にごりえ
樋口一葉



⦅一⦆


おい木村きむらさん信しんさん寄よつてお出いでよ、お寄よりといつたら寄よつても宜いいではないか、又また素通すどほりで二葉ばやへ行ゆく氣きだらう、押おしかけて行ゆつて引ひきずつて來くるからさう思おもひな、ほんとにお湯ぶうなら歸かへりに吃度きつとよつてお呉くれよ、嘘うそつ吐つきだから何なにを言いふか知しれやしないと店先みせさきに立たつて馴染なじみらしき突つツかけ下駄げたの男をとこをとらへて小言こゞとをいふやうな物ものの言いひぶり、腹はらも立たたずか言譯いひわけしながら後刻のちに後刻のちにと行過ゆきすぎるあとを、一寸ちよつと舌打したうちしながら見送みおくつて後のちにも無ないもんだ來くる氣きもない癖くせに、本當ほんとうに女房にようぼうもちに成なつては仕方しかたがないねと店みせに向むかつて閾しきいをまたぎながら一人言ひとりごとをいへば、高たかちやん大分だいぶ御述懷ごじつくわいだね、何なにもそんなに案あんじるにも及およぶまい燒棒杌やけぼつくいと何なにとやら、又またよりの戻もどる事こともあるよ、心配しんぱいしないで呪まじなひでもして待まつが宜いいさと慰なぐさめるやうな朋輩ほうばいの口振くちぶり、力りきちやんと違ちがつて私わたしには技倆うでが無ないからね、一人ひとりでも逃にがしては殘念ざんねんさ、私わたしのやうな運うんの惡わるい者ものには呪まじなひも何なにも聞ききはしない、今夜こんやも又また木戸番きどばんか、何なんたら事ことだ面白おもしろくもないと肝癪かんしやくまぎれに店前みせさきへ腰こしをかけて駒下駄こまげたのうしろでとん〳〵と土間どまを蹴けるは二十の上うへを七つか十か引眉毛ひきまゆげに作つくり生際はへぎは、白粉おしろいべつたりとつけて唇くちびるは人喰ひとくふ犬いぬの如ごとく、かくては紅べにも厭いやらしき物ものなり、お力りきと呼よばれたるは中肉ちうにくの背恰好せいかつかうすらりつとして洗あらひ髮がみの大嶋田おほしまだに新しんわらのさわやかさ、頸ゑりもと計ばかりの白粉おしろいも榮はえなく見みゆる天然てんねんの色白いろじろをこれみよがしに乳ちのあたりまで胸むねくつろげて、烟草たばこすぱ〳〵長烟管ながぎせるに立膝たてひざの無作法ぶさはうさも咎とがめる人ひいのなきこそよけれ、思おもひ切きつたる大形おほがたの裕衣ゆかたに引ひつかけ帶おびは黒繻子くろじゆすと何なにやらのまがひ物もの、緋ひの平ひらぐけが背せの處ところに見みえて言いはずと知しれし此このあたりの姉あねさま風ふうなり、お高たかといへるは洋銀ようぎんの簪かんざしで天神てんじんがへしの髷まげの下したを掻かきながら思おもひ出だしたやうに力りきちやん先刻さつきの手紙てがみお出だしかといふ、はあと氣きのない返事へんじをして、どうで來くるのでは無ないけれど、あれもお愛想あいさうさと笑わらつて居ゐるに、大底たいていにおしよ卷紙まきがみ二尋ふたひろも書かいて二枚まい切手ぎつての大封おほふうじがお愛想あいさうで出來できる物ものかな、そして彼あの人ひとは赤坂以來あかさかからの馴染なじみではないか、少すこしやそつとの紛雜いざがあろうとも縁切ゑんきれになつて溜たまる物ものか、お前まへの出でかた一つで何どうでもなるに、ちつとは精せいを出だして取止とりとめるやうに心こゝろがけたら宜よかろ、あんまり冥利めうりがよくあるまいと言いへば御親切ごしんせつに有ありがたう、御異見ごゐけんは承うけたまはり置おきまして私わたしはどうも彼あんな奴やつは虫むしが好すかないから、無なき縁ゑんとあきらめて下くださいと人事ひとごとのやうにいへば、あきれたものだのと笑わらつてお前まへなどは其我そのわがまゝが通とほるから豪勢ごうせいさ、此身このみになつては仕方しかたがないと團扇うちはを取とつて足元あしもとをあふぎながら、昔むかしは花はなよの言いひなし可笑をかしく、表おもてを通とほる男をとこを見みかけて寄よつてお出いでと夕ゆふぐれの店先みせさきにぎはひぬ。

店みせは二間けん間口まぐちの二階かい作づくり、軒のきには御神燈ごしんとうさげて盛もり鹽じほ景氣けいきよく、空壜あきびんか何なにか知しらず、銘酒めいしゆあまた棚たなの上うへにならべて帳塲ちようばめきたる處ところもみゆ、勝手元かつてもとには七輪りんを煽あほく音おと折々をり〳〵に騷さわがしく、女主あるじが手てづから寄よせ鍋なべ茶椀ちやわんむし位ぐらいはなるも道理ことわり、表おもてにかゝげし看板かんばんを見みれば子細しさいらしく御料理おんりようりとぞしたゝめける、さりとて仕出しだし頼たのみに行ゆきたらば何なにとかいふらん、俄にはかに今日こんにち品切しなぎれもをかしかるべく、女をんなならぬお客樣きやくさまは手前店てまへみせへお出でかけを願ねがひまするとも言いふにかたからん、世よは御方便ごはうべんや商買しようばいがらを心得こゝろゑて口取くちとり燒肴やきざかなとあつらへに來くる田舍いなかものもあらざりき、お力りきといふは此家このやの一枚まい看板かんばん、年としは隨ずい一若わかけれども客きやくを呼よぶに妙めうありて、さのみは愛想あいさうの嬉うれしがらせを言いふやうにもなく我わがまゝ至極しごくの身みの振舞ふるまい、少すこし容貌きりようの自慢じまんかと思おもへば小面こづらが憎にくいと蔭口かげぐちいふ朋輩はうばいもありけれど、交際つきあつては存ぞんの外ほかやさしい處ところがあつて女おんなながらも離はなれともない心持こゝろもちがする、あゝ心こゝろとて仕方しかたのないもの面おもざしが何處どことなく冴さへて見みへるは彼あの子この本性ほんせうが現あらはれるのであらう、誰たれしも新開しんかいへ這入はいるほどの者もので菊きくの井ゐのお力りきを知しらぬはあるまじ、菊きくの井ゐのお力りきか、お力りきの菊きくの井ゐか、さても近來きんらいまれの拾ひろひもの、あの娘このお蔭かげで新開しんかいの光ひかりが添そはつた、抱かゝへ主ぬしは神棚かみだなへさゝげて置おいても宜いいとて軒並のきならびの羨うらやみ種ぐさになりぬ。

お高たかは往來ゆきゝの人ひとのなきを見みて、力りきちやんお前まへの事ことだから何なにがあつたからとて氣きにしても居ゐまいけれど、私わたしは身みにつまされて源げんさんの事ことが思おもはれる、夫それは今いまの身分みぶんに落おちぶれては根ねつから宜いいお客きやくではないけれども思おもひ合あふたからには仕方しかたがない、年としが違ちがをが子こがあろがさ、ねへ左樣さうではないか、お内儀かみさんがあるといつて別わかれられる物ものかね、構かまふ事ことはない呼出よびだしてお遣やり、私わたしのなぞといつたら野郎やらうが根ねから心替こゝろがはりがして顏かほを見みてさへ逃にげ出だすのだから仕方しかたがない、どうで諦あきらめ物もので別口べつくちへかゝるのだがお前まへのは夫それとは違ちがふ、了簡りようけん一つでは今いまのお内儀かみさんに三下くだり半はんをも遣やられるのだけれど、お前まへは氣位きぐらゐが高たかいから源げんさんと一處ひとつにならうとは思おもふまい、夫それだもの猶なほの事こと呼よぶ分ぶんに子細しさいがあるものか、手紙てがみをお書かき今いまに三河かわやの御用聞ごようききが來くるだろうから彼あの子僧こぞうに使つかひやさんを爲させるが宜いい、何なんの人ひとお孃樣ぢようさまではあるまいし御遠慮計ごゑんりよばかり申まをしてなる物ものかな、お前まへは思おもひ切きりが宜よすぎるからいけない兎とも角かく手紙てがみをやつて御覽ごらん、源げんさんも可愛かあいさうだわなと言いひながらお力りきを見みれば烟管掃除きせるそうじに餘念よねんのなきは俯向うつむきたるまゝ物ものいはず。

やがて雁首がんくびを奇麗きれいに拭ふいて一服ぷくすつてポンとはたき、又またすいつけてお高たかに渡わたしながら氣きをつけてお呉くれ店先みせさきで言いはれると人聞ひとぎきか惡わるいではないか、菊きくの井ゐのお力りきは土方どかたの手傳てつだひを情夫まぶに持もつなどゝ考違かんちがへをされてもならない、夫それは昔むかしの夢ゆめがたりさ、何なんの今いまは忘わすれて仕舞しまつて源げんとも七とも思おもひ出だされぬ、もう其話そのはなしは止やめ〳〵といひながら立たちあがる時とき表おもてを通とほる兵兒帶へこおびの一むれ、これ石川いしかはさん村岡むらおかさんお力りきの店みせをお忘わすれなされたかと呼よべば、いや相變あひかはらず豪傑ごうけつの聲こゑかゝり、素通すどほりもなるまいとてずつと這入はいるに、忽たちまち廊下らうかにばた〳〵といふ足あしおと、姉ねへさんお銚子てうしと聲こゑをかければ、お肴さかなは何なにをと答こたふ。三味さみの音ね景氣けいきよく聞きこえて亂舞らんぶの足音あしおとこれよりぞ聞きこえ初そめぬ。


