまいかと云ふを傍邊かたはらに聞居たりし後藤は彌々いよ〳〵立腹りつぷくし夫は如何にも油屋の奴輩やつばら不屆ふとゞきなり何にしても其久兵衞と云いふ奴やつが惡者わるものに相違なし主從しゆじうして嫁よめへ不義ふぎを仕懸しかけるとは大膽不敵だいたんふてきなり其上離縁状りえんじやうを出さぬなどとは彌々捨置すておかれず此一件は貴樣達たち承知しようちしても此の後藤半四郎が承知しようちならぬ是より直すぐに某し自身じしんに行て百兩の持參ぢさんも衣類いるゐ諸道具しよだうぐ離縁状りえんじやうまでも殘らず取て遣つかはすべし又向うにて種々いろ〳〵云て其品々を出さぬに於ては主從倶ともに引摺出ひきずりだし奉行所へ召連めしつれ訴訟そしようして一言も言いはせぬ樣にせねばならぬコリヤ長兵衞久五郎貴樣達たち案内あんないを頼むサア〳〵山崎町へ行油屋へ押込おしこんで遣らんと云故長兵衞と久五郎の兩人は甚はなはだ心配しんぱいなし先生せんせい貴公あなたの御氣象ごきしやうでは御立腹ごりつぷくなさるゝも御道理ごもつともなれど先々能よく咄合はなしあふて大ぎやうにならぬ樣に懸合かけあふが宜しく何れにも明日の事に致す積つもりなれば兎とも角かくも御鎭おしづまり下されよと漸々に宥なだめけり


第三十八回


 然されば後藤半四郎は明日こそ是非々々某それがし同道すべし待構まちかまへたり扨さて又長八は何にしても大橋文右衞門樣の御事を跡廻あとまはしにはならぬと云を長兵衞久五郎の兩人今其事を訴うつたへなば第一貴樣きさま始め我々われ〳〵まで其一件に身體からだを縛しばられて仕廻しまうにより先まづ離縁状りえんじやうを取とり此一件を片付て後に大橋樣の一件に懸かゝらんと相談さうだんを極め左とに右かく明日仲人なかうど佐兵衞を連つれて山崎町へ行ゆき懸合かけあふ事にせんと申すに後藤も是非々々同道すべしと云ふゆゑ長兵衞八五郎は甚だ心配なし若もし先生を同行して行時ゆくときは餘り強氣がうぎなる事をして大騷動おほさうどうを仕出しいださねばよいがと思ふゆゑ今一應おう私わたくし共ども限かぎりにて掛合かけあひ夫にても埓らち明あかざる節は先生に願はんと申に後藤は何なに貴樣きさま達たち其樣に心配する事はなし某しとてもまんざら如才じよさいの事はせず先まづ斯樣かやうにすべし拙者せつしやが八五郎殿の弟分おとゝぶんになり親類なりと云つて行ば仔細しさい無なし貴樣達は先へ行て一通り懸合かけあはれよ某しは其中表おもてに待居まちゐて彌々いよ〳〵貴樣達の掛合埓らちが明ずば其時に油屋へ踏込ふみこんで掛合遣さん其積つもりにしては如何と云ば皆々みな〳〵承知しようちなしたりけり扨翌日よくじつに相成ければ後藤半四郎は長兵衞八五郎同道にて山崎町へ行ゆき先まづ仲人なかうどの山田屋佐兵衞方へ立より今日は是非々々娘が離縁状りえんじやうを貰もらはねばならず夫に付我等兄弟共へ咄はなせし所が持參金ぢさんきん衣類道具等までも損をして離縁状計り取とは餘り馬鹿氣ばかげた事とて不承知ふしようちを申餘り無法の挨拶あいさつなりと云に付今日其弟を同道して參りしなり御苦勞ながら御出下されよと云に仲人なかうど佐兵衞は是を聞きゝモシ八五郎さん御前に弟はなき筈はずなるが其弟と申さるゝは今迄何地いづれに御在おいでなされしやと問ければ八五郎は拔ぬからず御前さんの御存じなきも道理もつともなり幼少えうせうの時里さとに遣して其儘そのまゝ縁切えんきりになし置しが今にては段々だん〳〵出世しゆつせして四國の丸龜に於て劔術の師匠ししやうをなし居けるが此節江戸見物に出來りし故兄弟久々の對面たいめんにて何やかや咄はなしたる譯わけなり夫に付今日同道して來たりしと云ふに佐兵衞は然樣さやうなるか道理こそ私しは知らぬ筈なりと是より半四郎長兵衞長八仲人佐兵衞を同道して油屋へ掛合かけあひに到いたり半四郎をば門口に待またせ置おき長兵衞八五郎佐兵衞の三人は油屋の見世へ上り込に此日油屋五兵衞親子は大橋文右衞門の一件にて奉行所へ呼出よびいだしになりて見世みせには番頭久兵衞只一人帳場に控ひかへ居たりしかば三人の者は先まづ一通りの挨拶あいさつに及び扨久兵衞殿此間中より度々たび〳〵御懸合おかけあひ申せし通り娘事先は御縁ごえんのなき譯わけ成なれば何どうか今日こそは離縁状りえんじやうを遣つかはされて下され早はや斯樣かやうになりて當人の氣の進まぬものを無理に押付て元の鞘さやに納をさめると云いふ譯わけには參まゐらず私しどもの方にても彼是かれこれと申日に御懸合の筋すぢもあると云ものゝ其所そこを申て見れば實みも蓋ふたもなき譯わけ勘辨かんべんして云いはずに居るが花なり何どうか離縁状を出して下されと云に番頭久兵衞は空眠そらねぶりをして居たりしが否いな其事そのことは前々より申通り親おや亭主ていしゆを見捨て逃出したる嫁に離縁状は遣やられぬと主人も申聞きけられ殊ことに今日は兩旦那りやうだんなとも留守るすではあるし假令よしや又また内うちに御出なされて御咄はなし申た所が親おや夫をつとに暇を呉た女へ直すぐ素直すなほに離縁状を御出しなさいとは傍はたからも云れぬなり若旦那にも存じ寄りありと云いはれし故右とにも左かくにも離縁状は出されぬから何れとも御前方の存分ぞんぶんになさるが能よいと聲こゑ荒あららかに云放いひはなしたり


第三十九回


 扨又長兵衞は八五郎が掛合かけあひを聞き番頭さんには一應おう御道理ごもつともの樣なれ共決して親おや亭主ていしゆを見捨みすてたと云譯いひわけにてはなく嫁よめの方にもよく〳〵居耐納ゐたたまれぬ譯わけある故也八五郎の娘ばかり惡きとも云難いひがたく夫を彼是かれこれと洗あらひ立たてをすれば舅しうと五兵衞殿は勿論もちろん御前までへも恥辱ちじよくを與あたふる譯なれば私し共の方にて云ぬ中が花なり御前とても此見世このみせの支配人しはいにん同樣に御出なされば御前の取計らひ一つにて何れとも成なることと思はれる私しどもゝ同じ御咄おはなし許ばかりを何時迄も致すは迷惑めいわくなり殊に又私しの末の弟が六むツケ敷しく云いふゆゑ何か最初さいしよより申通り持參金ぢさんきんの百兩衣類道具代等は兎も角も離縁状りえんじやうばかりを遣はされて下され然さすれば御前の方は十分ならんと申に久兵衞コレ馬鹿ばかな事を云なさるな御前親類書しんるゐがきにも八五郎殿の外ほかに弟はなき筈なりよし分つたり是は定めて出入師とか公事師くじしとか云ふ者を連つれて來りしならん面白おもしろし〳〵何でも連て來くるがよし此久兵衞が相手なり親夫に暇を呉くれた女に離縁状は勿論もちろん持參金ぢさんきんなどは少しも返す事成ず率いざ公事師くじしにても何でも連て來るべし此方よりこそ願ひ出べきと思ふ處なり此久兵衞が相手になれば奉行所へ出樣が公方樣くばうさまの御前であらうが立派りつぱに言開いひひらきて見せるサア〳〵何いづれとも勝手にせられよと大聲に罵のゝしりければ佐兵衞八五郎の兩人は心中に此處こゝへ後藤先生を呼込よびこんでは必らず騷動さうどうにならんと思ひ腹の立のを堪こらへ〳〵て久兵衞を宥なだめ離縁状を取んとすれ共彼勿々なか〳〵聞入きゝいれず猶々募つのりて不法を云ゆゑ據よんどころなく後藤半四郎を呼に此方の後藤は先刻せんこくより表に立て懸合かけあひの樣子を聞居きゝゐたりしが元より氣象きしやう濶達くわつたつの人故ぢり〳〵氣を焦いらち今に見よと腕うでを摩さすつて待まつ處に八五郎が呼込や否や油屋の見世へ躍をどり上あがりたり其體そのてい赤銅造しやくどうづくりの強刀がうたうを帶し段織だんおり小倉の大縞おほじまなる馬乘袴うまのりばかまを穿うがち鐵骨の扇を持て腕捲うでまくりなしたる勢ひ仁王の如き有樣ゆゑ番頭久八アツと云て奧おくへ逃入にげいらんとするを半四郎は腕さし伸のばして久兵衞の首筋くびすぢ引掴ひつつかみ忽ち其所へ捻伏ねぢふせ玄翁げんおうの如き拳こぶしを振上ふりあげ久兵衞が面體を二ツ三ツ打叩く故久兵衞は大いに恐れ何卒御免下され御侍士樣おさぶらひさま何どうぞ命ばかりは御助け下さりましと只管ひたすら詫入わびいるを後藤は猫の仕置をするやうに鼻づらを疊たゝみへ摺付すりつけ々々己れが此店の久兵衞とか云いふ奴やつか汝おのれ番頭の身を以て大膽不敵だいたんふてきにも亭主が馬鹿なりとて主人の嫁よめへ不義を仕掛しかける人外者にんぐわいものめと又々鼻づらをこするゆゑ御免々々と泣叫なきわめくを是能よく聞きけ汝は主人五兵衞とやらと兩人して嫁よめのお秀へ不義を仕掛るは主從共揃そろひも揃ひし畜生ちくしやうども因よつて嫁のお秀も居耐ゐたゝまれず終に逃出にげいだせしなり夫に奚なんぞや親亭主を見捨て駈出かけいだしたる女故離縁状を出されぬの持參金道具迄も渡されぬなどとは極惡不道ごくあくぶだうの申分只今持參金の百兩衣類諸道具へ離縁状を添そへて出せ若もし出さぬに於ては汝おのれ斯かうして呉くれんと又々拳こぶしを振上ければ久兵衞は兩手を上げアヽ何卒どうぞ御勘辨ごかんべん下されよ仰おほせの通り持參金も離縁状も殘らず差上申べし何卒なにとぞ御助け下さる樣偏ひとへに願ひ奉つると涙を流して謝あやまるにぞ後藤は漸々やう〳〵勘辨して遣はさんと云ながら引起しよく〳〵顏を見たりしがはて汝おのれは何處どこでか見た樣な奴オヽ夫々それ〳〵片小鬢かたこびんの入墨いれずみにて思ひ出したり汝は〳〵不屆なる奴と白眼にらみ付られ久兵衞は再び驚おどろき何とぞ御武家樣御慈悲ごじひを願ひ奉つると何か樣子有氣に疊へ天窻あたまを摺付すりつけ々々詫入わびいりつゝ持參金の儀は此節店の都合も御座れば二三日御待下さるべし荷物并びに離縁状の處は兩主人歸り次第しだい申聞きけ今晩こんばんにも直に御宿所まで持參仕り候はんにより呉々くれ〴〵も是までの不都合ふつがふ御勘辨ごかんべん下さる樣偏ひとへに〳〵願ひ上奉つると震ふるへながら平蜘ひらくもの如くになりて申ゆゑ後藤は稍やゝ言葉を和やはらげ然らば屹度きつと間違まちがひなく馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ持參せよ若もし又違約ゐやくに及ばは直樣すぐさま汝を引連ひきつれ訴訟そしようするぞ急度きつと間違へなと申先是にて概略あらまし極きまりしなり率いざ皆々歸るべしと後藤は立上るに三人も倶ともに出立しが仲人なかうど佐兵衞へ別れを告げ馬喰町ばくろちやうを指さして歸りける


第四十回


 扨さて道々長兵衞八五郎は後藤に向ひ彼の久兵衞と云ふ奴は先生を見ると大いに肝きもを潰つぶせし樣子にて無闇むやみに手を合せて御慈悲々々おじひ〳〵と謝あやまりたる可笑をかしさよ尤も先生の勢が凄すさまじいゆゑ誰も先生の顏を見ると恐るれども別して彼奴きやつは色蒼然あをざめて慄ふるへ出せしが何でも先生を知つて居る樣子何れ譯わけのあることならんと云ふ半四郎は聞きゝて夫は其筈そのはずなり某し先年國へ歸る時東海道戸塚とつかの燒餠坂やきもちざかより彼奴きやつが道連みちづれになりし處其夜三島の宿へ泊りしに拙者の寢息ねいきを考へ胴卷どうまきの金を取んとしたる騙子ごまのはひなり其時彼奴きやつを引捕ひきとらへしに宿屋の者ども寄集り片小鬢かたこびんの毛を引拔て入墨いれずみをなしたるなり因て某し彼奴を戒いましめ以後惡心出しなら其の入墨を水鏡みづかゞみに映うつし見て心を改めよと云て逃し遣はしたる奴なれば拙者せつしやが顏を見るや否いなや肝きもを潰つぶしたるはず廻めぐり〳〵て今日又拙者に再會するとは因果な奴なりと久兵衞が舊惡きうあくを咄はなししかば長兵衞八五郎は始終しじうを聞て扨々然樣さやうなるか如何さま渠かれが小鬢こびんに半分眞黒まつくろに入墨をしてありしが飛とんだ不屆ふとゞきなる奴先生が御出下されしゆゑ早速さつそく埓らちが明あきしなり彼奴先年の舊惡きうあくを云れては堪たまらぬ故夕方までには屹度きつと離縁状を持て來るに相違さうゐなし先には大きに案あんじ先生が正直しやうぢきの心より又如何なる騷動さうだうが出來樣かと思ひしに斯して見ると先生を御連おつれ申ただけもつけの幸ひ案あんじるより産うむが安いとは此事なるべしと道々みち〳〵話はなし乍ながら馬喰町ばくろちやうへぞ歸かへりける是より長兵衞長八は相談さうだんして大橋文右衞門の一件を證人しようにんになりて訴へ出んと願書を認したゝめ掛るに後藤半四郎も是を聞き長兵衞殿拙者せつしやの名前も書入られよ然さすれば引合ひきあひゆゑ御呼出しになるに違ひなし其節奉行所にて久兵衞が舊惡きうあくを申立吟味詰ぎんみつめを願はゞ百兩の盜人ぬすびとも大方番頭久兵衞の仕業に相違さうゐ有まじ又貴樣は公事宿くじやどの商賣柄拙者せつしやが事は兄弟とか親類とか云て名前を書加へられよと申に長兵衞畏かしこまり候と其處そこは馬喰町ばくろちやうにて八十二間組けんぐみの公事宿だけあれば筆を揮ふるつて願書を認したため直に翌朝よくてう南町奉行大岡越前守殿へ訴訟うつたへ出いでしかば越前守殿には願書を取上になり追おつて沙汰さたに及ぶとの事にて其日は下られけり扨又山崎町なる油屋五兵衞の番頭久兵衞は今日圖はからずも寶珠花屋はうじゆばなや八五郎の娘お秀ひでが離縁状りえんじやうの一件に付後藤半四郎に再會さいくわいして大いに驚きしと雖も先々離縁状を馬喰町へ持行後藤先生に慈悲じひを願ひて以前の惡事を云はれぬ樣に頼たのまんと思ひ若旦那わかだんな五郎藏が奉行所より歸るを今や〳〵と待居まちゐたり此番頭久兵衞は大膽不敵だいたんふてきなる奴なれども今後藤に舊惡を云るゝ時は己油屋の店に居る事ならず因て早々離縁状りえんじやうを出して此一件は掛り合を免まぬかれ而して文右衞門へ言懸いひがかりし百兩は何所までも申張て渠かれに被かぶせ己おのれは其儘そのまゝぬく〳〵と油屋に居る了簡れうけんなり然れば半四郎長兵衞長八の三人が大橋文右衞門の爲に證人しようにんとなりて奉行所へ訴へ出し事は神ならぬ身の夢ゆめにも知らず是天罰てんばつの然らしむる所にして久兵衞が極惡ごくあく露顯ろけんの小口とこそはなりにけれ扨も享保きやうほ五年三月五日油屋五兵衞并びに同人家内は奉公人ほうこうにんに到るまで一人も殘のこらず呼出しと相成しかば家主五人組一同差添さしぞへ奉行所へ罷出まかりいづるに程無なく白洲しらすへ呼込よびこみになり願人相手方とも居並ゐならびし時に大岡殿出座しゆつざ有て吟味ぎんみにこそは及ばれたり此大岡殿は吟味ぎんみの節せつ何時いつも目を眠ねぶりて居られたりと昔し足利家の御世みよ名奉行めいぶぎやうと世に稱たゝへたる青砥あをと左衞門尉藤綱も訴訟うつたへを聽きく時は必らず目を眠りて居られしとぞ夫は又何故と云に假令たとへいかなる名奉行にても元來凡人ぼんにんの身なれば其人の顏色を見て愛惡あいをの心生ずるは是人情なり然すれば知らず〳〵依顧贔屓えこひいきの沙汰さたにも成ゆくにより心に親疎しんそのなきやうにと眼めを眠ねむりて訴訟を聽れたりとぞ何さま容貌かほかたち優いうにやさしく見えると雖も心に惡を巧たくむ者あり又顏色蓬おどろにして恐ろし氣げなる者も心は實まことに竹を割わりたる如き善人あり或ひは言葉を巧みに人を罪に落とすもあり又己おのれ十分の理を持ながら訥辯とつべんの爲に言伏られて無實むじつの罪つみに陷おつるもあり其善惡そのぜんあくを糺たゞされるは表眼へうがんを眠り心眼しんがんを以て是を見る時は其邪正じやせい自然に感ずると云ふ


第四十一回


 偖さて大橋文右衞門一件關かゝり合あひ山崎町質渡世しちとせい家持いへもち五兵衞并びに同人家内の者奉公人に至るまで一同呼出よびだしになりし處此の番頭久兵衞のみ名前なまへ之これなきに付つき彼一人は留守るすをして家に殘りし也なり是は大岡殿深き思慮しりよあるが故に久兵衞一人は故意わざと差紙に名前を載のせず外の奉公人を呼出よびいだして久兵衞が平日身持みもちの樣子を聞糺きゝたゞさんとの事なる由時ときに越前守殿白洲を見られ下谷山崎町家持五兵衞悴せがれ五郎藏其方年としは何歳なんさいになるや又また妻さいはあるかと尋ねらるゝに五郎藏はひよくりと天窓あたまを上あげじろ〳〵四邊あたりを見廻しながら私しの年は慥たしか廿二歳ばかりにて妻つまは御座りましたが私しを嫌きらひ此間このあひだ御出おでやりましたと自他じたも分らぬ事を一向恥はぢる景色けしきもなく云ければ越前守殿は微笑ほゝゑまれ是は餘程拔作ぬけさくなりと思はれし故其儘そのまゝにして若い者重助へ向はれ其方年は何歳なんさいになるや何頃いつごろより五兵衞方に奉公致し居をるか有體ありていに申立よと云れしに重助はハツと答えて私し儀當年廿二歳にて幼少えうせうの時より五兵衞方へ參り最早もはや十年程相勤め罷まかり在候と申を大岡殿聞れ大分其方は神妙者しんめうものと見える昨年より當年へかけ傍輩はうばいの中うちに暇いとまを取て下さがりしと云ふ者か又は不首尾ふしゆびにて暇ひまを遣やりしとか何か五兵衞方をいでし者はなきやどうぢやと有に重助ヘイ當六月中迄まで七年ばかり勤つとめし傍輩はうばいに藤助と申す者御座りしが眼病がんびやうにて下さがりしもの其外には出でました者は一向御座りませんと申しければ越前守殿なるほど其の藤助は今以て歸參は致さぬか未いまだ眼病がんびやうを煩わづらひ居をるやどうぢやとあるに重助御意ぎよいの通り今以て眼病にて惱なやみ居りますと申せば大岡殿其藤助が家内かないの樣子は何どうぢや兩親はあるか又渡世は何をして居るや存じ居らば一々申立てよと云はるゝに重助ハイ兩親りやうしんはなきとのこと藤助の妹いもとが一人御座り年は十九歳ばかりにて未だ亭主ていしゆも是なき由よしなりと申しければ大岡殿其者は人の世話にでもなりて居る樣子かと申さるゝに重助は困こまりし面色おももちにて其樣そのやうは一向存じませぬと云ば大岡殿汝は傍輩の事こと故ゆゑ病氣見舞みまひに行ゆきしならん夫れとも見舞には行ぬか何どうぢや少しにても僞るに於ては其方の爲にならぬぞコリヤ主人五兵衞並に悴の五郎藏などは見舞みまひに行ゆきたで有うどうぢやと云るゝに重助否いや私し共も主人も參りし事は一度も御座無なく併しかし番頭久兵衞は折々をり〳〵見舞みまひに參り候と申せしかば大岡殿左樣さやうかと申され此事を手帳てちやうへ留置とめおかれたり又若い者の喜七に向はれ其方生國しやうこくは何國いづくにて年は何歳なるやと尋ねらるゝに喜七私し生國は下總國行徳ぎやうとくにて年は十九歳也と答へ夫れより越前守殿は松三郎金藏下男彌助に至る迄何いづれも生國歳等としとうを聞きかれ好々よし〳〵下さがれ〳〵と申されければ皆々白洲しらすを出いでて腰掛こしかけへ下さがりたり此時漸々やう〳〵十歳ばかりに成なる小僧の三吉と云ふ者有りけるが主人五兵衞始め此所こゝへ出いでし人々吟味の濟すみ次第しだい一人づつ段々と下さがりて今は主人の悴五郎藏と己おのれのみ只二人白洲に殘されければ心細こゝろぼそくやありけんめそ〳〵と涙を流して泣居なきゐるに大岡殿三吉を見らるゝに如何いかにも物賢ものかしこく利口りこうさうなる小僧ゆゑ此者を欺だまして能々よく〳〵聞糺きゝたゞさば百兩の盜賊も知れるに相違なしと最初さいしよより目を着つけられしかば斯の如く後あとへ廻されしなり然されば先まづ再び馬鹿子息ばかむすこ五郎藏を糺たゞさんと思はれ越前守殿コリヤ五郎藏其方の妻さいは何故汝なんぢが家いへを出いでしや又當人は親類中より參りし者かと申さるゝに五郎藏否いや親類から參つたのでは御ざりませんが一所しよに寢ねるのが嫌きらひで御出おいでやりました貰もらつたから親類で有りましたが出て行けば他人でござりますどうぞ御奉行樣私しの内儀おかみさんを御歸おかへし下さる樣偏へに御願ひ申ますと眞面目まじめで云ふゆゑ居並ゐならびし役人共一同笑ひに耐兼たへかね眞赤まつかに成て居るにぞ越前守殿も笑わらはれながら好々よし〳〵御威光ごゐくわうを以て近々に取戻とりもどして遣はさん而して又其方は家内にて怕こはいものは誰なるやと尋ねられければ五郎藏ハイ私しの怕者こはいものは番頭の久兵衞でござります毎度私しを恐おそろしく叱しかり付つけたり怕こはい眼めで白眼にらめますから久兵衞ほど怕者こはいものは御座りません夫れに引替ひきかへ若い者重助は誠に好者よきものにて若旦那々々々と云て大事にして呉くれますと申すに越前守殿夫れにて分つたり下さがれ〳〵と申されしかば私しの御内儀おかみさんは呉々くれ〴〵も御歸おかへし下くださいましと言つゝ白洲を立て下りけり跡あとには彼の十歳ばかりなる三吉小僧のみ彌々いよ〳〵一人殘され其上そのうへ早はや日ひは暮くれて白洲へは灯あかりがつき四邊あたり森々しん〳〵として何なにとやら物凄ものすごく成しかば三吉は聲を揚あげて泣出なきいだすゆゑ越前守殿は言葉ことば靜しづかにコリヤ〳〵三吉最少もつと前へ出よ何も怕事こはいことはなし泣なくな〳〵サア〳〵好物いゝものを遣はさうと饅頭まんぢうを紙に載のせて與へられ是を喰たべよ〳〵手前は一番利口者オヽ賢かしこい奴だサア遠慮ゑんりよせずに喰たべよ〳〵と申さるゝに其處そこは子供ゆゑ菓子くわしを見ると直樣すぐさま莞爾々々にこ〳〵しながら押頂おしいたゞきて懷中ふところへ仕舞しまふ故ゆゑ大岡殿コレ〳〵小僧其處そこで喰たべよと言はれしかば三吉ヘイ有難う御座いますが家うちへ持もつて行ゆき番頭樣さんに見せてから喰たべないと叱しかられますと申すに大岡殿オヽ然樣さうか手前は利口者りこうものだサア夫れなら今一ツ遣はさうと此度は自身に縁側えんがはまで持出もちいでられ手渡しにして直すぐに喰たべよ〳〵と申されしに三吉は彌々いよ〳〵莞爾々々にこ〳〵として饅頭まんぢうを喰居くひゐるに越前守殿何どうだ三吉其方の年は幾歳いくつになると聞れけるに三吉は早少し馴染なじみの付つきし體さまにてハイ私は當年十歳になりますと答へければオヽ十歳になるか能よく答こたへが分る至極しごく温和おとなしい奴ぢや今いま尋ねる事を一々申立よ素直すぐさまに云ば家うちへ歸して遣やる又また虚うそを云ば家へも歸さず宿入やどいりにも遣やらぬぞよ三吉其方は番頭久兵衞の供ともをして車坂の藤助の家へ行たであらう公儀おかみでは能よく御存じなるぞと申さるゝに三吉は成程時々とき〴〵久兵衞樣の供をして參りましたアヽ御奉行樣には能知て御出でなさいます私しは家うちに居るより供ともをして行ゆく方はうが餘程よつぽど能よう御座いますアノ久兵衞さんが何時いつもと違つて藤助さんの所へ行ゆく時ときには莞爾々々にこ〳〵して饅頭まんぢうだの羊羹やうかんだの又錢だのと種々いろ〳〵な物を呉くれますし其上供ともの時計ばかりは久兵衞さんが少しも叱しかりません家に居ると毎日々々叱しかられて計ばかり居りますと云ひければ越前守殿も莞爾々々にこ〳〵されながら然樣さやうか能よく其方は咄はなしが分る夫それから番頭の供をして藤助の處へ行ゆくと番頭は何をして居ると尋ねらるゝに小僧こぞうアノ藤助さんの方はうへ行ゆくと久兵衞さんは直すぐに二階かいへ上あがりお民たみさんと云ふ美麗うつくしい姉ねえさんと何だか咄はなしをしてお出いでなされます其時は何時いつでも久兵衞さんが私しに山下へ行て源水でも輕業かるわざでも見て來こいと言て錢を五十文か百文づつ呉くれますから私しは山下へ行ゆき遊んで來ては又供をして家うちへ歸りますと云ひしかば大岡殿成程然さうして又其眼病がんびやうで下さがつて居る藤助は何をして居ると問とはるゝに小僧ヘイ藤助さんは下の火鉢ひばちの傍そばに居て色々な面白い咄はなしをしたり甘うまい物などを呉くれますと云ば越前守殿然樣さうか其藤助の家うちは車坂の通りにて右より左へ行ゆく好いゝ所ところだらうなと申されしに小僧然樣さうさアノ大井戸より左の方へ行くと水菓子屋みづぐわしやの裏うらでございますと云ふを大岡殿然樣さようよ〳〵其大井戸の先さきで有るだらう抔など申さるゝに小僧オヤ御奉行樣には能く御存じで御出おいでなされますと驚くを大岡殿ムヽ三吉其方は利口者なれば家うちへ歸つても今云し事を決して誰たれにも咄はなすまいぞ若もし咄はなすと又々呼び出して今度は歸さぬぞよと有るに小僧は平伏へいふくなし決して申しは致しませんと答へければ大岡殿夫それで好よしサア歸れ〳〵と申さるゝを聞き小僧三吉は發ほつと息いきをつきて白洲より出で來り夫れより腰掛こしかけへ行きけるに皆々打より三吉手前一人跡あとに殘つて嘸さぞ怕こはかつたらう何を御奉行樣が御聞き成れたと問ひければ三吉は内心に爰こゝだと思ひ只たゞ何歳いくつになるの家うちは何所どこだの父や母は有るかのと御聞なされたる計ばかりなりと云ふゆゑ皆々然樣さやうであつたかと隱かくすとは心も付ずサア〳〵餘よほど夜も更ふけたれば急ぐべしと一同揃そろひて山崎町の油屋へぞ歸りける


第四十二回


 扨又番頭久兵衞は今日文右衞門の一件にて五兵衞始め一同どう呼出よびいだされしゆゑ流石さすがの惡黨あくたうも如何いかゞ成行なりゆくやと竊ひそかに心配なし居たる折柄圖はからず後藤半四郎入り來り退引のつぴきさせずお秀の離縁状は取とられる事になりしかば若旦那五郎藏歸り來らば早々離縁状を認したゝめさせ馬喰町なる半四郎の方へ持行もちゆかんと思ひ居たるに漸々やう〳〵夜に入りて一同歸り來りしゆゑ久兵衞は脛すねに疵きず持もつ身みなれば斯かく間まの惡わるき機をりには御奉行所にても何か面倒めんだうなることありしならんと思ひ離縁状の一件は後あとになし直樣すぐさま家主吉兵衞方へ行き今日けふ御番所にて御尋ねの一件は如何いかゞなる儀にやと聞くに吉兵衞は家うちの者に聞けば直樣すぐさま分る事を故意々々わざ〳〵此所まで聞に來る事もないと思へば私しは差添さしそひなれば皆々の後あとに居ゐたるゆゑ何の御尋ねやら一向に聞取れずと云ければ久兵衞は是非なく立歸たちかへり店みせの重助喜助松五郎金次等に聞けるに皆々只油屋へ何時頃いつごろ奉公に來て歳としは幾いくつだと云ふ御尋ねばかりにて外には何も仔細しさいなしと云ふを彼の馬鹿息子ばかむすこ五郎藏は莞爾にこ〳〵と笑ひながら己おれは嬉うれしい事がある女房お秀を取返して下さると仰せられ誠に優やさしき御奉行樣なりと一人ひとり悦び居たりけり又小僧の三吉は白洲へ一人取殘とりのこされ泣なきしと云て皆々に笑はれたる故ゆゑ家うちへ歸るや否いなや店みせの隅すみに小ちひさく成て居るゆゑ番頭久兵衞は三吉を呼び手前一人ひとり跡あとに殘されたと云ふが御奉行樣が何を御聞なされたか咄はなして聞きかせよと云共いへども大岡殿より豫かねて口止くちどめありしかばさらに物を云ず默止もくし居ゐるにぞ久兵衞は急込じれこみヤイ三吉何を申し上あげたるや己れ云はざるに於ては斯かうするぞと頬ほうを爪捻つめり尻しりを爪捻つめり種々いろ〳〵にして責問せめとへども一向に云はざるゆゑ久兵衞扨は此小僧めが車坂のお民の一件を申し上あげたるに相違なしと察さつしければ此上このうへ押おしても聞ず夫よりは先まづ五郎藏に咄はなして離縁状を認めさせ早々持もつて行ゆかねば後藤が又々踏込ふみこんで來たると云しかば是は差當さしあたつての難儀と思ひ若旦那々々と二階かいへ連れ行き扨さて外ほかの事にてもなく今日御前おまへさんのお留守にお秀さんの伯父をぢなりとて後藤半四郎と云ふ浪人者が來り斯樣々々かやう〳〵の掛合になり是非離縁状を出せとの事なるが若もし遣やらずに置けば大變な騷動さうどうに成行なりゆくゆゑ早々去状さりじやうを御書おかきなされと申すに五郎藏は甚だ不承知なる面かほにて返詞へんじもせざれば久兵衞は種々いろ〳〵に説勸ときすゝむると雖も五郎藏は却て腹はらを立て今日御奉行樣がお秀を取戻とりもどして遣はすと仰せられた故離縁状は何樣どうしても書かゝずと云ふに番頭久兵衞は甚だ困こまり果はて否いや然樣さやうなる事を云はれたとて離縁状を遣やらずに置けば今にも後藤半四郎が來るに違ちがひなし然さすれば家内中鏖みなごろしにすると云て歸られたり劔術遣けんじゆつつかひの浪人なれば勿々なか〳〵切り兼かねは致すまじ又お秀ばかり女にてはなし私しが外ほかに美うつくしい女を嫁よめに貰もらひて上あげます程に是非とも去状を御出し成なされと威おどしつ賺すかしつ漸々やう〳〵の事にて離縁状を認めさせ是を以て早々馬喰町なる武藏屋長兵衞の方へ到り後藤半四郎に對面たいめんして去状を渡し持參金の百兩並びに道具類は何卒兩三日の間御待ち下くださるべし然さすれば相違なく御渡し申さんと半四郎へ呉々くれ〴〵約束やくそくして立ち歸りしが久兵衞は道々心に考ふる樣今日三吉めが車坂の一件を御奉行所へ申し上あげたる樣子ゆゑ兎とも角も惡事の顯あらはれ口くちになりたり然されば所詮しよせん斯かうしては居ゐられず何でも足元の明あかるい中うちに高飛たかとびをするより外に思案はなしと忽然たちまち元もとの惡心を起おこし其夜家内は寢鎭ねしづまり良やゝ丑刻半なゝつはん共とも思ふ頃ころ不圖ふと起出おきいで豫かねて勝手は知りしゆゑ拔足ぬきあしさし足して奧へ忍び行き佛壇ぶつだんの下より三百五十兩の大金を盜み出いだし是をば胴卷どうまきに入れて確しつかと懷中くわいちうにて縛しばり夫れより又土藏へ忍び入り質物しちものの中にて何いづれも金目なる小袖類を盜みとり風呂敷ふろしきに包みて背負せおひ傍邊かたへに在りし鮫鞘さめざやの脇差を腰にぶつこみ猶又拔足差足ぬきあしさしあしをして裏口より忍び出で草鞋わらんぢを履はきて逃去にげさらんとする時馬鹿息子の五郎藏が小便に起おき戸惑とまどひなしつゝ暗紛くらまぎれに久兵衞へ突當つきあたりしかば久兵衞は驚きながら透すかし見てモシ若旦那御靜おしづかに成れましと云ば五郎藏も大いに驚きヤア貴樣は久兵衞か草鞋わらんぢを履はいて今より何所へ行ゆくのだと聞れて久兵衞は南無三寶なむさんばう見咎とがめられしか最早もはや斯かくなる上は是非に及ばず毒どくを喰くらはゞ皿さらまでと腰なる一刀拔くより早く聲こゑ立たてさせじと五郎藏が口の中へ突貫つきとほし二ツ三ツ刺ゑぐりしかば五郎藏は七轉八倒なすのみにて其儘そのまゝ息いきは絶果たえはてたり頓やがて久兵衞は一刀を鞘さやに納め周章狼狽あわてふためき五郎藏の死骸しがいを庇間合ひあはひへ捨置すておきて早足はやあしに逃出にげいだし手拭ひにて深く頬冠ほゝかむりをなし膽きも太ふとくも坂本通りを逃行く機をりから向うより町方の定廻り同心手先三人を連つれ吉原より返りと見えて此方こなたへ來るゆゑ久兵衞は仕舞しまつたりと思ひながら早足はやあしに軒下のきしたへ廻り天水桶てんすゐをけの蔭かげへ隱れんとする處をソレ怪しき曲者くせもの召捕めしとれと聲の下より手先の者三人破落々々ばら〳〵と立懸り上意々々と云ながら取て押おさへ忽ち繩なはをぞ懸かけたりける因て久兵衞は逃損にげそんじたりと思ひながらも遁のがるゝだけは云拔いひぬけんと何卒御免おゆるし下されよ私しは決して怪しき者に候はず偏ひとへに御勘辨ごかんべんを願ひますと云ば手先の者もの何なんだぐず〳〵云ふ事たアネヘ貴樣は怪しい奴に相違さうゐない夜中無提灯むぢやうちんにて其樣そんな大包みを背負せおひ形容なりにも似合にあはぬ鮫鞘さめざやの脇差わきざしをさし是は大方其處そこらで盜み來りしならん殊に草鞋わらんぢを履はき是れ何どうしても泥棒どろぼうと云ふ看板かんばんを掛て居る樣なものだサア此方へ來いと直樣坂本の自身番へ引上しに出役岡村七兵衞馬籠まごめ藏くら十郎の兩人控ひかへ居る前へ久兵衞を引き据すゑて先まづ雜物ざふもつを改るに質物と見え皆みな質札しちふだの付たる儘まゝにて大風呂敷に一包みあるゆゑヤイ汝おのれは何いづれの者ぞ尋常に申立よと有りしかば久兵衞は俯向うつむき居ゐたりしが首かしらを上あげ私しは山崎町油屋五兵衞方の番頭を勤つとめ久兵衞と申す者にて何も決して怪あやしき者には御座なく候と申すに馬籠まごめ岡村の兩人此包みは如何致したる品なるやと尋ねければ久兵衞は拔ぬからぬ面かほにてヘイ是は下質したしちへ下さげに參る品で御座りますと云ふに兩人ナニ下質へ下さげに行ゆくかとコレ宜加減いゝかげんな虚うそを云いへ夜中草鞋懸わらんぢがけにて下質したじちへ下さげに行ゆく奴やつがある者か爰こゝな不屆者ふとゞきものめ有體ありていに白状せよ眞直まつすぐに申立なば公儀おかみにも御慈悲が有ぞと云つゝ久兵衞の脇差わきざしを改めるに鮫鞘さめざやにて縁頭ふちかしら其外立派なる腰こしのものなれば中身なかみを見みんと拔放ぬきはなしければ鍔元つばもとより切先きつさきまで生々なま〳〵しき血汐ちしほの付居ゐるにぞコレヤ汝おのれは大膽不敵なる奴かな是が何より證據なり何處どこで人を殺し夜盜よたうをして來りしぞ尋常に云て仕舞へ何どうで汝われが命いのちは無者なきものだ幾いくら隱しても遁のがれる譯わけには行ゆかないぞコリヤ町役人油屋五兵衞を呼出すべしと云ければ畏かしこまり候と町役人走り行き油屋の表おもてを叩たゝきけれども今日は奉行所へ一同罷出まかりいで勞つかれにも熟よく寢ねこみ居て何分起出おきいでぬゆゑ裏口に廻り見るに如何さま久兵衞が逃出したる所らしく戸など明放あけはなしありしかば家うちへ入て家内の者を起し此方こなたの番頭久兵衞が今いま自身番へ上あげられたるに付五兵衞殿を起して呉くれよと云ふに夫はと云て家内皆々騷さわぎ立て五兵衞を起しければ五兵衞も驚き何なににしても大變なりと考かんがへ居ゐる中町役人共は若わかい衆しう若衆内々に怪我人けがにんはなきか改め見よと云ふに一人の若い者若旦那の五郎藏樣が御見えなされぬが何所どこへ御出おいでなされしやと申すに一同何樣なにさま是これは不思議と云ふを聞き主人の五兵衞は出來いできたりナニ悴せがれがみえぬと夫れは何所どこへ行たかと家内中を探さがせ共ども一向に影かげも見えず猶なほ隈くまなく探さがし求もとむる中うち裏口うらぐちの庇間合ひあはひに五郎藏が倒れて居たりと大聲おほごゑ揚あげて呼はるゆゑ夫れと云て手燭てしよくを照てらし行ゆきて見るに口中を刺ゑぐられ朱あけに染そみて居りしかば是は大變々々と云いふ聲こゑに親父の五兵衞も駈付かけつけて五郎藏が殺されたりとは夫れは如何いかゞせし事ぞと死骸を見てヤヽ是はと尻餠しりもちを搗つき起おきる事もならず悲かなしむにぞ家内中上を下へと騷動しける所へ坂本の自身番よりは矢の使つかひにて御役人が御待兼おまちかねなり五兵衞殿を早く連て來きたられよとの事こと成なれども五兵衞は悴せがれを殺され心顛倒てんだうして只たゞ其處そこよ此こ所こと胡亂うろつき居けるゆゑ町役人は叱しかり付つけ自身番じしんばんへと急いそぎけり


第四十三回


 却説さても油屋五兵衞は町役人に伴ともなはれ坂本の自身番へ到いたりしに豫々かね〴〵心を緩ゆるして召仕めしつかひし番頭久兵衞は高手小手に縛いましめられ居たるゆゑ五兵衞は久兵衞を見るや否いなや汝おのれは〳〵人面獸心にんめんじうしんなる奴かな五年以來このかた目を懸て遣はしたる恩を忘れよくも悴せがれ五郎藏を突殺つきころし金銀質物を盜み出せしよな悴の敵かたき思ひ知れやと云ながらも飛懸とびかゝりて押伏おしふせんとするゆゑ役人は聲をかけコリヤ〳〵五兵衞控ひかへ居をれ此方にて召捕めしとりたる罪人を手込てごめにせんとは不屆なり愼んで此方の調べを受うけよと叱しかり付つけるに五兵衞はハツと心付是は實まことに恐れ入り奉つる彼奴かやつに悴を殺されたる無念の餘り御役人樣の御前をも忘わすれ不禮ぶれい仕つり候段眞平御免下まつぴらごめんくださるべしと云ば役人聞て夫そは不便の儀なり而して又其手續きは如何なる事ぞと尋ぬるに五兵衞渠かれは私し方へ五ヶ年以前より奉公に參り至極しごく實體じつていに勤め居をりますゆゑ年頃も相應に付き番頭に取立とりたて店みせの事ども任まかせ置候處今宵悴五郎藏を殺害仕つり金子三百五十兩を盜ぬすみ取とり猶なほ又また奧藏おくぐらへ忍び入り質物品々並びに脇差わきざし一腰こしを持出もちいだし候やに存じられ候へどもいま確しかと取調べ行屆き申さず候と云ひければ其段久兵衞を糺たゞすに同人も今更いまさら陳ちんずる事能はず今宵こよひの事共白状なしけるにぞ一々口書くちがきを取り翌朝町奉行大岡越前守殿役宅へ送おくりに相成たり是に因て油屋五兵衞よりは右の始末を巨細こさいに認め五郎藏の死骸しがい檢使けんしを願ひ出でけるに早々役人來りて死骸しがいを改ため五兵衞始めの口書くちがきを取り大岡殿へ差出せしかば大岡殿此久兵衞は浪人らうにん文右衞門が豫かねて關かゝり係あひの者なればとて直樣すぐさま白洲へ呼出され調べにこそは懸かゝられけれ然されば久兵衞は繩付なはつきの儘まゝ砂利じやりの上うへに蹲踞うづくまるに大岡殿是を見られ下谷山崎町家持いへもち五兵衞召仕ひ久兵衞其方生國は何國いづくにて年は何なん歳なるや又また何頃いつごろより五兵衞方へ奉公住ずみ致したるや有體に申立よと云はるゝに久兵衞私し生國は上總國かづさのくに東金とうがねにて五ヶ年以前より五兵衞方へ奉公住ずみ致し居をり歳としは當年四十二歳に相成候と申しければ越前守殿而して又其方如何成いかなる所存にて五兵衞の悴を殺害致したるや且かつ又また金子三百五十兩並びに質物品々脇差等迄わきざしとうまで盜ぬすみ取りたるに相違なきやと有るに久兵衞は今更いまさら遁れぬ處と覺悟かくごを極きはめしかば仰せの通り不圖ふと出來心にて金子質物等を盜ぬすみ逃出にげいださんとせし機をり五兵衞悴五郎藏に見咎みとがめられ候間據よんどころなく殺害致し立退たちのき申候此儀は全く出來心に付何卒御慈悲に命いのちばかりは御助け願ひ奉つり候と然さも初心らしく申を越前守殿此奴こやつ勿々なか〳〵横道わうだうなりと思はれコリヤ久兵衞其方は去年極月中旬浪人文右衞門事五兵衞の店にて百兩の金を盜ぬすみたりとの言懸りは是れも其方が仕業しわざなるべし有體に白状せよと申さるゝに久兵衞心こゝろの中うちに今度の事は其節そのせつ五兵衞と突合つきあはせになり一旦白状したれば今さら爲術せんすべなけれども百兩の金は何所どこまでも文右衞門に負おはせ渠かれをも倶ともに殺さんと思ひしかば恐れながら此度の儀は御尋ねの通りに相違さうゐ御座ござなく候へ共百兩の金は文右衞門が盜ぬすみ取りしに違ちがひ御座なく候と申しければ越前守否いな汝なんぢは然樣さやう申せども文右衞門の人體にんてい盜賊たうぞくなどすべき者に非ず其は全く馬喰町なる紙屑屋長八より遣はしたる金子にて質物しちもつを受出うけいだしたりと申す此儀相違なく聞ゆるぞ眞直まつすぐに白状致せと有るに久兵衞ナニ其者は長八にては是なく新藤市之丞と申す紙屑買かみくづかひの由に御座候併しかし同人の住所を尋ね候處知れざる由よしを申し金子の出所不定に御座候間あひだ百兩の金は文右衞門が盜ぬすみ取とりしに相違御座なく候と云張いひはりしかば越前守殿聲高こゑだかによく承まはれ汝なんぢは何程辯べんを巧たくみに陳ちんじ僞いつはる共此方には慥たしかなる證人あるぞ證據なきことは強しひて問糺とひたゞさず如何程に強情がうじやうを申すとも汝おのれが一命は助かる事でなし彌々いよ〳〵陳ちんじ僞いつはるに於ては證人を此處こゝへ呼び出すぞ何どうぢや夫れにても云はぬかと申さるゝを久兵衞は猶なほ恐おそれず假令たとへ誰たれが出いでましても存ぜぬ事は何時いつまでも存じませんと云ふに大岡殿コリヤ未だ其方は強情がうじやうを申か扨々さて〳〵大膽たいたんなる奴かな然しからば證人を呼出よびいだし引合せんとて下役へ差圖さしづあれば武藏屋長兵衞紙屑屋長八の兩人白洲へ呼び込みになり其所そこへ罷り出るを越前守殿見られ馬喰町二丁目武藏屋長兵衞並ならびに前名新藤市之丞當時たうじ紙屑屋長八其その方共儀どもぎ此程訴うつたへの趣き今いま一應其所そこにて申し立よ且又去さんぬる十二月中越後高田浪人大橋文右衞門へ尋ねの儀に付紙屑問屋かみくづとんや並ならびに屑買等一同呼出したる節せつ其方江戸内に住居致し居をりしや又旅行留守中にてもありたりや其仔細しさい包つゝまず申し立よと申さるゝに長八愼つゝしんで答る樣私し儀は元越後高田の藩中に候處今より十八ヶ年以前若氣わかげの過あやまちにて同役の娘と不義に及び主家の法に依て一命をも召めさるべきの處物頭役大橋文右衛門の情なさけにて助けられ廿兩の金子を惠めぐみ呉くれ候を路用にいたし江戸表へ罷まかり出いで候節中仙道熊谷堤に於て惡漢わるものに出逢いであひ私し共夫婦一命も危き機をりから讃州丸龜の浪人後藤半四郎と申す者に救すくはれ猶又右半四郎より金子廿兩を惠めぐみ呉くれ候て江戸表馬喰町まで同道いたし其後是に控ひかへ居り候長兵衛の世話せわに相成紙屑渡世かみくづとせいを致し罷り在候處去さんぬる十二月中私し儀上野の大師へ參詣さんけいの途中とちう上野車坂下にて大橋文右衛門に廻めぐり逢ひ夫れより同人宅へ參り樣子を尋ね候處文右衛門は八ヶ年以前國表くにおもて越後家ゑちごけ浪人らうにんいたし當時は山崎町に住居すまひ悉皆こと〴〵く困窮こんきう零落れいらくに及び往來に立て袖乞を致し漸々やう〳〵其日々々を送り候と申す事故私し儀甚だ氣の毒どくに存じ十八ヶ年以前の恩義おんぎを報はうぜんと思ひ一人の娘を新吉原江戸町一丁目玉屋山三郎方へ身の代金しろきん五十兩にて年季ねんき勤つとめに遣はし右五十兩の中二十五兩を大橋の方へ持參仕り候處文右衛門儀武士ぶしの意氣地いきぢを立て一旦たん惠めぐみ遣はしたる金子を今受取ては一分立ずと申して何分請取うけとり申さず是に依て私し儀も折角せつかく娘むすめまで賣たる金を請取られざる事實まことに本意なく存じ文右衛門が油屋五兵衛と申す質屋へ質物流れの懸合かけあひに出行いでゆき候留守中密ひそかに煙草盆の中へ入れ置て罷り歸り候處是に控ひかへ居る長兵衛が兄の大病にて讃州丸龜へ參るに付つき同道致し呉くれよと申すにより幸さいはひ先年大恩だいおん受うけし後藤半四郎へも謝禮しやれい旁々かた〴〵尋ねたくと存じ十二月十四日長兵衞私し兩人御當地を出立致し讃州丸龜へ罷越まかりこし候事に候へば舊冬きうとう屑屋くづや一同御呼出しの節は御當地に罷り在り申さず漸々やう〳〵一昨日江戸表へ立歸り私し妻より舊冬きうたう屑屋くづや一同御呼出しの樣子を承まはり候に付つき文右衛門の安否あんぴを尋ね候處御召捕めしとりに相成候由ゆゑ大いに驚き取敢とりあへず今般こんぱん御訴へ申上奉つり候儀に御座候右みぎ故ゆゑ文右衞門質物を受出せしは全く私しより相贈あひおくり候金子に相違之なく勿々なか〳〵文右衛門儀盜賊など仕つり候者に候はず何卒なにとぞ御慈悲ごじひを以て同人儀出牢仰せ付られ下し置おかれ候樣偏へに願ひ上奉つり候と一伍ぶ一什しじふを殘らず申し立しかば越前守殿長八が眞實しんじつを甚だ感かんじられ且かつは文右衛門夫婦の申す口くちと少も相違せざるゆゑ然さもあるべしと思ひ夫それよりまた久兵衛に向はれ其方も今申す通り前名新藤市之丞當時屑屋くづや長八が申立たる通り文右衛門が質物しちもつを受出せし金子は長八より贈おくり遣はしたるに相違なしと申す然さすれば其方百兩の金子を盜み取り罪を文右衛門に負おはせんとせしに相違あるまじコリヤ久兵衛よく承まはれ文右衛門が家内を吟味ぎんみせしに殘金十一兩餘よ在ありたり是を思へば文右衛門盜賊たうぞくでなき事は明白めいはくなり斯程かほどに證據ある上は汝何程陳ずる共詮せんなき事ぞ痛いたき思ひをせぬ中に白状せよサア何どうぢや云ぬか汝おのれ如何に強情なり共云せずには置ぬ不屆ふとゞきなる奴哉と白眼にらまるれ共久兵衞は少しも恐るゝ面色けしき無なく假令たとへ文右衛門儀百兩の盜賊に御座なく候共私しは其金一向に存じ申さずと云ひ居たるにぞ流石さすがの大岡殿も扨々強面しぶとき奴やつなりと惘あきれられしが好々よし〳〵然さあらば白状するに及ばず汝われに逢せる者有り驚くなとて直樣すぐさま車坂下六兵衛店たな藤助並びに妹お民を呼出しとなる是は久兵衛が圍かこひ置し女なれば此二人の者出なば如何に強惡がうあくなる久兵衞にても最早もはや陳ちんずる事能うまじと思はれたり然れ共久兵衛は兎角とかく己おのれが命いのちはなき者と思ひしゆゑ百兩の一件は是非々々文右衛門に負被おつかぶせ倶ともに抱込だきこんで殺す了簡れうけんなり然さる程に藤助並びに妹お民の二人は家主六兵衛差添にて罷り出いで白洲へ平伏なすにぞ久兵衛是はと思ひしが此者兄弟出し上うへは露顯ろけんするに相違なしと心の中に思案を極きはめ猶も工夫くふうをなし居たり


第四十四回


 扨さても番頭久兵衛は種々事を左右に寄よせ百兩の盜賊は大橋文右衛門に相違さうゐなき旨むね申し立ると雖も大岡殿は心眼しんがんを以て善惡を見拔みぬかれ追々證人等も引合せらるゝことになりしかば流石さすが強惡がうあくの久兵衞も巧たくみし事ども彌々露顯と觀念くわんねんなし居たり然されば越前守殿の裁許は實に天眼通を得たりと云ふべし是も其頃の事とかや江戸神田鎌倉河岸に豐島屋十右衛門と云いふ名譽めいよの酒店さかやあり渠かれは中興ちうこうの出來分限にて元は關口せきぐち水道すゐだう町の豐島屋と云ふ酒屋の丁稚でつちなりしが永々の年季ねんきを實體に勤め上しかば豐島屋の暖簾のれんを貰もらひ此鎌倉河岸へ居酒屋の店を出せし處當時常盤ときは橋外通り御堀浚おほりざらひ御普請ごふしん最中さいちうに付つき渠かれが考へにて豆腐とうふの大田樂おほでんがくを拵こしらへ是を居酒とともに安價やすく賣うりけるゆゑ日々大勢の人夫此豐島屋へ居酒を呑のみ田樂でんがくを喰くらひに來りしに渠かれ如才じよさいなき者なれば我身代に取付とりつくは此時なりと思ひ愛想あいさう能よく酒も負まけて酌つぎければ其の繁昌はんじやう大方ならず日毎に三十貫文餘りの利潤りじゆんを得て忽ちに大身代となりて酒店をも開ひらしかど昔しを忘れぬ爲とて居酒の店は其儘そのまゝに商賣なし今以て繁昌致しけり此の者素より日蓮宗を信仰しんかうなし己の菩提所ぼだいしよは牛込うしごめの宗伯寺なりしが終に一大檀那だいだんなとなり寄進の品も多く又雜司ざふしヶ谷やの鬼子母神きしぼじん金杉かなすぎの毘沙門天びしやもんてん池上いけがみの祖師堂そしだうなどの寶前はうぜんへ龍越りうこしと云ふ大形の香爐かうろを供へ何いづれも豐島屋十右衛門と云ふ奉納ほうなふの銘めいあり是れ亦今以て存すと云ふ或日此豐島屋の店へ往來者大勢入り込み例れいの如く居酒を飮居たりしが其中に年の頃六十餘と見ゆる老人らうじん獨酌どくしやくにて一二合飮て其後代錢は拂ひたれども酒の醉ゑひ廻まはりしにや頻しきりに睡眠ねむり居たるが不圖ふと目めを覺さまし蹌踉ひよろ〳〵しながら一二丁程行し頃彼の老人血眼ちまなこになりて豐島屋の店へ立歸り最前我わが腰掛こしかけ居ゐたる邊を胡亂々々うろ〳〵と何やら尋ねる樣子なりしが側そばなる者に對むかひ私しは最前此所にて酒を飮のみ代錢は拂ひたれども心氣の勞つかれにて思はず暫時しばし居眠ゐねふり眼覺めざめて後此所を立ち出で途中にて心付懷中を見し處に大事の財布さいふを取落せり其の財布の中には命にも替難かへがたき金廿兩入置たれば若何方どなたぞ御拾おひろひ成れし御方あらば何卒御渡し下されよとほろ〳〵涙を飜こぼしながら申しける故在合ありあふ人々興きようを醒さまし我々は財布の樣なる物は一向見掛けずと云けれ共尚ほも五月蠅うるさく其處斯處そこここと尋ね廻りける故店みせの者共是を聞て此者は盜人か騙かたりならんと思ひけるにコレ爺殿おやぢどの貴殿おまへが二十兩と云ふ金を取落したるとや夫は夢ゆめにても見しならん萬一もし實まことに落したり共此所の店にては有まじ夫れは外を搜さがされよ斯かう見みた處が二十兩は扨置さておき二兩の金も持るゝ樣な人物ひとがらならずと散々に罵りければ老人は首かうべを振ふり然さう言るゝは道理もつともなれど其金子には仔細ありと云ふをも聞ず大勢の若い者此爺このおやぢめは我等が店へ難題なんだいを言掛る騙かたりなりとて一同立掛り打擲ちやうちやくして表へ突出つきいだしければ大聲揚て泣出なきいだし如何にも皆々疑はるゝは是非なけれど私しは搖ゆすり騙かたりをする樣な者にては決して之なしと種々いろ〳〵申し譯をなせ共皆々聞入れず早々立去べしと追遣おひやるにぞ老人は是非もなく〳〵涙なみだを拂はらひすご〳〵立歸らんとなしける處に此豐島屋の向うを立場たてばとして日毎ごとに出て居たる駕籠舁かごかきあり今日も此處にて往來の客を進め居たりしが今老人の突出つきいだされしを見て餘りの勞いたはしさの儘彼の老人を小蔭こかげへ指招さしまねき其許おまへは先刻さつき豐島屋にて酒を飮歸りし跡に何かは知ず木綿もめんの財布らしき物落て有しを店の若い者拾ひろひ取り何處どこへか隱せしを我等彼所かしこにて能く見屆けたり其品は正しく其許そのもとの財布ならん然され共今の如く其許おまへを打擲致す程の次第なれば今と成ては勿々なか〳〵直すぐ素直すなほには出すまじけれ共餘り其許おまへの勞いたはしさに此事を内々知せ申すなりと云ければ老人は是を聞て力を得え扨々御親切忝かたじけなし私しは本所松坂町に住む七右衞門と申す者なるが其金の譯と云ふは我等女房三年越の大病にて打臥うちふし居をり惣領の悴せがれは風眼ふうがんにて種々いろ〳〵療治致せ共當春よりとう〳〵兩眼共潰つぶれ何共詮方なく我等は老年に及びし上うへ重病人に掛りて商賣等も致さず益々困窮に迫せまり今日を凌しのぎ兼るより種々いろ〳〵工夫くふう致せ共外に手段もなきまゝ家内相談づくにて不憫ふびんながら一人の娘を吉原角町の海老屋えびやへ勤め奉公に賣渡し身の代金しろきん二十兩血の涙にて受取持歸る途中餘りの悲かなしさに胸むねの塞ふさがりしまゝ切せめてもの憂晴うきはらしと豐島屋へ立寄て一合飮しに心氣の勞つかれより我を忘れて暫時しばし睡眠ねむり不圖ふと目を覺さまし立歸りしに財布の見えねば南無三と取て返して探さがせし處只今の次第ゆゑ此上は親子三人飢死うゑじにより外なしと覺悟致せしと涙を拭々ふき〳〵語かたりければ駕籠舁かごかきは始終を聞きゝ彌々いよ〳〵氣の毒に思ひ此事に於ては我等證人と也申すべきにより急ぎ御奉行所へ願ひ出で申さる可べしと云にぞ七右衞門は最いと嬉うれしく直樣すぐさま彼の駕籠舁かごかき久七を同道して南町奉行所へ訴へ出でたりけり然されば訴訟所うつたへしよにて一通り尋ねの上うへ白洲へ呼び入れられ大岡殿出座しゆつざあつて七右衞門并に駕籠舁かごかき久七の申す旨むねを篤とくと聞れ其儘兩人とも留置とめおかれ急ぎ豐島屋十右衞門へ差紙にて早々罷出づべき旨達たつしられければ豐島屋にては大いに驚き何事ならんと主人十右衞門は心も心ならず急ぎ御番所へ出る處に早速さつそく白洲へ呼び入れられ大岡殿は十右衞門を見られ今日けふ其方店先みせさきに金子の落し物はなかりしやと尋ねらるゝに十右衞門は首かうべを上あげ私し儀今日他出仕つり只今歸宅の處へ御差紙に付留守中の儀は未だ承まはり申さず候間御尋ねの趣き罷り歸り店の者共を篤とくと吟味ぎんみ仕つかまつりし上うへ御請うけ申し上あぐべしと申しければ大岡殿願ひ人七右衞門并に駕籠舁かごかき久七を呼ばれ七右衞門の落せしと云ふ金子は如何樣の財布へ入れ置おきしやと問とはるゝに七右衞門は斯樣々々かやう〳〵の縞柄しまがらなりと其模樣そのもやうを委細ゐさい申し立てける時越前守殿大聲にソレ其者共を縛しばれよと下知に隨ひ同心立ち掛りて七右衞門久七の兩人を高手小手に縛いましめたり斯かゝりし程に兩人の者共大いに驚き是は何故なにゆゑと嘆なげきければ越前守殿呵々から〳〵と笑はれ盜人ぬすびと猛々たけ〴〵しとは汝等が事なり其金子は此間盜ぬすまれし者有て疾とくに此方へ訴へたり然るを知らずして訴へ出いでたる事是天罰てんばつなり依ては汝等其金を盜ぬすみしに相違さうゐなしソレ引立ひきたてよと申さるゝにぞ同心直樣すぐさま引立ひきたて假牢かりらうへぞ入れたりける其時越前守殿十右衞門に向はれ今其方承まはる如く右の金は盜ぬすみ物なり日々其方店へは大勢入り込む事こと故ゆゑ萬一落て有るまじき物にも非ず能々吟味致し今日中に申し出づべし捨置て若後日申し出るに於ては其罪そのつみ重おもく盜賊の同類どうるゐたるべし家内の者共屹度きつと穿鑿せんさくを遂とげ早々否いなやを訴へよと嚴敷きびしく申渡されしかば豐島屋大いに怖おそれ早々立歸り手代始め一同呼出よびいだし今日大岡樣斯々かく〳〵仰せ渡されたれば萬一右の金子を拾ひしものあらば隱さず申し出よと言渡しけるに若者のうちに一人發規はきと返詞へんじをせざる者ありしが稍やゝあつて此者申すは先刻掃除を致し候處隅すみに財布樣の物もの是有これありし故拾ひろひ置き候とて差し出せしかば改め見しに金二十兩入て有しに付十右衞門は早速奉行所へ持參ぢさんなし右の段申し立て財布を差出さしだしけるに越前守殿最初假牢かりらうへ入置れし兩人の願ひ人を繩付なはつきのまゝ再び白洲へ呼出され其方共訴へ出し財布は是これ成なるべしと渡され先に汝等へ繩なはを掛かけ盜人盜ぬすみ物と云し故夫なる豐島屋大に驚き騷さわぎ早速吟味行屆て其金を出したり然さも無ては押包おしつゝみ容易に出すまじと思ひし故ゆゑ斯かくは計はからひしなり偖々さて〳〵汝等窮屈きうくつに有しならん早繩はやなはを解免ときゆるし此金子を請取すべしと申渡されければ七右衞門久七の兩人は始めて其譯を悟さとり實まことに有難き仕合せなりと涙を流して喜びけり猶又大岡殿七右衞門を呼よばれ汝が證人駕籠舁かごかき久七は奇特きどくなる者ゆゑ渠かれが親切にて其金汝が手へ戻もどりしなり因ては二十兩の内十兩久七へ遣すべし其代りに汝が娘の勤め奉公の苦難くなんをば助け遣つかはさんコリヤ十兵衞と呼よばれし時十兵衞は始終の樣子を聞て大岡殿の頓智とんちに舌したを卷まき實まことに恐れ入て冷汗ひやあせを流し居たりしゆゑ急に答へも出いでず平伏するを大岡殿見られ其方知らざる事とは申ながら其金子そのきんすを押隱おしかくし置しは下人共の不屆にして其方平生の申付方行屆ゆきとゞかざる故なり因て下人共儀屹度きつと御仕置おしおきにも仰せ付けらるべき筈はずなれ共用捨致し遣す其代り七右衞門が娘むすめを早々其方請出すべし其上にて同人を其方そのはうへ屹度きつと預あづくる間吉原勤め年季ねんきだけは汝が方へ差置べし若此娘の儀に付異變いへん之有これあらば早速此方へ訴へ出いでよと申渡されければ七右衞門は此事を聞きくより彌々いよ〳〵有難く思ひ聲を揚あげて悦び涙に昏くれたりけり又豐島屋十兵衞は有難き仕合せ委細畏まり奉つるとて立歸たちかへりしが此事番頭始めへ相談に及びし處右の女を預あづかる儀ぎは迷惑めいわく千萬の事なり生物いきものの事故如何なる異變いへんあらんも量はかり難し然る時は又御咎おとがめの程も知ざれば請出せし上何分にも願ひ上て娘を親元へ引渡ひきわたすより外に了簡れうけんなしと評決して其段奉行所へ願ひ出でければ大岡殿聞屆られ親元へ相對に致すべき旨むね申渡されしにより其段豐島屋より親元へ掛合かけあひ猶又双方さうはうより伺うかゞひ濟ずみの上豐島屋より衣類其外殘る所なく支度して金子も幾干いくばくか相添七右衞門方へ娘を送りたり誠まことに孝心かうしんの餘慶よけい報むくい來て苦界くがいを遁のがれ駕籠舁かごかきの實意を以て此事早速裁許さいきよに相成り其上大岡殿の當意即妙たういそくめう七右衞門娘の悦び譬たとふるにものなしと此頃此儀專もつぱら評しけるとかや彼番頭久兵衞は己が盜みし金を大橋文右衞門へ言掛り此七右衞門は己が落おとせし金を言掛りなりとて打擲を請うけ其事柄ことがら相反すと雖も各自おの〳〵其邪正じやしやうを洞察みぬかれし裁許天晴明斷と言つべし


第四十五回


 扨又大岡越前守殿には文右衞門一件段々だん〳〵吟味ぎんみの末すゑ下谷車坂町六兵衞店たな藤助の兄弟を呼出よびいだされしかば久兵衞は彌々いよ〳〵絶體絶命ぜつたいぜつめいと覺悟かくごは爲するものゝ又何とか言拔いひぬけんと心に工夫くふうをなし居たり時に大岡殿藤助に向はれ其方は油屋五兵衞方へ何頃いつごろより奉公住ずみ致し又何頃いつごろ眼病がんびやうにて暇いとまを取とりしやと申さるゝに藤助私し儀は十六歳の時より五兵衞方へ參り七ヶ年ねん相勤あひつとめ候處昨年春中はるぢうより眼病を煩わづらひ勤つとめ兼かね候故ゆゑ七月中暇を取て宿やどへ下り居をり候と云ければ越前守殿其方歳としは何歳にして兩親又は妻なども有りやと尋ねらるゝに藤助私し年は廿二歳兩親は先年せんねん死去仕しきよつかまつり妻も御座なく只今たゞいまは妹いもとの世話に成なり漸々今日を暮くらし罷り在候と申すを越前守殿聞れ夫れは不審ふしんの事なり妹の手一ツにて今日を暮すと申せども渡世は何をして居るや但たゞし又妹が人の世話せわにでもなりて居るかどうぢや其方主人方の番頭久兵衞は汝が處へ常々つね〴〵出入でいると申すが全く然樣さやうか公儀かみにては能よく御存知なるぞ僞るに於ては其方の爲に相成ず明白に申立よと有りしに藤助は大おほいに恐れ私し儀ぎ久々眼病にて甚だ難澁なんじふ仕つり今日を暮くらし兼かね候ゆゑ妹の民こと番頭久兵衞の世話に相成あひなり右にて今日を過すごし居り候と云ければ越前守殿成程然さもなくば女の手一ツにて暮くらしの立たつ筈はずはなし而して又去年十二月中旬に久兵衞より何ぞ預りたる物はなきやと問とはるゝに藤助は少し考かんがへ其儀そのぎ私しは聢しかと辨わきまへ申さず妹民へ御尋ね願ひ上奉つると申せしかば越前守殿お民に向むかはれ其方は久兵衞より何なにか預あづかりたる物はなきやどうぢやと尋ねらるゝにお民は先刻せんこくより慄ふるへ居たりしが漸々やう〳〵面おもてを上あげ去年の暮くれ十三日に久兵衞さんより百兩の金子を私しへ渡わたされて是れは手前てまへに遣つかはすにより何にても買求かひもとめよとて貰もらひましたと申立ければ久兵衞傍かたはらにて是を聞きゝコリヤお民たみ己れは跡形あとかたもなき事を云ふ女なり何時いつ己おれが手前に百兩などと云ふ大金を預あづけしやコレ宜加減いゝかげんに虚うそを吐つけと恐ろしき眼色にて白眼にらみ付けるを大岡殿見られコレ〳〵久兵衞當所を何と心得居る虚實きよじつは此の方にて聞分きゝわけるぞ爰こゝな横道者わうだうものめと大聲に叱しかられしかば大膽不敵の久兵衞も威光ゐくわうに恐れ一縮ひとちゞみと成て控ひかへ居るに大岡殿コリヤ民其方久兵衞より貰もらひし百兩は如何致せしやと有りければお民は久兵衞の方かたを見ながら右の金子にて櫛くし簪かんざし又正月着ぎの小袖帶おびなど種々いろ〳〵拵こしらへ兄藤助にも着物きものを調とゝのへて遣はしましたが未だ餘程よほど殘のこりをりますと申すに越前守殿コリヤ久兵衞今其方も聞きく通とほり己おのれが世話せわをして置おく女が暮くれの十三日に百兩の金を貰ひて種々いろ〳〵品物しなものを求めたりと申すではないか其の百兩の金子は如何いかゞして所持しよぢせしや主人の金を盜ぬすみ取り無證據なりとて文右衞門に塗付ぬりつけんと巧たくみしに相違あるまじ不屆至極ふとゞきしごくの奴なり汝は一年何程給金きふきんを取て居るや其金盜ぬすまざれば何方いづかたより出したる金子なるや明らかに白状せよ斯程かほどに證據のある事を何時いつまで陳ちんじ居るぞ未練みれんな奴ぢやと申されしかば久兵衞はお民を發打はつたと睨ねめつけヤイ爰こゝな恩知らずの畜生女ちくしやうをんなめ百兩の金かねを此久兵衞より預けし覺おぼえはなし何時いつ預けしや能よく了簡れうけんして見ろ己おれは夢ゆめにも知らぬ事をべら〳〵喋しやべりをると然さも恐ろしき顏色にて睨付ねめつけければお民も今更一生懸命に泣聲なきごゑを出し久兵衞さん御前こそ虚うそを御吐おつきなさる私しは御奉行樣より有體ありていに申せとの仰せ故包つゝまず申上るのさ決して私しを恨うらんで下さるな御前は主殺しゆころしの上うへ夜盜よたうをしたとか言ふ事迚とても命は助からぬから男らしく正直しやうぢきに白状して御仕舞おしまひなオイ久兵衞さん私しとても御前の恩は忘れはせぬが公儀おかみを僞るは恐おそろしいゆゑ正直に申上ます必らず恨うらんで下さるなと云ふに久兵衞最早もはや仕方しかたなしとは思へ共猶強情を張はつて居るを大岡殿コリヤ久兵衞是れにても己おのれは白状せぬかと云るゝに久兵衞は左右とかくに伏せず一向かう覺おぼえ御座りませぬと申ければ大岡殿聲高こゑだかに扨々汝おのれは強情なる奴かな然らば猶なほ又また引合ひきあはする者あり彼の者是れへと申さるゝに同心ハツと答へて馬喰町二丁目八十二軒組武藏屋長兵衞方旅人後藤半四郎這入はひりませいと呼込よびこむに久兵衞は是を聞きいて大いに驚き色いろ蒼然あをざめて控ひかへ居たり時に後藤半四郎は今日けふ呼出よびだしに付先刻より呼込よびこみあるを今や〳〵と待兼まちかねたるゆゑ直樣浪人臺へ罷り出いで一向容體なりふりにも構はず控へたり然されば久兵衞は半四郎を見て彌々驚き眼を閉とぢ頭かしらを下げて居けるに大岡殿如何に半四郎渠かれの證據を申立よと云れしかば後藤は久兵衞を見るや否いなや忽ち怒り心頭しんとうに發はつしヤイ久兵衞汝おのれは大膽不敵の惡黨あくたうなり先年三島の一件を打忘れ益倍ます〳〵惡心増長して今度大橋文右衞門へ百兩の云懸いひかかりをせし事言語同斷ごんごどうだんの曲者くせものなり汝おのれ是を盜み取て文右衞門に負おはせんとの惡巧わるだくみ又主人五兵衞が悴五郎藏の嫁よめに不義を仕懸しかけしゆゑお秀は耐兼たへかねて逃出にげいだしたるを却て親おや夫をつとを見捨みすてて出いでし女には持參金道具類とも返す事はならずなどと汝一人の取計とりはからひにて引止置ひきとめおき渡さざるは皆横領せんの巧たくみならん爰な大惡人めと白眼にらみ詰つめしが大岡殿へ向ひ某し儀當年より十八ヶ年以前劔術の師なり養父なりの後藤五左衞門と申す者もの諸國修行しよこくしゆぎやうに出し所上州大間々にて病死仕り候砌みぎり早速同地へ罷り越こし師父の追善つゐぜんを營いとなみ其後罷り歸り候節中仙道熊谷土手にて越後浪人新藤市之丞と申す夫婦の者もの惡漢わるものに取卷とりまかれ難儀致し候を見るに忍びず某がし惡黨あくたうを追散おひちらし夫婦を救ひ夫より熊谷宿寶珠花屋八五郎と申す旅籠屋はたごやへ止宿致し市之丞疵きず養生致させ候處江戸表へ罷り出度いでたき由よし申候に付右八五郎兄なる江戸馬喰町二丁目武藏屋長兵衞方へ彼夫婦かのふうふの者を送り屆とゞけ猶少しの手當てあてを遣はし夫婦の身分を長兵衞に頼たのみ置おき某しは國表丸龜へ立歸り候節東海道戸塚宿より江州商人と申す者道連みちづれに相成其夜三島宿の長崎屋と申す宿屋へ止宿仕つり候所夜中に至りて右みぎ連つれの男某がしが寢息ねいきを考へ所持の金子を盜み取んとするにより引捕ひきとらへて金子は取り返し以來心を改めよとてよく〳〵異見いけんを差加さしくはへ候節宿屋の者共馳來はせきたりて渠かれが片小鬢かたこびんの毛を拔取ぬきとり入墨いれずみを致せしに付猶又渠かれ惡心出いでしなら水鏡みづかゞみなり共移うつして改心せよと申し含ふくめ逃し遣はせし奴は即ち是なる久兵衞に御座候然るに某し儀ぎ此度このたび江戸表えどおもて見物けんぶつとして長兵衞方へ止宿仕まつり候處折節長兵衞弟熊谷宿寶珠花屋八五郎も出府致し居をり面會仕めんくわいつかまつり候に同人娘儀江戸下谷山崎町油屋五兵衞悴五郎藏と申すものゝ方へ縁付えんづき候へども家内不熟ふじゆく且かつは此久兵衞事嫁の秀へ不義を仕懸候趣きにて右秀儀里方さとかたへ逃歸り候に付據よんどころなく離縁仕つらんと掛合に及び候處是なる久兵衞一人不當のみを申募つのり持參金道具代は勿論親亭主に暇ひまを呉くれ候女に離縁状は出し申さゞる由を申して一向かう取合とりあひ申さず依て秀親八五郎歎なげき候間不便に存じ某し油屋五兵衞方へ掛合かけあひに參り候に豈あにはからんや番頭久兵衞と申すは先年三島宿にて一旦たん取押とりおさへたる騙子ごまのはひなれば渠かれも驚きし樣子にて大いに恐れ早速離縁状は差出さしいだし候へども右の通り素もとよりの惡漢わるものゆゑ是まで如何樣の惡事を爲なせしやも計り難し此度浪人文右衞門の一件も久兵衞が仕業しわざに相違さうゐ是これなきやに存じられ候間何卒御糺明きうめいの上うへ文右衞門出牢仰せ付られ候樣願ひ奉つると事こと明細めいさいに申立ければ越前守殿聞置たりとのことにて如何に久兵衞白状せぬかと申さるゝに久兵衞は差俯向さしうつむきし儘まゝ一向かう無言むごんなれば半四郎は堪こらへ兼かねヤイ久兵衞某し罷り出いづる上は如何程陳ちんじても役やくには立ぬ有體に白状して仕舞しまひ言いはざるに於ては此半四郎が目に物見するぞと白眼にらみ付つくるに久兵衞はハツと平伏ひれふせしが最早此の上は是非なしと思案を極きはめ漸々やう〳〵に首かうべを上あげて文右衞門に申しかけし百兩の金きん實は己れが盜み取て藤助妹へ遣はしたる始末等殘らず白状に及びしかば是に於て久兵衞は口書こうしよ爪印つめいん申付られけり是即ち幕府ばくふの規則きそくにして假令たとへ如何樣に證據物等之有これあり其者の惡事あくじ判然はんぜんたりとも當人の口より白状に及ばぬ中は爪印つめいん申付られぬ事なり然されば斯樣かやうに念ねんを入て吟味を詰つめらるゝとかや


第四十六回


 然程さるほどに久兵衞は口書爪印と成なりけるゆゑ大橋文右衞門は出牢申付られしかば去年十二月より今年三月まで概略およそ四ヶ月の間あひだ無實むじつの難に苦くるしみしも天日明かにして終に其濡衣そのぬれぎぬを干ほしければ當人は申に及ばず女房お政の歡喜よろこび言ん方なく迅速すみやかに腰懸まで迎ひに來り是偏へに御奉行の明斷に因よる所なりと白洲の方に向ひて頻しきりに伏拜ふしをがみ嬉うれし涙に昏くれたりけり時に後藤半四郎は再び大岡殿に向ひ恐れながら某し御奉行樣へ願ひ上あげ奉つり度たき儀御座候右は先刻申上し寶珠花屋八五郎娘秀離縁の儀に付油屋久兵衞方より持參金并びに道具類等だうぐるゐとう未だ返し呉くれ申さず候間何卒なにとぞ御威光ごゐくわうを以て右の金子道具共殘らず相渡し呉くれ候樣の御沙汰成下なしくだされ度たく此段偏に願ひ奉つると申ければ大岡殿點頭うなづかれて直樣すぐさま八五郎を呼出よびいだされ其方娘を五兵衞方へ縁付えんづけし處今度離縁りえんに及びたれども未だ持參金道具類を請取うけとらざる由よし持參金の高たかは何程なるや申し立べしと有に八五郎は何事なるやと思ひしに斯かゝる尋ねなれば意外に喜び娘が持參金は百兩に御座候と申立ければ大岡殿五兵衞を見みられ其方は嫁よめ秀ひでを離縁りえんに及びし處未だ持參金道具類とも返さざるよし不埓ふらちなり今日中に殘らず返すべし持參金を切金などには相成ぬぞ此段屹度きつと申渡すぞと嚴敷きびしく申付られたり因て五兵衞は爲術せんすべなく畏まり奉つるとて夫れより一同腰懸こしかけへ下さがり五兵衞は八五郎に向ひ今仰せ渡されの儀ぎは何卒持參金ばかりにて勘辨かんべん致し呉くれられよと申ければ側そばに聞居たりし後藤半四郎は進みより否々いや〳〵道具類とても決して勘辨相成ず彼是云て埓明らちあけずは貴樣が嫁よめのお秀へ毎夜々々不義を仕懸し始末を申立て御吟味ごぎんみを願ふべしと云ふに五兵衞は甚だ赤面せきめんなし夫れは如何にも迷惑めいわく仕つるにより其處そこはどうかと申すを半四郎は否々いや〳〵底そこも葢ふたも入いらぬ彼是云るゝなら御吟味を願ふ而已のみなりと云ければ五兵衞は殆んど爲方せんかたなく然さあらば取揃とりそろへて御返し申すべしと云ふに半四郎夫れは云ふまでもなし急度きつと返さば其儘そのまゝ若もし今日中に返さざるに於ては又候訴へんと嚴敷きびしく云ふゆゑ五兵衞は終に金百兩并びに諸道具とも戻もどしけるとなり右相談の濟すみし頃大岡殿又々一同どう呼込よびこまれコリヤ五兵衞其方が久兵衞に盜ぬすまれたる三百五十兩は其儘そのまゝ汝へ下さげ遣はす併しかし召仕ひ久兵衞を盜賊と知ず差置さしおき浪人文右衞門へ無實の賊名ぞくみやうを負おはせんと云懸りたる其罪甚だ輕かるからず是に依て文右衞門へ詫金わびきん百兩遣はすべし尤も改めて猶申渡すで有う然樣さやう心得よと有るに是又五兵衞は是非なく發はつと平伏して仰せ畏まり奉つると申すに大岡殿は後藤へ向はれ半四郎右の詫金わびきんは其方へ取立方とりたてかた申付る間五兵衞へ懸合かけあひに及び受取次第文右衞門へ相渡し申すべしと云れ夫れより又文右衞門を呼れ右詫金みぎわびきん百兩を其方請取うけとらば長八が娘の身請をなし親元へ歸すべし殘り金の儀は其方存じ寄より次第しだいに致せと申されければ文右衞門は有難く畏まり奉つる旨むね申すに又大岡殿は下谷車坂町六兵衞店たな藤助と呼よばれ其方儀久兵衞より預あづかり置おきたる百兩の金子は殘り何程是これあるやと尋ねらるゝに藤助恐おそれながら私し儀困窮こんきうの身分に付つき借錢等相拂ひ當時三十五兩殘り有り候と申を大岡殿聞れ然しからば其金三十五兩は公儀かみへ御取上になるぞ然されども藤助能よく承はれ右の金子は元もと不正の金ゆゑ不足の分まで殘らず御取上に相成る筈はずなれ共其方永々の眼病にて盲人まうじん同樣に付格別かくべつの御慈悲を以て殘金三十五兩だけ御取上に相成る間有難く存ずべしと申渡され此日は一同どう下さげられけり扨翌日七日の差紙にて一件關係かゝりあひの者一同呼出され落着とぞ相成ける是これ享保五年三月七日なり時に大岡越前守殿白洲しらすに出座有て申渡し左の通り

下谷山崎町
家持
五兵衞

其方儀盜賊たうぞくとは知しらざるとも召使めしつかひ久兵衞へ家業向かげふむき打任うちまかせ候により浪人文右衞門へ難儀なんぎを掛かけ候段重々不埓ふらちに付屹度きつと咎とがめ申付べきの處格別かくべつの御憐愍ごれんみんを以て御沙汰之これなき間文右衞門へ詫金わびきん百兩遣はすべし

下谷車坂町
六兵衞店
藤助

其方儀久兵衞を盜賊たうぞくと知らずと雖も不正の金子を預あづかり置事おくこと不屆に付屹度きつと咎とがめ申付べきの處格別かくべつの御憐愍を以て過料錢七貫文申付る

右
藤助妹
たみ

其方儀兄藤助眼病中孝養かうやうを盡し候段奇特きどくに思おぼし召めされ御褒美ごはうびとして青差あをざし五貫文下くだし置る有難く存ずべし

馬喰町二丁目
武藏屋長兵衞
同人方旅宿
浪人
後藤半四郎

其方共儀新藤市之丞外萬事世話せわ致し候段神妙しんめうに思おぼし召めされ御褒美として白銀十枚ヅツ下し置る有難く存ずべし

馬喰町二丁目
前名新藤市之丞
當時屑屋
長八

其方儀先年の恩義を忘れず文右衞門へ金子きんす返報へんぱう致し候志操こゝろざし神妙しんめうに思し召れ御褒美として青差五貫文下し置る有難く存ずべし

新吉原江戸町一丁目
玉屋山三郎代
彦助
淺草田町
喜き六店たな判人はんにん
利兵衞

其方共儀長八娘むすめ身受みうけ相談さうだんの儀は公儀かみに於ても孝心を御賞し有るに付つき利欲りよくに關かゝはらず深切しんせつに懸合かけあひを遂とげ遣はすべし

屑屋くづや
長八娘
かう

其方儀親孝行の段奇特きどくに思し召れ御褒美として白銀はくぎん五枚まい下くだし置おかる有難く存ずべし

元油屋五兵衞
召仕めしつかひ
久兵衞

其方儀主人の金子を盜み取とり剩あまつさへ主人悴五郎藏を殺害致し候段重々不屆に付江戸中引廻しの上うへ淺草に於て磔はりつけに申付る

右みぎ相濟あひすみ屑屋長八は娘お幸の戻もどりしを喜び頓やがて聟むこを娶とりて小切店に商賣替しやうばいがへをなし家内益々繁昌はんじやうしけるとぞ又大橋文右衞門は心懸こゝろがけ天晴あつぱれなる者に付つき目を懸かけ遣つかはすべきの由奉行所より町役人へ内意も之有これありし旨むね古主こしゆ松平越後守殿へ聞え早々歸參となり元知もとち五百石に復し物頭役申付られ忠義を盡しけるとなり其後此一件落着の趣おもむき越前守殿より將軍家へ言上の砌みぎり後藤半四郎の噂うはさを申上られしかば其者の武藝ぶげいを試こゝろみんとの上意にて半四郎を吹上ふきあげへ召出めしいだされ御旗本十八人まで劔術試合を仰せ付けられ八代將軍吉宗公上覽じやうらん有し處後藤に敵する者一人もなく皆々打負うちまけければ將軍家殊ことの外御賞美有て新知二百石下し置れ御旗本に御取立おとりたて相成ければ半四郎の喜よろこび譬たとふるにものなく是より後藤喜三郎秀國と改名して忠勤ちうきんを勵はげみ家いへ富榮とみさかえけるとなん


後藤半四郎一件終

松田お花一件

松田まつだお花はな一件いつけん


第一回


 爰こゝに備前國びぜんのくに岡山御城主高三十一萬五千二百石松平伊豫守殿いよのかみどのの藩中はんちう松田喜内まつだきないと云ふ者有あり代々岡山に住居ぢうきよせしが當時の喜内は壯年さうねんなるに兩親を亡うしなひ未だ妻をも娶めとらず獨の妹お花と云るを家に養ひ置纔わづかに兄弟二人の家内にして祿高ろくだか五百石をを領し外に若黨わかたう二人下婢げぢよ一人中間小者共主從九人の暮くらしなり扨此喜内は學問を好み軍學武藝にも達し物堅がたき生質せいしつなれば諸方より妻を勸すゝむる者あれども妹を他へ縁付えんづけざる中は迎むかへ難し殊に我等未だ三十にも足ざれば急ぐにも及ばずとて請引うけひかざるにぞ當時の若者には珍敷めづらしき人也なりと一家中譽ほめざる者は無りける又妹お花と云は當年十六歳にて容顏ようがんの美麗びれいなるは我朝の小町唐土もろこしの楊貴妃やうきひをも欺くべく然らば同家中は素より岡山中に双ぶ女は有まじと評判高かりければ是又諸方より嫁よめに貰もらはんと云者最いと多けれども兎角喜内が心に適かなはず宜よきに挨拶あいさつして打過ける茲に喜内の若黨わかたうに吾助と云者有しが此お花を深く思ひ初主人の妹とは知ながら折々可笑をかしき想振そぶりなどして袖袂たもとを曳ひきけれども此吾助元來醜みにくき男にて勿々なか〳〵お花が相手になるべき器量きりやうならず殊に若黨なれば尚更請引うけひく樣もなければ只一人胸むねをぞ焦こがしける然るは其頃同家中に高五百石を領す澤井佐太夫の次男に友次郎といふ者あり當年十九歳にて古今無双の美男なりしが早晩いつの程にかお花と割わりなき中となり喜内が當番たうばんの留守の夜などには竊ひそかにお花が閨ねやに忍び來り語らう事も稀に有しかば彼の若黨の吾助は此樣子を覺り口惜き事限りなく彌々いよ〳〵胸を苦しめて居たりけり斯て或夜の事喜内は當番にて留守成しかば例の如く友次郎はお花の部屋に忍び來りしを吾助は聢しかと見濟みすまし此由を御殿へ行て旦那へ申上二人の不義ふぎを顯あらはし日來ひごろの無念を晴し呉れんと直樣すぐさま御殿へ走り行き只今急用きふよう有て參りたり早々喜内樣に御目に懸かゝりたしと云入けるに頓やがて喜内は何事成哉と立出るを吾助は待兼まちかねて聲を密ひそめ御令妹おいもとごお花樣御事豫かねて澤井友次郎殿と不義成れし事私し存じ居候へども確たしかなる事を見ねば旦那樣の御耳おんみゝにも入難いれがたしと存ぞんぜし處今宵も御當番の御留守を窺うかゞひ友次郎殿事お花樣の御部屋おへやへ忍び來られたり此事確たしかに見屆け候故御注進ちうしん申上候と云ければ喜内は騷さわぎたる體ていもなく吾助其方供ともを致せと云ながら直樣すぐさま自宅に立歸りお花が部屋に直つと這入はひればお花はハツト仰天ぎやうてんして友次郎を夜着よぎの中に手早く隱かくし側そばに有し友次郎が脇差わきざしを引拔て兄上御免おゆるし下されと云より早く咽喉のんどにグサと突立つきたてんと爲るを喜内は手早く押止おしとゞめ其方は豫かねて出家の望み有て相州鎌倉なる尼寺あまでらへ參り度心願しんぐわんの由夫故豫かねて我に暇いとまを呉よと申せしを今迄は許ゆるさゞりしが夫程迄に思ひ詰つめし事なれば止とめたりとも止るまじ因て只今身の暇いとまを遣つかはすべし其方出家しゆつけ致すからは此以後對面たいめんは叶かなはぬぞ然さりながら女の身にて遠路の處身を衞まもる者なくては叶はずと云ながら彼かの友次郎が脇指わきざしをお花に渡し此脇指を肌身はだみ離はなさず何事も相談して怪我けがなき樣に暮すべしと懷中くわいちうより二包ふたつゝみの金子と藥の入し印籠いんろうを取出し是は纔わづかながら兄よりの餞別せんべつなり二品を持て早々出立せよと云つゝ其儘そのまゝお花が部屋を立出ればお花は元より友次郎も夜着の中より喜内が後影うしろかげを伏拜ふしをがみ頓やがて兩人は支度をなし二包ふたつゝみの金と藥を押戴おしいたゞきて懷中に納をさめ何方を當と定め無れど見咎みとがめられては一大事と鼠竊々々そこ〳〵に岡山を立退たちのきけり偖さて喜内は翌日になり私しの妹花と申者豫かねて出家遁世しゆつけとんせいの望のぞみ有之に因より止事やむことを得ず昨夜身の暇いとまを遣はし候と太守へ屆け出ければ夫にて事故なく濟すみけるが濟すまぬは彼の若黨吾助胸にて二人の不義の樣子を現在に見屆ければ必定ひつぢやう物堅がたき喜内の事故二人共に手討に爲なすべし然れば是迄の無念むねんも晴はれるなりと思ひて告たりしに案に相違の喜内が計ひ金迄持もたせ落おとして遣やり其上喜内よりの申聞にはお花事は豫かねて出家の望み有により暇を遣せしなり夫を不義者などと申觸ふらせし段不埓ふらち千萬なりと大いに叱しかられしゆゑ吾助は喜内の心を知らねば片贔屓かたひいきなる仕方しかたと深く喜内を恨うらみつゝ此返報このへんぱうは今に思ひ知すべしと爰に於て喜内を殺し恨みを晴さんとの惡念あくねん芽きざしけるこそ恐ろしけれ斯て吾助は好よき機をりあれかしと隙ひまを窺うかゞひけるに喜内は何事も愼み深く其上武術に達しければ憖なまじひに手出を成なして仕損じては一大事と空敷むなしく半年餘りを過しけるが或時喜内は不圖ふと風邪ふうじやに冒をかされて臥ふしたるに追々熱氣強く十日餘りも床に着ければ其間若黨二人一夜代り〳〵に次の間へ打臥うちふし夜中の藥を煎せんじなどしけるが今宵は吾助の番に當りて例の如く次の間に寢て居たりしに喜内は熱氣ねつき少し薄うすらぎたるにや其夜は心快こゝろよげにすや〳〵と眠れる樣子なれば吾助は心に思ふ樣今喜内殿病に疲つかれ眠ねむりたるなれば假令たとへ寢首ねくびを掻かく共とも正體は有まじ豫ての怨みを晴すは此時なりと常に案内知たる事なれば先まづ納戸なんどへ到いたり喜内が衣類と金子二百兩を取出し一包にして夫より密そつと雨戸一枚を外し置おき件くだんの包を飛石とびいしの上に置徐々そろ〳〵下おりて庭口と門の扉とびらを開き迯にぐる道を補理こしらへ置おきて元の座敷へ歸り喜内が寢息ねいきを考ふるに喜内の運の盡にや有けん正體もなく能寢入り居るにぞ吾助は心に歡よろこび用意の刀を拔放し喜内が寢たる上に打跨うちまたがり言ものをも云ず柄つかも徹とほれと咽喉のどもとを刺貫さしとほせば喜内はアツと聲を立しが元來物に動ぜぬ人なれば心を鎭めて考ふるに咽のどに貫きし刀の刄右の方を向て有し故左りの方へ跳起はねおきて枕元に有し短刀を拔き汝おのれ曲者御參なれと切て掛れど病に疲つかれし上痛手いたでをさへ負たれば忽ち眼め昏くらみて手元の狂ひし故ゆゑ吾助が小鬢こびんを少し切しのみ尻居に撞どうと倒れたり吾助は切付られてハツと駭おどろき迯にぐる機會はずみに行燈あんどうを蹴返けかへして暗がりと成ければ此所ぞと滅多切めつたぎりに斬散きりちらしける程に喜内は左の手を切れたり茲に於て喜内は是非なく聲を立て皆々出會々々であへ〳〵と云程こそあれ吾助は見咎みとがめられては一大事と豫て拵へ置たる迯道にげみちより彼の一包を携たづさへて何處いづくともなく迯失にげうせけり其後へ若黨下部等は喜内が聲を聞付て走り集りしが行燈は消て闇がりなれば狼狽うろたへ廻り漸々やう〳〵に灯ひを燈ともし見るに是は如何に主人喜内は朱に染て俯臥うつふしに倒れ居るにぞ皆々仰天して抱いだき起し呼生るに暫くして喜内は息を吹き返し有し樣子を委敷くはしく物語り重て若黨の忠八と云ふ者を側そば近ちかく招き寄汝は我が方に幼少より勤め魂たましひをも見拔し故申殘すなり我吾助を一打に爲んと思ひしに眼め昏くらみたれば纔わづかに小鬢こびん少しを斬剥きりそぎしのみ取り迯したる段殘念千萬也なり我死なば右の由明白に太守へ訴へて家財殘らず相改め請取の役人中へ引渡すべし其節そのせつ見苦敷みぐるしき振舞ふるまひ無き樣皆々へ申付よ又具足櫃ぐそくびつの内にある貞宗の短刀と用金五百兩の内二百兩は汝預かりて何卒國々を廻りて妹お花に遣つかはし呉くれよ又百兩は右の路用として汝に遣つかはすなり殘りの二百兩は汝を始め下人共一統に遣さん間あひだ配當はいたうすべし此旨我遺言ゆゐごんなりと役人中へ申達し麁忽そこつなき樣に致すべしと云を忠八は涙と倶ともに聞終り御意の旨委細ゐさい畏かしこまり奉つり候お花樣には屹度きつと御目に懸り此二品を御渡し申御遺言の旨趣おもむきも御傳へ申すべし然れど敵かたき吾助未だ遠くは參るまじ追止おひとめて恨みを報ぜんと刀かたな追取おつとり立上るを喜内は待てと呼止よびとめ今汝なんぢ追行おひゆく共とも最早もはや時刻じこくも移りたれば其甲斐有るまじ汝其志操こゝろざしあらばお花に廻り逢あひし上我わが無念を晴し呉くれよと云うを此世の名殘にて廿八歳を一期とし終に果敢なくなりければ最早もはや歎なげきても詮せんなしと忠八は主人の遺言ゆゐごんの趣きを下人共に委細に告倶々とも〴〵に喜内が死骸を夜着の内に納をさめ其由目附役迄めつけやくまで訴へ出ければ早速檢使入り來りて死骸を檢あらため忠八より遺言の趣きを委細くはしく聞て立歸りし後のち種々いろ〳〵評議ありしに當時喜内に親類もなく子は猶更有ねば是非なく家斷絶に及びけり因て忠八は遺言ゆゐごんの通り家財殘らず太守へ差上貞宗の短刀たんたうと金五百兩のみを殘し置其中金二百兩は下女下男五人へ旦那の紀念かたみなれば何迄いつまでも御恩を忘れず御回向ごゑかう申せと云ひ聞せて配分はいぶんしければ皆々涙なみだながらに押戴おしいたゞき散々ちり〴〵にこそ出行けれ夫より先に忠八は喜内の死骸を寺院に葬はうむり石碑せきひを建て回向料ゑかうれうなど厚あつく寄附し萬事手落なく濟すませければ下人共を下たる跡にて明朝屋敷を引拂ひ候旨屆け出其翌朝よくてう件くだんの二品を腰に付泣々岡山の城下を立て或松原に差掛りしが此方の松蔭まつかげより黒き頭巾づきんにて面おもてを隱せし一人の侍士さぶらひ四邊あたりを見廻し立出て忠八暫しと云聲こゑに驚き見返みかへれば彼の侍士が黒き頭巾を脱ぬぐを能々見るに澤井友次郎の父佐太夫なりしにぞ忠八は再び驚おどろきて一禮れい成なせば佐太夫も會釋ゑしやくして此方へと云て以前の松蔭まつかげへ連行つれゆき扨も此度喜内殿の横死わうし嘸々さぞ〳〵愁傷しうしやうならん其方も知て居らんが友次郎の事に付ては大恩の有る喜内殿故某それがしも早速參り御世話も致す可べき筈なれども世の義理ぎり有あれば思ひながら打過にせしが扨今朝其方が出立と聞及びて最前さいぜんより此所こゝに待居まちゐたりしなり友次郎事は勘當かんだう致せし者故某しより何も助言じよげんは致さねども喜内殿の大恩を思はゞお花殿に力を添そへ敵かたき吾助を討取べしと其許心付れしならば其由悴に告て給るべし又此金子は纔わづかながらお花殿へ進しんじ申度とて金二百兩の包を出し外に金五十兩是は其方が路用ろようの足に致すべしと二包の金子を渡せば忠八は其志操こゝろざしを感心し主人しゆじん末期まつごに及びお花殿へ紀念金かたみきんとして二百兩預かり居候へば是にて事足ぬには有まじけれど折角の御志操こゝろざし故私し御預り申屹度きつと御屆け申すべし又友次郎樣へも只今の御言葉ことばは私しの存じ寄も同樣に御座候へば憚はゞかりながら御助言ごじよごん申上候はん然されども私し事は主人より路用として數多の金子を貰もらひ請て候へば御思召おぼしめしの程は重々ぢう〳〵有難く存ずれども此金子は返納へんなふ仕つりたしと云を佐太夫は押返おしかへし夫しきなる僅わづかの金子を彼是と云れては却かへつて痛み入なり平に受納うけをさめらるべしと種々さま〴〵に云ければ忠八今は辭じし難がたく二包の金子を押戴おしいたゞき然さらば是にてお別れ申さんと云を佐太夫も止め兼かねて呉々くれ〴〵も首尾能しゆびよく本望ほんまうを遂目出度歸國有べし猶もお花殿の事頼み入と茲に佐太夫忠八の兩人は涙ながらに別れけり


第二回


 然程さるほどに忠八は岡山の城下外はづれなる松原にて澤井佐太夫に別れ何を當と指て行べき方も無れど先京大坂は繁華はんくわの地なれば若もしやお花樣御夫婦の彼處かしこに止まり給はんも圖り難し彼是と思はんよりは先まづ大坂へ登のぼり夫より京都と段々だん〳〵尋ねんと吉備津浦きびつのうらより便船びんせんせしに日々追手風おひてかぜ打續き十日目にて大坂川口へ着船ちやくせんしければ夫より大坂に足を止め日毎に新町道頓堀だうとんぼり或は順慶じゆんけい町の夜見世など人立多き所に行てはお花夫婦并に吾助が所在ありかを尋ね探さがせども是ぞと思ふ手掛りも無なく斯て在事あること二百日餘りに成しかば最早もはや大坂にては有まじ京都に行て尋ね見んと其夜伏見登のぼりの船に乘て翌朝伏見に着せしが此處も繁華はんくわの土地なればとて三日程ほど逗留とうりうして尋ぬれ共夫ぞと思ふ人もなく然らば京都へ登のぼらんと此處を立出三條の龜屋と云る旅籠屋はたごやに宿やどりしに當所は大坂と違ひ名所古跡も多く名にし負おふ平安城へいあんじやうの地なれば賑しきこと大方成ならず祇園ぎをん清水きよみづを始として加茂北野金閣寺其外遊所いうしよはもとより人立繁しげき方へ行ては尋ぬれども此處にも更に手掛りなく彼是と半年ばかりも暮しける中うち或日雨あめ強つよく降ふりて流石の忠八も此日は外へも出ず宿屋に一人徒然つれ〴〵に居たりしに此家の亭主出來いできたり偖も折惡敷をりあしき雨天にてお客樣には嘸かし御退屈ごたいくつ成ならんと下婢げぢよを呼よび飪にばなを入菓子など出して待遇もてなすにぞ忠八も折柄をりから宜よき咄相手はなしあひてと種々の物語をなしけるうち亭主申けるは一昨年の夏なつ祇園祭ぎをんまつりの時にて候ひしが私し方へ年頃としごろ廿歳ばかりの男と十六七の女中の御武家方ごぶけがたと見ゆる人と祭まつり見物に登られ二夜泊りて歸られしが其日の晝頃ひるごろ立戻られて大切の印籠いんろうを忘れたれば何とぞ吟味致し呉くれよと云いはれし故座敷々々を殘らず尋ぬれども一向かうに知しれ申さず尤も祭の時分なれば客人多く私し方ばかりにて五十人餘よの相客あひやどなれど若や先へ立れし人が間違まちがひられ荷の中なかへ入て行れしも圖はかり難し氣の毒ながら私し方には之なしと申せしに夫婦の衆しうは大に力を落されあの印籠は大恩ある人より紀念かたみ同樣どうやうに貰ひし品なれば失ひては濟難すみがたし然りながら忘れて立しが此方の過あやまちなれば是非もなしと悄然しほ〳〵として立れたり扨其後二日程ほど過すぎて右の印籠を下女が座敷の袋戸棚ふくろとだなより見付出し候が然ればとて何處の何某なにがしと云いふ御人なるか聞ても置ねば御屆け申べき便たよりもなし併し言葉遣ひは中國筋の御人と見請たれば其後は中國ちうごく言葉の御客と見る時は若や斯樣かやうの人は御存じ無なきや御逢成る事も有らば其の節取落とりおとされし印籠は私し方に確にお預あづかり申置候へば此由を御通じ下くださる可べしとお頼み申せしが今に知しれず餘り雲を掴つかむ樣やう成なる御頼み事也なりとて呵々から〳〵と笑ふを忠八は倩々つら〳〵聞て何やら其樣子は友次郎御夫婦に似にて其上印籠を紀念かたみ同樣どうやうと云しも謂れ有ある筋すぢなりと思ひしかば忠八は膝を進め御亭主ごていしゆ只今の物語り拙者少し心當こゝろあたり有苦しからずば其印籠を鳥渡ちよつと拜見はいけんは成間敷哉と云に亭主は其は何より易やすき事也なりとて下女を呼よびて其印籠を取寄とりよせ忠八に渡し此品にて候と云にぞ忠八手に取て一目見に黒地くろぢに金にて丸に三ツ引の紋もん散ちらし紛ふ方なき主人喜内が常に腰に提られし印籠なれば思ず涙なんだを落とせしが故わざと笑わらひに紛まぎらし再び亭主に對むかひ此印籠は拙者が心當りの人の所持品に相違なし然さりながら斯かく申せし計ばかりにては不審は晴まじ彼の夫婦の面體は斯樣々々かやう〳〵には有ざりしやと云うに亭主は手を拍うつて仰の通り少しも違はず何でも物ごとは話して見なば譯わからぬものなり貴君樣に此お話しをせずば大切の品を何時いつまでも預あづかり居るか知れざりしに今日元の主へ返へすべき便たよりを得しは實に不思議ふしぎの幸ひなり然らば此印籠貴方樣へ御渡し申べし何卒先樣さきさまへ御屆け成れて下さる可べしと悦びて言いひけるにぞ忠八も又大に悦び然しからば此品は拙者慥たしかに預り參る可し併しかし別べつに證據もなく受取て參らんも心能よからねば以前失うしなひたる持主を同道致して御挨拶に參るまでの間だ金子三兩御預け申置べしと云を亭主は押止とゞめ夫程迄に堅かたく仰せらるゝものを何故疑ひて金子などお預り申可べきや其儀は御無用ごむようなりと云にぞ忠八は亭主が侠氣をとこぎに感じて懷中より金百疋取出し是は餘りに輕少けいせうなれども此印籠を探し出せしと云女中に遣つかはし給へと渡しけれども亭主は手にだも取ず某し旅籠屋商賣を致いたし居をれば御客樣の物品の紛失ふんじつ爲するは某しが不調法なり然るに探さがし出したればとて女中共へ斯樣かやうなる御心遣ひを蒙る謂いはれなしと一向に受納をさめねば忠八は止事を得ず其意に隨ひ彼の印籠を請取うけとつて状かたちを改め是に就て尋ね申度事たきこと有あり右夫婦の者は此家を立て何國へ參り候や存て有ば教をしへられよと云に亭主暫く考へて何國と申す先は存ねども出立しゆつたつの時大津へ出る道を問れし樣子確たしかに覺え居をり候へば若や江戸の方へでも御出いでにては有間敷哉是も聢と定めては申されずと云を聞て忠八は大いに悦よろこび然る上は今より直すぐに出立す可べしと云を亭主は押止おしとゞめ此大雨に勿々なか〳〵御出立は相成るまじ其上最早もはや申刻なゝつどきも過すぎたれば大津迄出給はぬ内に日は暮くれ申すべし夫よりも今宵は此所に泊られて翌よく未明より立給ふが御便利成べしと申ければ忠八も實げにもと思ひ其夜の内に是迄これまでの宿賃を拂ひ外に茶代として二百疋を遣はしければ此度たびは亭主も辭いなみ難く受納め酒肴など出して饗應もてなしけれども忠八はお花等が行方ゆくへを聞より少しも心こゝろ落付おちつかず酒も宜程に濟し夜着引冠りて寢たれ共餘りの嬉うれしさに其夜はまんじり共せず翌朝よくてう未だ暗き中に起出おきいで食事抔もそこ〳〵仕舞て大津の方へ立出けり


