日の出
国木田独歩



 某なにがし法學士はふがくし洋行やうかうの送別會そうべつくわいが芝山内しばさんないの紅葉館こうえふくわんに開ひらかれ、會くわいの散さんじたのは夜よの八時じ頃ごろでもあらうか。其崩そのくづれが七八名めい、京橋區きやうばしく彌左衞門町やざゑもんちやうの同好倶樂部どうかうくらぶに落合おちあつたことがある。

 小介川文學士こすけがはぶんがくしが伴ともなふて來きた一人ひとりの男をとこを除のぞいては皆みな此倶樂部このくらぶの會員くわいゐんで、其その一人ひとりはオックスホード大學だいがくの出身しゆつしん、其一人そのひとりはハーバード大學だいがくの出身しゆつしんなど、皆みなそれ〴〵の肩書かたがきを持もつて居ゐる年少氣鋭ねんせうきえい、前途有望ぜんというばうといふ連中れんぢゆうばかり。卓たくを圍かこんでてんでに吐はき出だす氣焔きえんの猛烈まうれつなるは言いふまでもないことで、政論せいろんあり、人物評じんぶつひやうあり、經濟策けいざいさくあり、時ときに神學しんがくの議論ぎろんまで現あらはれて一しきりはシガーの煙けむを熢々濛々ぼう〳〵もう〳〵たる中なかに六ろく七しちの人面じんめんが隱見いんけん出沒しゆつぼつして、甲走かんばしつた肉聲にくせいの幾種いくしゆが一高一低いつかういつてい、縱横じゆうわうに入いり亂みだれ、これに伴ともなふ音樂おんがくはドスンと卓たくを打うつ音おと、ゴト〳〵と床ゆかを蹶ける音おと、そして折をり〳〵冬ふゆの街ちまたを吹ふき荒あらす北風きたかぜの窓まどガラスを掠かすめる響ひゞきである。時々とき〴〵使童ボーイが出入しゆつにふして淡泊たんぱくの食品くひもの、勁烈けいれつの飮料いんれうを持運もちはこんで居ゐた。ストーブは熾さかんに燃もえて居ゐる──

『貴殿あなたは何處どこの御出身ごしゆつしんですか』と突然とつぜん高等商業かうとうしやうげふ出身しゆつしんの某なにがし、今いまは或ある會社くわいしやに出でて重役ぢゆうやくの覺おぼえ目出度めでたき一人ひとりの男をとこが小介川文學士こすけがはぶんがくしの隣となりに坐すわつて居ゐる新來しんらいの客きやくに問とひかけた。勝手かつてな氣焔きえんもやゝ吐はき疲くたぶれた頃ころで、蓋けだし話頭わとうを轉てんじて少すこし舌したの爛たゞれを癒いやさうといふ積つもりらしい。人々ひと〴〵も同意どういと見みえて一時いちじに口くちを閉とぢたけれど、其中そのうちの二三人にさんにんは別べつに此問このとひに氣きを止とめず、ソフアに身みを埋うづめてダラリと手てを兩脇りやうわきに垂たれ、天井てんじやうを眺ながめて眼めを細ほそくして居ゐる者ものもあれば、シガーをパク〳〵ふかして居ゐる者ものもある。一人ひとりは毒瓦斯どくがすを拔ぬくべく起たつて窓まどを少すこし開あけた。餘よの人々ひと〴〵は新來しんらいの客きやくに目めを注そゝいだ。

『僕ぼくですか、僕ぼくは』と言いひ澱よどんだ男をとこは年としの頃ころ二十七八、面長おもながな顏かほは淺黒あさぐろく、鼻下びかに濃こき八字じ髭ひげあり、人々ひと〴〵の洋服やうふくなるに引違ひきちがへて羽織袴はおりはかまといふ衣裝いでたち、今いまは都下とかで最もつとも有力いうりよくなる某なにがし新聞しんぶんの經濟部主任記者けいざいぶしゆにんきしやたり、次つぎの總選擧そうせんきよには某黨ぼうたうより推おされて議員候補者ぎゐんこうほしやたるべき人物じんぶつ、兒玉進五こだましんごとて小介川文學士こすけがはぶんがくしは既すでに人々ひと〴〵に紹介せうかいしたのである。

 兒玉こだまは先程來さきほどらい、多おほく口くちを開ひらかず、微笑びせうして人々ひと〴〵の氣焔きえんを聽きいて居ゐたが、今いま突然とつぜん出身しゆつしんの學校がくかうを問とはれたので、一寸ちよつと口くちを開ひらき得えなかつたのである。

『僕ぼくの出でた學校がくかうをお尋たづねになるのですか。』と兒玉こだまは語ごを續つがうとして、更さらに斯かう問とふた。

『さうです。君きみの出でられた學校がくかうです。三田みたですか、早稻田わせだですか。』と高等商業かうとうしやうげふの紳士しんしは此二者このにしやを出いでじといふ面持おもゝちで問とふた。

『違ちがひます』と兒玉こだまは微笑びせうした。

『オオさうですか。何處どこです。』

『大島學校おほしまがくかうです。』

『大島學校おほしまがくかう? 聞きいたことのない學校がくかうですな、お國くにの學校がくかうですか。』

『さうです、故郷くにの小學校せうがくかうです、私立小學しりつせうがくです』と言いつた時ときの兒玉こだまの顏かほは眞面目まじめであつたけれど、人々ひと〴〵は笑わらひ出だした。

『戲談じようだんを言いつては困こまります。だから新聞記者しんぶんきしやは人ひとが惡わるい。人ひとが眞面目まじめで聞きくのに。』と高商紳士かうしやうしんしは短みじかくなつたシガーをストーブに投なげ込こんだ。

『僕ぼくも眞面目まじめで答こたへたのです。全まつたく僕ぼくは大島小學校おほしませうがくかうの出身しゆつしんです。故意わざと奇妙きめうな答こたへをして諸君しよくんを驚おどろかす積つもりは決けつして持もたないので。これまでも僕ぼくは出身しゆつしんの學校がくかうを聞きかれましたが。初はじめから答こたへない時ときもあり、答こたへる時ときは何時いつも此この答こたへをするのです。』