⦅二⦆


さる雨あめの日ひのつれ〴〵に表おもてを通とほる山高帽子やまだかぼうしの三十男をとこ、あれなりと捉とらずんは此この降ふりに客きやくの足あしとまるまじとお力りきかけ出だして袂たもとにすがり、何どうでも遣やりませぬと駄々だゝをこねれば、容貌きりようよき身みの一徳とく、例れいになき子細しさいらしきお客きやくを呼入よびいれて二階かいの六疊ぢように三味線さみせんなしのしめやかなる物語ものがたり、年としを問とはれて名なを問とはれて其次そのつぎは親おやもとの調しらべ、士族しぞくかといへば夫それは言いはれませぬといふ、平民へいみんかと問とへば何どうござんしようかと答こたふ、そんなら華族くわぞくと笑わらひながら聞きくに、まあ左樣さうおもふて居ゐて下くだされ、お華族くわぞくの姫樣ひいさまが手てづからのお酌しやく、かたじけなく御受おうけなされとて波々なみ〳〵とつぐに、さりとは無作法ぶさはうな置おきつぎといふが有ある物ものか、夫それは小笠原をがさはらか、何流なにりうぞといふに、お力流りきりうとて菊きくの井ゐ一家かの左法さはう、疊たゝみに酒さけのまする流氣りうぎもあれば、大平おほびらの蓋ふたであほらする流氣りうぎもあり、いやなお人ひとにはお酌しやくをせぬといふが大詰おほづめの極きまりでござんすとて臆おくしたるさまもなきに、客きやくはいよ〳〵面白おもしろがりて履歴りれきをはなして聞きかせよ定さだめて凄すさましい物語ものがたりがあるに相違さういなし、たゞの娘むすめあがりとは思おもはれぬ何どうだとあるに、御覽ごらんなさりませ未まだ鬢びんの間あいだに角つのも生はへませず、其そのやうに甲羅かうらは經へませぬとてころ〳〵と笑わらふを、左樣さうぬけてはいけぬ、眞實しんじつの處ところを話はなして聞きかせよ、素性すぜうが言いへずは目的もくてきでもいへとて責せめる、むづかしうござんすね、いふたら貴君あなたびつくりなさりましよ天下てんかを望のぞむ大伴おほともの黒主くろぬしとは私わたしが事こととていよ〳〵笑わらふに、これは何どうもならぬ其そのやうに茶利ちやりばかり言いはで少すこし眞實しんの處ところを聞きかしてくれ、いかに朝夕てうせきを嘘うその中なかに送おくるからとてちつとは誠まことも交まじる筈はづ、良人おつとはあつたか、それとも親故おやゆゑかと眞しんに成なつて聞きかれるにお力りきかなしく成なりて、私わたしだとて人間にんげんでござんすほどに少すこしは心こゝろにしみる事こともありまする、親おやは早はやくになくなつて今いまは眞實ほんの手てと足あしばかり、此樣こんな者ものなれど女房にようぼうに持もたうといふて下くださるも無ないではなけれど未まだ良人おつとをば持もちませぬ、何どうで下品げひんに育そだちました身みなれば此樣こんな事ことして終おはるのでござんしよと投出なげだしたやうな詞ことばに無量むりようの感かんがあふれてあだなる姿すがたの浮氣うはきらしきに似にず一節ふしさむろう樣子やうすのみゆるに、何なにも下品げひんに育そだつたからとて良人おつとの持もてぬ事ことはあるまい、殊ことにお前まへのやうな別品べつぴんさむではあり、一足そくとびに玉たまの輿こしにも乘のれさうなもの、夫それとも其そのやうな奧樣おくさまあつかひ虫むしが好すかで矢張やはり傳法肌でんぽうはだの三尺じやく帶おびが氣きに入いるかなと問とへば、どうで其處そこらが落おちでござりましよ、此方こちらで思おもふやうなは先樣さきさまが嫌いやなり、來こいといつて下くださるお人ひとの氣きに入いるもなし、浮氣うはきのやうに思召おぼしめしましようが其日そのひ送おくりでござんすといふ、いや左樣さうは言いはさぬ相手あいてのない事ことはあるまい、今いま店先みせさきで誰たれやらがよろしく言いふたと他ほかの女おんなが言傳ことづてたでは無ないか、いづれ面白おもしろい事ことがあらう何なんとだといふに、あゝ貴君あなたもいたり穿索せんさくなさります、馴染なじみはざら一面めん、手紙てがみのやりとりは反古ほごの取とりかヘツこ、書かけと仰おつしやれば起證きせうでも誓紙せいしでもお好このみ次第しだいさし上あげませう、女夫めをとやくそくなどと言いつても此方こちで破やぶるよりは先方樣さきさまの性根せうねなし、主人しゆじんもちなら主人しゆじんが怕こわく親おやもちなら親おやの言いひなり、振向ふりむひて見みてくれねば此方こちらも追おひかけて袖そでを捉とらへるに及およばず、夫それなら廢よせとて夫それ限ぎりに成なりまする、相手あいてはいくらもあれども一生せうを頼たのむ人ひとが無ないのでござんすとて寄よる邊べなげなる風情ふぜい、もう此樣こんな話はなしは廢よしにして陽氣ようきにお遊あそびなさりまし、私わたしは何なにも沈しづんだ事ことは大嫌だいきらひ、さわいでさわいで騷さわぎぬかうと思おもひますとて手てを扣たゝいて朋輩ほうばいを呼よべば力りきちやん大分だいぶおしめやかだねと三十女おんなの厚化粧あつげしようが來くるに、おい此娘このこの可愛かあいい人ひとは何なんといふ名なだと突然だしぬけに問とはれて、はあ私わたしはまだお名前なまへを承うけたまはりませんでしたといふ、嘘うそをいふと盆ぼんが來きるに㷔魔樣ゑんまさまへお參まいりが出來できまいぞと笑わらへば、夫それだとつて貴君あなた今日けふお目めにかゝつたばかりでは御坐ござりませんか、今いま改あらためて伺うかゞひに出でやうとして居ゐましたといふ、夫それは何なんの事ことだ、貴君あなたのお名なをさと揚あげられて、馬鹿ばか〳〵お力りきが怒おこるぞと大景氣おほけいき、無駄むだばなしの取とりやりに調子てうしづいて旦那だんなのお商買しようばいを當あてて見みませうかとお高たかがいふ、何分なにぶん願ねがひますと手てのひらを差出さしだせば、いゑ夫それには及およびませぬ人相にんさうで見みまするとて如何いかにも落おちつきたる顏かほつき、よせ〳〵じつと眺ながめられて棚たなおろしでも始はじまつては溜たまらぬ、斯かう見みえても僕ぼくは官員くわんいんだといふ、嘘うそを仰おつしやれ日曜にちようのほかに遊あそんであるく官員樣くわんいんさまがあります物ものか、力りきちやんまあ何でいらつしやらうといふ、化物ばけものではいらつしやらないよと鼻はなの先さきで言いつて分わかつた人ひとに御褒賞ごほうびたと懷中ふところから紙入かみいれを出いだせば、お力りき笑わらひながら高たかちやん失禮しつれいをいつてはならない此このお方かたは御大身ごだいしんの御華族樣ごくわぞくさまおしのびあるきの御遊興ごゆうきようさ、何なんの商買しようばいなどがおありなさらう、そんなのでは無ないと言いひながら蒲團ふとんの上うへに乘のせて置おきし紙入かみいれを取とりあげて、お相方あいかたの高尾たかをにこれをばお預あづけなされまし、みなの者ものに祝義しうぎでも遣つかはしませうとて答こたへも聞きかずずん〳〵と引出ひきいだすを、客きやくは柱はしらに寄よりかゝつて眺ながめながら小言こゞともいはず、諸事しよじおまかせ申すと寛大かんだいの人ひとなり。

お高たかはあきれて力りきちやん大底たいていにおしよといへども、何なに宜いいのさ、これはお前まへにこれは姉ねへさんに、大おほきいので帳塲ちやうばの拂はらひを取とつて殘のこりは一同みんなにやつても宜いいと仰おつしやる、お禮れいを申まをして頂いたゞいてお出いでと蒔散まきちらせば、これを此娘このこの十八番ばんに馴なれたる事こととて左さのみは遠慮ゑんりよもいふては居ゐず、旦那だんなよろしいのでございますかと駄目だめを押おして、有ありがたうございますと掻かきさらつて行ゆくうしろ姿すがた、十九にしては更ふけてるねと旦那だんなどの笑わらひ出だすに、人ひとの惡わるい事ことを仰おつしやるとてお力りきは起たつて障子しやうじを明あけ、手摺てすりに寄よつて頭痛づつうをたゝくに、お前まへはどうする金かねは欲ほしくないかと問とはれて、私わたしは別べつにほしい物ものがござんした、此品これさへ頂いたゞけば何なによりと帶おびの間あひだから客きやくの名刺めいしをとり出だして頂いたゞくまねをすれば、何時いつの間まに引出ひきだした、お取とりかへには寫眞しやしんをくれとねだる、此次このつぎの土曜日どようびに來きて下くだされば御一處ごいつしよにうつしませうとて歸かへりかゝる客きやくを左さのみは止とめもせず、うしろに廻まはりて羽織はをりをきせながら、今日けふは失禮しつれいを致いたしました、亦またのお出いでを待まちますといふ、おい程ほどの宜いい事ことをいふまいぞ、空誓文そらせいもんは御免ごめんだと笑わらひながらさつ〳〵と立たつて階段はしごを下おりるに、お力りき帽子ぼうしを手てにして後うしろから追おひすがり、嘘うそか誠まことか九十九夜よの辛棒しんぼうをなさりませ、菊きくの井ゐのお力りきは鑄型いがたに入はいつた女おんなでござんせぬ、又また形なりのかはる事こともありまするといふ、旦那だんなお歸かへりと聞きいて朋輩ほうばいの女をんな、帳塲ちやうばの女主あるじもかけ出だして唯今たゞいまは有ありがたうと同音どうおんの御禮おれい、頼たのんで置おいた車くるまが來きしとて此處こゝからして乘のり出だせば、家中うちゞう表おもてへ送おくり出だしてお出いでを待まちまするの愛想あいさう、御祝儀ごしうぎの餘光ひかりとしられて、後あとには力りきちやん大明神樣だいめうじんさまこれにも有ありがたうの御禮おれい山々やま〳〵。