第三回


 是より先に友次郎お花の兩人は喜内が情なさけにて金子二百兩と藥の入し印籠を貰ひ請備前岡山の城下を泣々立出しが何處へ行て身を寄よせんと云方もなく然ばとて岡山近所きんじよにも住居も成難く兎角此邊に居をらんよりは遠路ながら江戸へ赴おもむかば諸侯も多き處と聞きゝ及べば能よき主取りも成べしとお花にも此由を云聞せ旅裝たびよそほひは道々調へんと先まづ二百兩の金を百兩はお花の胴に附させ殘りの百兩を自分に所持して慣ならばぬ旅を陸路より漸々大坂迄着つきければ先まづ此所にて暫く休足すべしとて或ある旅籠屋に逗留して住吉天王寺を始め所々を見物けんぶつしければハヤ五月も過すぎ六月の初旬となり炎暑強き頃なれば凉風の立迄たつまで當所に逗留して秋にもならば江戸へ下り主取しゆどりせんと云をお花は聞て成程暑さの時分道中は堪難たへがたき物ならんが然さりとて此所に浮々と長逗留して路用を遣ひ减へらさば主取も爲し給ふに萬事不都合成ならん少しの暑さへ耐へ江戸に落付おちつきて安心なすが増ならずやと云も其理有ば友次郎も然らば出立の用意よういすべしと宿へも其由を物語り享保二年六月五日の夕ゆふ船ふねに乘て翌六日の朝伏見へ着船したりける折柄をりから祇園祭ぎをんまつりなれば參詣として大坂より船にて京へ登のぼる者引も切ず其時友次郎はお花に對むかひ其方も見聞みきく通り祇園祭の由にて此通りの見物なり此處よりは僅わづかに三里と云ば好機なれば祭りをも見たる序ついでに名所古跡こせきをも見物爲べし江戸へ下りては重て見物に上るも難かるべしと云ばお花も悦よろこび見物いたし度といふにぞ友次郎はお花を連て人の後あとに付行程に頓て京都九條通りへ出いで此こ處こにて宿屋を尋けるに三條通りにありと教をしゆるゆゑ即ち三條通りへ行き龜屋と云家に泊とまりしに祇園祭りとて見物人の相宿あひやど多く漸々八疊の間を二ツに仕切て其處へ落付未だ日も高ければ其日は東山ひがしやま邊を見物なし翌日は又祇園會の山鉾やまぼこなどを見て歸りには御所より北山の方を見物けんぶつする處友次郎は元よりお花も始めて都の地を踏事ふむことなれば見る物聞く物毎に耳目を驚かさゞる事なけれ共ども少しも早く江戸へ行んと云いふ心頻りなれば僅に二夜よ泊とまりて龜屋方を出立せしが斯る混雜の中なか成なれば友次郎は喜内に貰ひ受けたる印籠を取落し一里餘行て思出し那あれは大切の品なれば紛失させては濟難すみがたし此處迄來りて取て返へすは太儀なれども印籠には代難かへがたしとて取て返し龜屋に至り右みぎの由を云て尋ねけれども一向に知れず是非なく其處を立出て其夜大津おほつに泊り翌日は未明みめいより立て名にし負おふ近江あふみ八景を眺めつゝ行程に其以前大津を立し時より後あとに成り先に成て行しは町人體ちやうにんていの一人の旅人なり友次郎夫婦は何の氣も付ず瀬田せたの橋の手前なる茶店に腰打掛けて休みし時彼の旅人も其店へ這入はひり煙草など吸すひながら友次郎等に對ひ貴君方には何へ御越有哉と云掛られ友次郎は豫て道中には騙子ごまのはひと云もの有と聞及び居ければ弱よわみを見せては成まじと思ひ我等は中國の者なるが主人の用事により夫婦連づれにて江戸表へ參まゐるなりと云へば彼旅人は夫こそ誠に幸ひなり私し事は大坂天滿邊てんまへんの町人にて候が此度江戸の店へ用事有りて罷越まかりこし候に付幸ひの御道連苦しからずば今晩の御泊りより御同宿ごどうしゆく致し度と云れて友次郎は迷惑せしが然有さあらぬ體にて夫は幸ひの事なり相宿の儀は兎も角も先道連みちづれに成申さんとて是より彼の男と同道どうだうして行程に彼旅人は旅馴たびなれたる者と見えて此邊の名所々々知らざる處もなく此處こゝに見ゆるが比良ひらの高嶺彼處が三井寺堅田かただ石山などと案内者の如く教をしふるにぞ友次郎夫婦は我知われしらず面白き事に思ひ猶樣々に此處は何なに彼處かしこは何と尋るに元より辯舌優れし者故夫々に答へ追々おひ〳〵京大坂の話遊女町芝居などの事迄尾に尾を付て物語りけるにぞ夫婦は旅の憂うさをも忘れ歩行あゆみもさして太儀たいぎに非ざれば流石は若き人心能よき道連みちづれを得たりと打悦び互ひに笑ひつ笑はれつ何時か草津くさつ石部いしべも夢の間に打過て水口の驛に着し頃は夏の日なれども早はや申刻なゝつ過すぎ共思はれける八九里の道を咄はなしに浮たて歩行し事故お花は餘程草臥くたびれたる樣子なり友次郎とても久敷ひさしく京大坂に逗留し今日踏出ふみだしに大道を歩行たる事なれば今宵は早く共此宿に泊とまらんと云けるを彼の男は否々いや〳〵夏の旅は是から先が肝要かんえうなりお花樣とやらには駕籠を傭やとひて進らせん何分僅の道故先の宿迄やどまで行ゆき給へ晝中と違ひて夕方はまた格別歩行能あゆみよきものなりと勸められ餘儀よぎなく夫婦も水口を立出けり


第四回


 斯くて澤井友次郎は彼の町人の勸すゝめにより水口の宿外れよりお花を駕籠に乘のせ其身は町人と共に咄等など爲乍しながら駕籠の後あとに付て行ゆく程に一里餘りにして大野と云いへる建場たてばに來りしが友次郎は過つて草鞋の緒をを切ければ履替はきかへんとしける中彼の町人は傍に寄より最早もはや日も暮るに近ければ此建場は休まずに行べし草鞋を手早く履はきて追付おひつかれよと云捨いひすて駕籠を急がせ遣けるにぞ友次郎今直に履替れば暫く待まち給へと云を耳にも掛ず彼の町人は聞えぬ體ふりして急いそぎ行ゆえ友次郎は心ならねば草鞋わらぢを履や否直に駈かけだし追付んと急迫あせれども駕籠は何いづれに行しや見えず猶も追付んと足に任まかせて急ぎけれども一向に影だに見えざれば餘りの不審いぶかしさに向ふより來る二三人の旅人に各々方は斯樣々々かやう〳〵の駕籠に行逢ゆきあひ給はずやと問けるに知ずと云も有しが其中の一人が其駕籠かごは今方確たしか此後の松原から南の横道よこみちへ一人の男が付て急ぎ行しと云にぞ偖は彼の町人と見えしは惡者わるものにて有けるか欺かれしこそ殘念なれ未だ遠とほくは行まじ退止おひとめてお花を取返とりかへさずして置可べきやと宛然狂氣の如く以前の旅人が教をしへたる横道よこみちを指て急ぐ程に何時の間にか日は全くに暮果くれはてたり然ども宵月の時分なれば少しも撓たゆまず何處迄もと追行ども更に駕籠の見えざるのみか問とはんと思ふ人にも絶たえて逢ざれば若此儘尋ね得ずばお花は如何に成やらんと案事あんじる程猶胸安からず暫しも猶豫いうよならざれば足に任せて追程に何時いつしか廣き野中へ出道みち幾筋いくすぢとなく有ければ何に行て能事よきことかと定め兼四方を眺めて立止まりしが遙はるか向むかうにちら〳〵と燈の光り見るにぞ友次郎は大に歡よろこび何は兎もあれ彼處は人里有處と思はるれば湯にても水にても一ツ貰もらひて息いきを休め其上にて又尋ねんと燈火ともしびの見ゆる方を當に歩行あゆむ事大凡一里許と思ふ頃燈火の光ひかりは見えず成けるにぞ彌々いよ〳〵途方にくれ斯ては詮方なし然ばとて斯かうしては居られず何にしても此道このみちを行ば人里へ出ぬと云事は有まじと心を勵はげまして歩行まんとしけるに是まで何里なんり共ともなき道を走りたる事故大いに足を痛め歩行難きを引摺々々ひきずり〳〵又もや十四五町も歩行しと思ふ時漸々一軒けんの家有所へ出いでたりける友次郎は心嬉しく偖は最前さいぜん燈火ともしびの光ひかり見えしは此家成りけるかと心に點頭うなづき立寄たちよつて見るに門かどの戸を堅く閉て早はや寢ねたる樣子也やうすなり然れども此所を起おこして尋ねずば何いづれにも尋ぬる方あるまじと思ひ門の戸を敲たゝきて呼起よびおこすに未だ内には寢ざるにや年寄たる嫗をんなの聲にて應と言て門の戸を開あけ友次郎の顏を見て何所より來給ふやと問れて友次郎は小腰を屈かゞめ夜更ふけて御老人を駭かし申事何共氣の毒千萬なり某は旅の者にて先刻せんこく一人の惡漢に出合いであひ連つれの女を見失ひ夫を尋ねんが爲に所々方々と駈廻かけめぐりしが不案内と言いひ殊ことに夜中の事故道に踏迷ひ難儀なんぎ致す者也なり何とも申兼たる事ながら湯にても水にても一椀わん戴いたゞき度と言ば主の老女は打合點うちうなづき夫は何とも御氣の毒千萬なり先此所へ上りて緩々ゆる〳〵と休み給へとて圍爐裏ゐろりに掛たる古藥鑵より湯茶を汲くんで差出す其待遇體そのもてなしぶりの念頃なるに友次郎も心落付おちつき暫しばらく息を休めて扨老女に打對ひ率爾そつじながら此處は何と言いふ所にて東海道の宿迄は道法みちのり何程是有やと尋ぬるに老女は答へて此處は大野の在にて街道かいだう迄は二里餘りも有ぬべし只今承まはれば御連おつれを見失ひ此所迄後を追駈て走り詰づめにて來給きさたまひしと成なれば定さだめてお草臥の事ならん今より何いづれを尋ね給ふ共夜中にては知申まじ見苦ぐるしさを厭ひ給はずば今宵は此所にて夜を明し明なば早く此村の者を傭やとひ大勢にて尋ね給へと云れて友次郎はお花の事の心に係れば暫しばしも落付おちつく氣きは無れども先刻よりの足の勞つかれに今は一歩も歩行べき樣やうなければ老女が言葉を幸ひに容を改め夜中やちう參り御世話に成なるばかりも氣の毒なるに一夜の宿は何共御頼み申兼れ共見みらるゝ通り足を痛いため居れば實は今より一足も歩行難し依て仰に任せ何の端はしに成とも一夜を明し申度たし必ず御世話は御無用と云にぞ老女は然ばとて盥たらひに水を汲て友次郎に足を濯すゝがせ圍爐裏に柴を折焚をりたきながらお旅人には定めて物欲ものほしく思はれんなれ共ども此處等は街道へ遠とほければ魚類は乾魚も買かひ難し今朝炊たる麥飯に鹽漬の茄子なすあり是にて厭ひたまはずは飢を凌しのぎ給ふ迄に進まゐらせんと膳を出すにぞ友次郎は大いに悦び是は〳〵辱かたじけなし然らば遠慮なく戴き申さんとて飢うゑたる腹へ五六椀を食し今は腹合はらあひも直り漸く人心地付しが荷物にもつは殘らずお花の乘のりたる駕籠に付しかば着物きものは汗あせに成たれども着替る事さへ成ず然され共夫等を厭ふべき時ならねば飯を喰くひ仕舞しまひて老女に一禮を述のべ圍爐裏に寄よりて煙草をぞ呑居のみゐけるに老女は膳を片寄ながら礑はたと手を拍うち私しは隣村迄今宵の中に是非行ねば成ぬ用有しを事に取紛とりまぎれて打忘れたり折角の御客に留守を預あづけるはお氣の毒ながら手間の入る事ことにあらねば暫時留守して給はるべし定めて勞れ給へし成らんに着せ進らせん夜の物もなし當所たうしよは殊に蚊かの多ければ爐に蚊遣りを仕掛て其の邊りに寢轉び草臥くたびれを休め給へ何卒暫時しばし頼み進らすと云つゝ立ち上りて門の戸引き閉め出て行きけり


第五回


 跡には友次郎只一人思ひ廻まはせば廻す程お花の事が心に係かゝり眠ねむらんと爲れども心冴さえ其上夜の更るに隨ひて漸次に蚊かは多くなり右左より群付むれつくにぞ斯ては勿々なか〳〵眠られずと起上りて圍爐裏に柴を折くべ居る時しも此方の納戸なんど共覺しき所にて何者やらん夥多おびたゞしく身悶みもだえして苦しむ音の聞ゆるにぞ友次郎は膽きもを潰つぶし何事成んと耳を濟すまし窺ふに聲は聞えねども足摺あしずりして苦しむ樣子の一しほ始めに彌増いやましければ何共合點がてん行ず心成ずも密そつと立上り襖の透間より差覗さしのぞくに納戸の中には灯りもなく小さき火鉢に蚊遣かやりの仕掛しかけ有しが燃落もえおちて薄暗き側に聢とは見えねども細引にて縛られたる一人の女居たり友次郎は發はつと思ひ能々見るに此は如何に己おのれが尋ね探さがすお花なりければ驚きながらも嬉しさ限りなく直樣すぐさま走り入て其體を見るに身は細引ほそびきにて縛られ口には猿轡を箝はめてあり友次郎は見も悼ましく先まづ縛しばりし繩を解捨ときすて猿轡さるぐつわをも取とり除のくるに解とく手遲しとお花は友次郎に抱付いだきつき流石さすがに餘處を兼しか聲をも立ず泣けるを友次郎は諫いさめ勵まし泣てのみ居ては事分らず樣子如何にと問掛とひかくればお花も屹度きつと心付涙を拂ひ妾が此處まで連られ來りしには種々樣子やうす有あれども夫は道々御話し申さん夫れよりは先急ぎ此所を遁のがれねば二人とも如何なる憂目うきめに逢んも知れ難し少も早く落付おちつき給へと云ば友次郎は何か仔細しさいは分らねども然らばとて手早ばやく草鞋わらぢ履はかしむればお花も有合の草鞋を足に引掛ひつかけ二人手を取り裏口うらぐちより忍び出いでしは出たれども何いかに行ば街道がいだうならんと思ひながらも一生懸命しやうけんめいの場所なれば足に任せて走る程に何程なにほど來りしかは知らざる中うち夏の夜の明安く東雲しのゝめ近く成しと覺えて行先に驛路の鈴の音ね人足にんそくの聲など遙に聞えければ友次郎もお花も始はじめて蘇生よみがへりたる心地して扨は街道に近く成しぞと猶も道を急ぐ程に頓やがて宿場しゆくば共思はるゝ所へ出し頃は夜は白々ほの〴〵と明放あけはなれ往來の旅人も多く有ければ兩人は漸々やう〳〵心落付初めて勞れを覺え先まづ此邊にて一息ひといき繼つかんと茶見世に立寄て腰を掛ければ茶店の親父おやぢは茶を汲くみて出しながら二人の樣子を見て不審いぶかしさうに貴君方には夜前は水口へ御泊にて有しかと尋ねられ友次郎は包み難がたく我々は昨日きのふ惡漢わるものに出逢夜通しに此所迄遁れ來し者なり此宿しゆくは何と申すやといへば親父おやぢは氣の毒さうに夫は嘸さぞかし御難儀の事成ん此處は土山宿にて街道筋なれば最早もはや惡者わるものの追おひ來る憂ひなし緩りと御休み成るべしと深切しんせつの言葉に友次郎も頼母敷思ひ此所にて草鞋買調かひとゝのへてお花に履せ自分も履替などして厚あつく一禮述立出しがお花は是迄に息をも繼つがず歩行續けし事なれば友次郎は夜前の始末しまつを話すべき隙ひまなかりしが最早惡者の追ひ來るべき心遣づかひなしとてお花は友次郎に打向うちむかひ昨日大野とやら云建場たてばを出しより駕籠舁共頻りに急ぐ故妾も不審ふしんに思ひ貴君あなたの事を尋ぬれば駕籠舁共かごかきどもの云にはお連樣は跡より續いて來給ふなり早く行ねば日が暮くるると尚も急ぎける故妾も實に然さる事と思ひ居し内日は暮て人一人も通とほらぬ野原へ舁込だり貴方には續つゞいて來給ふかと度々問とへども其後は駕籠舁共は聞ぬ體ふりして一向に返事もせず斯て餘程の道を走りしと思ふ時怪あやしき一ツ家に駕籠を舁込しが主あるじの老女一人居り其時彼の町人と思ひし男私しに對むかひ最早此所迄來る上は如何に叫さけぶとも詮なし翌日は京の遊女町へ連行ゆきて金にする積つもりなれば其心得にて此姥樣このおばさんの處に今宵悠々と泊り居よと云れて偖は惡漢に欺たばかられしか殘念や口惜やと遁のがれんとすれ共ども先づは四人の荒男あらをとこ勿々なか〳〵遁のがすべき樣無れども然ばとて阿容々々をめ〳〵として遊女などに賣るべきや心を勵はげまし隙を見合せ迯出にげいだせしが女の甲斐なさ終に又また捕とらへられたり因て彼等は云樣斯かうして置おけば又々迯にげんも知れずとて有合細引にて縛いましめらるゝ時に胴卷に入し百兩の金をさへ見附られ暗々と奪うばひ取れ納戸の柱はしらに縛り付られ彼の百兩の金は四人にて取分とりわけになし三人の男は其の儘まゝ歸かへりたり然るに其跡へお前樣のお出いで有し故彼の老女は私しの連なるを知り心能宿を貸し置密ひそかに以前の三人に知らせお前樣を殺さんとて隣村となりむらまで行くと云て出行し其樣子は納戸の中にて殘らず聞ては居をりながら猿轡を嵌はめられたれば聲を立る事さへ成ず夫故それゆゑに那樣に物音をさせてお知しらせ申せしに夫と察さつしてお前樣納戸に入りて私しを助たすけ下されし故危き所を遁れ候ひし然ながら面目めんぼくなきは百兩の金を取られしことと云ば友次郎は始終しじうを聞終りて彼百兩の金子を失ひたるは止事を得ず怪我けがのなかりしが幸ひなり實に浮雲あぶなき事成しと語りつ聞つ兩人は道を急ぎて辿りけり


第六回


 夫よりして友次郎夫婦ふうふは路次ろじの油斷ゆだんなく少しも早く江戸に到いたり如何いかにもして身の落付おちつきを定めんものと炎暑えんしよの強きをも厭いとはず夜を日に繼ついで行ゆく程ほどに早晩いつしか大井川をも打渡うちわたり箱根の峠たうげも難なく越え藤澤の宿しゆくに泊とまりたる其夜友次郎は俄にはかに熱氣ねつき強つよく起り悶もだえ苦みけるにぞお花の驚き一方ならず土地ところの醫者を頼みて見せけるに是は大暑たいしよの時分に道中を爲し給ひし故邪氣じやきを冒込おひこみ其が俄にはかに發したるのにて先づ申さば霍亂くわくらんなりとて藥を置て戻もどりしにぞお花は早速さつそく煎せんじて飮のまするに其夜の明方頃になり友次郎は夥多敷おびたゞしく吐はきけるが夫より大いに熱ねつも醒さめすや〳〵と眠ねむる樣子なるにぞお花は少しは安堵あんどせしに其翌日より友次郎の右の足に大きさ茶碗ちやわんを伏ふせたる程の腫物しゆもつ出來て病いたむこと甚だしく自由には起居たちゐも成ざればお花は又もや駭おどろきて以前の醫者を呼よびて見するに此度は醫師も首かうべを傾け是は何共名付なづけ難き腫物しゆもつなり何にもせよ口を明て毒を取らねば大事に成んも知れず大切なる腫物しゆもつなれば隨分ずゐぶんお大事に成るべしとて煎藥せんやくと膏藥かうやくとを調合てうがふして置て行ければお花は彌々いよ〳〵胸むね安やすからず醫者の教をしへたる通り腫物に膏藥かうやくを貼はり煎藥せんやくを勸めて看病かんびやうに暫時しばしも油斷ゆだん有ね共如何成事にや友次郎が腫物しゆもつは元の如くにて一向かう口くちも明あかず痛いたみは少づつ緩ゆるむ樣なれども兎角に氣分きぶん宜よろしからず惱なやみ居けるぞ傷いたましや友次郎も最早日付にしても江戸へ着つかるゝ處迄來きて居ながら情なさけなき此病氣びやうきと心のみ速はやれども其甲斐かひなく妻のお花も夫の心を汲分くみわけては悲しくも又口惜くちをしきを一人心を取直なほし夫の氣を落おとさぬやう可笑をかしくもあらぬことにまで笑ひ慰なぐさめ居たりしが兎角とかく藥の効驗しるしもなく夏も去さり秋も過てはや其年も暮くれになりけれども一向に驗しるしも見えず斯かくて居ること既すでに一年餘りに成ければ路用ろようの貯たくはへとてもお花が所持しよぢせし百兩は惡漢わるものに奪ひ取れ友次郎が持もちし百兩も岡山を立しより是迄に過半くわはん遣つかひ捨すてし上此處にて斯一年餘りの病氣に藥代やくだいは元より旅籠はたご其の外の物入りに大概たいがい遣つかひ失し今は貯たくはへも殘のこり少なになりければ斯かくては當所に長く逗留とうりうも成難し然ばとて夫をつとの病氣今少し快方こゝろよくならねば出立も成まじとお花は一人心を痛いためつゝ又四五ヶ月も滯留たいりうせし中終に路金ろきんは殘のこりなく遣つかひ捨すて夫よりは櫛くしを賣うり簪かんざしを賣うりて其日の旅籠はたごとなせしが此さへ彼の惡漢わるものに出會であひし時夫婦の衣類いるゐを包つゝみし荷物にもつを奪うばひ取れし事ゆゑ最早もはや賣物うりものもなく詮方せんかたなければ胸むねを苦くるしむるばかりなり然るに此旅籠屋はたごやの主人と云は元もと江戸にて相應さうおうに暮せし町人ながら當所へ移うつり宿屋を始めし者にて侠氣をとこぎある生うまれ付なれば友次郎が長ながの病氣にお花が苦勞くらうする樣子を見て氣きの毒どくに思ひ種々いろ〳〵心を付つけ慰なぐさめしが此程は貯たくはへも乏とぼしく成りしと見え猶々なほ〳〵心勞しんらうする體ていの如何にも不便ふびんなりと思ひしにぞ或時友次郎が座敷ざしきへ例れいの如く見舞みまひに來り御客きやくには今日の御樣子は如何に哉やと尋ぬれば折節をりふし友次郎は眠ねむりにつきお花は枕元まくらもとに藥くすりを煎せんじて在ありしが夫と見るより言葉ことばを改あらため是は〳〵御深切ごしんせつに毎々いつも〳〵御尋おたづね今日は何よりも心能よき樣子にてすや〳〵眠ねぶり居候と云を亭主は聞きゝて夫は〳〵先何より重疊ちようでふなり而て御食事しよくじなどは如何やと云ふにお花は食事も氣分きぶんも快よき折には隨分ずゐぶん給たべ候が氣分の塞ふさぐときは無理むりにも給たべられぬと申て溜息ためいきばかり吐居つきをり兎角とかくに果敢々々敷はか〳〵しく驗しるしも見えず實に困こまり入候とほろりと翻こぼす一雫しづくを見せじと瞼まぶたをしばたゝき夫それに就ついては長々なが〳〵逗留とうりうの間あひだ種々いろ〳〵と別段べつだんの御厄介やつかいになり何とも御氣の毒千萬と云ば亭主は能よき咄はなしの機しほと思ひ何時まで御逗留とうりうありしとて手前は夫が商賣しやうばいなれば少しも世話せわとは思ひませぬが御良人おつれあひは御大病なり其樣なことには決けつして御心遣ひなく何時迄までも緩々ゆる〳〵と御逗留とうりう成れまし然ながら斯樣申せば何とも失禮しつれい千萬せんばんなれども永々なが〳〵の御逗留とうりうと云殊ことには御良人おつれあひの御病氣にて御物入おんものいりも莫大ばくだいならん縱令たとへ餘計よけいの御貯おんたくはへ有とも斯して在れなば追々おひ〳〵殘のこり少なになり旅先たびさきは別て心細こゝろぼそくも思ふものなり金銀は湧わく物ものなれば今なくとも出來る時節じせつも有事あること故ゆゑ若もし其樣な事にて御心配しんぱいなさるは御無用なり縱令たとへ御貯おたくはへの路金ろぎん盡つきたりとも御病氣御全快ごぜんくわい迄は御心靜しづかに御逗留とうりう成るべし其間は何に寄よらず御入用有ば仰おほせられよ又少々の金子なれば隨分ずゐぶん御用立ようだて申べし必ず然樣な事に御遠慮ごゑんりよあるべからずと深切しんせつなる亭主の言葉にお花は涙なみだを流して打歡うちよろこび是迄種々いろ〳〵と厚く御世話に預あづかりし上只今の其御言葉ことば此御恩おんは命いのちに代かへても報はうじ難がたし實は御察さつしの通り僅わづかの路銀ろぎんを遣つかひ盡つくし此程は櫛くし簪かんざしを拂はらひしも最早もはや夫さへ殘りなく誠まことに當惑たうわくの折柄をりからなるに御深切ごしんせつの御言葉に甘あまえ何とも鐵面皮あつかましき御願ひなれども今少し夫をつとの病氣の快なほる迄御慈悲に滯留たいりうを御頼み申たく夫に付て又一ツの御願ひ有何の御役にも立まじけれど切てもの御恩ごおん報はうじに私しを御女中衆しゆの中へ御加へ下され御客樣の御給仕にても御させ成なされて下さりませと云ば亭主は打案うちあんじ夫は入ぬ御心配ごしんぱいなり御武家に御育そだち成れし御身が宿屋の女の手傳てつだひも成まじ然ながら手前に然樣な心は塵程ちりほども有ねども貯たくはへなくて滯留たいりうするは氣の毒と御心遣こゝろづかひが有ては却かへつて惡あしければ御言葉ことばに隨したがひ御客きやくが多く手の足ぬ時は御頼み申べしと言いはれてお花も少しは安堵あんどし臥ふしたる友次郎を搖起ゆりおこし此事を内々ない〳〵話はなしければ友次郎も悦よろこびて何分共に願ひ候と言いはれて亭主も夫婦の者の其心根こゝろねを察さつし遣やり本意ほんいならぬ事には有あれど終つひに其意そのいにまかせけり


第七回


 夫よりしてお花は日夜にちや下婢をなごの中に立交まじり勝手元もとの事など働はたらくにぞ亭主はいとゞ不便に思ひ家内の者に言付つけてお花を恤いたはらせければ下婢をなご仲間なかまにてもお花を麁略そりやくにせず力の入事いることなどはさせざりけり然ともお花は身を粉こにしてなり恩を報はうぜんものと思へば如何なる賤いやしき業わざをも少しも厭いとはず客が來れば夜具の上下あげさげ風呂ふろに浴いれば脊中せなかを洗あらひ或時は酒の給仕きふじなどにも出るにお花は容顏かほかたち麗うるはしければ是を慕したひ多くの旅人の中には種々なる戯たはぶれ事を云掛る人など有て五月蠅うるさくも腹立敷だたしき折をりも有ども何事も夫の爲且は情なさけある亭主への恩報おんはうじと思へば氣を取直とりなほして宜程よきほどにあしらひつゝ月日を送りけるに或時旅人多く泊とまり合せし中に一人の若黨體わかたうていの武士あり風呂ふろに入たる樣子やうすなるにぞお花は例の如く老實まめ〳〵しく湯殿ゆどのへ到りお湯の加減かげんは如何や御脊中おせなかを流ながし申さんと云へば彼の旅人は否湯も宜加減かげんなり決て構かまふべからずと云ながら此方を見返みかへり不圖お花の顏を見て彼の旅人は驚きたる樣子にて小聲になり貴娘あなたはお花樣にては無きや如何の譯わけで此家にと云れてお花は薄暮うすぐらければ面貌おもざしは知れざれど我が名を呼は不審ふしんなりと彼の旅人の顏を能々よく〳〵見るに岡山に在おはせし時數年我が家に使ひたる若黨の忠八にて有ければ餘あまりの事に言葉も出ず女の細き心にて斯かゝる賤いやしき姿すがたに成しを絶て久敷逢あはざりし若黨に見らるゝ事の恥はづかしくも口惜くちをしく又嬉しさも取交とりまぜて先立涙を押拭ひ其方は忠八にて有けるか恥はづかしき此身の姿是には種々いろ〳〵話はなしもあり聞度事も多おほけれ共ども此處では話しも成難し友次郎樣も此家に在るれば後に緩ゆるりと語るべしと云に忠八は點頭うなづきて然らば友次郎樣に御目おめに懸かゝりたる上何かの御話も仕つらん私しも仔細しさい有て御二人樣の御行方おんゆくへを那地あち此地こちと尋たづね居しが此所で御目に懸らうとは夢にも存ぜずと云時勝手かつてにて御花さん〳〵と呼よぶ聲こゑの聞ゆるにぞ然らば後にと云捨て御花は頓やがて立去けり斯かくて忠八は三年越ごし尋たづね詫わびたるお花に圖はからずも今宵こよひ廻めぐり逢たることなれば一時に豫かねての望のぞみ足ぬと湯もそこ〳〵にして上り夕飯ゆふはんも仕舞しまひお花の知せを今や〳〵と待中に程なくお花は出來り此方へと云いふ案内あんないにつれ忠八は後あとに付て行ける程ほどに友次郎が病に臥ふしたる一間に到りしかば忠八は座敷ざしきに入り先友次郎が病氣の樣子を見て大に驚き其故そのゆゑを如何にと問に友次郎は漸々に枕を上あげ誠に我々二人が不義ふぎ今更悔くやみて詮なく又其方に對面するも面目なき仕合せなり我れ此病氣を煩わづらはぬ先に不義ふぎ不孝ふかうの天罰てんばつならんか此所まで來る道すがら種々の艱難かんなんに逢あひ路ろ用の金をさへ失ひし其概略そのあらましを語らんに兩人が岡山をかやまを立退たちのきしより陸路くがぢを大坂へ登のぼり廿日餘り休足きうそくせしが少すこしも早く江戸へ到り身の落付おちつきを定めんと同所を出立せし其折柄をりから祇園祭ぎをんまつりありと聞京都に立寄り見物して行んと彼地に到り過あやまちて大切たる印籠いんろうを失ひ夫より江戸に下らんとして大津おほつの宿外しゆくはづれより惡漢に付れ終にお花を奪うばひ取れ斯樣々々かやう〳〵の譯わけにて取返とりかへせしが其の節せつ荷物にもつと路金百兩を奪はれたり然ながら我懷わがふところに遣つかひ殘りの金六十兩餘よも有ければ是にて江戸へ下くだり取付んと思ひ夫より道を急ぎて當所たうしよ迄來りし所此病氣に取付とりつかれ假初かりそめの樣なれどもハヤ二年越しの長煩ながわづらひに貯はへ殘らず遣つかひ捨其上お花の櫛くし笄かうがひ迄も賣盡うりつくし外に詮方せんかたも無りしに此家の主人がお花の苦勞する樣子を見て悼いたましく思ひ或日我が眠ねむり居る時此座敷へ來りお花に對ひ縱令たとへ貯たくはへの路金は盡たり共然樣な事に少しも心遣こゝろづかひなく病氣全快ぜんくわいある迄看病かんびやうして緩ゆるりと滯留たいりう致すべしと情ある言葉を頼みに貯へはなけれども不自由なく暮くらし居れば切せめては少の手助てだすけでもして亭主の恩に報はんとお花が心付にて下婢の中に立交たちまじり賤き身と成下なりさがりし事是偏ひとへに天の惡にくしみ給ふ處と今更思ひ當りしと有し樣子を物語れば忠八は驚おどろき歎たんじ此處に夫程御滯留ごたいりう有とも知らず所々方々尋ね廻りしこそ愚なれ併し今宵こよひ此家に泊らずば御目にも掛かゝらず江戸迄行んものを是誠に天道の引合せ給ふ處成べしと云つゝ潜然ほろりと目に涙を浮めけるにぞお花は怪みて側そばに摺寄すりより此方の事のみ云て御國許の樣子は如何にや其方が私共の行衞ゆくゑを尋ぬると云も不審いぶかし夫それは置て兄君あにぎみ喜内樣にも澤井の父樣にも御機嫌きげん能よきか物堅いお生れながらお兄樣は早三十にも成給へば御内方でも迎へ給ひしか樣子は如何にと問懸とひかくれば友次郎も諸もろともに絶たえて久敷古郷こきやうの樣子少しも早く聞度と云れて忠八兎や云ん角や云んと胸むねの中一人苦くるしめ居たりけり


第八回


 扨さても忠八はお花夫婦に問掛とひかけられ何とか云て宜からんと一人胸を苦めしが何時迄か包み隱さんと心を定め四邊あたりを見廻みまはし聲を潜ひそめてお兩人樣御尋おたづねなくとも申上ねば成ぬ大切の事あり其仔細と言は一昨年の事にて候ひしが私し同樣に御家いへに御奉公致し居候吾助事何故かは存じ候はねども喜内樣の御病氣の節せつ御看病ごかんびやうを致しながら人々の寢入りたる樣子を考かんがへ喜内樣の御病氣勞つかれにて眠り給ひしを見澄みすまし一刀に御咽元のどもとを指貫さしつらぬき候ひぬ然ども勇氣の喜内樣故刺さゝれながらも跳返はねかへし給ひ短刀にて唯一討うちにと切掛きりかけ給ひしが御病中と云深手ふかでを負おはれし上なれば御眼め眩くらみて吾助が小鬢こびんを少し斬れしのみ折柄をりから燈火ともしび消きえければ吾助は是を幸ひと滅多切に切散きりちらし闇やみに紛まぎれて何國ともなく遁失にげうせたり其時始めて喜内樣には御聲を上あげられしにぞ私し始め皆々ソレと言いつて馳付はせつき候ひしにお悼いたましや深手で何ヶ所も負おひ給ひ御養生ごやうじやう叶かなふべくも候はず其時喜内樣には私しを近く召れ敵は吾助と見屆みとゞけながら打洩うちもらしぬる事殘念ざんねんなり汝は幼少より家に仕へて性根しやうねをも見拔みぬきたれば申し殘す一儀あり我死なば具足櫃ぐそくびつの内に貞宗さだむねの短刀と用金の貯たくはへ五百兩有あり其内金二百兩と短刀たんたうはお花が行衞を尋ね出し紀念かたみなりとて渡し呉くれよ又百兩は汝が路用に遣つかはし殘り二百兩は下人共へ配當はいたうすべし其外の品は一切手を付ず取調て御見分ごけんぶんの御役人へ御渡わたし申すべしと細々こま〴〵御遺言ごゆゐごん有て終に亡むなしく成給ひし然ば泣々仰おほせの如く取計ひ御石碑せきひをも建立こんりふして御後の取賄まかなひ萬事濟すませ後下人共へは御紀念かたみ金を分與へて暇を取せ私し事は翌朝よくてう岡山の城下を出立しゆつたつ致せしに城下外れの松原にて友次郎樣の親公佐太夫樣に端はしなく御目に掛かゝり斯樣々々かやう〳〵の仰おほせ有しと友次郎へ教訓けうくんの言葉とお花へ贈おくる二百兩の金を預あづかりし事又其身も路金ろぎんにとて五十兩の金を貰もらひしを辭退じたいすれども聞入なければ據ころなく受納めたることまで始終しじうの樣子を委敷くはしく物語ればお花は元より友次郎も夢かとばかり打驚き涙は落て瀧の如く中にもお花は心も亂みだるゝばかりに泣悲なきかなしみ暫時しばしは正體しやうたいも非ざりしが何思ひけん友次郎が脇差わきざしを拔ぬくより早く既すでに自害じがいすべき有樣なるにぞ忠八は遽あわて押止おしとゞめ御花樣には如何いかなれば御生害ごしやうがいを成れんとは仕給したまふや兄君の御成行なりゆきを御聞成れ御心にても亂れ給ひしかと言いへばお花は涙を止とゞめ是程の大變を聞きゝしなれば少しは心の亂みだれもせん此度吾助が兄君を害がいせしは皆みな我身わがみより起りしことと思はるゝなり其の譯わけは日外いつぞやよりして吾助事我が身に度々たび〳〵不義を云掛かけしかども心に染まねば強面くも返事へんじも爲なさざりしに不圖ふとした事より恥はづかしながら友次郎樣と互に思ひ思はれて終に割なき中と成なりしを吾助は疾とくに知しりしと覺おぼしく是を口惜くちをしき事に思ひけん妾わらは一日友次郎樣を部屋へやに忍しのばせたることを兄君に申上二人ともに戀こひの意恨いこん憂目うきめを見せて夫を腹慰はらいせに爲せんと思ひし處兄上には我身と友次郎樣とを夫それとなく其夜の中に落し給ひしかば夫より吾助は愚おろかにも兄君を怨うらみ斯かゝる大變たいへんを生ぜしなれば然は我が身の不義ふぎより大切な兄あに君を亡うしなひたるなり日外いつぞや部屋へやにて自害じがいせば此大變は起るまじきに死後しにおくれたるこそ口惜くちをしけれ今更死ぬとも詮せんなけれども切せめては命を捨すてて成と兄君への申譯をせんものと又もや刄やいばを取直とりなほすを友次郎は痛いたみも忘れ叶かなはぬ足にて躄いざり出先刄やいばを拏取もぎとりて其方が申處も道理だうりなり我とても其折をり潔いさぎよく切腹せば斯る事にも成なるまじきを命を惜をしみ落延おちのびしは今更後悔こうくわい至極しごくなり然しながら今其方そなたにせよ我にせよ假令たとへ生害しやうがいしたりとも何面目なにめんぼくあつて喜内殿に地下にて言譯が成べきや夫よりも我思ふには敵吾助を尋たづね出て首くび取とつて亡魂ばうこんを祀まつらば少しは罪を贖あがなふに足るべきか心を鎭しづめて熟とくと思案を致すべしと言れてお花も成程なるほどと思ひしが友次郎の言葉に隨したがひければ忠八も安堵あんどして先喜内が紀念かたみに遣つかはしたる貞宗さだむねの短刀と金二百兩并びに佐太夫がお花はなへとて贈おくりたる金二百兩を胴卷どうまきの中より取出し二人の前に並ならべ又彼の印籠いんろうを取出して日外いつぞや失うしなひ給ひしと有りし印籠は是にては候はずやと言ば二人は大いに驚おどろき如何にして此品の其方の手に入しやと言に忠八は是には長ながき御物語ものがたりあり一通り御聞下さるべしとて岡山の城下外れにて佐太夫に別れしより吉備津の便船びんせんに乘り大坂へ着つき同所に半年餘も逗留とうりうし夫より京都に到り三條通りなる龜屋と言るに宿を取此所にも半年餘はんとしあまりも居て友次郎樣夫婦の所在ありかを尋ねしかども一向に知ず然るに或日雨あめ降ふりて外へも出られねば空むなしく宿屋に在し所宿の亭主の物語ものがたりにて此印籠を得しのみならずお二人樣の御行方おんゆくへも大方知ければ其翌朝よくてう京都を立出江戸へと心指こゝろざし夜よを日に繼ついで急いそぎしに不測ふしぎにも當宿にて御面會申せしなりと始終しじうの樣子を物語ものがたれば友次郎夫婦は歎なげきの中にも印籠の再び手に入しことを喜び且龜屋の亭主の侠氣をとこぎなるを感かんじ其の夜は積つもる物語に夜を更ふかし翌日よくじつに成て此家の亭主を招まねき國許くにもとより是なる家來けらい參り合せて金子も手に入たれば御案事ごあんじ下さるまじ是よりは主從三人に成て御世話おせわも増ますならんが今少し御厄介ごやつかいに成たしと言けるに亭主もいとゞ歡よろこび夫は何より重疊ちようでふなり日外いつぞやより申通り御逗留ごとうりうの事は何時いつ迄にても仔細しさいなしとて此日は酒肴など出して忠八を饗應もてなしける斯かくてお花は喜内に貰もらひたる印籠いんらうの中に何ぞ友次郎が藥くすりに成べき品は無かと一ツ〳〵に開て見るに其中に腫物しゆもつ一切の妙藥めうやくと記したる一包の藥有りければお花は大に悦よろこび友次郎にも忠八にも是を見せ試こゝろみに用ひては如何いかゞやと言いへば友次郎は何にもせよ腫物しゆもつ一切の藥と有ば用ひるとも障さはりには成まじとて包つゝみを披ひらきて見るに中に用ひ方まで委敷くはしく記しるし有にぞ大いに便りを得て其藥を紙かみへ伸のべて腫物しゆもつの上に貼置はりおきけるに其夜よ亥刻頃よつごろより痛む事甚だ敷しく曉方あけがたに成て自然しぜんと潰つひえ膿うみの出る事夥多敷おびたゞしく暫時しばらく有て痛いたみは忘わすれたる如く去さりければ少しづつ動うごかし見るに是迄寢返ねがへりも自由に成ざりし足が膝ひざを立ても痛いたむ事なき故友次郎は云に及ばずお花忠八も甚いたく悦よろこび斯かくては日ならず江戸へ下らるべしと猶怠おこたりなく看病かんびやうせしかば五日目には起居たちゐの成樣になり十日目頃ごろは座敷の中を歩行程に成ければ最早もはや大丈夫なり此處こゝより通とほし駕籠かごにせば日着ひづけに江戸へ着すべしと友次郎は其日亭主を呼よび明朝出立の事を話はなし是迄長々なが〳〵厚あつき世話せわに成し事をお花と倶ともに禮を述のべ旅籠賃はたごちんの外に肴代さかなだいなど遣つかはし下婢共げぢよどもにも少しづつの心付して友次郎お花をば駕籠かごに乘のせ忠八は後あとに付て藤澤宿ふぢさはしゆくを立出けり


第九回


 話頭はなし異かはりて爰に松田の若黨わかたう吾助は主人喜内を討果うちはたして豫かねての鬱憤うつぷんを散じ衣類一包みと金子二百兩を盜み取闇やみに紛れて備前國岡山を立去しが豐前國ぶぜんのくに小倉こくらの城下に少しの知音ちいん有ければ此に便りて暫く身を隱かくし其後何れに成とも落付おちつきを定めんものと先づ小倉を心指て漸々辿たどり着其人を尋ねけるに是は四年跡あとに江戸表へ引越ひつこしたりと言にぞ吾助は頼たのむ木蔭こかげに雨あめ漏もる心地こゝちして尚も種々と聞合するに當時は江戸本郷邊に呉服物ごふくものの見世を出し當所より織物類おりものるゐを取登のぼせる程の身代になりしと聞少しく落付おちつき然しからば是より江戸へ下り本郷へ尋ね行て身の落付を頼まんと思ひけれども元來吾助は船に弱よわき生れ付なれ共暗くらき身み故ゆゑ便船びんせんを求もとめ播州ばんしう室むろの津に到いたりけり當所は繁華はんくわの湊みなとにて名に聞えたる室むろの早咲町はやざきまちなど遊女町いうぢよまち軒のきを連つらねて在ければ吾助は例の好色かうしよく者と言ひ懷中には二百兩の金もあり先此處にて勞つかれを慰め鬱うつを晴さんと五六日早咲はやさきに逗留とうりうして居たりしが不圖心に思ふやう此處にて金銀を遣つかひ捨すてんよりは江戸へ行て身を落付おちつけ後のち心の儘に樂まんと夫より室を立て其夜は姫路ひめぢに泊とまり三日にて大坂へ着せしかども江戸へ下くだる心頻しきりなれば暫しも止とゞまらず東海道は人目繁しげければ若や岡山の人に逢あひもせば面倒めんだうなり木曾路きそぢより中仙道なかせんだうを行に如しく事なしと路次を急ぐ程ほどに日ならずして板橋いたばしの宿に着にけり然るに吾助江戸は始てなれば何れが本郷にや西も東も分らぬ故小倉にて聞きゝたる通り本郷二丁目にて呉服商賣ごふくしやうばいをする桝屋ますや久藏と云者と尋ねしに其頃新店なれども評判ひやうばんよきにや直に知ければ吾助は大いに悦よろこび先まづ見世みせに行て樣子を見るに間口まぐちは六七間奧行おくゆきも十間餘土藏どざうは二戸前あり聞しに増まして大層たいそうなる暮くらし成りければ獨心中に歡び是程の暮しならば我等一人位ぐらゐ何どのやうにも世話して呉くれるならんと小腰こごしを屈かゞめて見世へ這入はひり我等は元備前岡山にて御懇意ごこんいに致したる者なり何卒なにとぞ御亭主ごていしゆに御目に懸り度たしと云ければ店の者は奧へ到り主人久藏に斯と告いざ勝手口より御通り有べしと案内あんないするにぞ吾助は勝手口に到り此處にて草鞋わらぢなどを脱で奧おくへ通るに主人久藏も立出て先まづ互たがひの恙つゝがなきを祝し合扨さて久藏言出けるに偖さても貴殿きでんには備前岡山なる城下に能よき奉公口ほうこうぐち有て主取なし給ふ由承まはりたるのみにて其後は絶たえて音信いんしんも聞ず其中に我等は御當地へ引越ひきこしたれば猶以て御無沙汰ごぶさたに打過うちすぎしに而て此の度如何なる故有て岡山より江戸には下り給ひしといふを吾助は聞て我等事御存ごぞんじの通り岡山にて主取は致したれども高が若黨わかたう奉公なり何時迄まで勤つとめたりとも詮せんなしと奉公の中種々さま〴〵なる内職致し辛からうじて漸々やう〳〵五十兩の金子を溜ためたれば何卒大坂か江戸へ出此金を資本もとでにして一稼かせぎ仕つり度たくと思ひ一先まづ小倉に行て貴殿きでんにも御相談致し其上何いづれとも決し申さんと遙々はる〴〵小倉こくらへ赴おもむきしに貴殿は江戸へ御引移りの由承うけたまはり然らば直樣江戸へ下り御目に懸かゝり萬事の御相談相手あひてに御頼おたのみ申さんものと遠路ゑんろの處をも厭はず態々わざ〳〵御尋ね申たりと辯舌べんぜつに任せて言葉を巧たくみに言たりける


第十回


 抑々そも〳〵本郷二丁目なる桝屋久藏ますやきうざうと言る者は元もと備前岡山在の百姓の子にして吾助とは元來ぐわんらい懇意こんい成しが此久藏十八九歳の頃ころ豐前國小倉なる織殿おりどのへ奉公に行段々精勤せいきんして金を蓄たくはへ後江戸へ轉居ひきうつりて今斯かゝる大層たいそうの暮しはすれども生得しやうとく律義りちぎの男にて少も惡氣わるきなく人の言事を何に寄ず眞實まことなりと思ふにぞ此度も吾助が言葉を眞實まことと思ひ聊いさゝか疑ふ心なく奉公の中に五十兩金を蓄たくはへたりとは若いには珍めづらしき人なりと感ぜしかば吾助に向ひ遠路ゑんろのところ態々わざ〳〵御尋ね有て御身の落着おちつきを御頼み成なされ度との趣き承知致したり然ながら我等も近頃ちかごろ御當地へ引移ひきうつり未だ昨今の事故何いづれに御周旋おせわ致すべしと言懇意こんいの方もなきが幸ひ此節我等店みせの者無人にて手廻り兼れば當時御身の落付の定さだまる迄我等方に逗留とうりう有て店をも手傳てつだひ給はらば此方も大に仕合しあはせなりと言にぞ吾助は打歡び然しからば仰の通り是より當分の内お役やくには立まじきがお見世のお手傳てつだひ仕つらんと是より桝屋方に逗留とうりうして店の手傳ひなど爲しけるに元より奸才かんさいに長し奴なれば手代の中に立交まじり人の爲事なすこと迄己おのれ引取てする樣に働はたらくゆゑ久藏は吾助の立振舞ふるまひを見て能人を得たりと歡びける斯かくて吾助は桝屋方に居ること凡そ半年餘りなるが生うまれ得ての好色かうしよく者なれば家内に召使めしつかふ下女に折々をり〳〵不義など仕掛しかけれども既に前章にも言いふ如く至て醜みにくき男ゆゑ誰あつて心に從したがはんといふ者なかりしに其頃此桝屋へ上總の在方より奉公ほうこうに來りしお兼かねといふ女今年十七歳なるが丁ちやう百には餘程足たらぬ生れ付にて下女仲間にても馬鹿々々ばか〳〵とて遊びものにされる者あり吾助は思ふやう此女ならば必定ひつぢやう我が言ことを肯きくべし當座の慰なぐさみものには是にても無なきには増まし成ならんと或時お兼を捕とらへて樣々に口説くどき遂つひに無理往生わうじやうに本望を遂げるに此女根ねが愚おろか者なれば段々吾助に欺あざむかれ折々忍び逢あひける内何時いつしか腹はらに子を妊やどし月の重なる儘まゝに人目にも立程に成なりければ吾助も是には殆ど當惑たうわくして種々と思案し一の巧みを思ひ付たれば或夜おかねと忍び寢ねの物語りに我等如何なる縁えん有ありてか其の方と斯かく深き中なりと腹に子まで妊せし上は末長すゑながく夫婦に成べき所存しよぞんなり然ながら今は互に奉公ほうこうの身み故ゆゑ自由じいうには成難し然れども追々月も重かさなりては奉公ほうこうも成まじ因て一先宿へ下り墮おろすとも産うむともして又々奉公に出られよ尤も宿へ下るに只は下さげられまじ切せめて二兩か三兩の金を持せて遣度やりたき者なれども知らるゝ如く我等は此家へ奉公はすれども給金きふきんを取身分にも有ねば一兩の工面くめんも成難き夫故に種々いろ〳〵工夫くふうせしに一ツの計略を思ひ付たり其譯わけと言は其方そなたも定めて知て居らん飯焚めしたきの宅兵衞は數年奉公して給金きふきんも餘程よほど旦那方がたに預け有る由然るに彼の宅兵衞は日頃ひごろより其方に心有ある樣子やうすなれば厭惡いやで有うが如何いかにもして彼が心に隨ひ一度にても枕を交かはし呉くれよ然さうさへすれば腹の子も宅兵衞が胤なりと云立るとも仔細しさいなし其の上にて彼より金を取とり夫にて身輕みがるになる時は其方も我等も安心と云ふものなり若又不承知ならば我等も詮方せんかたなし其方とても金子もなく宿やどへ下りては宿の手前も惡あしからんなどと種々さま〴〵に欺だまし賺すかしければ元來愚おろかなるお兼のことなれば甘々うま〳〵と吾助に欺あざむかれ終つひに其の言葉に隨ひ宅兵衞に言寄る便たよりをぞ待にける爰に飯焚めしたきの宅兵衞と云は桝屋ますや久藏が豐前ぶぜん小倉に居る時よりの飯焚にて生得しやうとく愚鈍ぐどんなる上最も吝しはく一文の錢も只は遣つかはず二文にして遣はんと思ふ程の男なれども至極しごくの女好にて年は五十を越こえたれども折々は夜鷹よたかなどを買ひ行て家を明る事もあり又は下女共には優やさしき事を言掛かけ恥はぢをかく事も度々たび〳〵なれども其を恥はぢとも思はず近頃は彼お兼に思ひを掛け時々とき〴〵袖褄そでつまを引けるに一向に承知しようちもせざりしが或夜あるよ宅兵衞一人居る臺所だいどころへお兼は何か用有て來りしを宅兵衞好よき機をりと思ひ戯れ寄よりけるに思ふより易く心に隨したがひければ宅兵衞は天へも昇る嬉さにて夫より二三度も忍び合し其の内お兼は懷妊くわいにんの樣子を物語るに宅兵衞は吃驚びつくりし何として能よからんと云ふをお兼は聞豫て吾助に入智慧ぢゑされし事なれば宅兵衞に對むかひ今更斯なる上は何共なんとも詮方せんかたなし何れへ成とも連退つれのいて是非共女房にして給はるべしといはれて宅兵衞は五十を越こえて十六七の娘を如何いかに思ひても女房にはされず偖さても當惑たうわく千萬と思案しあんすれども元來愚鈍ぐどんなる生れ付故工夫も出ず困こまり切し體ていを見てお兼は今更斯なりては奉公も成難なりがたし若此儘このまゝ切きれる御心なら手當てあてをして給る可べし其金にて宿へ下り身輕に成たしと云にぞ宅兵衞は然爲さうするには何程の金が有ば宜よきやと問ば先少くとも五兩なければ宿へ下り身輕には成なられまじと云れて宅兵衞は是これには又當惑たうわくの樣子なればお兼は顏色かほいろを變て扨は私を慰なぐさみ者にして女房にもせず金も出さずお前は構かまはぬ了簡れうけん成ん其心ならば私も此儘このまゝには濟すまし難がたし迚とても生ては居られねば此通り旦那樣だんなさまに申上お前の首へも繩を懸ねば此腹立はらだちは止難しと云れて宅兵衞は彌々いよ〳〵仰天ぎやうてんし種々さま〴〵とお兼を宥なだめ賺すかし然らば金五兩渡わたす間夫にて身輕みがるになり必ず沙汰さたなき樣にすべしとて澁々しぶ〳〵五兩の金を遣やりけるこそ愚おろかなりける事どもなれ


第十一回


 偖もお兼は宅兵衞を欺あざむきて金五兩を取しかば竊に悦び吾助に逢あひて其由を知しらするに吾助も大に悦びしが又一ツの計略を思ひ付お兼に對むかひ扨々其方の智慧ちゑの程感心かんしんせり其働はたらきにては女房にしても末頼母敷もしく思ふなり夫に就ついて爰に一ツの相談あり夫婦の中に隱し隔へだてをするに異な物なれば何事も包まず打明あけて言べし豫々かね〴〵其方の宿は他人と聞たれば二兩持行もちゆくとも世話の仕樣に異かはりは有まじ然れば五兩の金を皆みな持行もちゆきて宿へ遣やるは溝どぶへ捨すてるより無益むえきなり夫より五兩の中二兩を宿へ持行もちゆき身輕みがるに成る入用に遣はし殘りの三兩は我等預あづかり居て頓やがて夫婦になる時帶おびにても又何にても其の方の好みの品を拵こしらへる足たしにせば便利成べしと云れ生得しやうとく愚おろかなるお兼故是を眞實まことと思ひ終に吾助の言葉の如く二兩の金を持もち宿やどへ下りたり然るに惡事千里の諺ことわざの如く早晩いつしか吾助がお兼と言合せ飯炊めしたきの宅兵衞より金五兩を欺あざむき取とりしと言いふ事家内の者の耳みゝに入いり見世にても取々とり〴〵の噂うはさありけるを吾助は聞て心に思ふやう此事若もしも宅兵衞が聞きかば事六むづかしかるべし夫のみ成ならず見世の者にも顏を見らるゝ樣にて何となく居惡ゐにくく成たり最早もはや江戸の勝手かつても分わかりたれば此處こゝに居ず共又外に宜處よきところは幾許いくらも有るべしと或時主人久藏に對むかひ我等豫々かね〴〵日光につくわうの御宮を拜見はいけん仕りたき心願しんぐわんなりしに幸ひ此度能よき道連みちづれの出來候へば參詣致し度たく候なり因て暫時しばしの間お暇いとまを願ひ度と言ければ久藏は僞いつはりとは心付ねば夫は何より好よき事なり我等も豫かねて心願なれば同道どうだう致し度ものなれども商賣しやうばいに暇なければ此度は殘念ざんねんながら同道も成難し其許もとは我等方の奉公人と言にも非あらねば勝手次第に參詣有あるべしと餞別せんべつとして金子三兩遣つかはしけるに吾助は思ひしより首尾能しゆびよきを悦よろこび禮れいもそこ〳〵支度したくを整とゝのへ其日そのひ出立せしが日光と云は元來虚うそなれば夫より芝邊しばへんへ行て四五日身みを隱かくし居たりける然るに其頃芝明神前に藤重ふぢしげと云る淨瑠璃語じやうるりかたりの女有しが容貌かほかたち衆人に勝すぐれ心優やさしき者なる故弟子でしも多く日々ひゞ稽古けいこの絶たゆる隙なく繁昌しける此所へ吾助は不圖ふと稽古せんものと這入込はひりこみたるが好色者かうしよくものの癖くせなれば藤重ふぢしげが嬋娟あてやかなる姿に迷まよひ夫よりは稽古に事寄よせ日夜入浸いりびたりに行きけるが流石さすがに云寄便よるたよりもなく空敷むなしく月日を過すごしたり然共吾助は喜内を害がいし奪ひ取し金も二百兩の中うち多おほくも遣つかはず隱かくし持しかば其の金の有あるに任まかせて藤重ふぢしげが好このむと云物を調とゝのへて遣やり其外劇場しばゐ見物花見遊山などにも同道して只管ひたすら氣に入るゝやうにぞ仕掛ける夫は偖置さておき爰に澤井友次郎夫婦并ならびに若黨わかたう忠八は藤澤宿を立て其の日の中に江戸に着つき先まづ馬喰町の宿屋に足を止とゞめ此處にても尚なほ種々いろ〳〵に療治せしかば友次郎の病やまひは全く快こゝろよくなりければ夫よりは忠八と諸倶もろとも所々しよ〳〵方々はう〴〵を廻めぐり敵の行方ゆくへを尋ねしかど未だ天運てんうんの定さだまらざるにや一向に手懸りさへもなく空むなしく其年も暮くれて明れば享保五年となり春も中旬なかば過て彌生やよひの始となり日和ひよりも長閑のどかに打續き上野飛鳥山あすかやま或ひは隅田川すみだがはなどの櫻見物さくらけんぶつに人々の群集ぐんじゆしければ今ぞ敵かたきを尋ぬるに幸さいはひの時節なりとて日毎ひごと群集ぐんじゆの中に紛まぎれ入て尋けるに似たりと思ふ人にも逢あはざれば最早もはや江戸には居るまじ是よりは何國いづくを尋ねんと主從三人額ひたひを集めて相談さうだんすれども是ぞと云能よき思案しあんも出ざれば先まづ今いま暫時しばし江戸を尋ね夫にても手係てがかりなくは其時何國にも行ゆくべしと是より又心を配くばりて所々尋ね廻りしが頃は三月十五日梅若祭うめわかまつりとて貴賤きせん老若の別わかちなく向島の賑にぎはひ大方ならず然るに此日は友次郎腹痛ふくつう故忠八一人向島へ行ゆきて隅田川の堤つゝみを彼方此方と往來の人に心を止めて歩行あるきゆきけれども更に似た人もなく早日も西山せいざんに傾かたむきしかばいざ旅宿りよしゆくへ歸かへらんとて三圍の下より渡し船に乘のり川中迄かはなかまで漕出こぎだしたる時向うより數人乘合のりあひし渡し船來り行違ゆきちがひさま其の船の中を見るに廿二三の女を同道どうだうしたる男は疑ひもなき敵と狙ねらふ吾助にて有れば忠八は汝おのれ吾助と言いひながらすツくと立たち上あがる間に早瀬はやせなれば船は疾はや三反たんばかり隔へだたりし故其の船返せ戻せと呼はれ共大勢おほぜいの乘合のりあひなれば船頭は耳にも入ず其中うちに船は此方の岸きしに着つきけれとも忠八立たりし儘まゝ船より上あがらず又もや元の向島むかうじまの方へと乘渡り群集ぐんじゆの中を八方へ目めを配くばりて吾助を尋ね廻まはりしかど何方へ行しやら混雜こんざつの中と云殊ことに時刻じこくも延引えんいんしたれば終つひに行方は知れざりけり忠八は殘のこり多き事限かぎりなけれども早はや黄昏たそがれに及び詮方せんかたなければ一先旅宿へ歸り友次郎樣お花樣にも此事を物語り方便てだてを以て尋ねんものと其日はすご〳〵立歸たちかへりぬ


第十二回


 扨も忠八は馬喰町なる旅宿りよしゆくに歸かへりてお花夫婦に打對うちむかひ今日向島の渡舟わたしにて斯々かく〳〵の事ありしと告げれば夫婦は悦ぶ事大方ならず只行方を見定みさだめざりしは殘念ざんねんなれども江戸の中にさへ居らば尋ぬるにも便たよりよし然さりながら彼奴かやつも惡漢しれものなれば其方と面おもてを合せしからは浮々うか〳〵江戸に落おち付ては居るまじ翌日あすは暗くらきより起出おきいでて其の方は品川の方より段々だん〳〵に尋ぬべし我は千住ぢゆ板橋いたばしなど出口々々を尋ね見んとて翌朝よくてう寅刻なゝつどきより起出おきいでて友次郎忠八の兩人は品川と千住の方へ尋ねにこそは出行けれ爰に又桝屋ますや方にては吾助が日光につくわうへ行とて出しより早はや五六ヶ月になれども歸かへり來ざれば偖さては宅兵衞を欺あざむき金を取し事の顯あらはれんを恐おそれて逃亡かけおちせし者ならんと店みせにて取々の噂うはさをなしければ此事早晩いつしか宅兵衞が耳に入始て欺あざむかれたる事を知り口惜くちをしさ限かぎりなく如何にもして此恨このうらみを報じ度は思へども流石さすがに打明うちあけて主人にも言難いひがたき譯合わけあひなれば一人心を苦くるしめ居たりしが馬鹿ばか程ほど怖こはきものはなしとの諺ことわざの通り宅兵衞は思ひ詰つめてや或時主人にも告ずして大岡越前守殿の役宅やくたくへ右の仔細しさいを自身に訴うつたへ出ければ越前守殿一應おう糺問きうもんの上桝屋ますや久藏を呼出よびいだされ吾助を召捕迄めしとるまで宅兵衞事主人預け申付るとて下られける斯て又吾助は隅田川すみだがはの花見に藤重ふぢしげを同道どうだうして到りしに計はからず渡船わたしぶねにて忠八と面を合せしかば心の中うち安やすからず若もしやお花夫婦も當地たうちに來りて我を兄の敵かたきと聞尋ね居んこと圖はかり難がたし三十六計迯にぐるに如ずとか云ば一先何いづれになり身を隱かくし時とき過すぎて又江戸へ來るが上策じやうさくならんと俄にはかに旅立たびだちの用意よういせしが然さりとて是迄これまでに心を盡つくせし那あの藤重ふぢしげを一夜なりとも手に入ずして別れんこと口惜し今宵こよひ竊ひそかに忍行しのびゆきて咄はなしをなし我が心に隨したがはゞ直に同道して立退たちのくべし若もし不承知ならば止事を得ず手足を縛しばりてなりとも思ひを晴はらすべしと其夜近所きんじよ合壁がつぺきの寢靜ねしづまりたる頃藤重が家に忍しのび行て見るに是は如何に何程なにほど開ひらかんとしても戸とは釘くぎにて外そとより打うち付つけて有ば少しも開あかず内の樣子を窺うかゞふに灯あかりの氣も見えず能々よく〳〵見るに表の戸に貸店かしだなと云いふ紙札かみふだの貼付はりつけある故是は門違かどちがひせしかと四邊あたりを見廻みまはすに間違ひにも非あらず吾助は何分不審ふしん晴はれねば直樣すぐさま家主方を起して藤重ふぢしげは何方いづかたへ引移ひきうつりしやと尋ぬるに家主は答へて然さればなり藤重ふぢしげは久敷ひさしく我等店たなに住居致せしが俄にはかに田舍ゐなかの伯母をばの方より迎むかへ來りしとて宵よひの程に家を片付かたづけ我等に渡し出立致したりと云れて吾助は力を落し扨其の行先は何れ成と問ば家主は打案うちあんじて慥たしかには知らねども今宵こよひは千住泊どまりとか申したりと云を聞て直に家に歸り旅たび支度を成し千住ぢゆを指さして急いそぎけり諺ことわざに云己人を欺あざむかんとすれば人又己おのれを欺あざむくと藤重は吾助に思はれ物をも多く貰もらひ花見遊山ゆさんなどに連つれらるゝを甚だ心能よくは思はねども商賣柄しやうばいがらなれば愛敬あいきやうを失ひては成ずと表面うはべには嬉うれしき體ていをなして同道せしが其折々無理むりなる戀こひを云掛られ夫さへ心に障さはらぬ樣云拔いひぬけて居しに今日隅田川すみだがはの渡船わたしぶねにて誰かは知ず行違ゆきちがひに面を見合せしより俄にはかに吾助が顏色變り狼狽うろたへたる體ていを利發りはつの藤重なれば早くも怪あやしと推すゐし其上今宵こよひ夜更よふけて遊あそびに來るべしと約束されしも氣味きみ惡わるければ家主に頼み其身は室町なる心安き者の方へ暫しばらく行て居る程に留守るすは當分たうぶん明家あきやの積りにして若吾助が尋ね來らば斯樣々々かやう〳〵に云拵こしらへて給るべしと頼み置けるにぞ右の如く家主より返答へんたふせしなり此藤重と云は前さきに姑しうとめへ孝を盡し大岡殿より御褒美ごはうびを戴いゞたきし津國屋の嫁お菊にて其後人の世話せわにより舊もと習ならひ覺おぼえし藝げいの善よければ斯る業なりはひに世を送りしなり然ば狂言きやうげんとは夢ゆめにも知ず吾助は足に任まかせて急いそぐ程に芝神明前をば寅刻なゝつに立て千住大橋迄は未だ暗くらき中に來れども春の夜の明易やすく掃部宿かもんじゆくに掛かゝる時は早白々と明あけ渡り稍やゝ人面ひとがほも見ゆる頃思ひも依よらぬ後うしろより吾助待まてと聲を掛られ驚きながら見返る處を上意々々と呼はり捕方とりかたの者十人餘りばら〳〵と掛り折重をりかさなりて終に繩なはをぞ掛かけけるに吾助も喜内より劔術けんじゆつ柔術じうじゆつを學び得て覺えある惡漢しれものなれ共不意ふいと云多勢たぜいにて押伏おしふせられし事故汚面々々をめ〳〵と召捕めしとられけり斯て又友次郎は其朝馬喰町の旅宿を曉あけ寅刻なゝつに立出て板橋の方へ到いたり吾助を尋ぬれども何の手係てがかりもなきにぞ然らば千住の方を尋ねんとて飛鳥山下あすかやました通りより段々千住の方へと赴おもむく途中にて五六人の男が歩行あるきながらの噂うはさに今朝こんてう千住にて召捕めしとられたる者有しが小鬢こびんに餘程の古ふるき太刀疵たちきずの有程の者故何でも只者たゞものには有まじと云を聞て友次郎は小首こくびを傾かたぶけ小鬢びんの疵きずとは少く心當りありと後あとに尾つきて追々おひ〳〵噂うはさを聞ながら行に年の恰好かくかう面體めんていの樣子尋ね探さがす吾助に紛まぎれ非ざれば直たゞちに掃部宿かもんじゆくの自身番に懸かゝりて委細くはしく尋ぬるに斯樣々々の人にて名は吾助と云者と咄はなしけるにぞ友次郎は足摺あしずりして我板橋を後あとにして千住を先に尋ねなば吾助に出逢本望を達すべきに公儀の御手に召捕めしとられては詮方せんかたなし一先旅宿に歸かへりて分別を定むべしと悽々すご〳〵馬喰町へ戻りけり


第十三回


 扨も捕方とりかたの同心より吾助事千住にて召捕めしとりし段屆とゞけに及びければ大岡越前守殿には先吾助に入牢じゆらう申付られ一兩日過すぎて引出され其外桝屋久藏ますやきうざう飯焚めしたき宅兵衞元もと桝屋ますやの下女お兼など呼出され扨て吾助お兼の兩人に對むかはれ汝等主家しうかにありながら密通みつつうせしのみならず懷妊くわいにんせしを人に塗付ぬりつけんと謀はかり吾助兼相談の上飯焚めしたき宅兵衞を欺あざむき不義ふぎ不貞ふていの振舞ふるまひをなし金子五兩騙かたり取たる段不屆至極ふとゞきしごくなり眞直まつすぐに白状せば御憐愍ごれんみんの御沙汰も有べし包つゝみ隱かくさば屹度きつと拷問がうもん申付んと申されければお兼は更に生いきたる心地こゝちせずわな〳〵震ふるへて居けれども吾助は少すこしも恐れたる體ていなく仰おほせには候へども私し事是なる兼と密通みつつう致せし事毛頭もうとう御座なく然ば宅兵衞より金子を騙かたり取しなどと申事夢ゆめにも覺えこれなく候察さつする所是は定めて宅兵衞が兼と密通みつつう致し懷妊くわいにんさせ是非なく金子を兼に遣はし候所今更金子惜く相成其故ゆゑ根ねもなきことを申立私し共より金子きんすをねだり取らんと云彼が巧たくみに候はんと申立れば越前守殿はお兼に對むかはれ汝吾助と申合せ宅兵衞を欺きしは相違無さうゐなきや少しにても僞いつはり飾かざらば苦敷くるしき思ひを爲べしと言和ものやはらかに申されけるにお兼は漸々やう〳〵面おもてを上あげ震ふるひ聲して仰せの通り相違御座なく如何にも吾助殿と申合せ宅兵衞殿を欺あざむき金子五兩貰もらひ受候と申立るに越前守殿點頭うなづかれ如何に吾助兼は既に白状はくじやうに及びたり斯ても未だ陳ちんずるやと種々さま〴〵に事を分て詮議せんぎ有ありければ終に右の段々だん〳〵白状致しける依て猶なほ沙汰さたに及ぶべしとて吾助兼の兩人は入牢じゆらう申付られ宅兵衞は元の如く主人久藏に預けられ其の日は白洲しらすを閉とぢられけり然ば吾助白状はなすと雖も落着らくちやくに致されざるは越前守殿吾助が面體めんていの太刀疵たちきずと云何樣なにさま一癖くせ有あるべき惡漢わるものと見られし故内心ないしんには今一應吟味致し舊惡きうあく有ば糺明きうめい有んと思はれしなりとぞ然るに其日馬喰町の宿屋同道にて大岡殿御役宅へ愁訴しうそ致せし者あり越前守殿取上とりあげられて早速さつそく吟味ぎんみあるに此これ別人べつじんならず備前岡山の藩中はんちう松田喜内が家來忠八なり越前守殿一通申立よと有しかば忠八首かうべを上私し主人喜内儀病氣にて平臥へいぐわ罷まかり在候節私し同樣若黨わかたうを勤つとめ居候吾助と申者夜中やちう竊ひそかに主人喜内を刺殺さしころし出奔しゆつぽん致し候に付夫より右喜内妹花と申者と同人連合つれあひ澤井友次郎并びに私し三人にて吾助が行方ゆくへを尋ね恨うらみを報むくい申度とて三ヶ年の間苦辛くしんを厭いとはず所々しよ〳〵尋ね廻めぐり候處漸々此程隅田川すみだがはの渡船わたしぶねにて面おもてを合せしが不運にも取り迯にがせしによりその後猶なほ又手配くばりして相尋あひたづね候折柄をりから此間千住に於て召捕めしとられ候段承まはり及び候然る上は若も吾助事死罪しざいにても仰付られ候へば是迄の辛苦しんくも水みづの泡あわとなり本望ほんまうを遂得とげえず殘念ざんねん此上なく候に付恐おそれ多き儀に候へ共吾助事死罪しざい御免仰おほせ付られ候樣御慈悲じひの御沙汰願上奉まつり度と申立る時越前守殿倩々つら〳〵聞居られしが不圖ふと眼めを開き呵々から〳〵と打笑はれ我今朝よりの吟味に勞つかれしにや居眠ゐねぶり居て只今汝が申せしこと委敷くはしくは聞取り得ざりし然りながら此程召捕めしとらへたる吾助と云る者は今日白状に及びたるが死罪しざいに成べき程の罪にもあらず依て明後日みやうごにち未刻やつどきに追放つゐはう申付る筈なり汝等が尋ぬる吾助とやらは必定ひつぢやう人違ちがひならん疑うたがは敷しくば明後日追放つゐはうの場所へ到いたり對面すべしかならず御府内にて麁相そさうなる儀いたすこと勿れとて下られけるに忠八は思はず眼中がんちうに涙なみだを浮うかめ大岡殿の仁心じんしんを悦び感かんじ飛とぶが如くに馬喰町の旅宿りよしゆくへ戻もどれば友次郎お花は今日の首尾しゆび如何なりしと右左みぎひだりより問掛とひかけるに忠八は越前守殿の仁智じんちの概略あらましを物語り然れば明後日は豫かねての本望ほんまう成就じやうじゆ仕つらんと云けるにお花は元來友次郎も雀踊こをどりして喜び是これ偏ひとへに大岡殿の仁心じんしんより出る處なりと南の方を向て夫婦諸共もろとも伏拜ふしをがみ夫れより貯たくはへの金銀にて敵討かたきうちの支度したく晴はれやかに拵こしらへ其日の來るを待詫まちわびけり然程に大岡越前守殿には一日隔おきて次の日此程ほどの通り吾助お兼宅兵衞其外そのほか關係かゝりあひの者共を呼出し先吾助お兼の兩人に向はれ吾助事は兼に種々なる惡事を申含ふくめ宅兵衞と通つうじさせ金子五兩を欺あざむき取せ其中三兩を私欲しよくに遣つかひ候段だん不仁ふじん不義ふぎの仕方しかたなり因て三ヶの津つ構かまひの上中追放ちうつゐはう申付る又兼事かねことは同罪とは申ながら元來ぐわんらい愚おろかなる生得しやうとくと相見え淺果あさはかなる致し方故輕追放けいつゐはうの上江戸構かまひ申付る次に宅兵衞事は吾助等が巧たくみは人外なれども其の巧みに陷おちいり兼と密通みつつうしたるは汝が愚おろかなる故なり然ば金子を取れたるは自業自得じごふじとくと言べし此以後心を改め女色に迷まよふ事勿なかれと有て其餘そのよは構かまひなしと申渡され此事落着らくぢやくなしたりけり斯て其日未刻頃やつどきごろ吾助お兼の兩人は追放つゐはうに成しかば何を當あてに行べき方もなく品川宿を打過うちすぎける時吾助はお兼に對むかひ斯かくなる上は最早もはや詮せんなし是よりは約束の通り其方そなたと夫婦になり何いづれへ成共行て暮すべし其の中には又能よき了簡れうけんも出んかと云ばお兼は成程なるほど夫婦倶々とも〴〵に稼かせがば暮くらされぬ事は有まじ夫に付ても宿へ預置あづけおきたる那兒あのこには乳ちゝを飮のませる者もなく嘸さぞや泣ないて居る成ならん吾助殿能思案は候はずやと涙なみだながらに物語るを吾助は聞敢きゝあへず今更小兒の事など言たればとて詮方せんかたなし捨すてた氣に成て斷念あきらめよと何いかにも薄情はくじやうなる吾助の言葉にお兼は忘わすれんとすれども忘れられず心ならずも歩み行に此時後の方より日來ひごろの恨うらみ思ひ知やと聲こゑ掛かけ誰たれやらん拔討ぬきうちにお兼が肩かたより乳の下した掛かけて切下きりさげければお兼は堪らずアツと云て倒たふれたり吾助は驚き何者の所爲しわざなるかと見返へれば是則すなはち別人べつじんならず彼の飯焚めしたきの宅兵衞なれば吾助は大いに怒り汝おのれ如何なれば掛る振舞ふるまひを爲ぞやと云いはせも敢ず宅兵衞は怒いかれる聲を張上はりあげて汝等が此程このほどの致し方如何にも心根しんこんに徹てつし殘念ざんねんなる故訴へ出たる所大岡樣の御仁心ごじんしんにて汝等が命恙つゝがなきことを得たれば我が恨みは猶なほ晴難はれがたし先いで我が刄やいばを請うけて見よと眞向まつかうに振翳ふりかざして切て懸かゝる此時吾助は身に寸鐵すんてつも帶おびざれども惡漢しれものなれば少すこしも恐れず傍そばに落たる松の枯枝かれえだを追おつ取て右に請うけ左ひだりに流し暫しばし戰ひ居たりしが吾助は元來もとより劔術けんじゆつを心得たる男なれば宅兵衞が隙すきを窺うかゞひ持たる太刀たちを打落し痿ひるむ處を續つゞけ打に面おもてを目掛めがけて討ければ宅兵衞は眼まなこ昧くらみて蹌踉よろめくを吾助は得たりと落たる刀を拾ひ取眞向まつかうより唐竹割からたけわりに切下きりさげたれば何かは以て堪たまるべき宅兵衞は聲をも立ず死したりけり吾助は一息いき吐ついて傍あたりを見廻し宅兵衞が懷中ふところを掻探かきさぐり持合もちあはせたる金子五兩二分を奪ひ取り仕合せ宜と獨笑ひとりゑみしてお兼が死骸しがいを見遣みやりもせず鈴すゞヶ森もりの方へと走はしり行こそ不敵ふてきなれ


第十四回


 惡あく裏うらに有者は天てん是これを罰ばつし惡あく表ほかに顯あらはるゝ者は人是を誅ちうすとかや偖さても吾助は宅兵衞を易々やす〳〵と殺ころし懷くわい中の金五兩二分と脇指わきざしを奪うばひ取其上足手搦あしてがらみなるお兼さへ其處に命を落せしかば誠に勿化もつけの幸ひなりと悦びながら足を早めて馳はしる程に頓やがて鈴ヶ森へぞ指懸さしかゝりける斯る所に並木なみきの蔭より中形ちうがた縮緬ちりめんの小袖の裾すそ高たかく端折はしをり黒繻子くろじゆすの帶おびを脊せにて堅かたく結むすび緋縮緬ひぢりめんの襷たすきを懸かけ貞宗さだむねの短刀たんたうを右の手に持顯あらはれ出たる一人の女をんな行先ゆくさきに立塞たちふさがり汝おのれ大惡だいあく無道ぶだうの吾助大恩有る主人と知りながら兄君あにぎみを害がいし岡山を立退のきし事定めて覺え有べし今爰に逢あひしは天の賜たまもの疾々とく〳〵勝負しようぶを致す可しと云時又此方の並木なみきの蔭かげより一人は小紋紬こもんつむぎの小袖一人は小紋木綿こもんもめんの布子ぬのこに股引もゝひき脚絆きやはん甲斐々々かひ〳〵敷出立にて二腰ふたこしを横たへたるが兩人等く顯あらはれ出如何に吾助今は遁のがれんと爲する共とも道みちなし早々さう〳〵恨うらみの刄やいばを受よと双方より詰寄るは是なんお花友次郎忠八等の三人なり其時吾助は發はつと驚おどろきしが元來強氣がうきの曲者くせものなれば呵々から〳〵と打笑ひヤア小癪こしやくなり我を敵と云汝等こそ兄親の目を忍びたる不忠ふちう不義ふぎの曲者くせものなり又汝等が兄喜内は善惡ぜんあく邪正じやしやうの別わかちなく親したしきを愛し疎うときを惡にくむ誠まことに國を亂みだすの奸臣かんしんなる故我討うち取て立退たちのきしを汝等は愚昧ぐまいなれば是を覺さとらず我を敵かたきと付狙ねらふ事偏ひとへに麁忽そこつの至りなり然ながら強しひて勝負しようぶを望のぞむと成ば片かたツ端ぱしより我手に掛かけ今の迷まよひを覺して呉くれんと彼の宅兵衞を殺して奪ひ取たる脇指わきざしを引拔て一討ひとうちとお花を目掛めがけ討うつて掛かゝるをお花は心得たりと貞宗さだむねの短刀たんたうを以て切結きりむすぶに女なれども喜内の妹ゆゑ豫かねて手に覺おぼえも有其上兄の敵かたきと思ひ一心籠こめて切立きりたてれば吾助も侮あなどり難がたくや思ひけん爰を專途せんどと戰ふ程に友次郎も忠八も手に汗あせを握にぎり目ばたきも爲せず控ひかへたりお花吾助の二人は右に拂へば左に支へ一上一下と祕術ひじゆつを盡して踏込々々ふみこみ〳〵戰たゝかふ程に吾助は名を得し曲者くせものなりお花は心猛たけく勇めども流石さすが女の悲かなしさは尖するどき吾助の刄やいばを對戰あしらひ兼かね思はず後退あとずさりなし小石に礑はたと躓つまづき倒たふるゝを吾助は得たりと太刀たち振上ふりあげ只たゞ一刀に討たんとするやお花は眞ま二ツと見えし時友次郎が曳えいと打たる小柄こづかの手裏劍しゆりけん覘ねらひ違たがはず吾助が右の肱ひぢに打込みければ忽ち白刄しらはを取り落すにぞお花は直くと立上り樣吾助が肩先かたさき五六寸胸板むないた懸かけて斫込きりこんだり然れども吾助は死しにもの狂ひ手捕てどりにせんと大手を廣ひろげ追つ捲まくりつ飛掛るをお花は小太刀こだちを打振々々うちふり〳〵右に潜くゞり左に拂ふを吾助は猶も追廻おひまはり進んでは退き退ひきては進み暫時しばし勝負は見ざりしに忠八は先刻せんこくより拳こぶしを握にぎりて控ひかへ居をりしが今吾助が眼の前へ來りし時足あしを伸のばして渠かれが向ふ脚ずねを浚すくひしかば流石さすがの吾助も不意を打れて眞逆まつさかさまに倒るゝをお花は透すかさず駈寄かけよつて左の腕うでを打落うちおとせば吾助は起おきんと齒切はがみを爲す友次郎お花忠八諸共もろとも押重おしかさなり十分止めを刺貫さしとほし終に首をぞ刎はねたりけり斯かゝりし程に所ところの村役人むらやくにん等は二ヶ所にての騷動さうどうを聞傳て追々に馳集り先友次郎等を取圍とりかこみ事の樣子を聞けるに友次郎は容かたちを改あらため我々われ〳〵は元岡山の藩中松田喜内と申者の親類にて右喜内の敵かたき吾助と云者を狙ねらひ討うたんと三年の間所々を尋たづね廻まはり千辛しん萬苦くし今日此處にて出會年來の本望を達したり然る上は如何樣にも所ところの作法さはふ通りに行はれよと少も惡わるびれず答ければ村役人共然らば暫しばらく控ひかへ給へとて當所の名主又品川宿の役人共も立合たちあひ一同評議ひやうぎの上當所の御代官だいくわんへ訴へければ早速さつそく役人中出張しゆつちやう有ありて敵討かたきうちの體てい見分けんぶんあり先友次郎等三人は御沙汰ごさた有迄あるまで名主方に控ひかへ居べしとて番人を嚴重げんぢうに付置おき扨さて此由を備前岡山の城主じやうしゆ松平伊豫守殿まつだひらいよのかみどの江戸屋敷へ問合せに及びけるに此方の元もと家來けらいに相違なきに依引取申度との事なれば此趣このおもむき友次郎等へ申聞きけ近々きん〳〵伊豫守殿御邸おやしきへ引渡すべき間其用意そのようい有べしとの事故三人の悦よろこび大方ならず其日の來るを今や〳〵と待程に其後岡山侯より迎むかへの人數ず來り大名だいみやう小路こうぢの上屋敷へ三人を引取れたり折柄をりから太守たいしゆには岡山在ざい城中なれば家老中からうちう對面有て此度このたびの手柄てがら拔群ばつぐんなりと賞美しやうび有りて遠とほからず岡山表へ差下さしくだすべき旨申渡され夫より五日程過すぎて又家老中より奉書ほうしよ到來たうらい致し明朝みやうてう江戸表發足ほつそく有べし尤も道中警固けいごの爲足輕あしがる十人を差添さしそへらるとの事なれば友次郎等は有難き旨むね請うけをなし翌朝よくてう未明みめいに發足ほつそくせしが三人の中お花友次郎は通駕籠かご忠八は願ひに因てお花の駕籠の側そばに付添つきそふ事を許ゆるされ其外十人の足輕あしがるは前後に立並たちならび若や道中にて非常ひじやうの事も有ばとて專もつぱら用心をぞ爲たりけり斯て始の夜は藤澤宿にて泊り以前世話に成たる旅籠屋はたごや何某なにがしが家に行て厚あつく禮れいを述のべけるに亭主も此程鈴すゞヶ森もりにての敵討かたきうちの事此邊迄隱かくれなく遖あつぱれ御本望ごほんまうを達せられし段だん先々大悦なりと祝しゆくし倶ともに悦び其夜は酒さけ肴さかななど出して種々に待遇もてなしけるにぞ友次郎等は以前に異かはらぬ主あるじの侠氣をとこぎを感じ厚あつく禮物れいもつを贈おくりて夫より路次ろじを急いそぐ程に日成ずして岡山に着ちやくせしかば即日そくじつ太守たいしゆへ目見申付られ花事はなことは一旦出家の望み有由にて出國致せし處兄喜内が凶變きようへんを聞心を俗ぞくに改あらため千辛萬苦しんばんくして首尾能しゆびよく兄の敵を討し段誠まことに女丈夫ぢやうふ共云べし又友次郎事も花を助け敵を討うたせし段信義しんぎ厚あつく賞しやうするに餘り有依て父佐太夫に申諭さとし勘當かんだうを免させ今より花と夫婦になり松田の家を相續さうぞく致すべしと有て又忠八も庭口にはぐちより召れ太守たいしゆへ目見を免ゆるされ其方賤いやしき若黨の身にて主人を助け大功たいこう有し段神妙しんべうなり依て今より十人扶持ふち下され足輕あしがる小頭こがしら申付るなりと家老中より三人へ執達しつたつに及びければお花友次郎は云に及ばず忠八まで君恩くんおんの忝かたじけなきに感涙かんるゐ止め敢ず何れも重々ぢう〳〵有難ありがたき段御請うけ申上て引退しりぞき夫より友次郎は改めて松田の養子となり養家やうかの名跡めいせきを繼ついで松田喜内と改名かいめいしお花を妻となし舊領きうりやう五百石を賜たまはり又忠八は足輕あしがる小頭こがしらとなりて兩家共代々だい〳〵岡山に繁昌はんじやうせしとぞ寔まことに君君たる時は臣しん臣たりと云古語こゞの如く岡山侯賢君けんくんに在まします故に喜内不幸ふかうにして僕ぼくの爲に討うたるゝと雖も其妹いもとに又また勇婦ゆうふ有て仇を討うち家を起せり友次郎も始はお花が色香いろかに迷まよひ出國しゆつこくしたる過あやまちは有ども後のちにお花が助太刀すけだちして美名びめいを世上せじやうに上たる事是偏ひとへに岡山侯の賢良けんりやうなるより下にも又斯る人々ありしと其頃世上に噂うはさせり


松田お花一件終

嘉川主税一件

嘉川主税かがはちから一件いつけん


第一回


 人は只實心じつしんを旨とし苟且かりそめにも僞いつはり欺あざむく事勿れと然るを言行相反し私欲を逞たくましうなす者必ず其の身を亡ほろぼすこと古今珍しからずと雖も人世の欲情よくじやうを脱だつするは難き事ならんか茲に當時嘉川平助高吉と云る御旗本おはたもとあり先祖は輕き御家人なれども柳澤出羽守殿大老職の頃同家へ謟諛へつらひ段々と立身なし有難くも五代將軍綱吉公の御治世ごぢせいの時遂つひに御旗本の列に入り高二千五百石まで加増ありて相應の役柄を勤つとめし家なり然るに平助は四十の歳を越こすと雖も未だ一子なく家名の斷絶だんぜつせん事を歎き親類しんるゐどもと相談さうだんの上小十人組頭金松善四郎とて高七百石を領せし御旗本の二男主税之助ちからのすけと云へる者人品じんぴん歳頃としごろとも相應さうおうなるにより是を乞ひて嘉川の養子に貰ひし處に其後平助は藤五郎藤三郎と云へる二人の男子を儲まうけしかば主税之助を貰もらひしことを悔くゆれども一旦養子とせし上は是非なしとて其後家督かとくを主税之助に讓ゆづりしが其砌そのみぎり平助は主税之助に對むかひ我今度汝を養子とせしにより今度家督かとくを讓ゆづると雖も其方の跡式あとしきは我が實子たる藤五郎藤三郎の内器量きりやうを見立て讓り呉くれよ此事承知なれば兩人とも汝の悴せがれに致すべしと言けるに主税之助畏まり奉つる仰の如く兩人とも某し悴に仕つり嘉川の名跡みやうせきは必ず兄弟の内に繼せ候はん此樣決して御案事有べからずと立派に請合ければ平助は甚だ悦よろこび我等死後には何分宜敷よろしく頼たのみ申と堅かたく申付置たり然るに幾程も無く平助は六十歳を一期ごとして病死びやうししけるにより主税之助は養父の頼の通り兄弟の内に家督かとく繼つがせんと我が子の如く愛いつくしみ育そだてしが其中に主税之助も實子を儲け名を佐すけ五郎と呼び寵愛ちようあい淺あさからず何時しか先代平助の遺言ゆゐごんを忘わすれ己が實子佐五郎に家督かとくを讓らんと思ひ立ち夫に就ては藤五郎藤三郎兄弟を亡者なきものにせずんば此事行ひ難しと茲に惡心あくしん萌きざせしこそ嘉川家滅亡めつばうすべき基もとゐと後に知られける然されば近頃藤五郎兄弟の事は何に依ず惡樣あしさまに罵のゝしり機をりに觸ふれては三度の食を斷たちて與へざる事なども有しかば藤五郎は倩々つく〴〵思おもふやう實子佐五郎出生以來養父母には我が兄弟を疎うとんずること甚しければ兄弟の中へはとても家督かとくは讓ゆづるまじ家名かめい相續さうぞくの出來ぬものなれば身を我儘に暮んと心を決し晝夜酒色に耽ふけりしが頃は享保きやうほ二年六月下旬大岡越前守殿役所へ神田豐島町居酒屋の亭主源右衞門と云ふ者御訴へ申上るとて駈込かけこみければ役人早々奉行へ申立けるに何等の趣意なるや篤とくと糺たゞすべしとのことに付き役人は源右衞門に尋問たづねるに私し儀居酒商賣ゐざけしやうばい仕つり候に今朝一人の侍士さぶらひ入來いりきたり亂心らんしんと相見え家内の者と彼是かれこれ口論こうろん致し諸道具を投散し其上刀を拔立騷ぎ候に付據よんどころなく捕押とりおさへ置候間何卒御慈悲じひを以つて同人宿元やどもとへ御引渡し成下され候樣願ひ奉つり候と申により其段役人より奉行へ申立しかば越前守殿聞屆きゝとゞけられ早速さつそく召捕めしとり方申付られしにより同心兩人源右衞門に案内させ右酒屋に到りて彼のものに對むかひ其方そのはう亂心らんしんと相見え居酒屋ゐざかやを荒あらし家内を騷さわがす段不屆なり因て奉行所へ召連行めしつれゆくにより然樣さやう心得よと申し渡しければ彼の者大いに怒り我は嘉川主税之助かがはちからのすけが悴藤五郎なり町奉行所などへ相越あひこすべきものに非ずと云て種々さま〴〵に惡口あくこうなしけれども役人は頓着とんちやくなく其儘引立連歸つれかへりて白洲しらすに引据ひきすゑ置き大岡殿の前へ出いで樣子を相糺あひたゞし候處嘉川主税之助惣領そうりやう藤五郎と申者に候と御旗本はたもとの事故内々ない〳〵申立てければ越前守殿是を聞れ扨々不行跡ふぎやうせき千萬なり是を表向きの沙汰となす時は渠かれが父の家名にも關かゝはるべしとて思案の上白洲へ出座有て藤五郎を見られ其方儀帶刀をも致す身分を以て不行跡ふぎやうせきに及ぶ事言語に絶たえたる不屆なり汝は浪人か併し住所は何方なるや豈夫よもや住所は有まじ無宿むしゆくであろうなと尋ねらるゝに藤五郎は越前守殿の心を悟らず否々いな〳〵拙者儀は斯かく砂利じやりの上に於て御吟味を受べき身分に御座なく候と云へば大岡殿ナニ汝おのれは砂利じやりの上處か名もなきものならんと有に否いな拙者せつしやは嘉川主税之助悴せがれ藤五郎と申す者なりと云へば越前守殿オヽ然らず藤五郎の家來と申すか然ば亂心らんしんと見えるに依より吟味ぎんみは追て致す先入牢じゆらう申付ると有て假牢かりらうに入置れ早速此段嘉川主税之助方へ申入らるゝ樣其許そのもと御子息ごしそく藤五郎殿家來と申神田豐島町酒屋にて酒興しゆきようの上亂暴らんばうに及候者有之に付此方へ召捕めしとり置候間用役の者一人早々御差越さしこし成なさるべしとの事なれば嘉川の屋敷やしきにては大いに驚き是は概略おほかた藤五郎の事成ならんが大岡殿の仁心じんしんにて藤五郎家來と申越れしと見えたりとて早速さつそく用人の伴ばん佐すけ十郎と言者いふもの越前守殿役所へ罷出ければ越前守殿佐十郎を呼れ其方主人藤五郎召使めしつかひの者亂心らんしんと相見え豐島町居酒屋源右衞門と申者の方へ參り家内を騷さわがしたるに依て此方へ召捕めしとり置たり但し吟味致すべきなれども亂心に紛まぎれなき故今日引渡し遣す尤も由緒ゆゐしよも是有家來ならば隨分ずゐぶん念ねんを入て療治れうぢを差加へ病氣中は座敷牢ざしきらうへなりとも入置が宜からんと申されければ佐十郎ハツと平伏へいふくなし段々御懇情こんせいの御言葉有難く畏かしこまり奉つる主人も定めて忝けなく存候はん早速罷まかり歸かへり御示の如く屹度きつと相守らせ申べく候と涙を流して打喜び夫より藤五郎を請取うけとり駕籠かごに乘せ急いそぎ屋敷へ連歸つれかへりて委細ゐさいを主税之助へ申述ければ主税之助は大いに憤いきどほり偖々さて〳〵不屆千萬の次第奉行所の差圖さしづなれば少しも猶豫いうよならずと早速座敷牢を補理しつらひ是へ閉籠とぢこめ置たりけり然らば大岡殿の心にては藤五郎は先代平助の實子なるにより一旦の不身持さへ改めなば往々ゆく〳〵家督かとくを讓ゆづる者ならんと思はれ何所迄どこまでも家來の體に取扱とりあつかはれしは實に特別とくべつの慈悲じひと云べきを却て主税之助は是を好よき機會しほなりと藤五郎を廢はいして實子佐すけ五郎に家督かとくを繼つがせんと思ひ公儀こうぎへは長男藤五郎は多病と申立己が實子佐五郎を惣領そうりやうに相立度旨願ひし處願の通り仰付られしゆゑ主税之助は豫かねての望みの如くなりしとて大いに悦よろこびしと雖も先代よりの家來は左右とかく藤五郎兄弟を贔屓ひいきなすにより渠等かれら在ありては實子佐五郎の爲にならず此上は藤五郎兄弟をなきものとせんと惡心あくしん彌増いやまして先まづ藤五郎より方を付んとて一日に漸やうやく食事一度づつを與へ干殺ほしころさんとこそ巧たくみけれ然されば無慚むざんなるかな藤五郎は其身不行跡ふぎやうせきとは云ながら僅わづか三疊でふの座敷牢ざしきらうに押籠おしこめられ炎暑えんしよの甚はだしきをも凌しのぎかね些々さゝたる庇間ひあはひの風を待まつ身みとなりし哀あはれさは譬たとへん物ものもなかりけり茲に腰元こしもとお島と言は其以前より藤五郎が密ひそかに情なさけをかけし女なれば此程の體裁ありさまを慕いとほしく思ひ人目を忍びて朝夕の食事其外何くれとなく心を配くばり居たりしに當家の用人伴ばん佐すけ十郎建部たてべ郷がう右衞門山口惣そう右衞門の三人は先殿平助の代より勤め殊ことに山口惣右衞門は藤五郎の傅役もりやくにて幼少えうせうより育て上あげ己は當年七十五歳になり樂勤らくづとめを申付られし身なれば此程の有樣ありさまを見て深く心を痛め主人主税ちから之助へ種々藤五郎の詫言わびごとをなし出牢らう有べきやう申しければ主税之助大いに立腹りつぷくし又しても〳〵藤五郎の事を意見立いけんだてなす條でう不屆なり重ねて藤五郎の事を申さば暇いとまを出さんと慘々さん〴〵に叱しかりければ惣右衞門は是非なく我家へ歸り佐すけ十郎郷がう右衞門の兩人を招まねき先年先殿平助樣の御遺言ゆゐごんもありしを當殿たうどのには左右とかく無理むり非道ひだうの取計ひなるにより此後御兄弟の御身の上如何樣の儀出來んも知れず御兩人を何分御頼み申と涙を流して内々相談致しければ此事を主税ちから之助に告る者ありて種々惣右衞門を讒言ざんげんなせしにぞ主税之助も始終しじうは邪魔じやまと思ひ居たるゆえ是幸ひとて惣右衞門に永の暇を申渡しければ惣右衞門は豫かねて覺悟かくごの事とは云ひ先代よりの勤功きんこうもあるを情なさけなしとは思へども是非なく妻と悴せがれを引連ひきつれ嘉川の邸やしきを立退たちのきけり然れども其の節同役の伴ばん建部たてべの兩人へ返す〴〵も藤五郎兄弟の事を頼み置て其身は神田三河町二丁目千右衞門店なる裏長屋うらながやへ引越ひつこし浪々らう〳〵の身となり惣右衞門七十五歳女房お時五十五歳悴せがれ重ぢう五郎二十五歳親子三人幽かすかに其日を送おくり居たり然るに嘉川主税之助かがはちからのすけは惣右衞門に永の暇を遣してより今は意見いけんする者なく益々ます〳〵惡事あくじ増長ぞうちやうなし藤五郎を彌々いよ〳〵干殺ほしころさんと嚴きびしく食止しよくどめをし其上弟藤三郎當年僅わづか五歳に成を惡にくみて種々折檻せつかんなし剩あまつさへ藤三郎の乳母お安と言女をも永の暇いとまを遣したり其譯わけは此乳母先代平助の時より奉公ほうこうに來り譜代ふだい同樣の極きめにて藤三郎の乳母となせしかば藤三郎を愛いつくしむ事生の親にも勝まさりて彼是かれこれと執成とりなしけるを主税之助夫婦は甚く憎み我子の爲に邪魔じやま成ならんと終に咎とがなきお安を牛込神樂坂水茶屋兄吉兵衞の方へ歸しけり斯かく先代よりの家來に暇を出し新規しんきに抱へる者共には用人立花左仲たちばなさちう安間あんま平左衞門又中小姓には安井伊兵衞孕石はらみいし源兵衞其外徒士かち六人の者を近付ちかづけ主税之助は彌々いよ〳〵惡心増長ぞうちやうして藤五郎の命は此節に至りて實に風前の燈火ともしびよりも猶なほ危あやふけれども只腰元こしもとのお島一人密ひそかに是を勞いたはり漸々と命を保ち居るのみなり然されば新規しんき抱かゝへの用人安間平左衞門と言は當年四十歳餘りなれども心飽あくまで邪よこしまにして大膽不敵だいたんふてきの曲者くせものなり此者金銀を多く所持しよぢなし嘉川家身代しんだいの仕送しおくりをするにより主人も手を下げ萬事一人の計ひなれば邸やしき内の者此平左衞門を恐れ誰一人詞ことばを返す者もなきゆゑ平左衞門は我儘わがまゝ増長ぞうちやうし其上ならず年に似げなく大の好色者にてお島の容貌かほかたち美うつくしきに心を掛かけ間まがな隙すきがなお島を口説くどきけれ共勿々なか〳〵承引せず却て平左衞門を辱はづかしめ惡口あくこうしける故平左衞門は其身の惡き事も思はず渠かれが惡口を大いに憤ほり心中に偖さては此女は藤五郎と言男のある故に我を強面つれなく爲なす成ならんと思ひ夫より種々いろ〳〵と藤五郎兄弟の事を憎にくみて主人主税之助の前へ出藤五郎殿を生置いけおく時は建部たてべ伴ばんの兩人の者は御先代よりの御家來故彼の御兄弟の事を思ひて渠等かれら兩人御支配向しはいむきへ如何の事を申出べきやも量難はかりがたし假令然さなきにもせよ藤五郎殿を盜ぬすみ出さんと此程より渠等かれらが樣子を窺うかゞひ見るに其萌きざしなきにしも非ずと申ければ元より無智短才の主税之助故是を實と思ひ然らば此上は如何はせんと相談なすに平左衞門は得たりと聲を潜ひそめ竊ひそかに毒殺どくさつせん事一の手なるべし先藤五郎殿さへ亡者なきものにする時は跡あとに障さはりなしと言へば主税之助大きに悦よろこび好機よきをりのあれかしと見合せ居けるとなり


第二回


 然されば嘉川主税之助は何卒なにとぞして藤五郎を害せんと思ひ新規しんき抱かゝへ入れ用役ようやく安間平左衞門と種々談合致しけるを腰元こしもとお島此事を竊ひそかに知りける故大いに打驚き早々此由を内々にて伴ばん建部たてべの兩人へ告知らせければ伴建部の兩人も甚だ駭おどろき此儀一日も打捨置難うちすておきがたし御兄弟諸倶もろともに主税之助樣の計略に係かゝり御命を失はるゝ時は嘉川の御家名斷絶だんぜつせん事必定ひつぢやうなり如何はせんと兩人竊ひそかに額ひたひを合せて談ずると雖も好よき分別ふんべつも出ざれば先々此儀山口惣そう右衞門に相談さうだんせんと夫より伴ばん佐すけ十郎は急ぎ神田三河町二丁目山口惣右衞門の方へ到りて對面たいめんの上右の一條を種々と談合だんがふしければ山口も毒殺のことを聞大いに駭おどろき其許そのもとの云るゝ如く此事少しも延し難し若打捨置うちすておく時は一大事ならんにより片時も早くお島と申合せ御兄弟諸共一先盜み出し其後支配へ屆け何卒して先せん御主人の御血脉けつみやくを絶たゝさぬ樣に致しなば我々われ〳〵が臣たる道も立により此上は急ぎ御二方を救ひ進らせん事專要せんえうなり此儀御兩所の力を偏ひとへに御頼み申なりと言ければ佐すけ十郎は合點うなづき何樣なにさま御尤も至極なれば早々郷右衞門お島ともに申合せ取計ふべけれども御兄弟を救ひ出せし上御二方を隱匿かくまひ進まゐらするは何方が宜しからんと申せば其儀は少しも心を勞されな年こそ寄たれ此惣右衞門御兄弟を隱し置頓やがて愛度めでたき御家督に居すゑ奉たてまつらん必ず〳〵氣遣ひ仕給したまふまじと請合ければ佐すけ十郎然らば豫かねて申通り勿々なか〳〵手延になり難ければ今明日の中是非とも御救ひ申べし何どの道にも一と先爰許こゝもとへ御連申さんと堅く約束なし佐すけ十郎は急いそぎ立歸りて此段建部郷右衞門にも話しければ建部も深く悦びつゝ夫より竊ひそかに右の由を腰元のお島にも話し置其節は必ず頼むと示合せて互に能よき機をりを窺ひ居たりし處頃は享保三年十二月廿一日朝より大雪降りて其寒き事誠に堪難く何國も銀世界となり庭の木立は時ならぬ花を生ぜしかば主税之助は新參しんざんの用役ようやく安間平左衞門立花左仲たちばなさちう其外氣に適あひたる佞臣ねいしんどもを集め雪の寒を凌がんと晝より酒宴しゆえんを催もよふせしが呑のめや謠うたへと調子づき追々亂酒らんしゆになり夜に入ると雖も猶更に各自おの〳〵謠ひ淨瑠璃じやうるりにだみ聲を張上はりあげ遂にはすてゝこ踊をどりやかつぽれと醉に乘ぜし有樣は何時果べきとも見えざりけり然るに伴建部の兩人は先代よりの用役ゆゑ兎角とかく煙けぶたく思に付此酒宴しゆえんの席へ呼ざるを兩人は是ぞ屈竟くつきやうの幸ひ此機をりにこそ我々が望みを達せんと竊に悦び猶彼是と心を配りしが今宵こよひは是非共過さじと女房にも此事を話し其方は御裏門うらもんに待受て藤三郎樣の御供をなし神田三河町惣右衞門の方迄立退たちのくべし藤五郎樣には我々御供を致し後より行んほどに必ず共に仕損しそんずまじと申含め置豫々かね〴〵相圖あひづの支度してお島が手引を相待けり然るに奧にては夜の更行ふけゆくに隨ひ酒宴の騷ぎも漸次やう〳〵に薄うすらぎ最早座敷も引て皆々席を退き臥床ふしどに入ければ夜は深々しん〳〵と降積ふりつもる雪に四邊あたりの䔥然しめやかにて鼾いひきの聲のみ聞えるにぞ伴ばん建部たてべの兩人は今や〳〵と窺ふ機をりお島は藤三郎を抱上いだきあげ小用こように連行つれゆく體ていに持成もてなし座敷々々を忍び出て漸々やう〳〵に錠口ぢやうぐちへ來りければ待儲まちまうけたる兩人は密そつと請取りお島は佐十郎の耳に口を寄せ先まづ藤三郎樣の御事を計ひ夫より御兩人倶ともに御庭の垣を越てお小座敷より忍入藤五郎樣の入せらるゝ處へ御出候へと申ければ佐十郎打點頭うちうなづき呉々くれ〴〵も頼むと言置いひおき兩人共に先藤三郎樣を連行つれゆかんと其處そこを立去たちのき出るに雪は彌々いよ〳〵降頻ふりしきり其寒き事絶え難く漸々と裏門口へ出れば豫て宵より伴建部兩人の妻女お松お花は夫と云い合わせて有る事なれば寒きを厭はず待居たりしが斯と見よりお松は立寄より藤三郎を肌はだに脊負せおひお花と供に三河町を指て急ぎけり又伴建部の兩人は腰元お島が働きにて難なく藤五郎の押込おしこめある組牢くみらうの處に到り見るに哀なる哉藤五郎は主税之助が惡心により日外いつぞやより日々食物を斷たゝれてあれば惣身そうしん痩衰やせおとろへ眼は窪くぼみ小鼻も落て此世の人とも見えざるゆゑ兩人の用人は涙なみだを流し是が嘉川家の若殿樣の有樣なるか扨々淺ましき御事なり少しも早く御連退つれのき申さんと兩人して組牢くみらうの柱はしらを一本音のせぬ樣に漸々引拔ひきぬき郷がう右衞門は藤五郎を脊負せおひて夫より座敷々々を忍び出れど若もし此期このごに臨のぞみて出合者いであふもの有あらば最早一生懸命しやうけんめいに討果うちはたさんと伴佐すけ十郎は前後左右に眼を配くばりながら刀を拔持ぬきもちて郷右衞門の後に添藤五郎を守護しゆごなし漸々と忍び出以前の裏門の潜りを開て外へ出立ホツと一息いき吐つき夫それより兩人は惣右衞門の方へと走りたり扨さて又また三河町なる山口惣右衞門は此事を晝ひるの中に伴建部の兩人より申越こしたれども惣右衞門は此節病氣にて起居たちゐも自由ならざれば今宵こよひ邸やしき内へ行ゆき働はたらく事能はず又悴重五郎は九月中より御代官だいくわんの供をして他國へ行し故是も今度の用に立ず斯打臥うちふし居て御兄弟樣の遁のがれ來らるゝを待事まつこと本意なさよと宵より頻に聞耳を立てゝ枕をもたげ我身の病苦は打忘うちわすれて幾度いくたびとなく家内のものを門へいだしては氣を焦いらち只々藤五郎兄弟を待詫まちわびてぞ居たりけり