『さうすると貴殿あなたは小學校せうがくかう以外いぐわいの教育けういくはお受うけにならんかつたのですか。と申まうすと失敬しつけいですが其以外そのいぐわいの學校がくかうにはお入はひりにならなかつたのですか』とソフアに掛かけて居ゐたオックスフオード出身しゆつしんの紳士しんしが身みを起おこして聞きいた。其口元そのくちもとには何なんとなく嘲笑あざけりの色いろを浮うかべて居ゐる。

『さうです、僕ぼくはオックスフオードにもハーバードにも帝國大學ていこくだいがくにも早稻田わせだにも三田みたにも高等商業學校かうとうしやうげふがくかうにも居ゐたことは無ないのです。たゞ故郷くにの大島小學校おほしませうがくかうを出でたばかりです。斯かう申まうすと、諸君しよくんは妙めうにお取とりになるかも知しれませんが、僕ぼくはこれでも窃ひそかに大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんといふことを誇ほこつて居ゐるのです。又また心こゝろから感謝かんしやして居ゐるので御座ございます。僕ぼくは不幸ふかうにして外國ぐわいこくに留學りうがくすることも出來できず、大學だいがくに入はひることも出來できず、ですから僕ぼくの教育けういく、所謂いはゆる教育けういくなるものは不完全ふくわんぜんなものでしよう。

 けれども尚なほ僕ぼくは大島小學校おほしませうがくかうの出身しゆつしんなることを、諸君しよくんの如ごとき立派りつぱな肩書かたがきを持もつて居をらるる中うちで公言こうげんして少すこしも恥はぢず、寧むしろ誇ほこつて吹聽ふいちやうしたくなるのです。

 問とはれなければ默だまつて居ゐます。問とはれても言いふて益えきなき仲間なかまに向むかつては默だまつて居ゐます。けれども諸君しよくんの如ごとき教育けういく高たかき紳士しんしに問とはれては實じつに眞面目まじめに僕ぼくは大島小學校おほしませうがくかうの出身しゆつしんといふことを公言こうげんするのです。

 早稻田わせだを出でたものは早稻田わせだを愛あいし。大學だいがくを出でたものは大學だいがくを愛あいするのは當然たうぜんで、諸君しよくんも必かならず其出身そのしゆつしんの學校がくかうを愛あいし且かつ誇ほこらるゝでしよう。其如そのごとく僕ぼくは故郷くにの大島小學校おほしませうがくかうを愛あいし且かつ其出身そのしゆつしんたることを誇ほこるのです。』

『そうです、僕ぼくも故郷くにの小學校せうがくかうを愛あいします。』と言いつたのはハーバード出身しゆつしんの紳士しんし。

『そして誇ほこりますか。そして其出身そのしゆつしんたることを感謝かんしやしますか』と問とひ返かへした兒玉こだまの口調くてうはやゝ激げきして居ゐた。

『さうです。』

『何故なぜですか』と問とふた兒玉こだまの眼めは輝かゞやいた。

『イヤそう眞面目まじめに問とはれては困こまる。僕ぼくは小兒こどもの時ときを回想くわいさうして當時たうじの學校がくかうを懷なつかしく思おもふだけの意味いみで言いつたのです』とハーバードは罪つみのない微笑びせうを浮うかべて言譯いひわけした。

『解わかりました。それだけの意味いみなら解わかりました。けれども貴殿あなたがそういふことを申まうされるのも要之つまり、僕ぼくが一の小ちひさな小學校せうがくかうの出身しゆつしんであることを誇ほこるとか、感謝かんしやするとか言いふのは、矯激けうげきの言げんを弄ろうして自みづから欺あざむき又また自みづから快くわいとする者もののやうに取とつて居をらるゝからだらうと思おもひます。しかし、僕ぼくは決けつしてさういふ輕薄けいはくな心こゝろを以もつて言いふのではないのです。若もし諸君しよくんの中うち、僕ぼくと同おなじく大島小學校おほしませうがくかうに居をられた方かたが有あつたなら、矢張やはり僕ぼくと同おなじやうな情じやうを持もたれるだらうと信しんじます。

 大島小學校おほしませうがくかうに居ゐたものが、今いま東京とうきやうに三人さんにん居ゐます。これが僕ぼくの同窓どうさうです。此三人このさんにんが集あつまる會くわいが僕等ぼくらの同窓會どうさうくわいです。其一人そのひとりは三田みたを卒業そつげふして今いまは郵船會社いうせんぐわいしやに出でて居ゐます。其一人そのひとりは法學士はふがくしとなつて今いまは東京地方裁判所とうきやうちはうさいばんしよの判事はんじをして居ゐます。けれども彼等二人かれらふたりは僕ぼくと同おなじく大島小學校おほしませうがくかう出身しゆつしんなることを今いまでも僕ぼくと同おなじやうに誇ほこり且かつ感謝かんしやして居ゐるのです。そして僕等ぼくらは月つきに一度いちど同窓會どうさうくわいを開ひらいて一夕いつせきを最もつとも清きよく、最もつとも樂たのしく語かたり且かつ遊あそぶのです。』

 兒玉こだまの言々句々げん〳〵くゝ、肺腑はいふより出いで、其顏そのかほには熱誠ねつせいの色いろ動うごいて居ゐるのを見みて、人々ひと〴〵は流石さすがに耳みゝを傾かたむけて謹聽きんちやうするやうになつた。

 オックスホード出身しゆつしんの紳士しんしは年長者ねんちやうじやだけに分わけても兒玉こだまの言いふ處ところに感かんじた體ていで。

『それほどに言いはれますからには、其大島小學校そのおほしませうがくかうとやらいふ學校がくかうには何なにか特種とくしゆの事ことがあつて、貴殿あなたの心こゝろをそれほどまでに動うごかして居ゐるのだらうと思おもはれます。それをお話はなし下くださいませんか。ね、諸君しよくん、それを聞きかして戴いただかうではないか。』

『さうとも、兒玉こだまさん僕ぼくの言いつたことはお氣きに觸さはらんやうに願ねがひます。何卒どうぞその大島小學校おほしませうがくかうのことを話はなして貰もらひたいものです』とハーバードは前言ぜんげんのお謝罪わびにオックスホードに贊成さんせいした。