⦅三⦆


客きやくは結城朝之助ゆふきとものすけとて、自みづから道樂だうらくものとは名なのれども實体じつていなる處ところ折々をり〳〵に見みえて身みは無職業むしよくげふ妻子さいしなし、遊あそぶに屈強くつきやうなる年頃としごろなればにや是これを初はじめに一週しゆうには二三度どの通かよひ路ぢ、お力りきも何處どことなく懷なつかしく思おもふかして三日見みえねば文ふみをやるほどの樣子やうすを、朋輩ほうばいの女子おんなども岡燒おかやきながら弄からかひては、力りきちやんお樂たのしみであらうね、男振おとこぶりはよし氣前きまへはよし、今いまにあの方かたは出世しゆつせをなさるに相違さうゐない、其時そのときはお前まへの事ことを奧樣おくさまとでもいふのであらうに今いまつから少すこし氣きをつけて足あしを出だしたり湯呑ゆのみであほるだけは廢やめにおし人ひとがらが惡わるいやねと言いふもあり、源げんさんが聞きいたら何どうだらう氣違きちがひになるかも知しれないとて冷評ひやかすもあり、あゝ馬車ばしやにのつて來くる時とき都合つがふが惡わるいから道普請みちぶしんからして貰もらいたいね、こんな溝板どぶいたのがたつく樣やうな店先みせさきへ夫それこそ人ひとがらが惡わろくて横よこづけにもされないではないか、お前方まへがたも最もう少すこしお行義ぎようぎを直なほしてお給仕きふじに出でられるやう心こゝろがけてお呉くれとずば〳〵といふに、ヱヽ憎にくらしい其そのものいひを少すこし直なほさずは奧樣おくさまらしく聞きこへまい、結城ゆふきさんが來きたら思おもふさまいふて、小言こゞとをいはせて見みせようとて朝之助とものすけの顏かほを見みるより此樣こんな事ことを申まをして居ゐまする、何どうしても私共わたしどもの手てにのらぬやんちやなれば貴君あなたから叱しかつて下くだされ、第だい一湯呑ゆのみで呑のむは毒どくでござりましよと告口つげぐちするに、結城ゆふきは眞面目まじめになりてお力りき酒さけだけは少すこしひかへろとの嚴命げんめい、あゝ貴君あなたのやうにもないお力りきが無理むりにも商買しようばいして居ゐられるは此力このちからと思おぼし召めさぬか、私わたしに酒氣さかけが離はなれたら坐敷ざしきは三昧堂まいどうのやうに成なりませう、ちつと察さつして下くだされといふに成程なるほど〳〵とて結城ゆふきは二言ごんといはざりき。

或ある夜よの月つきに下坐敷したざしきへは何處どこやらの工塲こうばの一連むれ、丼どんぶりたゝいて甚じん九かつぽれの大騷おほさはぎに大方おほかたの女子おなごは寄集よりあつまつて、例れいの二階かいの小坐敷こざしきには結城ゆふきとお力りきの二人限ふたりぎりなり、朝之助とものすけは寢ねころんで愉快ゆくわいらしく話はなしを仕しかけるを、お力りきはうるさゝうに生返事なまへんじをして何なにやらん考かんがへて居ゐる樣子やうす、どうかしたか、又また頭痛づゝうでもはじまつたかと聞きかれて、何なに頭痛づゝうも何なにもしませぬけれど頻しきりに持病ぢびやうが起おこつたのですといふ、お前まへの持病ぢびやうは肝癪かんしやくか、いゝゑ、血ちの道みちか、いゝゑ、夫それでは何なんだと聞きかれて、何どうも言いふ事ことは出來できませぬ、でも他ほかの人ひとではなし僕ぼくではないか何どんな事ことでも言いふて宜よさそうなもの、まあ何なんの病氣びやうきだといふに、病氣びやうきではござんせぬ、唯たゞこんな風ふうになつて此樣こんな事ことを思おもふのですといふ、困こまつた人ひとだな種々いろ〳〵秘密ひみつがあると見みえる、お父とつさんはと聞きけば言いはれませぬといふ、お母つかさんはと問とへば夫それも同おなじく、これまでの履歴りれきはといふに貴君あなたには言いはれぬといふ、まあ嘘うそでも宜いいさよしんば作つくりり言ごとにしろ、かういふ身みの不幸ふしあはせだとか大底たいていの女ひとはいはねばならぬ、しかも一度どや二度どあふのではなし其位そのくらゐの事ことを發表はつぴやうしても子細しさいはなからう、よし口くちに出だして言いはなからうともお前まへに思おもふ事ことがある位くらゐめくら按摩あんまに探さぐらせても知しれた事こと、聞きかずとも知しれて居ゐるが、夫それをば聞きくのだ、どつち道みち同おなじ事ことだから持病ぢびやうといふのを先さきに聞ききたいといふ、およしなさいまし、お聞ききになつても詰つまらぬ事ことでござんすとてお力りきは更さらに取とりあはず。

折おりから下坐敷したざしきより杯盤はいばんを運はこびきし女おんなの何なにやらお力りきに耳打みゝうちして兎とも角かくも下したまでお出いでよといふ、いや行ゆき度たくないからよしてお呉くれ、今夜こんやはお客きやくが大變たいへんに醉ゑひましたからお目めにかゝつたとてお話はなしも出來できませぬと斷ことはつておくれ、あゝ困こまつた人ひとだねと眉まゆを寄よせるに、お前まへそれでも宜いいのかへ、はあ宜いいのさとて膝ひざの上うへで撥ばちを弄もてあそべば、女おんなは不思議ふしぎさうに立たつてゆくを客きやくは聞きゝすまして笑わらひながら御遠慮ごゑんりよには及およばない、逢あつて來きたら宜よからう、何なにもそんなに體裁ていさいには及およばぬではないか、可愛かわいい人ひとを素戻すもどしもひどからう、追おひかけて逢あふが宜いい、何なんなら此こ處こへでも呼よび給へ、片隅かたすみへ寄よつて話はなしの邪魔じやまはすまいからといふに、串談じようだんはぬきにして結城ゆふきさん貴君あなたに隱かくしたとて仕方しかたがないから申まをしますが町内ちやうないで少すこしは巾はゞもあつた蒲團ふとんやの源げん七といふ人ひと、久ひさしい馴染なじみでござんしたけれど今いまは見みるかげもなく貧乏びんぼうして八百屋やほやの裏うらの小ちいさな家うちにまい〳〵つぶろの樣やうになつて居いまする、女房にようぼもあり子供こどももあり、私わたしがやうな者ものに逢あひに來くる歳としではなけれど、縁ゑんがあるか未いまだに折おりふし何なんの彼かのといつて、今いまも下坐敷したざしきへ來きたのでござんせう、何なにも今いまさら突出つきだすといふ譯わけではないけれど逢あつては色々いろ〳〵面倒めんどうな事こともあり、寄よらず障さわらず歸かへした方はうが好いいのでござんす、恨うらまれるは覺悟かくごの前まへ、鬼おにだとも蛇じやだとも思おもふがようござりますとて、撥ばちを疊たゝみに少すこし延のびあがりて表おもてを見みおろせば、何なんと姿すがたが見みえるかと嬲なぶる、あゝ最もう歸かへつたと見みえますとて茫然ぼんとして居ゐるに、持病ぢびやうといふのは夫それかと切込きりこまれて、まあ其樣そんな處ところでござんせう、お醫者樣ゐしやさまでも草津くさつの湯ゆでもと薄淋うすさびしく笑わらつて居ゐるに、御本尊ごほんぞんを拜おがみたいな俳優やくしやで行いつたら誰たれの處ところだといへば、見みたら吃驚びつくりでござりませう色いろの黒くろい背せの高たかい不動ふどうさまの名代めうだいといふ、では心意氣こゝろいきかと問とはれて、此樣こんな店みせで身上しんしやうはたくほどの人ひと、人ひとの好いいばかり取得とりえとては皆無かいむでござんす、面白おもしろくも可笑をかしくも何なんともない人ひとといふに、夫それにお前まへは何どうして逆上のぼせた、これは聞きき處どころと客きやくは起おきかへる、大方おほかた逆上性のぼせせうなのでござんせう、貴君あなたの事ことをも此頃このごろは夢ゆめに見みない夜よはござんせぬ、奧樣おくさまのお出來できなされた處ところを見みたり、ぴつたりと御出おいでのとまつた處ところを見みたり、まだ〳〵一層もつとかなしい夢ゆめを見みて枕紙まくらかみがびつしよりに成なつた事こともござんす、高たかちやんなぞは夜よる寐ねるからとても枕まくらを取とるよりはやく鼾いびきの聲こゑたかく、宜いい心持こゝろもちらしいが何どんなに浦山うらやましうござんせう、私わたしはどんな疲つかれた時ときでも床とこへ這入はいると目めが冴さへて夫それは夫それは色々いろ〳〵の事ことを思おもひます、貴君あなたは私わたしに思おもふ事ことがあるだらうと察さつして居ゐて下くださるから嬉うれしいけれど、よもや私わたしが何なにをおもふか夫それこそはお分わかりに成なりますまい、考かんがへたとて仕方しかたがない故ゆゑ人前ひとまへばかりの大陽氣おほようき、菊きくの井ゐのお力りきは行ゆきぬけの締しまりなしだ、苦勞くろうといふ事ことはしるまいと言いふお客樣きやくさまもござります、ほんに因果ゐんぐわとでもいふものか私わたしが身み位くらいかなしい者ものはあるまいと思おもひますとて潜然さめ〴〵とするに、珍めづらしい事こと陰氣いんきのはなしを聞きかせられる、慰なぐさめたいにも本末もとすゑをしらぬから方はうがつかぬ、夢ゆめに見みてくれるほど實じつがあらば奧樣おくさまにしてくれろ位ぐらいいひそうな物ものだに根ねつからお聲こゑがゝりも無ないは何どういふ物ものだ、古風こふうに出でるが袖そでふり合あふもさ、こんな商賣しやうばいを嫌いやだと思おもふなら遠慮ゑんりよなく打明うちあけばなしを爲するが宜いい、僕ぼくは又またお前まへのやうな氣きでは寧いつそ氣樂きらくだとかいふ考かんがへで浮ういて渡わたる事ことかと思おもつたに、夫それでは何なにか理屈りくつがあつて止やむを得ゑずといふ次第しだいか、苦くるしからずは承うけたまはりたい物ものだといふに、貴君あなたには聞きいて頂いたゝかうと此間このあひだから思おもひました、だけれども今夜こんやはいけませぬ、何故なぜ〳〵、何故なぜでもいけませぬ、私わたしは我わがまゝ故ゆゑ、申まをすまいと思おもふ時ときは何どうしても嫌いやでござんすとて、ついと立たつて椽ゑんがはへ出いづるに、雲くもなき空そらの月つきかげ凉すゞしく、見みおろす町まちにからころと駒下駄こまげたの音おとさして行ゆきかふ人ひとのかげ分明あきらかなり、結城ゆふきさんと呼よぶに、何なんだとて傍そばへゆけば、まあ此處こゝへお座すはりなさいと手てを取とりて、あの水菓子屋みづぐわしやで桃もゝを買かふ子こがござんしよ、可愛かわいらしき四つ計ばかりの、彼子あれが先刻さつきの人ひとのでござんす、あの小ちいさな子心こゞゝろにもよく〳〵憎にくいと思おもふと見みえて私わたしの事ことをば鬼々おに〳〵といひまする、まあ其樣そんな惡者わるものに見みえまするかとて、空そらを見みあげてホツと息いきをつくさま、堪こらへかねたる樣子やうすは五音いんの調子てうしにあらはれぬ。