第三回


 斯かくて其夜も追々おひ〳〵に更渡ふけわたり早はや子刻こゝのつも過丑刻やつの鐘かねも遙はるかに聞え軒端のきばを誘引さそふ雪風の身に染々と冷るに何此眞夜中まよなかの大雪に伴ばん建部たてべの計りし事ゆゑ首尾能しゆびよく御屋敷おやしきは遁のがれ出給ふ共自然と途中にて凍えは爲給したまはぬか嘸さぞや夜道は御難儀ならんと老の心のやるせなく女房に對むかひコレお時やアヽ何も己は御二人樣の事が案事あんじられてならぬ今夜も彼是最もう今に寅刻なゝつなれば今迄沙汰のないは萬一ひよつと渠等かれらが仕損そんじはせまいかと此胸このむねが落付おちつかぬ我年こそ寄れ此病氣でさへ無なき成ならば第一番に御邸おやしきより御二人樣を御連つれ申さんに佐すけ十郎郷右衞門の兩人にのみ骨ほねを折をらせ斯かくのめ〳〵と我が宅に居ん事眞に云甲斐かひなしとは言いひ何分病には勝難し偖々さて〳〵何か仕樣しやうは有まいか萬一此事を仕損しそんじなば御二人の御命にも關かゝはるならんと起とつ臥おひつ氣を揉もむ機をりしもゴウゴウと耳元近く聞ゆるは東叡山とうえいざんの寅刻なゝつの鐘かねコリヤ斯うして居られぬと物に縋すがりて立上り蹌踉ひよろめく足あしを踏しめつゝ二足三足端はし近く出行機會とたん裏口に人の足音爲ければ惣右衞門は耳引立て那あれお時何やら裏うらで聲がするコレさお時早く行や行て見て來やれ是さ〳〵と急立せきたてられ女房は早々に立出誰殿かと云に彼の者小聲にて然言さういう聲こゑはお時樣やれ〳〵嬉うれしやと言を聞きゝ門かどの戸を明ればお松お花の兩人は藤三郎と倶ともに雪まぶれに成しを打拂うちはらひて内に入お松は藤三郎を脊せより下おろしければお時は是を見てやれ〳〵若樣わかさまか此のお寒いのに能よく先まづ御出遊ばしたお松樣もお花樣も嘸さぞかし御寒おさむいことで御座んせう先々早ふ此方へと案内あんないしけるに兩人は藤三郎を伴ともなひ奧おくへ這入はひれば惣右衞門は待構まちかまへし事ゆゑ我を忘れて打喜うちよろこびやれ〳〵嬉しや南無金毘羅こんぴら大權現だいごんげん心願しんぐわん成就じやうじゆ有難やと泪なみだを流して伏拜ふしをがみテモマア此寒さに御機嫌ごきげんよくと藤三郎を撫摩なでさすりなどする中に伴佐十郎建部たてべ郷右衞門の兩人はお島が働きにてなんなく藤五郎を救すくひ出いだし是も同じく脊に負おひながら此處へ急いそぎしに男の足故程なく來りければ皆々大に悦よろこび合あひ先是にて一安堵あんどと一同に太ふとき息いきをホツと吐つき夫より皆々火鉢に寄て雪に濡ぬれたる衣きぬなど乾ほしながら郷右衞門云樣やう斯かく二方樣共首尾能盜ぬすみ出せしゆゑ明日は必定ひつぢやう御邸おやしきにて尋ね探さがさん然すれば豫かねて御邊が此處に住居せらるゝを知事しることなれば是非共爰こゝへ尋ね來るべきにより御兄弟樣此儘このまゝ爰こゝには差置參らせ難し此儀如何せんと相談さうだんせしかば惣右衞門は點頭うなづき其儀は先せん殿樣の御恩に成し御出入りの陸尺ろくしやく七右衞門は男氣の者にて須田町すだちやう一丁目に住居致せば此者を頼みて渠かれか方へ御二方共に竊ひそかに忍ばせ申さんと某し豫てより思ひしか共此病氣にて渠かれの方へ行事能はず夫故未だ渠には申談ぜざれども貴殿きでんより御頼みあらば承知しようち致いたさんと云に郷右衞門其儀は至極しごく然しかるべきにより片時も早く某し是より須田町一丁目へ馳參はせまゐり陸尺ろくしやく七右衞門に折入をりいつて頼み申べしと立上るを皆々夫は何共此大雪にと云けれども郷がう右衞門是迄これまでの處をさへ爲課しおほせし事なれば此上の駈歩行かけあるきに雪位はおろかなり殊に是より須田町までは僅わづかの道みちゆゑイデ片時へんじも早く到いたらんと此處を立出七右衞門の方へぞ急いそぎける程ほどもなく須田町一丁目へ來り七右衞門の門を叩たゝきて案内あんない申入ければ七右衞門の家内は夜中の事ゆゑ不審いぶかり何れの邸やしきよりの使にや未いまだ夜の明あけざるに來る事能々よく〳〵火急くわきうの用向ならんと思ひ尋ねければ郷右衞門は據よんどころなき要用えうようにて罷越まかりこしたり七右衞門在宿ざいしゆくなれば面談めんだん申度と言入いひいれけるに七右衞門在宿に候と答へながら出迎でむかひ是は〳〵郷右衞門樣何御用にて斯かく早はやく御出なされしやと申ければ郷がう右衞門然されば未だ夜の中より來りしは貴樣きさまが男氣を見掛みかけて竊ひそかに頼たのみ度一條ありと云を聞きゝ七右衞門然されば先此方こなたへと一間へ通とほしけるに郷右衞門聲を潜ひそめ藤五郎兄弟の事を委細ゐさいに語りければ七右衞門夫は〳〵とばかりにて惘あきれ居たりしかば建部は膝ひざを進すゝめ右の次第ゆゑ何卒御二人樣を暫しばしの内隱匿呉かくまひくれらるゝ樣偏ひとへに頼たのみ申と言いひければ七右衞門は元來もとより男氣の者なるに付段々だん〳〵郷右衞門の物語りを聞きゝ主税之助が惡意を憎にくみ殊更ことさら先代の厚恩こうおんを受し者故委細を汲取くみとつて郷右衞門に向ひ扨々恐れ入たる御物語り御二方おふたかた樣の事は私しが身に代かへても御引受おひきうけ申し上あげ御世話仕つるべければ必ず〳〵御氣遣おきづかひ成なされまじと世に頼母たのもしく引請ければ郷右衞門は大いに悦び然しからば明方迄あけがたまでには御連おつれ申さんにより呉々くれ〴〵も頼たのむなりと云ひ置て立歸りしに七右衞門も斯かく請合うけあひし上はとて己も郷右衞門の後あとより大雪をも厭いとはず三河町なる山口惣右衞門の方へ到り猶なほも惣右衞門に對面たいめんして委細ゐさい己おのれが心底しんていを語かたりければ惣右衞門始め一同七右衞門の氣質きしつを感かんじ惣右衞門は病氣故ゆゑ萬事心に任せず迚とて偏ひとへに郷右衞門を頼たのみける故七右衞門は委細呑込のみこみ然る上は佐すけ十郎樣郷右衞門樣とても此方こなたに在あられては宜しからず御兄弟樣の御供して手前の方へ御越おこし成なさるべしとて伴ばん建部たてべ夫婦の者も倶ともに主從都合六人を早速我方へ連歸つれかへり何是なにこれとなく心切しんせつに世話をなしける事實げに頼たの母しき男氣をとこぎなり


第四回


 斯かくて翌よく廿二日の朝あさ嘉川家の人々藤三郎の見みえざるを不審ふしんに思ひし所藤五郎を入れ置きし囹をりも破やぶれ其上伴建部等も居らざれば大いに驚き騷さわぎ邸内やしきうちの者共を殘らず呼出よびいだし吟味に及びけれ共皆々一向かうに知らざる旨むね申ければ主税之助は憤怒いきどほり是れ必らず腰元こしもとお島の手引てびきにて藤五郎兄弟を佐すけ十郎郷右衞門の兩人に盜み出いださせしに相違有あるまじ然さすれば先づ三河町二丁目の惣右衞門が方を尋ね見みるべしと有て早速孕石はらみいし源兵衞安井伊兵衞の兩人を呼よび三河町なる右みぎ惣右衞門の方へ探さぐりに遣はし置き猶なほ又また安間平左衞門立花左仲の兩人を相手に種々と相談さうだんに及びけるに兩人も是これは正まさしく殿とのの御考への通り伴建部と申し合せお島の手引に疑うたがひなしとの事ゆゑ夫れよりお島を呼付よびつけ藤五郎兄弟は其方が手引てびきして佐十郎郷右衞門の兩人に盜ぬすませしに相違有るまじ眞直まつすぐに申せと責掛せめかけ若し此事を言ざるに於ては仕樣しやうが有るぞと威おどし付けれどもお島は努々ゆめ〳〵手引など致せし覺おぼえ之これなしと答ふるを聞き安間立花の兩人目をむき出し汝なんぢ何故なにゆゑに知れたる事を陳ちんずるやあり樣に申すべしと頻しきりに責付せめつくると雖もお島は恐るゝ面色けしきもなく假令たとへ如何樣に仰せらるゝ共私しは更らに存じ申さず殊に伴ばん建部たてべの御兩所は此御邸おやしきの案内は私しより能く存じ居らるれば何として私し風情ふぜいの手引を頼みに斯かゝる大膽だいたんなることを致され申さんや此所能々御推察下すゐさつくださるべしと申しければ主税之助は疊たゝみを蹴立けたて扨々口くち賢かしこく云ひぬかす女め汝おのれより外に此手引このてびきをする者なし然さるに因て汝を詮議せんぎするぞ有樣に吐ぬかせばよし若し此上にも取隱とりかくさば憂目うきめを見せんと云へども知ぬとばかりゆゑ立花左仲は立掛たちがゝりお島を引立ひきたてて庭にはに連行つれゆき衣類いるゐを剥はぎて雪ゆきに氷こほりし松の木に縛しばり付つけ割竹わりたけを以てサア有體に云々いへ〳〵と嚴きびしく打擲うちたゝき種々手を替かへ責せむると雖もお島は更に屈くつせず後には眼まなこを閉とぢて一向に物を言はざれば主税之助は彌々いよ〳〵怒り此奴こやつ勿々なか〳〵澁太しぶとき女なり此上は槍玉やりだまに上あげて呉んずと云ひつゝ三間柄えの大身の槍を追取鞘さやを外はづして小脇こわきに抱込かひこみお島に對むかひサア汝言はぬか何どうぢや言ぬと此槍が其の美しき體からだに御見舞申すぞ是でも言はぬか〳〵と既に突つくべき勢ひゆゑ安間平左衞門は是を押止おしとゞめ暫時しばし御待ち下されよと言ふ處へ安井孕石の兩人は立ち歸りければ主税之助は兩人を見みるや否いなや樣子は何どうぢや行衞ゆくゑは知れたるかとの尋ねに兩人言葉を揃そろへ仰せに隨ひ三河町二丁目を種々いろ〳〵と穿鑿せんさく仕つり候處居酒ゐざけ商賣の裏長屋うらながやにて漸々やう〳〵と尋ね當り彼の惣右衞門に仰せの趣きを申し聞かせ樣子を探さぐり候へども藤五郎樣御兄弟の行衞ゆくゑは一向に存じ申さずと申し其上そのうへ惣右衞門は病氣にて臥居ふしをり又また彼かれが悴せがれ重五郎も他國へ行ゆきしよしにて家内には只たゞ惣右衞門夫婦のみ居をり候まゝ種々いろ〳〵尋ね候へ共何分知らざる由ゆゑ夫れより近所合壁がつぺきにて承たまはり候と雖どもこれと申す取留とりとめたる儀は御座なく候とぞ申しける


第五回


 然されば主税之助は大いに氣を焦いらち左とに右かく今度の儀を惣右衞門の知らざる事の有るべきやと足摺あしずりして急遽あせるゆゑ立花左仲は進み出いで只今兩人の申す如くにては勿々なか〳〵穿鑿せんさく行屆ゆきとゞくまじ此儀今一應私し三河町へ罷り越こし一手段仕つり度たしと云ければ主税之助は大いに悦び然らば其方猶なほ此上の穿鑿せんさく致すべしと云けるに夫れより左仲は直樣すぐさま三河町にと馳行はせゆきたり偖さて主税之助は又々お島の傍そばへ行ゆき汝先程より種々いろ〳〵と尋ぬれども一向に白状せず扨々憎にくき女めと言樣いひざま又も槍を追取て種々さま〴〵と威おどしけれどもお島は觀念くわんねんせし體ていにて眼を閉とぢし切ぎり一言も發せず居るゆゑ平左衞門は豫かねてお島に心あるにより又々押止おしとゞめ先々まづ〳〵御待ち成さるべし手引は渠かれが致せしにもせよ盜ぬすみ出せしは伴建部の兩人なれば此者どもの有家ありかさへ知るれば藤五郎殿御兄弟の行衞ゆくゑも知れ候はん其の上にて如何樣いかやうとも御存分に遊ばされて遲おそからずと取りなす處へ立花左仲息急いきせきと歸り來れば如何に左仲手係てがかりなりとも知れたるかと尋ぬるに左仲答へて左さん候ふ私し三河町へ參り見候處彼等兩人申す如く惣右衞門は全くの病氣にて又悴せがれの重五郎も御代官の供ともをして他國へ行しに相違なし因て渠かれが隣家りんかの者を種々いろ〳〵に賺すかし其夜の樣子を相探あひさぐり候處一人の者の申し候には夜前やぜん深更しんかうに及びて惣右衞門方へ人出入ひとでいりの有し樣子に相聞え候と申す故ゆゑ猶々なほ〳〵穿鑿せんさく致し候處其後陸尺ろくしやくの七右衞門が惣右衞門方へ來りて種々いろ〳〵の話しの體ていなりと申し候然さすれば彼の惣右衞門も自分の方に置おく時は忽ちに知れんことを思ひ御先代よりの御出入の縁えんを以て陸尺ろくしやくの七右衞門を頼み匿かくまひ置おき候と相見え候然すれば藤五郎樣御兄弟は須田町一丁目なる陸尺の七右衞門の方に匿かくまひ置くに紛まぎれ御座なく候さふらふとしたり顏にて言ひければ主税之助大いに喜び成ほど其方が穿鑿せんさく能よくも行屆きたり扨々憎にくき奴輩やつばらかな此儘捨置すておく時は事の破れなれば假令たとへ病氣なりとも直樣すぐさま惣右衞門めを引摺ひきずり來れ我れ自身吟味せんと敦圉いきまき荒あらく申しけるを安間平左衞門は是れを制せいし惣右衞門事こと舊もとは御家來に候とも當時は御暇いとまの出でたる者ゆゑ是非は兎とも角かくも彼の方へ連退つれのき匿かくまふと申す程のことなれば渠等かれらも根深ねぶかく巧たくみたると相見え候へば勿々なか〳〵以て容易の儀には參るまじ然されば何事も此方にて後手ごてに成ならざる樣に表向おもてむき御吟味御請おうけ成なさるべしと申しければ主税之助は是を聞て大いに駭おどろき若もし此事表立おもてだて吟味を請うける時は是非共今迄の惡事を彼等より逐ちく一申し立て露顯ろけんに及ばん我れ夫れを言解いひとかん道なし是れ自ら石を抱いだき深き淵ふちに臨むの道理にして何れの道にも負公事まけくじなり何か外に能よき思案こそ有らまほしけれ此儀兩人にて我れを救ひ呉くれよと申しけるに平左衞門も左仲も此體このていを見て苦々にが〳〵しく思ひ左樣に御心おこゝろ弱よわくては叶かなふまじ是れ迄の事共も豫かねて其御覺悟なくしては成るまじくと存ぜしに只今の御樣子にては聊いさゝかも其御覺悟そのおかくごなく成なされし事と相見えたり然さりながら今更夫れを彼是かれこれと申すも詮せんなき事に候へば先々まづ〳〵御心を鎭しづめ給へ篤とくと御相談の手段も御座候ふべし古語こごにも遠とほき慮おもんぱかりなきときは近き憂うれひありと申すは正まさしく是なるべし然されども三人寄よる時ときは文珠もんじゆの智慧ちゑ此平左衞門左仲御附つき申し居をる中うちは御安心成なされ能々御思案候べしと種々相談しける中うち良やゝ半日餘りお島が雪の中に縛いましめられ身神しんしんともに冷凍ひえこゞえ人心地ひとごこちもなき體ていを見て平左衞門は差圖さしづをなし藤五郎を押籠おしこめ置おきたる牢らうの中へ入れさせ番をつけて差さしおきたり


第六回


 然されば嘉川主税之助は我子の愛に眼まなこ昧くらみ終に其家名を失ふに至る事是これ汝なんぢに出いでて汝に歸るの古言宜むべなるかな此度伴ばん佐すけ十郎建部郷右衞門の兩人藤五郎兄弟を救すくひ出だし山口惣右衞門并びに陸尺ろくしやくの七右衞門と申し合せ兄弟の者を深ふかく匿かくまはんとする故ゆゑ主税之助は詮方せんかたなく安間平左衞門立花左仲を相手に種々いろ〳〵と相談せしが寧いつそ此方このはうより支配しはいへ委細ゐさい屆書とゞけがきを差出し表向おもてむき吟味を請かうべしと頓々やう〳〵に決定して立花左仲は頓やがて支配へ書面を持參ぢさんせんと爲時するとき安間平左衞門は左仲を呼止よびとめ御邊ごへん此書面の趣意を能々腹はらへ入れ置き若もし宮崎内記儀直々ぢき〳〵御尋ねあらば其時こそ日頃の智辯ちべんを振ふるひ宜しく申し爲し給ふべしと何か耳語さゝやきければ左仲は微笑ほゝゑみ此書面は貴殿の認められしことなれば我れ能々腹はらに納をさめて持參致し某し日頃の能辯のうべんを以て天晴上首尾じやうしゆびに仕課しおほせ申すべしとて獨り誇ほこり顏がほに支度を調とゝのへ飯田町なる支配宮崎内記殿の邸やしきへと急ぎしかば程なく宮崎殿の邸やしきへ到いたり同家の用人溝口みぞぐち三右衞門に面會めんくわいして右の段委細申し入れ御屆おんとゞけ書面は主税之助持參ぢさん致すべきの處病氣に付き拙者より差出し候旨むね申し述のべければ三右衞門是を請取うけとり左仲を控ひかへさせ置て内記殿の前に出で嘉川主税之助用人立花左仲の口上を申し述のべ屆書差し出しけるに内記殿は是れを披見ひけんせられし所其書面に曰く

書付かきつけを以もつて申上候

一先達せんだつて御屆申上置候嫡子ちやくし藤五郎儀昨夜中座敷牢ざしきらうを破り弟藤三郎並びに家來けらい伴ばん佐すけ十郎建部郷右衞門の者共とも行方ゆくへ相知れ申さず其上私し居間ゐまに之有これあり候金子百兩紛失ふんじつ仕つり候是等の儀は右みぎ家來共兩人の仕業しわざと存じられ候勿論もちろん同人共舊來きうらい思ひ掛の事も御座候處其事を果さず候に付亂心らんしんの藤五郎を誘引さそひ出し惡巧わるだくみ致すべく存念と推察すゐさつ仕つり候之に因て渠等かれら御召捕之上其筋すぢ御吟味下し置れ候樣やう仕つり度此段書付を以て御屆申上候

享保三年十二月廿三日
嘉川主税之助 印
宮崎内記殿

右の如くの屆書なれば宮崎殿眉まゆに皺しわを寄よせられ一通り自身じしん承うけたまはらんにより其立花左仲とやらを是へ呼出よびいだすべしと申されけるに用役の溝口三右衞門は早速さつそく左仲を呼出しけるに内記殿見られ只今差出しの屆書の趣き篤とくと披見ひけん致し候處此儀容易よういならざることなり尤も先達せんだつて差出せし屆け書に藤五郎儀病氣と申す事は是あれ共嫡子ちやくし并に弟藤三郎まで一夜の中に家出いへで致し行方ゆくへ相知れず加之そのうへ家來兩人も逃亡かけおちせしなどゝは何か其意を得ざる事共にて甚だ家事不取締ふとりしまりなることなり殊に其家來は家の重役と云ひ先代より召使めしつかひし者の趣きなれば旁々かた〴〵以て怪敷あやしきことに思はるゝ併し家來の儀は兎も角も子息の行方ゆくへ知れざることは一寸の間まも打捨うちすて置れざる儀ゆゑ主税之助自分じぶん參向さんかう有られるやうに早々罷まかり歸りて急度きつと申聞べしと申渡され内記殿には主税之助不參ふさんの儀甚だ等閑なほざりなりと申さぬばかりの樣子にて少し憤いきどほりを含ふくまれければ左仲は其心を汲取くみとりて大いに恐れ入り仰せの趣き畏かしこまり奉つり候へども先刻せんこく私しより申上候通り誠に折惡をりわるく主人主税之助事病氣に候間據よんどころなく家來を以て右の段申上奉つり候何卒なにとぞ格別かくべつの御慈悲を以て右書面の趣き御聞取成下され候はゞ此上もなき有難き仕合しあはせに存じ奉つり候と云へば内記殿然しからば其方名代みやうだいに罷り出いづる程の者なれば萬一答へが出來るかと申さるゝに左仲不肖ふせう乍ながら主人の家事向むきは支配をも仕つり候私しに御座候へば大概おほむねの所は御答への儀申上候はんと云に依て内記殿内心に此者の樣子を見らるゝ處一癖ひとくせあるべき奴と思はれしかば暫しばらく思案しあんの體ていに見えたりけり


第七回


 扨も内記殿は左仲が樣子佞辯ねいべん奸智かんちの曲者くせものと見て取り大いに怪あやしまれけれ共先まづ一ト通り事を糺たゞして見んと思はれ猶又左仲に對むかひ其方儀家の支配を致し候故概略おほむね答へんとの事なるが然らば其方に尋ぬべし書面に是有これある所の建部たてべ郷右衞門伴ばん佐すけ十郎の兩人舊來きうらいの思ひ立ちとは如何なる譯なるぞ此儀心得居るかと申さるゝに左仲は爰こゝぞと思ひ其の事故ことがらは嫡子ちやくし藤五郎亂心らんしん仕つり候に付先達せんだつて御屆申上候弟佐すけ五郎を以て家督かとくに仕つり候儀を右兩人の者共不得心ふとくしんにて藤五郎弟藤三郎を嫡子ちやくしに立てべき旨むね主人へ度々相勸あひすゝめ候得共藤三郎儀は未だ幼少えうせうと申し其上多病たびやうの生うまれ付に御座候ゆゑ主人主税之助承知しようち仕つらず候を渠等かれら兩人野心やしんを差挾さしはさみ候事と相見え候と邪辯じやべんを震ふるつて申しければ内記殿は是を聞かれ其方の申す通りなれば其建部たてべ郷右衞門伴ばん佐すけ十郎の兩人は先代平助以來よりの家來と相見えたり當主主税之助は先代平助の實子じつし藤五郎兄弟の中を家督かとくを致すべき遺言ゆゐごんを受たる趣きなれば藤五郎を廢はいする以上は藤三郎を家督かとくになすべきは順當じゆんたうなるを世評せひやうの樣子にては何どうやら主税之助が甚だ欲情よくじやうに關かゝり自身じしん實子の佐五郎を家督かとくに致せしとの事餘人は兎ともあれ此内記が心には是れ甚はなはだ如何いかゞのことに思はるゝなり然されば渠等かれら兩人は先平助の代より舊來きうらいの家來共の事故藤五郎が病身びやうしんの時は弟おとゝの藤三郎に家督かとくを繼つがせんと思ふは理の當然ゆゑ藤三郎を順養子じゆんやうしに爲なさねば成ず否いやサ是は只某しが話なり尤も夫には又種々しゆ〴〵の込入こみいつたる仔細しさいも有べし併しかしながら建部郷右衞門伴ばん佐すけ十郎兩人の家來は先平助へ對しての義理合あひも思ひ彼是かれこれにて弟藤三郎を家督かとくにせん事を主人主税之助へ勸すゝめしならん然るを主税之助不得心とあらば右等の事に付主從しうじうの中なか不和ふわに罷り成しと相見たりと有しかば左仲も理の當然たうぜんゆゑ是非ぜひなく御意ぎよいの通りと申けるに又居間ゐまの金子百兩紛失ふんじつせし趣き是は郷右衞門佐すけ十郎兩人の其夜逐電ちくでんの事故彼の金子は渠等かれら兩人が盜ぬすみ取し事と主税之助始め皆々疑うたがふと見えたりと申さるゝに御意ぎよいの如く此金子ばかりは全まつたく渠等かれら兩人の者が盜み取しに聊いさゝか相違御座なく候と申しければ内記殿コリヤ其方左樣さやう申す上うへは其金子渠等かれらが盜ぬすみしと云ふ屹度きつとした證據有りや全く折惡敷をりあしく紛失ふんじつの事故渠等を疑ふものならん汝が今申す通とほりにて慥たしかなる證據有て申すが如し然らば其證據より承うけたまはらんと申されければ流石さすが奸智かんちの左仲なれども一句も出ず居るを何どうぢや證據有りやと言いはるゝに左仲恐れ入りましたと閉口へいこうなせしかば内記殿益々ます〳〵不審ふしんに思はれ其は折惡をりわるき事故疑ふも道理もつともなれど今汝が如く申す時は證據にても有るかと思はる兎角とかく紛失物ふんじつものなどは人を疑ひし後にて手前に有る事もあれば此儀は右兩人を召捕めしとり篤とくと吟味の上ならでは決定けつぢやう仕難しかたし其儀如何とあれば今汝が申す方此内記甚だ信用しんようせずとの詞ことばの中に拵こしらへ事と正鵠ほしを指さゝれしにぞ左仲はグツと再度ふたゝび閉口へいこうの樣子ゆゑ良やゝあつて内記殿何は兎ともあれ藤五郎兄弟の者の行方ゆくへ又家來兩人の在所ありかとも早々尋ぬべし此義考かんがふるに渠等かれら兩人の者主人の子息しそくを誘引出さそひだせし事餘の儀にあらず藤五郎病氣の上は藤三郎を家督かとくに爲せんと其の事上向かみむきへ願ふ存念ぞんねんならん然樣さやうの儀ならば奚なんぞや斯かくせず共致し方如何程も有べきに忠義の志こゝろざしは却つて主家の害がいとならん併しかしながら屆けの趣き聞置なり呉々くれ〴〵も右の者ども行方ゆくへは早々吟味致し若し市中しちうに居ゐるを見當あたらば屹度きつと其處に張番を付け置き此方と并に町奉行へ屆け出よ必ず權威けんゐを施ほどこす事なく成丈なるたけ穩便をんびんにすべし萬一手荒てあらがましき事相聞えなば屹度きつと沙汰さたに及ぶぞ又此度の儀は輕かるき事にあらねば早速御用番の若年寄わかどしより衆に進達しんたつに及ふべし此旨主人へ篤とくと申聞けよとて席せきを立れしかば左仲は思ひの外ほかなる事ども故早々屋敷やしきへ歸かへりけり


第八回


 然しかるに立花左仲は宮崎内記殿にて種々いろ〳〵尋ねられし事ども委細ゐさい主人へ申聞きけんと急ぎ立歸りて主税之助の前へ出いでければ主税之助は待草臥まちくたびれし機をりゆゑ直樣聲を懸かけ如何に左仲内記殿の方にて何なんと云れしや何どうぢや〳〵と急立せきたちて尋ぬるに左仲は未だ座にも着つかぬ樣さま故ゆゑ甚だ答へに困こまりける主税之助は其次第を聞んと頻しきりに急ぎしかば左仲は太息といきを吐つき今日私し宮崎樣の御屋敷へ罷り越こし御屆書を差上げし處内記樣早速御逢おあひ成なされて御屆け書がきの趣き逐ちく一御尋問たづね有りける故其次第を申立候處先まづ御聞濟おきゝずみの樣には候へども何か此方の御樣子ごやうすを内記樣御聞込おきゝこみありて豫あらかじめ御悟おさとり成なされたる體ていに御座候其上伴ばん建部たてべの兩人が事は御前の成なされ方宜しからざる故と仰せられ況まして此事は輕かるからざる儀故早速さつそく御用番へ進達しんたつ成るゝ間然樣さやう心得よとの仰せに候と申しければ主税之助は是れを聞き面色かほいろ青然あをざめ偖々夫れは困こまり入しことなりと頭かうべを低たれて弱よわりし體ていに安間平左衞門は傍そばに居たりしが冷笑あざわらひ否早いやはや御前の樣に御心弱くては表向おもてむき吟味ぎんみの時は甚だ覺束おぼつかなし都すべて物事は根深ねぶかく謀はかり決して面色かほいろに出さぬ樣なさねばならぬ事なり然るを斯かくの如き御樣子ごやうすにては對決たいけつなしに忽ち負公事まけくじと成り申すべし此上の處御心を大丈夫になし給ふべし後には斯かく申す安間平左衞門控ひかへて居をれば假令たとひ大山が崩くづれ來る共少しも御心勞に及ばずと力を付れども主税之助は兎角とかく安心せず否々いや〳〵然さう手輕く申せども内記殿の心中が何どうも心配なれば公事の始末しまつを話して見よ佐すけ十郎郷右衞門の兩人へ惣右衞門と云ふ古狸ふるだぬきが後見こうけんをすれば是は容易の公事くじでなし那あの惣右衞門めは年としこそ老込おいこみたれど並々なみ〳〵の者に非ず彼かれ是これ評定所へ出いづるならば此方が是迄の惡事を申立るは必定ひつぢやうなり然さすれば我等に吟味係かゝらんにより其時は如何に返答へんたふして宜よかるべきや是平左衞門能よき分別ふんべつを教をしへよサア平左衞門何どうぢや〳〵と急立せきたてければ平左衞門は微笑ほゝゑみながら夫等らのことは物の數かずに足たらずと申を主税之助シテ其時は何どう申了簡れうけんなるや早く云て聞きかせと云へば平左衞門はせゝら笑ひ然さりとては御氣の小い事なり何なに是式これしきの事御心勞らうに及ぶべきや先其時の事は臨機應變りんきおうへんと申事あり今爰こゝにて申事は更に役に立たち申さず其相手あいての樣子先の出次第でしだいにて何どう變へんずるも量り難し此所にて申事は勿々なか〳〵其節の間に逢あふものに非ず假令よしや考かんがへて今申た所が本の足袋屋の看板かんばんなり然ながら然程さほど御案事おあんじ有らるゝことならば先まづ御安堵あんどの爲少すこし御心の休やすむやうに申上げん先以て外ほかまでもなく渠等かれら兩人を金子の盜賊たうぞくと申立置たれば御吟味の節彼是申すとも右盜賊の罪つみを遁のがれん爲に惣右衞門を語かたらひ忠義ごかし藤五郎殿御兄弟を誘引出さそひだし候儀と存ぞんずる旨を仰立おほせたてられなば其事のみにて渠等かれらに罪つみは歸きし候なり其上主と家來の事なれば此公事このくじに於ては御前に九分の強つよみが之あるゆゑ事の次第しだいを仰せらるゝ時は是渠等が一ツの申開ひらきに困り候事目前もくぜんにて候若又對決たいけつになり候とも藤五郎殿の不行跡ふぎやうせきは一度たび町奉行まちぶぎやうの手にも係かゝりたる程の仕合しあはせなれば疑ひは先へ掛る道理に候藤五郎殿も何どうで命いのちはなき男又藤三郎殿は有りても幼少えうせうなり兎角とかく邪魔じやまになるは惣右衞門郷右衞門佐すけ十郎の三人にて其その中うちにも先郷右衞門佐すけ十郎の兩人をば討取うちとらば此度の公事は必定ひつぢやう勝利しようりならん右兩人を討取うちとり手段てだてを一刻こくも早はやく成なさるが捷徑ちかみちなりと申ければ主税之助は首を傾かたぶけ兩人を討取は公儀の方が濟すむまじと云へば平左衞門呵々から〳〵と打笑ひ扨々さて〳〵夫では何の謀計はかりごとも行ひ難し能よく思召おぼしめしても御覽有あるべし先渠等かれらは盜賊たうぞくの事故召捕めしとらんと致せし所手向てむかひ仕つり候故據よんどころなく討取候と申に何の譯わけの候べき萬一此事このこと手違てちがひに成し處が半知はんちと思召おぼしめさば公事は勝なりと言を聞て主税之助は漸々やう〳〵打合點うちうなづき然らば切首きりくびの多兵衞其外新參しんざんの者共に此事内分で頼み置んと金銀を遣し郷右衞門佐すけ十郎を討取ば又々禮れいの仕方しかたありと申付ければ元より惡者共わるものどもの事ゆゑ金銀に眼めが晦くれ喜び勇みて請合日夜にちや三河町より須田町邊を忍びて付覗つけねらひけり扨さて又また支配の宮崎内記殿は先日せんじつ嘉川家の一件に付家來の立花左仲持參ぢさんの屆書の趣を月番の若年寄衆わかとしよりしうへ進達しんたつ致されし處此儀容易ならずと有て早速さつそく年寄衆としよりしうの評議となりたり其頃そのころ天下の御政事に關あづかる人々には老中間部まなべ越前守殿同井上ゐのうへ河内守殿同久世くぜ大和守殿同大久保おほくぼ長門守殿若年寄わかどしより石川近江守殿同黒田豐前守殿同土岐とき丹後守殿なり右の人々ひと〴〵立會たちあひ嘉川家一件種々いろ〳〵評議是ある所土岐丹後守殿進み出られ今度の一條主税之助儀先一應おうは宜よろしからぬやうに聞ゆれども又逐電ちくでんせし用人共も合點がてん行ゆかざる儀なり金子きんす盜取ぬすみとり候罪を遁のがれんが爲に主税之助が申通り計ひし事かも知れず是は町奉行まちぶぎやうに申付て彼の兩人の家來けらいを糺明に及ばせ其後そののち評定所にての吟味然しかるべしと云れければ一同此儀このぎ宜よろしからんと早速さつそく大岡越前守殿へ達し有ければ越前守殿思案しあんの上定廻ぢやうまはり同心へ申付られ藤五郎藤三郎並びに佐すけ十郎郷右衞門の行衞を吟味致すべき旨に付同心どうしんは委細ゐさい畏かしこまり候とて夫より先まづ山口惣右衞門浪宅らうたくを探索たんさくせんと三河町二丁目の家主方いへぬしかたへ罷越其方店子山口惣右衞門と云へるは嘉川主税之助の浪人らうにんにて裏屋うらやに住居ぢうきよと聞御用是ある間只今自身番屋じしんばんやまで召連れ來るべしと申し渡しければ家主いへぬしは畏かしこまり候と惣右衞門へ其段申達しけるに惣右衞門は豫て覺悟の事もあれば年は寄共よれども流石さすが武士ゆゑ何の恐氣おそれげもなく家主同道にて自身番へ出ければ定廻り同心は立出其許もと儀ぎ嘉川主税之助方に勤仕きんし致し居をりし事ありやと申ければ仰の通とほり當夏中たうなつちう迄勤仕罷在り候と云ふに同心點頭うなづき今度嘉川家より公儀こうぎへ御屆おとゞけに及ばれしは嫡子ちやくし藤五郎次男藤三郎並に家來伴ばん佐すけ十郎建部郷右衞門も去廿二日の夜よ逐電ちくでんの趣きなり因よつて御老中方より町奉行へ吟味の儀仰せ付られし故ゆゑ今日其行方を尋たづね出さん爲御邊を是迄まで招まねき申たり以前の好みを以て若彼の者共を竄かくまひ置おきも致しなば早速さつそく相渡し申すべし此儀取隱とりかくし候はゞ其許の爲になるまじと云いふを聞惣右衞門は豫かねて斯かくあらんと心得し事ならば少も動ぜず心の中に未だ佐すけ十郎郷右衞門より訴うつたへ出ざる中公儀かみより尋ね出されし時は渠等かれら定めて手都合てつがふ惡あしかりなんと思ひ何なにも隱かくすべきにはあらね共先爰に知らざる體ていに申方宜よろしと思案しあんなし御問尋おたづねには候へ共其の儀ぎ決けつして覺え御座なく候尤も以前の好も候へば某しを便たよりて參り候はゞ竄かくまひもいたすべけれども未だ手前てまへへは參り申さず主税之助方よりは昨日さくじつ尋ね參り候間右の旨むねを答こたへて歸し候と申ければ同心然らば聢しかと左樣さやうか萬一もし後日に顯あらはれなば決して爲に成なるまじ併しかしながら參らざる儀なれば是非ぜひに及ばず先吟味中家主へ屹度きつと預申付る惣右衞門も左樣さやう相あひ心得よ時に陸尺七右衞門の宅は何方ぢや惣右衞門御邊ごへんは知らざるやと思ひ掛なき尋ねに日頃ひごろ大丈夫だいぢやうふの惣右衞門なれ共どもハツと仰天ぎやうてんなし七右衞門の宅たくは須田町一丁目に候と答へしかば定廻り同心どうしんは事に馴なれしゆゑ樣子やうすを見て取偖さては此上七右衞門を吟味ぎんみすれば相分あひわかるべしと心に合點がてんして夫より須田町一丁目なる七右衞門方へと急ぎ赴きたり


第九回


 古昔むかし宋そうの文帝ぶんていの頃ころ魏ぎの中書學生に盧度世ろとせいと云者あり崔浩さいかうの事に坐し亡命にげて高陽かうやうの鄲羆の家に竄る官吏やくにん羆ひの子を囚とらへて之を掠治たゞす羆ひ其子を戒いましめて曰君子は身を殺て仁じんを成故に汝死す共云べからず其子固く父の命を守まもる官吏やくにん火ひを以て其體たいを燒やき種々しゆ〴〵責問せめとふと雖も終つひに言ずして死すと云夫と是とは變れども陸尺ろくしやく七右衞門は卑賤者いやしきものに似氣にげなく豪侠がうけふにして義ぎを好このむが故に山口惣右衞門始め三人の頼みに因て藤五郎兄弟並びに伴建部の夫婦ども上下じやうげ六人を我が家に連歸つれかへり何くれとなく厚く周旋せわをして匿かくまひ置おきしに嘉川家にては藤五郎兄弟并に家來けらい伴建部の兩人共逐電ちくでんなし加之そのうへ主税之助居間の金子百兩紛失ふんじつせし旨むねを其筋すぢへ屆出ければ町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿より藤五郎の兄弟始め家來の者共を穿鑿せんさくとして同心どうしん出張しゆつちやうなし山口惣右衞門は町方預あづけに相成し由よし其上三河町より直樣此方へ役人中參らるゝ趣おもむきも惣右衞門より内々ない〳〵知しらせ越こしけれども七右衞門は覺悟かくごの事故聊いさゝか驚く氣色もなく早速さつそくに伴建部の兩人へ此事を話はなし猶なほ三人打寄うちより相談をなすに何どうせ隱し立は成まじき間御呼出し次第罷出まかりいで吟味ぎんみを請うけんと思ひて相待あひまつ所に程なく定廻り同心自身番に來りて七右衞門を呼び出すに付七右衞門は即すなはち自身番へ罷出し所役人やくにん申ける其の方儀此度このたび山口惣右衞門の頼たのみに依よつて嘉川藤五郎兄弟并に建部郷がう右衞門伴佐すけ十郎の人々を匿かくまひ置おく條でう三河町に浪宅致す山口惣右衞門の白状なりとあびせ掛かけ因よりては如何の筋合すぢあひ之有これあり渠等かれらを匿ひ置ぞ眞直まつすぐに申立よと言ければ七右衞門少も屈くつする面色なく御意ぎよいの如く私し儀ぎ四人共匿ひ置候に相違さうゐ御座なく候尤もつとも此儀は私し事先嘉川平助樣御代ごだい格別かくべつの御厚恩ごこうおんに相成候間今度このたび御世話申候儀ぎを恐おそれながら一通り申上べし當代主税之助樣は誠に驚おどろき入たる御方にて己が實子に迷まよひ平助樣御實子の御二方樣を非道ひだうになされ殊に藤五郎樣へは食物を止とゞめて干殺ほしころさんと成され又藤三郎樣の未いまだ御幼少者おちひさいものを朝夕あさゆふに打擲うちたゝき夫は〳〵苦々にが〳〵敷事に御座候斯かく申上るを御胡亂ごうろんと思召おぼしめさば是まで嘉川樣の奧向に勤めし者に御尋ね下さるゝが論より證據しようこ相分あひわかり候夫れゆゑに平助樣御代の御用役ごようやくは山口樣も私し方に居らるゝ二人の衆も藤五郎樣御兄弟の御命が危あやふく存ずる故斯かくの次第に成行申せしなり私し儀は賤敷いやしき身分みぶんに候へ共ども聊かたりとも僞いつはりなど申者では御座なく又人樣の難儀なんぎを見ては居られぬが私しの持前もちまへ故ゆゑ是非ぜひなく彼の人々を竄かくまひしに相違さうゐ御座なく候何れ双方さうはう御糺たゞしの上は明白に相分り申べく殊に只今の御用人中は非道ひだうの者共にて殿へ惡智慧わるぢゑを加くはへ候由私しは數年の出入屋敷やしきの事故先一旦の難儀なんぎを救すくふ心に候へども斯かく御尋ねの上は包つゝまず申上るにより御役人樣方の御慈悲おじひを以て宜敷御取計ひ下されよと憚る所なく申ければ役人も只合點うなづき居ゐたりしが兎とに角かく藤五郎始はじめを渡すべしと申により七右衞門は則ち藤五郎藤三郎并ならびに佐すけ十郎郷がう右衞門を引連役人へ渡しければ同心人々を請取直樣立歸りて此段委細ゐさいに大岡殿へ申立けるに則ち越前守殿夫は苦々しき事なりとて急いそぎ御月番つきばんの老中方へ申上られしにより老中方の仰おほせには吟味中藤五郎藤三郎の兩人は先まづ先せん平助の親類しんるゐ共へ預あづけ置おき佐すけ十郎郷がう右衞門の兩人を篤とくと取糺とりたゞせし上は兎とも角かくも相分るべしと有しかば越前守殿承知仕つるとて退出たいしゆつ後ご早速さつそく佐すけ十郎郷右衞門の兩人を呼出されたり


第十回


 偖も大岡殿は退出たいしゆつ後ご早速さつそく佐すけ十郎郷がう右衞門の兩人を呼よび出し今度の趣意しゆいを尋たづねられければ兩人謹んで平伏へいふくなし私し主人の先代平助儀當主たうしゆ主税之助ちからのすけ養子やうしに參まゐられ候後兩人の男子だんしを儲まうけ候は則ち藤五郎藤三郎にて是を主税之助の子となし御家督かとくを讓ゆづり呉くれ候樣平助末期まつごに遺言ゆゐごん仕つりしを其節は主税之助も屹度きつと請合うけあひ私ども兩人並ならびに惣そう右衞門等證人同樣其席せきに罷まかり在候所主税之助實子佐すけ五郎出生の後は先平助遺言ゆゐごんに戻もどり我が子に家督かとくを繼つがせんと種々しゆ〴〵惡謀あくぼうを構かまへ藤五郎を強面つれなく致いたさるゝこと誠に朝夕目も當あてられぬ次第故私し共三人の者種々いろ〳〵と諫いさめ候へ共聊いさゝかも取用とりもちひ之なく非道の所置日々に増長ぞうちやう致すに付藤五郎も若氣わかげにて是を情なき事に思ひ或時は放蕩はうたうの擧動ふるまひ等御座候故是又其儘に打捨難うちすてがたく諫いさめつ宥なだめつ致し候中不圖ふと藤五郎不行跡ふぎやうせきのこと御座りしを主税之助は幸ひに亂心と申立たて座敷牢ざしきらうに押込おしこめ我が實子じつし佐すけ五郎を嫡子ちやくしに相立あひたて其上二男の藤三郎まで亡者なきものにせんと種々しゆ〴〵難題なんだいを申ては毎日まいにち打擲ちやうちやく致し若もし是を意見立いけんだて致し候者是あれば早速さつそく暇いとまを出さるゝゆゑ其後は誰一人諫め申者御座なく剩あまつさへ新參しんざんの家來を愛し古參こさんの私し共は除者のけものの如くに致し家政かせいを亂し候に付山口惣右衞門は餘あまりに見兼て諫いさめ候を殊ことの外憤いきどほり直樣すぐさま永の暇いとまを申付其後新參しんざんの家來を相手に藤五郎藤三郎共を害がいせんとの密談みつだん致候を腰元の島と申者竊ひそかに聞知私し共へ告知つげしらせ候間據よんどころなく兩人申合せ藤五郎兄弟を救すくひ出し候事に御座候之に依て何卒なにとぞ主税之助を召出めしいだされ右等の儀御吟味ごぎんみの上嘉川の家名かめい相立あひたつ樣御慈悲おじひを以て御説諭せつゆ成なし下され候樣願ひ奉つり度候と申立ければ大岡殿篤と是を聞れ其方の申立たて相違も有間敷あるまじきなれど右口上の趣き書面しよめんに致し差出すべしと有しかば佐すけ十郎郷がう右衞門の兩人口書こうしよを認め差出す其文に曰く

一私し共ども兩人儀は先主せんしゆ嘉川平助以來いらいより勤仕きんし罷在まかりあり候處當主たうしゆ主税之助養子やうしに參られ候後平助儀藤五郎藤三郎の二子しを儲まうけられ候に付つき主税之助養やしなひ子ごに仕つり成長せいちやうの後兩人の内へ家督かとく相讓ゆづり呉くれ候樣平助病死以前いぜん主税之助へ遺言ゆゐごん仕つり其節せつ私し共并ならびに當時たうじ永ながの暇に相成し山口惣右衞門等其席に罷まかり在承知しようち仕つり候儀に御座候處其後主税之助實子じつし佐すけ五郎出生しやう以來いらい藤五郎兄弟きやうだいを憎にくみ非道ひだうの所置しよち御座候より藤五郎儀若氣わかげの至いたりにて不行跡ふぎやうせき御座候を幸さいはひに同人を廢はいし候は是非ぜひなき次第しだいに付弟藤三郎を嫡子ちやくしに致すべき旨むね私し共諫いさめ候を主税之助儀不承知にて同人實子じつし佐すけ五郎を嫡子ちやくしに立られ候然耳しかのみならず藤五郎并ならびに藤三郎儀は先平助實子に付始終しじう佐すけ五郎爲ために相成あいなり申さずと存じられ候哉や藤五郎は座敷牢らうに押入おしいれ食物しよくもつを相止とゞめ藤三郎儀は幼少えうせうに之有候を種々しゆ〴〵難題なんだい申付朝暮てうぼ折檻せつかん仕つり責せめ殺さん覺悟と相見え候間私し共心配仕つり候處彌々いよ〳〵藤五郎兄弟を亡うしなひ候べき内談ないだんを腰元こしもと島しまと申者聞知しり是を私し共に知らせ候により嘉川家一大事と相心得あひこゝろえ右島しまを案内に致し當十二月廿二日の夜よ奧おくへ忍び入り藤五郎并ならびに藤三郎の兩人を一先ひとまづ盜ぬすみ出し候に紛まぎれ御座なく候然る處當主主税之助より其夜居間ゐまの金子百兩紛失の由申立候は其身の惡事を押隱おしかくし申べき爲ため私し共へ御疑うたがひ相掛かゝり候樣にと心得斯かゝる儀を申掛かけ仕つり候かと存ぞんじられ候之に依て何卒明白めいはく之御吟味願ひ奉つり度たく此段書取かきとりを以て申上げ奉つり候以上

元もと嘉川主税之助家來けらい
享保三年十二月廿七日
建部たてべ 郷右衞門 印
同
伴ばん 佐すけ十郎 印

右の如く書取かきとり差出さしいだし候に付大岡殿篤とくと一覽致いたされ追々吟味に及ぶ兩人共吟味中ちう揚屋入あがりやいり申付ると申渡され夫より右みぎ書面を老中方へ差出されしに付老中方始め若年寄わかとしより大目付御目付三奉行の評議となり嘉川主税之助は吟味當日迄閉門へいもんを仰付おほせつけられたり尤も當年十二月も早はや月末つきすゑ殊ことに歳暮せいぼかた〴〵來春の御用始はじめまで嘉川家の一件は御差さし置との事にて何方も歳暮せいぼ又は新年の壽ことぶき賑々敷にぎ〳〵しく御用も多ければ其中うちに正月も立て早二月となりしにぞ近日きんじつ嘉川家の一條も吟味に取り掛かゝらんとの事どもなり


第十一回


 時に嘉川主税之助は我が實子じつしの愛欲あいよくに眼まなこ闇くらみて家の亂みだれは一向構はず彼安間平左衞門始め新參の家來を相手あひてに只管ひたすら惡事を相談さうだんして居る中大岡殿は伴ばん佐すけ十郎建部郷右衞門の兩人より委細の事故聞糺きゝたゞされ吟味の當日たうじつまで主税之助閉門へいもん仰おほせ付られしに付つき主税之助を始め嘉川の家來どもは今度こんどの一件の縺もつれはお島の手引てびきに相違なしと其後も晝夜ちうや責せめさいなみ終つひに打殺し死骸は何方へか捨置すておき知しらざる體ていになし居たるにお島の親里おやざと住吉町吉兵衞方より此儀に付大岡越前守殿奉行所へ訴うつたへ出ければ越前守殿早速さつそく白洲しらすへ呼出よびいだされ目安訴状を披き見るに

乍レ恐以二書付一奉二願上一候

一住吉すみよし町忠八店吉兵衞申上奉つり候私し娘むすめ島しまと申者三年以前より御旗本おんはたもと嘉川主税之助樣御屋敷へ腰元こしもと奉公に差出さしいだし置おき候處當人へ用事之あり昨年冬中より度々たび〳〵御屋敷へ罷出候へ共何なにか御取込おんとりこみの儀御座候由にて一向に御逢おんあはせ下くださらず何共合點がてん行ゆかざる事と存じ居候中世間の風説ふうせつ惡あしき儀を承はり候間あひだ猶なほ又また御屋敷へ罷出當人へ達て對面致し度旨願ひ候處御用人安間平左衞門殿を以て仰聞おほせきけられ候には島儀しまぎ去さんぬる十二月廿二日の夜盜賊たうぞくを手引に及び候に付御手討に相成たりとて島持參ぢさんの道具だうぐ而已のみ御下下おんさげくだされ候得共死骸しがいは御渡し下くだされず因て甚だ打驚き愁傷しうしやう仕つり候處右みぎ道具だうぐの中なかに娘島儀豫かねて覺悟致し候事と相見え遺書かきおき一通之あり候に付之を披見ひけん仕つり候に主人とは申ながら餘り御情なさけなき致され方と存じ候間あひだ切せめては御慈悲おじひを以て死骸だけも御下さげ下くだされ候樣仕つり度たく之に依て此段歎願奉り候以上

住吉町忠八店
享保四年二月
願人  吉兵衞 印
家主  忠八 印

右の如く讀上よみあげければ越前守殿大いに驚おどろかれ扨さては嘉川家の一件彌々いよ〳〵主税之助の惡事に相違なしと思はれ吉兵衞に向ひ其島そのしまと申は其方の娘なれば死骸を下さげて貰もらひ度思は道理もつともなり嘸さぞ其方が心には殘念ざんねんなる事にあらん是も所謂いはゆる過去くわこの約束事ごとならんか然共餘り苛酷むごき仕方しかたゆゑ其方が胸中きようちう察さつし入る尤も嘉川家の事に就て大分たいぶん入組たる筋あれば近々きん〳〵に評定ひやうぢやうも是有るべしシテ又其方が願ひし時娘の死骸何なんとして渡さばやと尋ねられしかば吉兵衞涙なみだに咽むせびながら其儀は嘉川家の御用人ごようにん平左衞門殿の申さるゝには御手討てうちになりたる者ゆゑ此方にて取置とりおきたり然樣さやう存ぞんずべしとのことで御座りましたが其平左衞門と申人は恐おそろしい人で大層たいそうな見識けんしきにて私しを睨にらみ付猶何とか申たならば又私しをも手討てうちに致しさうな勢いきほひなりしと云ば大岡殿夫は何時頃いつごろ手討てうちに成し樣子なるやと有に吉兵衞ハイ何時頃いつごろで御座りますか日も申聞きけられず大概おほかた海川へでも死骸を打捨すてられしならん何時が命日やら一向分らず定めて娘は迷まようて居る事にやと思へば涙なみだの乾かわく間ひまも御座りませんと人目も恥はぢず泣なき居ゐたるに越前守殿も甚だ氣の毒どくに思はれ扨々さて〳〵非道ひだうの致し方なり宜々よし〳〵程なく吟味を遂て遣はすシテ其遺書かきおきを持參ぢさん致居るかと問るゝに御意ぎよいの如く持參ぢさん仕つりしと吉兵衞は懷中ふところより取出して指出さしいだしければ越前守殿是を見らるゝに手跡しゆせきも見事にして其文章も勿々なか〳〵能よく譯わかりしかば則ち目安方へ渡され目安方高々たか〴〵と讀上よみあげる其文ぶんに

申殘のこし參まゐらせ候事  (裏書うらがき)正月廿五日夜封す

久々ひさ〴〵御おんめもじも致し申さず御懷なつかしさのまゝ聊いさゝかの人目を忍び書殘かきのこし參らせ候扨さて當たう御屋敷の殿樣とのさま御親子おやこの御中なか兎角とかく惡あしく去年夏中より藤五郎樣御事座敷牢ざしきらう御住居すまひにて召上りものもろくろく進ぜられざる程の仕合しあはせ御最惜いとをしき事申ばかりも御座なく又御弟子おとゝこ藤三郎樣も殿樣奧樣の御惡にくしみ深く未いまだ御幼少えうせうの御身を旦暮あけくれ御折檻おせつかん遊ばし日夜おん涙なみだの乾かわく間もなく誠に〳〵御愍然いぢらしく存じ上參らせ候夫それに付御先代せんだいよりの御用人衆しうと御相談さうだん申上去る十二月廿二日の夜御二方樣を御救すくひ出し申上候處其事私しへ疑うたがひ掛かゝり夫は〳〵誠に恐おそろしき責苦せめくを受候御事詞にも筆にも盡つくしがたく斯樣かやうの儀を御知しらせ申上候も不孝とは存じ候へども始終しじうの所私しの命はとても御座なき事と存ぞんじ候へば最早此世にての御目おめもじは出來難がたく先立不孝は御免ゆるし下され度候尤も大殿樣は大惡人ながら御氣象きしやう甚だ甲斐なき御方に御座候處御用人安間平左衞門殿と申人は實に情なき者にて其の心の恐ろしき事鬼おにとも蛇じやとも譬たとへ難がたき大惡人に御座候往昔むかしより惡逆あくぎやく非道ひだうの者の咄はなしも承うけたまはり候へども此平左衞門殿程の大惡非道の人を未いまだ承まはり申さず候此人近來ちかごろ御屋敷へ御召抱めしかゝへに相成て皆みな此者より殿との樣へ惡敷事を御勸め申上候まゝ元來もとより惡心あくしんの有せらるゝ殿樣ゆゑ一方ひとかたならず御意に入いり日々惡事のみ相談あるにより私し事も遠からず平左衞門殿の手に係かゝり候はんと思ひ定さだめ〓(まゐらせさうらふ)私し亡後なきあとは何の樣子も御存なく御歎おなげきも有らんかと存じ此事故がらあら〳〵書殘かきのこし參らせ候猶なほ委くはしく申上度候へども少時間の隙ひまを見合認め候まゝ別して筆も廻り兼かね候宜よろしく御推すゐもじ願上參らせ候かしく

しまより

御兩親樣ごりやうしんさま

斯の如くの遺書かきおきを越前守殿聞きかれ如何にも憐あはれの事に思はれしかば心中に扨は其島が殺されし死骸は思當おもひあたりし事も有とて考へ居られけり

○越前守殿どの寺社奉行より掛合かけあひの張面取寄とりよせらるゝ事

并二ヶ寺より訴うつたへの事

然ば大岡殿はお島が遺書かきおきを熟とくと聞かれて嘉川家の一件豫あらかじめ推量おしはかられ右島と申す女の殺されし事は正月廿五日過すぎの事と思はるゝにより當二月二日寺社じしや奉行黒田豐前守ぶぜんのかみより兩奉行所へ掛合かけあひありし節せつの帳面を持參せよとて取寄とりよせられ御覽あるに寺社奉行所へ千住燒場せんじゆやきば光明院くわうみやうゐんより訴への寫し左の通り

一昨夜亥刻よつどき前淺草阿部川町了源寺れうげんじ切手を持參致し所化僧しよけそう一人檀家三人差添さしそへ棺桶くわんをけ送おくり越候處掛合あひ中右棺桶を置捨おきすてに致し候間相改ため候に女の死骸しがいにて變死へんしに紛まぎれ御座なく候依て御檢使けんし願ひ奉たてまつり候以上いじやう

千住せんじゆ
二月二日
光明院

寺社御奉行所樣

右檢使の書取かきとり寫うつし左の通り

年頃としごろ廿一二の女惣身そうしんに打疵うちきず多おほくして殺ころし候樣子に相見申候尤も衣類いるゐは紬縞小袖つむぎじまこそで二枚を着し黒純子くろどんすの龍りうの模樣もやう織出おりだしの丸帶おびを締しめ面部めんぶ眉まゆ左ひだりの方に古ふるき疵きずの痕あと相見あひみえ候

淺草了源寺れうげんじより訴うつたへの寫うつし

一昨夜さくや當寺の切手を持參ぢさん致し所化僧しよけそう一人檀家三人差添さしそへ千住燒場光明院へ火葬くわさうの者送込候處其後所化僧檀家だんか共棺桶くわんをけ捨すて置逃去候由光明院くわうみやうゐんより掛合越候へども當寺に於て右樣の覺え御座なく候に付此段御屆おんとゞけ申上置おき候以上いじやう

淺草あさくさ阿部川町あべかはまち
二月二日
了源寺

寺社御奉行所樣

右の通り書留かきとめ之有るに付つき越前守殿吉兵衞に向はれ其方娘むすめ島は當年何歳なんさいに成やと問るゝに吉兵衞ヘイ同人どうにんは當年廿一歳に相成ますと申ければ越前守殿然しからば同人左の眉まゆの方に古疵ふるきずの痕あとはなかりしやと申さるゝを聞きゝ吉兵衞不審しんに思ひ御意いの如く幼少えうせうの時不圖ふと怪我けがを致せしが其痕あとが今に殘のこり在しを娘が人相さうに係かゝると人々が申せしとて平常つねに苦勞致し居をりしが此度斯樣かやうの死を遂とげると云は云當あてたることと思はれ一しほ歎なげかは敷しく存じ候と申立ければ大岡殿然すれば其方が娘の死骸は千住ぢゆ燒場やきば光明院くわうみやうゐんに之有ある間彼の處へ行ゆき早々さう〳〵引取り葬はうむり得させよと有て右兩所より訴うつたへ出し書付かきつけの趣おもむきを委敷くはしく申聞られしにより吉兵衞は其始末しまつを聞より大いに驚き扨は娘島事は嘉川主税之助殿の手に係かゝり非道ひだうの最期さいごを遂とげしに相違なし定めて彼の惡人の安間平左衞門めが仕業しわざより出し事ならん思へば〳〵怨うらめしきは主税之助殿主從しうじうなりと或は怒いかり或は歎き大聲上て泣居たるは如何にも氣の毒どくなる有樣なり夫より下役人は差圖さしづして吉兵衞を勞いたはり爰を下らせしが大岡殿は早々右の趣きを老中らうぢう方へ申立られ不日ふじつ評定所ひやうぢやうしよに於て吟味有べきとの事なり


第十二回


 善惡ぜんあく邪正じやしやうも判然あらはるゝ期とき至れるかな頃ころは享保四年の二月に時の町奉行大岡越前守忠相殿住吉町吉兵衞の願ねがひ出し一件逐ちく一聞糺きゝたゞされ老中方へ申立られ掛かゝり役人評議ひやうぎの上右關係の者共評定所へ呼び出され吟味あるべしと定まり尤も此度は最初さいしよより見込みこみの儀も是これあるに付當日の吟味は越前守へ仰せ付られしにより早速さつそく小普請こぶしん支配しはい宮崎内記殿へ明九日支配下しはいした嘉川主税之助并に同人家來安間平左衞門の兩人吟味筋すぢ之これ有に付差出さしいださるべき旨剪紙きりがみを以て達せられければ宮崎内記殿委細ゐさい承知致したりと有て即刻そくこく此段嘉川主税之助并に親類しんるゐへ達せられし處翌九日親類山内三右衞門是は百俵五人扶持ふちの輕かるき御家人にて先平助の伯父なり同人并に小普請こふしん組頭くみがしら等附添つきそひ警固けいごなし駕籠へ乘せて罷出評定所腰掛こしかけに相控あひひかへ御下知げぢを待れけるに今日は月並つきなみの評定日なれば士農工商しのうこうしやう儒者じゆしや醫師いし或は順禮じゆんれい古手買ふるてかひ追々に罷り出控へ居ける中役人方がた家々の定ぢやう紋付たる筥挑灯はこぢやうちんを照てらし行列ぎやうれつ正たゞしく出仕有に程なく夜も明渡あけわたり役人方揃そろはれしかば稍やゝ有あつて嘉川主税之助一件の者共呼込よびこみになり武家の分は玄關にて大小を受取屏風圍びやうぶかこひの内へ控ひかへさせ置おき平民の分は白洲しらすの溜たまりへ控へたり時に案内に隨ひ各自おの〳〵吟味の席に罷まかり出れば白洲には雨障子しやうじを高く掛渡かけわたし御座敷向むき的歴きらびやかなる事誠まことに目を驚かすばかりなり扨主税之助は入側いりがは右の方に着座ちやくざなし引續きて附添の小普請こぶしん組頭末座に親類石原文右衞門山内三右衞門縁側えんがはには家來けらい安間平左衞門罷出其有樣ありさま最いと憎々にく〳〵しき面魂ひにて一癖くせ有あるべき者と言ねど面に顯あらはれつゝ吟味を今やと相待居ゐたり扨さて役人方の上席は老中井上河内守殿若年寄わかどしより大久保長門守殿石川近江守殿寺社じしや奉行黒田豐前守殿左の方には大目付おほめつけ有馬出羽守殿御おん目付松浦與四郎殿其外評定所留役とめやく御徒士おかち目付めつけ小人こひと目付めつけに至るまで威儀ゐぎを正たゞして列座れつざあり此時大岡越前守殿掛り故直と席せきを進まれければ目安方めやすかた聲こゑ高々たか〴〵と小普請組宮崎内記支配嘉川主税之助同人家來安間平左衞門と呼上よびあげる時各々一同に平伏へいふくす頓やがて越前守殿目安めやす方に建部郷右衞門伴ばん佐すけ十郎兩人の口書をと申されければ目安方めやすかた是これを讀上たり因て大岡殿主税之助に向はれ只今たゞいま承まはる通り伴佐十郎建部郷右衞門の兩人より申立たり此儀このぎ如何いかゞやと尋たづねられければ主税之助首を上其の義は渠等かれら兩人盜賊に相違御座無く候處己等おのれらの罪つみを遁のがれん爲然樣さやうの儀ぎを申立候事と存じられ甚だ不屆ふとゞきなる者共に御座候先渠等兩人拙等方せつしやかたに勤中も種々しゆ〴〵不埓ふらちの筋すぢ有之候者共にて兎角とかく某しを輕かろんじ奇怪きくわい至極しごくに存じ居候と申を聞きかれ越前守殿コレ主税之助其許そのもとの樣やうに取所もなき事を申されては聊いさゝかも返答へんたふと云に非ず先渠等が罪つみ有ある事は有ある樣やうに申され又渠等より申立たる條々でう〳〵は其許そのもと神速すみやかに申開かるべしと申けるにぞ主税之助は元來ぐわんらい愚おろか成なる上うへ其身そのみの行おこなひ甚だ非道ひだうの事のみ故ゆゑ越前守殿の詞ことばに怕恐おぢおそれハツとさし支たる體を見て安間平左衞門は生得しやうとく大膽不敵だいたんふてきの曲者くせもの成なれば主人の答を齒痒はがゆきことに思何とか口を利たき體に控居たり


第十三回


 再び越前守殿主税之助に向むかはれ其許そのもとは先代せんだい平助の養子やうしに相成し後のち平助は藤五郎藤三郎の兩人を儲まうけしに付平助末期に藤五郎兄弟は家の血筋ちすぢ故其許の養子となし家督かとくを讓ゆづり呉候樣呉々遺言ありし時急度きつと承知しようち致し居をりながら何故に藤五郎兄弟を廢はいし實子佐すけ五郎を嫡子ちやくしに致されしやと尋ねられければ主税之助夫等の儀は仰おほせに候へども藤五郎は其躬そのみ不行跡ふぎやうせきにして勿々なか〳〵異見いけんも聞入ず其上亂酒により一度たびは公儀かみの御苦勞にも係かゝりし者に付押籠おしこめ相廢あひはいし候と答こたへければ越前守殿其は一應聞えたれども何故に藤五郎の食物しよくもつを止とゞめられしや又藤三郎は幼少えうせうなるを非道ひだうに折檻せつかん致さるゝこと我子佐すけ五郎の爲に行末ゆくすゑ惡あしかりなんと思ひ渠等かれら兄弟を殺さすとの心底しんていなるや然樣さやうの惡心を起おこし我が子の爲と存ずる淺猿あさましき心偖々さて〳〵苦々にが〳〵しき所爲しわざなり斯かく淺果あさはかなる惡事何として其身の望のぞみを遂ることなるべきや因て其許も能々よく〳〵我身を顧かへりみられよ古語こごにも父ちゝ父ちゝたれば子こ子こたり父ちゝ父ちゝたらざれば子こ子こたらずと云に非ずや然る故に此度このたびの如き家の騷動さうどうを引出ひきいだすなり加之そのうへ御邊の居間ゐまの金子紛失ふんじつは伴佐十郎建部郷右衞門の兩人が盜取ぬすみとりしと云事確固たしかなる證據しようこ有ありや是とても其身の惡事を隱かくさんが爲に跡方もなき空言そらごとを申立たて渠等かれら兩人に惡名あくめいを付る其許の巧み甚だ以て言語ごんごに絶たえたり此儀辯解ありやサア如何に返答致されよと高聲かうせいに申されたる有樣威權ゐげん鋭するどければ主税之助はハツと言て生膽を取れし如く色蒼然あをざめつゝ震ふるひ出いだし一言の答へも成ならず其儘平伏へいふくなしけるを大岡殿見られ心に此奴は大惡成なれ共取に足たらざる愚人ぐにんなり然すれば是迄なしたる惡事は悉皆こと〴〵く安間平左衞門の勸し業と察せられしかば平右衞門に對むかはれ主税之助家來けらい安間平左衞門とは其方の事かと申されたる其聲自然しぜんと骨身に答へしにや流石さすがに不敵ふてきの平左衞門もハツと平伏なしたる體さま甚だ恐れし樣子なり其時越前守殿最いと徐しづかに尋ねらるゝ樣其方は嘉川の屋敷へ何時頃より奉公住致せしやと申さるゝに平左衞門三ヶ年以前奉公住仕つり候と申ければ大岡殿然しからば先主せんしゆは何方なるやと有に平左衞門先主人は京都に御座候と云へば大岡殿ナニ京都と申か其方の言葉ことばは京訛なまり少しもなく關東言葉の樣に聞ゆるぞ而して先主せんしゆの名前は何と申すぞと云はるゝに平左衞門は堂上方だうじやうかたに奉公致し候と申しければ大岡殿堂上方だうじやうかたに勤仕きんしせしと云ふか生國は何方にて武家ぶけか町人か百姓か有體ありていに申せと云はるゝに平左衞門ヘイ決して僞いつはりは申し上ず私し生國は相州なれ共京都へ參り久々ひさ〴〵奉公仕つり居をりしと申立ればナニ生國は相州とな然さすれば大久保家の家中の者なるかと問るゝに平左衞門否いな然さ樣には之無私し親は農人のうにんに候が私し儀幼少えうせうより武道を好み候故當時たうじ武家の奉公致し候と言ければ越前守殿能よくこそ有體に申たり尤も其方が言はずとも汝が素性すじやうは大概おほかた知れたり此上は何事も包つゝまず明白に申せ若もし僞いつはらば爲にならぬぞシテ農人の悴せがれなれども武邊ぶへんを好このむと申が其方親類に武家は有かと申さるゝに平左衞門否いや私し親類に武家は一人もなく候と申立れば越前守殿又主税之助に對むかはれ其許もと平左衞門を召抱かゝへる節せつ親類書がきは何と有しや親類は町人百姓のみなりしか夫は町人百姓のみにても苦くるしからざれども其請人は何なにと申すが致したるやと尋たづねられしに主税之助答へて其節の奉公請ほうこううけは手前出入の多兵衞たへゑと申者に御座候と云ければ越前守殿其多兵衞と申者商賣しやうばいは何を渡世とせいに致居るやと有に主税之助多兵衞は渡り徒士かちを業げふと仕つり候と言へば所は何處にて苗字めうじは何と申やと問とはるゝに住所は小柳こやなぎ町一丁目にて切首きりくび多兵衞と稱となへ候と申を聞れ大岡殿ナニ苗字めうじは切首と申かと言れて主税之助ハツト赤面せきめんして是は甚だ惡敷あしき事を言たりと思ひ心中大いに當惑たうわくの景色にて否苗字めうじは存ぞんじ申さずと云に大岡殿ナニ苗字は知らぬとや夫それは又麁忽そこつ千萬シテ平左衞門は始何役に召抱めしかゝへられしやと申さるれば主税之助渠かれには用役を申付候と云ふを越前守殿否々いや〳〵然樣さやうにては有まじ大身小身とも其家の用役と申は重おもい儀にて其上聞ば山口惣右衞門伴ばん佐すけ十郎建部郷がう右衞門などと申家付の家來けらいもありし趣おもぶきなるに何用有て多分たぶんの家來を召抱へしや先代平助は御役を勤むる頃ころより右三人の用役にて事足ことたりたるを其許もとの代に成て家來を殖ふやせしは何か存じ寄にても有ての事なるや又山口惣右衞門は何故有て永ながの暇いとま申付られしや當時渠かれは三河みかは町に浪宅を構かまへ居ども町役人などの申には至て手堅てがたき者の由其上舊來きうらいの家來と言老功らうこうの者なれば萬事の取締りには至極しごく宜よろしからんに此儀は其許もとの心得違ひを妨さまたげる故ならんと有しに主税之助其儀は平助以來の家來共種々しゆ〴〵不調法ぶてうはふも之あり又私し儀を輕蔑ないがしろに仕つる事法外にて誠に輕き者は致方之なく候間據よんどころなく永の暇いとま申付候存寄ぞんじより故新規しんきに家來を召抱へ候と云ば越前守殿否々いや〳〵渠かれが輕蔑ないがしろになすには有間じ是は正しき舊來きうらい家付の家來に付其許もとの我意がいを異見いけんに及び兎角とかく邪魔じやまに成故ならん然樣さやうの空言そらごとを止やめて有體に申されよ假令たとへ如何樣いかやうに包み隱かくすとも大概がい此方へ知れてあれば今更陳ちんずるは詮せんなきことなり又平左衞門其方の奉公請うけに立て貰もらひたる切首きりくびの多兵衞と申は如何いか樣成由緒ゆかりあつて請人に成しやと申さるゝに平左衞門は面倒めんだうな事を尋ねらるゝと思ひながら右みぎ多兵衞が弟の願山ぐわんざんと申京都智恩院に所化しよけを勤め居をり候頃ころ私し儀は堂上方に勤仕きんしの事故右願山と度々たび〳〵出會仕つり至つて別懇に致せし其好身にて私し儀浪人後らうにんご江戸表へ出多兵衞方の世話せわに相成候と申ければ越前守殿其願山と申者は今以て智恩院ちおんゐんに居るや但し雲水うんすゐの身分なるやと問とはるゝに平左衞門渠かれも當時は雲水の身分と相成兄多兵衞の方に來りて同居どうきよ仕つり居り候と言しかば越前守殿礑はたと手を拍うたれ夫にて概略およそ分わかつたり先月せんげつ初旬はじめ了源寺の所化しよげと僞いつはりたる坊主は正まさしく其の願山で有うと何樣なにさま其方の別懇べつこんにする曲者ならん此儀は何どうぢやと思ひ掛がけなき事を尋たづねられければ平左衞門は夫はと吃驚仰天なせし樣子なりしが元來もとより大膽不敵だいたんふてきの曲者なれば莞爾くわんじと笑是は〳〵思ひ掛がけなき御尋ね私し儀其儀そのぎは一向に存じ申さず候と然も知らぬ體ていに申けるにぞ越前守殿此體を見られ扨々此奴こやつめは餘程念ねんの入たる曲者なりと思おもはれ否々汝如何樣に陳ちんずるとも此方には屹度きつとしたる證據しようこあり其上未まだ〳〵其方に聞事あり腰元こしもと島の事は何ぢや是も其方が一向かう知らぬと申さば主税之助に言いはするぞ然さすれば其方は卑怯ひけふ未練みれんと言れんにより惡黨あくたうは惡黨だけに潔いさぎよく白状はくじやうせよ假令此上如何程隱すとも主税之助始めの惡事を天てん奚なんぞ免ゆるすべきや然るに事を左右さいうに寄せ彼是陳ずるは天命てんめいを知らぬと云者なり主人主税之助は惡人ながら又愚直ぐちよくの處もあり其方は此期このごに及でも未いまだ運の盡つきたるとは思ずや此越前守が見る處汝なんぢは勿々なか〳〵立派りつぱなる惡黨成れど一度帶刀たいたうもせし身なればサア武士ぶしらしく白状なし名を潔きよくせよと申されければ平左衞門は心中しんちうに偖々音に聞えし名奉行めいぶぎやうだけありて何事なにごとも天眼通てんがんつうを得られし如き糺問きうもんアラ恐しき器量哉きりやうかなと暫時默止て居たりけり


第十四回


 斯て天眼通てんがんつうを得たる大岡殿が義理ぎり明白めいはくの吟味にさしも強惡きやうあくの平左衞門一言の答へもならず心中歎息たんそくして居たりしかば越前守殿然さもあるべしと思はれ乃至よしや其方此上富婁那ふるなの辯べんを振つて何程申掠るとも島が一條に付ては確たしかなる證據しようこあり本月朔日ついたち千住燒場へ島の死骸しがいを置捨に致したる事相違是有まじ又た千住光明院淺草了源寺より訴へ出し書面しよめんもあり右等を只今爰こゝに於て讀聞よみきかすべし主税之助諸共能々よく〳〵聞きかれよと申さるゝ言葉ことばの下より目安方めやすかた役人書面を讀上げる

光明院檢使願書面本件ほんけん第十一回目に記載かきのせ有に付茲に除のぞく依て其回と見合せ讀給へ

右みぎ檢使けんし書取かきとりの寫うつし

前ぜん同斷どうだん

淺草了源寺よりの訴うつたへ書面しよめん

前ぜん同斷どうだん

越前守殿コリヤ平左衞門何と斯樣かやうの屆書是有る上は其方儀そのはうぎ主税之助と申合島しまを害がいして其死骸を隱かくさん爲淺草了源寺よりの送おくりなりと僞いつはりを構へ其手段てだてをせし所光明院にて差拒さしこばみし故彼處へ棺桶くわんをけを置捨に致たるに相違有まじ其上そのうへ島しまの親住吉町吉兵衞よりの歎願書たんぐわんしよも是あり夫それも序に讀聞せよと云るゝに又々目安方めやすかたの者右の書付かきつけを讀上よみあげる

住吉町吉兵衞願書は本件ほんけん第十一回目に記載かきのせ之あるに付爰こゝに除のぞく因て其回と見合せ讀給へ

因よつて平左衞門は増々ます〳〵心中に驚くと雖も猶なほも其の色を見せず默止もくして居たりしかば大岡殿少し聲こゑを張上られコリヤ平左衞門是これまで主税之助が爲せし惡事あくじは皆汝が勸すゝめし處ならん併しかし汝程の惡才あくさい有者が何故又島が死骸しがいの始末は斯かく淺果あさはかなる工夫をなして置捨おきすてに致したるやと申されければ平左衞門此ことを聞きゝ然しかる上は切せめて我が身の罪だけも遁のがれんと忽ち奸智かんちを廻めぐらし恐おそれながらと首を上御意の如く誠に天命てんめい遁難のがれがたきものにして島が死骸取隱し方淺果あさはかなりとの仰おほせ此平左衞門身みに取何程か恥はづかしきことに御座候是これに付ては種々申上度儀御座候へども其事詳つまびらかに申上る時ときは主人の惡事に御座候尤も斯成行し上は是非ぜひに及ばず罪は殘のこらず私しへ仰付おほせつけられ下され候へば有難く存じ奉つり候と言葉ことば巧たくみに申立ければ此時大岡殿彼奴きやつ此場の變へんを見て又惡計あくけいを設けしよなと思はれけれども態と心付こゝろづかれざる體ていにて成程罪は殘のこらず其身に引受度と申事奇特きどくの申條なれども主税之助が科は最早遁のがるべき道なし依て主人しゆじんの儀なりとも今更いまさら包つゝみ隱すは却て未練みれんの至りなり有體ありていに白状して罪に伏ふくすべしと有に平左衞門心中しんちうにしめたりと思ひ仰おほせの如く主人の惡事あくじを申上なば臣たるの道を失うしなふのみならず我が身の罪つみを遁のがれん爲の樣に思召おぼしめしの程恐入り候間差控さしひかへ候へども右樣御尋ねに付止やむを得ず有體ありていに申上候はん私し儀三年以前當たう主人しゆじんに抱かゝへられ候節實じつは中小姓を相勤候處夫より段々だん〳〵取立とりたてられ用人に相成候後先代せんだいよりの古老こらうたる山口惣右衞門に永ながの暇いとまを申付られ候然れどもいまだ先代よりの用人ようにん佐すけ十郎郷右衞門と申者御座候を兩人りやうにん共に差置さしおき私しめに而已のみ用事申付られ餘り首尾しゆびの宜き故合點がてん行ゆかずと存じ居候處或夜あるよ主人儀私しを竊ひそかに招まねかれ人々を拂つて申されけるは藤五郎藤三郎の兩人りやうにんを如何いか樣にも致し無者なきものにして我が子佐すけ五郎に家督かとくを讓ゆづり度思ふにより力を添そへ呉くれる樣にとの頼たのみに付我が子の愛あいに迷まよふは凡夫の常つねとは申ながら扨さては斯る巧みの有故に私し儀を斯迄かくまでに取立し事やと存じ仰天ぎやうてんは仕つり候へども萬一荒立あらだてに成らんかと心を鎭しづめ其後機を見合せ意見いけん致し候へども勿々なか〳〵以て用いひまじき樣子やうすに付兎に角事を永く延す中には又致し方も有べしと内外ないぐわい承知しようちの體に待もてなし先主人の氣に適かなふ樣に致し置おき其中には佐すけ十郎郷右衞門の兩人と内談ないだんの上猶又主人を諫いさめ申さんと存じ種々いろ〳〵心を碎くだき居しに渠等かれら兩人の者は却て私しを疑ひ夫よりして傍輩はうばい中も自然と宜からず成行なりゆき候へども兎角とかく渠等兩人へ私わたくしの本心を顯し實まことを見せて篤と相談さうだんせんと思ふ中佐すけ十郎郷右衞門兩人は藤五郎藤三郎を盜ぬすみ出し候故ゆゑ扨さては渠等兩人も主人の惡意あくいを察さつしけれるにや兄弟を盜ぬすみ出しうへ訴うつたへ出る存念ぞんねんと心付南無三寶是は逸はやりたることをなし公邊かみへ御苦勞を掛かけなば兄弟の命いのちは助たすかる共嘉川の家は滅亡めつばうならんにより此上は最早是非もなし心に染そまぬ事なれ共佐すけ十郎郷右衞門ら兩人を罪つみに落おとし主家しゆかの滅亡を救すくはんと據よんどころなく愚案ぐあんを以て主人の居間ゐまの金百兩紛失ふんじつせしこと申立て候是は跡方あとかたなき僞いつはりに候へ共右樣申立るに於ては御上にても佐すけ十郎郷右衞門の兩人に疑うたがひ掛かゝらんにより藤五郎兄弟きやうだいを盜み出せしは己等が罪を遁のがれん爲忠臣ちうしんごかしに爲せし儀と申立一旦の主恩しゆおんを報むくい候心得に御座候ひし又島の事も然の通り主人の申付に任まかせ殺して仕舞しまうは安やすけれども渠かれは女に似氣にげなき忠節者ちうせつものゆゑ切せめて命ばかりも救ひ得させんと種々に主人を諫いさめ候て一先渠かれを當分たうぶん押込おしこめ置おきて猶なほ助たすけ候半んと存ぜし中相役の立花左仲と申者竊に主人しゆじんと申合せ絞殺しめころし其儀に付右等の儀は全く後あとにて承うけたまはりたる事ことゆゑ萬事の儀ども相違さうゐ仕つりて候と申立たてけるを先刻せんこくより主税之助は聞居たりしが耐こらへ兼默だまれ平左衞門今となりて然樣なる儀を口賢くちかしこくも申が此度このたびの事は皆其方の勸すゝめしに非ずや然すれば此惡事このあくじの元は其方なり夫を都合よきやうに申さば我われ又また言事いふこと澤山たくさん有と申に平左衞門呵々から〳〵と笑わらひ是は未練みれんの事を仰せらるゝ物かなと言いふをナニ未練みれんとは其方の事なりと爭あらそふ時大岡殿コリヤ兩人共とも默止だまれと聲を掛られ平左衞門は此方吟味中ぎんみちうなり主税之助控ひかへませいシテ平左衞門我われは思おもひの外なる忠臣者ちうしんものぢや然すれば其方に罪つみは有ども又其方を憎にくむべきに非ず猶なほ其後そのあとは何どうぢやと云るゝに平左衞門其御沙汰は恐入候何事も皆私し儀全く行屆ゆきとゞかざる故成ば何處迄どこまでも私し儀罪つみに陷おちいり候と然も忠臣ちうしんらしく申ければ大岡殿是これ平左衞門其方が惡事は最早もはや夫迄それまでなるか未々まだ〳〵申儀が澤山たくさん有んサア何どうぢや今少申立ぬか其方が申し立てねば此方より尋たづねることありと申されければ平左衞門は底氣味そこきみ惡わるく答へも發規はきと爲せざりけり


第十五回


 斯て大岡殿は安間平左衞門を種々に糺たゞされける所さしも世に轟とゞろく明奉行めいぶぎやうの吟味故其言葉そのことば肺肝はいかんを見透みすかす如くにて流石さすがの平左衞門も申掠る事能はずと雖も奸智かんちに長たけたる曲者くせものゆゑ忽たちまち答への趣意を變じて其身の罪つみを遁のがれんと胸中に巧たくみ佞辯ねいべんを震ふるひけるを大岡殿は猶なほも心長く聞居られければ平左衞門は十分に奸智かんちを逞たくましうし主税之助の惡事あくじを其の身に引請ひきうけ主人を救ふ體ていに見せ掛兎角私しの不調法故此上このうへは私しを如何樣にも仰付おほせつけられ主人儀は何卒御仁惠ごじんけいの御沙汰願ひ奉つると申立けるに大岡殿呵々から〳〵と笑わらはれコレ平左衞門其方の申處至つて忠臣ちうしんの樣に聞きこゆるなり併しかしながら爰に少し解げせぬことが有ぞ其は住吉町吉兵衞の娘むすめ島しまが殺ころされぬ以前豫かねて覺悟かくごせしと見えて渠が遺書あり其文言もんごんを見みるに彼の島しまは其方を大分だいぶ怖こはがりし樣子なり此儀は何ぢやと申さるゝに平左衞門否いやナニ別て怖こはがりしと申事は之これなき筈に候と云へば大岡殿夫それを讀聞よみきかせよと有る時目安方彼の遺書かきおきを讀上よみあげる

遺書かきおき文言もんごん本件第十一回目に記載あり其回と合あはせ讀給べし

越前守殿何どうぢや平左衞門那あれにても島を救すくふ心なりしやと申されけるを平左衞門は少すこしも臆おくせず仰には候へども私わたくし儀主人の前を憚はゞかり表向は島を強面つれなく致いたしたるゆゑ島は女心に私しを實に恐ろしき者と存ぜしと思おもはれ候と申を大岡殿否いや汝は種々に言掠いひかすむると雖も詞ことばの前後ぜんご皆符合せず其島は女にこそあれ汝も申通り天晴あつぱれの忠節者ちうせつもの殊ことに其利發そのりはつなる事は男も及ぶまじ然すれば其方が主人の手前を憚りて島を強面つれなくせし事を渠かれ爭いかで悟さとらざるものあるべきや然しかるを渠が恐おそるゝは是これ全まつたく其方が惡心あくしんある事疑ひなし何樣に奸智かんちの辯を振ふるふ共此越前守が眼力がんりきにて見拔みぬきたるに相違なし無益の舌の根ね動うごかさずともサア眞直まつすぐに白状せよと申さるゝに平左衞門コハ情なさけなき事を伺ひ候もの哉私し儀聊かも言葉ことばを飾かざらず主人の惡事あくじを身に引請ひきうけん事を願ひし處却て右樣の御疑ひを蒙る事こと餘あまり殘念なりと云はせも果はてず大岡殿大音だいおんに默止れ平左衞門汝未だも奸智かんちの辯べんを以て公儀を欺あざむかんとするか其儀越前守は疾とくより承知なり加之しかのみならず問に任まかせて主人しゆじんの惡事を申立る段實まことの忠臣ちうしん奚ぞ斯る擧動ふるまひあるべきや茲な重々ぢう〳〵不屆者ふとゞきものめ夫それ引下ひきおろせと下知の下より忽たちまち平左衞門を縁えんより下へ引下し高手小手に縛いましめたり然ば大膽不敵だいたんふてきの平左衞門も大岡殿の烈敷はげしき言葉ことばに一句も出ず繩目なはめに及ぶぞ心地よし扨さて又また大岡殿は老中方らうぢうかたに向はれ主税之助并に家來けらい平左衞門儀只今たゞいま吟味仕つり候通り是迄の惡事相違御座なくにより先まづ主税之助儀は他家たけへ御預け仰せ付られ追ては吟味ぎんみ然るべきやと申し述られければ老中方にも至極しごく道理もつともとの事にて大岡殿吟味の致され方かたを感心かんしんあり夫より役人やくにんへ評議中主税之助は御小人おこびと目付めつけ警固けいごに及び席せきを下りて屏風びやうぶのうちへ入置いれおき平左衞門は入牢じゆらう申渡されしが主税之助儀は交代かうたい寄合よりあひ生駒大内藏へ御預けと定さだまりたり此生駒家の先祖せんぞは讃州さんしう丸龜まるがめの城主じやうしゆにして高十八萬石を領りやうし豐臣家とよとみけの御代には老中の一人にして生駒雅樂頭と號し天晴あつぱれ武功ぶこうの家柄いへがらなり其後徳川家に隨したがひ四代目にして家中に騷動さうどう起おこり既に家名斷絶だんぜつすべきの處親類藤堂和泉守殿歎願により羽州由利郡矢島に於おいて高八千石を賜り交代かうたい寄合に成され屋敷は下谷竹町にて拜領はいりやう致れたり斯樣かやうの家柄故此度主税之助を御預けなさるゝ旨むね老中井上河内守殿より奉書ほうしよを以て達せられしかば生駒家に於て早速さつそく用意よういに及びお預かり者請取うけとりとして差出す家來左の如し

騎馬きば       一人            士分       五人

足輕あしがる       十人            乘物のりもの       一挺

是これに因て生駒家々來より奉書ほうしよの請書一通つう評定所へ差出さしいだす

御奉書ごほうしよ拜見はいけん仕つり候御預りの者有之候由別紙べつし御書付の通とほり家來共けらいども評定所迄爲請取差出し申候恐惶謹言きようくわうきんげん

二月十九日
生駒大内藏

太田おほた備中守殿

井上ゐのうへ河内守殿

松平まつだひら右京太夫殿

本多ほんだ伊豫守殿

斯て生駒家の家來は評定所の門前もんぜんに控居て御下知を待まちける時に御徒目付おかちめつけ青山三右衞門玄關に立出て生駒家より差出さしいだしの人數にんず揃そろひたるやとの尋たづねにハツと答こたへて同家どうけの用人ようにん金子忠右衞門同留守居役加川新右衞門の兩人罷り出御達おんたつし通り人數相揃ひ控ひかへ罷り在候と答こたへければ青山三右衞門玄關番に差圖さしづなし然らば先まづ各々方おの〳〵がた是これへ控有べしと案内あんないに連つれ評定所の座敷に暫時ざんじ控ひかへ居たりけり


第十六回


 偖さても生駒家の用人ようにん留守居等は玄關脇げんくわんわきの座敷に控ひかへ居けるに暫時しばらく有て御徒目付青山三右衞門再び出立迎の乘物のりものに締しまりの儀御心得有べきやと云へば金子かねこ忠右衞門加川新右衞門の兩人御念ごねんの入たる御尋ね締しまりの儀は錠前ぢやうまへに及ばざる旨御書付に任まかせ錠は付申さず候へども警固けいごの儀ぎは人數別段覺悟かくご仕つり候と答こたへ彼是かれこれする中夜に入り御徒目付御小人目付案内にて嘉川主税之助を玄關げんくわんに送り出せしかば生駒家の用人ようにん金子忠右衞門玄關に手てを突つき今日嚴命げんめいに因て主人生駒大内藏おほくらへ貴君樣を御預け相成しに付御迎へとして用人金子忠右衞門留守居るすゐ加川新右衞門參向さんかう仕つり候と云へば主税之助は會釋ゑしやくして是は〳〵御大儀ごたいぎ某それがしこそ嘉川主税之助なり以後いご何かと御世話に相成ん宜よろしく御頼み申すと言ひながら則ち乘物のりものに乘移のりうつるに生駒家の人數にんず前後を固かためて引取りけり夫より役人方一同退散たいさんに付大岡殿も評定所より歸宅きたくされ即刻定廻り同心どうしんを呼よばれて小柳町一丁目に住居ぢうきよ致す切首多兵衞并に同居の弟おとゝ願山と申す僧そうを召捕めしとるべしと有りければ畏かしこまり候とて同心は早速さつそく其夜小柳町近邊に到り能々聞糺きゝたゞすに幸ひ此夜多兵衞願山共居宅きよたくに在て惡黨あくたう共を集あつめ大博奕を始め居たり多兵衞は廣袖ひろそでの小袖を着し三ツ布團ぶとんの上に大安坐おほあぐらをかきて貸元かしもとをなし願山坊主ばうずは向鉢卷にて壺を振宵より大勢おほぜい車座くるまざに居並ゐならび互に勝負しようぶを爭あらそひしが一座の中に目玉めだまの八と云ふ惡者は今宵こよひ大いに仕合せ惡わるく一文なしに負まけて詮方せんかた盡つきしかば貸元の多兵衞に向ひコレ親分資本たねを貸かして呉れ餘り敗軍はいぐんせしと云へば多兵衞は何なにが二貫や三貫の端錢はしたぜにを負まけたとて大敗軍も無ねへもんだ其樣な少量けちな事を聞耳みゝは無ねへ此馬鹿八めと罵のゝしるにぞ目玉の八は負腹まけばらにて心地宜らぬ折柄をりから故大いに怒いかりナニ馬鹿八だと此拔作め口の横に裂さけた儘まゝに餘り大造を吐露ぬかすな飛とんだ才六めだ錢を貸す貸かさぬは兎とも角かくも汝の口から馬鹿八とは何のことだ今一言ひとこと云ぬかしたら腮骨あごぼねを蹴放けはなすぞ誰だと思ふ途方とはうもねへと云へば切首きりくびは眼を剥むき出し大音に汝おのれ云いはせて置ば方圖はうづがないびんしやんとすると張倒はりたふすぞと敦圉いきまき切つて罵のゝしるをナンダ張倒すイヤ置て呉れ汝等に張倒されてお溜たまり飜こぼしか有るものか爰こゝな強曝がうさらしめと互に口から出放題ではうだいに惡口を吐散せしが多兵衞は終つひに堪こらへ兼かね直立つゝたちさま茲な馬鹿八めと既に飛掛とびかゝらんと爲するを目玉も同く立上り小癪こしやくな汝おのれが否いや汝がと打て掛かゝれば此方も負まけず仲間喧嘩なかまげんくわのどツたばた燭臺しよくだいを踏倒すやら煙草盆を蹴飛すやら打つ擲うたれつ掴つかみ合あひ果はては四邊も眞しんの闇やみ上を下へと返かへしけり斯る騷さわぎを見濟して捕手の役人聲々に上意々々と踏込ふみこむにぞ惡者わるもの共は是を聞コリヤ堪たまらぬと一目驂もくさん闇やみを幸ひ這はう々に後をも見ずして逃去にげさりけり役人は外の者に構かまひなく終つひに多兵衞願山の兩人を捕押とりおさへ高手小手に縛いましめつゝ夫より家内を改あらためて町内へ預あづけ兩人を引立歸り其夜は假牢かりらうに入置其段そのだん越前守殿へ申立しかば越前守殿には右翌日に至り先達せんだつて揚屋あがりやへ入置いれおかれたる郷右衞門佐すけ十郎の兩人を出され御吟味中嘉川平助親類しんるゐ山内三右衞門へ御預あづけを申付られたり此三右衞門は小身せうしんの上至て貧窮ひんきうの處へ己おのれ夫婦ふうふとも都合四人の口故日々の賄まかなひに甚だ難儀なんぎ致しけるを須田町の七右衞門は聞及び例れいの侠氣をとこぎなれば早速さつそく三右衞門の方かたへ來りて何なにくれと見繼みつぎ深切しんせつに世話せわをなしけるゆゑ三右衞門は甚はなはだ七右衞門の氣性きしやうを感かんじ喜よろこびける


第十七回


 天てん明あきらかにして善惡ぜんあくの賞罰有りと然れば切首の多兵衞僧そう願山ぐわんざん諸共もろとも多年の積惡せきあく遁のがれ難く享保きやうほ四年二月十二日大岡殿の白洲しらすに引出さるゝに多兵衞は今年三十六歳弟おとゝ願山は三十二歳なり大岡殿先まづ切首の多兵衞を呼よばれコリヤ多兵衞其方の異名いみやうを切首と申す由夫そは何故に然樣さやうの名を付て置にやと尋たづねらるゝに多兵衞は首かうべを上あげ恐おそれながら私し儀御覽ごらんの如く此首筋このくびすぢから脊へ掛けて切込きりこまれし疵が御座るゆゑ人呼よんで渾名あだなを切首と申候と云ければ大岡殿見られて成程汝なんぢが首筋くびすぢには大きなる疵きずが見える其疵は又何どうして付られしぞ隱かくさずに申せと云れければ多兵衞はナニ隱かくしませう此疵は一昨年の夏中なつぢう供先ともさきにて喧嘩けんくわ御座候節陸尺の七右衞門と申者に切きられ此通このとほりの疵に相成しと申ければナニ供先の喧嘩けんくわで切れ夫故其疵に成たるとな夫それは何時いつの事なるやと有に多兵衞それは享保きやうほ二年の夏五月端午たんごの式日しきじつ私し出入屋敷やしき嘉川主税之助樣親類中へ禮れいに廻勤くわいきん致され候故私し徒士かちを仕つり神田明神下にて小川町の五千石取の太田彦十郎樣に出會であひしまゝ互ひに徒士かちの者双方の名前を呼上行違ゆきちがひ候節嘉川家の供頭が御駕籠かごの戸とを引外ひきはづし狼狽うろたへ廻るを見て太田樣の陸尺共が聲々こゑ〴〵に此土百姓の大馬鹿者おほばかものめ戸の明建あけたても知らぬか知らすば教をしへて遣ふ稽古けいこに來いと散々さん〴〵に惡口致候ゆゑ嘉川樣の事に付此多兵衞めも堪こらへ兼かねて進寄すゝみよりつひ一言ひとこと二言ふたこと々爭いひあらそひし中双方錆刀さびがたなを引き拔切合處に太田樣の方には中小姓こしやう徒士かちなどにも手利てきゝの者之あり其上陸尺ろくしやくの七右衞門は力ちからもありて能よく働はたらき候然るに嘉川樣の方には中小姓こしやう孕石はらみいし源兵衞安井やすゐ伊兵衞を始め私し并びに陸尺ろくしやく中間迄ちうげんまで必死ひつしになりて戰ひし故一時は太田樣の方引色ひきいろに相成候然るに太田樣の陸尺共ろくしやくども豫々かね〴〵此多兵衞に遺恨ゐこんあり其故は彼かの七右衞門と申者元嘉川家の陸尺頭がしらを勤つとめ居たりしに今の主税之助樣の代だいになりし頃ころ陸尺の出入を取替られし時私し口入仕つり外ほかより入込ませ彼かの七右衞門は出入を止やめられ申候此怨うらみ有るに因つて此日の喧嘩けんくわを幸ひに陸尺ろくしやくの七右衞門惡口雜言あくこうざふごんを申し其上太田樣の者共此多兵衞の働きにて引色になりたるを七右衞門大いに憤いきどほり雷らいの如く喚おめいて忽たちまち嘉川樣の者共を追返おひかへし中なかにも私しを目掛けて追來おひきたり後うしろより大袈裟げさに切り付申候是に因よりて嘉川家の者ども散々さん〴〵に逃退き漸やうやく喧嘩も鎭り屋敷へ歸りし後此事内濟ないさいにて相濟あひすみたり然れ共私し儀首筋より脊せへ掛かけて大疵おほきずあるに付其時より異名を切首きりくびと人々申候と少しく自慢じまんがてらに長々なが〳〵と申ければ大岡殿成程其遺恨ゐこんもある故陸尺の七右衞門は今度このたびの一件に世話を致して居ゐると見ゆる先まづ夫は兎とも角かくも多兵衞汝が世話で嘉川家へ奉公住ほうこうずみ致せし安間あんま平左衞門と申者は其方何なんの縁えんに因よつて請人になりしやと尋ねらるゝに多兵衞其の安間あんま平左衞門儀は私しの弟おとゝ願山の懇意にせし縁えんを以て渠かれが請人うけにんは仕り候と云へば大岡殿然らば其方弟おとゝの願山儀は以前京都智恩院ちおんゐんの弟子でしなりしかと申さるゝに多兵衞否いへ然樣さやうでも御座りませぬ然らば何どうぢやヘイ弟願山儀は江戸表おもての寺てらにて出家しゆつけ致せしと申すを大岡殿ナニ江戸表の寺ぢや江戸表とばかりでは一向かう解わからず何と申寺なるや眞直まつすぐに申せと云れけり


第十八回


 偖さても大岡殿は多兵衞の異名いみやう切首きりくびと云いふ譯わけを尋たづねられし處多兵衞は少しく誇ほこり面がほに喧嘩の次第まで委細くはしく申立しにより其物語そのものがたりの中うち廉々かど〳〵此節の一件に思ひ當りしことなど有ける故ゆゑ夫それとなしに長々と多兵衞の申を聞居られしが其後そののち渠かれが弟願山の事に及および江戸表の寺てらは何方の徒弟とていなるやと糺たゞさるゝに至りて多兵衞はハツと心付大おほいに狼狽うろたへし樣子やうすを越前守殿は敏はやくも見て取とられ何ぢや多兵衞云へぬか云へまい其寺は淺草阿部川町あべかはちやう了源寺れうげんじであらうコリヤ多兵衞先達て了源寺の所化しよけと爲り燒場やきば切手きつてを持參ぢさんなし島の死骸しがいを千住の燒場光明院へ持込もちこみ棺桶くわんをけを其處へ置捨おきすてにして逃失にげうせし由又其時檀家と僞いつはり參まゐりたる者も三人是有る趣き兩寺より訴へ出しなり其節せつのことは其方も其一人ならん此事有體に白状はくじやうせよ萬一隱かくし立なさば嚴きびしく申付方有ぞと大音だいおんに言いはれしかば多兵衞は大岡殿の威權ゐけんに呑のまれわな〳〵爲しながら心中に想おもひけるは此事斯まで悟さとられし上はとても言紛いひまぎらすこと叶はず寧いつそ有の儘まゝに申て仕舞はんと覺悟かくごを極きはめ其の儀全くは嘉川の殿樣に頼まれ私儀は施主せしゆに立ちて參りしに相違御座なく候と申を大岡殿聞れ成程なるほど汝は至極しごく諦あきらめの宜よき奴やつ能こそ眞直まつすぐに白状致せしぞシテ殘りの二人は何者なにものなるやヘイ是も矢張やつぱり嘉川樣の御家來ごけらい安井伊兵衞孕石源兵衞の兩人に候と言に大岡殿宜々よし〳〵然さうで有あらうダガ又其の禮れいとして主税之助より金子を何程なにほど取たイヤサ何程取て頼まれたと申事よと有ければ多兵衞は否々いや〳〵金子きんすは少しも貰もらひませぬと云へば大岡殿馬鹿ばかな事を云へ金でも貰もらはずに其樣そんな事を爲する白痴たはけが有者あるものか取たなら取たと申せ何も其方が頼たのまれる程で金子を取たとて別べつに恥はぢにも成ぬ又其方の身分で其金を取ぬと申たとて別べつに褒ほめる處もない今申通金子を取て頼たのまれしとて罪の處は同じ事だぞと申さるゝに多兵衞は彌々いよ〳〵閉口へいこうなし實に恐れ入ました金子を別べつに取て頼たのまれたと申ではなく少々せう〳〵計ばかりの酒代さかだいを貰もらひしと云に夫は何程いくらだと問とはるればハイ一兩貰ひ候と申を大岡殿大いに笑わらはれコウ多兵衞夫それは餘あまり安いものぢやたつた一兩位ぐらゐで頼たのまれたか併しかし其の趣ぎに相違なきやとあるに多兵衞其儀は少すこしも相違御座なく候と答れば大岡殿オヽ能よく是迄これまで白状致した此上の處決して陳ちんずるな先是迄の處では其方の身分みぶんに構かまひないぞ爰こゝを能々よく〳〵得心して以後尋たづぬる節せつは有樣に申立よ先引立ひきたていとの下知に隨ひ同心引立ひきたてて入替り願山ぐわんざんを白洲へ引据るに大岡殿渠かれを見られコリヤ了源寺れうげんじの所化しよけを勤つとめたる願山とは汝かことかハテサア驚くな其方が白状せぬ前に汝の兄あに切首きりくびの多兵衞が殘のこらず白状して仕舞しまつたは何も今更いまさら隱かくすには及ばぬイヤ汝おのれは勿々なか〳〵並々なみ〳〵の奴やつではないコレ願山能承まはれ汝が兄の多兵衞は潔さつぱりとして小氣味こきみの能よい奴やつぢや其方も兄あにの通りすツぱりと白状せよ主税之助に頼たのまれ島の死骸しがいを燒場やきばへ送りし時金子は何程取しぞ隱かくさず申せと云はるゝに願山は大いに驚き扨々さて〳〵兄は腑甲斐ふがひなき奴やつとは思へども今更いまさら陳ちんずる事も出來ざれば其儀は嘉川樣に頼たのまれし節せつ金二兩貰もらひしと申ければ大岡殿笑はせられ汝おのれも安い人間ぢや併しかし兄より利發りはつ者兄の多兵衞は主税之助に頼たのまれて島の施主せしゆに立ながらたツた一兩貰もらつたと申其方は二兩貰もらつたと云ふが兄の施主役せしゆやくより汝は坊主ばうず丈だけ佛に付ては骨ほねが折をれる了源寺の似せ切手を拵こしらへ又其外の氣配きくばりも坊主でなければ萬事行屆ゆきとゞかず其の上掛合かけあひも致す旁々かた〴〵以て汝は大役で有たナ先々まづ〳〵其儀は夫で宜よし〳〵シテ願山ぐわんざん汝が世話を致せし安間平左衞門と云ふ者は何どう云ふ縁えんで心安く成しや此儀このぎ有體ありていに申せと問とはるゝに願山は此事なりと思ひしかば其平左衞門儀は私し京都智恩院ちおんゐんに居りし頃ころ度々渠かれと出會であひし故ゆゑ夫より懇意こんいになり其後私し儀御當地へ參るに付渠かれも又御當地へ下くだり私しを頼たのみまするに因より世話せわを致し候と申ければ大岡殿其平左衞門は京都に居をりし節せつ何れに奉公ほうこう致したヘイ日野大納言樣ひのだいなごんさまに勤居つとめをりましたナニ日野家に居つたと其方は智恩院ちおんゐんに居た故夫で渠が世話を致したか御意ぎよいに御座ります大岡殿イヤハヤ夫それは甚だ申口が暗くらいぞ其方智恩院に居つて度々たび〳〵出會であひたる者を世話致すと申は第一心得ぬ事なり此後も京都に於て度々出會し者が此地へ下くだらば皆みな世話せわを致すか何どうぢや京都に居る時平左衞門のみ出會であひて外の者には出會であはざりしか此儀は何ぢやと有に願山ぐわんざん恐おそれながら然樣さやうの儀には御座なく平左衞門事は彼かの地ちにて別段べつだん懇意こんいに致せしゆゑ渠かれの世話は仕つりしと云へば大岡殿是これさ願山汝如何程いかほど申ても申口が闇くらし平左衞門其方そのはう何なにか由縁ゆかりにてもあるか又は餘儀なき事にても有ありしか一向かう左樣さやうなる儀もなく只々たゞ〳〵汝は京都にて渠かれと度々出會であひ別段べつだん懇意こんいに致したと申が然さほど別懇べつこんならば渠が生國なども定めて聞たで有らう渠が生國は何國ぢやヘイ生國しやうこくは存ぞんじませぬハテサテ更さらに取處もない併しかしながら渠には何ぞ恩義にても受しことあるや然さも是なき時は一向に申口は立まい何ぢや答へが出來できずば夫は追おつての事平左衞門が日野家に勤つとめしは何時頃いつごろの事なるやと有あるに願山ヘイ四年以前に御座候と申ければ大岡殿オヽ四年以前は享保きやうほ元年何月迄まで勤つとめて居つたぞ願山答へて四年以前の十二月の中旬頃迄なかばごろまで勤つとめて居りましたと存じます大岡殿然らば其の時の平左衞門が名は何と申たと尋たづねらるれば願山ぐわんざんは暫しばらく考へ種々いろ〳〵の名もと云掛いひかけしが否いへ矢張やはり安間平左衞門と申まして御座りますと云へば大岡殿コレ〳〵願山然うでは有るまい外ほかに名が有つた筈はずぢやとてものことにすツぱりと云て仕舞しまへ最もう隱かくしても皆みな知しれて居をるサア眞直まつすぐに申せと云るゝに願山は何なにかぐず〳〵云ひ兼かねる體ていを見られ大岡殿イヤハヤ意氣地いくぢのなき坊主ばうずめ疾とくより知れてある事を汝おのれ隱かくしだてをする大馬鹿おほばかめコリヤ其大帳そのだいちやうを是へと申さるゝ時目安方ハツと差出さしいだすを取とりて見らるれば享保元年の帳に

日野家ひのけの家來けらい逐電ちくでんの者
安田平馬
三十九歳
佐々木靱負
三十六歳

右みぎ兩人の者去さる廿一日の夜逐電ちくでん仕つり候に付御斷り申上候

日野ひの大納言内うち
享保元年十二月廿八日
雜掌ざつしやう

斯の如く帳面に書留かきとめ之有り右日野家家來けらい逐電ちくでんの始末は毎年八月十五日城州じやうしう男山石清水八幡宮放生會はうじやうゑに付參向さんかうの公家衆くげしうあり抑々そも〳〵此この正八幡宮は其昔時むかし 應神天皇を勸請し奉つり本朝ほんてう武家ぶけの祖神なり就中源家に於ては殊ことの外ほか御尊敬ごそんきやうあること御先祖ごせんぞ八幡太郎義家公此御神おんかみの御寶前に於て御元服あつて八幡太郎と稱しようし奧羽あううの夷賊いぞく安倍貞任同宗任を征伐せいばつあられしも悉々こと〴〵く此八幡宮の神力しんりきに因所なれば實じつに有難き御神おんかみなり然ば末代まつだいに至る迄此御神を武門ぶもんの氏神うぢがみと尊あがめ奉つる事世の人の皆知る處なれば爰に贅言ぜいげんせず因て當時將軍家より社領しやりやう一萬石御寄進きしんあり斯かゝる目出度御神なれば例年八月十五日御祭禮の節せつ放生會はうじやうゑの御儀式ぎしきあり近國きんごく近在きんざいより其日參詣なす者數萬人及び八幡山崎淀一口其近邊は群集ぐんじゆ一方ならず淀よどの城主稻葉丹後守殿より毎年まいねん道普請みちぶしん等丈夫に申付られ當日は警固けいごの役人罷出て往來の非常を戒いましめらる然れば今年も參向さんかうの公家衆くげしうは御三方にして例年の如く御先は花山院くわざんゐん中納言有信卿菊亭大納言定種卿勅使は日野大納言定立卿なり