『諸君しよくんがお聽下きゝくださるなら申まうします、強しひては申まうしません。餘あまり面白おもしろい話はなしではないのですから。眞面目まじめな事實じゝつは流行りうかうの小説せうせつとは少すこし趣おもむきを異ことにしますから』と兒玉こだまは微笑びせうを洩もらして『小説せうせつも面白おもしろう御座ございます。けれ共ども事實じゝつは更さらに面白おもしろう御座ございます。』

『是非ぜひお話はなしを願ねがひたいものです』とハーバードは乘氣のりきになつた。

『宜よろしう御座ございます、それではお話はなしゝましよう。』

 僕ぼくの十二の時ときです。僕ぼくは父母ふぼに從したがつて暫しばらく他國たこくに出でて居ゐましたが、父ちゝが官くわんを辭じすると共ともに、故郷くにに歸かへりまして、僕ぼくは大島小學校おほしませうがくかうといふに入はひりました。

 海岸かいがんから三四丁離はなれた山やまの麓ふもとに立たつて居ゐる此小學校このせうがくかうは見みた所ところ決けつして立派りつぱなものではありません。殊ことに僕ぼくの入はひつた頃ころは粗末そまつな平屋ひらやで、教室けうしつの數かずも四よつ五いつゝしか無なかつたのです。それで他國たこくの立派りつぱな堂々だう〳〵たる小學校せうがくかうに居ゐて急きふに其樣そんな見みすぼらしい學校がくかうに來きた僕ぼくは子供心こどもごころにも決けつして愉快ゆくわいな心地こゝちは爲しなかつたのです。

 けれども僕ぼくの故郷くには二萬石にまんごくの大名だいみやうの城下じやうかで、縣下けんかでは殆ほとんど言いふに足たらぬ小ちひさな町まち、殊ことに海陸かいりく共ともに交通かうつうの便べんを最もつとも缺かいて居ゐますから、純然じゆんぜんたる片田舍かたゐなかで、日本全國にほんぜんこく津々浦々つゝうら〳〵までも行ゆきわたつて居ゐる筈はずの文明ぶんめいの恩澤おんたくも僕ぼくの故郷くにには其微光そのびくわうすら認みとめ得えなかつたのです。學校がくかうといふのは此大島小學校このおほしませうがくかうばかり、其以外そのいぐわいにはいろはのいの字じも學まなぶ場所ばしよはなかつたので御座ございます。僕ぼくも初はじめは不精々々ふしやう〴〵に通かよつて居ゐました。

 校長かうちやうの名なは大島伸一おほしましんいち、其頃そのころ僅わづかに二十七八でしたらう。背せは左さまで高たかくはないが、骨太ほねぶとの肉附にくづきの良いい、丸顏まるがほの頭あたまの大おほきな人ひとで眦まなじりが長ながく切きれ、鼻はな高たかく口くち緘しまり、柔和にうわの中なかに威嚴ゐげんのある容貌かほつきで、生徒せいとは皆みな能よく馴なれ親したしんで居ゐました。僕ぼくが此校長このかうちやうの下もとに大島小學校おほしませうがくかうに居ゐたのは二年半ねんはんで、月日つきひにすれば言いふに足たらず、十二歳さいより十五歳さいまで、人ひとの年齡ねんれいにすれば腕白盛わんぱくざかりでありましたけれど、僕ぼくが眞しんの教育けういくを受うけたのは此時このとき、僕ぼくの一生いつしやうの羅針盤らしんばんを置おかれたのは實じつに此時このときです。

 僕ぼくが大島學校おほしまがくかうに上あがつてから四五日目で御座ございました、四十を越こえた位くらゐの一人ひとりの男をとこが學校がくかうの運動場うんどうばに來きて、校長かうちやうと頻しきりに何事なにごとか話はなして居ゐましたが、其周圍そのまはりに七八名の生徒せいとが立たつて居ゐて、顏かほを上あげて二人ふたりの物語ものがたりを聞きいて居ゐました。暫しばらくして其男そのをとこは丁寧ていねいにお辭儀じぎを爲して、校長かうちやうも至極しごく丁寧ていねいに禮れいをして、そして二人ふたりは別わかれました。

 僕ぼくは子供心こどもごころにも此樣子このやうすを見みて不審ふしんに思おもつたといふは、其男そのをとこの衣服みなりから風采ふうさいから擧動きよどうまでが、一見いつけん百姓ひやくしやうです、純然じゆんぜんたる水呑百姓みづのみひやくしやうといふ體裁ていさいです、けれども校長かうちやうの之かれに對たいする樣子やうすは郡長樣ぐんちやうさんに對たいする程ほどの丁寧ていねいなことなので、既すでに浮世うきよの虚榮心きよえいしんに心こゝろの幾分いくぶんを染そめられて居ゐた僕ぼくの目めには全まつたく怪あやしく映うつつたのです。

 けれども家うちに歸かへつて別べつに此事このことを父ちゝにも問とはず、學校朋輩がくかうほうばいにも聞ききませんでした。

 一月經たたぬ内うちに自然しぜんと此不審このふしんが晴はれて來きました。四十男しゞふをとこの水呑百姓みづのみひやくしやうと思おもつたのは、學校がくかうより十町ばかり隔へだつて居ゐる松林まつばやしの奧おくに一構ひとかまへの宅地たくちを擁ようし、米倉べいさうの三棟みむねを並ならべて居ゐる百姓ひやくしやう、池上權藏いけがみごんざうといふ男をとこで、大島小學校おほしませうがくかうの創立者さうりつしや、恩人おんじん、保護者ほごしやであつたのです。それならば何故なぜ、池上小學校いけがみせうがくかうと名稱なのらずして大島小學校おほしませうがくかうといふ校長かうちやうと同姓どうせいの名稱めいしようを付つけたか、諸君しよくんも必かならず不審ふしんに思おもはれるでしよう。これには又また意味いみの深ふかい理由りいうが有あるのです。