⦅四⦆


同おなじ新開しんかいの町まちはづれに八百屋やと髮結床かみゆひどこが庇合ひあはひのやうな細露路ほそろぢ、雨あめが降ふる日ひは傘かさもさゝれぬ窮屈きうくつさに、足あしもととては處々ところ〴〵に溝板どぶいたの落おとし穴あなあやふげなるを中なかにして、兩側りようがはに立たてたる棟割長屋むねわりながや、突當つきあたりの芥溜ごみためわきに九尺しやく二間けんの上あがり框がまち朽くちて、雨戸あまどはいつも不用心ぶようじんのたてつけ、流石さすがに一方ぱう口ぐちにはあらで山やまの手ての仕合しやわせは三尺じやく斗ばかりの椽ゑんの先さきに草くさぼう〳〵の空地面あきぢめん、それが端はじを少すこし圍かこつて青紫蘇あをぢそ、ゑぞ菊ぎく、隱元豆いんげんまめの蔓つるなどを竹たけのあら垣がきに搦からませたるがお力りきが所縁しよゑんの源げん七が家いへなり、女房にようぼうはお初はつといひて二十八か九にもなるべし、貧ひんにやつれたれば七つも年としの多おほく見みえて、お齒黒はぐろはまだらに生はへ次第しだいの眉毛まゆげみるかげもなく、洗あらひざらしの鳴海なるみの裕衣ゆかたを前まへと後うしろを切きりかへて膝ひざのあたりは目立めたゝぬやうに小針こはりのつぎ當あて、狹帶せまおびきりゝと締しめて蝉表せみおもての内職ないしよく、盆前ぼんまへよりかけて暑あつさの時分じぶんをこれが時ときよと大汗おほあせになりての勉強べんきやうせはしなく、揃そろへたる籘とうを天井てんぜうから釣下つりさげて、しばしの手數てすうも省はぶかんとて數かずのあがるを樂たのしみに脇目わきめもふらぬ樣さまあはれなり。もう日ひが暮くれたに太吉たきちは何故なぜかへつて來こぬ、源げんさんも又また何處どこを歩あるいて居ゐるかしらんとて仕事しごとを片かたづけて一服ぷく吸すいつけ、苦勞くらうらしく目めをぱちつかせて、更さらに土瓶どびんの下したを穿ほぢくり、蚊かいぶし火鉢ひばちに火ひを取分とりわけて三尺じやくの椽ゑんに持出もちいだし、拾ひろひ集あつめの杉すぎの葉はを冠かぶせてふう〳〵と吹立ふきたつれば、ふす〳〵と烟けふりたちのぼりて軒塲のきばにのがれる蚊かの聲こゑ凄すさまじゝ、太吉たきちはがた〳〵と溝板どぶいたの音おとをさせて母かゝさん今いま戻もどつた、お父とつさんも連つれて來きたよと門口かどぐちから呼立よびたつるに、大層たいそうおそいではないかお寺てらの山やまへでも行ゆきはしないかと何どの位くらい案あんじたらう、早はやくお這入はいりといふに太吉たきちを先さきに立たてゝ源七げんしちは元氣げんきなくぬつと上あがる、おやお前まへさんお歸かへりか、今日けふは何どんなに暑あつかつたでせう、定さだめて歸かへりが早はやからうと思おもうて行水ぎやうずゐを沸わかして置おきました、ざつと汗あせを流ながしたら何どうでござんす、太吉たきちもお湯ぶうに這入はいりなといへば、あいと言いつて帶おびを解とく、お待まちお待まち、今いま加減かげんを見みてやるとて流ながしもとに盥たらいを据すへて釜かまの湯ゆを汲出くみいだし、かき廻まわして手拭てぬぐひを入いれて、さあお前まへさん此子このこをもいれて遣やつて下くだされ、何なにをぐたりと爲してお出いでなさる、暑あつさにでも障さわりはしませぬか、さうでなければ一杯ぱいあびて、さつぱりに成なつて御膳ごぜんあがれ、太吉たきちが待まつて居ゐますからといふに、おゝ左樣さうだと思おもひ出だしたやうに帶おびを解といて流ながしへ下おりれば、そゞろに昔むかしの我身わがみが思おもはれて九尺しやく二間けんの臺處だいどころで行水ぎようずゐつかふとは夢ゆめにも思おもはぬもの、ましてや土方どかたの手傳てづたひして車くるまの跡押あとおしにと親おやは生うみつけても下くださるまじ、あゝ詰つまらぬ夢ゆめを見みたばかりにと、ぢつと身みにしみて湯ゆもつかはねば、父とつちやん脊中せなか洗あらつてお呉くれと太吉たきちは無心むしんに催促さいそくする、お前まへさん蚊かが喰くひますから早々さつ〳〵とお上あがりなされと妻つまも氣きをつくるに、おいおいと返事へんじしながら太吉たきちにも遣つかはせ我われも浴あびて、上うへにあがれば洗あらひ晒ざらせしさば〳〵の裕衣ゆかたを出だして、お着きかへなさいましと言いふ、帶おびまきつけて風かぜの透すく處ところへゆけば、妻つまは野代のしろの膳ぜんのはげかゝりて足あしはよろめく古物ふるものに、お前まへの好すきな冷奴ひやゝつこにしましたとて小丼こどんぶりに豆腐とうふを浮うかせて青紫蘇あをぢその香かたかく持出もちだせば、太吉たきちは何時いつしか臺だいより飯櫃めしびつ取とりおろして、よつちよいよつちよいと擔かつぎ出だす、坊主ぼうずは我おれが傍そばに來こいとて頭つむりを撫なでつゝ箸はしを取とるに、心こゝろは何なにを思おもふとなけれど舌したに覺おぼえの無なくて咽のどの穴あなはれたる如ごとく、もう止やめにするとて茶椀ちやわんを置おけば、其樣そんな事ことがあります物ものか、力業ちからわざをする人ひとが三膳ぜんの御飯ごはんのたべられぬと言いふ事ことはなし、氣合きあひでも惡わるうござんすか、夫それとも酷ひどく疲つかれてかと問とふ、いや何處どこも何なんとも無ないやうなれど唯たゞたべる氣きにならぬといふに、妻つまは悲かなしさうな目めをしてお前まへさん又また例れいのが起おこりましたらう、夫それは菊きくの井ゐの鉢肴はちざかなは甘うまくもありましたらうけれど、今いまの身分みぶんで思おもひ出だした處ところが何なんとなりまする、先さきは賣物買物うりものかひものお金かねさへ出來できたら昔むかしのやうに可愛かわひがつても呉くれませう、表おもてを通とほつて見みても知しれる、白粉おしろいつけて美いい衣類きものきて迷まよふて來くる人ひとを誰たれかれなしに丸まるめるが彼あの人達ひとたちが商買しやうばい、あゝ我おれが貧乏びんぼうに成なつたから搆かまいつけて呉くれぬなと思おもへば何なんの事ことなく濟すみましよう、恨うらみにでも思おもふだけがお前まへさんが未練みれんでござんす、裏町うらまちの酒屋さかやの若わかい者もの知しつてお出いでなさらう、二葉ばやのお角かくに心しんから落込おちこんで、かけ先さきを殘のこらず使つかひ込こみ、夫それを埋うめやうとて雷神虎らいじんとらが盆筵ぼんござの端はしについたが身みの詰つまり、次第しだいに惡わるいが事ことが染しみて終しまひには土藏どぞうやぶりまでしたさうな、當時いま男をとこは監獄入かんごくいりしてもつそう飯めしたべて居いやうけれど、相手あいてのお角かくは平氣へいきなもの、おもしろ可笑をかしく世よを渡わたるに咎とがめる人ひとなく美事みごと繁昌はんじやうして居ゐまする、あれを思おもふに商買人しやうばいにんの一徳とく、だまされたは此方こちらの罪つみ、考かんがへたとて始はじまる事ことではござんせぬ、夫それよりは氣きを取直とりなほして稼業かげふに精せいを出だして少すこしの元手もとでも拵こしらへるやうに心こゝろがけて下くだされ、お前まへに弱よはられては私わたしも此子このこも何どうする事こともならで、夫それこそ路頭ろたうに迷まよはねば成なりませぬ、男をとこらしく思おもひ切きる時ときあきらめてお金かねさへ出來できようならお力りきはおろか小紫こむらさきでも揚卷あげまきでも別莊べつさうこしらへて圍かこうたら宜ようござりましよう、最もうそんな考かんがへ事ごとは止やめにして機嫌きげんよく御膳ごぜんあがつて下くだされ、坊主ぼうずまでが陰氣いんきらしう沈しづんで仕舞しまいましたといふに、みれば茶椀ちやわんと箸はしを其處そこに置おいて父ちゝと母はゝとの顏かほをば見みくらべて何なにとは知しらず氣きになる樣子やうす、こんな可愛かわひい者ものさへあるに、あのやうな狸たぬきの忘わすれられぬは何なんの因果ゐんぐわかと胸むねの中なかかき廻まわされるやうなるに、我われながら未練みれんものめと叱しかりつけて、いや我おれだとて其樣そのやうに何時いつまでも馬鹿ばかでは居いぬ、お力りきなどゝ名計なばかりもいつて呉くれるな、いはれると以前もとの不出來ふでかしを考かんがへ出だしていよ〳〵顏かほがあげられぬ、何なんの此身このみになつて今更いまさら何なにをおもふ物ものか、食めしがくへぬとても夫それは身體からだの加減かげんであらう、何なにも格別かくべつ案あんじてくれるには及およばぬ故ゆゑ小僧こぞうも十分ぶんにやつて呉くれとて、ころりと横よこになつて胸むねのあたりをはた〳〵と打うちあふぐ、蚊遣かやりの烟けむりにむせばぬまでも思おもひにもえて身みの暑あつげなり。