第十九回


 斯かくて參向さんかうの公家衆例年の通り八幡宮御寶前はうぜんに於て御神拜しんはい終をはり御式路淀の城下に差掛られしが茲に木津川きづがは淀川よどがは桂川かつらがはと云ふ三所の大川あり是に大橋小橋孫橋といへる三橋を架渡かけわたし領主りやうしゆ稻葉家の普請ふしんにて今日公卿方此橋を御通行あるにより同家より警固けいごの人數嚴重に御道筋おみちすぢを固めしが稻葉家の運や惡かりけん花山院殿と菊亭殿きくていどのの御二方は難なく通り給ひしが勅使大納言殿の御駕籠此孫橋へ差掛られし時桁けた中途ちうとより折れて橋板五枚ばかりと共に日野家の御先供さきども水中に落入や否や續いて大納言殿の陸尺も踏外ふみはづし忽ち御駕籠かごも水中へ落入既に沈しづまんとする有樣に周章狼狽あわてふためき陸尺共は足を踏直ふみなほして上らんと爲を見て稻葉家警固の者共大に驚き驚破すはや一大事の出來たりと大勢おほぜい馳來はせきたりて飛込々々とびこみ〳〵難なく御駕籠かごも救すくひ上たり尤も御駕籠半分程は水中に落入しと雖も稻葉家の役人共爰を專途せんとと身を惜をしまず働はたらきしゆゑ大納言殿御怪我もなく御旅館りよくわんへ御供ともして入奉つり御裝束おしやうぞくを召替られ御歸洛きらく有しは誠まことに危き御ことなり然らば御同勢中水中に落入し者凡廿人ばかりにして此日彼の所化しよけ願山ぐわんざんも日野家へ傭やとはれ醫師の代を勤め大納言殿の御供に列れつせしが運うん能よく水難すゐなんを遁のがれたれ共外に水死の者五人あり御道具だうぐ荷物にもつの類も落入て以の外の大騷動なれば稻葉家より水練に勝れし者を數十人撰み水中を彼方此方と尋廻たづねまはり漸々やう〳〵に兩人の水骸しがいを始め御道具類を引揚けれども御大切の御太刀たちは一向かうに知れず是は正しく水勢すゐせい早はやき大河なれば川下へ流ながれしならんとて川下の方をも猶なほ又人數を増して探さがしけれ共更に御太刀の知れざりける此の御太刀は全まつたく安田佐々木兩人の侍士が此騷ぎを幸ひに取隱とりかくし是を種として稻葉家より金子きんすを欺罔ゆすり取んと巧たくみしことなり此時の落首らくしゆに

ちはやふる神代かみよも聞きかず淀川よどがはに

     烏帽子ゑぼし着きながら水くゞるとは

然されば今日の變事へんじに付稻葉家に於ては大いに心配しんぱい致され取敢とりあへず日野殿の御機嫌伺きげんうかゞひとして家老からうの中を遣つかはされんと城代稻葉勘解由かげゆを以て京都日野方へ參入致させ種々しゆ〴〵の音物いんもつ山の如く贈られて今日の變事へんじを詫わび入太守も深ふかく心配しんぱい致さるるに付大納言樣御機嫌伺きげんうかゞひとして參上仕つり候と申述るに日野家の青侍士あをざむらひ安田平馬佐々木靱負ゆきへの兩人兼かねて申し合せ今度の儀を幸さいはひ稻葉家へ捻込ねぢこみ大金を掠かすめ取るべしと思ひし機をりから故大いに悦よろこび兩人は立出是は〳〵勘解由かげゆ殿には能よくこそ御入來只今の御口上の趣おもふき痛いたみ入候主人儀は別段變る事も是なく併し此度の儀は 勅使ちよくしとして石清水いはしみづへ御參向の御道筋なれば豫々かね〴〵道みち橋はし修繕等是有るべきの處右の始末しまつ勿々なか〳〵言語ごんごに絶たえたる事急ぎ此趣き關東へ申達し江戸表の御差圖さしづに任せ申べき間然樣さやう心得られ此段丹後守殿へ申達さるべしと然さも仰々ぎやう〳〵しく云ければ勘解由かげゆは甚だ當惑たうわくの體にて此儀江戸表へ伺ひ候存じ寄に候はゞ某し斯かく推參すゐさん仕つらず只々何分にも御兩人の御熟懇じゆくこんを以て波風なく御執計とりはからひ下され候樣頼み奉つり候と申ければ此樣子を見て安田佐々木兩人は仕濟しすましたりと心中に悦び彌々いよ〳〵圖に乘て大柄面おほへいづらをし此儀大納言殿には元より穩便をんびんを好まるゝと雖も御同行どうかう成なされし御兩卿りやうきやう方の手前もある故餘儀よぎなく斯は御談じ申せしなり然さりながら爰に一つお頼み申度儀御座候其事御承知に候はゞ拙者共何とか工夫くふう致し取り扱ひ申すべく其の譯わけは近來きんらい當家も勝手向かつてむき至いたつて不手廻ふてまはりに付殊の外御難儀成れ見らるゝ如く御殿の普請ふしんも打捨置うちすておき候次第ゆゑ此度の御謝物しやもつの御心得にて少々金子きんすを御家より御用立られては如何や然さ有ある時は双方共無事にして宜からんと云を聞勘解由は打喜び金子にて相濟あひすむ事なれば何とか取計ひ申すべしシテ其の金高は何程なるやと申に安田佐々木の兩人は右金高は先まづ水死すゐし二人の代り金二千兩御道具だうぐの中御太刀一口ふり銘めいは來國行らいくにゆき是は別て御大切の御品成ば此代金千兩外御道具代金三百兩都合三千三百兩右の如く借用致され度たしと書付を出しければ勘解由は眉まゆに皺しわを寄よせ扨々さて〳〵是は餘り大金若もし此事世間へ相知れ候時は双方さうはう共宜からず此儀は御用捨ようしやに預あづかり度と申けるを兩人は聞て大に憤いきどほり然らば勝手次第如何樣とも仕つる三千三百兩を大金と申さるゝが御主人丹後守殿御身上しんじやうに較くらべて見る時は實まことに易きこと十萬石餘の大名少々の金子を出し兼て此方より申達なば家も領地りやうちも棒ぼうに振るべし大切の 勅使御參向の砌みぎり橋の手薄てうすにて水中へ落されしと有ては 天子へ刄向はむかふも同然逆罪ぎやくざいの咎とが遁のがるべからず爰を存じて無事に扱はんと申を彼是御邊申さるゝからは詮方せんかたなく此趣き江戸表へ早々さう〳〵達し申さんと言放いひはなしければ勘解由大いに驚き先々御待ち下さるべし全く金子を惜をしむに非ず此上は兎とも角かくも仰おほせに任すべしと早速金子を取寄せ日野家へ用金と號して右の高三千三百兩進上しんじやう致し何分宜敷頼み上ると申し置おきて勘解由は立歸り諸司しよし代松平丹波守殿へは此事を輕かるく屆に及びたり然れ共松平殿は内々ない〳〵承知致され日野家の致し方を甚だ憎にくまれ又稻葉守も卑怯ひけふ未練みれんの事なりと申されけるとなり


第二十回


 扨さても城代じやうだい稻葉勘解由は主しう家を大切に思ふが故是非ぜひなく三千三百兩の金子を差さし出し此度の一件事故なく濟すませしかば先は稻葉守上下の者安堵あんどはなしたれども未だ淀川へ沈しづみし太刀の出ざれば毎日人夫を出して淀川の上下を吟味に及けれど一向知れざれば因て暫しばらく其儘に打過すぎ誰たれ一人此事を安田佐々木兩人の惡巧わるたくみと知る者なく斯惱なやみしは是非もなし然るに安田佐々木の兩人は充分事こと調とゝのひしと大いに喜び三千三百兩の金を密ひそかに分取わけとりにして毎日物見遊山に出かけしは是則ち三日極樂とも謂つべし尤もつとも安田は強慾がうよくの曲者くせものゆゑ此金子を一向に遣ず佐々木の奢おごりを見て苦々にが〳〵しき事に思ひ御邊斯大金を遣ふ時は忽たちまち足が付諸司代より直に吟味と成んにより此金を資本として何ぞ吉事よきことに有付工夫をなし給へと異見しけれども佐々木は一向聞入ず湯水の如くに遣ひける故果たして松平丹波守殿此事を聞込きゝこまれ扨こそと早速さつそく吟味をせんとて日野家へ承まはる可べき儀有之候間安田平馬へいま佐々木靱負ゆきへの兩人當役所へ差出さるべしと達しられしかば日野家に於ては何ごとならんと怪しまれしが安田佐々木の兩人は豫かねて覺おぼえのあることなれば素知そしらぬ面は爲すものゝ心中に南無三寶ばうと思ひ其夜竊ひそかに兩人并びに願山とも申合せ跡を暗まし逐電して江戸表へぞ下りける是に因よつて日野家より右の旨むね所司しよし代へ屆られければ松平殿甚だ殘念に思はれ此段江戸表へ達し是より兩人の行方ゆくへ御尋ねとなりたりけり扨又安田は江戸にて安間平左衞門と改名して願山の兄あに多兵衞を頼たのみ彼の金子を以て何方いづかたへか住込仕送しおくり用人に成んと心掛けしに幸ひ嘉川家にて仕送り用人を召抱かゝへたしとのことに付多兵衞を請人うけにんとして主税之助方へ住込しなり寔まことに此平左衞門は斯の如くの曲者ゆゑ大岡殿再度願山を吟味なさんと工夫有て日野家よりの屆を調べられし上又白洲しらすを見られコリヤ願山其平左衞門には外に名が有筈なり其頃は汝なんぢも同じ京都に居たる故知つて居ならん何ぢや答こたへが出來ずば此方より云つて聞きかせん彼は日野家の雜掌ざつしやう安田平馬と云し者ならん四年以前逐電ちくでんの節せつ書上かきあげに三十九歳とあり歳頃も丁度ちやうど似合なり汝隱し立をすると其方にも罪が掛るぞ有體に白状致せと有ければ願山は仰天ぎやうてんして思ふ樣は斯まで委くはしく知らるゝ上はとても叶かなはぬ處と覺悟をなし京都にありし頃佐々木安田の兩人は惡巧わるだくみにより稻葉家の家老稻葉勘解由を欺あざむき金三千三百兩を掠かすめ取しことを始め其外の惡事等迄まで殘のこらず申立ければ大岡殿能白状致した猶なほ追おつて吟味に及ぶと申さるゝに下役したやくの者立ませいと聲こゑ懸かけ頓やがて願山を退ぞかせけり


第二十一回


 諺ことわざに其事爾なんぢに出て爾に復かへると宜むべなる哉此言や所化しよけ願山の白状はくじやうに因て再度日野家の一件委細さい吟味有るべしと大岡殿差圖さしづあつて平左衞門を呼び出されしに平左衞門は又何をか尋たづねらるゝやと白洲しらすに蹲踞かしこまる時に大岡殿平左衞門を見られ汝先年日野家に於て雜掌役ざつしやうやくの節は安田平馬と名乘しかと尋ねられければ平左衞門吃驚びつくりなせしかども飽あくまで大膽だいたん者ゆゑ此事何所までも押隱おしかくさんとおもひ私し儀は然樣さやうの名にては御座なく候と云へば大岡殿打笑うちわらはれイヤ平左衞門又しても隱かくし立を致すか汝は存じの外未練みれんな奴やつぢや汝が懇意こんいにせしと云願山が其方并に靱負ゆきへの事まで殘らず白状はくじやうに及びたるぞ其方と靱負ゆきへ兩人にて勘解由を欺あざむき三千三百兩掠かすめ取し事眞直まつすぐに申立よと云はれしかば扨さては願山が白状せしか此上は是非ぜひもなしとて心を定め京都きやうと日野家に仕へし節せつの惡事あくじ殘らず白状に及ければ大岡殿神妙しんめうなりシテ又其方は何故京都を逃亡かけおち致せしぞ及靱負ゆきへは其後如何いかゞなせしやと尋たづねらるゝに平左衞門其儀は只今たゞいま申上し通り稻葉殿より贈おくられし金子を分取わけとりに致し靱負ゆきへは日々遊興いうきように遣つかひ候により所司代は不審ふしんにおもはれしにや日野家へ御訊尋たづねの儀有之に付我々兩人差出べき旨むね掛合かけあひ御座候間右の大金を掠かすめ取し事萬一露顯ろけんに及ぶ時は主人の家の難儀なんぎならんと存じ兩人申合はせ逐電ちくでん仕つり候と申立しにぞ然しからば又々吟味ぎんみに及ばんと先今日は下さがれと有て此段早速さつそく老中らうぢう方へ申達されければ井上ゐのうへ河内守殿より稻葉侯城代稻葉勘解由へ聞糺きゝたゞすべき儀有之間勘解由を江戸表へ早々さう〳〵差下さしくだし大岡越前守役所へ差出さるべしとの達たつしに稻葉家に於ては大いに驚おどろき急使はやうちを以て國元へ申遣はせしかば國元にても種々いろ〳〵評議に及び是は先達せんだつて大金を差出せし御咎ならん此度江戸表へ罷まかり出る時は必ず切腹せつぷくにても致さずんば申譯わけ立難しとの事にて誰一人勘解由かげゆに附添つきそひ下向げかうせんと云者なく其座白けて見えにける豫て覺悟かくごの勘解由は進み出て各々おの〳〵は此度の儀を恐れらるゝにや主人の仰せ殊に御奉書ごほうしよの上は一刻こくも延引すべからず最初さいしよより某しは此儀に係り此度の御召おんめしも皆々勘解由の所業しわざなれば只今より我一人下向致さん各々は御國許くにもとを守られよと云ひ捨て我が方へ歸り妻子さいしにも此ことを物語ものがたり此度の一件申譯わけなくは我主家の爲自害致さんにより其時は汝等必ず歎なげくべからずと能々よく〳〵後あとのこと共申置勘解由は發足ほつそくなし道中取急いそぎて日ならず江戸小川町の上屋敷へ着し其旨太守たいしゆへ申ければ丹後守たんごのかみ殿早速御召有つて日野家の一件御訊尋たづね申に勘解由は委細を申述此事少すこしも御苦勞遊あそばられな私し宜敷申譯仕らんとて御前を退き到着の旨老中方へ御屆けに及びけるに大岡越前守殿役宅やくたくへ罷まかり出べき段御達に付勘解由は翌日未明みめいに南町奉行所へ出にける大岡殿出座しゆつざ有て其方事先達て 勅使ちよくし石清水いはしみづ八幡宮へ御參向の砌みぎり日野家歸路の災難に付種々しゆ〴〵取扱ひ其節金三千三百兩同家へ贈おくりしと云ふ事相違無なきやと訊尋たづねられしかば勘解由は平伏へいふくなし御尋ねの如く其節損じ候御道具おだうぐ代金だいきんと致し差出せし事相違御座なく候と申けるに大岡殿附添の留守居へ向はれ然らば今日は先まづ退たい出致すべし追て呼出す間吟味中屹度きつと愼つゝしませ置べしと申渡され夫より又此段京都所司代松平丹波守殿へ急使はやうちにて申送られければ松平殿是を聞れて偖さてこそと思され急ぎ日野家へ使者を以て申入らるゝは此度江戸表より問合とひあはせの儀有之る間大納言殿御内雜掌ざつしやう一人早々江戸表へ下向有るべし尤も道中の儀滯りなく此方より申付差添さしそへ人一人同道致させ申べしとの口上なり日野家に於ては大きに驚おどろき是は先達て逃亡かけおちせし安田佐々木の事ならん然し何樣どのやうなる間違ひ有るも知れずと殊の外大納言殿御苦勞に御召おぼしめされ家老山住河内へ其段仰おほせられければ山住聞て君少しも尊慮そんりよを苦しめ給ふまじ私し關東へ下り申開ひらき仕つらん此儀全く稻葉家の不覺ふかくと申ものなれば頓やがて歸京仕つり吉左右きつさう申上奉つらんと申て山住は江戸表へ下向致しけるに所司代しよしだいよりは豫て此旨急使はやうちを以て老中方へ通達に及ばれしかば大岡殿へ達たつせられ到着たうちやくの翌日山住河内を奉行所へ呼出され越前守殿對面たいめん有に山住は謹つゝしんで平伏へいふくなし某儀それがしぎは日野家の御内山住河内と申者に候此度御用有るに付召呼めしよばれしは如何なる儀に候やと申ければ大岡殿然されば此度の事餘の儀に非ず先年石清水いはしみづ八幡宮放生會はうじやうゑの節大納言殿參向致され其頃歸路に淀の孫橋まごばし落て大納言殿始め大勢おほぜいの人夫其外御道具類水中に流れ候と承うけたまはる其砌みぎり日野家より稻葉丹後守方へ此事を種々しゆ〴〵に申入られ稻葉の使者より金子三千三百兩取れ候段其頃そのころ御内の安田平馬佐々木靱負ゆきへ兩人の計はからひにて其實右兩人の者是を取候由なれども日野家に於おいて是を心得居られ候や其眞僞しんぎを糺たゞさん爲御邊を召寄たりと申されければ山住は御尋ねの趣き成程然樣さやうの儀も御座候故兩人の者逐電ちくでん仕つり候儀と相見え候併し其節私わたくし儀は病氣にて引籠ひきこもり居をり一向存じ申さず渠等かれら兩人の私欲しよくにより稻葉家の使者を欺き大金を取し事は相違御座なく併し主人儀は一向存じ申さず候事ゆゑ全く欺あざむかれ候は使者の不覺ならんか卑いやしくも日野大納言は清華せいくわの一人何ぞ金銀を奪うばひ取事の候べき此儀は渠等かれらを御吟味下されよと申ければ大岡殿聢しかと然樣さやうかと有に仰の通に候と申て山住は退出たいしゆつ爲したりけり


第二十二回


 斯かくて大岡殿山住河内が申に因よりて早速稻葉勘解由を呼出され其方先達て差出せし金子きんす日野家にては一向知らざる由全く其方の不覺ふかくにして安田佐々木の兩人に欺あざむかれ掠かすめ取るゝ條でう家老も勤むる身に似合にあはしからず立歸り猶なほ屹度きつと愼つゝしみ罷り在べしと以の外に叱しかられしかば勘解由は駭おどろき答べき言葉なく寥々すご〳〵と屋敷へ歸り此段主人へ申しければ丹後守殿大きに驚かれ扨々さて〳〵金子きんすは惜をしむに足らずと雖も我思慮しりよなく青侍士あをざむらひ共に欺かれしなどと人口に懸かゝらんこと殘念ざんねんなり併し今更悔くゆるも益えきなし兎に角愼み罷在公儀かみの御沙汰を待まつべしと申付られしかば勘解由は我が家に歸り一間まに籠こもりて居たりしが獨ひとり倩々つら〳〵考ふるに我大金を掠かすめ取られ剩あまつさへ主人の名迄穢けがせし事何として人に面の向られべきや此上は切せめて自害して申譯せんと覺悟を極きはめ終つひに切腹せつぷくせしこそ哀あはれなれ然されば此由丹後守殿聞れて甚いたく周章しうしやうありしかど詮せんなければ早速老中方へ屆とゞけられしに付其の段大岡殿へ達せられしかば大岡殿此上はとて平左衞門を嚴敷きびしく拷問がうもんに掛られし所終つひに包つゝみ藏かくす事能はず是迄の惡事あくじ追々おひ〳〵白状にぞ及びける又平左衞門が宅を穿鑿せんさくなせしに遣つかひ殘のこりの金子六百兩出たり(是は勘解由より欺あざむき取し金子八百兩有ありしを立花左仲さちうは此騷動さうだうを聞と等ひとしく安間あんまの宅たくへ忍しのび入二百兩奪うばひ取りて逐電ちくでんせしかば嘉川かがは家宅番たくばんの者より此段大岡殿へ屆け出しなり)然ば平左衞門の惡事あくじ彌々いよ〳〵明白めいはくなりと雖も彼の佐々木靱負ゆきへが行方を猶なほ吟味ぎんみ有べしと是を尋ねらるゝに平左衞門渠かれは先年日野家を逐電ちくでんの節せつ大津迄同道せしが夫より分れて渠かれは三井寺の方へ行私し儀は願山ぐわんざん諸共もろともに江戸へ下向致せしにより其後靱負ゆきへの行方更さらに心得申さずと云ゆゑ然らば是非ぜひに及ばず併し其方生國しやうこくは相州さうしうと申たれども是又僞いつはりならん眞直まつすぐに申せと有ければ平左衞門彌々いよ〳〵驚おどろき斯かく見透みとほさるゝ上はとても叶はじと思ひ私し生國しやうこく實じつは江州がうしう井伊家ゐいけの藩はんにて山田藤馬とうまと申者の悴せがれに候處幼少えうせうの頃ころ兩親に別れ我儘まゝに身を持崩もちくづし十七歳の時浪人らうにん仕つり其後京都に出て日野家に奉公致し候と茲に至つて實の素性すじやうを白状はくじやうに及びけり


第二十三回


 茲こゝに又佐々木靱負は日野大納言殿に仕へ同勤どうきん安田平馬と申合せ稻葉家の老臣らうしん稻葉勘解由を十分に欺あざむき大金を掠かすめ取安田と兩人分取わけどりになし其金をもつて遊興いうきようなしける中平馬靱負の兩人相尋ねべき儀ぎ是これあるに付所司代しよしだい御役宅おやくたくへ差出すべく旨日野殿へ掛合かけあひありしかば南無なむ三寶ばうと思ひ兩人申合其の夜の中に日野家を逐電ちくでんして願山ぐわんざんを誘引さそひ大津迄まで來きたりしが不圖ふと心中に思ひけるは我々斯三人打連立ては豫かねて諸司代しよしだいも目を着つけしやうゆゑ江戸表おもてへも注進ちうしんありしは必定なり然樣の所へ空然々々うか〳〵と行見付られなば一大事我は泉州せんしう堺さかひに少々知音しるべ有により彼方へ尋ね行身の落付を定めんと覺悟かくごなし我は三井寺を見物なし後あとより追付んとて平馬へいま願山ぐわんざんと袂たもとを分ち頓やがて泉州せんしう堺さかひを心指して行けるに日の中は世間を憚はゞかるにより夜に入りて伏見ふしみより夜船よふねに打乘うちのり翌朝よくてう大坂八軒屋けんやへ着茲にて緩々ゆる〳〵と休み日の暮くるるを待て夜食の支度したくして爰を立出泉州堺さかひに着し知音ちいんの方を尋ねけるに其知音と云は至つて貧敷まづしく日々人に雇やとはれ幽かすかなる煙けふりも立兼ねるものなりしが先爰に匿かくれて逗留とうりうし能き傳手つてを以て片田舍へ引籠ひきこもり遣ひ殘のこりし金にて何とか能思案しあんなすべしと思ひて彼是半月餘りも過すごしけるに知音しるべの者は日々の暮しに指閊さしつかえ難儀なんぎの樣子やうすなるにぞ靱負ゆきへは氣の毒に思ひ或日懷中くわいちうより金五兩取り出し紙へ捻ひねりて主あるじに對むかひ御邊ごへん今日の營み是ぞと申程の事もなく日々雇の稼かせぎを致さるゆゑ我れ永々逗留とうりうなす事甚だ氣の毒に思ふなり是は少しなれども先まづ暮くらし方の足にも致されよと渡すに主は大いに驚おどろき是は思ひも寄よらぬ事を仰おほせらるゝものかな我等御覽ごらんの如く是ぞと申業たつきもなき故其日の手當てあても甚だ乏とぼしきを見兼みかね給ふは御道理ごもつともなれども我等事生うまれ付無能むのうゆゑ是非なく斯かく暮くらし候まゝ日々進まゐらする物も心に任せず右さへ御厭おいとひなくば假令たとへ此上何時迄居らるゝとも決して御氣遣ひに及ばずとて押返おしかへしければ靱負ゆきへは首かうべを振ふり否々いや〳〵然に非ず此は此程手土産てみやげにても持參すべきなれども其代りに進ぜるなりと種々申て漸々やう〳〵受納うけをさめさせ猶なほ靱負ゆきへは申樣我等未だ少々の資本しほんもあれば何ぞ一目論見もくろみ致し度思ふなり何と金貸渡世かねかしとせいは如何有らんと相談さうだんなせば主は駭おどろき御身何程の金を持給ふか知ねども當地の金貸渡世かねかしとせいは大坂おほさか掛かけて極大身代ごくだいしんだいの者なりと云に靱負ゆきへは否いや彼かの大身代の金貸渡世とは違ひ小體こていに致し手早く高利かうりを貸かさんと思ふなりと申せば主は聞て夫は何共申難がたし當時の人氣にては甚だ危あやふし熟とくと考へ給へと云ふゆゑ靱負ゆきへは先々急ぐ事にも非ずと其日は夫なりにて主も雇の約束やくそくあれば出行ける扨靱負は後に倩々つく〴〵と思案しあんして今渠と話見たれども當時にて右樣の渡世をする時は京都へ程近ければ勿々なか〳〵危し何れにも片田舍かたゐなかへ引込ひつこんで外は工夫せんと思ひしが兎角とかく心落付ず彼是と考へ居たる中主も歸り來りければ靱負は主に對むかひ當地は斯土地柄がらも能事ゆゑ上手なる易者えきしやあらずやと云ひければ主は點頭うなづき當所には名高なだかき易者えきしやにて白水翁はくすゐおうと申あり寔まことに名人なりと云ひければ靱負ゆきへは大きに悦び然らば今日は最早もはや夕陽せきやうに及びしゆゑ明日參るべしとて目録もくろくなど用意よういに及びけり抑々そも〳〵此白水翁はくすゐおうと云いふは能よく人の禍福くわふく吉凶きつきようを判斷はんだんし成敗せいはいを指さすに其人の年齡れい月日時を聞て卦けを立考かんがへを施ほどこし云ふ事實に神かみの如く世の人の知る處なり扨翌日にも成りければ靱負ゆきへは其身の吉凶きつきようを見ることゆゑ沐浴もくよくして身體しんたいを清きよめ彼の白水翁はくすゐおうの方へ到りて頼みければ白水翁靱負に對ひ年齡れい生れし月日等を聞卦けを立て良やゝ久敷ひさしく考へ居たりしが靱負に向ひ此卦けは甚だ占うらなひ難し早く歸り給へと云ふに靱負ゆきへ如何にも心得ぬ面色おももちにて某しの卦は何故に占うらなひ難がたきや察する所卦けの表へう吉よからざれば白地あらはに示し難きならんか然ども故意わざ〳〵參まゐりしこと故何事なりとも忌憚いみはゞかりなく占うらなひ下されよと云ひければ白水翁頭かしらを左右さいうに振ふり我元より言葉ことばを飾かざらざるが故に其許の易えきは申されずと云ふ靱負問て今も申如く假令如何なることなりとも苦しからず夫を聞ん爲斯來りしなり是非とも語り給へと云ひければ白水翁左程さほどに申さるゝことならば是非なきにより語り申さん先づ此卦けに因よる時ときは其許もと正まさに死しし給ふべしと申に靱負ゆきへは呵々から〳〵と笑わらひ何人か世に生れて死せざるの道理だうりあらんや我幾年の後死するや白水翁はくすゐおう曰く今年死し給はん今年何月に死すべきや今年今月死し給ふべし今月幾日に死するや今年今月今日死し給ふべしと云にぞ靱負ゆきへは心中大いに憤いきどほりて再度ふたたび問ひけるは時刻じこくは何時なるや白水答こたへて今夜三更かう子ねの刻こくに死し給はん靱負は思はず詞ことばを荒あららげ今夜實に死しなば萬事夫限それかぎり若もし死せずんば明日貴殿きでんを只は差置難さしおきがたしと云に白水翁夫は道理もつともなり其許明日まで恙つゝがなくんば來つて我首わがくびを取給へと申せば靱負は渠かれが言葉ことばの強つよきを聞て彌々いよ〳〵憤いきどほり白水を床ゆかより引下し拳こぶしを上て既すでに打うたんとなす此時近邊きんぺんの者先刻よりの聲高こゑだかを聞付何ことやらんと來りしが此體このていを見て周章あわてて捕押とりおさへ種々靱負を宥なだめける故靱負は心付我は今日蔭かげの身なり殊に京都へ程近き所にて斯かく騷さわがしきことを仕出し萬一京都の人の目にも掛る時は此身の一大事に及ばんと人の中裁ちうさいを幸ひに早々立歸たちかへりしが靱負は主に對ひ白水翁の方へ參り斯樣々々かやう〳〵云々也しか〳〵なりと有し事共物語ものがたりしかば主は驚き白水翁が斯申時はと思ひながら靱負の樣子を見るに今夜子ねの刻こくに死する者が斯かく健すこやかに有べき樣もなし如何なれば翁おうが斯樣の事を云しかと不審ふしんするも道理ことわりぞかし然れば靱負は甚だ氣色きしよくを損そんじ居ける故主は昨日貰もらひし金子きんすにて酒さけ肴さかなを調とゝのへ來り左右とかく物もの事は祝いはひ直さば凶きよも吉きちに變へんずべしと申勸すゝめ兩人して酒宴しゆえんを催もよほせしが靱負ゆきへは元より好すきな酒さけゆゑ主が氣轉きてんの熱あつがんに氣を取直して快こゝろよく獻さしつ酬さゝれつ飮のみ居ゐたりしが何時しか日さへ暮果くれはてて兩人共睡眠ねむりの氣ざし肱ひぢを枕まくらにとろ〳〵と睡まどろむともなしに寢入ねいりしが早三更かうの頃ころ靱負は不圖ふと起上おきあがり其のまゝ爰を飛出とびいだしける故主は何事なるやと狼狽うろたへながら後より追馳おひかけ行しに其疾はやき事飛とぶが如く勿々なか〳〵追着おひつく事能はず待ね〳〵と呼止よびとむれど靱負は一向耳みゝにも入ず足に任せて馳行はせゆきしが頓やがて海邊うみべに到り波なみの上を馳行はせゆく事陸地くがちを歩行あゆむがごとくなれば主は膽きもを消けしアレヨ〳〵と呼はりける其間に靱負は遙はるか沖おきの方へ行し樣子なれども星明ほしあかりゆゑ今は定かに見え分ず主は漸々やう〳〵に波打際なみうちぎはへ馳はせ來りて透すかし見れば早靱負が姿すがたは影かげもなく末白波あとしらなみとなり行しは不思議ふしぎと云ふも餘りありと暫時しばし呆然ばうぜんと海原うなばらに立たりしが何時いつ迄斯て居るとも更に其甲斐かひなければ詮方せんかた盡つきて立歸りしが如何にも不思議は晴はれざりしとぞ


第二十四回


 偖又嘉川主税之助の用人安間平左衞門と共に惡事あくじに加くはゝりし立花左仲は主人主税之助并に同役平左衞門共に評定所ひやうぢやうしよへ呼出されしかば我身の事を倩々つら〳〵考ふるに我今此屋敷を出て何方へ仕官を望む共召抱めしかゝへらるべき樣なし然とて空然々々うか〳〵當屋敷に居る時は頓やがて平左衞門同樣に呼出さるべし尤も我差させる罪つみを作りし事はなしと雖も主人并に平左衞門の惡事に掛りし事も有れば其罪申し開くべき道なし猶又お島の事も我主人と共に責惱せめなやませし事もあり全く殺ころせしは平左衞門なれども彼是かれこれと惡に與くみせし事なれば何れの途みちにも申譯立難し如何はせんと種々いろ〳〵工夫くふうを運めぐらしけるに平左衞門が金子を所持しよぢなす事を豫かねて知りければ或夜安間が宅へ忍入箪笥たんすの錠をこぢあけ二百兩の金を盜ぬすみ取其儘屋敷を忍び出夜に紛まぎれて千住の方へと行たりけり此左仲は元もと下總しもふさ銚子在てうしざいの百姓の悴なりしが江戸へ出て御旗本を所々しよ〳〵渡り侍士さぶらひを勤め夫より用人奉公ほうこうをなし流れ〳〵て嘉川家へ入いり込しに當時嘉川の評判ひやうばん惡あしき故自おのづから知音ちいんの人も遠とほざかりしにより常陸ひたち筑波つくば山の近邊に少しの知音を便たより行んと千住へ出筑波を指さして急ぎしが先江戸近邊きんぺんを夜の中に通り拔ぬけ流石さすが晝中は人目を憚はゞかり密ひそかに彼の盜み取し二百兩の金にて宿場しゆくばの飯盛めしもり女を揚げて日を暮し夜に入るを待て其處を立出で夫より松戸の渡しも漸々やう〳〵通り越小金こがねが原はらに差掛りけるに扨物淋ものさびしき原中ゆゑ先腰なる摺燧すりひうちを取出とりいだし松の根に尻しり打掛うちかけ煙草燻くゆらす折柄後あとより尾來つけきたりしと見えて一人の大の男腰に長刀なががたなをぶつ込み左仲の側そばへ衝つと來りて旅人は何れへ行るゝや日の中は能き慰なぐさみをなし夜を掛ての一人旅樣子あり氣な御人なり我等は夜道よみちが大いに勝手かつてなれば御同道申べし其火を爰へ貸給へと竹火繩たけびなはを左仲が煙管きせるの元もとへ差出さしいだすにぞ左仲は愕然ぎよつとなし思はず震ふるへ出せし體を見るより彼の者は莞爾につこと笑ひ左仲が側へ同じく腰こし打掛うちかけ旅人りよじんは何等の用ようにて斯かく夜道を致さるゝやと云ひけるに左仲は最初さいしよより一言も云はず居たりしが彼の者の容體ようだいを見て大いに恐れ渠かれ紛まぎれもなき盜賊なるべし我渠を見しより思はず恐怖おそれし事故我弱みを見て斯かく馴々敷なれ〳〵しく傍そばへ寄より種々いろ〳〵と申なるべしと思ひ内心には甚だ怖恐おそれしなれども爰ぞ我身の一大事一生懸命に肱ひぢを張落付たる體ていにて我等は行先未だ決せず其譯は我われ召使めしつかひたる仲間ちうげんに貯への金子を一昨夜さくや奪うばはれ逐電ちくでん致せし故夫を捕へんと斯かく夜道も厭はず通るなり御邊ごへんは又何故なにゆゑ此處を今時分通らるゝやと申ければ彼者かのものは左仲が樣子は晝の中より篤とくと見濟し又左仲が懷中くわいちうに金子きんすのある事も知りたれば斯かく後あとより尾來つけきたりし故今左仲が申を聞て大いに笑ひ御身は賊ぞくに逢あひ夫を捕へん爲ため追行おひゆくと云給へど千住にて今朝より暮方迄くれがたまで女を相手に快樂たのしみ日の暮てより夜道をさるゝ事今の話に符合ふがふせず誠まことの事を云ひ給へと詰なじるに左仲は御邊ごへんは何人なれば先程より我等われらを種々いろ〳〵と嘲哢てうろうせらるゝぞと思はずも少し言葉ことばを荒く云ひければ彼かの者申しけるは我等が名を聞度きゝたしと云ふ事なら何より易やすし我は此街道このかいだうで強盜を働き道玄次郎だうげんじらうと云ふ賊ぞくの頭なり御身如何に我を欺き遁のがれんと思ふ共斯かく折込をれこんだら最早佛の仲間入尋常に其懷中の金を渡して行ば命いのちと衣類は見遁みのがすのみならず三朱や一分の路用は呉くれて遣やる又惡く情張じやうはると是非に及ばず此世の暇を取するばかり手短てみじかの話が先斯した處だ何れなりとも御望み次第何どうだネ旅の衆しう其懷ろは御前が彼の飯盛の揚代あげだいを拂はらふ時篤と見て置夫故跡を尾つけたのサ又此方こなさんも其金は何どうやら盜ものした樣だが盜ものした物なら盜ものするは私が商賣ぢやサアきり〳〵と渡さぬか命までを貰ふとは申さぬと云れて左仲は力身りきみも拔ぬけ齒の根も合ずくづ〳〵と是非なく懷中より金百兩の包つゝみを取出し盜賊に渡せば是々夫では濟すまぬ惡ひ根性こんじやうだ斯かく直段ねだんの極つて居る者をサア淡泊さつぱりと男らしく渡して仕舞へと云れて又も殘りの金を殘らず取出し盜賊の前に差出せば次郎は莞爾につこと打笑ひ夫れで能い心持こゝろもちだらうドリヤ路用ははずんで呉くれようと額銀がくぎん一ツ投出なげだしサア是で何處へなりと行ゆきをれへ言捨道玄次郎は悠々いう〳〵と金を懷中くわいちうして何國ともなく立去けり左仲は跡に大汗おほあせ拭ふき偖々危ふきめに逢しと呟つぶやきながら道玄次郎が投なげ出したる一分の金を拾ひろひ上げ是が路用か情なやと塵ちり打拂うちはらひ常陸ひたちの方へと急ぎしが未だ夜も深ければ左仲は原中を辿たどり〳〵て行ゆく程に心細くぞ思ひけり(此道玄次郎と云は當時盜賊たうぞくの張本ちやうほんにて手下の者百五六十人もあり諸所にて押込み夜盜を働きし曲者くせものなれども終に運盡て是も大岡越前守殿に召捕めしとられ刑罰に行はれしとなり)


第二十五回


 斯かくて立花左仲は危あやふくも此所を逃のがれ漸々命は助りしと云ふものゝ盜み得し金は賊ぞくの爲に奪うばはれ路用にせよとて投出せし僅わづか一分の金を拾ひ取心細くも夜の道を行所に遙はるか向ふに火の光りの見えければ不思議に思ひ此原は未だ人里ひとさとまでは程あるを彼處かしこに火の光り見ゆるは如何にも心得こゝろえずと思ひ段々だん〳〵近ちかづきて樣子を見れば野火のびを焚たきて居る者あり皆怪氣あやしげなる荒男ゆゑ左仲は又もや賊ならんと仰天ぎやうてんは爲なしたれども今更立戻るべきやうもなく心ならずも彼の火の許もとへ行しに彼者ども左仲を見付扨々さて〳〵暫く客きやくを待設まちまうけたりと云ひつゝ兩人直ずつと立上り左仲を中に取圍とりかこみサア懷中の金を置て行ゆけ若もし彼是かれこれいふ時は是非に及ばず荒療治あられうぢだぞと兩人左仲が手を取に左仲は最早もはや一生懸命しやうけんめい腰こしの一刀たう拔ぬき放し切きつて懸ればソリヤ拔ぬいたぞと兩方より手に〳〵晃きらめく山刀やまがたな請うけつ流しつ切結きりむすぶ左仲は茲ぞ死物狂ひと働け共二人の賊は事ともせず斬立々々きりたて〳〵切捲きりまくれば終に左仲は斬立られ這こは叶かなはじと逃にげ行を一人の賊は後より小手こてを伸のばして袈裟掛けさがけに左の肩先かたさき四五寸ばかりエイト云樣切下れば左仲はアツと反返そりかへるを今一人が眞向まつかうよりざツくり切たる一太刀ひとたちに二言と云はず死してけり二人は血刀押拭おしぬぐひ先久し振ぶりの山吹色やまぶきいろと懷中へ手を入れてヤアないはコリヤどうぢやと二人は不審ふしん晴はれやらず猶も懷中を掻探かきさぐり財布さいふを引出し振つて見て二人は吃驚びつくりヤアたツた一分の本尊樣ほんぞんさま淺草の觀音樣は一寸八分だたツた一分ぶとは情ないと何分不審ふしん晴はれやらず今朝見て置た此仕事どうした表裡へうりの瓢箪へうたんぢやと呆あきれ果たるばかりなり(此二人の賊は道玄だうげん次郎が手下なり左仲が樣子を千住にて見て取能よき代呂物しろものと付つ廻しつ居たりしが左仲は夜道に此原を通る樣子故大いに悦よろこび先へ廻りて網を張しを頭かしらの道玄次郎は渠等かれらより其知せもなき故一向知らず千住宿じゆくにて左仲が樣子を見付しかば此原の入口にて左仲に追付おひつき十分に仕事をせしなり又手下の兩人は更さらに此事知らざれば今斯の如く左仲を殺ころして金のなきに呆あきれたり然ば左仲は一度助かりし命いのちも終つひに手下の者の手に掛かゝりて果しは是これ天てんの惡にくしみならんか)斯かゝる處へ道玄次郎はのさ〳〵と來掛り此體このていを見て大いに笑わらひ二人の手下に打對うちむかひ役にも立ぬ無駄骨折むだぼねをり扨さても働はたらき薄うすい奴等と云はれて二人は大いに怖おそれ無益むえきの殺生致せしと天窓あたま掻かき〳〵閉口へいこうしたる其有樣ぞ見苦みぐるしき次郎は重かさねて申樣此樣な仕事しごとを爲ぬ樣に以後は必ず注意きをつけろと叱しかり散して兩人の手下を連つれて立去ぬ


第二十六回


 然されば嘉川主税之助家來けらい安間平左衞門の兩人は多年たねんの積惡せきあく一時に顯あらはれ又々此度再應さいおうの吟味に及ばれける處に安間平左衞門はとても遁のがれぬ處と覺悟かくごをなしたりし事なれば尋ねの廉々かど〳〵明白めいはくに白状に及びし故其次そのつぎに願山を呼よび出されて其方京都に有りし時とき日野家に於ては何役なにやくを勤め罷在まかりありしぞと申さるゝに願山も最早もはや覺悟の事なれば私し儀京都に居候節日野家の醫師いしに雇やとはれ折々供も勤めし所圖はからずも安田平馬佐々木靱負ゆきへの惡事に與くみし京都を逐電ちくでんして平左衞門諸倶もろともに嘉川家へ入込み此度このたびの惡事に携たづさはり島が死骸しがいを千住の光明院へ捨置すておき候又了源寺に居しは十三ヶ年以前の事にて其頃同寺旦那だんな中川佐太郎と申者を葬はうむり候節兄多兵衞と申合せ是これを夜中に掘出ほりだし其の死骸の衣類いるゐ等を殘のこらず剥取はぎとり申候處此儀顯あらはれしに付早々逐電ちくでん致いたし候と一々白状に及びければ即ち其趣おもむきを淺草阿部あべ川町了源寺へ申遣つかはされしかば了源寺にては大いに驚おどろき早速所化僧しよけそう一人罷出右の段だん相違さうゐ之なき旨むね委細ゐさい申立又願山儀は常々つね〴〵身持宜よろしからず第一淫酒いんしゆの二ツに耽ふけり其上博奕ばくちを仕つり剩あまつさへ和尚をしやうの居間へ忍しのび入衣類金銀を盜ぬすみ取逐電致し候者なりと申立ければ越前守殿此趣おもむきを聞きかれよし〳〵猶なほ追おつて呼出すこと有あるべしと申渡わたされ了源寺の所化しよけは下られけり其後そのご評定所へ嘉川一件の者ども殘のこらず呼出よびいださる其の人々左さの通とほり

 嘉川主税之助同人家來安間あんま平左衞門切首きりくび多兵衞僧そう願山嘉川家々來孕石はらみいし源兵衞安井やすゐ伊兵衞嘉川藤五郎建部たてべ郷がう右衞門伴ばん佐すけ十郎山口惣右衞門陸尺ろくしやく七右衞門右の者一同白洲しらすへ罷まかり出ければ老中らうぢう井上河内守殿若年寄わかどしより大久保長門守殿石川近江守殿寺社じしや奉行黒田豐前守殿大目付めつけ有馬出羽守殿御目付松浦與よ四郎殿を始はじめ評定所ひやうぢやうしよ留役とめやく御勘定吟味ぎんみ役御徒士かち目付御小人目付其外ほかの役人列座あり其時町奉行大岡越前守殿例れいの如く席せきを進すゝまれコリヤ主税之助其方儀嘉川平助養子やうしの身として先平助以來の家來けらいを我意がいに任まかせ永ながの暇いとまを差遣さしつかはし藤五郎藤三郎の中を嫡子ちやくしに相立あひたつべきの處に左はなくして己おのれが實子じつしたる佐すけ五郎を以て嫡子ちやくしに立養父平助の遺言ゆゐごんを破やぶりしのみならず惡意あくいを起おこし藤五郎藤三郎を亡うしなはんと爲なしたる段だん彌々いよ〳〵相違さうゐなきやと申されければ主税之助は恐入て惡事相違御座なく候と申けるに大岡殿又平左衞門に對むかはれ其方そのはう詞ことばに似合にあはぬ大膽不敵だいたんふてきの曲者くせものなり先年京都日野家に於て稻葉丹後守の老臣らうしん稻葉勘解由を欺あざむきて三千三百兩の金子きんすを掠かすめ取り其後そのご切首きりくび多兵衞が世話を以て嘉川主税之助方へ隨身ずゐしんなし追々おひ〳〵申立たる如くの惡意あくいを差挾さしはさみし段相違無かと申さるゝに平左衞門其事儀相違無御座候と申立れば又大岡殿には切首きりくび多兵衞并ならびに僧そう願山主税之助家來孕石源兵衞安井伊兵衞建部郷右衞門伴佐すけ十郎陸尺七右衞門皆々みな〳〵出て居るかと有ある時とき一同に罷まかり出候と申に越前守殿其方そのはう共一同是まで申立たる趣おもむき相違なきやと申さるゝに一同相違御座なく候と答に及びたり時に越前守殿然しからば一同どう口書こうしよ爪印つめいん申付るとあつて口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ今日こんにちは一同下る可べし追て呼出すと申渡わたされければ其日そのひは一同に下りけり然されば此度このたびの一件けん大岡殿格別かくべつに力を盡つくされしは京都堂上方だうじやうがたの御内みうちに關係かゝはるの事故がらなればなり然されど四海に轟とゞろく明智めいちの忠相たゞすけ殿ゆゑ始終しじうの所まで洞察みとほされて嚴敷きびしく問たづねられければ大惡だいあく無道ぶだうの安間平左衞門も終に白状に及び口書も相濟あひすみ御咎とがめの次第を一々に取調しらべて進達しんたつに及ばれしかば右書面を老中方一覽有あられし處明白めいはくなる捌さばき故將軍家へ伺の上伺ひの通とほりたるべき旨むねの下札ふだにて相下あひさげられけり是に因よつて嘉川一件の者ども落着らくちやくとこそ成にけれ

大岡殿吟味ぎんみにより安間平左衞門が惡事あくじ當人たうにんより追々おひ〳〵白状に及びしと雖も渠かれは並々なみ〳〵ならぬ曲者なれば未いまだ殘のこらずの白状には有あるべからずと思はれ猶なほ種々いろ〳〵と糺たゞされけれども其外そのほかの事は一向かうに申立ず因よつて何卒なにとぞ京都にて彼かれと同勤したる佐々木靱負ゆきへを召捕めしとり吟味せんとて諸方へ手を廻まはされ詮議せんぎありしかども更さらに其行衞そのゆくゑ知れざるに付切きつては立花左仲にても召捕めしとらんと是これ又また探索たんさくありし處彼かの左仲は小金こがねヶ原はらにて切殺きりころされしと云ふことの知れしかば左仲は詮せんなし呉々くれ〴〵も靱負を尋たづね出さんと又々諸國しよこくへ手を廻まはされけれ共靱負の在家ありか少しも知ず其中そのうち西國へ差出さしいだされたる探索たんさくの者より靱負は泉州せんしう堺さかひにて入水じゆすゐせしと云事を申立しかば然さある時は先まづ是迄これまでにて平左衞門が罪の次第落着らくちやくに致すべしとて嘉川一件けんの者共口書こうしよ申付られ落着の調しらべを老中方へ差出さしいだされしとなり

評ひやうに曰いはく此嘉川家一條でうは大岡殿大いに御心勞しんらうなされしは第一貳千五百石の御旗本を失うしなはん事を格別かくべつに惜まれけれども主税之助は至て愚智ぐち短才たんさいに在ながら其心は大惡の生付うまれつき故ゆゑ更さらに取處もなく切せめて半知はんぢも殘し賜たまはる樣にと大岡殿肺肝はいかんを碎くだかれけれども主税之助がなせる所爲しよゐ悉皆こと〴〵く宜よろしからざるに付甚だ口惜くちをしき事に思はれ又家來けらい山口惣右衞門伴ばん佐すけ十郎建部郷右衞門の三人の忠臣ちうしんの志操こゝろざし深しと雖も主人主税之助が所爲しよゐに押潰おしつぶされ渠等三人の忠志ちうしは然さ程に見えず又陸尺七右衞門の深切しんせつも右の如し又賤いやしき女なれ共腰元こしもとお島が忠節天晴なる事男にも勝まさりしなり是等これらの忠節も皆みな主税之助一人の愚惡ぐあくの爲め空敷むなしく嘉川家斷絶だんぜつに及びし事是非なき次第なり


第二十七回


然されば嘉川家一件けん大岡殿追々おひ〳〵吟味詰の上一同口書相濟しかば彌々いよ〳〵享保四年三月廿二日一同呼出よびいだされ大岡殿申渡し左之通り

小普請組こぶしんぐみ
宮崎内記みやざきないき支配しはい
嘉川主税之助かがはちからのすけ

其方儀そのはうぎ先せん平助へいすけ養子やうしに相成候節約束を背そむき藤五郎藤三郎の兩人を廢はいし我子佐すけ五郎に家督かとくを繼せん爲ため種々しゆ〴〵惡事等あくじとう企くはだて候段不屆ふとゞきに思召おぼしめし改易かいえきの上八丈ヶ島へ遠島ゑんたう仰付おほせつけらる

同人どうにん家來けらい
安間あんま平左衞門

其方儀そのはうぎ先年京都日野家に勤つとめ中ちう種々しゆ〴〵惡事あくじに及び其上嘉川主税之助方に於て主人しゆじんの惡事を助け先代平助嫡子ちやくし藤五郎藤三郎に無禮ぶれい法外はふぐわいの儀を働き侍女こしもと島しまを絞殺しめころし候段だん重々ぢう〳〵不屆ふとゞきに付つき獄門ごくもん申付る

淺草あさくさ阿部川町あべかはまち
了源寺れうげんじ舊もと所化しよけ
願山ぐわんざん

其方儀そのはうぎ出家しゆつけの身みとして淺草阿部川町了源寺にて盜賊たうぞくに及び其上京都日野家に於て惡人共に荷擔かたんなし又此度嘉川主税之助に頼たのまれ島が死骸を了源寺所化しよけと僞いつはり千住燒場せんぢうやきば光明院へ置捨に致候段重々ぢう〳〵不屆ふとゞきに付死罪申付る

嘉川主税之助かがはちからのすけ假抱かりかゝへ
徒士かち
多兵衞たへゑ

其方儀ぎ常々つね〴〵身持みもち不行跡ふぎやうせき而已のみ成ず今度主税之助申付により島しまの死骸を弟願山と馴合なれあひ光明院へ捨置すておきに致其上主税之助に頼たのまれ建部郷右衞門伴ばん佐すけ十郎の兩人を討殺うちころさんと存所々尾睨つけねらひ候段重々不屆に付三宅島やけじまへ遠島ゑんたう申付る

嘉川かがは主税之助家來
孕石はらみいし源兵衞
同
安井伊兵衞

其方共儀そのはうどもぎ主人申付とは云ひながら惡事あくじに荷擔かたん致いたし候に依て江戸構かまへ申付る

嘉川主税之助養子やうし總領そうりやう
嘉川かがは藤五郎

其方儀嘉川家嫡子ちやくしの身分を以て常々不行跡ふぎやうせきの由沙汰有之の處當時たうじ病氣びやうきにて存命も量はかり難き由是に因よつて全快まで親類しんるゐへ御預仰付らる

嘉川主税之助舊もと家來けらい
建部たてべ郷右衞門
同
伴ばん佐すけ十郎
同
山口やまぐち惣右衞門

其方共儀忠節ちうせつの計ひとは申乍ら用役ようやくの身分みぶんを以て家事不取締とりしまりに致いたし候段屹度叱り申付る

須田町すだちやう一丁目治兵衞店ぢへゑたな
七右衞門

其方儀先代せんだい嘉川平助に恩おんも有之り候由にて藤五郎藤三郎建部たてべ郷右衞門伴ばん佐すけ十郎右四人匿かくまひ候段だん深切しんせつの致方いたしかたに候得共えども身分不相應さうおうなる儀に付つき以後法外之なき樣心掛べし

故もと平助二男じなん
嘉川かがは藤五郎

其方儀格別かくべつの思召を以て先知せんち八十俵下し置れ新規しんき召出めしいださる

是これ新規しんき御取立とりたてに相成僅わづかに家名存せしは大岡殿の仁智じんちに因る所なり


嘉川主税一件終

小西屋一件

小西屋こにしや一件いつけん


第一回

 都會とくわいの土地は殊更ことさらに繁昌はんじやう競きそふ大江戸の中にも目貫めぬきは本町通り土一升に金一升といふに違たがはぬ商家の櫛比しつぴ土庫ぬりこめ高たかく建連ね何れも魯おろかは有らざる中なかに同町三丁目に數代すだい續つゞく小西長左衞門といふ藥種屋やくしゆやあり間口凡そ二十間餘あまりにして小賣店こうりみせ問屋店とひやみせの二個ふたつに分ち袖藏そでぐらあり奧藏あり男女夥多あまたの召仕ありて何萬兩といふ身代しんだいなれば何なに暗くらからず送りゆく主個あるじ長左衞門は今茲ことし(享保二年)五十の坂を二つ三つ越え妻つまのお賤しづは是も又四十を五いつつ六むつ越こえたるが子こといふ者は長三郎とて今茲十九になる男子一個にん然さるに此長三郎は生うまれ附ての美男にて女の如き者なれば誰たれ言いふともなく本町業平なりひら又また小西屋の俳優息子やくしやむすこと評判殊に高たかかるより夫婦は何卒なにとぞ能よき嫁よめ取とつて樂隱居らくいんきよをば爲ん物と朝暮思ひ消光くらしけるが長三郎は若きに似氣にげなく浮うきたる意こゝろは毫すこしもあらで物見遊山は更にも言いはず戸外おもてへ出る事を嫌きらひたゞ奧まりたる一室ひとまに籠こもり書籍を繙ひもとき讀事よむことを此上もなき快樂たのしみと爲しつゝ月日を送りけるに惡きは惡き能よきはまた能よきとて之を苦くにするは是また親の常つねなれば長左衞門夫婦の者は長三郎の温順おとなしきを反かへつて苦くに病やみ年頃としごろに成し身にしてあの如く外そとへも出ねば癆症らうしやうも發おこりやすらん一個ひとりの外ほか掛替のなき者なるを病やまひ起おこらば如何いかにせんと長年ながねん勤つとむる管伴ばんたうの忠兵衞を聘よび事の由を話して折をりも有しならば息子を戸外おもてへ伴ひ出し保養ほやうをさせて下されと言いへば忠兵衞心得て主個あるじの前を退出まかりいでけり其年もはや彌生の初旬木々きゞの梢こずゑに花はな咲出さきいで徐々そよ〳〵と吹く春風も自然おのづからなる温暖さ然ども息子せがれ長三郎は例の如く籠りゐる障子しやうじを開て忠兵衞が若旦那樣相變あひかはらず今日も御本ごほんで御座りますかと進み這入はひるに此方は見返へりオヽ誰たれかと思へば管伴ばんたう忠兵衞昨今さくこん水揚みづあげの荷物にもつありて店は大層たいそういそがしいと聞しに今頃何用にて「ヘイ水揚物ものも御座りましたが夫も大略あらかた結了かたづいて少の閑ひまを得ましたより參りし解わけも外ならず時も彌生やよひの好時節上野隅田すみだの花も咲出さきいで何處も彼所も賑にぎはふゆゑ貧富ひんぷを問ず己が隨意まゝ割籠わりごを造り酒器さゝへを持ち花見に出で積鬱せきうつを散じる中に和君あなたのみは斯かう垂籠たれこめて御本をのみお讀よみで有ては身體からだの毒どくまたお目の毒に成ますれば少すこしは戸外おもてへお出なされ青い物でも御覽ごろうじたらお氣も晴はれやうお目にも能らうと夫で花見をお勸すゝめ申しに參りましたと言いひければ長三郎は片頬かたほに笑ゑみ今に初ぬ和郎そなたの親切しんせつ主人思ひは有難けれど憖なまじ戸外へ出る時は反かへつて身の毒どく目の毒なれば只たゞ居ゐ馴染なじみし居間に居て好な書物を讀よみながら庭の青葉を眺ながめてゐるが此身の藥くすりで有ぞかしと言を忠兵衞押返おしかへし這こは若旦那のお言葉とも覺おぼえずお庭にはと雖も廣くもあらず況ましてや書物に意こゝろを入いるれば第一お目の毒なれば戸外おもてへ出て爛漫たる櫻の盛さかり山水の望ながめは素もとより四方よもの人が花に遊行あくがれ酒さけに醉ひ打戲るゝ景状ありさまを御覽にならばお目の藥と再度ふたゝび言はれて氣色けしきばみ忠兵衞夫等を目の藥と爲なすか知ねど然さにあらず目には忌可いむべき物十とうありと或ある醫者どのに聞たりしに中にも風に中あたるを忌いみ又白き物を見るを忌いむ今や開花かいくわの時節じせつとて打續たる日和ひよりなれば上野隅田すみだも人もや出いでん然さすれば彼所かしこは打ち水爲可なすべき者もあらざれば塵芥ほこりは立て風吹ば眼まなこに入て目の毒なり又櫻は赤あかき樣に見ゆれど素もと之これ白き物なれば散行ちりゆく樣を見やりつゝ空そらに知れぬ雪ゆきともいひ雪に見まがう云々しか〴〵と古歌にも多く讀出よみいでたれば其の白き物を好このんで見んこと則ち眼の毒なる可し又花の下もとは醉人すゐじん騷客さうかく所狹ところせまきまで雜沓ざつたうすれば喧嘩けんくわ口論間々まゝありて側杖打るゝ人もあり然るを浮加々々うか〳〵其所へ至り設もし災難さいなんに會あふときは父母への不孝此上なし我は君子に非れども危あやふき事には近寄ちかよる可からず部屋へやに耳のみ居て花のなき庭を眺て消光くらしなば書物しよもつを讀ため身に徳とく付つき戸外へ出ねば父母ちゝはゝも案じ給ふの愁うれひなし我は見ぬ世の人を友ともとし樂たのしみゐるこそ樂みなれと最いと物堅き長三郎が回答いらへに膠にべなく言放いひはなすに忠兵衞今は詮方せんかたなく是ほど迄に勸めるに承引うけひく景状けしきあらざるは世に偏屈へんくつなる若旦那と霎時しばし呆あきれて居たりしが屹度きつと意こゝろに思ひ附く事や有けん膝ひざを進めモシ若旦那樣和君あなたは今人立多き花見の場所ばしよへ立寄設もしも災難に會あはば無上こよなき親不幸おやふかうと仰あれど夫は夫れ其一を知て其二を知ざる最いと淺慮あさはかな思し召和君あなたが戸外おもてへもお出なさらず内うちに耳のみ居て書物計ばかり讀で御座るが上もなき親不孝にて御座りませうと言はれて此方こなたは面色めんしよく更かへコレ忠兵衞和郎そなたは氣でも違ちがひしか學問もせず遊び歩行あるかば親不孝共も言いふ可べけれど吾儕わしは性來好でもあり勸すゝめられても遊には「サヽ其所に一つのお話しあれば意こゝろを鎭しづめてお聞なされ和君あなたは此家の一粒種つぶだね何萬兩といふ身代しんだいを相續爲る御身ゆゑ學問に凝こり夜歩行よあるき一ツ爲なさらざるも然さうなくては叶かなはねどとは言へ善惡二つながらお案あんじ爲なさるは親御の常つね況ましてや外にお子とてなき和君あなたが餘り温順おとなしすぎ設もし病氣でも出はせぬかとお案じなされて玉くしげたに親樣おやさまが此忠兵衞をお呼よびなされて息子せがれをば責せめて花見か芝居へ抔など遣て欝うつをば晴はらさせてと仰おほせが有て候へば先花見をばお勸すゝめ申せば兎とにも角かくにも偏かたよりし事のみ被仰おつしやりお出いでなくば御兩親樣が折角のお心盡しも無むに成て返つて掛かける御心配ごしんぱい學問なさるが親不孝おやふかうと申すは茲こゝの次第なりと一什を明あかすに打聞息子むすこ腕うで叉こまねいて默然たりしが漸々やう〳〵にして首を上あげ世に有難き御慈愛いつくしみを傳承りて勸たる和郎が言葉を用もちひずして博識はくしき振ぶりたる我答へ今更いまさら思へば面目めんぼくなし花はともあれ父母の意こゝろを休むる其の爲に明日は花見に行ゆく可べければ必ず惡あしくな思ひ給ひそと和郎そなたよりして言て呉て流石さすが孝子かうしの解とけ安く答へにければ忠兵衞も夫それ拜承うけたまはり何より安心斯かくと申さば御兩親も嘸さぞお喜び爲なさる可し夫では明日お辨當べんたうの支度も致せばお供ともには店の和吉をお連つれなされ上野うへの成共なりとも隅田すみだ成ともお心任せの方へ至り終日お遊び爲されませ和吉も今年ことしは十四なれば貴君あなたのお供ともには恰好かくかうと嬉うれしき餘り忠義の忠兵衞己れ一個にん饒舌廻しやべりまはし其座を退しりぞき奧おくへ至り偖斯々と夫婦に話はなせば二人は息子せがれの孝心かうしん譽ほめ又忠兵衞を勞ねぎらひて明日あすの支度に左とや右かくと心を勞らうすは世の中の渾すべての親の情じやう成可し斯て其翌日に成しかば朝あさより辨當べんたうなど製造こしらへて之を重箱ぢうばこに入風呂敷ふろしきに包みて和吉に脊負せおはせて待間まつま程なく長三郎は身姿みなりを繕ひ部屋の中より立出たちいで來り兩親始め忠兵衞にも挨拶あいさつ成て和吉を引連ひきつれ出いではしたれど騷さわがしき所は素より好まねば王子わうじ邊あたりへ立越て楓かへでの若葉わかば若緑わかみどりを眺ながめんにも又上野より日暮ひぐらし里などへ掛る時は渠かれ醉人の多くして風雅ふうがを妨げ面白おもしろからねば音羽通を眞直まつすぐに護國寺首はじめ波切不動なみきりふどうへ參詣爲して田圃道を緩々ゆる〳〵王子へ行可しとて小川町へと掛かゝりけるに和吉は大きに望のぞみを失ひ花見と言いへば上野か隅田すみだ又は日暮里飛鳥山人の出盛でさかる面白おもしろき所へ行が本統ほんとうなるに如何常より偏屈へんくつ成なる若旦那とは言ながら遠とほき王子へ態々行夫も賑にぎはふ日暮里をば嫌きらひて見榮みばえなき土地とちの音羽を通て行と云は世に珍めづらしい人も有と口には言ねど幼稚心こどもごころの腹の中にて思ひ續つゞけ進すゝまぬ足を引ひきずりながら後あとに從ひ音羽町の七丁目迄來りしが長三郎は此時は頻に腹痛ふくつうなし初め堪こらへ難なく成しかば厠かはやに入いらんと思へども場末ばすゑの土地とて借かりんと思ふ茶屋さへ非あらぬに困こうじたり


第二回


 此所等ここらあたりは場末ばずゑの土地とて厠かはやを借からんと思へども茶屋さへ無に困こうじたる長三郎の容子ようすを見て和吉は側の裏うらへ入り其所此所そこここ見れば汚きたなげなる惣雪隱そうせついんありたれば斯と告つぐるに喜びて其所へ這入はひりて用を足し出いでつゝ手をば洗すゝがんと見れば雪隱せついんの角の柱に五合樽の片手かたてを斷きり引掛あれど中には水なし困じて側そばに待ゐたる和吉に吩咐いひつけ井戸の水を汲くませんとなし其節せつに此眞向まむかひの棟割長家むねわりながや建續たてつゞけたる其中にも一層そう汚きたなく荒果あれはてし最いと小狹せうけふなる家の中に五十四五なる老人一個ひとり障子一枚押開おしひらき端近はしちかふ出物の本を繰廣くりひろげ見てゐたりしが今長三郎が手を洗あらふ水のなきをば困こうじゐる容子ようすを計らず庭越にはごしに見やりて此方こなたに打向ひ茲等邊こゝらあたりに見も懸かけぬ立派りつぱな姿なりは定さだめし通行の方である可きに水がなければお困こまりならん此方へ這入て遠慮ゑんりよなく手をばお濯すゝぎなさるがよいと言れて喜よろこび會釋ゑしやくして破やれし垣根の切戸きりどを明あけ廣くも非ぬ庭へ進むに老人背後うしろを見返みかへりておみつ水を掛かけて上あげなと言れてハイと答へなし勝手口かつてぐちより立出るは娘なる可べし年齡としのころまだ十七か十八公こう松まつの常磐の色いろ深ふかき緑の髮は油氣あぶらけも拔れど脱ぬけぬ天然てんねんの美貌びばうは彌生の花にも増り又中秋なかあきの新月にひづきにも劣おとらぬ程なる一個の佳人かじん身には栲たへなる針目衣はりめぎぬを纒ひて其容さま賤いやしげなれども昔し由緒よしある者なるか立たち擧動ふるまひは艷麗しとやかにて縁側へ出擂盆すりばちの手水鉢より水をすくひ手に注そゝぎしは縁の端はし男は手をば洗ひながら見れば娘は比たぐひ稀まれなる美女にて有れば是までは女を如夜叉によやしやと思ひ込し最いと物堅ものがたき長三郎も流石さすが木竹きだけに非れば此時初はじめて戀風こひかぜの襟元えりもとよりして慄ぞつと染しみ娘も見たる其人は本町業平俳優息子なりひらやくしやむすこと綽名あだなの有は知らざれど比たぐひ稀まれなる美男なれば是さへ茲に戀染こひそめて斯いふ男が又有らうか斯かういふ女が又有らうかと互たがひに恍惚みとれ茫然ばうぜんと霎時しばし言葉もあらざりしが稍々やう〳〵にして兩個ふたりが心附こゝろづいては羞はづかはしさに發はつと面に紅葉もみぢして長三郎は手を拭ひ主個あるじ親子に禮を演のべ和吉を引連ひきつれ立出ながら跡へ心の殘のこりけるが見返り〳〵路次口ろじぐちへ出でゆく姿を娘もまた殘り惜氣をしげに見送りける斯くて長三郎は戸外おもてへ出ながら思ひ續つゞける娘がこと彼あゝいふ女を妻と爲したらば男に生うまれし甲斐かひあらんに我われも妻をば持もつ身みなれば返かへつて親に話せし上否々いや〳〵夫も自身じぶんの口から斯々なりとは言惡いひにくし如何はせんと取とつ置おいつ思ひ廻まはせば廻すほど我身ながらにもどかしく最早もはや花見に行可く氣もあらねば此方へ歸り掛かゝるに和吉は狼狽あわてて袖を引ひきモシ若旦那然さう行いつては「イヤ吾儕わしは花見にはモウ行ゆかぬ是から家へ歸かへるなり」と言捨いひすて足を早めるに和吉は本意ほいなき面地おもゝちにて夫では花見は止やめになつたか然さうして見ば辨當を此音羽このおとはまで脊負しよつて來て又また脊負しよひ返かへす遠方御苦勞何の事はない辨當の供をして來た樣な物だと吻つぶやき〳〵本町へ歸る途中とちうも長三郎思ひ惱なやみし娘がこと言はぬも辛つらし言も又恥しゝとは懷中ふところ育そだちの大家の息子むすこの世間せけん見ず胸に餘て立歸るも餘あまりに早はやしと思ふより如何したことと兩親が問ば先刻せんこく音羽まで參りましたが腹痛ふくつうにて何分なにぶん心地こゝち惡あしければ王子へ行ずに立歸りしと答へて欝々うつ〳〵部屋に入り夜具やぐ引擔ひきかつぎて打臥うちふししが目先に殘るは娘の姿すがた眠ねむらんとするに眠ねむられず忘れんとするに忘わすられず夢ゆめと現うつゝの境を行く戀病こひやみなりとは露知つゆしらぬ兩親大きに氣を揉もみて相藥など與ふるうち其日の申刻なゝつ下さがる頃ころ淺草邊まで掛取かけとりに行たる忠兵衞歸り來て聞きけば斯々かう〳〵言わけと主個あるじが話すに打驚うちおどろきお否いやと仰せ有たるを無理むりにお勸すゝめ申したは此忠兵衞ゆゑ夫がため御病氣ごびやうき起おこらば大變たいへんなりと先まづ取敢とりあへず長三郎の部屋へ至りて障子しやうじの外そとまで來りし時に中にては魔おそはるゝやら寢言ねごとやらサアお出なさい有難うと判然はつきり言いひしが其跡は何を言いひしか譯も解わからず忠兵衞不審ふしんに思ひながら障子を開ひらいて内に入る音おとに此方こなたは目を覺さませば忠兵衞膝ひざを摺寄すりよせて今日の事は旦那樣より伺うかゞひまして折角せつかくのお花見にさへお出いでがなしと聞て驚き御容子ごようすを伺うかゞはんとて障子しやうじの外そとへ參りし節をりに寢言ねごとなるか夫かあらぬか如此これ〳〵と和君あなたは仰せ有ましたが熱ねつもあらぬに今の御言葉どうも合點がてんが參りませぬ然すれば病氣と仰被おつしやるは嘘うそにて途中とちうで何事か有しを胸に思うてゞ御座りませうが如何いかなることか此忠兵衞にお話はなしを如何どうぞなされて下されませと星ほしを刺さゝれて長三郎發はつと計に顏かほ赤あからめ面目なげに見えけるが漸々にして首かうべを下げ和郎そなたを初め兩親に語かたるもいとゞ面伏おもぶせと思ふ計ばかりに言も出さず心地こゝろ惡あししと打伏しが然さう問とはれては包つゝむに由なし實は今日音羽まで行ゆきたる時に箇樣々々かやう〳〵厠かはやへ入んと七丁目の鹽煎餠屋しほせんべいやと炭團屋の裏へ這入て用を足たし出たる後のちに淨水てうづに困こまる節をりから斯々かく〳〵の娘を見染ぬ世に二個となき美人なれば漫そゞろに戀しく思ひつゝ此美婦人このびふじんに比くらぶれば櫻も爭いかで物かはと花見を爲なす氣きも失果うせはてて立歸りしが氣も結むすぼれ床とこへ這入て忘れんと目睡まどろむ夢ゆめの其中に水を呉くれしを見たりしが偖さては寢言ねごとを言たるか面目なしと計りにて一伍ぶ一什しじふを語りけるを聞きゝ忠兵衞は呆あきれ果はて吐息といきを吐ついてゐたりしが一個點頭此方に向ひ能く游およぐ者は溺おぼるゝとやら平常へいぜいよりして女嫌ぎらひで學問にのみお凝こりなさるゝ和君あなたが計ず見染れば思ひの程も又強つよし然さは然ながら夫程まで御執心ごしふしんなる女兒をなごなら假令たとへ旦那樣御夫婦が何と仰が有らうとも此管伴このばんたうが引受て急度きつと和君の思ひをば叶かなへる樣に致しますれば必ずお案あんじ成されますなと言ば長三郎は莞爾につこり笑わらひ忠兵衞何分なにぶん能き樣にと言いふより外に言葉なきを聞流しつゝ奧へ至り主個あるじ夫婦に今日の始末しまつ箇樣々々かやう〳〵と話しけるに夫婦ふうふの者も膝ひざを打ち如何いかに懷中ふところ育そだちといへ何故なぜ云々これ〳〵とは言ずして思ひ惱なやみし愚おろかさよ今まで夜歩行よあるき一つせず親孝行な長三郎設もし氣に入し者あつて素生すじやう正たゞしく心立の能よき者あらば賤いやしき勤の藝者にもあれ娼妓にもあれ又は如何いかなる身分みぶんよき人の娘は言も更なり賤いやしき者の娘なりとも金に飽あかして貰もらひ取り嫁よめに爲んと思ひしに今日計はからずも氣きに入た女を見染て來たといふは此上うへもなき大幸さいはひなれば御苦勞ながら管伴ばんたうどの明日あすにも先の家うちへ行き身元正しき者ならば婚儀こんぎを言込いひこみ下されよとは言聞が如き體ていでは支度の程も覺束おぼつかなければ夫等は一式しき此方で致して遣やつて苦くるしくなき故此儀も心得給ひねと一個子ひとりこだけに子に甘あまき親は言葉ことばも行屆ゆきとゞき落なく言れて忠兵衞が是も一つの安心と委細ゐさい承知しようちし店みせの方へ行しに頃は春の日もやゝ暮初くれそめて石町の入相いりあひの鐘かね響ひゞきけり斯て管伴ばんたう忠兵衞は此婚姻こんいんを言込は何より安き事ながら只たゞ云々これ〳〵と言許りで向うの名さへも知しらざる所へ突然いきなり行ゆきても話し難し要えうこそあれと考かんがへしが漸々やう〳〵思ひ附事ありて明日疾とく起出おきいで音羽の方へ至るに附ついては案内者に和吉を連つれて參りますと主個あるじに言て俄にはかの支度辨當べんたう包つゝみ吹筒すゐづつ携さげ和吉を呼で今日は吾儕わしが花見に行なれば辨當を脊負しよひ供ともをしてと言ば和吉は首かうべを振ふり何の用かと思ひましたら今日も亦花見のお供とも吾儕わたしは昨日きのふ若旦那に連つれられて行き懲々こり〳〵したれば何卒なにとぞ之は長松どんか留吉どんに代らせてと言をも聞きかずに打笑ひ然さうでもあらうが若旦那とは違ちがつて吾儕わしのは物ものも喰くはせ錢ぜにもやる故是非共ぜひともに「夫では和郎あなたはあの所と違ちがつて上野か向島「イヤ矢張やつぱり行先は王子にて然しかも音羽へ出て行く積つもり「ヲヤ〳〵夫では昨日きのふと同おなじだと鬱ふさぐ丁稚でつちに錢を取せ急がし立れば幼稚の習ならひ錢ぜにを貰ひし嬉うれしさに初の不平ふへいも何處どこへやら後あとに引添ひきそひ出行きつ音羽の村へ差掛さしかゝり七丁目まで來りければ確たしかに茲等こゝらと忠兵衞が歩行あるきながら四邊あたりを見たりぬ


第三回


 其時そのとき管伴ばんたうの忠兵衞は四邊あたりを見れば聞きゝしに違ず鹽煎餠屋しほせんべいやと炭團屋たどんやの路次ろじの有しに茲ぞと點頭うなづき和吉雪隱せついんへ這入ゆゑ一所に來こよと言ながら裏うらへ這入れば和吉はまた今日けふも此裏の雪隱へ這入樣やうでは花見みの程も覺束おぼつかなしとぞ思ひける忠兵衞雪隱にて用を足たし立出たちいで見れば水はなく向ふの家いへに話しの老人らうじん障子を開ひらきて書を讀よみゐたるに是なる可しと庭口にはぐちより進み入つゝ小腰こごしを屈かゞめ眞まことに申し兼たれどもお水みづを少々せう〳〵下されませと言ば老人承引うけひきてお光や掛て上あぐるやうと言葉の下したに立出る娘は水を注そゝぎ掛け忠兵衞なれば恍惚みとれもせず其儘奧おくへ入たれば能よくは見ねども一寸ちよつと見みるさへ比ひ稀まれなる美婦人と思へば家うちの若旦那が見染みそめて思ひ惱なやむも道理だうり要こそあれと主個あるじに向ひチト率爾そつじなるお願ひにて申し出すも出しにくきが吾儕わたくしは本町三丁目小西屋長左衞門こにしやちやうざゑもん方の管伴ばんたうにて忠兵衞と申す者なるが今日出番かた〴〵にて御覽ごらんの通り丁稚こぞうを連つれ王子へ花見に行ゆく積つもりで辨當べんたうなぞも容易ようい致し參りましたれど早はや草臥くたびれ殊には腹はらも空すきしより茲等こゝらで開いて一杯ぱいと思へど通に掛茶屋も有ねば實じつは困こうじてをりしが只今たゞいま水を頂いたゞいたを御縁ごえんに致して願ひまするは此お縁側えんがはを霎時しばしの中お貸かしなされて下さらば酒器さゝへを開ひらきて腹はらを繕つくろひぶら〳〵行ます積なるが如何いかゞなもので御座りませうと言ば主個あるじは片顏かたほに笑み何なんの事かと思ひしが素もとより安き其御無心ごむしん浪人者の疲世帶やせしよたいむさくろしきをお厭いとひなくば其所そこは冷ひえれば此方こなたにてと座敷の中へ花莚はなござを敷しかせて二個ふたりを招せうずるに此方は喜び有難ありがたき旨を演のべつゝ上へ登り風呂敷包ふろしきづつみを解開ときひらき辨當を出し吹筒すゐづつの酒を飮んと爲なしけるを主個の老人らうじん押禁おしとゞめ彌生と言ど未だ寒きに冷酒れいしゆは身體からだの毒どくなればツイ温あたゝめて差上んと娘に吩咐いひつけ温めさせ料理は御持參ごぢさんなされたれば此方で馳走ちそうの爲樣しやうもなし責て新漬しんづけの香物かうのものなりともと言へば娘は心得こゝろえて出して與ふる饗應振もてなしぶり此方は主個に酒盞さかづきを薦すゝむる物から親子ともに下戸げこなればとて手にだも觸ふれず詮方せんかたなければ一個ひとりにて傾けながら四方八方よもやまの話はなしの中に容子ようすを見れば昔し由縁よしある人なる可し親子の立擧動たちふるまひ尋常じんじやうならず親は篤實とくじつ面おもてに顯あらはれ娘は孝行自然しぜんと知れまた容貌も勝すぐれたれば忠兵衞ほと〳〵感心かんしんなし主個あるじの方かたのうち向ひお見申せばお宅樣たくさまはお二個限ぎりにてお孃樣ぢやうさまは失禮しつれいながら美麗うつくしきお生れ質つきにて御座りますが定めしお婿樣むこさまをお取にてと問とはれて老人一滴ひとしづくホロリと泪なみだを翻こぼしながら初て逢あつた此方衆に話すも最いとど面伏おもぶせながら不圖ふとした事から此樣に吾儕わしの家にて酒食しゆしよくするも何かの縁と思ふ故我身わがみの恥はぢを包もせで話すを聞きいて下されかし素もと吾儕それがしは有馬家にて祿ろく五百石を頂戴なし小姓頭を勤つとめたる大藤武左衞門と云者なるが夫婦ふうふの中なかに子と言は是なるお光みつたゞ一人然しかるに妻は七年前世よを早はやくせし以來このかたは何にも彼にも只二人偖さて我口わがくちより此樣な事を申すは自負じふに似にたれど吾儕おのれは性來せいらい潔白けつぱくにて只正直を旨となし苟かりにも曲まがりし事は嫌きらひ善は善惡は惡と一筋ひとすぢにいふ者なれば如何いかにせん水みづ清きよければ魚うを住すまずの譬たとへに洩もれず朋輩の讒言ざんげんに依り浪人なし此裏借家うらじやくやへ移うつり住み近頃多病たびやうになりたれど心持のよき其日は此護國寺の門前へ賣卜ばいぼくに出僅わづかの錢を取つて親子が活計たつきとなすも今茲ことしで丁度ちやうど三年越し他に樂みもあらざれど娘も最いとも孝行かうかうにして呉る故夫それのみが此上このうへもなき身の喜よろこび是も今茲ことしはモウ十七婿むこを取とらねば成ざれど貧乏消光びんばふぐらしの浪人者の家うちへは來る者あらじと思へば何處いづこへなりとも嫁よめに遣んと思ふにも似ず相應の縁邊えんぺんなければ其儘に背丈せたけの延のびたを抱かゝへてをると偖さて心配な者でもありと語かたる一什を打聞く忠兵衞渡わたりに船とて大いに喜び拜承うけたまはりたるお身の上一人娘を餘所よそ他ほかへ御縁付といふ事ならば最いと似附につかはしき縁談えんだんが御座りまするが如何いかゞであるかと申すは外ほかの事ならず吾儕家わたくしどもの若主人は十九に成なりて箇樣々々かやう〳〵お孃樣ぢやうさまとは年齡としごろから容貌の程も一對つゐなれば此方へ嫁よめにお貰ひ申す譯には參りますまいかと問ば主個あるじは首かうべを振ふり本町通りの小西屋というては名高なだかき藥種問屋江戸指折ゆびをりの豪商かねもちにて誰たれとて知ぬ者もなき大身代おほしんだいの嫁に成とは娘が出世しゆつせ此上なき喜びなれども此方こなたはまた見る影もなき浪人者らうにんもの釣合つりあはざるは不縁の基もと決して是を相應さうおうせし縁邊なりとは言難ければ御深切しんせつの程有難ありがたけれど此義はお斷ことわり申すべしと言れて望を失ひたる忠兵衞今は詮術せんすべなければ昨日きのふ息子せがれ長三郎が花見に出たる其折に計はからず茲こゝの雪隱に入り水を頂いたゞき手を洗あらふ節をりに見染て箇樣々々かやう〳〵と息子せがれが寢言兩親がことより自己おのれが來りたれど只たゞ一向ひとむきにも言入かね實は斯々かく〳〵計はからひて御懇意ごこんいになり此話しを言出したりといと事實じじつを明して演のべたるに主個あるじは礑はたと横手よこてを打ち偖は然さういふ解わけありしか夫にて思ひ合すれば供ともをなされし丁稚でつちどの如何やら吾儕わしは見たやうな最前よりして考へ居りしが昨日來りし人で有しか然そんなら水を上あげし方が足下そくかの家の息子むすこなりしかとは知ねども容姿みなりもよく若きに似氣にげなく物柔ものやはらかで折屈をりかゞみ能よき人なれば娘むすめ持もつ身みは早くも目が附き何處いづこの息子か知ざれど美男びなんの上に温順おとなしやと同おなじ事なら斯あゝいふ人に娘を遣やりたき物なりと然さる大家とは知ざれば一個ひとり意こゝろに思ひゐたるが息子殿には不束ふつゝかなる娘お光を夫程に思おぼし召めして給はるからは此方も今は推辭いなむに術すべなし吾儕おのれは承諾しようだく致したが女兒むすめは如何と振返ふりかへり問れてお光は先程より父と客きやくとの物語ものがたり昨日見染めた其人は然る大商人おほあきうどの息子むすこにてしがない消光くらしに追おはるゝゆゑ繕つくろひもせず花香はなかもなき此身の姿すがたがお目に止とまり夫程迄に戀慕うて下さるといふ有難さ勿體もつたいなやと計ばかりにて嬉うれしさ交まじる恥はづかしさに塵ちりのみ捻ひねりてゐたるゆゑ今改めて父親ちゝおやに問れたりとて回答いらへも出來ず押默止おしだまつてゐる横顏よこがほを見やりて父は打笑ひ勝ませた樣でも未まだ幼稚こども兎角とかく縁談の事等などは恥はづかしいのが先に立ゆゑ判然はつきり返事へんじも出來ぬ物だが一生しやう連添つれそふ本夫をつとの事否いやな者をば無理むりやりに行とは決して言はせねど昨日きのふ向ふは其方そなたをば見染た程の事といひ吾儕わたしも息子むすこを能く見たれば和女そなたも定めし見たで有あらう然さすれば見合みあひも濟だと言物殊ことに息子殿は戀病こひやみで早く安否あんぴが聞たいと管伴ばんたうどのも急がるれば其所そこで和女そなたに問とふなれば遠慮ゑんりよをせずに回答いらへを爲なしねと言るゝ程猶彌増いやます未通女心おぼこごゝろの初戀はつこひに慕したふお方と縁の糸いと結むすんで解とけて末長く添るゝ事も父親が承知しようちとあれば竟つひ斯々と言んとすれど言いひ兼かねしが斯ては果はてじと思ふよりハイ吾儕わたくしは彼方あのかたなれば實に嬉しう御座りますと有か無かは聲出して思ひ切きつてぞ言たる儘發と面おもてに紅葉もみぢして座にも得堪えたへず勝手の方へ逃にぐるが如く行たるは娘意むすめごころぞ然も有可し父は見やりて打笑ひお聞きゝの如く娘お光も承知した事なれば吉日を撰えらび結納ゆひなふのお取交とりかはせも致さんと言れて忠兵衞胸むね撫下なでおろし夫拜承うけたまはり安堵あんどしました實は云々これ〳〵若旦那に誓つて置し事なれば設もし御承知しようちのない時は如何いかゞ爲なさんと腹はらの中で一方成ならず心配を致して居しが先まづは重疊ちようでふ左樣さやう御座らば立歸り喜よろこばせし上又改あらためて出まする事に仕つれば何分なにぶん宜敷よろしくお頼申すと喜よろこびを演のべ別わかれを告取散とりちらせし辨當など始末しまつをなして舊もとの如く風呂敷に押包せ丁稚でつちに脊負せおはせ勇いさみ進すゝんで歸りけるが和吉は霎時しばらく側かたへに在て二個ふたりが話しを熟々つく〴〵聞きゝ主個あるじの息子が昨日きのふ茲こゝより歸りし譯わけも今日は又態々わざ〳〵爰こゝまで忠兵衞が來りて汚むさき家うちをも厭いとはず酒を飮のみたる事までも今はさつぱり分わかりしが餘り咄はなしの出來すぎて花見は又も廢止やめになり再度ふたゝひ遠とほき音羽より辨當箱べんたうばこを脊負しよひ戻もどせしに幼稚意こどもごゝろに管伴ばんたうを恨む罪つみもなかりけり


第四回


 偖さても管伴ばんたう忠兵衞は歸ると其儘今日の始末しまつを落おちなく話したりけるに主個あるじ夫婦ふうふはほゝ笑ゑみ容貌きりやう許ばかりか心操こゝろばえも又其素生すじやうも勝すぐれたる女で有らば言分なし追て𫥇人なかうどを立表向遣つかはすなれど善ぜんは急いそげ且は一子せがれにも安心を爲させるが能よきゆゑ箇樣々々かやう〳〵の結納ゆひなふ造つくり明日遞與わたして變改へんがいなき樣致してと云れて忠兵衞心こゝろを得えつ主個あるじが前を退まがると其まゝ長三郎が部屋へ行ゆき先方がこと兩親りやうしんがこと萬事上首尾じやうしゆびなるよしを告つげれば是さへ喜びて忽地たちまち心地は能く成けり忠兵衞直たゞちに結納ゆひなふを揃そろへる中に其日は暮行くれゆき明日あす朝あさの間まに品々を釣臺つりだい三荷がに積登つみのぼせ我家の記章しるし染拔そめぬきたる大紋付の半纒はんてんを着せたる漢をとこ六個むたりに擔かつがせ音羽へ至り路次口に待またせ置つゝ進入り昨日きのふの禮れいを演のべたる上𫥇人なかうどを立て良辰よきひを撰び結納持參なす可き所ろ思ひ立たつ日ひが吉日きちにちと主人も申し候へば差附さしつけがましく候へど今日品々しな〴〵持參したれば何卒お受取うけとり下されと水引掛し目録書もくろくがきを出せば大藤受取て世に婚禮こんれいには用もちひる日ひと又忌いむ可べき日と有といへども何いづれも附會ふくわいの説せつの多くて取可き所ろも更さらになし然は云へ世俗せぞくに從はずば和郎そなたの方の如何いかゞにやと思ふ計りに良辰よきひを撰えらみてと言はしたれど此方このはうにては素もとより日には構かまひなければ今日結納ゆひなふ幾久いくひさしく受納致すと目録書を押頂おしいたゞけば忠兵衞は路次ろじの外そとなる者を呼込よびこみ三荷の釣臺つりだい運はこばせて油團を掲げ其中より取出とりいだしたる柳樽やなぎだるも家内かない喜多留きたると記しるしゝは妻を娶めとるの祝言にや麻あさを白髮しらがとかい附しは麻の如くに最いと直すぐに共とも白髮しらがまで消光くらすなる可し其の外ほか鯣するめを壽留女するめとするなど皆みな古實こじつなる書振かきぶりの二樽五種とは言ながら何いづれも立派りつぱに製したてたれば只さへ狹せまき此家は所せまきまで並ならべ立られ坐すわる間ひまさへ有らざりけり主個あるじは何やら娘お光に私語さゝやき示しめせばお光は心得何程なにほどづつかの祝儀しうぎを包み與ふるほどに六個むたりの者は管伴ばんたうを經て禮を演べ早用なしと忠兵衞が言いへるに何いづれも空から釣臺を擔かついで本町へと歸りける跡に忠兵衞懷中ふところより金子二百兩取出とりいだし此方の望のぞみに縁談えんだんを無理に願ひし事なればお支度したく其他に和君の方へ御物入おんものいりを掛ましてはと思おもふよりして此金は其所そこに記しゝ帶代おびだいに差上ますれば失敬ながら御受納ごじゆなふの上是を以てお支度したくの程ほど希こひねがふと言ば大藤景色けしきばみ甲斐なく消光くらす浪人ゆゑ貯たくはへの程も覺束おぼつかなしと思うて斯かくは言るゝかは知しらざるなれど武左衞門支度金を取とり娘むすめをば嫁よめに遣たと言れなば實まことの嫁よめには非して金に其身を任まかしける妾々めかけてかけも同樣にて末代まつだいまでも家名の汚けがれ娘持身は殊更に婿むこ迎むかへるか嫁に遣やるか爲なさねば成ぬは生うまれし日より知てをりたる事なれば其入用いりようにと豫かねてより貯へ置たり金子ありて貧苦ひんくの中にも失はざれば今度の支度に事缺かゝず此事このことはしもお光はまだ知ねば共に是を見て疑うたがひ晴はらせと言ながら衝つと立上り床の間に飾置かざりおきたる破果やれはてし具足櫃ぐそくびつの葢ふたかい遣り除け底そこを探さぐつて一包の金かね取出とりいだし二個ふたりに示し爰に百兩あるからは必ず心配しんぱい無用なりと浪人しても流石は武士ものゝふ用意の金を貯へは實げに色も香も最いと深ふかき山吹色とぞ知しられたり娘は初はじめて見みたる金今日まで明あかしも爲なし給はで貯へ置て下さるも此身の上を思おぼし召めし親の慈悲じひこそ有難けれど又今更に有難涙忠兵衞意こゝろに面目めんぼくなく御浪人なるお身の上を輕視かろしめ斯かくと申すにあらねど主人が寸志すんしを其儘に申し述しが支度金とお見做みなしありては面目なく殊ことにお嗜たしなみの大金を拜見はいけん致し汗顏かんがんの外は之なく候へば此二包は持歸り主人に篤とくと申し聞候なればお立腹りつぷくをと云ば武左衞門面おもてを和柔やはらげ否いやとよ此儕おのれが心志こゝろざしの徹らば爭いかで怒いかる可き然ども折角せつかく持參せし金を其まゝ持返もちかへらば和郎そなたは幼稚こどもの使つかひに等ひとしく主人に言譯あらざる可し就ついては一度受納じゆなふしたれど此方こなたは見らるゝ如くにて親子おやこの外ほかに人もなければ結納持せて遣難し依て此まゝ此金は其婿殿むこどのに上下料かみしもれうに送りたりとて返し給ひぬ然すれば和郎そなたの役目も立たゝんと信あり義あり何から何まで拔目のあらざる言葉ことばに感かんじ忠兵衞は只たゞ拜々はい〳〵と言受なして金を納め我家へ歸り夫婦ふうふの者に一伍一什を告ければ二人は流石さすが武士ぶしは武士いと見上みあげたる親子の者と思へばいよ〳〵頼たのもしく婚姻する日を急ぐ物から大家たいけの事ゆゑ出入でいりの者まで萬事行屆かする其爲に支度に掛かゝりて日を送りまだ當日さへ定さだめざりけり偖さても此方は裏店うらだなに開闢かいびやく以來いらい見し事なき釣臺三荷の結納物を擔かつぎ入ける爲體ていたらくに長家の者は目を驚おどろかし何處いづこへ行やと思ひしに思ひ掛なき大藤の家へと擔入かきいれたりければ偖は娘のお光さんが何處どこぞへ嫁よめに行事かアノ結納の容子では先は大家の思はるゝが成程なるほど彼兒あのこは容貌きりやうが能く音羽小町と綽名あだなにさるゝ程にてあれば氏うぢなくて玉の輿に乘る果報くわはう愛度めでたく其日消光くらしの賣卜者の娘が大家の嫁よめに成なら親父殿まで浮び上り左團扇ひだりうちはに成で有らうと然ぬだに口やかましきは棟割長屋むねわりながやの習慣ならひとて老婆も嚊かゝも小娘もみな路次口に立集たちつどひ姦かしましと讀むじだらくの口唇くちびる翻かへす餞舌おちやつぴい塒ねぐら求もとむる小雀の群立騷むらだちさわぐ如くなり斯くとはいざや白髮交しらがまじりの髮を結びて手拭冠かぶり拭たへの布子ぬのこの裾すそ端折はしをり片手かたてに古ふるびし岡持下げ足元輕く立歸る老婆らうばは長屋の糊賣のりうりお金營業仕舞て這入來はひりくる姿すがたを見るより夥多おほぜいが和女おまへは隣となりの事といひ常から親しくなさるゝゆゑ彼所あすこの事は御存じだらうが今日けふ是々と結納を賣卜者うらなひしやの家へ持込だか先は何處どこだか御存かへと問れて此方こなたは寢耳に水皆みなさん方も知ての通り吾儕わたくしは子もなく本夫ていしゆに遲おくれ一箇ひとり者ゆゑ營業に出るとき家に錠を卸おろし隣となりへ頼たのみ歸かへればまたヤレ火を呉れの湯を呉のと貰もらひに行て一つ家も同じ樣やうにはしてゐる故夫程立派な結納ゆひなふが來る程ならば吾儕わたくしにも何とか話はなしが有りさうな物で有るのに無のは不思議ふしぎ吾儕が聞て上やうと先に進すゝめば夥多おほぜいは後あとに從ひ雜路々々ぞろ〳〵と皆門口まで來りしが別わかれて己おのが家々に思ひ〳〵に入いりにけるお金は門かどより聲を掛かけ這入ば長屋の噂うはさに違たがはず最美事なる品々が所狹まで並びゐたるに如何どうした者と裡問うちとへば武左衞門は昨日きのふより今日までの事委敷くはしく演べ箇樣々々かやう〳〵の事ありて急に今日結納の取交とりかはせをばしたれば婚姻こんいんの日は先方より言越いひこし參らば直にしても致せるやうに爲て置たく就ては娘が天窓あたまの物もの帶おびも衣類いるゐも箪笥たんす長持ながもち其外一式しき新撰あたらしく整とゝのへんとは思へども是等に男は役やくに立ず然とて親類しんるゐ縁者えんじやとても有らねば萬事ばんじを頼みたく今日は和女そなたの歸りをば實は二個ふたりで待てゐたりと言ばお金は斑まばらなる齒はを顯あらはして打笑ひ然いふ目出度お話と聞ては吾儕わたしも實に嬉うれしく斯いふ事を申すのもチト失禮しつれいでは有りますが常にお柔やさしいお光みつさん吾儕わたしは自分の子の樣に思つてゐませば營業しやうばいを休んでなりと駈歩行かけあるき御用を達て上あげますよ是といふのも親孝行おやかうかうを神かみや佛ほとけがお守りなすつて此上もない幸福さいはひが參つた事で御座りませうとお金も共に打喜うちよろこび是より後は營業を終了しまうとお光の方に至り萬事の相談さうだん買物かひものなんどに深切しんせつ盡つくせば親子は喜び親類しんるゐ代がはりに當日はお金も其所の席せきに臨のぞみよろしく頼たのむと此者の衣類いるゐも帶おびも拵こしらへやりしにお金はいよ〳〵嬉しさ増まし自慢じまんたらだら此事を長家は素もとより四邊あたりへも吹聽ふいちやうなせば其邊へ發はつと噂うはさの立行て或は之れを羨うらやむあり或は之を妬ねたむもありて衆口しうこう喋々てふ〳〵當分たうぶんはお光の事のみ云あへるを耳みゝに入たる家主の庄兵衞俄にはかに安からず思うて一人心を定め此婚姻こんいんを妨さまたげんと謀たくみし奸計かんけい圖づに當り竟つひにお光が汚名をめいを蒙かうむり赤繩せきじよう絶たえたる所より白刄しらはを揮ふるつて奸かんを鋤すき白洲しらすに砂石しやせきを掴つかむてふ最いと爽快さうくわいなる物語は亦また回くわいを次ぎ章を改め漸次々々に説分くべし


第五回


 月つき明瞭あきらかならんとすれば浮雲ふうん之を覆おほひ花美麗うるはしからんとすれば風雨之を破やぶる寸善すんぜん尺魔せきまの俚言ことわざむべなる哉大藤武左衞門の女兒むすめお光は孝行の徳とくは孤こならず隣家となりの老婆らうばが婚姻こんいんの事如斯と徇ふれ歩行あるくより思はぬ事の起りて喜ぶ幸ひも今ふり變かはる災禍わざはひの素もとを如何と尋るに此裏長家の家主を庄兵衞というて今茲ことし廿年はたち餘り二つに成り未だ定まる妻つまもなく母のお勝かつと二個消光ふたりぐらしを爲なせども茲等は場末ばずゑにて果敢々々しき店子たなこもなければ僅か許ばかりの家主にては生計たつきの立ぬ所より庄兵衞は片手かたて業に貸本をもて營業と爲ぬ又同町に山田元益げんえきといふ醫師いしやあり是は這これ庄兵衞が兄にて幼名をさなゝを庄太郎といひしが性來しやうらい善よからぬ品行おこなひありて賭博とばくを好み酒さけを飮み親に苦勞くらうを掛ることも度々あれば父は怒いかり久離きうりを切て勘當かんだうせしに渠かれ方々はう〴〵を彷徨さまよふうち少く醫師の道を覺え町内へ來て山田元益と表札へうさつを掲あげ門戸もんこを張れども素もとより拙つたなき庸醫よういなれば病家は最いとも稀々まれ〳〵にて生計くらしの立つほど有らざれば内實ないじつ賭博とばくを旨とすれば父の怒いかりはいよ〳〵強く勘當かんだう免ゆれん樣もあらねば其儘そのまゝにして過行しが去年父親は死去みまかりしに母は女氣をんなげの心弱よわき所へ持込もちこみ詫言わびごとせしかば故なく濟すんで今ははや往通ゆきかよひをなす中に成しに元益は兄といふを笠に打着うちきて庄兵衞に無理むりを言うこと度々なれど庄兵衞意に心能らず思うて言葉ことば爭あらそひせし後は久しく往通ゆきかよひもなさで居しが庄兵衞は疾とうより大藤の女兒むすめお光に戀慕れんぼなしつゝ忍び〳〵袖褄そでつまを引者ながら彼方は路傍ろばうの柳に等ひとしく浮氣うはきの風の吹くまに〳〵靡なびく女に非れば打腹立うちはらだちて言懲いひこらさんとは思へども家主なればと堪こらへて程よく紛まぎらはし其まゝにして過すに庄兵衞情慾じやうよくいよ〳〵募つのりお光は我を嫌きらふにあらねど未だ未邊女氣おぼこぎのうら羞はづかしく發揮はきと問答へんじを爲さざるなる可し就ては氣永きながく口説くどく時は竟に意に從ふならんと思ふにも似にず其娘は今度本町の小西屋へ縁談えんだん究きまり箇樣々々と糊賣のりうりお金が話したるを聞より此方の庄兵衞は今迄手活ていけの花とのみ思ひゐたりし女をば他へ取るゝ無益しさ如何はせんと取置とつおいつ胸むねを碎くだきつ寢食しんしよくも忘るゝ計に考へしが不圖ふと思ひ附きお光をば手に入んこと外になし此婚姻こんいんの妨さまたげせば渠かれ自然おのづから此方こなたへ靡なびかん噫あゝ然なりと思案せしが此方策はうさくに困こうじ果はて就ついては惡き事に掛ては敏かしこき者は兄の元益是に相談なして見ばやと先元益が方へ至るに博奕ばくちに負まけの込こみたるか寢卷ねまき一枚奧の間に煤すゝぶりゐたるが夫と見て誰たれかと思へば弟の庄兵衞何と思つて出て來たか知ねど兄に無禮ぶれいを云ひ謝罪わびにも來ねば此方もまた今日まで出入も爲せなかつたが一體何で來たのだと問とはれて此方は天窓あたまを掻かきツイ先頃はお互に蟲むしの居所の惡わるい所から言葉戰たゝかひ爲したれども考へ見れば吾儕わしが惡いと斯かう謝罪あやまつた上からは主は素より舍兄あにのこと心持をば取直し何卒力に成て下せへと云ば元益點頭うなづきて然事柄がらさへ解わかつた事なら素より同胞きやうだい何を云ふ然し改まつて力に成てと言のは如何どういふ次第だかと問れて庄兵衞はお光が事一伍ぶ一什しじふを打明し斯いふ解わけゆゑ邪魔じやまを入れ其婚禮こんれいを茶々風茶ちや〳〵ぷうちやに爲したらば女は吾儕われの物と究きはめてはゐるが手段に困こまり其所で兄貴に相談に來たが趣向しゆかうは無物なきものかと問はれて元益笑ひ出し世に自惚うぬぼれと瘡氣かさけのない者はないとぞ言に違たがはずお光は未だ手に入ねば此婚禮こんれいが破談はだんに成てもお主の方へ來るか來ねへか其所の所は解わからぬが是を破つて自分の方へ引入やうとは流石さすがに弟感心したゆゑ力に成て其婚禮こんれいを破談はだんにしやう。夫ぢやア爲やつて下さるか如何いかにも吾儕われがことを構かまへ爲して見せようが此姿すがたでは如何どうも斯かうも詮方しかたがねへ付ては身姿みなりを拵こせへるだけ金をば五兩貸てくれ。ムヽ五兩と云ては吾儕おれの身では大金ながら後刻のちまでに急度きつと調達こしらへ持もつて來くるが然して金の入用と邪魔じやまの手段は如何いふ解わけか安心するため聞せてと云ば元益庄兵衞の耳の邊ほとりへ口さし寄せ何事やらん稍やゝ霎時しばらく私語さゝやき示しめすを聞中に此方は莞爾にこ〳〵笑ひ出し聞了つては横手を拍うち成程々々奇々きゝ妙計めうけい必ず當るに相違なし夫なら直に金の算段さんだん。急度きつと相違のない樣に直に調達致して來ようとつかと戸外おもてへ出たるは其日も已に暮合くれあひすぎなり开そも此家には妻子もなく一個住ひとりずみにて玄關番げんくわんばんを兼た飯焚めしたきの男一人在れど是さへも使に出たる後なれば同胞きやうだい如何なる密談みつだんせしや知者しるもの絶たえて無りけり斯て後庄兵衞は翌朝よくあさ五兩の金を調達こしらへ兄元益に遞與わたせしに此方は心得其金もて質しちに入たる黒紋附くろもんつきの小袖そで羽織ばおりを受出し近所の竹輿屋かごやへ吩咐いひつけて醫師陸尺ろくしやく。三人仕立したて切棒きりぼうの竹輿かご路次口ろじぐちへ据すゑさせ自己おのれは夫に乘り方々と聲こゑ掛かけさせながら本町へこそ到りけれ竹輿舁かごかき豫かねて心得ゐれば同町三丁目の藥種やくしゆ店小西屋長左衞門の前に下おろし戸を引開ひきあけて直しける雪踏せつたの鼻緒はなをの最いと太ふとき心を隱す元益が出てしづ〳〵進み入に店の者等は之を見れば年とし未まだ三十路みそぢに足たらざれど人品じんぴん骨柄こつがら賤いやしからず黒羽二重くろはぶたへに丸の中に桔梗ききやうの紋もん附つきたる羽織はおりを着なし竹輿かごの體裁ていさい陸尺ろくしやくの容子を見ても何某と稱るゝ御殿醫先生ならんと思へば一同敬うやまひまづ此方へと上座じやうざへ招せうすに元益更に辭する色なく最いと鷹揚おうやうに挨拶あいさつして打ち通りつゝ座に附ば今日は管伴ばんたう忠兵衞が不在なるに依り帳場ちやうばにゐる主人長左衞門は立出て敬々うや〳〵しく挨拶あいさつなしお茶ちやを上あげよと云ければ和吉わきちは番茶を茶碗ちやわんに汲くみイザと計りに進めけり發時そのとき主個あるじは此方に向ひ御用の筋すぢは如何なる品と問へば元益茶碗ちやわんをば先下に置き懷中くわいちうより一枚の紙取出し如何も少々の買物かひものにて氣の毒ながら此方の店は藥種やくしゆが能きゆゑ態々わざ〳〵と遠方ゑんぱうよりして參りたれば此の十一味みを何れもみな一兩目りやうめづつ調合てうがふなし極細末ごくさいまつにして貰もらひたいと出すは身姿みなりも能き事ゆゑ定めし高金の品のみならんと思うて開き讀下よみくだせば然に非ずして極安ごくやすき物のみなれば呆あきれながら委細ゐさい承知しようちを仕つりぬ只今たゞいま藥研やげんに掛ます間あひだ霎時しばらくお待ち下されと云つゝ夫を和吉に遞與わたし製造せいざう方へ廻させしは多少を論ろんぜぬ商個あきうどの是ぞ實に招牌かんばんなる可べし偖さて細末さいまつの出來る間と元益に四方八方よもやまの話しを爲ながらも餘りに不審ふしんと思ふ故此方に向ひて膝ひざを進めちと失禮しつれいな事では御座れど營業しやうばいゆゑに貴君樣に伺ひまするは外でもなき只今仰おほせ附つけられし彼お藥の調合にて弊家共も代を累かさね此營業を致しをれども箇樣な藥の合せ方初めて拜見はいけん致しますが一體是は何病に驗きゝますものか苦くるしからずばお教へなされて下されませと云ば元益打笑ひ成程是は貴主方が見ても一向解らぬも道理にこそあれ此藥は素もと漢方家かんぱうかの配劑はいざいならず愚老ぐらう先年長崎にて醫道いだう修業を爲しをり不圖ふと阿蘭陀おらんだの名醫より傳習でんじゆしたりし稀代きたいの妙藥めうやくテレメンテーナと稱物いふものにて則ち癲癇てんかんの良劑りやうざいなり然れども今の品しな耳のみならず阿蘭陀おらんだ人より傳へられたる奇藥きやくを二種ふたいろ加くはゆるゆゑ如何程重おもき癲癇てんかんなりともたゞ一二服を服用すれば忽地たちまち全快なさんこと霜しもに沸湯にえゆを注ぐに等き世にも怪有けうなる奇劑きざいなるは是迄夥多あまたの人に用ゐ屡々しば〳〵功驗こうけんを示せしより今度音羽おとは町の浪人らうにん大藤武左衞門の娘お光が矢張やはり癲癇てんかんの患うれひありとて愚老ぐらうの方へ療治れうぢをば頼に來しゆゑ診察しんさつするに數年の病のかうぜしなれば我妙藥わがめうやくの力にても到底つまり全快覺束おぼつかなければ一時は之を斷ことわりしが父なる者の云るには今度娘むすめは江戸向の大家の嫁よめに望のぞまれしが病やまひ有ては相談も出來ねば深ふかく押隱おしかくし疾はや結納ゆひなふを取交し近日婚姻こんれい致す事に成しに依ては行ゆき早々さう〳〵病やまひ起おこらば如何にせん故に根切ねきりにあらずともと頼たのまれたるより今日わざ〳〵此方へ參りし事なりとまづ大略あらましを語りけり