 僕ぼくが此小學校このせうがくかうに入はひる僅わづか四年前よねんぜんに此學校このがくかうは創立さうりつされたので、其それより更さらに十年前じふねんぜんのこと、正月元日しやうぐわつぐわんじつの朝あさでした、新年しんねんの初光しよくわうは今いま將まさに青海原あをうなばらの果はてより其第一線そのだいゝつせんを投なげ、東雲しのゝめの横雲よこぐもは黄金色こんじきに染そまり、沖おきなる島山しまやまの頂いたゞきは紫嵐しらんに包つゝまれ、天地てんち見みるとして清新せいしんの氣きに充みたされて居ゐる時とき、濱はまは寂寞じやくばくとして一いつの人影じんえいなく、穩おだやかに寄よせては返かへす浪なみを弄ろうし、又また弄ろうされて千鳥ちどりの群むれは岩いはより岩いはへと飛とびかうて居ゐましたが、斯かかる際さいにも絶望ぜつばうの底そこに沈しづんだ人ひとの心こゝろは益々ます〳〵闇やみを求もとめて迷まよふものと見みえ、一人ひとりの若者わかものありて、蒼あをざめた顏かほを襟えりに埋うづめ、一の岩角いはかどに蹲居うづくまつて頻しきりと吐息といきを洩もらして居ゐました。彼かれは其覺悟そのかくごを決きめながらなほ、躊躇ためらうて居ゐたのです。

 人ひとの足音あしおとに驚おどろいて後うしろを振返ふりかへると一人ひとりの老人らうじんが近ちかづいて來くる處ところです。老人らうじんが傍そばに來きて、

『日ひが今いま昇のぼるのを見みなさい、何なんと神々かう〴〵しい景色けしきではないか』と優やさしく言葉ことばをかけるまで、若者わかものは何なにを思おもふ暇ひまもなく、ただ茫然ばうぜんと老人らうじんの顏かほを見みて居ゐたのです。

『見みなさい今いまだ、今いまが初日出はつひのでだ』と老人らうじんは言いひつゝ海原うなばら遠とほく眺ながめて居ゐるので、若者わかものも連つれられて沖おきを眺ながめました、眞紅しんくの底そこに黄金色こんじきを含ふくんだ一團球いちだんきうは今いましも半なかば天際てんさいを躍出をどりいでて、暫しばしたゆたふて居ゐる樣さまです。

『神々かう〴〵しいぢやアないか、人間にんげんといふものは何時いつでも此初日出このはつひのでの光ひかりを忘わすれさへ爲しなければ可よいのぢや』と老人らうじんは感かんに堪たえぬやうに言いつて手てを合あはして靜しづかに禮拜れいはいしました。若者わかものも思おもはず手てを合あはしました。見みるが中うちに日ひは波間なみまを離はなれ、大空おほぞらも海原うなばらも妙たへなる光ひかりに滿みち、老人らうじんと若者わかものは恍惚くわうこつとして此景色このけしきに打うたれて居ゐました。

『私わたしは六十になるが斯こんな立派りつぱな日ひの出でを見みたことはない。來年らいねんはこれよりも美うつくしい初日はつひの出でを拜をがみたいものだ。あゝ佳いい心持こゝろもちぢや』と老人らうじんは言いつて更さらに若者わかものに向むかひ『お前まへさんは何處どこの者ものぢや』と問とひました。

『村むらの者もので御座ございます。』と若者わかものは僅わづかに答こたへました。老人らうじんは其柔和そのにうわな顏かほに微笑びせうを浮うかべて

『毎年まいねん初日はつひの出でを拜をがみに出でるのか。』

『さうでは御座ございません。』

『さうか、それでは今年ことしが初はじめてだの昔むかしからも一年いちねんの謀はかりごとは元旦ぐわんたんにありといふから、お前まへさんも、今日けふの日ひの出でを忘わすれないで居ゐなさい如何どうじや大變たいへん顏かほの色いろが惡わるいやうじやがそんな元氣げんきのない顏色かほいろをして居ゐては世よの中なかを渡わたれるものではない、一同いつしよに日ひの出でを拜をがんだも目出度めでたい縁えんじや、これから私わたしの宅うちへ來くるが可よい、雜煮ざふにでも祝いははう。』

 老人らうじんは先さきに立たつて行ゆくので若者わかものも其儘そのまゝ後あとに從つき、遂つひに老人らうじんの宅うちに行いつたのです、砂山すなやまを越こえ、竹藪たけやぶの間あひだの薄暗うすぐらき路みちを通とほると士族屋敷しぞくやしきに出でる、老人らうじんは其屋敷そのやしきの一ひとつに入はひりました。

 老人らうじんの名なは大島仁藏おほしまじんざう、若者わかものの名なは池上權藏いけがみごんざうであるといふことを言いへば、諸君しよくんは、既すでに大概たいがいの想像さうざうはつくだらうと思おもひます。

 老人らうじんは若者わかものの自殺じさつの覺悟かくごを最初さいしよから見みて取とつて居ゐたのですけれども最後さいごまで直接ちよくせつにさうとは一言いちごんも言いひませんでした。

 屠蘇とそを飮のましながら、言葉ことば靜しづかに言いつて聞きかした教訓けふくんは決けつして珍めづらしい説せつではなかつたのです。少すこし理窟りくつを並ならべる男をとこなら誰だれでも言いひ得うることなんでした。

 朝日あさひが波なみを躍出をどりいでるやうな元氣げんきを人ひとは何時いつも持もつて居ゐなければならぬ。

 だから人ひとは何時いつも暗くらい中うちから起おきて日ひの出でを拜をがむやうに心掛こゝろがけなければならぬ。

 そして日ひの入いるまで、手てあたり次第しだい、何なんでも御座ござれ、其日そのひに爲するだけの事ことを一心不亂いつしんふらんに爲しなければならぬ。

 日ひは毎日まいにち、出でる、人ひとは毎日まいにち働はたらけ。さうすれば毎晩まいばん安やすらかに眠ねむられる、さうすれば、其翌日そのよくじつは又また新あたらしい日ひの出でを拜をがむことが出來できる。