⦅五⦆


誰たれ白鬼しろおにとは名なをつけし、無間地獄むげんぢごくのそこはかとなく景色けしきづくり、何處どこにからくりのあるとも見みえねど、逆さかさ落おとしの血ちの池いけ、借金しやくきんの針はりの山やまに追おひのぼすも手ての物ものときくに、寄よつてお出いでよと甘あまへる聲こゑも蛇へびくふ雉子きゞすと恐おそろしくなりぬ、さりとも胎内たいない十月つきの同おなじ事ことして、母はゝの乳房ちぶさにすがりし頃ころは手打てうち〳〵あわゝの可愛かわいげに、紙幣さつと菓子くわしとの二つ取どりにはおこしをお呉くれと手てを出だしたる物ものなれば、今いまの稼業かげうに誠まことはなくとも百人にんの中なかの一人ひとりに眞しんからの涙なみだをこぼして、聞きいておくれ染物そめものやの辰たつさんが事ことを、昨日きのふも川田かはだやが店みせでおちやつぴいのお六めと惡戲ふざけまわして、見みたくもない往來わうらいへまで擔かつぎ出だして打うちつ打うたれつ、あんな浮ういた了簡りようけんで末すゑが遂とげられやうか、まあ幾歳いくつだとおもふ三十は一昨年おとゝし、宜いい加減かげんに家うちでも拵こしらへる仕覺しがくをしてお呉くれと逢あふ度たびに異見ゐけんをするが、其時そのとき限かぎりおい〳〵と空返事そらへんじして根ねつから氣きにも止とめては呉くれぬ、父とつさんは年としをとつて、母はゝさんと言いふは目めの惡わるい人ひとだから心配しんぱいをさせないやうに早はやく締しまつてくれゝば宜いいが、私わたしはこれでも彼あの人ひとの半纒はんてんをば洗濯せんたくして、股引もゝひきのほころびでも縫ぬつて見みたいと思おもつて居ゐるに、彼あんな浮ういた心こゝろでは何時いつ引取ひきとつて呉くれるだらう、考かんがへるとつく〴〵奉公ほうこうが嫌いやになつてお客きやくを呼よぶに張合はりあいもない、あゝくさ〳〵するとて常つねは人ひとをも欺だます口くちで人ひとの愁つらきを恨うらみの言葉ことば、頭痛づゝうを押をさへて思案しあんに暮くれるもあり、あゝ今日けふは盆ぼんの十六日だ、お焔魔樣ゑんまさまへのお祭まいりに連つれ立だつて通とほる子供達こどもたちの奇麗きれいな着物きものきて小遣こづかひもらつて嬉うれしさうな顏かほしてゆくは、定さだめて定さだめて二人ふたり揃そろつて甲斐性かひせうのある親おやをば持もつて居ゐるのであろ、私わたしが息子むすこの與太郎よたらうは今日けふの休やすみに御主人ごしゆじんから暇ひまが出でて何處どこへ行ゆつて何どんな事ことして遊あそばうとも定さだめし人ひとが羨うらやましかろ、父とゝさんは呑のみぬけ、いまだに宿やどとても定さだまるまじく、母はゝは此樣こんな身みになつて恥はづかしい紅白粉べにおしろい、よし居處ゐどころが分わかつたとて彼あの子こは逢あひに來きても呉くれまじ、去年きよねん向島むかふじまの花見はなみの時とき女房にようぼうづくりして丸髷まるまげに結ゆつて朋輩ほうばいと共ともに遊あそびあるきしに土手どての茶屋ちやゝであの子こに逢あつて、これ〳〵と聲こゑをかけしにさへ私わたしの若わかく成なりしに呆あきれて、お母つかさんでござりますかと驚おどろきし樣子やうす、ましてや此この大島田おほしまだに折をりふしは時好じこうの花簪はなかんざしさしひらめかしてお客きやくを捉とらへて串談じようだんいふ處ところを聞きかば子心こゞころには悲かなしくも思おもふべし、去年きよねんあひたる時とき今いまは駒形こまかたの蝋蠋ろうそくやに奉公ほうこうして居ゐまする、私わたしは何どんな愁つらき事ことありとも必かならず辛抱しんぼうしとげて一人前にんまへの男をとこになり、父とゝさんをもお前まへをも今いまに樂らくをばお爲させ申まをします、何どうぞ夫それまで何なんなりと堅氣かたぎの事ことをして一人ひとりで世渡よわたりをして居ゐて下くだされ、人ひとの女房にようぼうにだけはならずに居ゐて下くだされと異見ゐけんを言いはれしが、悲かなしきは女子をなごの身みの寸燐まつちの箱はこはりして一人口ひとりぐち過すぐしがたく、さりとて人ひとの臺處だいどころを這はふも柔弱にうじやくの身體からだなれば勤つとめがたくて、同おなじ憂うき中なかにも身みの樂らくなれば、此樣こんな事ことして日ひを送おくる、夢ゆめさら浮ういた心こゝろでは無なけれど言甲斐いひがひのないお袋ふくろと彼あの子こは定さだめし爪つまはじきするであらう、常つねは何なんとも思おもはぬ島田しまだがめ今日けふ斗ばかりは恥はづかしいと夕ゆふぐれの鏡かゞみの前まへに涕なみだくむもあるべし、菊きくの井ゐのお力りきとても惡魔あくまの生うまれ替がはりにはあるまじ、さる子細しさいあればこそ此處こゝの流ながれに落おちこんで嘘うそのありたけ串談じようだんに其日そのひを送おくつて情なさけは吉野紙よしのがみの薄物うすものに、螢ほたるの光ひかりぴつかりとする斗ばかり、人ひとの涕なみだは百年ねんも我がまんして、我われゆゑ死しぬる人ひとのありとも御愁傷ごしうしようさまと脇わきを向むくつらさ他處目よそめも養やしなひつらめ、さりとも折おりふしは悲かなしき事こと恐おそろしき事こと胸むねにたゝまつて、泣なくにも人目ひとめを恥はぢれば二階かい座敷ざしきの床とこの間まに身みを投なげふして忍しのび音ねの憂うき涕なみだ、これをば友とも朋輩ほうばいにも洩もらさじと包つゝむに根生こんぜうのしつかりした、氣きのつよい子こといふ者ものはあれど、障さわれば絶たゆる蛛くもの糸いとのはかない處ところを知しる人ひとはなかりき、七月十六日の夜よは何處どこの店みせにも客人きやくじん入込いりこみて都々どゝ一端歌はうたの景氣けいきよく、菊きくの井ゐの下座敷したざしきにはお店者たなもの五六人寄集よりあつまりて調子てうしの外はづれし紀伊きいの國くに、自じまんも恐おそろしき胴間聲どうまごゑに霞かすみの衣ころも衣紋坂ゑもんざかと氣取きどるもあり、力りきちやんは何どうした心意氣こゝろいきを聞きかせないか、やつた〳〵と責せめられるに、お名なはさゝねど此坐このざの中なかにと普通ついツとほりの嬉うれしがらせを言いつて、やんや〳〵と喜よろこばれる中なかから、我戀わがこひは細谷川ほそだにがはの丸木橋まるきばしわたるにや怕こわし渡わたらねばと謳うたひかけしが、何なにをか思おもひ出だしたやうにあゝ私わたしは一寸ちよツと無禮しつれいをします、御免ごめんなさいよとて三味線さみせんを置おいて立たつに、何處どこへゆく何處どこへゆく、逃にげてはならないと坐中ざちうの騷さわぐに照てーちやん高たかさん少すこし頼たのむよ、直じき歸かへるからとてずつと廊下らうかへ急いそぎ足あしに出いでしが、何なにをも見みかへらず店口みせぐちから下駄げたを履はいて筋向すぢむかふの横町よこちようの闇やみへ姿すがたをかくしぬ。

お力りきは一散さんに家いゑを出でて、行ゆかれる物ものなら此このまゝに唐天竺からてんぢくの果はてまでも行いつて仕舞しまいたい、あゝ嫌いやだ嫌いやだ嫌いやだ、何どうしたなら人ひとの聲こゑも聞きこえない物ものの音おともしない、靜しづかな、靜しづかな、自分じぶんの心こゝろも何なにもぼうつとして物思ものおもひのない處ところへ行ゆかれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白おもしろくない、情なさけない悲かなしい心細こゝろぼそい中なかに、何時いつまで私わたしは止とめられて居ゐるのかしら、これが一生せうか、一生せうがこれか、あゝ嫌いやだ〳〵と道端みちばたの立木たちきへ夢中むちうに寄よりかゝつて暫時しばらくそこに立たちどまれば、渡わたるにや怕こわし渡わたらねばと自分じぶんの謳うたひし聲こゑを其そのまゝ何處どこともなく響ひゞいて來くるに、仕方しかたがない矢張やつぱり私わたしも丸木橋まるきばしをば渡わたらずはなるまい、父とゝさんも踏ふみかへして落おちてお仕舞しまいなされ、祖父おぢいさんも同おなじ事ことであつたといふ、何どうで幾代いくだいもの恨うらみを背負せおうて出でた私わたしなれば爲する丈だけの事ことはしなければ死しんでも死しなれぬのであらう、情なさけないとても誰たれも哀あはれと思おもふてくれる人ひとはあるまじく、悲かなしいと言いへば商買しようばいがらを嫌きらふかと一ト口くちに言いはれて仕舞しまう、ゑゝ何どうなりとも勝手かつてになれ、勝手かつてになれ、私わたしには以上いじよう考かんがへたとて私わたしの身みの行ゆき方かたは分わからぬなれば、分わからぬなりに菊きくの井ゐのお力りきを通とほしてゆかう、人情にんじようしらず義理ぎりしらずか其樣そんな事ことも思おもふまい、思おもふたとて何どうなる物ものぞ、此樣こんな身みで此樣こんな業體げうていで、此樣こんな宿世すくせで、何どうしたからとて人並ひとなみでは無ないに相違さういなければ、人並ひとなみの事ことを考かんがへて苦勞くろうする丈だけ間違まちがひであろ、あゝ陰氣いんきらしい何なんだとて此樣こんな處ところに立たつて居ゐるのか、何なにしに此樣こんな處ところへ出でて來きたのか、馬鹿ばからしい氣違きちがひじみた、我身わがみながら分わからぬ、もう〳〵皈かへりませうとて横町よこちようの闇やみをば出ではなれて夜店よみせの並ならぶにぎやかなる小路こうぢを氣きまぎらしにとぶら〳〵歩あるけば、行ゆきかよふ人ひとの顏かほ少ちいさく〳〵擦すれ違ちがふ人ひとの顏かほさへも遙はるかとほくに見みるやう思おもはれて、我わが踏ふむ土つちのみ一丈も上うへにあがり居ゐる如ごとく、がや〳〵といふ聲こゑは聞きこゆれど井ゐの底そこに物ものを落おとしたる如ごとき響ひゞきに聞きゝなされて、人ひとの聲こゑは、人ひとの聲こゑ、我わが考かんがへは考かんがへと別々べつ〳〵に成なりて、更さらに何事なにごとにも氣きのまぎれる物ものなく、人立ひとだちおびたゞしき夫婦めをとあらそひの軒先のきさきなどを過すぐるとも、唯たゞ我われのみは廣野ひろのの原はらの冬枯ふゆがれを行ゆくやうに、心こゝろに止とまる物ものもなく、氣きにかゝる景色けしきにも覺おぼえぬは、我われながら酷ひどく逆上のぼせて人心ひとごゝろのないのにと覺束おぼつかなく、氣きが狂くるひはせぬかと立たちどまる途端とたん、お力りき何處どこへ行ゆくとて肩かたを打うつ人ひとあり。