第六回


 其道を以て計はかる時は君子と雖も計り得るに易やすしとかや扨も山田元益げんえきはお光の婚姻こんれいを妨さまたげるため此小西屋の店へ來り癲癇てんかんなるよし餘所ながら咄はなし出せば主個あるじを初め並ゐる店の者共等も顏かほ見合みあはせてゐたりけるに爲して遣やつたりと意こゝろに笑ゑみ猶なほも主個あるじに打向ひ今の女兒むすめの行先は大身代だいしんだいの由なれば此婚姻こんいんの首尾しゆびよく成らば女兒むすめ計りが僥倖さいはひないで親おやまで浮うかび上る事ゆゑ是非とも是を爲し遂とげたし然ども隱かくして遣やりたる病氣が一日二日の中に起らば折角せつかくなしゝ婚姻こんいんも破談はだんになりて寶たからの山へ入ながらにして手を空むなしく戻もどるが如き事ある可し因て到底たうてい治なほらずとも藥の功驗きゝめで二月三月起らずにゐれば其後に假令たとへ發はつする事ありとも早はや夫それまでには夫婦ふうふの中に人情にんじやうと云が起おこり來れば癲癇てんかんありとて離縁りえんには成る氣遣きづかひも有まいからと云れて見れば其やうな物とも思ひ上治うはなほして致してやらねば其親子が折角せつかく得たる出世しゆつせの道の妨さまたげ爲やう思はるれば先の家へは氣の毒ながら偖さて斯かくまでには爲たりしと何氣なき體てい咄はなす節をり藥の細末さいまつ出來しとて持もち來るより受取つ錢を拂ひて長居は惡しと會釋ゑしやくをなして元益は店を立出たちいで竹輿かごに乘り首尾しゆびよく行しと舌を吐はき我家を差て歸りけり跡あと見送みおくつて長左衞門思ひ掛けざる醫師の咄はなしに只管ひたすら呆あきれて言葉も出ず茫然ばうぜんとして望みをりしが影かげさへ見ず成なりし頃やう〳〵我われに歸りつゝ慌忙あわてゝ奧おくに走り入り今の次第を斯々かう〳〵と話すに妻も且呆あきれ且は驚く計りにて夫婦ふうふ交かたみに面おもてを合せたゞ吐息といきのみ吐つきゐたりぬ斯かゝる所ろへ管伴ばんたうの忠兵衞外より歸り來り居間へ至るに長左衞門は待兼まちかねたりし風情ふぜいにてオヽ忠兵衞か遲おそかりし和郎そなたは此家に長の年月勤つとめて居て今にては管伴ばんたうとまで用ゐらるゝ身みで有る故に大事の〳〵一個息子ひとりむすこへ取る嫁よめも吾儕等わしら三個みたりは皆目かいもく見ず和郎に任まかした今度の一件けんそれを何ぞや探さぐりもせず何故あつて彼樣あのような病持やまひもちをば引摺ひきずり込み結納ゆひなふまでも取交とりかはせしぞ息子せがれの意こゝろに叶かなうたる者にてあらばとは云いふたれど惡ひ病があつても能よいと我々夫婦は決して云ぬに和郎そなたは左樣な女兒むすめとも知ずに縁えんを組せし無念ぶねんか又は知ども當座たうざのみ能よければ能よいとの不實心で知て居ながら横着わうちやくを極きはめし譯わけか聞きかま欲ほしと腹の立まゝ藪やぶから棒ぼうにまくり立たてつゝ云いひければ忠兵衞呆氣あつけに取とらるゝ耳のみ少も合點がてん行ざれどもお光の事とは大方に推すゐせばいよ〳〵分わかり兼かね猶なほ押返おしかへして問けるに主個あるじは今方店へ來し醫師が述のべたるテレメンテーナの藥の事より大藤の女兒むすめは斯かうと話したるが和郎は大事な主人の嫁よめが途中とちうなんどで轉倒ひつくりかへり天窓あたまへ汚むさき草履ざうり草鞋わらぢを載のせられ恥を世の中へ晒さらしてゐても大事ないかと怒いかりの言葉ことばも無理ならず此方も是を婚姻こんいんの邪魔じやまなす者の所爲しわざと知ねば彼奸計かのかんけいを信實まこととなし貴妃きひ小町にも勝るとも劣はせじと思ふ程なる美人であれば其樣な病も素もとより有るまじと思ふが故に近所きんじよ隣家となりの人にも更に平常の行跡ぎやうせきさへも聞事なく縁えんを組くみしは身の過失あやまりこの娘にして其病ありとは嗚呼あゝ人は見掛に依よらざる物かと嘆息たんそくなしてゐたりしが漸々やう〳〵にして此方こなたに向ひ然さる惡病のあると知らば假令たとへ若旦那わかだんながどの樣に戀慕こひしたひて居給ふとも決してお世話は致すまじきに全く知ずに爲なせし事故不行屆ふゆきとゞきの其廉かどは平に御勘辨かんべん下さる可し然さうして此上の御思案しあんは何の思案に及ぶ可き直すぐ婚姻を變改へんがいしてと言はれて忠兵衞度と胸むねを突つき仰おほせ御道理ごもつともでは御座りますれど先から好みし縁談えんだんならず此方よりして若旦那が見染みそめて無理に貰もらひに行き此管伴ばんたうの目の黒い中に如何なる事ありとも離縁りえんはされぬと受合うけあひしを今更斯かうと申しては參り兼れば此事のみはと言いふを主個あるじは押返おしかへし假令たとへば無理に貰もらひしとて婚姻なしゝ譯わけにもなく本の結納ゆひなふだけ取交とりかはした事にてあれば仔細有まじ夫をば強しひて否いやと云いふは和郎そなたは病氣を知ての事か。全く以て是から先に行て呉るか。サア。サア夫はの詰つめ臺詞ぜりふ忠兵衞今は詮方せんかた無なければ左樣御座らば此由を若旦那へ一應おう話してと云ども主個あるじは更に肯きかず何の息子せがれに話すに及ばう如何いかに戀慕こひしたふ美人でも覆轉ひつくりかへつて泡あわを吹く者と知なば戀路こひぢは覺さめん息子せがれは吾儕わしが能樣よきやうに言ゆゑ和郎そなたは音羽町へ早く行ゆきねとせり立られ忠兵衞今は理の當然たうぜんに迫せまられたれば一句も出ず力ちから投首なげくび腕組うでぐみして進まぬ足を進めつゝ音羽を差て行にける神ならぬ身の此方には然さる災禍わざはひの配おこり來て無き名を負おひしと露知つゆしらぬお光が嫁入よめいりの支度の好惡よしあし父親とも又お金とも相談して調とゝのへければ衣類いるゐ諸道具しよだうぐ今は殘らず揃そろひたるに大家の事故先方にては夥多あまたの支度ある事にて未だ調とゝのはぬか婚姻こんいんの日をば何日いつとて云うて來ぬかモウ今日あたりは來然きさうな物と親父おやぢが言いへば女兒むすめもまた戀しい人と二世の縁えん結むすぶに附て嬉うれしさの一日ひとひを千秋ちあきと思へども言はるゝ度に恥はづかしさの先立なれば果敢々々はか〴〵しき回答いらへもなくて面おもはゆげ斯かゝる所ろへ門の戸開け這入はひり來るは小西屋の一番管伴ばんたう忠兵衞なれば夫と見るより父親てゝおやは最いと笑ゑまし氣げに迎へ上げ忠兵衞どのか能く來ませし今日等は定めし婚姻の日限にちげん究きめにお出が有らうと今も今とて娘と二個ふたり噂うはさを致して居をりし所ろマア〳〵此所へコレ娘何を迂濶うつかり致してをるお茶を上ぬか如何ぞやと待遇振もてなしぶりの厚あつき程此方こなたはいよ〳〵意こゝろに恥はぢ言出惡いひいでにくく背後そびらには汗あせする計ばかりに在りたるが斯ては果はてじと口を開き決してお構ひ下さるな今日はチト申上兼し次第が有て參りたり夫と申すは餘の事ならずお娘御樣むすめごさまとお約束を致しましたる吾儕わたくし方の主人の息子せがれ長三郎こと實は先日より病氣に附き種々いろ〳〵醫藥を撰えらぶ物から功驗しるしは毫すこしもあらずして次第漸次しだいに重おもり行き昨今にては到底とても此世の人には非じと醫師も云ひ吾儕共わたくしどもも思ひますれば節角せつかくお娘御を迎むかへ申しても祝盃さかづきさへも致さぬうち後家ごけと爲なすのが最惜いとほしければ此度の縁はなきものと思し絶念下あきらめくださるやと申して參れと長左衞門が吩咐いひつけに依て態々わざ〳〵參りましたるが實まことにお氣の毒の次第にてと言いひたる儘まゝに戸外おもてへ飛出とびだし跡あとをも見ずして逃にげ行きけり此方の父女おやこは思ひも因ぬ管伴ばんたう忠兵衞が斷りに夢ゆめかと計り驚きつ又は呆あきれて顏かほ見合みあはせ少時しばし言葉もあらざりしがお光は呀わつと聲立て其所へかつぱと打伏つ前後ぜんご正體しやうたいなき叫さけびぬ父も泪なみだに目を潤うるほせしが此方に向ひてコリヤ娘必ず泣な我も泣じ和女そなたを育そだて此年月能よき婿むこ取んと思ふ所へ幸ひなるかなと今度の婚姻無上こよなき親娘おやこが悦びを思ひ附ても亡なき母が生いきて居をりなば嘸さぞや嘸さぞ悦ぶならんと今日迄も樂しみ居たる甲斐もなく忽地たちまち斷ことわるとの變改へんがい如何なる事に原因もとゐ候や知らねど一度約束して結納ゆひなふまでも取交かはせしに斯かく言來る所を見れば幾許いくら大家の由緒ゆゐしよある家のと云いふても町人は町人だけで詮方せんかたなし必ず喃々くよ〳〵思ふなよと勵はげましながら父親も同じ袂を潤うるほはしぬ娘はやう〳〵顏を揚あげ女と生れし甲斐かひなさは百年もゝとせの苦樂他人に在りと常から教を受まつれば本夫をつとを持もたば生涯しやうがいを任まかして朝暮あさゆふ仕へんと思ひし事も空頼そらだのみ仇し縁えにしに成ることゝ知ば年頃貧苦の中にも失ひ給はで吾儕わたしの爲に祕置ひめおかれたる用意金を盡して爲し支度さへ今浪費むだづかひに成りたるは悔くやしき限りに候へど夫も是非なきことながらモウ結納ゆひなふを取交かはせし後にてあれば同衾ひとつねは爲なさねど已に夫婦で有ると今故なく離縁されては吾女わたしは世間へ此顏が向られませねば如何なる越度をちど如何なる粗想そさうで離縁されしか其趣きを小西屋へ一度掛合吾儕わしらの身體からだの明りの立やうに何卒どうぞなされて下されませと理ことわり迫せめたるお光の述懷じゆつくわい無實むじつに陷おちいり樂みし赤繩せきじよう茲こゝに絶しと知ぬは憐れといふも魯おろかなりけり


第七回


 父は泪なみだを拂ひつゝ娘に向ひて又云やう其述懷じゆつくわいは然さる事ながら設もし此先が武士なりせば今更になり箇樣かやうな事を面目めんぼくなくて云ても來くるまじよし又云て來たればとて此方こなたも承引ひきうけ其明の立ざる中は使の者を爭いかで阿容々々をめ〳〵返す可き然るを先が町人にて素もと町人と云いへる者は利に耳のみ走りて恥を思はず義理には暗くらき者なるゆゑ斯かゝる事さへ云出すならん然るを此方は人がましき者と思うて理窟りくつを云いふは所謂いはゆる乞食かたひに棒打ぼううちにて毫すこしも役に立ざれば腹の立のは無理ならねど此は是までの事と斷念あきらめ必ず案じる事なかれと説とけど諭さとせど娘氣の亂れ染ては麻糸あさいとの解とくよしもなき其節をりから隣の家の糊賣のりうりお金例の如く營業なりはひを終了しまうて今がた歸り來り我家へ入て荷を卸おろし重能ぢうのう代がはりの石決明貝あはびがひを携たづさへ隣の家へ至り火を貰もらはんと行き見れば年が年中物爭ものあらそひ一つなしたる事もなき家には似氣にげなく親と子がさも不快氣ふくわいげなる面地おもゝちして然も泪なみだを翻こぼしゐればお金は不審と眉まゆに皺しわ平常へいぜいからして親子中の能よいと云のは音羽中へ響ひゞいて親に孝行な其お光さんが何した譯でと問ど親子は嘆息たんそくの外に回答いらへもあらざれば一所に置ては面倒めんだうというてお金は無理やりにお光を我家へ連行つれゆきつ何で喧嘩けんくわをなされたと問ばお光は面はゆ氣げに物爭あらそひせし解わけならず二個ふたり泪を翻こぼしてゐたるは斯樣々々の次第なりと婚姻破談はだんに成し事を包つゝまず告ればお金は驚きあれ程までに手を下て貰もらひに來りし小西屋で今更いまさら俄にはかに斷りに來のは何とも合點がてん行ゆかぬと云たる耳のみにて詮方せんかたなければお光を慰め家へ歸し吾儕おのれも大藤武左衞門に會つて悔くやみを云いひにける物語二枝ふたつに分わかる不題こゝにまた忠兵衞は主命なれば詮方なく最いと云難いひがたき事の由を親子の者に云傳へ其所そこをば遁にげも出せしが設もし追掛おひかけらる事もやと意こゝろの恐れに眞暗まつくら散方さんばう跡をも見ずして我家へ歸かへり向ふの始末斯々かう〳〵と咄はなして汗あせを拭ぬぐひけり夫婦は聞て先は安堵あんど此事一子せがれに云ん物と思へど未だ暇に乏とぼしく咄しもせねば和郎そなたまづ一子せがれに篤とくと此由よしをと云れて最いとど迷惑めいわくながら否いやとも云ねば部屋へ行き今朝こんてう店みせへ一個にんの醫師いしやの來たりしことよりして親公おやごのいかりに詮方なく向ふを斷ことわり歸へりしまで一伍一什いちぶしじふをはなしけるにきく長三郎は宛然さながらに髮揷かざしの花をば散したる心地こゝちせられて茫然ばうぜんたりしが面色めんしよくを變かへ膝をすゝめコレ管伴ばんたうどの忠兵衞どのそも〳〵大藤の女兒むすめおみつは父母の女房にするというて婚姻こんいんいひ込こみしことならずこの長三郎が彼かれを見染みそめ和郎そなたを以て結納ゆひなふまで取交したるなかなれば假令癲癇てんかんの病ありとも吾儕わしが能よいというならばそれまでにして父母ちゝはゝも敢あへて左とや右かういふ筋すぢ有るまじ夫をして病有るものはと云いふ解わけならば一應おうは我に話して縁組を變更へんがへす可きに然なくてその當人なる我耳わがみゝへは毫すこしも入ず和郎をもて變更さするは如何なることぞ父母も父母なり和郎も和郎あまりと云いへば餘りなる壓制業おしつけわざとや云可べけれ又一方ぱうより云時はお光に斯かゝる病ありとも开は大道にて轉覆ひつくりかへり泡あわを吹ふきたる所をば見たるに非で店へ來し何いづれの者やら名も知ぬ醫師が云たることなれば是また證據と爲に足ず然るに夫を眞實まこととなし斷りたりしは麁忽そこつ千萬此方は現げんに見たるといふ證據あらねば其醫師いしやの云しが嘘うそにて大藤の娘むすめに病の氣も有らぬを疾はやりて斷り後に至り斯と心の就く事あらば只たゞ面目めんぼくなき耳のみならず本町の小西屋こそ大身代しんだいで有りながら事理の解わかりし者なきや出所不定の醫師の言葉に迷まよひて病もなき娘むすめを病有とぞ思ひ詰め結納ゆひなふまでも取交せし其縁談えんだんを斷りしは最いと笑わらふ可き事なりと世間の人の口の端に掛かゝりし時は我身と父母の恥はぢのみならず小西屋の暖簾のれんに疵きずの附ことならずや故に縁談破談はだんの事は吾子わたしは決して承引うけひき難し然れども其實病あつて父母がお光を嫌きらひ給ふと云事なれば長三郎は假令たとへ焦こがれて死する迄も是非縁組とは云ざるなれば只今たゞいま直すぐに癲癇てんかんと云る證據を上て來て見せなば此のまゝ許ゆるしもせん設もし然もなくは醫師の云ひし言葉は嘘うそと思ふゆゑ父母に迫せまりて病に係かゝはらずお光を如何でも女房に爲ねば成らぬと居丈高ゐだけだが辯舌べんぜつ尖するどく演立のべたてたる理りの當然に忠兵衞は一句くも出ず首を垂たれ考かんがへ見れば長三郎が云に違はず渠かのお光の病氣といふは何處の者やら譯わからぬ醫師が云し耳のみにて實際じつさい見たる譯ならねば今に成ては其病の有無とても計はかられずと少すこし迷まよひの晴はれ來れば晴る程なほ面目なきは初はじめよりしてお光が上を能も探さぐらぬ過失あやまりなりしと思ひ附ては中々に辯譯いひわけなけれど首かうべを揚げお年若には似に給はで事理明瞭あきらかなる今のお言葉御尤にて返かへす可き言ことの葉はとても候はず然ども今將いまはた貴君あなた樣が旦那樣御夫婦に仰おほせられてはお家の騷さわぎ只たゞ何なに事も忠兵衞が不行屆ふゆきとゞきに起おこりし事ゆゑ一度は斷り候えども如何樣とも爲し彼娘の病氣の有無を問合せ再回ふたゝび御縁ごえんの結むすばる樣致しますれば暫時く吾輩おのれにお預け下されませと思ひ入りてぞ詫わびけるに長三郎は面を和やはらげ夫ほどまでに云なりせば此回このたびは許し遣つかはす可ければ今日よりして五日の中に設もし病氣有る物ならば有とぞ云る確たしかな證據を取て其旨むね吾輩おのれに云ね又無時には縁談えんだん再回ふたゝび結むすびて高砂たかさごを謠うたへる樣に取計とりはからふ可し夫も五日の中に限りぬ設もし日限を過す時は我も堪忍かんにん爲難しがたければ双親ふたおやに向ひ此事を詳細くはしく云て意中を聞ん和郎そなたも是を心得てと嚴重きびしく云れて忠兵衞は詮方せんかたなけれど言受し部屋を退しりぞき投首なげくびなし五日の中に善惡二つを身一つにして分る事の最いと難かたければ思案に暮くれるに最前さいぜんよりも部屋の外にて二個ふたりが問答もんだふ立聞たちぎきせし和吉は密と忠兵衞の側そばへ差寄り袂たもとを控へ人なき座敷へ引入て委細ゐさいは彼所あれで聞ましたが思ひ設けぬ今度の一件吾儕わしも最初さいしよに若旦那のお供をなして彼所へゆき夫から和君のお出の時もお供を致して最初さいしよからの事柄がらは皆みな知しつてゐるにあの娘御に限ては然さういふ病の有る事とは思はれざれど有といひ又また若旦那の被仰處おつしやるところも道理と思へど五日の中にどうして夫それを探さぐり給ふか吾儕わたしも共に案じられてと云ば忠兵衞點頭うなづきて年より怜悧さかしき和郎そなたの心配吾儕も切迫せつぱに詰つまつた故先まづ云るゝ通り五日をば承知をなして受合たれど何を當あてにも雲を闇やみ。然いふ譯なら此事は秒時しばらく吾儕にお任せなさい彼近所へ行ゆき夫とはなく病が有か非あらざるかを聞定て來て參ますから成程是は大人おとなより幼稚こどもの方はうが遠慮がなくて聞には至極しごく能よからうから何分頼と管伴ばんたうに云はれて心得打點頭うちうなづき優ませたる和吉は其儘に立出音羽へ至しが何處いづこで問とはんと思案に暮くれ先まづ大藤が住居なる路次へ思はず入にけり


第八回


 怜悧りかうな樣でも幼稚なる和吉は家うちを立出て音羽の町へ至りつゝ路地へは入しが何處で聞んと其所等そこら迂路々々うろ〳〵爲しゝ末すゑ但と見れば大藤が隣となりの家にて老婆一個にん膳ぜんに向ひ夜食やしよくと云へど未だ暮ぬ長日の頃の飯急めしいそぎ和吉は見やりて打點頭うちうなづき會釋ゑしやくをなして内へ這入ば小僧さん糊のりならばモウ無よイエ〳〵糊では有りませんがチト物が承うけたまはりたくてと云はしたれど究きまりが惡わるく暫時しばらく文字々々もじ〳〵手てを揉もみながら四邊を見返みかへり聲を密ひそめ變な事をお聞申す樣ですが隣となりのお家の大藤武左衞門樣の娘のお光さんは癲癇病てんかんびやうだといふ事です全く然で御座りますかと問ば此方は其娘むすめが婚姻破談はだんの事に就き胸の有也無也うやむや晴ざるをり今癲癇と言いはれては口惜くやしくもあれ忌々いま〳〵しければ赫かつと怒つて箸はしを捨すて衝つと立上り飛掛とびかゝり和吉が首筋くびすぢ取とるより早く其所へ引附目を怒いからしコレ小僧和主てまへは何處どこの者かは知ねど大藤の娘お光さんに癲癇が有るるとは何の謔言たはごと彼あのお光さんは容貌きりやう能よく親孝心で優やさしくて癲癇所ろか病氣は微塵みぢん聊いさゝかない人を癲癇病とは何の事一體たい何處から聞て來た而そして和主てまへは何處の者だサア云聞んと老婆の憤激ふんげき和吉は苦くるしき息いきを吐つき然さう被仰おつしやられては一言も御座りませねば申し升が何卒此手を放して下さい息いきがはずんで溜たまりませぬと云ばお金は手を緩ゆるめ然さうして如何だと再度ふたゝび問とはれ今は包つゝみもならざれば自己おのれは本町小西屋の召仕めしつかひなることより婚姻とまで極きまりしが今朝こんてう箇樣々々かやう〳〵の醫師いし來りて大藤の娘お光は云々かく〳〵と云たりしに主個あるじ長左衞門は大きに驚き直すぐ管伴ばんたうの忠兵衞をもて此方へ斷りに遣よこせしが子息長三郎は聞て怒いかり忠兵衞を説破せつぱして五日の間あひだに癲癇てんかんの有無うむを調しらべて來る樣やうにと云れて困り切たる景状ありさま見るに忍びず吾儕わたしが負擔うけおひ爰迄聞に來りしと一什しじふを演のべて泪組なみだぐみ咄はなしを聞てお金の驚き息子が見染めて取ぬまでも二百兩といふ大金たいきんを支度金したくきんにまで遣よこした小西屋今日に成り婚姻を變更へんがへするとは物の不思議と思つてゐたが此咄このはなしでやう〳〵素もとは譯わかつたり然ども醫師といふ奴が態々わざ〳〵彼所かしこへ行し上うへあらぬことさへ並ならべしは何どう考かんがへても合點がてん行ゆかずモシ小僧どん其醫師の年齡としごろ恰好かつかうその他に是ぞと云ふ目印はハイ登時そのとき吾儕わたしは家にゐたゆゑお茶も出たり話にも聞惚きゝほれよく〳〵見ましたが年の頃は二十七八丸まる顏にして色黒く鼻はなは低ひくくて眉毛まゆげ濃こく眼まなこ尖するどく其上に左の目尻めじりに豆粒程まめつぶほどの大きな黒子ほくろが一つあり黒羽二重はぶたへの衣物きものにて紋は丸の中に確たしかに桔梗ききやうと言れてお金は横手を拍うち其の人體にんていで考へれば醫師と云るは町内の元益坊主ばうずに極きはまつたりと云は面體めんていのみならず黒くろ羽二重に桔梗の紋は掛替かけがへのなき一丁羅ら渠奴きやつ小西屋の店みせへ行き隣の女に惡名を付しは大方おほかた弟なる此家主の庄兵衞めに頼れての業わざなる可し渠かの庄兵衞は日頃ひごろよりお光さんには深く戀慕れんぼし度々口説くどけど云う事を肯きかぬ所より遺恨を含ふくみ元益坊主を頼込み此婚姻を邪魔じやまをしようと無き事云いはせし物なる可し夫にて思ひ合すれば先刻營業あきなひの歸り路みち元益坊主の裏手を通ると庭にはの障子しやうじを開放あけはなし庄兵衞と二人して並ならんで酒を飮のんでをり先まづは首尾しゆびよく行て來たゆゑ必定ひつぢやう破談に成るだらうと咄してゐたは氣が付ねど常には中なかの惡わるき兄弟きやうだい今日のみ一つ座敷に在て酒汲交くみかはすは稀代きたいなことと思つてゐたが咄しの樣子と彼是かれこれ考かんがへ合すればいよ〳〵渠奴きやつに相違ない惡さも惡き二個ふたりの者如何してくりようと拳こぶしを握にぎり向ふを佶きつと見詰たる手先に障さはる箸箱はしばこをば掴つかみながらに忌々いま〳〵しいと怒りの餘り打氣うつきもなく側かたへに茫然ぼんやり坐すわりゐて獨言をば聞ゐたる和吉の天窓あたまを箸箱はしばこにて發矢はつしと打うてば打れて驚きお金は氣にても違ちがひしかと思へばキヤつと云さまに其所を飛出し遁行にげゆきける此聲により糊賣のりうりお金はやう〳〵夫と心付き其の人にてもあらざるに怒りの餘り打たるは面目めんぼくなけれど聞捨きゝすてには成ぬは今の元益の一條直すぐ此事をお光さんにと云よりお光は翌日あしたの仕掛しかけか米淅桶こめかしをけを手に携さげて井戸端へとて行ん物とお金の前を通り掛ればお金は夫と見るよりもお光を呼入よびいれ今の次第和吉が來りし事よりして斷りたるは癲癇てんかんと云觸ふらしたる元益が所爲しわざに因よること是はまた家主庄兵衞が戀慕れんぼに出で云々かく〳〵なりし一伍ぶ一什しじふを委敷くはしく語かたるを聞お光破談はだんの事の原因はやう〳〵解わかりし物ながら怒いかりに堪ぬは家主が其奸計かんけいは口惜くちをしき如何はせんと計りにて涙に暮くるる女氣の袖を濕しめらせゐたりしが稍やゝ有あつて顏を揚げ俄にはかの破談は如何した事と親子二個が一方かたならず心配致して居し所ろ今拜諾うけたまはりしお話しにて吾儕わたしが無き名を負たりし次第はきつぱり譯わかりましたが今此事を親父さんに話しを致せば武士堅氣かたぎ無實の惡名あくみやう附つけられてはと怒つてどんな間違に成ならうも知ねば明日あしたにても氣の落附おちついた其時に吾儕が徐々なんとかに云ますから何卒和君あなたからはお話なくハイ夫は承知しましたが餘り憎にくい爲方しかたゆゑ明日に成たら親父に話して急度掛合にと飽あくまで籠こもる親切を謝しやしつゝお光は泣顏なきがほ隱し井戸端へ行き釣上つりあぐる竿さをを直なる身の上も白精しらげの米よねと事變り腹いと黒き其人が堀拔ほりぬき井戸の底そこ深ふかき謀計たくみに掛り無實の汚名をめいを蒙りたるも最前さいぜんまで澄すむか濁にごるか分らざりしが今は譯わかれど濡衣ぬれぎぬを干ほすよしもなき身の因果いんぐわと思ひ廻せば廻すほど又も泪なみだの種なるを思ひ返へしてゐる節をりから後の方より背中せなかを叩たゝきモシお光さんお光さんと云者のある誰ならんと振返ふりかへりつゝ打見やれば元益方にて祝酒いはひざけを汲交くみかはしゐて歸り來る庄兵衞なれば此方は發と怒りの餘に飛附てと逸はやる意こゝろを押鎭おししづめ誰かと思へば大家おほやさん大層たいそう御機嫌で御座りますねヘイヤ澤山たんともやらねど今其所そこで一寸ちよつと一杯やつたばかりさ夫は然さうとお光さん今日新版しんぱんの本が出來できて未だ封切ふうきりもしないのが澤山あるが日が暮くれたら迫せめて畫ゑだけも見にお出而そして今夜は母親おふくろは大師河原の親類へ泊り掛がけにと行て留守内うちには吾儕わたし一人限ひとりぎりゆゑ必ずお出の色目遣づかひお光は恨うらみを晴はらしたく思ふ折をりから云々と言いはれて大きに意こゝろに喜び其上うへならず母親も留守るすと云るは序ついでよしと早くも思案しあんし莞爾につこり笑ゑみ夫は嘸さぞかし面白ふ御座りませうが甲夜よひのうちは親父おとつさんも起きてをり世間も何だか騷々さう〴〵しく本も讀よんでも身に成ませねば二更よつでも打て親父が寢てから密そつと忍んでゆき御本ごほんを拜見はいけん致しますから何卒どうぞ夫までお寢なさらずにお待なすつて下さいと言いひつゝ一寸ちよつと男の顏横目よこめで見たはお光の方に深き意の有とも知ず音羽小町と言るゝ程の美人びじんにてらされ庄兵衞五體たい宛然さながら蕩とろける如く何いつもピンシヤン爲する娘が今日に限つて自分の方はうから夜が更ふけたらば忍んで行うと言のは夢か現うつゝかや是も矢張やつぱり小西屋が破談に成た故で有うあゝ悦ばし嬉しとて手の舞まひ足の踏ふむ所も知ざるまでに打喜うちよろこび夫では晩ばんに待てゐるから急度きつとで有るよと念を押おし莞爾にこ〳〵顏して我家へ這入はひりしあとにお光はまた米こめ淅了とぎをはり我家の中に入し頃は護國寺の鐘かね入相いりあひを告つげければ其所等そこら片付かたづけ行燈あんどうに火を照し附け明るけれど暗くらからぬ身を暗くされし無念に父の武左衞門心濟ねば鬱々うつ〳〵と今日も消光くらしてお光に向ひ面白からぬ事のみにて身體からだも惡く覺ゆるに床をば延のべて少の間あひだ足を叩たゝいて呉くれぬかと言れてハイと答へながら押入開あけて取出す蒲團は薄き物ながら恩いと厚き父親てゝおやに我身の上より苦勞を掛け未まだ此上にもお嘆なげきを掛る不孝の勿體もつたいなさと口には言ねど心の中思ひ續つゞけて蒲團を敷しきイザと勸すゝむる箱枕はこまくらのみならぬ身の親父が横に成たる背後うしろへ廻り腰より足を摩さすり行手ゆくて弱よわき腕かひなも今宵此仇このあだを斃たふさんお光の精神是ぞ親子が一世の別れと究きはまる心は如何ならん想像おもひやるだに悼いたましけれ


第九回


 女兒むすめが優やさしき介抱に心こゝろ緩ゆるみし武左衞門枕まくらに着つきてすや〳〵と眠りし容子にお光は長息といき夜具打掛て密そつと退のき側かたへに在し硯箱を出して墨を摺流すりながす音も憚はゞかり卷紙まきがみへ思ふ事さへ云々しか〴〵と書かきつゞる身生命毛いのちげの筆より先へ切てゆく冥途めいどの旅と死出の空我身は今ぞ亡き者と覺悟をしても親と子がたゞ二人なる此住居然るを吾儕わがみが先立てば誰とて後で父樣とゝさまの御介抱をば申し上ん夫を思へば捨兼すてかねる生命を捨ねば惡名を雪すゝぐに難き薄命ふしあはせお目覺されし其後に此遺書かきおきを見給はゞ嘸驚きもなさる可く又お歎もなさる可しと思ひ廻せば廻まはすほど死で行身は悲歎かなしみもあらねど後へお殘りなさる其悲歎は如何ならん不孝はお許ゆるし下されと口には云ねど意の中おもひ續つゞけて打詫うちわぶる涙は胸むねにせぐり來て呀わつと計に泣出さんと爲しが父や目を覺さまさんと袖を噛〆かみしめ堪こらゆるは泣より辛つらき手の震ふるへ筆の運はこびも自在ならねど漸々やう〳〵にして始終しじうの事を記し終りて確かたく封ふうじ枕元なる行燈あんどうの臺に乘置のせおき稍やゝしばし又も泪なんだに暮たりしが斯ては果じ我ながら未練みれんの泪と氣を取直とりなほし袖もて拭ぬぐひ立上り母の紀念かたみの懷劍くわいけんを取出し拔て行燈あんどうの火影ほかげに佶きつと鍔元より切先きつさき掛かけて打返し見れども見れども曇くもりなき流石さすがは業物わざもの切味と見惚て莞爾と打笑うちわらひ鞘さやに納めて懷中ふところへ忍ばせ父の寢顏ねがほを見て餘所よそながらなる辭別いとまごひ愁然しうぜんとして居たる折早くも二更かうの鐘かねの音ねは耳元みゝもと近ちかく聞ゆるにぞ時刻じこく來りと立上り音おとせぬ樣に上草履うはざうりを足に穿うがつて我家を密そつと拔出ぬけいで家主いへぬしの庄兵衞方へ至り見れば此方こなたは待まちに待たることゆゑ未まだ寢ねもやらず茶を沸わかし菓子を整とゝのへ坐すわり居て夫それと見るよりお光さんか定さだめし甲夜よひからお出で有らうと待草臥まちくたびれて居りたるにと云へばお光も莞爾にこやかに吾儕わたしも早く來たいのは山々やま〳〵なれど父親おとつさんがお寢なさらぬので家が出られず只たゞ氣きを揉もんでゐた所ろ今方いまがたお休やすみなされたのでやう〳〵出て參まゐりましたと云つゝ上りて火鉢ひばちの側そば身をひつたりと摺寄すりよせて坐すわれば庄兵衞魂魄たましひも飛して現うつゝを拔ぬかしながら見れば見るほど美うつくしきお光はいとゞ面おもはゆげの形かたちに此方こなたも心中こゝろ時ときめき言いはんとしては口籠くちごもる究りの惡わるきを隱かくさんと思へば立て箱はこの中うちより新あたらしき本ほん種々いろ〳〵取り出し之を御覽ごらんと其所そこへ置おけばお光は會釋ゑしやくし行燈あんどうを引寄ひきよせ頻しきりに見る側そばで茶を汲くみ菓子くわしを薦すゝめながら其の横顏よこがほをつく〴〵と眺ながめて意こゝろに思おもふやう自分じぶんの方から更ふくるを待ち親おやを寢かして來くる樣やうなは今宵こよひ泊とまらん積ならん何いつまで斯かうしてゐたらばとて果はてしなければ此方こなたより誘いざなひ立ねば未通女をとめの事ゆゑ面伏おもぶせにも思おもふ可べしと一人ひとり承知しようちし押入おしいれより夜具やぐ取出し其所へ床とこ敷延しきのべてお光に向ひ吾儕わたしは御免ごめんを蒙かうむるゆゑ和女おまへは緩慢ゆつくり御覽ごらんなさいと言つゝ床とこの中に入しが何でう眠ねむりに着る可き只たゞ此方こなたのみ窺うかゞひ居ゐるうち又告渡わたる鐘かねの音は子の刻こくなれどもお光は寢ねずいよ〳〵本ほんに見入みいる體ていに庄兵衞今は堪たまりかね夜具やぐの中うちより手を出だしお光の手を取りぐつと引ば此方は發と顏かほ赤あからめしが振拂ふりはらひもせず讀さしたる本をば顏へ押當おしあてながら引るゝ儘に床の上へ倒れ掛りし姫柳ひめやなぎ風かぜに揉るゝ景状ありさまなり庄兵衞是は首尾よしと思ふ間もなく娘のお光夜具の襟えりをば庄兵衞の顏へすつぽり掛けながら口の所を左手ゆんでにて押へ附れば庄兵衞は息いきの詰つまりて苦くるしさに何をするぞと云いはせもせず右手に懷劍くわいけん拔ぬく間まもなく柄つかをも徹とほれと脇腹わきばらへ愚刺ぐさと計りに差貫さしつらぬけば何ぞ溜たまらん庄兵衞は呀あつと叫も口の中押へ附られ聲出ず苦き儘に悶もがきけるをお光は上へ跨またがりて思ひの儘にゑぐりければ七轉てん八倒たう四肢しを振ふるはし虚空こくうを掴つかんで息絶いきたへたりお光はほつと長息といき吐つき夜具やぐかい退のけてよく〳〵見れば全く息は絶果たえはてて四邊は血汐ちしほのから紅くれなゐ見るもいぶせき景状ありさまなり不題こゝに大藤おほふぢ武ぶ左衞門は娘が出しを毫すこしも知ず臥ふしてをりしが甲夜よりして枕に着たるゆゑなるか夜半の鐘に不斗ふと目めを覺し見れば側かたへにお光のをらぬに扨さては雪隱せついんへでも行きたるかと思うてやほら寢返ねがへりなし煙草たばこを呑のまんと枕元を見る行燈あんどうの臺だいの上に書置かきおきの事と記したる一封ぷうありて然も之れ娘お光の手跡しゆせきなれば一目見るより大きに驚き直に飛起とびおき封じ目を開く間ま遲おそしと讀下す其の文體ぶんていは此度の小西屋の婚姻破談はだんの儀は家主庄兵衞の爲る業にて這こは日頃より如此しか〴〵の擧動ふるまひありしが开そを聞入ぬ所ろより兄元益と云へる者と語ひ今朝同人を小西屋へやりテレメンテーナの事を言せ俄にはかに破談はだんに成たる事是等は絶て知ざりしが最前さいぜん和吉と云る小僧が隣となりのお金の許もとへ來り聞に參し其節をりに箇樣々々かやう〳〵の事を話しお金は營業なりはひよりの歸り道二人が話しの容子ようすを聞き殘らず吾儕わたくしに話したるより其無念やる方なく渠かれを殺して身の汚名をめいを雪すゝがん物と思ふより庄兵衞に會ひ云々と申すに因て僥倖さいはひなれば只今よりして彼方へ赴おもむき仇あだを殺して身の明を立んと思へど我私しの恨うらみを以て他人を殺さば罪科ざいくわ脱のがるところもなければ生いきて憂恥うきはぢ晒さらさんより其の場を去ず自害じがいして相果て申せば先立さきだちまする不孝はお許し下されかしと今死る身を氣丈きぢやうの女兒むすめ筆の前後少も亂みだれず一伍ぶ一什しじふを記しあるにぞ見る武左衞門一句毎くごとに或は驚き或は嘆たんじ又悲しみ又は感じ暫時しばし言葉もいでざりしは女兒むすめの生命に係かゝはる大事だいじ猶豫いうよなすべき所に非ずと思へば寢衣ねまきの儘まゝにして我家を立出で家主の門口へ行き戸を引開ひきあけ見ればお光は已すでにはや庄兵衞をば刺留しとめつゝ今や自害じがいをなさんとする景樣ありさまなるに大きに慌忙あわてヤレ待まて暫しばしと大聲おほごゑを揚あげんと爲なししが夜隱やいんのこと設もしも長家へ漏聞もれきこえ目を覺まされなば一大事と思へば側そばへ立寄て刄やいば持もつ手てを確しつかり禁とゞめ聲を密ひそめて云るやう娘むすめ逸はやまる事なかれ委細ゐさいの事は書置かきおきにて逐ちく一諒知しようちなしたりし流石さすがは大藤武左衞門の娘だけあり無き名を負おひし遺恨ゐこんを晴はらす其爲に刄やいばを振つて仇あだを斃たふす實に見上げたる和女そなたが心底しんてい年まだ二十歳はたちに足らざる少女の爲可き業わざにはあらざりける男勝まさりの擧動ふるまひこそ親恥はづかしき天晴あつぱれ女然れども人を殺し置き自儘じまゝに生害しやうがいなすと云は天下の大法知ぬに似にて武士ぶしたる者の爲こと成ず依て暫時しばらく死しを止とゞまり夜よ明あけるを待ち奉行所ぶぎやうしよへ名乘て出て相應さうおうなる處分しよぶんを受るが至當したうなれば先其刄やいばを納をさめずやと斯かゝる節をりにも老功なれば物に動ぜず理非りひ明白めいはく演のべて諭さとせし父が言葉ことばにお光はやう〳〵承知して刄やいばの血のりを押拭おしぬぐひ鞘さやに納をさめて腰こしに帶おぶれば父は再度ふたたび此方こなたに向ひ此家に長居する時は眞夜中まよなかなりとも如何なる人に知れて繩目なはめの恥はぢを受んと言も計られねば早く立去り支度したくをしてと云にお光も心得て父諸共もろともに家を出いで門かどの戸立て我屋へ歸り武左衞門は此一件を最いとも委敷くはしく認したゝめたる訴状そじやう一通を造つくりし上親子支度をなす中に疾はや明あけ近く東の方の白み來るに時刻よしと音羽を立出奉行所へと頻しきりに足を急いそがせしが知者しるもの絶たえてあらざりけり夜明し後に長家の者は一同起出おきいで夫々の業げふに就つけども家主の庄兵衞方は戸も明ず夫のみならず長家中では早起はやおきなりと評判する武左衞門の家も戸が開あかねば不思議に思ひて起して見んとお金を首はじめ四五人が先家主の方へ至り雨戸を叩たゝきて呼物から答いらへはなきゆゑ戸へ手を掛れば瓦羅利からりと開くにいよ〳〵不審ふしんと進み這入はひれば這こは如何に主個あるじ庄兵衞は何者にか殺害せつがいされたる物と見え血汐ちしほに染そまりて床とこの上に倒たふれゐるをば見て驚き顏かほ見合みあはする計りなり就ては大藤武左衞門の家も未だに戸が開ねば是さへ設もしやと一同が疑ふ餘り彼方あなたへ至り戸を引開れば是はまた家は裳脱もぬけのから衣ころも被きつゝ馴なれにし夜具やぐ蒲團ふとんも其まゝあれど主はゐず怪有けふなる事の景況ありさまに是さへ合點がてん行ゆかざりけり


第十回


 長屋の者の一同は捨置難すておきがたき二つの珍事ちんじ中なかにも家主庄兵衞が殺されたるは大變たいへんなりと其の兄あに山田元益の許へも斯と報知しらせるに元益驚き駈はせ來り家内を改め見たる所ろ何一つだに紛失ふんじつをなしたる物も非あらざれば這こは盜賊たうぞくの業ならず遺趣切ゐしゆぎりならんと思ふ所へ大師河原へ泊りに行し母のお勝かつは歸り來り夫と見るより死骸しがいに取附とりつき前後不覺ふかくに叫さけびしが偖さて有る可きにあらざれば此趣おもむきを訴うつたへ出檢視けんしを乞こうて其上に山田と計て死骸をば泣々なき〳〵寺へ葬はうむりけり不題こゝにまた其頃の北町奉行は大岡越前守忠相たゞすけというて英敏えいびん活斷くわつだん他人ひとに勝まさり善惡邪正じやせいを照すこと宛然さながら照魔鏡せうまきやうの如くなる實に稀代きだいの人なりしが此頃音羽七丁目の浪人大藤武左衞門父子奉行所へ駈込かけこんで娘お光こと云々しか〴〵個樣かやうの譯ありて家主庄兵衞を手に掛けたれば相當さうたうの御處分ごしよぶん下されかしと委細ゐさい訴状そじやうに認したゝめつゝ自首じしゆして出しに忠相ぬし這こは捨置すておかれぬ事共なりと先親子をば止とめ置き音羽の方をば探さぐらするに書面しよめんに違たがはず庄兵衞は何者にか殺されしとて檢視けんしを願ひ出たる耳のみかは其の朝あさよりして大藤親子は欠落かけおちなして行衞ゆくゑ知ねば設もしや父子の業ならずやと噂うはさなすよし聞きこえければ又小西屋方を窺うかゞはするに茲は召仕めしつかひの丁稚でつち和吉糊賣のりうりお金の許もとへ至り委細ゐさいを聞きくより大きに驚き直すぐ立歸りて管伴ばんたうに如此しか〴〵の由話はなしたりしに忠兵衞もまた驚嘆きやうたんし此事主個あるじ夫婦を首はじめ息子せがれ長三郎にも話はなしたるに息子は然もこそあらんと思ひ夫婦は頻しきりに麁忽そこつを悔くい再度ふたゝび婚姻を結んとて翌日忠兵衞を音羽町へ遣やりたりしが此時已すでに家主は殺され父子おやこは行衞ゆくゑの知しれぬとて長家は鼎かなへの沸わくが如く混雜こんざつなせば詮方せんかたなく立返へりつゝ云々と三個みたりに告て諸共もろともにお光の安否あんぴを案じゐるよし確たしかに知たる忠相ぬし獨ひとりつく〴〵思ふ樣お光は奇才きさい容貌ようばうとも人に勝すぐれし耳のみならず武士の眞意しんいを能く辨わきまへ白刄しらはを揮ふるつて仇を斃たふすに其父もまた清廉せいれんにて是を隱かくさず名乘なのつて出る親子微妙者いみじきものなれば何卒なにとぞお光を扶たすけてやらんとは思へども天下の大法たいはふ人を殺さば殺さるゝ其條目は脱のがれ難し如何はせんと計りにて霎時しばし思案しあんに暮くれたるがやう〳〵思ひ附つくことありてや一個ひとり點頭うなづき有司いうしに命じ庄兵衞の母お勝かつ。山田元益。糊賣のりうりお金。小西屋長左衞門。を呼出し初て白洲しらすを開きける此命めい彼方此方へ通ずるに元益親子は庄兵衞の仇あだの御詮議せんぎなる可しと思へどもお金の呼出さるゝを不審いぶかしみつゝ伴ともなひ出また小西屋は何ごとやらんと愕おどろくよりして長左衞門病氣と稱して出もせず其代人は管伴ばんたう忠兵衞丁稚でつち和吉を供ともに連れ奉行所へ出腰掛こしかけへ和吉を待せ進みける斯て大岡忠相ぬしは一同白洲へ呼込たる後お光親子を繩附なはつきの儘まゝにて其所へ引出せば此方は見やりて思ひ掛ずと驚くの外ほか言葉ことばなし登時そのとき忠相ぬし一同に向ひ山田元益母勝の訴うつたへに依て家主庄兵衞を殺ころしたる曲者くせものを吟味ぎんみせし所ろ同長屋の浪人らうにん大藤武左衞門が娘お光の所爲しわざなるよし渠等かれら自ら名乘出たるに依て明なれば今日審判しんばんを開かんとす此旨このむね一同心得よと宣告のりしめさるゝに此方の者は思ひ依ざる人殺しも豫かねて疑うたがひ居たりしに元益親子は進み出庄兵衞を殺害せつがいなしたるはお光なりとは夢ゆめにも知ねど渠等かれら親子は其の朝より行衞ゆくゑ知ずに成しかば設もしやと思ひ居たるに疾はやくも名乘て出る段だん愕おどろき候外はなし就ては上のお慈悲を以て亡庄兵衞が草葉くさばの蔭かげの追善にさへなりますやう御計はからひこそ願はしけれと申し上るに忠相たゞすけぬし承知しながら此方に向かひ小西屋長左衞門代忠兵衞其方々にては此お光を嫁よめに貰もらはんと言入いひいれ已すでに結納ゆひなふまでも取交せしを如何なれば俄にはかに變更へんかうせしぞ此事逐一ちくいち申し上よと言れて忠兵衞おそる〳〵一端たん斯かくとは約したれど箇樣々々の醫師いし來りて彼お光こそ癲癇病てんかんやみなりとテレメンテーナと言ふ藥のことを述のべたる上に又言やう依て主人は大きに驚き其後の始末しまつは云々しか〴〵なりと申上れば忠相たゞすけぬし然もあらん然もある可しお光が訴へも夫に符合ふがふし無なき名を負おひて婚姻こんいんの破談はだんに成しは庄兵衞が日頃よりして我戀わがこひの協かなはぬことを無念に思ひ兄元益を彼方へ遣つかはし癲癇てんかん病と言せしより事の茲には及べるなりと深くも遺恨ゐこんに思ひつゝ偖さてこそ庄兵衞を殺害せつがいなしたるならめ如何元益其方弟の頼を受け小西屋へ行きし事あるかと問れて此方は形かたちを改あらため這こはお奉行のお言葉とも覺えず身み不肖ふせうながら山田元益仁術にんじゆつとする醫道いだうをもて身の營業なりはひとなすものが爭いかで左樣な惡き事に荷擔かたん致して濟すむ可きかは此儀ぎ御賢察ごけんさつを希こひねがふと口には立派りつぱに言物から意こゝろの中には密計みつけいの早くも顯あらはれ夫ゆゑに弟は最期さいごを遂とげたるかと愕おどろくの外あらざりけり忠相ぬしは點頭うなづいて醫師の面目めんぼく然も有ある可しコレ金庄兵衞の爲に元益が小西屋へ至りしとは其方が言出しお光に語りし所ろより此騷動さうどうには及びしが夫には確な證據しようこがあるか。ハイ外に證據しようことても御座りませねど吾儕わたくしが營業あきなひよりの歸り途みち元益方の裏手うらてを通とほると箇樣々々の話しをば。イヤ夫計そればかりでは證據に成らぬ外に確たしかなことはないか今日呼出よびだしゝ忠兵衞も其日は家に居らずして來りし醫師をば見ずと言いへり依て確な事にあらねば證據しようこなりとは申されぬ篤とくと考へ申上げよと言れてお金は小首を傾け霎時しばし考へゐたりしが漸々やう〳〵にして首かうべを上げ外に證據しようこと申しまするは小西屋の小僧こぞう和吉わきちと申すが吾儕方わたくしかたへ參りしをり店へ來りてお光さんに癲癇てんかんがあると言たる醫師いしやは年齡としごろ云々しか〴〵にて又面體めんていは箇樣々々かやう〳〵然も羽織はおりには丸まるの中に桔梗ききやうの紋もんが附ついてゐたと申に因て日頃より見知る山田元益に面體めんてい恰好かつかう計ばかりでなく羽織はおりの紋もんも相違なければ確に夫とお光さんに話しを致して候ひしが其醫師いしやこそは小西屋の小僧和吉が見知をれば御呼出に相成ば即座に解わかり申す可しと云うに忠相ぬし此方に向かひ長左衞門代忠兵衞其の和吉といふ召仕は只今にても宅にをるか。ヘイ未だ召仕をりまして今日も同道致し只今お腰掛こしかけに控ひかへをりまする。ムヽ夫は實によい手都合てつがふソレ呼込よびこめの聲の下した忽地たちまち和吉は呼び入れらるゝに巍々ぎゝ堂々だう〳〵たる政府の白洲しらす一同居並ゐならび吟味ぎんみの體ていに和吉は見るより幼稚意こどもごころに大きに恐れハツと計りに平伏せしが側かたへを見れば先さきつ頃店へ來りてお光のことを云々しか〴〵言たる醫師の居るにぞ又驚おどろきてヤア和主おまへはと一言いひしが御場所柄ばしよがらあとは言葉も出さざりけり此方の元益最前さいぜんは確たしかの證據のあらざれば仁術にんじゆつをもて業となす醫師ゆゑ惡き荷擔かたんはせずと奉行に向ひ立派りつぱに云ひ眩くろめんとこそ計りしが今我面わがかほを見知たる和吉が出しに發はつと計り驚おどろき怖おそれて面色めんしよく土つちの如くに震ふるひ出せば忠相たゞすけぬしを首はじめとして並居る一同母親はゝおやのお勝も偖さては其の醫師は元益なりしかと計りに呆あきれて顏かほを見合せゐたりぬ忠相たゞすけぬしは呼び出せし和吉に言葉ことばはあらずして元益げんえきの方へ打向ひ其方最前さいぜんも申す通り醫いは仁術にんじゆつを以て業となせば小西屋方へ行たることは決してあるまじと思ふゆゑ和吉は茲へ呼び出したれど最早もはや吟味ぎんみを爲にも及ばじ依て小西屋へ參りし醫師いしは何れの者やら解わからずとせん就ついて其方も醫師の事ゆゑ今越前ゑちぜんが問たきことありそも〳〵醫師は螢雪けいせつの學の窓まどに年を重かさね人の生命いのちを預あづかる者ゆゑ天下の條目でうもく成敗せいはいの道も少は心得つらんが中にも重き罰ばつといふは婚姻こんいん妨さまだげの罪科ざいくわなり之をば重おもく爲時は死罪しざいの刑に處する可し又輕かるくなす其時は遠島と爲するが制規せいきなるが其方之等を知たるかと時に取ては氣轉きてんの問條此方は聞も及ばざれど名高き奉行は言ことの葉はに僞いつはりあらじとおもひしかば如何にも仰おほせの通りにて心得ゐるよし答へけり


第十一回


 登時そのとき大岡忠相ぬし再度ふたゝび元益に向ひて云やう其方親子おやこは庄兵衞の殺されたるより其の敵かたきを討うつて呉くれよと願ひ出たるをり武左衞門親子おやこの者は正まさしく庄兵衞を殺したりと訴へ出たらば敵かたきと言は武左衞門の娘光なる事云ずして明瞭あきらかなり因て光をば處刑しよけいせんとは思へども處刑爲難しがたき次第あり开は如何と尋たづぬるに只今も申す通り婚姻妨さまたげの罪科ざいくわは重くて死罪輕くて遠島ゑんたうなり然るに庄兵衞事自己おのれみつに戀慕れんぼして小西屋との婚姻を妨さまたげんと何國いづくの者やら相分あひわからざる醫師を遣し世に有りしとも覺えざるテレメンテーナといふ藥の事を吹聽ふいちやうし結納までも取交かはせし婚姻を妨げ致す段その罪最も重ければ光の手に掛かゝりて相果あひはてずとも上かみに於て死罪に處し處刑場しおきばの土と爲なす可きところ高運かううんにも光が手に掛りたれば捨札すてふだに惡名を殘し非人に左右さいうせらるゝ事なく席薦たゝみの上にて相果はて先祖累代るゐだいの香華院ぼだいしよに葬られ始終しじう廟食べうしよくの快樂けらくを受るは之れ則ち光が賜物たまものにして仇あだ乍ながらも仇ならず反かへつて恩おんとこそ思ふ可けれ依て元益親子は光を恨うらむ事を止やめて厚あつく庄兵衞が跡あとを吊とむらふ可し元益は又其母勝こと年とし寄よりて相續人さうぞくにんの庄兵衞に死別しにわかれ然こそ便びんなく思ふ可ければ元益は醫業いげふを廢はいして更さらに音羽町の町役人となり庄兵衞の跡あとを相續して母はゝ勝かつに孝養かうやうを盡つくし大事に掛かけて遣す可し大藤武左衞門娘みつ事は婚姻こんいん妨さまたげを爲たる庄兵衞上かみに於て死罪しざいにも行ふ可きの所ろ上へはお手數てかずを掛かけずして十八年の少女には似氣にげなく武士の娘とは言ながら白刄しらはを揮ふるつて庄兵衞を討うち即座そくざに自害じがいし果はてんと爲しは上のお手數てかずを省はぶくの御奉公ごほうこう天晴あつぱれなる擧動ふるまひなり父武左衞門は自儘じまゝに死しなんとする娘を止め夫それを引連事柄ことがらを委細ゐさいに述のべて自首じしゆする段法度はつとを重じ上を敬うやまふ武士の面目めんぼくさもあるべし因て兩人は人殺しの罪つみさし免ゆるせば此旨有難ありがたく心得よ夫と指揮さしづに小役人は二人が繩目なはめを免ゆるしけり忠相ぬし忠兵衞に打向ひ小西屋長左衞門代人忠兵衞其方事主人しゆじんの申し附とは言乍ながら出所しゆつしよ不定ふぢやうの醫師いしの言葉を信しんじ結納ゆひなふ取交とりかはし迄濟すみたる婚姻を破談はだんに致すこと不埓ふらち千萬なる事なれど斯かく事柄ことがらの相分り光に病のあらざる事判然はんぜん致す上は長左衞門夫婦ふうふ長三郎に於おいても光を嫁よめに致さん事仔細あるまじければ只今より親子の者を引取ひきとり行ゆき親類方へ預あづけ置おき其所にて萬事支度を整へ吉日を撰んで婚姻を取結とりむすぶ可し光は天晴の者なれば此度は斯云かくいふ越前守冰人なかうどと成なりて取すれば早々婚姻を行ふ方よからん此事只たゞに忠兵衞のみならず光親子の者も心得て能からうと仰おほせありしはお光親子は家主庄兵衞を手に懸かけたる者なれば解放ときはなせしとて直すぐ音羽おとはへ返かへさば如何なる災禍わざはひ起おこらんも計られず又渠かの親子しんしも家主を害がいせし土地へは歸り難しと推すゐして斯は言しなるべし忠相ぬし又も忠兵衞に打向うちむかひ此度は珍事ちんじ忽地たちまちにして斯善惡を分ちし事一は糊賣のりうりお金が親切しんせつと丁稚でつち和吉の忠義に依よれば和吉は此まゝ引連歸りて目を掛かけ使つかふは勿論もちろんなる可く金はまた光みつ親子おやこと共に親類しんるゐ方へ預け置き爾來じらい光みつが召使いとして一生を易やすく消光おくらす可し是にて一件落着らくちやくしたりと述給ふ程に小役人は落着らくちやく一同立ませいと諸聲もろごゑ合あはして言にける實に曇くもりなき裁判さいばんは人を損せず理を迫せめて自然しぜんと知せる天下の大法たいはふ早はや亡なき身とまで覺悟かくごせしおみつ親子は不測ふしぎに助り然のみならず戀こひしと言郎をとこの許もとへ縁えんづくやう再度ふたゝび結むすぶ赤繩せきじように有難泪ありがたなみだは白洲しらすなる砂すなを濕しめらす其喜よろこびお勝は初はじめて庄兵衞の惡わるきを知て小西屋へ行しは兄の元益なれば是も如何なる祟たゝりや有んと元益と共に胸むね安やすからず思ひゐたるに慈悲深じひぶかく山田が事は問給はで是を庄兵衞が代かはりとなし養親やうしんが義ぎを托たくし給ふに二個ふたりは生いきたる心地こゝちして砂すなに頭かしらを埋うづむる許ばかり又忠兵衞は忠相ぬしが活機くわつき明斷めいだん凡ぼんならで今いま更あらためて婚姻こんいん結むすび𫥇人なかうどとまで成給はんと述給のべたまはるの有難さは是のみならず和吉お金も思ひ掛がけなきお奉行のお聲掛りは一世の榮はれ巨萬きよまんの金を貰もらひしにも勝る嬉しさ喜ばしさ何れも怪我けがなき一同は打連うちつれ御門ごもんを出にけり斯て元益は音羽町へ立歸り我家を終了しまひて母の方へ同居なし醫業いげふを廢止はいして家主となり名も庄兵衞と改めて先非せんぴ後悔こうくわい一方ひとかたならず能く母親に仕へつゝ長屋の者をも憐あはれみしに其の家次第に豐ゆたかになり他人の信用も得たりければ或者の世話に依て妻を迎むかへ之が腹はらに男女夥多あまたの子を産うませいよいよ榮さかえ行けるに母のお勝も大いに安堵あんどし常に念佛ねんぶつ三昧まいの道場だうぢやうに遊び亡なき庄兵衞が菩提ぼだいを弔とむらひ慈悲じひ善根ぜんこんを事としたれば九十餘歳さいの長壽ちやうじゆを保たもち大往生だいわうじやうの素懷そくわいを遂とげたりと不題こゝにまた忠兵衞はおみつ親子お金和吉を伴ともなひて奉行所を下り主人方の親類呉服町の何某屋へ至り今番所の歸りにて箇樣々々かやう〳〵の始末なれば是なる三個みたりを暫しが間あひだ預あづかり呉よと言けるに爰の主個あるじも此話しは朧氣おぼろげながら聞ゐたれば斯かく即座そくざに落着らくちやくせしを喜び少すこしも異議いぎはあらずして三個にんを奧の座敷へ通しぬ扨忠兵衞は和吉を引連ひきつれ主人の方に立歸り主個あるじ夫婦長三郎の前にて今日けふ奉行所の容子ようすをば逐ちく一演説えんぜつしたる上三個たりを呉服ごふく町の親類方へ預あづけ置おきて歸りたるまで委細のことを述たるに親子はおみつが庄兵衞を殺ころせしことを首はじめて知しり容儀きりやう優すぐれし耳のみならず又志操こゝろばえも人に優すぐれ流石さすがは武士の胤たねほどありて斯る擧動ふるまひを爲せしこと小西屋の嫁よめと爲といふとも羞はづかしからぬ女なりと長三郎は殊更ことさらに戀慕こひしたふ心の増まさりゆき夫婦は夫とも意附こゝろづかで醫師いしやの言たる言葉を信とし縁談えんだん斷ことわり此騷動さうどうに及びたるをば後悔こうくわいの外には更にあらざりけり然ども大藤親子の者糊賣のりうり老婆ばうもお金まで彼方に在ては捨置難すておきがたしと三個みたりが衣類其の他をも此方より持せやり忠兵衞をして音羽町の二軒の家を終了せて少すこしの家財かざいを爰に運はこび小西屋には裏手の明地あきちへ更に武左衞門が隱居所いんきよじよを營いとなみ普請ふしん出來しゆつたいの其の上は爰より嫁入よめいりをさせんと計りぬ然るに大岡忠相ぬしは町奉行の身を持もちて之が𫥇人なかうどに立んと言しは元益等が恨うらみを含ふくまんをば恐れての事ならんか町人の身として奉行を𫥇人なかうどに立んこと世に勿體もつたいなき譯なればと親類一同どう連署れんしよして此件くだりは辭退じたいし終りぬ兎角とかくするうち新築しんちく全まつたく出來しゆつたいせしかば親子お金を其所に移し黄道吉日くわうだうきちにちを撰えらびて立派に婚姻こんいんを取結とりむすぶに二個ふたりは思おもひ思おもはれし中なれば其親みは一方ならす男女夥あまたの子を擧まうけしに中なる一個にんは成長の後有馬家ありまけへ召出めしいだされ家臣と成て大藤の家名を再興し武左衞門は一生を安樂あんらくに送りお金は終身しうしん不足ふそくなく此家に仕つかへ管伴ばんたう忠兵衞は此度の一件に附き盡力じんりよく一方ひとかたならざれば褒美はうびとして宅持たくもちの通ひ管伴ばんたうとなり和吉も種々くさ〴〵の褒美はうびありしが三年の後長左衞門夫婦は隱居し長三郎は主個あるじとなり和吉は元服げんぷくして二番管伴ばんたうとなり其家ます〳〵榮さかえたり

大岡忠相たゞすけぬしが勤役きんやく中の捌さばきにて人の耳目じもくを驚かせし事枚擧まいきよするに暇いとまあらざるほど多き物から中にも殊に勝すぐれたるは天一坊ばうが裁判さいばんなり之は物の本にも作り又芝居しばゐにても脚色しくみ講談かうだん落語らくごは更にも言ず其他種々さま〴〵の物にも見え其の筋に大同小異だいどうせういありと雖も其主意とする所は微賤びせんの一僧侶そうりよ吉宗ぬしの落胤らくいんと稱し政府せいふに迫せまる事急にして其證跡しようせきも明かなれば天下の有司いうし彼に魅入みいれられ既にお世繼よつぎと仰あふがんと爲たりしを一人大岡越前守のみ夫が邪曲じやきよくを窺うかゞひ知しり身命しんめいを投打なげうちて既往きわう今來こんらいを尋ね遂に奸計かんけいを看破みやぶつて處刑しよけいせしといふ有名いうめいの談話にて斯かゝる奸物を發顯みあらはすこと忠相ぬしの外能く凡庸よのつねの奉行の爲し得可きことにあらねば傳へて美談びだんとなす物から又聞く所ろに依ば彼天一坊なる者は實に吉宗ぬしの落胤らくいんに相違なく將軍未だ紀州に在るとき侍女じぢよと轉まろび寢ねの夢ゆめを結びて懷姙くわいにんなしゝ一子なるが民間みんかんに成長して後未見みけんの父君ちゝぎみ將軍と成しかば證據物ものを携たづさへて訴へ出たるなればよしお世繼よつぎとせざるまでも登用とりあげてもて生涯しやうがいを安く送らん事最々いと〳〵容易よういの業わざながら忠相ぬしつら〳〵渠かれを見るに貴介きかい公子こうしの落胤らくいんに似氣にげなく奸佞かんねい面に顯れ居れば意こゝろ許ゆるせぬ曲者くせものなりと夫が成立なりたちよりの事柄を探り看るに實に忠相ぬしが思ふに違はず腹黒はらくろにして品行ひんかう能らず天下の主個あるじと爲は更なり落胤らくいんとして所領しよりやうの少も宛行あておこなふて扶助ふじよする時は後に到りて徳川の爲に害をば爲可き者と早も見て取り知たれば我思ふよし云々と吉宗よしむねぬしに言上ごんじやうせしに君又英敏えいびん明才めいさいにていよ〳〵政治せいぢを改良かいりやうして公方くばうの職を萬世ばんせい不朽ふきうに傳へんといふ素志そしなれば今大岡の言るを聞如何我胤たねなればとて然る曲者くせものを採用さいようし後に害がいをば殘のこさんこと武將ぶしやうの所爲に有ざれば天下の爲に彼をして強しひて僞者にせものと言詰いひつめて宜敷よろしく刑けいに行ふ可し是を爲す者其方の外には決して有可からず能せよかしと内命ないめいありしに忠相ぬしも推辭いなむに術すべなく遂に天一をして僞者にせものとし二葉ふたばの中に摘つみたるなりとの事實に然るか否いなやを編者未だ識別しきべつすること能あたざれど設もし果はたして信しんならしめば吉宗よしむねぬしが賢明けんめいなるは言計いふばかりもなく僞にせを僞にせとして其の惡あくを訐あばき奸かんを鋤すき賊ぞくを滅めつするは之奉行職の本分ほんぶんなれば僞者にせものの天一坊を見顯みあらはすは然のみ大功とは稱するに足ねど眞しんの天一坊を僞にせとして能よく天下の爲に是を滅めつせしは智術ちじゆつ萬人に越え才學さいがく四海に並ぶ者なき忠相ぬしに有らざれば誰人たれびとか能く此機變このきへんを行なひ君をしていよ〳〵賢明けんめいならしめ民をしてます〳〵欣慕きんぼの念ねんを起さしむるに至らん空前絶後くうぜんぜつごの名奉行なるがゆゑ後に年功に依て三千石より一萬石に加増かぞうし大名の中に加へられたり然ども町奉行にして大名に任にんぜられたるも先例せんれいなく大名にして町奉行を勤つとめたるも先例せんれいなければ此時忠相ぬしは町奉行を止やめられて更さらに寺社奉行に任ぜられしなど未だ例ためしなき美目びもくを施ほどこし士庶ししよ人をして其徳を慕したはせ今に至るまでも名奉行と言る時は只に忠相ぬし一個にんに止とゞまるが如く思ひ大岡越前守の名は三歳の小兒といへども之を知しり頻しきりに明斷めいだんを稱たゝへるこそ人傑じんけつの才さい稀世きせいの人といふ可し是等を今茲に喋々てふ〳〵する事殊に無益むえきの辯べんに似にたれど前にも已すでに述のべたるが如く此小西屋の裁判は忠相ぬし最初さいしよの捌さばきにして是より漸次しだいに其名を轟とゞろかし末世まつせ奉行の鑑かゞみと成たる明斷めいだんに因ちなみて忠相ぬしが履歴りれきとその勳功くんこうの大略あらましとを豫て傳へ聞きゝ異説いせつ天一坊ばうさへ書記かきしるして看客かんかくの覽らんに供そなふるなれば看客此一回を熟讀じゆくどくして忠相ぬしが人と成り腹はらにをさめ而して後に前段の落着らくちやくの場を見たまはゞ宛然さながら越前守を目前にみるが如きの思ひある可し然れども編者が筆ふで鈍にぶき上緒數ちよすう毎回まいくわい限かぎりあれば其情そのじやう充分じうぶんに寫うつす事難がたし恐らくは角つのを斷きつて牛を斃たふすの嘆なき能はず夫等は偏へに御海容みゆるしを乞ふのみ


小西屋一件終

雲切仁左衞門一件

雲切仁左衞門くもぎりにざゑもん一件いつけん


第一回


 當まさに秋霜しうさうとなるとも檻羊かんやうとなる勿れと此言や男子だんしたる者の本意ほんいと思ふは却かへつて其方向を誤あやまるの基もとにして性せいは善なる孩兒がいじも生立に隨したがひ其質を變へんじて大惡無道の賊となるあり然ば雲切仁左衞門抔なども其一にして今の世までも惡名を殘したる其物譚ものがたりを茲に説出すに頃は享保きやうほ年中甲州かふしう原澤村はらざはむらに佐野文右衞門ぶんゑもんと言いひて有徳うとくに暮くらす百姓あり或時文右衞門は甲府表に出て所々見物なし日も西山に傾むきける故に佐倉屋さくらや五郎右衞門ゑもんといふ穀物問屋へ一泊ぱくを頼たのみたり此佐倉屋と云は文右衞門より毎度ど米穀べいこくを送りける故平常つね〴〵心安き得意とくいに付早速さつそく奧へ請しやうじ種々いろ〳〵饗應きやうおうなしけるが此の家の娘におもせといふは今年ことし十六歳にして器量きりやうも十人並に勝すぐれし故文右衞門は年若にて未だ妻もなき身なれば不圖ふと此娘このむすめに執心しふしんなし竊ひそかに文を送しにおもせも文右衞門が男振ぶり優いうに艷やさしく甲府の中にも多く有まじき樣子やうすに迷まよひ終つひに人知ず返書へんしよを取り交かはし二世の誓ちかひを立たりけり然るにおもせの親五郎右衞門は此事ことを聞きくより一度は怒いかりけれ共佐野文右衞門は有福いうふくの暮くらしと言殊には人柄がらも宜よき若者なれば人を以て掛合かけあひの上おもせを文右衞門の方へ遣つかはせしにより思ひ思はれし中なれば兩人の喜よろこび大方ならず最いと睦敷むつまじく暮しけるに程なく懷妊くわいにんして一人の男子を儲まうけ其名を文藏と呼て夫婦の寵愛ちようあい言いふばかりなく蝶てふよ花よと育そだてけるに早はや文藏も三歳になりし頃ころ父の文右衞門不圖ふと風かぜの心地にて打臥うちふしけるが次第に病氣差重さしおもり種々いろ〳〵養生やうじやう手てを盡しけれ共其驗しるしなく終つひに享保元年八月十八日歸らぬ旅に赴おもむきけり因よつて女房おもせは深く歎なげきしが今更詮せんなきことと村中の者共打寄よりて成田村なる九品寺くほんじへ葬送さうそうなし一偏ぺんの烟けふりとして跡あと懇切ねんごろに弔とふらひたり此おもせは至いたつて貞節者ていせつものにて男勝まさりなりければ未だ年若としわかなれども後ご家を立てゝ三歳なる文藏を守立もりたてて奉公人の取締とりしまりも行屆ゆきとゞきしかば漸次々々しだい〳〵に勝手かつて宜よくなりし故所々へ貸金等とうもいたし番頭に忠兵衞と言者いふものを召抱へて益々内福ないふくにぞ暮くらしける然るに享保十一年には最早もはや文藏二十四歳となりければ能よき嫁よめをとらんと近所きんじよの心易やすき者を頼みて種々いろ〳〵穿鑿せんさくせしが兎角長ながし短みじかしにて相談さうだんも調とゝのはざるうち文藏は忠兵衞を召連れ駿州すんしうへ米の拂ひ代金を受取に到りて駿すん府町の問屋とひやなる常陸ひたち屋佐兵衞と云者の方へ泊りし所佐兵衞が悴せがれに佐五郎といふものありて歳も同じ頃なれば心安やすく致しけるに佐五郎思ふには斯かく懇意こんいには致せども文藏事は餘りに手堅てがたく何時も金錢を大切に致し一向かうに遣ふといふことなし我われ度々たび〳〵勸すゝむれ共大の堅固かたやにて一向かう聞入きゝいれず然ども此の度は是非とも誘引さそひ出いださんと文藏に向ひ此處こゝの二丁町は天下御免の場所ゆゑ一度は見物けんぶつあれと無理に勸すゝむる故毎度の勸すゝめ然々さう〳〵斷ことわるも氣の毒と思ひ或日あるひ夕暮ゆふぐれより兩人同道にて二丁町へ到り其處此處そこここと見物して行歩あるく中常盤屋と書し暖簾のれんの下りし格子かうしの中におときといふ女の居りしが文藏不圖ふと恍惚みとれし體さまに彳たゝずみける佐五郎ははやくも見付みつけ何なにか文藏に私語さゝやき其家へ上りしが病やみつきにて文藏は現うつゝになり日夜にちやおときの方へ通かよひ詰つめける故番頭の忠兵衞は以ての外の事なりと思ひ段々だん〳〵異見いけんを加ゆると雖も勿々なか〳〵用ひる面色けしきもなく言ば言程猶々なほ〳〵募つのりて多分の金子を遣つかひ捨すてるにより忠兵衞も持餘せし故國元くにもとへ歸りて母親へ右の段を咄はなしけるに母のおもせは眞赤まつかになり夫は以ての外の事夫をつとなき後は我等が育そだてあげし文藏なれば母親の甘あまく育しと言れては世間の手前濟難すみがたく殊には又畜生同然の遊女などに迷まよひては先祖せんぞへ對しても申譯なしと大に怒いかりしを忠兵衞は先々まづ〳〵と宥なだめ置夫より親類中へも内談ないだんをなし一先まづ文藏を駿府すんぷより連れ歸り打寄て種々しゆ〴〵異見に及びしかど文藏は何時かな思ひ切きる樣子もなく假令たとへ不孝と云いはれ勘當受る共是非に及ばずと思ひ切て申ける故然しからば忠兵衞も致し方なく然程さるほどに思ひ詰給つめたまふ上は暫時私しへ御任まかせ有べし必ず思し召違めしちがひ有て短氣たんきの事など爲給ふなと種々に諭さとし置きて忠兵衞は御家ごけのおもせが機嫌を見合みあはせ文藏樣は只一人の御子と云那程までに御執心ごしふしんの事なれば彼女を請出うけいだし御嫁よめになされて然べし欠替かけがへのなき御子の事萬一もし御不了簡抔ふれうけんなどあらば何と成なされ候や爰こゝの所を貴方樣あなたさまも篤とくと御考へ遊ばし曲まげて御聞入あるべしと詞を盡して申勸めしかば母おもせは女郎ぢよらうは畜生ちくしやう同前と思へ共只一人の子と云いひ支配人しはひにんの忠兵衞が申勸る事故詮方なく然る上は是非ぜひに及ばず其女を受出申べし我等は隱居いんきよを致さんと泣々なく〳〵申けるを忠兵衞は是を聞御道理だうりの樣やうなれ共先々まづ〳〵受出して御覽あるべし強あながち女郎と申ても畜生同樣の者ばかりも是なしと段々母親を説諭ときさとして文藏に右みぎの段咄はなしければ文藏は天へも上る心地こゝちして最いと嬉うれしく忠兵衞を神か佛の樣に伏拜ふしをがみ夫より文藏は忠兵衞を同道どうだうして駿府すんぷへ赴き彼常盤屋かのときわやへ行ゆきて身請の事を亭主へ懸合金百十五兩にて彌々いよ〳〵お時ときを身請と相談さうだん調とゝのひしかば忠兵衞は常盤屋の亭主に向ひ斯の如く身請をなす上は彼の女の身元は何れ成や承うけたまはり度たしと尋ねけるに亭主は是を聞きゝ何樣なにさま御道理の御尋ねなり彼女の身元は當國木綿島もめんじま村の生れにて甚太夫じんだいふと云者の娘なれば里さとへ渡りを付て御引取おんひきとり成るべしと申ゆゑ夫それより忠兵衞は早速さつそく甚太夫の方へ掛合かけあひしに父甚太夫も大いに喜び萬事すら〳〵と根引も濟すましかば文藏お時の兩人を駕籠かごに乘のせ忠兵衞は附添つきそひ原澤村へと急ぎ立歸りしに母のおもせは如何いかなる者を連來やと日々にち〳〵案じ居ける所へ皆々歸り來りければ早速忠兵衞を招きて樣子を尋ねしに右のお時は木綿島村の甚太夫じんだいふといふ百姓にても家柄いへがらの者の娘なりしが年貢ねんぐの未進みしんに付據ころなく常磐屋へ勤つとめ奉公に出して未だ間まもなきに渠かれ運うん強つよくして此方の旦那樣に受出され勤めの月日もなき故外の遊女とは大に違ちがひ人品ひとがらもよしと申に付少しは安心なし居たるに何樣文藏は申に及ばず姑しうとめにも能よく仕つかへ奉公人迄行渡ゆきわたりの能ければ母のおもせは思ひの外歡びて近所の者へも私しの嫁よめは夫婦中も睦敷むつまじく殊ことに私しを大切になし呉くれ候事若き者には珍めづらしくお前樣方も嫁を取るゝならば女郎が宜よろしきなどと今は却かへつて自慢じまんを爲なす程ほどなれば家内睦むつましく暮し居たりけり


第二回


 然しかるに或日あるひ五十歳ばかりの男來りて忠兵衞に逢あひ私し事は木綿島村もめんしまむらの甚太夫殿より頼まれて來りし者なるがお時樣の父公ちゝご甚太夫殿此節俄にはかに大病とて打臥うちふし居られ候間此由よしお時樣へ御咄し下さるべしと申故ゆゑ忠兵衞は早速さつそくに此段をお時へ咄しければお時は是を聞て驚愕びつくりなし如何成なる急病きふびやうにやと甚だ案じ歎なげき夫文藏へ此事を語りしに文藏も驚き外ならぬ事故ことゆゑ手代忠兵衞へ如何せんと相談なせば忠兵衞は打案じ此度お時樣爰へ來り給たまひ今直すぐに親公おやごの病氣なりとて行給はゞ世間の聞えも惡し是は御夫婦連にて身延みのぶへ參詣さんけいとて御出の方かた宜よろしからんと申にぞ其段母へも咄しければ母は大の堅法華かたほつけの事なる故尤もつともの事なりとて許ゆるせしに付お時は大に喜び早々さう〳〵其用意をなし名主林右衞門へも頼み置おきて近所へは身延みのぶ參詣さんけいと披露ひろうし忠兵衞へ跡の事共ども言含いひふくめ文藏お時は下男吉平が實體ていなる者故是を供ともに召連めしつれて主從三人頃は享保十二年十月十日原澤村はらさはむらを出立なし夫より鰍澤かぢかさわの御關所せきしよへ掛るが路順みちじゆんなり都て甲州は二重ふたへの御關所あり土地は御代官ごだいくわんの支配ゆゑ御關所手形を願ふべきなれども日數ひかずも掛るにより御關所をば拔道ぬけみちを廻りて通らず切石きりいし下山しもやまと急ぎ來りしが猶身延へも往ゆかず萬澤まんざはの御關所へ掛かゝりしが是又手形なくては通行ならず依て此處をも廻り道をして行んと思へども土地不案内ふあんないの事ゆゑ茶屋へ寄り問合とひあはせて通らんと思ひ立寄しに此茶屋に先より三人連の男休やすみ居たりしが今文藏の一群むれ來りて御關所の拔道を通る樣子を聞何か三人私語合ひ此處を出立たちいで窺うかゞひ居たり此三人の中頭立かしらたちたる一人は甲州にて名高き惡漢わるもの韮崎にらさき出生しゆつしやうの雲切仁左衞門といふ者なり若年じやくねんの頃ころより心剛がうにして眞影流しんかげりうの劔術けんじゆつを好み天晴あつぱれ遣人つかひてなりしが或時雷らい落おちて四方眞暗となりしに仁左衞門は事ともせず拔打ぬきうちに覆おほひ下りし雲の中を切けるに不思議ふしぎや鼬いたちの如き獸二ツになつて落おちけるゆゑ人々大いに驚き是より雲切仁左衞門と渾名あだなせり今一人は手下にて肥前の小猿こさるといふ者又また一人は同く肥前長崎在方村ざいかたむらと云ふ所の出生しゆつしやう向むかふ見ずの三吉と云者なり扨て文藏夫婦は此茶屋にて拔道ぬけみちの樣子を聞駕籠かごを雇ひて打乘うちのり萬澤まんざはの廻り道へ來掛きかゝるを見て小猿は仁左衞門に向ひ是これは必ず能よき鳥とりなれば五兩や十兩には有付ありつくべしと云を聞きゝ傍そばより三吉は面白し〳〵彼奴きやつを威して取とらんと駈かけ出すを仁左衞門は押止とゞめ汝が器うつはは小細々々ちひさい〳〵今懷中の物を取のみにては面白からず後の種たねにする工風くふうあり先まづ其方兩人は斯樣々々かやう〳〵に致せと言付萬澤の御關所を通りて先へ行拔今や來ると待居たり文藏夫婦の者は斯る事のありとは夢ゆめにも知しらず甚太夫が病氣の事を案じ急ぎて來懸りしに向ふ見ずの三吉肥前ひぜんの小猿兩人は目明めあかし風俗ふうに拵こしらへ其所へ直すぐと出立汝等女を連て天下の御關所せきしよを廻り道みちせし事不屆ふとゞきなりと咎とがめれば文藏夫婦は是を聞て仰天ぎやうてんなし兩手を地に突何卒御見遁のがし下されよと詫けれ共惡漢わるもの共は勿々なか〳〵聞入ず大切なる御關所何と存じ拔道ぬけみちを致せしやと申故兩人は途方とはうに暮て答こたへも出來ざれば三吉小猿は汝等なんぢら役所へ來れとお時文藏並に供ともの吉平三人へ繩を掛かけければ三人は只たゞ夢ゆめに夢見し心地にて引立ひきたてられつゝ行所に身の丈たけ六尺有餘の大男おほをとこ黒羽二重くろはぶたへの小袖こそでに黒八丈の羽織朱鞘しゆざやの大小だいせう十手じつて取繩とりなはを腰こしに提さげのさ〳〵と出來りしに小猿三吉は腰こしを屈かゞめ是は〳〵御役人樣斯樣々々かやう〳〵の者を召捕めしとり候と申しければ彼役人打笑て夫は我等請取て一應おう取調とりしらべんと云ながら文藏に向ひ其方は何國の者にて何用有て何方いづかたへ行にや眞直まつすぐに白状致せと申けるに文藏はがた〳〵震ふるへながら私しは原澤村はらざはむら百姓文藏と申者に候が是なる妻の里木綿島村もめんじまむらの父が急病ゆゑ見舞みまひに罷まかり越こし候間何卒御慈悲にて御通し下され候樣願ひ奉つると言いひければ彼の侍士は點頭其は不便ふびんの事なり此儘まゝ引立ひきたて行ゆく時ときは御法通り磔はりつけなれば何卒助けて遣つかはし度たくと暫しばし工風の體ていに見えしが汝等親おや孝行の志こゝろざしにめで我一了簡れうけんを以て見遁みのがし遣はさん併ながら手先の者共へ酒代さかだいにても遣はさねば相成らずと申を聞きゝ文藏は蘇生よみがへりたる心地にて大に喜びこれこそ地獄の沙汰も金かね次第と目明めあかし方の兩人へ所持しよぢせし有金三十七兩を殘らず差し出だしければ彼の役人どもは其の金子きんすを請取り此の事決して口外こうぐわい致すまじと申渡し何國ともなく立去けり然されば文藏夫婦は役人の後影を伏拜み實に有難き御慈悲じひなり然ながら我々身延山を僞いつはりし佛罰ぶつばつにて空恐しき目に逢しならん早々御詫わびをすべしと下男なん吉平へ申付て原澤村へ立歸たちかへりさせ番頭ばんとう忠兵衞へ内談の上金子を取寄せ身延山へも金十兩を納をさめて御詫わびをなし漸々やう〳〵日數を經へて駿州木綿島村もめんじまむらへ十月十五日に着たりける然るに甚じん太夫は平常へいぜい痰持たんもちにて急にせり迫つめけるが三四日の内に思ひの外全快ぜんくわいし先常體つねていなれば夫婦は早速さつそく對面なせしに甚太夫は兩人が遠方ゑんぱうの所を深切しんせつに尋ね來りし事を深く喜び彼是と饗應もてなすにぞ夫婦も安心し此度途中とちうにて少々入費ものいりも是ありしにより甚だ少しながらと金子二十兩を土産に贈りければ甚太夫は彌々いよ〳〵其の志ざしを感じ緩々ゆる〳〵逗留とうりうありて旅勞たびつかれを休められよと言に夫婦の者は一兩日逗留とうりうなし頓て暇乞いとまごひして木綿島村を出立し三人打連つれ故郷こきやうへこそは歸りけれ然されば文藏夫婦は此度廻り道をなして金子を遣つかひし事必らず口外こうぐわい爲なすべからずと吉平へも堅かたく口止くちどめして濟し居たりしが誰たれ知しる者もなく其年も早はや十二月となりて追々おひ〳〵年貢ねんぐの上納なふ金を下作したさくより集あつめけるを文藏の代になりては別べつして毎年いつも都合つがふ能よく年々實入みいりも殖ふゑるに往々ゆく〳〵は舅しうと甚太夫も此方こなたへ引取べしと姑しうとめも申により喜び居たりけり扨さて又また雲切仁左衞門は彼三十七兩の金を小猿向見むかふみずの兩人へ十兩宛分與わけあたへ己は十七兩の金を懷中ふところになし日々遊あそび暮くらしけるが仁左衞門は兩人に向ひ此上某し大金を儲ける手段しゆだんを考へ置たり此事首尾能しゆびよく行時は此後盜賊たうぞくを止やめ其金を以て末すゑを安樂あんらくに暮しなん若又惡事露顯する時は互ひに命を落す而已のみなり今一働はたらきなすべしと申ければ兩人は異議いぎに及ばず然ば大金儲まうけに掛らんと其相談さうだんをなし居たり然るに其年の十二月五日原澤村の名主なぬし用右衞門の方へ木綿合羽もめんがつぱを着したる旅の侍士さふらひ一人入來り其方へ少々尋ね度仔細しさいありと申にぞ名主用右衞門は何事なるやと思ひ早速さつそく座敷へ通して茶烟草盆たばこぼんを出し挨拶あいさつに及びける處彼侍士さふらひ用右衞門に向ひ當村に文藏と申者はなきやと尋ぬるに用右衞門何樣さま文藏と申者當村に罷まかり在候と答へければ侍士は點頭其文藏が身の上に近頃何ぞ後暗うしろぐらき事はなきや其方より内糺たゞし致すべしと申けるに用右衞門は大に驚き文藏儀平常實體じつていにて慈悲じひ深ふかき者ゆゑ然樣の事有べき筈はずなしと思へども先彼侍士を欵待もてなし置て早々文藏方へいたり只今我等方へ御侍士一人御入にて斯樣々々かやう〳〵の御尋ねあり貴樣に後暗き事の有べき樣なけれど一應おう申聞ると申せしに文藏は内心ないしんぎよつとなせしかども素知そしらぬ體にて其は一向心當りもなしと申を用右衞門は押返おしかへし篤とくと考かんがへられよと尋ねけれども文藏立腹りつぷくの體ていに見えしかば用右衞門も何樣なにさまと思ひ立歸りて此旨このむねを侍士へ申述のべけるに然らば此段申上べしと云て侍士は立歸たり因て名主用右衞門は不思議ふしぎの事に思ひ竊ひそかに心痛つうしてぞ居たりける


第三回


 さて又同く十月二十七日の暮方くれがた名主用右衞門方へ五六人の侍士來りし故ゆゑ用右衞門肝きもを冷ひやして出迎むかひける所先さきに立し者此御このお侍士を案内せし我々われ〳〵は江戸南町奉行大岡越前守樣御組中田甚太夫殿の手先てさきの岡引をかぴきなりと云ければ用右衞門は増々ます〳〵驚きけり(今いま此處へ來りし役人體の者は雲切仁左衞門の手下てしたなる三吉小猿の兩人にて甲府邊かふふへんの者三四人を錢ぜに五百文づつにて雇ひ供に召連たるなり)時に小猿こざるの甚太夫は用右衞門を呼び當村たうむらの百姓文藏方へ案内致すべしと申故用右衞門は狼狽うろたへ廻りて組頭くみがしら百姓代だい組合の者等とう大勢呼集め是は先日のことならんと恐る〳〵案内致しけるに此文藏の宅は長屋門ながやもんにて土藏七戸前其外納屋等なやとう數多ありて番頭忠兵衞初め下男十人下女五人馬三疋の大福家だいふくかなりし處夜五ツ時頃ごろ御用ごよう提灯ちやうちんを先に立名主なぬし組頭くみがしら一同に案内して入來りしゆゑ文藏は何事なにごとならんと大いに驚きし中上意じやういと聲こゑ掛かけ主人夫婦を高手小手に縛いましめければ母は仰天ぎやうてんしながら如何の譯にて候や悴儀せがれぎは御召取めしとりに相成べき惡わるさを致す者にあらずと泣々なく〳〵詫言わびごとなしけるを小猿の甚太夫は母に向ひ文藏夫婦は去さんぬる十月中萬澤の御關所を廻まはり道を致し候江戸町奉行まちぶぎやう大岡越前守殿へ相聞え今日召捕めしとりに向ひたり其節供ともに召連し下男なる趣おもむき是亦差出すべしとて吉平をも召捕ければ母のおもせは種々いろ〳〵と歎きけれ共小猿の甚太夫は首かうべを振ふり其方何樣に歎くとも江戸表よりの御差圖さしづなれば差免さしゆるし難がたし併しかし子の罪は親に懸らざれど母をば村役人へ急度きつと預け置おき奉公人は番頭忠兵衞始はじめ殘らず是又村役人へ預申付るなり居宅ゐたくの儀は村の百姓共申合せ晝夜番ちうやばんを致すべしと申渡し家内諸式しよしき米倉迄こめぐらまで殘のこらず改めの上中田甚太夫の封印ふういんを付其外帳面ちやうめんへ書留かきとめるに米千八百五俵麥むぎ五百三十俵並に箪笥たんす長持ながもち數す十棹さを村役人立合たちあひにて改め相濟あひすみ其夜寅半刻なゝつはんどき事濟に相成山駕籠やまかご三挺ちやうを申付て是へ文藏夫婦に下男吉平を乘のせ明日みやうにち巳刻迄よつどきまでに當所の御代官だいくわん簑みの笠かさ之助殿御役宅やくたくへ召連て罷り出べしと急度きつと申渡し村役人共より預り書面しよめんを請取うけとり小猿の中田甚太夫は我手の者共を召連立歸たちかへりけり因て彼是かれこれする内に夜も明離あけはなれければ名主用右衞門は文藏に向ひ今更いまさら申は詮せんなき事ながら此間御役人御出にて御内ない糺たゞしの節に取扱とりあつかひなば又々如何樣にも内談ないだんの致し方も是あるべき所其節心付かざるこそ殘念ざんねんの事共なれ今と成ては是非ぜひに及ばずと申けるに母のおもせを始め皆々みな〳〵何といふべき詞ことばもなく唯たゞ涙なみだに咽むせび歎き悲かなしむより外はなかりけり


第四回


 扨も文藏夫婦並に下男げなん吉平は翌朝よくてう大勢村の者を差添御代官簑笠之助殿御役宅へ召連めしつれ罷まかり出昨夜御預の囚人めしうどを同道仕つり候と申立ければ御代官所にては不審に思ひ其儀一向かう此方に於て覺おぼえなき事なりと申されける故名主なぬし用よう右衞門は進出いで昨夜大岡越前守樣御組の由中田甚太夫と申され候御仁が御召取めしとりなされ明朝みやうてう當御役所たうおやくしよへ差出し候樣にと仰せ付られ候に付則ち召連候と申せしかば御代官ごだいくわんの方にては是を聞れて扨々さて〳〵不審ふしんの事共なりと大岡の下役人共當地へ來り一應の斷りもなく支配所しはいしよへ踏込ふみこみ候段何共合點がてん行ざる儀なり其上前以て内談もなく當役所へ三人の囚人を引渡し候儀旁々かた〴〵其その意いを得えず然れども囚人と有あれば打捨置がたしとて此段甲府御城代八木丹波守やぎたんばのかみ殿酒井大和守殿へ申達たつされける故評議の上先御勘定奉行かんぢやうぶぎやうへ差出し然るべしとの事に付夫それより江戸表御勘定奉行酒井壹岐守殿へ差出さしいだされければ酒井殿の方にても關所破せきしよやぶりとあるからは輕からぬ科人なり然れ共大岡殿の手先てさきにて召捕めしとりし者なるを此方にて裁許さいきよは成り難し兎に角大岡へ引渡候方ならんとの事にて越前守殿御役所へ引渡と相成たり仍よつて大岡殿村役人を召出めしいだされ一應糺されけるに十二月廿七日夜御組の中田甚太夫殿と申す御仁御出張にて文藏夫婦ぶんざうふうふ御召捕おんめしとり相成御代官へ引渡し候樣仰おほせ渡され米穀べいこく金銀諸道具しよだうぐ藏等迄とうまで殘のこらず封印の上御引取相成候間其通り御代官所へ召連めしつれ訴うつたへ出候處一向かう御存じ是これなきとの事にて夫それより御勘定奉行へ御引渡し相あひなり猶なほ又また當御役所へ相廻候と申立るを聞きかれ越前守殿直樣すぐさま中田甚太夫を呼出よびいだされ其方名前を僞りしは何か遺恨ゐこんにても有者の仕業しわざか又は盜賊の巧たくみならん何れにも篤とくと吟味ぎんみ致すべしと有ありて文藏夫婦を呼出し越前守殿文藏を見られ其方儀去さる十二月二十七日の夜當方の下役したやくと名乘なのりし者に召捕れ候趣き其節の手續てつゞき明白に申立よと尋ねられければ文藏は涙なみだを流しながら其節は名主用右衞門案内にて私宅へ御役人樣御出成れ一言の御糺おたゞしもなく私し夫婦を御召捕おめしとり相成しは斯樣々々かやう〳〵なり私し母并に下人共は村役人へ御預け家内かないの番は村方百姓等ひやくしやうらへ仰付おほせつけられ諸色しよしき土藏どざうとも殘らず御役人樣御封印ごふういんにて其後御引取の所其節そのせつ明日巳刻よつどき簑笠之助樣御役所へ相送り候樣仰せ渡され候て御役人樣御立歸たちかへり相成候然るに簑笠之助樣御役にては一向かう御存ごぞんじ是なき段だん仰おほせ聞きけられ候と委細ゐさいに申上しかば大岡殿名主用右衞門へ對はれ此儀は何ぞ文藏へ意趣遺恨いしゆゐこんにても是ある者の心當こゝろあたりはなきやと申さるゝに用右衞門暫時しばらく考へ文藏儀は至て實體じつたいなる者ゆゑ意趣遺恨等いしゆゐこんとう請うくべき者に候はず然れども去年十二月五日何れより御出おいで成なされ候や御侍士樣御一人私し方へ御越にて文藏に何ぞ不審なる儀はなきやと御尋ねゆゑ早速さつそく文藏へ承うけたまはり合せ候處一向何なにも覺え是なく候と申候に付其段申上候に其御士儀何か御考への體ていにて御歸り成され候然るに其の後二十七日の日斯樣々々の次第に候と申立ければ大岡殿又用右衞門へ尋ねらるゝ樣やう其方の支配なれば文藏が家内かないの樣子やうすも能よく知しりつらん何ぢやと申されしに用右衞門仰おほせの如く私し支配に候へば文藏の樣子は能よく存ぞんじ居をり候先さきにも申上候通り渠かれは一體たい實體じつていなる者にて平常へいぜい慈悲じひ深ふかく又女房と申候は駿府すんぷ二丁町の遊女いうぢよなりしを請出し候が是又心懸よき女にて奉公人より小前こまへ百姓共迄も平常つね〴〵譽ほめ候て家内和合わがふいたし居候と申立ければ大岡殿然れども文藏夫婦の者近頃何方へ歟か行ゆきし事は是なきやと尋ねられしに用右衞門去年十月中に夫婦身延山みのぶさんへ參詣仕つり候儀御座ござると申立れば大岡殿其儀二十七日に召捕候節吟味は致さずや又萬澤の御關所近邊きんぺんには萬澤狐ぎつねと申居るが故殊によりて化される事も有なり其節途中に於て何ぞ怪敷あやしき事はなかりしやと尋ねらるゝを聞きゝ文藏は大いに驚き恐れながらと進み出御奉行樣の御眼力誠に恐れ入奉つり候其節萬澤の脇わきにて目明し二人に出會であひ私し共三人に繩なはを掛かけ候處へ御役人樣御出ゆゑ愈々いよ〳〵六むづかしからんと思ひし機をり地獄ぢごくの沙汰さたも金かね次第とやらにて有金三十七兩を差出し御内分に成下され相濟あひすみ申候然るに十二月二十七日の夜御役人樣御出御座候處右は萬澤まんざはにて出會候目明の面體めんていに能よく似寄により候と申を大岡殿篤とくと聞きかれしが早速さつそく同心山本彌太夫を呼出され文藏宅の樣子を改め來るべしと申付られしにより彌太夫は直樣すぐさま原澤村はらさはむら名主用右衞門同道にて甲州原澤村なる文藏の宅に到いたり番頭ばんとう忠兵衞を呼出して家内土藏の封印ふういんを切解きりとき箪笥たんす長持ながもち等一々改むる時忠兵衞は文庫ぶんこ藏の長持ながもちを明此中に金千百八十兩入置いれおき候と申に右の金かね見みえざれば大いに仰天し幾度となく探し求むれども少しの金と違ひ大金たいきんの事故紛まぎれべきやうもなく如何にも不思議のことなりと惘あきれ果たる趣を彌太夫は見て扨は奉行衆の鑑定かんてい通り盜賊の仕業しわざにて似役人をなせしならんと思ひ早速立歸りて右の趣き巨細こさいに申し立てければ大岡殿然らば文藏夫婦の者外に惡事もあらざるゆゑ助け遣さんと思はれけれども關所破せきしよやぶりと言ては磔はりつけに成べき大法ゆゑ種々いろ〳〵に工夫ありて又々文藏夫婦を呼出され其方夫婦とも顏色殊ことの外惡し如何致せしやと申されければ文藏は恐る〳〵首かうべを上私し共儀此間中より病氣に御座候と申立るに何樣なにさま不便ふびんのことなり此上病氣重おもりては成ずと有て宿預けに申付られたり斯る囚人めしうどを宿預やどあづけといふは誠に深き御慈悲おじひなりと見聞人毎に泪を流し大岡殿の仁心じんしんを感じけり又大岡殿には其中に似にせ役人をせし盜賊たうぞくを吟味せんと所々探索たんさくを申付られけり扨又彼の雲切仁左衞門肥前の小猿こざる向ふ見ずの三吉の三人は似にせ役人となりて原澤村の名主なぬし始めを首尾よく欺むき文藏方にて金千百八十兩盜ぬすみ取しかば仁左衞門は三吉小猿こざるに向ひ斯樣かやうに仕合よく行ゆきし智嚢ちなう古の諸葛孔明しよかつこうめい我朝の楠正成まさしげも及ぶまじとは云ふものゝ是まで夜盜よたう追剥おひはぎ人殺し等の數擧て算へ難し此上盜賊をなさば終つひには首をも失はん然されば汝等に此金を三百兩宛づつ遣つかはし殘り五百兩は我が物となし此後ご盜賊を止め此金子を以もつて各々おの〳〵金堅氣かねかたぎの業たつきを始め町人になり百姓になり了簡れうけん次第に有附べし併此以後は三人共に音信不通いんしんふつうになし假令たとへ途中などにて出會とも挨拶あいさつも致すまじと約束を定め分殘わけのこりの八十兩は當座たうざの祝ひに遣つかふべしとて三人一同に江戸表へ出立なし先吉原を始め品川或ひは深川と所々にて遊あそびけるが頓やがて彼八十兩を遣つかひ仕舞しまひしかば三人は約束の如く思ひ〳〵に別れけり夫より雲切仁左衞門は本郷六丁目へ住居ぢうきよして家名を甲州屋と呼よび米商賣こめしやうばいを始めけるが元より拔ぬけめなき者ゆゑ次第に繁昌はんじやうなし此所彼處の屋敷又は大町人などの舂入つきいれを請うけ合ければ俄にはかに手繰くり能よく金銀も殖ふゆるに付つき地面を求めて普請ふしんをなし今は男女五六人の暮しに成し處近所の者の世話にて女房を持もち家内睦むつまじく繁昌はんじやう致しけり扨又肥前ひぜんの小猿は本町二丁目にて賣うり家を求もとめ名を肥前屋小兵衞と改め糶呉服せりごふくを初めければ是これ又また所々しよ〳〵の屋敷に出入も殖ふえ段々だん〳〵と勝手も能成よくなり凡夫ぼんぷ盛さかんなるときは神も祟たゝらずといふこと宜むべなるかな各自仕合能光陰つきひを送りたり然るに小兵衞は尾張町の呉服店だな龜屋かめやの番頭仁兵衞といふ者に取入とりいり呉服物を二三百兩づつ預りて商賣しやうばいしける所に此仁兵衞頓死とんしして一向勘定合かんぢやうあひの分らざるを僥倖さいはひに肥前屋小兵衞は二百八十兩程の代物しろものを只取たゞとりになし是より増々仕合せ能よく相成けるに付間口まぐち三間半の店を開ひらき番頭手代小僧共五六人召仕めしつかひ何れも江戸者を抱へるゆゑ何事も商賣向に明あかるく繁昌はんじやうなすに付て小兵衞は女房を持もたんと思ひ是も工風くふうして御殿女中の下りを尋ね宿の妻として都合つがふよく日増ひましに内福ふくと成たりけり夫に引替向ふ見ずの三吉は三百兩の金を配分されしかば其金を懷中して所々を徘徊はいくわいなし專もつぱら賭博に身を入又大酒を呑己が有に任せて女郎藝者げいしやを買かひ金銀を土砂つちすなの如く遣つかひ捨る故に程なく三百兩の金も遣ひなくし今は漸々やう〳〵丸の内の本多家の大部屋おほべやへ轉ころげ込飯めしを貰ひて喰居くひゐたりしが追々おひ〳〵寒さに向ふ時節なれど着物は古浴衣ふるゆかた一ツゆゑ如何共爲方なく不圖ふと大部屋を立出し頃は享保十六年十一月なりしが三吉は種々しゆ〴〵工夫して本所ほんじよ柳原町まちに舂つき屋の權兵衞といふ者あり此者は豫かねて知人しりびとなる故是を頼たのみて欺かばやと思ひ常盤橋御門を出てふら〳〵本町二丁目へ來懸きかゝりし所に左側ひだりがはに肥前屋と書たる暖簾のれん懸かゝり居たりしかば是も肥前ひぜんの者ならん彼の小猿めも同おなじ國なりしが今は如何いかゞ成しや我は元同國片村の名主の腹より出たる者なるが此體に成果たり併し此間迄は三百兩の金を持居たれども今は一文もなしなどと獨ひとり呟つぶやきながら通る所に肥前屋より小僧こぞうを一人供に連て出行いでゆく者の體小猿に髣似よくにたりしかば三吉は後あとを尾つけて能々是を窺うかゞひみるに小猿に相違なきゆゑ心中に悦よろこびしに小兵衞もちらりと振り返り見て奴やつは三吉めなりと思ひ恐れしにぞ知ぬ顏にて早足はやあしに行過る所を三吉は猶なほ後より尾來るゆゑ小兵衞は彌々恐れ種々に逃廻にげまはると雖も三吉は尾慕つきしたひければ小兵衞は足に任まかせて逃歩き夜に入て漸々歸り我が家の表口おもてぐちより入時後に尾つきて三吉は直つと入來り御免なさいと言ながら店先みせさきに腰を掛私しは元御知己ちかづきの者なれば此家の旦那に御目に懸かゝり度と申に番頭手代はじろ〳〵顏を見ながら其の段主人へ申通じけるに小兵衞は殊の外ほか困こまり入只今留守るすにて何方へ參り候や相知あひしれずと申べしと言付ければ手代は立出其旨むね申聞るを聞き三吉然らば御歸かへり迄相待あひまつ申可べしと言て上り込こみ一向動うごかぬ故小兵衞も是非なく密と勝手かつての方より出て表おもてへ廻り只今歸りし體ていにて三吉を見付是は珍めづらしやと表へ呼出し向ふ横町の鰻屋うなぎやへ上あがりて物語りけるに三吉は膝ひざを進め扨々さて〳〵面目なき仕合しあはせなれども誠に此體なれば何卒なにとぞ少々の合力を御頼み申と言懸いひかけられ小兵衞は是非なく懷中に在合し金六兩三分を殘らず出し遣つかはしければ三吉は大に歡よろこび昔し馴染なじみとて御無心申せしに早速さつそく多分の金子御貸下され忝けなし是を元手もとでに一商賣に有附今の御恩を報はうぜんと口から出次第申しけるを小兵衞は打聞此後は豫て申合せし通り必ず我等われら方へ參られ候事無用なりと申せしかば三吉は天窓あたまを掻かき仰おほせの如く此後は決して立寄たちよるまじと堅かたく約束なし猶又綿入羽織わたいればおり一ツを貰ひ夫より本所柳原町なる舂屋權兵衞を尋けるに權兵衞は故郷こきやうへ引込ひきこみたる由土地ところの者申故三吉は力なく又々安宅あたけの方へ到りしに當時は所々に切店きりみせ有て引込ける故ぶらりと是へ上り大に酒を飮のみ一分ばかりも遣ひ其夜は遊びて翌朝立出朝飯あさめしを表にて喰居くひゐたりし時防ふせぎ傳吉といふ者に出合互に昔し語がたりをなし夫より此傳吉方に食客ゐさふらふとなり居けるが此傳吉は先年甲州へ行ゆきける折雲切仁左衞門方に少しの中居たる事ありて三吉と兄弟きやうだい同樣にせし者なり夫故それゆゑ今傳吉方に遊あそび居たるに傳吉は三吉が金を持て居る事を見し故是を謀はかりて博奕ばくちを勸すゝめしかば固より好む事ゆゑ直樣すぐさま引懸ひつかゝり專もつぱら博奕をなして居たりけり