 一日働はたらいて一日送おくれば、それが人ひとの一生涯いつしやうがいである、日ひの出でる時ときに人ひとは生うまれて、眠ねむる時ときに人ひとは死しぬるのである。

 老人らうじんの言いひ聞きかした言葉ことばは先まづ斯こんなものでありました。そして權藏ごんざうは奮ふるひ起たつて老人らうじんの下もとを去さつたのです。

 池上權藏いけがみごんざうは此日このひから生うまれ更かはりました、元もとより強健きやうけんな體躯からだを持もつて居ゐて元氣げんきも盛さかんな男をとこではありましたが、放蕩はうたうに放蕩はうたうを重かさねて親讓おやゆづりの田地でんちは殆ほとんど消きえて無なくなり、家いへ、屋敷やしきまで人手ひとでに渡わたりかけたので、遂つひに失望しつばう落膽らくたんし、今更いまさら世間せけんへも面目めんもくなく、果はては思おもひ迫せまつて大おほいに決心けつしんして居ゐたのです。けれども彼かれは此日このひから生うまれ更かはりました。

 一日じつ又また一日じつ、彼かれは稼かせぎに稼かせぎ、百姓ひやくしやうは勿論もちろん、炭すみも燒やけば、材木ざいもくも切きり出だす、養蠶やうさんもやり、地木綿ぢもめんも織おらし、凡およそ農家のうかの力ちからで出來できることなら、何なんでも手當次第てあたりしだい、そして一生懸命いつしやうけんめいにやりました。五年目ごねんめには田地でんちも取返とりかへし、畑はたけは以前いぜんより殖ふえ、山懷やまふところの荒地あれちは美事みごとな桑園さうゑんと變へんじ、村内そんないでも屈指ゆびをりの有富いうふうな百姓ひやくしやうと成なり終おはせたのです。しかも彼かれの勞働辛苦らうどうしんくは初はじめと少すこしも變かはらないのです。

 大島老人おほしまらうじんの病床びやうしやうに侍じして、最後さいごの教訓けうくんを彼かれが求もとめた時とき、老人らうじんは靜しづかに

『お前まへさんは日ひの出でを覺おぼえて居ゐなさるか。』

『毎朝まいあさ拜をがんで居をります。』

『お前まへさんは日ひの出での盛さかんな處ところを見みて、元氣げんきよく働はたらいたのは宜よろしい、これからは、其美そのうつくしい處ところを見みて、美うつくしい働はたらきをも爲するが可よからう。美うつくしい事ことを。』

 權藏ごんざうは暫しばらく考かんがへて居ゐたが、

『それでは先まづ如何どんな事ことを爲なせば可よろしう御座ございましよう。』と問とひました。老人らうじんは目めを閉とぢたまゝ

『それはお前まへさんが考かんがへなければならん、お前まへさんの心こゝろで、これは美うつくしいことだと思おもふこと、日ひの出でを見みてあゝ美うつくしいと思おもふと同おなじやうな事ことならば、何なんでも宜よろしい。お前まへさんは日ひの出でを拜をがむだらう。』

『ヘイ拜をがみます。』

『それなら拜をがまれるほどのことをなさい。』

『及およびもつかん事ことで御座ござります、勿體もつたいないことで御座ござります。』と權藏ごんざうは平伏へいふくしました、

『イヤそうでない、お前まへさんは日ひの出での元氣げんきを忘わすれましたか。』

と言いはれて權藏ごんざうは、『解わかりました、難有ありがたう存ぞんじます』と言いつたぎり、感泣かんきふして暫しばらくは頭あたまを得上えあげませんでした。

 大島仁藏翁おほしまじんざうをうの死後しご、權藏ごんざうは一時いちじ、守本尊まもりほんぞんを失うしなつた體ていで、頗すこぶる鬱々ふさいで居ゐましたが、それも少時しばしで、忽たちまち元もとの元氣げんきを恢復くわいふくし、のみならず、以前いぜんに増まして働はたらき出だしました。

 鬱々ふさいで居ゐたのは考かんがへて居ゐたのです。彼かれは老人らうじんの最後さいごの教訓けうくんを暫時しばらくも忘わすれることが出來できないので、拜をがまれる程ほどの美うつくしい事ことを爲するには何なにを爲したら可よからうと一心いつしんに考かんがへたのです。神々かう〴〵しき朝日あさひに向むかつて祈念きねんを凝こらしたこともあつたのです。ふと思おもひ當あたつた時ときには彼かれは思おもはず躍をどり上あがつて喜よろこんださうです。『自分じぶんは大島先生おほしませんせいを拜をがんでも尚なほ足たりない程ほどに思おもふ、それならば大島先生おほしませんせいのやうなことを爲すればよい。』

 其處そこで學校がくかうを建たてる決心けつしんが彼かれの心こゝろに湧わいたのです、諸君しよくんは彼かれの決心けつしんの餘あまり露骨むきだしで、單純たんじゆんなことを笑わらはれるかも知しれませんが、しかし元來ぐわんらい教育けういくのない一個いつこの百姓ひやくしやうです、寧むしろ其心そのこゝろばせの眞率しんそつで無邪氣むじやきな處ところを思おもへば實じつに美うつくしさを感かんずるのです、僕ぼくは。

 兔とも角かくも此決心このけつしんが定さだまるや、彼かれは更さらに五年ごねんの間あひだ眞黒まつくろになつて働はたらきそして、遂つひに一の小學校せうがくかうを創立さうりつして、これを大島仁藏おほしまじんざうの一子いつし大島伸一おほしましんいちに獻けんじ、大島小學校おほしませうがくかうと命名めい〳〵して老先生らうせんせいの紀念きねんとなし一切いつさいのことを若先生わかせんせい伸一しんいちに任まかして了しまつたのです。

 以上いじやうは大島小學校おほしませうがくかうの由來ゆらいで御座ございます。けれども果はたして池上權藏いけがみごんざうの志こゝろざしは學校がくかうを建たてたばかりで、成就じやうじゆしましたらうか。

 若もし大島伸一先生おほしましんいちせんせいを得えなかつたなら、此小學校このせうがくかうも亦また、世間せけんに有ありふれた者ものと大差たいさなく終をはつたかも知しれません。