⦅六⦆


十六日は必かならず待まちまする來きて下くだされと言いひしをも何なにも忘わすれて、今いままで思おもひ出だしもせざりし結城ゆふきの朝とも之助すけに不圖ふと出合であひて、あれと驚おどろきし顏かほつきの例れいに似合にあはぬ狼狽あわてかたがをかしきとて、から〳〵と男をとこの笑わらふに少すこし恥はづかしく、考かんがへ事ごとをして歩あるいて居ゐたれば不意ふゐのやうに惶あはてゝ仕舞しまいました、よく今夜こんやは來きて下くださりましたと言いへば、あれほど約束やくそくをして待まつてくれぬは不心中ふしんぢうとせめられるに、何なんなりと仰おつしやれ、言譯いひわけは後のちにしまするとて手てを取とりて引ひけば彌次馬やぢうまがうるさいと氣きをつける、何どうなり勝手かつてに言いはせませう、此方こちらは此方こちらと人中ひとなかを分わけて伴ともなひぬ。

下座敷したざしきはいまだに客きやくの騷さわぎはげしく、お力りきの中座ちうざをしたるに不興ぶきようして喧やかましかりし折おりから、店口みせぐちにておやお皈かへりかの聲こゑを聞きくより、客きやくを置おきざりに中坐ちうざするといふ法はうがあるか、皈かへつたらば此處こゝへ來こい、顏かほを見みねば承知しようちせぬぞと威張いばりたてるを聞流きゝながしに二階かいの座敷ざしきへ結城ゆふきを連つれあげて、今夜こんやも頭痛づゝうがするので御酒ごしゆの相手あいては出來できませぬ、大勢おほぜいの中なかに居ゐれば御酒ごしゆの香かに醉ゑふて夢中むちうになるも知しれませぬから、少すこし休やすんで其後そののちは知しらず、今いまは御免ごめんなさりませと斷ことはりを言いふてやるに、夫それで宜いいのか、怒おこりはしないか、やかましくなれば面倒めんだうであらうと結城ゆふきが心こゝろづけるを、何なんのお店たなものゝ白瓜しろうりが何どんな事ことを仕出しいだしませう、怒をこるなら怒をこれでござんすとて小女こをんなに言いひつけてお銚子ちようしの支度したく、來くるをば待まちかねて結城ゆふきさん今夜こんやは私わたしに少すこし面白おもしろくない事ことがあつて氣きが變かはつて居ゐまするほどに其氣そのきで附合つきあつて居ゐて下くだされ、御酒ごしゆを思おもひ切きつて呑のみまするから止とめて下くださるな、醉ゑふたらば介抱かいはうして下くだされといふに、君きみが醉ゑつたを未いまだに見みた事ことがない、氣きが晴はれるほど呑のむは宜いいが、又また頭痛づゝうがはじまりはせぬか、何なにが其樣そんなに逆鱗げきりんにふれた事ことがある、僕ぼくらに言いつては惡わるい事ことかと問とはれるに、いゑ貴君あなたには聞きいて頂いたゞきたいのでござんす、醉ゑふと申まをしますから驚おどろいてはいけませぬと嫣然につこりとして、大湯呑おほゆのみを取とりよせて二三杯ばいは息いきをもつかざりき。

常つねには左さのみに心こゝろも留とまらざりし結城ゆうきの風采やうすの今宵こよひは何なんとなく尋常なみならず思おもはれて、肩巾かたはゞのありて背せのいかにも高たかき處ところより、落おちついて物ものをいふ重おもやかなる口振くちぶり、目めつきの凄すごくて人ひとを射いるやうなるも威嚴いげんの備そなはれるかと嬉うれしく、濃こき髮かみの毛けを短みちかく刈かりあげて頬足ゑりあしのくつきりとせしなど今更いまさらのやうに眺ながめられ、何なにをうつとりして居ゐると問とはれて、貴君あなたのお顏かほを見みて居ゐますのさと言いへば、此奴こやつめがと睨にらみつけられて、おゝ怕こわいお方かたと笑わらつて居ゐるに、串談じやうだんはのけ、今夜こんやは樣子やうすが唯たゞでない聞きいたら怒おこるか知しらぬが何なにか事件じけんがあつたかととふ、何なにしに降ふつて沸わいた事こともなければ、人ひととの紛雜いざなどはよし有あつたにしろ夫それは常つねの事こと、氣きにもかゝらねば何なにしに物ものを思おもひませう、私わたしの時ときより氣きまぐれを起おこすは人ひとのするのでは無なくて皆みな心こゝろがらの淺あさましい譯わけがござんす、私わたしは此樣こんな賤いやしい身みの上うへ、貴君あなたは立派りつぱなお方樣かたさま、思おもふ事ことは反對うらはらにお聞ききになつても汲くんで下くださるか下くださらぬか其處そこほどは知しらねど、よし笑わらひ物ものになつても私わたしは貴君あなたに笑わらふて頂いたゞき度たく、今夜こんやは殘のこらず言いひまする、まあ何なにから申さう胸むねがもめて口くちが利きかれぬとて又またもや大湯呑おほゆのみに呑のむ事ことさかんなり。

何なにより先さきに私わたしが身みの自墮落じだらくを承知しやうちして居ゐて下くだされ、もとより箱入はこいりの生娘きむすめならねば少すこしは察さつしても居ゐて下くださろうが、口奇麗くちぎれいな事ことはいひますとも此このあたりの人ひとに泥どろの中なかの蓮はすとやら、惡業わるさに染そまらぬ女子おなごがあらば、繁昌はんじようどころか見みに來くる人ひともあるまじ、貴君あなたは別物べつもの、私わたしが處ところへ來くる人ひととても大底たいていはそれと思おぼしめせ、これでも折おりふしは世間せけんさま並なみの事ことを思おもふて恥はづかしい事ことつらい事こと情なさけない事こととも思おもはれるも寧いつそ九尺しやく二間けんでも極きまつた良人おつとといふに添そうて身みを固かためようと考かんがへる事こともござんすけれど、夫それが私わたしは出來できませぬ、夫それかと言いつて來くるほどのお人ひとに無愛想ぶあいさうもなりがたく、可愛かわいいの、いとしいの、見初みそめましたのと出鱈目でたらめのお世辭せぢをも言いはねばならず、數かずの中なかには眞まにうけて此樣こんな厄種やくざを女房にようぼにと言いふて下くださる方かたもある、持もたれたら嬉うれしいか、添そうたら本望ほんもうか、夫それが私わたしは分わかりませぬ、そも〳〵の最初はじめから私わたしは貴君あなたが好すきで好すきで、一日お目おめにかゝらねば戀こひしいほどなれど、奧樣おくさまにと言いふて下くだされたら何どうでござんしよか、持もたれるは嫌いやなり他處よそながらは慕したはしゝ、一ト口くちに言いはれたら浮氣者うわきものでござんせう、あゝ此樣こんな浮氣者うわきものには誰たれがしたと思召おぼしめす、三代だい傳つたはつての出來できそこね、親父おやぢが一生せうもかなしい事ことでござんしたとてほろりとするに、其その親父おやぢさむはと問とひかけられて、親父おやぢは職人しよくにん、祖父ぢゞいは四角かくな字じをば讀よんだ人ひとでござんす、つまりは私わたしのやうな氣違きちがひで、世よに益ゑきのない反古紙ほごがみをこしらへしに、版はんをばお上かみから止とめられたとやら、ゆるされぬとかに斷食だんじきして死しんださうに御座ござんす、十六の年としから思おもふ事ことがあつて、生うまれも賤いやしい身みであつたれど一念ねんに修業しゆげふして六十にあまるまで仕出來しでかしたる事ことなく、終おはりは人ひとの物笑ものわらひに今いまでは名なを知しる人ひともなしとて父ちゝが常住ぢやうぢう歎なげいたを子供こどもの頃ころより聞知きゝしつて居おりました、私わたしの父ちゝといふは三つの歳としに椽ゑんから落おちて片足かたあしあやしき風ふうになりたれば人中ひとなかに立たちまじるも嫌いやとて居職いしよくに飾かざりの金物かなものをこしらへましたれど、氣位きぐらいたかくて人愛じんあいのなければ贔負ひいきにしてくれる人ひともなく、あゝ私わたしが覺おぼえて七つの年としの冬ふゆでござんした、寒中かんちう親子おやこ三人にんながら古裕衣ふるゆかたで、父ちゝは寒さむいも知しらぬか柱はしらに寄よつて細工物さいくものの工夫くふうをこらすに、母はゝは欠かけた一つ竃べツついに破われ鍋なべかけて私わたしに去さる物ものを買かひに行ゆけといふ、味噌みそこし下さげて端はしたのお錢あしを手てに握にぎつて米屋こめやの門かどまでは嬉うれしく驅かけつけたれど、歸かへりには寒さむさの身みにしみて手ても足あしも龜かじかみたれば五六軒ごろくけん隔へだてし溝板どぶいたの上うへの氷こほりにすべり、足溜あしだまりなく轉こける機會はづみに手ての物ものを取落とりおとして、一枚まいはづれし溝板どぶいたのひまよりざら〳〵と翻こぼれ入いれば、下したは行水ゆくみづきたなき溝泥どぶどろなり、幾度いくたびも覗のぞいては見みたれど是これをば何なんとして拾ひろはれませう、其時そのとき私わたしは七つであつたれど家うちの内うちの樣子やうす、父母ちゝはゝの心こゝろをも知しれてあるにお米こめは途中とちうで落おとしましたと空からの味噌みそこしさげて家うちには歸かへられず、立たつてしばらく泣ないて居いたれど何どうしたと問とふて呉くれる人ひともなく、聞きいたからとて買かつてやらうと言いふ人ひとは猶更なほさらなし、あの時近處ときゝんじよに川かはなり池いけなりあらうなら私わたしは定さだめし身みを投なげて仕舞しまひましたろ、話はなしは誠まことの百分一、私わたしは其頃そのころから氣きが狂くるつたのでござんす、皈かへりの遲おそきを母はゝの親おや案あんして尋たづねに來きてくれたをば時機しほに家うちへは戻もどつたれど、母はゝも物ものいはず父親てゝおやも無言むごんに、誰たれ一人ひとり私わたしをば叱しかる物ものもなく、家うちの内うち森しんとして折々おり〳〵溜息ためいきの聲こゑのもれるに私わたしは身みを切きられるより情なさけなく、今日けふは一日斷食だんじきにせうと父ちゝの一言こといひ出だすまでは忍しのんで息いきをつくやうで御座ござんした。