第五回


 斯て彼三吉は又々博奕ばくえきに引懸ひきかゝり肥前屋小兵衞方にて貰ひし彼かの六兩は殘らず負まけて仕舞元の通りの手振てぶりとなりけれ共綿入わたいれ羽織ばかりは殘り有事故種々思案しあんなし此上は如何共詮方せんかたなければ元へ立歸るより外なしと本町二丁目なる肥前屋ひぜんや小兵衞の方へ行御免下めんくだされと店へ上あがるゆゑ番頭大に困こまり折角せつかくの御出に候へども主人小兵衞儀は留守るすにて御目に懸かゝり候事相叶かなはずと斷りけるを三吉然らば御歸り迄御待申べしとて以前の如く居込ゐこむ樣子やうす故今日は遠方ゑんぱうへ參りしにより歸りの程も計はかり難しと申ければ三吉は我等是非々々御目に懸かゝらねば相成難がたき用事あり二日にても十日にても御歸宅を相待あひまち申べしと歸氣色はなかりしにぞ店の者は殆ほとんど當惑たうわくなし殊に小兵衞の女房は御殿下ごてんさがり故此體を覗のぞき見て甚だ驚き小兵衞へ早々さう〳〵歸し給へと迫せまりしかば小兵衞も難儀なんぎ千萬に思ひ番頭を以て主人小兵衞儀は仕入方に參まゐり候間何日頃ごろ罷まかり歸り申べくや程合も計り難がたく候に付先々御歸りありて四五日も立たち候はゞ又々御入おんいり下さるべしと云せければ三吉は是を聞て腹はらを立今こそ肥前屋の旦那などと横柄面わうへいづらをして居れども元はといへば己おれと同樣に人をゆすり取又は追落おひおとしをしたる事もあり今己が斯の如く落おちぶれたればとて其好よしみを以て少々の見繼みつぎ位はなしても能よき筈はずなり若今己が御手に逢あふ時ときは同罪なりと大聲を出すにぞ小兵衞は甚はなはだ迷惑めいわくなし此樣子やうすにてはとても素直すなほには歸るまじと夫より旅の支度したくをし又裏口より密ひそかに立出たちいで門の外より今歸りしと聲を懸ながら内へ入けるに人々旦那だんなの御歸りと言を聞三吉は最前さいぜんより待居し事なれば小兵衞に向むかひ少々御咄し申度事ありといふに小兵衞は三吉を奧おくの間へ連行つれゆき女房へも引合ひきあはせ此人は舊もと國元にての久々馴染なれば今宵は奧座敷にて咄はなしを致すべしと兩人は一間に入て内談ないだんするに小兵衞は三吉に向むかひ貴樣は能よく積つもりても見られよ一人二三百兩分取わけとりなし此の上は各自家業かげふに有附べし因ては以後音信いんしん不通と云事を仁左衞門始三人堅かたく言葉を交かはして別かれしにあらずや然るに此間このあひだも六兩三分と言金子を譯なく合力がふりよくし間もなく其形にて又々參まゐらるゝ事餘りなる仕方なり昔むかしとは違ひ今は眞面目まじめに日々の利潤りじゆんを以て其日を送る我等なれば最早此上は何共なんとも仕方しかたなしと云けるを三吉額ひたひを押おさへ夫は道理の事ながら我等何程なにほど稼かせぎても不運にして斯の體と相成ども今一度商賣に取付度何卒なにとぞ昔むかしの好みを以て救すくひ給はれと申ければ小猿こさるは暫く考へ然しからば雲切仁左衞門方へも行ゆきて頼み見られよと言けるに三吉其事も思おもはぬにはなけれ共當時たうじ仁左衞門は何所いづれに居るや一向かう行方ゆくへを知ず若御存じあらば教へ給たまはれと申せしかば當時仁左衞門は本郷六丁目にて甲州屋仁左衞門と言いふ大富家なり是へ便て相談さうだんあらば又好よき話はなしも有べし尤もつとも我等は仁左衞門と申合せし以來出會は致さゞれども餘所よそながら樣子を承うけたまはり居るなりと咄はなしけるに三吉は大に悦よろこび然らば翌日あすにも直樣すぐさま本郷へ行んといふを小猿こざるは聞きゝてとてものことに百兩ばかりも誣頼ねだり夫にて取付商賣をいたさるべし是までの如くにてはならぬゆゑ篤とくと認みとめし事を致されよと言ければ三吉納得なつとくなし先以御教おんをしへ忝けなし併しかし如何いたして誣頼ねだり申べきやと聞に小猿夫は豫々かね〴〵出入は申すまじと堅く申合せし事なれ共斯樣々々の譯わけにて詮方せんかたなく參りたりと申されよと言含いひふくめしかば三吉は委細ゐさい承知しようちして立歸り翌日本郷六丁目へ尋ね行て表より甲州屋仁左衞門殿とは此方にて候やと申入ければ番頭は然樣に御座候と答ふるに然さらば御主人仁左衞門殿へ御目おんめに懸かゝりたし仰おほせ入られ下さるべしと言入しかば仁左衞門何心なく立出たちいで見みるに以前の三吉なれば惡わるい奴やつが來りしと思へども詮方せんかたなく先一間へ連行其方は何故尋たづね來りしやと申に三吉は面目めんぼく無氣なげに私し事爲する事なす事手違ひになりて誠に難澁仕つり今は早行べき所もなく豫かねて兄弟分の小猿こざるにも借金百兩ばかりも出來此上如何とも致いたし方なき折から此度大岡樣の御手に召捕めしとられし所小猿が工夫くふうにて岡引衆を頼たのみ旦那衆へ内々百兩贈おくりて見遁みのがしにして貰ふ筈なれども右の金子に差支さしつかへ候間何卒なにとぞ百兩御貸かし下さるべし其百兩の金子なくては岡引衆をかびきしうも勿々なか〳〵承知いたされず御手に逢あひ候はゞ萬一拷問がうもんに懸り苦くるし紛れに古への原澤村の一件などを申し出す間まじきとも云難く然すれば御互たがひの身に關かゝはる事故何分なにぶんにも見遁して貰ふより外なし其手段しゆだんは金子なりと眞顏まがほに成て語りければ仁左衞門も其事そのことに至らば誠に身の大事なりと心に納め是非なく百兩工夫くふうして相渡しける故三吉は大に悦よろこび是これ誠まことに命いのちの親なりと押戴き其の金を懷中し立出けるが百兩といふ金かねを只取になせし故直すぐに吉原町へ行ゆきて拾兩ばかり遣ひ奢おごり散ちらし殘り九十兩を持てぶら〳〵淺草へ出いでける處遠乘馬とほのりうま十四五疋烈敷はげしく乘來のりきたりしかば三吉後へ逃にげんとする機をり其の馬一疋斜なゝめに駈出し往來わうらいの者を踏倒す故三吉は狼狽うろたへて漸々馳拔はせぬけ諏訪町へ來り酒屋へ這入て懷中を見るにいつ落せしや九十兩の金かね見えざりければ三吉は駭驚仰天びつくりぎやうてんして立歸り猿眼さるまなこに成て能々尋ねけれ共人通ひとゞほり多き所ゆゑ一向に跡形あとかたもなし依て又々元の手ふりとなりければ再ふたゝび本郷の甲州屋へ行仁左衞門に右の事を物語ものがたりて無心を言いひけるに仁左衞門は大いに難澁なんじふに思ふと雖も詮方なく又々金子を遣つかはしけるが是をも又遣ひ切きりて本町の小猿の方へ無心むしんをいひ又本郷の仁左衞門と兩家へ打て違ちがひに無心を言懸いひかけ否いなと言ば以前の事を大聲にて並ならべる故仁左衞門も殆ほとんど困り入けるが急度きつと工夫くふうをなし本町の肥前屋へ來り内々ない〳〵相談に及びけるは彼三吉事とても生置いけおきては我々が身の詰つまりなれば謀計はかりごとを以て渠かれを切て捨んと談合だんがふなし夫より三吉を欺だまし久々なれば三人同道して御殿山の花見に行ゆくべしと申しければ三吉大いに悦よろこび直樣すぐさま行んと三人打連立うちつれだち頃は享保十七年三月十八日御殿山にて花見をなし酒の機嫌きげんに古いにしへの物語りなどして品川より藝者げいしやを呼よび大酒盛となりて騷ぎ散す中早はや日ひも暮相くれあひと成ければ仁左衞門は頓やがて身を起おこし我等は今宵こよひ據よんどころなく用事あれば泊る事はならざれども淺あつさり遊んで歸らんと夫より新宿しんじゆくの相摸屋へ上あがりしが其夜九ツ時分品川を三人連にて立出高輪たかなわへ來りし時仁左衞門大音だいおん揚あげコレ三吉汝は先年せんねん甲州にて金子配分はいぶんせし砌方々申合せしを一向に用ひず我等兩人へ無體むたいに難儀なんぎを懸る事度々たび〳〵に及ぶ如何に惡逆無道あくぎやくむだうの者ものなり共恥を知ざるは人間にんげんにあらずといふ儘に引捕ひつとらへければ三吉は大に驚き逃出にげいださんとする所を肥前の小猿飛懸とびかゝりて拔打ぬきうちに右の腕を打落すに雲切仁左衞門は大脇差おほわきざしを引拔て三吉が眞向より殼竹割からたけわりに切割りければ三吉は吁うんとも云いはず二ツに成て死したりけり仁左衞門は小猿に向ひ先々まづ〳〵是にて安心あんしんせりとて彼死骸を海うみへ投込なげこみ歸かへりしゆゑ此事知る者なかりしが固もとより同氣相求あひもとむる者ども故是より折々は出會いであひけるに兩人とも三吉に金子を多く取とられしかば勝手向かつてむき不如意ふによいになりしより今一度大稼おほかせぎをなし是限これかぎりにせんと兩人申合せて又々惡心あくしんを起おこしけること是非なけれ


第六回


 偖又其頃そのころ兩換町に島屋しまや治兵衞とて兩替屋ありけるが肥前屋ひぜんや小兵衞は此家へ度々たび〳〵兩換の事にて行店の者にも心安こゝろやすく成て篤とくと樣子を窺ふに概略勝手も分わかりしかば是ぞ好よからんと思ひ仁左衞門へ島屋の事を語かたりければ夫こそ屈竟くつきやうの事なりとて兩人相談さうだんの上うへ同く十七年十月二十八日の夜雨あめは車軸を流し四邊あたりは眞闇まつくらなれば是ぞ幸ひなりと兩人は黒裝束くろしやうぞくに目ばかり頭巾づきんにて島屋の店へ忍び入金箱かねばこに手を掛出さんとする機をり番頭太藏は眼めを覺まし大音に盜人々々どろばう〳〵と聲を立るゆゑ仁左衞門小猿は逃出にげいでんとする所に大勢追來おひきたりしかば止やむを得ず三人程切拂きりはらひて其場を逃去にげさり金はまんまと奪ひ取仕合しあはせよしと兩人五百兩宛配分はいぶんして悦び別れけり然ば彼かの兩替屋にては翌朝早速さつそく町奉行所へ訴へ出ければ大岡殿島屋の手代てだいを呼出よびいだされ一通り尋ねらるゝに若わかい者左吉重次郎千次郎の三人手負ておひの趣き又盜まれし千兩は一昨日蓮池はすいけ御藏より受取候金子にて殘らず私し方の極印ごくいんを打置候と見本の金を差出せし故大岡殿夫より江戸中兩換屋は申に及ばず諸商人しよあきんど共迄一同に此段このだん觸示ふれしめされけり扨さて又肥前屋小兵衞は盜ぬすみし金の五百兩を配分はいぶんして大に歡びしが是ぞ天罰てんばつの歸する處にして右の町觸まちぶれの出し日は留守にて心得ず越後屋に反物たんものの借かり百三十兩あるを跡の爲ためなれば先是を拂はらはんと思ひ越後屋へ右の小判こばんを持參し拂ひけるに越後屋にては甚だ心中しんちう不審ふしんに思ひけれ共是迄これまで間違もなき肥前屋小兵衞事故ことゆゑ渠かれへ申も如何なりと此段このだんを奉行所へ訴うつたへければ早速右の百三十兩を取上られて改めの上兩替町の島屋治兵衞を呼出され此金このかねを見よと渡さるゝに治兵衞は改め見て此金に相違さうゐ御座なく候と申立しかば直樣すぐさま本町二丁目の肥前屋小兵衞へ捕方を差向さしむけらるゝに捕方の面々肥前屋へ行向ゆきむかひ上意と聲を懸ける故家内の者共大に驚きけるを小兵衞今は是迄これまでなりと思ひ一尺八寸の刀を引拔ひきぬき捕手の者へと打懸るに左右さいうより立寄し二人飛違とびちがひ十手を以て請流しける中一人の同心後うしろへ廻りて白刄しらはを打落し右の手を捻上ねぢあげ終つひに召捕て奉行所へ引立ひきたてければ大岡殿小兵衞を見られ其方事去る十月二十八日夜兩替町島屋治兵衞方へ忍しのび入いり三人に手を負おはせ金子千兩を盜ぬすみ取とりしならんと尋ねられけるに小兵衞は最早もはや遁のがれぬ所なり何日迄陳じ居て拷門がうもんに懸かゝらんよりは速かに白状はくじやうし罪に歸きせんと覺悟をなして其夜の事共ことども一々白状に及びたり扨さて又また本郷の甲州屋仁左衞門は本町の肥前屋小兵衞が召捕めしとられし事を聞ける故南無三なむさんと思ひしが熟々つく〴〵工夫くふうをなすに所詮我此所を遁のがれたり共天罰てんばつ爭いかでか免まぬかるべきと屹度きつと覺悟を極め我思ふ仔細しさいありとて妻へ離縁状を渡し又番頭其外店の者一同へ金を與へて暇いとまを出いだし夫より南町奉行大岡殿の役宅やくたくへ訴うつたへ出私し儀は元雲切仁左衞門と申是々これ〳〵の惡事ありと白状はくじやうに及びたり依て大岡殿渠かれが勇氣を深く感ぜられ汝なんぢ惡人ながらも英雄えいゆうなり能こそ自身じしんに名乘出しと申されて其日は入牢じゆらうと相成けり其後そののち仁左衞門小猿の兩人を呼出よびいだされ其方共江戸へ出でざるうちは何方に罷まかり在ありしぞと尋られし處仁左衞門私し儀は甲州に住居ぢうきよ仕り候と申立ければ大岡殿然しからば汝等享保十一年十二月廿七日似にせ役人と相成て原澤村の百姓文藏夫婦を召捕めしとりて金を盜ぬすみ取候に相違さうゐは有まじと申されければ小猿は顏色がんしよく變かはりて俯向居たるに仁左衞門は莞爾につこと笑ひ何樣世の人賢奉行けんぶぎやうと稱たゝへ進まゐらする程有て御明察の通り私共儀享保十一年十月萬澤の御關所せきしよ手前てまへに休やすみ居候處に原澤村の大盡夫婦にて廻道まはりみちせしを付込似にせ役人と相成三吉小猿を目明めあかしとなし私儀は御役人の體ていにて夫婦を召捕めしとり金子三十七兩を出させ其場を見遁みのがし申候其後十二月初旬はじめ手下てしたの者を原澤村の名主方迄遣つかはし樣子やうすを探置さぐりおき同月廿七日又候似役人と相成名主方へ罷越案内致され彼大盡かのだいじん夫婦を召捕家内は申すに及ばず土藏へ封印ふういんを附置つけおき有金千百八十兩盜取ぬすみとり申候此時盜取し金を資本もとでに致し銘々めい〳〵家業に有付以後は盜賊たうぞくを相止あひやめ申可と三人申合せ小猿三吉の兩人へ三百兩宛私は五百兩分取わけとり候て夫より御當地へ出いで小猿は呉服店私しは穀物見世こくもつみせを出し候處彼三吉儀は三百兩の金子を遣つかひ捨すて候ては私し共兩人を尋ね來り無心むしんを申事度々に及び甚だ難澁なんじふ仕つるにより小猿と申合せ餘儀よぎなく御殿山の花見と申し三吉を欺だまして連行つれゆき高輪にて切殺し死骸は海へ打捨申候然れども天罰てんばつにて三吉に兩人とも身代しんだいを荒され借金多く相成候に付今一度盜賊たうぞくを致し身代を直なほし商賣を致し候はんと存じ小猿と申合せ十月二十八日の夜よ兩替町りやうがへちやう島屋しまや治兵衞方へ忍び入金千兩盜み取り五百兩宛配分はいぶん仕つり是を盜ぬすみをさめと存じ候處其金は目印めじるしの極印ごくいんありしとは夢にも存じ申さず小兵衞が遣つかひ候より事顯あらはれ斯の仕合しあはせに相成候段是ぞ天罰てんばつにて恐れ入奉り候と少しも未練みれんなく一々白状に及びける故大岡殿神妙しんめうなりと申され又小兵衞に向はれ只今仁左衞門が申に相違なきやと尋ねらるゝに小兵衞も是非ぜひなしと覺悟かくごをなし聊いさゝかも相違之なき旨申立しかば口書こうしよ爪印つめいん申付られ仁左衞門小猿の兩人は鈴が森にて獄門ごくもんの刑に行はれたり扨さて又また原澤村の百姓文藏夫婦を呼出よびいだされ其の方共身延山へ參詣の途中とちう關所を通るのは如何いかゞと存じ廻り道を致し候と申せども此儀甚だ不審ふしん千萬なり此萬澤村には昔より惡狐あくこありて是を萬澤狐ぎつねといふよしを我われ聞居たり然れば其方共萬澤の關所破やぶりにては是なく全まつたく萬澤狐に誑たばかされ萬澤の裏道を彷徨さまよひしならん依て其虚に乘じ汝等なんぢら盜賊たうどくに金子三十七兩奪うばはれしに相違なからん然すれば何ぞ關所破りといふにあらんや然れば汝等に罪なきにより御構かまひなしと申し渡されしかば文藏夫婦は言いふも更なり名主組頭を始め附添つきそひの村役人共一統とう夢かとばかり打喜うちよろこび大岡殿の仁心じんしんを感じけるとなり


雲切仁左衞門一件終

津の國屋お菊一件

津つの國くに屋やお菊きく一件いつけん


第一回


 鐘かね一ツ賣うれぬ日はなし江戸の春とは幕府ばくふの盛世さかんなる大都會の樣を纔わづか十七文字に綴つゞりたる古人の秀逸にして其町々の繁昌は詞ことばを盡し難く別わけて神田は土地柄とちがらとて人の心も廣小路ひろこうぢ横筋違いの僻みなき直すぐなる橋の名の如く實げに昌平しやうへいの御代なれや甍いらか双ならべし軒續き客足絶ぬ店先みせさきは津國屋松右衞門とて小間物を商ひ相應さうおうの活計くらしをなし妻お八重との中なかに二人の子を儲まうけ長男を松吉と呼よび既に嫁をも娶り妹をお粂と名付なづけ是も淺草田原町なる花房屋彌吉方へ縁付えんづけ樣子やうすも好とて夫婦倶々とも〴〵安心なし最早悴松吉に世を讓り氣樂きらく隱居いんきよをせんものと思ひ居たりし折をりから不圖目違めちがひの品を買込かひこみみす〳〵損毛をなせしが始にて二三度打續うちつゞき商ひの手違てちがひより松右衞門は心を痛いため遂つひに病氣となりてたうとう床に着きければ家内の心配大方おほかたならず醫者よ藥くすりと種々しゆ〴〵に手を盡し看護みとりに怠り無りしかども松右衞門は定業ぢやうごふにや四十二歳を一期となし果敢はかなく此世を去さりにける不仕合せも續つゞけば續くものにて惣領そうりやうの松吉も風邪かぜの心地とて打臥しが是も程なく冥土よみぢの客となりしかば跡に殘りし母と嫁よめの悲歎云うばかりなく涙に暮果くれはて暗夜あんやに燈火ともしびを失ひたる如く只茫然ばうぜんとして居たりけり然ば段々と打ち續きたる冗費ものいりに今は家藏いへくらも云に及ばず假令家財雜具迄も賣拂うりはらへばとて勿々なか〳〵借金しやくきんの方に引足ず母子倶々種々に心を碎くだけども女の身と云殊に大金たいきんの事なれば如何とも詮方せんかたなく何分是は淺草なる娘の方へ相談なすに如しくことなしとて早々娘を呼寄よびよせて相談しけるに此お粂は元來もとより生質うまれだて善よからぬ者なれば唯手前勝手の事のみ言て一向かう世話せわもなさゞれば母は大いに立腹りつぷくなし親の難儀なんぎを見返みかへらぬとは鳥獸に劣おとりし奴やつ親でもなし子でもなし見下果たる人非人にんぴにんと切齒はがみをなせども又外に爲すべき樣も有ざれば家財雜具かざいざふぐを人手に渡し其身は嫁と諸共もろともに淺草諏訪町にて裏店を借請かりうけ注すゝぎ洗濯せんたく賃仕事ちんしごとをなし細き煙を立たてけるが嫁のお菊は老實まめ〳〵しく立働き孝養かうやう怠おこたり無りしかば母のお八重も大に喜こび睦むつましくこそ暮くらしけれ此お菊は未だ二十はたちを一ツ二ツ越こえし歳としなれば後家を立さするも愍然ふびんゆゑ聟養子を取か然なくば外に縁付えんづけなば一生の身の治をさまりにも成べしと姑しうとめは勿論懇意の者共迄も色々いろ〳〵勸むると雖もお菊は一向承引うけがはず母樣始め皆樣の仰を背そむくには有ねども今更聟むこを迎へなば亡夫なきをつとに言譯なく夫とても母樣はゝさまの御心休めに成事ならば更々さら〳〵厭いとひは致さね共ども今聟を取とる時ときは其人に氣兼ありて母樣への孝行も自然しぜん怠おこたる道理なれば少しも望みに候はず又外々ほか〳〵へ縁付えんづくなどとは思ひも寄よらぬ事何卒此事ばかりは御免おゆるしをと一向承引うけひく氣色けしきもなければ姑女しうとめ始め人々も其孝貞を深く感じ再度勸むる言葉もなく其意に任まかせて打過けり斯て光陰つきひの經たつ程に姑女お八重は是まで種々さま〴〵辛苦しんくせし疲つかれにや持病の癪しやくに打臥うちふし漸次しだいに病氣差重りしにぞお菊は大いに心を痛め種々療養れうやうに手を盡し神佛かみほとけへも祈りしかど其驗しるしも甞かつてなく後には半身はんしん叶はず腰も立ねば三度の食しよくさへ人手を借かりるほどなれどもお菊は少しも怠らず晝は終日ひねもす賃仕事ちんしごと或ひは注すゝぎ洗濯せんたくをなし夜は終夜よもすがら糸繰いとくりなどして藥の代しろより口に適ふ物等を調とゝのへ二年餘りの其間を只一日の如く看病かんびやうに手を盡せども全快の樣子やうすは見えず彼是する中に享保四年も早十二月の中旬なかばと成しに長々なが〳〵の病人にて入費ものいり等も多く勿々なか〳〵女の手一ツにては三度の食事しよくじさへ成難く諸方の借方かりかたは段々と言延したれ共最早もはや此暮には切せめて半金づつ成共拂はねば濟ず然さればとて外に詮術せんすべもなく相談相手になる筈の人は田原町へ縁付し娘お粂くめなれ共母が長々の病氣の中も漸々やう〳〵一度見舞みまひに來りしばかりにて其節も心配の樣子もなく劇場しばゐの咄などしてそは〳〵と戻りし限きり其後は見舞の使つかひだに差越さしこさず如何に不人情成ばとて實母じつぼの病氣を案じぬとは人非人とも無義道むぎだうとも譬たとへがたき者なりと心の内には思へ共色いろにも出さず只一心しんに稼かせぎけれど燒石やけいしへ水の譬たとへの如くなれば左とやせん右かくやと獨ひとり心を苦しめしが若もし此事母樣の御耳みゝに入ては猶々病氣の障りと包む程猶なほ心苦しく思案に昏くれて居る中に早十二月も廿五日と迫せまりしかば今四五日の間に金子調達てうだつなさゞれば一夜明るより母樣に藥も進まゐらせられず然さりとて何程考かんがへても降ふつて來る金も有まじ寧いつそ田原町へ到いたり是程迄に難儀の譯を打明うちあけて頼みなば假令たとへ日常ふだんは左とも右かくも切きるに切れぬ親子の中豈夫よもや餘事よそごととは見過ごすまじ是も母への孝行なれば出來ぬ迄も一應おう相談致すべしと心を決し母の機嫌を窺うかゞふに折節をりふし母は氣分きぶん宜げにすや〳〵と寢入たる樣子やうすなれば是幸さいはひと悦びつゝ諏訪町より田原町迄遠とほき道にも有ねば日ひは暮たれども宵よひの間まに一走りと行燈あんどうを點ともし煎せんじ上たる藥をば歸りて飮のませる樣に爲なし置立出んとなせし時如何いかゞしけん風も無に今燈ともしたる行燈の灯ひの不圖ふと消きえければ心宜よからぬ事とは思ひながらも又元の如く灯を燈ともし門の戸を堅かたく閉しめて立出たり折柄師走しはすの末なれば寒風かんぷう肌はだへを貫つらぬく如きを追々の難儀に衣類は殘ず賣拂うりはらひ今は垢染あかじみたる袷に前垂帶まへだれおびをしめたるばかり勿々なか〳〵夜風は凌しのぎ難きを耐忍たへしのびて田原町に到りけるに見世には客有りて混雜こんざつの樣子なれば裏へ廻りて勝手口より密ひそかに差覗さしのぞくに今日は餅搗もちつきと見えて備そなへを取もあれば熨斗のしを延もあり或は鱠なますを打者も在て大勢の手傳ひ臺所だいどころに居並ゐならび大取込の樣子を見てお菊は太息を吐つき嗚呼あゝ昔むかし神田に居る時は我が家が斯かく賑にぎはしかりしが世が世なればとて僅わづかの間に此樣に零落おちぶれるも前世よりの約束事成べし夫に付ても此の家に縁付えんづきしお粂殿是程の身代しんだいに在乍ながら一人の母さまの貧苦ひんくを餘所よそに見るとは何云心の人なるぞ殊には自分の身勝手みがつてのみ云散いひちらすは鬼か蛇じやか思へば〳〵情なさけなやと愚痴の出るも道理なり偖裏口より入んと思ふに灯あかりは萬燈まんどうの如く大勢なる他人の居る中へ斯かく窶然みすぼらしき姿にて這入はひらん事此家の手前も有ば如何いかゞせんと少間しばし彳たゝずみ居たりしに傍かたへに寢て居し一疋の犬怪あやしく思ひてや齒を剥出し吠付ほえつくにぞお菊は驚き思はずも裏口の障子を引明ひきあけ駈込かけこまんと爲するに臺所に居たる男共見咎みとがめ誰だ〳〵と言ながら立出窶然みすぼらしき姿を見て乞食こつじきとや思ひけんコリヤ今頃に來たとて餘り物もなし貰ひ度ば翌日あす早く來こよと云れてお菊は忽然たちまち胸むね塞ふさがり口惜涙なみだに哽むせびながらも好序と思へば涙を隱し成程斯樣かやうな見苦敷姿なりをして參りし故乞食こじきとの御見違へサラ〳〵御無理ならねども私し事は津國屋の嫁よめ菊と申者にて此御家いへの御新造樣に少し御噺申度事有て參りたれば此由よし御通つうじ下さるべしと云に彼の男はじろ〳〵と顏を見ながら奧へ入しが頓やがて立出折角せつかくの御出なれども今日は折惡をりあしく餅搗にて客も大勢あり一方成ぬ取込故御目に掛りて御噺はなしも成難く御氣きの毒どくながら御用もあらば明日にも御出あるべしと云にぞお菊は餘りの仕方しかたと腹は立共色にも見せず重かさねて男に向ひ今宵は御取込にて御話も成ずと有て推おして申も如何いかゞなれども御母樣の御身の上に就つき急きふに御話申さねば成ぬ事故鳥渡ちよつとなりとも御目に掛り度たく存じますれば御邪魔じやまながら最一應おう御取次下されよと頼みけるに彼男は點頭うなづきて奧へ入しのみ待ども〳〵何の返事へんじもなく彼是する中うち早はや淺草寺の初夜を報つぐる鐘耳元に響き渡り寒風かんぷう肌膚はだへを刺さすが如く一入しほ待遠まちどほく思ふに就我家の事を氣遣きづかひ若もし母樣が御目を覺され此身の居らぬを尋ねはし給はぬか然共折角せつかく是迄來りしを話も爲なさずに歸らん事餘りに殘惜のこりをしと猶も返事を待程に漸々やう〳〵にして十六七の下女立出此方こなたへ御通りなされと言にぞお菊は悦び後あとに就ついて通るに勝手の脇わきなる一間へ誘いざなひ今に御新造樣お逢なるべしと云置おき立去たちさりしが茶一ツ出さず小半時ばかり立て漸々やう〳〵此家の女房お粂立出て偖々さて〳〵珍めづらしや適たまの御出に折惡をりあしく取込にて大に御待せ申せしと言ばお菊は莞爾につこと笑ひ否々いへ〳〵私しこそ御忙いそがしき中へ參り御暇ひまをお缺かゝせ申し御氣の毒なりと互に挨拶終をはりてお菊は膝を進め早速ながら今宵態々わざ〳〵參りしこと餘の儀にあらず御前樣にも豫て御存じの通り母樣の永ながの御病氣假初かりそめながらも三年越なれば入費ものいり多きゆゑ私しの手一ツにては勿々引足ひきたらず御醫者樣の御禮も此春より未だ少しも致さねば此春には切せめて金子の一兩も上あげねば來春からは母樣へ御藥も上あげられぬ譯わけ殊ことに米こめ薪まき其外とも追々拂ひが滯ほり其催促さいそくをされる度一時延のばしに致し居れども最早もはや此暮には是非半金も遣やらねばならず夫故種々いろ〳〵心配致せど何分私しの稼かせぎでは其日々々を暮す迄にも引足ひきたらず其中にも私しは三度の物を一度喫たべる樣に致て少すこしにても母樣の御口に適物を調へて進あげんと思へども夫さへ心の儘ならず然されども鰻うなぎを進あげたらお力も付ふかと存夜業よなべに糸を繰くりし代にて鰻を買かひに行かんとせしが能々よく〳〵思へばお夜食やしよくのお米も無なければ詮方なく進度あげたき鰻も買うこと成ず是程切せつなき譯なれば御相談は爰の處お前樣もお良人つれあひのお手前もあらんが唯今申通りの譯なれば御氣の毒なれ共ども何卒金子三兩夫共御都合ごつがふ惡わるくば二兩にても宜よろしく母樣の御病氣の御全快迄御貸下さる樣御願ひ申上ますと拜をがみつ泣つ頼み入いり此金子の出來し事を母樣へ早く御知しらせ申せば何程か御喜悦よろこびならん何分にも此場を御救助すくひ下されと詞を盡して頼みけるをお粂は碌々ろく〳〵耳にも入ず適々たま〳〵の御無心と云殊には母のことなれば何樣どのやうにも都合して上度あげたきは山々なれども當暮たうくれは未だ掛先かけさきより少も拂ひが集まらず其外そのほか不都合だらけにて頓とんと金子は手廻り兼ればお氣の毒ながら御斷ことわり申ます勿々なか〳〵私し風情ふぜいの身にて人の合力がふりよくなど致す程の器量きりやうはなし外々ほか〳〵にて御都合成れよと取付端もなき返へん答にお菊は餘りの事と呆あきれ果はて少間しばし言葉も無りしが然さりとて外々へ相談爲なすべき當も無ければ口惜さを堪こらへ成程當暮たうくれは御不都合との事なれば是非もなき次第なり斯樣申さば御聞取りによりて御腹も立れんが憚はゞかりながら此御身代しんだいにて僅わづか二兩か三兩の金子なれば御都合ごつがふの成ぬ事も有まじ又御前樣の爲にも掛替かけがへなき一人の母樣が御命いのちにも係かゝはる大事の時故今一應御思案ごしあん成なされ何卒此場を御救助すくひ下さるべし然すれば何程か御孝行にも相成べし此場さへ凌しのげば後あとの處は私しの命に代ても母樣に御不自由はさせ申まじ何分にも茲の處を御願ひ申と涙を流して頼みけれども女房お粂は鼻はなで會釋あしらひ那あれも孝行是も孝行と其度たび毎ごとに金を貸ては私どもの腮あごが干上ひあがる元々神田に居られし時は不自由もなき身代しんだい成しを母樣始めお前方の仕樣の惡さに今の困窮然ば御自分の不始末ふしまつから不自由成なさるる事なれば私共わたしどもの知しる事ではなし今私が構立かまひだてをして倶に貧乏びんばふする時は夫をつとに對して何と云譯が成べきぞ然はなく共お粂の里さとは貧窮ひんきうなりと云るゝ度の肩身かたみの狹せまさ恥しさ御氣に障さはるかは知ね共私し共は寢衣ねまきにも着られぬ樣な衣物きものを着き然さも窶然みすぼらしき姿にてお前に致せ母にせよ私しの家へ來られては内外の手前も面目なし此以後共に格別かくべつの御用もなきに御出は御無用と厭あくまで惡口あくこうを吐散はきちらし恥はぢしむるを先刻よりお菊は無念堪こらへしが思はずワツと泣出しお前はな〳〵強欲がうよく非道ひだうの大惡人今眼前がんぜん母樣の御命に迄係かゝはる難儀なんぎ其それを見返らぬのみならず罪科つみとがもなき母樣を然さう惡樣あしさまに云なすとは何云どういふ貴妹おまへのお心やらシテ又今のお答こたへでは假令たとへ此後母樣が死給しにたまふ共構かまはぬとか私の爲には義理ある姑女しうとめ貴妹おまへの爲には實の母樣假令何でも人間の皮かはを被かぶりし者ならば其そんな非道は云れぬ筈はず貴妹の樣な恩知ずの人には此上頼みもすまじ此末共に親類とは思はぬなりと腹立たち紛まぎれ思ふが儘まゝに云散ちらし挨拶あいさつもなく立歸るをお粂は顏を膨ふくらしてアヽ其樣な貧乏神びんばふがみは門かどへ寄せるも不吉ふきちなり早く退出せ追出せと呟つぶやきながらそこ〳〵に奧の方へぞ入にける


第二回


 斯かくて津國屋の老母お八重は偶然ふと目を覺さまし四邊あたりを見るに嫁よめお菊の見えざれば如何せしやと延上のびあがりて見廻せども勝手にも居ざる樣子やうすゆゑ獨ひとり倩々つく〴〵思ふ樣我長々の病氣にて腰こしも立ず身體自由ならぬ大病を斯る貧窮ひんきうの其中にお菊が手一ツにて今日と凌しのぎ翌日あすと暮せど追々おひ〳〵重かさなる借金に切なき事も多からんに孝行深き嫁よめなれば苦敷くるしき顏も見せねども最早もはや節季せつきに押し移れば嘸さぞかし苦勞を爲する成ん此事病氣の中にも案事あんじられ少しなりとも手助けと思へど叶はぬ病の身我さへなくば何方へなりとも縁付えんづいて此苦勞はさせまじきものを可哀かあいや我故身形みなりも構かまはず此寒空このさむそらに袷あはせ一ツ寒き樣子は見せねども此頃は苦勞の故か面痩おもやせも見えて一入ひとしほ不便に思ふなり今宵は何方いづかたへ行しにや最早初更しよや近きに戻もどり來こねば晝は身形なりの窶然みすぼらしく金の才覺さいかくにも出歩行あるかれぬ故夜に入て才覺に出行しか女の夜道は不用心ぶようじん若もし惡者わるものに出會であはぬか提灯ちやうちんは持ち行しか是と云も皆我が身の在ある故なり生甲斐いきがひもなき身を存命ながらへ孝行の嫁よめに苦勞をさせんよりは寧いつそ死しぬるぞ増ましならん今宵の留守を幸ひに首を縊くゝつて死なんものと四邊あたりを探さぐり廻りけるに不圖ふと細帶ほそおびの手に障さはれば是幸ひと手繰寄たぐりよせ枕元まくらもとなる柱の根へ夜着よぎ布團ふとんを積重つみかさね其上へ稍やつと這上はひあがり件くだんの紐ひもの兩端りやうはしを柱の上へ縛付しばりつけ首に卷つゝ南無阿彌陀佛の聲こゑ諸倶もろとも夜着の上より轉まろび落れば其途端はずみに首縊くゝれ終にぞ息は絶たえたりける却かへつて説とくお菊は田原町にて金の相談せしに金を貸かさぬのみか種々さま〴〵の惡口雜言ざふごんを云れ腹立紛はらたちまぎれに罵のゝしり散し愛想盡あいそづかして立出しが外に便るべき先無なければ如何はせんと思案しあんしながら歸る道にて俄にはかに胸騷むなさわぎ爲するゆゑ不圖ふと心付是迄遂に夜に入て家を明ける事なきに今日は鳥渡ちよつと宵の間にと思ひしが存じの外に手間取しゆゑ母樣は目を覺さまされしならん然さすれば我が歸りの遲おそきを案じ持病ぢびやうにても起おこしは爲給したまはぬかと思へば暫時しばしも猶豫いうよならずと足を早めて我が家に歸かへり來て見るに是は如何に老母は首を縊くゝりて死居しにゐるにぞお菊は驚き周章あわてて縋すがり付涙とともに呼叫よびさけべど最早疾とくに事切て手足も氷のごとく蘇生よみがへるべきの樣もなければお菊の愁傷しうしやう一方ならずワツとばかりに泣沈なきしづむ聲を聞付隣家りんかの人々何事やらんと追々おひ〳〵駈着かけつけ此體を見て大いに駭おどろき憂うれひに沈みしお菊を助け起し且かつ恤いたはり且慰め相談なし此由早速公儀こうぎへ訴へ出べきや又内分に濟すますべきか何にも致せ娘のことなれば田原町へ此由申遣し其上にて何れとも計ふべしとて直樣一人の男田原町へ駈行かけゆき老母が變死へんしの樣子を知らせければ早速娘夫婦は來りて死骸しがいを檢あらためし後お粂はお菊に向ひ母樣が變死の樣子やうす仔細ぞ有ん如何いかゞなりと問ばお菊は涙を押拭おしぬぐひ私し留守るすの中に此如く成行なりゆき給ひしと答へしをお粂くめは冷笑あざわらひ否いや然樣さやうにては有まじ病氣に疲つかれし母樣ゆゑ勿々なか〳〵自身にて首を縊くゝり給ふ程の氣力きりよくは無なき筈はずなり察さつする處長々の病氣に看病かんびやうも夏蠅うるさしと思ひお前が縊くびり殺したる成べしと思ひ掛がけなき難題なんだいを言懸いひかけられお菊は口惜くやしきこと限りなく屹度きつと膝ひざを立直し是は思ひも依ぬ事を仰おほせらるゝもの哉かな云掛いひかゝりされるも程がある勿體もつたいない母樣を何故に殺すべき長々なが〳〵の御病氣なれば我が命いのちに代かへてでも御全快ぜんくわいあるやうにと神に祈り佛を念じ永の年月及ぶだけ看病みとりに心を盡せし事は私が口から申さずとも御長家中の人々も能御存じなり夫程辛苦なしながら何しに手に懸かけ殺ころしませう然しかるに他の事と違ちがひ斯かく難題を云懸いひかけられては私しの一分立難し何を證據に私しの所業しわざなりと云るゝとや血眼ちまなこになりて言けるにぞお粂くめの良人ていしゆは押止おしとゞめ今此處にて爭ひしとて詮せん方なき事なり我等も了簡れうけんあれば出る處へ出て屹度きつと糺たゞすべしと言置いひおき家主相長屋の者へも我等所存しよぞんあれば今晩の始末委細ゐさいに御奉行へ訴へ出る間上かみより御沙汰さたある迄はお菊を屹度お預け申すなりと言いひ捨すて夫婦連立つれだち田原町へ歸かへり即刻そくこく老母變死の始末より此儀は嫁よめ菊と申者の仕業しわざと推察すゐさつ仕つり候間御吟味願ひ上奉つるとの趣きを訴訟に認したゝめ月番の町奉行大岡越前守御役所へ訴へ出たりけり是により諏訪すは町の家主長屋の者どもも内分ないぶんに濟すませることもならねば一同相談を爲すにお菊が常々つね〴〵の孝心勿々なか〳〵母を殺すやうなる事は有間敷あるまじけれ共皮想うへから見えぬが人心なれば若や田原町なる夫婦の者の言如く成んも計はかり難し先お菊に屹度きつとしたる番人を付置て此始末を早々訴へ申すべしとて月番の大岡越前守殿御役宅おやくたくへ書付かきつけを以て訴へにこそ及びけれ


第三回


 斯かくて其翌朝よくてう淺草諏訪町へ檢使けんしの役人出張相成老母の死骸しがいを篤とくと吟味ありてお菊を始め同長屋の者の口書くちがきを取お菊を腰繩こしなはにて引連ひきつれられ即日そくじつの吟味となり願人淺草田原町小間物商賣花房屋彌吉同人妻粂并に淺草諏訪町家主組合長屋の者殘らず召出され一同白洲へ呼込よびごみになりしかば一番にお菊は腰繩にて引出され砂利じやりに蹲うづくまる時越前守殿出座しゆつざあつて願人花房屋彌吉同人妻粂と呼れ其方共願ひ出たる通り菊事姑女しうとめを締殺しめころしたるに相違なきやと申さるれば彌吉は愼つゝしんで首かうべを上仰の通り老母儀長々の病氣なる故此者看病かんびやう致さん事を五月蠅うるさく存じ人知れず締殺し候に相違之なく然るを自殺の樣に申立候共長病ちやうびやうに疲つかれ候者自身に首は縊くゝる程の氣力あるべき樣も御座なく是第一の不審ふしんにて候私し妻事は昨夜書付かきつけにも認したゝめ上候通り右老母が實の娘に御座候へば何分にも御吟味ぎんみ願ひ奉つり候と申立けるを越前守殿聞れてお菊に向はれ如何に菊其方は何故に姑しうとめを締殺したるや眞直まつすぐに申立よとありけるにお菊はしとやかに申樣恐おそれながら申上奉つり候私事姑女しうとめを締殺し候覺え毛頭もうとう御座なく元私し事は賤いやしき者の娘にて津國屋が未まだ神田に住居ぢうきよ致せし節同人店に居候中兩親も死に果はて候ひしを不便に思ひ私しを引取嫁に致いたし呉くれ候大恩は勿々なか〳〵私し一生の中に報じられ間敷まじくと存じ心の及ぶだけは孝行を盡つくし度心得に候處運うん惡あしく舅しうとを暫時しばしの中に失ひ其上借財多く出來止やむことを得ず家財殘らず分散ぶんさんいたし姑しうとめと兩人にて淺草諏訪町に裏店うらだなを借受賃仕事或は洗濯など致し纔わづかに露命を繋つなぎ居候中又もや姑の三年越の長煩ながわづらひに入費ものいりも莫大ばくだいにて困窮に困窮を重候へ共茲ぞ恩の報じ際どきと存じ夜の目も眠ず賃苧ちんををうみて看病怠おこたりなく致せし事は家主始同長屋の者をお尋ありても相知申すべく候斯かく難儀なんぎの暮を致し居候に付當暮たうくれには藥代其外諸方の買掛り都合六七兩にも相成申候事ゆゑ此節せつ半金はんきんも遣はさず候はねば來春よりは姑しうとめに藥を飮せること成難く然りとて私しの働きにては夫だけの金子勿々なか〳〵調とゝのひ申さず途方に暮居り候然る處是に居る彌吉妻粂事は私し姑女しうとめの實の娘に御座候へども私し方不仕合せに相成姑女しうとめが三年ねん越ごし煩わづらひ居候ところ其中漸々やう〳〵一度見舞に參りしのみにて其後使一度さし越候事御座なく候因て此度の難儀なんぎの次第申候とも相談は致しくれ間敷まじくとは存ぜしなれども現在げんざい母はゝの命いのちにも係り候事故何とか又話も出來申すべきやと存じ昨夜宵よひの内姑女しうとめ事快よく眠り居しに付此間に參りて相談致すべしと田原町へ到り右の譯わけを委細に話し金子三兩若もし成ならずば二兩にても宜しく貸呉くれる樣然うなき時は母に藥も飮されずと頼みし所取付とりつく端はもなき返答の上大いに私しを恥はづかしめ候然れども外に頼むべき方も御座なく候故口惜くちをしさを堪こらへ猶種々頼み入候へども一向取合とりあひも致さず候まゝ是非なく立歸りし所如何なる仔細しさいか姑事首を縊くゝり居候ゆゑ打驚き種々介抱かいはういたし呼生よびいかししかども其甲斐なく候故途方に暮居し處此物音を聞付て相長屋の人々集り來り實じつ親子おやこの事なればとて早速さつそく田原町へ右の樣子を申遣せし處彌吉粂くめ同道にて參り死骸を檢あらため見み私わたくしの仕業しわざ成と申かけ其由訴へ出し事にて何を證據に然樣の儀を申立候哉や假令たとへ私し命を召れ候とも姑しうとめを締殺しめころせし覺え毫程つゆほども御座なく候何卒私しの心底しんてい御察し下され度願上候と仔細しさい包つゝまず思ひ込で申立ければ越前守殿點頭うなづかれ諏訪町の家主其外長屋の者に向はれ只今たゞいま菊が申立し通りなるかと尋ねらるゝに家主いへぬし始はじめ皆々恐る〳〵進み出只今菊が申上候通り常々渠かれが孝行なることは長屋一統感心致し居候然るを姑しうとめを締しめ殺候者渠かれなりと彌吉夫婦の者より願出候段だん私ども一統とう心得難く存じ候と申立れば越前守殿は彌吉夫婦を見られ昨夜菊事其方が家へ金子無心むしんに參りし哉と尋たづねらるゝにお粂は夫をつとの答へを待ず仰おほせの通り昨夜私し方へ金子用立呉くれ候樣申參り候へども當暮は種々いろ〳〵物入ものいりも多く其上懸先より未いまだ少すこしも拂ひを請取らず夫をつと彌吉も心配しんぱい致居候中ゆゑ假令私し身内の者なりとも金子きんすを貸くれと申すも餘り心なきことと存じ斷ことわり申候と云ひける時越前守殿其方は母の病中びやうちうに一度見舞に參りしと菊が申立しが夫に相違なきやと訊尋たづねられければお粂は少し詞ことばの淀よどみしが私し方甚だ無人ぶにんにて私し店に居申さず候ては用向差支へ候ゆゑ漸々やう〳〵一度見舞に參り候と申立るに越前守殿夫は何時頃いつごろの事なりと云るればお粂は指を折をり暫時しばし考かんがへ居しが去年の四月頃ごろと覺え候と申立る此時越前守殿は彌吉に向はれ彌吉其方は一度も見舞みまひに參らざりしやと尋ねらるれば彌吉は大に赤面せきめんなし私し事は日々出入場の用向繁多はんたにて存じながら不沙汰致し粂を名代に遣せしのみと申立けるに越前殿との然さらば菊が姑女しうとを締殺せしと申事まをすことは何ぞ證據にてもある哉と糺問たづねられしに彌吉夫婦は言葉を揃そろへ外に證據とては御座なく候へども三年越ごし煩わづらひ居候者が自身に首を縊くゝる程の氣力は御座なく候はん其上菊事私し方にて金子調達てうたつ致さず候を遺恨ゐこんに存じて母を締殺しめころし候事と存じられ候へば能々よく〳〵菊を御吟味下され度願上奉つると申立るを越前守殿打聞れ扨々さて〳〵汝等は理も非も知らざる誠まことに無法者なる哉汝只今何と申せしぞ去年の四月只一度見舞みまひしのみと申したるにはあらずや然れば母の容體ようだい今頃は氣力衰へたるか増たるかは知らざる成べし然るを長病ちやうびやう故ゆゑ氣力きりよく衰おとろへ自身に首を縊くゝることは成ずなどと當推量あてすゐりやうを申立夫のみ成ず金子を貸ぬと夫それを遺恨に存じ姑しうとめを殺せしなどと申せども然さ樣の儀が證據に相成べきか萬一夫それが爲菊が殺したるにもせよ母の命いのちに係かゝはると申たるに金を貸ぬは汝等なんぢらが心得違ひより母を殺す譯に相當り汝が手にて殺せしも同然どうぜんなり我人を遣はして死骸を能々檢査あらためさせしに其の死せし體自身に首を締しめたるに相違なし其上家主惣長家の者一同の申處皆菊を譽ほめざるはなし今菊が申す處は皆理の當然たうぜんにして汝等が申條は甚だ不都合なり現在げんざい母の三年越に煩わづらふを假令何程商賣が閙敷せはしくとて一度見舞し外ほか使つかひにても容體を問とはざるとは餘りと申せば不孝の至りと云べし彌吉は聟むこなるが粂は實の娘なり然れば母親はゝおやの困窮と言ひ病氣と聞ば菊より借用致し度由申入ずとも汝等なんぢらが身代しんだいを半分分ぶんわけにしてなりと救助すくふべきが至當なり其それを僅わづか二三兩の金をも貸ず只今に至り證據もなき事を公儀かみへ申立候段だん不屆者めと白眼にらまれしかば彌吉夫婦は戰慄ふるへ出し恐れ入て居たりける


第四回


 其時越前守殿重かさねて彌吉夫婦に向はれ汝等未いまだ菊を疑ふ樣子ある故具つぶさに申聞すべし我菊が姑しうとめの死骸を檢査あらためさする序ついでに家探やさがしを致させしに夜具衣類迄姑女の着たるは格別かくべつ垢染あかじみも爲ず綿なども澤山に入てあり又菊が分は唯たゞ今夫に着て居る外は何一ツなきが然されども破れたる骨柳こり一ツあり其中に反古ほごを裏返うらかへして綴とぢたる帳面一册あり披ひらき見るに姑しうとめが日々の容體大小便の度數迄委敷くはしく記載しるしてありしとて即すなはち是へ差出せり仍よつて披き見るに其の深切に認め有事此一條を以ても菊が姑を殺ころさゞる事分明なり斯ても菊が仕業しわざなりと疑ふ哉やと申されしかば彌吉も粂も恐れ入て今更いまさら面目なく聊かも疑念ぎねん是なき段申立たり依て越前守殿お菊が腰繩こしなはを宥ゆるし解せられ諏訪町の家主長屋ながやの者に向はれ汝等なんぢらも聞通り老母を殺せし事菊が仕業しわざに非ず自害に相違なし去ながら何故に斯る成行なりゆきに成しやらん汝等思ひ當あたることはなきかと尋問たづねらるゝに家主其外は言葉を揃そろへ何故と申儀確しかと存じ候はねども常々つね〴〵老母らうぼが我々に申候には嫁が孝行かうかうに致して呉くれるは嬉うれしけれども生甲斐なき我が身が居るゆゑ孝行なる嫁に苦勞くらうを掛かけ老先おいさきの有者を此儘に朽くちさするは憫然あはれなり是を思へば早く死ぬるが増ならん抔など申により皆々みな〳〵寄よつては諫いさめ候ひしが若や是までの言葉の通り嫁に苦勞を爲ん事を厭いとひ自ら縊れ死したるにもや候はんと申立ければ越前守殿は我も然樣思ふなり然る上は老母の死骸しがいは其儘菊に下さるべし又今迄身貧ひんなる處姑女に事つかへ孝行を盡つくせし段上かみにも定めて御滿足まんぞくに思召ならん依て御褒美はうびとして銀五枚取せ遣つかはすと申渡され諏訪町家主組合長屋の者一同に下られ又彌吉粂事は現在げんざい母姑女の續き合に在ながら其身の吝しはきより困窮こんきう難儀なんぎの場所も見返らず剩あまつさへ老母自害致し候證據しようこをも見出さずお菊が仕業なりと申立公儀かみへ御苦勞を懸し段麁忽不義の致し方に付重き御咎とがめにも申付べきの處格別の御憐愍れんみんを以て重過料おもくくわれう申付ると有て此事は先まづ双方さうはう落着らくちやくに及びけるが誠まことに越前守殿ならずば斯手早く黒白も判るまじと人々申合りしとぞ昔時むかし唐土もろこし漢かんの代に是と能よく似たることあり趙氏てうしの妻つま若き時夫を亡うしなひ未いまだ子こも無りしが其後夫をつとを持ず姑に事つかへて孝行を盡くしけるに元より其家いへ貧まづしければ麻あさをうみ機はたを織て朝夕姑女しうとめを養ふ事夫をつとの世に在し時よりも厚あつかりしかば姑女の思ひけるは嫁よめは未いまだ年若くして鰥やもめとなり一人の子供もなきに久敷ひさしく我に事へて孝行成は嬉けれども斯かくて年寄ば頼む方もなくならんこそ最惜いとをしけれ孝行なる嫁の志操こゝろざしを我故に何時いつ迄か苦しめて世に存命ながらへんよりはとて密ひそかに首を縊くゝりて死したりしに此姑に一人の娘ありて我が母を嫁の締殺しめころしたるならんと思ひ時の鎭臺ちんだいへ訴へ出けるに鎭臺不詮議ふせんぎにて孝行なる嫁を罪に行ひけるに天其不政を憎にくみ給ひしが其處三年の間雨あめ降ふる事なく飢饉ききん成しにより其後鎭臺を代られたり後の鎭臺此事を怪あやしみて或博士あるはかせに占うらなはするに日外いつぞや罪つみ無なくして殺されたる嫁の祟たゝり成んと云ければ鎭臺には大に駭かれ塚つかを建たてて是を祀まつり訴へたる娘を罪に行ひ前さきの鎭臺の官を剥はがれしかば天も漸々やう〳〵受納じゆなふ有てや是より雨あめ降ふり出して三日三晩小止こやみなく因て草木も緑みどりの色を生ぜしとかや趙氏が妻とお菊が孝心は和漢一對つゐの美談びだんと謂いつつべし


津の國屋お菊一件終

水呑村九助一件

水呑村九助みづのみむらきうすけ一件いつけん


第一回


 夫それ聖代せいだいには麟鳳りんほう來儀らいぎし仁君じんくんの代には賢臣けんしん聚あつまると理うべなるかな我が朝てう徳川とくがは八代將軍有徳院殿いうとくゐんでんの御代に八賢士あり土屋相摸守つちやさがみのかみ松平右近將監まつだひらうこんしやうげん加納遠江守かなふとほたふみのかみ小笠原若狹守をがさはらわかさのかみ水野山城守みづのやましろのかみ堀田相摸守ほつたさがみのかみ大岡越前守おほをかゑちぜんのかみ神尾若狹守かんをわかさのかみ是なり然るに其有徳院殿の御代享保きやうほ二年大岡越前守町奉行ぶぎやうと成始めて工夫の捌さばきあり其原因を尋るに本多長門守領分りやうぶん遠州榛原はいばら郡水呑村千五百石の村名主むらなぬし九郎右衞門が實の弟に九郎兵衞と云者有あり平生へいぜいより心こゝろ正たゞしからず其が菩提ぼだい所に眞言宗しんごんしう大石山不動院と云寺有あり此住寺も又大の道樂だうらく者にて同氣相求るの諺ことわざに泄もれず九郎兵衞と平生つねに親しくなしけるが九郎兵衞は豫て袋井宿ふくろゐじゆく三笠屋みかさや甚じん右衞門が抱かゝへ遊女お芳を買馴染なじみ互たがひに惡からず思ひ居たりしうち或時不動院どうゐんと馴合なれあひ彼のお芳を盜み出し寺へ匿かくまひ置しが其後彌生やよひの節句せつくとなりて庭にてお芳に田樂を燒やかせ法印始九郎兵衞其外土地の破落戸ならずもの五六人集り酒を呑のみ皿小鉢さらこばちを叩たゝき或は唄うたひ或は踊をどりなどして樂みけり却説さても袋井の甚右衞門は此程このほどお芳の逃亡かけおちなせしは的てつきり九郎兵衞の所業ならん然すれば不動院などに匿れ居るも知れずと流石さすがは商賣柄しやうばいがらだけ敏はやくも勘かんを付村の探訪めあかし薩摩傳助さつまでんすけ赤貝あかがひ六藏の二人を連つれ咽のどの乾かわきし體にて此寺へ這入り水を乞こひて飮のまんとし乍ながら樣子を窺うかゞひ居たるにお芳は味噌みそが足たらぬとて臺所へ來り老僕おとなに味噌を出させるを甚右衞門は見付け己おのれはお芳にあらずやと言ひざま引捕ひきとらへ直に召し連つれ訴うつたへんと言ふを不動院が聞付て中へ立入りしかば然ば御坊ばうに御任まかせ申すとて夫より懸合かけあひの上金三十五兩今宵中に才覺さいかくして渡すべしと約束やくそくを極め甚右衞門外兩人の者も其の夜は寺に泊とまりける此日は三月節句の事なれば村方むらかた所々じよ〳〵にて宵の中は田舍唄ゐなかうた又は三味線など彈ひきて賑ひ名主九郎右衞門方へも組頭くみがしら佐治右衞門周藏しうざう忠内ちうない七左衞門等入來いりきたり座頭に儀太夫を語せ樂みながら酒宴しゆえんをなし夜九ツ時どき過すぐる頃佐治右衞門忠内の兩人は暇乞いとまごひして歸り家内も寢靜ねしづまりて夜も八ツ時と思しき頃ころ勝手かつての方より一人の盜賊たうぞく忍しのび入り年貢ぐの取集め金五六十兩用箱ようばこに有けるを盜み出さんとする處ところに主人あるじ九郎右衞門は目を覺さましヤレ泥坊どろばうと聲を立しかば盜賊は吃驚びつくりなし用箪笥ようだんすを抱かゝへて逃出にげいでんとするを九郎右衞門飛懸とびかゝり遁のがさじものをと押へるを盜人ぬすびと振ふり拂はらひ突退つきのけつゝ互に組付英々えい〳〵と揉もみ合聲に驚き家内の者ども馳來はせきたり棒ぼうよ繩なはよと呼よばはり〳〵漸々やう〳〵高手たかて小手こてに縛いましめたり然ども面體は眞黒まつくろに墨すみを塗ぬりたるゆゑ何者とも見分らず此騷さわぎを聞し周藏しうざう七左衞門の兩人も馳來り勝手より手燭てしよくを取寄る此時村の小使あるき三五郎は臺所だいどころに寢ねて居たりしが物音ものおとに驚き金盥かなだらひを叩立たゝきたてしかば一村二百軒の百姓夫そりやこそ名主殿へ盜賊が這入はひつたぞ駈付かけつけて打殺うちころせと銘々めい〳〵得物々々えもの〳〵を携たづさへて其處へ來りヤア盜人は面を墨すみにて塗ぬりたるぞ洗あらひて見よと聲々こゑ〴〵に罵のゝしり盜人の面を水にて洗ひ落せば這は如何に弟九郎兵衞なりしかば座中ざちうの人々惘あきれ果はてて皆みな脱々ぬけ〳〵に歸りける組頭くみがしらの兩人は據よんどころなく跡に殘のこりて兄九郎右衞門は相良さがらへ突出つきだすと云うを種々しゆ〴〵と取扱ひ漸々やう〳〵涙金なみだきんとして金五兩遣つかはし勘當かんだうとこそなりにけれ是に因て袋井の者三人はお芳を引立ひきたて連つれ歸る然ば九郎兵衞は仕損しそんぜしを忌々いま〳〵しく思ひ仁田村の八と云ふ獵人かりうどの宅たくへ引越ひつこし居ゐる處へ手先の幸かう八と云ふ者此事を嗅付かぎつけ郡代役所ぐんだいやくしよへ引行入牢させけるを兄あに九郎右衞門聞込こみ流石さすが憫然あはれに思ひ内々ない〳〵取繕とりつくろひをなしけるに因つて領分構りやうぶんかまひとなり九郎兵衞は夫より駿河國府中ふちうに知る人在あるにより遙々はる〴〵と尋ね行き此處に三ヶ月程居たれども兎角とかく人請惡く彌々いよ〳〵落付おちつき難きに付煮染にしめたる樣な單衣ひとへものを着き縫止ぬひとめのはせ返りし菅笠すげがさと錢は僅わづか百廿四文ばかりの身上にて不圖ふと立出たちいで江戸へ行んとせしが又甲斐國へ赴かんと籠坂峠かごさかたうげまで到りしが頃は六月の大暑故ゆゑ榎えのきの蔭かげに立寄たちより清水しみづを掬むすびて顏の汗あせを流し足を洗ひ嗽うがひなどして暑あつさを凌しのぎ休やすらひ居たり此處は景色もよく後ろは須走すはしり前は山中やまなかの湖水と打眺うちながめ居る彼方の坂さかより行衣ぎやういに襷たすきを懸かけて金剛杖こんがうづゑを突ながら鈴すゞの音ねと倶ともに來る富士同者あり渠かれも此處に休み水を呑のみ足を投出し居るに九郎兵衞是を見て嗚呼御前おまへは羨うらやましい私わしは今此湖水こすゐに身を投やうか此帶で首を縊くゝらうかと思ひ居たりと云ふを富士同者イヤ若衆わかいしゆ夫は大きな了簡違れうけんちがひ誰しも若わかい時は一日に迫詰せりつめて然樣さう云いふ氣にもなる者一體此方の國は何處で名は何とゝ聞かれ九郎兵衞は口から出任せ我が家には金きんの茶釜ちやがまも有ある樣やうに大層たいそうを云一萬兩程遣つかひ込こみ親父おやぢから勘當かんだうを請たりと話すを同者實まことと思ひ私は相摸領さがみりやう御殿場の者にて小前こまへの百姓條七と云者だが上田じやうでんが六石三斗中田が七枚半山が七ツ有あれば親子おやこ三人暮ぐらし故ゆゑ十日や廿日は麥飯むぎめしさへ承知しようちなれば貴殿あなた一人位は苦にはせぬ其中に何商あきなひでもするか但しは又また奉公ほうこうにでも出るかよも死ぬには増ましで有うから己おれが在所ざいしよへ御座れと深切しんせつに云ければ九郎兵衞夫は千萬忝かたじけなしと追從たら〳〵連立つれたちつゝ御殿場へ來りて條七方の同居どうきよとなり半年はんねんばかりも厄介やくかいに成し中條七は馬を一匹ぴき飼かひて追おはせける故九郎兵衞も今は行處なければ條七の弟分になつて三年程稼かせぐ中茲こゝに條七女房お鐵てつと云ふは三歳になる娘むすめお里もありながら何時しか九郎兵衞と怪敷あやしき中と成しにぞ或日九郎兵衞と云合せ土地ところの鎭守ちんじゆ白旗しらはた明神みやうじんの森もりにて白鳥はくてうを一羽取是を料理れうりして鴈がんと僞いつはり食せけるに不思議や條七は五十日經たつか經たゝぬに髮かみも脱ぬけ癩病らいびやうの如く顏色がんしよくも變り人交際つきあひも出來ぬやうに成ければお鐵てつは仕濟したりと打悦よろこび條七に打向むかひお前は入聟いりむこの身斯る業病ごふびやうになりては先祖せんぞへ濟すまず早く實家へ歸り呉くれよと最いとつれなくも言ければ條七も詮方せんかたなく前世ぜんせの業と斷念あきらめるより外なしと女房娘を九郎兵衞に頼み跡あとの事まで念頃ねんごろに話しける九郎兵衞故意と斷り云しか共女房の親類しんるゐ共打寄否いや癩病らいびやうにては村へ置れぬ定法ぢやうはふなれば是非共跡を引受ひきうけられよと折入て頼たのみしにより九郎兵衞は漸々やう〳〵承知しようちして入夫となり六石三斗の田地でんちを質入しちいれなし金十兩借請かりうけ條七に渡わたしければ條七は是非なく金毘羅參こんぴらまいりと云箱を首くびに懸かけ數年住馴すみなれし故郷こきやうを後あとに立出たちいでけり然ば九郎兵衞は是より百姓になり消光處くらすところに良よからぬ事のみ多ければ村方にても持餘もてあまし何いづれも呆あきれ果ては居けれども九郎兵衞は狡猾わるかしこき者故勿々なか〳〵越度をちどを見せず惡事あくじの腰押こしおし或ひは賭博かけごとの宿やどなどして食客ゐさふらふの五六人は絶たえす追々田畑たはたも賣拂うりはらひ水呑同樣の困窮こんきうとなり凡十四五年居る中女房にようばうも死亡みまかり今では娘と只たゞ兩人差向ひてに漸々其の日を送おくりけり茲に又遠州ゑんしう水呑村のみむら名主なぬし九郎右衞門は五ヶ年以前病死びやうしなし名主跡役あとやくは當村の惣左衞門と云者に申付られしかば悴せがれ九助は當年廿歳に成共なれども今は昔むかしに引替ひきかへて困窮こんきうなし借金も多かりしゆゑ母は氣病が終つひに大病となり今は此世の頼たのみも少く或日枕邊まくらべ近く九助を呼寄よびよせ父樣とゝさま死なれし以來種々不幸が打續うちつゞき斯かく貧窮ひんきうとなりしこと如何にも殘念なれば其方何卒なにとぞ辛抱しんばうして田畑でんぱたも元の如くに取戻もどし河口九郎右衞門が名跡みやうせきを建呉よ又弟おとゝ九郎兵衞は當時駿河國するがのくに御殿場に居る由今は心も直りしならんと思へば其方の爲には現在げんざいの伯父をぢなる故一度は公父てゝごの戒名かいみやうを屆け呉よと涙と供ともに九助が手を取り顏を倩々つく〴〵と打眺ながめ息いきも絶々たえ〴〵に遺言ゆゐごんなすにぞ九助は迫來せきくる涙を呑込々々のみこみ〳〵何とて然樣に心弱よわき事を云るゝや何卒氣を勵はげまし少しも早く全快ぜんくわい爲なし給へとて種々に勞いたはりけれども終つひに介抱の驗しるしもなく母は正徳元年七月二十一日病死し菩提所ぼだいしよ不動院ふどうゐんに葬はうむり月堂げつだう貞飾ていしよく信女しんによと云戒名に哀あはれを止めけり村方にては九助の孝心を感じ親類しんるゐ始め皆々打寄うちより厚あつく世話をなし後懇切ねんごろにぞ弔ひける夫より後九助は獨身どくしんとなり艱難かんなんに暮くらしける中にも亡父母ばうふぼの遺言ゆゐごん片時も忘れず朝夕の回向ゑかう怠おこたりなく勤つとめ一人工風を爲なし居ゐたり然るに此時江戸へ出訴しゆつその事組頭くみがしら出府致すべき處種々いろ〳〵取込とりこみのことあるにより飛脚ひきやくを村方より立ると云を九助は聞込何卒私わたくしを飛脚に遣やつて下されと云ければ皆々みな〳〵承知しようちして申付しゆゑ幸ひ御殿場へ立寄たちより伯父をぢ九郎兵衞にも逢度あひたく思ひ支度したくをなし家内の事を能々よく〳〵頼み股引脚半草鞋にて御用と云繪府ゑふを首に掛沼津宿しゆくより足高山の裾通すそどほりを行ける後から旦那々々馬を取つせへ安價く乘せへ戻もどりだから酒代さかてだと云を聞付け九助は若もし馬士殿是から御殿場へは何位どのくらゐあらふ日一ぱいに行れ樣かアヽ御殿場迄は四里半だから少し暮くれますべい御殿場より外ほかに泊とまる樣な村も無から御殿場迄行つせい私は御殿場へ戻もどる馬だ三百文に負まけるから四里半乘のらつせへと云ふ九助も獨ひとり旅では有是非御殿場へと思へば幸ひと相談さうだんを極きはめ馬に乘て馬士と話し行處に向ふより横に乘たる田舍ゐなか馬六七疋ひき鼻はなを揃へて來るを件くだんの馬士見付みつけて是御用だ繪符だ〳〵若い衆しうオイ〳〵と云ふに面々めん〳〵ばた〳〵と飛下とびおりる故九助は是サ馬士殿下おろさず共宜いゝに憫然かあひさうな何さ惣體そうたいに根方の奴等やつらはずるいから時々とき〴〵目めに合せて置ねへと成やせん時に旦那急いそぎなら箱根を御越こし成なされさうなものだに矢倉澤通やぐらざはとほりは何か御用でも御座りますか今宵は御殿場一番の富士屋へ御泊申ませう何程なんぼ田舍ゐなかでも御泊り成れて御覽じませ海道にも餘り御座ござりやせんと云に九助はノウ馬士殿私は尋たづねる人が有が此方に聞たら知れやうか誰たれで御座ります然れば元は御殿場の者ではない最早もはや十五六年以前いぜんに來て今では村の人に成たとの咄はなしイヤ御殿場も上下かみしも掛かけて二百軒餘有から名を聞ぬ中は知れやせん成程然樣で有う元は遠州ゑんしうの者在所に居る時は九郎兵衞と云たが今は何と云かと云顏を件くだんの馬士は熟々つく〴〵見て手綱たづなを止め然いふ此方は遠州相良さがら水呑村みづのみむらから來なされたか如何にも我は水呑村の百姓なりハヽア胡瓜うりの種は盜とも人種は盜まれぬとハテ見れば見る程違ちがひない十六年以前いぜん別わかれた兄九郎右衞門が悴せがれの九助ぢやなお前は伯父をぢの九郎兵衞樣かと互たがひに吃驚びつくり馬より轉まろび落手おちてに手を取交かはし悦よろこび涙なみだに咽むせびけり姑しばらくして馬士まご云樣話は宅うちで出來るから日の暮くれぬ中馬うまに騎のらつせへ否いや伯父をぢ樣と知ては勿體もつたいない馬鹿ばかを云へ御殿場迄ごてんばまでの旦那殿だんなどのと讓合ゆづりあう中何時か我家の表おもてへ來りしが日は西山へ入て薄暗うすくらければ外より是お里遠州ゑんしうの兄が來たと云にお里は應あいと云出る此家の構かまへ昔は然るべき百姓とも云るれど今は壁かべ落おち骨ほね顯あらはれ茅かやの軒端のきばの傾かたむきて柱はしらに緘からむ蔦葛つたかづら糸瓜へちまの花の亂みだれ咲ざき住荒すみあらしたる賤しづが家に娘のお里は十七歳縹致きりやうは人に勝すぐれしかど容體なりふりもなく缺茶碗かけぢやわんに澁茶しぶちやを酌くんで差出す盆ぼんも手薄てうすな貧家ひんかの容體ありさま其の内に九助は草鞋わらぢの紐ひもを解とき足あしを洗ひて上に上あがり先お里へも夫々それ〴〵の挨拶あいさつして久々ひさ〴〵の積つもる話しをなす中に頓やがてお里が給仕きふじにて麥飯むぎめしを食終くひをはりし後九助は金二兩土産みやげに出し九郎右衞門が遺言ゆゐごん并びに伯父をぢ樣の分米ぶんまいの田地でんぢ十二石手を付ずに今以て村預あづけに成て居ますと話すを九郎兵衞は聞て大いに悦び我等儀われらぎ段々だん〳〵の不仕合ふしあはせ故今は古郷こきやう忘れ難く何か此上は娘お里を手前の女房になし親の名跡みやうせきを立て呉と潸々さめ〴〵と涙なみだを落おとせしかば九助は母の遺言ゆゐごんもあり殊に亡後なきのちは伯父をぢは親なりお前樣は村方の處を何なりと片付かたづけて置れよ私しは江戸の用事濟すみ次第引返ひきかへし古郷こきやうへ御同道ごどうだう致しませうと一宿しゆくして申合せ翌朝よくてう江戸へ赴きける九郎兵衞は跡にて村役人始はじめ親類へも委細ゐさい話せば皆々は厄病神やくびやうがみを拂はらふ樣に心得居屋敷并に少の畑はたは親類へ引取九郎兵衞親子は九助が戻りを待居たり


第二回


 偖も九助は江戸の用向滯とゞこほりなく相辨あひべんじ歸り掛がけに又々御殿場てんばへ立寄たちより伯父九郎兵衞の親子を同道なし古郷こきやう水呑村へ立歸り夫より直に當時の名主なぬし惣左衞門方へ九郎兵衞同道にて參りければ惣左衞門は昔より九郎兵衞と相口あひくち故早速さつそく領主りやうしゆの役場やくばへ申立歸村の儀を取計ひ豫かねて預あづかりの田地十二石餘り九郎兵衞へ相渡し娘お里を九助が妻と致させて是より互たがひに稼かせぎける然れども只今は親九郎右衞門が讓ゆづりの田地は質しちに入てあるゆゑ伯父の田地のみにて萬事足ぬ勝なる上九郎兵衞も徐々そろ〳〵地金ぢがねを出し九助を意地いぢめ入聟いりむこ同樣に囂やかましく朝夕てうせき云ける故九助も何卒亡なき母が遺言ゆゐごんの如く田地を請け戻もどし度と豫かねて心懸がけ居たることなれば江戸へ出て一稼かせぎなさんと思ひ九郎兵衞とも種々相談なせし上女房お里にも得心とくしんさせ夫より九助は支度をなし江戸表にて奉公すべしと暇乞いとまごひして出立なし既すでに藤枝ふぢえだより岡部をかべを過て宇都谷峠たうげに到れば絶頂ぜつちやうの庵室あんしつ地藏尊ぢざうそんの境内けいだいに西行さいぎやうの袈裟掛けさかけ松あり其所の脇わきへ年の頃五十位と見ゆる旅僧そうのやつれたるが十歳許りの女の子を引立來り彼の僧そう目めを剥出むきだし是サ此子は怖こはい事はない此伯父と一所に歩行々々あゆめ〳〵と引摺ひきずり行を娘はアレ〳〵勘忍かんにんして下されませ母樣かゝさまが待て居ますと泣詫なきわびるを旅僧たびそうは扨々さて〳〵囂やかましい強情者がうじやうものめと無理無體むりむたいに引摺々々ひきずり〳〵行處へ九助は何氣げなく行掛ゆきかゝりければ彼の娘は九助を見るより大いに悦び小杉こすぎの伯父樣此坊主ばうずが勾引かどはかしますアレ〳〵伯父樣々々をぢさま〳〵と云れて九助は何ぢやと立止たちとゞまるを旅僧は是を見と等く是は堪たまらぬと其儘後をも見ずに逃行にげゆきけり斯て彼の娘は九助に向ひ御前樣の御蔭かげにて助かりたり今の坊主は私しを無理無體むりむたいに引立て柴屋寺しばやでらの畑屋はたやから茲迄連て來ましたゆゑ勾引かどはかしと存じ小杉の伯父樣と申ましたので御座いますと云ひけるにぞ九助は扨々さて〳〵子供に似合にあはぬ利發者りはつもの家は何處どこぞと尋ぬるに阿部川宿あべがはじゆくの兆てうといふ者の娘節せつと申者なりと申せば九助は憐然あはれに思ひサア〳〵宅迄うちまで送つて遣やらんと手を引つゝ阿部川宿の宅たくへ到いたり見るに母は中氣ちうきにて手足協かなはず一人の娘を相手あひてに難儀なんぎの樣子なり娘お節は母に向ひ右の次第を委細くはしく話せば母は大いに驚き且かつ悦よろこび九助に逢て厚あつく禮を述のべ今宵は此家に泊り給へと達たつて止とゞめけるゆゑ其夜は其處へ泊りしに娘お節は米こめをとぎ味噌みそを摺すり最いと忠實まめ〳〵しく働はたらく體さま如何にも孝子と見えけるゆゑ九助も不便ふびんに思ひ勝手元迄かつてもとまで手傳てつだひて少し乍ながら母公はゝごに何ぞ進まゐらせられよと錢一貫文くわんもんを遣やりければ母子は有難涙なみだを流し幾度となく伏拜ふしをがみたり扨も翌朝九助は懇切ねんごろに暇乞いとまごひして此屋を立出道中だうちうを急ぎ日ならず江戸に着ければ知己しるべの周旋せわにて日本橋室むろ町三丁目の番人に抱かゝへられ勤つとめけるが元來正直しやうぢきの九助故町内の氣請きうけ能よく月に三貫文の外に草履ざうり草鞋わらんぢ其他荒物飴あめなど賣ける中駿河するが町越後屋三家の掃除さうぢを引請しにより彼是月に二兩位に成りしとぞ或夜廻まはりの節霜月しもつき末すゑの事にて寒氣烈敷はげしく雪は霏々ちら〳〵と降出しゝ中を石町の鐘と倶ともに子刻ねのこくの拍子木を打乍ら小路々々こうぢ〳〵を廻らんと桐山きりやま三甫ほが見世の角迄かどまで來りし時足の爪先つまさきへ引掛る物ありしゆゑ何心なく取上見れば縮緬ちりめんの財布さいふなりしかば町内を廻り仕舞しまひ取出し改あらため見れば小判八十兩ありて外には書付かきつけもなきゆゑ驚おどろきながら早々さう〳〵町役人へ屆けしに行事ぎやうじ打寄相談の上訴うつたへ出猶なほ町内へも札を出し公儀にても御詮議ごせんぎありし處更に請取うけとる人の出ることもなく一年程ほど經へて後番人九助儀町役人共差添さしそへ町奉行所へ罷まかり出べき旨差紙さしがみに付家主五人組ぐみ名主同道にて罷まかり出けるは舊冬きうたう九助が拾ひろひし金八十兩殘のこらず下し置れしにより九助始め町役人一同有難く頂戴ちやうだいして歸り殊ことに九助は夢ゆめかとばかり打悦うちよろこび居たりし處其夜子刻ねのこく頃廿四五の男番屋ばんやをホト〳〵敲たゝきて入來り御目に懸かゝるは初はじめてなれど私わたくし事去年きよねんの冬金子を落おとしたるは斯々かく〳〵なりと段々譯を咄し其節請取に罷出ませうとは存じたれども大金を粗末そまつに致したる儀に聞えも惡わるく其の上世間へパツと露顯ろけん致しては奉公ほうこうも出來ぬ故彼是と心を痛いためながら今日まで待合まちあはせて居ましたが今日承うけたまはればお前樣へ公儀おかみより下され候由に付右の御談おはなしを申上度たくと云ふ其譯わけは私し一人の母はゝを持ますが當年たうねん七十三歳其上病氣びやうきにて久々難儀なんぎ致し居り只今にも死しにますれば見送みおくり方も出來兼かねます故御前樣へ折角せつかく下されしを御無心むしん申も如何なれど何卒どうぞ其金をと涙なみだを流して申にぞ九助は元來もとより正直者しやうぢきもの故我が身の上に引當ひきあてて氣きの毒どくに思ひ直樣すぐさま八十兩の金を取出し扨々夫は御難儀ごなんぎ至極しごく殊ことに御老母の病氣養生やうじやうの爲に落おとしたる金を欲ほしいと云るゝ趣おもむき御道理もつとも千萬併しかし此金は去冬きよふゆ夜廻りの節せつ我等拾ひ町内ちやうないより御訴へ申上置し所落主おとしぬし無なきゆゑ今日我等へ下されしなれば親公おやごの爲と有ば進しんぜ申べし町所家主名前は何と云るゝと聞きけば彼の者然ればなり町所名前などを申位なら去年紛失ふんじつの節訴へて戴いたゞきますが私しは奉公の身の上なれば金は入らねど只たゞ老母らうぼの病を治し度一心にて出ましたに名前を申さねば御渡し下されぬとなら是非ぜひもなしと涙にむせぶ有樣如何にも實情じつじやうに見えければ九助は感じ扨々御前は孝心厚あつき御人故殘のこらず渡わたして進ぜませうと財布さいふの儘まゝ渡せしにぞ彼の者大いに悦よろこび全く御蔭かげにて老母の療治れうぢも出來ますと押戴おしいたゞき〳〵猶なほ遠とほからず御禮おれいに上りますが少しも早く母へ見せ悦ばせ度存じますと叮嚀ていねいに禮を述てぞ歸りける依て九助は本意なく思へ共親孝行の爲とあれば更に惜をし共せず頓やがて門かどの締しまりをなさんと爲するに上り口の草鞋わらぢ草履ざうりなどの中に何やら帛ふくさに包つゝみしものありて其匂にほひ芬々ふん〳〵たり不審いぶかりながら披ひらきて見れば金の五六寸四方の箱はこの中に名香めいかうあり是は那あの人が落して行しならん今に心付ば取に來るべしと思しが待てども參らざれば其の夜は寢いね翌朝九助茶ちやを飮のんで居る處へ二丁目の番人作兵衞といふ者來り四方よも山の咄はなしの中此匂にほひを嗅かぎ不審に思ひながら歸ると程なく定廻ぢやうまはりの同心どうしん來りて行事を呼寄よびよせ名香めいかう紛失ふんじつにつき内々の御調しらべゆゑ藥屋くすりや共へ吟味致す樣申付るを聞きゝ番人作兵衞は勝手より這出はいいで旦那樣不思議ふしぎの事が御座ります三丁目の番の所にて云々と話せば同心は夫と九助を呼寄よびよせて吟味ぎんみなすに其の品は昨夜草鞋わらぢを買に來りし者が落して參りし故取置ましたと言にぞ早速さつそく取寄て見改めたるに内々御詮議せんぎの品に相違さうゐなく因て送り状じやうを認したゝめ九助を町奉行所へ送りたり時に享保二年九月廿一日大岡越前守殿町奉行始めての白洲しらすなれば別て與力よりき同心どうしんの役々威儀ゐぎ嚴重げんぢうに控へし所へ九助は怖々おづ〳〵罷出るに越前守殿之を見られ其方手元に之有し伽羅きやら一兩目餘入たる金の香箱かうばこは細川越中守方より訴へに及びし紛失ふんじつの品なり其方如何して所持しよぢ致せしや有體ていに申せと云はれしかば九助は首かうべを上私し小屋へ十九日の夜子刻こゝのつ過頃ころ草鞋を買かひに參りし者が歸りし後に右の品が御座りしゆゑ其者が落せしことと思ひ取に戻もどらば遣つかはさんと存じて差置さしおきましたと申立るに越前守殿否其方は町内の番人も致す身ゆゑ落し物と知らば町役人共へ話聞せ其の上にて町内へ札ふだでも出すか又は公儀こうぎへ訴ふべき筈はずなるを何故其儘に差置たるぞと有ば九助ヘイ恐おそれながら大方直すぐに取りに參まゐりませうかと存ぞんじまして其儘姑しばらく差置ましたと云に越前守殿否々いや〳〵其方は町役人の下を致いたしながら申分が暗くらいぞ大方金でも取て人から預あづかりたるならんと申さるれば九助は眞面まがほに成イヱ〳〵全く以て然樣な儀には御座りませぬと云にぞ大岡殿は町役人共へ九助が日頃町内の勤方つとめかたは如何やと尋問たづねられしに九助儀は極の正直者にて去年の十一月下旬げじゆん夜廻りの時金八十兩拾ひろひ其の節私し共へ申聞し上御訴へに及び置し處落主おとしぬし之無きに付一昨十九日右金子を九助へ下し置れましたと申立るに越前守殿ジツと九助が顏を見られしか暫時しばらく控ひかへよと申さるゝ時常盤橋ときはばし御門番松平近江守殿あふみのかみどの番頭ばんがしら夏目なつめ五郎右衞門より差出したる者兩人足輕小頭こがしら一人足輕あしがる六七人附添そひ罷出しに其者共の風俗ふうぞく何れも棧留さんとめ綿入の上へ青梅の袷あはせ羽織を着年は廿四五歳にて差出しの書面は左の通り

覺

一此者このもの共儀今曉こんげう寅刻なゝつどき頃主人近江守持場もちば御橋の中程に於て口論こうろん箇間敷がましき儀申募つのり居候故番所より聲掛こゑかけ追拂はんと致せし處一圓退去たいきよ仕つらず互いに掴つかみ合金八十兩を双方さうはう自分の物の由申爭ひ候段御場所柄ばしよがらをも顧かへりみず不屆きの次第故早速さつそく取押へ町名家主等相尋あひたづね候へ共何か取留とりとまらぬ申口くちにて至極しごく怪敷あやしく存じ候間其儘差出候に付御吟味下さるべく候以上

松平まつだひら近江守家來けらい番頭ばんがしら
九月廿二日
夏目なつめ五郎右衞門
同人どうにん家來給人きふにん兼かね目付めつけ
荒川源助あらかはげんすけ
大岡越前守樣
御役所

右みぎ讀終よみをはる時役人立出て兩人請取うけとり松平近江守殿家來は早々退けり時に越前守殿二人の者を見られ其方そのはう共身分は何なりやと尋たづねらるゝ一人進み出私しは下谷山崎町源次郎と申者私しの金かねを此者が自分じぶんの金なりと申て無理むりに取んと致せし故竟つひに大きな聲こゑを出し御見付にて叱しかられ候と申立るに今一人も進み出恐おそれながら申します私しは神田佐久間町一丁目番組ばんぐみ宿屋やどや上州屋軍助ぐんすけ方手代利三郎と申者私の金を此源次郎我が金だと申候と又々爭あらそはんと爲すゆゑ越前守殿兩人共默だまれと聲を懸かけられ其方共此金子八十兩は如何樣の筋すぢで爭あらそふぞ富とみでも取とつたか又は拾つたのかと申さるゝに兩人はハイとばかりにて答へも爲ざればコリヤ何致どういたしたサア有體ありていに申立よと有ければ漸々やう〳〵利三は頭かうべを上夫は私しの親共より讓ゆづり金なりと云に越前守殿然すれば汝等は兄弟か兩人否いへと云ば越前守殿ソレ縛しばれとの聲に連つれ兩人を高手たかて小手に縛いましめ左右へ引据すゑたり此時九助は其者の顏を見て吃驚びつくりなしコレ〳〵貴殿こなたゆゑに私は此通とほり御番所へ送られ迷惑めいわく致せり貴殿が落して置た帛紗包ふくさつゝみ大方取に來るで有うと思ひ今日迄待まつて居しにヤレ〳〵嬉うれしやと涙なみだを流しながら正面しやうめんに向ひ右の帛紗ふくさ包を落おとしたるは此者なりと申立るに大岡殿其者に向はれ汝は此帛紗包を室町むろまち三丁目番小屋の前に忘わすれ置たる由汝おのれが盜ぬすんだか但しは同類どうるゐの手から請取たかと糺たゞさるゝに盜賊は空嘯そらうそぶいて一向存じ申さず殊に那者あのものは見た事もなき人なりと云九助は大いに急立せきたち全く那あの者が草鞋わらぢを買に參りしと申せしは僞いつはり今は何を隱かくしませう去年夜廻よまはりの節金八十兩拾ひたるを此程御番所より戴いたゞきし其夜此者が參り斯々申て其金を持歸りし後に其帛紗包ふくさつゝみが落て有しと申に夫は此金かと財布さいふの儘まゝ投出なげださるゝを九助は見て是で御座りますと申にぞ越前守殿點頭うなづかれ九助汝おのれは餘あまり正直しやうぢき過すぎる此上我が金だと云者有ば公儀かみへ訴にて渡せ決けつして相對あひたいで渡すなハテサテ正直な奴も有ばあるもの御用相濟あひすんだぞ連歸つれかへれと有ければ町役人共九助を連て歸りけり


第三回


 斯て九助は五ヶ年の間辛抱しんばうをなし殊に今度このたび奉行所より賜たまはりし金を合すれば百六七十兩の金子にも成しゆゑ古郷こきやうへ歸かへり豫かねての望みの如く先祖せんぞの跡を立んと出立の支度したくして伯父をぢ始めへの土産物みやげものを種々しゆ〴〵整とゝのへ江戸錦繪淺草海苔館林たてばやし團扇うちは其外田舍ゐなか相應さうおうの品々を買求かひもとめ荷造にづくりをして町内の飛脚屋ひきやくや十七屋とをつやより先へ廻まはし夫より名主なぬし家主町代ちやうだいは申に及ばず懇意こんいの先々へ暇乞いとまごひに參りしに何れも餞別せんべつをぞ呉れしかば稍やゝ二百兩近くの金を胴卷どうまきへ入古郷を指さして旅立ちしが先阿部川あべかはへ立寄先年のお兆てうを尋ねけるに二三年以前相果あひはて娘お節は親類しんるゐへ引取れし由故ゆゑ偖々さて〳〵變り果たる浮世かなと呟つぶやきながら鞠子まりこの宿しゆくも越こえ宇都谷峠たうげに懸かゝりしに蔦つたの細道ほそみち時雨しぐれ來て心細ほそくも現うつゝにも夢にも人に逢ぬ日ひと辿たどり〳〵て岡部より早はや藤枝ふぢえだに來りし頃跡あとになり先になり怪あやし氣げなる者二三人付添そひ來れば故譯わざと相良街道さがらかいだうへは這入はひらず既に瀬戸川迄來りし時日は西山せいざんに沈しづみしかば惡漢わるもの共兩人前後あとさきより引挾はさみ御旅人酒代さかてを貰ひ度と云に九助は種々いろ〳〵と云譯をすれ共兩人の惡漢わるもの更に聞入ず直つと立寄て左右より手を引張ひつぱりし故今は是非なく盜賊々々どろばう〳〵人殺々々ひとごろし〳〵と呼叫よびさけぶに向ふより正面しやうめんに島田講中と書かき水みづの丸の合印じるしの小田原提灯ちやうちんを提さげ半合羽かつぱの穴より鮫鞘さめざやの大脇差を顯はし水晶すゐしやうの長總ながふさの珠數じゆずを首に懸し一個この男來懸きかゝりしが此容子ようすを見るより物をも云ず忽ち一人の盜賊の腕首うでくび掴つかんで瀬戸川へ眞逆まつさかさまに投込ば生死しやうしは知れず成にけり後に殘りし惡漢共ども我等が仕事の邪魔じやま爲するなと兩人等ひとしく飛とび掛るを彼男は引捕ひつとらへ汝等は往來に網あみを張旅人の懷中くわいちう胴亂どうらんに目を掛けて追剥おひはぎ強盜がうたうを爲んとする命いのち知しらずめ己を誰たれとか思ふ東海道五十三次音おとに聞えて隱れのない題目講だいもくかうの講頭かうかしら水田屋藤八を見忘れたか汝等能く聞け身延山みのぶさんの會式ゑしき戻もどり罪作りとは思へども見るに忍びぬ此場の時宜しぎ命いのちは暫時ざんじ助たすけ船七十五里の遠江灘とほたふみなだ天窓あたまの水先押曲まげて尻を十分ぶん卷まくり帆ほに早く湊みなとへ逃にげ込て命ばかりの掛り船ドリヤ梶かぢを採とらふかヱイと二人を左右へ一度に投付れば惡漢共わるものどもは天窓あたまを抱へ雲を霞かすみと逃失けり藤八は後見送りおつなせりふの機會はずみからヤア逃るは〳〵時に御旅人怪我けがは無かと九助を勞いたはり介抱なし先々今宵は私が宅うちへ御泊り成いと夫より九助を同道して藤八は我が家へ來り門口かどぐちよりサア御客だ御湯を取れと亭主の聲に家内の者は立出たちいでてソリヤ旦那樣が御歸おかへりと云つゝ一同どう出迎でむかうを藤八は是々途中から御客を連て來たと云中うちに十六七の娘甲斐々々かひ〴〵敷しく盥たらひに湯を取て持もち來り御洗ひ成れましと顏を見るより彼の娘はヤアお前は水呑村の九助樣と吃驚びつくりすれば九助も驚き然樣さう云此方こなたは阿部川のお節殿と早々さう〳〵足を洗ふ中うち娘は藤八に向ひ旦那樣此お方は先年御恩ごおんを請た御人で御座りますと聞て藤八も驚き然されば豫て話の九助殿人を助けたれば又助たすけらるゝアヽ陰徳いんとくあれば陽報やうはうありとはテモ不思議と是より座敷に到いたり互に一伍一什いちぶしじふの物語りをなし九助殿明日あすは私が送つて進度あげたいが據よんどころない用事が有る故參る事は出來ず去りながら又途中にて何樣どのやうな事が有まいものでもなし然る時は百日の説法せつぽふ屁へ一ツとやらなれば金子などは先私に預けて明後日頃あさつてごろ村方の親類衆でも遣つかはさるゝか又確乎たしかな使をお立たて成なされよ其時の證據しようこには幸ひ御延みのぶの貫主くわんしゆ樣に曼陀羅まんだらの裏書を願つて書て頂いた是は私が骸からだにも替かへられぬ大切の品なれどお前に渡すサア金と引替に致さんと藤八が深切しんせつに九助も安堵あんどし百八十兩の金を預置あづけおき何角なにかと懇切ねんごろに禮を延べ又家内へも聊いさゝか心付などして藤八方を翌日辰刻頃たつどきごろ出立古郷水呑村へぞ歸りける土産物みやげものは飛脚ひきやくにて先へ送りし事故伯父をぢ九郎兵衞女房お里も待居たる處なれば皆々出迎でむかひ悦び合あふに九助は其足にて名主なぬし惣左衞門是は先年病死して悴せがれ惣内そうない當時名主役勤つとめ居るゆゑ同人方へ參り其外組頭くみがしら左治衞門周藏しうざう始め村中一同へ廻り歸村の旨申聞ける故先方よりも皆々大勢悦よろこびに來り中にも九郎兵衞は江戸の首尾しゆびを聞ゆゑ九助も段々始終の話より歸り掛けの道中にて斯樣々々かやう〳〵島田宿じゆくの水田屋が情なさけ曼陀羅まんだらの話等を爲し明日は金を請取に參るとて十界の曼陀羅を佛壇ぶつだんへ上置其夜は九助も旅勞たびつかれゆゑ前後も知らず休みしが翌朝佛壇ぶつだんを見れば日蓮上人直筆ぢきひつ十界の曼陀羅見えざるにより家内は大騷おほさわぎとなりて直樣菩提所不動院ふどうゐんを招き卜筮うらなひを頼みけるに此は色情より事起りて盜人は家内にあり女をんな成べし後には公事くじ出入にも成ん隨分身を愼つゝしまれよと云て歸りしが此時土地ところの醫師高田玄伯げんぱく通り掛しをも呼込み又々占考うらなひを頼みけるに錢ぜに六文を並べて占うらなひ此盜賊は男で御座ると云ながら歸去かへりさりけるにぞ九助は種々と工夫し其儘四里廿一丁を一息いきに飛が如く水田屋へ到り息を繼々つぎ〳〵紛失ふんじつの話をなしければ藤八は先此方こなたへと云まゝ九助は座敷へ通りけるに正面しやうめんに十界の曼陀羅を飾かざり左右に燈明とうみやう香花かうげを備へ有しかば是はと驚き問に藤八は然さればなり今朝御親類の周藏と云る人此曼陀羅まんだらと引替に金は持參致されしと聞てそれは老人で御座るかと云ふに藤八否いや皆未若わかい御人其外に喜平治きへいぢにも來られしと語るに九助夫は皆年齡としが違ひますと聞藤八ハヽア成程なるほど違ふ筈だ跡で此方にも少し胡亂うろんの儀思ひ當る事も御座れば私わたくしが明日參つて吟味致さんにより村中の者を御招まねぎあれと申故左樣なら御苦勞ながら斯樣々々かやう〳〵に致して招き置ん程に何分御頼たのみ申と約束して立歸り九助は伯父をぢに向ひ折惡敷をりあしく先方が留守るすにて分わからざれども久々ひさ〴〵家内の者村中の世話になりし事ゆゑ名主組頭親類しんるゐを始め招いて濁酒にごりざけでも飮のませ度たしと相談の上人を廻し支度をして待うち翌日に成しかば名主鵜川惣内うがはそうない後家お深組頭周藏佐治右衞門傳兵衞でんべゑ木祖きそ兵衞親類には千右衞門喜平治金助きんすけ大八丈右衞門兩隣となりの善右衞門孫まご四郎辰六角かく右衞門其外ほか多人數たにんず入來り九郎兵衞八右衞門久きう七八内忠七六之助などは分家ぶんけ故皆々勝手働き先代が取立とりたてし百姓三五郎辰八等は水を汲くみ米を炊かしぎ村方大半呼寄よびよせての大饗應おほふるまひ故村の鎭守ちんじゆ諏訪すは大明神の神主かんぬし高原備前たかはらびぜん并びに醫師玄伯等げんぱくらを上座に居て料理の種々くさ〴〵は興津鯛おきつだひの吸物すひもの鰯いわしに相良布さがらめの奴茹ぬたの大鮃濱燒ひらめはまやき鰌どぜうの鼈煑すつぽんになどにて酒宴さかもりを始め一順ひとゝほり盃盞さかづきも廻りしかば九助は密そつと座を立裏口へ出て待處に水田屋藤八密ひそかに來りければ此方こなたの小座敷へ案内なし三五郎を相手あひてに差置さしおき伯父九郎兵衞の前は道連みちづれの人が尋ねて參りしと申置おきしに藤八は軈やがて酒宴の席を覗のぞき見れば二ツ髷まげの後家の側そばに居る巴ともゑの紋もん付つきたる黒の羽織を着せし者と其傍そばに居る花色はないろの布子ぬのこを着き酌しやくをして居る兩人なりと云に那あれは當時の名主惣内そうない今一人は名主の手代源藏げんざうと云者なり扨々憎にくき奴かな今に目に物見せて呉んと云つゝ何喰なにくはぬ顏色にて九助は座敷へ出今日皆々樣を御呼立よびたて申せども是と云興きようもなく候へば只々御氣根きこんに御上あがり下されよと云に周藏は取敢あへず此周藏佐治右衞門を始め神主樣御醫師樣親方おやかたの後家樣其外皆々みな〳〵十分に下くだされたサア〳〵勝手の手傳衆てつだひしう大勢ぢや御亭主ていしゆも一ツ御上あがり成れと猪口ちよくを指させば傳兵衞も又進すゝみ出いで九助殿此傳兵衞も今は隱居いんきよしましたが先親方せんおやかた九郎右衞門殿の頃より懇意とは申ながら當年八十一歳で御座る否いやサ化ばけも致さぬが何と九助殿江戸も私が若い時とは違ちがひ日ひに増まし月に増まし繁昌はんじやうで御座らう何と珍めづらしい事はないかなと云ふ機しほに九助は膝ひざを進め別段べつだん何も珍らしき事も御座らぬが差當さしあたり不思議ふしぎと申は私が江戸表にて千辛しん萬苦ばんくして貯たくはへた金子が一昨夜紛失ふんじつ致いたしました其譯は定めし皆々樣も御聞きゝ成なされたで御座らうが其金子は島田宿しまたじゆくの水田屋へ預け置右の代りに持て參りし證據しようこの日蓮樣にちれんさまの直筆ぢきひつの曼陀羅まんだら一昨夜中ちうに私が所で紛失ふんじつし誠に五年の辛苦は水の泡あわと成ましたと語るに一座の者共夫は何どうか詮議せんぎの爲樣しやうは無事哉と云ば九助はイヱ夫に就て御話が御座ります天道てんだうと云者は爭あらそはれぬもので正直しやうぢきの頭かうべを照らし給ふ故其盜人が知ましたと云を聞きゝ惣内親子おやこはハツと面かほを赤らめしを組頭くみがしらの佐治右衞門は氣も付つかず進み出夫は他國の盜人ぬすびとか村内の者か憎にくき奴なり早々さう〳〵吟味さつしやれと張肱はりひぢを爲に九助はイエサ外々ほか〳〵でも御座りません那あのと惣内の面かほを見れば惣内顏かほを背そむけるを思ひ切て茲に御座る名主なぬし樣ハイ惣内殿シテ同類は手代てだい物書ものかきの源藏と語かたるを聞より名主の後家ごけお深は急立せきたちナニ九助殿貴樣きさまは親類と云いひ念頃ねんごろの中なか年若わかでも惣内は村役も致す者滿座まんざの中での泥坊どろばう呼よばはり酒興しゆきようと云ては濟すみませぬと詰寄つめよせるを九助は微笑ほゝゑみ私は氣違ひでもなく酒亂でもなければ證據しようこの無ない事は申しません曼陀羅まんだらを盜ぬすみ取り島田宿の中町水田屋藤八方へ參られて九助が親類周藏と僞いつはられしは惣内殿喜平次と騙かたりしは源藏右兩人曼陀羅を證據に百八十兩を騙かたり取と云を源藏は嗚呼あゝ是此源藏を盜人とは大それた何を證據にと目に角かど立たつれば惣内膝ひざ立直たてなほし名主役の惣内を盜人などとは言語同斷ごんごどうだんなり九助品に依り筋すぢに因ては了簡れうけん成難なりがたしと聞皆々みな〳〵四方より九助を取卷まきたり


第四回


 是を機しほに九郎兵衞は此方より飛とんで出九助の髻もとゞりを掴つかみ取て捻伏ねぢふせ齒はを喰切くひしめ拳こぶしを固かためて散々さん〴〵に叩き居すゑ汝おのれは太ふとい奴やつ江戸へ出て金を貯ため親父が質田しちたを取返とりかへすの又は百八十兩貯たくはへたの貰つたのと虚言うそ八百を吹散ふきちらし其實一文なしで家へのたり込こみ其上名主殿を始め源藏までを盜賊たうぞく呼よばはり組頭衆くみがしらしうや年寄衆としよりしうへ此伯父をぢが何の面向かほむけが成ものか盜人ぬすびと猛々敷たけ〳〵しいとは汝が事なり兄九郎右衞門殿の位牌ゐはいへ對して此九郎兵衞が云譯わけ立たゝぬ汝が親九郎右衞門に成代なりかはり此伯父が勘當する出て失うせろと猶も打擲ちやうちやくなす處へ暫しばらく〳〵と聲こゑ懸かけ一間より直つゝと出るや否いなや九郎兵衞を取て突退つきのけ名主手代を左右へ押分おしわけて動乎どつかと居すわりし男を見れば下に結城紬ゆふきつむぎの小袖二ツ上は紺紬こんつむぎに二ツ井桁ゐげたの紋所もんどころ付つきし小袖を着五本手縞の半合羽はんかつぱを羽折はをり鮫鞘さめざやの大脇差を手に持たり是別人ならず島田宿の旅籠屋水田屋藤八成ば別て惣内源藏の兩人は愕然ぎよつとしたる樣子にて俯向うつむき居るに藤八は一同へ向ひ茲な名主惣内殿并に手代の源藏兩人盜賊たうぞくと見たは違ひなしコレ名主手代の衆しう昨日きのふの朝あさ此九助殿の親類周藏嘉平次と云いつて確な證據しようこ日蓮樣の曼陀羅まんだらを持參なし引替かへにして百八十兩の金を能も騙かたり取れたなイヤサ東海道五十三次つぎ品川から大津おほつまで名を賣て居る此水田屋藤八を能も誑だまし騙かたつたなサア此上は相良さがらの役所へ拘引おびき出だし面つらの皮を剥むいて遣やらなければ此藤八の蟲が落付おちつかぬ未だ此上にも爭はゞ片端かたはしから覺悟をしろと大音だいおんに罵のゝしられし惣内源藏の兩人は今更何とも言葉なく穴へも入いりたき樣子なり然されどもお深ふか九郎兵衞は双方さうはうより進出コレ此方は藤八殿とやら千五百石の束たばねもする庄屋役を如何いかに年若としわかなればとて盜賊呼よばはりは何事ぞ是には確たしかな證據でも有ての事か是サ組頭默言だまつて御座つては濟すみますまいと怒たけり立れば組頭の周藏傳兵衞も呆あきれ居しが漸々進み出コレ藤八殿餘り大おほきな聲をさつしやるな小聲こごゑでも解わかります先當時の役頭やくがしらを盜賊呼よばはり確たしかな證據なくては云れぬ事段々だん〳〵聞きくに九助が親類と私等わしらが名をも騙かたられては猶なほ以て迷惑めいわく至極しごくと云傍そばより嘉平次も然樣々々さやう〳〵我等は百姓代だいも致す者殊ことに組頭くみがしらと申て名を騙かたり眞間まんまと欺だまして御在ござつたりと云を藤八如何いかにも是を御覽じろと一通の書付を出いだし其節證據の曼陀羅を取替行るゝ事故請取も糸瓜へちまも入ぬ譯なれど深切づくの預あづかり物生若なまわかい衆の御出に付念ねんの爲取とらずとも宜いい請取までサア御覽じろと差出すを各々取上げ披ひらき見るに

覺おぼえ

一金百八十兩也

右九助よりの預け金確たしかに請取うけとり申候處ところ實正じつしやうなり後日の爲ため請取證うけとりしよう仍よつて如件

水呑村九助親類
十一月二日
周藏しうざう 印いん
喜平次きへいじ 印いん
水田屋みづたや藤八樣

周藏喜平次始め一同此請取を見て此手跡しゆせきは源藏なり周藏が印形いんぎやうは名主なぬし惣内殿の印形喜平次のは源藏が判はん是これは如何にと周藏はお深に對ひコレお深殿此通りだが未まだ若わかい年としをして周藏や喜平次が名を騙かたるとはハテ大盜賊おほどろばうと惣内を睨にらめば後家ごけお深は堪こらへず悴惣内を押伏せ打擲ちやうちやくなせば源藏は堪り兼逃出す所を九助が親より召使ひの三五郎飛で出突然いきなり襟髮えりがみ掴つかんで捻倒ねぢたふしコリヤヽイ源藏汝は能よくも〳〵己が旦那を馬鹿にしたな汝うぬは水呑村の水呑百姓なりしを先せん旦那の御蔭にて一人前の百姓に取立られたる其恩儀おんぎを忘れ盜人ぬすびとに同意爲す爰な畜生ちくしやうめと云聲聞て勝手に働き居りし若い者又は九助が家附いへつきの親類小前の輩ともがら十二三人襷懸たすきがけにて面々飛出し彌々いよ〳〵大騷ぎとなりし故藤八は兩手を上あげ是々皆なの衆しう先々まあ〳〵靜しづかにせられよ此れ處か未々まだ〳〵お負まけがある是を惣内殿貴方あなた覺えが有うなと投出なげいだす姫路ひめぢ革の三徳を見て惣内はヤア是はと云を藤八はオヽ吃驚びつくりする筈はず貴方きさまが歸つた其跡に落して置た此三徳中は六韜たう三略の卷ドリヤ〳〵讀で聞せやう皆の衆しう膽きもを潰つぶさずにマア落付て聞給へダガ九郎兵衞殿此方こなたの娘も偖々枇杷葉湯びはえふたう誰にも渠かれにも大振舞情の深い人さんぢや而して又庄屋の後家ごけ樣よ此方の息子むすこも物喰ものくひ宜よし何を喰ても中あたるめへサア聞なせへ〳〵

一筆ふで申上參せ候扨々思ひ掛なく九印しるし出拔だしぬけに歸國致し途方に暮參せ候豫々夫婦になり度祈いのり居候へども此の後は寛々ゆる〳〵御げんもじも心元こゝろもとなく存ぞんじ參せ候

藤八サア聞なせへ是が序開じよびらき是からが追々魂丹だと一調子張上て

此上は當處を立退たちのき鳥とり棲すまぬ山の奧おく虎とら臥ふす野邊のべも厭いとひなく御連添下され度夫のみ念じ上參らせ候右に付九助事江戸にて百八十兩貯たくはへたる金子島田宿じゆく中町の旅籠屋はたごやにて水田屋藤八と申方へ預け置割符の曼陀羅まんだら持歸り申候

藤八何どうだ村の衆しう膽きもが芋いもにも化ばけさうなもので御座らうサア〳〵茲が肝腎かんじんだ

其曼陀羅を持參致せば誰にても右の金子きんすを引替ひきかへに渡し候由承うけたまはり候まゝ竊ひそかに其曼陀羅を其方そなた樣へ御渡し申候間金子首尾能御請取下され度たく金子さへ有ば何國いづくの浦にても心の儘と存候へば一時も早く立退度たちのきたく夫のみ祈り居參せ候猶委細の事は源藏殿より御聞下きゝくださるべく候何も心急せかれ候へば先は荒々あら〳〵申上參せ候めで度たくかしく
さ 印しるし より
惣樣そうさまへ

と讀了よみをはり藤八サア是でも汝等うぬらは爭ふかと云れて九郎兵衞は今更面目なさに娘お里を引据此猥婬者めと人前繕つくらふ打擲ちやうちやくに後家ごけのお深も猶惣内を打据すゑる故一同見ても居られず組頭くみがしら周藏佐治右衞門傳兵衞木祖兵衞きそべゑ長百姓喜平次善右衞門神主かんぬし備前びぜん醫師いし玄伯等各自おの〳〵中に立入たちいり先まづ双方さうはう共に預りて此日は皆々引取しがお里は組頭周藏へ預け其夜猶なほ又周藏方へ惣内始め寄合て心得違ひの趣きに扱あつかひを入れ百八十兩の金子を殘らず戻もどしければ九助はお里を是迄の縁と斷念あきらめ殊に伯父の娘なれば嚴きびしき事も成難しと千辛しん萬苦くして貯ためたる金の中を五十兩分與わけあたへ離縁りえんなせしかば村中の者共も又中に立入双方さうはう和談わだんの上お里を惣内の女房とし續て伯父の九郎兵衞も惣内方へ介抱人かいはうにんに這入はひりお深と夫婦になりて消光くらし居たり其後九助は親九郎右衞門が質に入置たる田地を請戻し譜代ふだいの召使めしつかひ三五郎を鍬頭くはがしらとして元の如くに家を起しければ家付きの親類周藏喜平次を始感心かんしんなし獨身どくしんにては不自由ふじいうならんと島田宿しまだしゆくの水田屋へ到りて種々相談の上姪めひのお節を貰もらひ度由を云入ければ藤八も一同どうの深切しんせつを感じ喜びお節を己が養女やうぢよとして支度したくも立派に調へ水呑村九助方へぞ送りける茲に又惣内は九郎兵衞に惡智慧わるぢゑを加れ村中の山林さんりんを賣うり或ひは質入しちいれなどにせし事顯あらはれければ村方小前一統とう百五十軒集合しふがふして惣内が不埓ふらちの筋すぢを算かぞへ立たて那樣成あのやうなる名主は役に立ずと連判れんばんを以て組頭へ差出せしに依より組頭くみがしら共種々いろ〳〵宥なだめ扱ひけれども勿々なか〳〵一同承知しようちせざれば止やむを得ず領主りやうしゆ役場やくばへ申立て惣内は名主役やく取上あげられたり扨又惣百姓連印れんいんを以て九助は親の跡故是非跡役仰付らるゝ樣にと本多長門守殿郡奉行へ願書ねがひしよを差出しければ願ひの通り川口九助へ名主申付られ村方の者喜び睦しく暮しけり


第五回


 茲に又駿府すんぷの加番衆かばんしゆ松平玄蕃頭殿の家來けらいに石川安五郎と云ふ若侍士わかざむらひありしが駿府二丁目の小松屋の抱かゝへ遊女白妙しろたへが許もとへ通ひ互ひに深くなるに付廓さとの金には迫つまるの習ひ後には揚代金あげだいきんも滯とゞこほり娼妓しやうぎが櫛笄くしかうがひ衣類いるゐまでも無なくしての立引に毎晩まいばん通ひ居たりしが早晩いつしか二階を謝斷せかれしが煩惱ぼんなうの犬に追おはれ猶なほ懲こりずまに忍び通ひける中うち或夜あるよ若わかい者共の目に懸かゝり引捕ひつとらへられ桶伏をけふせにぞせられける是は据風呂桶すゑふろをけを伏ふせ其上へ大いなる石を上あげ鐵砲を引拔ひきぬき其穴より僅わづかに食物を入るのみ其樣彼の軍鷄籠とうまるかごを伏たる如くなり古昔むかし廓くるわと唱となへ大門おほもん御免の場所には之ありしとなり然ば白妙しろたへは大いに歎なげきしが或日饅頭まんぢう二ツを紙に包み禿かむろ躑躅つゝじを密そつと招まねき是を桶をけの穴あなより入れさするに安五郎忝かたじけなしと何心なく饅頭まんぢうを二ツに割わるに中に少ちひさく疊たゝみし紙ありければ不審ふしんに思ひ披ひらき見るに