 然しかし伸一先生しんいちせんせいは老先生らうせんせいの麗うるはしき性情せいじやうを享うけて更さらにこれを新あたらしく磨みがき上あげた人物じんぶつとして此小學校このせうがくかうを監督かんとくし我々われ〳〵は第二だいにの權藏ごんざうとなつて教導けうだうされたのです。權藏ごんざうの志こゝろざしは最もつとも完全くわんぜんに成就じやうじゆされました。

 忘わすれもしません、僕ぼくが病氣びやうきで學校がくかうを休やすんで居ゐると、先生せんせいが訪たづねて來きて

『貴樣あなたは豪えらい人ひとになるのだから、決けつして病氣位びやうきぐらゐに負まけてはならん病氣びやうきを負まかしてやらなければ』と言いつて僕ぼくを勵はげましたことがあります。伸一先生しんいちせんせいは決けつして此意味このいみを舊式きうしきに言いつたのではありません。

『爲なす有ある人ひととなれ』とは先生せんせいの訓言くんげんでした。人ひとは碌々ろく〳〵として死しぬべきでない、力ちからの限かぎりを盡つくして、英雄えいゆう豪傑がうけつの士しとなるを本懷ほんくわいとせよとは其倫理そのりんりでした。

 人ひとは人以上ひといじやうの者ものになることは出來できない、然しかし人ひとは人ひとの能力のうりよくの全部ぜんぶを盡つくすべき義務ぎむを持もつて居ゐる。此義務このぎむを盡つくせば則すなはち英雄えいゆうである、これが先生せんせいの英雄經えいゆうきやうです。

 そして老先生らうせんせいが權藏ごんざうに告つげた言葉ことば、あれが其註解そのちゆうかいです、そして權藏ごんざう其人そのひとを以もつて先生せんせいは實物教育じつぶつけういくの標本へうほんとしたのです。

 日ひの出でを見みろとは、大島小學校おほしませうがくかうの神聖しんせいなる警語けいごで、其その堂々だう〳〵たる冲天ちゆうてんの勢いきほひと、其その飽あくまで氣高けだかい精神せいしんと、これが此警語このけいごの意味いみです。

 一日いちじつ又また一日にちと、全力ぜんりよくを盡つくして働はたらく、これが其實行そのじつかうなのです。

 伸一先生しんいちせんせいの柔和にうわにして毅然きぜんたる人物じんぶつは、これ等らの教訓けうくんを兒童こどもの心こゝろに吹ふき込こむに適てきして居ゐたのです。

 そして、先生せんせいも亦また、一心不亂いつしんふらんに此精神このせいしんを以もつて兒童じどうを導みちびき、何時いつも樂たのしげに見みえ、何時いつも其顏そのかほは希望きばうに輝かゞやいて居ゐました。

 小學校生活せうがくかうせいくわつの詳くはしい事ことは別べつに申まうしますまい。去年きよねんの夏なつでした、僕ぼくは久ひさしぶりで故郷くにに歸かへつて見みましたが、伸一先生しんいちせんせいは年としを取とつたばかり、其精神そのせいしんと其生活そのせいくわつは少すこしも變かはりません。年としを取とつたと言いつた處ところで四十二三ですもの、人間にんげんの働盛はたらきざかりです。精神せいしん意氣いきに變かはりのある筈はずもないのです。

 たゞ老おいて益々ます〳〵其教育事業そのけういくじげふを樂たのしみ、其その單純たんじゆんな質素しつそな生活せいくわつを樂たのしんで居をらるゝのを見みては僕ぼくも今更いまさら、崇高すうかうの念ねんに打うたれたのです。

 昔むかしのまゝ練壁ねりかべは處々ところ〴〵崩くづれ落おちて、瓦かはらも完全くわんぜんなのは見當みあたらぬ位くらゐそれに葛蔓かづらが這はい上のぼつて居ゐますから、一見いつけん廢寺ふるでらの壁かべを見みるやうです。

 其壁そのかべを越こして、桑樹くはのきの老木らうぼくが繁しげり、壁かべの折をり曲まがつた角かどには幾百年いくひやくねん經たつか、鬱うつとして日影ひかげを遮さへぎつて居ゐる樫樹かしのきが盤居わだかまつて居ゐます。

 昔風むかしふうの門もんを入はひると桑園くはゞたけの間あひだを野路のみちのやうにして玄關げんくわんに達たつする。家いへは僅わづかに四間よま。以前いぜんの家いへを壞こはして其古材そのふるざいで建たてたものらしく家いへの形かたちを作なして居ゐるだけで、風趣ふうちも何なにも無ないのです。

 先生せんせいは其一間そのひとまを書齋しよさいとして居をられましたが、書籍しよせきは學校用がくかうようの外ほか、新刊物しんかんものが二三種しゆ床とこの上うへに置おいてあるばかりでした。

 縁邊えんがはには豆まめが古ふるぼけた細籠ざるに入いれて干ほしてある、其横そのよこに怪あやしげな盆栽ぼんさいが二鉢はち並ならべてありました。

『東京とうきやうの仕事しごとは如何どうです。新聞しんぶんは毎々まい〳〵難有ありがたう、續々ぞく〳〵面白おもしろい議論ぎろんが出でますなア』と先生せんせいは僕ぼくの顏かほを見みるや口くちを開ひらきました。

『イヤ如何どうも愚論ぐろんばかりで恥はづかしう御座ございます、然しかしあれでも私わたくしの力ちから一杯いつぱいなのです。』

『それで十分じふゞんです、力ちからの限かぎり書かいて其それで愚論ぐろんなら別べつに仕方しかたも無ないからな。けれども樂たのしみは有あります。私わたくしはこの頃ごろになつて益々ます〳〵感かんずることは、人ひとは如何どんな場合ばあひに居ゐても常つねに樂たのしい心こゝろを持もつて其仕事そのしごとをすることが出來できれば、則すなはち其人そのひとは眞まことの幸福かうふくな人ひとといひ得うることだ。不精々々ふしやう〴〵にやつた仕事しごとに立派りつぱな仕事しごとはない、そして一生懸命いつしやうけんめいに仕事しごとする時ときほど樂たのしいものはないやうだ。』

 先生せんせいの此等これらの言葉ことばは其實そのじつ平凡へいぼんな説せつですけれど、僕ぼくは先生せんせいの生活せいくわつを見みて此等これらの説せつを聞きくと平凡へいぼんな言葉ことばに清新せいしんな力ちからの含ふくんで居ゐることを感かんじました。