いひさしてお力りきは溢あふれ出いづる涙なみだの止とめ難がたければ紅くれなひの手巾はんけちかほに押當おしあてて其端そのはしを喰くひしめつゝ物ものいはぬ事こと小半時こはんとき、坐ざには物ものの音おともなく酒さけの香かしたひて寄よりくる蚊かのうなり聲ごゑのみ高たかく聞きこえぬ。

顏かほをあげし時ときは頬ほうに涙なみだの痕あとはみゆれども淋さびしげの笑ゑみをさへ寄よせて、私わたしは其樣そのやうな貧乏人びんぼうにんの娘むすめ、氣違きちがひは親おやゆづりで折おりふし起おこるのでござります、今夜こんやも此樣こんな分わからぬ事こといひ出だして嘸さぞ貴君あなた御迷惑ごめいわくで御座ござんしてしよ、もう話はなしはやめまする、御機嫌ごきげんに障さわつたらばゆるして下くだされ、誰たれか呼よんで陽氣ようきにしませうかと問とへば、いや遠慮ゑんりよは無沙汰ぶさた、その父親てゝおやは早はやくに死なくなつてか、はあ母かゝさんが肺結核はいけつかくといふを煩わづらつて死なくなりましてから一週忌しうきの來こぬほどに跡あとを追おひました、今いま居をりましても未まだ五十、親おやなれば褒ほめるでは無なけれど細工さいくは誠まことに名人めいじんと言いふても宜よい人ひとで御座ござんした、なれども名人めいじんだとて上手じやうづだとて私等わたしらが家うちのやうに生うまれついたは何なにもなる事ことは出來できないので御座ござんせう、我身わがみの上うへにも知しられまするとて物もの思おもはしき風情ふぜい、お前まへは出世しゆつせを望のぞむなと突然だしぬけに朝之助とものすけに言いはれて、ゑツと驚おどろきし樣子やうすに見みえしが、私等わたしらが身みにて望のぞんだ處ところが味噌みそこしが落おち、何なんの玉たまの輿こしまでは思おもひがけませぬといふ、嘘うそをいふは人ひとに依よる始はじめから何なにも見知みしつて居ゐるに隱かくすは野暮やぼの沙汰さたではないか、思おもひ切きつてやれ〳〵とあるに、あれ其そのやうなけしかけ詞ことばはよして下くだされ、何どうで此樣こんな身みでござんするにと打うちしほれて又またもの言いはず。

今宵こよひもいたく更ふけぬ、下坐敷したざしきの人ひとはいつか歸かへりて表おもての雨戸あまどをたてると言いふに、朝とも之助すけおどろきて歸かへり支度したくするを、お力りきは何どうでも泊とまらするといふ、いつしか下駄げたをも藏かくさせたれば、足あしを取とられて幽靈ゆうれいならぬ身みの戸とのすき間まより出いづる事こともなるまじとて今宵こよひは此處こゝに泊とまる事こととなりぬ、雨戸あまどを鎖とざす音おと一しきり賑にぎはしく、後のちには透すきもる燈火ともしびのかげも消きえて、唯たゞ軒下のきしたを行ゆきかよふ夜行やこうの巡査じゆんさの靴音くつおとのみ高たかかりき。


⦅七⦆


思おもひ出だしたとて今更いまさらに何どうなる物ものぞ、忘わすれて仕舞しまへ諦あきらめて仕舞しまへと思案しあんは極きめながら、去年きよねんの盆ぼんには揃そろひの浴衣ゆかたをこしらへて二人ふたり一處しよに藏前くらまへへ參詣さんけいしたる事ことなんど思おもふともなく胸むねへうかびて、盆ぼんに入いりては仕事しごとに出いづる張はりもなく、お前まへさん夫それではならぬぞへと諫いさめ立たてる女房にようぼうの詞ことばも耳みゝうるさく、エヽ何なにも言いふな默だまつて居ゐろとて横よこになるを、默だまつて居ゐては此日このひが過すぐされませぬ、身體からだが惡わるくば藥くすりも呑のむがよし、御醫者おゐしやにかゝるも仕方しかたがなけれど、お前まへの病やまひは夫それではなしに氣きさへ持直もちなほせば何處どこに惡わるい處ところがあろう、少すこしは正氣しようきに成なつて勉強べんきようをして下くだされといふ、いつでも同おなじ事ことは耳みゝにたこが出來できて氣きの藥くすりにはならぬ、酒さけでも買かつて來きてくれ氣きまぎれに呑のんで見みやうと言いふ、お前まへさん其そのお酒さけが買かへるほどなら嫌いやとお言いひなさるを無理むりに仕事しごとに出でて下くだされとは頼たのみませぬ、私わたしが内職ないしよくとて朝あさから夜よにかけて十五錢せんが關せきの山やま、親子おやこ三人口くちおも湯ゆも滿足まんぞくには呑のまれぬ中なかで酒さけを買かへとは能よく能よくお前まへ無茶助むちやすけになりなさんした、お盆ぼんだといふに昨日きのふらも小僧こぞうには白玉しらたま一つこしらへても喰たべさせず、お精靈しようれうさまのお店たなかざりも拵こしらへくれねば御燈明おとうめう一つで御先祖樣ごせんぞさまへお詫わびを申まをして居ゐるも誰たが仕業しわざだとお思おもひなさる、お前まへが阿房あほうを盡つくしてお力りきづらめに釣つられたから起おこつた事こと、いふては惡わるけれどお前まへは親不孝おやふかう子不孝こふかう、少すこしは彼あの子この行末ゆくすゑをも思おもふて眞人間まにんげんになつて下くだされ、御酒ごしゆを呑のんで氣きを晴はらすは一時とき、眞しんから改心かいしんして下くださらねば心元こゝろもとなく思おもはれますとて女房にようぼう打うちなげくに、返事へんじはなくて吐息といき折々おり〳〵に太ふとく身動みうごきもせず仰向あほのきふしたる心根こゝろねの愁つらさ、其身そのみになつてもお力りきが事ことの忘わすれられぬが、十年ねんつれそふて子供こどもまで儲もうけし我われに心こゝろかぎりの辛苦くろうをさせて、子こには襤褸ぼろを下さげさせ家いゑとては二疊じよう一間まの此樣こんな犬小屋いぬごや、世間せけん一體たいから馬鹿ばかにされて別物べつものにされて、よしや春秋はるあきの彼岸ひがんが來くればとて、隣近處となりきんじよに牡丹ぼたもち團子だんごと配くばり歩あるく中なかを、源げん七が家いゑへは遣やらぬが能よい、返禮へんれいが氣きの毒どくなとて、心切しんせつかは知しらねど十軒けん長屋ながやの一軒けんは除のけ物もの、男おとこは外出そとでがちなればいさゝか心こゝろに懸かゝるまじけれど女心をんなごゝろには遣やる瀬せのなきほど切せつなく悲かなしく、おのづと肩身かたみせばまりて朝夕てうせきの挨拶あいさつも人ひとの目色めいろを見みるやうなる情なさけなき思おもひもするを、其それをば思おもはで我わが情婦こひの上うへばかりを思おもひつゞけ、無情つれなき人ひとの心こゝろの底そこが夫それほどまでに戀こひしいか、晝ひるも夢ゆめに見みて獨言ひとごとにいふ情なさけなさ、女房にようぼうの事ことも子この事ことも忘わすれはてゝお力りき一人ひとりに命いのちをも遣やる心こゝろか、淺あさましい口惜くちをしい愁つらい人ひとと思おもふに中々なか〳〵言葉ことばは出いでずして恨うらみの露つゆを目めの中うちにふくみぬ。