今宵こよひ子刻頃こゝのつどきごろ廓くるわを立退たちのき候積つもり委細ゐさいは大門番重五郎が情なさけにてお前樣は柴屋町へ先へ御出なされお待合まちあはせ下さるべし何事も御げんもじの節と申殘のこし參らせ候かしく

と認したゝめて有ある故ゆゑ安五郎は此兩三日桶伏をけふせの恥辱ちじよくに逢あひ無念むねん至極しごくに思ひ晝夜ちうや寢ねもやらず居る處成ば文を見て扨は重五郎日頃ひごろ我に辛つらく當りしは却かへつて情なさけ有ありし事かと龍門りうもんの鯉こひ天へ昇のぼり無間地獄むげんぢごくの苦痛くつうの中へ彌陀如來みだによらいの御來迎ごらいかうありて助を得たる心地して大いに悦び今や時刻じこくと待居たりしが心の緩ゆるみよりとろ〳〵と睡眠まどろむ中うち雷らいの落たる如き物音に夢は破やぶれて四邊あたりを見れば晴はれ渡りたる北斗の光ひかり晃々ぴか〳〵として襟元えりもとへ落る木滴きしづくに心付見れば桶をけは側そばに打返して有しにぞ彌々いよ〳〵不審ふしんに思ひ彼方此方かなたこなたと見廻す中彼の重五郎は柳の小蔭こかげより衝つと立出小聲にてアヽ若もし安五郎樣私は白妙樣しろたへさまには遁のがれぬ縁の有者此の處にての長談ながばなしは無益なり少しも早く鞠子まりこの奧の柴屋寺しばやでらへ御出成れて御待あれ委細ゐさいは白妙樣から御話はなし有ん私しも後より花魁おいらんの供をして追着おひつきます早う〳〵と云ければ安五郎はオヽ何も云ぬ重五郎殿忝かたじけないと空を霞かすみに遁のがれ出頓やがて阿部川を打越うちこえて柴屋寺へと急いそぎける(柴屋寺と言は柴屋宗長が庵室あんしつにして今猶なほ在ありと)既に其夜も子刻こゝのつの拍子木ひやうしぎ諸倶もろとも家々の軒行燈のきあんどんも早引て廓くるわの中も寂寞ひつそりと往來ゆきゝの人も稀まれなれば時刻じこくも丁度吉野屋よしのやの裏口うらぐち脱ぬけて傾城けいせい白妙名に裏表うらうへの墨染すみぞめの衣を假かりの隱れ簑みの頭巾づきんの上に網代笠あじろがさ深ふかくも忍ぶ大門口相圖あひづの咳せきに重五郎其所へ御座るは花魁おいらんかと言れて白妙回顧ふりむきオヽ重さんか安さんはへ其安さんは最もう疾とくに鞠子まりこへ行て待てゞ在ば暫時ちつとも早くと打連立うちつれだち彌勒みろく町を後あとになし渡り求むる阿部川の此方の岸へ着つく船ふねへ飛乘とびのる機會とたんに後うしろからヤレ待居まちをらう重五郎と追駈おつかけ來るは別人ならず江尻えじりの宿の落破戸ならずもの儀右衞門と云男なり最いとも白妙が馴染客なじみきやくにて是迄多くの金銀を遣ひ手にも入ず白妙を今失ひては口惜くちをししと追駈おつかけ來り逃亡者かけおちものを渡せばよし萬一渡さずば汝れ迄刀の錆さびにして遣ると氷の如き一刀引拔ひきぬき終つひに重五郎を切殺きりころし心急せきたる其餘り煙草たばこ入を落せしを氣も付ず跡あと晦くらまして逃去にげさりけり其隙ひまに船は向うへ着しかば白妙は急ぎ船より上りて柴屋寺へ馳來り安五郎に逢あひ今何者か追來たり斯々なりと物語り何分此所は危ふしと云にぞ安五郎も打驚き然らば早々落延おちのびんと白妙の手を取此所を立出て島田宿なる水田屋藤八方へ到り豫て侠氣をとこぎの事を聞及べば是迄の始末を語り當分我等兩人を匿かくまひ呉る樣にと只管ひたすら頼たのみけるに男を磨みがく藤八ゆゑ早速さつそく承知しようちはなしけれども當所は街道端かいだうはたにて人の目にも付易し幸ひ相良領さがらりやうの水呑村にて九助と云ふは我等が親類なれば同所へ行て居られよ其中には二丁町の方は片を付て進ぜますと受合九助への手紙てがみを書かいて渡せば二人は悦よろこび厚あつく禮を述て直樣水呑村へと立出けり爰に水呑村の鵜川惣内は名主退役たいやくの後彌々いよ〳〵村中の氣請きうけ惡あしく加之そのうへ九助の金の一件より盜賊の惡名あくみやうは消きえず身代は日に増に傾かたむきけるが是に引かへ九助方は益々ます〳〵繁昌はんじやうなすを見るに付聞に付口惜さ限りなく何事か有あれかしと窺ひ居たりし中金谷村に大法會だいほふゑありて續合つゞきあひの事故九助惣助九郎兵衞お里等も其席へ到りしに此時九助は混雜こんざつの紛まぎれに紙入かみいれを忘れて小便せうべんに立しを惣内九郎兵衞は面かほを見合せ點頭うなづきながら竊そつと其紙入そのかみいれを取隱かくし法事も濟し後何喰なにくはぬ顏にて其場を立去さり途中へ出て彼の紙入を改め見るに金五兩二分と島田宿の水田屋藤八より九助へ送りし手紙あり是は何かの種に成んと九郎兵衞は懷中くわいちうなし五兩二分の金を得たれば久々ひさ〴〵にて一杯ぱい飮のまふと或料理屋あるれうりやに立入たちいり九郎兵衞惣内夫婦三人車座くるまざになり獻さしつ酬おさへつ數刻すうこく酌交くみかはせしが良やゝ夜よも戌刻過いつゝすぎ漸やうやく此家を立出九郎兵衞は殊の外の酒機嫌さけきげんにて踉々よろ〳〵蹌々ひよろ〳〵とし乍ら下伊呂村しもいろむらの外はづれへ來掛きかゝりし頃は早はや亥刻よつに近くて宵闇よひやみなれば足元も暗くらくお里は大いに草臥くたびれしと河原の石に腰こしを掛るに九郎兵衞惣内も同く石に腰こしを掛かけ火打道具ひうちだうぐを取出し煙草たばこくゆらせ居たりしが九郎兵衞は彌々いよ〳〵醉ゑひが廻り頻しきりにほく〳〵居眠ゐねふるに終つひに其所へ正體しやうたいもなく打臥うちふしたり依て惣内お里は夫に當惑たうわくなし何か醉ゑひの醒さめる藥はなきやと考へしに惣内は不圖ふと心付此宿外れに藥種屋有ば夜中ながらも呼起よびおこして早々藥を求め來らんお里は其中うち九郎兵衞殿を介抱かいはうせよと言置て尻引からげ馳行はせゆきけり然さなきだに白晝ひるさへ人通りなき相良の裏道うらみち殊に夜中なれば人里遠く麥搗歌むぎつきうた鳥とりの宵鳴よひなき遙かに聞え前は名に負おふ大井川海道かいだう一の早瀬にて蛇籠じやかごを洗ふ波の音は狼みの遠吼とほぼえと倶ともに物凄ものすごくお里は頻しきりに氣を揉もめども九郎兵衞は前後も知らず高鼾たかいびき折から川の向よりザブ〳〵と水を分わけ此方こなたへ來る者ある故お里は是を透すかし見るに生憎あひにく曇りて黒白あやめも分ず怖々こは〳〵ながら蹲踞つぐみ居れば件くだんの者は河原へ上あがり背せより一人の女を下しコレ聞よ逃亡者かけおちものと昨日から付纒つきまとひつゝやう〳〵と此所へ引摺ひきずり込こむまでは大に骨ほねを折せたぞサア是からは汝うぬが身を彌勒町みろくまちなる吉野屋へ拘引つれて行て渡さうかそれより直すぐに濱松へ賣て呉くれるが早道はやみちだイヤ〳〵歩行あるけと引立るに女は涙聲なみだごゑ震ふるはせ私は其樣な者ではない二世迄まで掛かけし夫の有身金が欲ほしくば此邊へんに知る人あれば其家まで行たる上は幾干いくらでも望のぞみの通り上ます程に何卒免ゆるして〳〵と詫るを何だ喧やかましい贅言たはごと云ずと此己おれを叔父だと云ぬかせば濟すむ事だと罵のゝしる聲の耳に入いり九郎兵衞は不圖目を覺さまし猶も樣子を打聞うちきくに詫わびる一人の女の聲扨は我今眠ねぶりし中惡物わるもの共がお里を捕とらへ勾引かどはかさんとなす事ぞと寢ぼけ眼に立上り汝おのれ曲者くせもの遁のがさじと聲を知るべに打掛れば彼の曲者くせものは驚きながら見付られては後日の妨さまたげムヽと點頭うなづき傍邊かたへに落し松の小枝こえだを取より早くオヽ合點がつてんと受止つゝ強氣がうき無慚むざんに打合に年は寄ても我慢がまんの九郎兵衞茲に專途せんどと戰へども血氣けつき盛さかんの曲者に薙立なぎたてられて堪得たまりえず流石の九郎兵衞蹣々よろ〳〵と蹌よろめく處を滅多めつた打無念々々と跡退あとじさり既に斯よと見えける處へ惣内は息切いきせきと引返し來り爭あらそふ聲を聞や否いなヤア叔父樣をぢさんか惣内か此奴はお里を追駈おつかけし盜賊たうぞくなるぞと呼よばはるに惣内心得脇差わきざしを拔より早く切付れば流石さすが不敵の曲者も二人が太刀先に恊かなひ難く河原の方へ逃行にげゆきしが以前の女の彷徨さまよひ居たるを其儘に引抱へ又駈かけ出せば九郎兵衞は遣らじと後より飛とび掛れば忌々いま〳〵敷やと惡漢は女を撞どうと投出す機會はずみに切込九郎兵衞が刄やいばに叫あつと一聲叫さけび女の體は二ツになり無慚むざんの最期に惣内はお里と心得心も空そら汝おのれ女房の敵かたきめと追詰々々切結むすび九郎兵衞諸共もろとも曲者を終つひに其場へ切伏ふせたり斯て兩人はホツと一息いき吐つく處へお里も遁やがて駈かけ來り其所に御在いでは父樣かといふ聲聞きいてオヽお里か能マア無事でと親子三人怪我けがのないのを悦び合中遠山影とほやまかげに差昇のぼる月の明りに透すかし見て然すれば此等の者共はと男女の死骸に當惑たうわくする色を見てとり九郎兵衞は其方そのはう兩人ふたりは豫かねてより望のぞみの如く江戸へ行ゆき充分しつかり金を貯ためるがよい己も其中後より行んと彼の兩人の着類を剥取はぎとり惣内お里へ着替きかへさせ跡の始末は斯々と耳に口寄よせ囁さゝやきつゝ暫時ちつとも疾はやく立去れと指揮に點頭うなづき夫婦の者は先刻さつき盜ぬすみし九助の金の遣ひ殘りを受取て親父樣無事でと打分れ江戸の方へぞ急ぎける斯て九郎兵衞は二人の首くびを切落し傍邊かたへに小高き岳をかの有しかば小松こまつの根を掘ほりて埋うづめ又死骸の傍邊へは彼盜し紙入かみいれを落し置是で好よし迚とて翌朝領主りやうしゆの役場へ出惣内夫婦昨夜大井河原おほゐがはら下伊呂村にて切殺され罷在まかりある由人の知せにより早速さつそく馳付はせつけ見屆候處全く同人夫婦に相違無之其傍邊に九助の紙入落おち之有これあるにより同人所業わざと存じ候旨訴へに及びけり茲こゝに又九助の女房お節は今年ことしは實母じつぼの七回忌くわいきにも當るに付上新田しんでん村無量庵むりやうあんの住職ぢうしよく大源だいげん和尚と申は善知識ぜんちしきにて人の尊敬そんきやうも大方ならずと承まはれば是へ布施ふせを上て回向ゑかうを願ひ度と夫九助へ頼みければ九助も其孝心を感じて今金谷村より歸りし草臥足くたびれあしをも厭いとはず再び白米五升と鳥目てうもく二貫文くわんもんを自身に背負せおひ行ゆき大源和尚げんをしやうへ回向を頼みしかば和尚も其志操こゝろざしを感じ懇切ねんごろに供養くやうをなして後九助の額を熟々つく〴〵と見貴殿こなたは大なる厄難やくなんあり是は遁のがれ難きにより隨分ずゐぶん愼つゝしみを第一に致されよと申を聞て九助は大に驚き立歸たちかへりしが途中下伊呂村いろむらの堤つゝみにて一人の武士に出逢あひたり武士は小腰こごしを屈かゞめ若もし斯樣々々かやう〳〵の女に逢あひ給はずやと問掛とひかけられ九助は一向見掛ぬ旨答こたへれば彼者又水呑村に九助殿と申人が御座るかと聞きく故ゆゑハイ其九助は私しで御座ると云に夫は幸さいはい某しは松平玄蕃守げんばのかみ家來石川安五郎と申者樣子有て今御尋たづね申處なりと懷中ふところより書簡てがみを出して渡し何れ妻を尋ね出して後其方へ參まゐらんにより其節はよきに頼むと約やくしつゝ安五郎は又々後の方へ引返ひきかへしける九助は彼の手紙を見れば島田宿の藤八よりの名宛なあてなれば披ひらき見るに安五郎白妙しろたへの兩人を匿かくまひ呉くれよとの頼み故其儘懷中なし夜に入しかば急ぎ歸る河原にや何やら跌つまづきしが死骸しがいとも氣が付ず行過たり彼の安五郎は九助に分わかれ妻の行方を尋る中彌生やよひの空も十九日子待ねまちの月の稍やゝ出て朧おぼろながらに差かゝる堤つゝみの柳やなぎ戰々そよ〳〵と吹亂ふきみだれしも物寂寞さびしく水音みづおと高たかき大井川の此方の岡をかへ來掛かゝるに何やらん二疋ひきの犬が爭あらそひ居しが安五郎を見ると齊ひとしく咥くはへし物を取落おとし何所ともなく逃行にげゆきけり安五郎は彼の品しなを何やらんと立寄見れば女の生首に犬の齒形の殘りて居れば驚きながら猶なほよく〳〵見るに見違方まがうかたなき白妙しろたへが首故ヤヽ是はと吃驚びつくりなし首を抱だき上げ胡鷺々々うろ〳〵聲コリヤ白妙何どういふ事で此有樣何者の所業ぞや何國に影かげを隱すとも此讐あだを討ずに置べきやと血眼になりて怒いかれども歎くに甲斐なき此場の時宜しぎ實げに哀あはれを止とゞめける


第六回


 時に後ろの方に當り生者必滅しやうじやひつめつ會者定離ゑしやじやうり嗚呼あゝ皆是前世ぜんせの因縁いんえん果報くわはう南無阿彌陀佛と唱ふる聲に安五郎は振返ふりかへり見れば墨染すみぞめの衣に木綿もめんの頭巾づきんを肩かたまで掛け杖に縋りし一人の道人なりしにぞ安五郎は側そばに立寄貴僧きそうは何所の御出家なるか知らねども是なるは某それがしの妻にて候が如何なる前世の因縁いんえんにや今日圖はからずも何者にか首を切られ胴どうさへ見えぬ此形容かたち何卒なにとぞ御情に御弔とむらひ下され度と涙ながらに頼みければ出家は點頭うなづき其は心易やすき事かな早々さう〳〵生死の迷まよひを離れて涅槃ねはんの道に引導すべければ是より我が庵いほりに參られよとて夫より上新田村の無量庵へ同伴どうはんなし懇切ねんごろに弔ひければ安五郎は厚あつく禮を述のべ其身は故郷こきやうへ赴おもむく由申暇乞いとまごひして立出たり扨又郡奉行松本理左衞門方にては九郎兵衞の訴により九助を早々さう〳〵召捕めしとるべしと下役やく手代黒崎又左衞門市田武助の兩人に申付て手先てさきの者を召連つれ九郎兵衞の案内あんないにて九助方へ踏込ふみこみ來り上意と聲こゑ掛かけ忽ち九助を高手小手に縛いましめければ九助は膽きもを潰つぶし是は何事なりやと云けるを役人は發打はつたと睨にらみ何事とは白々しら〴〵し其方昨夜大井河原下伊呂村の辨天堂べんてんだうの前にて先名主せんなぬし惣内夫婦を切殺きりころしたる段だん九郎兵衞が注進ちうしんに因て明白めいはくなれば則ち召捕めしとるなりと云ければ九助は彌々いよ〳〵驚て此九助人などを殺ころしましたる覺おぼえは決して御座なく是は定めし人違ちがひならんと種々いろ〳〵言解いひときける側そばより女房お節も取縋とりすがり九助は勿々なか〳〵人殺ひとごろしなど致す者では御座りませぬ何卒御堪忍かんにん成なされて下されと倶々とも〴〵に泣詫なきわびる斯る處へ譜代ふだいの三五郎も馳はせ來り其所へ平伏ひれふし御役人樣九助儀は勿々なか〳〵人など殺す樣な者では御座りませぬと右左みぎひだりより取付詫わびるを役人は其方共の存じたる事に非ずと取て突退つきのけ九助を引立る故九助は是非なき事と諦あきらめお節三五郎の兩人に對ひ必ずともに騷さわぐに及ばず我が身に覺えなき事なれば御役人樣の前で申解わけをなし今に戻もどると宥めるを下役したやく共は贅言たはごと云せず引立よと遠慮會釋ゑんりよゑしやくもあら〳〵しく足輕あしがるに繩なはを取せ相良さがらの城下へ引立行き郡奉行役所の白洲しらすへ引出したり此時上座には松本まつもと理左衞門下役手代左右に並ならび理左衞門發打はつたと睨にらみコリヤ九助汝おのれが伯父九郎兵衞の訴へに依ば其方儀昨夜下伊呂村に於て惣内夫婦を斬殺きりころし後日に知ざる樣首くびを切落し取隱かくし置たる由有體ありていに白状せよと云ければ九助は首を上あげ全く以て然樣の覺おぼえ御座なく元來もとより惣内夫婦に意趣もなければ殺す道理がと半分はんぶん云せず理左衞門は大聲に默止だまれ愚人たはけめ今朝檢使けんし吟味の節せつ死骸しがいの傍邊かたはらに汝が鼻紙入の落てありしのみならず其紙入の中には島田屋しまだやの藤八方より汝へ送おくりたる手紙も有あり殊ことに汝の衣服の裾すそに血の付たるを女房に洗はせ庭にはへ干ほして置たと有是等が確たしかな證據しようこなり然れども未いまだ爭ふか不屆者ふとゞきものめと言れて九助は彌々いよ〳〵呆あきれ果私しの紙入は昨日金谷かなや村法事ほふじの場所にて紛失ふんじつなし又衣類のすそへ血の付は金谷村の法事より歸りて後再び上新田村の無量庵むりやうあんへ相越し妻が實母じつぼの回向ゑかうを頼み夫より戻りの途中とちう大井村の河原にて宵闇の暗紛くらまぎれに躓つまづきしにて生醉なまゑひの寢て居し事と存じ其儘罷歸り今朝見ればすそは血だらけ故始はじめて驚きまして御座ると云に理左衞門其そは胡論うろんなる申條言解暗くらいぞ茲を何處と心得て然樣な前後揃ぬ儀を申す全く汝が殺したに相違有まいサア明白めいはくに申せ云ぬに於は膝ひざを挫ひしぎ石を抱だかせても云するぞと威猛高ゐたけだかに叱り付けれども九助は決して僞りは申上ませぬと云を理左衞門は少すこしも聞入ず追々吟味致さんが先今日は入牢じゆらう申付るとて此日は調もなかりける扨も九郎兵衞は早く九助を殺して己が科とがを遁れんと思ひ田地でんぢを質入しちいれなし漸々やう〳〵金を拵へて郡奉行松本理左衞門を始め手代四人へ賄賂まいないを遣つかはしけるに下役の黒崎くろざき又左衞門は異儀いぎなく承知なし又々願上の手續てつゞきを内々差圖さしづしければ九郎兵衞は渡りに舟と再び願書ぐわんじよを差出せしゆゑ翌日差紙にて九郎兵衞夫婦並に村役人付添そへ出いでる處に九助も牢らうより繩付にて引出され又前日の如く嚴きびしく責問せめとひけるに九助は夢さら覺えなき事故是は餘の者の仕業しわざに相違之なしと申立れ共理左衞門ナニ惣内夫婦に遺恨ゐこんはないと申せども遺恨ありしに違ひないソレ九郎兵衞が願書を讀聞よみきかせいとて是を讀むに

一水呑村先せん名主惣内後見こうけん九郎兵衞并に妻さい深申上奉つり候當名主たうなぬし九助と申者は私共の甥をひに御座候處數年すねん困窮こんきうに付家内相談の上江戸表に奉公稼かせぎに罷出候右みぎ留守中るすちうは私共并に九助妻里のみ取續とりつゞきも相成兼候故右惣内方より時々じゝ合力がふりよく受うけ漸やうやくに取續とりつゞき罷在候處五ヶ年目に九助歸村仕つり留守中るすちう妻さい里惣内と不義ふぎ致いたし候と申立惡名あくみやう相付あひつけ私し共親子を追出し候故私し儀惣内方後見こうけんも致し居をり候間介抱かいはう人に相成娘儀むすめぎは惣内妻に致させ候然る處九助儀は江戸表より同道どうだう仕つり候哉又は途中とちうより連參つれまゐり候哉節せつと申女を引入ひきいれ直樣すぐさま後妻こうさいに仕つり候全く此節を妻に致いたすべく了簡れうけんにて私し共親子に惡名あくみやうを付つけ追出し候儀と存じ奉つり候其後右九助多分の金子にて質地取戻し其上そのうへ新あらたに田地でんぢ買請かひうけ當時名主役仕つかまつり候へ共私欲しよく押領あふりやう宜しからざる儀共多く有之に付惣内歸役きやく願ひも致させ度たく小前こまへの百姓共時々とき〴〵寄合も有之由之に依て其等それらの儀を無念に存じ當九助夜よ惣内夫婦金谷村かなやむらよりの歸を待受まちうけ切害せつがい致し首は切捨きりすて取隱とりかくし候へ共兩人とも衣類に覺え之ある而已のみならず悴共の事故手足てあし骸等からだとうにも覺え之あり相違なき儀に御座候加之そのうへ右みぎ死骸の傍邊に九助紙入かみいれ落おち有之これあり又紙入の中には島田宿藤八より九助へ送り候手紙も有之候事其節御檢使樣方御改め通りに御座候全く九助儀ぎ惣内夫婦を切害せつがい致いたし候に相違無之儀と存じ奉つり候に付何卒なにとぞ御慈悲を以て兩人の解死人げしにん御吟味下ごぎんみくだし置おかれ候樣仕つり度依之此段願ひ上奉つり候以上

水呑村先せん名主惣内後見
享保二年二月廿三日
願人ねがひにん    九郎兵衞
同人どうにん妻さい
ふか
親類しんるゐ肩書  善兵衞
仁右衞門
組頭くみがしら肩書  傳兵衞
木祖兵衞

サア何ぢや汝おのれ五ヶ年の間江戸へ奉公ほうこうに出し留守中るすちう家内の者惣内が扶持を受し恩をも思はず惣内に不義ふぎの汚名をめいを負せ己れが外ほかにて語合かたらひし女を妻に致さんが爲罪なき伯父の娘恩ある惣内そうないへ惡名を付先妻せんさいを離縁りえんに及びし段不屆き至極と窘付きめつけるを九助は無念むねんの事に思ひ恐ながら全く以て遺恨などとは存も付ませぬ儀にて既すでに惣内と不義ふぎある女房憎にくい奴やつとは存候へ共現在伯父九郎兵衞が娘故義理を考かんがへ不義せし者へ金迄かねまで付け渠かれが存念通り惣内方へ遣す程の儀に御座れば何しに恨を殘しませうぞ何分御慈悲ごじひの御吟味ごぎんみ願ひ奉つると申を理左衞門りざゑもんは默言だまれと叱しかり其方伯父九郎兵衞へ金子を遣し一旦いつたん奇麗きれいに里を離縁りえん致したなれ共惣内方へ再縁さいえんなせしを見て未練みれんを遺せしならん又金子等遣つかはしたも定めし扱人あつかひの差略さりやくで有う彼是を遺恨ゐこんに存じ惣内夫婦の者を殺し疑ひの心を晴ぬ爲に兩人の首を取隱とりかくせし奸計かんけいに相違はない恨はないなどと申がコリヤ云譯は闇くらい首くびは何處へ隱したサア眞直まつすぐに申せと睨にらめ付るに九助はイヘ決して覺えは御座りません此間このあひだも申上ます通り十九日に金谷村かなやむらへ參り又夕ゆふ申刻なゝつ過すぎより上新田村に到いたりて夜に入迄まで彼方に居し故人を殺したる覺えは御座りません因よつて猶更なほさら兩人が首の有處存じ居る筈がと云んとするを理左衞門默止と止めコレ九助其方他行先たぎやうさきが怪しい殊ことに願書ぐわんしよの趣きにては其方名主役なぬしやくに相成り私慾を構へ村方難儀に付村役人小前の者共相談の上退役たいやくを願ひ惣内に歸役きやく致さんと申内談ないだんを聞無念に存じ惣内夫婦を殺したに相違さうゐないぞと押付おしつけるに九助は伏ふくせずイヘ〳〵然樣さやうな儀は毛頭もうとう覺おぼえ無之先惣内山林の竹木を隱し伐ぎり仕つり其外小前へ勘定に押領あふりやうの筋すぢが御座りまして退役たいやく仕つりし事は既すでに御役所にても御調御座りました儀又私し儀は村役人むらやくにん總そう百姓の勸すゝめにより餘儀よぎなく親共勤めましたる跡故名主役を相勤めます殊に惣内歸役きやくの相談さうだんの儀などは一向承まはりし事も御座なく假令右體の儀御座ればとてそれを遺恨ゐこんに思べき筈はずもなく右體の儀は跡形あとかたもなき僞いつはり事と存ずると云語を繼つぎ組頭周藏進み出只今名主九助申上まする通り惣内そうない歸役きやくの相談などと申儀ぎは勿々なか〳〵思ひも付ぬ事其は九郎兵衞が僞はりにして九助は素もとより正直者に御座れば何卒なにとぞ御慈悲を願ひ上ますと言を又默言と叱り付汝は何者なにものだと問とふにハイ組頭くみがしらで御座ります名は何と云うヘイ周藏と申しますと答ふるに理左衞門コリヤ汝おのれには尋たづねぬ控ひかへて居れ不埓ふらちな奴やつと白眼付にらみつけるをイエ九助の正直しやうぢきなる事は村中の譽者にて誰知らぬ人も御座りませぬと云を理左衞門又汝おのれ口を利きくか糺明きうめいを云付るぞと威おどせば周藏は吃驚し老人の事故慄ふるへ居るを後より三五郎這出はいいでて只今組頭くみがしら周藏申上しに相違なく九助儀は一文一錢の勘定も粗末は御座なく小前こまへの者共へ憐あはれみを掛けと云を理左衞門默止だまれ汝おのれ又何ぢやと有れば三五郎はハイ私しは百姓代三五郎と申者で御座りますと云いふに理左衞門ナニ百姓代と申か控て居れと云ふをイヤ控ますまい九助が事は村役人むらやくにんへ御聞きゝなされませ隣村の名主共へ御尋ねなされても日來の行状ぎやうじやうは知れますと申を理左衞門大音だいおんに默止だまれ三五郎と云をイヘ默止ますまいと云ば何役人へ對ひ不屆の一言牢へ打込うちこむぞと叱しかり付れば三五郎はハイ〳〵牢へでも檻をりでも勝手の處へ入度ば入さつしやい何ぼ御奉行でも理りより外ほかには御座るまい依怙贔屓えこひいきなどを云つしやるなと肱ひぢを張ば理左衞門大いに怒りヤイ汝おのれ役人に對むかひ再應さいおうの口答こたへ不屆ふとゞきな奴ソレ縛しばれと差圖さしづをなすに三五郎は理左衞門を睨み隨分ずゐぶん縛しばらつしやい私は痩やせても枯かれても三石八斗八升の御田地でんぢ持もち水呑村の三五郎と云殿樣の御百姓で御座ります憚はゞかりながら然樣さやう云いふ後うしろぐらい片贔屓かたひいきな御捌さばきは見た事が御座らぬと云うにぞ理左衞門堪へ兼イヤ渠かれを縛しばれと云聲の下々した〳〵役人はつと立掛たちかゝるを周藏木祖兵衞種々と詫入わびいり漸々やう〳〵三五郎を外の腰掛こしかけへ出しゝかば跡は寂寞ひつそりとなり理左衞門大音だいおん揚あげコリヤ九助假令たとへ右みぎを左りに云拔ぬけんと爲る共二十日の朝あさ其方が衣類の裾すそへ血汐ちしほを引ひき其上汝おのれが紙入藤八よりの手紙が入てありしを落おとして置たからには云譯いひわけは有まいぞと言ふに九助は其儀は此間あひだより申上ます通り私し妻の母の法事ほふじと辯解いひわけせんとするを理左衞門はコレ又同じ事を幾度いくたび申たとて辯解いひわけにはならぬ全く惣内夫婦を殺したに相違なけれど勿々なか〳〵大體たいていのことでは白状はくじやうすまじ牢問らうどひ申付るぞとて此方を向コリヤ九郎兵衞夫婦氣遣爲するな子供等が解死人げしにんは取つて遣すぞ立て〳〵追て呼出すと申渡したり


第七回


 斯かゝりし程に九郎兵衞は理左衞門を始め下役人又々賄賂まいないを遣つかひ奉行へ金十五兩下役人へ三兩づつ牢屋掛らうやがかりへ金二分づつを贈おくりしゆゑ九助は石を抱いだく事十三度其外種々樣々に品を替て責られし故今は一命めいも危あやふきとの事を妻のお節は聞きゝ及び有るにもあられぬ思ひなれば村役人倶々とも〴〵お慈悲願ひに出けれども其度々たび〳〵役場にて叱しかりを請る而已のみ少すこしも取上らるゝ事などなく又差添さしそへの村役人共も其度毎たびごとに九助の仕業しわざに之なき趣きを申立れども證據しようこなき故取上あげられず皆々歎息たんそくの外なかりしに獨ひとり三五郎は譜代ふだいの主筋しうすぢ故何分九助が無實むじつの災難を遁のがれさせ度たく思ひ此上は家老方へ御嘆なげき申より外なしと豫々かね〴〵心掛居ける中或日あるひ本多家の長臣ちやうしん都築外記つゞきげき中村主計かずへ用人笠原かさはら常右衞門の三人が相良さがらの用達ようたし町人織田おだ七兵衞が下淀川しもよどがは村の下屋敷しもやしきへ參られ終日しゆうじつ饗應きやうおうになる由を聞出し今日ぞ旦那さまをお助申時なりと大に悦び一通つうの願書を認したゝめ天へも登のぼる心地にて梅ヶ橋はしといふ處に待請うけしに聞しに違たがはず夜に入いると右三人の供人ともびと定紋付ぢやうもんつきの箱挑灯はこちやうちんを先に立道みちを照して來りける故三五郎は土橋どばしの口に平伏し恐おそれながら願書御取上願ひ奉ると差出すを都築外記つゞきげきは願の筋有ば其支配の役人より向々むき〳〵の役人へ願ひ出よと差戻さしもどせど三五郎は猶さし出し其御役人方御取上げ御座らぬにより據よんどころなく貴所あなたさまへ御願ひ申上ますとて動うごかねば籤九度山どやま目付めつけ中村主計かずへはイヤ外記げき殿夫それは取上るに及びますまい打捨うちすてて歸られよと云を外記は否々いや〳〵一通り聞たる上相計らはんと屋敷へ連歸り委細ゐさいを聞糺たゞし三五郎が忠義を感心かんしんなし家來を付て理左衞門方へ遣はし此者儀は忠義者故ゆゑ能々よく〳〵吟味を遂られよと申送りしかば松本まつもと理左衞門も餘儀よぎなく畏かしこまる趣おもむぎ返答へんたふに及び置おき夫より三五郎を呼出し汝支配しはいの奉行を差越さしこし御家老外記げき殿へ直訴ぢきそに及び候段不屆至極ふとゞきしごくの奴なりと眼玉めだまを剥出むきだし叱しかり付ればヘイ如何樣に申上ましても御取上あげ御座らず九助儀は無實むじつの災難さいなんに陷ります事見るに堪兼候と云を理左衞門大音上げ默止だまれ此方は善惡を糺たゞす奉行職しよくなるぞ私しが事で濟ものか九助事は確乎なる證據有により數日すじつ吟味なす所なり如何に土民どみんなればとて理非りひを辨わきまへぬ申條牢舍申付べき奴なれども彼老中ぢうより忠義の者と申越されし故村役人へ屹度きつと預け置おく此上直訴ぢきそにも及ぶ時は村役人共屹度きつと申付ると叱しかり散ちらし歸しければ三五郎は殘念には思へども今更仕樣しやうもなく寥々すご〳〵と村役人に伴ともなはれ我が家へこそは歸りけれ扨さて又九助は晝夜ちうや嚴敷きびしく拷問がうもん牢問らうどひに掛かゝり骨節ほねふしも挫ひしげるばかりに弱り果今は息いきも絶々たえ〴〵と成て頼みなき世の有樣に熟々つく〴〵思ひ巡めぐらす樣如何なれば掛かゝる無實むじつの罪に罹かゝりし事ぞ是も前世の業因ごふいんならんと斷念あきらめながらも餘あまりと云へば情なさけなし是全まつたく伯父をぢ九郎兵衞が賄賂まいないを以て役人の手を借かり無理無體むりむたいに我を殺さんとなす成ん然すれば何程苦痛くつうに堪たへるとも終つひには命を失はずには置れまじ此上は一日も早く苦痛くつうを遁のがるゝこそ優ましならめ然さりながら如何なる因果の報いにや我幼少えうせうにて父に後おくれ艱難辛苦かんなんしんくの其中に又母をも亡うしなひしかど兩親の遺言ゆゐごんを大事に守り江戸にて五ヶ年の千辛しん萬苦ばんくも水の泡あわ蟻ありの塔たふを組くみ鶴つるの粟あはを喰くふが如く五體の膏血かうけつを絞しぼり蓄たくはへたる金が今思へば我が身の讐敵あだがたきとは云ものゝ親の勤つとめし村長役むらをさやくを勤なば親々が未來みらいの悦びと思込しが却て怨みを受る基もとゐとなり無實の大難なんを蒙かうむりたるか情なさけなきは九郎兵衞殿如何なる前世の敵かたき同士どうしか現在げんざい血ちを分し伯父甥をひの中で有乍ながら娘や婿むこが敵かたきなりと後家のお深に昏くるめられ解死人げしにん願ひは何事ぞと姑くは人をも怨うらみ身をも悔くやみて泣沈なきしづみしが嗚呼あゝ我ながら未練みれんなり此上拷問がうもん強つよければとても存命思ひも寄ず此苦みを請うけんよりは惣内夫婦を殺したりと身に引受て白状なし娑婆しやばの苦患くげんを遁のがれんものと心を爰に決せしが然さるにても罪に陷り尸かばねを野原に晒さらさん事我が恥よりも先祖に對し面目なし嘸や跡にてお節を始はじめ三五郎等が歎なげくで有んと越方こしかた行末ゆくすゑを思ひ遣やり又も泪に昏くれし機をり丑刻やつの鐘かね鐵棒かなぼうの音と諸共に松本理左衞門は下役したやく二人下男五六人召連自分じぶん獄屋ごくやに來り鍵番かぎばんに戸口を明けさせ九助を引立て拷問所へ引出し理左衞門は上座じやうざに直り是迄屡々しば〳〵拷問に及べども酢すの蒟蒻こんにやくのと云掠かすめ今に白状致さぬ故今日は此理左衞門が自身に拷問がうもんを見聞せん強情しぶとい奴やつめと一調子てうし引上げコリヤ者共九助を拷問せよ一體たい汝等なんぢらが手弱てよわい故なり今日は我が見る前なれば責殺しても苦ふないヤイ九助覺悟を致せ湯責ゆぜめ火ひ責水責鐵砲てつぱう責海老えび熊手くまで背割せわり木馬もくばしほから火の玉たま四十八具ぐの責に掛るぞヤイ〳〵責よ〳〵との聲諸とも獄卒ごくそつ共ハツと云樣無慘むざんなる哉かな九助を眞裸まつぱだかにして階子はしごの上に仰向あふむけに寢かし槌の枕をさせ荒繩あらなはにて縊くゝり付大釜がまに汲くみ込みし大川の水を理左衞門屹度きつと見て夫々嚴敷きびしく水を喰はせろ用捨する奴は同罪なるぞときよろつく眼まなこと共に下知し既に水責に及んとする處に九助は豫て覺悟の事なれば是御役人樣先々拷問がうもんを暫く御待下されよと云に理左衞門はイヤ成ぬ此間より數日の責に白状せぬ強情者がうじやうもの是非ぜひ今日は骨を挫ひしき肉を叩たゝきても言さにや置ぬ譫言たはごと拔ぬかすな夫責よと下知なすを九助は猶も苦くるし氣に其責には及びませぬ只今白状致しますと云に理左衞門はナニ白状致すとか然ば眞直まつすぐに白状致せハイ今日迄種々いろ〳〵と陳ちんじましたが我程御役人樣の御察の通り惣内夫婦を殺しましたに相違さうゐ御座りませぬ此上は如何樣いかやうに御仕置しおきも恨うらみとは存ませぬと煮立涙と諸共に白状に及びしかば理左衞門は打笑ひ彌々いよ〳〵夫に相違は有まいな夫見よ疾から然樣申さば責られて痛いめはせぬのに何程なにほど僞いつはりても天の御罰ばつ人を殺して知れずに居るものかソレ役所へ引廻せとて役所へ引行ひきゆき早速さつそく下役人に口書を認したゝめさせ白洲に於て是を讀み上る

一私わたくし儀豫々かね〴〵遺恨ゐこん有之これあり候に付三月十九日の夜下伊呂しもいろ村大井川端にて惣内并に同人妻を切害仕り候に聊いさゝか相違無之これなく恐入おそれいり奉たてまつり候之に依て如何樣の御仕置に仰付られ候とも御領主樣ごりやうしゆさまへ對し御恨おんうらみは少も御座なく候以上

水呑村名主
享保二年四月廿四日
九助

理左衞門コリヤ九助サア爪印つめいん致せと書付を差出さしいだせば九助は是を見てワツとばかりに血の涙を流しながら爪印を爲なしたりけり因てり理左衞門は早速さつそく九郎兵衞夫婦を呼出し兩人に向ひ其方共願ひに因て九助を段々だん〳〵吟味致す處其方悴せがれ惣内夫婦を大井河原に於て殺害せつがい致したる段相違なき趣き白状はくじやうに及ぶ同日口書こうしよ爪印相濟あひすみたる上は近々きん〳〵所刑しおき仰付らるゝ惣内夫婦の解死げし人は取て遣つかはすぞ然樣に相心得よと然も爲したり面がほに申ける九郎兵衞夫婦は有難き旨を申上九助を八打はつたと睨にらみサア九助汝は〳〵憎にくき奴なり御役人樣の御蔭かげ曇くもらぬ鏡に移るがゆゑ神國の御罰にて今白状に及びたるが能氣味なりと罵のゝしるを女房お深も倶々とも〴〵にコレ九助能よくも嫁のお里に惡名を付け其上に悴惣内夫婦の者を殺したる爰な大惡人あくにんめと泣聲に成て窘付きめつけれども九助は只たゞ眼めを閉とぢて物言ず居たりしは誠に覺悟を極しと見え最いとゞ哀あはれぞ増まさりける


第八回


 偖さても郡奉行松本理左衞門は夫々申渡し相濟あひすみ早はや退座たいざせんとなしける處に百姓三五郎申上ますと云ながら白洲しらすへ飛込とびこむゆゑ下役どもソレと取押とりおさへるを猶も聞入ず大音だいおん揚あげ今は何をか隱かくし申さん惣内夫婦を殺せしは全く私しなり何卒なにとぞ御所刑に仰付おほせつけられ下さるべしと云ば理左衞門は面色を變三五郎を白眼にらみ其方は先達せんだつて前後揃そろはぬ儀を家老中へ直訴ぢきそに及び甚だ不屆ふとゞき至極に付入牢申付べき奴なれ共古主こしゆ九助が事の願ひ忠義らしく聞ゆる故村役人に預け遣はしたり然るに又右體みぎていの儀を申出る段だん不埓ふらちなり村役人共其奴を引立歸れ御取上は無ぞと叱り付るを三五郎は否々彼の人殺しは私しに相違なく夫を人違ひ成れては御役儀が立ますまいと窘きめ付れば理左衞門は爰な強情者め其惣内夫婦を殺しましたは私しに相違さうゐないと既すでに九助が白状に及び口書こうしよ爪印迄つめいんまで相濟たり夫を今更人殺は汝なりと名乘出る事狂氣きやうきでも致したか然なくば最初さいしよ九助入牢じゆらう中の節せつ何故なぜ名乘て出ぬ此奴察する處人殺は汝おのれなりと忠義めかして名乘出るならば九助めは助る事も有うかなどとの奸計ならん早々村役人共引立よと言いふに三五郎は又否決して立ますまい私しも解死げし人に成事を好んで出しからに筋すぢの無事は申立ず素もとより九助は慈悲深き生れ付故勿々人など殺すべき者に之なく全く拷問がうもんの嚴しきと私しを助たすけ樣との兩條にて白状致せし事に相違さうゐなく既に九助が今日口書こうしよと聞えし故科なき者を殺すは如何にも不便ふびんに付止を得ず名乘出しなり因て下死人は此三五郎めに聊いさゝかも違ひ御座らぬと白洲に鰭伏ひれふし少しも動かねば役人は勿論もちろん村役人共持餘し叱りつ宥なだめつ漸々に白洲を引立公事くじ人の溜たまりへ引出したり時に九助が女房お節は今日九助が白状はくじやうに依て口書こうしよ爪印つめいん相濟あひすみ近々所刑になるとの事を聞きゝ狂氣きやうきの如く悲かなしみ歎きしが切せめては夫の命乞をせんものと相談の爲島田宿の水田屋藤八が許もとへ行んと駈出かけいだせし途中にて折をりよく藤八に出會であひければお節は大いに悦び九助は斯々なりと咄すに藤八も然さればなり私も其事にて出來りしと云つゝ兩人同道して直に役所へ來りしに白洲は引たれども外の溜たまりの中に九助は繩付なはつきの儘まゝ居けるを見て藤八お節は走り寄より問とはんとすれど迫せまり來る涙に言葉もなかりけり

牢内らうないより出入の節科とが人の側そばへ親戚みよりを寄よする事は法度はつとなれど江戸と違ちがひ村方の人足のみにて知り合あひの百姓ども故知らぬ顏にて煙草たばこくゆらし居たりしとぞ

扨も九助は數日すじつ拷問がうもんの苦痛くつうに堪兼たへかね身に覺えなき人殺しの罪を白状に及ぶ程のことなれば總身そうしん肉にく落おち頬骨ほゝぼね高く眼は窪くぼみ色蒼然あをざめ髯髭ひげ蓬々ぼう〳〵としたる體彼の俊寛僧都しゆんくわんそうづが鬼界ヶ島の俤おもかげも斯かくやとばかり思はれて藤八お節も目も眩み心も消え入る體なりしが漸々やう〳〵に涙を拂はらひて藤八に摺寄すりよりコレ九助殿變り果たる此姿見るに付ても日々の拷問がうもん苦痛くつうは嘸さぞかしと思ひ遣やらるゝなり併ながら何云譯で人殺しと白状致されしやら如何に責せめらるゝが苦くるしいとて殺しもせぬ者を殺したとは辛抱しんばう甲斐がひのなき事ぞ假令たとへ骨ほねが舍利しやりになればとて知らぬ事は何處迄どこまでも知らぬとは何故云はれぬぞと云を九助は聞終瀧たきの如く涙を流し是は〳〵藤八樣御心切しんせつなる其お詞ことば素もとより人は殺さねど日々夜々の拷問がうもん嚴きびしく假令たとへ白状なさねばとて迚とても助かる命いのちにあらずと斷念あきらめし故一時も早く此世の苦痛を遁んと覺悟を極きはめし此九助皆みな是迄これまでの約束事ごとコリヤお節是が一生しやうの別れぞと聞てお節は殊さらに絶入たえいるばかりに泣伏を藤八はコレ〳〵お節何どうした者だ切せめて九助が死なぬ中逢あはせて遣度やりたく漸々やう〳〵と是迄折角せつかく駈かけ付しに何にも言ず泣なき居ては切角せつかく逢し甲斐かひもなし云度たき事の有ならば早はやく云てと急立るにお節は漸々顏を上あげ夫をつとの姿を打まもり又も玉なす涙の雨あめ聲さへ出ず縋すがり寄より私も一所に死にたしと身を慄ふるはして歎く體さま道理ことわりせめて哀れなり九助も瞼まぶたを屡瞬しばたゝき是お節其方そなたは此九助と夫婦に成たるは前世ぜんせよりの惡縁ならん我は天地の神祇しんぎも照覽せうらんあれ人など殺せし覺えは露聊つゆいさゝかもなきなれど是皆伯父九郎兵衞が惡巧わるたくみより無實の罪に陷おちいる事と推量すゐりやうはなしながら證據しようこなき故辯解いひわけ立たゝず是と云も先立れし親々への孝行と思ばこそ不義淫奔いたづらせし先妻せんさいお里憎ひ奴とは思へども眼前伯父の手前もあり向ふよりこそ取る金を此方こつちからして金まで付離縁りえんなしたる其情なさけは結句けつく此身の仇あだとなり役人衆しうの詞にも所詮しよせん存命ぞんめい協かなはぬと云れしなれば此覺悟かくご然されど其方は此事の御咎とがめはよも有まい程に御所刑濟ば田畑でんばた居屋敷ゐやしき家作かさく家財かざいは其方へ下さるゝで有うゆゑ殘らず其を賣代うりしろなし其金を持もち藤八樣へ相談申て何方なりと再び縁を求もとめよや其後自然しぜん我事を思ひ出せし日もあらば只一遍ぺんの回向ゑかうをと云ばお節は恨うらめしげに九助の面かほを打まもり夫は又聞きこえぬ仰おほせぞや御前に別れて外々ほか〳〵へ縁付えんづくやうな私ぢやない氣の弱よわい事を云ず共コレ父樣とゝさま何卒どうぞ九助が命乞いのちごひをと云後より下役したやく立出コリヤ〳〵科人とがにんへ逢せて遣るは役人の慈悲じひくど〳〵と何時迄いつまで居るのだサア立々と聲を懸かけるに藤八は懷中より金二分を出し密と袂たもとへ入れ何分にも九助が事お慈悲の御取扱おとりあつかひを願ひ上ますと慇懃いんぎんに申ければ下役人點頭うなづき否いや夫は案じるな囚人めしうどは大切に致さねば成ならぬことは上かみからも再應さいおう御觸ふれの有儀なり併し今遇あはせた事は他へ云まいぞと徐々そろ〳〵九助を引立れば藤八お節は何分なにぶんにもと挨拶あいさつなし兩人は九助を見送るに九助も此方を振返ふりかへり互ひに見交みかはす顏と顏是これ今生こんじやうの暇乞いとまごひと三人が涙は玉霰たまあられ見送り見返り別れけり藤八は我と心を勵はげまして宜々よし〳〵お節是からは御家老邸からうやしきへ駈込かけこんで藤八が命を的まとに今いま一度御願申て此公事を引繰返ひつくりかへさで置べきや然樣さうぢや〳〵と立上るを私も倶ともに命を的まととお節も續つゞいて立上り是非ともお願ひ申た上お聞入きゝいれのない時は御家老樣の御玄關げんくわんで其儘舌したを喰切くひきりつゝ死して夫の身代みがはりにと云ば藤八打點頭うちうなづきオヽ能よく云た其位くらゐ度胸どきようを据すゑねば裁許さいきよは破れぬサア〳〵來いと出立る機會に此所へ息せきと島田宿なる問屋場とひやばの五助と言いふ者駈かけ來り大汗おほあせたら〳〵コリヤ藤八殿々々々名主樣より至急用しきふようの御手紙早々御歸りなされましと聞て藤八何事なにごとと状箱じやうばこ取上とりあげ開き見れば

急使きふしを以啓達けいたつ令せしめ候豫々かね〴〵道中御奉行樣御觸ふれ有之候將軍家け御代替だいがはり御巡見使じゆんけんし松平縫殿頭まつだひらぬひのかみ樣梶川かぢかは庄右衞門樣御先觸さきぶれ參り來月らいげつ中旬頃ちうじゆんごろ御止宿ししゆくの由に御座候尤も此度は先々の御巡見とは違ひ格別かくべつに御念ねんも入公事訴訟くじそしよう其外奸曲かんきよく私欲しよくの節も御糺明きうめい有之に付所々より願ひ出候者も多く御手間取成れ候由故道端みちばた譜請ふしん御宿割等やどわりとう申付候之に依て貴樣きさま早々さう〳〵歸宅きたく致さるべく候以上

四月廿四日
名主  儀右衞門
問屋  六郎右衞門

水田屋藤八殿

と讀上しが此藤八は旅籠屋はたごや肝煎と言宿人足の世話をもしける故是は又惡い處へ御巡見ごじゆんけんハテ急に歸らねば成ならずコレ五助や御巡見樣は未まだ山向やまむかうかハイ藝州の御飛脚おひきやくの噺には櫓澤やぐらざは通りが一昨日頃で有うと申ましたと聞きいて藤八ハテ御巡見ごじゆんけん街道かいだうは櫓澤やぐらさは竹の下スリヤ今頃は沼津吉原富士の根方邊と手を組で思案しあんの容子成ようすなりしが礑はたと横手を拍うち是お節願うてもなき幸ひが出來たぞ嗚呼あゝ是が矢張やつぱり天道樣の御助たすけぢやヤレ嬉しや忝かたじけなやサア己と一所に來やれと云どお節は合點がてん行ゆかずデモマア九助が切れる故御家老樣へと半なかばも云いはせずナニ願ひも糸瓜へちまも入ものかと云節お節は未だ解せずデモ爪印つめいんが濟だ上は捨て置たら夫の命いのち夫それ故御駕籠おかごへ駈付かけつけてと藤八一人呑込でお節を急立せきたて連行つれゆくにぞお節は一向樣子が解らず父樣とゝさま何處へ行のだと不審の顏に藤八はハテ知れた事今度の御巡見じゆんけん使は上樣の御代替りの御名代云ば昔むかしの最明寺さいみやうじ諸國の善惡ぜんあく聞糺きゝたゞす爲にと御座る御役人九助が事を御駕籠訴おかごそに行ゆくか行ぬか天下の吟味叶かなはぬ迄も願つて見ん夫で行ねば是非もない夫をつとが大事だいじと思ふなら己と一所に願ひ出よと聞てお節は飛立とびたつ思ひ夫なら父樣寸時ちつとも早ふ御駕籠訴とやら云事をイヤサ何も彼も己に任まかせて一所しよに來い細工さいくは流々りう〳〵仕上しあげを見やれサア〳〵早く支度してと云にお節も一生懸命しやうけんめい村役人へ預あづけの身なれど跡は野となれ山坂を足に任せて走り行相良の城下を放れつゝ夫九助が命乞いのちごひと思ふ計りの力草ちからぐさ島田宿迄一息に來りし頃は夜も戌刻いつゝ水田屋へこそ着にけり


第九回


 斯かくて藤八はお節を同道どうだうして島田宿の我が家へ歸り宿場しゆくばの用向ようむき萬事の儀は弟岡崎屋藤五郎へ頼み置おき寄場よせばへ人を走らせ雲助頭がしら信濃しなのの幸八を呼寄よびよせ駕籠かご二挺ちやう人足三人づつ尤も通し駕籠なれば大丈夫だいぢやうぶな者をと云いふに幸八は委細ゐさい承知しようちなしシテ又親方何處迄どこまで御出と聞きくに藤八は然さればサ先は確しかと知れぬが大概おほかた箱根前後ぜんご位ぐらゐと思へば能よしと云を聞て幸八は心得こゝろえ其夜の中に部屋へやから撰えらんで呉服屋の六團扇うちはの源入墨いれずみ七箱根傳助小僧の吉品川の松抔など何いづれも當宿の腕うでこき六人體からだへは赤合羽あかがつぱを羽折はをり各自向ふ鉢卷はちまきをなし腰こしに挾はさみしは叺莨入かますたばこいれ手には竹の息杖いきづゑを携たづさへ曉寅刻あけなゝつに皆門口へ來て親方御支度は宜よしかと大聲に云ば水田屋の家内かないは立出是は御苦勞々々々今旦那だんなは御出なさると云中藤八出來りしが先其打扮いでたちは紺縞こんじまの上田の袷あはせに紺紬こんつむぎの盲縞めくらじまの羽織濃こひ御納戸なんどの半合羽を着鮫鞘さめざやの大脇差わきざしを帶し晒さらしの手拭を首に捲付まきつけ門口へ出て何も太儀たいぎ今度は此の藤八が一世一代命を的まとの願ひ筋すぢ娘を連て行ゆかねばならぬ近くて沼津ぬまづか三島みしま遠とほくて小田原大磯おほいそなり夫迄は行まいが太儀たいぎながら手前達たち精せい出して呉くれ骨は盜ぬすまぬと云に雲助共聞て口々に何親方の事だから斯かう云いふ時にでも骨ほねを折をらずば何時恩を返すときが有うナアと云時下女が熱あつがんの酒と茶碗を持出もちいだせば雲助どもは是は有難う御座りますと手ん〴〵に五六杯ぱいヅツ引ひつかける所へ藤八ソレ肴さかなと銘々めい〳〵に金二分宛づつ遣やるに雲助はイエ親方是は入やせんと辭退じたいなすを馬鹿を云な肴さかなが無なくて呑のまれるものか又骨折は別だぞと云中お節も出來たるに女房娘を始めとして皆々門かどへ送り出風呂敷包ふろしきづつみは駕籠に付サア〳〵急いで遣やつて呉くれと云に何れも合點がつてんと二挺ちやうの駕籠を舁上かきあげれば御機嫌能ごきげんようと一同に見送る中に女房は呉々くれ〴〵お節が頼み事首尾能しゆびよく成就じやうじゆなす樣にと云に藤八莞爾につこと笑ひ其處そこに拔ぬかりが有者かと夜明烏よあけがらすと諸もろともに寢ねぐらを放れ行ゆく空そらは花の島田を後うしろになし急いそぐに瀬戸せとの染領そめりやうや清きよき小川を打渡り心は正直しやうぢき一遍ぺんの實意ぞ深き洲崎村すさきむら五里の八幡やはたも駕籠の中祈誓きせいを籠こめし櫻山巡めぐる麓ふもとに風薫かほる時は卯月うづきの末の空花の藤枝ふぢえだはや過て岡部に續く宇都うつの山蔦つたの細道十團子とほだんご夢か現うつゝにも人にも遇あはぬ宇都の谷と彼の能因のういんが昔を今に振ふりも變らぬ梅若葉鞠子まりこの宿を通り拔阿部川あべかはにこそ來りけれ藤八お節の兩人は傍邊かたへの茶屋へ駕籠を下おろさせ暫時憩いこひながら藤八は茶屋の亭主に向ひ此度公方樣くばうさま御代替の御巡見樣ごじゆんけんさま御通りの由最もう何處どこらまで御出成れたで有うと問に茶屋の亭主はハイ此間からの騷さわぎで御座りますが未だ此邊このへんへ御出は御座りませぬ併しかし昨日雲州うんしうの御飛脚おひきやくが咄はなしには箱根を一昨日とやら御越こし成なされまして富士の根方廻はりが二三日掛ると仰られましたから今日邊あたりは三島で御座りませうと云を聞と等く藤八は又々夫それ急いそげと聲を懸かけるに雲助ども合點がつてんと駕籠舁上かきあぐれば木枯こがらしの杜もりを那方あなたに此方なる賤機山しづはたやまを心指て行手は名に負駿河の府中午刻まひるも過て巴河ともえがは音おとにぞ知るゝ濱續はまつゞき清水久能くのうは右の方は左にとりて富士見山茂しげる夏野の草薙くさなぎの宮を力に伏拜ふしをがみ江尻えじりの宿や興津川おきつがは薩陲峠さつたたうげは七ツ過手許てもとも暗くらき倉澤の間あひの建場を提灯燈つけ由井の宿なる夷子屋えびすやに其夜は駕籠を舁込かきこんだり斯て藤八宿屋の主あるじに委細ゐさいの樣子を聞くに今宵は原の御泊なりと云に漸々やう〳〵心も落付おちつき夫より願書を認め是お節明日中には御巡見樣ごじゆんけんさま方へ御願ひ申上るにより必ず氣を大丈夫に持申上る事を能考へ置と云ばお節は彌々いよ〳〵打喜び實まことに何から何まで厚い御世話有難う御座りますと言けるが終夜よもすがら寢ねも遣らず心急せく儘まゝ一番鳥どりの鳴なくや否や起出つゝ支度調へ藤八諸共もろとも曉あけ寅刻比なゝつごろより宿屋を乘出し蒲原かんばらの驛外しゆくはづれにて夜も明渡あけわたり辨慶べんけい清水六代御前松並木も打越て岩淵いはぶちの渡りに來り暫時しばし休息なし頓やがて富士川の逆卷さかまく水も押渡り岩をも徹とほす念力ねんりきの岩手の村や四日市見上る方は富士の峯夫をつとの命いのち取止とりとめて鶴芝つるしば龜芝青々と齡よはひぞ永く打續き麓の裾野すその末廣く天神山や馬場川口柴橋しばはし大宮木綿島もめんじま吉原驛じゆくも打過て日脚ひあしも永き畷道なはてみち未刻ひつじ下さがりに來懸たり斯る折から遙か彼方より露拂ひ右左に立下に〳〵笠をとれ馬の牽綱ひきつなを詰つめよと制せいし來れるは將軍家御朱印ごしゆいん入いれの長持なり藤八は未だ御巡見使ごじゆんけんしの來らるゝとは思はぬ故傍邊かたへの馬士まごに對むかひ何方樣どなたさまの御通行ぢやと問に馬士は打笑ひ是を知られぬか御順見樣ぢや疾はやく下おろさツしやれと云を聞藤八は何御順見樣ごじゆんけんさまぢやヤレ嬉しやと駕籠から轉ころげ落ぬ許ばかりに下立おりたちコリアお節サア〳〵己おれと一所に此方に居やれと道の傍邊かたはらに兩人跪居つくばひゐる中麻上下を着せし驛しゆく役人ども先に立下に〳〵と往來の者を制しながら來るに程なく正使せいし御目付代御使番高二千石松平縫殿頭殿先箱さきばこ赤熊しやくま二本道具徒士かち小姓こしやう馬廻り持槍は片鎌の黒羅紗長柄ながえ簑箱みのばこ對箱つゐばこ草履取引馬鞍覆くらおひは黒羅紗丸に蔦つたの紋所もんどころ引續いて公用人給人其外上下七八十人萬石以上の格式かくしきなり副使ふくしは御勘定梶川庄右衞門殿槍挾箱長柄其外引揃へ行列正しく通行あるに藤八は夫と見るより豫かねて用意の訴状そじやうを青竹に挾はさみ往來の傍らに平伏なし大音上で願ひ上ますと青竹を差出せば松平縫殿頭ぬひのかみ殿駕籠を止めよと聲を懸かけらるれば駕籠脇かごわきの侍士石井彌兵衞右の訴状を受取り駕籠かごの中へ差出すを縫殿頭殿一通披見ひけん致され彌兵衞兩人を是へ呼よべと申さるゝに彌兵衞は畏かしこまりコリヤ兩人共近ふ出よとの指揮さしづに隨ひ藤八お節ハツと進みて平伏す時に縫殿頭殿コレ彌兵衞其所そこにて樣子を聞きけと願書を渡されしかば彌兵衞は左の手に願書を持ちながら跪踞つまだち其方儀は願書の面おもてに有ある通り當國島田の藤八と申者か又夫なる女はと問に藤八ハツと答へ是は私が養女節と申者にて遠州榛原郡はいばらごほり相良領さがらりやう水呑村九助妻なりと申立れば縫殿頭殿是を聞きかれ其方共顏を上よと有しに兩人は恐る〳〵少し面かほを上あぐる時駕籠のりものの中より熟々つく〴〵と見らるゝに(此時は所謂いはゆる誠心せいしんの虚實きよじつ眞僞しんぎ面おもてに表あらはるゝを見分る緊要きんえうの場なりとぞ)兩人は氣を詰つめて控ひかへながら願書御取上の有無うむは如何や又咎とがめにても蒙かうむる事歟かと心配し居しに頓やがて縫殿頭殿彌兵衞を呼れ兩人が體を見るに僞らざる樣子自然しぜん面に顯あらはるゝにより願書の趣き一通り糺明たゞし遣つかはせと言いはれ駕籠をと有に徐々しづ〳〵乘籠のりものを舁出かきいだすにぞ彌兵衞は跡に殘り其方どもの訴状御取上げ是ある間今夜の御本陣ごほんぢんは吉原驛じゆくなるにより汝等同所に到り下宿して御沙汰を相待べしと申渡すを兩人ハツと鰭伏ひれふす時とき彌兵衞は吉原驛の役人を呼那あれなる兩人の者共今宵こよひ御吟味の筋すぢ有之に付其方共に屹度きつと預あづくる間願人共を粗略そりやくに致すなと申渡し其儘まゝ駕籠に追尾おひつきけり然されば藤八はヤヽ御取上下さると歟ハヽア有難や嬉しやと涙を流し頭を大地へ摺付々々すりつけ〳〵伏拜ふしをがめばお節も餘りの嬉しさにウンと後へ仰向反のけぞりし儘まゝ暫しばし正氣を失たり

俚諺ことわざに富とみを取て目を廻し身代に苦みし者漸々やう〳〵金の蔓つるに有付ありつきヤレ〳〵嬉しやと思ひ病氣付事あり是心の弛ゆるみより出るとかや茲に畏くも 人皇百九代 後水尾ごみづのを天皇には至て和歌を好ませられ後々のち〳〵三十六歌仙かせんを御撰えらみ遊ばされし事あり此事世よの人の知る所なり時に元和げんな九年徳川二代將軍家御上洛じやうらくあられしかば京都の繁華はんくわ前代未聞ぜんだいみもんなり然るに其年の十月頃時の關白くわんぱく二條左大臣殿の諸大夫しよたいふにて取高とりだか七石二人扶持ふちなる河島伯耆守かはしまはうきのかみと云る人或日あるひ只一人祇園ぎをんの社へ參詣なし祇園豆腐どうふと云を賣る家に立寄しに一人の女早々さう〳〵膳ぜんを持出いざ御上り成れましと出す時その女

雪ゆきならば梢こずゑにとめてあすや見みんよるのあらしの音おとばかりして

と詠えいじける故流石さすが公家くげの侍士さふらひ感心し腰こしの墨斗やたてを取出し今一度吟ぎんじ聞せよと云に女は恥らひし體にて口籠くちごもるを河島其方そちの名は何と云ぞと聞に女はヘイかぢと申ますと答しかば夫より河島立歸り二條殿へ右の歌を差上しに二條家御感ぎよかんの餘り其儘まゝ奏聞そうもんなし給へば賤敷いやしき女にも斯かゝる風流ふうりう有けるよと即座そくざに御歌うた所へ遣つかはされ歌仙かせんへ加くはへさせられ又北面ほくめん北小路きたこうぢ從五位下東大寺とうだいじの長吏ちやうり若狹守藤原保忠わかさのかみふぢはらやすたゞ 勅使ちよくしとして祇園へ至いたり 勅使なりと聲を掛ければ茶屋にては吃驚びつくりなし狼狽うろたへ廻るを 勅使は此家に梶かぢと申女居をる由此所へ出いだしませいと云るゝに彌々いよ〳〵仰天ぎやうてんしながら何事やらんと漸々やう〳〵連出しかば 勅使は其方は冥加みやうがに叶かなひし者哉かな汝が詠歌えいか殿下でんかへ相聞え其上 當吟たうこんの 叡覽えいらんに備そなへられし所名歌めいかなりとて仙歌へ御加くはへ遊ばされ猶なほ又 叡感えいかんの餘り 御宸筆しんひつを下し置おかる有難く頂戴ちやうだいせよと函はこを出せばおかぢは押戴おしいたゞき拜見はいけんして涙を流し斯る卑いやしき賤しづの女めが腰折こしをれも和歌の徳とくとて恐多おそれおほくも關白殿下くわんぱくでんかへ聽えしも有難さ云ん方なきに況てや十善ぜん萬乘じようの君より御宸筆しんぴつとはと云つゝ前へがツくり平伏へいふく致すと思ひしに早晩いつしか死果しにはて居ゐたりしとぞ依て遺骸なきがらは洛外らくぐわい壬生みぶの法輪寺ほふりんじに葬はうむり今におかち女の墳はか同寺どうじにありて此和歌わか殘のこりけるとかや

然ばお節が目を暈まはせしとて大騷動おほさうどうとなり人々立騷たちさわぐにぞ縫殿頭ぬひのかみ殿是を聞れ女が心底しんていを感心有て印籠いんろうの中なる氣付を出し駕籠脇かごわきの者に渡され立歸りて是を與へよとありしにぞ駕籠脇かごわきの侍士さふらひ立戻もどりて彼の藥くすりを與へしかば藤八は押戴おしいたゞき重々ぢう〳〵有難き仕合なりとて宿役人倶々とも〴〵介抱かいはうなせしに漸々やう〳〵氣の付ければ驛しゆく役人同道にて直すぐに吉原驛じゆく伊豆いづ屋甚じん助方へ到いたり本陣の御沙汰を今や遲おそしと待居たり既に其日ひも暮近くれちかき頭一人足輕あしがる八ツ字蔦じつたと云字の目引めひきに紺こんの看板かんばん着きたる小こ者を連て伊豆屋へ來り藤八お節同道どうだう致すべしと云渡せば兩人は驚破すはやと悦び宿役人同道して本陣の勝手かつて口へ廻り右の段を申込こみけるに良やゝあつて是へ通せと有ければ本陣の次の縁側えんがは先へ兩人を呼出す此時正面しやうめんには松平縫殿頭ぬひのかみ殿少し下りて右の座へ梶川かじかわ庄右衞門殿次には公用人こうようにん櫻井文右衞門田村治兵衞此方には川上貞さだ八石川彌兵衞浦野うらの紋もん兵衞縁側際えんがはぎはには足輕あしがる五六人非常ひじやうを警いましめ廣庭ひろにはには吉原宿名主問屋本陣ほんぢん組頭宿役人並居たり公用人櫻井文右衞門兩人が願書ぐわんしよを以て入側いりかはに進み出島田宿藤八同人養女節と呼よぶ時用人ハツと平伏なすを見て其方共儀遠州水呑村名主九助と申者の身分に因て今日御駕籠訴かごそに及びし段御取上とりあげに相なりしは今度上樣御代替だいかはりに付御仁政じんせいの始め諸國へ御巡見使じゆんけんしを相立てらるゝは御領りやう私領しりやうとも忠信孝義かうぎの者を見いだし且つは其所の役人自然しぜん私欲しよくの筋すぢ等之れあり下々の者難澁なんじふ致す向もあらば夫々御糺明きうめい仰付おほせつけらるゝ御趣意しゆいなり依て上樣御目代もくだいとの仰を蒙り駿すん遠ゑん三尾びの四ヶ國の巡見使じゆんけんしとして松平縫殿頭罷越まかりこせし處なり然ば其方共願ひの筋江戸表へ御差出に相成天下の御評定ひやうぢやうにも相成に付願書の趣き一通り御吟味ぎんみ有之により有難く存ずべしとの仰にけり扨是より一通り糺問たゞしの上藤八お節の兩人江戸表へ差立さしたてとなりたり


第十回


 夫それ任にんずるに其人を擇えらめば黜陟ちつちよく明あきらかにして刑罰けいばつ中あたらざるなく實まことに百姓をして鼓腹こふく歡呼くわんこせしむ諺ことわざに曰其人を知らんと欲すれば其の使つかふ者を觀みよと故に八代將軍吉宗よしむね公は徳川氏中興こうの君と稱たゝへ奉つる程の賢明けんめいに在ましませば其下皆其任にんに適かなはざるなく今般の巡見使松平縫殿頭ぬひのかみ殿も藤八お節が訴訟うつたへを一目もくして其事僞いつはりならざるを知り即夜そくや旅館りよくわんに呼寄よびよせ一通り糾問たゞしに取掛られたり然れば藤八お節の兩人は願ひの趣おもむき御取上とりあげに相成し事實まことに有難き仕合しあはせなりと涙なみだを流し平伏してぞ居たりける時に縫殿頭ぬひのかみ殿公用人櫻井文左衞門藤八に向ひ夫なる節と申女は如何なる身分の者にて其方養女に致せしぞと申すに藤八謹つゝしんで面おもてを上げ渠かれは當阿部川驛あべかはじゆくの勘五郎と申百姓の娘にして右勘五郎妻さい兆てうと申者は私し妹に候へ共實は姪めひの續つゞきに罷まかりなり候然る處同人儀幼年えうねんの頃より不仕合ふしあはせの者にて五歳の時父ちゝ勘五郎に別わかれ母兆てうが手一ツで育そだてし處九歳の春はる又母兆てう中症しやうに相成候て幼少の身にて日々往來わうらいの人に僅わづかの物を商あきなひ其餘力よりよくを以て母を養やしなひ居候に付私し如何にも不便ふびんに存じ親子共引取べき旨種々しゆ〴〵申聞候へ共今更厄介やつかいに相成候は不本意ふほんいなりとて聞入申さず五ヶ年の長病ちやうびやうを只一日の如く甲斐々々かひ〴〵しく看護みとり仕つりし其孝行を土地ところの人も聞傳きゝつたへて賞ほめ者にせられしが遂に其甲斐かひなく十四歳の砌みぎり右母病死びやうし仕つり他に頼たよるべき處もなきにより夫より節を私し方へ引取し事なりと申せば文左衞門ムヽ扨は姪めひの事故娘むすめに致して九助方へ縁付えんづけ遣つかはしたかと申に藤八は仰の通りなれ共ども夫には因縁いんえんの御咄はなしあり右節事母兆てうを介抱かいはうの中十歳の際とき勾引かどはかされ既に何國いづくへか連られべき處九助儀江戸表出府しゆつふの節其場所を通り合せ此難儀なんぎを救ひ遣つかはし其夜節方へ一宿仕つり艱難かんなんの體ていと孝心の程を感じ九助より錢ぜに一貫文遣つかはして翌朝よくてう九助は江戸表へ出立いたせし由其後節儀せつぎ私し方へ引取し處段々だん〳〵其節の事共を物語り今一度其人に逢あひ禮れいを申度たき由よし日來ひごろ申居しに夫より五ヶ年を相立たち私しは日蓮宗にちれんしう故十月會式ゑしきに甲州身延山みのぶさんへ參詣の戻もどり瀬戸川迄歸り來りし時盜賊たうぞくに出會であひし旅人難儀なんぎの體てい故見兼まして其盜賊たうぞくを追散おひちらし私し儀幸さいはひ旅籠屋はたごやの事に付右の旅人を連戻り泊とめ候機をり是なる節は其旅人を見るより吃驚びつくり致し此が以前の恩人おんじん水呑村の九助なりと申により私しも外ほかならず思ひ段々だん〳〵承うけたまはるに九助儀大金を持參ぢさん致し居る由故翌日よくじつ送り屆け度と存候處私し儀據よんどころなき宿の用にて同道致し兼かねるに付無用心ぶようじんゆゑ金子は私し預あづかり渠かれへは日蓮上人の曼陀羅まんだらを渡し置右を證據しようこに持參致さば金子は引替ひきかへに渡すべき約束仕つり九助は歸宅きたく仕つりしなり其譯は私しの宿より九助村方迄は六里程の行程みちのりにて大井河原がはら續つゞきゆゑ甚だ街道物騷ぶつさうに存じ昨日の如く途中とちう盜賊たうぞくにも付られなば如何いかゞ故村方へ立歸り親類共にても兩三人同道どうだうにて來らば大丈夫ぢやうぶと心得斯の通り取計ひしと申ければ文左衞門シテ其金は何程にて其滯とゞこほりなく九助に渡せしやと問に藤八は然ばにて候其金高は百八十兩にて其翌日九助が親類なりとて周藏しうざう喜平きへい次と申者兩人彼の曼陀羅まんだらを持參ぢさん仕つりし故引替に渡し遣せし處其日の未刻頃やつどきごろに九助私し方へ參り昨日預あづかり歸りし大切たいせつの曼陀羅まんだら紛失ふんじつ致し申譯なき仕合せなりとて如何にも當惑たうわくの體に申故其曼陀羅まんだらは先刻親類しんるゐの者持參致し預あづかり金と引替ひきかへ手前へ聢しかと請取まで取置とりおきし趣き申聞候と云を聞文左衞門は夫は親類と申て請取に參つたは僞者にせものだなと云に藤八は御意ぎよいに御座ります因て私し九助と計略はかりごとを示合しめしあはせ九助歸國きこくの祝いはひと申振舞ふるまひを致させ村中の者を呼寄よびよせ私し竊ひそかに參りて見まするに周藏と名乘りしは村の名主源藏又喜平次と申せしは右名主の手代源藏と申者にて偖さて又茲こゝに不思議な事は渠等かれら二人が戻りし後に三徳とくが落おちてありしが其中に九助の妻さい里さとと申者九助が留守中るすちう名主惣内と密通みつつう致し曼陀羅まんだらを盜ぬすみて同人へ送り彼の金を騙かたり取其後村方を出奔しゆつぽん致す申合まをしあはせの文ふみ在ありしにより私し是を以て九助の證人しようにんとなり右の金子を取返とりかへし候處九助妻と申者は九助の厄介やつかいになり居る伯父九郎兵衞の娘にて九助とは從弟續いとこつゞきに候と云ば文左衞門はハテサテ込入こみいりし儀ぢやなと言を藤八は又語を繼ぎ其上九助伯父九郎兵衞と申者も名主惣内母後家ごけと密通みつつう致し居り尋常なみ〳〵ならぬ中ゆゑ親類内ない相談さうだんの上にて里へ金五十兩付て離縁りえんいたし其後惣内と夫婦に相なり伯父九郎兵衞も介抱かいはう人と名を付惣内母へ後家入夫にふふに這入はひりしなり又九助の親類共は私し姪めひ節を九助の妻に致し度段相談仕つるにより一方ならぬ深き縁えんと存じ私し養女に致し同人方へ遣つかはせしなりと事細密こまかに申ければ文左衞門は委細ゐさい相別あひわかりたりとて夫よりお節に向ひ其方只今藤八が申通に相違無かと云にお節はハイ相違は御座りませぬと申時文左衞門シテ此度九助が難儀なんぎと云譯は人殺ごろしの科人とがにんとて無實の罪に陷たる趣き願書ぐわんしよに見ゆるが猶なほ又口上こうじやうを以て委敷くはしく申立よと有る藤八は膝ひざを進め右惣内名主役勤中つとめちう押領あふりやう彼是かれこれ宜らざる儀之ある旨小前こまへ百姓一同より申立により名主退役たいやくと相なり猶村中相談の上九助儀を惣内跡役あとやくに御領主樣へ願ひ出九助儀名主役仰付られ相勤居候處當三月十九日夜下伊呂村大井河續きの河原に於て右惣内夫婦何者の爲に切害せつがいせられしか二人共に首は切て取隱かくし胴どうばかり殘り居りしを伯父九郎兵衞惣内の母諸共はゝもろとも九助が仕業しわざなりと訴訟うつたへ出しに依て召捕めしとられ晝夜拷問がうもん強つよきにより九助は是に堪難たへがたく己おのれが科とがならぬ事を身に引受無理むり白状はくじやうに及びしかば終に口書こうしよ極きはまり爪つめ印も相濟あひすみ明日頃御所刑おきに相成由ゆゑ斯かく火急くわきふに願ひ奉つると申立るを縫殿頭殿ぬひのかみどの先刻より熟々つく〴〵聞居られしが頓て膝ひざを進められ夫は何か仔細しさいの有さうな事シテ然樣に拷問がうもんに掛るには何か證據しようこがなくてはならず何ぞ遁のがれ難き證據にても有しやと尋たづねらるゝに藤八謹つゝしんで答ふる樣先月二十日は節が實母じつぼの七年忌き祥當なるにより大井川の東上新田村と申處に尊たふとき御僧ごそうが在る故何卒母の供養くやうを頼み度と夫九助に申せしに九助も姑の事に付金谷村より歸りし草臥足くたびれあしをも厭いとはず自身に夕ゆふ申刻過なゝつすぎより右の寺へ參る其夜亥刻近よつどきちかき頃宅たくへ戻もどり來る途中下しも伊呂村の河原にて死人に跪つまづきたれども宵闇よひやみなれば物の文色いろも分わからず殊に夜陰やいんの事故氣の急せくまゝ早々宿やどへ戻りて其夜は打臥うちふし翌朝門かどの戸を明あけ候節衣類の裾すそに血の付居しを妻節せつが心付如何なる事ぞと申せしに九助も驚き昨夜河原かはらにて跪つまづきしが酒に醉ゑひし人の倒たふれ伏居ふしゐる事と思ひしに怪我人けがにんにてもありしかと語かたり居し時九郎兵衞が案内にて領主りやうしゆの捕方とりかた入來り有無うむを言いはせず召捕入牢じゆらう申付られしに依り私ども大に驚き段々だん〳〵樣子を承うけたまはり候へば九郎兵衞夫婦田地でんちを質に入いれ金子を役人衆しうへ遣つかはしたと申事是は人の噂うはさなれば聢しかとは申上兼れ共九郎兵衞夫婦の者甚はなはだ怪あやしく存じ候と事細密こまかに長々なが〳〵と申立ければ縫殿頭殿ぬひのかみどのにはシテ其法事を頼に參りし寺の名は何なにと申又其事故がらを申立なば定めし其和尚をしやうをも呼出よびいだし九助が寺へ參りし刻限こくげん歸宅きたくの時刻じこく等も取糺たゞしありしならんと申さるゝに藤八然されば其儀を九助より度々申立ると雖役人衆一向いつかう取上あげも御座なく只白状はくじやう致せ〳〵とのみ日々拷問がうもん嚴敷きびしく何分苦痛くつうに堪たへかね候に付餘儀なく身に覺もなき人殺ごろしの趣きを白状致せしと此所に居る節と私へ九助より申しましたと云時お節も首かうべをあげ只たゞ今藤八が申上し通りゆゑ夫の命いのちを何卒御助け下る樣にと申に縫殿頭殿コリヤ其方ども九助入牢中じゆらうちう何どうして會あひ其話はなしを聞きしぞよもや白洲で話したでも有まいと尋ねられしかば節はハツと語ごが閉ふさがり只もぢ〳〵して居る故藤八は又進み出いで右の一件は一昨日御慈悲おじひ願ひに節を召連れ領主役場の腰掛こしかけへ參りし際とき九助は爪印つめいん濟すみに成とて腰掛の圍かこひの中に居し故實は下役人へ少の贈物おくりものを致し其人の心入にて腰掛こしかけの小蔭かげで此世の暇乞いとまごひを致せとて遇あはせられ其節せつ委細ゐさいに承うけたまはりし儀にて既に御所刑も獄門ごくもんとか申事なれば只今頃九助は何なりましたか何卒して助け遣つかはし度此段偏ひとへに願ひ奉つると如何にも火急くわきふの歎願たんぐわんに聞ゆれども未だ盡さゞる所あるにより縫殿頭殿は猶なほ念ねんを押おされ其方最初さいしよ九助江戸奉公中に百八十兩と云大金を貯たくはへたと有が右は如何樣の儀で貯しぞと申さるゝに藤八其儀承うけたまはりし處江戸駿河するが町の町内抱へ番人を相勤あひつとめ店先みせさきにて小商こあきなひ仕つり千辛しん萬苦致して貯へし由申聞し也なりと云ふに松平殿なる程ほど町内の番人などと云は隨分ずゐぶん金の出來る者と聞込んだが僅わづか五年許ばかりの中に百八十兩とは餘り大金たいきんの事ならずやと有にお節は其儀は九助が毎度話しますには金八十兩町内に落おとし物が御座りしとか其落主が知れませぬ故御奉行ぶぎやう樣へ訴へました處其後も落し人が出ませぬにより大岡樣とやら申御奉行樣より拾ひ主九助は正直者しやうぢきものとの御譽ほめの上右の金子きんす八十兩を其儘戴いたゞきしが其節も何か種々いろ〳〵と取込だ事が御座りしとか申事其後歸國の節越後屋ゑちごやとやらから金二十兩程貰ひ町内地主樣家主樣から十兩ヅツ貰ひ自分が貯たくはへし金も四五十兩餘にて其外ほか町内の方々より餞別せんべつを贈おくられ都合百五十兩程に成しとの事成と云に縫殿頭殿ぬひのかみどの如何樣藤八其通とほりに相違無かと申されしかば藤八其儀は節が只今申上し通り毛頭もうとう相違は御座無なく何卒御慈悲じひの吟味願ひ奉つると申時縫殿頭殿副使ふくしの梶川かぢかは庄右衞門殿に向はれ御聞なされた通とほり渠等かれらが願ひの赴おもむき相違なく聞こゆるによりとに右かく領主の所置を差止置此段江戸表御老中方へ早々御用状ごようじやうにて申遣つかはし公邊かみの御裁許さいきよに任せ候方よからんと存ずるが如何やと有るに梶川氏も同意の趣き申さるにより縫殿頭殿ぬひのかみどの又藤八お節に向れコレヤ藤八節兩人の者此度江戸表へ差送り天下の御吟味に成る間然樣相心得一先まづ下宿へ下り控ひかへ居れと申し渡されければ兩人はハツと平伏し喜よろこび涙に昏くれたりける夫より松平殿まつだひらどのは給人竹中直八郎を呼出よびいだされて其方は江戸表へ兩人を同道どうだうなし邸やしきへ連參つれまゐり御用状ごようじやうを御月番の老中方へ差出し御下知次第掛の奉行へ兩人を引渡し候上再ふたゝび旅行りよかう先へ來るべしと申付られ又給人牧野まきの小左衞門を呼出され其方は早追はやおひにて遠州相良さがらへ參り長門守ながとのかみ用人共へ此書状を相渡すべし是は水呑村百姓一件江戸表へ差立さしたて再ふたゝび吟味に相成事故此方より遣す書状否いなは申さぬ筈なれども本人の爪印つめいん相濟すみ候などと難澁なんじふ申間敷まじきにも非ず其節は此儀を拒こばめば主人長門守爲にも相成あひなるまじき段屹度きつと申渡し且かつ右みぎ掛かゝりの諸役人迄殘のこらず迅速すみやかに出府致す樣に申渡すべし早々急げと云れしかば畏かしこまり候とて牧野小左衞門は吉原宿じゆく役人に早駕籠はやかご一挺ちやう申渡し其夜の子刻過こゝのつすぎに吉原宿を乘出のりいだし相良さがらの城下じやうかへと急ぎけり


第十一回


 茲こゝに又水呑村の百姓三五郎は主人九助が無實の災難さいなんを逃のがれさせんと種々工夫くふうをなしけれども領主の役人共勿々なか〳〵取上げなく却て當時村預あづけの身となりしかばいとゞ殘念ざんねん至極に思ひ此上は神佛しんぶつの應護おうごに非ずんば遁のがれ難かるべしとて一七日の間荒行を始め晝夜ちうや共に六ツ時に水垢離みづこりを取て鎭守へ百度參りを致しける其七日の滿まんずる日の暮方くれがた山の上よりして颯さつと吹下ふきおろす風に飄然と眼の前に吹落ふきおとす一枚の牌ふだあり手に取て見るに立春りつしゆん大吉だいきち護摩祈祷ごまきたう守護しゆご可睡齋かすゐさいと記したれば三五郎は心に思ふやう彼の可睡齋かすゐさいと云ば東照宮とうせうぐうより御由緒ゆゐしよある寺にして當國の諸侯しよこうも御歸依寺也因ては可睡齋へ參り委曲くはしき事を話し實意を打明うちあけて御願ひ申なば命乞いのちごひの事協かなはぬ儀は有まじ然なり〳〵と其儘駈出かけいだして見付驛なる可睡齋かすゐさいの臺所へ駈込かけこみ三五郎は手を突つき何卒御住持樣ぢうぢさまに御目通りを願ひ度と云けるに役僧やくそうは其方は何者なるやと問とふに三五郎ハイ私しは相良領水呑村の百姓三五郎と申者御住持樣へ直ぢきに御目通の上御願ひ申上度儀御座るにより參りしなり何卒なにとぞ御執次下とりつぎくださるべしと申ければ役僧は己おれに申ても解わかるものを百姓の分際ぶんざいとして御直ぢきに申上たしなどとは無禮なりと少し怒いかりを含ふくみて汝は當山を何と心得居る駿すん遠ゑん參さん三ヶ國の總祿所そうろくしよ八百ヶ寺の觸頭ふれがしら寺社奉行直支配の寺なるぞ其住職そのぢうしよくの大和尚おほをしやうへ直談ぢきだん致などとは不屆至極なりと云に三五郎は否いや夫は御前樣の仰なくとも承知で御座る寺社じしや奉行樣の御直支配は扨置さておき假令たとへ宮樣みやさま御門跡樣でも御願申上からは御逢あひ下されぬと云儀は憚はゞかりながら御座るまじ御釋迦樣しやかさまは淨飯王じやうはんわうと云天子樣の御子なるが世を御救すくひの爲なれば惡病人あくびやうにんは勿論五十二類の者迄にも御教化けうげ遊ばされしと承りしと云に役僧は益々ます〳〵怒いかり其方は高慢かうまんの儀を云奴やつかな釋迦しやかの時は釋迦の時今の時代ときよは又今の時代なりと申を三五郎は何分承知せず然樣なら御釋迦樣しやかさまの時は極樂ごくらくへ遣やり今の時代は地獄へ御引導いんだう成なされますか憚はゞかりながら出家しゆつけの御身分は何と御心得こゝろえ成なされますぞと顏色かほいろ變かへて言ひければ役僧は己おのれ不屆至極ふとゞきしごくな奴なり汝おのれは大方搖ゆすり騙かたりに相違は有まいコリヤ男共此奴やつを追出おひいだせ夫それ擲たゝき出せといふ聲を聞より下男共は手に〳〵棒縢ばうちぎりを携たづさへて追立んとすれども三五郎は少しも騷さわがず擲たゝくなら勝手かつてに擲たゝかつせい何を以て出家の口から私を搖ゆすりだの騙かたりだのとは云つしやる昆虫むしけら迄も殺さぬを殺生戒せつしやうかいとは申さずや罪なき一人の百姓を打擲たゝかんとは出家に似氣にげなき成れ方お釋迦樣は親を殺ころし主しうを殺す五逆ぎやくの罪人ざいにんでも濟度さいどなさるゝに此御寺を見込て御願ひに參りし土民どみんの申事を御聞入いれなき時は是非に及およばねども兎に角和尚樣をしやうさまに御目に掛り一通とほり願ひ上げ協かなはぬ時は歸かへる分の事私より決して手出は致さぬと云つゝ其所に居し凝こるにぞ弟子でし番僧ばんそうは立騷たちさわぐを方丈はうぢやう聞かれ何事なるやと尋たづねらるゝに水呑村百姓三五郎と申者御逢を願ひ度と申出いでしが百姓の分際ぶんざいにて御直ぢきに御目通りは叶ひ難がたしと申せしかば斯かくの仕合なりと言に方丈はうぢやうは其者是へ通とほせと申さるゝゆゑ侍者じしやの坊主立出たちいでコレ各々方おの〳〵がた鎭しづまられよコリヤ百姓和尚樣をしやうさま御逢あひ成なさるゝに因て此方へ通るべしと言を聞て三五郎是は有難しと後に尾ついて大方丈を通拔とほりぬけ鼓樓ころうの下を潜くゞりて和尚の座敷の縁側えんがはへ罷まかり出平伏なすに此時可睡齋かすゐさいは靜かに緋ひの衣ころもの袖をかき合せながら三五郎を見遣られ相良領さがらりやうの百姓三五郎とやら愚僧ぐそうへ如何なる用事あつて參りしぞと尋ねらるゝにぞ三五郎はハツと答へ最前さいぜんより無禮の儀ども申上しを御咎おとがめもなく却て御目見めみえ仰付おほせつけられし事冥加みやうが至極しごく有難き仕合しあはせなり方丈ぢやう樣へ御願ひと申すは別儀べつぎにあらず私し主人儀無實の罪に陷おちいり近々御所置に相成あひなるに付何卒御衣ころもの袖を御掛かけなされて御たすけ下さる樣に願に罷まかり出しと云ければ可睡齋かすゐさいは眉まゆを顰ひそめ夫は如何樣の儀なるやと言いはるゝに三五郎は九助が是までの事柄ことがらを一伍一什いちぶしじふ物語り右に付私し儀主人しゆじんの身代り御仕置に相成樣願しかど夫さへ御取上とりあげなければ此上は何卒貴僧あなた樣の御慈悲御情おなさけで九助が一命御助おんたすけ成れて下さらば誠まことに有難う御座りますと申せば可睡齋すゐさい聞きゝてイヤ佛道ぶつだうは人を助くるが趣意しゆいなりとて王法わうはふ有りての佛法なれば國の政事せいじに口出しはならず又役人と雖も筋道すぢみちなくして人を害がいすべきや其九助と云者假令たとへ此度たび人を殺さず共是迄に何か惡事が有か但し前世ぜんせで人でも殺したる因果いんぐわの報むくいなるべし然すれば何も悔くやむには及ばず皆是因果の歴然れきぜんなり雜法轉輪ざつはふてんりんと諦あきらめよと言るゝに三五郎は押返し然樣さやうでも御座らんが其處そこが御出家しゆつけの役首くびの座へ坐すわる者を何卒御救ひ成れて下されよと只管ひたすらに頼みけれども可睡齋は首かうべを振ふり汝よく聞きけよ佛法と言共今は末法なり釋迦しやかの時代とは事異かはり愚僧ぐそうが如き不徳ふとくにては勿々なか〳〵有罪の者を現世げんせにて救う事は成難がたし因て國法を立て是を仕置しおきす然れば及ずながら未來みらいは救ひも遣さうが現世の罪人を救う事は協はずと申さるれば三五郎は猶も首かうべを縁えんに摺付すりつけ其處が御衣役御圓頂役つむりやくなれば諸役人も一了簡りうけん異かはり殊には御寺格じかくと申彼是助る儀も御座らんにより何卒命乞いのちごひ成下なしくださるゝ樣偏ひとへに願ひ奉つる此事御聞入下さらば假令たとへ私しの骸からだは如何樣に相なるとも聊かも苦くるしからず何卒主人の一命をと涙を流し手を合せ鰭伏々々ひれふし〳〵歎く體てい忠義の心底てい顯あらはれしかば可睡齋も感心なし善哉々々よきかな〳〵汝が志操こゝろざし感心致したり力ちからの及ぶ丈だけは救ひ遣はさんと云しかば三五郎はハツとばかりに平伏なし有難涙なみだに咽むせび頓やがて暇いとまを告て臺所だいどころへ下り所化しよけへも厚あつく禮を述のべ居たる處へ奧の方より侍僧じそう出來いできたり明日は未明みめいの御供揃そろひにて相良まで御出あるにより陸尺ろくしやく仲間ちうげんを支度したくすべしと申渡しけるを三五郎は聞て彌々いよ〳〵身に染々しみ〴〵と有難く思ひて立歸れり時に享保二年四月廿七日今日は九助の一件落着らくちやくなし死罪しざい獄門ごくもんと相定り家老中からうぢう諸役人町役所立會の上申渡す事故本多長門守家老本多外記既に支度に及びて玄關先げんくわんさきに駕籠かごを寄よせ巳刻よつの太鼓を相待處へ對つゐの先箱さきばこ天鵞絨びろうど袋入ふくろいりの立傘等を持ち緋網代ひあじろの乘物のりものにて可睡齋城門へ乘込のりこみ來るゆゑ門番人下座をなしながら可睡齋樣かすゐさいさまと呼上れば執次とりつぎの者は立出て書院へ案内す可睡齋は外記に對面して時候の挨拶あいさつ終をはり後に九助が命乞いのちごひの趣きを申入らるゝに外記は仰おほせの趣き委細承知仕つり候へ共ども既に口書こうしよ爪印つめいん濟すみたる上は今更致方なく候間然樣に思召るべしと云を可睡齋押返し愚僧ぐそう態々わざ〳〵推參すゐさん致し右の趣き御聞濟きゝずみ是なきに於ては退院たいゐん致すべき存寄ぞんじよりに候と思ひ入て申されけるにぞ外記は殊の外ほか迷惑めいわくに思ひ然樣の思召ならば曲まげて一等罪を輕かろく致すは格別かくべつ二人迄の人殺しあればとても助命の儀は相成難あひなりがたし何いづれ共に是より出席致し今一應吟味の上罪を一段輕く申付る樣取り計はんと申に可睡齋も止やむを得ず何分にも九助が助命に相成樣あひなるやう御取計ひをば頼入候なりと厚あつく申置おかれ旅宿りよしゆくなる相良の功徳寺へ引取けり斯て程なく巳刻の太鼓も鳴なりたる故外記は役所に出けるに早はや同役どうやくの中村主計かずへ用人小笠原常右衞門柳生源藏大目附武林軍右衞門物頭ものがしらには里見圖右衞門橋本九兵衞目付朝比奈七之助徒かち目付岩本大藏勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門代官黒崎又左衞門市田武助町奉行緒方をがた求馬もとめ等出席ありて足輕あしがる共は白洲を固めたり


第十二回


 偖さて又白洲の縁側えんがはには町奉行下役郡方手代々官迄殘らず綺羅きらびやかに居並び今日は九助に切繩を掛て引据すゑ九郎兵衞夫婦村役人周藏喜平次木祖兵衞三五郎下伊呂村名主藤兵衞組頭惣體そうたい引合人殘らず罷り出村役人より去さんぬる廿四日節儀せつぎ逐電ちくてんいたせし旨屆け出一同外記げきが出席を待けるに可睡齋との掛合かけあひに依て時刻じこく延引えんいんなし漸々只今出席にて傍邊かたはらの人々へ會釋ゑしやくして上席に直りしかば松本理左衞門は進み寄九助が爪印を差出すを外記は取上げ口書を熟々つく〴〵見て九助儀斯かくまで白状致し口書へ爪印までなすからは聊かも相違は有まじ然れ共爪印は逆手さかてなり手を逆ぎやくに致し押たるは怪しむべし此儀吟味を遂とげられしかとあるに理左衞門は眉まゆに皺しわを寄よせ仰おほせの通り逆手さかてなれども夫は渠かれが得え手勝手にて押たるも知れず左角とかく白状が證據にて爪印は實まことの掟おきてまでなれば其邊の尋は致し申さずと答ふるにぞ外記は首かうべを振ふり否々左樣の取計は有之まじ假令たとへ白状致すとも口書爪印なければ所刑しおきには致さぬ筈はずなり然るを白状さへなせば爪印は何でも宜よいと申ては爪印を押おさせるに及ず是は其身の中骨ほねの端はしにて證印しよういん爲なす事なれば爪印は輕からぬ儀ゆゑ猶一通り糾たゞされ然るべく存ずる也とあるにぞ理左衞門は是非なく九助に向ひコリヤ九助其方儀此程爪印の節掌てのひらを上へ返して押たる者と相見え爪印が逆さかさに成て居るはコリヤ如何の譯なりやと云ければ九助はハツトばかりにて一言の返答へんたふもなく只落涙らくるゐに沈しづみ俯向うつむいて居たるにぞ理左衞門は迫込せきこんでコリヤ何ぢや御重役方よりの御不審しんなるぞ汝おのれ何心なく押たのか但たゞし指ゆびに痛所いたみしよにても有て逆ぎやくに押たるやコリヤ何ぢや〳〵と迫せき立れど九助は一向無言にて只無念むねんの顏色ぐわんしよくをなし切齒はがみを爲しながら涙を流し居たりける外記は仔細しさいぞ有んと上座より聲を掛け如何に九助不分明ふぶんみやうなる爪印の致方眞實に申すべしと有しかば九助はハツと頭かしらを上げて家老中の席を然も恨うらめし氣げに見上げしが外記の方に向ひ流石さすがは御當家の御重役程有て能よくこそ御尋ね下されたり實の處は人を殺したる覺えは御座らねども責苦の嚴敷故に所詮しよせん實事を申上たりとも必ず御取上はなき事と心得寧いつそ一思ひに斬きられし方が増ならんと覺悟を極め無實の罪を引受て兩人の者を殺せしと白状はくじやうは致せしなれども此身にとりて覺えなきこと故至極殘念ざんねんに存じ爪印の節せつ恐おそれながら上を怨うらむ心より我を忘れて逆手さかてに捺おしまして御座ると申ければ理左衞門大いに憤いきどほり大の眼まなこを剥むき出して九助を發打はつたと睨付ねめつけコリヤ〳〵其方は只今御重役の一言にのさばり若や命も助るかと未練みれんにも今となりて諄言よまひごとを申條不屆至極ふとゞきしごくなりと大聲にて叱しかり付外記に向ひ只今御聞の通りなれば何も仔細しさいは御座候はずと云ふを外記は否々何どうやら少し吟味が殘つたかと考ると言ふ時同役の中村主計かずへ進み出否外記殿此上御尋ねなさるゝに及ばず假令たとへ如何樣に拷問がうもんが強つよいと申たとて身に覺えのなき者ならば白状は致すまじ然るを今此方にて不審ふしん致す詞の緒をに付て彼是かれこれ申は可謂いはゆる引れ者の小唄うたとやら取に足ずと申せしかば外記も暫時しばし默止もくし居たりしを理左衞門は得たりと九助に向ひ其方は言語道斷ごんごだうだんの惡人なり先日獄屋に於て白状致せしを今又然樣さやうの空言そらごとを申上ば汝おのれ又また骨ほねを碎くだき肉を醢ひしほにしても云さすぞ少しく甘あまき詞ことばを懸かくれば直樣事を兩端に申立る條でう不屆至極なりと勃然やつきとなりて怒るにぞ九助は二言と返答へんたふもせず居たりしかば理左衞門は家老中へ對むかひ此期このごに及んで斯の如きの始末しまつ言語同斷の曲者くせものゆゑ彌々いよ〳〵今日御所刑しおきに行ひ然るべしと申時主計かずへは點頭うなづき如何いか樣御法ごはふの如く申渡て宜からんと云を聞理左衞門は開き直りて高らかに

其方儀そのはうぎ先せん名主惣内妻さとは先妻せんさいに有之候へども一旦離縁りえん致し候上は違論ゐろん之なき筈の處右體の儀を根に持惣内へ遺恨ゐこんを含ふくみ去る二月十九日下伊呂村辨天堂べんてんだう前大井河原に於て右惣内さと兩人を殺害せつがい致し候段不屆至極に付水呑村下伊呂村引廻の上獄門ごくもん申付る

と申渡し又水呑村先名主惣内介抱人かいはうにん九郎兵衞并に同人妻村方役人及び下伊呂しもいろ村役人共と呼時一同ハツと答ふるにぞ理左衞門は何れもへ向ひ九助儀先名主惣内夫婦に遺恨是れあり殺害に及び候段一々白状はくじやうに及びしに不屆至極しごくに付引廻ひきまはしの上獄門ごくもん仰付らるゝなり左樣存ぜよ其外の者共は不埓ふらちの筋すぢも之なきにより構かまひなしと申渡せば皆々みな〳〵ハツと平伏なし一件けん引合ひきあひの者共は退きけり此時家老外記げきは不審ふしん少すくなからず思へども證據も之なき事故強しひても論ろんじ難がたく其席せきを退き可睡齋かすゐさいの旅宿に到いたり對面たいめんの上天下の大法たいはふは破やぶり難き趣きを申述後あと念頃ねんごろに法養ほふやうの事を頼みける然ば無殘むざんなる哉かな水呑村の九助は豫かねて覺悟かくごとは言ながら我が罪ならぬ無實の災難さいなん今更怨うらんで甲斐かひなしと雨なす涙に面を浸ひたし首うな垂たれて面目なげに目を閉とぢ口には稱名しようみやう唱となへ未來みらいを頼み彌陀如來救すくはせ給へと口の内今ぞ一期と看念かんねんなし水淺黄色みづあさぎいろの袷あはせの上に切繩きりなはを懸かけ馬の上に縛しばり付られ眞先には捨札紙幟かみのぼりを立與力同心警固けいごをなし非人ひにん乞食こつじき取込で相良さがらの町へ引出されしは屠所としよの歩行の未の上刻是を見んとて群集むれつどふ老若男女おしなべて哀あはれの者よ不便ふびんやと云ぬ者こそなかりけれ斯かゝる所に向ふよりして早駕籠はやかご一挺ちやうワヤ〳〵と舁來かききたり人足どもは夫御早なり片寄々々かたよれ〳〵御用々々と聲を懸つゝ制しければ引廻ひきまはし者は道の傍かたはらへ寄居るを早の侍士さむらひ所刑しおき者と聞より駕籠かごの簾すだれを撥退はねのけ見るに先に立たる捨札に水呑村九助と書付けありしかば領主りやうしゆの檢使けんし役人是へ〳〵と聲を掛しかば仕置掛りの者ども吃驚びつくりなし當日の檢使けんし與力村上權左衞門田中大七の兩人馬より下り立駕籠の前に來りて拙者せつしや共は本多長門守ほんだながとのかみ家來村上權左衞門田中大七と申者今日人殺し科人とがにん水呑村名主九助儀獄門ごくもんの仕置に付つき檢使けんし申付られ只今刑場けいぢやうへ臨のぞむ所に候然るに貴所樣きしよさまには如何の御方にて又何等の御用之あり拙者共を御呼留よびとめ成なされ候やと申に早打ちの侍士莞爾につこと笑ひ御道理ごもつともの御訊問たづね拙者儀は御代替りにつき將軍家の御目代巡見使じゆんけんし松平縫殿頭殿家來牧野小左衞門と申者此度御領内ごりやうない水呑村名主九助一件江戸表へ御差出の御用状持參ぢさん致したり當地重役衆ぢうやくしうに御意ぎよい得える間所刑しおき者は是より引返されよと申せば兩人の檢使けんし答る樣御巡見樣よりの御差圖さしづとあれば仔細しさいも有之間じく候え共拙者共役儀やくぎに候へば此處に控へ罷在まかりあり重役共の下知次第引取るべし依よつて直樣すぐさま引返ひきかへし候儀は御差圖に隨ひ難しと申ければ小左衞門は是は御道理ごもつともなる儀某し早々重役衆に御達たつし申べし沙汰の有迄まで御控ひかへあれと云捨すて駕籠を急いそがせんとなす時兩人は暫しばしと聲掛今日は當所評定ひやうぢやう落着日らくちやくびに付役人共町役所に相詰あひつめ居るにより直ぢきに役所へ御出有て然しかるべしと申にぞ小左衞門承知なし町役所へと急ぎ行頓やがて遠州榛原郡はへばらごほり相良さがらの城下根來ねごろ町役所へ横着よこづけに乘込のりこみたり然されば詰合の役人共大いに驚き何事やらんと早速尋ぬるに諸國巡見使松平縫殿頭ぬひのかみ使者牧野小左衞門なりと云ながら駕籠より立出刀引提ひきさげ役所の上座へ通とほりければ諸役人下座へ引下り一同平伏へいふくす時に小左衞門重役衆と聲を掛るに家老本田外記中村主計かずへ進み出一通り挨拶あいさつ畢をはる時兩人は何等の御用に候や伺ひ奉つらんと申ければ小左衞門は状かたちを改め今度主人縫殿頭より使者の趣きは長門守殿御領分りやうぶん水呑村百姓名主九助一件に付用人共より各自方おの〳〵がたへの御用状じやう先まづ御披見ごひけん成れよと首に掛たる御用状を相渡せば外記げきは之を請取封ふう押切て讀上るに

以剪紙きりがみをもつて得御意ぎよいえ候然しかれば今般こんぱん主人縫殿頭儀台命たいめいを蒙り駿すん遠ゑん三尾び濃のう四ヶ國巡見として罷越し駿州吉原宿泊とまりの節長門守殿御領分りやうぶん水呑村名主九助妻節せつ并に駿州島田宿藤八と申者愁訴しうその趣き吟味に及び候所再應さいおう糺明きうめいの筋有之に付右の段江戸表御老中方へ縫殿頭より御屆けに及び右節藤八とも差立さしたて相成候間本人九助并に九郎兵衞夫婦下伊呂村々役人其外掛合かゝりあひの者一同勘定奉行兼郡奉行松本理左衞門始め掛り役人殘らず江戸表へ早々差出し三番町松平縫殿頭屋敷迄相送あひおくらるべく旨申入候樣やう縫殿頭申付候之に依て此段御達たつしに及び候以上

松平縫殿頭家來
四月廿六日
櫻井文左衞門
田村治太夫

本多長門守樣

御用人中

斯かくの如き文面に詰合の役人共は一同茫然ばうぜんたるばかりなりしが俄にはかに役所は大騷動さうどうとなり科とが人九助は早々引き返させよと早馬にて乘着のりつけさせ又領主りやうしゆには在國故家老共より申達し巡見使へは畏かしこまり奉つるとの御請書を差出し郡奉行其外掛役々かゝりやく〳〵へは出立の儀申渡す等其混雜こんざつ鼎かなへの沸わくが如くなり茲に又九助は引廻しの馬の上に縛くゝられ既に相良さがらの城下外はづれまで引れ來り今刑場けいぢやうへ臨のぞまんとする時江戸の方より來りし早打はやうちの侍士さむらひに引止ひきとめられ檢使の役人を始め暫時しばし其所に待居まちゐければ此は如何なる事やと思ひける中程もあらせず城下の方より汗馬かんばに鞭むちを當あて御巡見使よりの御差圖さしづなり九助を早々引戻ひきもどせと大音だいおんに呼はるを聞きゝ檢使の役人を始め警固けいごの人々驚破すはとて其儘城下へ引返せば九助は今死ぬる身と思ひ定めしに俄にはかに引返せし事如何なる譯やと夢に夢見し心地して只たゞ茫然ばうぜんたる計ばかりなり斯て四月廿八日囚人めしうど九助を還羅鷄籠とうまるかごに乘せ徒目附かちめつけ足輕あしがる目附等警固けいごなし其の外松本理左衞門黒崎又左衞門市田いちだ武助栗坂くりさか藤兵衞抔など吟味ぎんみ掛の役人何いづれも駕籠かごに打乘うちのり又九郎兵衞夫婦村役人共大勢付添そひ本多家用人笠原かさはら常右衞門惣取締として江戸表へ出立なしたりけり