 伸一先生しんいちせんせいは給料きふれうを月つき十八圓ゑんしか受取うけとりません、それで老母らうぼと妻子さいし、一家か六人にんの家族かぞくを養やしなふて居ゐるのです。家産かさんといふは家屋敷いへやしきばかり、これを池上權藏いけがみごんざうの資産しさんと比くらべて見みると百分一ひやくぶんのいちにも當あたらないのです。

 けれども先生せんせいは其家そのいへを圍かこむ幾畝いくせかの空地くうちを自みづから耕たがやして菜園さいゑんとし種々しゆ〴〵の野菜やさいを植うゑて居ゐます。又また五六羽ごろつぱの鷄にはとりを飼かふて、一家かで用もちゆるだけの卵たまごを採とつて居ゐます。

 書齋しよさいの前まへの小庭こにはは奇麗きれいに掃除さうぢがして有あつて、其處そこへは鷄とりも入いれないやうにしてあります。

 先生せんせいの生活せいくわつは決けつして英雄えいゆう豪傑がうけつの風ふうでは有ありません、けれども先生せんせいは眞まことの生活せいくわつをして居ゐるのです、先生せんせいは決けつして村學究そんがくきうらしい窮屈きゆうくつな生活せいくわつ、ケチ〳〵した生活せいくわつはして居ゐません、けれど先生せんせいは自分じぶんの虚榮心きよえいしんの犧牲ぎせいになるやうな生活せいくわつは爲して居ゐません。

 僕ぼくは先生せんせいと對座たいざして四方山よもやまの物語ものがたりをして居ゐながら、熟々つく〴〵思おもひました、世よに美うるはしき生活せいくわつがあるならば、先生せんせいの生活せいくわつの如ごときは實じつにそれであると、先生せんせいの言論げんろんには英雄えいゆうの意氣いきの充みちて居ゐながら先生せんせいの生活せいくわつは一見いつけん平凡へいぼん極きはまるものでした。

 先生せんせいを訪とふた、翌日よくじつでした、使者しゝやが手紙てがみを持もつて來きて今いまから生徒せいと十數名すうめいを連つれて遠足ゑんそくにゆくが君きみも仲間なかまに加くははらんかといふ誘引さそひです。僕ぼくは直すぐ支度したくして先生せんせいの宅うちに駈かけつけました、それが朝あさの六時ろくじ、山野さんやを歩あるき散ちらして歸かへつて來きたのが夕ゆふべの六時ろくじでした、先生せんせいは夏期休業なつやすみと雖いへども常つねに生徒せいとに近ちかづき、生徒せいとの爲ために時間ときを送おくつて居ゐらるゝのです。

 諸君しよくんの中うち、若もし僕ぼくの故郷くにに旅行りよかうせられるやうなことが有あつたならば、是非ぜひ一度いちど大島小學校おほしませうがくかうを訪とはれたいものです。海岸かいがんに近ちかき山やま、山やまには松柏しようはく茂しげり、其頂そのいたゞきには古城こじやうの石垣いしがきを殘のこしたる、其麓そのふもとの小高こだかき處ところに立たつて居ゐるのが大島小學校おほしませうがくかうであります。それが僕ぼくの出身しゆつしんの學校がくかうなのです、四十幾歳いくさいの屈強くつきやうな體躯からだをした校長かうちやう大島氏おほしましは、四五人にんの教員けうゐんを相手あひてに二百餘人よにんの生徒せいとの教鞭けふべんを採とつて居をられます。

『日ひの出でを見みよ』といふ警語けいごは今いまも昔むかしに變かはりなく、恰あたかも日ひの出での力ちからと美びとが今いまも昔むかしも變かはりのないやうに、全校ぜんかうの題目だいもくとなり、目標もくへうとなり、唱歌しやうかとなり居ゐるのを御覽ごらんになりましよう。

 語かたり終をはつて兒玉こだまは一呼吸ひといき吐つくやオックスホードの紳士しんしは

『なるほど能よく解わかりました、日ひの出では力ちからです、美びです、そして實じつに又また希望きばうです、僕ぼくは貴殿あなたが大島小學校おほしませうがくかうの出身しゆつしんであることを感謝かんしやし、誇ほこらるゝことを、當然たうぜんと思おもひます。僕ぼくも一度いちど是非ぜひお國くにに參まゐつて大島伸一先生おほしましんいちせんせいにもお目めにかゝりたう御座ございます。』

『そして、僕ぼくは池上權藏いけがみごんざうに會あつて見みたい』など高等商業かうとうしやうげふの紳士しんしは大眞面目おほまじめで言いつた。

『權藏ごんざうは今いま如何どうして居ゐますか』と問とふたのはハーバードである。

『さうでした、權藏ごんざうのことを言いふのは忘わすれて居ゐました、益々ます〳〵達者たつしやに暮くらして居ゐます。大島小學校おほしませうがくかうも今いまは村むらの經濟けいざいで維持ゐぢして居ゐますが、しかし村むらの經濟けいざいの首腦しゆなうは池上權藏いけがみごんざうですから、學校がくかうの保護者ほごしやは依然いぜんとして其その昔むかし覺悟かくごまできめた百姓ひやくしやう權藏ごんざうであります。

 權藏ごんざうの富とみは今いまや一郡第一いちぐんだいゝちとなり、彼かれの手てに依よつて色々いろ〳〵の公共事業こうきやうじげふが行おこなはれて居ゐるのです。けれど諸君しよくんが若もし彼かれに會あつたら恐おそらく意外いぐわいに思おもはるゝだらうと思おもひます。

 權藏ごんざうは最早もう彼是かれこれ六十です。けれども日ひの出いづる前まへに起おきて日ひの沒ぼつするまで働はたらくことは今いまも昔むかしも變かはりません。そして大島老人おほしまらうじんが彼かれを救すくふた時とき、岩いはの上うえに立たつて、