物ものいはねば狹せまき家いゑの内うちも何なんとなくうら淋さびしく、くれゆく空そらのたど〳〵しきに裏屋うらやはまして薄暗うすくらく、燈火あかりをつけて蚊遣かやりふすべて、お初はつは心細こゝろぼそく戸との外そとをながむれば、いそ〳〵と歸かへり來くる太吉郎たきちらうの姿すがた、何なにやらん大袋おほぶくろを兩手りようてに抱かゝへて母かゝさん母かゝさんこれを貰もらつて來きたと莞爾につことして驅かけ込こむに、見みれば新開しんかいの日ひの出でやがかすていら、おや此樣こんな好いいお菓子くわしを誰だれに貰もらつて來きた、よくお禮れいを言いつたかと問とへば、あゝ能よくお辭義じぎをして貰もらつて來きた、これは菊きくの井ゐの鬼姉おにねへさんが呉くれたのと言いふ、母はゝは顏色かほいろをかへて圖太づぶとい奴やつめが是これほどの淵ふちに投なげ込こんで未まだいぢめ方かたが足たりぬと思おもふか、現在げんざいの子こを使つかひに父とゝさんの心こゝろを動うごかしに遣よこし居おる、何なんといふて遣よこしたと言いへば、表通おもてどほりの賑にぎやかな處ところに遊あそんで居ゐたらば何處どこのか伯父おぢさんと一處しよに來きて、菓子くわしを買かつてやるから一處しよにお出いでといつて、我おいらは入いらぬと言いつたけれど抱だいて行ゆつて買かつて呉くれた、喰たべては惡わるいかへと流石さすがに母はゝの心こゝろを斗はかりかね、顏かほをのぞいて猶豫ゆうよするに、あゝ年としがゆかぬとて何なんたら譯わけの分わからぬ子こぞ、あの姉ねへさんは鬼おにではないか、父とゝさんを怠惰者なまけものにした鬼おにではないか、お前まへの衣類べゞのなくなつたも、お前まへの家うちのなくなつたも皆みなあの鬼おにめがした仕事しごと、喰くらひついても飽あき足たらぬ惡魔あくまにお菓子くわしを貰もらつた喰たべても能いいかと聞きくだけが情なさけない、汚きたない穢むさい此樣こんな菓子くわし、家うちへ置おくのも腹はらがたつ、捨すてて仕舞しまいな、捨すててお仕舞しまい、お前まへは惜をしくて捨すてられないか、馬鹿野郎ばかやらうめと罵のゝしりながら袋ふくろをつかんで裏うらの空地あきちへ投出なげいだせば、紙かみは破やぶれて轉まろび出でる菓子くわしの、竹たけのあら垣がき打うちこえて溝どぶの中なかに落込おちこむめり、源げん七はむくりと起おきてお初はつと一聲こゑ大おほきくいふに何なにか御用ごようかよ、尻目しりめにかけて振ふりむかふともせぬ横顏よこがほを睨にらんで、能いい加減かげんに人ひとを馬鹿ばかにしろ、默だまつて居ゐれば能いい事ことにして惡口雜言あくこうざうごんは何なんの事ことだ、知人しつたひとなら菓子位くわしぐらい子供こどもにくれるに不思議ふしぎもなく、貰もらふたとて何なにが惡わるい、馬鹿野郎ばかやらう呼よばはりは太吉たきちをかこつけに我をれへの當あてこすり、子こに向むかつて父親てゝおやの讒訴ざんそをいふ女房にようぼう氣質かたぎを誰たれが教おしへた、お力りきが鬼をになら手前てまへは魔王まわう、商買人しようばいにんのだましは知しれて居ゐれど、妻つまたる身みの不貞腐ふてくされをいふて濟すむと思おもふか、土方どかたをせうが車くるまを引ひかうが亭主ていしゆは亭主ていしゆの權けんがある、氣きに入いらぬ奴やつを家うちには置おかぬ、何處どこへなりとも出でてゆけ、出でてゆけ、面白おもしろくもない女郎めらうめと叱しかりつけられて、夫それはお前まへ無理むりだ、邪推じやすいが過すぎる、何なにしにお前まへに當あてつけよう、この子こが餘あんまり分わからぬと、お力りきの仕方しかたが憎にくらしさに思おもひあまつて言いつた事ことを、とツこに取とつて出でてゆけとまでは慘むごう御座ござんす、家うちの爲ためをおもへばこそ氣きに入いらぬ事ことを言いひもする、家うちを出でるほどなら此樣こんな貧乏世帶びんぼうしよたいの苦勞くろうをば忍しのんでは居ゐませぬと泣なくに貧乏世帶びんぼうしよたいに飽あきがきたなら勝手かつてに何處どこなり行いつて貰もらはう、手前てまへが居ゐぬからとて乞食こじきにもなるまじく太吉たきちが手足てあしの延のばされぬ事ことはなし、明あけても暮くれても我おれが店たなおろしかお力りきへの妬ねたみ、つくづく聞きき飽あきてもう厭いやに成なつた、貴樣きさまが出でずば何どちら道みち同おなじ事ことをしくもない九尺しやく二間けん、我おれが小僧こぞうを連つれて出でやう、さうならば十分ぶんに我鳴がなり立たてる都合つがうもよからう、さあ貴樣きさまが行ゆくか、我おれが出でようかと烈はげしく言いはれて、お前まへはそんなら眞實ほんとうに私わたしを離縁りゑんする心こゝろかへ、知しれた事ことよと例いつもの源げん七にはあらざりき。

お初はつは口惜くやしく悲かなしく情なさけなく、口くちも利きかれぬほど込上こみあぐる涕なみだを呑込のみこんで、これは私わたしが惡わるう御座ござんした、堪忍かんにんをして下くたされ、お力りきが親切しんせつで志こゝろざして呉くれたものを捨すてて仕舞しまつたは重々ぢう〳〵惡わるう御座ございました、成程なるほどお力りきを鬼おにといふたから私わたしは魔王まわうで御座ござんせう、モウいひませぬ、モウいひませぬ、決けつしてお力りきの事ことにつきて此後このごとやかく言いひませず、蔭かげの噂うはさしますまい故ゆゑ離縁りゑんだけは堪忍かんにんして下くだされ、改あらためて言いふまでは無なけれど私わたしには親おやもなし兄弟きようだいもなし、差配さはいの伯父おぢさんを仲人なかうどなり里さとなりに立たてゝ來きた者ものなれば、離縁りゑんされての行ゆき處どころとてはありませぬ、何どうぞ堪忍かんにんして置おいて下くだされ、私わたしは憎にくかろうと此子このこに免めんじて置おいて下くだされ、謝あやまりますとて手てを突ついて泣なけども、イヤ何どうしても置おかれぬとて其後そのごは物もの言いはず壁かべに向むかひてお初はつが言葉ことばは耳みゝに入いらぬ體てい、これほど邪慳じやけんの人ひとではなかりしをと女房にようぼうあきれて、女をんなに魂たましひを奪うばはるれば是これほどまでも淺あさましくなる物ものか、女房にようぼうが歎なげきは更さらなり、遂つひには可愛かわゆき子こをも餓うへ死じにさせるかも知しれぬ人ひと、今いま詫わびたからとて甲斐かひはなしと覺悟かくごして、太吉たきち、太吉たきちと傍そばへ呼よんで、お前まへは父とゝさんの傍そばと母かゝさんと何處どちらが好いい、言いふて見みろと言いはれて、我おいらはお父とつさんは嫌きらい、何なんにも買かつて呉くれない物ものと眞正直まつしようぢきをいふに、そんなら母かゝさんの行ゆく處ところへ何處どこへも一處しよに行ゆく氣きかへ、あゝ行ゆくともとて何なんとも思おもはぬ樣子やうすに、お前まへさんお聞ききか、太吉たきちは私わたしにつくといひまする、男をとこの子こなればお前まへも欲ほしからうけれど此子このこはお前まへの手てには置おかれぬ、何處どこまでも私わたしが貰もらつて連つれて行ゆきます、よう御座ござんすか貰もらひまするといふに、勝手かつてにしろ、子こも何なにも入いらぬ、連つれて行ゆき度たくば何處どこへでも連つれて行ゆけ、家うちも道具だうぐも何なにも入いらぬ、何どうなりともしろとて寐轉ねころびしまゝ振向ふりむかんともせぬに、何なんの家うちも道具だうぐも無ない癖くせに勝手かつてにしろもないもの、これから身み一つになつて仕したいまゝの道樂だうらくなり何なになりお盡つくしなされ、最もういくら此子このこを欲ほしいと言いつても返かへす事ことでは御座ござんせぬぞ、返かへしはしませぬぞと念ねんを押おして、押入おしいれ探さぐつて何なにやらの小風呂敷こぶろしき取出とりいだし、これは此子このこの寐間着ねまきの袷あはせ、はらがけと三尺じやくだけ貰もらつて行ゆきまする、御酒ごしゆの上うへといふでもなければ、醒さめての思案しあんもありますまいけれど、よく考かんがへて見みて下くだされ、たとへ何どのやうな貧苦ひんくの中なかでも二人ふたり双そろつて育そだてる子こは長者ちやうじやの暮くらしといひまする、別わかれゝば片親かたおや、何なににつけても不憫ふびんなは此子このことお思おもひなさらぬか、あゝ膓はらはたが腐くさつた人ひとは子この可愛かあいさも分わかりはすまい、もうお別わかれ申ますと風呂敷ふろしきさげて表おもてへ出いづれば、早はやくゆけ〳〵とて呼よびかへしては呉くれざりし。


⦅八⦆


魂祭たまゝつり過すぎて幾日いくじつ、まだ盆提燈ぼんぢようちんのかげ薄淋うすさびしき頃ころ、新開しんかいの町まちを出いでし棺くわん二つあり、一つは駕かごにて一つはさし擔かつぎにて、駕かごは菊きくの井ゐの隱居處いんきよじよよりしのびやかに出いでぬ、大路おほぢに見みる人ひとのひそめくを聞きけば、彼あの子こもとんだ運うんのわるい詰つまらぬ奴やつに見込みこまれて可愛かあいさうな事ことをしたといへば、イヤあれは得心とくしんづくだと言いひまする、あの日ひの夕暮ゆふぐれ、お寺てらの山やまで二人ふたり立たちばなしをして居ゐたといふ確たしかな證人しようにんもござります、女をんなも逆上のぼせて居ゐた男をとこの事ことなれば義理ぎりにせまつて遣やつたので御座ござろといふもあり、何なんのあの阿魔あまが義理ぎりはりを知しらうぞ湯屋ゆやの歸かへりに男をとこに逢あふたれば、流石さすがに振ふりはなして逃にげる事こともならず、一處しよに歩あるいて話はなしはしても居ゐたらうなれど、切きられたは後袈裟うしろげさ、頬先ほうさきのかすり疵きず、頭筋くびすぢの突疵つききずなど色々いろ〳〵あれども、たしかに逃にげる處ところを遣やられたに相違さういない、引ひきかへて男をとこは美事みごとな切腹せつぷく、蒲團ふとんやの時代じだいから左さのみの男をとこと思おもはなんだがあれこそは死花しにばな、ゑらさうに見みえたといふ、何なににしろ菊きくの井ゐは大損おほぞんであらう、彼かの子こには結搆けつこうな旦那だんながついた筈はづ、取とりにがしては殘念ざんねんであらうと人ひとの愁うれひを串談じようだんに思おもふものもあり、諸説しよせつみだれて取止とりとめたる事ことなけれど、恨うらみは長ながし人魂ひとだまか何なにかしらず筋すぢを引ひく光ひかり物もののお寺てらの山やまといふ小高こだかき處ところより、折おりふし飛とべるを見みし者ものありと傳つたへぬ

(終)

底本:「文藝倶樂部第九編」博文館

   1895(明治28)年9月20日

初出:「文藝倶樂部第九編」博文館

   1895(明治28)年9月20日

※初出時の署名は、「一葉女史」です。

※変体仮名は、通常の仮名で入力しました。

※清音、濁音の表記の混在は、底本通りです。

※「惡わるい」と「惡わるい」、「商買」と「商賣」、「夫それ」と「夫それ」、「眞實しん」と「眞實ほんとう」、「成なり」と「成なり」、「嫌いや」と「嫌いや」、「下坐敷」と「下座敷」、「其樣そん」と「其樣そのやう」、「愁つらき」と「愁つらさ」、「氣違きちがひ」と「氣違きちがひ」、「中座」と「中坐」、「女房」に対するルビの「にようぼう」と「にようぼ」、「女」に対するルビの「をんな」と「おんな」、「頭痛」に対するルビの「づつう」と「づゝう」、「結城」に対するルビの「ゆふき」と「ゆうき」、「折」に対するルビの「おり」と「をり」、「鬼」に対するルビの「おに」と「をに」の混在は底本通りです。

入力:万波通彦

校正:岡村和彦、日高直哉

2016年4月20日作成

2016年5月6日修正

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