第十三回


 偖又松平縫殿頭殿の給人竹中直八郎は藤八お節が願書ぐわんしよ并びに御用状ようじやう等江戸表へ持參ぢさんし御用番の老中松平右近將監うこんしやうげん殿へ差出し御下知に依てお節藤八の兩人は町奉行大岡越前守殿へ引渡せり然ば越前守殿には藤八お節を一通り吟味の上小傳馬町三丁目竹屋權八方へ預けられ其後五月十二日に九助九郎兵衞を始め關係かゝりあひの者一同本多家より差送りに成しかば九助は入牢じゆらう九郎兵衞夫婦并に村役人共は馬喰町三丁目伊勢屋惣右衞門方へ下宿げしゆく申付られ下伊呂村役人は納をさめ宿淺草平右衞門町坂本屋傳右衞門方へ下宿松本理左衞門始め掛役人は主人方へ預けに相成たり却て説とく駿河するがの國府中彌勒みろく町二丁目なる小松屋にては抱かゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへが家出いへでせしとて大に驚き手を廻して諸所方々を尋ね探さがせしに行方ゆくへ知れざれば此は必定ひつぢやう桶伏をけふせにしたる石川安五郎が爲業しわざに相違有まじと人々言居ける所に大門おほもん番の重五郎が阿部あべ川の河原かはらにて何者にか切殺され死骸しがいは河原に有之との事なれば此は渠かれは番人の事ゆゑ白妙しろたへを追駈行おひかけゆき殺ころされしものならんとて早速さつそく河原に行て見るに重五郎が死骸しがいの傍かたはらに萌黄羅紗もえぎらしやの煙草入たばこいれ落おちて居たる故中を改むるに巴屋ともゑや儀左衞門樣と云書状二三通外に買物樣かひものやうに手控小帳てひかへこちやうあり依て小松屋より駿府町奉行桑山下野守殿へ訴へければ支配内しはいうちなるにより先江尻えじり宿の巴屋儀左衞門を差紙さしがみにて呼出し吟味ぎんみありし處儀左衞門心中に驚けども遁のがるだけ遁ば遁のがれんものと私し儀は十六日に彌勒みろく町へ參り其節吉野屋と申大門前の酒屋の表にて大神樂だいかぐらの舞居まひをりしを暫時ざんじ見物致し候中煙草たばこ入を奪うばはれしと見えて御座らぬ故諸所尋ね中に候と申を桑山くはやま殿然樣では有まじ段々だん〳〵其方が樣子を糺たゞせしに小松屋の抱かゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへに執心しふしんして只今迄も度々安五郎とか申者と口論こうろんにも及びし趣き聞えたり然すれば汝大門番重五郎を殺す心は有まじけれど渠かれ安五郎白妙が逃亡たうばうを追駈おつかけし節何か間違まちがひにて殺したに相違は有まじ包つゝまず申立よと問詰とひつめらるれども儀左衞門は白状はくじやうせず否々いや〳〵全まつたく以て殺せし覺えは御座なく尤も白妙と申遊女は兩三度も呼て遊し事御座候へども私しは妻子さいしも有身に候へば人を殺ころす迄には迷まよひ申さず煙草入は全く盜ぬすまれし品に相違御座なくと云ければ桑くは山殿には打笑みコリヤ能思うても見よ其煙草入は實盜み取られしものならば僅わづか其場所ばしよより二十町内外の處に有べき筈なし其方が申處にては煙草入は安五郎重五郎兩人の中にて盜ぬすみ取し樣に聞ゆるが確しかと然樣かコリヤ汝が行状ぎやうじやう能よく知たり日頃不正よろしからざる趣きなれば疑うたがはしき廉々かど〳〵少からず吟味ぎんみ中入牢じゆらう申付ると言渡されけり此儀左衞門の女房をお粂くめと云しが夫をつとが此の災難さいなんは必竟ひつきやう安五郎が仕業しわざなれば渠等かれらが在處ありところ知しれる上は夫が無實じつの難は遁のがれなんにより何卒なにとぞして安五郎を尋ね出いだし夫をつとの災難さいなんを助けんには神佛しんぶつの加護かごに非ざれば爲難なしがたし幸ひ遠州秋葉三尺坊ばうの應護おうごを祈いのらん者と一圖づに思ひ込こみしかば夫よりして秋葉山へ遙々はる〴〵と登しが本社は女人禁制によにんきんせいなるゆゑ上る事ならず因て玉垣たまがきの外にて祈いのり居しに早晩いつしか夜に入ければいざや私が家へ戻らんと崖がけの道へ來掛かゝるに茶店ちやみせの仕舞しまひたるが在しにぞ是れ屈竟くつきやうなりと笹さゝの葉を身みに纒まとひ手拭てぬぐひにて頭かしらを包つゝみ此處に這入はひり通夜をなし一心に夫をつとが災難を遁のがれる樣になさしめ給へと立願りふぐわんをぞ籠こめたりける此所は名に負おふ周智郡すちごほり大日山の續つゞき秋葉山の絶頂ぜつちやうなれば大樹だいじゆ高木かうぼく生茂おひしげり晝さへ暗くらき木下闇このしたやみ夜は猶さらに月暗くらく森々しん〳〵として更行ふけゆく樣に如何にも天魔てんま邪神じやしんの棲巣すみかとも云べき峯みねには猿猴ましらの木傳ふ聲谷には流水滔々たう〳〵と而して木魂こだまに響ひゞき遠寺ゑんじの鐘かねも最いと物凄すごく遙に聞ば野路のぢの狼おほかみ吼ほえて青嵐颯々さつ〳〵と梢こずゑを鳴し稍丑滿頃とも思ふ頃怪あやしや遙はるか麓ふもとの方よりがさ〳〵わさ〳〵と小笹をさゝ茅原かやはら押分おしわけて來る氣態けはひなればお粂は屹度きつと氣を鎭しづめて汝おのれ今頃登山とざんなすからは強盜がうたうか但し又我が如き心願にて夜參りする者なるか何にもせよ訝いぶかしと星明ほしあかりに透すかし見れば旅人と思おぼしく菅笠すげがさ眞白まつしろに光りたり茲こゝに又彼の石川安五郎は上新田村の無量庵むりやうあんを出立先まづ豐浦とようら雲里うんりの方へ行んものと道を急ぎしに圖らずも踏迷ふみまよひ喘あへぎ〳〵漸々やう〳〵秋葉の寶前はうぜんに來りしが此時は早はや眞ま夜中にてゴーン〳〵と鳴なりしは丑刻やつの鐘かねなれば最早もはや何へも行難し麓ふもとへ下れば狼おほかみ多く又夜深ふけに本坊を起おこす共起はせまじ幸ひ此茶店にて夜を明さんと呟つぶやきつゝ茶店ちやみせに入てお粂が通夜つやして居をる共知らず上り込こんだり扨もお粂は大膽不敵だいたんふてきの女なれば先方の心は知らざれ共闇くらさは闇くらし息いきを堪こらへて居る中既すでに寅刻なゝつの鐘かねも聞え月は梢こずゑの間に顯あらはれ木の間〳〵も現々あり〳〵と茶店さてんの中まで見え透すくゆゑ安五郎は不圖ふと此方こなたを見返れば笹簑さゝみの着きたる者の居るにぞ是はと吃驚びつくりし然るにても斯る山中に人の居るこそ訝いぶかしけれ但し妖怪えうくわいの所爲しよゐなるかと疑うたがひつゝ聲を掛け夫なる者は何者ぞ旅人りよじんか又は山賊さんぞくの類たぐゐなるか狐狸こりなるか應こたへをせよと傍かたはらへ摺寄すりよればお粂は疾とくより心得居し事ゆゑ一向驚おどろかずアイサ私しは盜賊たうぞく山賊さんぞくの類でなく又狐狸こりにても候はず大願だいぐわん有て當山へ籠こもりし者なり本社拜殿はいでんは女人禁制きんせい故此茶屋ちややにて通夜つやを致し候因て貴所には何れの御方にて候哉と問返とひかへされ安五郎は又驚き扨々さて〳〵女子には珍めづらしき者かな如何なる心願しんぐわんかは知らねども斯る深山しんざんへ籠こもらるゝ事感かんじ入たり某しは信州へ秋葉越あきばごえして參らんと思へども一人旅たびゆゑ泊とめてはなく斯る深山しんざんに踏迷ふみまよひ漸々是まで參りし者なれば必かならず心を隔おき給ふな最早もはや夜明よあけにも間はあるまじ夫までは先まづ暫時しばらく此所に休息きうそく致さん又其許もとには定めて此近邊きんぺんの御人成んと聞にお粂も此人盜賊たうぞくなどにあらずと安心し打解うちとけし體さまにて傍そばへ寄私しは駿州江尻えじりの者なりと云ながら面かほを透すかし見て吃驚びつくりなしヤア此方樣は石川安五郎樣と云に安五郎も顏かほを透すかし見て然樣云其方も何やら見た樣な御内儀ごないぎ其許はと云をお粂は聞私しは江尻宿の絹商人きぬあきうどにて巴屋ともゑや儀左衞門が女房粂と申者此方樣故に夫儀左衞門は無實むじつの災難さいなん大門番おほもんばんの重五郎を殺ころしたとて今は入牢じゆらうの苦くるしみ夫も誰故此方樣が小松屋の抱かゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへを盜ぬすみ逐電ちくでんし夫のみならず大門番の重五郎を殺し罪つみを夫をつとへ塗なすられし殘念ざんねんさに何卒此方樣に出會であひ夫をつとが罪つみを免ゆるされんと此秋葉あきは樣へ誓願せいぐわん込こめたる一心屆とゞきて今此こ處こにて出會しも嗚呼あゝ忝かたじけなしと宮居みやゐの方を伏拜ふしをがむを見て安五郎はアヽ若コレ御内儀粗忽そそうな事を申されな小松屋の遊女白妙しらたへを連て立退たちのきしは此安五郎に違ちがひなけれど然ながら其節我は鞠子まりこの柴屋寺しばやでらへ先に參りて白妙しろたへの來るを待まつて居し故其場の樣子は知らず跡あとにて白妙に聞くに彼の大門番の重五郎といふは元もと白妙しらたへが親元遠州濱松はままつ天神町てんじんまち松下專庵せんあんと云醫師に召遣めしつかはれし古主筋こしゆすぢ故其夜の都合つがふをなして白妙を逃にがしたが又儀左衞門殿も一體いつたい白妙しろたへが馴染なじみの客にて是も其夜白妙を阿部河原あべがはらまで追駈おつかけ來られ重五郎と問答もんだふ中白妙は船ふねに飛乘とびのり柴屋寺しばやでらまで參りしなり其後樣子を聞ば重五郎は船場ふなばにて横死わうしの由是これ全まつたく儀左衞門殿が手に掛かけられしに相違さうゐなし然れば御内儀必ず我を恨うらみ給ふな是皆自業自得じごふじとくと諦あきらめられよと申をお粂は聞も終をはらず濶くわつと急込せきこみ是は卑怯ひけふなり安五郎殿白妙と逃亡かけおちせしのみか何が證據しようこで重五郎を家來筋と言いはるゝや死人しにんに口なし所詮しよせん爰こゝにて兎とや角かく云とも理非りひは解わからず夜よ明あけなば是非ぜひにも駿州すんしうまで同道なし善惡ぜんあくを分てお貰もらひ申さにやならぬと血眼ちまなこになりて申にぞ安五郎は當惑たうわくなし我等とても段々の不仕合ふしあはせ折角せつかく連退つれのいたる白妙には死別しにわかれ今は浮世うきよに望のぞみもなければ信州しんしうの由縁ゆかりの者を頼み出家しゆつけ遁世とんせいを遂とぐべしと存ずるなり何とて僞いつはりを申べきと問答の中に疾はや曉あけがたに近ちかくなりければ安五郎は急いそぎ立去たちさらんとしけるをお粂は先まづ待またれよと引止とめる故安五郎は面倒めんだうなりと突飛つきとばすを又も飛付とびつく女の一念ねん止とまらぬ遣らじと爭あらそひける中茶屋の簀すの子こを撞乎どつかり踏拔ふみぬき罵のゝしり合て挑いどみける此物音おと本坊ほんばうへ聞えしにや何事ならんと朝あさ看經かんきんの僧侶達そうりよたち下男諸共十六七人手に〳〵棒ぼうを携たづさへて駈付かけつけ見れば是は如何に餘りし黒髮くろかみを振亂ふりみだせし廿四五歳の女と三十近ぢかき色白いろしろき男と組くみつほぐれつ爭ひ居たしかば扨は此奴等こやつら色事いろごとの喧嘩けんくわにてもなすかや併し見て居られぬとて漸々に双方さうはうを引分ひきわけ委細ゐさいの樣子を聞て所の代官だいくわん首藤すどう源兵衞より公儀こうぎ御代官二股またの陣屋ぢんや大草おほくさ太郎左衞門殿へ差出し一通り吟味の上駿府へ差送さしおくりに相なり石川安五郎は揚あがり屋入申付られ其後同所町奉行桑山下野守くはやましもつけのかみ殿種々しゆ〴〵吟味ぎんみありしかど重五郎を殺せし覺えなく又白妙しろたへが身寄みよりの者の申立るにより白妙が親濱松はままつの松下專庵せんあん後家ごけを呼出し吟味ぎんみ有けれども事柄がら確しかと分らず小松屋よりは安五郎多分たぶん脇わきへ賣たで有んとの訴へなり又儀左衞門の女房も訴へ出しに付無量庵柴屋寺むりやうあんしばやでらを呼出さねば分らずとて江戸表おもてへ差出しに相成たり時に石川安五郎廿七歳江尻宿えじりじゆく商人あきうど巴屋儀ともゑやぎ左衞門三十一歳同人妻粂二十五小松屋小兵衞并彌勒みろく町々役人江尻宿々役人差添さしそへ江戸町奉行大岡越前守殿へ差送られしかば駿府すんぷ町奉行桑山殿くはやまどのよりの調書しらべがきを以て一通ひととほり吟味ぎんみこれあり安五郎は揚屋あがりや入いり儀左衞門は入牢じゆらう同人女房粂は長屋預け申付られ駿府御代官太田三郎四郎殿へ柴屋寺住持ぢうぢを差出す樣又遠州相良本多さがらほんだ長門守殿家來へ同領内上新田しんでん村無量庵むりやうあんを差出すべき旨差紙を出されたり


第十四回


 享保きやうほ二丁酉年五月十八日南町奉行大岡越前守殿白洲へ一件の者一同呼出され一々呼込になりしが縁側えんがはには本多長門守殿留守居始め郡奉行代官等今度吟味掛りの者ども白洲右の方に九郎兵衞夫婦左の方には藤八お節少し引放ひきはなれて本繩ほんなは足枷あしほだに掛り九助平伏す時に大岡越前守殿本多長門守家來けらいと呼れ九郎兵衞が願書を是れへ差出せと申さるゝに本多家の留守居るすゐハツと答へて懷中くわいちうより取出し目安めやす方へ差出すを大岡殿の御覽に入目安方之を讀上る

一本多長門守領分遠州榛原郡はいばらごほり水呑村百姓九郎兵衞同人妻さい深ふか右兩人願ひ上奉つり候當村名主九助儀は私しども甥をひに御座候に付私し娘里儀を九助と娶合めあはせ置おき候處右九助儀先年江戸表奉公こうへ罷まかり出候に付里并びに私しども跡へ殘り居り九助留守中取續き方難澁なんじふ仕つり候を親類惣内そうない儀毎度世話致呉候然る處九助歸國仕つり候てより種々難題なんだい申掛自分旅行中島田宿藤八召使めしつかひ節せつと申者と密通みつつう仕つり貞節ていせつに留守るす相守あひまもり居候里に種々惡名あくみやうを付離縁りえん致すべく段申重々不埓ふらちに御座候間其節異見差加へ候へども却て私しを恨み遺恨ゐこんに思ふか悴せがれ惣内と里と不義ぎ致居る旨申掛離別りべつ致候故私しども親子道路だうろに餓死がしも仕つるべく候處惣内儀見兼候儘私し共を引取ひきとり世話せわ致いたし呉くれ其後百姓共取持にて惣内へ里を娶合めあはせ候然るに九助は是を遺恨ゐこんに存じ私し方へは不通に仕つり其上惣内夫婦を付狙つけねらひ候事と相見え金谷村へ惣内夫婦罷越候歸りを跡あとより尾つけ來り夜に紛まぎれて兩人を切害せつがい仕つり立退のき候へども天命てんめい遁のがれ難く其場に九助懷中物くわいちうもの落おち有之これあり同人衣類の裾すそへも血ちを引居候に付此儀ぎ御訴へ申上候により召捕られ御領主御役人樣御吟味ごぎんみの處九助儀包み課おほせず終つひに白状はくじやうに及び申候然る所今に又々召出され御吟味を蒙り候何卒なにとぞ御慈悲おんじひを以て惣内夫婦解死人に仰付られ下し置れ候はゞ有難ありがたき仕合しあはせに存じ奉つり候以上

遠江國榛原郡水呑村百姓
享保二年五月
九郎兵衞(印)
同人妻  ふか(爪印)

大岡越前守殿おほをかゑちぜんのかみどの是を聞きかれコリヤ九郎兵衞云願書の趣おもむきにては嘸さぞかし無念むねんに有ん如何にも不便のことなり女房深ふかも一人の子息しそくを殺され老行おいゆく夫婦の路頭ろとうに迷まよふは後世の杖を奪うばはれ嬰兒えいじの乳房ちぶさを隱されたるやうなるべし併しかし此事屹度きつと九助が殺したると聞受難と申さるゝに兩人は憤然ふんぜんとなり否々いや〳〵相違御座りませんと云ふ大岡殿コリヤ九郎兵衞夫婦其方共が悴せがれや娘の殺されし所は何と云地所なるやと有に九郎兵衞はヘイ大井川おほゐがはの端はし下伊呂村しもいろむら辨天堂べんてんだうの前なりと云ければ而て其その下しも伊呂村辨天堂の前より水呑村迄は何程なるや又惣内夫婦は其日何用有て何時に宅たくを出いでしぞと尋問たづねらるゝに金谷村に法用はふよう有て晝前ひるぜん巳時頃よつどきごろより參りしと申しければ大岡殿には其節そのせつ九郎兵衞夫婦は宅たくに居しやと尋ねらるに私しども兩人も法用の席せきへ同道どうだう仕つりたしと申せしかば然らば歸りの節せつも同道ならんに悴夫婦の切害せつがいに遭あひし時只たゞ見ても居る間じ如何せしぞと問詰とひつめられ九郎兵衞はグツと差迫さしせまりしが然あらぬ面にてヘイ其節は私し共兩人は少々せう〳〵先へ戻もどりしゆゑ悴夫婦の殺されし事は存じ申さず翌朝よくてう村むらの者が知らせに驚き其場所へ到り見屆け候處兩人は數すうヶ所しよの疵きずにて首くびは御座なくと申せば大岡殿ナニ首が紛失ふんじつ致し居りしや夫は又如何なる事ぞと問とはるゝを九郎兵衞是は後日ごにち詮議せんぎの時首さへ無れば知れまじとて九助取隱とりかくせしなりと云ば大岡殿シテ又首のなき者を悴せがれ夫婦と何して知りしぞと有に九郎兵衞夫は衣類恰好かつかうにて相分あひわかりしと申せば大岡殿ナニ衣類いるゐ恰好かつかうで分つたと申か成ほど我が子なれば衣類恰好の見覺みおぼえあるは道理もつともなり扨々さて〳〵不便ふびんな事を致した九助へ吟味を遂とげ解げ死人を取て遣すぞと云るゝゆゑ九郎兵衞夫婦は〆しめたりと思ひ莞爾々々にこ〳〵面がほに居たりけり大岡殿は九助に向はれ面を上いと云れ同人の面體めんていを篤とくと見らるゝに年の頃ころ三十歳ばかり顏色がんしよく痩衰やせおとろへ肉にく落おち骨ほね顯あらはれ何樣いかさま數日拷問がうもんに苦しみし體なり扨又女房お節を見らるゝに渠かれとても顏色がんしよく更さらに人間にんげんの潤うるほひなく色いろ蒼然あをざめて兩眼を泣脹なきはらし櫛卷くしまきに髮を取りあげ如何にも痩衰やせおとろへたる其體そのてい千辛萬苦の容子ようす自然と面に顯はれたり正直しやうぢきの頭かうべに舍やどり給ふ天神地祇云ず語かたらず神明しんめいの加護かごにや大岡殿夫婦の體てい最いと憐然あはれに思されコリヤ九助其の方は如何なる意趣いしゆ有て親類縁者えんじやたる惣内夫婦を大井河原おほゐがはらに於て殺したるぞ願人九郎兵衞夫婦よりの願書前に讀聞よみきかせたれば承知しようちならん一々覺え有るか何ぢやと尋問たづねらるゝに九助ははら〳〵と涙を流し圖はからず公儀こうぎの御調しらべに相成し事冥加みやうが至極しごく有難く存じ奉つる然らば現在の儘まゝ申上候はんが私し儀何等の意趣も之なき惣内夫婦を殺ころし申べき此儀何卒御推察すゐさつ願ねがひ奉つると申しければ大岡殿倩々つく〴〵聞れ汝は然樣に覺え無事を何故なにゆゑに人殺しと白状はくじやうに及び剩あまつさへ爪印つめいんまで致したるぞと是に九助は怨うらめし氣に本多家の役人を見遣り御意の通り私し一向覺え御座なき趣おもむき委細に申上げ候へども御領主の役人衆やくにんしゆ御聞入是なく毎日々々の拷問がうもん嚴敷きびしく石を抱せ海老ゑびに掛らるゝ事既に十三度に及び皮肉ひにくも切破きれやぶれ骨ほねも碎くだくるばかりの苦痛くつうに堪兼たへがね是非なく無實の罪に陷おちし所此度是なる妻さい節恐れ多くも松平縫殿頭樣へ御駕籠訴かごそ仕つりしより江戸表おもてへ召出され再應さいおうの御吟味ぎんみに預あづかること有難仕合に私し風情ふぜいの女房が願を御取上げ相成し事一夫一婦の願ひをも捨給すてたまはぬ聖代せいだい賢かしこき御代とは申ながら土民の事に付天下の御役人樣へ御苦勞くらう掛奉つる事冥加みやうがの程ほども恐しく此末の申譯わけ立たゝず此儘死罪に相成とも少も御怨うらみとは存奉つらずと申立ければ大岡殿コリヤ九助其方は然樣に申ても一向かうに跡あと方もなき儀を九郎兵衞とても訴うつたへは爲まじ虚きよは實じつを以て爲すと云ことありと云るゝに九助は愼つゝしみ恐おそれながら私し儀は以前五ヶ年程ほど江戸へ罷まかり出奉公仕つり金百八十兩貯たくはへ國許もとへ戻もどりし處江戸稼ぎの留守中先妻里儀先名主せんなぬし惣右衞門悴惣内と不義ふぎ仕つり剩あまつさへ私しの金子を其翌日惣内に騙取かたりとらせしを那あれに控居ひかへをる藤八が計はからひにて金子は殘のこらず取戻もどし候間先妻里の不埓ふらちはあれども親類しんるゐ中故右金子の中を分手當も仕つり離別りべつ致せし所同村百姓共の世話せわにて不義の相手惣内方へ取持仕つり又伯父九郎兵衞儀も幸さいはひ惣内親惣左衞門は相果あひはて母親はゝおや深ふかばかりゆゑ渠かれが方へ參り度と申に任まかせ里に付て伯父をも遣はせしなり恐おそれながら私しが心底しんてい斯かくの如く何卒御賢慮けんりよを願ひ奉つり候遺恨ゐこんに存ずる心底ならば不埓ふらちの先妻は申に及ばず伯父九郎兵衞へ千辛萬苦致して貯たくはへたる金を遣はす理の御座るべき是れ私しが遺恨ゐこんを含ふくまぬ證據しようこに候と申せば大岡殿には五年に二百兩に近き大金たいきんを貯へたる稼は武家町人は何れへ奉公ほうこう致したるぞと有るに九助然れば御恥はづかしきことながら日本橋室町三丁目のといふ時大岡殿如何さま番人の九助なりしと云るれば九助は然樣に候と答こたふるに大岡殿成程今はみいらの如くに骸からだは碎くだかれ昔の形容なりかたちなきゆゑ心付ざりしが其砌みぎりは正直過て上の御厄介になりたる汝なんぢ今更さら昔しの事を彼是と勘考かんかうするに今度の儀も篤實とくじつ過すぎ汝が身の難儀なんぎに成しかも量り難し水清ければ魚うを棲すまず人明らかならば交まじはり少なしとは汝が事ならん扨々憫然あはれ至極しごくと姑しばらく默止もくして居られしかば白洲しらすは寂しんと靜しづまりたり良やゝ有りて大岡殿再び九助に向はれ番人を勤つとめ中天より授さづかる金とは云ながら千辛しん萬苦くせし金の中八十兩と申大金を不義の女房にようばう并に伯父九郎兵衞へ能く分て遣はせしぞ伯父をぢは母方か父方ちゝかたかと問はるゝに九助こたへて亡夫ばうふ九郎右衞門まで七代の間水呑村名主なぬしを仕つり九郎兵衞は九郎右衞門の弟おとゝなれ共一體たい若年じやくねんよりといはんとせしが伯父の讒訴ざんそは如何とぞ心ろ付亡夫ばうふの勘當かんだうを受け十七年の間相摸さがみ國御殿場てんば村に居りしを私し親共死去の節せつ戒名かいみやうを屆とゞけ呉よとの遺言ゆゐごんも有之に付其後村方の飛脚ひきやく序ついでに九郎兵衞の在所を尋逢あひ同人御殿場にて養やしなひし娘里諸共古郷こきやうへ引取候と申ければ大岡殿には父ちゝなき後は伯父を父に代るの心得奇特きどくなことぞ而て又深ふかは其の右に如何なる縁續えんつゞきなるやと言るゝに九助はヘイ元もと母はゝ方の伯父嫁よめなれども惣左衞門死去しきよせし後當時又九郎兵衞に連添つれそひ居ゐれば伯母とは云候と申せば大岡殿成程なるほど汝が申口にては惣内を害がいする程の意趣いしゆも有まじなれ共ども汝の衣類いるゐの裾すそに血ちを引又所持しよぢの鼻紙はながみ入が殺害せつがい人の傍邊かたはらに落おちて在しと申が此儀は如何なるぞと糺たゞさるゝに九助は其儀は同日私し儀も金谷村の法會ほふゑの席せきへ參り居り混雜こんざつの砌みぎり鼻紙入を置忘おきわすれ小用に立し中紛失ふんじつ仕まつりしにより諸所相搜さがし候へども一向に見當り申さず餘儀よぎなく歸宅仕つりしところ其節私し妻の實母年回に付上新田村なる無量庵むりやうあんの大源和尚だいげんをしやうへ供養を頼み度と妻つま申候により私しの爲にも姑しうとめの儀故草臥くたびれ足をも厭いとはず夕ゆふ申刻過なゝつすぎより右の寺へ參り暫時物語等致し居存外ぞんぐわい遲おそなはり夜亥刻よつどき近ちかき頃ころ上伊呂村迄歸り來りし時河原にて何やらに跪つまづきたれども宵闇よひやみなれば物の文色あいもんは分らず只たゞ人の樣子ゆゑ酒さけに醉ゑひし者の臥ふせり居し事と心得氣の急せくまゝ能も糺たゞさず早々歸宅仕り其夜は直樣すぐさま打臥うちふし翌朝よくてう起おき出門の戸を明候折衣類いるゐの裾すそに血ちの付居しを妻節が見付如何いたせしやと申され私しも驚おどろき考かんがへ然すれば昨夜河原にて跪つまづきしは生醉に之なく怪我人にても有しや且かつ昨日金谷村法會ほふゑの席せきにて鼻紙入を失ひ種々相尋候へども見當みあたらずなど物語り居し機をりから九郎兵衞が案内あんないにて御領主の役人入來り有無を云せず召捕めしとられ申候然れば右鼻紙入の紛失と云ひ其夜切害人の傍邊かたはらに落おとし之有し事ども如何にも不思議ふしぎと存候間其邊を御吟味下さるゝ樣御領主の役人衆やくにんしゆへ度々申立候へども更に御取上御座なく只々たゞ〳〵人殺ごろしの儀を白状せよとのみ嚴しく仰聞られ其後種々さま〴〵の拷問がうもんに掛る事二十五度の中石を抱いだき海老責えびぜめになる事十三度何程申解わけ致し候とも少すこしも御聞入なく候まゝ寧いつそ此世の苦痛くつうを遁のがれんと存じ身に覺えなき罪に陷おち候と申ければ大岡殿には而て其方鼻紙入紛失ふんじつの詮議せんぎは之なきやと云はるゝに九助夫等の儀は一向御糺たゞしは御座なくと申せば越前守殿暫時しばらく考られコリヤ九助其方は當時の妻節とは豫々かね〳〵密通みつつう致し居しゆゑ渠かれを入んが爲先妻へ無實の汚名をめいを負おはせ追おひ出したる旨むね九郎兵衞よりの訴状面そじやうめんに見ゆるが此儀申解わけありやと有に九助は全く以て右樣みぎやうの事は御座なくと委細の事故ことがらを申立んとする機後に控へし藤八恐おそれながら其儀は私しより申上んと進み出全く申樣の筋すぢには御座なく先以て是なる節と申女は私し姉あねの娘にて駿河するが國阿部川出生の者に候所姉聟むこ相果はて幼少えうせうの身を以て母の長病を介抱かいはう致せし孝行大人おとなも及び難く然るに或時あるとき不圖ふと勾引かどはかされしを九助江戸へ出府の砌みぎり途中とちうにて渠が厄難やくなんを救ひ遣し其後五年過て九助儀は百八十兩餘の大金を所持仕つり江戸より歸國の旅中りよちう瀬戸川せとがはにて難儀の機をり私し儀身延山へ參詣の歸り掛け幸ひに行逢見兼しまゝ盜賊たうぞく共を追散おひちらし私し方へ伴ひ立歸りしなり其頃ころは私し姉儀病死びやうし仕つりしにより節は私し方へ引取置候處九助と顏かほを見合せ互たがひに不思議の再會さいくわいを喜び候と言を聞れ大岡殿は扨々人を助れば助けらるゝ天の惠めぐみ爭あらそはれぬものと申さるゝに藤八は仰おほせの如く九助儀大金を持て歸村の程覺束おぼつかなしと私し儀存じ右の金を預り歸村後兩三人連つれにて請取うけとりに參り申べしと約束やくそくいたし私しより日蓮上人直筆ぢきひつの曼陀羅まんだらを九助に渡し右を證據に金子と取替かへ遣つかはし候筈の所翌日九助の親類しんるゐ周藏喜平次と申者の由にて曼陀羅を持參仕つりし故預りし金子を渡わたし遣せしに其日の夕暮ゆふぐれ九助蒼あをくなりて馳來りしに付何事にやと相尋たづね候所曼陀羅紛失ふんじつの次第斯樣々々と片息かたいきになつて申聞候により私し工夫仕つりし所此儀他村の者の知べき程の間合まあひ之なく何れ村中の者ならんと心付候まゝ同人歸村の祝いはひと名付水呑村惣中を呼集め大振舞ふるまひ致すべく其節私し密ひそかに參り見候はゞ右曼陀羅を盜み取私し方へ騙かたりに參り候者相知申べしと相談さうだん仕つり九助儀は直樣すぐさま水呑村へ立歸り歸國の振舞と申翌日村中を呼集め酒宴最中さいちう私し儀密に同人方へ參り勝手かつてより窺うかゞひ見候處昨日九助親類しんるゐ周藏と名乘しは名主惣内喜き平次と申せしは同人手代源藏と申者に付九助へ其段だん申聞取押とりおさへて吟味仕りしに九助留守るす中同人妻つま里さと事惣内と密通みつつうに及び居九助持歸もちかへり候曼陀羅を盜ぬすみ取惣内へ送おくり遣はし惣内儀源藏と申合せ私し方へ參り金子騙かたり取しに相違さうゐ是なき旨相顯あひあらはれ候併しかしながら村中の者共名主の事ゆゑ氣の毒に存じ中へ立入種々しゆ〴〵取扱あつかひ里儀は何となく離縁りえんと云事に相成九助より申上し通り金子は惣内より取戻とりもどし候まゝ右の中ちを五十兩九郎兵衞里兩人の養育料やういくれうとして遣つかはし候儀に御座候其後九助同村の周藏喜平次木祖そ兵衞等が取持とりもちにて私し姪めひ節儀を九助と配偶めあはせたき由申により私し養女に仕つり同人方へ遣つかはせし儀に御座れば何も不義ふぎの徒いたづら者のと私養女に難曲なんくせを付るに及ぬ事委細ゐさいは村役に御聞下されなば委細くはしく御分りに相成候と云にぞ大岡殿コリヤ周藏木祖兵衞百姓代だい喜き平次今藤八が申通りに相違さうゐなきやと有に三人の者共一同に毛頭もうとう相違之なくと申せしかば大岡殿然しからば九助が申處一々理のある樣に相聞ゆ猶なほ追おつて吟味に及ぶと申さるゝ時下役したやくの者一同立ませいと聲を掛其日は白洲を閉とぢられけり


第十五回


 斯かくて又享保きやうほ二年五月廿六日双方さうはう共明廿七日辰たつの刻こく評定ひやうぢやう所へ罷まかり出べき旨差紙さしがみあり依て願人相手方殘のこらず評定所腰掛こしかけへ未明みめいより相詰つめる抑も評定所に於て吟味ぎんみのありしは寛永八年二月二日町奉行島田彈正忠殿だんじやうのちうどの宅たくへ老中方其外役々寄合よりあひ公事沙汰くじさたありしが始めにて其後酒井さかゐ雅樂頭うたのかみ酒井讃岐守さぬきのかみ殿并に老中方の屋敷やしきへ寄合れしに寛永十二年十一月十日御城内じやうないに評定所を定められ十二月二日より評定所に於て役々寄合あり夫より毎月二日十二日廿二日を定日とせられ元祿げんろく二巳年八月廿五日より必ず御目付めつけは立合事に相成しなり然されば此日も老若方らうにやくがたを始として兩御目付三奉行諸有司しよいうし小役人に到いたるまで皆其家々の定紋ぢやうもん付きたる箱提灯はこぢやうちんを燈とぼし立行列正しく評定所へ出席せられ威儀ゐぎ嚴重げんぢうに列座さるゝ有樣實にや日本の政所まんどころ曇くもらぬ鏡の天下の善惡邪正じやしやうを明らかに吐出はきだす流れる龍たつの口偖さて又諸國よりの訴訟そしよう人共士農工商しのうこうしやう出家しゆつけ沙門しやもん醫者いしや山伏やまぶしの諸民に至るまで皆々相詰罷在まかりあれば程なく本多長門守領分りやうぶん遠州榛原郡はいばらごほり水呑村九助一件這入はひりませいと呼込よびこみになり一同ハツと答へ願人相手方其外村役人共付添そひ白洲へ繰込くりこむ九助は領主より引渡ひきわたしの儘まゝいまだ足枷あしほだを打れ繩目なはめ嚴敷きびしく栗石くりいしの上に蹲踞かしこまり其次に女房節舅しうと藤八とも謹つゝしんで平伏へいふくす又右の方には訴訟人九郎兵衞夫婦其外引合の者村役人等居並びしが何れも遠國邊鄙へんぴの者始めて天下の決斷所へ出ければ白洲の巍々堂々きらびやかなるに恐怖きようふなし自然しぜんと戰慄ふるへ居たりける又た本多家の役人松本理左衞門始め吟味掛りの者一同留守居るすゐ付添つきそひ縁側えんがはへ罷まかり出左の方には目安方與力其上に留役衆とめやくしゆう白洲しらすの左右には十手捕繩とりなはを持同心跪踞ひざまづき居る時に警蹕けいひつの聲と諸もろともに月番の老中志州ししう鳥羽とばの城主高六萬石從四位侍從松平右近將監しやうげん源乘包のりかね殿上座に着座ちやくざあり右の方三疊でふ程ほど下り若年寄上州館林たてばやしの城主高五萬石從五位に朝散太夫てうさんのたいふ太田備中守源資晴すけはる殿引き續いて寺社奉行丹羽たんば國永井郡園部そのべの領主高二萬六千七百石從五位朝散太夫小出信濃守藤原英貞ふぢはらひでさだ殿大目付には上田周防すはうの守義隣よしちか殿町奉行中山出雲守殿大岡越前守殿公事方勘定くじかたかんぢやう奉行駒木根こまぎね肥後ひごの守殿筧かけひ播磨はりまの守殿御目付杉浦貞右衞門殿浦井權九郎殿出座あり大岡殿正面端近はしちかく進み出られ右の方に中山殿其の右に大目付御目付立合たり其外勘定吟味役衆祐筆いうひつ衆勘定衆兩支配勘定に至る迄まで公事くじ立合の役々出席あり此時大岡越前守殿本多長門守家來松本理左衞門と呼れ其方儀は長門守郡方役人として此度九助一件吟味ぎんみいたし候趣おもむきの處其方詮議せんぎ強つよく因て九助事白状はくじやう致し罪に伏せしと有然樣さやうに相違無さうゐなきやと尋問たづねらるゝに理左衞門首かうべを上仰の如く九助儀吟味仕つりし處明白に白状致し罪に相伏あひふくし口書こうしよ爪印つめいん迄仕つり科とがの次第しだい申し渡し相濟すみ候處九助妻節并に舅藤八何樣いかやうの儀を存付ぞんじつき候にや一旦罪に伏したる九助儀を今更公儀へ御苦勞を掛奉つり候儀恐れ入り奉つり候全く九助妻さい舅しうと藤八とも不埓ふらち至極しごく成者共なりと申ければ大岡殿成程其方が申如く一旦裁許さいきよ濟すみたるを破やぶらんと爲事恐おそれを頼みざる段不埓ふらちの至りなるが併し理左衞門天下の政事も大小名の家の政事せいじも理りに二ツは是なく其方は長門守家にては此越前守同樣の役儀をも勤れば決斷には如才有まじ夫それ人ひとの命の重き事は申さずとも承知ならん然ばよく〳〵吟味に念を入いれ囚人めしうど九助が罪を訊糺とひたゞし罪に伏ふくせざる中は是これを罪せず況いはんや罪の疑うたがはしきは輕く賞しやうの疑しきは重くすと是賞を重んじ罪を輕かるくする事の理なり其方共が吟味ぎんみは定めて九助の衣類の裾すそに血ちの染そみたると鼻紙はながみ入の落てありしとを以て證據しようことなし人殺しは九助と牢問らうどひに及びしならん依て九助は呵責かしやくの苦痛くつうに堪たへ兼て其罪に陷入おとしいれしを其方は一途に人殺しは九助なりと心得しに相違さうゐ有まじと申さるゝを理左衞門は己おのれが落度にならんを恐おそれ強しひて云張んと思ひければ否々いへ〳〵落おちなく吟味仕つりし所全く意趣いしゆ有て惣内夫婦を切害せつがいせし趣き白状仕つり其上爪印まで相濟候なりと云に大岡殿イヤサ其所が所謂いはゆる虎とらを畫ゑがきてならざれば却かへつて狗くに類るゐすと云が如く似て非なる者の間違ひ安き所なり因て篤と糺明きうめいせざれば無實に人を殺す事往々まゝあり是等は此上もなき天の憎にくむ處なり餘り嚴敷きびしく拷問がうもんに掛らるれば所詮しよせん斯る苦痛くつうを爲せんよりはなどと罪なき者も覺悟に及ぶ事あり是を屈死と云其方是等の儀は申さずとも心得あるべきなれどもいまだ吟味に足ざる所ありと申されしかば理左衞門は否いや私し取調とりしらべ候處にては血汐ちしほの一儀而已のみにても九助が人殺し明白なるに況んや其日他行仕つりしと翌朝九郎兵衞夫婦訴へ出其場所に鼻紙入はながみいれの落おちてありしかば何より確たしかな證據しようこなりと申張はるを大岡殿押返おしかへされコリヤ理左衞門夫が其方役儀やくぎに疎うときと申者九助が殺ころしたる惣内夫婦が死骸しがいは數ヶ所の疵きずとあり然すれば右の血汐ちしほ九助が裾すそ而已のみならず外々へも掛かゝるべきに左はなく裾すそばかりへ着つきしも不審ふしんなり又九助が申立には其夜上新田村かみしんでんむらより歸り掛下伊呂村へ來懸りし途中とちうにて躓つまづき其の節何者か倒たふれ居りしに血汐を引たりとあり然ば九助出先無量庵むりやうあんをも呼出し九助が歸宅きたくの刻限こくげんをも取調とりしらべ申べき筈はずなるに其儀是なきよし又死人しにんの傍邊に同人の鼻紙はながみ入が落てありし趣きなれども右の品は同日晝ひるの中九助儀金谷村かなやむらの法會の席にて失うしなひし品なりと申然すれば同人に恨うらみある者是を盜ぬすみ取人殺しの罪つみを九助に負おはせんと其場所へ落し置しも計はかり難がたし依ては鼻紙入紛失ふんじつの事柄をも篤と取糺とりたゞすべきの處是以て一向其沙汰なく只々たゞ裾すそに血ちを引ひきたると落てありし鼻紙入とを以て人殺ひとごろしは九助なりと見留とめ嚴きびしく拷問がうもんに掛し事甚だ其意を得ざる取計とりはからひなりとありしかば理左衞門其儀は九助何樣申立候とも渠かれが裾すそに血ちを引居ひきをり候而已のみか所持の品も落て在しからは全く九助が所業しわざに相違さうゐ之なく假令たとへ拷問がうもんに掛かり候とて身に覺えなき事は白状はくじやう仕つらざる筈なり前さきより申上候通り口書書こうしよがき爪印つめいんまで相濟すみ候は全く渠かれが白状に因ての儀に候と何時いつにても同じ事を申立るにより越前守殿心の中には扨々強情がうじやうなる者とは思はれしかど猶なほ詞ことばを和やはらげられ然らば吟味の節せつ刄物はものは何なる品にて切害せつがい致せしや又九助が家内の刄物等詮議せんぎいたし血の跡にても殘り居怪敷あやしく思ふ品にても是ありしや其邊の糺明きうめい屆とゞきしやと有しに理左衞門はグツと言し切きり暫時しばし返答へんたふなければ大岡殿サテ此儀は何ぢやと再應おう尋問たづねらるれども理左衞門は面色めんしよく青あをくなり赤あかくなり額に玉たまの汗あせを流ながしうぢ〳〵として返答へんたふなさゞるより大岡殿少し聲こゑを張上はりあげられコリヤ理左衞門其方は先刻せんこくより某しが相尋問る事ども一向に應こたへなきは糺明きうめい行屆ゆきとゞかざる儀と存ずる彌々いよ〳〵其邊へんの取調しらべもなきは役柄に不似合の致方いたしかた不埓ふらち至極なり只九郎兵衞が申立のみを取上九助を召捕めしとり拷問がうもんに及びし事夫は本田家ほんだけの作法さはふなるや政事せいじは大小有とも法は天下の法なり人の道みちは天下の道なり道と法とは私しに暗くらますべからず然るに其の方の如きが裁許さいきよ不穿鑿ふせんさくは云までもなく法外の裁斷さいだんと申すべし其の方も領主の公事くじ決斷けつだんを預かる者ならずや斯る無智むち短才たんさいの輩ともがらに此重き役儀を申し付るこそ重役も左程さほど目の無きものどもにもあるまじ殊に其の方が面體めんてい斯かくまで愚鈍うつけ者とも見えず是程の辨わきまへなきこともあるべからず是には何か仔細しさいあらんとじり〳〵眞綿まわたで首を締しめるが如き糺問きうもんに理左衞門ハツとばかりに溜息ためいきを吐き自然惣身戰慄ふるへ出しは見苦ぐるしかりし體裁ありさまなり大岡殿には又黒崎又左衞門市田武助の兩人に對はれ其の方どもは理左衞門が下役として九助の所刑方萬事申談だんじたる趣き倶々とも〴〵不吟味なるぞと言るゝに又左衞門其の儀は私くし事毎度同役武助と申合せ種々異見いけんも仕まつり役儀と申ながら餘り手強づよくばかり致しては實意じついの吟味に之なき段申聞ると雖も左右とかく立腹りつぷく仕まつり私し九助へ荷擔かたん致し贔屓ひいきの樣にも申され迷惑めいわくに付上役の儀ゆゑ餘儀よぎなく其儘まゝ申通りに仕つり候と申ければ大岡殿夫は矢張やはり其方共が不詮議ふせんぎなり左程に思はば何故なぜ重役ぢうやくに訴へぬぞ假令たとへ頭かしらたり共趣意しゆいに違ふことありと知つゝ重役へも訴へぬは左右とかく心得違こゝろえちがひなりと云れしかば兩人一言もなく恐入おそれいつて平伏す因て大岡殿また九郎兵衞夫婦を見遣みやられ只今承うけたまはる通り九助が裾に血の付て居るの鼻紙入が落てありしのとばかりでは甚はだ分明ぶんみやうならず然ば篤とくと思慮しりよいたし事故明白に申立よと有りしにぞ九郎兵衞は神妙しんめうらしく徐々そろ〳〵首かうべを上げ恐おそれながら悴せがれ惣内夫婦を殺せし者九助より外には御座なく其譯わけと申は先悴惣内が女房里は九助よりも申上し通り同人の先妻さいに御座候處九助儀只今の妻節と密通みつつう致いたせ居し故私し共親おや子を邪魔じやまに致いたし罪つみなき者に罪を着きせ離縁りえん仕つりしにより私し共路頭ろとうに迷まよひ候を村内の者共達たつて勸すゝめに任まかせ里儀を惣内妻に致いた候夫を九助儀今更さら未練みれんにも遺恨ゐこんに存親類中も不通ふつうに相成加之そのうへ同人名主役申付られしより村長むらをさの權威けんゐを振ふるひ私欲しよく押領あふりやう多く小前の者ども難儀なんぎ仕つるに付村中寄り合ひ又々惣内を歸役きやく致させんと内談ないだんいたせし儀を何時か九助承知うけたまはり其事を憤いきどほり妬ねたみ居り候ゆゑ下伊呂村辨天堂べんてんだう前まへに待伏まちぶせ致し惣内夫婦を殺したるに毛頭もうとう相違御座なく何卒明白の御吟味偏ひとへに願ひ奉つると矢張やはり同じ事を申立れば大岡殿是を聞れ心に思はれけるは老中方始め諸役人の前にて今一應おう明白の吟味を聞せんと故意わざと徐しづかに詞ことばを發はつせられオヽ九郎兵衞能よくこそ委細ゐさいに申立たてたりコリヤ九助其方は只今九郎兵衞が申立に因よれば左右とかく伯父女房とも無體に追出したる樣なり此儀如何いかなるぞと問るゝに九助は愼つゝしんで答こたふるやう其等それらの儀は先日御詮議の節も申上し通り先妻里儀は惣内と不義ふぎ仕つりし而已のみか藤八へ預け候金子を騙かたり取べき爲ため曼陀羅まんだらを盜み惣内へ贈おくり又翌日よくじつ酒宴しゆえんの席にて藤八に見顯みあらはされ候處惣百姓共取扱とりあつかひにて惡名あくみやうを付ず離縁いたし又當時の妻節義と私し密通など致し候事毛頭もうとう是なく妻に貰もらひ受候は斯々なり加之私し名主役申付られ候以來私欲しよく押領等あふりやうとうの儀仕つりし覺おぼえ聊いさゝかも御座なく候と巨細こさいの手續てつゞき明かに申立猶御不審の廉かども候はゞ村役人へ御尋問下さらば事故がら委細御分りに相あひなるべしと申立しかば越前守殿其事故は先日も申立たる趣意しゆいなれども先妻せんさい里惣内と不義致せしと申は聢しかとしたる證據しようこにてもありしかとあるに九助其儀は藤八へ御尋たづね願ひ奉たてまつると申に大岡殿如何いかに藤八其方委細の事を心得居かと申されければ藤八進すゝみ出右の儀は先日申上し通り九助宅たくにて村中惣振舞そうふるまひの節惣内事強がう情を申募つのり居に付き其前日私方へ騙かたりに參まゐりし時落おとして行ゆきし里よりの文ふみを取出し何れもの前にて讀聞よみきかせ其文言もんごんは九助事江戸表おもてより持歸もちかへり候金百八十兩島田宿しまだじゆく藤八へ預あづけ是あり曼陀羅と引替に渡わたす約束やくそく故ゆゑ曼陀羅を盜取ぬすみとり送おくり遣つかはし候間右の金子を請取うけとり其後兩人にて逃亡かけおち致いたさんとあるゆゑ一座の者共大いに驚おどろき惣内も終つひに一言もなく閉口へいこういたし候と申ければ大岡殿シテ其文は其方今に所持しよぢ致いたして居るかと云はるゝに藤八否いへ其後村中役人立會たちあひ相談さうだんの上里の離縁状に添そへて惣内方へ遣したりと云に大岡殿然らば九郎兵衞が申立とは大いに相違さうゐいたし居なり此義節は如何心得居るや猶なほ委細ゐさい申立よと有しかばお節は恐おそる〳〵首かうべを上私し先年駿河國するがのくに阿部川村に母と一所に居十一歳の節一人の出家しゆつけに勾引かどはかされ宇都うつの谷や地藏堂ぢざうだうまで引行ひきゆかれし處幸ひ向ふより參まゐる旅たび人のあるにより時に取ての作意さくいにて小杉こすぎの叔父をぢ樣と聲こゑを掛しにより彼の僧そうは驚おどろき私しを放はなして逃にげ出せしかば其旅人に災難さいなんを救すくはれ阿部川の宿まで送おくり呉くれし時始はじめて九助と申事を承うけたまはり彼是かれこれ日暮ひぐれ方に相成りしまゝ一禮れいの心にて一夜を泊とめ候ひし處却かへつて私し親子おやこの難儀なんぎの體を見兼餘計よけいの錢ぜにを惠めぐまれ其後五ヶ年の後九助江戸より歸國の節せつ藤八方へ一泊ぱく致せし時私しも藤八方に居不思議に再會さいくわい仕つりしかど其節は途中とちうにて胡麻灰ごまのはひに出合九助難儀なんぎ致す趣意おもむきに付金子のことに心遣つかひ仕つり居り先年の禮さへ熟々しみ〴〵申候間合まあひ御座なく候まゝ不義など致し候事は努々ゆめ〳〵御座なく候と巨細ことこまやかに申立けるにぞ大岡殿なる程齒はに布きぬ着きせぬ明白なる答こたへなりコリヤ藤八節を九助方へ遣せしは水呑村々役人共其方へ掛合て貰もらひ請うけしと有が如何やと尋問らるゝに藤八ヘイ御意ぎよいの通り九助親類しんるゐ中周藏左次右衞門木祖きそ兵衞喜平次與よ右衞門大八善ぜん右衞門孫まご四郎八人の代として周藏喜平次の兩人媒妁なかうどとなり私し姪めひを達たつて所望しよまうに付遣せしに相違御座なく然も此度周藏喜平次木祖兵衞等など罷出居により何卒御尋願ねがひ奉たてまつり候と申故ゆゑ大岡殿コリヤ水呑村々役人周藏木祖兵衞喜平次と呼よばるゝに何れも平伏なせば大岡殿は只たゞ今藤八が申立る通り相違なきやと有に何れも仰おほせの通りなりと申ければ大岡殿然らば節と九助夫婦の儀は夫是それこれの義理ぎりにて繋つながれし天地和合わがふの縁えんにて双方さうはうの申口により事分明なり九助其方島田宿泊とまりの節せつ盜賊たうぞくの難なんとは如何なる譯わけぞ又百八十兩と申ては大金なるに其方馴染なじみも薄うすき藤八へ預けしは如何の手續なりしや猶なほ明白めいはくに申せと尋問らるに九助は先日も申上し通り百八十兩餘あまりの大金を江戸表より所持しよぢ仕つり歸國の節箱根はこね山向ふより怪あやしき者兩三人後になり先になり付參り既すでに瀬戸川せとがはまで來かゝりし時は三人の者難題なんだいを申掛かけ甚だ難澁なんじふ仕つり一命にも及ばんとなす機をり是なる藤八身延みのぶ山參詣さんけいの歸り掛け幸ひ其處へ差掛さしかゝり私し難儀なんぎの體を見兼右の三人を片端かたはしより擲たゝき倒たふして私しを救すくひ呉同道致し同人宅まで立歸りし處只今節より申上し通り阿部川村の兆てうと申者の娘むすめ節が居合をりあはせ藤八は同人叔父をぢなる由承うけたまはり候處其翌日藤八申には水呑村まで送り度は存ぞんずれども據よんどころなき用事あるにより用心の爲ため所持しよぢの金を藤八方へ預け置き歸村の上親類共にても兩三人同道にて請取に參るべし夫迄の證據しようこに此曼陀羅まんだらを渡し置ん此品は身延みのぶ山代代だい貫主くわんしゆの極ある日蓮上人直筆ぢきひつの曼陀羅なり一時も放はなされぬ大切の品なれ共金の引替ひきかへの爲預あづけんと申渠かれが思操こゝろざしの信實しんじつに感かんじ命にも替難かへがたき大金を預あづけし事なりと申せしかば大岡殿人々の申立を篤と聞れ如何樣一々道理もつとも至極しごくに聞ゆるなり扨九郎兵衞深ふかの兩人只今承うけたまはる通とほり其方共の申立とは皆みな相違さうゐ致し居るぞ汝等公儀を僞いつはり訴訟うつたへ出る條不屆ふとどき至極しごくなりと睨にらまれけるに兩人ハツと云て慄ふるへ出せしがお深は猶強情がうじやうに假令たとへ渠等かれら何と申上候共九助と節の不義致せし事は相違御座無なくと何かまだ云んとするを大岡殿默止だまれ汝なんぢには問ぬぞ其方は先名主惣左衞門が後家にあり乍ながら誰か媒妁なかうどにて九郎兵衞の妻つまにや成しやと申さるゝにお深ふかはシヤア〳〵として否いへ誰たれも媒酌人なかうどは御座なくと云に大岡殿大音だいおんにて大白痴たはけめ天有ば地あり乾坤けんこん和合陰陽いんやう合體がつたいして夫婦となる一夫一婦と雖も私しに結婚けつこんなすべからず然しかるを汝等が子供達夫婦になりたれば其親々も夫婦になつて苦くるしうないと思おもふか汝等が容子ようすを見るに九助の留守中悴せがれ惣内儀里と不義ふぎを致せしは汝等兩人が豫かねて不義致し居をるを見習みならひしなるべし不埓ふらち至極しごくの奴やつぢや九郎兵衞申開きありやと云れしかばグツと差支さしつかへ一言もなく尻込しりごみなすにより追々吟味に及ぶ下れと云るゝ時下役の者立ませいと聲こゑ掛かけ一同白洲しらすを下られけり然されば老中方初め諸役人も今日の吟味大岡殿の明察めいさつ通どほりならんと感かんじられたり


第十六回


 其後そののち又々評定所の白洲を開ひらかれ以前の如く老中方始はじめ諸役人出座ありし時縁側えんがはに控ひかへたる遠州榛原はいばら郡上新田村禪宗ぜんしう無量庵むりやうあんの大源和尚だいげんをしやう進すゝみ出彼方あれに罷仕る九郎兵衞と申者と何卒愚僧ぐそうが掛合かけあひを御免下されなば御吟味筋すぢも早く御分りに相成申べしと申立たてけるに大岡殿其儀は何成なになり共苦くるしからず差免さしゆるすとありしかば無量庵は少すこし白洲の方に向ひコレ九郎兵衞定めて愚僧ぐそうを見覺みおぼえあらんと云れて九郎兵衞は無量庵を下より見上げ何か吃驚びつくりせし樣子なりしかば無量庵は微笑ほゝゑみ是九郎兵衞愚僧ぐそうに逢あひては一言の申譯は有まいと言に九郎兵衞は然あらぬ體ていにて合點がてんの行ゆかぬ貴僧きそうが一言最前さいぜんより容子ようすを聞きけば上新田村無量庵の庵主あんしゆとか申事尤もつとも水呑村より三里に近ちかき隣村りんそんなれども此九郎兵衞素もとより歸依きえなければ御坊ばうの顏かほを見るは此御白洲が始はじめてなり一言も有のないのと言るゝは如何なる事やと空嘯そらうそぶいて居ゐたりしかば無量庵は然樣で有う人間にんげんと生うまれて恩おんを知らぬを畜生ちくしやうに等ひとしと云己等如き恩も情なさけも知らぬ犬いぬに劣おとりし者は忘わすれしやも知れず某しは元もと相摸さがみの國御殿場ごてんば村の百姓條七がなれの果はてなり抑其方は勘當かんだう請うけし身にて一宿しゆくの泊とまる家さへなきを我富士詣ふじまうでの下向げかうの砌みぎり駕籠坂かごさか峠たうげにて始めて出會であひ汝なんぢが死しなんと云を不便ふびんに思ひ連戻つれもどり我が宿に差置六七年養やしなひ置おきし中其恩義を忘わすれ我が女房と密通みつつうなし此條七を追出し田地家屋敷やしき家財迄かざいまで奪うばひ取んと謀計はかりて白鳥はくてうを鷺さぎなりと僞いつはり喰くはせ我を癩病らいびやうになし妻子親族に疎うとませたり故に餘儀なく我古郷を立去て原の白隱禪師はくいんぜんしの御弟子となり日毎に禪道ぜんだうの教化けうげを得て忽ち開ひらく悟道ごだうの明門みやうもん無位むゐ眞人しんじん至極に治ぢしたる白鳥の毒氣殊更師しの坊より大源たいげんと法名を賜たまはり無量庵の主に直なほりたり然るに汝は計略けいりやく首尾能しゆびよく行おこなひしと心得我が女房を妻つまとなし我が娘里を子と呼よびて終つひに我が家を押領あふりやうなせしが其後博奕かけごとに身代しんだいを失ひ御殿場を立退しと聞えたり然さすれば惣内の妻の里は汝が娘に非あらずして此坊主ばうずが娘なり夫に付て我感ずる處あり彼かの大井河原辨天堂べんてんだうの前にて相果あひはてし二人の死骸しがいは惣内里には有べからず定めし是には仔細しさいのあらんサア返答せよ何とするやと板縁いたえんを叩たゝいて詰つめければ九郎兵衞發と赤面せきめんしながらも汝こそ不屆者なれコリヤ條七汝は癩病らいびやうとなり妻子の捨すて處に困こまりしを此九郎兵衞が引取世話をして遣せしを忝かたじけないとも言ず恩を仇なる其惡口然樣なる邪心じやしん者故惡病あくびやうをも引請しなり我が身の因果いんぐわも感かんぜぬ無得心むとくしん者と云ふ無量庵呵々から〳〵と笑わらひ汝今愚僧をば見た事もなしと云しが扨々俗家に云盜ぬす人猛々たけ〴〵しとは汝が事なり今更斯かゝる惡人に交かはす詞ことばはなけれども釋迦しやかは又三界の森羅しんら萬象しやう捨給すてたまはず汝の如き大惡人善ぜん道に導みちびき度思ふがゆゑ及ばずながら出家に列つらなる大源が申處を能々よく〳〵承まはれ此上は汝積惡せきあくを懺悔ざんげなし本心に立歸れと睨付にらみつけられ九郎兵衞は一言もなく閉口へいこうせし樣子を大岡殿篤とくと見られコリヤ九郎兵衞今大源が申を聞きけば汝は重々ぢう〳〵の強惡がうあく言語に絶たる者なり依て吟味中入牢申付るとの聲の下より同心ばら〳〵と立掛たちかゝり高手たかて小手こてに縛いましめたり又ふか儀も九郎兵衞と密通に及び萬事宜よろしからざる致方不屆至極なり依て手錠てぢやう宿預やどあづけ申付ると有て是又手鍔がね腰繩こしなはに掛られけり夫より大岡殿九助に向はれ其方段々だん〳〵吟味を遂とぐる處一々明白めいはくに申立ると雖も其方儀先頃無量庵へ闇夜あんやの節せつ提灯ちやうちんの用意もなく參りしとあり其刻限こくげん篤とくと申立よと云れければ九助夫は去る三月十九日は私し妻節が實母七回忌きの逮夜たいやに當り候間上新田村無量庵の住寺は生佛いきぼとけの樣に近郷きんがう近村にて申唱となふるにより何卒回向ゑかうを頼み度旨申聞候故私しは金谷村より歸りし草臥足くたびれあしなれ共其孝心かうしんに愛めで無量庵大源和尚の庵へ參りし頃は夕ゆふ申刻過なゝつどきすぎにして暫時物語いたせし間歸宅は其夜亥刻頃よつどきごろと申に大岡殿又無量庵に向はれ九助が參りし刻限こくげん歸宅きたくの刻限とも尋問たづねらるに九助同樣の答へなり時に九助は無量庵に向ひ其節那方あなたの仰せには厄難やくなんの相さうあるにより能よく愼つゝしめとの事故何どう致いたしたなら遁のがるゝ事やと御聞おきゝ申たれば前世の因縁いんえんに因より此世に於て災難さいなんに逢あふなれば遁るゝ事はなり難し然ども命には恙つゝがないとの仰おほせなりしが今日までは先まづ露命ろめいを繋つないで居りしなりと云を聞れ大岡殿然らば汝無量庵より直すぐに戻もどりしかとあるに九助仰の如く其夜戌刻過いつゝどきすぎ同所を立出一里ばかり參りし大井川の河原を打越下伊呂村の堤つゝみへ掛りし時は空も曇くもり眞闇まつくらにて四邊あたりは見えねども急ぎて歸る途中思はず武士さぶらひに突當つきあたり段々樣子を承はりしに連つれの女の行衞ゆくゑを尋る由其人は駿府御城番樣の御家來なる石川安五郎と申御方の趣きにて私し妻節の里水田屋藤八の手紙を持て私し方へ尋たづね參まいる處なりしとて右の手紙を見せられし故同道どうだう致さんと存ぜしに連つれの女の在處ありか未まだ知れぬにより尋ね出し同伴どうはんの上參まゐると申され右等みぎらの話にて甚だ手間取亥の刻近き頃たどり參りし處辨天堂の前にて躓つまづきたれども刻限こくげんは延引致し氣は急せくにより死人共心付こゝろづかず其儘歸宅いたし翌朝相良へ御召捕めしとりに相成し事は此程申上し通りに候と申せば大岡殿シテ其武士さぶらひの連の女の在所ありかは知れたるかと問るゝに九助ヘイ其儀は只今申上し通り私し事は相良へ召捕めしとられしにより其後の儀は一向存じ申さず然ども藤八は存ぞんじ居をるやも計はかり難しと申ければ大岡殿又藤八と呼れ其方安五郎とは如何樣の縁えん有ありて九助方へ手紙を添そへて遣したるやと有に藤八は其安五郎殿が連立つれだち參られし白妙しろたへと云いふ女は私し遠縁とほえんの者濱松天神町なる醫師いしの娘に候間此縁を以て九助が方へ手紙を添そへて送りし處其翌日安五郎が私し方へ參られ申聞らるゝには大井河原にて我が女房の首を拾ひろひたる節機をり好よく無量庵の大源和尚通り掛られしより回向ゑかうを頼みたるに憫然あはれに思はれ首を葬はうむり呉くれられしと物語りを聞居し處へ又水呑村の聟むこ九助が大難を受たりとの知せに付吃驚びつくり致せし儘安五郎殿へは早々さう〳〵に挨拶あいさつを成なし直樣水呑村へ飛とぶが如くに參りし故跡あとの事は一向に心得申さずと云ふ然るに當時そのころ石川安五郎の一件駿府町奉行にて取調とりしらべられ彌々いよ〳〵大門番の重五郎は巴屋儀左衞門が殺せしとの事なれども白妙其外種々引合も多く是に因て江戸町奉行大岡殿へ引渡し相成しかば九助方引合ひきあひとして今日石川安五郎も呼出され白洲の縁側えんがはに控へ居たり然ば大岡殿石川安五郎と呼よばれ其方儀妻を同道致し遠州濱松へ罷越たる趣きに相違なきやと有に石川安五郎はハツト平伏へいふくなし仰の如く私し妻の實家は遠州濱松天神町松島專庵と申町醫師に候間同人方へ參る心得にて同道仕り候尤もつとも主人へは湯治仕つる旨屆け候て罷越たるに相違御座なくと申立たり

因ちなみに云此石川安五郎は駿府御城番松平玄蕃頭げんばのかみ殿家來と云且水田屋藤八よりの内談も有しにより抱かゝへ主小松屋の方にても亡逃かけおち屆を願ひ下になし安五郎の方へ身請せし事に取計ひし故今度安五郎は白妙しろたへを妻と申立しことなり看客かんかく怪あやしみ給ふ事なかれ

扨又大岡殿尋問たづねらるゝは其筋本道ほんだうを往ゆかずして大井川の川下へ掛り九助方へ立寄んと致せし者なるやと云いはるゝに然されば私し妻儀は水田屋藤八親族の者に候へば同人方へ立寄り夫より同人聟むこの水呑村名主九助の方へも立寄候心得にて大井川を相良の方へ參らんと存じ島田より馬を傭やとひ未刻やつどき過すぎ同所を出立致いたし河袋かはぶくろと申處迄は私し儀馬に附添つきそひ參りたるが山王の宮脇にて小便を致し居る中見失ひ候に付後を追掛おひかけしに上新田村の土手に右の馬は草くさを喰くひ居候が妻も馬士まごも行衞ゆくゑ更に知れ申さず候間東西を尋ね廻り往來わうらいの人々に承はるに今此先へ馬士が女を引立て行たりと申により猶ほ後あとを追駈おつかけ候中とくに日は暮方角はうがくも分わからず彷徨さまよひ居をりしうち圖はからずも九助に出會段々の物語りに手間取てまどり追々夜も更行ふけゆくに隨したがひ月も出しかば夫を便りに探さがし廻る中大井川の彼方なる岡の方に何やら犬の噬くはへて爭ひ居し體ていゆゑ立寄たちよりしに犬は其品を置て一驂さんに逃にげ行しまゝ右の品を取上見るに女の生首なまくびなり仍よつて月影つきかげに透すかして猶熟々つく〴〵改し處紛まがふ方なき妻白妙が首に候間何者の所業なるやと一時は胸むねも一杯ぱいに相成我を忘れて周章しうしやう仕つり居候機をりから上新田村無量庵むりやうあんの住僧通り合はせ皆是前世の約束なりと御教化けうげありて右の首を無量庵に葬り呉られ候と云に大岡殿シテ其邊そのへんに男の首は無なかりしやと申されければ安五郎否男の首は見當みあたり申さず候へ共其後大井川邊に男女首なき死骸是ある趣き承まはりし故同所へ罷越見候處女の方は妻の恰好かつかうに似寄により候へども衣類相違仕つり居により不思議ふしぎに存じ候中右の死骸は水呑村元名主惣内夫婦のよしにて既に人殺し九助捕押とりおさへに相成候趣きに付外に妻の死骸は見當り申さず其儘に打過申候と答へしかば大岡殿始終しじうを篤とくと聞きかれ何樣なにさま仔細しさいぞあるべし偖々さて〳〵不便ふびんの至り也なり而して其方が妻の敵は一向知れぬかと有に安五郎然されば其後一向に手掛りも御座なく候と答ふるゆゑ猶なほ追々おひ〳〵吟味に及ぶとて一同白洲しらすを下さげられ老中方始め役々やく〳〵退出たいしゆつせられけり


第十七回


 茲こゝに又遠州水呑村の先名主せんなぬし惣内夫婦は九郎兵衞が計ひに任せて江戸表へ出府なし靈岸島れいがんじま邊へんに國者の居るを便りて參り此者の世話にて八町堀ぼり長澤ながさは町の裏店うらだなを借受惣内そうないは甚兵衞と改名かいめいし又里はお豐とよと改め少々せう〳〵の小商こあきなひを始めしが素より爲馴しなれざる事にて肩かたを痛いため足あしを勞つからし爲る事成す事損毛そんまうのみ多く早はや此頃は必至ひつしと差迫さしせまり今日にも難澁なんじふ致いたしける是ぞ誠まことに天の憎にくしみを受し者なればお里のお豐は洗濯せんたくをし又惣内の甚兵衞は日傭ひように駈歩行かけあるき手紙使てがみづかひや土つちこね草履ざうり取又は荷物にもつを擔かつぎ何事に依ず追取稼おつとりかせぎを爲し漸々其日を送りしが或日番町邊ばんちやうへんの屋敷やしきの中間部屋ちうげんべやに小博奕こばくちありて不圖ふと立入しに思ひの外利運りうんを得たり素もとより好このむ道なれば其後は彼方此方と博奕場ばくちばを廻まはり歩行あるきけるに斯る惡黨あくたうも運うんの向事ありしにや三度に二度は必らず勝かちて少しく懷中ふところの暖あたゝまりしかば彌々いよ〳〵能事よきことに思ひ追々大賭場おほとばへも立入博奕ばくちの仲間に入たりけり然るに六月末すゑより七月へかけて四五度續つゞけて打負うちまけしより又々大いに困窮こんきうなし一時勝たる節せつ拵こしらへし夫婦の衣類いるゐは申に及ばず家財かざい道具だうぐを皆みな賣盡うりつくし今は必至ひつしの場合に至りければ何がなして猶なほ資本もとでを拵こしらへ大賭場とばを張はらんと思ひ日夜工夫くふうなし居たりしが茲に甚兵衞は先頃より日雇ひようなどに雇やとはれし南茅場みなみかやば町の木村道庵きむらだうあんと云醫師あり獨身どくしんなれども大の吝嗇りんしよく者ゆゑ小金を持て居るよしを甚兵衞聞出しければ彼が留守るすへ忍び入て物せんと茲に惡心あくしんを生じ旦暮あけくれ道庵だうあんが宅たくの樣子を窺うかゞひ或夜あるよ戌刻頃いつゝごろ來きたりて見れば表は錠前ぢやうまへを卸おろしありしかば甚兵衞勝手は豫かねて覺え居れば今日こそ好機よきをりなれと裏口うらぐちへ廻まはり水口を押おして見れば案あんの如く掛錠かけがね掛かけざる樣子故シテ遣やつたりと直ついと入り居間ゐまの箪笥たんすを引明ひきあけて金三四十兩懷中ふところに入れ立上たちあがる處に横面よこつらへ冷ひやりと觸さはる物あり何かと疑うたがひ見れば縮緬ちりめんの單物ひとへもの浴衣ゆかた二三枚と倶に衣紋竹えもんだけに掛てありしにぞ毒どく喰くはば皿さら迄と是をも引外ひきはづして懷中へ捻込ねぢこみ四邊あたりを窺うかゞひ人足の絶間たえまを考へ又元の水口より立出何喰なにくはぬ顏かほにて我が家を指さして立歸りたり道庵だうあんは此日病家びやうかにて手間てま取漸々やう〳〵夜よ亥刻よつどき近き頃歸り來り灯あかりを點ともして四邊あたりを見るに座敷を取散ちらしあれば不審ふしんに思ひ其邊へんを改めしに金子四十三兩と縮緬ちりめんの單物ひとへもの又木綿もめん千筋すぢの單物眞岡まをか中形ちうがたの浴衣ゆかた三枚紛失ふんじつせり因て家主孫八へ委細ゐさいを咄はなして訴へに及しに翌よく日定廻りの同心どうしん孫八方へ出張にて道庵だうあんへ心當りの有無うむを尋たづね有しかば道庵だうあん別べつに心當りは御座なくと申に然らば日頃出入致す貧乏人びんばふにん又は心易やすく致し朝夕てうせき小遣錢こづかひぜになどを貸かし遣つかはせし者はなきやと有に道庵は暫時しばし考かんがへ別に是ぞと申者も御座無なく候へども貧困人ひんこんにんは三四人迄出入致し申候其者の名前一人は先妻せんさいの甥をひ源次郎と申只今本郷金助きんすけ町に罷り在當年四十五六歳に相成なり家内困窮こんきうには候へども正直しやうぢき者にて金子貸遣かしつかはし候ても約束やくそくの時日には屹度きつと返濟へんさい致し殊に當時御小人目付を勤居つとめをる其外には傳八と申して私し方に二三年も奉公ほうこう致し是も篤實とくじつ者にて金の番人に致すとて心遣ひのなき者にて深川一色しき町に八百屋やほやを仕つり當時は妻をも持居もちをり候又小網こあみ町三丁目河内屋と申古着ふるぎ屋の裏うらに九郎兵衞と申藥種やくしゆ屋の若い者にて以前いぜんより出入を仕つり今に毎日まいにちの樣に參る者あれども是も至て正直者なりと云ば同心どうしんは最もう外ほかに朝夕あさゆふ出入る者は無かと申ければ道庵猶なほ打案うちあんじ八丁堀長澤町に居る甚兵衞と申者元もと遠州邊へんの生うまれの由其日稼の貧窮ひんきうにて折々をり〳〵日雇ひやとひにも致し召遣めしつかひし事御座れ共ども此者も在所ざいしよに居し頃は名主役も勤つとめし由に承まはりしが成程日傭取ようとりには人柄がらも宜しく折に觸ては留守るす居をも頼みし事御座候へど聊いさゝかも曲りし心はなき樣に存られ是まで安心致し居其外別段べつだん内外心安く致す者も御座らぬと申立るに同心はシテ其甚兵衞とやらんは一人者か又女房にようばう持かとの尋問たづねに女房持もちなりと答こたへしかば道庵だうあんの申口くちを一々書留かきとめて道庵を歸し猶なほ種々しゆ〴〵工風くふうの上先八丁堀長澤町の自身番屋じしんばんやへ行ゆき家主いへぬし源兵衞を呼出し店子たなこ甚兵衛の身元みもとを糺たゞしけるに渠かれは當四月同人店へ引移うつり夫婦共とも三州者の由にて隨分ずゐぶん實體じつていらしく相見え候へ共女房は此節煩わづらひ居るとの事に付早速甚兵衞を自身番屋じしんばんやへ呼出し段々と吟味ぎんみに及ぶ中外一人の同心どうしんは甚兵衞の家内を取調とりしらぶるに道庵方にて紛失ふんしつせし單物一枚出たる故女房は家主へ預あづけ甚兵衞は直に召捕めしとり猶なほ懷中くわいちう其外所々改めし所胴卷どうまきに金十二兩餘あり又同人宅の床下ゆかしたに金二十八兩是あり都合四十兩の金出しにより其金を所持しよぢせし事故を糺されしに申口不分明ふぶんめい故町奉行所へ送りになり入牢申付られたり因て女房は大いに驚おどろき己病中なれども夫の罪の輕かるく濟やうにとて茅場町かやばちやうの藥師やくしに朝參あさまゐりを始めし所或日俄にはか雨に逢堂前にて晴間はれまを待まちし中無量庵むりやうあんも雨舍あまやどりに駈込かけこみ不圖ふと種々しゆ〴〵の物語より親子の名乘なのりをなしお里は今さら夢の覺さめたる如く後悔こうくわいして惣内と姦通かんつうせし事の始より九助を罪つみに陷おとし夫より影かげを隱かくして江戸表へ出いで今いま難澁なんじふをする迄の事どもを詳つぶさに語りければ大源和尚だいげんをしやうは大いに驚き此日はお里に分れ其後和尚は白洲しらすにてお里より聞たる委細ゐさいの事を申立しにより段々だん〳〵吟味ぎんみの上終に甚兵衞は包つゝみ課おほせず因て元惣内と申せし事より其外人殺し等の事まで明細めいさい白状はくじやうに及びしとぞ


第十八回


 享保二丁酉年ひのとゝりどし十月廿二日双方さうはう一統とう又々評定所ひやうぢやうしよへ呼出しに相成前規の通役人方出座にて公事くじ人名前一々呼立濟て大岡越前守殿九郎兵衞を見られ其方願書の趣き段々だん〳〵取調とりしらべし所確たしかなる證據しようこもなし然らば屹度きつと人殺は九助とも定め難きを麁忽そこつの訴へに及び候段不屆ふとゞき至極しごくなり夫人の命の重おもきことは云迄もなきを只衣類の血と鼻紙入の落て有しを以て證據しようことなし申立ると雖も首くびもなき兩人の死骸しがい故確たしかなる證據とは申難し別に何ぞ確なる證據にてもありやと申さるゝにお深ふかは九郎兵衞が答こたへをも待ず進み出御道理だうりの御尋問悴せがれ惣内は幼少えうせうの頃私しが毎度灸きうを据すゑしによりて灸痕あとこれ有又子供同士の口論に鎌かまで疵きずを付られし痕も御座候へば縱令たとへ首くびはなくとも悴と申者は確たしかと見留とめしと申ければ大岡殿シテ其疵痕きずあとは何れに有やと尋問らるゝに左りの肩かたより脊へかけ四寸程もありと云へば大岡殿又里さとが死骸しがいの證據しようこは何ぢやとあるにお深是は嫁よめとは申ながら私しには聢しかと知れませぬと答へしかば大岡殿は九郎兵衞に向はれコレ其方は永く養やしなひし娘むすめの死骸しがいなれば見覺みおぼえが有ん何ぞ目的めあてはなきやと申さるゝに九郎兵衞答へて渠かれは現在げんざい一人の娘なれば何見違ふことの候べき姿すがたと申又衣類と云と申を大岡殿コレ九郎兵衞娘が體からだに疵處きずしよ其外證據はなきやと云るゝに九郎兵衞は然樣で御座ると云ば大岡殿聢しかと左樣かと念ねんを押おさるゝに九郎兵衞仰の通りなりと答へしかば大岡殿コリヤ村役人周藏木祖兵衞惣内夫婦横死わうしの節檢使けんしと立會たちあひの上にて其方共も改めたで有ん兩人の死骸しがい如何いかゞなりやと有に周藏木祖兵衞は首を上仰の通り御領主の役人檢使の節改めし處肩かたより脊せへかけ疵きずが有之候へ共惣内は何時の間に斯る大疵きずを拵こしらへしやと一同不審ふしんに存じたりと申せば大岡殿は而して女の方は何ぢや僞いつはりを申な此方にも聞込し儀も有ぞ有體ありていに申立よと申さるゝに周藏木祖兵衞の兩人は其女の骸かばねも改あらためし處身肉に疵等きずとうは御座らねども只二の腕に安五郎二世と彫物ほりものが御座候と申を大岡殿聞れてナニ安五郎二世と有たかコリヤ九郎兵衞其方が娘むすめは以前賣女ばいぢよでも致したか安五郎二世と有は九助か惣内の幼名えうみやうにても有しかと申さるゝに九郎兵衞は以外いぐわいの事なれば答へに當惑たうわくなせしが否いへ然樣なものでは御座らぬと申をお深は傍邊よりモシ九郎兵衞殿其彫物ほりものは此間あひだソレ小ちひさく有たと云れたではないかと九郎兵衞へ眼めで知らせる樣子なるを大岡殿は見て取れ大音おんに默止だまれ此出過者すぎものめ汝おのれに尋問たづねはせぬぞ只今九郎兵衞が申には里の骸からだに疵きずは無いとあり又汝も嫁よめではあれど知らぬと答へしには非ずや然るを今村役人共が申立るを聞て九郎兵衞に取拵とりこしらへごとを云はせんとする心底しんてい不屆きなり安五郎と云は是に居る松平玄蕃頭家來石川安五郎なるぞ渠かれ駿府すんぷ二丁目小松屋の抱かゝへ遊女いうぢよ白妙しろたへと申を身請して妻と致し右妻の古郷へ夫婦連にて罷越まかりこし途中とちう大井川の端はたにて何者の所業しわざ共知れず殺され其首くびは下伊呂しもいろ村の岡をかにて犬いぬがくはへ爭あらそひ居たりしを見付しと安五郎申たり又今一人男の首くびは同所を少し放はなれし岡をかの小松こまつの根がたを犬の掘ほりし跡より顯あらはれ出たるが其者は藤枝宿ふぢえだじゆくの馬丁うまかた松五郎と申者の由是亦同村の者ども申立たり然すれば九郎兵衞親子おやこの奸計かんけいにて右の死骸しがいへ惣内夫婦の衣類いるゐを着きせ置おき兩人の首を取隱し九助を罪に陷おとさんと謀計し事鏡かゞみに影かげの移うつるが如し依ては惣内夫婦の者存命ぞんめいいたし居ならん重々ぢう〳〵不埓ふらち至極の奴輩やつばらなり汝等が巧たくみ此越前が白眼にらみし處決して相違あるまじ如何に〳〵と申さるれ共九郎兵衞は猶も恐おそれず是こは御奉行樣の仰共存せず現在我子供等の存命ぞんめい致し居る者を人手に掛し抔と忌いまはしき儀を訴出る者の有可べきや殊ことには九助が申上る事而已のみ御取上に相成只々私しを御叱しかりは恐おそれながら御奉行樣の依怙贔屓えこひいきと申ものと云を大岡殿聞ナニ九郎兵衞依怙贔屓と申か能承はれ天下の裁斷さいだんを爲する者聊いさゝかたりとも私しの意いを以て依怙えこの沙汰さたをなすべきや都すべて汝が申立は僞り飾ゆゑ本末不都合の事而已多く聟むこの惣内は九助が留守中に里と不義致し汝おのれは惣内母と密通みつつうに及び居しは畢竟ひつきやう子供等が不義を汝等が執持とりもち致せしも同前なり然しかるに九助は其等の儀を怒いからずして速かに離別に及び父が遺言ゆゐごんを重おもんじ不埓ふらちの伯父女房等に大切たいせつの金子を配分はいぶん致いたし遣たるを好事として義理ぎりも人情もなき惣内方へ入込こみ夫それにても尚なほ倦足あきたらず無罪の九助を咎とがに陷おとし罪科に行はせんと巧たくみし段人面獸心とは汝がことなり今見よ確成たしかなる證據しようこを出し二言とは吐はかせぬぞ又同じ衣類いるゐを着たるは一郷がうに往々まゝある事加之そのうへ女が死骸も他人にて白妙しろたへに相違なし然らば惣内里では有まじサア有體ありていに白状致せ左右とかく強情を申居をり只今にも惣内夫婦が出たなら汝われは何と申譯致んぞと申さるゝにお深は又進み出恐れながら女は別人べつじんかは存ぜねども悴儀は衣類いるゐのみ似にたるのみに是なく帶おび脚絆きやはん迄相違御座らぬと左右強情に言張いひはるに大岡殿大聲に又しても入ざる差出さしで口默止だまれ其日は九郎兵衞同道にて惣内夫婦金谷かなや村の法會ほふゑの席せきへ參まゐり歸りも同道なりしに九郎兵衞は途中とちうより聊か先へ戻りしと申ではないか然しかるに惣内は己おのれの女房の影かげを隱かくし態々他の女を連つれて殺ころされる程の間合もあるまじ夫を強しひて申なら里は宅へ戻もどりしかと有にお深否いゝへ歸かへりは致さぬと云にぞ大岡殿此頑愚たはけめ己が連出したる女房にようばう里を脇へ遣し又他の女を連て殺されたなどと然樣さやうに自由に成なると思ふか公儀こうぎを僞いつはり掠かすめんとする横道わうだう者めコリヤ安五郎今いま一應白妙が事故を九郎兵衞始めへ申聞きかせよと有に安五郎ハツト答て其儀は先日せんじつよりも申上し通り故郷こきやうへ參る途中とちう妻つま白妙を馬士まごに奪うばはれ其後首ばかりを下伊呂村の岡をかにて拾ひろひ上かみ新田村の無量庵へ頼み葬はうむりしとの手續きを委細に申述ければ大岡殿コリヤ九郎兵衞ふか那あれを聞きいたか而して又安五郎其方が妻には二の腕うでに安五郎二世と黥いれずみあると云が然樣さやうかとあるに安五郎はハツと云て赤面せきめんしければ大岡殿コレ安五郎其河原の男女の死骸は察さつする處ところ馬士が其方の妻を勾引かどはかさんとする折をり人違ひとちがひ等にて九郎兵衞か惣内の中にて兩人を殺し其始末に困こまりし處より首を切て知れぬ樣になさん爲ため衣類を着せ替かへ九助を罪に陷おとさんと致せしものと思はる然すれば其方の女房の敵かたきは是に居る九郎兵衞なるぞと云るゝに九郎兵衞は思はずハツと云て顏色がんしよく變りたり大岡殿是に構かまはれずコリヤ藤枝宿ふぢえだじゆく問屋とひや儀左衞門并に馬士まご權兵衞馬持八藏と呼れコレ八藏其方召使松五郎と申馬士の首は下伊呂村の岡にありて死骸は見えざる趣きを注進ちうしんせしが其後も見當らぬかと問るゝに八藏仰おほせの通とほり首のみ見當りしにより其後體からだをも所々相探あひさがし候へ共一向に知れ申さず尤も下伊呂村しもいろむらの河原に男女の死骸これある趣きに付樣子やうす相尋たづね候處夫は最寄もよりの百姓夫婦なりとか申ことゆゑ其外には心あたりも御座なくと申にぞ大岡殿然樣さうして其松五郎の出生は何國にて平常ふだんの行状は如何なる者なるぞと有に八藏然されば其松五郎儀は信州伊奈郡の者とのみ申居しが道中馬士などは素もとより本國も聢しかと相知申さず平常へいぜいは然まで惡人とも心得ざりし處追々おひ〳〵跡にて承まはるに一體勾引かどはかしなど致せし者との由なりと申ければ大岡殿コレ九郎兵衞八藏の申立を聞しや那あの通り女は安五郎が女房男は藤枝ふぢえだ宿の馬士松五郎に相違さうゐも有まじ斯かくの如く明白めいはくに相分あひわかりたる上は眞直まつすぐに申上よ僞いつはりを云ば嚴敷きびしく拷問がうもんを申付るぞ骨を碎くだきても云せずに置べきや如何に〳〵と有に九郎兵衞は猶も強情おしつよく是は誠まことに以て御無體むたいなる仰哉かな私し申上る儀に聊かも僞りは御座なくと云張いひはるにぞ大岡殿否いや僞りなしとは云さぬぞコレ〳〵本多長門守家來共只今承まはる通り大井河原の男女の死骸しがいは推察すゐさつする所石川安五郎妻と今一人は其を勾引かどはかせし馬士まご松五郎に相違有まじ依ては其方共の決斷けつだん甚だ暗くらく依怙贔屓えこひいきの沙汰さたに聞ゆるぞ此申譯があらば申聞よとあるに本多家の役人共追々吟味詰づめの樣子を聞今さら何とも陳ちんずべき樣なく赤面せきめん閉口へいこうなし甚だ恐れ入候旨答へければ大岡殿には彌々いよ〳〵以て申譯わけなきやと申さるゝに三人口を揃そろへ何とも申譯御座なくと申にぞ越前守殿只今に相成申譯なしと申せども其奉行頭人たる者過あやまち有ば則ち領主の罪領主の罪は則ち將軍家の罪なり民は國の源もと無罪の民を罰ばつする時は士し以て徒とたるべし一夫憤いきどほりを含ふくめば三年雨降ずと云先哲せんてつの語あり百姓は國の寶人の命は千萬金にも換難かへがたし然るを正直しやうぢき篤實とくじつなる九助を無實の罪に陷おとし入しは奉行の不明ふめいなり其不明なる者に重おもき役儀を申付たるは其領主の落度也おちどなり夫此度の一件は其方共必ず九郎兵衞より賄賂わいろを請しに相違有まじと正鵠ほしをさゝれて理左衞門はグツト言て暫く無言むごんなりしが否いや然樣さやうの儀は御座なくとぐづ〳〵答ければ大岡殿假令たとへ其方陳ちんずるとも不吟味の罪は遁のがれぬぞ此上にも申掠かすめんとなさば餘儀なく拷問がうもんにも掛ねばならず然すれば武士の恥辱ちじよくは申に及ばず主人へ猶恥はぢを與る道理なりサア尋常に申立よと言るゝに理左衞門最早遁のがれぬ所と覺悟をなし實は九郎兵衞より時候じこう見舞として聊いさゝか到來たうらいせしと申ければ大岡殿其は何程貰もらひしと云に理左衞門金十五兩貰ひたりと申せば大岡殿ナニ金十五兩とやコレ理左衞門時候見舞とあらば魚鳥ぎよてうの類か他國の産物さんぶつならば格別かくべつ役柄やくがらをも顧かへりみず金子を受納じゆなふなせしは即ち賄賂也わいろなり下役黒崎又左衞門市田武助其方共も受納じゆなふ致せしならんと有に兩人は今上役の理左衞門が白状なせし上は密かくすも益えき無なしと思ひ上役の申付に違背ゐはいも如何と存じ金三兩づつ受納せしと言ければ大岡殿假令上役の申付なりとて不正ふせいの金を受しは重々ぢう〳〵の不屆ふとゞきなり三人共揚あがり屋入申付ると言れ又九郎兵衞の方を見られてコリヤ九郎兵衞只今其方へ見するものが有夫を見て驚くなソレ〳〵彼の兩人を引出せとの指揮さしづに隨したがひ同心は惣内を本繩ほんなはに掛引出せば後あとより女房お里も手鎖てがねにて家主付添立出る九郎兵衞夫婦は是を見るよりもハツト驚おどろき呆あきれたる體なるにぞ大岡殿は何と九郎兵衞夫婦の者此兩人は知らぬ者か當春大井川の端はし下伊呂村に於て九助の爲に切害せつがいされしと汝等が訟訴うつたへ出たる惣内夫婦は今江戸本八丁堀長澤町と云所に罷在まかりあり又々不埓ふらちの儀有て召捕めしとり吟味なせしに委細ゐさい白状に及およびたり然さりながら相果あひはてたる惣内夫婦ふうふ此世に居べき筈はずなければ是は必定幽靈いうれいか又は狐狸こりの類か惣内に化たるか予よが目には見分らず汝等は親子の事故目利めきゝも屹度きつと知れるで有う幽靈か又化生けしやうか何ぢや汝等が目には何と見えるコレ九郎兵衞ふか頭を上て能よく見留みとめよコリヤ惣内此程申立し如く大井川の端はたにて人殺しをせし趣き今一應おう申聞よと聞るゝに今さら面目なき體にて私し儀里と夫婦に相成しより段々だん〳〵村中の氣請きうけの惡敷あしくなり役儀は九助へ申付られ家も淋さびしく成行中にて母は日増しに奢おごり増長ぞうちやうし追々おひ〳〵困窮こんきうに迫せまりし折から九助が江戸表にて金子を蓄殖たくはえたる趣きを聞て羨敷うらやましく存じ私し夫婦も江戸へ出稼でかせぎ度たくは存じたれども外聞ぐわいぶんも惡く彼是延引えんいん致し居中金谷村に法會ほふゑありて九郎兵衞諸共もろとも里を連て罷越まかりこし歸宅の節夜分大井川の端迄參りし處九郎兵衞は酒の醉ゑひにて河原の石に凭もたれて熟睡じゆくすゐいたし眼めの覺さめぬゆゑ私し儀藥を買に參り漸々やう〳〵に戻り來りしに九郎兵衞は何者かを相手に戰たゝかひ居により左とに右かく助たすけんと存じ宵闇よひやみの暗紛くらまぎれに切付たるは女の聲ゆゑ偖は女房を切たるかと狼狽うろたへたる處に傍邊かたはらより男一人打て掛りしを兩人して追廻おひまはし漸々に討留うちとめ熟々よく〳〵見れば男も女も知らぬ者に付大いに驚きしを九郎兵衞は了簡れうけんありとて私し共の衣類と渠かれ等の衣類着替きかへさせ一時も早く立退たちのく樣にと申故跡あとも氣遣敷きづかはしくは存ずれども九郎兵衞が申詞ことばに任まかせ其所より直樣すぐさま江戸表へ罷出改名とう致し居候なりと申立ければ大岡殿コレ九郎兵衞渠かれが申は僞いつはりか惣内が白状に相違有まじ左右とかく未練みれんに爭はずとも最早もはや有體ありていに白状致せと申さるゝに流石さすが奸惡かんあくの九郎兵衞も茲に至て初めて觀念くわんねんなし今は何をか包み申さん只今惣内が申上しに相違御座なく渠かれが藥を調とゝのへに參りし跡にて女の泣聲なきごゑ致すにより里が勾引かどはかされ候事哉やと存じ惡者と戰たゝかひ居候中惣内立戻たちもどり來兩人にて其者を追掛おひかけ河原の方へ到り暗紛くらまぎれの出會頭であひがしらに切込たれば女の叫さけぶ聲に里を切しことやと驚きながら漸々やう〳〵件くだんの男をも切害せつがい仕つり其中うち月も出候に付熟々よく〳〵見候へば男女兩人とも存ぜぬ者ゆゑ一時當惑は致せしが今更致し方も無之ゆゑ茲に惡計あくけいを考へ出し豫かねて妬ねたましき九助に此人殺しの科とがを負おはせ渠かれを亡なき者にせんと存じ惣内夫婦の者の衣類を死人へ着替きせかへ惣内お里兩人が影を隱かくさせ其日法會ほふゑの席せきにて盜み置おきたる九助の鼻紙入はながみいれを後の證據に死骸の傍邊かたはらに落し置又悴せがれ夫婦と申立る爲死人の首を切きり小半道程傍なる丘をかの小松の根へ隱かくし埋うづめ置おき扨惣内夫婦切害に逢たる旨領主の郡奉行へ訴へ出二十兩餘の賄賂まいないを遣つかひ九助を殺さんと致せしは如何なる天魔てんまの魑入みいりしやと今更後悔仕こうくわいつかまつるも詮せんなき事なれば切せめては罪障ざいしやう消滅せうめつの爲ため懺悔ざんげ仕つるなり因ては御殿場村の條七娘里儀の不義も何も斯かも引纏ひきまとめて惡事は此九郎兵衞なれば御法はふ通どほりの御所刑しおきを願ひ奉つると委細ゐさい白状に及びしかば大岡殿神妙しんめうなりと有て又お深に向はれ只今たゞいま九郎兵衞が申通り相違なきやと尋問たづねらるゝに最早一言ごんの強情がうじやうも言難いひがたく恐れ入たりと申にぞ大岡殿夫れ見よ天に眼まなこなしと雖も是を見天に耳なしと雖も是を聞きゝ正邪せいじや判然はんぜんたるは天道の照し給ふ處なり其罪成ぬ九助が無實は今日顯然げんぜんたる上からは出牢しゆつらうを申付村役人共へ預け遣つかはす其外松本理左衞門始め吟味方役人并に九郎兵衞ふか惣内里等は爪印つめいん申付ると有て何れも口書爪印とぞなりにける

第十九回


 時に享保きやうほ二年十二月廿五日一同どう白洲しらすに於て申渡され左の通り

本多長門守ほんだながとのかみ家來けらい
松本まつもと理り左衞門

其方儀そのはうぎ重おもき役儀をも勤ながら百姓九郎兵衞より賄賂わいろの金銀を受うけ夫それが爲ため不都合ふつがふの吟味に及び罪つみなき九助を一旦たん獄門ごくもんに申付候條重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付大小取上とりあげ主家しうか門前拂もんぜんばらひ申付る

本多長門守家來
黒崎くろざき又左衞門
市田武助いちだぶすけ

其方共ども支配とは申ながら松本理左衞門申趣おもむきに相任あひまかせ賄賂わいろの金銀受納じゆなふ致せし而已のみならず不都合つがふの吟味に及び候條不屆至極に付主家しうか門前拂申付る

本多ほんだ長門守領分りやうぶん
遠州ゑんしう榛原郡はいばらごほり水呑村百姓
九郎兵衞
酉とり五十七歳

其方儀若年より不身持ふみもちに付兄九郎右衞門勘當かんだうを受け相摸國さがみのくに御殿場てんば村百姓條七世話に相成居候中惡法あくはふを以て條七を難病に罹らせ同人妻つま鐵てつと密通みつつうの上條七を追出し家屋敷いへやしき田畑たはた家財等かざいとう迄押領あふりやう致し條七娘里を押て自分養女に致し甥をひ九助が信實にて古郷へ連歸り候節九助へ里を娶合めあはせ家内かない不如意ふによいに付九助江戸表へ奉公に出候留守中娘さと村役人惣内と不義致し其身も惣内母ふかと密通みつつうに及び九助より配分はいぶんの金子を取り里を惣内妻に致し其後下伊呂村にて石川安五郎妻つま并ならびに馬士まご松五郎を切殺し惣内夫婦を密かに立退せ同人夫婦切害せつがいに逢あひし趣きに訴へ出九助を罪に陷おとさんと謀計はかり上を僞いつはりし始末しまつ公儀を恐れざる種々惡事重々ぢう〳〵不屆至極ふとゞきしごくに付死罪の上獄門ごくもん申付る

本多長門守ほんだながとのかみ領分りやうぶん
遠州ゑんしう榛原郡はいばらごほり水呑村先せん名主
當時たうじ八町堀ぼり長澤ながさは町
源げん兵衞店だな惣内事
甚兵衞
酉とり二十七歳さい

其方儀村役中不正ふせいの儀多く殊ことに九助妻里と密通みつつうに及び九助親類しんるゐと僞いつはり水田屋藤八方より金子百八十兩餘騙かたり取り其後下伊呂村にて石川安五郎妻并ならびに馬士まご松五郎の兩人を切害せつがいなし九郎兵衞と申合せ其所そこより出奔しゆつぽん致いたし甚兵衞と改名かいめいの上長澤町源兵衞店たなに罷在まかりあり裏茅場町うらかやばちやう醫師いし木村道庵方へ忍しのび入金子四十三兩其外そのほか衣類いるゐ品々盜ぬすみ取候始末しまつ重々ぢう〳〵不屆至極しごくに付引廻ひきまはしの上獄門ごくもん申付る

本多長門守領分
遠州ゑんしう榛原はいばら郡水呑村先名主
惣左衞門後家ごけ
ふか
酉四十六歳

其方儀悴せがれ惣内不屆の儀を押隱おしかくし九郎兵衞を後見こうけん人と名付我が家へ入れ密通みつつうに及びし而已ならず同人と申合九助へ無實むじつの申掛かけをなし亡なはんとせし段不屆至極に付村拂むらはらひ申付る

惣内そうない妻つま
さと
酉二十一歳

其方そのはう儀養父やうふ九郎兵衞申付とは云ながら夫九助が所持しよぢの曼陀羅まんだらを盜ぬすみ惣内へ相渡わたし藤八より金子を騙かたり取せ候段不屆至極に付遠島ゑんたうをも仰おほせ付らるべきの所實父じつぷ條七當時出家大源が願ねがひに依より罪つみ一等を宥ゆるさせられ輕構けいかまひ申付る

駿州すんしう江尻宿えじりじゆく百姓
儀左衞門
酉三十二歳

其方儀そのはうぎ石川安五郎小松屋遊女いうぢよ白妙しろたへ同道にて立退たちのき候節私しの趣意しゆいを以て追掛おひかけ彌勒みろく町番人重五郎と申者支さゝへ候を切害せつがいに及び候段不埓ふらち至極しごくに付死罪申付る

同人妻
くめ
酉二十四歳

其方儀重五郎切害人せつがいにんは石川安五郎とのみ心得強しひて訴うつたへに及び候條心得違ひなり之に依て嚴敷きびしく叱しかり置く

松平玄蕃頭まつだひらげんばのかみ家來けらい
石川安五郎
酉二十六歳

其方儀吟味ぎんみ致し候處別段べつだんの惡事あくじ無之とは申ながら不行屆の儀も有之候故主人方にて遠慮ゑんりよ申付る

駿州すんしう相良領さがらりやう水呑村名主
九助
酉二十七歳

其方儀吟味相遂あひとげ候所聊いさゝかも惡事是なく且亡父の遺言ゆゐごんを守まもり不埓の伯父を呼戻よびもどし養ひ候而已ならず其後大金をも分與わけあたへし所數月すげつ無實むじつの罪にて入牢らう致し居し段不便ふびんに思召おぼしめされ且つ至孝の者に付苗字めうじ帶刀たいたう差許さしゆるす樣領主へ仰付らる之に依よつて村役の儀は前々之通り心得べし

九助妻
せつ
酉十九歳
駿州すんしう島田宿しまだじゆく
水田屋藤八

其方共儀聟むこ夫等をつとらの災難さいなんを歎き艱難辛苦かんなんしんくの上公儀巡見使じゆんけんしへ訴うつたへ出申立明了あきらかなるにより善惡判然と相顯あらはれ九助の寃罪ゑんざいを雪そゝぎし信義しんぎ貞操ていさうの段厚く譽ほめ置おく

遠州ゑんしう上新田村かみしんでんむら
無量庵むりやうあん住持ぢうぢ
大源
駿州すんしう鞠子宿まりこじゆく
柴屋しばや寺住持ぢうぢ
宗久

其方共儀不埓ふらちの筋すぢも之なし構かまひなし

其外双方さうはう付添つきそひの役人共右みぎの通り申渡わたせしにより其旨むね心得こゝろえよと申渡されける實にや大岡殿の裁斷さいだん明鏡めいきやうに物を移うつすが如く後世こうせい其才量さいりやうを稱たゝへるも宜むべなる哉かな


水呑村九助一件終

底本:「大岡政談」帝國文庫、博文館

   1929(昭和4)年4月15日発行

※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。

※活字の回転、印刷のかすれは注記なしとしました。

※大見出し「解題」において、「衛」と「衞」、「本多源右衞門」と「本多源左衞門」、「煙草屋喜八」と「烟草屋喜八」の混在は、底本通りです。

※大見出し「解題」の誤植を疑った箇所を、「明治秘史疑獄難獄」一元社、1929(昭和4)年6月30日発行の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「大岡政談首卷」において、「公事訟訴くじそしよう」と「公事訴訟くじそしよう」、「諫鼓」と「諫皷」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、「懷妊」と「懷姙」、「遠州屋彌次六」と「遠藤彌次六」と「遠藤屋彌次六」、「駒木根肥後守」と「駒木根肥前守」、「野山市十郎」と「野々山市十郎」、「高間左膳」と「高間大膳」、「錢屋四郎左衞門」と「錢屋四郎右衞門」、「堀田相模守」と「堀田相摸守」、「所司代」と「諸司代」、「密ひそか」と「密ひそか」、「成るべし」と「成べし」、「尋たづね」と「尋たづね」、「願ねがひ」と「願ねがひ」、「昔むかし」と「昔むかし」、「掘出ほりだす」と「掘出ほりだしたり」と「掘出ほりだされし」と「掘出ほりいだし」、「大坂」と「大阪」、「欠」と「缺」、「弔とふらひ」と「弔とふらひ」、「某それがし」と「某それがし」、「初はじめ」と「初はじめ」、「四十七兩二分」と「四十七兩二歩」、「互たがひに」と「互たがひに」、「思召おぼしめし」と「思召おぼしめし」、「引籠ひきこもり」と「引籠ひきこもり」、「欲ほし」と「欲ほし」、「包つつみ」と「包つゝみ」、「手懸てがかり」と「手懸てがかり」、「立去たちさり」と「立去たちさり」、「窺うかゞへ」と「窺うかがへ」、「仕つかまつ」と「仕つかまつ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、「御短刀」に対するルビの「おたんたう」と「おんたんたう」、「種々」に対するルビの「しゆ〴〵」と「いろ〳〵」と「さま〴〵」、「老中」に対するルビの「らうちう」と「らうぢう」、「笈摺」に対するルビの「おひずる」と「おひずり」、「親父」に対するルビの「おや」と「ちち」と「おやぢ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、ご落胤誕生、澤の井死亡年の元号、干支の表記に「寛永二申年」と「寛永くわんえい三年」と「寶永二年戌いぬ」と「寶永二年」と「寶永三戌年いぬとし」と「寶永二年の」と「寛永二申年」と「寶永二酉年」と「寶永はうえい二酉年」と「寶永三酉年」と揺れが生じているのは、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」において、お三婆殺人事件発生の日付が「享保きやうほ三丙申ひのえさる年霜しも月十六日」と「享保きやうほ元申年十一月廿八日」揺れが生じているのは、底本通りです。

※大見出し「天一坊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談 天一坊実記全」鶴聲社、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。ただし、底本と同じ表記の人名、地名は「大岡政談1〔全2巻〕」東洋文庫、平凡社、1984(昭和59)年7月10日初版第1刷発行の表記で確認して、あらためました。

※大見出し「白子屋阿熊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 白子屋阿熊之記」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「煙草屋喜八一件」において、「致いたし」と「致いたし」、「不屆ふとゞき」と「不屆ふとゞき」の混在は、底本通りです。

※大見出し「煙草屋喜八一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 煙草屋喜八之伝」錦耕堂、1886(明治19)年3月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「村井長庵一件」において、「八ヶ年」と「八箇年」、「本覺院」と「本學院」、「武田長生院」と「竹田長生院」、「預あづかる」と「預あづかる」、「成るべし」と「成べし」、「献」と「獻」、「悲かなしみ」と「悲かなしみ」、「手續てつゞき」と「手續てつゞき」、「虫」と「蟲」、「戯」と「戲」、「絲竹」と「糸竹」、「審いぶかしく」と「審いぶかしく」、「願ねがひ」と「願ねがひ」、「訟訴書」と「訴訟書」、「不屆ふとゞき」と「不屆ふとゞき」、「昔むかし」と「昔むかし」、「お安」と「御安」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」において、「種々」に対するルビの「いろ〳〵」と「しゆ〴〵」と「さま〴〵」、「何卒」に対するルビの「どうぞ」と「なにとぞ」、「然樣」に対するルビの「さやう」「さう」、「私」に対するルビの「わたくし」と「わし」、「大聲」に対するルビの「おほごゑ」と「たいせい」、「貴殿」に対するルビの「きでん」と「おまへ」と「あなた」と「きさま」、「仕業」に対するルビの「しわざ」と「しごと」、「都度々々」に対するルビの「つと〴〵」と「つど〳〵」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」において、道十郎牢死の「寶永七年九月廿一日」と「寶永七年九月廿七日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「村井長庵一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録 村井長庵之記」鶴聲社、1884(明治17)年6月出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「直助權兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「越後傳吉一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡政談」銀花堂、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としました。

※大見出し「越後傳吉一件」において、「伊藤伴右衞門」と「伊藤半右衞門」と「伊東半右衞門」、「道澤」と「道宅」、「鴻の巣宿」と「鴻巣宿」、「森田や」と「森田屋」、「猿島河」と「猿島川」の混在は、底本通りです。

※大見出し「傾城瀬川一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「松屋文右衞門」と「小松屋文右衞門」、「十七屋」と「十七家」、「鈴ヶ森」と「鈴が森」の混在は、底本通りです。

※大見出し「畔倉重四郎一件」において、「十七屋」に対するルビの「となや」と「となつや」と「とをつや」の混在は、底本通りです。

※大見出し「畔倉重四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「小間物屋彦兵衞一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡仁政録小間物屋彦兵衛之伝」荒川藤兵衛、1886(明治19)年2月出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「後藤半四郎一件」において、「分わからず」と「解わからず」、「天窻」と「天窓」、「某それがし」と「某それがし」の混在は、底本通りです。

※大見出し「後藤半四郎一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「松田お花一件」において、「お兼」と「おかね」のの混在は、底本通りです。

※大見出し「松田お花一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「嘉川主税一件」において、「小金ヶ原」と「小金が原」の混在は、底本通りです。

※大見出し「嘉川主税一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「小西屋一件」において、「許ばかり」と「許ばかり」、「お光」と「おみつ」、「冰人」と「𫥇人」の混在は、底本通りです。

※大見出し「小西屋一件」において、「老婆」に対するルビの「ばうも」と「らうば」の混在は、底本通りです。

※大見出し「小西屋一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「雲霧仁左衛門一件」において、「おとき」と「お時」、「兩換町」と「兩替町」、「常盤屋」と「常磐屋」の混在は、底本通りです。また、仁左衛門らが文蔵夫婦から金を騙し取った日付が「享保十二年」と「享保十一年」と混在するのは底本どおりです。

※大見出し「雲霧仁左衛門一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。底本と同じ表記のため確認できなかったところはママ注記としましたが、本文での表記が一意の場合はそれにあわせました。

※大見出し「津の國屋お菊一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴聲社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

※大見出し「水呑村九助一件」において、「利三」と「利三郎」、「喜平治」と「喜平次」と「嘉平次」、「川口」と「河口」、「お梶」と「おかぢ」、「お里」と「おさと」、「お深」と「おふか」、「ハツと」と「ハツト」、「櫻井文右衞門」と「櫻井文左衞門」、「田村治兵衞」と「田村治太夫」、「巴屋儀左衞門」と「巴屋儀右衞門」、の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、「白妙」に対するルビの「しろたへ」と「しらたへ」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、九助江戸滞在中の白洲が「享保二年九月廿一日」、その帰村後になる久助の惣内夫婦殺害容疑に関する願書日付「享保二年二月廿三日」、久助口書における「享保二年四月廿四日」、続く大岡越前守の白洲「享保二丁酉年五月十八日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」において、惣内夫婦殺害日時について「二月二十九日」と「三月二十九日」の混在は、底本通りです。

※大見出し「水呑村九助一件」の誤植を疑った箇所を、「大岡名誉政談」鶴声社、1887(明治20)年出版の表記にそって、あらためました。

入力:石塚一郎

校正:みきた

2019年4月26日作成

青空文庫作成ファイル:

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