『來年らいねんはこれよりも美うつくしい初日はつひの出でを拜をがみたいものだ。』と言いつた言葉ことば、其言葉そのことばを堅かたく覺おぼえて居ゐて、其精神そのせいしんを能よく味あぢはうて、年としと共ともに希望きばうを新あらたにし、一日いちにち又また一日いちにちと働はたらいて老おいの至いたるのを少すこしも感かんじない樣子やうすです。

『老おいを知しらなければ老おいず、僕ぼくは池上權藏いけがみごんざうは死しぬるまで老おいないだらうと思おもひます、死しぬる今いまはの際きはにも、彼かれは更さらに一段いちだんの光明くわうみやうなる生命せいめいを望のぞんで居ゐるだらうと思おもひます。不死不朽ふしふきうとはこのことでは御座ございますまいか。

 權藏ごんざうは其居間そのゐまの床とこに大島老先生おほしまらうせんせいの肖像せうざうをかゝげ、其横そのよこに日ひの出での圖づが下さがつて居ゐます。これは伸一先生しんいちせんせいに求もとめて畫かいて貰もらつたのださうです。そして大島小學校おほしませうがくかうの一室いつしつには池上權藏いけがみごんざうの肖像せうざうがかけてあります。』


 それより一週間いつしうかんばかり經たつて、兒玉進五こだましんごの宅たくで彼かれの所謂いはゆる同窓會どうさうくわいが開ひらかれた。

 兒玉こだまは此席このせきで同好倶樂部どうかうくらぶの一條いちでうを話はなした、他たの二人ふたりは唯ただ微笑びせうしたばかり、別べつに何なんとも評ひやうしなかつた。

 會毎くわいごとに三人さんにんは相談さうだんして必かならず月つきに一度いちどの贈品ぞうひんを大島小學校おほしませうがくかうに送おくる、それが必かならずしも立派りつぱな物ものばかりではない、筆墨ひつぼくの類るゐ、書籍しよせき圖畫づぐわの類るゐなどで、オルガン一臺いちだいを寄送きそうしたのが一番いちばん金目かねめの物ものであつた。

『今度こんどは何なにを送おくらう』と兒玉こだまは二人ふたりに問とふた。

『矢張やはり書籍ほんが可よからうぢやないか』と判事はんじが答こたへた。

『本ほんなら僕ぼくに考かんがへがある。今度こんど會社くわいしやで世界航海圖せかいかうかいづの新あたらしいのが出來できたから、あれを貰もらつて送おくらう如何どうだね、』と郵船會社員いうせんぐわいしやゐんが一案いちあんを出だした。

『それも至極しごく妙めうだ。けれども其他そのほか何なににしよう。』

『畫ゑは如何どうだらう』と判事はんじが一案いちあんを出だした。

『畫ゑも可いいが最早もう有ありふれたものばかりだからなあ。』

『實じつは先日せんじつ、倫敦ろんどんの友人いうじんから『世界せかいの名畫めいぐわ』と題だいして、隨分ずゐぶん巧妙かうめうに刷すつてあるのを二十枚まいばかり贈おくつて呉くれたがね、それは如何どうだらうかと思おもふのだ。』

『可よかろう!』と他たの二人ふたりは贊成さんせいした。

『其所そこで例れいの唱歌しやうかの一件いつけんだがね、僕ぼくは色々いろ〳〵考かんがへたが今更いまさら唱歌しやうかにも及およぶまいと思おもふのだ如何どうだらう。『日ひの出でを見みろ』で澤山たくさんじやアないか。それをなまじつか今いまの歌人うたよみに頼たのんで作つくらした所ところでありふれた、初日はつひの出での歌うたなどは感心かんしんしないぜ。若もし作つくるなら學校がくかうから出でた者ものが作つくつたのでなければ、とても『日ひの出でを見みろ』の一語いちごで我等われらが感かんずるやうな物ものは出來できないぞ、如何どうだろう?』と兒玉こだまの説といたのに二人ふたりは異議いぎなく贊成さんせいし、兒玉こだまは二人ふたりの前まへで大島校長宛おほしまかうちやうあてにすら〳〵と次つぎの手紙てがみを書かいた。

『御依頼ごいらいの唱歌しやうかの件けんは我等われら三人さんにんとも同意どうい致いたし兼かね候さふらふ。東京とうきやうにも歌人うたよみの大家先生たいかせんせいは澤山たくさんあれど我等われらのやうに先生せんせいの薫陶くんたうを受うけ大島小學校おほしませうがくかうの門もんに學まなび候さふらふものならで、能よく我等われらの精神感情せいしんかんじやうを日ひの出での唱歌しやうかに歌うたひ出いだし得うるもの有あるべきや、甚はなはだ覺束おぼつかなく存候ぞんじさふらふ。我等われらの學校がくかうも何時いつかは眞まことの詩人しゞん出いづることあらん。その時ときまでは矢張やはり『日ひの出でを見みろ』で十分じふゞんかと存候ぞんじさふらふ。日ひの出での唱歌しやうかを歌うたふて朝寐坊あさねばうする人物じんぶつが學校がくかうから出でるやうになりては何なんの益やくにも立たつまじく、其邊そのへん御賢慮ごけんりよ願上候ねがひあげさふらふ。』

 三人さんにんは連名れんめいで此手紙このてがみを出だした、大島先生おほしませんせいから直すぐ返事へんじが來きて

『御主意ごしゆい御尤ごもつともに候さふらふ。日ひの出での唱歌しやうかは思おもひ止とまり候さふらふ。淺あさましい哉かな。教室けうしつに慣なれ候さふらふに從したがつて心こゝろよりも形かたちを教をしへたく相成あひなる傾かたむき有之これあり、以後いごも御注意ごちゆうい願上候ねがひあげさふらふ。』

底本:「定本 國木田獨歩全集 第三卷」学習研究社

   1964(昭和39)年10月30日初版発行

   1978(昭和53)年3月1日増訂版発行

   1984(昭和59)年1月20日第10刷発行

底本の親本:「運命」佐久良書房

   1906(明治39)年3月18日発行

初出:「教育界 第二卷第三號」金港堂

   1903(明治36)年1月1日発行

※「今更いまさら」と「今更いまさら」の混在は、底本通りです。

入力:葛西重夫

校正:川山隆

2014年12月15日作成

青空文庫作成ファイル:

このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。